【蒙古襲来】元寇議論考察スレ【モンゴル】

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1名無し三等兵
前スレが大分前に落ちたみたいなので立てました。
近代以前に対外戦争の経験が殆ど無い日本にとっては
間違いなく中世において最大の国難であった2度にわたる元寇。
幸いにも2度とも撃退することに成功し、属国化を免れましたが
その要因としては様々なものが挙げられます。
ここは元寇について主に元軍、鎌倉幕府軍双方の
装備、戦術、兵站などについて語るスレです。


関連スレ
【モンゴル】元寇4【高麗】
http://academy6.2ch.net/test/read.html/history/1220964839/l100
モンゴル帝国に支配されなかった地域
http://academy6.2ch.net/test/read.html/whis/1232680543/l100

2名無し三等兵:2009/03/21(土) 07:03:13 ID:???
神風
3名無し三等兵:2009/03/21(土) 07:26:44 ID:???
やあやあ我こそは(略
4名無し三等兵:2009/03/21(土) 08:28:57 ID:???
四百余州をこぞる 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ恐れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す
5名無し三等兵:2009/03/21(土) 14:38:51 ID:Fa36wFyh
>>2-3
どっちも今じゃ否定されてるからw

とはいえ、前スレで一回目は威力偵察、二回目は武士の完勝でほぼ結論が出て
話題が無くなってdat落ちした記憶あるんだが
今更スレ立てた>>1の真意がわからない
6名無し三等兵:2009/03/23(月) 10:29:30 ID:5iNwZdwi
日本史板のスレ荒れすぎワロタw
7名無し三等兵:2009/03/23(月) 10:37:01 ID:???
一回目の元軍は三別抄との戦いを経験していた経験豊富な部隊だったってのは本当?
8名無し三等兵:2009/03/23(月) 13:17:39 ID:???
本当。経験豊富とまでは行かなくても実際に
三別抄の乱を鎮圧した武将(確か茶なんとかの方だったかな?)と
その兵士を主力として向かわせたのは確か。

で、日本史板のスレの件だが
どうやら今まで元側が負けたと書いてあるとされてた
元・高麗側の資料が実は大敗したのは鎌倉側だったという
解釈が出て色々と物議を醸してるようだね。
ただそうなると1つ疑問なのは、武士達が大敗したというのならなぜ
高麗の武将「船焼いて背水の陣しけば勝てる」
元の武将「お前アホか。このままじゃこっちが全滅するわ」なんていうやり取りがあるのか。
戦闘で圧勝しても何もせずに引き上げなんて例は
歴史上数多くあるものの、あまりにも元側の状況が切羽詰まって見える。
でも逆に武士が完勝したのならそもそも博多は焼かれてないよなあ。
色々と謎が多いんだよな文永は。
あと八幡記以外の日本側の史料だとあっさり武士が勝ったと書かれてるが
八幡記だと武士が圧倒的に劣勢だったように書かれてる。
9名無し三等兵:2009/03/23(月) 14:41:12 ID:???
双方とも大損害を受けた、でいいんじゃね?
10名無し三等兵:2009/03/23(月) 21:35:02 ID:???
日本史板だけで十分
11名無し三等兵:2009/03/23(月) 23:01:03 ID:???
大阪の陣のスレもあるんだし別にいんじゃね?
12名無し三等兵:2009/03/24(火) 00:44:34 ID:???
なんか向こうのスレは史料の文面の解釈で揉めてるみたいだしね
13名無し三等兵:2009/03/24(火) 02:58:12 ID:Dd7a63ov
南北朝期に大きく戦術が変わったのは
蒙古襲来で敗北した武士が元軍の戦術や武器取り入れたからってマジ?
槍が使われだしたのは南北朝期からなんだが初めて槍を使った武将が
九州北部の武将なんだよな
14名無し三等兵:2009/03/24(火) 07:39:33 ID:???
和弓とモンゴル弓って馬上ではどっちが取り回しが良かったの?
15名無し三等兵:2009/03/24(火) 09:30:43 ID:???
>>13
菊池槍の事かな?あれは長刀の代用として棒の穂先に小刀くっつけたら
意外と性能が良かったからでモンゴルは関係ないと思うよ。
第一南北朝時代まで半世紀以上も経ってる。
もし敗戦して戦術がガラリと変わったというのなら
時宗の死後、すぐに起こった霜月騒動や平頼綱の乱で既にその兆候が表れてるはず。
特に前者はモンゴルとの戦いで現場指揮官だった少弐一族も大きく関わってるし。
そもそも日本で大幅に兵制や戦い方が変わるのって応仁の乱の頃に
足軽が戦場の主役になった辺りからだからね。西洋で傭兵が騎士に取って代わった頃とほぼ同時期。
ただごく一部では元軍の火薬兵器を取り入れてたんじゃないかという説もある。
鉄砲伝来以前にごく僅かながら、火薬を使ったんじゃないかと思わせるような記録があるんだ。

>>14
やはり馬上で扱うなら短弓である分モンゴル弓に分がある。
しかし和弓も従来言われていたよりは性能がよく
パルティアンショットのような真似も出来たらしい。
本当かどうかは知らんが。
だがそもそも平安鎌倉期に騎射がメインになったのは
モンゴルと似たような戦い方してた蝦夷の戦術を取り入れたからという説も一部ある。
確か武士の成長と院政とかいう本にそんな説が載ってた。
少なくとも従来言われていたような「モンゴル弓の方が遥かに射程が上で武士達は完全に圧倒された」ってのは嘘。
何故ならその説では和弓は水平に射出した際の
モンゴル弓は斜め45°に射出した際の記録基準にしてるから
16名無し三等兵:2009/03/24(火) 10:28:24 ID:???
当時の鎌倉武士が対外勢力(侵攻軍に占めるモンゴル人本隊が極めて少数なため)が勝てる要素は全くないし
元が日本に対し本気の侵攻であったか疑わしい

@当時の日本の騎馬武者は弓射による戦闘が殆どであり
直接攻撃いわゆる打物は騎乗で行われることはまず稀でたいていの騎乗武者による打物は下馬してから行われた
そもそも騎乗での打物は悪しき行為とされていた

Aそもそも打物騎兵(突撃騎兵)に絶対的に必要な馬上槍が当時の日本に存在しない
日本に突如として馬上槍や打物専業の騎兵が現れるのは南北朝時代であることから
日本の武士団が元冦で苦杯をなめたことが素因であることは言うまでもないだろう

B当時の日本が使用した軍馬が世界的に見ても非常に小型であるのに対し騎乗する戦闘員が非常に重量が重い装備を施している
しかも蹄鉄はなく、草履に類似した履物を馬に装着していることなどから
急激な方向転換や急速な突撃などハイスピードな動きはまず不可能である

C日本の馬は去勢されておらず、集団的使用が極めて限定される上に
発情期の牡馬はいなないたりして敵に察知されてしまう危険性が多い(初期のローマの文献などに記述あり)

D既に対馬や壱岐などで日本側が惨敗してるのは明らかである
一部発言者の中には日本側の兵力=騎数として少ない兵力であったからと論じているが
当時は一騎に付き数名の徒(かち)の兵が随伴しているから実兵力は騎数×5〜6である

E日本へ侵攻するには渡海せねばならず、退却も船舶を使用せねばならない
にも関わらず日本が大勝したという割には敵の高級指揮官の捕虜が皆無である
(モンゴル本隊を含め陸海両路で侵攻したベトナムで大敗しドゴンなど著名な将官をはじめ多数の高級指揮官がベトナム側の捕虜になった)

Fウリャンハダイ、トゴンなどモンゴル軍中核の指揮官が指揮したベトナム侵攻軍に対し
日本侵攻軍の指揮官は著名な将官でない上に副将は高麗人であること
また弘安の役に参戦した南宋兵が元が処理に困った老兵でかつ武装より農具を多数所持していることから
フビライは日本側を脅す単なる武威を示すデモンストレーションであわよくば南宋の老兵に屯田させる一種の不良債権処理であった可能性が強い
17名無し三等兵:2009/03/24(火) 12:29:20 ID:???
>>16
釣り針が大きすぎる
18名無し三等兵:2009/03/24(火) 15:40:53 ID:???
じゃあ反論してみろよ。実に的確に根拠を述べたが?
19名無し三等兵:2009/03/24(火) 16:37:05 ID:???
確かに文永の対馬では日本方の大将である宗助国以下80騎(>>16の計算法によると総兵力で400〜480)が殲滅されている
20名無し三等兵:2009/03/24(火) 17:30:04 ID:???
ま、いろいろとスケールが違いすぎるわな
21名無し三等兵:2009/03/24(火) 18:34:46 ID:Dd7a63ov
>>18
4万のうち対馬攻めを行った兵士何人なん?
まさか元側も400ぐらいしか出てないなんて事は無いよね。
多勢に無勢とはまさにこの事。これで負けたからって
惨敗とか武士弱すぎとか言うのは流石に可哀想だと思うよ。

尤も室町中期に李氏朝鮮の正規軍1万が攻めてきたときは
2〜300程度の対馬の武士達がフルボッコにして撃退してるが。
22名無し三等兵:2009/03/24(火) 19:37:28 ID:???
>>21
逆に聞こう
君なら400程度の兵を持っていたら敵兵が何名以内なら真正面から強襲を仕掛ける?

通常敵が3倍以上あり、こちら側に奇策がないなら日本の軍事的な歴史的経緯から見て既存城祉ないしは急造陣地を構築して入り守りに徹するはず
数倍以上の敵に対して何の策も構ぜずに強襲かけるほど日本人は愚鈍だと思うか?
それに対馬の狭い港湾で一カ所に集中して1000以上の兵が上陸展開出来る所があると思うか?
海上において混乱を招くような密集せずに船舶を停泊できる港湾があるのか?


考え得るシナリオと予想される状況は
元軍の対対馬攻撃隊は数隊に別れ数ヶ所から上陸
宗助国は最も攻撃しやすい敵の一上陸ヶ所へ移動、攻撃するも撃破された

じゃないかな
23名無し三等兵:2009/03/24(火) 20:33:07 ID:???
応永の頃に朝鮮が攻めてきた時は尾崎浦から上陸したみたいだね。
24名無し三等兵:2009/03/25(水) 15:12:43 ID:???
日本史板を見てきたぞ
漢文の読み方で面白いことになってるじゃないか
25名無し三等兵:2009/03/25(水) 19:38:36 ID:pINk74sB
で、>>16への反論は?
26名無し三等兵:2009/03/26(木) 18:03:40 ID:???
>>25
今度は南北朝期に大幅に戦術や武器が変わったから
武士達は負けたという主張が出てきたようです。
というか>>16氏と同一人物かな?
あっちこっちで似たような主張見かけるし。
27名無し三等兵:2009/03/26(木) 18:06:15 ID:ROJwuiiE
あ、今のは>>24
28名無し三等兵:2009/03/26(木) 20:44:49 ID:???
てか春休み入ってから荒れすぎだろあのスレw
29名無し三等兵:2009/03/26(木) 21:27:15 ID:???
「戰敗之」の話とか面白いじゃない
30名無し三等兵:2009/03/26(木) 22:15:05 ID:???
あの長文史料を提示してくれた人は
なかなか興味深い史料を見せてくれて良かったと思うが
いちいち煽る奴がわくのがなあ。
31名無し三等兵:2009/03/26(木) 22:35:02 ID:???
なにしろビザンチン帝国だとかメイドさんとかのスレが荒れるぐらいだ
日本史となるとw
32名無し三等兵:2009/03/27(金) 00:13:13 ID:???
春休みだからしょうがない。
どの板もどこで仕入れてきたかわからないような
トンデモ説展開して得意になる厨房が増える季節さ。
この板だってそういうスレあるだろう?
33名無し三等兵:2009/03/27(金) 01:59:55 ID:yHAAF1yR
こんな所にコソコソ隠れてないで日本史板の本スレ行けば?

で、>>16への反論は無いのですか。
34名無し三等兵:2009/03/27(金) 02:01:41 ID:???
高麗史と元史本紀をよく読んだら
文永の時の高麗兵は
梢工・水手一万五千名、正軍一万名
とあり

弘安の時も高麗は
兵一万の徴発と梢工・水手の徴発を受けた
高麗は兵に元罪人などを充てたとある

梢工とは船頭のことで
水手は文字通り漕ぎ手
つまり参戦高麗軍の六割は戦闘に参加出来ない船員でしかも兵士の方も多くは元罪人とかじゃないかw

まいったね、こりゃw
こんなのに大苦戦してどうすんのよw
35名無し三等兵:2009/03/27(金) 11:31:36 ID:yHAAF1yR
どんどん鎌倉武士の信じがたい弱さが明らかになってますねw
36名無し三等兵:2009/03/27(金) 13:00:44 ID:???
そもそも普通に考えて内輪での儀礼的な戦しか経験した事の無い鎌倉武士が世界中の敵と戦ったモンゴル軍に勝てる訳が無い。
37名無し三等兵:2009/03/27(金) 15:56:15 ID:VvySdVjz
954 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:22:05
>>952
というか応永の時は一万以上の正規軍送りこんどいて
千人足らずの対馬武士にボッコボコにされてるし
秀吉の時は、明が助けにくるまでは1ヶ月で国土全土を蹂躙されてるし
所詮単独ではこんなもん。人それを虎の威を借る狐という。
38名無し三等兵:2009/03/28(土) 22:03:19 ID:???
そもそもモンゴル弓と和弓では連射速度が圧倒的に違う。
サイズ的に考えてもどっちが扱いやすいかは明らか。
39名無し三等兵:2009/03/28(土) 23:03:02 ID:fL0it1rp
と言うか日本って本当に「やあやあ我こそは」とかしたのかね?義経の戦記を見ると明らかにしてないぞ
40名無し三等兵:2009/03/29(日) 00:40:50 ID:???
>>39
将同士の一騎打ちは中世日本に限らず世界中で行われていたが、全ての戦いで行われていたワケじゃない。

互いの軍勢の継戦能力に不安があったり、兵力温存を優先すべき時などに限られていた。
41名無し三等兵:2009/03/29(日) 02:09:51 ID:C5r0okpd
>>38
あれ?なんか最近弓道の専門家の教授だか誰かが
両者を検討してみて、性能面では殆ど差は無かったって結論出してなかった?

