スターリン4って性能的にはどれくらいだったんだ?
朝鮮戦争に参加したとして使い物になったの?
質問なんだけど、ビルマ方面の英国軍や国府軍に、シャーマンって配備されてたの?
>>402 英連邦の軍は使ってる
多分国府軍も使ってたような?
>>401 46tっていう結構厳しい重量制限から解放されたんで、設計に余裕があったらしい。
IS-4の後に作られたT-10もそうだけど、IS-3以降のソ連重戦車は一般に車内が広く、
一般的なソ連戦車のイメージに反して各種動作などもしやすかったようだ。
まあもちろん60tという大重量のおかげで戦略機動性は大幅に制限されるわけだが。
エンジンも750馬力だから、ドイツ戦車ほどではないけど少々物足りない。
ちなみにティーガー2は70t弱の車体に700馬力のエンジン…。
戦後のソ連重戦車の試作車輌群はドイツ戦車の鹵獲や
レンドリース戦車を実見して得られた成果が色々活かされてるみたいね
M4A3E8は、朝鮮戦争の時T34/85に対して通用したの?
>>407 状況次第かと思うが理論上は正面でも抜けると言うか
数値上は正面からだと相討ちに近いような
エレファントってベルリンでも戦ってるんだな……
90輌程度の生産なのに長持ち過ぎだろ
>>409 とにかく装甲が固いから、故障や空爆を受けさえしなければあまり損害が出ないからなあ。
問題はその故障が多かったことなんだが。
まあイタリアとかの山地に投入されて残念なことになった部隊もいるし。
イタリアに送られた連中も結構頑張ってなかったか?
>>410 イタリアに11両投入、2両全損で残9両
激戦の中稼動車両9両って報告が何度も出てるのに、何が残念なの?
東部戦線でも、故障はあまり無いみたいだし
緒戦を経験したあとの改修車は結構普通に使える車両みたいよ
イタリアに送られて生き残った連中は再び東部戦線で
お仲間に合流してんだよな?
よーやるわ
>>412 残念なことになってたのはティーガーの方だった、申し訳ない。
でもエレファントも1944年2月に11両投入され、6月には稼働車両が2両になっていたようだが。
>>414 2月に2両失って
5月稼動9両、6月に一気に消耗したらしい
しかしエレファントと比較するとイタリア戦線のティーガーの苦闘が目立つ気がする
この流れで90mm積んだセモベンテの顛末がちょっと知りたくなった。
クルセーダーとカヴェナンターってビルマに投入されてる?
確かバリクパパンのカヴェナンター改造の架橋戦車の話が前々スレあたりで出てた
>417
生産数30輌前後の内、24輌がシチリア島での戦闘に投入され、ほぼ全滅している
細かい戦果は知らん
>>418 カヴェナンター架橋戦車が1942年にビルマでオーストラリア軍により使用されたらしい。
【ペルシア回廊】
1941年6月のドイツのソ連侵攻により、英国とソ連邦は同盟国となりました。
中東に於いて英国は同年5月にイラクの親枢軸政権を屈服させ、
6月にはヴィシーのシリアとレバノンへ侵攻し、これを連合国管理下に置きました。
レザー・シャー・パフラヴィーのイランは中立だったものの、ドイツ寄りでした。
アングロ・イラニアン石油会社のアーバーダーン製油所は1940年に800万dの生産を誇り、
連合国の戦争遂行努力に重要な役割を果たしていました。
英国はここがドイツの手に落ちることを危惧していました。
1940年5月、英国はイラン在住ドイツ人を約700名と見積もっており、
1941年7月29日、その数は2000〜3000名に達し、それらの多くが第五列活動に勤しんでいると報告されました。
それに加え、タイムズ特派員によると“旅行者”がイラン国内の至る処に居り、
それらの4000名は短期ビザを所持し、トルコ経由でドイツから絶えず入れ替わっているとされました。
ドイツ人顧問や技術者は、イラン縦貫鉄道、郵便部門、自動車企業、道路輸送部門の要職にあり、
