[近世総合]大坂の陣、火縄銃、戦国・江戸・大航海時代3
1 :
名無し三等兵:
2 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:13:46 ID:???
おまんこ女学院
3 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:15:22 ID:???
4 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:20:24 ID:???
何で豊臣方は徳川軍到着前に内堀を掘り返さなかったんだろ・・・
小田原で北条軍がやった程度のことを出来ない訳無いが
5 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:23:29 ID:???
>>1 スレ立て乙
これで、軍板内で東洋・西洋を問わず
古代から19世紀後半まで全部カバーできるなw
6 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:28:01 ID:???
7 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:28:26 ID:???
大航海時代でジャガイモがヨーロッパに伝わらなければ
第一次世界大戦も起こらなかったのに・・・。
>>4 埋めるのと掘るのでは、労力に差が生じるのでは?
8 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:29:26 ID:???
9 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:37:25 ID:???
日本に関わる近世軍事史なら以下もある
久保田 正志 『日本の軍事革命』
http://www.kinseisha.jp/0327.htm 日本の西洋史学でも軍事史の研究は進められているから(数年前に、近代ヨーロッパ史の論集シリーズで、『軍隊』という巻があった)
東洋史でも日本史でも軍事史の研究が進むといいな・・・・(出来ればイスラーム・中央ユーラシア・インドの軍事史も)
10 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:38:42 ID:???
>>9 良書だったけど、騎馬の運用に関して鈴木説を鵜呑みにしてたのが凄く残念だった。
11 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:41:10 ID:???
>>9 その本は持ってる。おもしろかった。
>>10 鈴木説とは何? 中世・近世については詳しくないもので、はじめて聞く単語です。
12 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:43:24 ID:???
逆に海外の日本軍事史の研究ってどうなってるんだろ?
そもそもされてるのか?
13 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:45:15 ID:???
軍事史学会は定期的に開催されているけど、
たしか国際軍事史学会が近く日本で開催される予定だったような気がする。
14 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 00:55:36 ID:???
15 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 02:39:07 ID:SSVyFw4s
>>4 それより、冬の陣の前に城の北の備前島を掘削できなかったんだろうか?
あそこを川にしとけば、砲撃もやりにくくなって兵糧不足で寒さに凍える徳川方を
撤兵に追い込むこともできたんじゃないの?
そうなれば、徳川家の権威はガタ落ちになって、天下人に返り咲けるかは別としても
少しぐらいは豊臣の命脈も伸びたと思うけど。
16 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 10:20:53 ID:???
>>15 技術的にも短期間では無理臭い
それに大坂方に大砲に対する危機感がそこまであったとは思えん
17 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 10:37:07 ID:1KtXJW48
>>11 鈴木眞哉の説
騎馬戦闘と日本刀使用の白兵戦否定を唱えた
一部の論を認めるのも吝かではないが、あまりにも極論過ぎて
批判が多く、2chでは殆ど否定されている
個人的には家康批判が根拠ゼロでウザ過ぎる
18 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 10:57:23 ID:???
・和種馬は小さくて体力が無いので騎乗戦闘は不可能
・騎馬隊の存在は捏造
・日本刀は首を取る為の道具で戦闘には使えない欠陥品
・合戦の死傷者の大半は飛び道具による物
鈴木説の概要はこんな感じ
19 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 11:19:13 ID:???
>>18 1,和種の馬でも騎馬戦闘は可能。ただし、薩摩は戦闘時全員歩兵になる。
2,戦国期、既に諸兵科連合で騎兵を騎兵として使ってる。
3、日本刀じゃなく太刀だけどね。
あくまでサブウエポン。
一番刀が活躍したのは幕末の動乱時の暗殺とかだったりする。
新選組とか。
4、合戦の死傷は、飛び道具が多いのは間違いないが鉄砲による負傷は少ない。
鉄砲の運用が理解され始めると急増。
戦国初期は弓と石礫によるものが多い。武田信玄は石礫を多用した。
20 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 11:26:44 ID:???
俺の知る限りアニメで一番時代考証が性格なのはクレヨンしんちゃんの戦国合戦絵巻。
あれみると良い。
石礫はなかなか馬鹿にできない 死ぬこともあった。
21 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 11:36:45 ID:???
22 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 11:39:20 ID:SSVyFw4s
>>16 大仏殿作ったりする暇や、大量の浪人衆や近隣住民を
金銀で雇い集める財力があるならできなくもなさそうに思えるんだが。
それに秀吉が作った大阪城本体の堀と市街を包む総堀の規模を
思えば、川の中州の島ぐらい・・・と思ってしまう。
23 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 11:48:10 ID:???
>>22 川の中州を取り除くとなると水を食い止めながら行う必要があるので、特殊な技術が必要
そしてその技術は京の商人も含めて、幕府が独占していた感がある
24 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 12:33:45 ID:???
すでに城普請の才が有る奴が大阪方にいなかったのが敗因
25 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 13:24:21 ID:???
26 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 14:41:00 ID:???
>>19の3を補足しておくと、足軽が持ってる刀は「鎧通し」で首を狩る刀じゃない。
27 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 14:53:19 ID:???
日本の陣備はマニュアルされてるワケじゃ無いし砲兵もいないんだから
諸兵科連合なんて大層なものじゃ無い
28 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 16:25:03 ID:PRz0Eq/z
>>27 慣習としてあるけどね各地の大名の。
薩摩はなぜだか全員歩兵とか。
歩兵で強いとか珍しい地域だね。
江戸時代に兵法書がブームになったけど、編成とかまでは何故か書かれてない。
江戸幕府は武家政権のくせに武張ったことがきらいなのかな?
鉄砲も江戸時代、害獣駆除の農機具として普及したんだけど、関東には入れさせなかったし。
29 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 17:21:13 ID:???
>>27 基本が各種足軽隊(旗、弓、鉄炮、鎗)と、騎馬武者隊を一列横隊に並べるシンプルな形だから
砲兵は当時の日本では野戦においては使い道がないのでない
各種兵科に分割している部隊が、侍大将の指揮で状況に応じて戦うというのは諸兵科連合という
他ないと思うのだが
30 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 17:37:52 ID:???
砲兵が無いから諸兵科連合じゃないんならアレクサンドロスの軍も諸兵科連合じゃなくなるな。
31 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 17:40:51 ID:???
>>22 天下人が諸大名に権力の確立含みでやらせるのと、
一大名に落ちた籠城者では動員能力がまるで違うだろ
それに勝手な野戦工事なんて幕府がやらせてくれんわ
強行したらそれが開戦理由になるしなあ
32 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 18:07:56 ID:???
>>29 時代が下るにつれて大鉄砲や石火矢みたいな大口径の鉄砲は増えていったし
それ等より火力の高い砲兵がいらないって事はなかったろ
数を用意出来なかっただけの話で
33 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 18:48:54 ID:???
>>32 あれはあくまで攻城用、野戦では大砲は使われなかった
せいぜい、関ヶ原で石田が使ったとされるくらい、それもかなり胡散くさい
34 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 19:08:37 ID:???
日本の戦国期の大砲の貧弱さは、道路事情の問題なのか生産能力の問題なのか?
城が都市じゃなくて山城ばっかだしなあ
アラブやヨーロッパが小銃よりもむしろ先行して大砲を発達させてるのと比べるとちょっと違和感あるよね
35 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 19:29:23 ID:???
36 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 19:50:35 ID:???
道路事情なら中国も似たり寄ったりだけど
明は普通に大砲を運用してるような
37 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 19:56:09 ID:???
山があるのが問題
自転車で坂道登ると歩くよりキツイのと同じ理由
下りは下りでヘタをすると踏み潰されるし
38 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 20:54:06 ID:???
>>35 やっぱ常識的にはそうなるよなあ
人馬で踏みしめられていても、ちょっと雨が降ったら動けませんじゃ軍用には使えんし
街道整備の進んだ幕末でも、大砲の主力は運用の楽な四斤山砲だしな
ルイ12世のイタリア侵攻では既に大砲が大量運用されているのに、
それに比べて我が国は、なんてしたり顔で言うヤツ見ると結構むかっと来るわけだが
まあ輸送インフラも国の指標だけどさ
39 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 20:58:45 ID:???
強力な中央集権政府が存在しなかった、のが一番の原因か?<舗装道路の不在
40 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 21:12:56 ID:???
舗装技術が未発達だったのが最大の原因じゃね?
石田三成が農村にかくまって貰う時の条件が『時が来たら石畳の道路を作ってやる』・・・だぞ
41 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 21:40:36 ID:???
適当な資材の不在とか都市の未発達とか要因は結構あるよな
他にも、多雨の気候とか山だらけの地形とか
江戸時代に入っても、参勤交代とかの人の通路としては街道整備しても、物流は海運に任せちゃった部分大きいしなあ
案外水運が一番の原因かもしれん
42 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 21:45:12 ID:???
日本って、河川・沿海航路が昔から活発にし利用されているしな〜
特に江戸時代の海運・水運の発達は目覚ましいものがある
43 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 21:53:57 ID:???
幕府が車輪の制限をしたせいで
道路事情の発展は望むべくもなかった
44 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 22:10:05 ID:???
>>43 巡り巡ってチハたんまでインフラの貧弱さの犠牲になってるからな
45 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 22:37:10 ID:???
日本の戦国期は、鉄砲保有数が世界一
そんな話を聞いたのですが本当ですか?
46 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 22:51:21 ID:???
多分、そうなんじゃないかなー
というレベル
47 :
名無し三等兵:2011/02/03(木) 22:52:22 ID:???
48 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 10:19:06 ID:???
>>38 それに大陸では文字通り馬力のある大型馬が重量物の牽引運搬に使えたのに対し、
日本では専ら馬力の劣る小型馬しかいなかったので、同重量の大砲を牽引するのにも
日本の場合はより多くの馬を要する事になってしまったとか。
その為、大砲などの重量物の運搬は大陸のそれに比べてひどく効率が悪く、その上
状態の悪い道路も山脈や海峡で寸断されているので、大規模な砲兵隊の運用など
よほどの大勢力でもない限りやりたくても出来なかった・・
てな事が以前読んだ本に書かれてました。
49 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 10:50:03 ID:???
ばんえい競馬みていると結構馬力あるようにおもうのだが、力不足なのかえ?
蒙古馬なんかみてもそんなにデカイようには思えないんだが。
50 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 11:47:42 ID:???
現在日本で見られる馬は専ら明治以降に海外から入ってきた物で、
江戸期以前の日本馬とは別物ですからな
51 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 11:59:32 ID:???
>>49 蒙古馬は小型だね
でもモンゴル大砲は運用していないしな
攻城用のカタパルトとかは多用したみたいだけど
52 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 12:04:04 ID:???
>>50 いやそんなのしっているが。
サラブレッドや汗血馬なども基本的に農耕向きじゃないだろ。
53 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 12:15:04 ID:???
明は同時期の西欧とは比べ物にならない規模の
砲兵隊を運用していましたが。
54 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 12:24:29 ID:???
明の砲数は高炉の数が桁違いってのもあるかね
55 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 12:53:35 ID:???
欧州同様に、紀元前から街道・運河などの整備が進められていたのも大きいんじゃないかな。
まぁ、経済力の高さが、一番の要因だろうけれど。
56 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 12:59:48 ID:???
>>50 いや馬に乗った武士などを見るとそんなに馬が小さいとは言えない
俗説に吊られすぎ
57 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 13:12:57 ID:???
それまさかとは思うが大河ドラマでみた武士はってオチじゃないだろうな。
58 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 13:19:10 ID:???
>>57 当時の屏風絵とか見ると、むしろヤバイぐらい馬が小さかったりするよな
乗ってる武士の身長と頭頂高が大差ないんじゃね?つうぐらい小さい場合あるし
59 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 13:25:37 ID:???
>>49 ばんえい競馬のどさんこ≠北海道馬だよ
あれはシャイアーやペルシュロンを掛け合わせて作出された在来馬とは殆ど関係ない馬。
そして現在世界で唯一現役で使役されてる重種であり
もっとも重い荷物を曳ける馬でもある。
>>53 戦国時代の日本で大砲が流行らなかった理由としては
砲車に使われるような大径の車輪を作る技術が
民間に広く普及していなかったというのも大きいんじゃないかな
大八車も普及したのはようやく江戸時代になってからだし。
60 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 13:31:43 ID:???
http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/04-shiru/02-hokkaido-history/index.htm 江戸時代、夏の間使役するために連れてきた南部馬が冬期間北海道に放置され、気候風土に適応するようになったものが
北海道和種、いわゆるドサンコである。19世紀初めに著された『松前志』や18世紀末に著された『東遊雑記』に、南部馬などの
内地馬とはやや異なる資質をもつ蝦夷地の馬についての記事がみられることから、この頃には既に北海道和種が成立していた
とみることもできる。北海道和種は山林原野に周年放牧して飼育されるのが基本であり、その飼料はミヤコザサが中心となって
いる。したがって、飼育されている地域はミヤコザサの分布と重なりあっていた。
馬車が普及する以前は馬による物資運搬は駄載が中心となっていた。体高が低く体の大きさの割には駄載可能な重量が大きい北
海道和種は駄載に適した品種であった。モータリゼーションの普及と道路整備が進んでからも、山中における高圧鉄塔の建設など
では北海道和種による駄載が大きな役割を発揮した。駄載には「駄づけ」とよばれる技能が必要であるが、道南地方にはこうした
技能を継承している人たちも現存している。現在の飼育頭数は、かつてに比べれば著しく減少しているとはいえ、在来8種のなかでは
格段に多く、約1,800頭が道南地方を中心に飼育されている。
ばんえい競馬とは別に北海道馬の起源は南部馬とあるが。
在来馬と洋種をかけあわせたんはあくまで競馬用だろ。
61 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 13:40:43 ID:???
日本の地勢は車輪を運用するにはかなりの無理がある
62 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 13:50:22 ID:???
63 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 15:02:31 ID:sWqp6Ozt
64 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 15:43:57 ID:???
日本は去勢の技術がなかったから、使役動物を扱いやすく改造できず、そのせいで
多数の動物に重量物を牽引させるような芸当は難しかったんじゃないかなー。
あとは大砲が発達する前に戦乱の時代が終わってしまったこと、財政的に余裕の少ない
小規模な封建領主が競り合ってたせいで、高価なわりに使用機会の少ない大砲は
普及し辛かったと思う。
65 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 16:12:07 ID:???
馬が駄目なら牛に引かせても良いがそれもないというのは
家畜ではなく、別の問題でしょう
66 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 16:13:35 ID:???
和種馬は平均で13ハンズくらい。モンゴル馬とほぼ同じ。
中世欧州で装甲騎兵として使われたデストリア種も精々15ハンズ程度だと言われている。
元々馬ってのはそこまで巨大じゃないのよ。
67 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 21:54:37 ID:???
日本では明治になるまで何故か「蹄鉄」が導入されなかった。伝わらなかったのか普及しなかったのか謎。
馬用のわらじがあった位だから蹄の保護の必要性は認識していたみたいだが。
68 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 22:43:49 ID:???
69 :
名無し三等兵:2011/02/04(金) 23:44:27 ID:???
でも蹄のコンディションを保っておくのは大変
手間もお金もかけられない駄馬ではごらんのありさまだよ
「この藁沓は柔らかい地面を歩けば約二里しかもたないが、
固い地面では一里もはけないのである。
馬はいつも藁沓をはくから、足は柔らかく、ふわふわとなっている。
だから、藁沓なしでは歩けなくなっている。」
イザベラ・バード『日本奥地紀行』
70 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 00:00:55 ID:???
イザベラさんに「では蹄鉄なしではマトモに歩くこともできないおたくの馬はどうですか?」
と聞きたいな
71 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 00:14:24 ID:???
ヌミディア人は鐙も銜も鞍も蹄鉄も無い馬を自由自在に操ってたんだよな
72 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 20:52:38 ID:Z4CvUsrx
信長が鉄砲に先見性があるという話は良く聞くが
一方、家康が鉄砲に加え、大砲運用のプロでもあるという話はあまり一般的ではないだよね
ついでにいうと藤堂高虎のものとされる、築城の特徴は一部は家康の発案だし
73 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 21:19:33 ID:???
74 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 21:34:08 ID:Z4CvUsrx
>>73 2町先の的を三発撃って全て命中とか、50間先の鳶を撃ち落としたりという話がある
加納城や福井城の縄張りも手掛けたというし、層塔型天守の考案者の一人とも考えられる
75 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 21:36:55 ID:???
金正日伝説みたいだな
76 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 21:43:52 ID:Z4CvUsrx
77 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 21:48:06 ID:???
個人の戦闘力をメインで語るなら、足利義輝とかどれだけ凄いんだよと
78 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 22:14:30 ID:Z4CvUsrx
個人の戦闘力と言うよりそれを実戦力に反映させる事
大坂冬の陣に備えて多くの大砲を準備したことが一つの例になる
79 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 22:20:53 ID:???
いやだからさ、個人の戦闘力なんざほとんど価値なんて無いってことだ。
職業軍人で酒宴の席でポン刀振り回したりする東條とあらゆる武道を学んできた昭和帝が率いる日本軍が、
車椅子のルーズベルトや、徴兵経験はあるものの殆どサラリーマンだったトルーマンの率いる米軍に惨敗したんだぜ
80 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 22:24:47 ID:Z4CvUsrx
ないよ、ないけど武器に対する理解と運用方法を習得するのに
個人が武芸を究めるのはそれなりに必要なことと言える
81 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 22:29:51 ID:???
若い頃は商人ないし農民だった秀吉や小西行長、斉藤道三なんかは、
そこいらの武士に比べて武芸に秀でていたとは思えないけど、
歴史に残る戦いをしたわな
82 :
名無し三等兵:2011/02/05(土) 22:35:39 ID:???
83 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 10:58:43 ID:???
>>79 龍造寺隆信とか、大谷吉継とか立花道雪とか。
84 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 12:56:29 ID:???
>>79 じゃあ兵器の優劣にも意味はないってことだね
数さえいれば竹槍持たせて突っ込ませればいいんだ
君の戦争って簡単ですね
85 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 13:16:00 ID:???
武将個人の戦闘力に意味がないと考えている人は
兵器の優劣にも意味が無いと考えている
・・・と解釈されるらしい
86 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 14:26:51 ID:???
それ誘導尋問だろうだれもそんな事言ってないだろ。 指摘されたからってヒステリックになるなみっともない。
87 :
戦国オタク:2011/02/06(日) 19:02:31 ID:KNv2mGkR
>>78 方広寺鐘銘の一件のかなり前から主である秀頼一族皆殺しにするべく準備してたんですね。
陰性の蛇のような唾棄すべき人物ですね。このような人物が日本の為政者に
なってしまったのは天魔の仕業と言うべき不幸でした、司馬遼が忌み嫌ったのも
尤もとうなずけます。
88 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 19:31:57 ID:???
>>87 征夷大将軍より上の関白という地位。それに叙任される家柄の武家、そんな危険な豊臣家を存続させる事が出来る訳ない。
別に家康でなくても考える事だろ。
89 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:14:43 ID:???
すると日本の本来の盟主である将軍様が日本を征服の暁には天皇家や愛子一家をどうすると思う?
90 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:27:49 ID:???
天皇の政治的実権なんてとっくに無くなってるし、公家も武力と財力を持ってないから問題ない。
豊臣家には財力と武力、他の大名家に対する影響力があるから危険な存在となる。
年月をかけて徐々に力を削ぐ手も有るけど成功するとは限らない。自分が生きてる間に盤石なモノにしておきたかっただけ。
91 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:28:05 ID:???
調子にのって豊臣を氏にもしたからな
成り上がり見本だね
92 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:31:44 ID:???
盤石とは言ってるけど、体制はお粗末極まりないね
その点、徳川はよく出来てるよ
あれだけの平和を作ったんだから
93 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:39:13 ID:???
本多正純の失脚を思えば、徳川も豊臣と大して変わらないお粗末な面を持っていたと思うがね
94 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:45:15 ID:???
人間が作る組織に完璧があるとでもいいたいのか
95 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 20:50:16 ID:???
>>93 元々駿府政権は一時的なものであることを前提とした体制だったから
96 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 21:14:01 ID:???
97 :
名無し三等兵:2011/02/06(日) 23:33:02 ID:???
>>89 戦国末期から江戸初期の話かと思ったら、北の金王朝の事かよw
食糧不足で動員も出来ず、金が無くて兵器の更新や訓練もマトモに出来ない国が日本征服って…大坂の陣で豊臣方が勝利するより難しいだろソレ。
98 :
名無し三等兵:2011/02/07(月) 07:39:06 ID:???
99 :
名無し三等兵:2011/02/12(土) 10:02:00 ID:???
「個人の武勇に意味ない」って意見があるが、少なくとも標準的なそれがなければ、下の者はついて来ない。
社会人としての経験があれば、現場の空気からそれが分かりそうなもんだ、それとも軍師気取りなのかね?
家康の記録で“二町先の的に当てた”ってのは、明らかに誇張された記録だからな。
因みに一町は109mだから、家康はライフルも刻まれていない鉄砲で、218m先に当てたことになる。
物理的に不可能だから!
的の大きさ次第だと思うが。
家康については、神君ってことで神格化されてるし
伝説も尾ひれをつけて育っているだろうけど。
砲術師の技に、町撃ちとかの遠距離射撃はあるようだから
家康が鉄砲にある程度熟達していた可能性はあると思う。
家康の武勇については誇張もあるだろうが、足利義輝同様に、どこかの流派の免許皆伝持ってなかったか?
