もう亡くなった大正生まれのオイラのばあちゃん、
13歳の時に親に売られて満州で売春婦してたそうな。
その時に陸軍の整備兵で好き者やった兵隊さん(オイラのじいちゃん)に
「俺の嫁になるなら身請けする」って言って、
部隊の工具や備品をパクって売って貯めたお金で身請けして嫁にしたそうな。
(じいちゃんは否定)
終戦迎えて内地に帰って…
じいちゃんは小さいながらも某牛乳メーカーの役員まで出世してそこそこ財を作った。
じいちゃん、何歳になっても女好きが治らなかったが、ばあちゃんはいつも
「私はじいちゃんがいなかったらボロボロになって死んでたやろうからじいちゃんには何も言えん」
って泣きながら笑い飛ばしてた。
しかし、そんなじいちゃんだが、女遊び以外はばあちゃんにむっちゃ尽くしてた。
ばあちゃんが何かのテレビ番組で綺麗な景色見て「いいなぁ…」ってボソッと言ったら、
2、3日後にはじいちゃんが「おい!旅行行くぞ!」って
ばあちゃんが言ってたところに大名旅行に連れて行ったり…
ばあちゃんが、何気なく肩を自分でトントンしたら、
必ずじいちゃんがすぐにばあちゃんの後ろに回って肩叩きしたり…
ばあちゃんの誕生日には必ずウェディングケーキばりのでかいケーキを買ってきて、
毎回「こんなでかいの誰が食べるのよ#」ってばあちゃん怒って…
晩年、ばあちゃんが「わたしゃ女郎屋の女でよかった。じゃないとじいちゃんと逢えなかった…」
って話をオイラに言った2日後、昼寝したまま綺麗な寝顔のまま永眠したなぁ…
過去スレで読んだ気がする・・・。
読んだ読んだ。
孫に、自分が売春婦だって普通言わねーだろって叩かれてた気がするw
創作話ってほんと気持ち悪い
にしては文才のある文面だ。
その才能、他で(直木賞応募とか)で使えば・・・
この程度で文才とかワロスw
中学3生レベルだなw
>>179 いいんだ。いいんだ。
最近の直木賞も芥川賞も話題があれば誰でも入賞だから。
そのうち犬でも入賞するから。
この流れもループしてますやん。
無名スレの頃は良かったんだろうけど名も知れてネタも出尽くしてもう末期だ
小坊の頃に社会科で「戦争体験」というレポートを作ることになって、その時に聞いた話。曾祖父。
戦争中は何処に?
ベ島、べなんとか
行く時は船を三回乗り継いだ。
何かあった?
水平線に人魂を見た、艦砲射撃だとわかった。
でもあまり当たらなかった。
他に何か
捕まって、レコードを聞いた。あんまり音楽が素晴らしいから泣いた。
戦争中は音楽なんか聞かなかった。
戦争について
次は飛行機に乗りたい
まだやる気でした
元パイロットは死ぬ前に、も1度飛行機を操縦したい・・・って人が多いね。
もちろんレシプロ機で。
やっぱり青春を戦争に取られてしまった人にとっては
懐かしいんじゃないかな?
入営した時期で天国と地獄だよね
>>182 もしかしたらベララベラ島かもしれないな。
ソロモン諸島コロンバンガラ島の近くで、守備隊600人がいたらしい。
ベララベラ沖海戦もあったから、水平線の艦砲射撃はその時のかもしれない。
188 :
名無し三等兵:2010/12/26(日) 15:33:58 ID:DAAAFJvP
え?ビラビラ島?
爺さんが赤城に乗ってたて言ってるけど搭乗機二式艦偵なんだよね…
硫黄島に出撃した話は信じるけど赤城に二式艦偵て配備されてたの?