軍需産業としてはテヘラン近郊のシュコダ小火器工場のようなものがありました。
テヘランラジオ局のドイツ人技術者2名は、諜報機関の重要人物として知られていました。
この潜入戦術は、僅か数週間前に最高潮に達したイラクのラシッド・アリによる親枢軸反乱を思い出させました
(実際は、ドイツ民間人は英国が思うような重要活動はしていなかったともされています)。
ソビエトにとってもイランは戦略的に重要な国でした。
独軍は着実にソ連領内を進撃しており、
ソ連が是非とも必要とするレンドリース物資を得る手段は限られていたからです。
独軍の潜水艦による攻撃と大量の流氷や沿岸の氷結は、
アルハンゲリスクやムルマンスクへの護送船団の迅速な派遣を困難なものとしていました。
イラン縦貫鉄道は、ペルシャ湾から補給物資を輸送するルートとして大変魅力的に思えました。
○イラン軍部隊を閲兵するレザー・シャー
ttp://1.bp.blogspot.com/_lJ9W1QsrvLA/S9EnsMmd0bI/AAAAAAAAAHo/ovabF-TkdBI/s640/Reza+Shah+inspects+Persian+Troops.jpg
7月1日、英大使のリーダー・ブラード卿はイラン首相との会談時に、
在住ドイツ人の五分の四を国外退去させるよう求めました。
イラン政府の反応は鈍いものでした。
8月初め、イランは連合国の目的が在住ドイツ人追放だけではないことに気付きました。
8月12日、要求に応じなければ連合国は思い切った行動を取るであろうとイラン首相は悟りましたが、
誰も敢えてその点をレザー・シャーに明白には指摘しませんでした。
恐らくレザー・シャーは、最後通牒か英政府に認可されたブラード卿の提案を受け取っていたなら、
要求に応じることに同意したことでしょう。
レザー・シャーは、英国がイランに対し軍事行動を取るとは信じていませんでした。
8月25日、英国とソ連はイランへ侵攻を開始しました。
侵攻日の10:00、レザー・シャーはブラード卿とスミルノフ(ソ連大使)に対して、
戦闘行為を停止するならば1週間以内に全ドイツ人をイランから追放するであろうと語りました。
ブラードとスミルノフは彼らの本国にシャーの言を伝えることを約しました。
しかし、シャーの発言は只のパフォーマンスと受け取られ、英部隊とソ連部隊は進撃を続行しました。
英軍イラク部隊(9月1日にペルシャ・イラク部隊へ改名。司令官:エドワード・クイナン中将)戦闘序列
○第10インド歩兵師団(第20インド歩兵旅団はシリア北部へ分遣され、イラン侵攻には参加せず)
○第8インド歩兵師団(第17インド歩兵旅団はシリア北部へ分遣され、イラン侵攻には参加せず)
・第18インド歩兵旅団
・第19インド歩兵旅団
・第24インド歩兵旅団(9月11日まで指揮下)
・第25インド歩兵旅団(第10インド歩兵師団から分遣)
・第13槍騎兵
○ハゼル部隊
・第2インド機甲旅団群
・英第9機甲旅団
・第21インド歩兵旅団(第10インド歩兵師団から分遣)
○第6インド歩兵師団(9月11日から)
・第27インド歩兵旅団
・第24インド歩兵旅団(第8インド歩兵師団から)
イラン軍戦闘序列(1941年8月25日)
○第1近衛師団(テヘラン)
・第1歩兵連隊
・第2歩兵連隊
・第20歩兵連隊
・砲兵連隊…シュコダ105mm砲
・山砲中隊
○第2近衛師団(テヘラン)
・第6歩兵連隊
・第21歩兵連隊
・砲兵連隊…シュコダ105mm砲
・山砲中隊
○第3歩兵師団(タブリーズ)
人員8500名。1個工兵大隊含む
○第4歩兵師団
○第5歩兵師団(クルディスタン)
○第6歩兵師団(アフヴァーズ)
○第9歩兵師団(マシュハド)
・第28歩兵連隊を含む歩兵連隊×3、騎兵連隊×3、砲兵中隊×3
砲兵中隊各々は75mm榴弾砲と105mm榴弾砲を装備
○第10歩兵師団(ゴルガーン)
○第11歩兵師団(ラシュト)
