諸葛亮の考察書いていい?
書いてしまえw
長すたら、3行にまとめろとか言い出すかもしれないがww
一次から五次までやるから長さは保証するw
戦争は敵主力を殲滅なり完全撤退なりさせ戦地から消滅させて、やっと
勝利とひとまずの安定を得られる。
(或いは敵国の政治上での敗北宣言による領土の放棄によって、以下略)
敵主力が生きている内は何処まで侵攻しようが一時的なことなのであまり意味がない。
諸葛亮の北伐のひとまずの目標は長安以西を支配下に収めること(だろう)。
であるならば、戦の目指すところは雍州上から魏主力を消滅させることにある。
つまり、「如何に敵主力を打破するか」である。
敵主力を戦場から消滅させるには、敵軍が 解散 or 撤退 するか、会戦で打ち破るかしかない。
敵の解散や撤退は普通期待出来ないので、やはり会戦となるが
会戦で破ることが出来ても、自軍の被害も大きければ、敵国は自国と比べ強大ゆえ
更なる侵攻は勿論、戦線の維持も困難になる。
諸葛亮は会戦で自軍の被害を小さく抑えながら敵主力を撃破する必要がある。
それには戦闘に有利な地を自軍が占め、そこで敵を迎え撃つことが重要となる。
ここに主眼を置くと諸葛亮の北伐が分かる。
第一次北伐
諸葛亮は斜谷道から?を奪うと宣伝し、偽兵を用いて長安駐留の雍州防衛軍を箕谷に引きつけ
諸葛亮率いる本隊は馬謖を先鋒に関山道を進み、武都を抜いて祁山を攻めた。
諸葛亮の率いる軍の兵士はよく統御され、戦列は整って乱れず、指揮官の手足のように動いた。
南安・天水・安定の三郡は蜀軍の勝利を信じ
魏に叛いて諸葛亮に呼応したので関中に激震が走った。
曹叡は張?に軍を率いさせ涼州へ向かわせると共に、自身も長安へ出向いた。
張?軍の目的は涼州の安堵。
則ち涼州への敵軍の侵攻を許さず、郡県の叛乱を未然に防ぐこと だった。
隴右の残り二郡広魏・隴西もいつ蜀軍に降ってもおかしくない状況だった。
もし広魏・隴西が蜀の手に落ちれば、涼州は本国から完全に分断される。
そうなれば涼州もまた蜀に靡くだろう。
諸葛亮に降った三郡は蜀の先兵として広魏・隴西を侵食していたので
そうなるのは時間の問題だった。
張?が諸葛亮軍に向かえば、手こずっている間に広魏・隴西は落ち、涼州を失う。
張?が広魏に留まり守ろうとも、軍の散開は不利を招くだけなので叶わず、
張?軍の周囲を残して蜀の手に落ちる。そうなればやはり涼州を失う。
最善の手は、広魏を素通りして涼州に入ること。
威を以て叛乱を防ぎ、州を掌握。関中の曹真あるいは曹叡が率いる大軍と時を合わせて
隴右へ取って返せば、蜀軍を東西から大軍で挟撃出来る。
そうなっては、仮にその時蜀が隴右を完全掌握していたとしても、諸葛亮はまず勝てないだろう。
張?軍は涼州へ向かった。
(「張コウ」字が出ないんだね )
>諸葛亮は斜谷道から?を
「?」は「ビ」
はじめ、諸葛亮は雍州防衛軍を箕谷に引きつけ、その間に西進して防衛拠点である祁山を落とし、
祁山で魏の中央軍を待ち受けて撃破し、余勢を駆って関中へ進撃。
陽動で引きつけておいた雍州防衛軍を打ち破り長安を奪取。
或いは、雍州防衛軍が退いて何処かへ立て籠もれば、そこに防衛線を築き、
その地から西を切り取るという算段だった。
ところが、諸葛亮軍の強さを前に三郡が戦わずに帰服した為、
危機を感じた魏の中央軍を涼州へ向かわせる事にってなってしまった。
完全に計算が狂ってしまったのである。
思わぬ三郡の帰服を受け、諸葛亮は戦略を切り替えた。
隴右平定を急ぐと共に、新たに防衛線を構築し、東進より先に涼州を分断させて併呑することにした。
張コウが北上したので馬謖を街亭に遣わし、これを防がせた。
長期戦に持ち込めばその間に隴右平定が完了し、涼州も降る。
が、なぜ諸葛亮が自ら行かなかったのか?
諸葛亮は全軍の総指揮と、いずれやって来る曹真との決戦に向けての準備をしていた。
諸葛亮は張コウが街亭への北路を取ったのを知ると、馬謖を街亭に差し向けこれを塞がせると共に、
魏延あたりを密かに渭水に沿って下らせ張コウ軍の背後に出し、補給路を断とうとした。
張コウ軍が脇を通って来た六盤山(山脈)の東は蜀に寝返った安定郡。
そこからの補給はない。関中からの兵站線を断ちさえすればよいのだ。
そうなれば張コウは持久出来ず撤退せざるを得ない。
これで隴右・涼州を手に入れることが出来る。
馬謖に懸かっていた。
しかし、馬謖が敗けてしまったので、張コウの涼州行きを阻止出来なくなり、
あとは先述の通り、必敗が待つのみとなった。よって撤退した。
※断定口調で書いたが
>曹叡は張コウに軍を率いさせ涼州へ向かわせると共に、自身も長安へ出向いた。
以下は推論。
ここ連投何回まで?
