952 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 10:31:36 ID:VokB6W3L
954 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 11:01:49 ID:VokB6W3L
>>953 岡山口は湿地帯のワヤクチャな地勢なので、単純な兵の多寡では語れない
955 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 11:15:01 ID:DrBCN5pH
956 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 11:44:49 ID:VokB6W3L
>>955 当時の日本における隊形は横よりも縦に深い陣形ですが
後、その陣形図で解ったような気にならないほうが良いよ、赤っ恥かくから
957 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 11:53:25 ID:DrBCN5pH
>>956 二キロの正面に二万の兵なら如何転んでも縦に深い陣形になる。
二万対三千だから前田が誘い込みでもしない限り、大野部隊は
前田の背後に出られない。
前田部隊の背後にいた徳川直属の大番・書院番・花畑番に死者が
出たとすれば、考えられるのは慌てて同士討ちでしょうね。
報告には同士討ちとかけないから戦死と書いて取り繕ったんだろう。
958 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 12:32:56 ID:VokB6W3L
959 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 12:41:05 ID:DrBCN5pH
960 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 12:42:18 ID:VokB6W3L
後、前田は一万五千で他に本多康俊、本多康紀、片桐且元併せて二万
これも一万石に付二百という計算だから実際は不明
それにこの中には小荷駄などの後方要員も含まれるであろうから、当然
実戦力は少なくなる
961 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 12:43:21 ID:VokB6W3L
962 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 13:21:58 ID:DrBCN5pH
963 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 13:48:44 ID:VokB6W3L
>>962 徳川遠征側、豊臣防御側
よって豊臣方の方が戦闘要員の比率は大きいと考えられる
964 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 15:14:06 ID:DrBCN5pH
>>963 編成上遠征に伴う部隊は小荷駄隊だけ、後は同一でしょう、しかも家康は
小荷駄隊不要と言う触れを出している。
どっちにしても前田隊と大野隊の兵力差は三倍以上、如何転んでも
前田隊の背後には大野勢はまわれない、ここで死者が出たとしたら
死因は戦闘以外のなにかでしょう。
965 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 15:45:51 ID:VokB6W3L
>>964 不要といったのは自身の旗本のみ
後、食い物だけでなく鎧とかも運ぶ必要がある
三倍以上の前田が破れないのなら、それ以上の茶臼山方面や
天王寺口はなおさら無理でしょうな
ああ、徳川はカスだからとかそういうのはいらないから
966 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 17:12:21 ID:DrBCN5pH
>>965 二万の秀忠本営が千五百程度の大野勢に切り込まれて大混乱、加藤、黒田両
部隊の介入でようやく態勢整えたってのは史実の教えるところ、兵力差は
13倍以上ですよ、徳川本隊の戦闘力って案山子以下、カス以外になんの
評価しろってんですか!
967 :
名無し三等兵:2011/01/31(月) 17:23:08 ID:VokB6W3L
時の勢いってやつだよ
969 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 11:41:01 ID:K0ODLATP
>>966 ちなみに、加藤・黒田の活躍とか、徳川の旗本が真田に崩されたとか、
秀忠・家康が共に旗印を隠し、逃げぬものは無しとあるのは
総て、そこにはいない島津家の資料からだから「薩藩旧記」
970 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 11:48:04 ID:O6wrlV9n
971 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 12:05:24 ID:K0ODLATP
>>970 図中で大野治房隊と戦っているのは前田利常隊
それら兵数は総て「日本戦史大坂役」からの引用
つまり百石当たり二百人という基準が殆ど
972 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 12:47:36 ID:O6wrlV9n
>>969 薩藩旧記は同時代史料、一級の史料ですよ。第三者だから公平な
立場からの記述といえます。
同内容の記述が藤堂高虎「高山公実記」をはじめ「駿府記」「山下秘話」等
多くの同時代史料に観られます。神君家康公神話を信じたいのでしょうが
家康は裏に回っての陰謀は得意ですが、武将としての才能はありません。
973 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 13:24:59 ID:K0ODLATP
>>972 「第三者の公平な立場」などというものはありません
大抵はそのものの贔屓目があることを認識するべき、それに当時と言っても「伝聞」としての価値しか無い
家康に真田が攻めたというのは「高山公実記」でなく「寛政重修諸家譜」それも近くまで迫ったという程度
「駿府記」は「関東勢少敗北」という程度で、その後に秀忠の指揮で持ち直したと続く
「山下物語」は講談のたぐい
974 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 13:57:02 ID:O6wrlV9n
>>973 「駿府記」は徳川家記述の文書です史料としての客観性は割り引くのが
常道です、ここで「関東勢少敗北」と記したのは隠し切れないほどの
大敗北と読み取るのが正解です。
陰謀や薄汚い策謀しか操れない神君家康公をそんなに信奉したいんですか。
975 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 14:51:13 ID:K0ODLATP
>>974 徳川だから怪しい、島津は信じれるという方がよっぽど恣意的ですな
第一、「家康はもう少しで死ぬところだった」なんてかいてあるのは家康を批判的に捉える
宣教師の伝聞や、講談物ばかり
真田の突撃はやっぱ戦術レベルで戦略を覆す最後の作戦だったの??