・第36歩兵連隊を含む
○第12歩兵師団(ケルマーンシャー)
○第13歩兵師団(イスファハーン)
○第15歩兵師団(アルダビール)
・第11歩兵連隊を含む2個歩兵連隊。軽トラック×20、重トラック×15を保有
○第17歩兵師団
又、イランは警察部隊を保有していました。
○独立旅団×5(警察)
○独立歩兵連隊×1
○重砲連隊×1
○対空大隊×1
○武装警察部隊
・独立混成連隊×7
・混成大隊×15
「イラン軍歩兵連隊」
○本部中隊
○通信・近接支援中隊
・対戦車小隊(シュコダ37mm対戦車砲×6)
・通信小隊
・迫撃砲小隊(81mm迫撃砲2門装備の分隊×3=6門)
○歩兵大隊×3(歩兵大隊=歩兵中隊×3、機関銃中隊[ブルーノ機関銃×6]×1)
※連隊全戦力
将校×68、下士官兵×2070、重機関銃×18、軽機関銃×54、81mm迫撃砲×6、37mm対戦車砲×6
「イラン軍騎兵連隊」(イラン軍は22個騎兵連隊を保有し、内3個はラクダ部隊。連隊全兵力は720騎)
○本部
○通信小隊
○サーベル中隊(4個小隊)×4
○機関銃中隊(機関銃×8)
※サーベル小隊=サーベル分隊×2、軽自動火器分隊(自動火器×4)×1
「機械化独立旅団」
○旅団司令部
・スタッフカー×4、ハーレーダビッドソン自動二輪×16
○第1連隊(対空・345名)
・1個中隊(ZB vz/60 15mm機関銃を搭載した乗員6名の車種不明トラック×16)
・4個中隊(各中隊はボフォース75mm高射砲を4門装備。マーモン・へリントントラクターで牽引)
○第2連隊(装甲戦闘車両・650名)
・1個軽戦車大隊(AH-IV×50)
・1個中戦車大隊(TNH×50)
・1個装甲車大隊(マーモン・へリントンTK-5×19、アメリカン・ラフランスTK-6×14、ロールス・ロイス装甲車×4)
○第3連隊(機械化歩兵・1100名以上)
・武装トラック(指揮官1+乗員2+歩兵20)×50、ベルギー製自動二輪(ブルーノ軽機関銃装備)×50
○砲兵連隊
・6個中隊(各中隊はボフォース105mmM27×4門装備)
1:イランが受領したTNH戦車を50両ではなく26両とするものもあります
2:マーモン・へリントンTK-5は後述のTH310 ALF-Iと同一車両のようですが、
そちらではイランの入手数は12両としており、機械化旅団への装備数を19両とするこの資料と違う点があります
3:砲兵連隊のボフォース105mmM27をシュコダ105mmとするものもあります
1931-41年の間、イランは300000挺以上の小銃、約6000挺の軽・重機関銃、
約350門の種々の砲を購入しました。
イラン軍は装備にペルシャ・モーゼル等、チェコ製の物を多く使用していました。
砲は以下のようなものでした。
・シュコダ100mmM14…12個中隊(48門)
・シュコダ100mmM30…18個中隊(72門)
・ボフォース75mmM1934山砲…39個中隊
・シュナイダー75mmM1909山砲…6.5個中隊(26門)
・シュナイダー75mmM1909山砲…4個中隊(16門)※何故、上と分けて記述しているのかは不明
・ロシア製75mm砲…2個中隊(8門)
・英製不明砲(18ポンド砲?)…1個中隊(4門)
・ボフォース75oM1929高射砲…11.5個中隊(46門。マーモン・へリントントラクターが牽引)
・シュコダ105mmM35を何門か(プラガ・トラクターが牽引。カスピ海沿岸防衛用)
・シュコダ37mm対戦車砲を多数
・ボフォース105mmM27×?(少なくとも24門以上)
1:イラン向けボフォース75mm高射砲のいくらか(少なくとも20門)は1939年以降は発送されず、
その多くはスウェーデン軍が1939年に引き取る
2:各砲兵連隊は山砲中隊×3、野砲中隊×1から成る
3:105mm沿岸砲はカスピ海沿岸を2群が“移動”(4個中隊以上?)
