>>943 たとえホラだったとしても、本人がそう「自白」したことは認めるんだなw
じゃあそれが元で処刑されても、自業自得の自己責任でしかないわなw
別に数を百人斬ってなくても捕虜の殺害自体は、本人が戦中に知人への手紙で書いてたり証言してるからね。
捕虜の殺害ならどこの国の軍隊でもやってるわな
一般市民の殺害もどこの国の軍隊でもやってるわい
だからその容疑で捕まって、証拠が出てきたので有罪になって処刑されるのは別に不当でも珍しくもない。
何処の国の軍隊でも有ることだ。
そうだな。外道な行為なのには違いないが
捕虜は捕虜でも、武器も制服も捨てて逃げ隠れしてた
便衣兵だがな。つまりゲリラ。当時の国際法でも、
ゲリラは裁判なしで即刻処刑がデフォ。
そんな国際法は無いし、日本軍の記録に「平服を着た兵隊が攻撃してきた」とか
「便衣兵だから処刑した」という記録は無い。
「敗残兵を処理した」、「掃討した」とかしか書いてない。
後、兵隊がただ平服着てるだけで、おまけに武器も捨ててるんじゃ便衣兵にはならないから。
爺さんは元海軍信号兵。
今は自分の小舟で漁師をしているが、
海の上では海軍の仲間と手旗信号で会話していた。
手を大きく広げないで胸の前で「手旗を書く」。
爺のくせに、その時ばかりはカッコイイと思った。
最近、娘(中3)が物凄い勢いでミリオタ化しつつある。
で、この盆に実家に帰省した際に祖父(娘から見れば曽祖父)の軍歴について尋ねられた。
「たしか、日中戦争から2回徴兵されて、軍曹でトラック島で20年の6月に戦病死したはず」と答えていたら、母が引出し
をひっ繰り返して祖父の遺品を並べてくれた。
確認してみると。出征は3回だし(支那事変従軍賞もあった)、最終階級は伍長(これはもしかして戦死で1つ上がったと
かあるのだろうか)だし、戦没地はタラワだしで、あっていたのは20年の6月に戦病死したと言う事だけであった。
子供のころに、今は無き祖母に聞いたはずなんだが、オイラの記憶のいい加減さには笑うしかなかった。
軍人手帳を開いてみたら、祖父から祖母に宛てた、走り書きのような手紙が何枚か出てきた。
どれも、自分が元気である事と、簡単な用事と、最後にほんの付け足しのようにそっけなく「貴女もお体に気をつけて」と
それだけなんだが、本当に書きたかった事は、この最後の一行なんだろうなぁ、という事が、ありありと伺えた。
「〜私はこれから南の方へ行かねばなりません。しばらく手紙を書く事が出来ません。貴女もお体に気をつけて」という
のが、内容的に最後の手紙だと思われるが、これを見たときは、思わず娘の前で涙を落としそうになってしまい、大いに
困った。
ところで、祖父の手柄話の類は聞いた事が無いんだが、『勲7等桐葉賞』って勲章は、どういう性質の表彰なんでしょうか。
勲7等は、ランクで言うと一番下だよね?
953 :
名無し三等兵:2010/10/08(金) 21:35:49 ID:SxfUY1Rk
以下 父親の話 小父(存命)はゼロ戦乗りで開戦当初トラック島で輸送機の護衛
していたが 家(横須賀)の近かくに移って後 中島でテストパイロットしてたらしい
飛行機壊すとヤバイからテスパイには それなりに技量あるヤツが任命されてたらしいが
ホントかね?終戦直後は「飛行機に乗れなくなる」ってキ○チガイみたいだったってさ
横須賀時代 家に遊びに来てた小父の友人は皆戦死したらしい
954 :
952:2010/10/08(金) 21:39:24 ID:???
飲みながら書いているので、多分戦没地を間違えているんだと思うが、何処が正しかったかがどうしても思い出せない。
不肖の孫としては、次の帰省の時に、再度確認したい。
軍歴証明取って見れ・・・。
気になるだが、家の婆さんを少しでも楽をさせたいと思って旧軍の年金制度を調べてんるんだが絶望的だわ
うちの爺さんは満州に居たんだが、年金って貰えないよう
満州軍、日本陸軍、関東軍か分からないけど年金が貰えない
証明する者も引き上げた時には、肌身一つでなにももってなかったらしい
婆さんの生活は成り立っるけど、苦しいことには変わりないよね
>>953 テストパイロットに技量が必要なのは本当だよ
アクロバット飛行とかもテスト内容にあるし、軍用機ならなおさら
遺族年金のことかそれとも恩給のことか。
>>958 恩給だと思う
婆さんが言うには軍人の時に政府に積立していたお金のことらしい
>>953 テストパイロットは命がけだもの。
秋水(メッサーシュミットMe163)の犬塚大尉とか、さ。
小父さんだって、技量も精神も素晴らしい人なんじゃない?
開戦前から搭乗員で、横須賀に異動ならば空技廠かな。
その後、中島飛行機でテストパイロット。
技量の高さが知れますね。
遺影には、二階級特進後の階級書くの?
親戚、憲兵大尉と、硫黄島戦死の陸軍曹長なんだけど。
内地か外地か知らんが、憲兵で死ぬって、戦死より戦犯としての刑死の方が多いのかね?
他は、満州からギリギリ本土帰還命令で転属になって
シベリア抑留をまぬがれた陸軍通信兵だった人とか、
当時の通信兵はそれなりに頭良くなきゃ選ばれなかったんでしょ?