>>40
海外だと14世紀のスコットランド独立戦争時の
スコットランド王ロバートブルースとイングランドの指揮官が
一騎打ちした例が有名だね。特にヨーロッパだと他にも結構あったみたいだが。

あとスレチだがウィリアムウォレスはメディア(というかブレイブハート)で
かなり脚色された存在みたいだね。過大評価されてる英雄という意味じゃ
日本でいうと真田幸村みたいな感じだね
42名無し三等兵:2009/03/29(日) 07:37:27 ID:???
>>36
結果、撃退したんだから、まぁ勝ったろ
43名無し三等兵:2009/03/29(日) 08:09:23 ID:???
三十三間堂の通し矢では一日に一万本近く撃ってたから、そこから逆算すれば和弓は六秒に一回発射できる。
これはロングボウと比べて殆ど差が無い。馬上では多少遅くなるだろうが、そこまでモンゴル弓と比べて差があるのか?
44名無し三等兵:2009/03/29(日) 13:20:19 ID:C5r0okpd
流石に扱いやすさの差はあるんじゃない?
ロングボウもかなり訓練しないと使いこなせない代物だし。

でも武士が騎射メインなのって元々はモンゴルと似たような
戦い方してた蝦夷に大和朝廷軍が苦戦したのがキッカケなんだよね
45名無し三等兵:2009/03/29(日) 15:11:57 ID:???
そういや刀伊の入冦や応永の外冦はあんまし話題にならないよね
46名無し三等兵:2009/03/29(日) 16:32:41 ID:sgorF3A0
最初の戦闘は負けたらしいけど。その後の狭隘な地での戦闘では消耗戦になり日本軍が予備の投入をつづけ
モンゴル軍が消耗していったんじゃね。モンゴル軍得意の機動戦を展開するほどの広さも持たないし。
というかあれほとんどシナ人や朝鮮人でしょ。百戦錬磨のモンゴル兵はヨーロッパや中央アジア、中東に
行ってたのでは?
47名無し三等兵:2009/03/30(月) 09:22:42 ID:???
攻めてきたのがモンゴル帝国じゃなくて元だったから、もともとモンゴル騎兵自体そんなに動員出来ないのでは?
帝国自体キプチャクとかイルハンとかに分離してるわけで
48名無し三等兵:2009/03/31(火) 12:05:00 ID:???
【文永の役】
元は日本への使節だった趙良弼の帰還と共に彼から日本の情報を仕入れ日本制圧(正確には九州の大宰府という街の制圧)
には3万の兵があれば足りると読みます。
最終的に蒙古軍2万5千、高麗軍8千が日本の博多湾へと殺到しました。
百道原というところから進軍した高麗軍は小規模な戦闘で勝利しますがその先の赤坂というところで菊池武房という武士の率いる武士団の手痛い反撃にあい撤退します。
また博多へ進軍した蒙古軍は日本軍にかなり優勢に戦いましたが、劉復享という総大将が少弐景資率いる武士団に狙撃され重傷を負い、軍がみだれてしまい撤退します。
おりしも夕刻が迫ってしまい。元軍は夜襲を恐れ船へと撤退してしまいました。
翌日からも戦闘を続けるかを合議した結果、日本軍の援軍はこれからもっと増えるだろうこと、元軍は消耗が激しいことを理由に撤退を決めます。
そして武士が水城という日本の拠点にいる夜の間に博多の市内に火を放ち、女子供を200人誘拐しそれを手土産に日本を後にします。夜逃げですね。
ところがその帰路にて日本海の荒波に揉まれ、大損害を受けてしまいます。
結局元の目的である大宰府占領どころか手前の水城すら攻略できず撤退するという元軍にとっては悲惨な結果になってしまいました。
49名無し三等兵:2009/03/31(火) 12:57:37 ID:???
【弘安の役】
前回の戦いから6年後のことになります。
今回の戦いでは日本側も準備万端で迎え撃ちました。
幕府は倭寇と呼ばれる松浦党を中心とした武士団による海賊たちや南宋の亡命者、僧侶、商人達などから情報を集め
元軍がどのくらいの規模の軍隊を何月ごろに送ってくるのかも把握していました。
今回の元軍はまず先鋒隊である東路軍(高麗兵を中心とした合計四万の軍)と後発の江南軍十万で構成されていました。
日本軍は防塁といって要は石垣のようなものを博多湾全域に張り巡らし、元軍が無傷で上陸することの出来る場所をなくしてしまっていました。
どこに上陸しようとしても防塁の上に待ち構える合計四万の武士軍団の矢の雨の中上陸しなければならないようになっていました。
仕方が無い元軍は志賀島という陸繋島に上陸しますが、志賀島はほとんど切り立った崖と起伏と森しか無い上、元軍が上陸した反対側には海ノ中道という地続きの部分がありここから武士が攻め込み上陸しようとする元軍を悩ませます。
そして夜になっても武士の攻撃はやまず今度は海から小船で元の船に乗り込み白兵戦で散々に元兵を殺します。
結局耐え切れなくなった元軍は二日間で3千人の被害を出し上陸を諦め海上へ撤退します。
元軍には少し遅れて援軍が到着する予定でした。
ところが予定の日になっても援軍が到着しません。元軍内部でもここで撤退論が出ますが結局追いすがる日本軍から逃げながら援軍を待つことになります。
多少の小競り合いもあるものの約一ヶ月近く海上での追いかけっこの後、ようやく江南軍と合流しますが
残念ながらこのとき元軍にはほとんど士気らしいものは残っていませんでした。
やがて運命の日元軍を台風(後の神風)が襲います。
台風が去った後総崩れになった元軍指揮官達は動けなくなった自群の船団を見捨て動ける舟だけで逃走します。
日本軍は逃走した船を追わず、平戸・鷹島を中心に現場に残された残党狩りを行い。5日後、完全に掃討しました。
なお今回の説明は高麗史という高麗の歴史書の内容をメインに述べられています。
50名無し三等兵:2009/03/31(火) 19:24:13 ID:sy+ZtdEl
>>46
弘安は知らんが文永はモンゴル人が主力
51名無し三等兵:2009/03/31(火) 19:27:00 ID:???
モンゴル人自体数が少ないから他の征服地でも地元から徴収した兵が主力だったんじゃないの?
52名無し三等兵:2009/03/31(火) 19:29:21 ID:???
モンゴル人、高麗人、中国人が日本に攻め込んだ・・・偽史
白人が日本に攻め込んだ・・・本当の歴史

本当の歴史では、モンゴル系、高麗系、中国系日本人と白人の
戦争があった。
53名無し三等兵:2009/03/31(火) 19:32:05 ID:???
>>50
じゃあ兵員の割合とか教えてくれ
54名無し三等兵:2009/03/31(火) 19:45:54 ID:???
>>34
そんなので日本を攻めようとした元軍が弱いって言うかアホって話じゃないのか?
なんでそれで日本の武士が弱いって話になるのやら
>>47
モンゴル人自体の人口はあれだけの広大な帝国に対してあまりいなかった気がする
それだけ少数派であんな大きな領土を征服したんだから凄いが
55名無し三等兵:2009/03/31(火) 21:15:46 ID:XQ2LnRi4
夜襲を恐れ船に後退と言う記述がまずおかしいと思う。橋頭保を築いた優勢を保つ軍隊が
橋頭保を捨てて逃げるか?軍板住人の常識として軍事的にそれってあるのかな?
56名無し三等兵:2009/03/31(火) 22:27:32 ID:???
>>53
元史だか高麗史か忘れたが
実戦力がモンゴル兵2万5千、高麗兵8千で
残り七千が高麗人の船頭とかそんなんだったはず。
57名無し三等兵:2009/03/31(火) 22:29:51 ID:???
>>55
そこで登場するのが文永はただの脅し(笑)説です。
モンゴルは文永の時と同じ兵力でロシア蹂躙してるんだがなあw
58名無し三等兵:2009/03/31(火) 23:16:25 ID:???
>>56
どっかの資料に元軍は15000という記述もある
その中のモンゴル人はネット見た限り80人とか百何十人とか幾つかあるな
59名無し三等兵:2009/03/31(火) 23:17:11 ID:???
>>50
いや、違う。
文永の役の時に日本へ派遣された軍の中核は『元史』によると遼寧方面から派遣された部隊
1万5000で、中身は華北から遼寧方面に展開していた女直人や屯田軍からなる集団の一部。

『高麗史』では高麗の北方から日本遠征のために送り込まれた派遣軍を「蒙漢軍二萬五千」と
呼ばれているけど、この「蒙漢軍」というのが実は曲者。

チンギス・カンが金朝から華北の大半と首都の中都を奪った前後に、ジャライル部族の宗主筋である
ムカリ国王家などが主導して、黄河下流域から遼寧方面までの領域で、女直や契丹、その他漢人とテュルク・
モンゴル系の住民とからなる混成軍を組織し、これを屯田軍として開拓のためこれらの地域に大量に
投下していたらしい。これを『元史』では「蒙古・漢軍」と呼んでいるそうだが、地域的にも呼称的にも
この『高麗史』の「蒙漢軍」というのは多分、『元史』で言うところの「蒙古・漢軍」のそれだと思わせる
んだが、これらの地域の投下軍の研究はまだそれほどにはされていない。

『高麗史』で文永の役の時に高麗南部の各地を中心に設置された兵站部門である奥魯(アウルク)の
担当分に軍馬の糧抹も含まれていたらしい記述があるし、『蒙古襲来絵詞』にも騎馬兵が描かれているうえ、
『八幡愚童訓』にも騎馬兵の記述があるので、文永の役の時に日本への派遣軍に「騎馬兵」そのものがいた
ことは間違いない。

ただ、『蒙古襲来絵詞』にしろ『八幡愚童訓』にしろ、どちらかというと歩兵の活動ばかりが目立つことと、
上の「蒙漢軍」というものの事情から考えれば、多分、13世紀後半当時に中央アジアやイラン、キプチャク草原で
活躍していたテュルク・モンゴル系の騎馬部隊のようなものは、文永の役の派遣軍に目立って投入された訳ではないと
考えた方が自然なんじゃなかろうか。
60名無し三等兵:2009/04/02(木) 05:32:44 ID:rdOV4P8X
つまりやっぱり日本方面担当した元軍はチョンばかりで他のモンゴル軍より弱かったと。
ヨーロッパ攻めたバトゥ率いる本家本元のモンゴル軍とは
比べものにならないほど士気も練兵度も低かったんだろうなあ。
しかも将軍もどこの馬の骨かわからない無能だし。
そんなのにボコられる鎌倉武士はモンゴルに蹂躙された
ポーランド軍やチュートン騎士団よりずっと弱かったんじゃなかろうか?
61名無し三等兵:2009/04/02(木) 07:17:28 ID:58iehwT5
こないだテレビで見たんだが、実は元は襲来してないって
教科書も書き換えるみたい
62名無し三等兵:2009/04/02(木) 08:53:12 ID:???
>>60
蹂躙して全滅するって不思議な軍隊だな。
63名無し三等兵:2009/04/02(木) 09:22:25 ID:???
な〜んだ、結局は騎兵が主力のユーラシア・中東を蹂躙した本物のモンゴル軍とは全然違うじゃん。
そんなんで「鎌倉武士は世界最強」とかほざいてるんだからアホだな、酷使様は。
64名無し三等兵:2009/04/02(木) 10:59:49 ID:T3sEvhx4
地の利
65名無し三等兵:2009/04/02(木) 11:05:47 ID:???
>>63
>鎌倉武士は世界最強

こんなこというやつは朝日新聞工作員を疑った方がいいレベルだろ
上陸作戦が難しいのは当然。
66名無し三等兵:2009/04/02(木) 11:34:48 ID:???
>上陸作戦は難しい

全く同意

釜山に上陸した日本軍に対し、朝鮮軍はあっという間に敗北。

釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申立戦死)などで日本軍は勝利を重ねた。
日本軍は第1軍(小西行長、他)、第2軍(加藤清正、他)、第3軍(黒田長政、他)を先鋒に三路に分かれて急進し、
翌5月には首都漢城(現在のソウル)を占領。
朝鮮国王の宣祖は平壌へ遷都して避難、
さらに日本の進撃が迫ると遼東との国境である北端の平安道義州へと逃亡し、
冊封に基づいて明に救援を要請するが、
その間にさらに北上した日本の第1軍と第2軍は平壌を占領して進撃を停止した。

あまりに容易に李氏朝鮮の王都である漢城が陥落したため、
日本の諸将は5月に漢城にて軍議を行い、
各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた
67名無し三等兵:2009/04/02(木) 11:39:07 ID:???