8月25日払暁、英部隊とソ連部隊は同時にイランへ侵攻しましたが、
前者は西と南西から、後者は北から進撃しました。
8月12日の英情報部の報告では、イラン軍将兵の士気は甚だ低く、
戦車部隊の保守整備は劣悪で、外国人機械工は意図的なサボタージュを行っているとされました。
又、野砲弾は不足しており、補給品は古く低品質であるとも報告されました。
スリム少将指揮下のバクダートから来た第10インド歩兵師団の英部隊とインド部隊は、
カスル・シリンで国境を越え、初日に同市を奪取しました。
2日目、彼らはPai Tak峠の強力なイラン部隊の裏をかき、
4日目にイラン兵がシャーからの停戦命令を受領した時、ケルマーンシャーへ入城しました。
この方面での英軍進撃への抵抗は中途半端なものでした。
深刻な戦いが生じたのはZibiri尾根だけで、
ここではイラン軍砲兵と軽機関銃が英兵とグルカ兵へ損害を与えました。
同時に南西300マイルの地点では、
ハーヴィー少将指揮下のバスラから来た第8インド歩兵師団が、
アーバーダーンとその製油所、ホラムシャハル港、海軍兵舎、停泊していた数隻の小艦艇、
重要なカスル・シェイク要塞、数隻の枢軸国商船が避難していたバンダレ・シャープール港を奪取しました。
この方面の英部隊は、スリム少将の部隊が受けた以上の猛烈な抵抗に遭遇しました。
製油所周辺では困難な市街戦が生じ、カスル・シェイク守備隊はシーク兵と槍騎兵に対して果敢に戦い、
損害を与えました。
塹壕内の戦闘でのイラン側の損失は戦死38名、負傷4名、捕虜6名でした。
海軍兵舎と艦船の奪取も又、バルチ歩兵の損失なしには達成されませんでした。
英将校1名が戦死します。
イラン側はBayendor提督が戦死しました。
彼の死は、イランと同様に英側も落胆させました。
提督は西側連合国寄りの人物としてよく知られていたからです。
しかしながら彼は、国王に全く忠実でした。
翌日、提督の軍葬が執り行われました。
スリム少将とハーヴィー少将の2つの英部隊は、
3日半の作戦中に戦死20(or22)名・負傷50(or42)名の損害を出したのです。
一方、北部ではロシア人が嬉々として協同作戦の役割をこなしていました。
トビリシから来た強力な機械化縦隊がジョルファで国境を越え、
タブリーズを通り、MianehとZenjanへ向けテヘラン道を南下します。
その間に、バクーからの他部隊がカスピ海西岸をパフラヴィーとラシュトへ南下しました。
ソ連軍はガズヴィーンを奪取します。
8月31日、同地で英軍とソ連軍は遭遇し、英指揮官とソ連指揮官は親しく協議しました。
又、ケルマーンシャー東方のセンナで、両軍の偵察分遣隊が接触していました。
カスピ東では他の赤軍3個縦隊の各々が、ゴルガーン、Bajgiran、サラフスで国境を越えていました。
イラン北部での赤軍の侵攻は、西部及び南西部での英軍の侵攻とは対照的でした。
イラン軍はソ連軍へ実質的に抵抗しなかったのです。
これは一般イラン人の大英帝国と北の隣人に対する思いが、異なっていることを示唆しました。
9月16日、レザー・シャーは息子の21歳のモハンマド・レザー・パフラヴィーへ譲位しました。
9月27日、シャーはバンダレ・アッバース港でバンドラ(4000d)に乗船し、ボンベイへ出立しました。
モーリシャス、南アフリカで亡命生活を送った彼は、1944年に亡くなりました。
今や連合国はペルシア回廊を確保しました。
ここを通じて大量のレンドリース物資がソ連へ運び込まれ、中近東の英軍にも供給されました。
ロシアへの補給品の流れを目にした時、多くのイラン人はドイツ第五列なるものに対する英国の抗議は、
イラン縦貫鉄道接収の口実であったのだと思い至ったのです。
1942年1月、イランは英国及びソ連と三国間条約を結び、1943年9月に対独宣戦布告し、連合国の一員となりました。
そして、翌々月のテヘラン会談の舞台となったのです。
>>422-434 乙です。
チェコの中戦車とか見てみたかった。
警察が重砲連隊持ってるとかどういう治安なんだ。
国内に大きい派閥争いでもあって、
軍隊とは別の武装組織が欲しかっただけなのかな?
