1 :
名無し三等兵 :
2011/11/10(木) 12:30:36.03 ID:MflbCShR 軍事分析スレ
2 :
名無し三等兵 :2011/11/10(木) 12:55:38.89 ID:???
おまんこ女学院
3 :
名無し三等兵 :2011/11/10(木) 13:29:21.38 ID:???
史上最大の上陸作戦in失敗編
4 :
名無し三等兵 :2011/11/11(金) 17:17:05.53 ID:f4XsqcKG
もし、江南軍が上陸作戦を実施していればどうなったんだろうか。
5 :
名無し三等兵 :2011/11/11(金) 18:30:45.62 ID:???
6 :
名無し三等兵 :2011/11/13(日) 15:21:05.44 ID:???
チンギスハンは源義経だった説って最近どうですか
7 :
名無し三等兵 :2011/11/13(日) 16:36:07.63 ID:???
チンギスハンは何とコーカソイドだった!
8 :
名無し三等兵 :2011/11/13(日) 19:41:27.97 ID:???
ウラー祭りと聞いて
9 :
名無し三等兵 :2011/11/14(月) 22:27:58.51 ID:???
Ураааааааа!!
10 :
名無し三等兵 :2011/11/15(火) 12:53:48.35 ID:???
ロスケを上陸させるな
11 :
名無し三等兵 :2011/11/15(火) 22:55:58.05 ID:???
??
12 :
名無し三等兵 :2011/11/17(木) 21:35:38.61 ID:???
?
13 :
名無し三等兵 :2011/11/18(金) 20:13:13.32 ID:???
主力はチョンですが。
14 :
名無し三等兵 :2011/11/18(金) 21:57:37.68 ID:???
チョン撲滅戦
15 :
名無し三等兵 :2011/11/18(金) 22:55:09.85 ID:???
主力は蒙漢軍だって
16 :
名無し三等兵 :2011/11/19(土) 18:04:05.22 ID:???
チョンは雑兵
17 :
名無し三等兵 :2011/11/20(日) 08:19:56.98 ID:???
上陸できずずっと船にいた元軍って飯とクソは一体どうしてたんだろう 飯は共食いなのかなやっぱり・・
18 :
名無し三等兵 :2011/11/21(月) 11:15:11.47 ID:???
支那チョンなら当然やってるでしょうな・・
19 :
名無し三等兵 :2011/11/22(火) 15:50:13.62 ID:???
偉大なる食人文化
20 :
名無し三等兵 :2011/11/23(水) 17:30:49.19 ID:???
おそろしあ
21 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 16:06:52.38 ID:???
文永が威力偵察とかってまだ言われてんの?
22 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 16:50:35.05 ID:???
鎌倉武士の戦い方は一騎打ちでありモンゴルの集団戦法に蹴散らされて太宰府まで逃げ帰ったらしい そんな大勝にもかかわらず撤退したんだから威力偵察で間違いない
23 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 17:09:43.75 ID:???
わざと言ってるんだろうが 威力偵察なら大宰府まで侵攻しなきゃな。最大の軍事拠点ほっといて 鎮西探題もない頃の博多だけ見て終了ってどんな偵察だよ
24 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 17:28:54.19 ID:???
本作戦開始の7年前に威力偵察とかバカすぎるしな その間しっかりと防衛策を講じられてるし むしろ自分の手の内さらしただけ 意味ねぇ
25 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 17:54:22.85 ID:???
弘安の役のときには「やあやあ我こそは」で来なかったので 元軍はびっくりしたらしいな。
26 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 18:34:52.10 ID:???
おなかがすいたからかえったの
27 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 21:05:51.76 ID:???
解っているのは鎌倉武士二連勝って事だけだ
28 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 22:02:47.83 ID:???
元は威力偵察があまりに簡単に成功したのでいつでも征服できると判断してたんだよな。 でも日本の気候をよく知らなかったから二回目は台風のせいで思わぬ敗戦。 敗因は慢心と環境の違い。
29 :
名無し三等兵 :2012/01/05(木) 23:39:39.01 ID:???
>>28 168 名無しさん (2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI)
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。
30 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 11:19:50.76 ID:???
示威行動説ってのもあったな ちょっと上陸してスゴスゴ帰っただけでビビわけあるかよって話だが
31 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 16:19:12.76 ID:???
本当に文永の役が威力偵察で、しかもそれが大成功に終わったのなら なんで「元史」が「軍の編成が乱れ、矢も尽きた」なんて言い訳じみた撤退理由を書いているのか不可解だし 金方慶が「焚船」や「背水の陣」の故事を持ち出して主戦論を唱え、 それに対して忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と諌めて戦闘継続を断念するという 「高麗史」の記述もまったく意味不明なものになってしまう こうした元・高麗側の記録を見る限り、元軍は戦略目標を達成できないまま撤退した、 つまり普通に日本軍に負けて帰ったとしか思えないじゃん
32 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 16:22:12.28 ID:???
日本の武士が不甲斐なかった分、神様が頑張りました。 関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館) ・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい 矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。 弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として 四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、 そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』 正応六年三月二十八日「太政官牒」)。 ・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての 異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・ 祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の 軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。 ・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、 これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、 などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。 ・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と その軍忠に対しての当然の恩賞だった。
33 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 19:48:14.75 ID:???
『高麗史』の軍議からも元軍が戦略目標を達成できなかったことがわかるし 何よりも撤退後、座礁した軍船を救助もせず撤退したという状況判断からも 元軍が余裕を持って撤退したとは見做し難いな。 座礁した友軍を放置して撤退しなければならないほど、元軍は日本軍と戦闘する ことを避けたかったんだろう。
34 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 21:44:45.85 ID:Q7eoraPL
そりゃ神風が来たら救助どころじゃないわな。
35 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 22:05:05.51 ID:???
文永の役にあえて神風という表現を使ってるあたり
>>34 は小学生並みのバカなんだろうな
36 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 22:08:50.13 ID:Q7eoraPL
>>35 二回とも神風でなんとかなっただけだろ。
>>32 みたいに神頼みだったんだよ。
37 :
名無し三等兵 :2012/01/06(金) 22:21:57.92 ID:???
>>36 お前マジで小学生か?
文永の役の暴風雨は撤退途中の出来事だぞ
38 :
名無し三等兵 :2012/01/07(土) 07:33:27.36 ID:???
馬鹿なやつがいるな。『高麗史』では暴風雨で「巌崖に触れ」て軍船が沈没したとある。 しかし、博多湾には「巌崖」のようなものはない。 だから、暴風雨にあったのは博多湾外ってこと。 つまり、座礁した元軍の軍船は暴風雨によって座礁したわけでも、暴風雨が来たから友軍を 放置して逃走したわけでもないってこと。 そもそも、暴風雨で吹き荒れる博多湾から出航しようとするような馬鹿な軍隊がいるわけないがw
39 :
名無し三等兵 :2012/01/07(土) 11:56:58.47 ID:???
『高麗史』の記述って全て信用出来るんだw
40 :
名無し三等兵 :2012/01/07(土) 19:28:16.38 ID:???
『高麗史』以外で元軍の撤退状況を伺い知れるものはないのだから 必然的に元軍の撤退状況は『高麗史』に頼らざるを得ないだろう。 そして、『高麗史』の記述は日本側の史料に暴風雨の記述がないことや 博多湾から沈没船が出てこないという状況となんら矛盾しない。 よって博多湾外で暴風雨にあって元軍が大損害を被ったことを疑う必要もない。
41 :
名無し三等兵 :2012/01/07(土) 22:50:22.76 ID:???
いまどき文永の役も神風あったなんてカビの生えたおとぎ話 信じてる奴いたんだwww
42 :
名無し三等兵 :2012/01/08(日) 07:16:59.33 ID:???
撤退途中で暴風雨にあったというのが真相らしいね
43 :
名無し三等兵 :2012/01/08(日) 10:39:46.53 ID:???
「日本は負けたんだけど運良く助かった」と言うことにしたい人達がいるんだよな それが当時存在した「この国難を乗り切ったのは俺らの祈祷のおかげ。武士は関係ない」 っていう坊主どもの残した記録と結びついてトンデモ歴史が編み出される
44 :
名無し三等兵 :2012/01/08(日) 23:24:17.85 ID:???
そして戦後の 「戦前の軍国主義者どもはただの台風を神風だと思ってたんですよバカですねw」 というサヨク史観へと繋がっていくわけだね 元寇という事件はいままで政治的に利用され続けてきたと言っていいだろう。
45 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 07:30:38.92 ID:???
まぁ発祥は皇国史観だけどな 日本史上唯一の対外防衛戦争を憎き鎌倉武士どもの手柄にするはず無いわ
46 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 07:44:33.87 ID:???
鎌倉幕府はサヨクだからな
47 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 08:36:39.17 ID:TPIs+EMy
いや、文永で神風云々みたいなバカ話は戦後に入ってからだぞ
48 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 08:44:22.80 ID:???
合計で20万近い大軍を擁しながら橋頭堡も築けず撤退とはモンゴル情けない 小西行長なんかたった2万でソウル落としてるぞ
49 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 08:48:09.11 ID:zadWK3uu
50 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 13:44:00.20 ID:ULTKCeBG
蒙古の強さの秘密は、防御力。 生活基盤ごと、広い蒙古の大平原へ逃げ込める。 だから、中国軍が蒙古の都市を破壊しようにも 蒙古軍は定住生活をおくってないから、生活基盤ごと 大平原を大移動し、避難できる。 こういう利点は、蒙古軍は中国相手には発揮できるが 海の向こうの日本相手に発揮できない。
51 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 14:35:04.23 ID:???
伝統的な蒙古軍が中華化した元の歩兵戦術に敗北しているわけだがw
52 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 14:50:37.37 ID:???
4世紀の日本だって渡海→上陸→占領を卒なくこなしてる 古代日本>>>元
53 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 15:10:06.91 ID:???
つか漢の武帝にフルボッコくらったじゃないか 対中国でもたいして強くねぇ 放っといても滅びそうだった頃の宋相手に勝っただけ モンゴル軍は過大評価
54 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 17:05:11.74 ID:???
モンゴル軍はある意味軍隊アリだな。
55 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 17:21:23.47 ID:3tKg3K/7
アマチュア王者が調子こいてたらプロの洗礼を受けたようなもんでしょ
56 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 18:17:07.36 ID:???
57 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 18:40:06.78 ID:???
そう。
58 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 18:52:23.10 ID:???
そうだね。
59 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 20:28:39.40 ID:???
北宋 南宋 二つあわせて宋 そんなイメージだったが違うのか?
60 :
名無し三等兵 :2012/01/10(火) 21:27:43.46 ID:???
鎌倉武士が元に圧勝したのは事実だが、
>>53 みたいに基本的なところを
知らずにホルホルってのもカッコ悪いからやめてほしい。
61 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 12:19:27.27 ID:???
そもそも日本攻めるメリットあったか? 放置で良かったんじゃね?
62 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 13:22:25.30 ID:???
>>61 そこは高麗の忠烈王に聞いてくれよ。フビライの発案じゃないんだから。
63 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 13:24:14.61 ID:???
高麗人がチョッパリを征服するニダ!!ってうるさく言うから ついその気になっちゃいました。
64 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 13:46:40.03 ID:???
チョンには何のメリットがあるんだ 日本征服が成った暁には自分らが朝鮮&日本ウルスの支配者になれるとでも勘違いしたか?
65 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 14:34:59.03 ID:???
当時日本は金の産出国としてそれなりに有名だったから 征服後に元への貢物からピンはねしようと思ったんじゃない?
66 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 16:23:29.56 ID:???
67 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 20:53:26.08 ID:???
いや、元寇の報復として倭寇が発生したんだぞ?
68 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 21:28:31.35 ID:???
高麗史読めよ 元寇前から倭寇に悩まされてるから
69 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 21:35:23.55 ID:???
高麗王が日本侵攻を献策したのは元軍を長期的に半島に駐屯させて 自身の政権の後ろ盾とするためじゃなかったっけ?違ってたらスマソ
70 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 21:49:19.89 ID:???
>>68 そりゃ日本の私貿易船の海賊行為のなら元寇以前にもあったろうが
国を挙げての撲滅作戦までせにゃならんほど活発になったのは元寇以後だろう
71 :
名無し三等兵 :2012/01/11(水) 22:06:27.06 ID:???
共通の敵を作ることで宗主国との結びつきを強くってのはあるよな それで戦争に勝てばますます権威を確立できるし まぁ、そう上手くはいかなかったけどな
72 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 07:40:17.43 ID:???
文永の失敗はまぁ仕方ないとしても弘安の失敗はアホだよな 失敗した時と同じやり方なら失敗するに決まってるだろ 戦訓生かせよ
73 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 08:33:17.91 ID:???
そこで棄民説ですよ
74 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 10:06:05.27 ID:???
大宰府を狙うという点では同じだけど 文永のときより10万人ほど増員してるしこれでいけると思ったんじゃね?
75 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 10:27:31.66 ID:???
つか対馬壱岐確保して博多上陸→太宰府へって策しか無くね? いきなり山陰や北陸に上陸するの?
76 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 12:59:47.09 ID:???
防塁って実際役に立ったのか?元側にも日本側にも防塁で戦闘があったという史料は見たことが無いんだが。
77 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 14:14:35.49 ID:???
いや、防塁があったから本土に上陸できず 防塁の無い志賀島に上陸せざるを得なかったわけで
78 :
名無し三等兵 :2012/01/12(木) 18:23:34.31 ID:???
「防塁での戦闘がなかった」と「防塁は役にたたなかった」は全然違うし
79 :
名無し三等兵 :2012/01/13(金) 21:01:39.17 ID:???
さすがの元も一方面に10万以上動員って滅多に無いよな 弘安の他は対南宋くらい?
80 :
名無し三等兵 :2012/01/13(金) 21:48:09.44 ID:0+/OrnsP
その気になれば陸路より海路の方が大軍運び易いからな
81 :
名無し三等兵 :2012/01/13(金) 21:59:13.39 ID:???
14万を撃退したんだから凄いんだよな これがヨーロッパ史なら指揮官は大英雄として語り継がれるぜ?
82 :
名無し三等兵 :2012/01/13(金) 22:11:10.71 ID:???
そう言えば対元寇の指揮官てびっくりするほど知られて無いよな かく言う俺も少弐とか島津とか龍造寺とか、戦国絡みでの名前しか知らん
83 :
名無し三等兵 :2012/01/13(金) 22:27:13.34 ID:???
刀伊の入寇の撃退ももっと評価されるべき
84 :
名無し三等兵 :2012/01/13(金) 22:31:50.89 ID:???
平景隆=レオニダス王
85 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 00:05:39.26 ID:???
指揮官ではないが、絵詞があれだけ有名な割に竹崎季長の名前も 知られてないな。
86 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 00:19:39.09 ID:???
でもあの時代に10万以上の遠征軍を海路送り込めた元の国力はすごいな
87 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 00:27:11.40 ID:wjqg58wu
イングランドよりつよい龍造寺のが元よりつよいよ
88 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 07:38:59.20 ID:???
つーか鎌倉方の総司令官って誰だよ
89 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 13:22:52.23 ID:???
敵さんの数は多いんだけど、ただ多いだけなんだよねぇ
90 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 13:45:09.48 ID:???
後知恵で言うと最初から弘安の役レベルの兵力で攻め込んでれば日本負けたただろうね 文永で元軍は太宰府まで進出してたわけだし
91 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 15:13:03.45 ID:???
してねーよ
92 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 15:41:51.52 ID:???
文永の時の恩賞問題で体制が揺らいだんだから そこに付け込めなかったものだろうか
93 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 18:49:13.73 ID:???
壱岐対馬であれだけの事しでかして 内部に入って離間工作とか無いわw
94 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 19:15:00.35 ID:???
/^ヽ ,ィ : ', (ノ : () l 人類同士の信頼感をなくせば、 l : / | 人類は滅びるさ。 イi : ,ヘ、 | どうだ、いい考えだろう? |lll|、/ l }.: ト、/⌒i { ) ,l.}.: l-/ /、l ヽ_ノ" }ヨ.:__{ニ_ム } , - 、 ノ、 三__`ノ _ /___`'- .V /⌒ヽ_______ (二旦__  ̄二) 、 ノ / // / | |ー---- =-イi、 ⌒)ー'"/ // / ̄ |_| Ll |_| |_|`''' " / // /___________/___ // ー---------------------------------
95 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 20:14:32.28 ID:???
そう言えばモンゴルって離間の計とかやるイメージ無いな
96 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 20:58:13.66 ID:???
いやまあ、本気で攻めるときにはやってるんですけどね
97 :
名無し三等兵 :2012/01/14(土) 21:07:49.10 ID:???
元もメトロンさんくらいに日本に浸透してれば勝機はあった
98 :
名無し三等兵 :2012/01/15(日) 07:55:01.64 ID:???
この時の日本って本当にすげえな。 元が国を傾けるぐらいの大兵力を動員してきたのに ほとんど九州の武士だけで圧勝してる。
99 :
名無し三等兵 :2012/01/15(日) 10:59:18.38 ID:???
元はそんなに傾いてないだろ 高麗は傾いたが
高麗は元の植民地だからw
船は高麗だし兵は南宋だし大元ウルスは大してダメージないんだよな
元史に元寇によって疲弊した民が盗賊化してるとかあった気がするが。 10万以上も動員して大敗したなら、それなりのダメージはどんな大国でも あると思うけど。
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇
元の最盛期は弘安の役の後じゃん なにが命取りなんだか
中国の歴史学者の言う事などまともにとりあってはいけません。
元の最盛期は弘安の役の20年以上後だろ。 弘安の役後の10年間は割と元は不安定。
元みたいな大陸騎馬民族王朝があえて日本に手を出したのは高麗のせいだよなぁ
弘安の役前後のゴタゴタは南宋の残党やらチャガタイ・ウルスの反乱やらのせいじゃん 海防云々はあんまり関係無くね?
船や兵站は高麗が出したらしいし、元もそれなりにダメージは受けたろうけど国が傾くほどじゃないだろ とは言え弘安後の元朝は負けが込んでるから、これがケチの付き始めとは言えるかも
高麗が船や兵站の全般を請け負ったのは弘安の役の数分の一の規模の文永の役の話しな。 弘安の役での軍船は、旧江南軍の軍船や元領内で新たに修造された船舶が主力。 兵糧も高麗から出航した東路軍はたちまち兵糧不足になってる。
訂正。旧江南軍は旧南宋軍。
112 :
名無し三等兵 :2012/01/24(火) 09:05:20.87 ID:CiM+uUL+
日本軍の捕虜になった高麗兵たちは次々に斬られたが、 元兵は処刑されずに帰された。 それを知った高麗兵は、自分は元兵だと口々に嘘を吐いて 無様に逃げ帰ったという。
除名されたのは南宋兵だ
フランキ砲を使ったとか、元寇の勝利はベトナム人のおかげだとか、高麗人が造船の手抜きしたとか これを侵略と呼ぶか否かと真面目な顔して語るのが日本史学者(笑)
>>116 日本の歴史学者ほどバイアスに支配されてる学者はいないだろうね
倭の五王の頃から日本はアジアでも中国に次ぐ強国なのに絶対に認めようとしないし
ベトナムに侵攻した元軍って兵力どんなもんだったんかな。 wikiだと白藤江の戦いが元軍の兵力30万とかになってるけど 素人の俺でも30万はないと思うw
119 :
名無し三等兵 :2012/02/03(金) 10:40:42.37 ID:wOYATiBE
http://www.youtube.com/watch?v=ajV4l53dtYg&feature=related the typhon won,samurai has no way to defeat Mongols on? land
Lucky Japan. Be peaceful souls of our soldiers who? had died in japan invasion
@Attilahollo9 1. Mongol horses can go anywhere even desert.
2. Under the law of Genghis Khan every Mongolian soldiers carry thier one year's food? with him. Yuan's army had a lot of food with them in the ships. Of course most of the food will come from loot.
3. hohohoh why we can't control this tiny country, that time we controlled half of world!!!!
4. China, Russia, Iran, Iraq, Turk, Korea, India, and many other counties same they fight for their own. But they lost
モンゴル土人の負け惜しみw
120 :
名無し三等兵 :2012/02/29(水) 02:05:26.38 ID:J0DtzD39
>>118 俺は逆に最初はたった3000で征服したと聞いたぞw
南京大虐殺は皇族が師団長の部隊が引き起こした、天皇の戦争責任に直結する事案。 天皇を神と崇め国家神道の元に引き起こされた宗教戦争の側面をも持つ。 恐るべき大虐殺を引き起した国家犯罪の源泉は、盲信を強いた天皇制度及び国家神道にあり、両方共に日本社会から消えるべきだ。
122 :
名無し三等兵 :2012/03/02(金) 21:09:51.25 ID:7rzKuiN/
こっちでも高麗兵暴れてるのかw
元は捕虜の手のひらに穴を穿ったなんて想像するだけで恐ろしい。
などと思ってくれれば布教手段としては成功だ
126 :
名無し三等兵 :2012/03/19(月) 21:06:12.39 ID:???
むごい はムクリ コクリ の残虐行為が語源だからな・・・
>>116 戦争の日本史の元寇の巻だろ?
あれを大学の教授が歴史学の授業で参考に出した時は目を疑ったわ。
その後指摘したら、中身は読んでないから分からないとか学生バカにしてんのかと
同じ戦争の日本史でも文禄慶長の役の巻は結構まともなのにな 元寇の巻はなんというか、気持ち悪いイデオロギーを差し引いたら何も残らないような代物だったな
高麗人が手抜きしたとか日教組社会教師のテンプレになってるみたいね どうしても日本が独力で勝ったことを認めたくないらしいw ベトナムと日本では侵攻部隊の種類が違うし関係ない
このスレ一通り見た感じ神風が吹いて運よく助かったって感じか
どこをどう読めばそうなるんだ?
もともと歴史は都合よく史料をを解釈したウヨサヨ論争になりやすいわけだが 元寇は右も皇国史観で、神風のおかげで勝ったみたいなことを言ってたので バランスが壊れちゃった感じだな
>>128 まさかの社会体制史が専門の人間に無茶ぶりだしな。そりゃ戦記物語持ってきてお茶濁すわけだ。てかあんな糞文章乗っけるなら、本土防衛史の元寇編コピーしたほうが売れるだろ。
あっちのが余程しっかり合戦経過検証してるぞ
軍事研究の専門家が主導権持ってればそんなアホな話にはならんのにね。
戦後間もなく軍人が所属してた学会が片端から潰された弊害なんだよね、歴史家の軍事オンチって。 おかげで史料批判だの社会体制論だのは進歩したんだが…… 再興した軍事史学会も中世はとんと扱わないっていうね
朝鮮兵に歯が立たなかったそうだな、日本の武士は
元寇の時代に朝鮮とかアホか
138 :
名無し三等兵 :2012/05/01(火) 21:40:49.13 ID:???
また妄想得意のチョンがきたかw
定期的に来るな。 というか、日本の軍事史研究って中世は進んでるの?なんかレス見る限り日本史学者は総じて軍事オンチしかいないように見えるんだけど、社会学の方からアプローチとかは無いのかな?