平安道 第1軍小西行長他、 
咸鏡道 第2軍加藤清正他、 
黄海道 第3軍黒田長政他、 
江原道 第4軍毛利吉成他、 
忠清道 第5軍福島正則他、 
全羅道 第6軍小早川隆景他、 
慶尚道 第7軍毛利輝元他、 
京畿道 第8軍宇喜多秀家他、

日本軍は北西部の平安道と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、
加藤清正の一隊は国境を越えて明領オランカイへ攻め入った。

そんな難しい上陸作戦で完全に相手のホームでありながら電撃的に朝鮮全土を蹂躙する日本すごすぎ
68名無し三等兵:2009/04/02(木) 11:52:58 ID:???
>>66
>>67
それが元寇と何の関係が?
69名無し三等兵:2009/04/02(木) 12:08:23 ID:???

>>65

そうだね上陸作戦は難しいから橋頭保も築けずに敗北しても
水城にも行けずに敗走しても仕方がないよね

上陸作戦は難しいから博多湾で迎撃されてしぶしぶ志賀島に上陸するもあっけなく追い払われても仕方がないし
五月下旬から来てたのに台風シーズンまで何か月も海上を逃げ回っても仕方がないね


70名無し三等兵:2009/04/02(木) 15:10:28 ID:???
元寇ネタになると何故か朝鮮人が必死。
71名無し三等兵:2009/04/02(木) 19:25:51 ID:9nONvwms
世界最強はともかく、国防の必要十分は達成してる訳で。
元の目的が占領であろうと恫喝であろうと。

当時、それを達成できた国のなんと少ない事か。
欧州大陸でヒトラーを軍事力で退けた国は、十分強国を名乗れるよね?自国の戦死者の方が多くても。
72名無し三等兵:2009/04/02(木) 21:21:43 ID:???
あっ朝鮮も戦国の日本を追い返してるじゃないか
73名無し三等兵:2009/04/03(金) 01:04:49 ID:???
>>72
明だろ
朝鮮はやられ損なだけ

「朝鮮王朝実録」
 「日本兵との接近戦を禁じた」
 「日本兵捕虜に熱心に剣術を習った」

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった

74名無し三等兵:2009/04/03(金) 05:40:01 ID:2A3Y9IX0
日本サムライ兵はジャワでもオランダの傭兵としてスペインだかポルトガル兵をノシまくってる
75名無し三等兵:2009/04/03(金) 21:36:44 ID:???
ちょっと転載しとく

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/01(水) 16:59:55
最近またスレが活性化してきた所で質問。なんで
日本攻めた元軍にはモンゴル人殆どいなかった。武将は割とマイナー
=他の地域侵攻した軍よりずっと弱かった。つまり元は本気じゃないって話になるの?
渡海した上での上陸作戦なんだから仮にヨーロッパやアラブ戦線みたいに
モンゴル、テュルク系の兵中心に編成しても
決して上手くいくとは限らないというのは素人考えかな?
むしろ史実みたいに三別抄の鎮圧など水戦や上陸作戦の実績がある
部隊と将軍中心に編成した方がまだ上手くいくと思うんだが。
確か元軍の武将は割とそういう方面では実績あったはず。
そういう意味じゃ、元軍の編成と司令官の人選は至極妥当なものだったと思うがどうだろう?
ベストとしては元に投降した南宋水軍の責任者を従軍させる事だろうけどね。

よくバトゥやスブタイみたいな名将じゃなかったから
というがヨーロッパやイスラムの戦いで功績があったからといって
環境が全然違う日本やベトナムで上手くいくとは限らないだろう。
ベトナム戦線では正にそれが実際に起こってる。
ベトナム戦線担当してた武将は、モンゴルの王族達の副将として従軍し数多くの功績があるけど
それまでの戦いとは全然勝手が違うベトナムの環境では大苦戦して失敗してる。
実際の戦争はテレビゲームみたいな
「戦闘90の武将が最強の蒙古騎兵率いればどんな都市だって落とせるよ」
っていうのとはワケが違うんだから。
76名無し三等兵:2009/04/03(金) 21:37:47 ID:???
614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/02(木) 04:46:35
>>613
「本気じゃない」とかいう言い方は、少々具体性に乏しい表現なので、
自分としては文永・弘安の役の日本への派遣軍の性格を考えるんだったら、文永の役や弘安の役の
派遣軍がそもそもモンゴル帝国や元朝の軍としてどういう位置付けにある/あった軍だったのかを
まず検討した上で考えた方が適切じゃないかと思う。
(どうも関連スレではそこら辺の事情を度外視して『元史』や『高麗史』に出て来る三万とか四万
 とかいう数だけを材料に色々主張を戦わせているきらいがあるが・・)

> 元軍の編成と司令官の人選は至極妥当なものだったと思うがどうだろう?
うん、モンゴル帝国は帝国領外に軍を派遣する場合、派遣先に近い地域に駐留する軍を中核にして
派遣軍として編成し、この軍にそれらの外部地域への軍事一般を任せる場合が多いので、珍島や
耽羅島への派遣した部隊を、日本への遠征軍にも参加させたことが『高麗史』にも出て来るんだけど、
この措置はモンゴル帝国の軍政からみても至極妥当で通例に沿ったものだったと思う。

(ただ、文永の役のときに派遣軍の司令官である征東都元帥は忽敦という人物で、耽羅島などで
 三別抄討伐を指揮した忻都とは別人だったりする。本当は忻都が日本への遠征にも派遣される
 はずだったんだけど、高麗軍の司令官である金方慶をクビライ政権側から高麗方面に派遣された
 軍政官だった洪茶丘が誣告する事件が日本遠征の直前くらいにあり、これに忻都も加担して
 高麗国王の忠烈王と対立し、忻都は征東都元帥の地位を一時罷免されていたらしい)
77名無し三等兵:2009/04/03(金) 21:38:35 ID:???
> モンゴル、テュルク系の兵中心に編成しても決して上手くいくとは限らないというのは素人考えかな?
中央アジアや中東、欧州への派遣軍のようなテュルク・モンゴル系の騎馬兵を西方遠征と同じ感覚で
そっくりそのまま日本へ渡海させようとなると、騎馬兵自身に加えその兵と同数以上の軍馬+その糧抹を
あわせて艦船に積載しなければならなくなるので、輸送の段階でコストが掛り過ぎ、凄まじく割に合わない
代物になってしまう。それだったらもとから歩兵を中心にした部隊を派遣した方が良い訳で、女直などの
屯田軍が文永の役での派遣軍の中核だったらしいのは、これも至極当然のことだったのかも知れない。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/02(木) 05:24:25
>>614の続き。
>>613
>>606は『高麗史』の「表」の高麗国王・元宗十五年の項の記述なんだけど、表の記述自体、
正直「色々」と端折り過ぎているきらいがあって、記述内容がいい加減なところがある。
日本史板だったか世界史板のスレだったか忘れたけど、そこら辺のいい加減さが先日
問題になっていた。

例えば、文永の役のあった年に父親の元宗の死去に伴い高麗国王に即位する忠烈王は、クビライの
皇女のひとりクトゥルク=ケルミシュ(忽都魯掲里迷失)の降嫁を受けているんだけど、この表では
「(元宗十五年)五月 世子尚元帝女安平公主」
(元宗十五年(1274年)五月、世子[後の忠烈王]、元帝の女・安平公主を尚(こいねが)う。)
と書かれている。「安平公主」というのは件のクトゥルク=ケルミシュのことなんだけど、
実はクトゥルク=ケルミシュはこの頃まだ「安平公主」とは呼ばれていない。

この時はまだ「齊國大長公主」と呼ばれていて、この翌年の1275年に高麗で「元成公主」、
1294年に元朝から「安平公主」の冊封を受けている。要するに「安平公主」と呼ばれるのは
降嫁の年から二十年後。
78名無し三等兵:2009/04/03(金) 21:39:21 ID:???
『元史』諸公主表や『高麗史』の列伝でもクトゥルク=ケルミシュは「齊國大長公主」の方で
まず項目が立てられているんだが、>>606のあげた表の部分ではどういう訳か1274年に彼女が
呼ばれていたであろう「齊國大長公主」ではなく後年の「安平公主」の方で書いている。

あと、『高麗史』全体に言えるけど、文永の役についての記述は忠烈王世家と文永の役の
時の高麗軍の司令官だった金方慶の伝に書かれているが、対馬と壱岐については書かれている
ものの、『高麗史』の編者は「壱岐」(一岐島)と九州本島が区別出来ているのか、どうにも
怪し気な雰囲気がある。

> 最近またスレが活性化してきた
スレが活性化することはまあ良いんだけど、煽り文句ややたらwwwを多用したり相手をなじるような
口調ではなから他人の意見を全否定するのが前提でレスをつけるのは、辟易するし文面見ただけで
レスしようとかいう気分は萎えることこの上ないしで、正直まるで歓迎しがたいんだけどねぇ・・
79名無し三等兵:2009/04/04(土) 17:44:20 ID:+WQKBbpK
>16
>Aそもそも打物騎兵(突撃騎兵)に絶対的に必要な馬上槍が当時の日本に存在しない
>日本に突如として馬上槍や打物専業の騎兵が現れるのは南北朝時代であることから
>日本の武士団が元冦で苦杯をなめたことが素因であることは言うまでもないだろう

南北朝時代に打物専業の騎兵が出現したのは、徒歩弓兵の増加によって矢戦における
弓騎兵の価値が低下したから。徒歩弓兵増加の傾向はすでに平安末期の源平合戦にも
みられる。しかし騎兵の衝撃力を利用した突撃も、士気の高い歩兵が密集隊形をとると
成功しないので、やがては騎兵自体が衰退していく。つまり打物騎兵の出現は騎兵が衰退し
下馬戦闘へと移行していく過程の一部と理解するべきである。
80名無し三等兵:2009/04/07(火) 20:23:41 ID:59wgbf+K
日本史板ってどうなった
81名無し三等兵:2009/04/07(火) 21:18:30 ID:???
日本より南宋の方がモンゴルに対して善戦してない?
とくに孟キョウなんかは四川、京湖方面からのモンゴル軍の攻撃をことごとく退けているし。
82名無し三等兵:2009/04/08(水) 03:05:48 ID:???
>>79

たしかに徒歩弓兵の増加ってのはもちろんだが戦場の変化もあるな
南北朝期でも京都北部の山間部で平気で馬に乗ったまま刀剣による戦闘が行われ、徒歩武士を蹴散らしている。
かとおもえば追いすがる大量の徒歩僧兵をわずかな手勢の騎兵が引きつけながらの騎射で翻弄することもある。
しかし都市部では逆に騎乗の武士はほとんど活躍できず、川を挟んだ橋での乱戦や火に巻かれた京都市街地での抗争は徒歩武士の独壇場。

そういった意味じゃいろんなことが過渡期だった時代なんだろうな
騎射もあり馬上打ち物もあり、徒歩白兵戦もあり、長大な太刀もつかわれ、薙刀もあり
そして槍も出現し出す。
鉞、金砕棒、あげくに馬上からとび蹴りののち組みうち…
なんでもありだわな

まあ騎乗武士の本格的な衰退は南北朝期そのものより応仁の乱での武士階級の総入れ替えのせいだろうけどね
83名無し三等兵:2009/04/08(水) 08:31:28 ID:???
>>80
春厨とバカサヨに荒らされて落ちた。
当分日本史板には立てずにこっちが本スレで難民板は避難所ということで。
84名無し三等兵:2009/04/08(水) 09:05:54 ID:???
>>81
間違いなく一番凄いのは日本でもベトナムでもマムルークでもなく南宋だな。
アイツ等40年近くモンゴルの猛攻に耐えてる。最後は滅亡したが。
まあ腐ってもアジア随一の大国だったし
85名無し三等兵:2009/04/08(水) 12:17:23 ID:???
南宋がすごくても日本がすごくなくなるわけじゃないけどね
86名無し三等兵:2009/04/08(水) 12:35:21 ID:???
それにしても四〇年近くもよく攻めるもんだなあ・・・
87名無し三等兵:2009/04/08(水) 13:50:26 ID:???
>>83
でも漢文の意味が違うとか教えてくれた人もいて
何年も頑張ってた奴の主張が無駄になったぞ
ウヨっぽい連中だけだとこうはならなかったはず
バランスは欲しいね
88名無し三等兵:2009/04/08(水) 20:40:29 ID:???
「戦敗之」は、「戦い之をやぶる」と読むべきという話は俺も時期を見て書こうと思ってたんだが
先を越されちゃった。もっと早く書いとけばよかったと後悔している。
89名無し三等兵:2009/04/09(木) 02:31:24 ID:???
>>87
あれは興味深い話だったな。
まあ俺としちゃ文永は双方痛み分けってとこなんじゃないかなあってのが私見だが。

だがあのスレの最後がこれまでにないくらい本当に酷かったのも事実。
既に散々否定されてる鈴木某や井沢某や田中某のトンデモ説引き合いに出す奴もいたし。
しまいにはせっかく原文を披露してくれた人も愛想尽かして去っちゃったしな。
90名無し三等兵:2009/04/09(木) 02:36:42 ID:???
>>82
そういう意味でも戦の規模的にも南北朝時代って
戦国時代に劣らないぐらい面白いと思うんだが
どうも今一つマイナーなんだよなあ。足利尊氏や楠木正成だけでなく
赤松円心とか北畠顕家とか護良親王とか佐々木道誉みたいな
戦国武将にも引けを取らない魅力ある武将も数多く登場するのに。