区切りのいいトコでレス頼みます
クラウゼヴィッツかよ。
ちゃんと、引用元を明らかにしておけw
馬謖と街亭の戦い
馬謖は諸葛亮の指示に背いて兵法書通りに山に登り、水を断たれて敗れた。
劉備は臨終に「馬謖の言葉は実態から離れているから大事は任せられぬ」と言っていた。
諸葛亮は人を見る目がない。明らかな人選ミスだ。
などとよく言われる。
果たしてそうだろうか?
街亭の戦いの時、諸葛亮はどうしていたか? と合わせて考えてみよう。
馬謖は天才だった。無能だなんてとんでもない。
諸葛亮は馬謖と深く付き合い、その才器が他とは異なることを知っていた。
劉備は…、叩き上げの戦人で苦労人だった。学問を好まず、馬で戦場を駆けることを好んだ。
劉備は基本的に学士が好きではない。
?統は名があったにもかかわらず、初め軽んじられた。
諸葛亮は名もあり、寸土も持たなかった劉備勢力に天下取りの構想を示し、
孫権との同盟を成立させて滅亡の危機から救い、荊州南部の領土経営を成功させて
劉備の今(益州牧)の全ての土台を作った。
それでも、益州平定後の人事で、法正・麋竺・孫乾・簡雍・伊籍よりも位階が下だった。
劉備は、頭で考え口で言うだけの行動をあまり評価しない。
その手で何事かを為した行動・目に見える物を評価する性格なのだ。
学問・理論を軽んじ、実地・実労を重んじる。ある程度当然だが、苦労人劉備は偏っていた。
夷陵で"書生あがりの若造"陸遜に敗けたのは、きっと劉備のそういう性格の所為でもあったろう。
劉備を完璧に破った陸遜の作戦は、結果を収めるまで呉陣営で理解されなかった。
歴戦の武将というのは、理論というものを軽んじる傾向にあるのかもしれない。
劉備は戦人ゆえに、自分の道である戦争に関して学者の意見に耳を傾けない。
法正は特別だった。性格的に劉備との相性が良かった。
蜀攻略で行動を共にし、実際に"行動"を見て戦人として認められた。
だから法正は軍事に関しても信頼された。
夷陵の大敗を受け、諸葛亮は「もし法正が生きていたら東征を止められたろう。
仮に東征したとしても、必ず大敗は避けられたに違いない。」と言った。
これは、戦に関し劉備が法正以外の学士の言うことを聞かないということを示している。
諸葛亮は劉備のそういう性格を知っていた。
だから呉征伐の討議で敢えて反対することをしなかった。無駄だと分かっていたのだ。
諸葛亮の南征に際し、馬謖は
「心を攻めるが上策。城を攻めるは下策。なんたらかんたら、心服させられませ。」
と助言した。これは馬謖を評価する材料となっているが※
もし劉備が聞いたなら体が痒くなったことだろう。
「こいつは戦というものが分かっておらん。現実はそんなに綺麗なものではないのだ。
学者風情が知った風な口を利きおって…。」と思ったに違いない。
劉備の馬謖に対する評価は、街亭で大敗したから取りざたされているが、
叩き上げの年配からの高学歴若輩に対する評価として
世を問わず非常に多く見られるありふれたものだ。
街亭の大敗があるから、劉備の評価が史書にある。
街亭の戦いがなければ、劉備の評価は史書にない。
劉備の評価を以て、街亭の戦いの内容まで推測するのは道理に合わないのではないかな。
※「南方で叛乱が起きることは二度となかった」に関しては三戦で議論になったことがあるが
必ずしも誤りとは言えないということで決着した。
では、街亭の戦いはどうであったのか考えてみよう。
諸葛亮伝注袁子「諸葛亮は街亭に居た。数里しか離れていなかったが馬謖を救わなかった。」
とある。ここに着目して考える。
街亭の戦いの時、実際に諸葛亮は何処にいて何をしていたかは不明。
諸葛亮本伝では諸葛亮は街亭に居ないことになっている。
おそらく袁子の言葉は真実ではないだろう。
一里=500m。“数里”とは“数里”× 1/2 qで、1〜5キロしか離れていない。
敗れれば総退却する状況で自軍の危機を看過するはずはない。
袁子の言葉の内容が真実とは思えないが、敢えて依って考える。
「諸葛亮は街亭に居た。」魏に伝わっている話は真実である。とする。
〜 街亭の戦い 〜
街亭に到着した馬謖は現地を見分して名案を思い付いた。
事前に受けていた指示(内容は不明だが山に登ることではないらしい)に違えることになるが
その案の方が上策に思えた。要は張?を足止めすればよいのだ。
その案とは兵書にある「高所に拠れば有利」といった単純なものではない。
敵軍から見て手前の山に堅陣を築いて一軍を置き、前衛とする。
2〜3q離れた後方の高台に本陣を布く。
前衛が馬謖軍で、本陣が諸葛亮本隊だ。
左手を前に突き出し構えている武闘家と向き合っているところを想像してほしい。
懐に飛び込んで打撃を加えようとしても、突き出された左手が邪魔になる。