ちっとやそっとで打ち取れるような人物ではないよ。
少なくとも、このスレにいる住民より家康の方が遥かに強いね。
>>102 戦国大名が、ご進講を受けてやる範囲と
実際に道場に通ったり、弟子入りして身につけるのとでは
やっぱり違うんじゃないだろうか。
京都の公家衆にも上泉信綱から剣術の披露をうけた
人がいたはずだし、印可も受けていると思ったけど
でも、吉岡道場の連中を切り倒せるような腕前になったとは
正直思えぬ。
義輝は平蜘蛛の人が攻めてきたとき、十数人切り殺したそうだから、
それなりに物にはなったんじゃないか。
>>100 的が畳二畳分くらいの大きさかもしれないじゃないかww
それに1000発中1発でも当たれば「当たった」というのは嘘じゃなくなるw
不可能は言い過ぎwww
ま、家康は良く分かんねーキャラだよな
鷹狩りマニアで晩年まで山野ホイホイうろつきまわってた記録が残ってるのに、
一方で肥満がひどくてフンドシも自分で締められなかったっていうし
それなりに武術に通じていたらしいのに、三河の土豪時代からそっちの武勲聞かないしな
>>106 そりゃあ、そっちの方は全部本多忠勝に任せたから
大将自ら剣を振るって斬り込んで行くアホは謙信のみ
信長もそれに近かったけど
信長は別格だからな。三好残党と戦った天王寺の合戦頃迄最前線で槍働きしていたとの記述が信長公記あたりにあったはず。
大怪我をしたという話は銃で狙撃されそうになった話ぐらいしか聞かないしバケモンだね。
桶狭間の合戦も、たやすく奇襲できるような地勢ではないらしい。この頃の研究では文字通り正面から決戦して義元の首を挙げた
乾坤一擲の戦いではなかったとの説もある。
火縄銃の有効射程は100mで、これは鉄砲足軽の集団が、これも敵の集団と言うかなり大きな的に斉射した場合。
一尺(30cm)四方の的なら、その半分以下の距離でも当てるのは難しいし、明智光秀はそれが出来たので達人と呼ばれた。
申し訳ないが二町先では、畳が二畳あってもメッタに当たらないと思うよ、戦国時代の火縄銃では、散布界が広すぎる。
(´・ω・`)つ 狭間筒
権現様は装弾筒付き翼安定徹甲弾をお打ちになられたのかもしれませんな
狭間筒がどの程度当たるのか、本当に知りたいものだな。
これは現代の話しだが、全国競技で優勝した射手の場合だと、50m離れた30cm
四方の的に、95%の確立で当てられるそうな。
良し! データが見つかった。取り敢えず幕末のゲーベル銃なら、二町ほど
先の的に8%の確立で当たるそうだ。 これは恐らく軍用標的だから、人間大の
的だと考えて良いだろう。
もっと工作精度の低い戦国時代の火縄銃でも、千発打つ必要は無さそうだ。
誰も原史料読まないであれこれと言ってているのがなんだかな
「駿府記
慶長十六年辛亥年八月十三日、
今朝御浅間令放鉄砲給、置目当二町外、中其星五度(三度)、
御近侍放之、同皆不中 」
駿府の大御所様\(^o^)/
で、これ城内でなくわざわざ浅間山まで出向いとるので、大砲を撃っているのではという話もある
一発も当てられない近習情けナス(´・ω・`)
結局的のサイズは書いてないな
確か江戸時代の砲術競技で、300m以上離れた距離から、90cm×90cmの的を狙う遠射があったはず。
何発も撃って、当たるか外れるかを競う(と言うかめった当たらない)おおざっぱなものだけど。
家康の射撃の腕なら、五十間先の鳶を三度撃ち、二羽は落ちて、
一羽は足を切られて飛び去っている
一流の名人と言って良いかと
家康の子作りの腕は種をばらまいて一向に孕まなかった秀吉の陰茎と比較にもならないね。
中古車マニアだしな
処女厨どもにあの構わなさを見習わせたい
結果、結城秀康って言う危険因子を作っちゃったし、
それが表面化せずに済んだのは結果オーライと言うかなんと言うか
秀康ってそんなヤバイ要素あったっけ?
オヤジむっちゃくちゃ恨んでそうだし、
早い時点で分家させて徳川軍団分裂させることだって不可能ではなかったし、
関ヶ原時点で徳川家の後継者確定してなかったから、家康ヌッ殺せば親豊臣の大老筆頭に祭りあげられるし、
関が原後でもその気になれば反乱は起こせたわけだが。
ってまあ危険人物ね♪
>>124 前半生のセックスはまず子孫を残す意味で未亡人や経産婦中心の性生活をおくったが、
ある程度子作りすると、若い子中心に切り替えてますよ。
多分125は松平忠輝を秀康とまちがえているか、影武者徳川家康を読んでそのイメージをひきずっているのでしょう。
実際の秀康は秀忠と比較した場合、一度も官位を上回ったことがなく、信康が死んだあとは明らかに秀康ではなく
秀忠を後継者として家康は遇してますね。
129 :
125:2011/02/17(木) 01:22:09 ID:???
>>128 間違えてないし、影武者徳川家康なんて読んだ事もないよw
忠輝は危険因子といえば危険因子だけど、少し時代が遅すぎる
結城秀康は身分は北関東の弱小大名である結城氏の養子にすぎず、
かつ、大阪の陣をまたずして死去した短命の人物にすぎません。
福井城は家康による縄張と言われているね
江戸城の縄張すら他人に任せた家康本人の縄張かあ
>>133 正確には高虎の基本案に、家康が修正したとしている
福井城や加納城と異なり、江戸城は平山城だから縄張は
専門家の知恵が必要だったんでしょう
135 :
餅は餅屋:2011/02/17(木) 12:23:48 ID:???
安土城なんか織田信長の「ぼくの考えたスゴいお城」的で、防御施設としては「?」だからな。
幕末の4賢侯と称された松平春嶽って福井藩だったと思うけど、あの人が秀康の子孫になるの?
途中で養子などが入るケースが多くて江戸時代の大名って血縁関係が訳わかんない事に
よくなっているが、春嶽は直系の子孫になるの?
>>135 まぁ野戦はめっぽう強いが城攻めは下手糞な謙信への備えだし
保守
140 :
rmtbrt:2011/03/16(水) 13:54:20.89 ID:gT3gtoMC
安土は元から行政用の城だろ
よく一本道の大手道が挙げられるが、あれを実際に登った身としては
逆に勾配がきつくて大変
宮殿と考えるべきなんだろうな
145 :
名無し三等兵:2011/03/24(木) 14:41:53.11 ID:GhKkPcfg
>>142,144
いずれも日本五大山城に入っとらんね
つまり大したことない
146 :
名無し三等兵:2011/03/25(金) 12:14:20.76 ID:VBa2ry/V
日本五大山城は急峻度で選ばれたわけではないから
全然大した事ない
147 :
rmtbrt:2011/03/25(金) 12:51:52.75 ID:0niwp4EQ
近世ヨーロッパでは、銃弾の装填にペーパーカートリッジを使っていたと聞くが、その紙の生産はどうやっていたんだろう。
噛み切るから使い回しできないんで、ある程度均質の物を大量生産しないといけないよな?
日本の早盒だと、紙以外にも金属、革製のものがあったらしいが、ヨーロッパの方ではどうなっていたんやろうね?
その頃はすでに紙があるから問題なし
152 :
150:2011/04/13(水) 21:29:42.88 ID:???
>>151 遅くなったけどレストン
紙の普及の推移や、どの程度貴重だったか調べてみるよ。
155 :
名無し三等兵:2011/04/28(木) 22:05:02.32 ID:1YbyTr52
大坂冬の陣では惣構の櫓等も砲撃でかなりの損害を受けたというから、
浪人衆が和議を支持したのも当然
いや家康側の食料不足は深刻だったよ
もう少し頑張れば良かったのに
それは豊臣家の蔵入地からの没収米や自身の蔵米、合せて十三万八千石で解決済み
徳川側の兵站責任者は誰だったんだろ?
彦坂光正、他にも各地の奉行や京都所司代の板倉勝重が手がけている
160 :
名無し三等兵:2011/05/01(日) 10:25:47.03 ID:ALfD5pGk
後、街道での各種兵站補給については秀忠の年寄衆が連名で触れを出している
徳川家の場合、専門の一人にすべてを任せるのではなく、それぞれの奉行・代官
が行い、それを年寄衆が監督するという形のようである
>>159 160
かたじけなし。秀忠は関ヶ原遅延で兵站補給には色々
学んだろうな
162 :
名無し三等兵:2011/05/09(月) 11:27:28.94 ID:ZM7nBQAA
大坂城砲撃は本丸への射撃ばかりが取り上げられるが、
本道は惣構に対する砲撃
これで結構な損害があったから、浪人衆も和議に応じたんじゃない
フリントロックは、ガンフリントの当たる衝撃で銃身がぶれるから火縄に比べ命中精度が悪いらしいが、実際のとこどうなんだろ?
動画見る限りじゃそこまでぶれているようには見えないから、やっぱり弾丸が銃身内でごろごろ転がるのが原因か?
引き金が硬いと銃身がぶれるのは実経験から分かるんだが…
>>163 動画なんかの人は、慣れてるからじゃないかな?
素人がやると差が大きいとか?
はたで見てわかるぐらいブレてたらそりゃもう全く当たらないだろ
ダブルアクションの拳銃のブレは見てて分かるけどね。ストックをしっかり肩に当てて撃つ銃が、火打石が当たっただけでぶれるなんてやっぱり考えづらいな…
フリントロックと火縄ではどっちが不発率高かったんだろ?
あと、フリントロックは国産では何か不都合があったのか?
滑腔砲身な時点で命中精度なんておざなりなレベルだろうに、発火装置が火縄か火打ち石かでそこまで変わるものなのかな?
利点である密集陣形に意味を見いだせなかったからでは
>>169 フリントロックの最大の長所ってそこだよね。
尾栓の完全な閉塞が出来ないんだから火口から火が噴くのは避けられないだろ
パーカッションだと、ニップルが蓋をするかたちになって多少はましかもしれんが
>>167 不発率は確実にフリントロックのほうが高いだろ。
火縄だと火を押し付けてるわけだから。
逆に、火打石の火花程度でよく火薬に着火できると思うわ。
日本でフリントロックが普及しなかった理由は、銃用に適した火打石が取れなかったから、なんて説があるね。
他に精度的には衝撃のせいで不利だとか。
火縄の場合は逆に、ロックタイムが長くてしかも安定しないとか、別の不利があるがこっちは訓練でなんとかなるっちゃあなんとかなるからなw
ただ基本的には、平和な時代が続いて武器の改良へのモチベーションが低かったことに尽きると思うけどね。
江戸中期以降の武士って基本みんなド貧乏だしねえ…
173 :
rmtbrt:2011/05/10(火) 16:44:02.62 ID:rLs+6Avg
火打ち石は石から火花が出るのじゃなく石で打たれた鋼が削れて火花を出す
火花は溶融した微小な鋼片で1000度くらいあるから火薬はかなり確実に発火する
が火縄よりは不確実だろうか
175 :
突撃兵:2011/05/10(火) 18:03:41.07 ID:???
>>172 >>174 日本でフリントロックが普及しなかった理由の1つとして多湿もあるそうです。
大英帝国も高温多湿なインドでは火縄式を使用してました。
>>172 雨中だと、フリントロックの方が確実ですの。
フリントロックにしろ火縄銃にしろ火皿の火薬の燃焼ガスが薬室内の火薬を爆発させるまでタイムラグがある
引き金を引くのと発砲にはタイムラグがあるのだからフリントロックの打撃による振動は命中率に影響ないんじゃないかな
178 :
名無し三等兵:2011/05/10(火) 21:55:51.50 ID:ifUsvzBV
豊臣家もあれだけの財産あるなら外人部隊とか傭兵団とか雇ったらよかったんじゃね?
彼ら用に海外の食料も輸入とか。
>>178 一番手っ取り早い自国の浪人雇ったじゃん
逆にスペインが中国を占領する計画に、日本の浪人を活用する
つもりだったというし
180 :
名無し三等兵:2011/05/11(水) 01:13:09.58 ID:mOuXdmsB
時代劇で火打石で行燈に火をつけるとかあるのは間違い
まず良質な炭をパウダーにした火種に火をつける
息を吹きかけて慎重に火を大きくする
これにおが屑などをかけてさらに大きくし
紙縒りなどに火を移して行燈に火をつける
薪や炭に火をつけるにはよく乾燥したつけ木に火を移し
同じくよく乾燥した木や紙であるていど大きい火をおこして
それで薪や炭に火をつける
このように火をおこすのはけっこう面倒だったので
火種は絶やさないようにしていた
数日家をあけるのでなければかまどの火種や煙草盆の火種は蓋をして燻らせていた
小型のアンカのような携帯用の火種もあって外出先でも煙管を使えた
181 :
名無し三等兵:2011/05/11(水) 02:37:18.34 ID:mOuXdmsB
日本でもヨーロッパでも火縄/フリントのマスケット銃の演武では
銃手は2mほどの間隔をとっている
火皿の火薬および薬室の燃焼ガスは右側の銃手に影響するから
2mほどの間隔は必要なのだ
ヨーロッパの密集隊形というが雷管が発明されるまでは同じだったはず
183 :
名無し三等兵:2011/05/11(水) 03:01:58.93 ID:mOuXdmsB
>>182 だから銃手は2mくらいの間隔だったはず
今のヨーロッパの演武もそうしてる
戦場の絵はデフォルメなんじゃないの?
>>183 そんなに間隔開けてたら、騎兵の突撃に対抗できないだろ。
だからこそ欧州は一斉射撃が広まったんじゃない
暴発しても同時に発射されれば同じ事だし
銃剣も横隊戦術も知らんお客様か……
フリントロックで密集したら右隣の人は火傷するな
そんなの覚悟の上
となると、日本でフリントロック流行らなかった理由の一つは
騎馬兵への脅威がなかったからかな?また、足軽鉄砲と士鉄砲
の様に使い分けてたなか、太平で集中運用の必要性が薄れたのが
一因かな?・・そういや江戸周囲では鉄砲の訓練も規制されてた
よね
>>187 フリントロックで密集できないってすごい珍説だな
根拠あるんなら出してくれ
現代の演武以外で
>>174 鋼が燃えるんか。
初めて知ったわ。
お陰で一つ賢くなった。
>>189 密集陣形というものは元々、技量が劣るか戦意の低い兵を主力とした
軍隊が編みだしたものです
その意味で律令制の一時期を除き、基本的に戦士階級が主力であり
続けた日本では必要ないものであった
>>192 んなこたないわな
戦士階級が主力であった時代のほうが短い
平安後期からせいぜい南北朝ぐらい
足軽って、形態的に不分明な部分はあるが、半傭兵だしな
一方で戦国期の大規模戦闘になると長槍による密集陣形が戦術の基本となるし、初期の鉄砲に一番期待されたのはこれに斉射で打ち込んで陣形を崩すことだった
>>193 侍は突撃戦力の根幹だし、足軽も弓や鉄砲は常時雇用色が強い
槍足軽は臨時雇いの範疇だが、これも戦国時代半ばから支援兵種に
後退をしている
まぁ、足軽を戦士階級とするのは「戦士」のイメージが人によって
全く異なるから無理強いはしないけど
>>192 すごい新説を聞いたな。密集陣形の元祖であるファランクスの使用者の一つであるスパルタは軍隊が国家のふりを
しているような超軍事国家で、市民は常時軍事訓練が必須だったし、
密集隊形であるレギオンを主兵力に使っていたローマ軍は職業軍人からなる常備軍だぞ。
スイス傭兵やランツクネヒトも密集陣形を組んで戦ったが、彼らも戦争を生業とした生粋の戦士だわな。
そもそも訓練を積んでいない人間に密集陣形組ませたって、戦力にならんわな。
>>195 ああ、それらは単に古代ギリシャの真似をし続けたから(スパルタは同時代だから少し違うが)
ついでにいうと傭兵は技量の問題でなく、財産が身一つなので容易に離脱する
>>197 密集陣形採用の主要な理由って一箇所に集めて監視しないと、逃げる、勝手に略奪始めるってことだもんね
それと、兵隊なんてアホばっかだから適切な戦闘判断ができないし
だから近代市民国家が成立し、また兵士の基礎教育の水準が上がると、何かと融通の効かない密集陣形は廃れていった
まあ現実の戦術上の問題も当然あるけどな
>>198 根本的に認識が間違ってるな。戦闘民族って言っていいくらいだったヴァイキングだって軍隊との戦闘では
「盾の壁」っていう密集陣形を組んだし、前近代の火器がない時代の兵士が密集するのはそうすることで
衝撃力を増し、防御においても相互支援を行うためなんだよ。
“ギリシャ・ローマ式の決戦”を最終目的とする軍隊は相手を叩き潰さなくてはならない。だから無理をしてでも
陣形を組んで(機動性が損なわれる)でも戦ったんだよ。
あと、スイス傭兵やランツクネヒトは鉄の軍規で知られていて、気ままな傭兵とは
程遠いぞ。
>>199 「盾の壁」なんて掻盾持って前進する中世日本と大して変わらない
「ギリシャ・ローマ式の決戦」と言うが、それは逆に身動きがとれないから
結果として殲滅されてしまうということ
>>200 鉄の軍規と言ってもそれはあくまで、程度問題に過ぎない
死ねば何も残らない存在というのは事実
日本みたいに「首」という明確な恩賞基準もないし
なんかこの、俺様理論で密集隊形否定している奴は、まともな戦史の本を一つでも読んだのかと。
ライフル銃が一般化するまで、肩と肩が接する密集隊形って、基本中の基本戦術なんだけどな。
>>202 「西洋軍事史」においてはね
というかそれのみで日本の軍事史を語ろうとして、
これまで碌な考証ができていなかった訳だ
「備」が提唱されるまで、誰もそういうものの認識が
できていなかった
206 :
突撃兵:2011/05/12(木) 01:00:01.77 ID:???
>>201 ガリア戦記にも書かれてるがレギオン、軽歩兵や弓兵、騎兵等を用いて金床と鉄槌を禿の女誑しがやってるが。
ギリシャでもアレキサンダー大王がファランクスと騎兵を用いて金床と鉄槌やってるが。
>>181 フリントロックは機構的に火蓋を閉じていないと発砲できないから、装填中とかじゃない限り暴発はありえない。
まぁこのスレ的にはTotal Warシリーズを経験した猛者ばかりだから密集隊形の重要性は嫌というほど分かってるはず。
ちなみに60年代大学闘争における、鎮圧に出動した機動隊も基本的には防盾の密集隊形を組んだ。相手が火器装備でなければ現代でも密集戦法は有効。
そういえば13世紀モンゴル軍は弓騎兵の散兵戦だったが、城塞に立て篭もられたらどう対処したんだろう…?
>>208 ホントに密集したのはパーカッションになってからだろう
フリントロックでそんなに密集したら右隣の人が火傷してしまう
ある程度間隔を空けたはず
>>208 基本は漢人さんお仕事ですじゃね?
結構柔軟に他兵種も組み込んでたし
後は徹底的に脅迫かましまくりだろうね
>>209 だから想像で語るなと
だいたい、撃発方式がパーカッションになるのはライフル時代だから、
むしろ密集方陣を捨てて散兵戦術に移行する時期だ
>>206 歩兵は密集陣形ですね
「盾の壁」はその上のヴァイキングのみを指しています
>>212 そんな40年も持たなかった時代のあだ花を出して何がしたいの?
>>209 映画「パトリオット」を見るのをお勧めする。ちなみに服を着てれば火傷はある程度防げるぞ。
>>216 映画は所詮映画に過ぎず無駄に派手な絵作りだけにこだわって現実を無視して云々
あなた
219 :
突撃兵:2011/05/12(木) 13:35:38.08 ID:???
英国軍はクレーシーの戦い以後、騎兵単独の突進に対して方陣を組んで絶対に突破されないように訓練されてる。
他にも正面に対する火力を上げる為に2列横隊を数段重ねる横隊陣形を維持した。
完璧再現主義者スタンリーキューブリックの「バリーリンドン」でも見てみれば?
さすがに
>>217はただの冗談だろうけど
テルシオの構成図を見るとマスケット兵とパイク兵は同じ間隔で並べられているが、これはつまり
「パイク兵が騎兵の突撃を防ぎうるほど密集した間隔」で銃手も並べられていることになると思うのだがどうだろうか。
というか、密集形態を取るメリットが銃手が火傷をするor暴発するデメリットを超えていたからこそ密集してた訳で…
222 :
名無し三等兵:2011/05/20(金) 14:40:42.38 ID:8XZlP9Ci
日本のように散開隊形が基本の場合、野戦砲で榴弾を撃てない時代まで
大砲なんて行軍の邪魔でしか無い存在であった
223 :
名無し三等兵:2011/05/20(金) 14:42:03.03 ID:8XZlP9Ci
>>222 訂正、「撃てない」でなく「撃てる」だった
それでも弾着修正は困難だろうけど
カノン砲で散弾を撃つ発想が無かった日本人はただの阿呆にしか思えん
第一、散開隊形が基本だったら長柄槍の槍衾はどう突破すんだ?
225 :
名無し三等兵:2011/05/20(金) 16:04:43.34 ID:jaVlDMnF
汎用性から言えば鉄砲隊を同じ額で揃えた方がいいぉ。
欧州に比べ騎兵突撃の衝撃力が小さいから槍で十分とも。
226 :
名無し三等兵:2011/05/20(金) 16:35:46.04 ID:8XZlP9Ci
>>224 散弾なんて火制範囲は大したことないし、火砲を全面に押し出す面倒もでかい
槍足軽は所詮は一列横隊、それに戦国後期は後方に置かれる
槍衾が一列横隊だったとか初耳だな
228 :
名無し三等兵:2011/05/20(金) 17:41:58.20 ID:8XZlP9Ci
>>227 図屏風や配置図等、確認できるのは一列横隊しか無いが
縦隊にしていた武将を秀吉が叱責したというエピソードがあるから
縦隊も存在していたはず・・被弾率がさがるしね・・おまい前いけよ
って感じか?
一旦横隊にしてしまうと指揮統制が困難
>>229 行軍時は縦隊だから、その転換時期を見誤ったのでしょう
>>230 およそ20人程度に1人、足軽小頭がいる。
>>211 火縄銃兵が密集隊形をとるメリットってなに?
防御時はパイク兵の中に紛れて隠れるから意味ないし
236 :
rmtbrt:2011/06/09(木) 11:46:02.12 ID:u+m7fL0+
その判子の素材はなんだ?
判子は送り返せw
愚者の黄金
国立博物館に恭しく飾るべきだろう、どこかの金印みたいにw
>>242 志賀島出土の金印は福岡市博物館収蔵です
九州国立博物館が狙ってますが、譲る気はないようです
この時期の日本の城って西洋や明なんかに比べてもよく出来てるよね
西洋とかは高いだけでペラい城壁で周囲を囲っただけだし……
>>245 ところが注意深く見ていくと、西洋の要塞戦略は都市などの国家の重心を、各要塞を縦深的に配置した要塞線の様な物になる
そう、日本の本城・支城の様な戦略になって行くんだよ
支那も城塁同士の連携による要塞線志向に向かっている
これらを見るに、戦国〜織豊自体の日本の城塞建築・戦略は同時代の全世界的にもかなり先駆的だった様に思う
日本の城の作りは、寄せ手のやる気を削ぐ作りだよね
ひたすら攻略がめんどくさい
防壁や防御施設の一つ一つはどうともなるが、配置と縄張がいちいち嫌らしい
縦深防御と弾性防御が設計思想の軸にある様に思う
堅固な防壁・防御施設さえ攻略出来れば一挙に雪崩れ込んで攻略が完了する西洋・支那とはそこが違う
>>244 西洋のは砲術戦に対応した低くて分厚い壁に守られて死角を少なくし、
周囲に空き地を設けた稜堡式の城郭に移行中じゃなかったか?
>>244 高くて薄い城壁は、火砲登場前の築城法。
この時期には低くてどっしりした城壁に変わってる。
>>246 そのわりには、戦国時代篭城して勝った(強力な援軍が包囲軍勢を排除した
のは除く)戦って無かった=防御力なし。なんじゃないの?
山がちな日本と、せいぜいなだらかな丘陵地しかない欧州では、条件が違いすぎる
それぞれの地形に合わせて発展を遂げた築城術を、単純に比較しても意味がないだろう
>>247-248 そうだな
同時期ならこの頃に星型要塞の原型が出来ているな
>>249 援軍の見込みも無しに篭城だけで勝つって、そもそも要塞の戦略志向から外れてるだろ
それが出来なきゃ防御力無しってお前……
ちなみに、鬼島津の明軍撃退とか小田原城による武田・上杉勢の撃退とか
大阪冬の陣とか、色々ある様に思うが
>>250 日本は山城からの発展で、山肌自体が一種の稜堡として機能していたのがあるかもね
そこから発展しているから、ひょっとしたら意図せずして砲撃にも強い城になってるのかもしれん
城の敷地で雑穀を植えて城内の兵士が食い繋げるようにすれば(つまりそれだけの敷地面積が必要)
10年くらいはどうにかw
それでも刀折れ矢尽きになるかな?
矢は篠竹があればどうにかなるかw
大坂城が講和を受け入れなかったら何年持ったかなあ
小田原は近隣に城を作って長期戦に耐えるようにしたんだよな
火縄銃には銃剣が着けられないって聞くけどなんで?