>128 朝鮮兵に歯が立たなかったそうだな、日本の武士は 当たり前だろ? あんなのに歯を立てたら歯が腐るわw
>>139 無い。未だに日本中世史研究は古文書第一な上に、社会学方面からのアプローチがある団体(自衛隊の戦史研究とか)とは交流してない。
「むこうはむこう。こっちはこっち」を地で行ってる状態。近現代は山田朗とか、軍事学の成果を取り入れてる人がいるけど、中世史は一切聞かない。
言っちゃ悪いけど、中世史は古ぼけた権威主義と共産主義かぶれが未だに大手振って歩いてる。若手世代は他部門の研究成果取り入れに抵抗ないのもいるみたいだから、そういった中から出てくるのを待たなきゃならん状態だな
日本史学会って結果に対するアプローチが主で戦闘の内容をどうこう言う能力はないから 元軍が来襲しました→撤退しました 文書によれば神風が吹いたようです この程度
まぁ、そんな感じだね。
継ぎ足すなら、今中世史研究の武士に関するところは70年代に出てきた権門体制論への批判と、そのとき派生した武士職能論への批判と意見集約に取り掛かってるところ。
さすがに武士を職業軍人及び軍事貴族として定義するとかしてるから、前よりは軍事学への理解は深まってる。
ただし、今でも権威(笑)な学者は軍事への基本的な理解がない。というか、知ろうとすらしない。
どんくらいひどいかと言うと頼朝の石橋山敗退後の撤退で武蔵に入らなかったのを律令制の街道では通らなかった。なんて大真面目で言うくらい理解が薄い。
実際は湿地帯を行軍してたら捕捉される危険性が高いって現実的な問題があったのに、明らかに地政学的なことは無視してる。
>>139 が歴史学者にどんな理想を持ってるかは分からないけど、このことに関しては一切期待しないほうがいい。歴史学者の合戦に対する見解の一言めは確実に「史料にない」だから。
土地訴訟調べる手法がなんにでも使えるって思い込んでる馬鹿学者も多いし
戦史なんて体系的な研究してないと思うよ。軍事学のリソースつぎ込まない研究なら、佐藤鉄太郎クラスが限界。だって史料ないから分からない、調べないだからね
144 :
名無し三等兵 :2012/05/12(土) 09:28:36.94 ID:aA3N5FOv
目立った被害は対馬と壱岐、あと戦場になった松浦党の領地くらい。高麗云々関係なく被害は変わらないと思うよ。 てか高麗の抵抗って何だ?三別抄は組織的抵抗が不可能な状態なはずだが
史実から考えれば高麗のせいで元寇が引き起こされて被害が出たというべきなんだがなw 高麗と三別抄を切り分けて三別抄こそが朝鮮みたいな訳の分からない理屈には呆れるw
147 :
名無し三等兵 :2012/05/13(日) 13:14:42.85 ID:f4AIcl3b
そもそも三別抄は瞬殺だったろ。
ていうか三別抄は普通に降伏交渉してるよなw
太平洋戦争でのレイテや占守みたいなもんか>三別抄 無意味じゃないが冷徹に謂えば、時間稼ぎ
おいおい 三別抄は中央政府の降伏に従わずにゲリラやってただけだぞw しかも元々中央政府で冷遇されてた層だから 高麗から見ればただの反乱軍
日本のいちばん長い日に出でくる陸軍将校達みたいなもんか
152 :
名無し三等兵 :2012/05/14(月) 01:49:34.16 ID:7IWl6xtg
学者様は、人によってはイデオロギーの塊だったりするからな・・・ たぶん死ぬまで他の意見を聞かまいて。 他種の意見は、「劣った意見・劣った人間のかわいそうな考え方」 としか思えない罠。 時代が変われば火病を発症しそうだw
歴史学者は戦史と近代はからっきしダメだね かと言ってよそ者の歴史学への口出しは絶対に認めない閉鎖的社会 古代日本史が論理的・客観的に語られないのも考古学者が無能だからだし
まぁ、近年の元寇研究で読めるレベル書いてるのが、東洋史の太田弘毅って時点で日本史学者の軍事への無教養は推して知るべしだよな。 自分の分野で他の分野の学者に負けるとかどんだけ無能なんだよ
155 :
名無し三等兵 :2012/05/14(月) 16:02:39.92 ID:3oOsbSiw
>>153 未だに紀元前の日本はギャートルズみたいな生活してました的な歴史観はなんとかならんのかね?w
考古学側が成果を体系化させて論立てないと無理じゃないか? 日本史学者は自分の専門以外を勉強したりするの嫌がるから、日本史側の反応待ってたら後20年とかこのままだと思うが
考古学者は文献と発掘が対立してる感じだなぁ あと発掘も年代特定方法が恣意的だし 何年か前に居たゴッドハンドみたいな奴がでかい顔してた世界だから仕方ないんだろうけどさ 後漢書にある帥升が奴隷約100人を朝貢してる記述見てもかなり強大な権力が 紀元前後の日本に存在してたのは明白なんだけどな 邪馬台国の倭人の記述がいかにも後進国のような記述だからそこばっかり強調されるけどさ 400年前後には朝鮮半島南部を支配して高句麗と激戦繰り広げてるし中国には朝貢してるし 考古学者が認めない強力な軍事国家があったのは間違いない まぁ考古学者はこの辺りの朝鮮半島南部支配の事実を論文とかにするとすぐに圧力かかるらしいからなw
158 :
名無し三等兵 :2012/05/14(月) 16:46:17.85 ID:5K1lsr8r
渡来
渡来人飽きた もう春秋戦国時代の呉からの流民って結論でてるし 未だに騎馬民族征服王朝説とか信じてる奴はゾウリムシレベル
160 :
名無し三等兵 :2012/05/14(月) 19:36:00.94 ID:3oOsbSiw
>>157 そうすると今度は「ここで記されてる倭とは日本列島ではない(キリッ」だもんなwww
松村博文 (札幌医科大学医学部解剖学第二講座講師) では、一方の渡来人のルーツは北東アジアのどのあたりなのでしょうか。 実はシベリアのような北方ではなく、もう少し南の地域が渡来人の源郷として注目されています。 最近、中国との共同研究が結構進んできまして、稲作の起源というのも揚子江流域ということでわかっていますので、 弥生人の起源もこのあたりになるのではないかと考えられるようになってきました。 中橋孝博や山口敏らによる日中の共同調査がおこなわれ、揚子江流域の漢代の人骨が多数発見されました。 その頭骨は渡来系弥生人とうり二つといっていいほど酷似しています。 一方、もう少し北の山東半島あたりからもよく似た骨が松下孝幸らの調査で発見されています。 これらの調査から、渡来人の源郷は、黄河と揚子江に挟まれた地域が有力となっています。
下戸遺伝子の分布をみると、一番下戸なのはベトナムで57%に達し、華南の50%、日本の44%がこれに次ぐ。 モンゴルは30%、韓国は25%、タイは18%、フィリピンは14%に過ぎない。 また日本全国で「酒豪遺伝子」とされるN型遺伝子の分布を調べたところ、 秋田・岩手・鹿児島で70%を越えたのに対し、愛知と三重では40%しかなく、 中部・近畿・北陸から遠ざかるほど酒に強いという結果が出たという。 韓国は酒豪遺伝子が70%を超えており、華北で59%、日本全国では56.4%。
蒙古を撃退したベトナムと日本は同祖だったのか。
O2b1はO2bから分岐、朝鮮半島のO2b*とは別物。 O2b*の*は分類未定の印、O2b1の祖型などではない。
そもそも現在の朝鮮半島人は三韓時代の朝鮮半島人とは別物w
穢(わい)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-3-wai.htm 吉林省長春市周辺に「穢」、吉林省梅河口周辺に「發」、遼寧省撫順市周辺に「高夷」がいたが、
秦時代には「扶余・高句麗」の領域に代わっている。
戦国時代には燕が遼東地方に長城(遼東長城)を築き、秦王朝になって、それを増強しているが、
穢・發・高夷の領域にまで進出した訳ではない。
従って、彼らが燕や秦によって故地を追われたとは思えない。
また、扶余・高句麗に領土を侵略されたという記録もない。
穢に関しては中国の正史に「穢王」とあり、国家であったことは確実だが、その詳細は伝えていない。
穢とは穢系部族集団であり、穢は「穢(けが)れる、穢(きた)い」の意味で、
彼らに対する中華王朝の蔑称だったと想像する。
穢の用語には、穢多(卑人)、淫穢(淫猥)、穢跡(醜行)、穢行(淫行)、穢語(猥談)、穢聞(醜聞)、蕪穢(汚れた地)等々、
いずれも「猥、醜、淫、汚」と同意語として用いられる。
日本では、徳川家康が「厭離穢土(おんりえど)」から幕府の地名を「江戸」としたが特殊な例である。
ちなみに、穢を「エ」と読むのは越国の漢語(方言)である。
穢人=鮮人=穢多
穢人=倭人だろ? やっぱ朝鮮なんだよ
何としても半島と結び付けたいストーカー民族w
東夷伝辰韓条にワイと倭の両方が出てくるから、東夷伝を信じるなら 両者が同一とはならないかと。
劣等民族の朝鮮族が日本人や漢人に逆らうなど1万年早い
穢は朝鮮人が嫌いやねん
174 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 01:12:56.77 ID:ZZF27M6B
話がチト戻るけどさ、 歴史学者等でなくとも、大学教授や、学校教員で変な歴史観やイデオロギーを持っている人って 多い。この職種には異様に多い・・・様に思える。それ以外認めないとか、どうなのよ? 学生として目を付けられた・意見が対立した時は大変だったりする。 きゃつらは妙に、変な所で子供っぽいからだ。 厄介なのは専門が「国語」とか、専門と関係ないだろって人も上記症状に感染している事。 少なくとも漏れは・・・チットばかりストレスを感じたな、学生の頃。 基地外みたいに向かってくるヤシもいたし。 今思えば、あいつらって馬鹿だよな。
さて、時代がかなり遡っているので軌道修正を試みよう。 高麗は日本遠征の軍役を負担するくらいなら、その費用で 自国の治安を締め付けるべきだったんじゃ無かろうか?
高麗は馬鹿だから日本遠征をフビライに勧めることで歓心を買おうとしたんじゃないかな
177 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 03:20:02.36 ID:3ThNoJNT
鳥取、徳島以西、静岡鎌倉監視
178 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 03:27:26.15 ID:3ThNoJNT
てつはう気化毒ガス飛ばし(憶測)
日本史学者ってあの屏風図を教科書に載ってるような 日本側が苦戦する部分だけだと思ってるんじゃないかとマジで思うわ
180 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 03:57:50.06 ID:3ThNoJNT
生物・化学兵器長飛爆弾→弓→接近戦(槍刀)憶測
181 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 04:04:03.04 ID:3ThNoJNT
大陸人大、日本人小。放牧地家畜数の違い。憶測
>>175 無理、貴族のバカ息子の治安警察より盗賊幹部の方が頭いい位だし(笑)
教育はともかく地の頭がね。
で、検挙率の低さを一罰百戒の重刑罰に頼って更に反感を買う。
183 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 04:24:50.14 ID:3ThNoJNT
風向季節風をよみ(諸葛孔明風)てつはう気化毒ガス。憶測
184 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 04:36:49.63 ID:3ThNoJNT
元寇不利。船酔、補給線、退路、土地勘なし、子情(日本人小)。
185 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 04:47:15.30 ID:3ThNoJNT
青酸カリ毒蛇水溶液気化
186 :
名無し三等兵 :2012/05/15(火) 13:39:18.06 ID:3ThNoJNT
>>135 最近の軍事史学会には中世の研究者とかも在籍してるけど
飯がねーと戦えないぜ!
190 :
名無し三等兵 :2012/05/30(水) 17:52:08.54 ID:yTetu5gE
例えば南北朝時代や戦国時代のように中央の統制が弱まった時期に 元寇みたいなことを外国勢力が行ったら成功したかな?
>>190 攻め込む意味がないんじゃないの。そんなことをするぐらいなら、高く買ってくれる勢力に加勢したほうが安上がりだし。
橋頭堡さえできちゃえば、あとはじっくり料理するだけ。まあ、兵の展開能力如何だけれど。
192 :
名無し三等兵 :2012/05/30(水) 19:00:52.67 ID:E3blf64l
南北朝時代に歩兵が重視されるようになるのは 単なる戦術上の変化か元冠の影響かどっちなんだろ。 赤松氏の弓歩兵戦術とか有名だよね。 楠木正成はもっと有名だけど。
別に元が太平洋の開拓に乗り出すわけでもなく 日本側が大陸に進出するわけでもないあの時期に元寇を行ったのは やはり高麗が煽ったからだよなぁ 高麗のバカのせいで元も鎌倉幕府も大被害被ったわけだが なぜか鎌倉幕府は高麗の応援要請を断って見捨てたとか分けのわからないことを言い出す歴史学者が居たりw 日本と高麗なんて別にあの時期交流ねーじゃんw
>>190 南北朝は判らないけど、戦国時代はヨーロッパが侵略を試みすらしなかったからなぁ
195 :
名無し三等兵 :2012/05/30(水) 19:32:05.63 ID:E3blf64l
>>193 医者を送ってくれってのはあったよ。
基本太宰府管轄で博多の街に貿易は限られてたけど。
>>193 モンゴルは世界征服を国是としてる帝国で樺太にまで侵攻してるくらいだから、
日本が独立を守ろうとする限り元寇は必然だよ。
だから高麗も積極的に加担した方が得だと判断して煽ったわけで。
それから応援要請を送ってきたのは高麗じゃなくて高麗の反政府勢力。
ここがまず日本を非難してる歴史学者の嘘ね。
それに鎌倉幕府は応援要請を断ったわけでも見捨てたわけでもなくて、
どう対応したか記録が残ってないだけ。
だって元や高麗との外交交渉が続いてる裏でその反政府勢力への支援なんて
仮にやったとしても超極秘事項なわけで、記録が残らないのは仕方ないんだけど、
歴史学者は最初から何がなんでも日本を叩く気満々だから、事実を捻じ曲げまくって
「鎌倉幕府は高麗の応援要請を断って見捨てた」とかほざいてるんだよ。
いやモンゴルが樺太に侵攻したってかアイヌ人が樺太に侵入してきたから 現地のギリヤーク人が宗主国のモンゴルに助けを求めたんだけど
どうでもいいけど樺太とか千島のへんのロシア人とアイヌって遺伝的に近いんだよな 何か日本では触れちゃいけないタブーみたなくなってるけど
>>197 樺太に侵攻したのは事実だろ
それにフビライから見れば当時の日本は南宋と同じくらい征服したい国だった
200 :
名無し三等兵 :2012/06/02(土) 12:56:25.72 ID:QiJvQeeA
201 :
名無し三等兵 :2012/06/02(土) 13:04:49.10 ID:QiJvQeeA
人工衛星部隊動向察知空母偵察部隊飛来戦闘撮影
当時のモンゴルは今のアメリカに輪をかけた覇権国家 そんな国が国書無視され 使者ヌッ殺されたら 廻りに示しがつかないから やったんじゃないかな?
>>202 モンゴルは最初から日本を侵略するつもりで国書送って来たんだけど
モンゴルは侵略国家なわけで、そんな相手とまともな外交が成立するはずない
日本は当時の国際的にも常識的な対応しただけだよ
>>203 「最初から侵略するつもり」って ソース出せる?
オレが聞いたのは 南宋との貿易ストップしてくれ って頼んだら、使者ヌッ殺されて メンツ丸潰れ って話だった
>>204 「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
(高麗史・巻102・列伝15・李蔵用・1268年5月29日条)
これ、1268年5月にモンゴル皇帝フビライが日本と南宋に対する戦争準備を高麗に命じた言葉ね。
この1268年5月ってのは1番最初の使者がまだ日本に滞在してる時期で、つまり日本側の対応は
無関係なわけ。
そもそも、その「南宋との貿易ストップしてくれ って頼んだら、使者ヌッ殺されて メンツ丸潰れ」なんて
話は嘘八百だぞ。
日本が使者を処刑したのは戦争がすでに勃発した後の1275年9月。
処刑した理由は使者が日本侵略の情報収集のためスパイ活動したからで、開戦前に来た使者は
全員無事に帰国してる。
とにかく日本を悪者にしようとこういう嘘を平気で教える輩が大勢いるから困る。
高麗史(笑)
207 :
名無し三等兵 :2012/06/02(土) 18:41:59.88 ID:qvoRdT4m
>>204 一回目の文永の役以前の使者は普通に太宰府でおもてなしした上でお帰り頂いてる。
因みにこの使者は帰国後フビライに
「山と川ばっかで住んでる奴凶暴だから征服しても統治すんのは無理でっせ」
と進言したが却下されてる。
使者が皆殺しにされたのは、文永の役の翌年に来た使者たち。
まあ、対馬や壱岐であんだけ虐殺やらかしといて
「前の事は水に流してやっからおめーも俺の舎弟になれや」だなんて
なめ腐った真似したら殺されて当然だと思うけどねw
元からの使者は文永の前に何度も何度も来ては黙殺されている おもてなしなんてのは無くて国書だけ受け取って放置しただけ 元は最初かなり配慮した文面にしたりその後皇帝からでなく役所からの文書にしたり あの手この手でやったけど無視され続けてとうとう切れた 開戦を最初から決め込んでたらあれだけ何度も使節をよこすのは不自然
幕府に握りつぶされたけど、朝廷が出した返書案には 「いきなり武力ちらつかせて属国になれとかお前ら礼儀無さ過ぎ」 って書いてたから、少なくとも日本側からは服属要求と映ったみたいね。
>>208 モンゴルと外交結んだ国がどういう運命辿ったか考えてみろよ
徹底的に情報収集されて国内事情丸裸にされた挙句内部から切り崩されて征服されていった
モンゴルと戦った国で一人も寝返る奴がいなかったのなんて日本ぐらいだぞ
それもみんな鎌倉幕府が適切な外交した成果だ
むしろ撃退に成功してるマムルークやベトナムは日本以上に非情な対応してるね。
>>210 臣従した相手には別に何もしてないし
逆に征服と決めてかかってる場合はいきなり宣戦布告や奇襲してる
日本みたいに何度も通商求めたりはしてない
>>212 臣従したら兵糧負担や派兵などモンゴルの侵略戦争に協力しなくちゃいけないだろ
モンゴルからの要求はメチャ過酷だぞ
あと、日本は最初から侵略するつもりで使者派遣の体裁とって情報収集してたんだよ
それがモンゴルのいつもの手口なの
鎌倉幕府は賢いから大宰府より先には行かせなかったけどね
>>212 臣従した高麗は日本侵略のためにとんでもない軍役を…嗚呼、これは自業自得なのかな
高麗って最初から臣従したんだ そりゃお気の毒に
>>212 一度は臣従した陳朝が何故反乱起こして再び独立したのか考えような。
>>215 最初から臣従したチャンパ王国は勝手に国内に南方諸国侵略の前哨基地造られて
モンゴル軍に駐屯されたから、軍役に耐えきれなくなって結局戦争に追い込まれてる
臣従してれば幕府が潰れることも無かったかもな
臣従したらモンゴルに搾取されるだけ それが理解できない奴は国防とか外交を語る資格がない
幕府が存続するどころか、幕府も皇室も滅んでたわ
マヌケはいつの時代にもいる。
モンゴルに臣従すれば、臣従された王室の青年後継者様にもれなくモンゴル皇室から輿入れ! あのモンゴル皇室と縁戚になれますよ 縁戚になれば、血縁のお子さんとその母君に限り、 面倒な手続き無しに皇室ご一家のお住まいになられる避暑オルドでバカンス。 皇帝陛下であらせられる御爺様や親戚の皇室の方々と楽しい思い出をお作りになって、 次代には今まで以上の忠勤を励むことが出来るようになります。 世界を支配するモンゴル皇帝陛下の天命と徳を学ばれることで、お子さんにも皇室後継者の道が開かれるかも!? 是非ご検討下さい
いいんだよ幕府さえ残れば
モンゴルに臣従すれば男は軍役、女はモンゴル人との強制結婚で国民は地獄だろ
みんな韓国人みたいなアンパン顔になってたな。
モンゴル人の顔は日本人そっくりだけどな
228 :
名無し三等兵 :2012/06/04(月) 13:25:10.39 ID:S4OCT5FQ
229 :
名無し三等兵 :2012/06/04(月) 19:52:06.44 ID:M1V2euf6
230 :
名無し三等兵 :2012/06/04(月) 20:08:43.93 ID:pTfcj3/L
モンゴルで大相撲が開催され、日本人力士が上位を占めていただろうな(w 稀勢の里や琴奨菊が横綱になり、それぞれ20回以上優勝していたかも。
でも 幕府側もとても彼我の国力や戦力差を理解したとも思えないんだが 冷静な計算の上での意志決定なん?
>>212 要するに臣従して属国になるべきだったと言いたいわけか ?
そうしなかったから攻撃されたのであって、非は臣従して属国にならなかった日本側に
あり、モンゴルのやったのは侵略ではない。というのがお前さんの主張なんだな ?
>>232 そりゃそうだろ。
モンゴルがあの空前絶後の帝国になれたのは、まさに"天命"を授かったからなんだよ
なぜ日本は明白な天命に逆らおうとするのかね
そういう迷惑なことするから、高麗の軍役負担が増えたんだろ?
>>231 「蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。」
【五代帝王物語】
当時の日本人はモンゴルが周辺国征服しまくりの大帝国だってことを理解していたよ
それでも国家として正義のために戦わなくちゃならない時がある
日本が元寇で勝利してモンゴル帝国の拡大に終止符を打ったおかげでアジアの多くの国が救われたんだし
>>235 いや、モンゴル帝国時代に終止符打ったのは完全に日本の功績
3500艘10万人のモンゴル軍を壊滅させたのはでか過ぎる
元朝内ですらもう一度負けたら元朝の滅亡に繋がると認識されてた程だし
もし、元寇で日本が勝利せず、弘安の役の元軍が健在だったら東南アジアは余裕で征服されてたな
237 :
名無し三等兵 :2012/06/05(火) 21:47:55.33 ID:P/IUHI0J
>>233 ふーんあんたの論法だと、中華思想で周辺民族を侵略しまくって
空前絶後の帝国になった支那=中国は、"天命"を授かったからなんだな?
その天命である尖閣侵略にも日本は逆らうなと?
典型的な自虐史観の売国奴だな
つうか何回も大規模な渡海上陸作戦、ジャングルでの大規模な侵攻作戦失敗すりゃ疲弊するわ。
モンゴル軍はジャングルでの戦闘を苦にしないよ ジャングルで象部隊撃破してビルマのパガン朝征服してるし
>>239 ベトナム相手に何回も敗北してるじゃん。
ぶっちゃけ船の手抜きとか意味無いだろ 元軍は野戦で負けてるんだから
>>240 ベトナムも戦闘では全くモンゴル軍の敵ではなかった
僅か3000人のモンゴル軍に首都占領されて属国化したりもしてるし
243 :
名無し三等兵 :2012/06/06(水) 04:18:28.32 ID:0MWAqqKo
モンゴル最強の力士兵が大挙上陸したら大変だったな 1万人の突っ張りに耐えれる城が当時の日本にあるとは思えんし…
大丈夫。向こうが朝青龍やチェホンマン出すならこっちは室伏出すから。
最近の教科書とかで元寇がどう教えられてるか見てきた 何だかんだで、以前よりはかなり実際に近い記述に近付いてるようだったね まあ、2ページぐらいでしか触れられてないんだけど ただ「文永の役は日本の苦戦であり、二度の戦役とも台風が決定打だった」 という事に、何としてもしておきたいという執念は感じた
>>245 文永は勝利したとはいえ武士側も割と被害出たからなあ。
むしろ最近は「アジアの人々の活躍(笑)」とか
「元軍の多くは無理やり連れてこられた高麗や宋の奴隷(笑)」とか
「実は元は全く本気ではなかった(笑)」
みたいな論調が目立つことの方が問題じゃね?
>>247 往年のガチンコ横綱貴乃花が居れば対抗は可能なのだが
>>246 文永の役も史料見る限り九州の戦闘で武士側に損害があったようには思えないんだよ
主要な武士は全員無事だし、戦死者が多かったと記した文献もないし
>>246 軍団編成と政治的姿勢、それに費用の面からして、考えづらい事なのにな
軍団の八割が蒙古軍であり、高麗・宋軍は戦力の大半ではなかったし
征服した宋の勢力を弱体化させるためなら、何も日本にぶつける必要は無く
虐殺・略奪でもすれば良い。馬鹿みたいな費用を使って、勝つ気の無い戦争
を挑む様な戦略を取る様な事はない
4万という軍勢の規模からしても、常識的に考えればこの軍勢で日本征服か
少なくとも九州に橋頭堡を作る事を構想しての事だろう
強襲偵察という線はありえない。偵察であれば、偵察情報を元にすぐさま
主力軍を送り込むのが戦術・戦略の常道だ
しかし、文永の役では4万の元軍の後方に、主力に当たる4万以上の日本侵攻
用の軍団など存在していなかった
また、当然ながら偵察から7年もかけてようやく主力を送り込むなどという
馬鹿げた説も有り得ない。7年もあれば軍隊の動員や築城などは大きく進んで
しまい、偵察情報など全く当てにならなくなる
実際、元寇防塁が築かれた訳だしな
実際には、本気で征服するつもりで4万からなる強力な軍団を送り込んだつもりが
見事に返り討ちに会い、それでも諦めきれずに今度は14万の強大な軍団を送り込ん
だものの、またも返り討ちに会った、という所だろう
中文版wikipediaに 「文永の役は、元軍が日本軍10万を打ち破ったものの後続がなくて撤退した」 みたいな事書いてあるんようにみえるんだけど合ってる?