>>963 なるほど助かります
今度婆さんに尋ねてみます
ちなみに靖国に軍神として合祀されるのにも厳然としたきまりがありました。
坂本龍馬も靖国に祀られてるんだっけ?
連合艦隊司令長官だった古賀長官は祀られてないよね。
事故死だったかららしいけど。
でも戦死したわけでもないヒデキ閣下は祀られてるよね。
靖国で祀られるのにどんな厳然とした決まりがあるの?
適当に決めてんじゃないの?
ん、そだよー。
>>967 戦後は事故死した自衛官でも護国神社に祀られたりしてたんだよな
不思議だ
戦前戦中は陸軍省・海軍省認定の戦没者が通知されてる。
戦後は昭和30年代くらいまでは、援護法による戦没者認定の結果が都道府県から横流しされて自動的に合祀されてた。
その後は目立たないと靖国神社が気づかないから合祀されない。
もし現役自衛官が他国と交戦中に戦死したとして
その自衛官が「戦死時は靖国神社に合祀をキボン」と書いていたら
靖国神社に合祀されるんだろうか?
>>971 生前、本人の口や書面で「合祀しないでクリクリ」と書かない限り、
勝手に合祀されるというだけのはなし。
973 :
名無し三等兵:2010/10/10(日) 20:00:59 ID:6ccVqKHO
953です 戦争末期は飛行機も粗悪になってきて、簡単なテスト飛行中にエンジンが火を吹く
事故もあったそうです。僚友の機が火を吹いて着陸したもののコックピットが開かず焼け死ぬ
様を上空を旋回しながら見守るしかなかったって聞きました。
戦後は「あんな地べたを這い回るモンなんて」って言って車の免許はとらないままでした。
末期は粗製乱造でしたしね。
中島の社内テストも大変だったでしょう。
国際基督教大学の本館の下にさ、すんげえ広い地下道&地下空間が広がってるんだよね。
たしか、地下三層だったと思う。
んで、あそこん敷地は元・中島の研究所だったんだよなあ・・・。
何が残されてるんだか。
これ、マジで情報だかんね。
立ち入り禁止になってる?
爺様に第二次世界大戦の時の話をきいたけど、ドイツの捕虜になった、寒い所へ戦争に行ったしか言わない…
寒い地域でドイツ兵の捕虜になる場所って何処かわかる方いますか?
ばぁちゃんは痴呆でもうわからないそうで…
>>976 うん、立ち入り禁止で、しかもワザワザいかめしいフォントの英語で
Restricted Area; NO ENTRY
とか書いてある。
一応、大学側で年に一回調査とかはしてるみたいだが。
>>977 それは満州でソ連(ロシア)の捕虜になったの間違いじゃないかと。
それでシベリアや中央アジアの収容所に連行されると、同じく捕虜になったドイツ兵が居たりした。
>>977 連合軍側の方だったんですか?
ナチの収容所も北部ドイツとか
ポーランドに散在していたようですひ・・。
ポーランドのは収容所は収容所でも違うやつのような…。
うちのじい様。
地元で200年ほど続くお店の跡取りであるばあ様と結婚、子供二人が産まれてから赤紙が届いた。
で、出兵したんだけど(どこに行ったのかは不明)その1週間後終戦を迎えた。
だから無事に帰ってきて寿命を全うして亡くなったんだけど
徴兵されたのが昭和20年。
じい様大正6年生まれ。
だから徴兵されたのは30近かったことになるんだけど
なぜそんな遅くに徴兵されたのだろう。
今では祖母も亡くなったので誰にも聞けない。
731部隊か?
>>982 末期は年齢関係なく根こそぎ動員だったからだね。
>>982 ウチのじいちゃんは満州開拓団。
満州開拓団は徴兵は免除されていたけど、
終戦三ヶ月前に徴兵されました。
当時、30近かったんじゃないかな?
末期はそんなもんらしいですよ。
>>982 徴兵って一度で終わるわけじゃなくて、現役で入営して期間勤めて予備役になったあとに再召集されることもある。
987 :
982:2010/10/11(月) 13:56:43 ID:???
>>984-986 なるほどありがとう。
うちの親はじい様が帰ってきてから産まれたから親にも聞けなかったんだけど
末期はそんなもんだったんだね。
他の人のじい様方みたく軍人手帳があるのかすら解らないし、蔵も取り壊してしまったから遺品もないし
じい様が生きてるうちにもっといろいろ聞いておくんだったよ。
うちの母方のひいお爺さん(ニューギニアで戦死)は、階級が兵長だったらしいですが、隊の中でどんな役目だったんでしょう?
二等兵なんかの教育係的存在?
召集されるまで静かな山村で、炭焼きをして暮らしていました。
戦地からたった一度だけ届いた手紙には、故郷の家族を毎日想ってる事と、椰子の木陰で休む兵隊を面白おかしくスケッチした平和な絵、隊では数少ない重機関銃を取り扱っているんだぞという事が書いてあったらしいです。
祖父がまだ国民学校の生徒だった時に召集されたみたいで、戦死の時は30歳過ぎだったみたいです。
989 :
1:2010/10/11(月) 23:38:29 ID:???
>>988 小隊の中の班長補佐くらいの役割だったみたい
適当にググっただけでなんだけども
>>989 乙です
ごめん、こっちにかけないと思って新スレに先に書いてしまった