火縄銃じゃなくて、前装銃全般じゃない?銃口付近に刃物があったら、弾を入れる時…
日本はしらんけど、銃口にすっぽり挿し込む銃剣はあったよね
使いづらくて実用的じゃなかったようだけど
最初は欧州でも銃口にすぽっと差し込む方式しかなかったが(日本でもマタギがフクロナガサというのを使っていた。対獣用に)、ソケット式銃剣というのが開発された。
銃口からずらして銃剣の刃が伸びているやつ。装填も可能だし、気をつけていれば手も傷つけない。
17世紀フランスのバヨネット地方で偶々誕生した…というのは良く聞く話。そこから
「17世紀の中頃にはパイク兵の代わりにいくらか用いられるようになり、1680年頃リング式銃剣が登場した」(戦略戦術兵器辞典3)とある。
ネットで調べたら「大北方戦争直前に、スウェーデン軍銃兵にはソケット式銃剣が支給された」とあるから
誤訳や間違いでなければ猛烈な勢いで改良&普及したことになるね
ジェボーダンの獣 に関する書籍でバヨネットの文字を初めて見たんだよな
時代としては100年後か
何か密集陣云々の話で気になる部分があったんだが。
スパルタやローマやスイスやランツクネヒトが訓練や連帯を必要としたのは、
彼らが「隊形を組んだまま攻勢に出ることの出来る密集陣」を物にしてたからで、
例えば防御専用の密集陣なんかはフランドルの反乱軍でも使用できた。
密集隊形を維持したまま行動する様な訓練を受けてないフランドル反乱軍は、
追撃するときは隊形解いてバラバラにならざるを得なかったもんで、
そこをフランス軍に突かれて勝ち戦をふいにしかけたりしてる。
>>257 戦闘技術の歴史3近世編によると、
1647年に登場し、
1670年代頃にまず燧石式マスケット部隊や竜騎兵など精鋭部隊を中心に普及し、
1980年代には、銃兵の標準装備となった
1700年代中盤になると、ソケット式銃剣と燧石式マスケットの完全普及で、パイクはほぼ消滅した
との事
>>260 >>1980年代には、銃兵の標準装備となった
時間かかりすぎんだろwww
と分かっていて突っ込みw
無茶な想定なのは承知だが、もし秀吉が存命中に都を大坂に移転して、大坂を大陸式の城壁や堀もある城塞都市にして、
大坂城も宮殿もその中に取り込む構造にしていたらどうだったろう?
ついでに、秀吉死去の前後に秀頼を関白にできていたら・・・・??
家康と言えど、大陸式の城塞都市を抜いたと思ったらさらに中に大坂城が控えているわけで、
これでは大坂攻略は不可能だったのではと思うのだが。
豊臣家の財力を持ってすれば数年分の食糧備蓄などたやすいし、街壁内にも農地を作るから、どうということはない。
当時の大坂ってどのぐらいの広さなの?
史実の大坂城の城域と大坂市街を合わせても今の大阪市より小さい。大阪市外周部は田畑だった。
ただし豊臣時代の大坂城の三の丸は今は市街になってるから実際には城域は今より広い。
ついでだから故事に倣って、大坂城北東部に世界有数の大規模な銃砲類・弾薬工場も設けて、
上記の田畑も取り込んだ大街壁を建造して、陸路・水路の出入り口など要衝に設けた櫓に銃座と砲台を設けておけばもっといい。
できれば遷都による仮称大坂京は大坂城南方に配置したほうがいいかも。
城壁の方が大砲で抜き易いから、早く落ちるかも
しかしまぁ大坂城を難攻不落にしても、冬の陣や小田原城の二の舞になるだけの様な
援軍が期待できない篭城なんてやってらんない訳で
内訌待ちっつーのも……
幕府の戦費が先に枯渇すればいいんだけどね・・・・・。
それとも、大坂が浪人はおろか外人部隊まで雇って執拗な襲撃を繰り返して幕府軍に
城への力攻めを強要したり、大形投石機で燃料入の壷を投げ込む放火船を用意して、
貨物船にでも変装して江戸を焼き討つとか。
秀頼が関白の権限で朝命を乱発して、幕府に組する者の官位を剥奪するとか。
細川などの名門にはかなり心理効果ありそうだと思う。
あとは、秀頼が「余こそが正統なる政権である」として、逆らう幕府側大名、それも大身の者を誰か少なくとも1人、討伐してしまう必要があると思う。
成敗する場所は大坂城市攻撃に来たところで逆に撃砕するのでもいいし、藤堂や池田といった近場の大名を攻め潰すのでもいい。
他にも、関ヶ原後の賞罰は本来無効であるとして、石田、小西、大谷、安国寺の一族を当主に据えて各家を再興並びに、
八丈島から宇喜多一族を救出して再興するのもいいと思う。
政治宣伝としても筋を通す意味でも効果絶大だと思う。
明石全登は大喜びして宇喜多秀家の与力武将に志願するだろうな。
たとえば戦国自衛隊のように戦国時代にタイムスリップして
軍事顧問として現代の知識を活用するとしたら
いち早く鉄砲を導入させる
硝石工場をつくる
迷彩カラーの導入
野戦は塹壕をつくる
戦国前期は星形要塞で火線を
戦国後期は城を廃止させて地下壕にする
くらいを想像しました。俺程度じゃあ軍事顧問は無理だわ。
>>273 いち早く鉄砲を導入させる → 必要な人材・資材をどう集める
硝石工場をつくる → 同上、というか不可能
迷彩カラーの導入 → 同士討ちや戦果確認ができない
野戦は塹壕をつくる → 時間があればやっている
戦国前期は星形要塞で火線を → カネがかかりすぎる
戦国後期は城を廃止させて地下壕にする → 連絡できず各個撃破
銃剣を流行らせてみたい
日本の火縄銃は銃身が短いので、刀と大して変わらない
しかしマタギはフクロナガサって銃剣を使ってたんだよな。
可燃素材製の薬莢って出来ないのかなぁ。
和紙か何か加工して、早合と違ってそのまま先込めできる奴。
18世紀海軍の前装砲ではそういうの使ってたよな。
しかし小銃ではなぜか話を聞かない。
思うに、大砲では発射後に専門の人員が砲腔内をスポンジ付き棒で水洗いして、
そのとき一緒に中でくすぶる残り火を消してしまうのに対し、個人で扱う小銃ではそこまでやっている余裕がないため、
万一残り火があった場合にそのまま暴発、射手の手を吹き飛ばす、という事故をおそれたのでは?
すべて憶測。
発射後の銃腔内に残り火がある可能性がどのくらいなのかなんて知らん。
>>273 俺ならインチキ西洋知識を広めまくる。
ライスはフォークの裏にのせるってのは嘘なんだってな。
ずっと騙されている。
単純に火が弱いから紙でコートしちゃったら芯の火薬に瞬間的に着火できないだけじゃね?
点火薬の量なんて微々たるもんだし
大砲なら点火薬の量も増やせるしだいいち松明の火を思いっきり押し付けられるだろ
283 :
名無し三等兵:2011/08/13(土) 21:41:11.51 ID:d5FCewGs
>>273 迷彩服はライフリングで戦列歩兵が面白いように倒れ、
やむを得ず散兵戦術を採用したあとでないかぎり導入できんぞ
戦果確認の問題もあるし、目立ってなんぼというもののふの気持ちを打ち砕かねばならない
>>282 後装銃出始めの時代には紙薬莢がある。
雷管外付けのやつね。
だからその説はダウトだと思う。
>>275 当時の槍は短いものでも4mぐらいあったそうだから
せいぜい160センチ位の火縄銃に銃剣つけても意味がないと思う
そんな短い銃で突き合いしなきゃいけない状況になったらそれこそ普通の打刀の方が使いやすいと思うし
単に、紙薬莢にしたらカスの掃除が大変だからとか
287 :
名無し三等兵:2011/08/16(火) 09:40:19.61 ID:8tho+DmM
ライフルを流行らせる
手作業方式の奴
一見役立ちそうだけど重大な欠陥がある戦術を利用し、
最初は合戦でそれを利用して勝利し、
その戦術を相手が真似したら欠陥をついて倒す
みたいなことができれば痛快なんだが。
なんか時間旅行なスレになってるが、過去に飛ばされたらシャワーとウォシュレットの開発に人生を費やす
エアコンも欲しいがさすがに無理だ
290 :
名無し三等兵:2011/08/17(水) 14:52:50.64 ID:rbTIblzn
ペニシリンと餡ドーナツ作る
銃剣が有効になるのは、戦列歩兵とピストル騎兵の発達で、騎士や騎兵突撃が廃れ、防衛用の長槍が要らなくなってから。
平行してマスケットの重要性が増し、火力増大の為に槍はますます小銃に移行し、カートリッジもいずれは導入されるだろう。
しかしこれは大量の火薬を消費することになる、硝石の輸入と硝塩の生産を、増大かつ安定させないと成り立たない。
やはり時代背景ってもんがないと。
ただし、そもそも大規模で専門的な騎兵隊を編成しなかった戦国日本の場合、この条件はかなり緩和される。
例えば条件の良い武将、知行地に国友村を持っていた石田三成は、関ヶ原の戦いで、配下の半数に鉄砲を持たせていた。
互いかここまで射撃戦に偏重していれば、銃剣に頼ってでも槍を廃して小銃を増やし、紙カートリッジを導入する意義も出る。
ただ戦国時代の日本が鉄砲保有数世界一ってのはノエル・ベリンの妄言だよね
このときの明軍の装備、編成についてくわしい情報ないだろうか。
具体的にどういう近接武器、投射火器もってたの?
ゴミ銃、紙鎧についてはわかるんだけど。
石木矢持ってたとか。
>>289 俺なら鏡の製造技術を利用して
ソーラシステムをつくってソロモンじゃなかった適当な城に照射してみる
どれだけ勇猛な武将でも初ウォシュレット体験ではうひゃとか情けない反応するんだろうな
37 :世界@名無史さん[sage]:2005/08/03(水) 22:06:05 0
後期明軍の話が出てたので参考のために
戚継光「練兵実紀」にある対モンゴル戦のための部隊編成
(というか洋書からの引き写しです)
歩兵
歩兵の基本的な単位は12名の分隊である。分隊は2種類に分けられる。
1つはマスケット兵の分隊で、分隊長、10名の銃手、伝令からなる。
もう1つは"殺手"の分隊で、分隊長、10名の様々な近接兵器をもった殺手、伝令からなる。
同種の分隊を3つ合わせて37名の小隊になり、3つの小隊がさらに112名の中隊を構成する。
マスケット兵の中隊は合計で90挺のマスケット銃をもつ。
4つの中隊が449名の大隊を構成し、2つの大隊(マスケット兵と殺手)で899名の連隊になる。
3つの連隊が2699名の旅団(323名の士官、2160名の兵士、216名の伝令)を構成し、
1080挺のマスケット銃と216張の弓をもつ。
38 :世界@名無史さん[sage]:2005/08/03(水) 22:06:41 0
騎兵
騎兵の基本的な単位もまた12名の分隊である。
騎兵の分隊には分隊長、多様な武器を装備した10名の兵士(マスケット銃2挺、火槍2本、
三叉の槍2本、槍2本、メイス2本。何名かは同時に弓矢を携帯する)、そして伝令がいる。
騎兵も歩兵と同様に分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団に組織される。
戦場での騎兵旅団は2699名から2988名にまで増援され、1152張の弓、432挺のマスケット銃、
60門の虎蹲砲(軽量の野戦砲)をもつ。
大量の銃と火砲が配備されていることから、これらは騎兵というよりむしろ竜騎兵、
騎馬で移動する歩兵であったようである。
39 :世界@名無史さん[sage]:2005/08/03(水) 22:07:39 0
車兵
車兵旅団の戦車(防御用のワゴン)にはそれぞれ10名の分隊2個が配置されている。
分隊長、御者、2名のラバ追い、6名の砲手からなる第1の分隊は、戦車のところで
2門の旋回砲を操作する。
分隊長、4名のマスケット兵、4名の近接武器をもった兵士、伝令からなる第2の分隊は、
戦車に乗るか、またはその周囲で戦う。
2つの戦車が小隊を構成し、2個小隊が中隊、4個中隊が大隊、4個大隊が連隊、2個連隊が
旅団となる。旅団にはさらに別の17台の戦車が付属し、その内8台は"大将軍"と呼ばれる
大型砲が搭載され、残りの9台には太鼓や火箭やその他の物資を積んである。
合計で、3109名の車兵旅団は145台の戦車と、8門の大型砲、256門の旋回砲、
512挺のマスケット銃を装備している。
三眼銃とか十眼銃なんてゴミを、生真面目に配備はしてたけど、あの国は素直にマスケットを大量配備なんかしてたっけ?
一種の大鉄砲と言うか散弾銃、神機を装備した神機営って部隊があって「史上初の正規砲兵隊だ!」と主張してたのは知ってるが……
まぁ明国でもオランダから大砲を導入していたし、古臭い初期の大砲なら、規格統一して大量せいさんしていたから、必ずしも馬鹿にしたもんじゃ無いんだけど。
でもやはり明が重視していたのは大砲であって、小火器は余り重視されず、従来の雑多な珍兵器を含め、色々混雑してたってのが本当だろ。
そもそも投射兵器なら、鉄砲だろうが旧来の弩だろうが、或いは弓だろうが厳密に区別しなかったろうし。
300 :
名無し三等兵:2011/08/18(木) 21:06:41.90 ID:ybgeBuRS
『東アジアの兵器革命 』では、
秀吉の朝鮮征伐で火縄銃に明軍びびる
↓
小火器を配備し対女真・モンゴル防備
↓
捕虜からなる降倭部隊も活躍してた
とあった
>>295 逆に城に配備して水攻めされた時に水を蒸発させられないか?
>>301 そんなに出力があるなら敵に直接当てればよいのでは?
ギリシャかキプロスで、実際に軍隊を動員して実験したらしいが、青銅を磨き上げた盾くらいの鏡だと、木造軍船へ着火するのに三十分かかったそうだ。
人数は分からないが、十人や二十人程度ではなかった。
>>295 「第6門(ゲート)消えました、敵の新兵器です」って言わせたいだけちゃうか?
ガンダムといえば
ドズル「パプア艦でたった一機のビグザムだけだと?」
ジオン士官A「は、現在はこれしか出せぬ、と」
ドズル「ええい、兄上は何を考えているのだ?今あるリック・ドムでは数が足りんのだ。
新鋭モビルスーツの一機をよこすくらいならドムの十機もまわさんのか?」
とあるけどビグザム一機でリックドム十機どころかムサイ10隻以上の役に立ってたよな。
あれでムサイ3隻のコストですむのだからガンダムの世界は酷やで。
ガンダム来なければティアンム艦隊全滅してたしな。
真田の突撃で徳川本陣どころか徳川軍主力が全滅するようなもんか。
怪しい伝説で学生500人ほどかき集めてやってたな…ゲストでオバマが出てきてw
真夏、晴天下という環境で現代の鏡を使っても布の発火にまでは至らなかった。
たしかグーリンレーザーの超強力なものですらなんとか黒色のゴミ袋に穴をあける程度だっけ?
熱線じゃなくてただの光で相手を倒すのは難しそう。
しかも相手がミラー状のものを持っていたら亜空間磁力メッキのように反射返しされそうだしなあ。
レーザー照射して空気中にイオンの通り道を作って電流を流すとピンポイントで電撃を目標に食らわせることができるとかどっかで読んだけど
実用化されてないということは多分無理なんだろうな
本願寺無量光仏
その由来は戦国時代本願寺顕如が石山合戦に於いて、織田信長の鉄砲部隊に丸ハゲ頭を大量に並べて対抗した故事に由来する。
そしてその威力は織田信長を大いに苦しめた。なお余談ではあるが、織田領内に丸ハゲ頭禁止令が発令され南蛮宣教師が丸ハゲ頭を隠匿するために
頭頂部以外にカツラをつけたという記録は宗教家の間ではあまりに有名である。
民明書房刊『戦国武将の神秘』より
>>309 確かそれの精密射撃で信長は足を撃ちぬかれる怪我をしたんだっけ。
当時の日本の技術水準で銃の改良って可能?
程度による。
例えばホイール・ロックやフリント・ロックは作れたろうが、両者は乾燥したヨーロッパでも不発率が一割にのぼる。
イギリス軍も、インドではマッチ・ロックに立ち戻ったほどで、多湿な日本では長所がスポイルされるだろうね。
加えて硝石を輸入に頼り、貿易も実質的に外国頼りの日本では、大量の火薬消費に耐えられない。
よって火力密度を増やす方に進化するには、戦術の変化や貿易など、様々な要因が変わらないと難しい。
一方でライフルリングや後裝銃は、日本の戦術にもマッチしているし、大いに役立つことだろう。
実際に幕末では、後裝式ライフルを導入した官軍が、前裝式ライフルや時にはマスケットの幕軍を一方的に倒していた。
因みに当時も火薬やカートリッジは輸入頼りだったから、長い船旅のせいで、金属薬莢すら不発が多かったそうだ。
それでもライフル(射程が長い)と後裝式(伏せたまま装填可能)な官軍は、射程が短く、立ったまま装填する幕軍を圧倒した。
これはそのまま散兵と戦列歩兵の差になってくるが、散兵戦が有効となるには、技術や戦術から、背後の政治経済の変化も必要になってくる。
無理やり徴発されたやる気のない雑兵なら、散兵などやらせればすぐに逃げだすだろ?
技術の進歩には必然性というものがあり、進歩した結果として役に立つことを証明するにも、それにシチュエーションがなくてはならない訳だ。
失礼。
ラストは「それにシチュエーション」ではなく、「それに見合ったシチュエーション」と書くつもりだった。
付け加えるなら、工作技術が未熟なら、どんな発明も、実質的にならないことも覚えておいて欲しい。
例えば反動を利用した機関銃の概念は、既にフリント・ロックの時代から提唱されていたが、実際に製造するのは不可能だった。
ナポレオンの時代になっても、輪胴弾奏すら実用化出来なかったくらいだ。
鉄砲足軽は常備兵に近いから散兵でも可能と思われる
>戦列歩兵の差になってくるが、散兵戦が有効となるには、技術や戦術から、背後の政治経済の変化も必要になってくる。
たしかに赤備えのように戦場で目立つ部隊=名誉
という考え方だと隠れたりする散兵は人気なさそう。
敵を倒しても手柄にならなければ意味が無いからね。
しかし日本でも戦国時代後半の備は、かなりの密度で下士官たる足軽小頭がいて、配下の統率と評価を下している。
実際に江戸時代になってから、戦国時代の足軽の心得について掛かれた覚えて書き『雑兵物語』には
「首は取らずに打ち捨てておけ、手柄は俺が証明してやる」
と足軽小頭が部下に命じる場面がある。
恐らくこの辺の指揮統制と、戦果の評価基準を整理すれば、散兵戦術はかなり成功したと思う。
元々、鉄砲足軽は多数撃ちだと戦果確認が困難だから
逆に撃ち手が限定される狙撃は好まれるかもしれない
どっかの陸軍の戦闘機も一撃離脱重視よりも格闘戦重視のほうが好まれたし
やっぱ同じ戦うなら目立ちたいよなw
そこで狙撃兵が目立つ奴(将校など)を撃ち殺してくんだよな。
というか散兵戦術って、実質傭兵の奇兵隊とセットみたいなところなくね?
傭兵?
前近代的な知行や徴収に代わり、給金を払っていただけだろ。
幕府側も同じことをしたし。
奇兵隊って、大村の軍制改革んときに、他の諸隊と一緒に藩正規軍の体制に
組み込まれてた筈だが。
あと、狙撃は兎も角、散兵戦術は幕府歩兵隊も使ってたって野口が言ってた。
戦国時代には活躍できた赤備えが
幕末にはあまり活躍できなかったのはなぜ?
できると思うほうがどうかしてる
>>323 薩長が異常に強いから負けただけで
官軍側で参戦した戊辰戦争では彦根藩は普通に活躍している。
326 :
名無し三等兵:2011/09/02(金) 22:37:36.94 ID:O86whJxA
いや幕末の関ヶ原の鳥羽伏見は本当に紙一重の勝利
それほど戦力の差はなかった
これに負けておれば明治維新もなかった
徳川慶喜が大坂城に篭城して徹底抗戦していたら大坂で攻防しているうちに幕府に従う大名たちの軍勢が来て、
官軍撃砕もありえたのでは?
少なくとも大坂の陣の豊臣秀頼よりは有利な状況だったと思う。
しかし相手は錦の御旗だからなあ
豊臣秀頼の場合は速攻で京を制圧して無理にでも錦の御旗を手に入れるべきだったけどな。
紫宸殿にて
秀頼「余に錦旗を授けるか、今ここに皇統を絶やすか、即断されよ!」
って天皇に啖呵をきるほどのクソ度胸を出していれば秀頼が勝っていたろうな。
伏見城があるから無理
秀頼は骨の髄までマザコンだから無理
秀吉が死の少し前にすべての側室を家臣に下げ渡していたら・・・・
秀次にやらせとけば良かったんだよ、晩年に下手な欲目を出すからああなる。
336 :
名無し三等兵:2011/09/09(金) 08:41:45.80 ID:mMVDnHmM
>>335 秀吉か秀次を殺しておかないと、秀吉の死後必ず秀頼を殺すじゃん
戦国の世を生き抜き天下人となった秀吉はそんな事も分からんアホじゃないよ
ただ家康も殺しておかなかったのは自業自得だな
>>308 推測に過ぎないけれど通過空間を焼く尽くす出力のレーザーがまだ撃てないからじゃないかと。
>>336 家康は関東・東北を抑える忠臣(少なくともこの頃は)だし、下手に殺そうとしたら牙を剥かれる可能性あるだろ
その場合、上杉も豊臣から離反する
伊達は言わずもがなだな
家康を敵に回せば、最悪で東西大合戦になるだろう
そうなると、秀次事件で豊臣への忠誠が全国で薄れていた時期だ
どう転ぶか分からん
家康は「殺せない」だろうよ
錦旗ですけど
安徳天皇を擁していた平家は源氏を朝敵にしたのかなあ?
>>336 豊臣「家」のためなら、秀次でなく秀頼を殺すべきでしたな
>>339 って言うか、平家を討てと言ってるのが、後白河法皇だから
>>340 秀次と秀頼が並び立つ事になると、極めて厄介だからねぇ。
実子を立てるか、先任の関白を立てるかで揉めるのが目に見えている。
実子がなかなか生まれず、あちこちから養子を取りまくって、後継者争いの火種を
こしらえた秀吉と、子だくさんでもその大部分は養子に出すか分家を立てさせて、
徳川本家には秀忠しか残さなかった家康は、実に対称的だよな。
織田家は本能寺が無ければうまく継承できたのかな
って言うか、建前上信長は、本能寺の変の時は隠居じゃないの?
実権は、一応信忠に譲ってある。織田家にとっての誤算は、信長と信忠が同時に死んだこと
まあ将軍職を秀忠にゆずった家康みたいなもんじゃないの
実権は死ぬまで家康だったからな
信忠はまあマシな奴だったが、信雄と信孝がね
これがもう二人ともボンクラではどないにもならんかった
しかしそいつらぼんくらじゃなかったら、信長→信忠がすんなり決まらなくて痛し痒しになりそうだ
逆に考えれば、実績でもって実力が水準以上と示し、家督も相続した信忠と、未熟な信雄や信考なら、お家争いも起きないだろ?