俺の中では未だに太平記が大河ドラマの最高傑作w
91名無し三等兵:2009/04/09(木) 04:06:04 ID:???
大河ドラマも面白かったのは太平記までだな。
信長あたりから雲行きが怪しくなり、秀吉から本格的におかしくなり
北条時宗から完全に糞になり、篤姫と天地人でトドメ刺されたな

でも北条時宗で文永の役で元軍の大将射倒すシーンがあったけど
あれずっとあのドラマの創作だと思ってたが、本当に少弐がやってたんだなw
92名無し三等兵:2009/04/09(木) 15:13:46 ID:???
少弐もしくは少弐の隊のだれかなんだろうが、どっちにしろ射倒したのは確定っぽいね
93名無し三等兵:2009/04/10(金) 09:48:17 ID:???
文永の役は威力偵察だったって説あるけど、上陸した以上リスク高すぎね?
内陸部の威力偵察とはわけが違うと思うんだけど。それに副司令官劉複亭が射倒され
てる時点で威力偵察になってないんじゃ…。普通、威力偵察ってのはその土地の地形
の把握、軍事力の強弱の把握、自国の軍事力の誇示などが目的でしょ。この中で
把握できたのは日本軍の軍事力の強弱だけだし。それだけの情報のために3万もの兵を
むざむざ危険な航海に出すかな。むしろ、文永の役のせいで日本の防備は
は磐石になったし、かなり強気になってるからマイナスにしか働いていない。
それにこのやりとりを見ても威力偵察だとは思えない。
都督使・金方慶「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。
        船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」
総司令官・忽敦「孫子の兵法に小敵の堅、大敵の擒とあるように、味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、
        大軍の前では結局虜にしかならない。撤退するしかない。」(高麗史・金方慶伝)
94名無し三等兵:2009/04/10(金) 10:27:01 ID:8zNCWXK6
倭猿最弱伝説w

白村江の戦い→わずか7000の唐軍に惨敗

刀伊の入寇→撃退したと主張するも実際は掠奪、拉致を完了した女真族が帰国しただけ
(壱岐では住民が35人に激減)
一部の女真族が高麗を攻撃したが、高麗水軍に敗れ拉日致されていた日本人を解放帰国させた

文永の役→対馬、壱岐で惨敗たやすく制圧される
暴風雨により帰国していただく
日本側大勝利を喧伝するも海路侵攻にも関わらず敵の高級将官を一人も捕虜に出来ず

弘安の役→対馬、壱岐で惨敗たやすく制圧される
前回より兵力は多かったが、多くは武器より農具を多く持ち込んだ旧南宋の老兵
暴風雨により帰国していただく
今回も日本側大勝利を喧伝するも日本側に捕虜にされた将官は皆無

応永の外寇→いとも簡単に朝鮮軍に対馬を占領される。日本は朝鮮に朝貢すると土下座してお帰りいただく

コシャマインの乱、シャクシャインの乱→アイヌモシリ侵略しようとしたらアイヌの土人にボコられる。騙し討ちでなんとか事なきを得る

秀吉の朝鮮侵略→中国制圧という戦略目標はおろか、朝鮮制圧も達せず、長い年月と多額の費用、 多数の犠牲を出し敗北撤退

下関戦争→わずかな水兵が上陸しただけで長州兵は恐れを成して砲も破壊せず遁走連合軍は無傷の砲を多数捕獲

薩英戦争→英艦隊に圧倒され敗色が濃かったが、英艦隊が砲弾が少なくなったため、撤収薩摩側は完敗を認め賠償金支払い
95名無し三等兵:2009/04/10(金) 14:10:41 ID:???
>>93
なんかモンゴルは
征服する前にまず一度威力偵察を仕掛ける
その後かなりの年数をおいて政略で敵を弱めた後で
本格的に侵攻するって聞いた

そのプロセスを省くようになったら
中東でまったく勝てなくなったんだって
96名無し三等兵:2009/04/10(金) 17:12:03 ID:???
むしろ威力偵察(文永)や棄民(弘安)が目的なら
それこそフビライってすげー無駄な事したんだなあって思う。
日本なんてほっときゃ良かったのに。
97名無し三等兵:2009/04/10(金) 17:50:24 ID:???
>>93
その船を焼き云々だが、包茎さんは同じ高麗人なのに元の武将として高い地位にいる
洪茶丘に嫉妬しており、もっと手柄を立てたくて駄々をこねた。
いわば一種の強がりの現れで実際はそんなに切羽詰まってた訳ではなく
予定通りの撤退だったっていう見解が前に出てた。
98名無し三等兵:2009/04/10(金) 18:09:19 ID:???
>>95
ソースは?
99名無し三等兵:2009/04/10(金) 18:11:14 ID:???
なるほど予定通り太宰府まで行けずに撤退と
100名無し三等兵:2009/04/10(金) 18:25:15 ID:???
>>97
>>洪茶丘に嫉妬しており、もっと手柄を立てたくて駄々をこねた。
金方慶がそう言ったの?史料に残っていなければ憶測の域を出ていないと思うが。
101名無し三等兵:2009/04/10(金) 19:51:18 ID:???
誰も>>94を相手にしない軍板住人のスルースキルの高さに感動
102名無し三等兵:2009/04/11(土) 07:37:09 ID:???
>>98
ホラズムの攻略やヨーロッパ遠征ではそういう事やってたみたい。
103名無し三等兵:2009/04/11(土) 07:38:32 ID:???
>>93
ヒント:火病
104名無し三等兵:2009/04/11(土) 08:35:47 ID:???
一つ確実に言えるのは七年も前の情報のせいだったからか知らんが
文永の役は弘安の役に際しろくな役に立ってなかったってことだな

むしろ武士に余計な情報を与え、より完璧な戦略を立てさせちゃった。
なぜか攻め込まれた武士たちにとってのほうが「威力偵察」ちゃんとやった
形になっちゃった。
105名無し三等兵:2009/04/11(土) 08:43:29 ID:???
まともな地図も無い状態だから
数万の軍隊で行軍してみないと
わからないことがたくさんあったんでしょう
106名無し三等兵:2009/04/11(土) 09:02:41 ID:???
行軍して見てもわからなかったんだな
107名無し三等兵:2009/04/11(土) 09:33:25 ID:???
確かに。威力偵察にしては一番重要である敵の防御拠点である水城や大宰府を一目も見ること
なく退却してる。普通ありえないよな。
108名無し三等兵:2009/04/11(土) 10:37:48 ID:???
>>101
軍板にはピラニアさんがいないから。
ハン板や東亜でやれば爆釣だろうけどね
109名無し三等兵:2009/04/11(土) 11:35:13 ID:???
威力偵察説をとるにしても文永の役によって元軍の侵攻ルート・作戦がばれちゃった感は否めない。
博多湾の石塁が効果的だったことについてはどの立場の人も意見が一致している。
110名無し三等兵:2009/04/11(土) 18:51:17 ID:???
結局敵の手の内を探るつもりが敵に手の内を晒してしまったわけか。
111名無し三等兵:2009/04/11(土) 18:56:44 ID:???
>>110
威力偵察説をとるとしたらそうなるけど
まあ珍説の域を出てないからな

実際は普通に戦いに来て普通に敗北して普通に撤退したんでしょう
112名無し三等兵:2009/04/12(日) 16:40:03 ID:???
>>96
日本の金が欲しい
日本海を我が物顔で航行したい
日本と不平等貿易がしたい
支那も朝鮮も平らげたのでその南にある列島もくっちゃおうか

こういった理由でほっといてくれなかったんだね
でも実際元にとってもほっといたほうがよかったのにとおもう

113名無し三等兵:2009/04/12(日) 19:52:26 ID:???
かのアレキサンダーは、ただひたすらに「俺様TUEEEEEEEEEE!」がしたくて
あんな大遠征をしたという説もあるそうな。
案外、フビライさんも「地図にある国をモンゴル色に塗りつぶしていく瞬間が快感♪」
ってノリで日本やベトナムみたいな辺境を攻めたんだったりしてw
一応、東アジアのある程度正確な地図は元にあったみたいだし。


あとマジでわからないのがジャワ遠征の失敗。
イメージ的にあの辺は一瞬で征服出来そうな気がするが。
114名無し三等兵:2009/04/12(日) 21:01:47 ID:???
海があると駄目なんでね
陸なら相手首脳部に諜略したり何らかの工作員を送り込んで国力を下げたりとできるだろう

それでまず一撃を仕掛けてから
あれこれ国力減らしたり仲間割れさせたりしてから本格的侵攻するんだろうが
海で隔てられた国にはその手の方法は一切効かない
115名無し三等兵:2009/04/12(日) 22:50:39 ID:???
>>112
いや、クビライがベトナム討伐を命じたのは鎮南王トガンがチャンパー遠征の途中で立ち寄った
既に臣従していたベトナムの陳朝領内で行った無茶な物資徴発に陳朝側が耐えかねて叛乱を起こした
ことが発端。モンケの南宋遠征の途中でベトナムはモンゴル帝国に臣従していて、クビライの治世には
とっくに「モンゴル色に塗り」変えられていた。

クビライの時代でのベトナムへの遠征は、飽くまで叛乱の鎮圧とか、陳朝への懲罰、再度の臣従を
促すもので、日本のようにモンゴル帝国の羈絆とは全くかかわりが無かったところへ外征したとかいう
状態ではない。
むしろ、一度臣従しながら反逆し、何度も懲罰の遠征軍に痛めつけられながらも泥のような持久戦で
反抗を続けている点で、オゴデイ時代からモンケの時代までの高麗に近い。

ただ、モンケの時代の遠征ではワンサイドでフルボッコ状態で最終的にモンゴル側の要求を全部呑まな
ければならなかった高麗と違って、最後は疫病やら酷暑で音を上げて撤退途中の鎮南王トガンの軍を
襲撃し、雲南へほうほうの体で追い払った後、結局、陳朝は自分達の主張をほぼ丸のみさせて、元朝の
宗主権を認めて再度臣従したそうだけど。
116名無し三等兵:2009/04/13(月) 07:44:41 ID:???
なんにせよベトナムの陳興道は稀にみる名将だったようだね。
海外の「世界の名将百選」にも40位ぐらいにランクインしてる。
117名無し三等兵:2009/04/13(月) 07:59:08 ID:???
ベトナムってあっさり首都が陥落した程度だったんじゃ?
118名無し三等兵:2009/04/13(月) 14:47:41 ID:???
首都陥落した後、ゲリラ戦とベトコントラップで撃退してる。

因みに高麗が↑みたいに語られる時があるが
高麗の場合は単に王族が逃げてモンゴルに好き勝手させてただけ。
119名無し三等兵:2009/04/13(月) 17:10:43 ID:???
>>117

よく反日感情まるだしのやつが武士にくさのあまりに
ベトナムの例を持ち出してくるから
それに対して詳細に反論して行く過程で
何かベトナムはたいしたことないんじゃないかって感じの流れになるけど
実際のとこある程度は評価していい。

少なくとも負けっぱなしの国、尻尾振りっぱなしのかの国よりは比較するのも失礼なほど
健闘したといっていい

120名無し三等兵:2009/04/13(月) 18:42:06 ID:???
南宋はどうしてあそこまで、善戦できたのかな?
やっぱり、孟キョウのおかげ?
121名無し三等兵:2009/04/13(月) 19:14:51 ID:???
長江の存在も大きそうだな。
あと腐ってもやっぱり当時のアジア一の大国だったし
各都市の守りも相当堅かったようだぞ。
122名無し三等兵:2009/04/13(月) 21:10:07 ID:???
城や防御施設に篭った相手に強攻してもまず犬死

だから西征するモンゴル軍は井戸に毒を投げ込んだり
疫病を流行らせたりとあの手この手で守備隊の戦力を低下させる事に終始したわけで

中国南方だと運河が防御に加わるわけだしね
123名無し三等兵:2009/04/15(水) 10:38:17 ID:???
>>84
そもそも日本弱かった派の意見は
「主力が南宋や高麗だから武士は勝てましたねキルキル」ってのだから別に南宋が強くても
武士ツエー派は困らない

まあもっとも戦況を左右する大事な場面では武士と南宋兵は戦ってないけど
武士が南宋兵をボコボコにしたときはもう元軍が崩壊してて日本の勝ちが決定してたし。
あと南宋はもともと日本側といっていい人たちだしね。
国交もあったし元の情報に関しても南宋からの亡命者が惜しげなく日本に提供してくれてる。
124名無し三等兵:2009/04/15(水) 12:31:04 ID:???
そもそも二回とも戦闘要員としての主力は満州人だった件

兵の殆どが南宋や高麗の寄せ集めなんて説はどっから出てきたんだ?
125名無し三等兵:2009/04/15(水) 14:18:14 ID:???
洪茶丘の手勢は高麗人
高麗軍とは別に元軍の中に高麗兵もいた

>>124
満州人って元々が凄く少数だから実際は漢族だろうね
126名無し三等兵:2009/04/16(木) 02:36:00 ID:???
>>124
ほんとどっから出てきたんだって感じだが
反日君はしょっちゅう使うよね
127名無し三等兵:2009/04/16(木) 23:07:02 ID:???
>兵の殆どが南宋や高麗の寄せ集めなんて説はどっから出てきたんだ?