>>251 元軍が本当に日本軍を打ち破っていたら撤退しないだろ
上陸地点に釘付けにされたまま1日で撤退して、一体どういう打ち破り方想定してるんだ?
253 :
名無し三等兵 :2012/06/06(水) 21:30:14.86 ID:nuQTnPZ7
だからそれは支那人得意の妄想捏造ですからww
まぁ文永では「矢がなくなった」ってヤツは見たことあるよ
ああ、撤退するための言い訳のアレか
>>250 8割が蒙古兵とか失笑もの
モンゴルは遊牧民の常として人口が極端に少なかったから
征服戦争の殆どは支配下においた国の兵士を駆り出して行っていた
257 :
251 :2012/06/06(水) 23:29:36.55 ID:???
いや俺が誤読してんのかと思って
恐らく元史の「倭兵十万を破るも矢が尽き官制が整わず撤退した」の記述を元にしてると思うよ。 でも、九州の一部の武士しか参戦しなかった文永の役で10万は有り得ないけどね。
勝ちまくってたハズなのに占領地を放棄して全面撤退した朝鮮征伐・・・
261 :
名無し三等兵 :2012/06/07(木) 07:23:36.84 ID:F8OeSBIJ
勝っても何にもないんだぜ現地に食料や戦利品も無い
それに、そこにはニダーしかいない理想郷 ユートピアだろ。 素敵だな。 そら帰るわ。
そんな所が欲しくて攻め込んだ馬鹿がいるw
誰にでも間違いはある。 秀吉クンはうっかりやさんだなぁ。 コイツゥ ハハハ・・・
>>260 バトゥだってオゴタイ死んだら帰ったじゃん
フビライが死んだ訳でもないのに、二度も総撤退して、しかも二度目は日本軍に 捕虜を取られまくった元軍って何なの
一応3度目の計画はあったが 負担がデカすぎ+フビライ死亡 で中止なった 思えば モンゴルの拡大の限界かフビライの時代なんじゃないの?
むしろ爛熟期を迎えた元にとってケチのつき始めが日本遠征の失敗だったんじゃね?
日本遠征に失敗しなかったらまだまだ元の拡大続いていたな
「海さえ無ければ勝ってた」っていうのは、太平洋戦争で日本が「物量さえ互角なら勝ってた」 という負け惜しみ以上に無茶苦茶な仮定だと思うんだが、どうよ
そもそも陸続きならとか言う奴は、逆に陸続きなら日本が地域帝国化してた可能性は考えないのかな?
ぼくの考えたつおい仮想戦記スレ
>>271 対馬海峡が陸続きで凄い歪な半島だったらってこと?
唐・新羅にやられなきゃいいけど
もし日本海が巨大湖状態だったら色々凄かったかもね
どうでもいいけど大昔の日本列島は大陸とつながった半島だったのは本当
>>273 唐や新羅に日本まで攻め込む軍事力なんてないだろ
陸続きだったらモンゴルに面白いように蹂躙されてるわ 遊牧民の戦力を甘く見過ぎだ 秀吉は二線級の明軍相手に大苦戦だったのに 満州族はその明の精鋭部隊をたった一度の会戦で壊滅させて華北を一挙に制圧したんだぞ?
遊牧民なんて雑魚だろ 鎌倉武士に全く歯が立たなかったモンゴル軍は過大評価だってバレてるし
>>276 明軍に大苦戦?どこの世界線の話をしてるんだ?
まあ唐入りスレで散々論破されてこっちに流れついたんだろうけど。
満州族は朝鮮征伐やその他二つの戦争で疲弊し切った上に放漫財政でガタガタに なった明にようやく勝ったってだけだろ
>>276 李如松や劉?が二線級とか釣りにしても程度が低過ぎ
訂正 劉?→劉テイ
>>279 正確には満州族は明に勝ってないんよ
明が李自成の反乱で滅ぼされた後、万里の長城守ってた明の残存部隊が満州族引き入れて
中国を再征服した
明が滅亡するまで満州族は万里の長城越えられなかったから
283 :
名無し三等兵 :2012/06/08(金) 05:11:32.40 ID:l+UtZiVe
tp://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume012.html >モンゴル側が、優勢だったにもかかわらず >撤退した理由については、諸説ありま す。 >(1) 暴風雨(大風)説 >(2) 初めの予定通りの撤退 >(3) モンゴル・高麗の混成軍の内部で 対立が起きたという説 高等教育でこのように教えている以上、 やはり日本側優勢なんてのは妄想に過ぎないんじゃないかと...
>>283 その高等教育を監修してるのは軍事の専門家か?違うじゃん
そもそも「教えている内容」自体に何の根拠も無いし
「優勢だった」というのが妄想
陸地に橋頭堡を構築できずに、海上に留まることを余儀なくされたのであれば、日本側の戦術的優勢だよね。
そもそも日本側の資料には「元軍を退散させた」と書いてあるし 元史には「終日の激戦で疲弊したので撤退した」と書いてあるし 高麗史にも「兵士が疲弊し、指揮官も流れ矢を受けて負傷したので帰陣した」 と書いてある訳だが これらの資料を整合した場合の状況というのは、どう見ても「元軍は日本軍に 大苦戦し、撤退を余儀なくされた」以外有り得ないと思うが 日本軍の不利を描写してる資料は、寺社勢力の資料ばかりだし ぶっちゃけただの寺社勢力のプロパガンダで、信憑性は薄いよ
まぁ、鎌倉側が持久戦選択したからな 派手な会戦で勝たないとなんか負けてる気になる人たちっているから 第二次ポエニ戦争のファビウスとかアメリカ南北戦争のマクラレンとか ハンニバルやリー相手に仕事キッチリしてるのにノロマ扱いだもん
まちがえた誰だよマクラレて マクレランだ
そりゃまあ、日露戦争は実質日本は勝ってなんかいない! って主張する教師がいるような現状ではこんなもんじゃね?
最近はノモンハンはソ蒙側の失領面積・戦没者数が日満側より大きかったから 日本軍優勢だったと教え込むセンセも居るそうな
優勢ではなかったな。確かに
>>276 >秀吉は二線級の明軍相手に大苦戦だったのに
>満州族はその明の精鋭部隊をたった一度の会戦で壊滅させて華北を一挙に制圧したんだぞ?
サルフの戦いに参加した楊鎬、李如柏、李如梅、劉?とかは
朝鮮役に投入されたのとほとんど同じ面子じゃん。
しかもそいつら、日本軍を大苦戦させるどころか連戦連敗してるし
お前バカじゃね?
そもそも日本軍と戦った明軍は地方軍というが その地方軍とやらが長年女真やモンゴルとやり合ってきた最精鋭部隊だっていう。 まあ、遊牧民向けの編成だったから歩兵中心の日本相手には相性悪かっただろうがね
そもそも、当時の矢を防げるほどの鎧と、鋭利で洗練された薙刀などで武装した精鋭の戦士階級が 九州の一地方だけで10万人も動員されて来る、海の向こうの山岳と隘路ばかりの国を征服しろって 無理ゲーにも程があるだろ
>>290 ノモンハンはお互いが負けたと思い込んだ
希な戦い
鎌倉武士の軍事力以外の要因は元寇失敗の言い訳にならないんだよね 同じ13世紀の第四回十字軍は対馬海峡の10倍の2000キロも海を渡り、文永の役の元軍の3分の1の兵力で、 水城より遥かに堅固なコンスタンティノープル攻略し、鎌倉日本より人口の多かったビザンツ帝国征服してるんだから
第四次十字軍の戦果は、ビザンティンが中央集権であったため、首都を陥落させれば 征服が叶うという側面を勘案すべき、というのは一応あるものの、鎌倉どころが大宰府 すら陥とせなかった元軍には何の関係も無いしな
鎮西の連中なんて当時の武士の中では二軍なのにな。 坂東の精鋭部隊は元軍弱えええとか思ってたんだろうな。
そう単純なもんでもないだろ 戦場となった大宰府周辺は鎮西の武士団にとってはホームなわけだし
日本の九州ほど大軍の利が活かせない土地もそう無い気がするな ランチェスター涙目な地形だから
>>300 秀吉が大軍の利活かしまくって島津圧倒してるじゃん
>>301 外線戦略取れればそらそうよ
しかし、それには超優勢な水軍か、分岐路までは隘路を正面突破出来るだけの精鋭陸軍か
いずれかが必要な訳だし、戦術レベルでの大軍の利は活かし辛いんじゃないかな
>>301 所詮内戦だからな
内戦は勢いのある側にワラワラとみんな加勢して決着がついてしまう
秀吉はそういう内戦で勝っただけなのに勘違いして対外戦争やってあのザマ
>>303 あのザマってモンゴル帝国の対日戦と比較すれば全然マシなんだけど
俺よりミジメな奴がいるからいいんだ理論ですね
唐入りスレで論破されたバカが住み着いたと聞いて
逆に、鎌倉武士でも勝てる程度の元軍に何故、欧州が敗北したのか 単に鎌倉武士が欧州軍より強かっただけなのか、やっぱり騎兵の差なのか
偽装撤退に嵌らなければどうなってたかな
元軍は士気の低い寄せ集めだった。 それにヨーロッパでモンゴルの精鋭に負けたのは、ポーランドの農民歩兵中心の軍。 精鋭で知られたドイツ騎士団は僅か数十騎だ。 しかもモンゴル軍は15万の大軍でその全てが精鋭のモンゴル人で名将バトゥが率いていた。 しかし、もう少し進軍していればフリードリヒ帝率いる 神聖ローマの重騎士とクロスボウによって打ち破られていたであろう事は想像に難くない
>>307 元寇博物館には戦利品として鎌倉武士が獲得した欧州製と言われる兜が保管されてる
欧州で圧勝したモンゴル軍の子孫が日本遠征で鎌倉武士にボロ負けしたってこと
単に鎌倉武士が欧州軍より強かったんだよ
>>309 バトゥの征西軍は3方面に分散していた上にバトゥ自身の軍も分遣隊を出していた
この千載一遇の機会を逃すまいと陸軍大国ポーランドは全軍を率いて決戦を挑むも敗北
ワールシュタットはこれに敗れた残党が独仏の騎士団と連携して別働隊と戦った消化試合
いずれの戦いもモンゴル軍は分散しており兵力は大したことは無かった
>>307 >>310 君らのように渡海作戦の難しさを知らないお馬鹿さんがモンゴルにもいたからってことだな
田舎武士に負けた理由
馬の場合も酷い 大陸に騎乗文化が誕生してから日本に馬を持ち込んだにもかかわらず わざわざ騎乗に適さない小型馬を選択して持ち込んでそのまま繁殖させたことになるw
誤爆した 俺の方が酷いorz
渡海作戦の難しさって具体的には無いよね 兵站とか明らかに渡海作戦の方が有利だし
>>314 なに言ってるの?
船に乗って降りる、この事を数万人が行うだけでどれだけ苦労することか。
その上で食糧、武器、日用品、馬などなど...
上陸地点が狭けりゃ混雑するし、混雑すれば上陸に時間もかかる
そこを武士が殴り込んできたり、遠矢を射かけたりすれば、
揚陸が終わってなく準備不足でも戦闘に加入しなければならない。
すなわち典型的な逐次投入になるわけだ
こうなると後はひたすら消耗戦。
これが元寇の実相だったと思うよ
上陸中にぼこられる展開ってあったの? やばそうなところは避けてると思うけど
逆に武士側が付近の島に陣取った元軍目掛けて上陸して襲いかかる展開の連続だったけど?>弘安の役
やっぱり普通に弱かっただけじゃ・・・ 渡海がどうとかじゃなくて
弘安の役後半の元軍はかわいそうになるレベル 数万人の妖怪クビ置いてけに囲まれてそいつらが毎晩首刈りにくるとか発狂する
>>315 元寇の実相はそんなじゃなかったよ
「凶徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、乱鉦暇無くして犇めき合ふ」
【蒙古襲来絵詞』】
モンゴル軍は揚陸が終わって布陣も整え戦闘準備万端の状態で鎌倉武士に負けてる
渡海作戦とか無関係で武士より弱かっただけじゃん
海が防壁なんて縄文時代までだよね ある程度文明進めば海は道路
>>309 バトゥの遠征軍15万人が全員モンゴル人だったとか
それマジで言ってるのか?
>>309 全てが精鋭のモンゴル人で構成された15万の大軍なんて存在しないから。
チンギス汗が死亡した1227年の時点でモンゴル帝国の総兵力は12万9000人でしかないし、
構成もこの時すでに女真人や契丹人を含む多民族の寄せ集めなんだよね。
しかも欧州遠征ってインド、南宋、高麗など同時に行われた遠征作戦の一つに過ぎないわけで、
投入できる兵数も当然限られてくるし。
それに遊牧の生産性が低すぎて15万もの大軍の兵站を支えきれないって問題もある。
1918年のモンゴルの人口は65万人で、その生活を支えるために必要な家畜の数はラクダ22万9000頭、
馬115万1000頭、牛107万8000頭、羊570万頭、山羊148万8000頭。
15万人のモンゴル軍ってことは、これの約4分の1だろ。
遊牧ってのはメチャ低い密度で分散して生活してるから成立してるんであって15万もの大軍が集結したら、
たちまち周辺の草原食い尽くして全軍餓死しちゃう。
欧州に侵攻したモンゴル軍なんて2〜3万人もいれば上出来ってレベル。
ていうか、モンゴル帝国のヨーロッパやイスラムでの会戦では どの戦いも大体2〜3万くらいで多い時で約5万だぞ。 無論、モンゴル人だけでなく周辺の被征服民含めてだ。 いっぺんに10万だの15万だのの大軍送り込んだのなんて南宋と日本の時くらいだぜ? 他の戦線での軍勢の規模から考えると文永の四万でも向こうは「イケる!」って思ったんじゃね?
やっぱり騎士階級でも防具はせいぜい鎖帷子と小盾だった欧州軍じゃ鎌倉武士以下 なのは自明の理だな。武器も切れ味の低いロングソードだし 大鎧着て長巻振り回す鎌倉武士に勝てる筈が無いわ
>>324 他にもモンゴルは中央アジア征服に20万ルーシ諸国征服に10万送ってるが
ベトナムには30万、インドには20万送ってる
>>326-327 モンゴルは中央アジアにもルーシにもベトナムにもインドにもそんな大軍送ってないよ
そういうのって全部相手側の誇張された数字でモンゴル側の史料の数字じゃないじゃん
モンゴル側の記録だと一桁少ないとか、確かな記録残ってないとかそんなのばっか
ソースプリーズ
侵略受けた側の記述に沿うなら、鎌倉幕府は弘安の役で100万の元軍を打ち破ったことになっちゃうしなw
ビルマの記録だとパガン朝に侵攻したモンゴル軍の兵数は騎兵600万と歩兵2000万 言ったモン勝ちの世界だな
当時の中国大陸の人口でさえ、8000万程度(中国の人口が一億越えるのは明代中頃)なのになw
光武帝は100万の皇帝軍をわずか数千の兵で蹴散らした(棒読み)
そういう風に数字を極端に過大報告するのって、 中華文化の悪しき伝統だけど、 同じことをするベトナムも日本もそういう意味では 忠実な中華文化の継承者なんだね
打ち破った敵は強大なんだよ アメリカ海軍に聞いてみな 日本海軍は強かったって言ってくれるよ
別に中華文化とかじゃなく全世界共通の伝統だろ 現に欧州に攻め込んだモンゴル軍の兵数だって欧州側の記録では滅茶苦茶な数を書いてたりするし 敵の正確な数なんて分かるはずないわけで、戦場心理とかでどうしても数字大きくなるよね
イギリス軍に言わせれば牟田口も名将だからな
立花さんも明は手強かったって言ってるしね。
>>328 中央アジア征服に20万というのはソ連のバルトリドという歴史学者だが
主要な都市を徹底的に破壊されたと言われているホラズムの記録なんて残ってるのか?
340 :
名無し三等兵 :2012/06/12(火) 21:36:28.41 ID:???
支那は特に何でも誇張するだろ 「中国四千年の歴史」とか良い例 ほとんどは異民族王朝時代であって、中国=漢族の歴史なんてわずかなのに
誇張もするし捏造もする アヘン戦争における清軍は、記録上はイギリス軍に連戦連勝してる
日本なんか神様が大風を吹かせてくれたお陰にしちゃうからな 少なくとも自分のところの兵が弱いことを認めてるだけ他国に比べれば全然正直ってもんだ
元寇の結果、日本の兵がモンゴル軍より強いってのが双方の共通理解になったからな 日本の商人が武装して大陸で暴れまわっても、モンゴル軍は怯えて対処不能って状態になるんだよね
?
日本側の史料:『太平記』 「結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、 官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく 荒れにけり。」 モンゴル帝国側の史料:『論倭』 「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは「至弱」と雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。 いわんや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当たる。さきに慶元より航海して来り、 艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たさなければ、 城郭を燔?x712B;して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。」
論倭はモンゴルというより明だな
>>346 『論倭』は明代じゃないよ。
思いっきり元代の話。
作者の呉ライはモンゴル軍が遠征先の日本でボロ負けしただけじゃ飽き足らず、
自国ですら日本人に歯が立たないのを見て「日本恐るべし」って認識してるんだよ。
海賊ってリスク高そうなのに 商売できるのがすごいな
なんかすごい文字化けしてるけどどこからコピーしてきたんだ
>>350 ゼツという漢字が表示できなかった
「燃やす、焼く」という意味の字なんだけど
実際のところ、元寇で日本側が強かった原因は何? 武器が特別に優秀だった? 戦術や戦略が卓越してたとかは無さそうだし...
>>352 武士は戦闘のプロだからだよ。
モンゴル軍の弓術も馬術も戦術も遊牧生活のための技術で純粋に戦闘のための技術じゃない。
当時の世界は中国とか何の技術もない社会のあぶれ者を寄せ集めて軍にしてたから、モンゴル軍は
そういう連中に対して圧倒的優位に立てたけど所詮はアマチュアチャンピオン。
武士みたいに物心付いた歳から戦闘訓練に明け暮れてる本物のプロフェッショナルには通用しなかった。
そうか?だったら領主兼戦士の武士より職業軍人の傭兵のが強そうだが
>>354 >>353 は、傭兵=何の技術もない社会のあぶれ者、と言いたかったのでは?
あくまでもイメージだけど、ヴァラギアンガードやスイス傭兵はプロフェッショナルな傭兵、
ランツクネヒトは社会のあぶれ者感が…戦場では役に立ってるけどね。
357 :
名無し三等兵 :2012/06/14(木) 21:59:20.81 ID:R83LAVn2
>>352 海を越えた地元で戦ったから
当時の技術では海を渡る兵站は無理で蒙古軍は馬も持ってこれなかった
兵力の中心もモンゴル兵ではなく朝鮮中国兵
モンゴル人は指揮官だけ
その弱体蒙古兵の組織戦闘術に平野では押されて水城に退却
嵐がこなかったら危なかった
二回目は一回目を反省し海岸に長城ともいえる防塁を築いて鎌倉武士が優位に立った
北九州の防衛体制も鎌倉を頂点とする命令系統を樹立し御家人を配置し
組織的防衛体制を構築した
358 :
356 :2012/06/14(木) 21:59:25.43 ID:???
ごめん、古代・中世スレと勘違いした・・・
中国全土をあっという間に攻略した清朝も対岸の小島1つ落とすのに何年もかかった それも清朝は当時世界最高の水準にあった明の水軍を無傷で吸収したのにな 渡海作戦は何百年も後もそれほどまでに困難だった
その割には、秀吉はあっさり渡海成功して陸戦に持ち込んでるな 猖獗を極めた倭寇にしてもそうだが、結局ノウハウの問題なのかね?
361 :
名無し三等兵 :2012/06/15(金) 00:19:46.55 ID:h45VyF1I
>>354 御家人は軍役を果たすことによって幕府から所領を安堵される、
もしくは恩賞を獲得できる。傭兵や、欧州の連合軍とは統制が違う。
さらに九州御家人は異賊警備令をそれまでに何回も出されてる。
正嘉年間にも幕府から警備強化を命じられてるはず
>>357 またその話になるのか。南宋を撃破した蒙漢軍が主力なんだから、
そんなのエクスキューズにも何にもならない
だいたい日本軍は「上陸後」に逐次迎撃に向かい、敵に大きな損害を与えたあとで水城に帰還している
蒙古軍が慌ただしく帰国の途についたのはその夜半、新暦11月下旬の荒れる玄界灘を日本軍が再出現する前に渡って帰ってる
文永の役ですら少数の日本軍が蒙古軍を撃破とは言わずとも継戦不可能に追い込んだのは明らか
それを言い出したら御家人中の精鋭は東国御家人であって、在地の九州御家人なんかじゃない
東国御家人が戦場に着くのはいつになることやら
秀吉が強行軍で岡山〜京都間を移動した時でさえ10日かかったんだぜ? 弘安の役で江南軍と東路軍が合流したのが7月上旬だが 京都に控えていた幕府本隊呼び寄せても、1ヶ月はかかるぞ っていうか実際山口辺りまで来た所で台風がきた。
当時の技術では海を渡る兵站は無理とか、蒙古軍は馬も持ってこれなかったとか 書いてて恥ずかしくないのかね? 当時の技術で兵站を支える唯一の手段は船。 むしろ陸路の方が兵站は難しくて現地調達に頼るしかないのに。 それに馬なんて船で簡単に運べるのに蒙古軍が持って来ないわけないじゃん。
うわあ、恥ずかしい奴
弘安の役で東路軍は3ヶ月分の兵糧6600トンを船に積んでいました。 同量の兵糧を陸路輸送する場合、どれだけの規模の輜重隊が必要になるでしょう? 更にその輜重隊を3ヶ月間維持するために必要な兵糧は、どれだけの量になるでしょう?
ということは、陸上にいた日本勢は兵站輸送の困難さ故に自滅する運命にあった訳だね
>>369 当然平時に水城へ兵糧運び込んで貯蔵しとくんだよ
戦に対する備えってそもそもそういうモノだし、そのための防衛施設なんだから
当時すでに遺跡と化していた水城に兵糧備蓄とかwww
>>371 それが鎌倉幕府って文永の役の10年以上前から大宰府の城郭整備と兵糧備蓄に動き出してるんだよね
新御式目
一、城郭事、
次岩門并宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構云々、早為領主所之沙汰可致其構云々、
一、兵糧米事、
先々可無其虚歟、殊加談義可令注進、
流石は鎌倉幕府
備えあれば憂いなしって奴ね
当時は史跡じゃなくて防衛拠点として改修してあったんだよ。 結局出番はなかったけど
それのどこに水城と書いてあるんですか? 兵糧備蓄は各御家人がそれぞれの領地に用意しとけよ、ということで、 いずれにしろ、博多までの陸上輸送の巨大な負担で自滅する運命に変わりはなかったんですね
>>374 博多までわざわざ陸上輸送するわけないだろ
船使うに決まってるじゃん
宰府の城郭≒水城なんじゃないの? 兵糧米については国衙領などに負担を求めたりしてるだろう
元寇スレって日本史板でも軍板でも立つたびに「結論:日本軍圧勝」になるのに、 なんで議論を蒸し返す人間が多いんだろうな。
>>374 元軍はわずか1日、異説を取っても数日で撤退しているから、心配はいらない
>>357 日本史スレのほうで騎馬数について議論した結果、
騎乗者の絶対数では侵攻軍側が多いことだけはみな一致したよ
騎兵はどんだけいたんだろうか?
蒙古襲来絵詞だと馬に乗ってる奴も割といるけど。
>>377 それだけ八幡愚童訓を書いた奴が写本で誤植しまくった罪は重いってことだな。
陸自がまとめた資料では日本軍1万人、5000騎になってるらしいが、果たして日本側の騎乗率が50%あったかどうかね。 ここの前スレで議論になったけど、30%程度じゃないか。
そもそも陸自は何の史料から日本側の兵力を一万としたんだろうか気になる。
昭和38年の元寇・本土防衛戦史だな>1万人説
しかし、戦闘のプロなのは西洋の騎士も同じな筈 確かに騎士はその精神性において、合理的な戦術を取り辛い部分はあったけど 戦闘では武士より未熟な戦士なんだろうか?