では毛利三兄弟はどうなる
あんなのは例外中の例外と言ってしまえばそれまでだが
349 :
名無し三等兵:2011/09/09(金) 15:20:37.97 ID:N47XJr1+
名字が違うでしょ
他家に養子に行ったから
織田家の信雄と信孝も養子に行ってる。信雄が北畠、信孝が神戸
>>344 信忠が生きていればもっとマシにはなっただろうが、信忠もあの時点では一軍団長兼清洲一国の大名でしかないからな
織田家の家督っても、実権はその程度だ
信長が生きて、もっと権力移譲を進めていないとやはり離反が頻発するだろう
その「一軍団長兼清洲一国の大名」の子の幼児を連れてきて皆を黙らせたんだが
その幼児は実権を握れたの?
大抵、優秀な息子が現れると、親父に殺されるか
親父を押しのけるかのどちらか
それにしてもなんで有楽斎は信忠と一緒に逃げなかったんだろうな
建前とは言え最高の権力者なんだから、その命助けたら明智を討った後大大名の地位だってあり得ただろうに
ある意味で本能寺の変最大の謎だよな。
>>354 >大抵、優秀な息子が現れると、親父に殺されるか
>親父を押しのけるかのどちらか
家康に信玄か
優秀な息子に代替わりできていた後北条氏は奇跡のような存在だなw
>>355 武田残党狩りに辣腕を振るった信忠だから
今度は全く逆の事を自分がされると考えたら
当然諦めも早くなる
いきなり中国の話題に行って申し訳ないが、
明の軍隊は火力重視の軍隊と言われるが、鳥銃が使われ無かったのは何故?
日本より火縄銃が入って来たのは早いのに
銃を導入したら火力UPなのか?
既存の兵装に比べてどれくらいUPするんだ?
それまでが槍弓の冷兵器だけなら『火』力はゼロだから、一丁でも銃導入すれば上昇幅は無限大だわなw
砲はあるべ
>>360 北斗の拳スレで
最大火力の拳法はどれだ?と聞かれて南斗列車砲と返されたような衝撃を受けた
腐った豚の核ボタンは拳法と認められないのか
単眼銃や三眼銃に比べると、鳥銃の方が射程、命中率が上なのに
駆逐出来なかったのは?
朝鮮出兵の時、どうして牛馬の去勢法を入手できなかったのか?
暴れ馬程よいという認識があったから
いわゆる騎馬民族説について「日本では家畜の去勢が行われていないから、あり得ない」と
反論している研究者がいるな
大規模で恒常的な騎馬隊はなかったけど、少数・臨時編成なら使われてたし、例外的ながら太田道灌が騎兵を編成してたよ。
文献にも騎馬戦がしっかり書かれているのに、何をもって否定してるのやら……
370 :
名無し三等兵:2011/09/21(水) 22:02:28.27 ID:EwJJgbKp
自分でも恒常的な騎馬隊はなかったとわかってるじゃん
騎馬隊以前に恒常的な軍隊自体が織豊期になるまで殆どなかっただろ
雑兵が農作業のために故郷に帰ってしまったので戦争できませんとか、珍しくないからなあ
江戸時代になって都市人口(非農業等の人口)が増えたけど
全員が定住できたわけではなく飢饉や不景気のたびに野垂れ死が発生しているからな。
当時ですら中間搾取であるが商工や武士が食っていける人数枠なんてあまり多くなかったんだろうね。
戦国時代は兵員需要が高かったとはいえやはり専業で兵員を食わす余裕はないだろう。
兵農分離してた織田とかはどうなの
江戸時代は関所設けまくって流通網がアレになってるし、仮想敵がいないせいで余り常備軍保有「能力」を見る時代には適してない気がする
金があれば常備軍がいいに決まってる
でも、近代以前なんて、軍隊の主力なんてコロコロ変わる
一時は常備軍がーなんてブイブイ言わせてた国も100年後くらいには半農兵が強かったみたいな
>>375 必要動員数が膨らむほど半農が有利になって
専門化とGDPに占める軍事費の割合が減るほど常備軍が有利になるイメージがある
常備軍なんて当時は殆どなかったろ? 中国やトルコの帝国ぐらいだよ。
__ __
,ィミ川彡三ヾ三\
{三{※}三}三ll三 }
_ヽ彡川ミノ三レ勿/__
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{三{※}三{三{※}三}三ll 三}
__ヽ彡川ミノヽ彡川ミノ三レ勿/__
,ィミ川彡ヾィミ川彡ヾ,ィミ川彡三ヾ三\ っ
{三{※}三{/ ,二二、\{※}三}三ll三} ∧ ∧ っ
ヽ彡川ミノ/ /\ | /ヘ ヽll.ミノ三レ勿/ (´・ω・`)
I二二二二二| |―‐((_))―| |二二二二二二I二○==○ 大八車に火薬詰めて敵中にばらまいてみる
ヘヽ/ | \,/ / 〈_ノ=レ'
( ( \二二二/ (_vノ (_y)
最近の玄米って美味いな
あれ昔に持ってたら白米へのあこがれみたいなの吹っ飛びそうだ
“当時”としっかり書いてあるじゃん。
なに時代でも良いなら、現代日本だって常備軍があるわな……
>>379 白米信仰が無ければ、脚気を減らす事が出来たな
その後の輜重・兵站部門は日本の得意分野じゃなくなるだろ。?379が現実になってなくて良かった。
日本軍の長期遠征は米と梅干さえあればおk。
牛も連れていってジンギスk(ry
あれはラバを使うべきだった
もしくはターキンを捕えて家畜化しておくべきだったのだ
やるのが遅すぎた。昭和17年のうちにガンジスデルタに直接上陸すべきだった。
今日日本語版が発売したからTWS2絡みの話でも
大筒の中には崩烙弾を撃てる物もあったらしいが、実際にTWS2の大筒兵みたいな真似が出来たのだろうか?
出来たとしたら、オスマンと戦っても勝てそうなレベルだったのだが……
実際どうなんだ?
TWS2とか略語で表記すんな
火縄銃って、どの位の人数で、どの位の日数をかけて作られていたんでしょうか?
種子島に伝来してから一年後には数十丁の火縄銃が製作された、なんて記述も見掛けたんですが、そんなホイホイ量産出来るんですかね?
まず職人の人数だけれど、銃身の鍛造は刀を鍛える時と同じように、むこう鎚と合わせて二人がかりだったはずだけどね。
次にかんたんな銃庄に付けて発砲し、その散布界に合わせて大まかな照準を付けてたら、カラクリ(機関部)師に引き渡す。
ここで銃庄も取り付けて完成するとして、一丁づつに合わせたハンドメイドだったから、そこそこに時間が掛かったはず。
さて現代日本の刀工は、月に刀を二本しか作ってはいけない決まりになってるが、本当はもっと打てるらしい。
銃身が手間の掛かる工作だったとしても、刀身のように焼き入れするでもなし、月に二本は打てたのではないか?
よって職人は最低でも三人、日数は一丁当たり十五日程度と類推する、ただし試射については考慮してない。
とまぁ大ざっぱに書いてみだが、砲術家ってのは、高品質かつ一定の火薬や鉛を用意・管理したり、銃と火薬や鉛の量・
質について相性を把握したりと、現代のマッチメイクの射手に近い働きを要求されたから、試射も本気で研究しだすと際限
がない。
そして歴史に登場する武将や砲術家の何人かは、そうした研究と製造を一手に手掛けるコーディネーターだったりもする。
そうなると『何人』の答えが『国友村』でもおかしくないし、手工業生産なら製造日数も飛躍的に早まるだろうね。
>>391 おおいに参考になりました。
刀は月に二本まで、そう言う視点からの推察は私の発想にはありませんでした。
よし、戦国時代に工程分解、大量生産の概念を持ち込む
規格の概念もな
当時の輸出品、打刀やら扇やらは工程分解による分業で量産されてたような
『当時』とは応仁の乱から安土桃山にかけてかな?
戦国初期はともかく、後期にはそうだろうね、上に挙げてる国友村とか。
でなきゃ一丁二両半で輸出できないよ。
国友村の鉄砲なんて江戸期に入ってからじゃないの
たしか阿波だったか
鉄砲の口径が統一されていたのは
>>397 江戸時代に入ったら、もう鉄砲を量産する必要はないじゃんw
>399
まじ!?
江戸時代って世界的に見ても変な時代だよな
封建制なくせに200年間、普通に平和とか……
キリスト教の狂信者が反乱起こしたり、一揆がたまに起こったくらいじゃね?
我慢は美徳とか武士は食わねど高楊枝とか、
今までと違う価値観を植えつけたからかも
>>402 封建制というより、ドイツの領封制みたいな感じ。
みんなそこそこ食える程度に貧乏だからな、
食えなくて反乱、権勢が高まって簒奪というのが無い。
支配者の武士まで質素倹約なんだもん
大名も参勤交代で赤字だらけだし
江戸に行っても旗本は貧乏だし
将軍の元に集まる金も大奥に吸い取られるし
大奥も人間が増え過ぎてそれぞれに掛かる経費を節約させられるし
封建的共産主義?って表現は存在しないみたいだがw
実質的に農村を支配していた庄屋や
経済を支配していた商家は裕福だったじゃないか
本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に
搾取する側が貧しくて搾取される側が比較的裕福な社会は、古今東西通して見ても江戸期しかないんじゃないかな。
江戸での庶民の防犯対策は突っ張り棒をして戸締りするだけって、どんだけ治安良かったんだよw
現代日本も相当あれだけど、江戸時代の人って上から下まで調教されすぎだろ
俺んちは江戸時代の代官屋敷の斜め前ぐらいなんだが
その代官屋敷の隣は、庄屋で周りも問屋を営んでいた商家がズラリと立ち並んでいたそうだ。
で、今もそんな子孫が多く住んでいて塀もぐるりとあるデカイ家だらけ。
たまにスゲー癒着があったんだろうなと思いを馳せる時があるわw
>>410 大坂の陣で見せしめの20万人大虐殺があったから当然
生物兵器とはいかなくても
適当な病原菌をばらまくと
いくら籠城してもイチコロだよな
なんかいい病原菌はないものか?
商人、町人から税を取るシステムを作れなかったのが江戸時代の限界だった
江戸末期には、幕府の役人でヨーロッパの事情を知る者なら
日本も将来は四民平等にして議会制度にすべきと考えるものは
幾らでも出ていただろう
無駄な泡沫武士の給与を無くしてしまい、巨大化した大奥システムも崩壊させられる
質素倹約といってもある程度の土地が残ったイギリス貴族みたいな形でなら
上級武士で華族化させてもらい貴族院でも入れればとりあえず安泰で、江戸時代と変わらないしw
結局首切られたのは下っ端武士だけだった訳だ
武蔵野共和国とかどっかにあったな
維新後のモデルケースが既に存在していたとも言える
>>413 中世欧州では死体を砲弾にして撃ち込んだりしたらしいが、日本ではそこまではやってないかな?
雑兵物語には「敵地の井戸には糞が入れられてるから飲むな」とかあったな
>>420 あったね
死んだ馬を放り込む戦術って日本じゃなかったっけか?
どうやって放り込むの?
重力を利用して投げ込めばOK
馬が大きすぎるなら解体すればOK
包囲攻撃とかならトレビシュットで投げるとか、
撤退時なら戦傷で死んだ馬から適度に腐ったのを見計らって水源にぶっこむとか。
425 :
名無し三等兵:2011/10/10(月) 20:37:57.70 ID:nl5CWb5S
>>421 モンティパイソンの映画で攻囲戦のシーンだったか
牛に始まり犬猫ニワトリなんでも投げてたな
ラストでは糞がふってくる
戦国以前の日本にはカタパルトやバリスタがあったし、山城は攻囲側より低い位置にあったんだ?
ルトガー・ハウアー主演のグレート・ウォリアーズで、ペストにかかった犬をばらしてトレバシェットで城内に投擲してた
で、偶然1欠片が飲水井戸に落ちてと
ペストを毒と勘違いしてる描写だけど、視聴者に分かり易く伝える為には、仕方ない演出なんだろうな……
型張と
サトイモの茎を束ねて弾力を与えて引っ張って打ち込む
だいたい日本の合戦で、馬の死体なぞ投げ込んでどうすんだ?
病原菌でも悪臭でもぶち撒きゃええがな
やるとしたら嫌がらせだろうな……
日本の戦国時代に伝染病と言ったら、天然痘かマラリヤくらいだし、馬の死体など投げ込んでも意味はない。
投げ込む道具もないし。
>>433 >日本の戦国時代に伝染病と言ったら、天然痘かマラリヤくらいだし
伝染病はそれだけじゃないしw
馬の死骸による影響の話とはかけ離れてるしw
腐敗毒は紀元前から使われてきた猛毒
経口摂取された腐敗タンパクって腎機能阻害し、現在でも治療は対処療法しかない
でもまぁ雑兵物語なら(前後から)死ぬレベルじゃなくて食中毒あたりを念頭にしてるのかも
>>435 前線で集団食中毒なんて発生したら戦闘どころじゃないからな、十分脅威
歴史的事実と言うよりファンタジーだな
438 :
名無し三等兵:2011/10/13(木) 18:59:01.18 ID:CeEQlgiV
439 :
名無し三等兵:2011/10/13(木) 19:06:19.58 ID:KD7Mpyxx
>>438 いや映画のラストでまたあるよ
あと木馬じゃなくてウサギかなんかの木馬じゃなかったっけ
440 :
名無し三等兵:2011/10/13(木) 20:20:52.52 ID:8wtjLhNA
戦国末頃の日本には鉄砲だけで百万丁近くがあり、当時としては世界最大の“銃器大国”だった。
ってどこかで読んだ記憶があるけど、この話は本当なんかね?
お前の感違いだろ? 数値データが全く違うし。
442 :
名無し三等兵:2011/10/13(木) 21:03:39.86 ID:KD7Mpyxx
銃を捨てた日本人とかそういう題名な気がする
>>440 20人に1丁とかの世界になるけど
赤ちゃん含めて
乳幼児死亡率の高い当時に、赤子の数なんか掌握してたのかね?
銃だけあっても火薬の生産が…
硝石ならウンコから作れるだろ
別に大陸からしか取れない訳じゃないよ
主にNだから糞よりは尿が大事かな
すっごい時間と手間かかるけどねー
「作れる」と「足りる」は全然違うんです、ハイ
実際には硝石はもちろん、鉛も輸入していたよ。
江戸時代だと、農村でも害獣駆除(脅し筒)とか民間でも使われてた(種子島自体は多量にあった)
でも”戦争”をしない限り硝石なんてたくさんいらないわけで、中期になると長崎交易品の中に硝石はなくなる
ので江戸時代には国内生産で十分まかなえていた、と思われる
まぁ日本各地に鉄砲火薬調合所御免状(だいたい焔硝屋を名乗ってる)が残ってるよ
>>451 その頃にはもう主要な火薬需要は花火じゃね?
火薬の備蓄も各藩ある程度維持してるが
幕末はどうなってるんだろうね?
武器は大量輸入されるが火薬はあんまり聞かないんだが
メタルカートリッジは完全輸入だろうが完全に移行してはいないしな
蚕糞はpH調整の役割が大きいと思ってたんだが
日本の場合、気候的な問題で土硝法が可能な地域は少ないのだが、平和な江戸時代に入った時点で、必要な分は国内で賄えた。
それと輸入が可能な国でも、土硝法はそれなりに使われており、革命期のフランスでは、硝石採掘人はあらゆる家に入り、土を掘り起こす権利を有してた。
警察長官になる前のフーシェは、この硝石採掘人に化けて、議員たちの屋敷を訪問し、ロベスピエール打倒の根回しをしていた。
幕末になると、メタル・カートリッジの銃も輸入されてるようになったが、長期の船旅で湿気て、再装填しなくばならないことも多かった。
坂本竜馬の持っていたS&WのM1も、湿気て不発だったとか、使い物にならなかったと言う話が残っている。
それでもこの頃は、南北戦争直後の兵器が大量に余っていた為、各国の武器商人が競って日本に輸入を持ちかけていた。
また国内の各藩も、従来の種子島などでは戦争にならないのを認識しており、可能な限りだが武器の更新を進めようとしていた。
硝石も購入しようとしたかもしれないが、可能ならより新しい兵器を導入しようと考えたのは間違いない。
あの新撰組も、洋式兵装の実験部隊とされたし、北海道の戦闘では、ヨーロッパ武官も賞賛する程の習得を見せている。
それでも新型兵器は非常に高価で、充分な更新が進んだとは言えない段階で、明治維新に突入した。
ちょっと話題それるけど
相手が壊走を始めて追撃戦を展開する際、機動力を重視して少数で編成して追撃する事になると思います。
しかしその場合、残った殿軍に対処すると足止めされて戦果を逃してしまいます。
機動力を保持しつつ殿軍を対処もしくは突破する方法はあるのでしょうか?
>>456 抽象的すぎ。時代、地勢、使用する兵器等々によって異なるかと。
複数の隊を出すなり分進させる以外にないだろ
三国志演義のように退路に伏兵を・・・
ってそんな戦力を決着後の段階まで温存しておくぐらいなら
壊走前に背後をつかせたほうが良いけどな
近世じゃなくても掃討戦なら隊は分けて動かすのが普通じゃないのか
近代の士官・下士官・兵の構造っていつ頃から出てきたの?
>>462 近代市民軍の成立からだからまあフランス大革命からだな
465 :
sage:2011/10/29(土) 00:08:12.11 ID:QPJ6Blim
百人隊やら百人隊長とかもあるしなぁ。
社会体制がしっかり出来ている、組織的になっていると、自然になっているかも。
つーか集団を動かすなら自然にピラミッド構造になるだろ
ピラミッドが美しいか汚いかだな
陸戦での単横陣って実はあんまり強くない気がしてきた・・・
白兵戦主体ならテルシオの改良版が一番強い気がしてきたわ
白兵戦主体だと、敵が正面に戦力を集中させようが、それで別に
瞬間的に攻撃力を増大出来る訳じゃないし
中短期的には耐えられるんだよなー
その後は両翼、後方の槍兵を散開して半包囲するなり、騎兵で敵の
背後から突撃するなりした方が・・・
敵の騎兵にケツ掘られるのを恐れてこっちの騎兵を損耗させるよりマシだ
現在の軍事と歴史に詳しい人間が当時の合戦で敗戦側に開戦前に助言できるとして、
大坂の陣や関ヶ原のや山崎の合戦長篠の合戦の敗戦を覆すことは可能でしょうか?
そもそも、大阪の陣や関が原、山崎長篠を起こさないよう努めるんじゃない?
>>469 関ヶ原はまだしも大坂の陣は無理じゃない?
>>469 戦う前から詰んでる戦いばっかりだからなぁ……
戦術論でどうにかなるレベルじゃないよ
関ヶ原は小早川の扱いしだいでなんとかなるんじゃね
>>473 小早川以外にも徳川方に内応してる連中は多かったからなぁ
小早川自身、元々三成にも毛利にも余り良い印象は無いだろうし、西軍になったのは巻き込まれただけだし
当時の豊臣家には恨みもある
西軍に引き込むのは難しいぞ。かといって不参加にしてしまうのも難しい
西軍に強引に巻き込んだ挙げ句、帰ってくれと言えるほど小早川は軽い家格でも兵力でもなかった
朝鮮役での活躍を見るに、普通に強いし、老獪さなど備えようも無い年齢でもある
必ずや、どんな形であれ関ヶ原には介入して来る武将だろう
そして、それは西軍の一員としてではないだろうよ
小早川を西軍に引き込むには最低、小早川家が豊臣の分家として正式に独立する事・上方に2ヶ国以上の所領の贈与・三成の処分……こんな条件が必要になるんじゃないかね
しかし、小早川のためにそこまで大盤振る舞い出来ないだろ、西軍は
>>469 長篠とか設楽ヶ原行かず引き返せって助言になるんじゃないか
相手の内情もその後の戦略、布陣も分かってるから
ありえないぐらい超有利(特に関ヶ原は)になるでしょ
布陣だけなら、昔から言われてる通り西軍有利だからな
寝返り前提じゃないと包囲網の真ん中に家康も突っ込んでいかないだろ
昔から思っているが、裏切り前提で真ん中に突っ込むのもどうかと思うわ
>>478 あのへんの家康の判断は疑問だよな
内応に自分の運命かけるとかちょっとありえないだろ
家康って、いろいろ工作はやるけど家臣に恵まれてることあってそういうの好んでなかった感もあるしな
まあ西軍が先に布陣して有利な高所確保してたってのはあるけれどなあ
未曾有の規模の軍勢の衝突で、麾下の武将も心服してたわけじゃあないから、勢いで進んじゃった部分があるにしてもなあ
それに、秀忠待ってやれよってw
>>479 というか、秀忠が東海道・家康が中山道の侵攻路を辿っていたら
どうなってたのか?という議題に興味あるね。
戦さ下手で知られる秀忠VS三成のたたかいか
補佐に島左近が付いてる分三成有利か?
秀忠の側にいたのは本田正信だしな。
忠勝や井伊がいたにせよ、どうだろうな
つうか秀忠じゃあの泥試合を御せれた気はせんな
と言うか、秀忠に三成憎しで味方に付いている豊臣の武断派連中を統率できるとは…
何とか東海道を抜けても戦いを急かされて大垣、赤坂辺りで撃破されそう
三方が原や大坂の陣の体たらくを見ると、
家康も真田父子に翻弄されて関ヶ原には間違いなく遅れるだろうな。
秀忠ほどの遅参ではないにしても。
家康なら真田を放置できたかって言うと疑問だよな
挟撃される危険考えたら中途半端な拘置兵力おいて進撃はしがたい
地の利のある所で、遊撃戦は十八番の真田だし
秀忠が先に予定戦場についちゃったら悲惨だろうなw
統御不能のまま各個撃破されるだけだわw
しかし真田って事あるごとに徳川家を苦しめるが、なんであんなに牙むいたんだ?
武田滅亡後は、旧武田家臣団吸収した形の徳川のほうが心理的にも縁故の存在も頼り易かったように思うんだが
豊臣とか、武田滅亡のときに恨みのある相手がわんさといただろうに
世の中が泰平になっちゃうのが嫌がったんじゃね?
西方が勝てばもうちょい戦乱続いて、
真田が雄飛できるから。っつうのは穿ちすぎか。
根本的な議題を出そう!
もし、秀吉と家康の寿命が尽きるのが逆だったら?
つまり、1598年に家康が死に、1616年に秀吉が死んでいたらということで。
その後に、江戸の陣なるものが起きたのかな?
秀頼への権力委譲もスムーズだったろうし、
徳川家も豊臣の重臣として案外平和が続いたんじゃないか?