左手に打撃を加えても大したダメージを与えられないし、こちらも痛い。
左手を掴もうとすれば右の拳や蹴りが飛んでくる。
左手は馬謖軍。諸葛亮本隊を突こうとすれば、馬謖軍が横っ腹を突く。
山に籠もる馬謖軍を力攻めにすれば、大きな被害が予想される。
馬謖軍は耐えきれなくなったら退却して本隊に合流するだけなので、
攻めても敵兵力を大きく削ることには繋がらない。
その上、苦労の末、山一つ取っても、諸葛亮を抜いて涼州に行くことなど出来はしない。
馬謖の山を囲もうとしても、本隊からの攻撃に遭って退けられる。
決戦をしても、有利な地に陣取る蜀軍の前に張?軍は圧倒的不利。
打つ手のない張コウは大迂回するか、自軍も陣を張って睨み合いをするか しかない。
張コウが撤退すれば追撃して大打撃を与えることも可能だろう。
いずれにせよ目標は達成される。
馬謖は山に陣取れば水を断たれる事くらい分かっていた。
が、水を断たれる心配はなかったのだ。敵が山を囲む筈はなかったのだから。
偽兵を使って後方の高台に諸葛亮の大軍が陣を張っていると見せ掛け
自軍は山に登って守りを固めた。
作戦は完璧だった。
が、王平だ。
街亭の真の戦犯は王平だと言っていい。
やはり劉備・夷陵の呉将よろしく"叩き上げ"中の叩き上げ、王平もまた理論が苦手だった。
馬謖の考えが理解出来ず、水に固執して反対した。
結局、物別れに終わり王平は諸葛亮の指示通り山に登らなかった。
王平伝に「敗戦後、踏み止まって太古を打ち鳴らし伏兵を思わせた」とあるので
史実の王平も演義のように麓に陣を張ったのだろう。
王平は学士の馬謖を信頼しなかったのだ。
>>353 だがちょっと待って欲しい。
劉備の対呉戦については、戦人であり、関張に次ぐ長い付き合いである趙雲も停めたではないかと、
重隅をしてやろうw
街亭に到着した張コウは蜀軍の万全の布陣を見て困窮した。
馬謖の作戦は上手く行ったのだ。
が、すぐに或る一隊に目が止まった。
万全の態勢を整え、来るなら来いと言わんばかりの構えを取っている蜀軍にあって
その一隊の布陣位置は不自然だった。王平隊だ。
王平の布陣した位置は不明。道を遮るように陣を張ったのか、
はたまた馬謖軍の弱点である水道を庇う位置に陣を張ったのか、定かでないが、
王平の布陣は張コウの目に「来られたら困る」と言っているように映った。
王平隊の位置に蜀軍の不自然さを感じた張コウは馬謖の策を見破り、山を攻めた。
左手の向こうの武闘家は消え、左手だけが中空に浮かんでいた。
その手を片付けるのは容易かった。
こうして馬謖は敗れた。敗走する馬謖軍の中、王平だけは落ち着き、
太古を打ち鳴らして伏兵を思わせた。
突如鳴り響く太鼓の音を聞いて張コウは
「やはり諸葛亮は本当に来ていたのか!」と驚き、追撃するのを止まった。
王平は敗残兵を拾い集めながら帰還した。
馬謖は天才だったが、理論家と叩き上げの相性は良くなく、
ガチガチの叩き上げ王平に足を引っ張られて敗れたのだった。
諸葛亮の指示を守ろうとした王平が悪いわけではない。
天才の敵は時に味方の常人であるのだ。ただそれだけだ。
馬謖は敗戦の責任を取らされ斬られた。
責任の所在を王平に在りとして王平を処罰すると
誰も上の指示に従わなくなる。
敗戦の重い責任と事前の指示に従わなかった事実の前に
馬謖は斬らざるを得なかった。
惜しいかな馬謖
馬謖を斬らざるを得なかった諸葛亮の心痛は如何ばかりのものだったろう
これが馬謖と街亭の敗戦の真相である。
指示を守り手柄を立てた王平を称揚することは規に照らして当然であり、
馬謖の処罰と対を為し必要だった。たとえ王平が足を引っ張ったのだとしても。
繰り返しになるが、敗戦の原因であるとしても王平が悪いわけではない。
王平が優秀であることに間違いはないだろう。
もし馬謖が名案を閃かなかったら、
王平の経験は馬謖のよき輔けとなったのではないだろうか。
魏のひと袁準(袁子)は嘘を吐いたのではなく、
魏では諸葛亮が街亭に居たという話が伝わっていたのだろう。
袁準はその話を信じているのだ。
蜀のひと陳寿は諸葛亮は街亭に居なかったと考えている。
蜀では街亭に居なかったという話が伝わっていたのだろう。
他国より諸葛亮の属した国に伝わる話の方が正確だろうと思う。
陳寿もそう判断したのではないだろうか。
ではなぜ魏は諸葛亮が居たというふうに思っているのか
袁子の話を振り返る。
諸葛亮伝注袁子「諸葛亮は街亭に居た。前軍が大破するのに
数里しか離れていない諸葛亮は救わなかった。(軍を出さなかった)
(引き揚げるとき)、官軍(魏軍)が接近してるのに、ゆっくりと行軍した。」
王平は敗残兵を拾い集めながら帰還した。