二機の二式艦偵が赤城に配備されていました
そして赤城諸共海の藻屑になってしまいました
もしおじいさまが存命でしたら詳しいお話を聞いてカキコしてください
>>189 赤城乗組時代の話と二式艦偵に乗っていた頃の話が混ざってしまっていると推察する
ミッドウェーの頃から偵察機搭乗員ですか。
あの損耗の多い偵察機隊で、よくぞ御無事で。
193 :
名無し三等兵:2010/12/27(月) 00:04:42 ID:x6U5ajVx
父親が中島に勤めてたけど戦時中は三菱=中島(富士重)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>トヨタ>日産>>>>>>>>コマツだった。
194 :
名無し三等兵:2010/12/27(月) 00:06:25 ID:VeGulQP0
シナ戦線で戦死した
次回はただでは済まさん
トヨタ、日産なんて当時は新興企業だったしね。
今では子会社の日野自動車の母体の瓦斯電の方が
戦車のエンジン担当したりとぜんぜん高度な仕事していた。
196 :
名無し三等兵:2010/12/28(火) 04:54:31 ID:UJ+MzkhH
うちの隣の爺様が、かつて鐘淵紡績勤めていた。
何が言いたいかと言うと、戦前は繊維産業が国内産業の中心で
鐘淵紡績が今で言う豊田自動車のような存在。
爺様死ぬ寸前まで鐘淵紡績での楽しかった思い出を
話していたのが印象的だった。(スレ違いで失礼した)
ウチの爺さん、防疫給水部隊に居たから、あまりなんか語りたくなかったみたい。
徴兵だから士官じゃなかったけど・・・
もうボケてしまって何も正確な事は喋れない。
戦争末期は沖縄→満州→台湾という危ないところを寸前で移動させられてたらしい。
>>197 防疫給水部隊って、本来は本当に疫病防止の衛生部隊だよ。
実はあなたが思っているようなことは無くて、
ただたんに話すようなことも無いくらいヒマだっただけじゃない?
>>198 そんな事くらい知ってるけど、誤解されやすいからあまり語りたくなかった
と思ってる。
表向きの任務と、大きな声で言えない任務があり・・・
まぁ、あんまりひもじかったんで近くの畑のトマトかっぱらって食ったとかあんまり孫に話したくはないだろうな
うちのじいさんの話だが
上官(軍曹?)に殴られっぱなしだったとかの話しかしなかったなぁ
山本薩夫 真空地帯 おすすめ
親戚のじいさんの話。
じいさんの妻、つまりばあさんによりますと、村ごと大陸に行ってて、ソ連侵攻の時皆無事だったのは良かったんだけど、じいさんは軍に行ってたから行方知れず。
その後らもうだからかんだかの港で一年近く引き揚げを待つ。じいさんもその間にばあさん達を探し当てて帰還。
なんと毛沢東軍に半強制的に雇われてたらしいんだけど、どうやら名前の似た技術者に間違えられてたらしく、早々に帰れたと。
ソ連侵攻の時は北に居たから南下してたんだけど追い付かれて囲まれて、何百人という兵隊が草原の真ん中でばたばた撃ち倒されてった。
それこそ血の川が出来た。夜の内に抜け出して、今度は中国のチンピラと戦って囲まれて降参。この時にはもう終戦を知ってた。
で、チンピラと思ってたのが毛沢東軍だったと。
>>204 私のじいちゃんも似たような境遇です。
じいちゃんも満州で、
戦争末期に兵隊にとられていたけど、現地召集だったので
隊長さんが
「俺ら職業軍人だから捕まらなくてはいけない。
オマエら現地召集は家族のところに帰れ」
って勧められて脱走。
逃げていく途中で開拓団の死体がばたばたとある。
ばあちゃんも父・叔父もこりゃー氏んだな、可愛そうなことをしたと
とぼとぼハルピンまで集合したら、
「ありゃ、アンタ生きてたの!?」と開拓団の人に教えてもらって
ばあちゃんと父・叔父と再会。
もう、お互いがお互い、氏んだものだと思っていたから
幽霊なのか、夢なのか、解らなかったって。
祖父は初めはソ連軍、次に国民党、暫くして最後に八露軍に捕まった。
お決まりの人民裁判にかけられたけど、
役所の土木課の課長をしていて、当然役人は殺し対象だったけど、
給料支払いで揉めていた満人の仲介に当たって助けた事あって、
その人が「この人は良い人だ」と証言してもらって助かった。
しかし、いきなり八路軍のところまで行き着いたんだ。
満州に八露軍が来るまでタイムラグがあるから
相当に苦労なされたはずですね。
ばくだんにはいってるギャル ぽよーの
207 :
@:2010/12/30(木) 02:57:07 ID:fpWYxnJ/
死んだじーサンは特務機関?の将校?だったらしい
中野の例のガッコで訓練受けて・・・
満鉄の車掌だかなんだかとして満州に送りこまれて対露助や中共相手に何やらやってたって言ってた