海外出兵の後始末がどうなってたかわからんけど。
98に家康死んで秀吉存命じゃあ、
秀忠と家臣団に戦どころか受けることができたとも思えない
秀吉が80歳か
最後は脳軟化症だからなあ
どうやって生きるんだと
>>488-489 それ以前にそこまで秀吉が存命なら、
朝鮮征伐がどうなっていたか気になってしまう。
確か、秀吉の実姉の日秀は寛永期まで存命しているから、
豊臣家一族は決して短命の一族じゃなく、
適切に当時のレベルでも健康に気遣っておれば、
秀吉も1616年まで存命なのも別に無理な話ではない。
どういう状態で秀頼が存命かって話ではあるよな
朝鮮出兵を耄碌が全てとはいわんけど、
秀吉が健在なら状況がなにか変わったのかとか
実際に現在の天皇家に流れているのは、
徳川家の血ではなく豊臣家の血なんだよな。
>>488 >>490 慶長の時の戦況から考えると、
朝鮮征伐は朝鮮南部は明側(朝鮮側)は日本側に割譲しないといけないだろ。
そして、日本側には形式的に秀吉を日本国王とし、勘合貿易を復活させるという
ことで明側は日本を朝貢国として扱うことによって中華圏での盟主としての
対面を保つということで終戦協定は妥結せざるをえないだろう。
文永の時の小西行長と沈惟敬の偽計による和睦が失敗に終わったという事を
考えるとね。
(単に秀吉を日本国王とするとだけでは秀吉が怒って当然。
明側としては勘合貿易の復活くらいは認可しておくべきだった。)
朝鮮出兵もそうだし、他にも京大阪の普請事業を負わされてた諸大名の疲弊っぷりが気になるな。
実際東軍に付いた大名多かったのもその辺の理由があるし。
秀吉の寿命云々じゃなくて、もしかしたら豊臣政権自体が長期政権を築けなかったかもとも思う。
長期政権のイメージないねえ。
秀吉が生きてるあいだは大丈夫でも、
死んだら(家康いなくても)結局は戦乱逆戻りだったかも。
>>495-496 どうだろ?
石田三成あたりがそれを見越して、豊臣秀吉に建言して
まず250万石の徳川家をやはり潰しにかかるだろう。
やはり「江戸の陣」なるものが起きるとw
ただ、豊臣秀吉の場合は攻城戦は徳川家康よりは
上手いので普通に政略によらずとも武略で
江戸城を落としていただろう。
(当時の江戸城ではさほど堅固ではないし)
>>495 しかし、255万石を貰っておきながら、
江戸幕府開闢の時から(さらに言えば江戸入府の時から)
既に資金的に疲弊して、
江戸時代を通じて慢性的に幕末まで
財政状況が火の車で在り続けた徳川はどうなるw
徳川ってそんな状況だったのw
しらなかった。
>>497 そりゃそうでしょう。小牧・長久手の頃とは豊臣家の勢力が違いますからね。
ただ倒したところで豊臣政権の主体は農政ではなく商業経済政策でしょうから。
商業主体だと政権腐敗が早い気がしまして・・・。
>>500 何号か前の歴史群像に、秀次粛清の真因は政権内部の腐敗というか商業資本との癒着じゃなかろうか?みたいな記事があったな
あんまり長引くとヌルハチさんが出てきてカオス
>>497 実は俺もそれを妄想したことがある
大普請前の江戸城を豊臣方が小田原のごとくひねり潰すと想像する。
そんな状況で籠城を選択するか?
てえか江戸って防衛できる地勢じゃないだろ
小田原だって似たようなもんだが
日本中を敵にした状態じゃあ箱根は防衛拠点には突出しすぎるから、多摩川あたりで迎撃決戦かね?
伊達上杉佐竹の出方次第で北からも来るし、まあどうしようもないわ…
秀忠のことなら、秀吉に嫌疑をかけられた時点で
さっさと江戸城開城して、5万石くらいのお情けの領地をもらって
自身の身柄と重臣の身柄の安堵を保証しようとするだろうな。
秀次・徳川連合で関ヶ原
そもそも収量が安定しない米を基軸に経済を回そうというのが無茶な話だった
>>506 その点意外と大坂の方が恵まれているよな。
山脈に囲まれているし。
>>510 それにしても日本の大都市ってことごとく防御不能ではあるよな
京都も、盆地で守りやすいようでいて攻められると毎回あっさり陥ちてるし
まあ都市機能と防御両立させるってのがまず無理題ではあるけれど
防御優先で鎌倉みたいな僻地に逼塞するのも近代に入っちゃえば取り得ないしなあ
結局要衝を整備してしっかり固めるしかないんだが、そんなの無闇に人と金を食うしなっていう
>>512 それウソ
1600年の日本の人口は1227万人ぐらいだったのに
どうやって若い娘50万人も出せるわけ?
>>511 基本的に篭城(都市規模での篭城であっても)という策は
援軍が来るまでの繋ぎの策なんだから、
その前提を意識して無いとあっさり陥落する。
大坂冬の陣がその典型だよ。
宇治川防衛策か、伏見城の対処に失敗したら、
山崎のラインで防衛するといったように、
ただ防御するのではなく縦深防御に徹して攻め手に出血を強いるしかない。
結局は戦闘で決着を付ける前に「内政で力を蓄えつつ、外交で勝てる状況を作るべし」って当たり前の結果に落ち着くんだな。
>>498 >>500-501 その反面、豊臣家は大坂の陣の終了後つまり滅亡した時点で、
約50万両ほどの資産を保有していたという。
非常にテラワロスwww
>>517 島原の乱での幕府側の総戦費は動員兵力12万で戦費約40万両
だとすると、大坂方はあと1回は大坂の陣は優に起こせるくらいの量だな。
大坂の陣の時のドサクサなどで、徳川方に接収されてない
資産もあるだろうからさらにあったのではないかと推測できるかも。
>>517 秀吉がいかに金儲けの天才だったかを証左してるようなもん
何しろ信長在世の時から桁外れの金を持ってたらしいからな
死ぬまでケチだった家康とはわけが違うのよ
>>519 いや各地の主要鉱山押さえて採掘物ガメ込んだだけだろw
>>520 秀吉の出自が豪農である程度の銀の蓄財があったと言われているので、
単なる農家ではなく家自体商才のある家柄なんだろう。
秀吉自身泥鰌売りとかして商売をしての経験もある。
家康のように元から土豪の家の出自とは違うのだから
商才という面では家康は秀吉に大きく水を空けられているだろう。
だから家康としては吝嗇という方法でしか蓄財する手段が無い。
問題は家康の死亡時の遺産の総額が諸説あってはっきりしないことだな。
伏見城などにあった秀吉の遺産など根こそぎ家康はくすねているから
全貌はつかみにくい。
根拠ゼロで秀吉の方が商売上手と言われてもw
根拠あるのに秀吉の方が商売上手ではないと言われてもw
流通用通貨の一点だけでも家康の方が経済に明るい
家康というか徳川家が常時金欠なのはなんで?
>>525 あまり年貢取らず、インフラ整備に大金を投じたから
秤量貨幣がかなり浸透していた時代に
いきなり計数貨幣を投入している時点で、
経済に明るいとは到底思えんw
江戸後期になっても依然として秤量での貨幣使用は
残っている。
>>527 銀貨は秤量通貨として丁銀や豆板銀を鋳造していますが
金貨は計数貨幣ですけどね
>>528 お前は江戸時代の経済を何も分かっていないw
>>527の言っていることが正しいってことだな。
金貨に計数貨幣を持ち込んでも幕末まで、
実際にさほど定着せず金貨は退蔵するか
事実上両替して銀貨をあつかっていたからな。
特に大坂商人は。
経済=大坂という認識もアレだけどね
江戸の開発にはどれくらい費用突っ込んだんだ
秀吉は具体的にどう金儲けしたんだか
その答えは君の心の中にある
裕福な大名を襲って蓄えたんだよ
だいたい、徳川も全国の金山銀山を直轄にしてるだろうが
>>534 それがよく分からんらしい
高松城の水攻めの際、城周辺に二重の陣城を築いたが
現在の金に直すと数百億円になるらしい
もちろんそんな金を信長が出すわけがなく、秀吉が捻出した金である事は間違いないが
秀吉ほどの男だからどうやって金を儲けたのか、人にペラペラしゃべるはずがなく(しゃべった時点で誰かが必ず真似をする)
まして記録になど残すはずがないからな
光秀も信長に仕える前までは京都に豪邸があったらしいから
信長はどうやら金のある人間も抜擢したようだ
家来の食費を少しずつケチって貯めたんだよ
ペテンで高利貸しから金巻き上げてただけなんじゃねーの?
一皮剥けば借金まみれだったり
>>540 妥当な真面目な考察だとそうなるんだろうけどさ。
っで、今年の大河ドラマの「お江」は酷い。
大坂の陣の冬の陣で最後まで徹底抗戦を主張したのは
史実では秀頼なのに、真っ先に和睦を主張したのは秀頼で
淀殿をはじめ他のものは全員徹底抗戦を主張している
構図にこの大河ドラマはしていた。
>>540 具体的にどの様な商売か方法で家康よりも稼いだの?
そんな旨みのある商売が史料に残ってるぐらいなら家康もやったつうに
>>543みたいな奴は何でも資料が残っていると考えているのだろうなw
>>542 見るなら「黄金の日日」見ろ。あれは経済ネタたくさん入ってるぞ。
ただ、秀吉の場合は商人を重臣扱いにしているほどだからな。
小西行長も商人出身だし。
儒学精神が希薄でさほど秀吉には意識してなかったのだろう。
家康は武士の豪族出身だから多少の儒学の教養は幼少よりあっただろうし、
今川の人質時代なら特にちゃんとした儒学の教育は受けているだろう。
推測の域を出んがな。
秀吉自身が勝家の援軍拒否した際の信長のご機嫌伺いに莫大な賄賂贈ってることからも
天下取ってからの各方面からの賄賂だけでやばいがする。
以前テレビで建築家秀吉ってのがやってたが
要するに秀吉は今でいう土建屋の社長のような人間で
戦に必要な資材と労力を全部自分の所で引き受けるから
戦の度に城や陣城を築くので、戦をすればするほどボロ儲けできる仕組みになってたと
まああくまでも推考だけどな
>>544 史料に残らん方法で大稼ぎできると考えるのかw
>>548 茶屋四郎次郎、後藤庄三郎、角倉了以、湯浅作兵衛、長谷川左兵衛
>>550 どんなゼネコンだよとw
事業主も秀吉だろうに
あちこちで経費抜いたり割増経費取ったりしても結局それは全部秀吉に帰ってくるのにな
織田家だと各武将ほぼ独立採算みたいなもんだし
まあ全部外注するよりゃマシだろうけどなあ
>>551 家康は別に商業軽視な武将じゃないよね
オランダ人が漂着すれば迎え入れて顧問にするぐらいだし
せっせと朱印船貿易もやれば街道や国内流通網の整備も始めてる
ただおもいっきりケチだったせいでなんか誤解されてるがw
>>551 重臣じゃないなw
所詮は商人扱いで商業軽視を象徴しているw
まあ、何でも史料が残っていると史学研究者は非常に楽だろうねw
>>553 小西行長は秀吉の重臣なんかではない
それに長谷川は武士でもあるよ
そもそも商人扱いが商業軽視とは言っている意味が不明
長谷川は武士=商業重視というのが意味不明。
常識的に考えて、商人扱いが商業軽視だろ。
>>555 長谷川が武士なのは海外貿易の関係で外交官としての立場もあったから
>>538 高松城攻め以外にも、光秀との戦いの前に姫路城にあった莫大な金銀を全部
兵士に分配したらしい
他の信長配下の武将、例えば柴田なんかこういう逸話なんか聞いた事がない
信長在世時ですらこれほどの金銀があったのだから、秀吉の錬金術は相当なもんだ
秀吉の金に纏わる話は半分以上が逸話の類で
確実な史料では当たり前の事しか確認できていない
>>556 そんな程度なら貿易と関係のある大名なら
誰でもしている。
外交を担う僧侶・寺院など所領を与えたりな
後藤庄三郎は秀吉によって家康に送り込まれている
ほどだから、家康に商業重視の姿勢があったとは到底考えられない。
>>560 初耳なんだが>秀吉によって家康に送り込まれている
>>561 「後藤庄三郎 秀吉」でググれ。
小説では司馬遼太郎の「城塞」を読め。
>>562 史料に基づいた記述は無し
大日本史料を読む限りでは江戸に来ることを求めたのはあくまで家康、
秀吉が関与していたとしても、それは下国を許可したという意味だろう
>>564 小説ソースじゃないだろ
小説以外にも出ているだろ。
>>563みたいな池沼はスルーだがw
後藤庄三郎 秀吉でぐぐるとたちどころに出てきますなw
「江戸に来ることを求めたのはあくまで家康」なら
桐紋を使わせなかっただろうにw
不自然極まりないw
それにしても、妄想ばっかりの司馬の小説をソースにするアホが現実にいるもんだな
何のための桐紋なんだよw司馬の小説をソースだなんて勘違いも良いところ
それにしても、妄想ばっかりの大日本史料をソースにする低脳が現実にいるもんだな
桐紋=豊臣家だと誰も言っていないのに、何故かいきなり持ち出す
>>569w
まあ一番の錬金術師は信長なんですけどね
>>574 第六天魔王様だからな
錬金術とか朝飯前であろう
>>576 菊紋よりは特別ではないが、公共性を持つ意味で桐紋が選ばれた
刻印されているのも民間に近い五三桐だし
>>577 だから「江戸に来ることを求めたのはあくまで家康」というのは不自然だ。
そこまで家康がするなら葵紋にしていないと不自然だ。
>>578 いや、だからなんで
ちなみに甲州金も五三桐が刻印されているんだが
>>578が理路整然としている。
「江戸に来ることを求めたのはあくまで家康」というのは意味が不明。
火縄銃
話変わるけどさ、騎馬が自軍の後輩に回り込んで来るのってどう対処したら良いのよ
いや、そりゃ敵の倍の戦力揃えたらどうにでもなるんだけどさ
機動力に差があるから、歩兵じゃ追い付けないし、結局騎馬対騎馬の消耗戦になっちゃうんだけど
弓騎馬は敵の弓騎馬より射程長い弓兵を数並べて撃たせればなんとかなるんだけどさ
騎馬なんて槍壁に突っ込ませれば溶けるってのに、結局騎馬同士の消耗戦になるが困る
何か解決策無い?
(中世〜近世の名将になった気持ちで回答して下さい)
>>582 日本の足軽は西洋のように密集陣でなく、一列横隊なので
奇襲でもない限りは対応できる
日本の場合、そもそも身分と関係ない、兵科としての騎馬隊や騎兵隊は殆ど存在せず、これは欧州の騎士に似ている。
『騎馬』とはおおむね100石以上の武士に与えられた資格のことで、稀に恩賞として50石程度の武士に与えられることもあった。
ただし100石とりの武士でも、必要な人員や装備を整えるのは苦しく、しばしば主家が支援したり金を貸してやることがあった。
こうした馬上を集めて騎馬隊を編成するのは、雑兵物語にも出てくるが、あくまで臨時であって恒常的なものではない。
そもそも日本の合戦において、騎兵突撃はメジャーな戦法だったとは言えない。
ゆえに対応に慣れてなければ混乱するし、件の騎馬隊に突撃された様は無様だったと、雑兵物語にも記述がある。
ただし備えには、かなりの割合で足軽小頭がいるものだし、硬直した隊列で戦うものでもない。
騎兵に突破を許すことはあっても、それだけで軍が崩壊するものではないし、柔軟に対処できた。
>>584 てゆうか祿米どりの武士なんて戦国期にはほとんどいなかったんじゃね?
織豊政権、それも太閤検地以降だろ
知行地の実効支配を認めるか、征服地でも支配権分配する形だろ
足軽クラスならまた別だろうが
ややこしい話なんだが、知行とは領地の実行支配権のことで、例え領主であっても実行支配していなければ、無知行とされてしまう。
日本の場合、村落には自治権があるし、領主であっても、西洋のように好き勝手ができた訳ではない(むろん力ずくってのはあり得た)
そして米が農産物である以上、収入が安定しないのは当然だし、太閤検地の前に、領地が額面通りの石高だったとも思えない。
しかも税収は、地元の慣例を無視して増やす訳にもいかない、そこには一定の気配りが必要とされた。
江戸時代でも基本的に村落の管理は
庄屋(名主)といった有力者に一任していたからな。
武士の数が少ないし、武士が直接管理するとかなりのコストが必要になるし。
武士と農民の関係は支配でなく契約
厳密な契約というより信頼関係じゃね?
信頼というよりは信用
もしくは慣習
初夜権は?
それってだいぶファンタジーじゃなかったか?
このスレだと信頼がのぶよりと読める
初夜権って、皆欲しいの?
595 :
名無し三等兵:2011/11/06(日) 21:12:13.43 ID:FuV9aow2
初夜権よりそのぶん税金払ってください
そもそも初夜権なんて西洋の風習だし、夜這い・歌垣が当たり前の日本の村落で、結婚するまで処女なんて少数派だろ。
>西洋の風習
日本の事例を聞いたことない?
マジで知らない
つーか初夜権はただの神話だぞ
権利なのに遠慮されてしまったらなんかブスみたいでやだな
まあ、その娘を継続・開発出来るのでなければ、
処女権なんて最初は楽しくても、直ぐに飽きるわなぁ。正直、面倒くさいだろうし。
お代官様ご無体なあれー
レベルで気が向いたときに適当にやってる程度の方が楽しそうだな
テクニシャンのいやらしいちょいワル中年オヤジに任せろって話かwww
でも初めては素敵な人が良いんです><
夜這いで選び放題でね?
もちろんお断りされる可能性もあるが
>>416 珍しく貯金も出来たらしいが、定信ちゃんの反動改革と
家斉が子供だけでサッカー2チームできるぐらいパコパコしたせいでアジャパー
頼む、牛戦車と大極砲の軍事評価を知りたい。
世界最初のトイレ付き牽引装甲車だったがやくにたったのだろうか。
15世紀なら役に立ったかと
カルバリン砲 (culverin)は近世に用いられた弾丸重量18ポンドクラスの中口径前装式大砲。また、
半カルバリン砲(Demi-culverin)という9ポンドの弾丸を発射するものもある。カルバリンという名称はその砲身の長さからフランス語のヘビという言葉に由来する。
砲身は青銅で鋳造されていたが、後に鉄製の鋳造砲も製造される様になる。16世紀から17世紀に用いられ、騎乗兵や歩兵に危害を加えた。
また一方で艦載砲としても搭載され、カノン砲よりも威力は低いが長射程を有す為アルマダの海戦で活躍した。
日本においては江戸時代初期、大坂の陣に備え徳川家康がイギリスから4門購入した。
日本で大型の大砲が作れなかったのは
当時ヨーロッパでは反射炉に時代が移っていたのに、日本では反射炉を作っていなかったのが原因なのかな?
日本が反射炉を作った幕末には、ヨーロッパではライフル砲と高炉と転炉が出来てしまった
609 :
名無し三等兵:2011/11/09(水) 15:52:35.83 ID:Q6z3rKMZ
その中で佐賀藩が作った反射炉は幕末最強の大砲であるアームストロング砲
になったけど、欧米列強はさらに進んだ後装ライフル砲になっていたしな。
西南戦争とかやっている時には既にあのフランスのM1897野砲がベールを
脱ごうとしていた矢先だった。
戊辰戦争で旧幕府軍 新政府軍の小銃も既に2線級の旧式銃で、モーゼル1898とか
ボルトアクション式の先駆者的小銃になっていたしな。西南戦争まであのままだった。
一言でいうと鋳造技術が未発達な為
アームストロング砲もライフル砲だったし、薩摩がイギリスを攻撃した時点では、イギリス海軍ね主力兵器だったよ?
ただこの時、尾栓に問題が起き、死亡事故も発生したので廃止された。
>>611 イギリスはその後、他国が後装砲に転換し始めてからも、しばらくは前装砲を使ってたんだっけ。
19世紀後半の銃火器の発達速度は異常だな
>>609 君、戌辰戦争や西南戦争が何年に発生したか把握してないだろ?
>>614 @ちょうど前装式から後装式、さらにカートリッジ式への転換期だったこと。
Aアメリカ南北戦争で、武器の開発が加速していたこと。
Bその終戦直後で、武器が余っていたこと。
そんな時期に内戦と革命が起こったせいで、日本は取り分けそう見えるんだよ。
例えば坂本龍馬が持っていたのは、S&WのモデルNo.1、カートリッジ式ではS&W社でも最初のモデルで、当時としては最新のものだ。
同じ時期に、ライフルも刻まれていない前装式パッカーション・ロックが並行輸入されているんだから、如何に加速度的進化だったかってことだね。
>>617 これが普仏戦争後の西南戦争から村田銃の制式化頃になると
後装、メタルカートリッジ、ボルトアクション、と本命の流れが見えて方向性が集束するんだけどな
19世紀中盤は銃の数だけアイディアが生まれてまあマジカオス
このスレの大坂の陣までだと
マッチロックが海外でフリントロックになった所までか
ライフル狙撃で強引押しこみ式のヤーゲル銃が出来たのは18世紀後半だっけ
最初の反射炉は中世の時代にあったと思われる。鐘を鋳込むために青銅の溶解に使用された。17世紀末に初めて金属の製錬に適用された。
Sir Clement Clerkeと彼の息子Talbotは1678年、ブリストルのエイボン川の畔にキューポラ(cupolas)または反射炉を建てた。
1687年、鉛の精錬に伴う匂いで(訴訟になり)銅に変えた。反射炉は次の十年の間に錫等の幅広い金属の精錬に用いられるようになった。
旧来の精錬方法に比べて褐炭や木炭ではなく石炭を燃料として使用できるという優位性があった。
1690年代に入ると反射炉は工業用の銑鉄の溶融に用いられるようになった。各地に建造されたが、
18世紀末には小さな高炉のようで反射炉とは起源の異なる工業用のキューポラの導入に伴い、時代遅れになった。
>>619 鎖国から少し後に手工業レベルのライフルができる
>>620 日本は何より煉瓦の技術が無い
何故かというと基礎の日干し煉瓦が不可能な地勢だから
最初に製造されたのが溶鉱炉用の耐火煉瓦だし
実際問題として、日本の城、特に織豊時代の平山城に大砲って意味あるだろうか
中国の城なら効果は絶大だろうけども
室町前期から日本でも火器の存在は知られていたのに、火縄銃の出現まで殆ど使われてないのが答えだろ。
>>623 平山城は鬼の様な広さと郭が防御の要だからねえ
城壁の一部を崩した程度じゃ、ちょっとショートカットが出来るだけなんだよね
防塁の山みたいな作りだし
ガチの攻城砲なら土塁そのものを吹き飛ばせる
626 :
名無し三等兵:2011/11/10(木) 16:46:47.82 ID:vsOsSuop
そんな攻城砲、日本で運用できるかどうか。
627 :
名無し三等兵:2011/11/10(木) 17:04:11.44 ID:lPq7LCQY
>>617 って言うか物知らずの猿と思ってたのか内戦前夜で弾が出りゃ何でもいいって足元見たのか、やりたい放題の外人武器商人の馬鹿笑いが目に浮かぶようだ。
デミカノン砲までならなんとか
629 :
名無し三等兵:2011/11/10(木) 17:30:04.44 ID:oUNYWViJ
手榴弾的な爆弾系兵器は既に鎌倉時代末期の元寇(文永・弘安の役)の
モンゴル 高麗 南宋連合軍が使った震天雷(てつはうと呼ばれた爆弾)で思い知らされてるけどね。
炮火矢みたいなロケット弾的な兵器を使われなかっただけだか。
しかしあれって元寇の絵巻物であるような、手榴弾的な投擲爆弾だったんだろうかね。
あるいは投石機みたいので飛ばしていたんだろうか。
>>622 大阪の陣では効果があったんじゃなかった?
