日本陸軍におけるM3軽戦車

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628名無し三等兵
【マニラ湾の落日】

1941年、米国が第二次大戦へ参戦した際、
米軍の初期戦力の多くは、州兵で編成された部隊で成り立っていました。
第194戦車大隊はFort Lewisで、3つの州兵戦車中隊から創設され、指揮官はE.B. Miller少佐でした。
(※A中隊はミネソタのBrainerd、B中隊はミズーリのSaint Joseph、C中隊はカリフォルニアのSalinas)

Fort Lewisでは制服や戦車や資材が欠けており、何をしようにも全く最悪の状態で、
同地の将軍からは侮蔑の眼差しで見られていました。
この事実にも拘らず、部隊は最良の合衆国陸軍戦車大隊であると見なされ、
41年9月8日、54両の新品のスチュアートと共に、
サンフランシスコを出航してマニラへと向かいます。

フィリピン到着後、補給物資の不足─特に燃料と予備部品─は、
大隊の訓練にも支障をきたしました。
マニラの補給倉庫へは十分な供給があったにも拘らずです。
予備部品の取り寄せも、陸軍のお役所仕事によって、
しばしば30日を要しました。
実弾は12月2日になって初めて支給されましたが、
37mm砲の榴弾はフィリピンへは供給されていませんでした。
結局、榴弾は作戦末期に少量が支給されたに過ぎませんでした。
629名無し三等兵:2010/10/20(水) 20:02:49 ID:???
41年11月20日、第192戦車大隊がマニラに到着し、船上のD中隊が、
Fort Lewisで分離してアラスカへ送られたB中隊の代わりとして、
第194戦車大隊へ組み込まれました。
(※その後の史実的研究では、D中隊は計画通りに第194戦車大隊付属とはならなかった可能性があります)

R.N. Weaver大佐が、第192戦車大隊と第194戦車大隊から成る臨時編成戦車集団の指揮官に着任します。
この部隊はウェインライト少将の指揮下ではなく、米極東陸軍の直轄となりました。
この分割指揮体系は、ルソン島防衛時に多くの問題を生じさせます。

12月8日、日本機がクラーク飛行場を攻撃した際、
第194戦車大隊C中隊は空港周辺の防御地点で配置に付いていました。
爆撃機の編隊が現れたとき、彼らはちょうど昼食を終えて携帯用食器を洗っており、
爆弾が投下されるまで、それらを友軍機だと思い込んでいました。
C中隊の兵士達は戦車とハーフトラックへ駆け込み、
辺り一帯に爆弾が落下してくるのにも構わず、対空射撃を開始します。
日本機の爆弾は近くの滑走路上で翼を並べていたB-17とP-40を破壊し、
更に日本戦闘機が機銃掃射を加え、去っていきました。
約40分に渡る攻撃が終了した時、米極東航空軍は約半数の機を失っていました。
この空襲で55名が戦死し、100名以上が負傷しましたが、
奇跡的にもC中隊には死傷者はありませんでした。

日本戦闘機はショットガンで撃ち落せるかに見える程、低空飛行をしました。
"green" 地点では一人の中尉が上等兵の腕を引っ掴みながら、
大声を上げて対空射撃の指揮を執っていました。
米兵達は目に付くもの全てに猛射を加え、
戦車C中隊のEarl G. Smith兵卒は、この日、9機編隊の戦闘機の1機を撃墜しました。
630名無し三等兵:2010/10/20(水) 20:03:29 ID:???
空襲後、全ての機銃弾帯を撃ち尽くしていたC中隊は、その夜を、
スプリングフィールド小銃のクリップ弾倉から、弾丸を機銃弾帯へ装着する作業で費やしました。
翌日、中隊はクラーク飛行場北東2マイルの地へ分遣され、そこで露営します。
その地で12月12日まで待機した後、Albert M. Jones准将指揮下の南部ルソン軍と合流するよう命じされました。
戦車C中隊は夜に約40マイル行軍し、日が出てからモンテンルパのTagatay尾根の第14連隊のもとへ急行しました。
この地区は第14連隊から第24連隊の担当となりますが、中隊はそのまま残されます。
そして、偵察隊を指揮して第五列分子を狩りたてました。
第五列分子は弾薬集積所近辺で、日中はミラーの明滅で、夜間は火を起こして合図を送っていました。

12月24日02:00に、7,000名の日本軍部隊がラモン湾へ上陸し、
Lucban方面へと進攻します。
C中隊はクリスマス・イヴに、フィリピン第1歩兵連隊の支援の為に移動しました。
クリスマスの日、Jones准将は自ら偵察隊を指揮して、
C中隊の1両のハーフトラックの護衛のもと、日本軍へ向かって狭い道を下り立っていきました。
彼らはPiis北で偵察中、日本軍前衛の攻撃対象となります。
ハーフトラックは位置を転換しようとした際に、溝に落ちてしまいました。
しかし、乗員は銃を取り外して援護射撃を行ない、Jones将軍と将軍付き運転兵は無傷で後退出来ました。
この行為によってJones将軍は、
ハーフトラック乗員が殊勲十字章を授与出来るよう推薦しましたが、
46年4月まで何の手続きも取られず、推薦状は却下されます。
その代わり、5人の搭乗員にはシルバー・スターが授与されました。
631名無し三等兵:2010/10/20(水) 20:04:10 ID:???
12月26日、戦車第2小隊はフィリピン軍少佐から、
その射撃で比軍部隊へ感銘を与えるべく、狭い山道を下り立つよう命じられます。
小隊長のNeedham中尉は、その命令に異議を申し立て、
まず偵察隊を前線へ出して様子見することを提案しますが、
少佐は日本軍は小火器しか装備していないと請け合いましたので、
小隊はこの任務を実行します。