>>381 貧乏御家人の竹崎季長ですら騎乗率100%なのに
>>385 維持費もバカにならないだろうにすごいよな
米の生産力はチートだからな 麦食ってるような連中とは扶養出来る規模が違う 結果、特権階級である武士の装備は大陸より立派な物になる 大陸の特権階級は、土地が痩せてるせいで装備や訓練を日本ほどに整える 財政的余裕が無かったからな
米は強力だけど田植えと刈り入れ期の要求労働力でかいのが難点 戦国期なら暇なときに兵士してるだけでもかなりの戦場経験になるから弱くはないが 長期遠征には不向き
>>385 ところが、竹崎を除くとだいたい3割だよ。
>>384 まず日本の王権、もしくは軍司令部=幕府の指揮統制権の強さを考える必要がある。
どっちが強いか以前に、日本は御家人数万人に対して将軍たちによる組織的進退が可能だし、
幕府によって鎮西御家人に出されている式目にもたびたび軍備充実や軍令統制が挙げられている。
リーグニッツの諸侯連合軍はそれができなかったでしょ。
文永の役に先立つこと百年の奥州合戦でも頼朝は幕下の大手軍数万、搦手軍、後備も入れて10万 承久の乱でもそのレベルの兵を動かしている。欧州では英仏百年戦争で局面を逆転したパテーの戦いで仏軍2万とか? その前のロワール川の作戦でも数千レベル=日本なら国主レベルの対立、しかも領主連合軍で勝手に帰ったり反目したりがたびたび 数的に倍から3倍、統制力から言ったら比較にならない印象があるね。
395 :
名無し三等兵 :2012/06/15(金) 21:14:25.93 ID:/EZG9QWG
>>366 モンゴル軍がアジアからヨーロッパに至るまでを征服するのに
船を使って馬を輸送しなければならなかったのっていつの話しなんですか?
明らかに日本への渡海は別の話しじゃないですかね
つまり蒙古襲来絵詞に描かれた元軍の騎兵は捏造である
397 :
名無し三等兵 :2012/06/15(金) 21:42:23.92 ID:/EZG9QWG
>>396 大陸を席巻したレベルでの蒙古騎兵を実現することは
当時の渡海する兵站技術ではではできなかったということ
わずかな頭数ならそりゃもってこれるだろ
蒙古襲来絵詞に描かれた元軍の大半は歩兵だったような
南宋攻略戦の過程で蒙古軍は歩兵化が進んでるからしょうがないじゃん それでも蒙漢軍高麗軍の騎馬戦士数の絶対数のほうが、赤坂で菊池勢に反撃食らって追い落とされた時点では圧倒的に多いよ 日本軍主力は「はかたのおきのはま」での迎撃作戦を立ててたんだから
モンゴルの強みは騎馬軍団による世界的規模の圧倒的な機動力 渡海作戦で上陸地点周辺で削り合うしかないのではその強みは完全に消える 騎馬の強さは別に武田騎馬軍wなノリの突進力にあった訳ではない
つまり、普通にぶつかったら武士に蹴散らされるレベルだという事だな
普通にぶつかれたらな 蒙古弓騎兵との撃ち合いだとどうかな
ぼくちんの考えたシチュエーションではどうかな?スレ
404 :
名無し三等兵 :2012/06/16(土) 00:21:29.05 ID:raGga3r5
結局
>>328 は口から出任せだったのか。
>>377 八幡蒙古記を白装束云々の記述があるからというだけで
それ以外の詳細な場面も全て嘘捏造だと決めつけて
元史の「敗之」や高麗史の「倭兵大敗」の下りの記述を全部無視すれば
武士たちが戦闘に勝ったように見えるんですねわかります
405 :
名無し三等兵 :2012/06/16(土) 02:15:16.46 ID:raGga3r5
なんだ。正論すぎてぐうの音も出ないか
>>404 九州の戦闘はモンゴル軍の大敗だって言ってるわけだが。
元史の「敗之」は「唯四境」で対馬壱岐限定の話。
高麗史も表に「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」と戦って負けたと明記してる。
最も信頼度の高い史料である蒙古襲来絵詞に書かれてるように
九州の戦闘ではモンゴル軍が一方的に武士にボコられてたってことで
何の問題も無いじゃん。
>>404 モンゴル帝国側の史料である集史に拠れば、1227年の時点でモンゴル帝国の総兵力は12万9000人。
この時点で中央アジア征服に20万とかルーシ諸国征服に10万とかいう数字はあり得ないわな。
あと、第三次ベトナム侵攻の兵力もモンゴル帝国側史料の元史では9万3700余名 だよ。
>>402 ああ、空母と戦艦と戦車とトラックと自動照準とその他が無ければ、日本軍はアメリカ軍に勝てたかもな
日本の国土に戦略機動可能な平原があったら、なんて想定は、それと同じレベル
無意味な妄想に過ぎない
>>406 『高麗史』
巻一百四 列伝十七 金方慶伝
「分道而進、所殺過當。倭兵突至衝中軍、長劍交左右。方慶如植不少却、拔一?矢、 聲大喝、倭辟易而走。
之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。忽敦曰、蒙人雖習戦、何以加此。諸軍与戦、及暮乃解。」
八幡蒙古記の記述でも日本側が大敗して博多や八幡宮が焼かれたと書かれてる。
蒙古襲来絵詞はあくまで竹崎個人の記録であり、戦闘全体を書いたものではない。
しかも日付が矛盾してる(1293年2月9日は正応6年の筈なのに永仁元年になってる)ので
実は後世に書かれたものの可能性も高い。
戦場になったの福岡平野だぜ そこで蒙古弓騎兵と鎌倉騎馬武者が弓の撃ち合いしたわけで、普通にぶつかって勝ってるじゃん
>>409 いや、博多は全くの無傷だよ。
同時代の文献全部調べても博多が文永の役で焼かれたなんて記録は存在しない。
つまり八幡蒙古記の記述は完全な捏造ってこと。
一方、蒙古襲来絵詞の記述が真実であることを裏付ける史料はある。
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」
『福田兼重申状』
(十月二十日に元軍と鳥飼塩浜に於いて合戦を行い、麁原山の凶徒が引き退いたので、百路原に戦って
追い払った)
「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ
姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
『日田記』
(日田弥次郎永基は永十一年十月二十日に元軍と姪浜と百路原に於いて一日に二度合戦し、大勝利した)
史料では明白に鎌倉武士がワンサイドゲームでモンゴル軍に勝利してるんだよ。
話を逸らすなよ。
なんで蒙古襲来絵詞の日付は そ の 時 点 で は 存 在 し な い 元 号 で書かれてるんだ?
これが後世の創作じゃなくてなんて言うんだ?
それに福田文書も日田記も個人の話に過ぎない。(日田記なんて敵を沢山殺しましたって自己申告してるだけ)
博多が炎上したのは博多の歴史に関する記述では殆ど常識になってるぞ。
そもそも
>>409 で上げた高麗伝の記述はどうする?
武士マンセーするには、上陸すらさせずに撃退したってのと上陸させて正面から撃破したってのと どっちの方向で強弁するのが都合が良いのかな
414 :
名無し三等兵 :2012/06/16(土) 13:35:05.51 ID:raGga3r5
どっちにしろ撃退出来てないんだから関係ない
>>407 1225年に帝国が分割されたの忘れてね
1227年時にチンギスと敵対してたのはすでに何度もモンゴルに敗れ弱体化した西夏と金だし
でも実際、西アジアやルーシで行われた戦闘はどれも20000とか40000とかそんなんだよ。 10万ならまだしも20万は無いと思うわ。
そりゃ中央アジア全域で戦ってんだから当たり前でしょ 集結したら補給に困るのは目に見えてるし
>>412 日付は竹崎季長が絵詞作成を決意した日だと考えられていて何の問題も無いよ。
蒙古襲来絵詞は13世紀末の画法で描かれてることが美術史の方面からの検証で確かめられてる。
それに別の文献に残された竹崎季長の筆跡とも一致してる。
後世の創作の可能性はゼロだよ。
それから重ねて言うけど、博多炎上を裏付ける史料は存在しない。
つまりモンゴル軍は博多に到達できなかったってこと。
なんなら自分で史料探してみろよ。
>>415 だから、12万9000人はモンゴル帝国全体の総兵力なんだって。
帝国の分割ってのは、その12万9000人を更に分割したんだよ。
つまりルーシ遠征なんて元寇よりずっと少ない兵力で行われたってこと。
>>419 もしかして12万9000人の根拠ってモンゴル族十二万九千戸を諸将に分配した話?
だとしたらその他に征服民や寝返り組がいるから総兵力はもっと多いよ
元朝秘史ではモンゴルはホラズム遠征で誰であっても 己が子の兄たる者を出征させよと総動員かけたと書いてあるし
征服民じゃなくて被征服民な
>>420 女直人や契丹人など征服民も12万9000って数に含まれてるんだが
>>422 遊牧に従事してた分ついては含まれてるかもしれないけど
女直人や契丹人は農民だったり漁師だったりいろいろだからね
>>418 俺の記憶違いならすまんが
そもそも八幡蒙古記における八幡宮の炎上って
元軍が燃やしたんじゃなくて、神社の神官達が自分達で燃やしたって書いてた気がする。
博多の件にしても、武士たちが博多から撤退したとしか書いてなかったような。
手元に無いからうろ覚えだったらすまんが。
ま、どの道文永では軍船に攻撃なんてしてない竹崎が攻撃を仕掛けた事になってたり
赤坂で元軍追い散らして100騎余りで引き上げる所を竹崎と遭遇して互いに証人になった菊池が
何故か八幡蒙古記では菊池自身以外は全員死んだことになってたり
先駆けした後ピンチになった竹崎を救出し、そのまま元軍を蹴散らした白石が
何故かコテンパンにやられて敗走したことになってたりと
蒙古襲来絵詞と矛盾する記述ばっかりなんだよね。
高麗史にしても倭兵大敗の下りの直後に例の軍議が書かれてるし
正直とても「倭兵大敗」「伏屍如麻」と書かれるような
大勝利をあげた軍の行動には見えないんだよね。
>
>>412 『高麗史』や『高麗史節要』の「倭兵大敗」とは壱岐での戦闘のことを言ってるんだよ。
「倭兵大敗」の前文を見てみると、壱岐の日本軍が降伏の約束を破って元軍に襲い掛ってきたのを
返り討ちにして、三郎浦に船を捨てて元軍諸隊が道を別れて進撃していたのを、日本軍が高麗軍に
襲撃を仕掛けてきたので、応戦して「倭兵大敗」させたと書いている。
ところが次の文章は「諸軍終日戰及暮乃解」(節要)「諸軍與戰及暮乃解」(高麗史)
となっている。「倭兵大敗」では道を別れて進んでいた高麗軍が単独で戦っていたはずであるにも関わらず
、次の戦闘場面では「一日中、高麗軍を含む元軍諸隊がともに戦った」となっている。
元軍諸隊が「一日中ともに」戦ったとなっているからには、高麗軍が単独で戦った
「倭兵大敗」とは別の戦闘であるということ。
そして、次の記述が総司令官の忽敦が弱気になっているなど元軍の切羽詰った軍議の描写
となっており、「倭兵大敗」とは別の戦闘である「諸軍終日戰及暮乃解」(節要)「諸軍與戰及暮乃解」
(高麗史)で元軍が苦戦を強いられたことがうかがえる。
そして、この『高麗史』や『高麗史節要』の記述と矛盾しないのが『元史』での記述。
『高麗史』や『節要』に照らし合わせながら、『元史』の記述を見てみると
「入其国敗之」とあるのが『高麗史』の「倭兵大敗」での戦闘と思われる。
これ(壱岐島の日本)を破った後、元軍は博多湾から上陸したが、「官軍整わず」
、苦戦を強いられた。同様に元軍が苦戦を強いられたのは『高麗史』の
「策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍」との記述でもわかる。
つまり、元軍は博多湾から上陸してから、思うように戦果を挙げられなかったことは
元側が認めているということ。
「三郎浦に船を捨てて」からが九州本土での戦闘じゃないの?
>
>>426 「三郎浦」を「早良郡」とする説があるけど、それだと「三郎浦から道を別れて進んで
高麗郡単独で戦闘を行った」のと、後の「一日中、高麗軍を含む元軍諸隊がともに戦った」
との記述に矛盾が生じるんだよね。博多湾から上陸して戦闘が行われたのはたった一日だけしかなかったわけだから。
『八幡ノ蒙古記』だと、元軍が壱岐島に上陸した場所が「庄三郎か城の前」となっており、
高麗史の「三郎浦」も「庄三郎か城の前」から影響を受けているのかもしれない。
三郎浦以降の箇所は九州での戦闘における高麗軍の様子を取り上げたもので 勿論、高麗軍だけが戦ってたというわけではない。 そして金方慶の活躍でこの戦闘も「倭兵大敗」になったと高麗史では主張しているわけだ。 クドゥンが高麗軍を「蒙人雖習戦、何以加此」と評したのは九州での戦闘後。 言ってみれば「後にクドゥンは福岡の戦闘をこう評している」みたいなニュアンス。 だから「諸軍与戦、及暮乃解」ってのは上で書かれてる高麗軍と同じ戦闘の話であり 時系列はクドゥンが評価した後ではない。
現在の和弓の引き方と違って、当時は顔のすぐ横くらいで止めてたという説が出ていた。 とすると長大な弓を馬上に持ち込んでも、ある程度の速射性は確保できていたのかも知れない
>>428 そんな大勝利だったんなら尚更なんであんな内容の軍議をしたの?っと。
倭兵大敗にしては撤退ぶりが慌ただしすぎる。置いてけぼりの船まで出てるんだから その部分はクエスチョンマーク
>
>>428 >三郎浦以降の箇所は九州での戦闘における高麗軍の様子を取り上げたもので
勿論、高麗軍だけが戦ってたというわけではない。
そもそも、「三郎浦」を「早良郡」とした場合、「早良郡」上陸後に元軍が「分道而進」形跡がない。
それに上陸した元軍が、「早良郡」から数キロしか離れていない「博多」を目指して東進
する場合、三郎浦で船を捨てて「分道而進」のは不自然極まりない。
>そして金方慶の活躍でこの戦闘も「倭兵大敗」になったと高麗史では主張しているわけだ。
クドゥンが高麗軍を「蒙人雖習戦、何以加此」と評したのは九州での戦闘後。
それが九州の戦闘ではないということは上でも述べているよ。
高麗軍の奮戦を忽敦が評価したのは壱岐での戦闘の話。
「倭兵大敗」は高麗軍が成し得たことで、諸軍ともに戦って成しえたわけではない。
そして、忽敦の高麗軍評価の次の文章が「諸軍終日戰及暮乃解」(節要)「諸軍與戰及暮乃解」(高麗史)
なんだから、「倭兵大敗」と「諸軍終日戰及暮乃解」は全く別の戦闘な話ってなわけ。
そもそもさ、九州上陸後とした場合、高麗軍が「倭兵大敗」させたはずなのに
次に「一日中、高麗軍を含む元軍諸隊がともに戦った」とあるんだから、九州上陸後としたら
おかしいでしょと。
『高麗史』表 十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人 高麗史は明確に文永の役を戦って負けたと評価してるんだが
だがこっちはこっちで壱岐で負けたとかどゆこと?って話になる。
個々の戦闘の評価について敵味方双方の主張に齟齬があるのはやむをえない。 ただ、この戦いにおいて元軍は橋頭堡の維持さえ出来ず、通説で1日、異説でも数日で継戦不能と判断して 撤退したという事は双方共異論が無い。 つまりこの戦いが武士側の勝利であったのは明白な事実。
1日の方が通説なのか?
通説だよ。
元軍に瀬戸内あるいは出雲方面に入られたら、幕府側の防衛は根本的に崩壊していた恐れが強い この事を知っているのは高麗だが、これを元軍に教えなかったの高麗の対敵通謀があったと考えるのが自然だろう。
(デムパ)
日本側はあくまでも博多・太宰府での陸上防衛に勢力を投入していたから、 海上を往く元艦隊の行動を阻止する能力は無かった 防衛線の穴となっていた地点に強固な中国大陸風の城郭を建設されて、 数十年に渡って国内を撹乱された場合、 高麗の例を見るまでもなく、幕府は三別抄のような立場になり、 ジリ貧を余儀なくされただろう
そうね ボクの考えた作戦ならミッドウェイだって勝ってるよね。
弘安の役では長門に二万、畿内には六万の軍勢が控えてたわけだが。
2回も博多に来襲した理由を考えよう。 スコシシアワセニナレルカモヨ
どんなに堅固な城郭でも、後詰めや呼応する勢力がなければ落ちるしかないしな
>>442 それは呼号兵力でしょ?
100分の1が実兵力というところですね
なら相手にできますね
九州には日本軍どれくらい居たの?
>>442 実際に元軍の襲来に備えて展開してた軍だよ。
>>446 旧軍だったか陸自だったかが出したデータだと
実際に九州で戦闘したのは文永の時で一万、弘安の時で四万とされてる。
常識的に考えて4倍近い敵に攻められたら負けるよな 台風さまさま
台風がくるまでの間、その四倍の敵は1ヶ月も何してたんだよ。 そんなに台風のおかげにしたいのかよ
4倍居ても展開できないんじゃ意味が無い
元軍は所詮、農民とかを集めたアマチュアチャンピオンなんだよ プロフェッショナルな武士と戦ったら、4倍程度じゃボロ負けして当然 7倍は欲しいよな
モンゴル軍なんて所詮は羊飼いの集団だからな 圧倒的な軍事力でモンゴル軍を粉砕した当時の日本人の自信に満ち溢れた世界観 「南蛮には虫を従へ、西羌には羊を従へ、北狄には犬を従へたり。 東方は君子国なりとて獣を従へず。 其上天竺・震旦・日域の中には、日本人心もたけく、弓の力餘国にすぐれたり。 故に夷の字をば名づけたる也。 夷は弓の字に大の字書入たる形なり。 されば夷の字は本朝の弓箭に携る人の眉目なるべし。」 玄恵(1269-1350)
何なんだ?この偏向した流れ
台風によるまぐれ勝ち史観を認めないと偏向してると言うんですねわかります。
>>454 偏向してるだろ!!
>>283 を見てみろ。いい加減に目を覚まして
高校生に、日本人として正しい歴史認識をよくよく教えてもらうんだな
456 :
横レス :2012/06/18(月) 18:03:55.20 ID:???
教科書自体が偏向の宝庫w
で、学校で教え込まれた嘘を信じ込んでここに来ると論破されまくるわけだw 歴史の教科書に書いてある元寇なんて何のソースもない妄想ばかりだけど、こっちは幾らでも 根拠の史料出せるからな
ネットの中では俺たちは最強だってかw
蒙古襲来絵詞の全体の構図を見せるだけで驚いてもらえるからなあ。 あれ?一騎打ちじゃないの?って。
蒙古襲来絵詞と言うれっきとした証拠があるから仕方ないな
元史や高麗史では武士が負けたことになってるというが 思いっきり言葉濁してるからなあ。 「こういう事情があったから、べ、べつに負けたわけじゃないからね」的な。
だからなんで軍の再編成に1ヶ月もかかってんだよ。
さあ?史料がないのでなんとも ただ軍の再編成と兵を休めるのに1月程度かけるのは珍しい事じゃないし 傷病兵の回復を待っていたのならなおさらでしょ
元軍は本当なら楽勝だったのについてないなー
だから東路軍が疲弊してたんなら、江南軍だけで博多から攻めりゃ良かったじゃん。
台風のとき日本軍はどうしてたんだ?
東路軍抜きってそれ戦力の三分の一近くが抜ける事になるんだが
じゃあ最初に単独で博多湾から侵攻した東路軍は無能の極みだな
>>467 陸地の陣営に待機してたんだろう
どうせ海は大荒れで敵軍は攻めるどころじゃないんだし
>>462 台風が来た時、元艦隊が停泊していた場所は平戸、対馬、鷹島とバラバラ
元艦隊は軍の再編中なんかじゃなかったってこと
単に日本軍から逃げ回っていただけ
鷹島に取り残された元兵だけでも十万なんだからほぼ全軍が鷹島に集結してたのは間違いないだろ
>>473 でも、もともと平戸にいた部隊はその後も平戸にいたし、東路軍は全く別に対馬にいたわけだろ
再編なんかしてないじゃん
結局、日本軍が強かったから上陸できなかっただけ
>>474 おいおい元史には東路軍は平戸で江南軍と合流しと事と平戸防衛のために四千の兵を残して鷹島に移動した
ことがちゃんと書いてあるだろ
>>475 元史にはそんなこと書いてないぞ
で、高麗史には対馬で台風に遭ったと書いてある
なるほどねー。 文永での一騎打ちも日本軍敗退説も威力偵察説も元軍は最初から士気低かった説も 弘安での棄民説も元は本気じゃなかったよ説もアジアの人々のおかげ(笑)説も ぜーんぶ否定されちゃったから、今度は「やっぱり台風のおかげ」説で攻めてるわけかw
>>476 これは酷い
右丞范文虎、将兵十萬、由慶元・定海等処渡海、期至日本一岐・平戸等島合兵登岸
江南軍が日本に到着し壱岐(東路軍)と平戸(江南軍)の兵が合流
平湖島屯兵四千、乏舟、禧曰、我安忍棄之、遂悉棄舟中所有馬七十匹、以済其還。
平戸に駐屯していた四千の兵を回収
東路軍を吸収した最強江南軍が博多湾ではなく鷹島近海でもたついてたのは何故ですか
鷹島に着いたのが台風の来る2日前だからなもう天候が荒れ始めてたんだろ
>>480 元軍が鷹島に到着した後で日本軍から攻撃されてるんだから海が荒れてたなんて言い訳は通用しない
江南軍と東路軍が合流した後も思いっきり戦闘で上陸阻止されてるじゃん
日本史板の前スレで棄民説を唱えて手を焼かせた子がいたんですよ…
相手は一人しかいないと思いこむタイプの人か
実際定期的にループするんだもん
合流してからは夜襲を一回しかけるしかしない=手も足も出てない状態だったのに なんで武士が実力で勝ったことになってるの?ネトウヨなの?
数ヶ月間一度たりとも橋頭堡すら作れずに壊滅したのが なんで実力で阻止してないと言えるの?反日なの?
>>486 結果的に日本から帰ってくれたから、日本の勝ちなんだってさ。
そりゃそうかもしれないが、言葉遊びの類だよな
489 :
名無し三等兵 :2012/06/19(火) 18:29:11.85 ID:???
>>481 同意
日本軍の小舟が渡海襲撃できるのに元軍の大型船が動けないわけがないよな
日本側も27日の夜襲を最後に動いてないんだが
なんで直接博多湾を攻めずに鷹島に上陸したの?
平戸から鷹島への移動だけで何日もかかってるのに 平戸から博多まで直接行ったらよけい到着がバラバラになるだろ
元軍は移動と台風で崩壊しただけ 日本軍は一切関係ない
日本側は台風で一切被害は受けなかった。 その程度の台風で壊滅するようでは、どの道勝てないわなあ。
屁理屈だな。 どの道、台風に救われた事実に変わりはない。 戦績としてはベトナム、インド、マムルークより一段も二段も劣るな。
防塁の他には乱杭や逆茂木なんかでバリケードしてあったからな。 仮に15万全軍をもってしてもクレシーの戦いみたいになったとしか思えないな。 ましてや、宇都宮率いる六万の六波羅軍が援軍として来てたら尚更の事。
実際に橋頭堡が築けない以上、数千くらいが小舟で攻めてきた程度だろうしな
>>495 台風に救われなくても、文永の役で日本軍に3倍する兵力をもって1日で撃破された元軍が勝てるわけがない
ベトナムとかネタで言ってんのか
>>497 大船から弓で援護しながら小船で上陸させて橋頭堡を築くんだろ
蒙古襲来絵詞の小船の絵を信じるなら一隻で一度に十人以上上陸させられるだろうし
東路軍900隻のうち600隻が小船だから江南軍と合わせれば第一波だけで一万以上上陸させられるだろうな
東路軍吸収して兵力13万くらいはあるだろうからさすがに防塁を突破して全軍展開できれば 博多制圧は可能だっただろう 突破できればだが
マムルーク→フレグの家臣キドブカ率いるガチの精鋭騎兵と平原で戦って撃破。その後もモンゴルをシリアに入れさせず インド→アフガニスタンから侵入を企む20万を超えるモンゴル軍を何度も撃破インドにモンゴルを入れず 豚飼いイヴァイロ(ブルガリア)→キプチャク・ハン国の王族ノガイの正規軍を寄せ集めの農民兵で撃破 モンゴル軍も何度も破りブルガリア皇帝を殺し皇帝になる ベトナム→十万のモンゴル軍を計略で一網打尽にするなど幾度となくゲリラ戦術で壊滅させ 皇太子を捕虜にしたり不敗神話を誇った名将にも土をつける。 日本→士気が低い寄せ集め(しかも渡海遠征)が相手。 率いてる武将も無名か出たら負けるでお馴染みの洪茶丘みたいな雑魚ばっかり。 台風が来る前の戦闘では東路軍に僅かな被害を与えただけ。 元軍の本当の敵は台風と疫病と業務上のトラブルだった。
>>499 むしろ一度に上陸させられるのが一万程度じゃ防塁抜くのは無理じゃね?