元寇サイトってそっちのが多いような
128名無し三等兵:2009/04/17(金) 12:52:09 ID:???
高麗兵も少なからずいた≠高麗人が主力
129名無し三等兵:2009/04/17(金) 13:53:19 ID:???
正確な数すらわかってない
15000と25000のどっちなんだろう
130名無し三等兵:2009/04/17(金) 13:57:09 ID:???
あと実際に上陸したのは総員の何割かも気になる
131名無し三等兵:2009/04/18(土) 11:18:18 ID:???
>>129
文永の役のあった至元十一年三月(1274年4月)に、東征都元帥になった忻都が文永の役の時に
率いて高麗に派遣された軍勢が1万5000だったことは『元史』と『高麗史』で一応一致している
ので間違いないみたい。これに多分、高麗の駐留軍などが加わって「蒙漢軍二萬五千」という規模に
なったみたいだけど、この残りの1万の内訳はいまいち良く分からない。
(この1万5000は五月半ばには高麗に到着している。あと、『元史』や『高麗史』の書き方だと
 どうやら忻都が連れて来た軍勢1万5000は女直軍がかなり目立っていたっぽい)

ちなみに、忻都は途中で金方慶の誣告事件に関わり、忠烈王と揉めて都元帥を更迭されたため、軍が
日本へ出発する二ヶ月前の同年八月己酉(1274年9月7日)に忽敦が忻都の代わりに日本征討都元帥
として派遣され、「京軍四百五十八人」がさらに加わったと『高麗史』の忠烈王世家に出て来る。

朝鮮史で有名な旗田巍って先生は中公新書の『元寇』って本で三別抄討伐のために派遣されていた
屯田軍5000がこの1万5000に加わって軍勢は二万になったと書かれているようだけど、『高麗史』の
忠烈王世家や金方慶伝、『高麗史節要』の忠烈王元年(1274年)の記事をちょっと見た限りでは
「三別抄討伐に使われた屯田軍5000が日本征討軍1万5000に加わった」ということを直接示唆する
記述は見付けられなかった。あるいは三別抄の首謀者たちについて書かれているという叛臣伝の方とか
『東国通鑑』(李氏朝鮮で編纂された歴史書。1484年完成。『高麗史』は1451年、『高麗史節要』は
翌1252年)あたりにそのような記述があるんだろうか。
(文永の役にやって来た金方慶や洪茶丘は三別抄討伐にも参加しているので、普通に考えれば三別抄討伐
 に使われた軍が日本への遠征に加わっても何ら不思議ではないし、むしろ自然だけれども。あと、
 旗田巍先生は『元寇』本文で博多での軍議で金方慶とやりとりした司令官を忽敦ではなく「忻都」と
 ポカミスを犯している)
132名無し三等兵:2009/04/18(土) 11:19:27 ID:???
>>130
とても気になるところ。
制圧した対馬や壱岐にも一応兵力を残しておくのが自然だろうし(ジャムチと同じく何かあったら先発した
船団から伝令の船を合浦のある半島へ送らねばならない)、博多周辺に兵を上陸させた時も船上にある程度
兵力を残しておくのは道理だろうから、『高麗史』に出て来る実戦力「蒙漢軍二萬五千我軍八千」のうち
どれだけが上陸したのか・・・ 少なくても合浦から出発した25000+8000の全てが博多に上陸したとは
考えられないけど、頼りの『高麗史』の記述でも情報量がいまひとつ足りなすぎる。
133名無し三等兵:2009/04/18(土) 18:07:30 ID:???
そういや幕府方は何人だったんだ?
134名無し三等兵:2009/04/19(日) 03:56:10 ID:???
少弐景資が率いていたのは5000ぐらいらしいが全体だとどのぐらいだろう
135名無し三等兵:2009/04/19(日) 09:05:28 ID:???
どっちにしろ文永の時は間に合わせの数で対処したからそんなに多くないはず。
136名無し三等兵:2009/04/19(日) 10:17:33 ID:???
実質、九州vs満州ってとこか。
137名無し三等兵:2009/04/19(日) 11:20:10 ID:???
まあ指揮を元がとってるんだから
配下の構成がどうあれ元軍

元はどこでもそういう軍隊

138名無し三等兵:2009/04/19(日) 21:49:29 ID:???
>>136
金建国以前から女真の数はタかが知れてるので
満州から北京あたりの北方中国人だろうな
高麗人も従来言われてた高麗軍のみでないなら万は超えるだろう
139名無し三等兵:2009/04/19(日) 21:57:21 ID:???
吉川弘文館から「戦争の日本史」シリーズ7
新井孝重の蒙古襲来が面白い

勘仲記(書いたの公家だからどこまで信用できるかわからんが)
によれば姿を消したのは27日であり1日でケリがついたのではないという
自論を展開してた
140名無し三等兵:2009/04/19(日) 22:04:08 ID:???
まあそれはいいとして重要なのは
「1日でケリがついたなら沖の船から3万を越す大軍が1日で上陸できるわけない」
と書いてあってなるほどと思ったわけだ >>129-132

沖の船から何度も小舟で往復して兵を上陸させるって確かに途方にくれる話だ

で、あと思い付いたのが元軍が船に戻ったのもこれが原因かと
兵と少量の物資ぐらいしか沖上げできないとなると
陣地も構築でなきない状態で夜襲を警戒するより沖に戻るのはありかと
浜の兵力が数千の兵力ならおかしい話ではない
141名無し三等兵:2009/04/19(日) 22:07:34 ID:???
この本は日本側の弓が相変わらず射程が半分もないとか書いてあったが
いろいろ注目すべき点とか見つかったよ
他に一つあげると
威力偵察説は間違いで単に幕府を交渉の場に引きずり出すだけだった説で
このほうがあっさりした戦闘も納得がいくな
142名無し三等兵:2009/04/20(月) 09:12:38 ID:???
>>141
文永の役後、元の使者はことごとく殺されてるし、交渉の場に引きずり出せてないだろ。
143名無し三等兵:2009/04/20(月) 09:56:09 ID:???
まあその説を仮に支持するとすれば
交渉の場に引きずりだすはずがぼろ負けして失敗したってことだろ

やつらの頭の中にある日本への介入目的の中に日本に不均衡貿易を迫る腹づもりが含まれていたであろうことは確か
というよりそもそも元は日本に「俺に挨拶しにこい、俺が上だと認めろ」という国書を送ってきている


それを交渉とかきれいな言葉で飾るにせよストレートに侵略というにせよね
144名無し三等兵:2009/04/20(月) 15:20:36 ID:???
まったく交渉に応じないから
とりあえず脅すかってつもりの派遣じゃないのかな
だからあっさり1日で帰ったと
もとより征服でもなければ威力偵察でもないと

万の軍勢見れば態度が変わると甘く見ていたんだろう
145名無し三等兵:2009/04/20(月) 19:41:02 ID:KFAk5pZw
>>132
自分が見た初心者向けの本でも
兵力分散に触れてた
対馬や壱岐で惜しげもなく矢を消費し
島内で何日も山狩りした結果
博多での戦闘を1日で切り上げた
なんて見解もあって
初心者向けにしては目の付け所が上手いとオモタわ
146名無し三等兵:2009/04/20(月) 20:36:58 ID:???
こうやってみると益々何がしたかったのかサッパリわからんなw
147名無し三等兵:2009/04/20(月) 20:54:12 ID:???
>>145
それあるかもな。対馬と壱岐で張り切りすぎて、本土での戦いで息が続かなかった
っていうのはあり得そう。
148名無し三等兵:2009/04/21(火) 02:35:41 ID:???
日本側から出兵した白村江や朝鮮出兵の例を見れば分かるとおり、手を出したほうが苦労する条件下だからな。
蒙古の意図がどこにあったにせよ、失敗は宿命だろ。
149名無し三等兵:2009/04/21(火) 07:56:03 ID:???
>>147
向こうは日本の地理を、あんま正確に把握してなかったみたいだし、その線もアリかも。
150名無し三等兵:2009/04/21(火) 10:49:25 ID:???
その線で行くと元は我々の想像する以上に頭の悪い国だったことになってしまうな
151名無し三等兵:2009/04/21(火) 14:19:39 ID:???
なんだかんだ言っても中世なんだしそんなもんじゃね?
152名無し三等兵:2009/04/21(火) 19:12:20 ID:3PjceMMb
って事は、マルコポーロが聞いて帰ったガセネタ信じてた可能性もあるのかw
153名無し三等兵:2009/04/22(水) 03:53:07 ID:???
がセネタ?
少なくとも中世日本は有数の金産出国、銀産出国だぜ?
154名無し三等兵:2009/04/22(水) 05:30:37 ID:???
>>145
『八幡ノ蒙古記』の対馬、壱岐での戦闘の経過だと、船団から一千人だか数百人ほど上陸して、
対馬や壱岐の守備部隊は蒙古側の兵をいくらか討ち取ったりしたものの、結局奮戦空しく全滅した、
的なことが書かれてあるみたい。
この書き方を信じるなら、派遣軍の戦力全部を使って攻め落としたわけではなく、全体の戦力を
ある程度温存しつつ前衛部分で攻め落とさせていた的な拠点攻略の常道に沿った作戦で戦ってた
ような雰囲気だけど・・
やはり初めから博多上陸からそんな長居するつもりの装備じゃなかったんじゃないかと思える。

>>150
『東方見聞録』あたりのマルコ・ポーロの記述は、当時の南宋とか華北(あるいはクビライの宮廷?)
での伝聞によると、クビライのジパングへの軍派遣の有り様はこうだった的な感じなので、日本への
派遣自体には情報提供も含めてマルコ・ポーロは関わってないと思う。

明代に編纂されたらしい、『元高麗紀事』って資料によると耽羅島で捕虜になった連中から、太宰府を
攻めるには二、三万の兵力が必要だとか言ったため、日本へ派兵するときにはこの規模が採用された的な
記事があるんだとか。
これも含めて、『高麗史』や『元史』の日本遠征に関わる記事では、クビライ政権での日本遠征についての
方針決定には高麗政府や范文虎みたいなクビライ側に下った南宋系の官僚とか、日本に「そこそこ」近い筋
からの情報や提言に依拠している部分があるから、日本と殆どかかわりが無いいわゆる「色目人」が意見する
余地はまず無かったと思う。(蒲寿庚みたいな海洋部門に大きく関わってる連中とか、日本遠征のために
兵力を供出しなければならない地方の官僚とかだったら当然違うだろうけど)
155名無し三等兵:2009/04/22(水) 05:43:43 ID:???
>>145
文永の役後の元朝から何度も使者を送っては処刑されるって情勢は、
「軍を送りつけたんだからこちらはいつでも領土征服出来る準備がある。ともかく何かしら返事くらいしろ!」
という元朝側の態度(本当は南宋を征服しないと軍の派遣は継続出来ない)に対して、
「使者も斬ってるんだから交渉決裂だろ、察しろ!」という無言のやりとりだった感じがする。
日本には大陸的な交渉のアプローチが全然通用していなかったような、意思疎通のギャップみたいなものを感じる。
156名無し三等兵:2009/04/22(水) 05:44:28 ID:???
>>155の続き。

>>149
明代とか李氏朝鮮で作られた混一疆理歴代国都之図やその系統の地図を見ると、中国本土や朝鮮半島のすぐ
隣国なのに、日本の地理がちゃんと描かれている物は以外と少ない。(ひどいのだとサツマイモみたいな島が
3つ並んで、そこに武蔵とか近江とかの国名の書かれた枠がめちゃくちゃに配置されていたりする)
元朝後期に編纂された『宋史』あたりの日本伝だと、陸奥国から日向国とか日本の領内にある地域名の情報自体は
知られていたようだけど、具体的な位置関係は良く分かっていなかったんじゃないかと思わせる部分もある。

中〜大規模な遠征を行うなかで具体的な地理情報は現地で徐々に資料を接収していけば、決定的な情報不足を補える
んではないか、という思惑もあったんじゃないだろうか。

チンギスの時代のホラズム遠征とか西アジア遠征では、ホラズム周辺出身の官僚たちが既にモンゴル宮廷で
働いていたし、当時は中央アジアからモロッコのあたりまでを扱ったアラビア語やペルシア語で書かれた
地理書や地図が結構で回っていたし(あまり正確ではなかったけどインドネシア方面の地理も知られていた)、
中国も宋代に華北から江南全域をカバーする地図や地理書が、製作されていて、ことおおよその地理情報に
関しては殆どの場合、実はモンゴル帝国側は事前に大規模な遠征先での地理情報には困らない環境にあった。
(バトゥの欧州遠征の場合はそこら辺は謎。ウィーン郊外で撃破されたモンゴル軍の小部隊にイングランド人の
 使者が混じっていて、バトゥの遠征には彼の情報が役立ったとかいう話があるそうだけど)