978 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 17:53:39 ID:O6wrlV9n
>>975 島津は豊臣とも徳川とも利害関係持っていません、勝ちそうな方につくだけです、
完全な第三者と言えます。
徳川は一方の当事者です、普通史料検討する時は、複数の史料があれば
対比し、一方の当事者からの史料を丸呑みにはしません。
この問題に関しては「徳川だから怪しい、島津は信じれる」が正解です。
>>978 伝聞である時点で信憑性は低くなります
そして伝聞は尾鰭が付くものです
実際は何人かが逃げたり、旗を乱した事で詮議の対象となり、
改易や閉門に処された事実があります
逆に言えばそこまでであって、全軍壊乱したなどということは
ありえないのです
980 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 18:45:49 ID:O6wrlV9n
>>979 種々の史料(徳川家編纂「『朝野旧聞哀稿』も含めて)家康逃走、秀忠本陣大混乱
が定説ですがね。江戸時代から神君家康公が逃走するはずがないとか、
秀忠本陣は少し乱れただけ、とか血相変えて力説する人がいたんでしょうね。
柳生宗矩の武勇談(夏の陣では、大将・秀忠近くに迫った豊臣方の敵兵7名を、
新陰流の見事な腕前で、あっという間に斬り伏せた。)とか、「かかれ対馬、
に逃げ大炊、どっちつかずの雅楽頭」とはやされた俗謡も根も葉もないと
力説してたんでしょうかね。
以下の見解が一般的です。
”島津忠恒や大久保彦左衛門ら複数の人物がその件を紹介し、また「大坂御陣覚書」
「山下秘録」など複数の書物に家康本陣が潰走した様子が語られ、
さらにそれを徳川幕府が否定していないという点でも隠しようがない事実
だったと見ていいでしょう。
普通なら幕府に都合の悪いことはできるだけ隠すか矮小化したいと思った
でしょうが、もうそれができないくらい広まっちゃってたんだと思います。”
>>980 当時から、伝聞に基づいた講談ネタは量産され続け、後世でもよく分からなくなったのでしょう
島津は伝聞、大久保は旗の落ち度のみを語り、「大坂御陣覚書」 「山下秘録」は信用性が低い
講談の真田大活躍に未だに引きづられているのが実情
982 :
名無し三等兵:2011/02/01(火) 20:03:27 ID:K0ODLATP
後、幕府は隠すも何も落ち度のあった旗本の詮議を行い、処罰をしています
勝利したのにしっかりと信賞必罰を行う幕府はむしろ賞賛に値する
984 :
名無し三等兵:2011/02/02(水) 13:30:46 ID:2ngSQgKj
この手の話では一人旗本が逃げれば百人逃げたことになり、
旗奉行が旗を乱せば、家康本隊が壊乱したことになるものです
デマゴーグの恐ろしさというべきか、雪だるま式の一例と言うべきか
985 :
名無し三等兵:2011/02/02(水) 17:26:16 ID:5x552Idd
別に全員が逃げなくとも、要は家康の前にそこそこたどり着けばいい訳で。
986 :
名無し三等兵:2011/02/02(水) 17:48:53 ID:2ngSQgKj
>>985 すいません、意味がちょっと掴めませんので
説明して戴けませんでしょうか
987 :
名無し三等兵:2011/02/02(水) 18:52:22 ID:fYP5HRZ9
>>986 旗本が全員逃げなくても、(一部の旗本が逃げたため、
本陣の陣容が手薄になって、豊臣の兵が)家康の前にそこそこたどり着けばいい。
と言う意味じゃないでしょうか。
前田と井伊の間で戦った書院番2組で7人が改易、大番高木正次組に改易は無し
その他旗本の改易は20人(家康旗奉行含む)、閉門は3人(家康旗奉行含む)
家康槍奉行大久保忠教等が叱責、内一人は勘当
本多忠朝組と榊原康勝組の目付2人が改易
というのが、天王寺・岡山合戦における旗本への処分
この中には抜け駆けをした者も含まれている
書院番に逃亡者がいて、大番にいないのは流石というべきか
989 :
名無し三等兵:2011/02/02(水) 21:09:34 ID:2ngSQgKj
家康麾下では鳥居成次の部下が死んだり、また何人か死んだりしているので、
おそらく家康本隊の先鋒までは豊臣方が到達したと思われる
そこが限界で、それより内側の大番などには届かなかったようだが
>>988 >抜け駆けをした者も含まれている
大権現さんも抜け駆けに寛容だったり厳しかったりで良く分からんなぁ
>>990 戦局的に必要ならOK
個人の功名が目的ならNO
うめ
梅
ume
梅梅
ウメ
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