小分けして複数箇所から上陸・侵入して多方面から博多に迫るってやるには 指揮官も土地情報も足りなかったのかな
>>495 ベトナムは首都が陥落して国土を蹂躙されてるし
マムルークにしたって元寇東路軍の半分以下のモンゴル軍を破ったに過ぎないわけだが
複数箇所っつっても防塁築いてたのは博多だけじゃないしなあ
>>499 上陸するまで指くわえて待ってるほど武士も馬鹿じゃないからねぇ
実際夜襲しかけて夜明けまで暴れまくってるからね
それに1万上陸しても600隻の小船を引き返して後続が来るまでその1万で戦線を支えなきゃならない。
数の上で不利すぎる。
大船から矢の援護があるって言うけど日本側も大船に攻め寄せて乗り込むことが可能なのを考えると
やっぱり上陸して橋頭堡確保は無理でしょ
そもそも逐次投入じゃ絶対無理だとわかってたから 再編成に1ヶ月もかけて十何万だかの軍勢で総攻撃かけようとしたんでしょ?
兵力優位をいかせる形に持ってくまでが大変だな
>>506 日本側から陣地を捨てて出てきてくれるなら元軍は大助かりだろうな日本側がそんな馬鹿なことするわけないけど
1万ってのは控えめに計算した場合だし日本側は4万でしかない大船からの援護を考えれば十分持ちこたえられるだろ
そんな芸当が出来てりゃ江南軍単独でもやってたんじゃねえの?
>>501 もう片方のスレでフルボッコにされたのにまだそれを貼るか
>>501 マムルーク→破ったモンゴル軍は元寇東路軍の半分以下の2万人
インド→どう考えても20万もいない。しかも一時はパンジャーブまで侵攻を許してる
豚飼いイヴァイロ(ブルガリア)→記録が極端に少なく詳細不明。というか当時のブルガリアにいたモンゴル正規軍の数なんてたかが知れてる
ベトナム→首都を明け渡し国土を荒廃させてようやく勝利できたというだけ。しかも一度はモンゴルに敗れて屈服してる
江南軍出発前のトラブルさえなければなー。 間違いなく合流後に全軍で博多の武士団殲滅出来たのに。
負け犬の遠吠えが聞こえるな
博多の武士団の後方に6万の武士団の増援がいたという絶望
>>507 総兵力が減ればそれだけ上陸部隊も援護の兵も減るんだが
東路軍は何度か上陸戦をやってるし一度博多湾を見て現地の地形もある程度分かってる軍だしな
そりゃ連れてくるだろ
>>515 そいつら東路軍襲来から2月経ってもまだ京都にいたような奴らなんだから間に合わないだろ
>>517 あー、元軍にも間に合わなかった軍団がいましたねー
何て言ったっけ?
東路軍は上陸すら出来てないんですけど
>>517 元軍がちんたら軍の再編成やってる間に下関まで来てましたが何か?
そもそも仮に合流していたとしても、どこに展開させるつもりだ? 沿岸は結局、狭正面にしかならんじゃないか それも、最初から武士団に半包囲された形成で
>>520 先陣だけがね
>>521 博多湾岸の元寇防塁のある場所(比較的上陸に適した場所)だけで20kmもあるんだがどこが狭いんだ?
WW1じゃ1kmあたり1万人以上展開するのは当たり前だったんだが
>>522 その防塁にビビってすごすご逃げ帰りましたよね
元軍が見ただけで強襲上陸を諦めた元寇防塁に、元軍が総兵力で突っ込めば 勝てたとでも主張する気か 日本の武士団には後詰だっているのに これ以上無い愚策だな
東路軍の上陸した防塁のない志賀島のような場所もあるしな 実際元寇防塁がどの程度使えたのかは未知数だし
その志賀島からの侵攻ルートこそ、正に隘路の見本みたいな回廊だろうが どの程度使えたか未知数? じゃあタイムスリップでもして「本当に突破出来ないか分からないから全軍で 突撃して下さい」とでも言って来い 「未知数の防衛拠点」に全軍で突っ込む様な馬鹿な指揮官相手なら、防塁が 無くても余裕で撃退出来るわ
その防塁が無い志賀島には上陸されてボッコボコにされてるしな
大船から援護っつっても防塁上からアウトレンジされんのがオチじゃねえの?
そう、志賀島を占領した元軍は武士団に攻め上られてまたも敗退 元軍は連戦連敗を重ねましたね
なんで潮が引かなきゃ陸路で進めない志賀島に全軍投入すると思うかな それ以外の場所にも上陸するに決まってるでしょ 戦場が増えれば数に劣る日本側が不利もし手が回らないポイントがあればそれだけで橋頭保を築ける
>>530 志賀島の隘路に守備兵置いて、各地点で順次迎撃するだけの話だ
そもそも、そんな高度な分散攻撃が出来る様な軍団じゃないだろ、元軍は
普通に兵力分散のツケで各個撃破されるのがオチ
>>528 防塁の高さは2mぐらいでしかない下手したら大船の舳先の方が高いし普通上陸してくる方を撃つだろ
>>531 連携して攻めろなんてのはたしかに無理だが分派するぐらいならできるだろ
それでただでさえ少ない日本側の兵力を拘束できるなら十分それだけ他の箇所の友軍が有利になる
イメージとしてはソ連の縦深攻撃的なものか
>>532 1.そもそも日本の和弓の方が射程長い
2.大型船では進入出来る深度に限界がある
3.元軍は防塁に突っ込む事しか出来ず、武士団は敵を待ち構えれば良いだけ
要するに、大型船の弓が防塁に届く位置に大型船は来れません
それでも突っ込むしかない元軍に防塁から矢の雨をずっとアウトレンジから
降らせるのが武士団です
次に、拘束出来る・・・という話だが・・・
無理だな。元軍にしてみりゃ揚陸戦だぞ
揚陸戦で、揚陸する側が遅滞防御なんて出来るか。どんな魔法だよ
第一、海上戦力は日本も普通に持ってる訳で、分散したら艦隊から各個撃破されるな 艦隊を集中してるから、まだ夜襲を受けつつもどうにかなってた訳でな
>>534 1.そもそも日本の和弓の方が射程長い
2.大型船では進入出来る深度に限界がある
から「大型船の弓が防塁に届く位置に大型船は来れません」は論理の飛躍だろ
揚陸戦で、揚陸する側が遅滞防御なんて出来るか。
元軍側は攻勢をかけ続けるに決まってるだろ
数で劣る日本側は手一杯になりいずれかの防衛線で食い破られる
>>535 せっかく築いた防塁を捨てて正面攻撃とか防御側の有利をふいにするだけ
それだけ陸の守りも薄くなるしな
>>536 じゃあ「実際に防塁に届く位置まで侵入出来た」根拠を示してみろ
そもそもがお前の、何の根拠も無い妄想なんだからな
攻勢をかけ続けるだぁ?攻勢かけた先で順次壊滅して各個撃破されて終わりだよ
辛うじて奇跡的にどこかが上陸出来たとして、内線戦略で集結した武士団に
袋叩きにされて終わりだ
とにかく何でも良いから上陸すれば勝てるとか思い込んでるんじゃねーだろうな?
それと、敵を分散させただけで充分に有利を築けてる訳だが
5倍の戦力が必要とされる揚陸戦で、8万の完全武装の武士団相手に、元軍の 雑兵共が2倍以下の戦力で広正面作戦を取って「どこか突破出来るだろう」 って、笑っちゃうね しかも、日本の水軍は無視
>>537 いや一般に認められてる歴史の教科書と違う事を言ってる妄想野郎はお前なんだが
実際に元軍は博多に上陸しようとしてしそう学校で習わなかったのか?
有明海じゃあるまいし博多湾はそんな遠浅じゃないそんな浅かったらまともに港として使えんわ
内線戦略w地理的には元軍側が内で日本側が外だけどな
それと各個撃破するのか防塁の上に長大な防衛線を張るのかどっちかはっきりしろよ
>>538 5倍の戦力が必要っていつの時代の話だよ
だいたい当時博多にいた日本軍は4万だ
そもそも海岸線から防塁までの距離はどんだけなん? それが元軍の弓の有効射程距離外なら船からの援護射撃も大して役にたたなくね?
そんな状況で当初単独で博多攻めようとした東路軍はバカなの?
>>539 現実問題として博多湾って14万の大軍が一度に上陸するのには狭すぎるよね。
元軍も最初からそんなつもりなかったろ。
ほぼ同じ規模の文永の役の秀吉軍だって9番隊まで分かれて順番に上陸してるんだし。
元軍は2ヶ月間必死で上陸しようとしてたけど、鎌倉武士に負け続けてたせいで達成できないまま
後続部隊がどんどん到着して海上で渋滞起こしてた状態。
結局、弱いから負けたんだよ。
節子、それ言うなら文永やなくて文禄や
当時は海岸べりに乱杭打って、逆茂木配置して更に石累の前には土塁もあったんでしょ? そう簡単に上陸できるかな?
>>539 お前の想定する元軍は「博多湾」じゃなくて「博多の沿岸」に広正面で上陸しようとしてんだろうが
沿岸全てが港だと思ってんのか?
それと、兵力は6万〜8万だ。4万という数字はどこから出てきたんだ
無線指揮も出来ず、艦船からの火力投射も不十分な時代じゃ、むしろ後の時代よりさらに揚陸作戦は
困難な訳だが・・・5倍あって初めて可能なレベルだろう
日本側が内線な訳無いだろう。どっちが攻め手だと思ってるんだ?
オマケに、お前は広正面で攻めようとしてるんだろう。どうやったら元軍が内線になる?
武士団としちゃ、各防衛線で分散した敵を個々に撃破して、辛うじて上陸に成功した敵を
集結して撃破すりゃ済むだけの話だし、その前には水軍を出して分散した艦隊を撃破すりゃ
良い訳だ。陸戦力とは概ね別に海戦力がいる訳だからな
どうも、元軍と武士団が質で互角とか思ってないかな?
質で武士団は元軍を圧倒してる訳なんだが
質で同等なら、普通にやって上陸出来るはずだろう?
九州で実際に戦ったのは四万じゃなかった?
>>547 「実際に戦ったのは」というのは総兵力の話ではないからなぁ
総兵力だと確認が取れるだけで12万だが、実際、後方にはまだいただろうしな
江南軍が合流した後、まず再編に1カ月かかって、更に鷹島沖海戦で、元軍は 鷹島で守りに入ってるんだよねぇ で、台風の後、その10余万の鷹島に篭る元軍は武士団に壊滅させられてると どう考えても、台風で損害が出た訳ではなく、武士団に直接10余万の軍団を 一方的に撃滅させられてるんだよなぁ
掃討戦は指揮官だけ逃げ帰った後でしょ
掃討戦の時も元軍に指揮官はいたよ。臨時らしいが 臨時とはいえ指揮官がいる軍団が、士気の衰えを入れても、退路の無い状況で 4万の敵に島での防衛戦をして「掃討される」というのは中々のもんだと思うぞ よほど武士が強かったか、武士団の実数がもっと多かったかという可能性が 高いと思うんだがな
弘安四年日記抄だと7月12日に一旦撃退された元軍が7月21日再び襲来って記事があるんだよね 東路軍と江南軍が合流した後、再度博多上陸しようとして半月くらい武士に戦闘で阻止されていたことになる
張られてたか 新たな発見があるといいね
>>486 >>488 できることできないこと有利不利を正確に判断して戦闘し目的を達成するのは実力だと思うんだが
俺が実力というものについて誤解しているのだろうか
>>552 実際に戦闘してた両者の間では記録がないからどうなんだろうか?
>>553 相変わらず威力偵察だの棄民だの言ってるばかやろうがいるなあ
6月15日、東路軍、江南軍の合流予定日 6月24日、対馬に江南軍到着の報(勘仲記) 6月27日、交戦の報(弘安四年日記抄) 6月29日、交戦記録(比志島時範軍忠状案)(島津長久證状)(元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘) 7月2日、交戦記録(肥前守護北条時定書状)(元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘) 7月12日、元軍退散の風聞(弘安四年日記抄) 7月21日、元軍再度襲来の報(弘安四年日記抄) 7月27日、交戦記録(元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘) 壱岐での戦闘の時点で江南軍も到着してるよね。 この東路軍と江南軍の合同部隊が壱岐から撤退したため、日本側は一旦勝利と認識してる。 その後、鷹島に再度元軍が来たため日本軍もこれを叩いたって感じ。
995 :名無し三等兵:2012/06/19(火) 17:04:00.64 ID:??? 東路軍の上陸を防いだだけで江南軍と戦う前に運良く台風が来ただけ。 江南軍と東路軍が合流して軍を再編成している(しかも疫病を癒してる)間 武士達は1ヶ月も手も足も出せていない体たらく。 これではもし台風が来なかったり、或いは江南軍の指揮官が 直前に死ぬトラブルがなく、合流が当初の予定通りいってたら 間違いなく武士団は踏み潰されていただろう。 これでは実力で打ち破ったとは到底言えないな。 やはり天候と敵のトラブルに救われたと言うべき。 ↑別スレの書き込みなんだが 守備側の日本軍としては防塁で守りを固めてればいいわけで 手も足も出せない体たらくとかいう表現は的外れだろ 蔚山城の戦いで加藤清正が打って出なかったのを 手も足も出せない体たらくとかケチつけるようなもん しかも日本軍は鷹島に押し寄せた元軍に夜襲仕掛けて江南軍とも戦ってるし 元軍の方も合流はとっくに終わってるのに九州上陸を躊躇って鷹島に留まってるわけだが (七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合。欲先攻太宰府、遲疑不發・・・「元史」巻一百二十八) あと日本軍が元軍を水際で撃退できたという指摘への返答なのに 文永の役についてはガン無視w
よく見かける松浦党と島津長久が7月7日に、一度鷹島にきた元軍を撃退って記述は 多分、台風後の「閏」7月7日の日付になってる掃討戦と勘違いしてると思う。
まあ、待ってればわざわざ向こうから自軍の防塁に突っ込んで来てくれるであろう 敵を、こっちから攻めに行く理由は乏しいわな これが、敵の動きを把握し辛く、敵の攻勢が何処に来るか分からないというなら兎も角 目の前でチンタラやってる敵の動向なんて丸分かりな訳で 防御側の利点を最大限活かせる状況だからねぇ 兵站でも有利なのは日本な訳だし こっちから突撃してやる理由は、あんまり無いな
弘安の役で盛り上がってるところ横レスすまん。 基本的なことなのかもしれんが、元の軍隊って軍鼓で大まかな命令だすことが前提で、陣形組んだ歩兵と短弓装備した散兵で構成されてたんだよな?
てつはうってどう使ってたんだろ? 手で直接投げる? スリングのようなものを使った? 焙烙火矢みたいにハンマー投げ? それともカタパルトやトレバショットなんかを使った?
>>546 博多は博多湾の一番奥の中州にあるだが
そもそも当時の木造船の喫水がそんな深いわけないだろ実際台風で大損害受けてんだし
4万の根拠は元寇本土防衛戦史逆に6万〜8万の根拠はなんだよ
陸からの火力投射も弱くとくに船ごと沈めるような武器がない中世はその分簡単に陸に近づけるんだから上陸側に有利だろ
防塁を頼って水際防御を取る場合日本側は広範囲に分散し遊兵が多くなりますます元側に対し数的に不利になる
博多湾はCの字型の湾であり海路に対し陸路で移動した場合移動距離がかなり長くなるうえ上陸地点の先読みが難しい
>>558 事実をありのまま見れば、手も足も出せないで壊滅したのは元軍の方なのに、こういう連中の
思考フィルターを通すと何故か日本側が「手も足も出せな」かったという話になるんだな。
>>563 陸側の防禦陣地を抜けるような兵器もない
盾でもあればほとんどのものは防げるし
というかこの時代、海岸線に防衛部隊が居並ぶ中で強襲上陸ってシチュエーション自体が珍しいような気がするんだが
上陸した後に防衛部隊と決戦ってのはあるけどね〜
そこで東洋のトレバショットこと回回砲ですよ! 日本遠征でももってきゃ良かったのに。 まあ、あれで石塁や土塁崩せるかと言えば微妙なとこだが 射程距離的にある程度武士団に被害与えられるんじゃない? 問題はそんなデカいもんどうやって船に積むかだが。
>>565 >陸側の防禦陣地を抜けるような兵器もない
防塁の高さは2m程度と歩兵が取り付けないような高さじゃない元軍は弓と長物が主な装備だしな
>盾でもあればほとんどのものは防げる
それは元軍も同じ
>>567 船からの支援があるから上陸側有利という話に対する反論だったんだが
その状況だと、もはや船とか関係なくね?
蒙古襲来絵詞の元軍は大量の盾を船に備えているけど陸揚げはしたのかな
>>568 それは別に上陸前の船に乗ってる兵も遊んでるわけじゃないってこと
飛んでくる矢が多ければそれだけ日本側もうかつに盾から頭を出せないしな
>>563 台風直撃したら固定されてないなら、普通の竜骨入った船でも沈むぞ
まして朝鮮・宋による突貫工事だったので、船の脆さはその分を差し引く必要がある
で、最近になって発見された元寇船は竜骨の入ったかなりの大型船だぞ
「喫水がそんなに深い訳が無い」というのは、全く根拠が無い訳だ
まして、大型船は停泊場所に関しては、水深と岸までの距離にただでさえ余裕を持って
いなくてはならない
整備された港湾以外、射程外で待機せざるを得なかったと考えるのが妥当だな
しかも、まず第一に、広正面への同時攻勢を成立させるために必要な、博多湾に
続々と艦隊を入れるというのが有り得ない
外洋への出入り口が狭く、全艦隊を入れようとすれば大渋滞になるのがオチだ
そして、大渋滞の先頭を武士団に襲撃され、各個撃破されてしまうだろう
現実的に考えろ。4400隻も遅滞無く入れる場所に見えるか?
どう考えても広正面への同時攻勢など成立しようがなく、逐次投入にしかならん訳だ
しかも、お前の頭からは抜けてるようだが、日本にはちゃんと海上戦力がある訳でな
博多湾に入ったら、包囲されに行くようなものだ
要するに、広正面への大攻勢など成立しないし、単に包囲・拘束されに行くだけに終わる
公算が非常に高い
少なくとも、全長20mを越す大型船がそうそう入れるような湾ではなかった 何しろ、水深は一番深い所でも20m、浅ければ5mという場所だ これに岩礁が加わる訳で、少なくとも大規模な進入などとても不可能だわ
ちょっ全長20mを越す大型船って全長20mじゃそころらの漁港の漁船より小さいじゃねえか 日本軍の使っていた大発の長さが14.8mだぞ
その「普通の漁船」の喫水が既に2mとかな訳だが……
>>574 現代のLSTの喫水が3とか4mぐらいだぞこれで岸に近づけなかったら使い物にならないだろ
575の漁船見たら喫水どころか全深ですら2mいってないし
揚陸艦は現代の技術で喫水が浅くなるように作ってあるんだが・・・ あれはそのまま上陸するための船だからな しかし、元の大型船というのはそうではなく、揚陸は小型船に乗り換えてやる そして、20mもあれは普通に2mは行く訳よ。それも、人員や資材を満載してれば 博多湾の平均水深は3〜5mだそうだしな 第一、「普通の漁船かそれよりやや大きい程度」の船が防塁のアドバンテージを 無効にするほど高い訳が無いだろう
武士は防塁の前で戦ってるけどね。
いやそもそも防塁では戦闘は起こって無いが・・・
揚陸艦並みの喫水なんだから岸に近づくことすらできないなんてことはありえないだろ 当時の船は舳先がせり上がり高くなっていて当時の絵じゃ人の背丈を超える高さに書かれている
沿岸に舳先を向けるような姿勢ではどの道、弓矢の投射に用いられる面積は 非常に小さく、何の牽制にさえならない それに、水深というのは岸に近付くほど浅くなる物で、岩礁もある 大型船ともなれば、方向転換などのために余裕を持った位置取りも必要となる どう考えても、博多湾の岸から200mは離れていないと船として運用出来んわ
だから当時の言うところの大型船は今の小型船なんだってば 元軍が船同士をつなぎ合わせられるほど寄せて使っていた事を思い出せ 絵からすると舳先の台状になっているところだけから撃つなら同時に乗れるのは3人ぐらいってとこかね これが何百隻もあるんだからそうとうな投射量だろ
精々1000隻の大型船、それも、全部が侵入する事は不可能な湾でなら甘く見積もっても 同時に200〜300隻を進入させるのが限界という所だな すると、お前の主張を全部容れても600人〜900人の投射兵力か いやあ、凄まじい投射量ですなぁ(笑) それに、方向転換の必要性というのは「寄せて使っていた」などという運用とは 全く別問題の話になる。寄せようが散ろうが、方向転換にはそれなりのスペース を必要とするのでな 20m超の船は今でも中型以上に該当する。小型などとんでも無い事だ 小船を展開して揚陸するための後方縦深の確保も必要になるのだし、岸まで200m 以下まで接近するなどとても出来んよ
>20m超の船は今でも中型以上に該当する。小型などとんでも無い事だ 小型船舶ってのは20トン未満の船を言うんだが 575の漁船を見るとDT-57-0A全長17.34m総トン数4.3t DT-66C-0A全長17.21m総トン数6.6t まあ重量はサイズより積んでるエンジンとかの影響のが重量のが大きいけど
サイズより積んでるエンジンとかの重量の影響が大きい
つーか石塁以外にも色々仕掛けてあったわけじゃん? そう簡単に上陸出来るん?
>>586 出来ないから2ヶ月間も海上さまよってたんだろ
>>583 精々1000隻の大型船、それも、全部が侵入する事は不可能な湾でなら甘く見積もっても
同時に200〜300隻を進入させるのが限界という所だな
実際大船300隻を擁する東路軍が二度もすんなり博多湾に侵入してるんだがボケてんのか?
小船が3000隻もあるとすると今度は上陸部隊の数が跳ね上がるな
色々仕掛けてあった…何を
二度もすんなり侵入してあっさり撃退されました。 上陸すら出来ませんでした。
文永の役では普通に上陸してるし弘安の役では志賀島に上陸しただろ
文永の役の時には防塁は無かったし、武士達が駆けつけたのは上陸した後だし 弘安の時は結局志賀島から本土に上陸出来なかったですしお寿司。
文永弘安を通して共通する元軍の行動パターンは日本軍の居ない所居ない所を衝いて上陸する。 で、上陸が日本軍に気づかれて襲撃されるとあっさり放棄して撤退する、だよね。 鳥飼浜、史賀島、壱岐、平戸、鷹島、全部このパターン。 日本軍が防塁築いて戦力集中させてる博多湾に正面から突入とか一番可能性低い選択肢なんだよな。
>>593 弘安の最初に防塁突破試みてあっさり撃退されてない?
こりゃダメだとあきらめて二度と試みることはなかったけど
二度も進入というが、様子見して帰っただけだし、別に全部が進入した訳でもないだろ つか、本格攻勢かける気も無いのに全艦隊で進入したらアホ丸出しだぞ
現実問題として、小船だろうが3000隻も入れません 小船でも1000隻が良い所だろうな。兵力にしてせいぜい8万以下という所か ぶっちゃけ博多湾に拘ってる時点で、逐次投入しか出来ず各個撃破されるだけだろ
>>595 またまた様子見とか適当な言い訳を・・・
あきらかに2回とも本格攻勢かけて撃退されてるのに
>>597 いや、二回目は石塁を偵察した後、諦めて逃げ帰っただろう
その時は、別に全艦隊で進入した訳じゃないだろうよ
現実問題として、全艦隊ではとても通れんのだし
二回目ってのは弘安の役の時の事だな だから、実際には弘安の役では石塁での戦闘は起こっていない 元軍がビビって逃げ帰ったんでな
>>598 二回目はわざわざ大都に使者送って志賀島を占領作戦であることを報告した上で実行してる
偵察なんかじゃなく明確に橋頭保にする意思を持って上陸したんだよ
博多湾どんだけ狭い事にされてんだよ博多港の入港船舶数は1日平均1000隻 漁船並みの大きさでしかない元船なら余裕で4000隻入るわ
間違えた1000隻は博多の数字じゃなくて関門港の数字だ
日本側の船はゼロなわけ?