いつもの人乙です。
パフラヴィーって昔で言うところのパーレビ国王か。しかし当時の石油利権たった十数%でも
チェコからそれだけ買えるんだなあ。
チェコの中戦車ざっと調べてみた。全部試作車だった。
プラガV-8-H(制式名STvz.39) 発注されたがドイツ軍進駐で立ち消えとなる。ドイツ軍はテストしたのみ
スコダS-IIb 試験の全項目不合格。同時に試験されたV-8-Hはそれよりいくつかマシだった程度。
スコダの次作S-IIc ハンガリーがライセンス権もらってトゥラン中戦車として生まれ変わる。
タトラT-III・スコダS-III 開発中に失敗作とわかり開発中止
>>438 TNH装備部隊の“中戦車大隊”というのは原文をそのまま訳したのですが、
軽戦車に分類されるTNHを、イラン軍では中戦車と位置付けていたのか(AH-IVよりも大型ということで)、
それとも著者が便宜的に記しただけなのか、どちらの理由かは分からないです。
同様に
>>316の参考資料では、タイ軍のヴィッカース6t戦車装備大隊が“中戦車大隊”と記述されています。
両国共に豆戦車装備の“軽戦車大隊”があり、
最大クラスの戦車は砲搭載型の軽戦車であるという点で共通していますが、
その辺の事情が何かしら絡んでいるのかもしれません。
余談ながら、ギリシャ軍の“Open Tank Battalion ”の“Open Tank ”はブレンガン・キャリアであったりと
(鹵獲L3は“Closed Tank”)、他にも面白い表記を目にすることがあります。
>>436 イタリアなんかも植民地や侵攻した地域に警察軍置いてるな
まぁイタリアの場合カラビニエリがあるんで違和感無いが、対パルチザン戦だったり
治安維持のための示威行為だったりで持ってるんじゃないかな?
>>434 乙です、結構良い装備だな
確かに
>>395ですがレスくれた人達有難う
最低限の調査は現地でして、その情報が程度なんですね
第二次大戦前の兵器市場の戦車部門を席巻してたのは
ガーデンロイド豆戦車シリーズ
ヴィッカース6t戦車シリーズ
チェコの35t戦車
ルノーFT軽戦車
他に何かある?
ガーデンロイドなんて無い
俺も昔、ガーデンだと思ってた。というか最初に見た資料が誤植だった罠。あとカーデンだと語呂悪いな。
446 :
名無し三等兵:2011/05/18(水) 19:44:09.66 ID:G5A69lWL
>>443 あとはマーモンヘリントンのCTLS・CTMSぐらいだな。ルノー・フィアットも少し。
ランツベルグのL60なんてもっと売れてもいいと思うんだがトーションバーで高かったんだろな。
売った先でサスをコピられたりライセンス生産希望されてるぐらいだし。
>>443 カーデンロイド系だがイタリアのCV33はたくさん売れてるな。
カーデンロイドにせずにCV33にする積極的な理由は何だろう。
密閉戦闘室と連装機銃かな?
チェコの35トン戦車ってすごいな当時としては
一番のベストセラー戦車は、
ヴィッカース6トン戦車だろう。
ポーランドでは、ライセンス生産され、ソ連では、T26軽戦車となりフィンランドで敵味方となり、中国でも敵味方で戦いと
>>449 いやトンではないだろw
それはともかくチェコスロバキアは兵器輸出国だなあ
意外にイタリアも売ってるね……
>>443 35tは輸出されてない気が…
>>449 有名な35(t)の名称はドイツ軍の呼称で、(t)はチェコ製であることを表してる。
チェコスロバキア時代はLTvz.35と呼ばれていたようだ。
俺もはじめ35トンだと思ってたw
IV号とパンターの間ぐらいでちょうどいい大きさじゃんとか思ったw
そういやランツベルグはソ連にも売られて
軽戦車の系統に継承されてるのか
トーションバー式の足回りはKVなど重戦車に影響を与えてるしな。
まさかこんなマニアックなスレで(t)をトンだと思ってる人がいたとはいい意味で驚いた
なんで誰も
>>449がジョークだと思わないのかいい意味で驚いた
はいはい。
35トン戦車ってレスした人は布団の中で悶えてるの?
むしろこれは「チェコが領土割譲以前に対ドイツ戦に備えた35トン級中戦車を造ったらどんな仕様になるか」という挑戦状ではないか?
私も35t軽戦車や38t軽戦車をみて、この戦車は、35トン、38トンあるんだ〜と思ってました。
449さんのおかげで勇気が持てました。
チェコの頭文字ってchじゃないの?
ドイツ語だとTになるのかな〜。
TIGER1をチジャー1と読んでいた中三の俺には誰も敵うまい
>>452 ルーマニアやブルガリアにいった35t軽戦車は、輸出されたのではないの?