ただ、日本遠征の場合、金朝や南宋で行基図みたいな地図が大陸にどれだけ知られていたかは分からないから、
恐らく日本についての具体的な地理情報は1から収集しなければならなかったのかも。
157名無し三等兵:2009/04/22(水) 09:29:37 ID:???
>>156
日本の地理情報を得るためにしては、明らかに進軍行程が短すぎる。
わずか博多までの進軍じゃあ、日本の地理なんて全くわからない。
日本の地理を知ろうと考えていたならば最低でも、水城や大宰府まで
の行程は抑えておくべきだったんじゃないかな。それに間者で知れた
可能性もないことはないが、そもそもそんなことするぐらいなら軍なんて
派遣する必要もないしな。
158名無し三等兵:2009/04/22(水) 13:43:17 ID:???
大軍を使ってのデモンストレーションでしょう
対馬や壱岐や鷹島への上陸が何故必要だったかとかも考えてみるとさ
159名無し三等兵:2009/04/22(水) 20:35:53 ID:???
で、結局何がしたかったんあいつら?
160名無し三等兵:2009/04/22(水) 20:45:06 ID:???
あまりにも元軍が文永の役で得たものが少ない(むしろマイナスに働いてる)ところを見ると、普通に元軍が敗北したんじゃないか。
文永の役後、鎌倉幕府が大陸攻めを計画したり、元が文永の役の3倍以上の14万もの大軍団を派遣したところを見ると、鎌倉武士が文永の役で敗北した
にしては不自然すぎる。
161名無し三等兵:2009/04/22(水) 22:29:07 ID:???
>>160
まあ、そうだろうね。
文永の役について言うと、むしろ早い段階で退却を決断した元軍の判断を褒めるべきだ。
万単位の軍を一夜にして撤退させるのは容易なことではない。
仮に元軍が進撃を続けて、水城の守りを突破し大宰府を占領することが出来たとしても、
鎌倉からやってくる日本軍主力と決戦し勝利するのは無理だ。
結局あの時点で退却するのが一番傷が浅いし、「日本軍10万と戦いこれを破った」といった
大本営発表をすることも出来る。
162名無し三等兵:2009/04/22(水) 23:22:51 ID:???
少し上のネタだが、上陸がそれほど多数でないなら撤退も簡単では
夜になってからの撤退だよね
朝よりも沖の大船と陸を往復する小船は多少難儀するだろうし

あともうひとつのネタの既に矢を消費したってのも影響してそう
163名無し三等兵:2009/04/23(木) 13:29:09 ID:???
>>161
そもそもあの時点で博多周辺の武士は1万程度しかいないのに
10万ってのは…モンゴルちゃんもよくまあ大ぼらふいたもんだよね
164名無し三等兵:2009/04/23(木) 14:17:39 ID:???
中国ってのはそういう文化だ。
まして島国でまったく実情がわからないんじゃね。
165名無し三等兵:2009/04/23(木) 19:17:46 ID:???
>>163
そもそも当時の鎌倉幕府に十万も兵力動員する力あったんかと。
166名無し三等兵:2009/04/23(木) 21:40:04 ID:???
>>165
鎌倉時代の日本の人口は約1000万だから兵力は結構あっただろう。
問題は兵站だな。
167名無し三等兵:2009/04/24(金) 11:40:05 ID:???
>>165
食いもんの心配を無視すれば20万ぐらいはいけるんだそうな
そのために四年も前から北条ちゃん政敵潰しにがんばってたやん

>>166
武士じゃないけど防塁の建築スピードから見てもとりあえず「男ならだれでもいい」っていう
条件下なら相当な動員をかけれるみたいだな
168名無し三等兵:2009/04/24(金) 11:53:06 ID:???
>>165
弘安の時は関東から10万の軍勢が派遣された筈。
現地に到着する前に決着がついたけど。
169名無し三等兵:2009/04/24(金) 19:33:04 ID:???
Wikipediaに威力偵察説が書かれてるが、偵察ですらない単なる示威行為だと書いたほうがいいな
170名無し三等兵:2009/04/24(金) 19:51:30 ID:???
威力偵察いいたいだけちゃうんか説
171名無し三等兵:2009/04/24(金) 23:18:58 ID:???
威力偵察→相手の実力を探るどころか、完全にこちらの手の内晒しちゃいました。
示威行為→調子こいて対馬や博多で虐殺したら、相手はビビるどころか完全にマジ切れしちゃいました。


矢数の件にしてもそうだが、変な理由つけるより
普通に大宰府攻略して足場固めしようとしたんだけど
武士に阻止されちゃいましたーの方がまだ元の面目が立ちそうだがな。
172名無し三等兵:2009/04/25(土) 01:03:52 ID:???
元がどの程度本気だったかがわからんよな
示威行為が一番自然に思える
173名無し三等兵:2009/04/25(土) 01:53:03 ID:???
>>171
結局どの説とっても元軍の思い通りにはならなかったんだな。
174名無し三等兵:2009/04/25(土) 03:07:52 ID:???
示威行為だからって手を抜くようでは所詮何にもならんわなw
事実なら元はますますダメ軍隊に格下げだな

普通に戦って普通に負けたってのが実は一番元にとっては都合がいい
まあここで元擁護してる連中はほぼ100%モンゴルにはこれっぽちも思い入れがない
単に武士の足引っ張りたいだけの人だから元軍がいくらしょぼい評価になっても構わないんだろう
175名無し三等兵:2009/04/25(土) 04:13:29 ID:???
示威説は昔からあるしネットでも見るけど、今後はわけのわからん威力偵察よりこっちが主流になるだろう
176名無し三等兵:2009/04/25(土) 04:45:14 ID:???
示威行為だからって本気じゃないっていう論調はおかしい
本気でやらなきゃ示威にならねえっつうの
177名無し三等兵:2009/04/26(日) 09:56:33 ID:lF2ldN45
和弓は、動物の腱を使った合成弓であるモンゴル短弓より威力も射程も劣る。
178名無し三等兵:2009/04/26(日) 11:11:45 ID:???
でも実際は和弓にかなわず敗走しているけどねw
179名無し三等兵:2009/04/26(日) 11:15:37 ID:Dps5b5yN
武器がよくても運用が下手じゃ意味ないけどね
-----------------------------------------------------------------

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
さらに敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

-----------------------------------------------------------------

和弓圧勝だなこりゃ


180名無し三等兵:2009/04/26(日) 12:31:47 ID:???
>>177
威力も射程も遥かに上となると、単純に考えると
2〜3人張りが普通だったの和弓より張力が遥かに上と言うわけだが
そんな張力に耐えられるような材料が中世にあったの?
まさか現在の競技用アーチェリーと弓道を比較してるんじゃないだろうな?
181名無し三等兵:2009/04/26(日) 13:26:51 ID:???
鎌倉時代後期になると和弓も高級品は鹿を使った合成弓つくったり
竹をカーボン加工(驚)したりしてたんだよな
182名無し三等兵:2009/04/26(日) 14:27:28 ID:???
>>177
モンゴル人が指揮官ぐらいしかいない状態でそれを出しても意味が無い
高麗の弓と比べろよ
183名無し三等兵:2009/04/26(日) 15:29:16 ID:???
高麗から派遣された兵はともかく、蒙漢軍はちゃんと
モンゴルの正規軍の装備してたんじゃないの?


余談だが英語のウィキだと、朝鮮弓はトルコ弓並みの性能に捏造されてるw
184名無し三等兵:2009/04/26(日) 17:10:55 ID:???
wikiもブログと変わらんな
185名無し三等兵:2009/04/26(日) 17:15:35 ID:???
で、実際の朝鮮弓ってどうなの?
酷使様やサヨによる物じゃないちゃんとした評価が知りたいんだけど。
186名無し三等兵:2009/04/26(日) 18:29:54 ID:???
大陸式の合成弓で、それなりに優秀だったとか。それ以外はわからん。
てか朝鮮半島って、両斑の事もあるのか知らんが
兵制とか装備に関する記録が殆ど残ってないからわからんのよ。
187名無し三等兵:2009/04/26(日) 19:45:57 ID:???
江戸時代
ちっこい弓で「あたーりー」とかやらせる娯楽施設があったが
あのおもちゃの弓よりはつよいんじゃね
188名無し三等兵:2009/04/26(日) 20:19:07 ID:???
短弓のいいところは連射できることだな
189名無し三等兵:2009/04/26(日) 21:22:15 ID:???
>>183
『蒙古襲来絵詞』に描かれている蒙古兵は弓は大陸のそれっぽい感じなんだが、
どれも矢筒の形式が当時のテュルク・モンゴル系の遊牧民のそれとは全然違うので、
テュルク・モンゴル系のそれそっくりそのままという訳では無いように思う。

朝鮮というか当時は高麗だが、文永の役の時に日本へ派遣された部隊は、当時の高麗領の
北方に展開していた、旧金朝に仕えていた契丹人や女直人、漢人などに、モンゴル系の
投下集団が加わった種々の屯田軍が母体だったので(特に女直人が言及されている)、
むしろ、遼朝や金朝での(主に歩兵の)弓矢の形式やデータなんかを比較材料にした方が
良いんじゃないだろうか。

あと、一応オゴデイの時代に高麗に侵攻したモンゴル軍の司令官はサルタイという人物だった
んだけど、この人物、高麗の首都開京や漢陽山城を劫略した後、南に隣接する処仁城という
場所を包囲中、ちょっと油断した隙に城中に立て篭っていた坊さんのひとりに射殺されている。
(このあとモンゴル軍は高麗からすぐさま撤退し、この坊さんは高麗から恩賞を受け、還俗して
「金允侯」という名乗りを許されて江華島の高麗政府に登用されたらしい)
190名無し三等兵:2009/04/26(日) 21:28:57 ID:???
>>189の続き。

弓矢について『蒙古襲来絵詞』や『八幡愚童訓』でも両書に共通しているのは「矢さきを、そろへて
雨のことくに、いけるに」とあるように蒙古側の射撃の量が多い点なので、違いはそこら辺にあるのでは
ないか。「蒙古か矢、みしかしといへとも」ともあって大陸の弓矢は日本のものよりも短かったことは
当時も目を惹いたようだけど、>>187の人も言うようにより連射し易かったとかはありそう。

また、『八幡愚童訓』では例の劉復亨を射倒した少弐景資らの話や、敗色が濃くなり赤坂から
なんとか逃げた山田家の若者五人は蒙古側の騎馬三人から追撃されたものの、これを迎え撃って蒙古二人を
射殺したという話もある。

しかし同時に「楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、はつさす」ともあり、『蒙古襲来絵詞』でも
『八幡愚童訓』でも蒙古軍側も武士側も弓矢による攻撃に効果があったことは書かれているので、それほど
命中するかどうか顕著な差が両者にあったようには思えない。

当時の日本の弓矢と大陸の弓矢との優劣を云々するのは個人的にそんなには興味を惹かないけど、
最近の日本史の研究者の人たちの著書で、良く日本の弓は大陸のそれよりも性能的に劣っていた、
という主張は割合見るものの、いまひとつその論拠は曖昧な感じで、当時の大陸の軍事関係の
資料やデータに基づいているとかでもなくて、漠然とした印象だけで言っているような危うさが
あって、そこら辺は凄く気になる。(文永の役の時の司令官は『高麗史』とかで確認すれば「忽敦」
だったのははっきり書かれているなのに、「忻都」と良く間違える場合も多い)
191名無し三等兵:2009/04/26(日) 21:40:17 ID:???
>>189の補足。
サルタイの射殺以外にも、都市や城塞の包囲中にモンゴルの王侯が包囲されている城中から
放たれた矢が命中して戦死したって話は割と多くて、他にもチンギス・カンの中央アジア遠征中、
バーミヤーンの包囲中にチャガタイの長男モエトゥゲンも城中からの流れ矢に当たって戦死して
いるし、バトゥのルーシ遠征に参加したチンギスの第2皇后クランの長男だったコルゲンも
コロムナという都市を包囲中に同じく城中の敵からの矢に当たって戦死している。

当時の高麗とモンゴル側の弓矢にどれだけ性能差があったかは知らないけれど、その人の腕にも
よるのだろうが、包囲している敵の主将を射殺するだけの性能はあったようだ。
192名無し三等兵:2009/04/26(日) 21:49:54 ID:???
元軍は兵士一人が携帯する矢の数が武士のそれより多そう。
短い矢を遠くに放つアウトレンジ戦法で、命中率と威力の低さを数で補ったような
感じ。面目標に対する制圧射撃。
武士は果敢に接近して点目標に対し装甲貫徹力の高い正確な狙撃を行った感じ。
193名無し三等兵:2009/04/26(日) 23:16:40 ID:???
へえ。モンゴルの将軍を射殺した高麗の坊さんの話は初めて知ったわ。

そういや、武士達はてつはう以外には毒矢に驚いたようだけど
元軍のは矢が軽い分飛距離は伸びるが、威力が低くなるので
それを補う為に毒を塗ってたというわけかな。
194名無し三等兵:2009/04/27(月) 01:23:07 ID:???
毒矢は標準装備ではなく一部の装備の筈だよ
おそらく漢人部隊や高麗人部隊の一部だろうね

昔から大陸や朝鮮半島の戦争では良く使われてて
その威力も評価されていたが、生産能力の限界と維持管理の大変さから
一部での使用に留まっていた

文禄・慶長の役での朝鮮側記録にも日本軍相手に毒矢は大変効果的だが
生産と管理が難しくて少数の運用に留まっているという記録がある
195名無し三等兵:2009/04/27(月) 01:45:39 ID:???
盾・弩などは何故日本で普及しなかったのか 3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1218900522/

747 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/26(日) 00:45:19 ID:k+TTJD8b
>>743
>和弓が優秀過ぎて出番無し。
和弓が短弓や弩より優秀なんて事実はないよ。
英軍のロングボウの例は無関係。

元寇や朝鮮征伐の歴史を振り返るまでもなく、

日本がオリンピックに出場し始めた頃、
和弓の達人チームがアーチェリー競技に出て
ビリになった事実は有名だよ。
196名無し三等兵:2009/04/27(月) 07:17:56 ID:???
>>194
じゃあチンギスが毒矢で死にかけたけど、ジェルメが吸い出したって話は創作?
197鎌倉幕府は反省しる!:2009/04/27(月) 13:31:11 ID:???
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/744565/
>● また『元寇』自体の教え方にも問題がある。元の侵略は鎌倉幕府側に責任がある…という馬鹿げた論説が罷り通っているのだ。
198名無し三等兵:2009/04/27(月) 17:42:29 ID:???
どう贔屓目に見ても得宗家の責任だろww