日本側の数は不明 だがわざわざ防塁築いたのに自分から敵陣に飛び込むバカはいない
606 :
名無し三等兵 :2012/06/21(木) 21:18:43.79 ID:???
エンジン付きの現代船と、風と櫂櫓で動く当時の船とでは、 進退能力・小回りが全然違うだろJK
安芸一国だけで100艘が鎌倉幕府に押収されてるんだから日本側にだって1000艘近い兵船があったろ だから志賀島や壱岐も攻撃できたし、台風の後短期間で元兵10万人を掃討できたわけで
実際に何万トンもあるタンカーやらコンテナ船やらがいきかってるのに たかだか数十トンクラスの小船が湾に入るのにそんな往生するわけないだろ
そういえば文永の役の時点で日本側の戦力には兵船300艘があったんだよな 10月20日に日本艦隊が出航したら海上を元の艦艇200艘が漂流してたっていうから陸上の戦闘の後の話か
博多湾の石塁の裏側(陸側)は馬でも登れるように緩やかな傾斜にしてあった。 仮に元軍が石塁を占拠しても、日本軍は騎兵の逆襲部隊を突撃させてくるだろう。
文永・弘安の役では異国調伏の祈祷のほか、幕府の軍事動員に関して綸旨、院宣の類は出ていないんだな。 本所領からの動員に関しても、法形式的には私人間の合意または独断でやっているわけか。
元寇に関して鎌倉幕府の方針は、朝廷には一切関与させないで一貫してる 軍事面だけじゃなく外交面でもね
>>611 そもそも石塁までたどり着けないだろ。
どう考えても、東洋版クレシーの戦いになる図式しか見えない。
どんだけ防塁海から離れてるんだよ
小舟で斬り込みかけて悠々と引き揚げてるくらいだから武士からしたら元軍って大したことなかったんだろうな
元寇の元軍は日本の海の玄関である博多に何のダメージも与えられなかったのに、 倭寇は元の海洋貿易の中心都市である慶元を焼失させえるからな。 ホームとアウェーで結果だしてるわけで日本の方が圧倒的に強かったのは疑いようがない。
>>616 や
>>618 のような言いぶりは極端にしても
当時の武士団て少数精鋭のゲリラ戦というかコマンド作戦に特別長けていたんじゃないかとは思うね
文永の役で九州に上陸した元軍を1日で撃退したり、弘安の役で志賀島に上陸した東路軍に陸海からの 総攻撃で撤退に追い込んだりってゲリラ戦の戦い方じゃないじゃん 普通に正面から戦闘挑んで撃破してるんだから
いや、コマンド作戦云々は小舟での夜襲とか前期倭寇の暴れようを指しての言葉だから
元寇で勝っちゃったんで、自信を付けた倭人が逆に大陸沿岸に押し寄せるようになったわけ? 倭人えげつないな。
>>623 北部沿岸と半島は文永時の壱岐・対馬での報復で文句は言わせない
それに関与してない地域だけが言えること
日本の兵船は盾ないんだな
1292年、日本の商船が武装していることが判明し、都元師府を設置して海防を固める 1303年、日本に対する備えとして慶元に東海道元師府を設置 1304年、日本船の警備として千戸所を定海に設けて海防を強化 1305年頃、日本が服属しないことを理由に税率を上げ、商客・僧侶の入城を禁止 1309年、厳戒態勢の中、元の海洋貿易の拠点都市である慶元城府が日本からの攻撃で焼失 「慶元と日本は相接し、且つ倭商のために焚き毀される」元史 巻九十九 兵志、鎮戌 「(日本人は)現地の官の侵漁に憤りに堪えず、持ってきた硫黄を用いて城中を燃やす」慶元府玄妙観碑銘 「倭人の貨宝を利とし兵を持ってこれを脅したため、かえって殺略焼焚の禍を受けた」燕公神道碑
目と鼻の先みたいに語られるが、博多湾から太宰府まで20kmも離れてるぞ。 当時の感覚で言えば5時間もかかる距離にある場所に 戦闘後に後退したんだから、やはり文永の役は「武士が敗走した」と見るのが妥当だろ。
>>628 武士が大宰府に後退したってのは嘘だよ。
文永の役の戦闘は赤坂より西の鳥飼浜付近でしか発生せず、結果も武士の圧勝に終わってる。
20日に日本軍300艘が出航したら沖合で元船200艘が漂流してたって記録が残ってるから
戦闘後は直ちに敗退した元軍への追撃開始したんだろ。
「二十日 大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々」歴代皇記
20日は赤坂の戦いのあった日だろ
朝を待てずに夜に船団を動かす危険を覚悟の上で逃げ帰ってる時点で 文永も撃退されたとしか考えられない
そもそも日本側が太宰府へ敗走したっていうソースは何? いや、そりゃ勝敗に関わらず日暮れ後に戻る場所といえば太宰府か水城くらいしか無いけど。
てか太宰府までの距離が20kmというのは、博多からの距離であって 「博多湾」からの距離は10km程度じゃなかったか?水城ならもっと近いし。
八幡愚童訓書いた奴はマジでいらんことしてくれたよな
武士共が自分達の黒歴史を口裏合わせして握り潰したのを、 八幡愚童訓の執筆者が、命の危険に晒されながらも 真実を書き残してくれたんだろう
日本はやっぱり神の国だったんだな
オカルト本の写本が史実とか「ソースは月刊ムーに書いてあった」レベルだろ
派手な決戦をしないと「手も足も出せない」と評価されちゃうんだよ ハンニバルを苦しめたファビウス フリードリヒ大王を苦しめたダウン ロバート・E・リーを苦しめたマクレラン みんな歴史に名を残す英雄と互角に闘ったのに消極的だの臆病者だの非難された
その割には派手な決戦で何回も勝った日露戦争は なんのかんのケチ付けて「本当は勝ってない」とか言う奴いるよな
日本は弱くないといけないから仕方ない
そもそもの国力が低いからな
日本の戦争相手は基本は中国制覇したとこで、他はロシアとアメリカだから比較すると国力低いべ
隣の中国が異常な国力ってだけであって、日本ってそこまで国力低くないだろ?
日本と中国の国力の差が一目瞭然ですね
元が実際に送り込んだ戦力では勝てなかった。 まぁ、国力があっても日本だけと戦争していたわけじゃないし。
文永の役で九州の戦闘の後、日本軍が追撃した史料なら他にもあるぜ 〔菊池系圖〕別本 有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、
20日に対馬で蒙古の将を討ち取ったってそりゃ時系列的にありえないだろ
文永の役は結局よくわからん
少なくとも八幡愚童訓はデタラメなのは確か
647ではないが、20日とは筑前の鎌形というところで元軍を討伐した日付のことを言っているのであって、対馬に追撃したのは20日のことを言っているとは限らないと思う。
>>602 東京駅の1日平均の利用者数は約39万人なんだが、東京駅に39万人の人間が
一度に入れると思うか?
>>652 一日に39万人送り込む事は可能
その39万人がそのまま東京駅に留まる事は不可能だがそれがどうかしたのか?
なんで全軍上陸完了するまで港に留まる前提なんだ
湾内に居座り続ける必要があるのは上陸支援の弓部隊乗せた船だけで 揚陸担当は入れ替わり立ち替わりでいいわな
ちょっと待て
>>588 とかで「同時に」とか言ってたのは言葉のアヤだと思ってたが本当の意味で「同時」と言ってたのかよ・・・
着上陸なんて戦略級の作戦なら「同時=一日」のスケールで考えてくれ
「同時=一秒」のスケールで捉えるなよ空戦じゃねーんだからさ
656 :
655 :2012/06/24(日) 07:51:22.71 ID:???
現代戦ですら陸戦は一日単位だな 鎌倉時代で「同時=一日」は少しタイトかも試練
つまり入れ代わり立ち代わりとはいえ、数百隻程度のショボイ数しかいなかったと
敵が防衛体制万全に整えてる博多湾に正面から突入とか下策中の下策だろ ましてや元軍は2ヶ月も貴重な時間を浪費してるんだし はっきり言って自殺行為 初戦で志賀島に橋頭保築けなかったのが全てで、その後は博多湾から上陸するチャンスなんて無かった
>>651 どの道、元軍が戦闘後に軍議を行ったのは船の中ではないから
(船の中ならわざわざ「負傷した劉は先に船に返った」なんて表現は出てこない)
矛盾してるな。
>>660 矛盾点なんてどこにも無いぞ
菊池が筑前で元軍撃破して対馬まで追撃したってのと、元軍内の軍議云々は無関係じゃん
文永の役の後、元軍は対馬にも残れなかったんだから、追撃はあったと考える方が自然
>>661 >>660 は軍議した時点では元軍はまだ九州本土にいたはずだから
少弐達が元軍を九州から追いちらして対馬まで追撃かけたのはおかしいって言いたいんじゃね?
>>659 日本側は20kmの防塁に薄く広く張りつくことになるんだから上陸地点にいる日本軍はそう多くないだろ
>
>>661 でも、菊池が鎌形で元軍を破ったとしても、『高麗史』に
「日が暮れたので戦闘を解した」とあることからわかるとおり
元軍が壊走したわけではなかったということだろう。
鎌形で負けて進軍を阻止された元軍は、その夕暮れから夜にかけて軍議を
開いて撤退した。その元軍の動きを察知した鎌倉武士団が対馬まで追撃した
となると矛盾点は無いと思う。
665 :
664 :2012/06/24(日) 18:05:40.03 ID:???
>>663 仮に日本軍の戦力が4万人でも20kmの防塁だと1m毎に2人配備できるわけで全然薄くないぞ。
しかも弓騎兵主体の日本軍は状況に応じて素早く戦力の移動集中が可能。
弘安の役は南宋人の口減らし目的だから軍も士気が低かった論をよく見かけたが 最近は逆に「台風来てなかったらやっぱヤバかった」論がまた流行りはじめたの?
>>666 全戦力貼り付けるとかwそんな事したら動かせる戦力がなくなるだろ
てか敵正面に対して厚みゼロの布陣のどこが薄くないんだよ
>>668 厚みという面では元軍の方が厳しい。
舟幅2m、オールの長さ3mとした場合、それだけて8mだろ。
つまり10m毎に1隻の揚陸艦を上陸させるのは厳しいってこと。
仮に揚陸艦に乗船できる兵数が20人とした場合、全ての地点で日本側が数的有利になる。
その上更に日本側は防塁に拠ってるんだぜ。
670 :
名無し三等兵 :2012/06/25(月) 00:03:01.54 ID:vjJFz/Km
また日本史板に立ったのか。 棄民くんや威力偵察くんや大敗北くんやコンクールパフォーマンスくんに粘着されなきゃいいが。
コンクールパフォーマンス?
密度では攻め込み側が有利なわけだな しかし東路軍は何故頓挫した
>>655 1日単位での同時?
それじゃとても広正面への飽和攻撃にはならん
上陸一回毎の攻勢、一方面が数時間で撃滅されて、逐次投入になるだけじゃないか
アホかお前は。まだ夜襲上陸でも考えた方がマシだな
論理的に考えようか 博多湾の平均船舶入港数が1000隻というのを限界と仮定する とすると、1000を1日24時間で割って、1時間平均約42隻 次に、総兵力140000、これを総船舶数4400隻で割ると、1隻毎に約32人だ これを組み合わせると、1時間平均42×32=1344人が入港出来る これが、1時間に攻勢をかけられる平均人数となる そして、現実には夜間に大規模な進入上陸など出来ないので、日照時にのみ 攻勢をかけられる 1日の平均日照時間は、約5時間だ 5×1344=6720人、これが、1日平均の攻勢人数となる訳だな いやあ圧倒的な兵力だなぁ(笑)
>>674 そりゃ戦力同数なんだからしょうがないだろ
あれは志賀島を守る元軍を日本側が攻めた形だし
>>674 すぐ上のレスで現実を知るんだ
これを仮に、色々と元軍に都合良くして、8倍にしたとしても1日平均は53760人だ
とてもじゃないが、飽和攻撃など不可能です
>>676 今まで完全に同時に博多湾に入れるのは1000隻と言ってたのに
今度は1日に博多湾に入れるのは1000隻なのか?
まさか博多湾に同時に42隻の船しか浮かべられないなんてトンデモ言ってるわけじゃなくて
湾内への侵入にかかる時間的制約で1000隻と言ってるんだよな
だとすれば文永の役のように前日に入港すれば1000隻以上32000人以上が投入できるわけだ
なんだかよく分からないが8倍にしていいなら全軍が上陸できるな
>>679 1日平均を持ち出したのはお前の方だろうにwまあ良いけど
1000隻が5時間の間に4度出入りが出来れば、なるほど全軍を投入出来るだろうな
現実には不可能だがな。2度すら出来んよ
つまり、その場合は1日の限界が32000人という訳だ
ああ、やはり飽和攻撃には足らんなぁ
>>679 結局の所、お前の計画では1度に同時に4400隻を湾内に並べて同時に攻勢を
かける事が出来ない限り、実現不可能だという事だ
そして、その前提がそもそも実現不可能だと言っている
4400隻も進入出来る港湾ではない
ああ、一応「8倍」に関して言っておくと「幾ら何でも同時に42隻というのは現実的に 少な過ぎるだろう」という想定を含めての、甘めの拡張分だからな? 1000隻を同時進入の限界と仮定した場合、それに8倍は適用されません。当たり前ですね
>>680 いやそれ言ったの俺じゃないけどね
元々空間的な制約の話だったのが今度は時間的な制約でやっぱり1000隻に制約しようとか
ずっこいこと言ってるから突っ込んだだけで
まあ本人不在で話すのもなんだし続きは明日で
結局日本軍がいない場所じゃないと 上陸出来ない
どの道博多湾から強行突破計ったら、東洋版クレシーの戦いになるのがオチだな。
>>676 なんで誰も突っ込まないんだ・・・
>1日の平均日照時間は、約5時間だ
なんだこれw凄いバカwwwお前どこ住んでるんだよwwwwwww
あと、博多港は現代でも夜間入港禁止だから。 1000隻を24で割って5を掛けたお前の計算に全く意味はない。 そもそも1000隻はバカでかいタンカー含めた数だから。 平均トン数なら150000トン。 元の船を大きめに20トンと仮定しても7500隻だな 7500×32で24万か。 凄いな。
>>686 いや、一日の平均日照時間は五時間でいいんだよ
ただし、ここでの「日照」の定義は分かりやすく言うと「物の影ができるくらいの明るさ」
つまりちょっと曇ってるくらいで「日照」の時間とはカウントされない
もちろん、ちょっと曇ってるくらいで上陸を諦める軍隊など存在しない
「一日平均1000隻」の件もそうだけど、どうも
>>676 はその意味を理解しないで
都合のいい事柄を安易に採用するのが論理的だと考えているらしい
>>688 ああなるほどね
しかし
>>676 はアホすぎるだろ
太陽の出てる時間の平均なら、いちいち調べなくても分かる。12時間だ。
それをわざわざ「平均日照時間」なんて相応しくないデータを引っ張り出して
それが5時間となっていても何の疑問もなく採用とか・・・
お前の頭蓋骨の内側には何が入ってるの?
690 :
名無し三等兵 :2012/06/25(月) 11:26:04.99 ID:HipBGhLG
元軍は太陽光発電で動くと思ってたんだろうな
盛り上がってるところ悪いが
>>602 はケタを一つ間違えてると思う
wikiで調べたら博多港の入港船舶は年間3万隻ちょっとだったぞ
一日平均なら100くらいだな
だからって「100隻×32人で3200人が限界」とか言うなよ?
>>687 の言うとおり、1万トンの貨物船やら20万トンのタンカーが往来してその数字だからな?
そんなに上陸が楽勝なら江南軍単独でも仕掛けりゃ良かったのに。 十万の兵が一度に上陸できるんなら武士達の守りを突破するくらい楽勝でしょ?
別に個々のとした数字の誤りを指摘しても、結局4400隻と14万人が一斉に入港 出来ないのは変わらんしな トン数での計算も、まあ皮肉で言ってるんだろうから言ってる本人も本気には していないだろうが、一応言っておけば無意味な計算だしな 大和型戦艦のトン数は64000tだが、全長は263mに過ぎず、元寇船の10倍しかない 海上を占有する面積は同じトン数では元寇船が圧倒的に上回る訳だからな
元船が博多湾にこだわったのが不思議だ 有明海から筑後川少し遡れば、太宰府の守りなんて簡単に破れるのに。
当時の博多湾の水深は深くて20m、浅い所だと3〜5mだぞ どれだけ甘く見積もっても、川を遡ろうとすれば小船しか入れない それに、川沿いに待ち伏せされたら、縦列で固定されたまま側面二方向から 猛撃を受けるじゃないか
防塁20キロに貼り付けるため日本軍はスカスカらしいぞ
スカスカならそれこそ東路軍の人数でも一極集中させれば容易に突破出来たんじゃねえの?
遮蔽物の無い海上だからどこ狙ってるか丸見えでわらわら集まってくるわな
>>699 双眼鏡でもあればな
実際文永の役じゃ前日に湾内に侵入されているのが分かっていながら
すんなり上陸されて博多西部の赤坂に陣取れて赤坂で戦うのは不利だから
博多の北の浜で戦おうかなんて話になってただろ
こいつ頭悪すぎだろ
どこに上陸するか丸見えで分かってたんだとしたら みすみす赤坂に陣取られて赤坂はこちらに地形が不利だとか言ってる武士は頭がそうとう悪かったんだな
防塁が無かった文永の頃を引き合いに出されてもなあ。
赤坂に陣取られる前に迎撃しろって話だろ
文永の役は地元の武士団かき集めて時間稼ぎするような状況だったわけで
万全の迎撃体制を敷いていた弘安の役とは比較にならんわな
>>702 はここに書き込んだりせずにウィキペディアでも見ていた方がいいんじゃないかな
そもそも文永は防塁も何も無かったから端から水際作戦なんて出来るわけ無いしな。 てか防塁での攻防の話が盛り上がってるようだが 百歩譲って仮に防塁を突破されても、まだ水城や大宰府があるわけで そこに立てこもって持久戦に持ち込まれた日にゃ 後から来た宇都宮率いる六波羅軍と挟み撃ちにされてあぼーんじゃねえの?
>>705 博多の町を見捨てて赤坂の約5km北の浜で迎撃しようと言っているのにまだ兵が集まっていないは
いい訳にならないだろそんな危機的な状況なら大宰府まで撤退してるしその方が援軍も受けやすい
一日5時間しか作戦行動できないならそりゃ勝てないわ
補足しとくと大宰府に撤退しなかったのは 弓騎兵の運用に向いた開けた地形なら日本側は勝つ自信があったということ
曇り空は憂鬱で戦争する気になれない そんなナイーブな軍隊が勝てるわけがない
一日5時間労働とは羨ましいな 俺も元寇になりたい
5時間をいつまでも引っ張るのはさすがにつまらん
>>706 水城や大宰府がそれまで持つとは思えないし
元軍がスルーして東進する可能性や、そもそも武士団が
防塁抜かれた時点で壊滅して戦闘不可能になる可能性が高い。
そりゃ自分のバカさ加減を再確認するのは面白くないだろうな
すげえな、突破しただけで防塁の武士団は壊滅するのか 電撃戦だって分断包囲してようやく西方電撃戦で勝ったんだぜ せめて包囲の目算を付けようか
まあ5時間が12時間になっても結果は大して変わらんけどな それで揚陸戦力が劇的に増える訳じゃないし いや、2倍なら充分劇的とも言えるんだけど、それでも飽和攻撃には足りないし
>>707 日本軍が博多の町を見捨てようとしたことなんて一度もないけど
文永の役の時点では、日本側もユーラシア大陸を席巻してるモンゴル軍は強いって認識だったから
慎重になってるだけ
文永の役で圧勝した結果、弘安の役ではより積極的な姿勢になってる
まあ現実として、14万で飽和攻撃すれば勝てたってんなら、10万の江南軍単体でも 飽和攻撃で勝てるはず なのに、江南軍は博多湾に進入する事すら躊躇って、再編の時間を差し引いても台風が 来るまで大規模攻勢をかけていない これが結果であり、結論だろうよ。つまり、14万が最初からいようが無理だったという事
飽和攻撃に足りないから何だよ ノルマンディー上陸作戦の連合側兵力は飽和攻撃には全然足りないけど普通に成功したぞ
>>719 飽和攻撃にならなかったら普通に負けるだろ。実際に連敗してるし
ノルマンディーと違って元軍は武士団より普通に弱いんだぞ
突撃すら止められないレベル
>>713 水城や大宰府は文永の時点で攻められることさえ無かったのですが
これって水城や大宰府は「すぐ落とせる」程度の施設じゃなかったから元軍は今回の所は諦めた或いは
辿り着く前に自軍の数分の一程度の敵に蹴散らされるほど元軍は雑魚だったかのどちらかですよね?
どちらの説をとるにせよ「水城や大宰府は援軍が来る前にすぐ落ちる」というシチュエーションは有り得ません。
ましてや防塁を抜かれる際に戦闘続行不可能なレベルの被害受けるとか
元軍はどんな大量破壊兵器を使用するつもりだったんですか?
まあ、現実問題防塁を抜くことすらまず無理無理かたつむりでしょうが。
14万もいて「飽和攻撃できなかったから・・・」とか何の言い訳にもならんわ 小西行長なんか2万で平壌まで行ったぞ
連合軍は投入した兵器の性能がドイツ軍を上回っていたからこそ、色々と 不手際もあったがノルマンディーに成功したんだけど 兵力以外の元軍の何処が武士団を上回ってるんだ?むしろ下回ってる部分の 方が色々と多いじゃないか 弓矢にしても射程は短いし、武具にしても長巻と胴丸、大鎧に比べて元軍の 鎧は簡素だし、しかもちゃんとした鎧は指揮官ぐらいしか着てないし、武器も 鋳造で脆く、切れ味の鈍い片手剣とか短槍とかだし・・・ てつはうは運用実績としては全然大した事無いし
モンゴル帝国軍は馬から下りたら大したことないとか よく言われるけど、この装備見てると本当にそんな気がしてきたw
日本勢のいない、小倉辺りに上陸すれば良かったのにな
文永の役での蒙漢高麗軍は、騎乗者の絶対数は、最終盤を除いて日本軍よりはるかに多かったのに負けている 騎乗・下馬はさほど関係ないだろう。
当時は長巻じゃなくて薙刀だぜ
蒙古記の研究って小野尚志だけか? 蒙古記に思い切り博多に落人が迷い混んでる記述があるんだが、ここ愚童訓だと博多から避難してたことになってたよな?
元寇に関しては他にまともな検証してる人といえば佐藤鉄太郎氏くらいだな
佐藤鉄太郎氏は元寇で博多が焼失したなどという事実はないと断言してるよね でも他の学者さんたちはズルいから、多分佐藤鉄太郎氏のことはスルーしたまま自分の著書で 博多がどうなったか記述するのを避けるんだろうな 一般人が勘違いしてても、あえて勘違いしたままにして置くという姿勢
なんつーかまぁ……自分の土俵じゃないところはガン無視するってのはなかなか開き直ってんな
と思ったら、俺の学生時代の教官(当時40代)は「戦争なんて歴史学で取り扱う次元のものじゃない(作家にでも書かせてろ)」ってスタンスだったな。
外国じゃ中世軍事史専門の学会だってあんのになんで無視するんだかなぁ
あと、蒙古記に書かれてて愚童訓には書かれてないor別表記って結構あるんだよな。
>>729 なんかは典型だけど、ほかには16から17にかけて松浦党が松浦薫っていう人物に率いられて元と領地で戦ってるのが抜けてたりしているし
戦争を扱わなくて戦闘階級の変遷の経緯とか絶対主義の形成とか理解出来るもんなのか? 普通出来ないよな?