であれば、きっと速やかな退却ではなかったに違いない。
何をか況わんや。
いや、ちょっとだけ言おう。袁子の話と王平の行動は符合する。
あとは想像してほしい。
魏は街亭に諸葛亮を見た。これは魏にとって事実なのだ。
その"諸葛亮"は、蜀にとって実在しなかった。
つまり、偽兵である。
『馬氏の五常、白眉もっともよし』なのだから
もし馬謖が天才なら、馬良はそれ以上の天才でないとおかしい。
と、言われそうなので、このことに触れておこうと思う。
人物評価というものは、頭脳の一点を以て下されるわけではなく、
知識・知能は勿論だが、人品・風貌・儒教精神などの総合で評価される。
事績から見て、馬良の対人能力はおそらく高かった。
対人能力が人物評価に与える影響は小さくない。
穿った見方抜きにしても、対人能力の高い人間は実際使える。
対人能力は人材としての能力のひとつであり、評価の対照となる。
一方、馬謖の対人能力はおそらく高くなかったろう。
豊富な知識、明晰な頭脳の持ち主で、人付き合いも上手な人と
頭は良いが、人付き合いが下手な人
どちらが人材として評価できるかと問えば、前者だろう。
『馬氏の五常、白眉もっともよし』に矛盾しない。
>>358 「武人が反対すれば劉備は聞く」と
「学士の言うことを劉備は聞かない」
は違うよ
一つ突っ込むと、劉備は学閥的にはかなり中枢に近い地位にいる。
劉備の師の盧植は清代に至るまで尊重され続けることとなる大学者であり、当時から高名。
盧植の師の馬融は外戚学者で、皇帝の師でもあり、宮殿で国史編纂事業に携わる学問エリート。
馬謖なぞより余程学歴は高い。
あと、別に学問や学士を嫌っては居ない、どころか子孫に遺言で学問を修めろと言っている。
ちゅうか、学士嫌いなら何故孔融を救おうとしたか、何故孔融に名を知られている事を喜んだかってことになる。
ついでに言うと、内面を語るにせよ「何を思っていたか」なんていう抽象的で、
学術の徒ならまず触れようとしない所より「何をしようとしていたか」を語るべき。
>>364 気にしないでくれ、言ってみただけだw
全体としては論理的破綻は見えずに、面白い考察だ。
王平も山頂に布陣していたのなら、踏みとどまり、後衛戦闘して、残兵の収容もできんからね。
演義の如くに布陣した結果として、張合βが馬謖の全体構想を見破る切っ掛けとなった…
という可能性もあったかもしれない。
とは言え、馬謖は天才なのかもしれないが、街亭では理屈を先行させてしまった、という評価は覆らないんじゃないかとも思う。
山頂によらず、確実に街道を塞ぎ、張合βの行動を自由にさせなければ、事足りる。
それで目的は達成できたはずなのだから。
馬謖擁護論か。面白いけど補給面から考えれば、水の補給が不可能な山頂に陣をしいたのは
擁護しようがないな
三戦板最近行ってないが、王平敗因論は斬新だな
にしても、戦役の要となる戦いにおいて実戦経験皆無の馬謖を起用して失敗した
諸葛亮の人選は間違いだったとしか言いようが無い
でもまあ、一戦敗れて処刑って、厳し過ぎる処罰だと思う
この戦い、諸葛亮も実質初陣みたいなものだったわけで
蜀や呉崩壊の際も実戦未経験の将が期待されて出陣してるわけで、
当時は学問を修めていれば将の器としては十分という評価があったのかも
王平が叩き上げつーのも盛大な勘違い
王平は非漢民族の支配者層の人間で、巴夷の王侯クラス
(正史では直接非漢民族とは書いてないが巴夷の王が曹操の所へ出頭する時、実は王平も一緒に行っている)
漢字は読めないものの、別に叩き上げというわけでもなく、無学というわけでもない
文字ってのは大体10代くらいまでに読めるようになってないと文盲になるといわれてるし
単純に漢字に触れる機会がなかっただけだろう、不便もなかっただろうしな
あと街亭の後、馬謖を斬ったのは責任論とかそういうレベルでなく
馬謖が処分待ちで逃げて再逮捕されたから
逃走に厳しいのは古今の軍の常識
>>365 廬植の兄弟弟子で、後漢儒学会の巨人でもある鄭元も廬植死後、劉備に肩入れして弟子の孫乾紹介してるしな
廬植生前の紹介なら、師匠の口利きテラ強す、で説明付くが、
死後の紹介となると劉備は学歴も高く学閥からもそれなりに支援を受けてないと説明が出来ない
高学歴劉備に比べると、諸葛亮はむしろ「本質さえ判ればいい」と言い放つ豪快な若人
何故か巷間のイメージだと豪快な劉備と生真面目諸葛亮という逆のイメージになっとるが
正史を正直に読むと劉備って非常に生真面目だし、若き日の諸葛亮は野望に燃えてギラギラした豪傑なんだよなぁ
馬謖が陣を敷いた山ってどんな山ですか?山頂ですか?中腹ですか?
大軍を敷くスペースはあったんですか?街道との距離感とか解ってるんでしょうか?
