ハンドガン総合スレ34

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295ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U
黒色火薬の時代、軍用リボルバーの多くは口径10mm以上の大口径モデルだった。
しかし、19世紀末にスモークレス・パウダーが開発された事から、ピストルは小口径でも十分な威力を持つようになり、
ヨーロッパ各国は小口径化に向って動き出した。その結果として20世紀になると3
0口径や9mmのバラベラム弾が軍用として採用されるようになっていた。
 イギリス軍は、その流れに乗ることはなく伝統的な大口径を継続採用してきた。
それはイギリス軍が銃口を向ける対象が、植民地の住民である場合が多かったことが少なからず
影響していたといわれている。かつては、日の沈むことのないと言われたように、
大英帝国は世界中に植民地を持っていた。アフリカやアジア、あるいはオーストラリア大陸で
原住民が反乱を起こした場合、強力な一撃で相手を吹っ飛ばすことが求められた。
これは未開の原住民と西洋人の“死の概念”の違いによるものだ。原住民にとって、
剣や槍、弓矢は死をもたらす道具として認識されていたが、銃によって撃たれた傷は、
それら原始的な武器に比べて小さく、そのようなもので死に至るとは考えられなかった。
 そのような意識を持っていると、銃で撃たれても精神的ダメージは小さく、
戦闘能力はほとんど低下することなく維持される場合がある。
その顕著な例がミンダナオ島でのモロ族とアメリカ軍の戦闘であり、中国の北清事変である。
296ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:14:42 ID:???
このことは、2007年4月4日に掲載した“45口径神話の始まり”で詳しく述べた。
しかし、大口径弾は、物理的に大きなダメージを相手に与えることで、
異なる死の概念を持つ敵の戦闘能力を奪うことができた。だからイギリス軍は455口径を継続使用していた。
1915年5月5日,455口径ウェブリー&スコット・トップブレイク・ヒンジドフレーム・リボルバーの集大成として、
量産性を向上させたMark VIがイギリス軍制式リボルバーとして申請された。認可されたのは5月24日である。
297ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:15:42 ID:???
1902年9月
境目の無いマングローブの林が目の前の光景を覆っていた。高さは100フィート程だろう。
そのおかげで照りつける太陽の日差しを遮ってくれている。しかし、地上を斜めに延びた
マングローブの根は不気味で、心地良いものではない。
1902年9月、フィリピン、ミンダナオ島南部…
アメリカ合衆国海軍海兵隊デビット・フランクス三等軍曹(Sergeant)は疲れきっていた。
所属する小隊がゲリラ討伐命令を受け、この地域を彷徨い歩き続けて、
既に4日が経過した。この間、一度もゲリラと遭遇していない。成果ゼロという事実が、さらに疲れを増幅させる。
いや、ゲリラに遭遇しないことで、内心ほっとしているのだ。もちろん、そんなことは口には出せない。
汗で濡れた背中に、さっきからシャツが貼り付いてしまっているのが、とても不快だ。
この島に来て2年が経過した。「海軍陸戦隊など、役立たずの集まりだ」、と、
ずっと陰口を叩かれてきた海兵隊だが、スペイン戦争開戦後は、汚名返上の忙しさとなった。
続いて起こったフィリピンとの戦争は簡単に決着が付いたものの、今度はゲリラが跋扈するミンダナオ島駐留だ。
海外に出てみたい。その一心で8年前、合衆国海軍を志願したが、最近は故郷のユタ州に戻りたいと思うようになった。
この島に住む原住民は恐ろしい。弓矢と剣を振り回すだけの連中と甘く見ていたが、
とんでもない間違いだった。スペイン人が、何百年かけても、結局この島の南部を掌握できなかった理由も判るというものだ。
298ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:16:34 ID:???
小隊長が小休止を命じた。皆疲れきって、地面やその上に横に伸びている根に腰を下ろした。
マングローブ林といっても、内陸側なので、地面は乾燥している。
小隊の最後尾にいたフランクス軍曹は、クラッグ・ヨルゲンセン・ライフルを根に立てかけ、
一番すわり心地の良さそうな根に腰を下ろした。
背後のアポ山を見上げる。故郷の美しいワサッチ山脈とは似ても似つかない活火山だ。思わずため息が漏れる。
少し離れた場所にサガリバナ (Barringtonia recemosa)を見つけた。つぼみが垂れ下がっている。
夜になると、甘い香りをふりまきながら咲き、明け方には落ちてしまうのだろう。
8月までの花なのに、まだ残っているのが意外だ。フランクス軍曹はこの花の香りが好きだった。
生まれ育った故郷には、良く似た香りの全く違う花が毎年咲いていた。
あの花の名前は知らないが、匂いは覚えている。最近、ホームシック気味になったのは、
この花のせいだろう。この島で7月から8月に掛けて、夜になると盛んに咲いて匂いを振りまいていたからだ。

原住民が恐ろしいので、国に逃げ帰りたいとは、自分でも思いたくない。
フランクス軍曹は思わず立ち上がって、その花のつぼみに近づいた。
ライフルを置いたまま隊から少し離れてしまうが、構わないだろう。
4日もゲリラを見つけられずにいるのだ。今、ここで出くわすとは思えない。
フランクス軍曹は、ほのかな花の香りに、故郷への想いを募らせた。
そのとき、ゲリラ兵がひとり、密生したマングローブ林の陰から音も立てずに現われた。
蛮刀を振りかざし、無言で軍曹に襲い掛かってくる。
チャンスがあればアメリカ兵を血祭りにあげようと、ひそかに小隊を追跡していたに違いない。
299ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:17:19 ID:???