いちおう、既存手法での戦闘階級へのアプローチはやってんのよ。武士職能論っていうやつ。 ただ、その職能論で論じてるのは、軍事学なら多分30年くらい前にあったんだろうねって推測されてたやつを発掘成果で認定してるだけってレベルな上になり手が少ないって状態なんだよ。 中世の研究者だと「戦闘補助員の動員で陣地設営」とか「置き盾陣地の存在」とか「一騎打ち胡散臭くね」くらいの主張してるやつはいる。 まぁ、あれ物証主義第一でやってるから、軍事的な推論とかはまるでできてない。あと、基本的な軍事用語とか知らないから、軍事学論文読めない 三十代くらいのバリバリの若手研究者の中には戦争に理解がある学者もいるみたいだけど……
735 :
名無し三等兵 :2012/06/26(火) 16:42:54.11 ID:S9LoUSXe
>>733 いまだに鎌倉時代の武士団の編成と室町時代の武士団の編成の違いが明確になってないってのが、どういう状況下を示している気がするぞ
あと、「戦国試合は足軽が活躍」とか言っているけど、なんで足軽が活躍しうる土壌ができたのかも明言されてないし
血縁と地縁以外にも違いあるの?>鎌倉時代と室町時代
>>734 逆だね。今の80代の研究者がいた頃は武士の健闘が普通に言われていた。この世代が最もリアルな戦争観を持ってた世代。
ところがその後の朝鮮戦争やベトナム戦争の世代からゲリラ戦的発想になった。
今の20代は軍事史に抵抗がない代わりに、政治音痴で仮説がトンチンカン。先行研究に眼を通さない。武士健闘説を唱える奴も棄民説を見直す奴もいるという具合
>>717 蒙古襲来絵詞によると
日本側の大将少弐景資は博多の街の北息の浜を固め合戦しようとしてたんだから
その手前の博多の街は元軍に明け渡すということだろ
心優しい西国武者にこれだけ惨敗してるんだから親が討たれても屍を乗り越えていくという坂東武者相手だったらどうなったんだ
上陸作戦ではモンゴル得意の機動戦が全く不可能 その上ユーラシア全土を席巻したご自慢の攻城兵器は海を超えては輸送不可能 元軍は渡海作戦では強みを自分から全て捨てないといけなかった
>>738 もしかしなくても、軍事と政治経済の関連性を体系的に教えてなかったのが祟ってるのか……
まぁ、とりあえず思考停止してた頃よりはましなのかもしれないけど、これじゃいつまでたっても軍事学関連の研究は遅れたままだな
>>741 元寇の戦地はそのまま多々良浜の合戦とか機動戦の舞台になっていて全く問題ないが
あと、当時輸送可能なモノで、海を越えて運べないモノなんて存在しないよ
あえて言うなら戦略レベルでの機動は出来なかった様だが それって普通に戦ったら普通に負けるという意味だからな
自分達の有利な場所・時間を選んで戦いを行うための機動力ってのは 古代から現代にいたるまで常に戦争の最重要な要素な訳だが… このアホな島国根性は何なんだろ>>それって普通に戦ったら普通に負けるという意味だからな
ガラパゴス戦略
文永の役でモンゴル軍は自分達の有利な場所・時間を選んで戦ってるよね 麁原に布陣して戦闘準備万全に整えたところで赤坂から偽装退却して日本軍をおびき寄せてる でも、やって来た日本軍がメチャ強くて結局モンゴル軍は圧倒されて逃げ帰っちゃった 普通に戦ったら鎌倉武士に歯が立たないレベルの軍隊なんだよ、モンゴル軍って
>>745 だって別に元軍は日本でも特に不利な地形で戦ったわけじゃないし
武士団も特に有利な地形で戦ったわけじゃないし
むしろ戦術レベルでは武士団が寄せ手で、しかも元軍への攻撃を行ってる訳で
防御の利点が元軍に働く状況だったし
それでも負けたじゃないの
つかめんどくせぇな 「日本が大陸と地続きで山の殆ど無い大草原だったら元軍が勝てた」とでも 一生言ってろよ。最早、天変地異なんて通り越したトンデモ設定だがな 「アメリカに巨大隕石が降り注いでアメリカが壊滅すれば太平洋戦争で日本が 勝てた」という設定の方がまだ現実味があるレベルだろうが しかもそれで本当に勝てたかは分からんし
弱っちい高麗軍なんかがいたからでしょ。
>>750 高麗や宋の軍団がいなかったら、元軍は総兵力で1万切るだろうよ
しかも、純粋なモンゴル兵だって武士団には分が悪いし
鎌倉武士の練度は世界一ィィィ!
菊池勢が赤坂から元軍を駆け落としたのは、単に偽装退却だったのか…
赤坂の元軍はあっさりと退却し過ぎだから 菊池もわかってるからあえて深追いしなかったんだろ 菊池が「日本軍で一番活躍した」と評価されてるのは、九州の戦闘の後の対馬での追撃戦の戦果だろうな
赤坂の戦闘が偽装退却というのは初耳だな。 まあ、確かにたった100騎で追い散らしたのは些か出来すぎた話とは思ったが。 菊池もそれを感じ取ったから引き返して竹崎達に合流したんかね?
偽装撤退からの包囲殲滅を狙った元軍とそれを見破って追わなかった日本軍 っていうとなんかレベル高い駆け引きに見えてきていいなw
まさか島国に騎射可能な部隊がいるなんて!って驚いて退いたとかかもねw 騎射がどれほど強力なのかは誰よりも知ってるはずだし
田舎に来てみたら、なんか凄いイカツイ鎧兜を身にまとった異形の戦士達が騎射して来たでござる、 やっぱ武士の鎧兜って俺ら日本人は見慣れてるからなんとも思わないけど、知らない奴らがみたら相当威圧感あるよなあれ。
同時代の欧州だと、チュートン騎士団の装備が迫力の面では比肩するかな つまり、チュートン騎士団が数万人いるという絵面と同じぐらいの威圧感だったのだろう ポーランド軍も裸足で逃げ出す迫力だな
しかも重装で突撃して来ると思いきや思いっきり矢射かけて来るんだもんな
重装弓騎兵ってどうなんだ? 騎手は鎧で守られるからいいが動きが鈍くなって馬の消耗が増えそうだが
>>761 武士の騎射ってのはモンゴルのそれみたいに射かけて敵が攻めてきたら逃げるんじゃなくて
刀槍騎兵に早がわりなんじゃね?
遠隔も近接戦闘も両用でこなせるのがみそなのよ
といっても馬は消耗するだろうけどな
蒙古襲来絵詞では竹崎が思いっきり乗馬を射られて 前のめりに転倒しそうになってるじゃないの いくら装備がいかつくてもあれじゃね...
あの絵って後から色々書き足されたんじゃなかったっけ?
まあ国内の合戦では馬は貴重品で双方馬を傷つけないよう細心の注意を払いながら戦ってたから 大丈夫だったんだろうけど
wikipediaの「蒙古襲来絵詞」に掲載されてる絵を見てたんだが凄いな。 防塁の上に余裕の表情で、隙間無く胡座かいて待ち構えているじゃないか! あれが波打ち際から数十メートルに待ち構えているんだろ? あれじゃ元軍上陸なんて無理だわ! ... まああれがどういうシチュエーションの時の事なのか知らないけど。
>>763 あれはわざわざ「苦戦してる様子」を書き足された物で、本来は一方的に追い回して
元軍が逃げ惑ってる絵だぞ
そもそも射程と弓に対する防御力で元軍が劣ってるから、馬の損耗とか何の ハンデにもならんぞ 普通に元の騎馬兵が撃ち負けるだけだよ
和弓は射程距離を重視したものではないし 命中精度度外視で射程を重視したモンゴルの合成弓より余裕で射程短いっての ウリナラの技術はセカイイチィィィィってこの某半島みたいなノリは何なんだ
>>769 400メートルの射程がある和弓よりか
つか、和弓も合成弓だからな?
ウリナラの弓はオーパーツレベルだよ 和弓はばかでかくて取り回しが悪い
>>771 オーパーツじゃなくてただの捏造だろ、朝鮮の角弓の方は
結構重要なのがモンゴルより日本の鐙の方が優れてるってこと 騎射の際の安定性が段違いだから騎馬戦ではモンゴル騎兵勝てないでしょ
補足しておけば、弓の「有効射程」というのは「狙って当たる距離」の事だぞ 放物線を描くように弾幕として撃つ場合、最大射程で撃っても威力は下がらん むしろ威力は上がるからな。落下の加速で だから、元軍みたく弾幕で弓を射る場合でも日本の武士団には撃ち負ける訳だ 弓兵の数と質は武士団の方が上だから
>>774 > むしろ威力は上がるからな。落下の加速で
この都市伝説どこから広まったんだろう
イングランド長弓とかでよく見るデマだが
>>776 デマじゃねえよ。力学の常識だろうが
最高高度で一旦運動エネルギーが0になって、そこから位置エネルギーが
運動エネルギーに変わるから放物線を描くんだよ
バカス
空気抵抗って知ってるか?
>>779 当然知っているが、まさか空気抵抗があるから加速されないとでも言いたいのか?
そりゃごく僅かに運動エネルギーが減衰する程度の影響はあるし、必中界には
それなりの影響もあるが、普通に加速はするぞ
頭悪すぎてワラタ 文系だから仕方ないか
じゃあその文系に変わって、自分で公式でも導入して証明したらどうだ? そうしたら信じてやっても良いぞ
終端速度でググるとしあわせになれるよ
文系君にわかりやすく言うと、空気も装甲の一瞬で当然貫通すべき空気の壁が分厚くなるほどエネルギーを奪われる だからなるべく直線軌道で近い的を射た方が対象に与えられるエネルギーは大きくなる 仮に空気がなくても放物軌道で元の高度に戻ってきたときは初速と同じに速度に戻るだけであってプラス材料にはならない
>>785 だから、その「分厚い空気の壁」で奪われるエネルギー量は?
それを導入して公式で示せって
理系なら出来るだろ?
それとも、終端速度なんか出して来るって事は、矢を雨粒か何かと同じ位
軽い物だと思ってるのかな?
>>785 あと、初速が同じってのは「平原で撃った場合」の話であってだな
そもそも射手の場所と敵の場所に高低差があった場合なら・・・理系なら言わなくても分かるな?
どうしたもんかねこれ
>>788 証明してみれば良いじゃないの
終端速度を理由に曲射を無効と言い張る奴は初めて見たわ
空気抵抗は速度の二乗に比例するから高速で移動する物体ほど早くエネルギーを失うから 無効かはともかく威力はかなり落ちるよ
無効かどうかは知らんよ
> むしろ威力は上がるからな。落下の加速で これを否定しただけだわな
>>787 元々の彼我の立ち位置に高低差があるなら
その分の位置エネルギーの恩恵は直射でも受けられますよ
>>792 それのみの否定であれば、別に和弓が曲射によって最大射程で撃った場合には
無効になると主張する訳ではない訳だな?なら良いよ
それと、その話は撃った場所と着地点に高低差のある場合の話を含めてるからな
タイミングわらた
>>793 そうだね。で?
俺は別に「曲射のみが高低差の恩恵を受けられる」とは言ってないが・・・?
終了
そしてどこから広まったかの謎は残る
いや、重要なのは「結局、和弓は300〜400mの射程を持っていて、元軍より射程で上回っていたため 大鎧の防御力も含めて、元軍は武士団に普通に撃ち負ける」という事だぞ 元々はそれへの反論の一環だからな
前は 有効射程 和弓>蒙古弓、殺傷力 和弓>蒙古弓、速射性 蒙古弓>和弓 と思ってたけど、昔は顔のすぐ横で止めて撃っていたという憶測もある。そうなると速射性もある程度確保できる
>>763 あの血は後世の加筆だよ。
竹崎自身の注釈には自分の馬が射られたとは一言も書いてない。
>>765 そうでもないぞ。源平の時点で既に「最近のゆとりは平気で馬を狙いやがる」って愚痴る老武者がいたし。
>>769 余裕でってほどではないだろ。
モンゴル弓とトルコ弓は別物。
和弓って刀に比べると外国の文献に殆ど書かれてないから 刀に比べればそこまで凄かったわけでもないんじゃない?
>>802 逃げる敵を引っ掛けるものらしい、って話を聞いた事がある
奈良の坊さんに
和弓がモンゴル弓と比べて射程が超長いとか威力が超高いとかいうのはデマだぞ 歴史群像の検証なんかでは両者の性能は互角ないし和弓がやや優勢、という結果に落ち着いてる
>>805 そんなデマが広まってることすら初耳だわ。
逆に「モンゴル弓のが圧倒的に上」って言う奴が多くて
いや、実は大して差は無いよって流れになることが多かったのに。
>>802 鎖の意味はわからんけど熊手の目的は落馬狙いなのは明らかだろ。
808 :
名無し三等兵 :2012/06/28(木) 12:16:29.83 ID:gYr0fGpG
弓で思い出したが、昔の絵巻物だと腰を引いて弓を引く絵をよく見るが 腰を引く=背筋も使って引く強弓が多かったってことだろうか?
モンゴル弓の射程は普通に150〜200mだろ 明らかに和弓の方が射程あるじゃないか
>元軍と武士団を比較すると… 弓 武士団>元軍 訓練度 武士団>元軍 刀 武士団>元軍 鎧の防御力 武士団>元軍 地の利 武士団>元軍 船の性能 元軍>武士団 兵力 元軍>武士団 てとこか。そりゃあ、元軍は武士団に勝てんわ。
812 :
名無し三等兵 :2012/06/28(木) 14:26:55.06 ID:mbSHC9TZ
>>810 カルピノの記録ではモンゴルの弓は平均張力が75kgで「有効」射程距離が300m前後。
対する和弓は鎌倉時代より遥かに改良された江戸時代以降のものでさえ
たった30kg程度の張力のものが強弓と呼ばれ、「有効」射程距離は精々50〜100m
特別軽い矢を弓道の達人が最大斜角で飛ばしてやっと400m程度。
ちなみに距離だけならモンゴル弓は800m飛ばした記録が19世紀後半に残ってる。
戦闘記録を見ても日本の矢戦は精々100mくらいの距離で撃ち合ってるものが殆どで
とてもモンゴルの弓とマトモに撃ち合えるとは思えないし
実際、元寇でもモンゴル弓は和弓より威力も飛距離も上だったって記録あるだろ。
和弓の張力が30kgとか言ってる時点でとても信用できん それ弓道で使う弱い弓の話じゃん 実戦用の弓じゃねーよ
『元寇ー本土防衛戦史』では和弓の有効射程が50mで蒙古弓の短弓の有効射程は30m となっており、和弓の方が射程は長いとしてる。 歴史群像の和弓とモンゴル弓との比較でも確か、和弓の方が性能がよかったとあった 気がするが。 それに『八幡ノ蒙古記』でも「射かけらる、蒙古か矢、みしかしといへとも矢のねに 毒をぬりたれは」とあり、蒙古軍の弓の射程は短かったが毒矢でカバーしたと書いてる。
>>812 現代のナーダムで使うモンゴル弓が張力30kg程度なんだが・・・
平均張力が75sなんて普通に考えりゃ誇張表現だってわかるだろうに
それを言うなら日本側だって源為朝の五人張りだの七人張りだのの強弓を引き合いに出せるじゃん
しかも百戦錬磨の鎌倉武士団の弓と平和な江戸時代の弓の「張力」を比較するとかバカすぎるw
>>実際、元寇でもモンゴル弓は和弓より威力も飛距離も上だったって記録あるだろ。
で、その記録って何?まさか群書類従本の「蒙古の矢は二町はかりいる」という記述じゃないよな?
群書類従本は後世の写本で、「二町」は「二時」の誤植だぞ
>>811 そういうレベルの低い煽りはよそでやってくれ
>>812 30kg程度の張力の弓なら一人で弦張れるじゃん
当時の日本の弓って三人張りとか四人張りとかだぞ
モンゴルの弓が75kg程度なら張力は日本の方が上だろ
いや、和弓が30kgの張力ってのは、江戸時代から保管されてた弓が近年に見付かった時の張力だから 普通に劣化した弓の張力の数字だからな?
>>814 矢の短しって飛距離が短いのかそれとも矢そのものが短いのかどっちだろ?
ていうか、全身鎧で身を固めてる相手に毒矢って効果あんのかな?
弓矢そのものの威力上げて鎧ごとぶち抜くか命中精度上げる方が効果があると思うんだが。
どっちにしろ、「二時ばかり」を「二町ばかり」に変えた八幡愚童訓はいらんことしてくれたな。
>>813 弓道部員が使ってる弓の張力は20kg以下なんだけど。
>>818 メアリーローズ号から見つかったロングボウは当時のままの張力で残ってるんだけど。
>
>>819 「矢の長さが短いといえども毒矢を塗っていた」、
じゃあ、意味的におかしいから
「矢の射程が短いといえども毒矢を塗っていた」で合ってる
んじゃないかな。
>>820 その検証だとたしかロングボウが一番飛んだんだっけ?
で、そん次がトルコ弓で。
>>821 メアリーローズ号は沈没船だろう?海底の海水で保存されていた分、状態が良かったとかじゃないの
塩分が強く、日光も乏しい海底なら、腐敗などには強いだろう
まあ実際の所は知らんけどな
そして、現代の弓道部員の弓なんか初めから考慮外だよ
弓道部員の中に、骨格が変化してる奴がいるか?
>>822 矢の長短は弓の威力を表す慣用表現だよ
軍記物なんかに○束○伏の矢、みたいな表現あるでしょ。
矢が長い=弓が長い=威力があるっていう価値観だから。
長いかどうかはともかく、モンゴルの矢は軽かったらしいからな 終端速度での威力の減衰は日本の矢より問題になっただろうね
矢が長ければより多く引けるので威力と飛距離が増す。 あと矢(鏃)が重ければ威力が増す 元軍の左副元帥が負傷してる事からも日本側の方が矢戦で有利だったんじゃね? 船戦や夜襲では刀が活躍するだろうし、常に日本側が有利
常に日本側が有利って・・・ゲームじゃないんだから
ゲームじゃないからこそ、質で劣る元軍に有利な状況が無いんだろ ゲームだったら元軍にも有利な状況とか能力とかを設定するよ
蒙古弓が威力に劣っているのは間違いないね。 日本側が負傷者に比べて戦死者がほとんどいないのでも分かる。 竹崎季長主従や福田兼重らが文永で負傷してるけど 戦死した名のある武士がいない。 この点、八幡愚童訓の毒矢の記述も怪しいけど。 毒矢で戦死したなんて、文書にも蒙古襲来絵詞にも ないし、負傷者で名を連ねてる武士でその後、毒で死んだという 記録もない。
それ言い出したら弘安の役じゃ、少弐の息子はじめ討死した日本の武将がいる一方で元軍の武将は誰も死んでないぜ?
>>828 攻め込んできてる元軍に地の利は無い。これも日本軍有利
海を渡ってきている元軍には物資に限りがある。これも日本軍有利
兵数も弘安の江南軍10万以降の増援は無し。日本側には6万の増援あり。
船戦、夜襲、矢戦共に日本側での敗北無し。
防御に徹して陣を構えた志賀島で抵抗しても元軍は敗北。
地の利、兵站、兵数、海戦、陸戦、戦術、防衛戦で悉く元軍は敗れてますが。
元軍は負けるべくして負けてる。
台風が無くても勝敗は揺るがないし、無ければ3回目の元寇があったくらいでしょ
>>832 > 3回目の元寇
どうかなー日本遠征はフビライ(と忠烈王)の個人的な感情だけで
他の家臣はやる気も必要性も失ってたし
2次軍がそのまま帰還してても適当にごまかす方向だったような
>>832 矢戦でも船戦でも夜襲でも武士が一方的に有利だとか言い出す
>>827 のアホさを指摘したんだが
具体的に何も指摘できてないくせにしたり顔www
>>831 それは壱岐防衛でね。劉復享が射倒されたのは、激戦で大混乱に陥っていたか、
もしくは本人が射程外にいるつもりで射られたかのどちらか。
>元軍の左副元帥が負傷してる事からも日本側の方が矢戦で有利 ←意味不明 >船戦や夜襲では刀が活躍するだろうし、←根拠不明、個人の主観 >常に日本側が有利 ←理論の飛躍 これでおk?
理論の飛躍wwww 具体的な指摘がないと言われて慌てちゃったのね。
刀剣でも槍でも、武士に性能と間合いで武士に劣ってるよな元軍 まあ短刀と短槍では、刀や薙刀の敵では無いのは当たり前だがな せめてファランクスでも組んでればちょっとは違ったかもしれん 弓の射程でも、良くて武士団と互角という有様
>>838 船戦や夜襲で刀を使って常に優位に立てるという根拠にはなってないよね
やっぱり個人の主観じゃん
>船戦や夜襲で刀を使って常に優位に立てる 夜襲も船戦もどっちも乱戦になる 乱戦時には長すぎる槍よりも取り回しやすい刀が有効 刀は他の剣よりも長くて切れ味が鋭い 実際元軍は夜襲があると夜明けまで受け続けてる一方的にやられてる程
少なくとも船戦じゃ刀の性能が物言うんじゃない?倭寇とかさ。
実際に夜襲で負けてる事、武士の刀と元軍の短刀の性能差、それに 夜戦かつ奇襲であるが故に乱戦になる事での、刀剣が主力になりがち な事を勘案すると、武士団が夜戦で明らかに有利だったのは非常に 説得力があると思うがな 証言でも状況証拠でも証明されている むしろ、元軍が劣ってるという根拠が無い、という根拠が無いよ 証明されている事に対しての反論は、根拠を踏まえた証明が、裁判でも必要だぞ いわゆる「悪魔の証明」で言い逃れは出来んぞ
出典元が分からないけど新紀元社の武器と防具 日本編では 丸太弓 有効射程距離:90〜100m 最大射程距離:300m 合成弓 有効射程距離:180〜100m 最大射程距離:350〜400m 弓胎弓 有効射程距離:200〜250m 最大射程距離:400〜450m この合成弓というは恐らく伏竹弓から四方竹弓までのどれか まぁ新紀元社だからあんまり参考にならないと思うけど
元船のが舷が高いんだから乗り込まれるまでは長物を持った元側のが有利だろ あと絵で見る限り元兵の剣は脇差ぐらいのサイズはあるぞ
乗り込まれるまでは姿勢の問題で、どうやったって元軍が有利だよ 長物なら武士は薙刀持ってるし
そこは薙刀なんか持ち出す前に乗り込むべきだろ
後の倭寇に対して 紀効新書では 「長刀は倭寇が中国を犯した時に初めて経験した 彼等は長刀を持って閃光のごとく跳び舞うので、我が兵は気をうばわれてしまう 倭寇は飛び込むのが上手で、一足で一丈あまりも飛ぶ。刀の長さが五尺だから 一丈五尺も一挙に進むことになる。 我が兵の短器では接するのが困難であり長器では敏捷に動けず一刀両断にされてしまうことが多い」 武備志では 「刀はたいした事は無いが前後左右に飛び回り剣で斬ろうと近づこうにも刀の方が長く近づきにくい。 また、槍で突こうにも柄ごと両断されてしまう」 とあるから普通に柄ごと切られまくったんじゃね?
>>831 高麗の将軍康彦と康師子、モンゴル人の忽都哈思が戦死してるぞ。
陸上ならともかく小船の上で敵が突いてきたタイミングで振りかぶって切るのはつらいだろ てかそんなとこでもたついてたら弓で射られるし 鎧着て刀持ってほとんど勢いも付けずに3mも飛ぶなんてのはありえないオリンピック選手でも無理
>>849 そこに出てくる倭寇ってみんな中国人でしょ。
日本人が中心の前期倭寇は度々高麗軍に返り討ちにされてた
日本刀の扱いも中国人の方が上だったのか
ヨーロッパが負けたから鎌倉武士も巻き添えにして負けさせたいのは分かるけど、勝ったんだから仕方ない
前期倭寇は別に返り討ちにはされてないぞ
>>851 実際には元船に乗り移る前に討ち取られた者も多く
昼間での戦いでは勝ち目が無いから夜襲に切り替えた。
>>853 そもそも日本の刀だとは一言も書かれてない件
>>855 1376年、1380年、1383年、1389年に高麗軍に大敗を喫してる。
また、倭寇とは無関係だが三浦の乱では対馬から侵攻した大軍が朝鮮軍に大敗してる。
日本弱いな
隣交徴書「論倭」著:呉 莱(1297〜1340) 「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは「至弱」と雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。 いわんや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当たる。さきに慶元より航海して来り、 艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たさなければ、 城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。」
>>856 鷹島沖海戦は日中から起きた海戦で、元軍は大打撃を受けているが?
お前の主張の根拠は何だ?どの資料に書いてある?
ほう、じゃあ明が始めて経験する、倭寇が装備していた日本刀以外の長刀とは何だ?