>>368 諸葛亮って蜀取りで軍率いてたような
王平敗因論は斬新だな
煮詰めると、面白いかもね
>>371 場所すらロクにわかんねぇよ
ただ指示は街道に拠って守れとなってた
馬謖は山頂に布陣、命令は煩雑で混乱を来たし、結局水を断たれて特攻、敗北
総崩れになりそうなところを王平の見事なブラフで張コウの追撃を防いだ、という事くらいしかわかってない
三戦なら「合β」や「眉β」なども表記されるから、そのつもりで書いたんだけど
三戦や中英に限られていたんだね…知らんかった
急遽修正したが見落としが多く、見苦しくしてしまって申し訳ない
一応、もう五次まで出来てるけど、長文読むのも疲れるだろうし
何日かに分けて投稿するつもり
(もしかしたらアクセス規制に巻き込まれてそのうち来れなくなるかも知れないけど)
軍板のみなさん、よろしく
とりあえず反論から
>劉備
先主伝「先主甚だ読書を楽しまず、犬馬・音楽・美しい衣服に入れ込んだ。〜(中略)〜
豪傑・キョウ客たちと交わりを結ぶことを好んだので、若者たちは競うように彼に従った。」
学問好きの人間ではないみたい
当時も役人になるには学校で勉強する必要があった だから劉備も通った
盧植がたまたま同じ郡にいたので、盧植に教えを受けることになっただけだと思う
誰に師事したかは本人に関係ないと思うよ
>孫乾
孫乾は鄭玄と同郷で北海人
鄭玄は青州で黄巾賊が暴れたとき、難を避けるため徐州に移った
鄭玄が孫乾を劉備に推薦したのは劉備が徐州を統治している時期で、
師匠が弟子に"地元の殿様"への仕官を斡旋しても別に不思議はないと思う
鄭玄は孔融と親交があり、劉備は孔融と親交があった
劉備の評判も良かった
推挙は自然
>孔融
劉備が学士嫌いだとは言ってないよ
学士を重んじる性格ではない、基本的に好きではない、と言っているだけ
孔融を助けたのは孔融が学士で劉備がそれを重んじたからではなく、
「助けを求められた」という義が劉備にあったからだと思うよ
この時劉備は平原相でしかなく無名に近い存在だった
一方、孔融には何進も董卓も彼を無下にできない程大きな名声があった
超有名人がちっぽけで無名な自分を知っていたらそれは多少驚くよ
劉備が孔融を学問の大家として尊敬していたとは必ずしもならない
>劉禅への遺言
それ普通のことだと思う
中卒で裸一貫から会社を建て成長させた大会社の社長がいたとする
そんな人でも子どもを名門学校に入れたがる
自分本人と親としての自分は違う
子に勉強させようと思うのは親心として当然でしょう
豫州刺史時代、劉備の元に陳羣がいた
劉備に徐州牧就任のオファーが来たとき
陳羣はこう言って徐州牧を受けようとする劉備を止めた
「袁術は依然強大です。今徐州に行けば必ず袁術と争うことになります。
そのとき呂布が将軍(劉備)を背後から攻めれば、将軍は必ず徐州を失うことになるでしょう。」
劉備は陳羣の言葉に従わなかった
結果はご存じの通り
呂布に注意しろとまで言われていたのに、、、
劉備という人はそういう性格
>王平
王平は巴夷の王の一人ではないよ
杜護(護「へん」がさんずい)らに随行しただけ
巴夷の王らが曹操に帰服したとき
杜護は巴西太守
朴胡は巴東太守
袁約は巴郡太守
に任じられた
王平は校尉
王平は戦場で生まれ育ったため読み書きが出来なかったと明記されている
一方、太守となった巴夷の王、杜護・朴胡・袁約らが
読み書き出来なかったとは書かれてない(書かれるような場もないが)
異民族とはいえ、王候なら漢語くらい読み書き出来ないとおかしい
杜護らが太守に任じられたのに比べ、王平は校尉という武官の職に就いただけ
武帝紀注に「(帰服した巴夷の王たちは)皆、列侯に封じられた。」とある
王平は杜護らに仕える有力武将の一人だったと見るのが自然
ついでに
馬謖は厳罰を恐れたからこそ逃亡した
初めに厳罰ありき
「諸葛亮は馬謖を斬って軍に詫びた」とある
街亭の守り方
諸葛亮の指示は不明だけども、街道を塞ぐことだったとして
街道を塞げば、敵は数の利を活かすことが出来ない が、その犠牲もまた小さい
蜀軍が数に劣り、要害でもない地に立ち塞がっていれば、張コウは攻撃を選択する
猛攻撃に遭い、数日に渡る激戦は必至
一方、この策であれば一兵も失わずに張コウを足止めすることが出来る
もし攻めて来られても随分有利に戦える
水道を断たれる畏れはまずない
馬謖軍を涸らすまで数日かかる
なので魏軍が蜀本隊の大軍に横っ腹あるいは背を晒し続けて水道断ちにでることはあり得ない
2〜3日もそんな態勢が保てるわけはないのだから
そんな状況で山を囲むのは無意味
山を囲みつつ諸葛亮を食い止めれば、と考え得るかも知れないが
馬謖の抑えに多くを割けば、残りの兵で諸葛亮本隊と戦うことになる
張コウは数的不利を作り出して蜀軍と会戦することになる
そんな愚かな事はしないだろう
たかだか前衛の処理にそんなリスクは冒さない
張コウが自軍を危険に晒してまで馬謖の水道を断ちにくることはないはず
>>370 >若き日の諸葛亮は野望に燃えてギラギラ
ああ、、それについても触れよう、と今思った
誤解が流布してるんだと思う
北伐のあとに書こうかな
>>371 分かりません
どうなんでしょ
街亭古戦場跡というのはあるみたいだけど
>>375 その記述で劉備を学問好きではないと言うのはやはり盛大な勘違い
当時の知識層の流行で「読書を重視しない儒学」「任侠の徒と交友を持つ」というものがあり
曹操や袁紹、袁術、董卓なんかもそういう行動を取ってる
また、当時の廬植は大学者で、同郷だからという理屈でおいそれと学べる相手じゃない
実際、幽州各地からエリート層が廬植の元に集まっていて、劉備はそこで公孫サンと出会い、義兄弟になってる
孫乾の斡旋は学閥抜きで考えると全く自然ではない
じゃあ何で陶謙に推挙しねーんだ?ということになる
>>377 王そのものとは言ってない
王侯貴族などに類するって言ってる
非漢民族の支配者層が文字に対してあんま興味ないってのはよくある話
しかも王平は当初、他の家に養子として入り何平と名乗ってた時期もあり
また、後になって王平と実家に戻ったりしている(戻したのは第四次北伐後っぽい)
こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
盛大な勘違いと言われてもね
盛大に勘違いしているのは自分かも知れないだろ?