ルーマニアは確か輸入だった筈
丁度今回の歴史群像がオデッサ戦だし載ってるな
>>449の人弄ってごめんな
がーでんといいこれといい、そういう時期もあったなってほろ苦く
思い出しているおっさんなだけなんだ。
俺は高校の頃ヨーロッパ戦線をやりながらこの38トン戦車って
投げやりな名前だからかなんかいまひとつだなー、と思ってた。
>>462 ああ、実に見たい。後は仏伊の75mmクラスの砲積んだ中戦車とかも。
>>463 Tschechoslowakei(ちぇっほーすろわ゛かい、とかそんな感じの読み方だた)
>>465 あーR-2とか忘れてたわ。ごめんねルーマニアとチェコスロバキア(´・ω・`)
>>467 フランスにはSAu40というS35の改良型のS40の車体を利用した75mm砲搭載車があり、ドイツ軍と戦闘してる。
砲はルノーB2みたいに車体についてるけど。
そういやチェコスロバキアって一応75mm級搭載の中戦車の計画進めてたよな?
ドイツに併合されておじゃんになったが
>>467 イタリアのP40重戦車は実質75mm積んだ中戦車ジャマイカ?
チェコの75ミリ砲搭載中戦車ってとこで、ヘッツアーは駄目?(^-^)
ヘッツァーセモペンテが中戦車なら
ちょうちょとんぼも中戦車の内♪
473 :
名無し三等兵:2011/05/20(金) 10:40:14.85 ID:0eSxhx1d
あ、『ば』が抜けた
P40って見た目は結構好き
後、あの古臭い足回り意外に地形追従性が悪くないとか聞いたがどうなんだろ?
車重が10tぐらいしかなかろうが、中戦車と言い張れば中戦車。
流れ仏陀ですが、大分前に丸で連載してた北支戦記がおもしろかった。
対戦車砲員の手記で、橋の手前に陣地を敷いて待ち伏せ、そこに何軍だったか敵の戦車部隊が突っ込んでくる。
37mm砲(多分九四式)で何台か擱座させると退いて行ったものの、兵が少ないので擱座車輛を頂くことも出来ず、夜の内に敵さんが持って帰ったと。
あとは鹵獲した装甲車を連絡に使う描写もありました。時代は30年代だろうか。
その頃の国府軍の戦車というと
CV-33、T-26、ヴィッカース6t、T号戦車
かな〜
そこら辺なら国軍の37mm速射砲で殺せるな
フランスのパンターの話しとか知ってる人いない?
確かフランスはパンターで1個連隊か2個連隊丸々編成してるよな
あの75mm砲も発展させてイスラエルとかにも渡ってるし
>>474 26tの車重に対し330馬力ディーゼルエンジン(初期タイプは420馬力ガソリンエンジン)
履帯幅も従来のイタリア戦車と比べて広く取られているから、転輪とスプリング以外の問題は余り感じさせないな
足回りに関しては開発期間短縮やライン確保のために旧式のものを拡大し使用せざるを得なかったという部分がある
イタリアにもう少し余裕があれば、L3やL6のようなトーションバーが採用されていたかもね
>>479 シュピールベルガーの『パンター戦車』ではフランスでのパンターについて4ページ記述がある。
それによると1947年時点でも第503戦車連隊の1個大隊がパンターを装備しており、
そのほかいくつかの駐屯地にパンターとヤークトパンターが保有されていたようだ。
1946年にはZFに電気式変速機を試作させたりしてたらしい。
フランス軍のパンターの評価は、
・20度以上の傾斜があると砲塔固定に支障
・車長用キューポラは便利、あと砲隊鏡が装着できる
・照準手の外部視察装置が(性能はいいけど)照準器しかないので、指揮官が捕捉した目標を照準手が探すのが大変
(でもシャーマンよりは早く捕捉できる)
・発砲反動の吸収が優秀
・機械部品の設計寿命は走行距離5000キロのはずだが、履帯と操行装置は2000から3000キロ
・変速装置は最終変速機以外は設計通りの寿命、でも最終変速機は寿命150キロ…
・エンジンの寿命は平均1000キロ、長くても1500キロ、交換に時間がかかる。だから鉄道輸送大事。
・一部の発煙弾発射装置は火災を誘発する可能性あり
・防御力はまあそこそこだけど、75mm砲弾が連続して命中すると装甲が割れる。攻撃力は優秀。
結論として
・最終変速機とエンジンの信頼性不足が戦略機動性を低下させている。
・きちんと動かすには専門能力を有する兵士が不可欠
>>482 戦車の戦後利用は色々な国で行われてるね。
ソ連だとT-34系はドーザーやトラクターとして使われたようだし、
我が国だとハ号の警察装甲車や牽引車、チハのドーザーとか。
パンターって性能と重量の割には安いよな
それともティーガーが高過ぎたのか?