丁重な文面を携えて送られてきた外交使節をガン無視
丁重な文面を携えて送られてきた外交使節をガン無視
三度も派遣されてきた外交使節を殺害
10:0で特宗家の過失
199名無し三等兵:2009/04/27(月) 17:45:05 ID:???
弁護はしない
200名無し三等兵:2009/04/27(月) 17:57:52 ID:???
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!
201名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw
202名無し三等兵:2009/04/27(月) 19:20:05 ID:???
>>197
なんか軍事板とは水と油のウヨサイトだな
まあ面白い事も書いてあるけど

以下転載

しかし史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、陸奥・出羽(東北地方)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、
信濃(長野県)、三河・尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、備前(岡山県)、筑前(福岡県)、日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、豊後(大分県)と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。
203名無し三等兵:2009/04/27(月) 21:17:04 ID:???
で、当時モンゴルと友好な通商関係だった国ってあんの?
204名無し三等兵:2009/04/28(火) 09:18:49 ID:???
>>198
で、それのどこが過失なんだ?過失ってのは不注意な過ちってことだろ。
その外交姿勢でなんか失ったか?
205名無し三等兵:2009/04/28(火) 14:34:54 ID:???
>>201
じゃあ一度目と二度目を出せば?
どうせ無理だろうけどw
206名無し三等兵:2009/04/28(火) 14:41:43 ID:???
>>205
帰ったら載せてやるよ国士さんw
207名無し三等兵:2009/04/28(火) 15:32:30 ID:???
>>206

「友好的な国書」楽しみにしてるよ
208名無し三等兵:2009/04/28(火) 15:36:44 ID:???
>>203
それも興味あるね
まさか高麗とか言い始めたらちょっとおもしろいw
209名無し三等兵:2009/04/28(火) 15:40:09 ID:???
>>198
そもそも国書を無視されたから侵略していいとか
DQNすぎるにもほどがある
そんな国だからシカトされたんだろう
210名無し三等兵:2009/04/28(火) 19:51:03 ID:???
元と高麗の関係はアメリカと日本の関係だよ ようするに893と搾取される市民という関係。
211名無し三等兵:2009/04/28(火) 21:51:16 ID:???
>>208
強いて言えばチベットか?
でもあそこも従属関係だしなあ。高麗に至っては完全に属国だろ。
212名無し三等兵:2009/04/28(火) 23:46:17 ID:???
そもそもモンゴルと隣接していた国で属国か、敵対していなかった国なんてあったっけ?
213名無し三等兵:2009/04/29(水) 00:39:04 ID:???
高麗は元宗と忠烈王がクビライとの関係を緊密に持つ事でモンケ時代までの叛逆政権から
真っ当な服属政権として地位の向上に務め、成宗テムルの時代には高麗附馬国王家として
元朝では、チンギス・カン家最大の姻族だったコンギラト部族首長家であるアルチ・ノヤン家に
近い地位にまで躍進している。

>>200では訳していないみたいだけど、例の国書では自分と高麗は君臣の関係だけど、その実、
親子のようだと述べている。モンゴル帝国に仕える服属政権としての義務はあれこれ要求しては
いるけど、クビライは基本的に元宗や忠烈王の高麗国王位それ自体は安堵出来るよう色々と配慮は
していて、例えば、元宗が権臣林衍に廃位された時はそのままにしないで元宗の復位を強力に後押ししたし、
忠烈王から公主降嫁の要請も初めかなりは渋ったようだけど条件付きでちゃんと許可していて、
本当は服属政権の義務として南宋遠征に兵馬を大量に供出しなくちゃならなかったけど、重臣李蔵用が
クビライと直接交渉して日本への派遣時のみ兵力を出す、ということになったが基本的にこの時の
取り決めはその後も守られ、ナヤンやカダアンの叛乱には対抗せねばならなかったけど、高麗軍は
南宋などへは派遣されずに済んでいる。クビライの言う「親子」(保護⇔被保護)としての筋道は
外交的文言だけで無く、なおざりにしないよう配慮はちゃんとしていた。

でも、これはモンゴル皇帝家に「臣属する政権」としての地位だったりクビライからの配慮だから、
「友好的」というのとは次元が違う。

214名無し三等兵:2009/04/29(水) 00:41:25 ID:???
>>213の続き。
ミカエル八世のビザンツ帝国はイルハン朝とは「友好的」だったかも。
ただ、庶腹の皇女をフレグ、アバカに嫁がせてイルハン朝と同盟したせいもあって、当時フレグ家と
交戦状態にあったジョチ・ウルスとブルガリアの連合軍に攻め込まれている。ジョチ・ウルスの西部
右翼諸軍の総帥だったノガイにも皇女を嫁し、ジョチ家に貢物を献ずる事で安全保障を得たけど、
これはジョチ家の外圧に屈服せざるを得なかったので、ジョチ家とは「友好的」とかではない。

それでも、イルハン朝はアナトリア一帯に設けたルーム州の行政範囲はルーム・セルジューク朝の
支配領域にとどまっていて、イルハン朝で書かれた資料を見る限るでは、ビザンツ帝国には特に
臣従させていた訳でもなく内政に干渉していたようでもないのうえ、敵対もしていないので、まあ
「友好的」と言えなくもないと思う。
そもそも近現代以前で隣国と「友好的」だった地域というのも例が多いようには思えないが・・

> 真っ当な服属政権として地位の向上に務め
「」入れるのを忘れたけど、モンゴル帝国の服属政権として「真っ当な」って意味ね。
215名無し三等兵:2009/04/29(水) 03:38:59 ID:???
>>196
いや、あれはチンギス(当時はテムジン)が宿敵タイチウト部族を撃ち破ったコイテンの戦いの時、
流れ矢が頸動脈を傷つけてなかなか血が止まらなかったみたいだけど、「塞がった血」をジェルメが
日暮れから夜半にかけて付きっきりで吸い出し続けて、ようやく夜中に傷が固まってテムジンも
意識を取り戻した、という話しなので、矢傷で死にかけはしたけど毒矢という訳ではないようだ。

(『元朝秘史』巻四の末尾あたりに載る話し。意識を取り戻したテムジンが喉の乾きを訴え、
 ジェルメは夜中残敵の徘徊する戦場跡を忍んで乳酪を探し、無事に戻って衰弱したテムジンに
 水で薄めたヨーグルトを飲ませて介抱するという手柄話がこのあと続く)
216名無し三等兵:2009/04/29(水) 12:56:26 ID:???
しかし>>200の意訳やったやつは天才だなw
217名無し三等兵:2009/04/30(木) 02:16:41 ID:???
>>206はまだ家に着かないのか
218名無し三等兵:2009/04/30(木) 12:21:56 ID:???
>>215
ありがとう。何時もながらあんたのレスはためになるわ。
今までずっと毒矢と勘違いしてたわ。

>>217
あまり追求してやるなw
219名無し三等兵:2009/04/30(木) 14:11:40 ID:???
>>200はずいぶん前にも見かけたコピペなんだぜ?
まあ内容としては元の意図を充分言い表してると思うけど
220名無し三等兵:2009/04/30(木) 16:37:16 ID:???
221名無し三等兵:2009/04/30(木) 17:09:00 ID:???
>>218
家のPCが直らないだけだks

国書の内容
天の恵みを受けた(枕詞)モンゴル国皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
>おまえんとこみたいな小国はさ
一言一句も「小国」扱いする字句なし

ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
お隣の朝鮮も俺が即位してすぐ講和して、いまはあいつらと友好関係にある。
>あいつら超しっぽふってきたぞw
3つめの件に従属的関係の文言はなし

おまえらも当然おれ仲良くするよな?
>おまえらも当然おれの子分になるよな?
通商の要求のみでその他の要求は一切なし

俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつ来なくなったけど
きっとおまえら情勢の変化を知らないだけだよな?
というわけで俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw   じゃあな!
>俺も軍事力はつかいたくねーからよw   じゃあな!
中華皇帝が文末に使う定型文な
222名無し三等兵:2009/04/30(木) 17:50:31 ID:???
大してかわんないじゃんw
てかその文言でも「友好の為の手紙」ってのはかなり無理あんじゃね?
223名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:21:49 ID:???
どう考えても友好の手紙だろw

求めてるのは通商関係だけで、朝貢も何も要求してないうえ
日本が何の挨拶もしないから、元側が送ってきただけ
文面見ても格下扱いや脅しの文句は入ってない。
これに対して完全無視とか、いまやったら野蛮国認定確実w
224名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:25:07 ID:???
休日を満喫してるねえ
225名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:34:40 ID:???
>>223
お前本当に日本人?
226名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:41:05 ID:???
>>223
無視したら、攻めてくるとかwいまやったら野蛮国認定確実だろwwww
227名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:41:54 ID:???
>>223
>>226
現在の価値観で野蛮云々言う事に一体何の意味があるのか教えてくれ。
228名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:49:47 ID:???
>>223
>>中華皇帝が文末に使う定型文な
で、中華皇帝が周辺国家に対して対等の関係を求めた例はあるのか?
229名無し三等兵:2009/04/30(木) 18:55:51 ID:???
>>226
慣例に則った文書で通商を要求
        ↓
完全黙殺のうえ門前払い
        ↓
再度、同様の文書で通商を要求
        ↓
完全黙殺のうえ門前払い
        ↓
2度の行為に対する説明及び通商要求
        ↓
来ていた外交官をいきなりぶち殺す
        ↓
       開 戦
野蛮人認定されるのは確実に得宗家w

>>228
漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。
あと、明代は朝貢国扱いだけど、この時は対等関係でのな通商要求

もう返答できないけど、潰走認定すんなよw
230名無し三等兵:2009/04/30(木) 19:03:15 ID:???
>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係
そりゃあガチやったらかなわない相手だものw
231名無し三等兵:2009/04/30(木) 19:14:20 ID:???
>>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。
あと、明代は朝貢国扱いだけど、この時は対等関係でのな通商要求

いやいや、俺が言ったのは戦争で不利になって和睦したり同盟したりとか苦し紛れの対等な関係
じゃなくて中華帝国となんの脈絡のない国に対して対等な関係を求めたことはあるのかと聞いて
るんだが。
232名無し三等兵:2009/04/30(木) 19:40:26 ID:???
>>229
はいアウト。使者殺したのは文永の役の後ですから。
あとホラズムも高麗もマムルークもベトナムもジャワも
みーんな使者殺したり拷問したりしてますが彼らは野蛮人じゃないんですか?
233名無し三等兵:2009/04/30(木) 19:40:46 ID:???
>>229
日本人拉致って帰るような使節団信用できるわけないだろwどんな友好関係だよw
234名無し三等兵:2009/04/30(木) 20:09:41 ID:???
蒙古の国書を当時の日本が脅しと受け取ったのは事実。
そりゃ金を滅ぼし高麗を属国にし南宋を侵略中の国から国書が来ればそう思う
のも無理はない。

ただ蒙古が脅しをかけるときはあんなもんじゃなくて
「必ず兵馬を送って攻め滅ぼしてやるから城濠を修理して待ってろ」
みたいなことを言うから彼らなりに言葉を選んだのも確かだ。
235名無し三等兵:2009/04/30(木) 20:17:15 ID:???
>有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。
旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、
数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、
戦闘能力も高くなかった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまう。

ウィキペディアにあったが、殺りたい相手は容赦なく殺るモンゴル人がこんな回りくどい手段を取るとは思えん。
236名無し三等兵:2009/04/30(木) 21:07:17 ID:???
つかわざわざ「棄民」するためのコストが高すぎて無理あるよな。
むしろ農具持ってたのは、長期戦を見込んでの事でしょ
237名無し三等兵:2009/04/30(木) 21:14:27 ID:???
水も食料もあっという間に底を着くのに
泥縄の農業でどうにかなるとも思えないが
238名無し三等兵:2009/04/30(木) 21:16:43 ID:???
単純に征服後のことを考えて持ってきたのではないの?屯田兵的に軍を置くつもりだったのでは?
239名無し三等兵:2009/04/30(木) 21:42:01 ID:???
むこうのスレが元寇ネタだらけに

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1218900522/

814 :人間七七四年:2009/04/29(水) 18:30:23 ID:myzRItfJ
だからその殆どの根拠は?

816 :人間七七四年:2009/04/29(水) 20:15:08 ID:55o8MUyp
>>814
http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub203.htm

文永の役

高麗人 12700人
宋 人
女真人
漢 人
モンゴル人  30人

総数 25000人

弘安の役

高麗人 25000人
宋 人
女真人
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人  150人

総数 50000人
240名無し三等兵:2009/04/30(木) 21:49:47 ID:???
>>237
というか、一回目の役では矢すぐにつきているから、どうみても短期の偵察戦にしかみえないのに
非戦闘員&農具もってくる理由がわからんというか、軍監してたモンゴル上層部が無能な人物だったのかねぇ。
素人目にかんがえても戦準備に一貫性が感じられないんだが、誰があの戦の統括してたんだ?

あの戦なんというか、野村監督風にいえば、勝ちに不思議の価値かり、負けに不思議の負け無しを地でいっていると思う。
241名無し三等兵:2009/04/30(木) 21:52:48 ID:???
>>239
よくその数字見るけど、なんの史料にのってるんだ?
242名無し三等兵:2009/04/30(木) 22:49:57 ID:???
>>240
農具持参は二回目では?