劉備
>同郷だからという理屈でおいそれと学べる相手じゃない
家柄、コネ、有力者の推薦などの条件があるだろうけど
勉強熱心さは別に必要ないと思うよ
先主"甚だ"読書を楽しまず
これを覆せるような自説はあるの?
王平
母方の家だね
>それなりの家柄
王侯が母系に養われるからと言って父系の家を捨てるかな
無理に王侯だったと考える事なくない?
配下も連れず王侯のみが洛陽へ行ったと考えるのはどうかと思うが
ま、どうでもいい
「叩き上げ」を争ってるわけだから
主観の問題だからこれ以上の議論はやっても仕方ないと思う
つぎ行っていい?
第二次北伐
諸葛亮は曹真に手を読まれ、陳倉の防備を固められた。
魏軍は千人余なのに、数万を率いていながら城を落とすことが出来なかった。
これを受け
孔明ショボイな。手を読んで阻んだ曹真カッコえぇ。
演義の天才軍師ぶりに引き替え、史実の諸葛亮はヘボ過ぎる。
などと思われがちだ。
果たしてそうだろうか
では第二次を考えてみよう。
まず、漢中と陳倉を結ぶ故道の説明を少し。
故道の途中には散関がある。
故道は漢中と関中を結ぶ街道の中で最も距離が短い上、
関山道除く4道の内、最も道が平坦である。
それ故、平時は使い易いが、戦時は真っ先に塞がれる。
必争の地だけにかえって最も危険なルートとなる。
曹真は諸葛亮が陳倉に来ると読んだ。
これは実は大したことではない。誰にだって読めたはずなのだから。
蜀軍が陳倉に来るなんて、まず誰も予想しないだろう。曹真でも。
蜀軍は陳倉には絶対来ない。いや、来れない。
何故なら、
曹操が劉備に敗れて漢中を捨てるとき、散関以南の桟道をすべて焼いたのだから。
空でも飛んでこない限り、蜀軍はやって来ないのだ。
がしかし、実際に諸葛亮はやって来て、曹真はそれを読んだ。
どうして来れたのか? またどうして読めたのか?
諸葛亮は桟道の一部を修復している。(仮説ではない)
修復距離次第だが、おそらく数ヶ月は掛かったろう。
諸葛亮が桟道を修復している情報を掴めば
誰でも攻めてくる気かもしれないと思うだろう。
諸葛亮の桟道修復を知れば、来るだろうと思うし
桟道修復を知らねば、来ると予想することはない。
曹真の予測はそういうこと。
陳倉攻めは読まれて当然、読んで当然の話なのだ。
(桟道を焼いた・直したの話は、本の名は失念したが資料に載っている。
他にこの話を知っている人はいるだろう。
ちなみに演義にこの話はない。なので演義由来の情報ではない。)
そして、何と言っても、
諸葛亮は初めから陳倉を落とす気がなかったのだ。
陳倉城は堅城として知られていた。後漢末、涼州で叛乱を起こした王国(人名)が
数万の軍勢で陳倉城を囲んだ。王国軍は強かったが、孤立無援の陳倉城を80余日かけても
落とすことが出来ず撤退した。
陳倉の救援に派遣された董卓は「急いで救援しなければ城が落ちてしまう」と言った。
これは城兵と王国軍の兵力差がそれ程大きかったという事だろう。
董卓の言葉を受けて皇甫嵩は「陳倉城は小さいが守りが堅く、王国軍は強いが陳倉城を落とすことは
出来ないだろう。」と言って救援せずに見守り、敵が疲れて退却するのを待って追撃し大勝を収めた。
普通の城ならばすぐに落とされてしまう程の兵力差でもって攻められていても
あの城は落ちないと予想させる程の堅固さを、陳倉城は備えている。ということ。
そんな城を攻めるのに、諸葛亮はどうして20余日分しか兵糧を持って行かなかったのか?