(もしかしたら満鉄調査部の調査員だったって意味なのかもしれない)
戦況が悪化するにつれて一般人の車掌や機関士がどんどん徴兵されていなくなっていって特務?どころじゃなくなって
(満鉄調査部事件の事なんだろうと思う多分)
鉄道の知識なんか実はなんもないのに人手が足りなくなって
教本片手に見よう見まねで時には一人で機関車動かして・・・特務よりそっちの方が恐ろしかったって本人談・・・
嘘かホントか、ソ連軍の追撃うけながら満州から脱出する最後の機関車運行したって・・・
駅の構内まで露助の砲弾がドカンドカン落ちて来て・・・
貨車が潰れそうな程避難民乗せて出発した列車を追いかけて来るソ連軍の戦車?が機関車狙って撃ちまくるのを横目で見ながら死に物狂いで蒸気噴かしたって・・・
次の列車は結局出発できなかったって・・・大勢の仲間や日本人が取り残されて捕虜になってそのまま・・・・・
ソ連軍からの脱出には成功したものの大連?までは徒歩での強行軍・・・
日本人の避難民の列は繰り返し馬賊?の襲撃を受け多くの人が女性が・・・
幸いにも戦後すぐ(有名な引揚船で)帰国する事が出来たんだけど、特務関連で戦犯リストに載せられる可能性があるって連絡が入って・・・帰国直後のドサクサだったので暫く死亡扱いにしてもらってやりすごしたって・・・
その後(多分満鉄関係?の仲間と)電気機械関係の会社創業して高度成長期に成功したのはこの世代の立身出世の王道パターンなんだろうな
(今も存在する結構知名度のあるハイテク関連企業の社長サンだった)
208 :
A:2010/12/30(木) 02:57:55 ID:fpWYxnJ/
酒飲みのジーサンの酒の席での話なのでドコマデホントなのかは知らん 自分も大概酔ってたし
まあ話半分って感じだな 戦犯リストや死亡偽装はさすがに冗談だろうとは思う
自分ミリオタでも歴史オタでもないんで地名や時系列や特務云々や戦車の件でもジーサンの話を正確に理解出来たとも言えないし
だから冗談の部分とホントの話との区別は特にせず
波乱万丈の人生を堪能した(この点に関してだけは間違いが無い)酒飲みのエエジーサンだったって思うことにしてる
満州開拓団に参加して満鉄で車掌だかなんだかをやってたのは事実で、
中野のガッコで訓練受けたのもホントらしい
わりと良い御身分だったらしいのもホントの話
葬式時の参列者の数とリストは凄かったよ 自分には一生縁の無さそうな関係と地位の人が
もっと詳しく聞きたかったんだけどな・・・話してくれたのは一度だけ
バーサンにもカーチャンにも話した事はなかったって・・・
昔正月に一緒に飲んでべろんべろんになってさ
この時期になると時々思い出す
翌年の正月にはもう会えなかったんだ・・・
長文スマソ おやすみなさい
209 :
名無し三等兵:2010/12/30(木) 05:51:24 ID:35CrWXWL
うちの祖父は陸軍で沖縄戦に参加。
洞窟に立てこもったが米軍の降伏勧告を受け入れ降伏したそうです。
祖父は降伏するとき、白い旗がなかったので、ふんどしを旗の代わりにしたそうです。
おお、よい話をありがとう!!
>>209 という事は、お爺様は今もご存命ですか?
戦後はどうなさっていたんでしょう?
うちのジジイは予科練に昭和18年に入ったという
例によって訓練に使う飛行機もなく、爆撃機の操縦士養成員に回されたがろくに訓練もなく、そのうち特攻要員に。
しかし運よく?特攻用の飛行機もなく、終戦。
終戦後は特攻くずれのチンピラとして、家族(ばあちゃんやオヤジ)は苦労したそうだ。
ヤクザとも平気でケンカしたそうだもんなあ・・・
もう、亡くなったが親父は大正15年生まれで工業高校を出て日立製作所勤めだった。当時の工業高校では大学程ではないがエリートだったらしく、徴兵は免除されてたと言っていた。
しかし、自分から志願して海軍に入り整備兵になった。福知山に配備されて、工場から飛んで来た飛行機を掩体壕やトンネル(?)に隠すだけだったと言ってた。
わたしが小学生の時に雷電のブラモを作ってたら「これはなぁ、五月蝿くて虻(あぶ)と呼んでた」と言ってた。
その後、台湾に移動がきまり、「これでボカチンで終わりか…」と覚悟を決めたら終戦となったと言ってた。
私が中学の時に、戸棚から血の様な汚れの付いた匕首が出てきたら、親父は慌てて処分した。親戚の叔母さんに聞いたら、終戦後は随分と荒れていて、警察予備隊が出来て入るまで続いたらしい。
その後、自衛隊を定年三尉で退官したが、おふくろの話しでは、短気で喧嘩ばかりして、経歴書に赤字が入ってたので苦労したと言っていた。
>血の様な汚れの付いた匕首
なんのこと? 判らん。
213 名前:名無し三等兵 [sage] :2010/12/30(木) 20:10:41 ID:???