>>485 IVに少し上乗せした程度の価格だったと記憶してる。安いといえば安い。
ただ、走行装置周辺をケチッたのは失敗だったと(略
>>484 T-44は銀幕スターだしな。
ブルガリア軍でのパンターの評判はどうだったのかな。
>>483 自分の記憶では「部隊編成の維持が困難」「25km走るごとにどこかが壊れる」
と、散々な評価だったと思うんだが、ソースが思い出せない。
フレンチが手抜きすぎなのか、ドイツ人が几帳面すぎなのか……
やっぱあれだね、戦場で使う道具に過ぎないんだから
壊れたり撃破されたりは当たり前。
1台で2倍3倍の敵を相手に出来る物を作ろう見たいなコンセプトって
どこかしらに無理が出るわね。
そこそこの性能で安価かつ生産性の高いものを沢山。
稼働率が50%なら倍、30%なら3倍作ろうぜ!
みたいな考え方の方が合理的なんだろうな。
まあ、状況が許せばだけどw
それは手抜きというか何か根本的に運用面でミスがあるんじゃ
ドイツ国防軍とか武装SSは何者?って話になるし
>>488 『パンター戦車』のフランス軍の評価で、
ドイツ軍は25km以上の長距離を自走させないようにしていたっていう報告が載ってる。
あとその報告はドイツ軍の整備部隊の働きを賞賛しているから、まあ故障が多く整備が大変だったのは確実だろう。
ドイツ軍の場合は戦争中なうえに制空権を取られて移動も大変だったから、条件がより過酷だったともいえる。
細かいところを捕捉すると
・履帯は石だらけの不整地だと勝手に切れることがあり、条件が厳しいと転輪がゆがむ可能性がある
・エンジンは6速から10速の間で走るとき特に寿命が縮む
・エンジン交換には機械下士官1名、兵士8人がクレーンまたはベルゲパンターの支援を受けても8時間かかる。武装も同じ。
最終変速機を壊さないようにするには
・不整地でのギアダウンは特に慎重に
・最終変速機のラッチを解除せずに牽引してはならない
・両側のステアリングシフトレバーを絶対に同時に操作してはならない
ドイツ軍の頑張りが異常だったのか?
しかしソ連軍も捕獲したパンターを運用したようだし……
ここまで厄介な戦車をなんで戦後の仏が戦力化したのか分からんなぁ。
まだ米英の傘もあるだろうし、国内もえらいことになってるんだから、
当面は安くて簡単に運用出来そうなシャーマン系一本で良い気がするんだけど。
国産戦車に向けたデータ取り?
>>493 サンクス。25km云々は多分そこが出所かな。
パンターは砲塔外して操縦席周辺を分解しないと変速機に手が入れられないらしいから大変そうだ。
>>494 10年くらい前にソ連軍のパンター部隊の特集本が出てたなぁ
すっかり内容を忘れたけど、うろおぼえだと、部隊の記録ではパンターの評価は高かった。
特に居住性の高さが評価されてたと書いてあった。
ただ報告書ではそんなに評価が高くなくて、上が怖くて報告書に手心を加えたんじゃないか?と推測してたなぁ。
>>497 整備やらなんやら何かにつけてマンパワーがあれば
パンターも良い戦車って話なんだろうか
趣味の自動車やバイクとか
オーナーは「特にトラブルも無い」とか普通に言うけど
小まめな点検、注意深い扱いとか、当たり前のように前提条件にしてるから
今時の乗用車基準で扱うとあっという間に故障する。
ドイツ軍の当たり前の整備と
アメリカ装備になれた自由フランス軍上がりとじゃ、根底の意識が違うんだろ。
またT34たKVも手間のかかる代物だったから
ソ連軍の前提基準はドイツ軍に近いのかもしれん。
あと戦時の捕獲品は基本員数外で使いつぶせるから、
整備とかをあんまり考慮しなくてもよかったのかもしれん。