相手が千人余りの寡兵と知って、落とせると踏んだのか。
しかし仮にそうだとしても、漢中を発って陳倉に着くまでの間に
兵が2〜3千人に増えていたら、たったそれだけで計画は破綻してしまう。
無謀というものだ。
また、仮に落とせたとしても、その後必ずやって来る魏の救援軍と
兵糧もないのにどうやって戦うというのだろうか。
結局、城を捨てて撤退するしかない。
陳倉城に蓄えてある兵糧を使えばいい。そんな考えもありそうだが
陳倉という字面からイメージしてしまう大量の物資は多分なかったのではないか。
雍州軍は対呉戦線へ行っていて手薄…、ではなかったか。
雍州軍は軍需物資を持たずに荊州へ行ったのだろうか?
大量の物資を兵がいくらも居ない前線の小城に残して?
蜀軍が来る兆しが見えているのに?
あり得ない。
陳倉に数万の蜀軍を持久させるだけの兵糧はきっとなかったろう。
諸葛亮がそんな薄い期待を頼みに軍事行動を起こすなどあり得ないはずだ。
攻め落とすのが困難、且つ城を落としても守れない条件で戦を始めるというのは
どう考えても真っ当じゃない。裏がある。
第三次北伐 武都・陰平攻略
これが面白い。
武都取りの意図をめぐって様々な解釈が生まれている。
それが諸葛亮の北伐そのものの意図まで解釈を分けてしまう。
つまり、第三次が北伐考察における最も重要なキーなのだ。
・諸葛亮は本気で漢朝復興を目指していた。
・いや魏打倒ではなく攻勢防御だ。
・いや北伐は益州閥を納得させる為の建前に過ぎない。
・いや防衛の為の領土拡張だ。
おまけに
武都を取ったのは
・第一次・二次の失敗を埋める為に功績が欲しかったからだ。
・威信回復の為だ。
など言われる。
では武都・陰平攻略について考えよう。
まず武都の説明を少し。
武都郡は蜀漢国に接し、蜀の戦力が集中する地から近く、魏の中央から遠い。
故にひとたび蜀が軍を起こせば武都を守るのは不可能。蜀による占領は免れない。
その為曹操は武都の住民を大規模に内地へ移した。武都に残っている民は少なく、
曹叡・諸葛亮時代、人口の少ない武都に経済的価値はあまりない。
陳倉攻めと武都攻めの時期は極めて近い。行軍に費やされる日数を考えると、
二つの戦役は一連のものであったと考えられる。
陳倉攻めは武都・陰平攻略の為の陽動だったのだ。
持久の出来ない縣軍(補給線なしで侵攻する軍)で陳倉を攻めたのは
落とすつもりがなかったからであり、
陳倉近くに引きつけた隴右軍を置き去って速やかに漢中へ引き返し、
武都攻略を有利に運ぶ為だった。
陽動は成功し、そのおかげで侵攻は有利に進み、大いくさをすることなく
武都・陰平を切り取ることが出来た。
諸葛亮は武都が欲しかったのだ。
陳倉城は攻めても時間内に落とすことは出来ないが
万一あっさりと降伏してくれたなら、それはそれでもっと良かった。
兵糧は陳倉のものと攻囲20余日分と帰路分を合わせれば、
本国からの輸送が到着するまでもつかもしれない。
が、そんな敵の降伏に全てを賭けるような僥倖頼みの軍事行動などするわけもない。
狙いはやはり陽動だっただろう。
諸葛亮は武都が欲しかった。
経済的価値のない武都をどうしてそんなに欲しがるのか。
始めの
>>345を読み返してほしい。
>>345の「その地」は“祁山”。
正確には祁山ではなく、その先天水郡の何処か。
武都を抜けると、秦嶺・岷山(びんざん)ふたつの山脈に挟まれて高原が広がっている。
その高原の中心に小高い山がある。その山が祁山。山上には堅城が築かれていた。
防衛側は一方的に敵を俯瞰しながら戦える上、不利になれば堅固な山城に籠ればいい。
関山道ルート上の魏の防衛拠点で、蜀軍はそこを抜かないと先へ進めない。
纏った敵兵力が祁山に拠れば蜀軍の侵攻は阻まれる。
祁山を攻め倦ねている内に敵主力が駆けつけ、
蜀は勝地を占めて迎え撃つどころか
不利な地で大軍と戦う羽目になる。
即ち北伐を成功させるには、速やかに祁山を抜け、
その先の勝地で会戦の準備を整える必要がある。
作戦を成功させる上で最も重要なのは「時間」ということになる。
蜀軍は漢中を発し、祁山の先の勝地を目指す。
一方、魏では「蜀軍、関山道を北上す」の報を受け、
長安駐屯の雍州防衛軍(主力)は蜀軍を撃つべく西へ向かう。
同時に隴右の兵は防衛拠点の祁山を目指す。
蜀軍が武都を突き進んでいる間に隴右の兵が祁山に集結しはじめ、
徐々にそれなりの戦力となってゆく。
蜀軍は祁山まで至ったものの、そこから先へ進むことは出来ない。
そこへ魏の主力である雍州防衛軍が到着し、蜀軍は不利な状況に陥る。
これが魏国の関山道ルート防衛戦略だった。
諸葛亮は第一次の時、進発前にビ(眉β)を攻めると宣伝し、敵の目を斜谷出口に集めた。
そして疑兵を使い雍州防衛軍を箕谷に引き付けた。
こうして祁山を抜いた。
もう同じ手は通用しない。
ならば、どうすれば祁山を抜くことが出来るのか。
武都を取ることだ。
武都を自領にしてしまえばスムーズに進軍できる。
速やかな行軍が出来れば、祁山に至るまでの時間を短縮でき
まだ兵が充分に集まっていない祁山を抜くことが出来る。
しかし、そう簡単ではないのだ。
大軍を挙げれば武都を取ることは難しくない。
がしかし、経済的価値の低い武都を攻め取れば、魏はどう思うだろう?