苗刀が後の明軍に採用されたが、あれは日本刀とは何の関係も無い中国産の刀か?
なら何故、明軍が始めて経験するんだ?自分の国の刀を
アホかお前は
それに、長い間戦ってれば3回ぐらい負ける事はあるだろうよ
「大敗」したという根拠も無い。特に1389年のは「倭寇が留守中の街を焼き討ち
しただけじゃないか」とまで言われてるしな
高麗史なんぞとてもアテになる資料じゃないだろう。怪しい部分が多過ぎてな
まだ八幡愚童訓の方が信憑性がありそうだ
>627 :名無し三等兵:2012/06/23(土) 05:11:11.56 ID:??? > 1292年、日本の商船が武装していることが判明し、都元師府を設置して海防を固める > 1303年、日本に対する備えとして慶元に東海道元師府を設置 > 1304年、日本船の警備として千戸所を定海に設けて海防を強化 > 1305年頃、日本が服属しないことを理由に税率を上げ、商客・僧侶の入城を禁止 > 1309年、厳戒態勢の中、元の海洋貿易の拠点都市である慶元城府が日本からの攻撃で焼失 > 「慶元と日本は相接し、且つ倭商のために焚き毀される」元史 巻九十九 兵志、鎮戌 > 「(日本人は)現地の官の侵漁に憤りに堪えず、持ってきた硫黄を用いて城中を燃やす」慶元府玄妙観碑銘 > 「倭人の貨宝を利とし兵を持ってこれを脅したため、かえって殺略焼焚の禍を受けた」燕公神道碑
>>856 >>857 自演ひどいな…
>実際には元船に乗り移る前に討ち取られた者も多く
昼間での戦いでは勝ち目が無いから夜襲に切り替えた。
ちなみにこれ間違いな。
日本側が夜襲を行った記録があるのは、元軍が博多湾に現れた6月6日だけ。
「元船に乗り移る前に討ち取られた者も多く」て「昼間での戦いでは勝ち目が
無いから夜襲に切り替えた」のではなく、緒戦(対馬・壱岐除く)のみに夜襲
の記録があるのであって順序が逆な。
志賀島の戦いの激戦日の6月8日は『蒙古襲来絵詞』にあるように「同日巳剋に合戦
をいたし」とあるように朝っぱらから戦って元軍を破ってる。
後半戦の鷹島周辺での海戦にしたって武士団は昼から元軍を襲ってるわけで、特別
夜襲に拘っていたわけではない。まして、「昼間では勝ち目がないから夜襲」なんて
ことは妄想以外のなんでもない。
夜襲なんてどう考えても抜け駆けの功名だろ めぼしい手柄のない奴が待っていても敵が逃げ腰だからいっちょこっちから乗り込んでいってやろうぜってノリだ
大規模かつ組織的にやってたから、別に抜け駆けではないのでは
>>859 そもそも1389年のあれは当時の高麗ですら「お前本当に倭寇討伐したの?」って疑われてたからなあ。
ていうか高麗って正規軍でもない、多くても三千人程度の海賊に散々手こずって内陸深くまで蹂躙されてるわけじゃん 南原が陥落したり公州が陥落したり、一時は半島北部の黄海道まで荒らし回られてる 正規軍を派遣して撃退できたからといって、誇れるようなことでもないと思うがw
866 :
名無し三等兵 :2012/06/29(金) 17:09:18.50 ID:YP+qgymn
なるほど、ここが日本史板はじめ各地で元寇関連の妄言ぶち撒けてるネトウヨの総本山か
総本山って何か響きいいな
869 名前:名無し三等兵:2012/06/29(金) 18:41:56.81 ID:???
>>866 案の定棄民厨が見事に論破されてるな
モンゴル厨の歴史ヲタか、朝鮮人だか知らないが、いい加減にしときなさい 元寇は元軍にとって、時期も悪けりゃ地の利も悪く、人の和も不十分だった だから負けたというだけの話だろ 鎌倉幕府によって日本中が纏まっていた時期であるから天の時を外している 日本の地形と上陸戦という状況のため、モンゴル軍の機動戦略を全く活かせず 地の利をちっとも得ていない 加えて、モンゴル・宋・高麗の混成部隊という纏まりの無さで人の和も乱れている それに対して日本の武士団は、鎌倉幕府によって武家が纏まっているという、天の時に 恵まれ、本土での戦闘であるから当然ながら、地の利を得ており、そして侵略者に 立ち向かうという目標があったため、人の和も纏まっていた その上で、個々の兵士のスペックは武士団がかなり上回っているんだぞ? 勝てる訳無いだろ 元軍は負けるべくして負けたのだ。正しく「毎戦必敗」の状況だった オマケで台風もあった訳だしな
ほぼ同数の東路軍を破ったぐらいで舞い上がり過ぎだろ
文永の役では四倍前後の元軍を撃退してるんだが・・・
そしてまた振り出しに戻る
結局台風で元軍が撤退したって事実は変わらないのに そ、そんなのなくたって勝てたに決まってるやいとか言ってもな不毛
台風が無ければ負けてたな
おいおい散々論破されたのにまた懲りずに来たのかよ
勝利宣言乙
もうテンプレ作った方がいいかもしれんな
「秀吉があと10年生きてれば北京を攻め落とせた」論の方がまだ説得力あるわ>台風来てなかったら
>>879 どっちの側か知らんがそういうのをブチ上げると内容が良かろうが悪かろうが
アンカ連発したりコピペ荒しみたいな事になるから止めとけ
引っ込みもつかなくなるしな
みんなちょっと落ち着けよ。これは明らかに釣りだ 俺は絶対に釣られないぜ!
てか合流後も普通に何回か戦闘がなかったか?
鷹島の夜襲ぐらいしかないが
日中から始まって夜明けまで続いたそうだから夜襲ではないんじゃないの?
常識的に考えて船に乗り込んでの乱戦を半日も続けられるわけないだろ
ウィキの鷹島沖海戦の項でも読めよ
日のある内からと日中じゃかなり意味が違ってくるだろ とはいえ7月末福岡の日の入りは午後7時半日の出は午前5時半で夕方から仕掛けても10時間少々続いた ことになるわけだが
>>888 東路軍が壱岐島から撤退→撃退
合流後元軍が平戸からやってきた→再来襲
ってことっしょ。どっちにしろ、鷹島「沖」という場所から考えて
元軍が博多湾へ移動中だったことは明らかであり
「合流後の軍とも戦闘があり、それにより博多湾への侵入を試みた元軍を最低でも一度は撃退している」
ってことだよな。
鷹島沖での戦闘後に元軍が鷹島に留まって守り固めてたのを考えても。
撤退したのは日本側だろw 日本側が襲撃した時点で元側は鷹島に停泊してたんだから動きを止めたというわけでもなく 鷹島経由で博多へ向かっていた元軍にちょっかいだしただけ
つまり、合流後の大戦力でも敗北した為に、 元軍は気軽に攻め入る事もでき無くなり、襲撃に備えて島で防御固める事しかできなかったと。 防衛戦に勝利して再上陸が狙いだったのかねぇ
日本は鷹島沖で敗退したのか
『元史』相威伝に「東路軍と江南軍が合流後、大宰府に攻めようとしたものの躊躇して 軍を発することができなかった」とあるけど、躊躇してた理由って鷹島での海戦で武士団に 警戒してたせいなのか? 流れ的には、平戸島で合流して「よし、大宰府進撃だ!」と意気揚々と東進を始めて 鷹島にたどり着いて、鷹島沖で停泊してたら、武士団の猛攻撃を受けた。で、鷹島に立ち往生してる時に台風で壊滅。って感じだよね。
台風接近で海荒れ出してるから停泊しただけ
いや、単に武士団の攻撃に怖気づいただけだろう 台風を恐れて停泊していたとは思えん。艦隊は海域に広く分散していた様だからな 嵐を恐れての停泊にしては、海上に広く分散する様な布陣は不可解極まる 無理にでも島の沿岸に停泊するだろう
>
>>897 それなら鷹島に上陸して土城作る必要性がなかったのでは?
それに文永の役で平戸島から博多湾までたった2日で辿りついてるのに
鷹島に留まる必要性がわからない。
鷹島からなら、2日よりもっと早く博多湾に辿りつけたはずだが
元軍はそうはしなかった。
台風後鷹島には元軍10万がいたというんだからほぼ全軍が鷹島沿岸に停泊してたに決まってるだろ
嵐が近づいて波が荒れてる時に散開するのは常識でしょ。バカじゃないの?
>>900 艦隊の被害にバラ付きがあるから、そうとは思えん
単に小船で救助されて鷹島に集結したとかだろう
>>901 「海上に散開」する馬鹿があるかよ
島の沿岸に停泊するのが、嵐をやり過ごすベストな手段だろうが
荒天時に小船なんて出したら余計被害が出るだろ 被害の差はいい泊地に陣取れたかの違い
停泊場所の違いでそこまで差が出るほど、個々の沿岸の地形に差がある島とは思えんが
グーグルマップで見れば入り江がたくさんあるのが分かるだろ 北部の鷹島汽船発着所と書いてある港にたくさんのボートが止まってるのが見えるだろ あのボートが当時の元軍の言うところの大船より少し小さいくらいの大きさだ
つーか10万も兵隊いるならさっさと上陸すれば良かったのに
「台風を恐れて上陸作戦を強行した」 なら分かるけど 「台風を恐れて沖に停泊した」 って意味分からん 台風きてるのに海上から離れないのは、台風より怖い何かが陸にあったんだろうよ
遠く離れた島で船を失う恐怖だな
>>907 いやあ、天下の元軍を恐れさす「何か」ってなんでしょうねw
坊主の祈祷とかフビライの直接命令ですかね?w
「船に乗ったまま日本を撃破せよ」とかwww
船と一緒に自分の命まで失っとるがな
元軍は武士は恐れなかったが船を失うことを恐れ、甚大な被害を出した。 説得力があるな。
ないよw
韓信が総大将なら船を焼き払わせて背水の陣を布くところ 孔明なら船に藁人形を立てて武士から矢10万本奪って高笑い 牟田口廉也なら長駆京を突いて一気に戦局にけりをつけていることろだ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1341014191/ 339 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/06/30(土) 11:04:56.78 ID:M0Zfq0ib0
槍と刀剣では槍のほうが圧倒的に有利
東西問わず槍の種類が豊富なのはまあそういう事
安いし手入れもほとんどいらないし軽いし速いし力も強い
刀剣では馬上の敵に致命傷すら与えられないからな
また元寇の時に日本刀は蛮刀(青竜刀)に文字通り太刀打ちできなかった
大陸の刀は打撃武器だから重い
その重さに勝てなかった
斧と剣でやったら斧のが勝つだろう
棍棒と剣でも棍棒のが勝つだろう
素人同士が剣と短剣で戦っても短剣が有利だろうな
刀剣が有利な相手は素手くらいのもの
鈴木スレの誤爆かと思ったが・・・w じゃあ日本刀で太刀打ち出来なかったのに、どうやって船や島での白兵戦で元軍に勝利したんだよw
相変わらず無知な癖にどや顔で語るニュー糟民には恐れ入るわ
>>914 日本刀が蛮刀に太刀打ちできなかったなんて珍説見たことも聞いたこともないぞw
もっとも鎌倉時代後期の刀には蒙古の皮製鎧をより斬りやすいように作らせたものもあるから、
たぶんそこから生まれたデマなんだろうな
しかもそういった対蒙古用の刀は従来より重ねが薄くなってるわけだからな 本当に蛮刀の重さに太刀打ちできなかったなら、刀を厚く重く改良してないとおかしいだろw
まあ、ある意味元寇が南北朝期において日本刀が進化の極地に達する手助けとなったのは事実だが そこから話が飛躍して「日本刀は元軍には通用しなかった」はおかしな話だよなw
関ヶ原の全戦死体を医師が検死したところ、刀傷は一つか二つしかなかったそうだ。
日本刀って本当に使えたのかな?
410 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/06/30(土) 11:49:54.22 ID:M0Zfq0ib0
>>401 検死だよ
関が原が終わったあとで転がってる遺体を医師が調べたんだよ
有名だろ
刀傷は一太刀二太刀だよ
全遺体中でだ
そんな話初めて聞いたわ。 ググっても元ネタ出てこないし
まさかの鈴木厨乱入ww
鈴木もこんなこと言ってないだろw
青龍刀は片手剣な上に重量は日本刀の方が上じゃないか。切れ味も日本刀の方が上だし 間合いも日本刀の方が上回るだろ。日本刀は鍛造の鋼鉄だが、青龍刀はただの鉄だし あらゆる面で負けようがないだろ
青龍刀じゃなくて柳葉刀やで。あと中国の刀もちゃんと鋼を鍛造した代物だぞ。 まあ性能面で日本刀に圧倒的アドバンテージがあるのはその通りだが。
実際どんな剣を持ってきてたのかな? 蒙古襲来絵詞は蒙古側の刀剣に関しては日本刀と同じに描いていて参考にならんと されている。
中国は紀元前から炒鋼法があって既に高炉による還元を確立してたし 勿論中世でも製鋼技術に関しては日本より遥かに進んでいたし そもそも僅かな砂鉄以外鉄資源が全くない日本は鉄や鋼を大陸や半島からの輸入に依存してたのに。 ネトウヨって無知だなあ
ま〜たカマってちゃんだよ
日本刀が蛮刀に太刀打ちできなかったとか 関ヶ原の全戦死体の中で刀傷は一つか二つとか言い出す チョンの方がよっぽど無知というか、バカだろw
>>927 どこぞの電波まみれの軍刀サイトの記述鵜呑みにしてんじゃねえよw
日本では砂鉄以外にも東日本を中心に普通に鉄鉱石は産出してたし
むしろ刀以外でも鉄や鋼製品は日明貿易や朱印船貿易における主要輸出品目だぞ。
おそらく倭好の話から広まったデマなんだろうけど。
あと、純度の高い鉄を作り出す技術と良質な鋼製品を作り出す技術ってのは全く別もんだぞ。
>>927 もしそうならなんで↓みたいなことが書かれるんだろうな?
鋼材があちらのものにも関わらず中国が及ばないって
刀鍛冶の技術が違いすぎるってこと?
『武芸図譜通志』
日本刀は極めて頑丈で鋭利であり、支那製の刀剣類は日本刀に及ばない (刀極剛利 中國不及也)
まあ、そういう面はあっただろうな 別に高炉があったからって必ずしも良い刀剣が作れる訳ではないからな 技術が低ければ普通に劣るだろう 鋼にしても、成分の割合が重要になる訳だし、その辺で差は付くよね 極端な例で言えば、陶磁器が作れるからと言ってセラミックスプレートを 作れるとは全然限らないって言うか 同じ材質に分類は出来ても、両者には圧倒的な技術力の差があるよね
日本刀が恐れられていたことがわかる元朝の時代の史料。 『心史』 「倭人は狠しく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。 勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。 倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。【【倭刀はきわめて鋭い。】】地形は高険にして入りがたく、 戦守の計を為すべし」 日本征服が難しい理由として1,武士の勇猛さ2,地形3,【日本刀】を挙げてる
ハイハイ、コピペ乙
そのコピペにさえ反論出来ないモンゴル厨であった・・・
まあ、日本の資料は宗教団体の捏造だったり後世に書き加えられて信用できない物ばかりだけど 中国の物は全て信用できる第一級資料だからな。
お、おう・・・
938 :
名無し三等兵 :2012/06/30(土) 16:15:56.58 ID:5kLtQyqV
そもそもロクに反証出来ないもんをコピペだっつったら 反論の仕様がありませんって言ってるようなもんだからな
コピペだから何って話だよな。その内容に対して反論できなきゃコピペだろうが 今打ち込んだ文章だろうがなんだろうが一緒。
なんなの、この偏向した流れ?
いい加減に高校生でも知ってる
>>283 の歴史認識に戻ろうぜ。
何故、ただの暴風雨を神風と呼称しなければならなかったのか、
何故、神風が来るまで元軍が滞在できたのか、議論するべきはそこだろ。
>>940 この件についての教科書の著者は
良く言っても軍事知識不足・悪く言えば意図的偏見
>>940 ・分け与える土地に余裕が無かったため、自然現象のせいにして恩賞をケチりたかった
・文永の役の時は、追撃で殲滅する前に元軍が勝手に嵐で全滅した。追撃する間も無かった
弘安の役の時は、6万の増援が来てるのに、それを待たずに10万余の敵に渡洋して、4万
程度の寡兵で追撃をわざわざ無理にかける理由が無い
追撃をかけるにしても援軍が到着してからだし、上陸は防いでいるのだからゆっくりと
10万の敵軍の兵站が枯渇するのを高見の見物してりゃ良い。しかも夜襲は連日してたし
そうこうしてる間に来た台風による敵の損耗を機として、10万の敵を殲滅している
>>942 文永の元軍は全滅なんかしてねーし
戦闘で勝利したと主張してる割には夜陰にまぎれて撤退とかおかしくない?
嵐は洋上に出てから
>・分け与える土地に余裕が無かったため、自然現象のせいにして恩賞をケチりたかった
自分達の手柄にしたかった勢力の宣伝に対して幕府側が積極的に反論した様子が見えない動機だろうと推定される
でも万一加担したのが露見したら一発で鎌倉幕府崩壊だからそれはありえない
やはり台風か
>>941 この手の人間に掛ると気に入らない歴史は全て偏向してるか間違ってることになるんだよな
武士が活躍したって主張してるのはこの手の人間だけか
>>943 普通に全滅状態で、生き残りが撤退したんだろ
僅かでも生き残りがいたら「全滅してない」かよ、おめでてーな
夜陰にまぎれて撤退した、というのが何を指してるのか分からん
文永の役の話なら、一旦退いて体制を立て直すのは優勢な軍でも普通にやるぞ
元軍も過去の戦争の中で、そういうのを何度かやってるだろ。まあ文永の役の
元軍は普通に敗走しただけだろうけどな
「一発で鎌倉幕府崩壊」というのも意味が分からん。まあ確かに、元寇の後で
幕府の信用が崩れて実際に鎌倉幕府は滅びたけどな
どんな失政をしようと、幕府が「一発で崩壊」なんかはしねーよ。民主主義国の
政権じゃないんだから
一応恩賞対策として高麗侵攻を考えてたらしいが頓挫したらしいね
>>940 >>942 高校教科書の記述の変遷は台風説⇒台風と武士の健闘説⇒台風説消滅、威力偵察説⇒諸説あるが武士の健闘
と言う流れ
そりゃ文永の役に限った話だろうが
文永の役は八幡の神威
>>950 弘安の役じゃもっと一方的に元軍がやられてたんだけど、良いのか?
過去スレ再度みたけどほんと話がループしているんだな 4年前のスレでもループという単語があるし
結局のところ資料不足が根底にあるからね
元軍が有利だったという資料が不足してるんだよな
弘安の東路軍がらみ以外で日本側が有利だったという資料は蒙古襲来絵詞ぐらいだろ
じゃあ蒙古襲来絵詞以外の資料で「元軍が有利だった!」と主張すれば良いじゃない 元・朝鮮側の資料との整合性は取れなくなるけどな
日本側の史料で日本が負けたことにされてるのは八幡愚童訓くらいやん
日本が負けたことになってる× 武士が負けたことになってる○
>>949 マジで?
とてもそんな風には見えないんだが。
>>960 今年度の歴史の教科書見て来い。図書館で見れる筈だ
まあ台風説が消えたとは言えないが、武士の健闘説はどこも取り入れてるから
武士の健闘なら90年代から採り入れてますな
マジか。ちょっと教育現場見直したかも
元もかわいそうだよ やたらデカいカミソリ持って何故か首切り取ることに異常に拘る喧嘩慣れしたキチガイどもに囲まれてさ そんな連中が大挙して待ち構えてる所に何で突っ込んでいかなきゃいけないんだよ 誰だよこんな所攻めようとか言い出した奴
高麗はともかく南宋人がかわいそうだよな。
>>964 >誰だよこんな所攻めようとか言い出した奴
フビライじゃないの?
つーか首とったんかな 持ち帰っても元の軍人じゃ手柄首かどうか良く分からないじゃん
>>966 高麗王の元宗だよ。(虐殺、略奪、強姦を)やる気満々だったのも高麗兵。
>>967 文永の役の時に、敵のなんか偉い人っぽいのを打ち取って首を取ろうとした隙に、
集団で囲まれて、逆に打ち取られるケースが続出した戦訓から、
弘安の役では首を取るのが禁止になったといわれているね。
969 :
名無し三等兵 :2012/07/01(日) 14:19:00.50 ID:+GbfV5nb
また「日本を少しでも苦戦してた事にしたい」捏造工作か
文永の役の時の敵のなんか偉い人w 信憑性の極めて高い情報ですなあ。 どうせ大方後世の分捕切棄法に関する間違った知識なんだろうけどね。
972 :
名無し三等兵 :2012/07/01(日) 17:50:26.37 ID:JJ5RqYv3
>>967 蒙古襲来絵詞に、菊池が首取って帰って来たという竹崎の話が載ってる。
首実検の絵もあったんでないか?
>>957 は?元史では文永の役は賊(日本)軍を破り四方を略奪して帰ったと書いてあるだろうが
弘安の役の評価は元軍の船がボロかった事が判明した以外昔から変わっていない
壱岐に至りて之を破るも、官製整わず矢尽き只四境(国境)を略奪して帰る。 なんで壱岐の事しか書いてないのかなー? なんで官製整わず矢尽きなんて苦しい言い訳してるのかなー?
侵略しに来たくせに、上陸後1日で洋上の船に戻ってるんですが どう見ても元軍が敗走してるじゃん その上で「略奪して帰った」って、侵略はどうしたんだよ? 盗賊にでも来たのかよ文永の役の元軍はよ 侵略って戦略目標が頓挫して逃げ帰ったとしか思えませんが
元は朝鮮でも略奪して撤退を繰り替えしてただろ 日本側有利というのは原文にケチをつけそこから勝手な妄想を膨らませた結果の産物でしかない
その後7年間軍隊送り込めない略奪作戦って何よw
だったらなんで官製整わず矢尽きなんて言い訳する必要ないし 福岡での戦闘を記述してない理由にならないし、そもそも端っこ島略奪しただけとか マジ何しに来たん?ってレベルなんだが。
元の高麗侵攻の周期も7年6年3年9年とかだけどな
高麗の場合は毎回半島の隅々まで焦土にされてるじゃん
知らんなあ>毎回半島の隅々まで焦土にされてる
元軍は高麗でも城に籠った軍など手のかかる相手は無視して周囲を略奪して引き上げたんだから 日本での状況もこれと似たようなもんだったんだろ
日本でも手のかかる博多は無視して対馬や平戸をぼこった
で、本土では手も足も出ませんでしたってか?
城に籠るどころか首都すら放棄してんじゃん高麗
孤島なんか略奪したって毛ほどの経済的ダメージにもならねーよ
思いっきり博多を略奪されてますが
博多は略奪されてないです 武士団に押し返されました
武士側に都合が悪い八幡蒙古記の記述は無視ですかそうですか
だってあれ神社のプロパガンダだし 現実問題として、略奪の記録とかって残ってないし
つーか八幡蒙古記に書かれてるのは「博多に逃げ込んだ」であって「博多から逃げた」では無かった気が
>>985 都市の防衛と城塞での籠城どっちが簡単だと思ってんだよ
それに最初の侵攻時に首都が江華島に移転され以降首都が落とされた事はない
>>991 博多を打ち捨てて逃げたと書いてあるがな
八幡蒙古記は江戸時代の神官が「これが原本です」って書いてるだけ。 他の幾つかある写本と異なる記述が多いし、こっちがまちがえてる可能性大。 やはり鎌倉末期成立の菊大路本が一番信憑性高い。
どっちにしろ八幡愚童訓の作者って「京都の」八幡宮関係者だろw その時点でもうねえ・・・w
>>992 城塞って首都を含む領土へのアクセスを、要衝に建設する事で妨害するのが目的の物だろ
城塞があるのに首都を落とされてるという事は、朝鮮はごく基本的な戦略すら取れてないって
事になるじゃねーか
馬鹿か朝鮮西部は平野が広がってるのにそんなもん防ぎきれるわけないだろう
そもそも江華島に元々要塞があったんじゃなくて移ってから作ってるしなw 本土は端から見捨ててるも同然じゃねえか。 ていうかもうひとつのスレもそうだったが 毎回スレが残り僅かになる頃に湧いては埋め立てがてら持論をぶちまけるのなw
うめ
てんてー
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