戦車兵は出発するやいなや、
1門の速射砲と隠蔽された数門の野砲に出くわしました。
指揮戦車に命中弾があり、Needham中尉、Bales上等兵、Morello2等軍曹が致命傷を負います。
2号車は損傷車両を避けて進み、速射砲を蹂躙しました。
指揮戦車が再び被弾し、DiBenedetti兵卒が跳ね飛んだリベットで頸部に負傷します。
Brokaw軍曹の車両にも命中弾があり、3名が戦死して軍曹は重傷を負いました。
632名無し三等兵:2010/10/20(水) 20:04:53 ID:???
この戦闘で最終的に、全部で5両の戦車が行動不能となります。
Morello軍曹と4名の負傷者は、ハッチを閉めたまま車内に留まっていました。
何故なら、日本兵が戦車の脇で夜営をしていたからです。
日本兵は誰一人として、車内に生存者がいることに気付きませんでした。
朝になって日本兵は去っていき、Morello軍曹は負傷者の救助を始めます。
軍曹は負傷者を集め、ココナツの木立と水田を抜けて脱出しました。

Morello軍曹と負傷兵達は、道案内に雇ったフィリピン人の助けを借りて、
日本軍支配地域をすり抜けながら、5日後に全員がマニラへ姿を現しました。
軍曹はDiBenedetti兵卒をマニラのカトリック病院へ残し、
他の3名と共にバンカに乗ってコレヒドールへ渡りました。
その後、軍曹は2月中にバターンで原隊復帰します。
この一連の軍曹の行動に対して、シルバー・スターが授与されました。

丸ごと1個小隊の戦車と乗員5名を損失したこの作戦は、
事前の偵察を軽視し、戦車が無計画に投入された場合、
どのような結果がもたらされるのかという、苦い戦訓となりました。
633名無し三等兵:2010/10/20(水) 20:05:34 ID:???
12月26日、マニラは無防備都市宣言をし、
米軍と比軍はオレンジ計画-3に則って、既にバターンへと後退を始めていました。
戦車C中隊もこの命令を遵守し、12月29日、ルソン島南部から撤退を開始し、
南部ルソン部隊の後衛を務めます。
中隊はタガイタイ尾根の第31連隊のもとに移動し、不眠不休のままBocaueへと100マイル突っ走り、
その地で待機していた第194戦車大隊に復帰しました。

北への行軍中、中隊は無防備都市宣言をしていたマニラを迂回しましたが、
Saccone軍曹に指揮されていた後衛は、マニラ市周辺の道筋をよく理解していませんでした。
彼らはマニラの中央道を通ることに決めます。
闇の中、避難民の群れを避けようとした1両のスチュアートが、
ホセ・リサール像にぶち当たりました。
戦車は衝撃で片方の履帯が外れ、誘導輪も一つ折れ曲がってしまいます。
乗員は夜通し修復を試みましたが、日が射し始めた段階で事態は絶望的となりました。
彼らは戦車を使用不能にした後、フィリピン兵を乗せたブレンガン・キャリアへ便乗させてもらおうとします。
戦車兵がトミーガンで狙いを付け、ようやくキャリアの車列は止まりました。
彼らがマニラから出た最後の機甲部隊でした。

※比島の米軍臨時編成戦車集団はM2/M3ハーフトラックを46両装備していた他、
本来はマレー向けで、開戦によって急遽マニラへ送られたブレンガン・キャリアーも装備し、
キャリアを運用した唯一の米軍戦車部隊となりました。
634名無し三等兵:2010/10/20(水) 20:06:15 ID:???
中隊はBocaueからパンパンガ川に架かるCalumpit橋へと進みました。
この橋は非常に重要な構造物で、マニラからバターンへ後退する全ての部隊が、
ここを通過せねばなりません。
ここで中隊は、空荷の比軍トラック100〜150両が、マニラから慌てふためいてやって来るのを目にします。
マニラの倉庫には莫大な補給品がまだある筈でした。
バターンで米比軍は物資不足に悩まされますが、オレンジプラン-3では部隊が餓死寸前にならぬよう、
開戦前に補給品は移動していることになっていました。
この怠慢の責は、42年4月まで開戦は無いと信じていたマッカーサー将軍に帰すべきなのでしょう。

南部ルソン部隊はCalumpit橋を42年1月1日02:30に渡り、
後衛の戦車C中隊がそれに続きました。
そして橋は爆破されます。
戦車隊はサンフェルナンドを通って移動し、
三日間に渡って7号線を遮断することに成功しました。

1月5日16:00、2両のスチュアートと2両のハーフトラックを指揮していたC中隊長Moffitt大尉は、
支援の第31歩兵連隊の4両の75mm自走砲と共に、750-800名の日本軍部隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けます。
この日本軍部隊に多大な損害を与えた後、中隊は燃えさかるLubaoの町を立ち去りました。
もしここで日本軍を喰い止められなかったなら、バターンへの退却は遮断されたことでしょう。

1月6日、バターンへの移動中、Remulus近郊で夜戦が生じました。
Moffitt大尉のハーフトラックに1発の命中弾があり、
Hennessey兵卒は左足をもぎ取られ、Martella上等兵も負傷します。
Martella上等兵は数日後にガス壊疽で死亡し、Hennessey兵卒もバターンでの降伏後に傷が元で死亡しました。
この戦闘で、Abbott軍曹のスチュアートは、被弾して行動不能となる前に、
1両の日本軍戦車に直撃弾を与えます。
負傷した軍曹は脱出し、戦車は翌日回収されました。

※今回は此処までで、残りは他日投下します。