>血の様な汚れの付いた匕首
刃は赤錆ているが、それ以外に錆じゃないドス黒い汚れが着いたままの匕首(あいくち)でした。
>>207 うちのお袋が乗ってた列車かも知れんそれ…
>>205 おそらくその中にうちの母方祖母と叔母さん一同が混ざっとります>開拓団。
インディアン・テールガンナーか、一本書けそうだ
218 :
B:2010/12/31(金) 02:18:26 ID:/HIweDUF
207and208に関して
昨晩カキコしたせいか少し思い出してきた
当時のジーサンの邸宅はハルビンにあった筈
特務としてのジーサンの主な任務は満州近辺の親日派の中ソの有力者との人脈作りと彼らへの支援工作だったみたいだ
つまり高級将校に相当する身分だったんじゃないかと・・・
ハルビンからの脱出途中及び大連?に到着してから使える限りの人脈使い倒して各地の有力者に日本人避難民の保護をお願いしたみたいな話をしていたと思う
そしてその件に関してずっと中国人に感謝してたよ
ジーサンから中国人の悪口は聞いた事が無いし
中国人は皆親切で優しかったって (逆にソ連の話は口にするのも不愉快そうだった)
各地の中国の有力者が避難民の保護に協力してくれなかったら各地で日本人は皆殺しにされたりソ連や北朝鮮に連れ去られたりしたかもしれないって
余談だけどあの年代の財界人に親中派が多かったのって戦中期、敗戦時にそうやって築き上げた人脈と信頼関係があったからなんだろうね
そして日中間のその年代の人脈が失われてしまった影響が現在の日中関係に悲しい程に反映されている訳で・・・
日中が大陸と北太平洋で仲良く住み分ける時代が来る事を切に願うよ
>>215 お世話様です。
>
>>205 おそらくその中にうちの母方祖母と叔母さん一同が混ざっとります>開拓団。
ばあちゃんは山梨の開拓団で、ばあちゃんと一緒に逃げた開拓団で
生き残った子供は、父と叔父だけなので
叔母さんが生き残っているという事は多分、違う開拓団ですね。
それに列車に乗れず、ハルピンまで徒歩で移動しました。
その間に歯の生えていない子供は全員亡くなったそうです。
祖父は役所関係で開拓団第一号の先遣隊みたいだった様子で、
父と叔父は開拓団の子供の一番上でして、歯が生えていたから助かりました。
後から来て、歯の生えていない子供は皆亡くなったそうです。
また、場所も国境近くで列車に乗るという事も出来なかった様子です。
ばあちゃんがとうもろこしの収穫の後の畑に行って、
収穫残しのとうもろそしを噛み砕いて与えてなんとか生き延びたそうです。
じいちゃんと合流後、ハルピンでばあちゃんがチブスにかかって死に掛かり、
じいちゃんが「これは助からない、幼い子供を自分だけでどうやって育てていこう」と覚悟していたら、
狂乱状態で二回から飛び降りて、背骨が曲がる重症をおったが正気を取り戻し、
「日本の土を踏んでから死にたい」との一心でなんとか回復にむかったそうです。
とにかくじいちやんは満州好き、ばあちゃんは満州キライでした。
じいちゃんばあちゃんは山梨で天寿をまっとうしました。
父・叔父共に元気です。
私の爺さんは満人にもロシア人にも悪感情は無かったようです。
18で満鉄に勤め大連で経理の仕事をしてたそうですが
職場には事務の満人女性なども居り可愛がられたようです。
終戦1月程前に召集され前線に送られソ連に降伏し抑留されました。
監視兵と仲良くなり、ある日野菜が不足してるので何とかならないか
と持ちかけた所、荷車に山盛りの野菜を持ってきてくれて驚いたそうです。
個人的には大雑把で気のいいやつが多かったと言ってました。
運良く早期に帰還することができ、陸自に居た大おじの勧めで入隊したとの事。
抑留中も帰還後の就職にも苦労された方が多いと聞くシベリア抑留者の中でも
恵まれていた方なのでしょうね。
もっとも抑留中の生活はきつかったようであまり話したがりません。
大分ぼけてきましたし体力も落ちてきましたが一応元気にしてます。