フランクス軍曹の郷愁は一瞬で覚めた。コルトM1892をすばやくホルスターから抜き、
迫り来る敵に向けてトリガーを引く。1発、2発、3発…、ダブルアクションで撃ち出された
38口径弾は確実にゲリラの身体を撃ち抜いた。だが倒れない。
突然の銃声に、小隊の仲間は驚いて振り返った。何人かは、あわててクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルを掴むがとても間に合わない。
歯を剥き出し、目を見開いて迫りくる敵に、フランクス軍曹の顔は恐怖に歪んだ。
リボルバーは6発を撃ち尽くしたが、ゲリラを止めることはできない。ハンマーノーズが発射済み
ケースのプライマーを叩く音が無情に響いた。その瞬間、ゲリラの手に握られていた蛮刀が、軍曹の首に振り下ろされた。
弾丸を6発食らっても倒れなかったゲリラ兵は、モロ族と呼ばれるイスラム教徒だ。
アメリカ海軍軍曹の首をはねたモロ族の兵士は、返り血を浴びながらニッと笑い、
次の瞬間、身体を翻して、マングローブの林に逃げ込みかけた。だが突然その手から力が抜け、
蛮刀を落としてしまった。「何かおかしい…」
ゲリラ兵は目の前が真っ暗になり、自分が大地に倒れていくことを止めることができなかった。
300ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:18:09 ID:???
独立運動
フィリピン諸島は大小7000余の島々で構成されている。ここに人類が移り住んだのは
2万5000年前から3万年前のことだ。その後、様々な地域から移住が続いたが、紀元前500年ごろ、
現在のフィリピン人の先祖となるマレー人がこの地に住みついた。
フィリピンにイスラム教が伝わったのは14世紀で、1450年には、フィリピン最初の
イスラム王国であるスルー王国が誕生した。イスラム教はのちにスペイン人が訪れるまで、この地に広くその勢力を伸ばしていた。
スペイン人マゼランが現れたのは1521年3月17日の事だ。マゼラン一行と原住民との間で
戦闘になり、2週間後、マゼランは戦死した。スペインはメキシコより遠征隊を送り、
フィリピンに勢力を拡大する足掛かりを築き始めた。そして16世紀後半、フィリピン征服に着手した。
モロ族とはフィリピンの南部,ミンダナオ島やスールー諸島に居住するイスラム教徒の総称だ。
厳密にはマラナオ、マギンダナオ、タウスグ、サマル、ヤカンなど十数の部族に細分化される。
スペインは1565年4月にセブ、1569年にはパナイを制圧した。1571年5月、マニラを占領、ここを首都と決めた。
1578年、スペインはホロ島を攻撃、イスラム教徒のモロ族征服を開始する。
1596年には初めてミンダナオ島を攻撃するが、モロ族も1599年ビサヤを攻撃し反撃する。
1637年にはコンクエラ総督がミンダナオ島、スルー諸島に遠征してモロ族の支配者
スルタン・クダラットと激戦を展開した。しかしスペインは最後までモロ族の支配するフィリピン南部を征服することは出来なかった。
モロ族は,1578年以来ずっとスペイン人と抗争を継続したのだ。
301ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:18:56 ID:???