何の為に取ったのか、当然考える。
そして隴右を狙っていると考え至るに違いない。
関山道を強く警戒し、前線となった祁山、隴右に兵を置くだろう。
そうなればやはり祁山を抜くことは出来ない。
ところが諸葛亮が武都を取っても魏はさほど警戒しなかった。
諸葛亮は大軍を二度も挙げて遠征しておきながら、街亭・陳倉と立て続けに失敗したので
その穴を埋める為に仕方なく武都でも取って面目をギリギリ保った
ぐらいに思ったのかも知れない。
魏にとって武都は捨てている地で、取られてもそれ自体は痛くも何ともない。
それも手伝ってか、魏は武都の持つ意味に着目しなかった。
諸葛亮は陳倉取りを失敗したという失策を演出することで
戦略上重要な武都の概念を魏から盗み取り、
真意に気付かれることなくその地を取ったのだ。
こうして祁山を抜く手立てを創り出した。
陳倉攻めは、武都・陰平攻略戦の為の陽動であり、更にその上の
「魏の防衛戦略を掻いくぐる為の陽動」であったのだ。
蛇足
元も子もないが、陳倉攻防の魏略の話は怪しい。
城はいくら何でも2百人じゃ守れないだろう。
諸葛亮は昼夜を通して攻めた。昼夜それぞれ5時間ずつとしても、20日で100時間。
1千人を2百人になるまで減らすには8百人殺傷すればいい。
ということは、一時間あたり8人殺傷すればいいわけだ。
蜀軍"数万"を仮に2万として、4交代制で5千人。
5千人で1時間掛けてたったの8人も殺せなかったのか?
20余日を20日とし、1日の戦闘時間を低く見積もって10時間とし、
兵数を最低の2万人としても、たったの8人。
最大のサービス設定のそれで、5千人1時間8人。
(実際はもっと蜀兵は多く、時間も多いだろうから、1時間当たりの必要殺傷数は低くなる。)
いくら堅城に籠もっていると言っても、本気攻めして1時間8人も殺傷出来ないものなのかな。
魏略の陳倉城の兵士数は誇張としか思えない。もしくは他のどこかに誇張がある。
或いは全て誇張かも知れない。
>>381 読書を楽しくないが、ちゃんと学問自体は修めてる、字もそっち系から取ってるしな
劉備が学問を修めていないという批判が全くない、どころか名立たる儒学者たちが劉備を重んじてる事をお忘れなく
つまり勉学してるって姿勢を表に出さなかったってこと
王平は叩き上げじゃないってことが判ってもらえてうれしい
元々巴夷の指導者的な地位に近い立場だったわけで
文字が読めない=叩き上げってのは大いなる勘違い
>>384 陳倉に食料備蓄があまり無い、と言う解釈は面白いと思う。だが、それ
は牽強付会が過ぎると思う。
少し時代が下った後、蜀崩壊の少し前にケ艾が「蜀の侵攻先が或る程度
限定されるのは侵攻線の制約もあるが補給線の維持にはもっと苦しんで
いるようだ」と言う意味の事を述べてた覚えがあるんだが。
諸葛亮が二次北伐に陳倉を選択したのは、この場合は「食料庫としての
陳倉」よりは「前線補給拠点としての陳倉」としての価値に重点を置いて
考えたと思った方が良いと思う(陳倉を押さえる事で魏の西方軍の前線
補給線を遮断すると共に、蜀の前線補給拠点を充実させる、と言う狙い
と言う意味で)。
>>393 陳倉城に戦闘正面がそれ程無かったならば、別に驚く事ではない。
日本でも岩屋城に籠もった高橋紹運率いる大友軍が、島津軍の十万
を号する侵攻軍相手に一ヶ月近く篭城を続けて、最後玉砕したような
例もある。
高橋紹運は約700名程度の城兵で島津軍の当初投入した60000人程度
の軍勢と相対してる。
陳倉攻め自体僅か2週間くらいの事だしな
中国の城とか関とかは少数でも1ヶ月、1年くらいはもつように出来てるし
また直前にそうなるように整備してるわけで、1ヶ月、2ヶ月と攻めれば話は変わるだろう
40名弱で4000のソ連軍を撃退したシモ・ヘイヘの所属していた部隊がありましてな
銃火器がそれなりに発達した近現代の戦闘はあんま比較にならんけどね
まあそんでもこの当時も弩は強いし、数がありゃ防御だけならかなり出来るだろう
数百挺の弩を趣味でコレクションしてた漢の王族が、
蛮族の侵入にコレクションを城の人に渡して撃退したって話も残ってるしな
>>398 あれは悪天候と森林、山岳に紛れてのゲリラ戦による補給遮断であって全然状況が違うだろ。