攻城兵器のくせに、幾ら使っても外堀すら直接攻略に貢献してないからな
本来の用途としては殆ど役に立ってないだろう
いや、大坂城の総構に砲撃をして櫓や塀を崩したりしている
当時の記録に大した戦果はないという記録はない
そもそも旅順攻略の時代になって、
飛躍的に攻城砲の性能が上がっているのに
さほど要塞に影響が無かったと言われている。
大坂の陣のレベルの大砲では疑問に感じる。
(そもそもそこまで破壊されていたのなら、
冬の陣後に改めて破壊する必要性を感じない)
そもそも17世紀の大砲なんて一日に10発撃てればいいほうだからなぁ
仮に城塞攻撃な有効だとしても一日10発×4門でどこまで命中弾出せるかを考えると、費用対効果の釣り合いは取れない希ガス
>>629 あれは単に騒音兵器程度だったが
主に一騎当千の騎乗武者が足軽を連れて戦うスタイルの日本にとっては
馬が暴れちゃったらアウトだから効果絶大だった
直撃した所で爆発したら死傷もしただろうが、幸か不幸か?中に鉄片を詰めたりはしていなかったらしい
>>634 要塞も進化している
>>635 それはやたら巨大な大砲を鋳造したオスマン・トルコの話
それも16世紀の
>>637 17世紀末にヴォーバンが出した計算だと、弾薬消費は包囲戦において砲一門につき一日四発という数字が出ている。
城壁というか要塞の壁が超音速飛翔のライフル砲に対応して分厚くなっているんだよな
トーチカにしろコンクリで1mとか2mとかにどんどん分厚くなる
>>638 それは大砲の射撃能力でなく、火薬や砲弾の備蓄問題だと思う
実際のとこどうなんだろうね、大阪の陣における徳川軍の弾薬備蓄って。
擾乱砲撃主体なら弾数はそんなにいらないだろうけど、要塞攻撃の意図で撃つなら100や200の備蓄じゃ足りないだろうし
天守閣は射撃の標的にされるためついには消滅してしまう
でも五稜郭についついそれ作っちゃってry
>>641 あちこちから火薬や鉛を購入したり、集めたり、献上されたりしている
644 :
名無し三等兵:2011/11/11(金) 14:17:24.41 ID:gkwTFkOx
大友宗鱗の対島津との戦いで、島津方の城を落とそうとポルトガル船から
1門入手してあった大砲でぶっ潰そうとしたけど、それでも落ちなかったしなあ。
青銅製のフランキだったらしいが。
島原の乱で幕府軍を援護するためにオランダ戦艦が一揆勢が立て籠る原城を
艦砲射撃してるけど、既に大坂の陣とかより進んでいたのかも知れないね。
ただの鉄球みたいな弾でなく恐らく爆発的な爆裂弾はあっただろうし。
>>637 実のところさほど進化していない。
そもそも旅順要塞は急造の陣地も多い。
>>646 土塁の厚みくらいは同様だw
コンクリートもさほど砲撃には強くないw
それに冬の土ならば、むしろコンクリートよりも丈夫w
>>647 例えば名古屋城と五稜郭では土塁の厚みは倍ほど違う
別に冬のみに戦争するものではないのだけど
>>649 凍土と化すほど大坂が寒いと思っているの
>>650 温暖化と都市化で冬がすっかり暖冬になってしまった今の大阪で考えてるの?
アホ丸出しだろお前
死ねよボケ!!!
>>644 撃ちこんだのは海戦用の砲弾だったため
あまり被害は無かったらしい >艦砲射撃
戦国時代は暖かい時代だったような
小氷期です
>>651 塹壕や築山、坑道を掘ったり
淀川の流れ変える土木工事ができる位の寒さ
>>656 人間一人を埋める穴すら掘れないツンドラでか?
>>653 日本が温暖だったのは平安時代だ。
今よりも温暖だった。
662 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 16:06:48.88 ID:Prqq9RWu
>>296 男色傾向のある者なら門の耐性が高いかもしれん
城攻めでも投石器とかギリシャの火が無い日本の城攻防
は欧州行ったらなんも出来なかっただろうな
日本だと大阪城攻めでようやく威嚇に使ってた大砲が
西洋だと城攻めの基本になってたから、防衛建築も一気に変わったし
>>665 豊臣大坂城は砲撃戦にもかなり対応した作りになってたような。
まぁ北の川の中州とか掘削してないという手落ちがあったけど。
大友氏が最後、篭城して国崩し撃って包囲する島津軍を迎撃してその間に秀吉の九州征伐軍を呼び込んでたな。
撃たれる島津軍は射程外から包囲するしか手が無かった。
秀吉だったら欧州の城でも包囲して絞め殺すとか餓死させるとかで落としそうだが。
>>666 まあ平城で、ある意味超大型総合庁舎みたいなもんだからなあw
城下町のこと考えたらそうそう防衛一辺倒には作れないし、篭ってからの急場の築城では間に合わない部分が当然出てくるという
地勢から包囲も簡単だしな
>>667 欧州の城はまあ城塞都市だから、包囲戦はもう大変
高松城みたいに簡単には飢えてくれん
数年がかりは珍しくないが、政治情勢で包囲を続けられなくなったり疫病が発生したりで包囲継続できなくなる場合も多いし
中の人の数が多いから、備えが悪いとあっさり飢餓地獄になったりもするけどね
西洋の城塞都市は経費がかかりすぎる
670 :
名無し三等兵:2011/11/20(日) 18:36:45.42 ID:0zPIdeWh
秀吉は唐入り目指してたけど、山海関とかどうやって抜くつもりだったんだろう
存在くらいはしってただろうに。
岸沿いに船団おくって、渤海湾つっきるとか?
>>670 力攻めで充分だろ。
加藤勢がチート的に頑張る。
『城』とは言っても、事実上はほとんどが要塞に近い日本の城に、西洋の軍隊が投石機や攻城櫓、破城槌を持ち込んでも、近づくことすら出来ないだろうな。
現に日本だって投石機(回々砲など)も攻城櫓(走り櫓など)も、破城槌も知ってたけれど、余り活用してないし。
一応、武田氏は坑道戦術を知ってたし、島原の乱では地雷戦術も検討されたが、築山を築くような日本の城では、効果がなかったし。
そもそも文化が違うのに、共通点もないことで、上だ下だと比べても意味がないだろ?
現に朝鮮出兵では、大陸型の明軍相手に優勢だったし、中国・朝鮮式の城は、実戦に耐えられないと、朝鮮人ですら倭城の建築を考えたほどだ。
歩兵中心の島津勢が、強力かつ数に勝る明軍騎馬兵団を相手に、圧勝した事実もある。
もちろん、その逆も起こり得たことだろうしね。
>>671 その前に遼河渡河戦とかやらないといけないだろうよ。
山海関を制圧しても、その次は北京城攻囲戦。
それが成功しても、中原諸城を落としながら黄河を渡り、
淮河を渡り、江南に攻め入り長江を渡って南京城を
落とさないといけない。はっきり言って無理ゲーだろ。
>>670 そもそも明の国土の広さを認識していたか疑問
明の反乱軍がきっと何とかしてくれる
>>674 秀吉に優秀な息子が何名かいれば無理ゲーじゃなかったかもな。
李自世や女真族もいたことだし。
秀吉が長生きしてたらヌルハチが更に楽になるだけじゃね?
幕末になるとあっけなく落城しているけど
やっぱりあのころになると兵器には城は無力なのかねえ?
>>679 対砲兵射撃ができる砲が城方にないのが問題
>>679 城とくに平山城、そして天守閣はまさしくダンジョンであり、
直接壁を壊すことの出来ない程度の兵器を持った歩兵にとっては迷路+山だ
上るだけでも大変で、そこに敵の兵士が小窓から武器で撃ってくる
矢とか鉄砲とか
接近したら槍で突かれる
大阪冬の陣で、たまたま1発の砲弾が当たったので和平に持ち込むことになったが
その後250年間で砲弾が命中精度の高いライフル砲弾になり
弾道学も進み、たまたま1発でなく高い精度で命中させられるようになった
これだと本丸までの順路だってぶっ壊しまくるし
燃焼力の高い炸薬を使った砲弾だったら天守閣丸ごと火事になってしまう
そしてライフル砲で目標を定めるなら、天守閣は絶好の的になってしまうのだ
五稜郭も、幕府内で反対があったにもかかわらずつい天守閣作ったせいで
砲撃を受け易くなってしまった
十分に大きな堀のある城ならが天守まで届くなんて昔はあり得なかったが
黒色火薬じゃなくてニトロセルロースとか瞬発の雷酸水銀とか使ってきて射程も延びて来るし
>>681 五稜郭に天守って在ったんだ。
それは知らなかったよ。
>>681 ニトロセルロースが装薬に使われるようになったのって、世紀末のことだと思うが。
それまでは黒色火薬でしょ。
幕末の砲って籠城側の加点一つずつ潰すくらいの精度あったん?
M1ガーラントの30-06が黒色火薬用に作られた弾薬だからな……
>>679 姫路城は最新の大砲には無力だった
それを知ってたから慶喜は簡単に大阪城から脱出した
姫路城は築城当時から男山からの砲撃に弱い
姫路城は芸術品だからなあ
男山からの砲撃に弱い姫山の姫路城
エロイ
石山本願寺が長期篭城に耐えることが出来たことの一つとして、
尿を蓬にかけて浸して発酵させて硝石を作って、
火薬の安定供給をしていたためと聞いた事があるが
どれほど安定供給できたのだろうね?
五箇所や合掌造りで有名な白川郷などは、今でも少量ながら硝塩を生産を生産しているが、江戸時代の生産量が年に2tほど。
しかし戦国時代の需要にはとうてい及ばないし、本願寺にしても硝石は輸入が主だったことに変わりない。
生活……と言うか生存がかかっているし、少しでも役に立つならやっておこう、という程度だね。
因みに土硝法はヨーロッパでもやっていたし、ナポレオン時代には、古い家々から土をかき取る、硝石採取人なんて仕事もあった。
自由に輸入できたってそれなんだから。
>>692 総輸入量自体は、江戸時代の方が多いわけだから、
需要が高い戦国時代に硝石は輸入が主というは変のような。
>>692 五箇所などで生産していた方法は、硝石丘方式だから
より効率的で安定供給用のやり方だぞ?
ハーバー・ボッシュ法式が出現する前での話だが。
それに江戸時代も決して需要は低くない。
獣除けの農具として火縄銃は多用されていたので、
かなりの量が必要だった。
695 :
名無し三等兵:2011/12/23(金) 23:39:02.52 ID:k2nl/vjl
藩が備えてる火縄銃より農村の害虫駆除用火縄銃のほうが圧倒的に多いという状況だからな
たった三万石の壬生藩は、1863年に農民の登録済み火器が計158挺
確か、加賀藩は年貢の一種で硝石を納めさせてたような。
つ 大圏航路&チリ硝石
戦国・江戸時代における硝石の輸入なんて、何を調べて分かったの?
どこかサイトに載ってる?
>>696 本来十数年かかるところが前田氏には秘伝の製法があって製造年数が短かったんだっけ?
700get!
確か大豆の根などに多い、根粒菌なんかを利用して、窒素を効率よく硝塩にする方法だよ。
効率を上げるため、糞尿と藁、根粒菌の多い植物を穴に埋め、時々かき混ぜて数年まつ。
いったん硝石が生産されれば、翌年からは毎年とれる。
白川郷なんかは、合掌造りの軒下の地下でやっており、温度が一定なので安定した生産が望める。
蚕を飼い生糸も生産してたので、この蚕の糞も安定生産に寄与してた。
小屋を建てて硝石丘を囲む方法は、欧米でも行われてるね。
質問ですいません。
テルシオ方陣がなぜあのような形で銃兵を配置しているのかがいまいちわかりません。
一部が必ず遊兵化して、敵への火力投射が効率的に行えないように思えますし、
敵の騎兵突撃を受けた場合、銃兵は騎兵とパイクの挟み撃ちで壊滅してしまうのではないでしょうか?
それとも、テルシオにおいても、後のオランダ式やグスタフ・アドルフ式のように銃兵はある程度機動するのでしょうか?
だとすると、四隅に置いておかずに一箇所もしくは両翼に集めたほうがよいと思うのですが・・・。
きちんと組まれた陣に騎兵突撃するのは自殺行為
>>702 どちらを攻撃されても無問題というのがテルシオの理念
>>703 >>704 ありがとう。
ということは、銃兵は基本的に組織的には機動しないということですね。
たしかに、騎兵突撃は通常されないですね。
しかし、敵のパイク兵などに接近されて白兵戦になった場合でも、銃兵が機動しないとすると酷い目にあうと思うのですが、そういう場合はどうするのでしょうか?
ちりじりに逃げるだけ?
>>705 全軍で一つのテルシオを組むわけではないから、テルシオ同士がお互いを援護する。
これはブリゲードも同じだけど。
パイクは城、パイクは堀、パイクは石垣
そう言えば“テルシオ”の兵士って、何と呼ぶのかな? 戦列歩兵で良いのだろうか。
ヒダルゴ(イダルゴ)/郷士はむしろ身分のことだし……
『ブリゲード』って単に『旅団』って意味じゃないの?
『ファランクス』とか『レギオン』みたいに
何か歴史的な意味があるなら教えて
ぐぐってみたよ
「Brigade」はケルト語のbriga(争い)に由来するという。
>>710 『ブリゲード』の当初の意味は、2個連隊で組む凸形の戦闘隊形の事です。
隊形が廃れても編制単位やその他で軍に影響を残しました。
『ブリゲード』には固有の指揮官が置かれず、片方の連隊長(大佐)が指揮を取っていた事から、現在も英軍では準将(Brigadier)は現役にのみ与えられる階級とされ、現役を外れると大佐になります(完全に退役すると退役準将を名乗れるとする話しも?)。
テルシオを使用した皇帝軍の末裔たるドイツでは、伝統的に準将の階級は設けられず、WW2後の再軍備の時に制定されました。
ただし、伝統の再構築(?)を目指していた親衛隊には、SS-Brigadefuehrer(国防軍の少将相当)が設けられていました。
そう言えば准将のくだりは『深夜プラスワン』で読んだことがあったな。
ヨーロッパだとこんな感じで機関銃とか戦車とかを抜きにすると
最初の花形は騎兵にはじまり騎兵に終わっているような気がします。
騎兵の突撃が猛威を振るう
↓
テルシオ方陣で全方位からの攻撃に対処
↓
方陣は前方の攻撃力が落ちるので横隊で正面攻撃力を生かして対抗
↓
密集しないと命中率が低いけど逆に被弾も少ないし、横隊は突進してこないから散兵投入してみる。
↓
散兵は逃げまくりで運用むずい。横隊は側面からの攻撃に弱いし突破力がないので縦隊を混ぜてみる
↓
密集しているのなら大砲でふっとばせば楽じゃん
↓
大砲には密集隊形より騎兵の突撃の方が有効だな
>>714 >大砲には密集隊形より騎兵の突撃の方が有効だな
成功例のイメージとしては、
・ソモ=シェラ峠でのポーランド軽槍騎兵の突撃
・ボロディノでのラエフスキー角面堡に対するフランス胸甲騎兵の突撃
・バラクラバでのイギリス軽旅団の突撃(成功例?)
辺りかな?
バラクラバではロシア騎兵の突撃をスコットランドの歩兵連隊が二列横隊の射撃で撃退しているけど・・・
因みに、配置に着いたイギリス歩兵を表す「thin red line」は、この様子を目撃した新聞記者が記事の中で使ったのが始まり。
これは軍服の色から来ているのでは無く、横隊から間断無く射撃される銃火が「細い赤い線」に見えた事から来ています。
テルシオ以前のスイス傭兵、ドイツ傭兵(ランツクネヒツ)の時代から、すでに騎兵はフリーハンドではなかったろ?
隊列に突入された時、或いは膠着した時に備えて、倍給兵とかブロードソードマンがいたけど、こちらも主に対歩兵向けだ。
1512年のラヴェンナの戦いでも、隊形を組んだ歩兵に騎兵が突撃するのは不利だとして、塹壕を掘り、歩兵がそこを越えて隊形が乱れた所に重騎兵が突撃する計画でしたしね。
あくまで「計画」ではですが。
>>714 こういうのを読むと、とても楽しくなるのはなぜだろうなw
ナイトガンダムのアルガス騎士団に
力には技、技には魔法、魔法には力
という言葉がある。じゃんけんみたいなもんだな。
柔よく剛を制すvs剛よく柔を断つ
最強の矛 vs 最強の盾
三兵梯団戦ってやつね
素敵じゃんw
城の建て方で
まずい建て方や上手な建て方の
良い例はありませんか?
戦略戦術兵器事典5 ヨーロッパ城郭編
戦略戦術兵器事典6 日本城郭編
なんてどうだろう。読んだわけではないから中身は保証できないが
>>725 敵がその城を無視して通り過ぎる城は下手な建て方だな
>>726 ありがとうございます
いい例の参考になりそうですね
>>727 山の険しい箇所を選んで築城すれば自ずと守りやすい城になると思っていましたが
たしかに無視されると城の価値がなくなってしまいますね。盲点でした。
教科書には山城→平山城→平城という風に変遷したと書いてあるけど
アホとしか言いようがない
近世以前にも平城が無数にあったし
鎌倉もに囲まれた城塞都市
チョメチョメ→あや→ピョンヤン
731 :
名無し三等兵:2012/03/06(火) 10:06:34.97 ID:kOFeJdvP
>>728 春日山城が名城と呼ばれる所以だな
あそこはただのでっかい山城にすぎないが、日本海側を完全な管制下においている
北国街道方面も晴れていればよくみえて、行軍する側からは無視して通り過ぎられない
七尾城は要害の堅城なれど能登自体が無視できるからもったいないなあ
浜松城は微妙な所だな
最初信玄は無視して通り過ぎたし
あの時の信玄は東海道を制圧せずに通過しただけだからな
もう余命幾許もないと分かってるから、信長を懲らしめるのが最大の目的の為
家康なんぞに構ってる時間がなかったんだよ
>>735 信玄はそんな理由で部下を戦地に向かわせたんだ
出陣の動機があまりにも子供じみてるからな
だから信玄が死ぬや否やさっさと撤退したのよ
普通
総大将が死んだら後継者は足場固めしないと
外征できないじゃん
隠しきれるもんじゃないから軍も国許も動揺するし、甲相同盟があるとは言え周りの国の動向も心配だし
信玄出兵の目的は足利幕府の立て直しじゃないの、往年の大内義興みたいな
奴のそんな崇高な理念があるかいな
自分を欺いた信長を懲らしめてやりたい
その一念だけ
自分が死ねば後の事はどうでも良かったのよ
>>740 てにをはのおかしい人は何を言っても信用されないよ。
>>741 2chで「てにをは」に噛み付いても...。
ブランダーバスについてお聞きしたいのですが、誰か知ってたら教えて下さい。この銃は
@揺れる船上でも弾込めし易いように、口が広がったマスケット
と言う説と
A釘や鉄片、散弾を詰めて撃った一種の散弾銃
の二通りの意見を聞きますが、どちらが真実なのでしょうか?
散弾銃とは信じ難いのですが、和訳された欧米の本にすらそう書いてあって……
>>743 岩堂憲人著「世界銃砲史」429ページに記載があります。以下引用です。
「たとえばブランダーバスと呼ばれた銃口がラッパ状に開いた銃がある。このいわゆるラッパ銃は一般に散弾を大きなパターンで発射するように思われているようだが、実はそうではない。
無論散弾を込めて撃つこともできるが、銃口がラッパ状になっているかといって散弾がそのカーブにそってひろがるわけはないので見た目ほどの効果はない。
銃口をラッパ状にひろげた目的は、動揺するようなときでも装填がやりやすい工夫なのである。
この種の銃は本来がイングランド郵便馬車の馭者が護身用に用いるために造られたと言われる。
揺れる馬車上でも装填を可能にするために筒先をひろげたわけなのだ。
そして、この点が買われ艦上用の銃として利用されるようになる。
揺れ動く甲板、あるいはもっと揺れるマスト上の檣楼などで用いるのに便利な銃というわけである。」
745 :
744:2012/03/16(金) 16:00:29.16 ID:???
いっぽう小林宏明著・銃器用語辞典には
「ラッパ銃(blunderbuss)
フリントロックの銃でショットガンの祖先のような銃。
銃口がラッパ状に広がっていて、全長35cm位のものが多く、比較的小ぶりにできており、釘、ガラスの破片、石ころなどなんでも弾丸として詰めて撃った。
18世紀初めごろに造られ、18世紀半ばにはけっこう人気が出て色々な使い道があたというが、とくに重宝したのが狭い船上で使った海賊たちだったといわれている。」
とあります。
有難うごさいます、やはり装填のし易さからでしたか。
郵便馬車の護身用だったので、散弾を詰めることも多かったのかな? その点が誤解されて一人歩きしたのでしょうね。
ブランダーバスとかアーキバスの「バス」ってオランダ語系の言葉でパイプの意味らしいな。
日本でいう「筒」も、もしかしたここいらへんからきたのかもな。
748 :
名無し三等兵:2012/03/17(土) 21:35:38.22 ID:nYyzhcH8
筒状のものを指す固有名詞が筒状そのものの一般名詞に転じまた
他の筒状のものを指し示す意味に拡大されるのはよくあることだな
英語のpipeなんてまさにそうだ
>>746 ブランダーバスは英海軍でも使われたけど、
散弾+球弾を両方込めるいわゆるパック・アンドボール使用が常だっそうです。
装填のし易が目的で作られたけど実際使用法としては散弾銃も多かったのでしょう。
さぞや反動が大きかったろうなw
>>729 南北朝時代に包囲戦のあった小田城も平城だな。
>>673 破城槌なんかは石積みの構造物には有効だが、土塁の多い日本の城相手では成果が
少なかろうと思う。
755 :
名無し三等兵:2012/03/22(木) 12:56:27.72 ID:7OofzN8/
>>673 鉄砲備えてるところに騎兵突撃かます明と朝鮮軍がアホなんだよw
南北朝時代には既に騎射や槍による攻撃は足軽弓で圧倒されるようになってる。
鉄砲ならなお更だ・
現在の知識を利用して攻城する場合
なんか画期的な方法ないでしょうか?
例えば城の上流に動物の死体をバラまいて水質汚染させるとか
昔から城攻めのベストの手段は内応と決まっておる
760 :
名無し三等兵:2012/03/22(木) 13:43:02.40 ID:7OofzN8/
>>759 内応は難しいんだぞ
秀吉が得意だったが人たらしの才能がないと。
762 :
761:2012/03/22(木) 17:11:19.95 ID:???
>>761 島津の薩摩兵は全員歩兵という日本でも異例な軍隊な上に
鉄砲の運用に長けてるからね。
すてがまりだっけ?射撃しながら撤退とか。
>>761 昔から、社会科の教師が「火縄銃の火縄って火薬に日が着くまで待ってないといけないんだよ〜」とウソを教える、と聞いていたが
これってその類の着火方式なのか?
765 :
761:2012/03/22(木) 22:20:02.87 ID:???
766 :
673:2012/03/23(金) 00:28:24.99 ID:???