それでもフィリピン自体はメキシコ副王領としてスペインの支配下にあった。
1821年、メキシコが独立すると、フィリピンはスペインの直轄支配を受けるようになる。
 1756年にヨーロッパで7年戦争が勃発、1762年イギリスはスペインに宣戦布告した。
イギリス東インド会社の軍が首都マニラを攻撃、占領した。しかしその2年後、
イギリスはフィリピンから撤退した。 再びスペイン統治下となったはフィリピンだが、
植民地の維持はスペインにとって重いものとなり、農産物を始めとした経済活動が
重視されるようになった。世界経済の拡大と共に、大規模農園が登場、スペイン人経営者だけでなく、
フィリピン人の大土地所有者も現れるようになった。
経済人としての地位を得たフィリピン人の中に、民族意識が高まり始める。
 1869年、スエズ運河が開通した。その結果、多くの欧米人がフィリピンにやってくるようになった。
彼らはこの地に様々なヨーロッパの製品を持ち込んだが、それと共に自由主義や
啓蒙思想などがフィリピンに根付くことになった。
 これがフィリピンの社会経済構造を大きく変化させることになる。自由主義思想に
目覚めたフィリピン人の活動は、スペイン政庁の弾圧を受ける事になった。
1872年、フィリピン人兵士と労働者達の暴動がおこり、これをきっかけにして、
スペインの民族差別的宗教政策に対する反対運動をしていた3人の神父マリアノ・ゴメス、
ホセ・ブルゴス、ハシント・サモラが処刑された。
この事件は3人の名前からゴンブルザ(Gom-Bur-Za)事件と呼ばれた。
302ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:20:12 ID:???
政庁がフィリピン人神父や知識人に対する弾圧を強めていく中、身の危険を感じた知識人達は諸外国へ逃れ、
海外からフィリピンの民主化を訴えていった。この段階ではまだ独立という大きな流れにはなっていない。
しかし海外での活動に限界を感じた民主政治活動家がフィリピンに帰国、
「フィリピン連合」を結成するが、すぐに反逆罪で逮捕され流刑となる。
一方、労働階級出身の活動家が秘密結社カティプナンを作り、武力革命による独立に向けて動き出した。
彼らは1896年8月、ついに武装蜂起を決行、革命に向けてスペイン軍との間で内戦が始まった。
1898年、米西(アメリカ−スペイン)戦争が勃発し、アメリカはフィリピンにも軍を送り込んだ。
そして独立運動勢力を支援し、革命政府を樹立した。
戦争に勝利したアメリカは、スペインと和平条約を締結し、フィリピンの領有を宣言した。
スペインによる支配との違いは、アメリカがフィリピンに対し友愛的同化を宣言し、
できる限りの民主化を保証したことにある。しかしフィリピンを植民地としたことになんら変わりは無い。
303ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:21:04 ID:???
アメリカ領有にフィリピン側は激しく抗議し、1899年2月、米比(アメリカ−フィリピン)戦争が勃発する。
3月には首都マロロスが陥落し、フィリピン側はゲリラ戦でアメリカに対抗した。
モロ族(スルー・スルタネイト)はフィリピン民主活動勢力に協力せず,米西戦争には関わらなかった
しかし、米比戦争では、果敢にアメリカに対抗した。彼らが米比戦争に関わったのは、
アメリカがモロ諸族の住むミンダナオの植民地化を目指したからだ。
1902年、ルーズヴェルト大統領は、フィリピン平定を宣言したが、
モロ族によるゲリラ活動はその後も各地で1911年頃まで続いた。
アメリカ軍は、このモロ族との戦闘の渦中、大きな衝撃を受けることになる。
304ショットガン太郎 ◆ug4iNBVf9U :2009/05/17(日) 14:22:06 ID:???
2種類の死
モロ族が特別に強靭な肉体を持っていたというわけではない。
にもかかわらず、彼らが弾丸に対する耐性を持っていたのは2つの理由がある。
彼らは,イスラム教徒であると同時に土着民族だ。戦(いくさ)の前に、一種の薬物を使って昂揚感を得ていた。
トランス状態になれば、麻酔をうっているのと同様、肉体の損傷に対する痛みを感じない。

そしてもうひとつ、彼らの死に対する意識の問題があった。剣で切られたり、弓矢に貫かれれば死ぬ。
これが彼らの認識する死の形だ。しかし弾丸は彼らに死をもたらす決定的な武器とは、
まだ強く認識していなかった。もちろん戦争やゲリラ戦をしているのだから、銃の存在は良く知っている。
しかし彼らにとって死をもたらす圧倒的な武器は、まず第一に剣や槍、弓矢だった。
銃など副次的な武器で、それほど恐れていなかったらしい。

人間の死には大きく分けて2種類ある。精神的な死と肉体的な死だ。
通常の人間は銃で撃たれたら死を意識する。「撃たれた!」このことは大変なストレスを人間に及ぼす。
「撃たれた」=「死ぬ」と思い込んでいる人間は、撃たれたショックで本当に死んでしまう。
たとえそれが致命傷でなくてもだ。しかし死ぬ事と撃たれたことが直結していない場合、簡単には死なない。
モロ族の場合、弾が当たっても、それで死に至るとあまり考えず、そのまま直進してきたのだ。