日本で『騎馬』とか『馬上』と言えば、乗馬資格を持った上級武士のことで、臨時編成を除けば騎兵突撃なんてなかったからね。
騎兵隊なんて、太田道灌の騎馬足軽が例外的にあるだけだ。なまじ騎兵の運用に長けていて、鉄砲の集中運用に対峙したことが
無かったから、悲惨な結果に終わったんだろ。
あと同時代のスイス傭兵やランツクネヒツ、或いは少し後に登場する戦列歩兵などと同じく、良く訓練された、あるいは場数を
踏んだプロ軍人たる足軽を、寄せ集めの雑兵と舐めていたのかも知れない。それなら騎兵突撃も合理的な戦術だから。
でも薩摩は、槍足軽すら小口径の腰差し筒を携行するという、全員が準鉄砲隊のチート火力だったから相手が悪かったとも言える
まだ火縄の時代で、弾幕射撃より多数の狙撃みたいな運用の日本相手だったから、まだましだったけど、フリントロックを持って、
歩兵隊列を築く欧米型の運用が相手だったら、目も当てられなかったろうな。
義和団の乱
あたりって、義和団は薬莢後装ライフルからフリントロックから弓矢、青龍刀からヌンチャクトンファーから鍬、円匙、大鎌、角のある石を埋め込んだ棒切れにいたる
全時代の武器を勢揃いさせた珍軍隊だったのかどうかw
鉄砲普及後の籠城戦って防衛側はますます有利になったけど
こちら側から敵の城へ攻めこむ場合は連射の効かない銃って使いにくいよね。
一発撃ったあとの無防備な装填の時間が惜しいので
素直に弓とか槍だけ持って突っ込んでへばりついたほうがいいのかなあ?
塹壕掘れ
日本のチート防具竹束
>>769 マジレスすると近世は塹壕じゃなくて胸壁
日本の陣城や使寄せも含め、すでに塹壕の概念はあったよ
>>772 最初の塹壕は防御側が篭る為では無く、
攻撃側の隊形を乱す為の障害物だと読んだ気が・・・
野戦の話しだけどw
776 :
名無し三等兵:2012/03/23(金) 14:11:18.66 ID:RvbQFRCz
竹束と兀突骨の藤甲ってどっちがつおいの?
竹束はのサイズによる
火縄銃の時代に塹壕は新しすぎて武器が追いつかない
弾幕も精度も全く不充分だから、簡単に突撃で接近出来る
そして、白兵戦に移った時点で、塹壕内の敵軍は自分から勝手に落とし穴に入ってる状態
敵の頭上から突きまくって圧勝。まさに自滅の策
知らねぇんなら書くなよ……
塹壕はオスマン・トルコのコンスタンチノーブル攻略から使われ始め、フランスがイタリアの紛争に介入した、イタリア戦争
(ナポレオンのそれとは別)のころから発達し、当初は敵の火線を避けて胸壁に近づくために使われた。また規格化により、大量の
大砲を運用するようになったフランス軍に対し、イタリア側も胸壁を土壁で保護するようになる。
この矛と盾を体系的にまとめ
上げたのがヴォーバンで、日本の五稜郭に代表される星型要塞は、彼によって完成された。
因みにイタリア戦争は概ね島原の乱の直前辺り、ヴォーバンの登場がその後ぐらいになる。
フリントロックの登場と、グスタフ・アドルフやマウリッツの軍制度改革により、火力戦の始まったヨーロッパでは、塹壕は、
既に要塞攻略に不可欠のものになっている。
ただコンスタンチノーブル攻略戦や、長篠の戦いでも見られるように、広義に“野戦築城”と呼ばれる戦術は、理論付けや
体系化がされる前から、現場レベルでは既に一般的だった。塹壕だけに注目したって、コンスタンチノーブルで既に使われて
いるんだ。
「突撃に弱い」とか、中世のレベルで語られても困る。ここは近世の話をするスレッドなんだから。
いっぽう日本では塹壕の代わりに土俵を積んでジグザグの仕寄せ道をつくっていた
782 :
名無し三等兵:2012/03/23(金) 22:46:27.66 ID:KZGT/N0B
>>780 俺は野戦の話をしてるんだが
野戦は普通に機動戦の向きが強く、塹壕など無用の長物
火力戦というのは、要塞攻略だけの話だ
つか近代の戦列歩兵は普通に突撃しますけど。騎兵だっているし
近代だからこその話じゃん。突撃に弱いってのは
「塹壕」じゃなくて土壁の類ならまた違うけどな
>>782 ナポレオン戦争関連、特に、ロシア遠征に書かれてる本を読め。
>782
土壁も塹壕も概念としては“野戦”築城の一形態。
スイス・ドイツ傭兵たちも、近世に入るにつれて塹壕と土壁を使うようになった。
正にその騎兵突撃を防ぐ為に。
スペインのテルシオでは、『人夫の仕事』と土木を嫌う兵士に対し、割増給金を払うことで解決している。
彼らこそが、最初の野戦工兵だった。
ついでに言えば……
傭兵だろうが雑兵足軽だろうが、テルシオだろうが戦列歩兵だろうが、状況に応じて防御戦もすれば、突撃をするものだろう。
そのどちらかしか重視しない、故に塹壕を使うor使わない、なんてヘンテコな方程式は、変数が流動的なので成り立たない。
塹壕と空堀が混ざってね?
ごもっとも……
>>783 ナポレオンの採った陣形に塹壕は特に無かったように記憶しているが
防馬杭とかはあったけど
>>784 だからそれ、塹壕じゃなくて空堀とか土壁の類だろ
落とし穴に類する物だろうそれ
塹壕でどうやって騎兵突撃を防ぐんだよ
三十年戦争でも、正に騎兵突撃で用意に塹壕陣地を突破されてんだろ
>>783 ナポレオンの採った陣形に塹壕は特に無かったように記憶しているが
防馬杭とかはあったけど
>>784 だからそれ、塹壕じゃなくて空堀とか土壁の類だろ
落とし穴に類する物だろうそれ
塹壕でどうやって騎兵突撃を防ぐんだよ
三十年戦争でも、正に騎兵突撃で容易に塹壕陣地を突破されてんだろ
やべえ二重レスになってる。すまぬ
>>788 ロシア遠征はナポレオン率いる大陸軍ばかりではなかろう。
ロシア、大角面堡で調べたか?
>>791 大角面堡・・・この単語を見るとワクワクするw
大角面堡は自然の丘の頂上を平らに整地し、
西側斜面(フランス軍の方向)の一番上に胸壁を築き砲兵陣地とした物です。
胸壁の西側には幅10mの壕を掘り、
更に壕から西に100mの幅に狼の穴と呼ばれる落とし穴が無数に掘られていました。
この「壕」ですが、同じ本の中で"ditch"と書かれたり"trench"と書かれたり?
どちらにしろ野戦築城の範囲かと。
構築の指揮を取ったのも中尉ですし。
この大角面堡、最期は騎兵突撃で陥落しましたが、
騎兵は西斜面を南翼から迂回し、壕の無い南東方向から突入しています。
壕は騎兵を防ぎましたが、騎兵は壕の無い方向からやって来たと言う落ちで。
>>792 当方が見たサイトではタコツボがあったそうな。
後、本の名前は忘れたがウェリントン将軍の本でウェリントン将軍が半島で広大な防御線を作ったというのを見たな。
>>793 大角面堡にタコツボは初耳ですね。
狼の穴の勘違いなのか、実際に有ったのか?
面白い情報を有り難うです。
>広大な防御線
それはリスボン北部に作られた、トレス・ヴェドラス線かと。
全長約48kmの石組の胸壁に砲500門、堡塁を繋ぐ地下道まで有る。
まるでマジノ線の様な代物で、今でも一部が残っていて観光出来ると。
塹壕を掘って敵の機動を妨害したっていうのなら確かベリサリウスがやってたな
火器普及以前の時代で、塹壕も防御拠点に対して縦に掘ったらしいけど
突っ込みが入ったあとも塹壕と空堀の区別つけないのはなんでだろう
塹壕は中に入って使うもんだろ
日本史での呼び分けは知らないけど、英文だと結構あやふやな気がする。
ラヴェンナで使用された壕は兵士が中に入らずに障害物として作られたけど、
trench/塹壕と表現されてるし。
WW1の塹壕は流石にtrenchで、ditchは塹壕内の廃水用の溝を指すみたい。
また、一冊の本の中で同じ物をtrenchと書いたり、ditchと書いたり・・・
軍事では無いけど、日本でも建築関係では用途の有る溝の事をトレンチと呼んでる。
福一関係のニュースで耳にしているかと。
800 :
名無し三等兵:2012/03/28(水) 23:26:28.97 ID:5UtymV/i
ロシアはベルゴロド線なんてもんを作ってたくらいだし
野戦でも敵軍機動妨害にちょっとした土盛りだの穴だの掘るのは不思議ではないだろうな
確か、旧軍では塹壕が3タイプあったな。全身入るの、下半身まで、伏射用だったかな?
西洋だと城や要塞攻める時にはジグザグに塹壕掘って間合いを詰めて行ったような。
野戦だと半島戦争、大角面堡がメジャーだろ。
後で戦闘技術の歴史近代編借りてくっか。
火砲の発達で塔の類いは絶好の攻撃目標になってしまったからね。
対抗として稜堡式築城が発達し、
高さの有る軍事建造物、塔や城壁は消えて行った。
変な話し、それ以後の城塞都市で一番高い建造物は教会の塔だったり。
日本でも幕末に作られた五稜郭や台場には、高い建造物は無かったね。
間抜けな事に太鼓台があって、良いマトだったらしいけどな。
幕軍が慌てて取り壊したころには、官軍は既に弾着修正が済んでいたとさ。
ぶっちゃけこの時代、稜保式の要塞じたいが、もう時代遅れだった訳だし。
(携帯だと“ホ”の字が出ねぇ……)
>>804 そう言えばそんな話もw
実際、アウトレンジされていては稜堡も殆ど意味無しだし。
だからこそ、五稜郭から討って出たんでしょうね。
弁天台場や函館市内の件も有ったろうけど。
野戦で使う堡塁云々なら、四稜郭が野戦築城に近いかな?
立て篭もる為の施設も無かったと言うし。
スレ違いかも知れ無いけど「物」が、このスレ相当なので見逃して下さい。
大坂城も本丸が射程距離にある時点で時代遅れと言える
実用性を考えると見栄えが悪くなる
天下人として見栄えを良くしようとすると的になる
厳しいぜ
城の本体は堀や縄張りだろ
大阪城だってビビって和議をしなければ
兵糧攻めしか無かった
他国に攻められるケースだと無意味だが謀反とかだと本丸単体の防御構造もけっこう大事
>>808 ああいうのは戦略爆撃みたいなもんです
あと大坂城の惣構も坑道戦術や砲撃による施設の破壊が行われている
全然違う
813 :
名無し三等兵:2012/03/31(土) 18:43:50.13 ID:I9tqq3Xn
李氏朝鮮が倭式鉄砲隊を編成して清(まだ後金だっけ
軽装の弓騎兵に負けてる件。
鉄砲隊には槍足軽と弓足軽の支援がないと
騎兵に負けるという常識すらないのか…
>>813 朝鮮自身は日本軍の強さを火縄銃による赤兵と日本刀による白兵と理解していた
前者は技術を克服して可能としたが、後者は「自分から突撃する兵」という存在が必要なので
彼らには不可能であった
815 :
名無し三等兵:2012/03/31(土) 20:09:46.84 ID:I9tqq3Xn
>>814 槍足軽は訓練いるんだぞ。
動きは全て号令。
槍衾形成して騎兵の突撃を防ぐ。
槍持足軽が陣形崩れると【平場の大崩】と呼び
その戦は負け戦。
よって戦国期の足軽はかなりの訓練をされてる。
>>815 槍足軽は基本的に臨時雇用で弓・鉄炮の様な常雇ではないけど
「雑兵物語」でも彼らは名字持ちの弓・鉄炮足軽とは異なり、彼らは名字を持っていない
認識が甘い。
武士階級であれば『陣借り』という形で、一種の傭兵稼業が存在したし、そうした武士は自分一人で参加した訳ではなく、少数ながら朗党を連れていた。
また江戸時代の渡り中間がそうであったように、臨時雇用の雑兵と言えど、主を持たぬだけで戦いが仕事の傭兵は、少なくとも戦国時代には成立した。
そもそも葱村からして一定の自治・自衛権を持ち、村同士の戦いに備えて百姓と言えども戦力を蓄えていたし、地侍や国衆はそこから発生している。
実際に小競り合いとも馬鹿には出来ず、よく死者が出たそうだし、地元有力者が調停に入っても、落とし前が必要だった。
つまり加害者側にも死罪と言う形で犠牲が要求され、生け贄として殺される人間は『下死人』と呼ばれた。
これが後に『下手人』に変化した訳だが、下死人の方は、必ずしも加害者であったり、当事者である必要がなかったのが特徴だ。
僅かながら戦いに備えて稽古もしており、飛礫を投げ合う石合戦や、槍の代わりに竹竿で叩き合う河原合戦なども行われた。
石合戦はしばしば時の領主から、中止命令が出された記録が残っているし、竹竿合戦の方は現在でも(!)祭りとして行われる地域がある。
>>817 そういう郎党引き連れ型は足軽でなく、足軽大将という侍として参加していたと思うが
足軽大将はまた別だろ
槍の傭兵は長柄でなく、持槍による徒武者が基本でしょう
長柄が常時雇用され、高い練度を有した例というのは少数派じゃない
槍先の不揃いな所は強敵だから避けよ、
槍先の揃ってる所は弱兵だから切り込んでそこから敵を崩せ。
藤堂高虎の遺訓やね
それとは別に「穂先の(動きが)乱れる備は弱く、揃った備は手強い」なんて家訓を残した武将も居る。
同じ槍足軽の中から、弱点を見抜く教えらしい。
高虎の時代のような戦国も末期になってくると、規律のとれた部隊が普通になって、経験を積んだ部隊の方が
かえって律儀に槍先を揃えていないという事じゃないかね。
どっちも正しいんじゃね
長さが不揃い→槍術学んでるヤツがいてやばい
長さが揃ってるけど動きがばらばら→単純にレベル低い
陣借りというかは微妙だが前田利家も織田家から追放食らった時に勝手に織田側に参戦して首印上げてるな。
槍先が揃ってる→槍は支給品なので武器すら自弁できない雑魚の群れ
穂先の動きが乱れる→集団戦の訓練してない雑魚の群れ
ってことでは?
原文読んでないからテキトーだけど
そういや、日本はテルシオやオランダ式、スウェーデン式のをやらずに一気にナポレオン戦争時の戦術や戦略に変わったの?
>>828 あんな機動性劣悪な陣形をする必要性が無い
日本では1847年(弘化4年)に高野長英がオランダの兵学書を翻訳し、『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』として紹介。
それ以前は
関ヶ原の合戦の前後よりそれまで家伝の秘書とされてきた『孫子』などの『武経七書』が木版刊行。
その後甲州流、北条流、山鹿流、越後流、楠木流などが現れる。
儒学の影響からその呼称や内容は時代が進むにつれて武士道、士道などの倫理的な側面が強くなる一方で作戦部隊の運用や編制などについての、いわゆる陣法、戦法についての研究は下火になり、幕末にはその実践性、実用性を失う。
テルシオみたいに負けない戦いを重視する戦い方ってのは結構好きだなあ
山鹿流って、西洋軍学からみても遜色無いらしいが。
築城法に関しては、西洋の築城法と酷似しているらしいし。
>>831 陣形組んでる間に突撃されて終わりな気がする
そも日本の軍隊は厳密な操典でなく、現場指揮官の独断専行を重視する
>>831 テルシオは当時としては超攻撃的布陣だよ
攻撃的だが機動性は劣悪だしオランダ式やスウェーデン式には弱い。
最終的には歩兵・擲弾兵の密集隊形と猟兵の散兵にの組み合わせになるが。
日本の焙烙ってのも擲弾の一種になるのかな?
アルマダ関係の本を読んでで、イングランド陸軍の防衛体制が記述されていたんだが
武装した民兵79,798名の内、33,444名(42%)を銃兵が占めているんだが
時々日本は世界一の火縄銃保有国という書き込みによくあるイングランドには数千梃しか銃がないというのは、どこから出てきたんだ?
確かエリザベス女王の時代にフランスのスパイが「イギリスの銃は一万丁程度しかない」と書き送った書簡があったはず。
一方の日本では、秀吉の朝鮮出兵の時、国内に推定七万丁あった内の五、六万丁が使われたらしいと記憶している。
二十万だの三十万だのと言う数値はかなり怪しいが、少なくとも関ヶ原の戦いでは、上記の数値を上回る数が使用されたのは間違いない。
具体的には、石田三成勢は兵六千人中三千人が銃を、島津勢は数こそ二千だったが槍足軽に至るまで、全員が腰差筒を装備していた。
これだけで五千。これは極端な例にしても、日本国内の総数が十万を超えたと考えても不自然ではない。
同じ戦国時代で括っても、全く使われなかった応仁の乱の頃から(異説あり)大砲まで使われた大坂の陣まではかなりの開きがある訳だ。
貴重な情報ありがとう。
一応ソースを教えてもらえれば助かります。
1588年4月のイングランド軍民兵銃装備33,444挺は、オスプレイ社の資料がソースで、当時の行政資料の丸写しが元ネタのようです。
あげ
>>839 一般的に戦国時代の軍は半数から4割が非戦闘員と言われているが、
3000挺の鉄砲があるということは、石田軍の鉄砲装備率は100%近かったということ?
だとすると、石田勢は他の軍に当てはめると10,000から12,000はいたことになるが、そういった根拠はない。
そもそも、関ヶ原で石田勢が3000挺の鉄砲を持っていたというソースは一体何なのか分からない。
846 :
名無し:2012/04/18(水) 12:49:25.55 ID:???
[ロストウォーズ〜鋼の大戦争〜]第3サーバー「挟撃戦」が4月18日(水)15時より始動!記念イベントも同時開催
ブラウザゲーム「ロストウォーズ」(
http://www.rrgame.jp/war/)の新サーバー[挟撃戦] (
http://x3.war.rrgame.jp)を4月18日(水)15:00にオープンし、そしてリリースを記念して限定賞品
が獲得できるイベントも開催することを掲載します。
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イベントその1: 定番初心者ボーナス!
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イベントその4:幻の限定ガチャガチャアイテム『戦争残骸』
イベントその5:史上最大軍団称号争奪イベントを期間限定開催!
新サーバー[挟撃戦]限定イベントその1:定番初心者ボーナス!
■イベント期間:プレイ初期
■対象者:[挟撃戦]サーバー
■イベント内容:毎日ログインするだけで、初心者限定の賞品が貰える。
■賞品内容:ゲーム開始と同時に、一定時間を過ぎると初心者ギフトパックが現れます。
■賞品配布期間:ゲーム開始した後現れます。
■賞品配布場所:ゲーム画面の左上にあるギフトバックで受け取ってください。
※オンライン時のみカウントを行い、ログアウト後は再ログイン時から再開されます。
※詳しくはサイトまで!
http://www.rrgame.jp/war/ ▼PC版 「ロストウォーズ 〜鋼の大戦争〜」のURL
http://www.rrgame.jp/war ▼IPAD版 「Lost Wars ?HD」のURL
http://itunes.apple.com/jp/app/lost-wars-hd/id509454308?mt=8
>>843-845 当時の軍役と三成の石高から考えると関ヶ原の6000という数字は
戦闘員のみだとしても不思議ではない。ただ、鉄砲3000は多すぎだと思う。
領地に国友村があったしなぁ……
古代・中世スレでスレ違いの銃の話題を続ける馬鹿がいる
スレの棲み分けを理解出来ていない他板からのお客さんかな
>>829 とはいえ、戦国時代の日本の軍隊じゃ
テルシオやグスタフアドルフの戦術を相手にしたら
一方的になぶり殺される図しか思い浮かばない
刀:ホントは折れるし曲がるし斬れないポンコツ。
槍:横一例に並べるだけ。紀元前のファランクス以下のレベル。
鎧:粗悪な鉄製で隙間が多く防御性で劣る癖にやたら重い。もしくは裸で戦ってるかのどちらか。
弓:ロングボウやトルコ弓と比べたら玩具も同然
鉄砲:実は装備率は多くて二割程度。しかも火薬は全部輸入品。
馬:去勢してなければ蹄鉄もないちっこいポニー。騎兵隊編成とか絶対無理。
城:大砲たった数百門撃ち込んだだけで総炎上間違い無しのオンボロ仕様。
編成:未だに兵科毎に分けずごちゃ混ぜで徴兵する杜撰さ。
戦術:よく知られてる陣形や戦術の殆どは後世の創作。
その創作の殆ども「それで?」なレベルのものばかり。
グスタフアドルフみたいな高度な戦術なんて出来よう筈も無い。紀元前以下レベル。
兵站:朝鮮侵略でそのお粗末さは立証済み
動員兵力:記録にあるものは殆どが誇張による水増しでしかも半数以上が非戦闘員。戦闘員だけだと日本のが少ない。
うん、どう足掻いても当時の日本じゃスペインやイングランドの軍隊に勝ち目無いね。
兵站に関してはグスタフアドルフもお粗末というか、現地調達に頼んで楽観してた部分あるだろ。
体高130センチのちっこいポニーで騎兵突撃やってたグスタフアドルフの悪口はやめるんだ
>>850 そこまでボロカスに書かれたら
質の面でそんな日本に遅れを取った明軍の立場が無いじゃなイカ。
「紀元前の物は自動的に程度が低い」と言う考えみたいだけど、進歩史観の持ち主か何か?
重騎兵突撃の全盛期だった中世欧州でも、馬は去勢されてなかったんだけどな
>>855 そんな明軍相手に
通り道さえ確保出来なかったというブーメランが・・・
そういやヨーロッパで馬を去勢し始めたのっていつ頃からなん?
>>861 反論以前に根拠が何一つかかれてないじゃん。
wikiの「備」見ろ
>>刀:ホントは折れるし曲がるし斬れないポンコツ。
何が根拠なのか不明。
>>槍:横一例に並べるだけ。紀元前のファランクス以下のレベル。
具体的にどうファランクス以下なのか、横一列に並べると言うのが具体的にどういう事なのか根拠なし
>>鎧:粗悪な鉄製で隙間が多く防御性で劣る癖にやたら重い。もしくは裸で戦ってるかのどちらか。
具体的にどう粗悪で防御性で劣るのか説明なし。重量も重いというだけで具体的な数値は無し。
>>弓:ロングボウやトルコ弓と比べたら玩具も同然
具体的にどう劣るのか、例えば張力や射程距離に関して何も書かれていない。
>>鉄砲:実は装備率は多くて二割程度。しかも火薬は全部輸入品。
装備率の根拠となるソースは示されていない。また、元亀天正頃からはある程度火薬も自前で生産できるようになった事は無視。
>>馬:去勢してなければ蹄鉄もないちっこいポニー。騎兵隊編成とか絶対無理。
馬の具体的なサイズは示されていない。去勢、蹄鉄と騎兵隊編成の関連性も述べられていない。
>>城:大砲たった数百門撃ち込んだだけで総炎上間違い無しのオンボロ仕様。
根拠が不明。
>>編成:未だに兵科毎に分けずごちゃ混ぜで徴兵する杜撰さ。
根拠が不明。
>>戦術:よく知られてる陣形や戦術の殆どは後世の創作。
>>その創作の殆ども「それで?」なレベルのものばかり。
>>グスタフアドルフみたいな高度な戦術なんて出来よう筈も無い。紀元前以下レベル。
創作とする根拠が不明。グスタフ・アドルフの戦術が具体的にどう高度で、紀元前の物と比べて何が優れていたのか不明。
>>兵站:朝鮮侵略でそのお粗末さは立証済み
具体的に何がお粗末なのかが不明。
>>動員兵力:記録にあるものは殆どが誇張による水増しでしかも半数以上が非戦闘員。戦闘員だけだと日本のが少ない。
水増し・半数以上が非戦闘員とする根拠が不明。他国との具体的な比較もなし。
反論以前のレベルだな。出なおしてきなさい。
>>861が煽り・釣りでないのなら、自身の主張を明確に言語化する事も出来ないオツムの持ち主が書いた事になるね。
>>361のアホはほっとくとして
当時の日本にはテルシオやマウリッツみたいな操典が無かったのは事実。
そんかわし何やってたかっていうと「備」について調べてもらったらわかるが
要は機動力や地形及び状況の変化に対する対応力でアドバンテージが得られる編成だったわけ。
明軍の「倭人は恐ろしい速さで殲滅しにかかってくる」って類の記述の正体は多分これ。
あと、城に関しては日本の城は意外と要塞に近い発想で作られてるぞ。
天守閣や室町以前の小規模な館のイメージだけで語る人多いけど
実際には城のメインは幾重にも張り巡らせる土塁と石垣と郭。
操典でガチガチに固められた運用では柔軟性にかけ、不測の状況に対応できない。
横隊戦術が廃れたのもそれが一因。
>>863 あーwikipediaの備のページな、アレ俺が酔っ払いながら妄想で書いたんだわー
鹿児島に住んでるがけっこうあちこちに跡地があったりする
当時の日本の戦闘の要訣を一言で表すなら「戦場の空気を読め」ということだな。
マウリッツ以降の軍は一世代先を行ってると言いたいところだが、銃剣突撃が猛威振るうから本当に進化してるのかよくわからなくなる
むしろ銃剣突撃ができるのが次世代の証じゃね
874 :
名無し三等兵:2012/05/06(日) 18:07:23.97 ID:9+wegH4E
獣拳突撃って割と近代でもポピュラーじゃなかった?
>>868 お前が酔っ払って書いたんかは知らんが
一応、一次史料から「備」は基本的な編成だったのはわかるよ。
無論戦国でも16世紀初頭の頃はまだ中世のシステム引きずってたけど。
一旦突撃キチガイである重装騎士の駆逐に成功したのに徒歩で突撃されるようになるのはなんで?
マスケットの火力が敵の防御を遠距離から打ち崩せるようになったから
東西の強弱みたいなのってモンゴル帝国の頃は東側が圧倒的だったのに
どのあたりで逆転したんだろう?
大航海時代あたりじゃない。
弱い勢力を相手にしながら力をつけていったみたいな。
それは東側が圧倒的だったと言うよりモンゴル帝国が圧倒的だったと言うべきかと
>>879 ターニングポイントは冶金技術が大きく発展した15世紀頃からだと思う。
ただ、完全に逆転したと言うにはやはり18世紀まで待たねばならないのでは?
忘れてるようだが、オスマン・トルコ帝国だって発祥は遊牧民だったし、初期の主力は騎射だったよ。
それが勢力を増す内に組織力を生かす方向へ移行し、前線で銃火器を修理したり、時には製造すらするようになった。
名高いウルバンの巨砲も、そうした組織力の結晶だ。
崩壊までに間に合えば、モンゴルだって治金学を取り入れ、火器を多様した可能性だってある。
逆に明のように斜め上で役立たずって可能性もあるし、インドのようにロケット兵器でも良い線いくこともある。
オスマン帝国は単一の巨大国家であるが故に強かったが、それ故に硬直し
分裂した状態でそれぞれがトライアンドエラーを繰り返すキリスト教勢力について行けなくなった
>>884 明の火砲はさんざん清の軍勢を破っているよ
反乱で明が自滅しなきゃ清は山海関には歯が立たなかった
>>879 オラニエ公マウリッツの軍事革命あたりから
もうちょい後じゃね?
技術面では、中世末期やルネサンスの時点で逆転していただろうけど、
国力で東方というかオスマンに勝るようになったのは、17世紀中期以降のフランスからじゃないだろうか。
技術面でも逆転したのは、産業革命以降じゃない?
清が火砲の導入に後れを取ったのは、八旗の力が強かったのと
冷兵器で火砲中心の明の軍隊に勝っちゃたのがあると思う。
もともこもない考えだけど、負けない戦争はしなかったから。
ムガール帝国にしても清帝国にしても、そしてオスマン帝国にしても、
最盛期が過ぎて勢力が弱まっていくのに合わせて、じわじわ蚕食していったから。
おいおい(笑)
誰も負ける戦争なんてしないよ。
ヨーロッパの世界進出の仕方が植民地を点々と作っていくやり方だしな。
うまくいかなかったら撤収してやり直すみたいな感じだし。
>>890 技術を軍事面に限定するか、広い意味で捉えるかで変わってくるかもしれないが
軍板なので軍事面だけで捉えると小銃や大砲が戦場を支配し始めた16世紀には、逆転していると思う。
文禄・慶長の役での明軍の銃砲の稚拙さと、同時期のヨーロッパやオスマンと比較すると悲しくなる。
それに、海でもアジアまで進出できた西欧諸国と政治的な理由があるとはいえ、
ヨーロッパに進出できなかった東方では差は歴然。
>>890 明は騎兵中心で火砲はそうでもないんじゃね?
それこそ大砲殆ど使わない日本に遅れを取ったレベルだし。
小銃や大砲がメインになってくるのは、17世紀のマウリッツを咀嚼した
グスタフ・アドルフ辺りじゃないか?それまで銃兵はパイク兵の
保護下にあった。
明軍は、歩兵中心じゃない?騎兵中心の北方民族に対抗するため
火箭、単眼、三眼、方眼銃や炮烙みたいな手投げ弾、ポルトガル
のフランキとか大量に使ってたみたいだし
確かに日本の火縄銃に比べると単眼・三眼・方眼銃は、威力や射程は劣るけど
朝鮮の役で明の大砲に苦しめられたともあるし
清のヌルハチは、明の大砲で戦死したともある。
明は大砲の規格化・大量生産をしていたし、専門の銃兵隊も編成してたよ? 大砲はフランキで、銃も三眼銃や十眼神機だっただけだ。
また秀吉の朝鮮出兵に応戦したのは、対清用に編成された精鋭部隊で、これは騎兵中心だった。
テマウッ、ホメロ、ヌ。「ネユアセ、ホサI縹、ヒソ熨鬢キ、ソ、ホ、ヌ
・ェ・ケ・゙・ォ、驥」テロ縹」ィサI縹、茹隧`・チテ・ム、ホ・゙・ケ・ア・テ・ネ、隍?メササリ、?エュ、、」ゥ
・隧`・チテ・ム、ォ、鮠tメトウh、ァネ?、キ
?」テロ縹、マナョユ贐螟ネ、ホ鷹、、、ヌハケモテ、オ、?、ソ。」
朝鮮の役で日本の種子島に苦しめられた
明軍はオスマンから魯蜜銃(マスケットより大きい)を
導入したり紅夷砲も導入したりした。
ムガル帝国も火器の使用に関しては前向きだったよ。
そもそも、オスマンやポルトガル、スペインから銃砲を導入する時点で明の方が遅れてる証拠になるんじゃないか?
開発や生産能力が無くても、必要数を装備出来るルートと財力が有れば問題無い気もするが…
南北戦争の南軍みたいになる危険性は有るけどね。
後、初めて自国より進んだ兵器や戦術に遭遇した時は仕方が無いと言う事で。
逆に日本は唐入りの後、戦術で変わった点といえば
(と言ってももう後は関ヶ原と大阪の陣と島原の乱くらいしか無いが)
大砲の数が増えたくらいかな?
これが明との戦闘によるものなのか、それともイギリスとの接触によるものかはわからないが。
槍足軽の役割が後退したのはやはり長篠が契機なのだろうか
欧州では、パイク兵と銃兵が共存してるのにね。
テルシオとかマウリッツなどは、日本に入ってきたり
したのかな?それとも戦国のおさらいだけ?
そういや火縄銃は熱心に導入したけど
それ以外の西洋の戦術や装備を導入したって話はあんま無いね。
プレートメイルにしてもそのまま導入するんじゃなくて
南蛮胴って感じにアレンジしてるし。
日本には自分から突撃する武士という存在がいるからな
戦場の環境が西洋戦術に向いていなかったとは考えられないかな?
狭かったり起伏が有り過ぎたりで、上手く隊形を維持出来ないとか。
幕末のフランス軍事顧問団も、日本の地形に戦列歩兵は適さないとの理由で、軽歩兵の伝習に切り替えてたし。
単に伝わって来なかっただけかもしれないけどね。
まあ銃ほどのインパクトはないよなあ、っていう
起伏に富んだ地形だからこそ「備」というシステムになったんだろうね
道はどうしようもなく細いし、平野は薮と湿地ばかりだし、山は急峻で使えねえし、本当戦争するのにむいてないね。
と来日した外人が思っていそうw
封建制下の編成としては自然流れだな
備システム
ライフルの普及で散兵戦術があっさり受け入れられたのは、
幕末の武士意識に合致していたからだろうな
そもそも16世紀末期は、ヨーロッパもまだ色々と模索中の段階で
次の三十年戦争を経て三兵戦術として完成されていくわけでしょ?
その頃には日本はもうとっくに泰平の世に入っちゃうからなあ。
大阪の陣の辺りでも、定着してたのはテルシオで
マウリッツさんの戦術はまだ実験段階って辺りじゃん。
テルシオは正直日本の地形とはすこぶる相性悪そうだしなあ。
「直参旗本が足軽の如く地べたに這って銃など撃てるか」って連中に苦労したんだが
だから官軍は民兵中心だった
>>915 それ戦国時代の武将ならどう考えるかね
素直に匍匐するかな
>>917 戦国時代で時代に適応できなかった大名は滅亡したよ
旗本は数が多いからうざいな
片っ端から指揮官にするわけにもいかんし
>>917 「犬とも畜生とも言え。武士は勝つことこそ肝要なり」by朝倉宗滴
因みに稲富流という17世紀初頭に生まれた砲術には
火縄銃を伏せながら撃つ「伏せ放し」って撃ち方が残ってる。
>>915 そういう論外ではなく、自己の判断を重視されるという意味で散兵は
武士にあっていたと思う
>>915 その話しもよく目にするけど、旗本で歩兵伝習に送り込まれたのは次男や三男。
これを物にしないと後が無いので、不満は有れど従ったらしい。
逆に、のめり込み過ぎて髷を切ってしまい、養子先から勘当されたりも。
>>924 直参旗本が使い物にならないので、部屋住みで燻ってた連中を集めたって事だね
直参旗本を召集したところ、集まったのは年端もいかぬ子供たちばかり、
調査してみると旗本の軍役義務は当主にしかないのを利用して
戦争に行かされるのを嫌った旗本たちが一斉に子供たちに家督を譲り隠居してしまっていた というのは本当?
みなもと太郎の「風雲児たち」幕末編で読んだんだが。
>>925 基本的に旗本は将校として配属されたから、「鉄砲担いで」てのとは少し違う。
旗本が兵士として配属されたのは、奥詰(後の遊撃隊、奥詰銃隊とは別)と騎兵だった筈。
ただし、騎兵はともかく、奥詰は武芸の腕で選ばれた別格中の別格。
>>926 軍役義務は当主と子弟だったから「家督を譲って云々」は意味が無い気も・・・
その話しはどうなんだろ?
勝海舟の法螺話が…というのはありそう
>>927 ”当主と子弟”が対象ならガキに軍役の対象になるような子供がいる可能性は低いし、最悪当主が犠牲になるだけで済むだろ
ちょうどいい年頃(ローティーン?)の子供がなければ、当時は養子当たり前だから親戚から適当なのもらってくる手段もあるしな
軍役は自弁が常識の時代だから、下手に軍役就いちゃうと貧乏旗本とか家計が吹っ飛んじゃいかねなかったんだろうな
まあ役料も当然出るけれど
大村益次郎だっけ?
西洋の戦術をうまく取り入れた人もいたよな
>>930 それはよく聞くけど、指揮した兵力は上野戦争でも1200名(東北、函館は忘れたので…)だっけ?
欧米なら定数割れの1個連隊相当だからなぁ
後、小兵力での戦闘なら両軍とも頑張っていたと思う、付け焼き刃でも。
市川の戦闘で、撒兵隊第一大隊の江原素六は、大隊(400名)を分割しての迂回攻撃や分進合撃を行っているよ。
100%意図通りとは行かなかったけど。
つか、完全にわかったけどさ、
完全な資料証拠レベルで、江戸時代、ほぼ1850年は事実上日本は世界一のGDPだったらしい。
当時世界GDPはめまぐるしくかわり、10年単位でも相当補修、ずれがくるが
1870年でもずいぶんずれるが正確なGDPを示す指標として
当時の全金保有量、および銀
この主要金銀の全保有高が合計5〜10億円
額面にすれば、銀5〜10億円 金でいえば、合計で2億両程度に相当する。
これは正確な資料で、わかってる。大規模統計もやって信憑がある。
そして江戸ですら、幕府歳入が事実上1000万円 ほぼ銀1000万円
1000万メキシコドル相当あった。
明治ですら、事実上歳入を明白にカウントできる段階で
ほぼ5000万〜1億円になった。この5000万〜1億円は妥当なトータルGDPだ。
そして税率、全金銀保持高からして日本の当時のGDPはずいぶんストック余裕をもった状態で
歳入1億円相当 ないし1億メキシコドル
税率は平均ほぼ4割程度
ただしストック合計は5億以上メキシコドル。
これがほぼ当時の世界で大変低税率で
実行的な税レートとGDPからすれば、事実上ほぼ世界一
そもそも最大的な参考が
江戸時代の 食い詰め武士 ほぼ3両程度 これは事実上20円
江戸時代 大衆歳入 ほぼ5〜10両程度年間 これは事実上30〜50円
江戸時代 職工 ないしおそらく下級の出仕武士←地方役人 ほぼ15両 80円相当 奉公商人
江戸時代 富農 ないし村長 これは事実上←30〜40両 ほぼ200円相当 下級商人
江戸時代 数百石の頭領 ←80両 おそらく官僚も同等程度 ほぼ500円相当 いわゆる店もち いわゆる事業主
江戸時代 1000〜2000両の中級武士←ほぼ120両 たぶんブルジョワ貴族同じ 準富豪 800円
江戸時代 事実上大名 ←ほぼ200〜500両 2000円 いわゆる富豪
このクラスは世界でも大富豪
で19世紀ブリの未開市街で
だいたい相場的に3〜4割下がる水準だった。これは注釈でも、脚色でもなく
平均で
そして相対的に完全に
合計賃金 ストック金 金銀のGDP
これが日本はまぎれもなく世界一なんだ。いわゆる今の換算でいうと
個人所得とかになるんだけど、完全に1そして対物価も安定してるから非常に安い
そもそもいわゆる株とかの非現金 非物商品が非常に多いからブリがふくれあがるけど
金銀保持量
実質の流通金銀 通貨
借金差し引きの単位
がないため、非常に実は低い。そしてそもそも人口もいない。
だから実質経済は完全に日本1
そして日本が膨大に金を流して、その相対で実は世界GDPがあがってんだよね。
で19世紀ブリの未開市街で
だいたい相場的に3〜4割下がる水準だった。これは注釈でも、脚色でもなく
平均で
そして相対的に完全に
合計賃金 ストック金 金銀のGDP
これが日本はまぎれもなく世界一なんだ。いわゆる今の換算でいうと
個人所得とかになるんだけど、完全に1そして対物価も安定してるから非常に安い
そもそもいわゆる株とかの非現金 非物商品が非常に多いからブリがふくれあがるけど
金銀保持量
実質の流通金銀 通貨
借金差し引きの単位
がないため、非常に実は低い。そしてそもそも人口もいない。
だから実質経済は完全に日本1
そして日本が膨大に金を流して、その相対で実は世界GDPがあがってんだよね。
そしての多い文章だな
2行目までしか読んでないけど
ねとうよさんは鼻高々でおねむになりましたとさ
ねとうよつーかマジモンのアレじゃね?
溢れ出す妄想の速度にタイピングが追いついてないっぽいし
スレに繋がるのかと思って読んだよorz
室町〜江戸時代に鉱山を採掘せずに
近世まで貴金属が温存されていたら日本はもっと豊かになったのかなあ
フィリピン並の文化水準になっていたと思うぞ
近世といえば明治以降の日本の主力輸出産業は絹紡績。
江戸時代を通して絹の養蚕が盛んになったのは博多や西陣の絹織が盛んになったおかげ。
室町後期に大内氏と博多商人の神屋手により中国の秘密を盗み出して国内に持ち帰ったことで
もともと低レベルだった絹織り技術が飛躍的に進歩した。
他にも鉱山の精製技術を盗みだして金銀の産出量も増大した。
今の日本は産業スパイによって一方的に被害を受けているけど、
昔の中国は一方的に利益をもたらしてくれる打ち出の小槌だね。
神屋寿貞は鉱山の方で
絹関係は満田彦三郎だった
日本刀ガンガン輸出しまくってたことや、外国の記録を見ると
中世〜近世までは鉄もかなり産出してたんじゃなイカ?
硝石は輸入に頼ってたとはいえ、鉄砲そのものの国際化はあっという間だったし。
中国の鉄の鋳造技術はたしか凄かったんだよね。
宋の時代にすでにコークスを使用してたんだっけ。
>>947 艦載鉄のことだよね?
輸出以上に多かったってことは無いんじゃないの?
鉄といえば
戦国時代の鉄の需要が国内の砂鉄だけでは賄いきれなかったので
わざわざ中国の鉄製品を輸入していたらしいね
そんなに輸入に依存しまくってたんなら、中世〜近世の交易で
鉄が日本の輸入品目或いは明やポルトガルの輸出品目として
重要だった記録が残っててもいいと思うんだけど。
むしろ逆に日明貿易や朱印船貿易だと刀だけでなく
鉄が主要輸出品目だったりするみたいだし。
オランダやイギリスの商館の記録によると相当量の鉄を持ち込んでいる
でも一方で、明や朝鮮に大量の鉄を輸出したり
朱印船貿易で鉄が主な輸出物のひとつだったりする。
これは一体どういうことなんだぜ?
鋼鉄とか軟鉄とか鋳鉄の違いじゃない
原料の鉄鉱石を輸入して刀をはじめとする鋼製品として輸出する
所謂加工貿易を行ってたってことじゃね?技術立国ニッポンらしくて素敵やん。
>>955 鉄鉱石じゃなくて銑鉄の輸入らしい
>>953 中国で大量に作ったグレードの低い鉄を買って
国内で豊富にある木材資源を燃料や材料に使ってグレードの高い鉄や製品にして輸出してんだろ
鉄鍋とか輸入して材料にしていたとか
鉄鍋はむしろ輸出品目だったみたい
そんな時代から、既に加工貿易だったのか……
>>957 倭寇は大型の鉄鍋を好んで略奪してったそうだからな。
製塩とかその他の製造業とかで需要が高かったんじゃねーの?
当時の日本の鋳造技術ってアレだから奪ってきたほうが効率が良かったのかもしれない。
>>960 世界最大クラスの鋳造やってる国の鋳造技術をアレ呼ばわりとは…
しかし銭は輸入
>>961 実際にアレだと思うが
大仏は耐久性をあまり考えなくて良い段階鋳造方式だし
>>962 そこは鋳造技術の問題じゃなくて銅の生産量と品質の問題
貨幣経済を回す程大量で且つ高品位の銅を確保できなかったからな
だったら出来合いの銭を金で買ってそれで経済回しちまおうってのが日本の銭輸入の事情
だからこの輸入銅銭を銅として素材に使ったこともあった
>>963 倭寇が流行る前辺りにやたら鉄で仏を鋳造するのが流行ってるから
倭寇が鉄集めるのって国内での鉄相場の値上がりのが説得力あると思うぞ
鋳造技術なら仏狼機を鉄で鋳造した明のほうが上かと
そもそも舶載鉄や南蛮鉄が国産鉄より多く流通してた
って話自体が怪しい軍刀サイトがソースじゃん。
>>964 当時の国内でも贋金作り摘発の記録って多いぞ(守護の仕事だったりするし)
つか束にしちまう時点で、銭自体の品質、ってのが当時重視されてた観点は違ってると思う
>>964 酸化銅の精製はできても硫化銅の精製技術は日本には無かった。
室町時代前期に硫化銅の精製技術が日本にもたらされると
銅を輸出して銅銭を輸入する方向にシフトしているね。
お金の場合重要なのは鋳造の技術よりも長年流通している信頼でしょ?
だから綺麗だけど流通実績の少ない明銭よりも
汚いけど何百年も流通した宋銭のほうが信頼されて良銭扱いされた。
鉄の鋳造っつったら南部鉄器くらいだよな?
>>970 芝辻砲は役立たずという研究結果がある
それで銃砲史学会と遊就館の仲が悪くなった
日本は複雑な地形が多くて、大砲なんてあっても、余り運用できないんだよ。
幕末になっても、ボート砲が野戦に使われるような国だぞ。
青銅製の鋳造砲は作られてたんじゃないの?
大阪の陣で家康はオランダから輸入したカルバリン砲の他に
国友村で作らせた大砲を300門動員したとされてるよ。
カルバリン砲はオランダでなくイギリス
ボート砲といえばペリーがプレゼントで1門くれたよね?
圧力をかけている最中の相手に武器を渡すなんて
相当見下されていたんだなあ。
力の差を分からせるにはちょどいい
どうせコピーも作れないんだろうから
技術の優越性を見せつけてやろうという魂胆か
それでコピーされてちゃ世話無いな
開国させることには成功してるからいいんじゃね
>>980 まさかパクリ民族とは思わなかったんだろ
>>982 それは日本人がチョンに対しても言えるだろ
どっちにしろ日本の製鉄技術は近代に欧米のをコピーするまで糞だったのは事実。
工業化以前の鋼を作る技術は大したものだけどね
粗鉄の生産能力はたしかにそうだが、これはレンガの技術が無かった点が大きい
コークスを使用した高炉が稼働したのはやっと日清戦争のころだしな。
ちなみにレンガの技術が発達しなかったのは日本が高温多湿という点がデカイ
レンガの原点は日干しにあり
近代式の製法に比べ効率が悪かったというだけで
質に関してはむしろ相当高い方だったと思うが?>日本の鋼
やはり生産量が問題
日本じゃ鉄と銅の価格差が他に比べて少ない
あれだけ鋼製品を輸出してた一方で、戦国時代に明や南蛮船から鉄を輸入したのも
国内で生産する鉄だけでは多大な需要に対する供給が間に合わなくなったからなんだろうね。
刃物の生産なんかは良いのだろうけど、鍋釜や金具みたいなのは苦手だったかもね。
鍋に関しては兜と同じような要領で作れそうなもんだと思うがなあw
茶釜とか五右衛門風呂とか普通になかったか?
そうとうな貴重品だったけどね。
戦の時も略奪の対象だったし、農民たちも逃げる時は鍋や釜を埋めて隠してた。
あと日本でレンガが発達しなかったのは、建築に使えなかったのが大きい。
開国後にレンガで建物を作ったら、地震で倒壊した事例が大量に発生したそうな。
むしろ昔ながらの漆喰で作った土倉の方が丈夫なんで、川越なんかは倉造りの町になった。
鋳物なんかは大量生産できてこそコストが下がるんだろうけど、
大量生産のための技術(高炉だとか鋳型関係だとか)が低かったということかな。
鋳物と言えば貨幣もあるが
江戸以降なら問題なくできそうだな
それ以前だと中国銭のコストが圧倒的に安そうだが
日本では普通に流通してた永楽銭が、中国では見つからない不思議。
日本向けにわざわざ作って輸出してたとも聞くけど……
イギリスがギリシャのドラクマを用意し、日銀が外国(国名は非公開)の紙幣を刷るようなものか。
>>996 鋳銅なら江戸時代に入って追いついたが、鋳鉄は遅れていたかと
日常品として使い潰したのと、宝としてしまい込まれたのとの違いじゃないか
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