>>241
元のサイトもどこからかの孫引きなんだろうけど、最低限どういう本に
載っていたのかは書いて欲しいね。
243名無し三等兵:2009/05/01(金) 04:02:31 ID:???
>>240
矢が足りなくなったのは壱岐対馬で無駄に十日も虐殺してたからだろう

都督使・金方慶「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。
        船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」
総司令官・忽敦「孫子の兵法に小敵の堅、大敵の擒とあるように、味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、
        大軍の前では結局虜にしかならない。撤退するしかない。」(高麗史・金方慶伝)
だれも偵察が終わったので帰るかなんて言ってない。
もっと戦いたいがもう限界だから帰ろうと言ってる。

文永の役が偵察ならばその偵察で何を得たのか?
なにせ、水城にも大宰府にもまったく攻撃することなく
上陸しても海が見える程度のきわっきわをうろうろしただけでは地理情報も内情もまったくわからない。
偵察の役を果たせてない。

そもそもモンゴルがやってたほかの地域への攻撃ならば三万なんて本気の攻撃でも多い方。

244名無し三等兵:2009/05/01(金) 04:04:18 ID:???
>>221
おいおい
一度目と二度目ってやつを早く出せよ

>201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

はやくはやく
245名無し三等兵:2009/05/01(金) 09:51:57 ID:???
>>240
つか俺が見たソースだと
文永は金包茎率いる高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万って内訳で
弘安はこれプラス旧南宋兵10万(詳しい内訳はわからない)の合わせて14万だったぞ?どれが正しいんだ?
あと、そのスレ見たら、文永にも南宋兵がいたと勘違いしてる人がいる。
文永の時点ではまだ宋は滅んでない。

>>244
もうこれ以上イジメてやんなよw
文永の使者殺したと勘違いしてるレベルの人なんだからw
246名無し三等兵:2009/05/01(金) 14:34:57 ID:???
>味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、大軍の前では結局虜にしかならない

もともと日本は人口も兵力も莫大だけど>>202を見る限り
四国や中国からも博多に続々と馳せ参じてたんではなかろうか
阿波(徳島県)の御家人が対馬に居たってすごいな
247名無し三等兵:2009/05/01(金) 14:53:35 ID:???
しかしこうしてみると、古代から東アジアでジャイアンのごとく振舞ってきた中華が
突如あらわれた欧米にボコボコにやられたってのは痛快だよな
なんかこう、ザマーミロ! みたいな気分になる
もっともその後で中華よりひどいことになっちゃうわけだが
それでもやっぱりザーマーミロだ
こんなこと思うのは俺が小物なんだろうけどなw
248名無し三等兵:2009/05/01(金) 15:05:17 ID:???
>>247
なんで痛快なのかよくわからん。別に中華帝国は
日本を圧迫したり、攻めてきたりしてないだろ。
(日本が海で囲まれていたことと、高い国力を
有していたこともあるだろうが)
感謝しろとは言わんが、むしろ、中華帝国のおかげで
学んだり儲けたりした部分の方がでかいだろ。
249名無し三等兵:2009/05/01(金) 16:05:31 ID:???
というか大陸と距離を置いて付き合っていたから
日本はモンゴルの侵略を免れ、その後も中華にベッタリにならなかったから
19世紀に欧米が進出してきたときも、冷静に対応して近代化に成功したんだよな。
250名無し三等兵:2009/05/01(金) 19:36:58 ID:???
いろいろサイト回ってるが弘安はいいとして
文永のほうは兵力がまちまちだな
水夫が15000なんて意見もよく見る
251名無し三等兵:2009/05/01(金) 22:09:19 ID:???
そりゃ大掛かりな遠征となりゃ非戦闘員も大量に動員するが
兵力のうちの殆どが非戦闘員なんてことは流石にないだろう。
そうなると何しに来たの?って話だし。
252名無し三等兵:2009/05/01(金) 22:14:16 ID:???
文永の最初の段階で日本側はどれくらいだったの?
253名無し三等兵:2009/05/01(金) 23:45:58 ID:???
>>245
> 高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
> その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万

それらの数字は『高麗史』忠烈王世代家、同書金方慶伝、『高麗史』完成の翌年に編纂された
『高麗史節要』の文永の役関連の記事(それぞれの記事の元宗十五年(1274年)十月条)に
基づくものなので別段問題ない。

「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』忠烈王世代家)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』金方慶伝)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史節要』元宗十五年冬十月条)

・・・見て分かる通り、三箇所の記述は全部一字一句同じなのでうpして並べてもあまり意味無いけど・・

(一応『高麗史』の数十年後に編纂された『東国通鑑』にも出てくるけど、文永の役の件は
 『高麗史』金方慶伝の丸写しなのでスルーしても可だろう。ただ、日本では朝鮮半島史の史料として
 『東国通鑑』が十七世紀中頃から流布していて、江戸時代や明治初年まで日本での蒙古襲来関係の
 研究では専らこちらがメインで使われていた。『高麗史』が蒙古襲来関係の史料として使われる
 ようになったのは十九世紀も末くらいになってからなんだそうだ。大正時代に『東国通鑑』の
 原文+全文書き下し本なんかもも出版されてたりする。)

「元本国」と言っても忻都率いる鳳州屯田などからの軍は高麗領北辺からやって来たけど、これは元朝の
領域としては南東の辺域にあたり、当時「腹裏」と呼ばれた大都や上都開平府などの中心地域やムカリ国王家
などの譜代五投下、チンギスの兄弟たちの後裔である東方三王家の本拠地からも外れるため、「モンゴル高原
からやって来た」的なビジョンとは大分違いけど。
254名無し三等兵:2009/05/02(土) 05:03:59 ID:???
元寇後の大混乱が収束したのは約300年後の秀吉の天下統一後といえるのだろうか
255名無し三等兵:2009/05/02(土) 10:02:42 ID:???
>>254
それはない。
256名無し三等兵:2009/05/02(土) 10:21:26 ID:???
>>253
モンゴルやテュルク系の遊牧民は元々人口少ないし
そりゃまあ、あれだけ拡大すれば制服民中心の編成になるよなあ。
257名無し三等兵:2009/05/02(土) 11:25:40 ID:???
>>251
「用 兵 夫 孰 所 好 (兵を用いることなど好むところではない)」

非戦闘員が多いというのはこの言葉を裏付けているね。つまり友好的な訪問団に対して外交というものがわからない
日本人が狼藉を働いたというわけ。
258名無し三等兵:2009/05/02(土) 11:42:28 ID:???
日本史板でもそうだったけど煽り屋が張り付いているね
259名無し三等兵:2009/05/02(土) 11:50:34 ID:???
今も昔も日本人が外交オンチなのは世界の常識ですけどね。
260名無し三等兵:2009/05/02(土) 11:53:40 ID:???
手を組むだけ無駄な連中と手を組むところなんか特にねw
261名無し三等兵:2009/05/02(土) 11:55:54 ID:???
友好的な訪問団というのは矢をすぐに打ち尽した点からも説明し得る。
262名無し三等兵:2009/05/02(土) 12:20:23 ID:???
自分で調べるのが面倒だから煽って誰かに話させようってことかな
263名無し三等兵:2009/05/02(土) 14:50:34 ID:???
>>257
またお前かw
>>229でもうレスしないとか言ってなかった?w
264名無し三等兵:2009/05/02(土) 19:48:10 ID:???
PC壊れたとか言うのが嘘というのがわかったところで…

はやく友好的な国書とやらを出してよ
>201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

265名無し三等兵:2009/05/03(日) 00:00:01 ID:???
たまたま三、四万人で海岸散歩をしていただけなのに襲われるなんてひどすぎる話だな。
266名無し三等兵:2009/05/03(日) 03:28:45 ID:???
そもそも>>200は本当に三度目の国書?
あれが最初じゃないの?
267名無し三等兵:2009/05/03(日) 06:53:49 ID:???
>>265
一発だけなら誤射かもしれない
268名無し三等兵:2009/05/03(日) 09:21:24 ID:???
なあに、かえって免疫がつく
269名無し三等兵:2009/05/03(日) 12:16:54 ID:???
>>268
確かに文永の役は日本にとっては予防接種だったな
270名無し三等兵:2009/05/03(日) 13:25:54 ID:???
確かに最初から弘安並みの規模で攻めてきてたら結果は違ってただろうな。
271名無し三等兵:2009/05/03(日) 13:52:03 ID:???
といっても
これまた史実通りの弘安の役なら
江南軍はあとからくるので先発の東路軍の規模はさほど変わらなかったりする
272名無し三等兵:2009/05/03(日) 13:57:44 ID:???
でも防塁が存在しないわけだから橋頭堡は簡単に取れるんじゃない?
日本軍の数だってもっと少ないわけだし。
273名無し三等兵:2009/05/03(日) 16:32:33 ID:???
日本があっさり撃退

弘安の役は威力偵察ニダ

という捏造史になるだけな気が売る
274名無し三等兵:2009/05/03(日) 16:43:29 ID:???
坂東武士「よっしゃあ!一番乗り!蒙古の連中フルボッコにしてやんよwwwww」
九州武士「あのさあ、テンション上がってるとこ悪いんだけど」
坂東武士「ん?何?」
九州武士「遥々来てもらってなんだけど、もう帰っていいよ。」
坂東武士「は?w意味わかんないんですけどw」
九州武士「いや、だからあいつらもうとっく逃げ帰って、戦終わってんのよ。はい、お疲れさん」
坂東武士「(´;ω;`)」
275名無し三等兵:2009/05/03(日) 17:13:22 ID:???
>>197見ると離島ですら各地から馳せ参じてるようだけど
実際はやる気のある奴は勝手に参加してたのかな
通説では逃げ回って参加しなかった連中がいたという話ばかり有名だが
276名無し三等兵:2009/05/04(月) 14:50:13 ID:???
そういえば弘安の役で元軍が向こうを出港したのって今の季節ぐらいでしょ
旧暦だからもう博多湾についてる?
277名無し三等兵:2009/05/04(月) 16:28:08 ID:???
>>264
つか今思ったんだけど、モンゴルと高麗の関係って
戦国時代の今川氏と家康幼少期の松平氏の関係に近かったんじゃない?
278名無し三等兵:2009/05/04(月) 16:41:49 ID:???
それがどうして>>264へのレスなのか
279名無し三等兵:2009/05/04(月) 17:12:34 ID:???
ごめん、>>214だったわ
280名無し三等兵:2009/05/04(月) 17:16:37 ID:???
>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。

司馬遷が史記の「匈奴列伝」で
「高祖は一族の娘を送り、匈奴にに綿、絹、酒、米その他を贈り・・・」と
書いてあるのに・・・
人を試してるんですか?
281名無し三等兵:2009/05/04(月) 18:21:37 ID:???
うわ〜中華がここまで頭下げまくってるの初めて見たw
282名無し三等兵:2009/05/04(月) 18:52:32 ID:???
>>276
今ぐらいに攻撃を開始して
夏になっても上陸すらできないって…
283名無し三等兵:2009/05/06(水) 16:57:08 ID:???
当時の九州に日本海越えて十数万の軍勢を派遣・・
上陸成功したらしたで補給が大問題だったろうな

当時の輸送力とか考えるとやっぱ体のいい棄兵だったとしか思えないな
284名無し三等兵:2009/05/06(水) 17:09:26 ID:???
>>283
陸上を侵攻するよりは遥かに楽。
船の積載量は馬での輸送を遥かに上回る。
285名無し三等兵:2009/05/06(水) 17:31:18 ID:???
>>283
見苦しい
286名無し三等兵:2009/05/06(水) 20:02:17 ID:???
>>284
まさに棄兵に打ってつけというか
287名無し三等兵:2009/05/06(水) 20:12:05 ID:???
言い訳ばかりだなw
288名無し三等兵:2009/05/06(水) 20:22:32 ID:???
国書マダ〜?
289名無し三等兵:2009/05/06(水) 21:51:28 ID:???
>>283はどうでもいいが、海上侵攻が陸上侵攻よりも楽ってのは暴論過ぎないか?
290名無し三等兵:2009/05/06(水) 21:54:58 ID:???
朝鮮出兵も上陸はらくらく成功して長期戦。倭寇もちょくちょく沿岸を荒らし、中には南京まで行ったのもいる。
守る側は海岸線をすべてはカバーしようがないから攻撃側主導で展開できる。
291名無し三等兵:2009/05/06(水) 22:19:35 ID:???
地続きならわざわざ船団を用意して上陸する必要すらない。そのまま歩いて侵攻できる。
海岸線を全てカバー出来ないと言うが国境線を全てカバー出切るのか?
292名無し三等兵:2009/05/06(水) 23:23:16 ID:???
前近代での船舶での運送は、「ハイリスク・ハイリターン」の世界。
エジプトでのインド洋交易に携わっている商人達の話を聞く限りでは、積載量は陸上のラクダや馬
なんかでの隊商が運ぶ量に比べて圧倒し、隊商で運び切れないような大型の商品も運ぶ事が可能だった。
そのため無事送り先に届けばその収益は非常に高い。

その代わり、天候で安全性が大きく左右されるのが問題で、海上で遭難することを考えれば危険性は
船の方が圧倒している。経験豊富な隊商だったら通常の街道を間違える事はまず無いし、街道の治安の
問題はその地域の政治的軍事的な安定性が確保出来ているかどうかで違うが、野盗に襲われても交渉で
解決する場合も無くは無い。
ところが海上の場合、船が嵐に遭うの日常的だし、沿岸ならまだしも洋上で転覆すれば助かる見込みは殆ど無い。

ちなみに、高麗とクビライ政権が三別抄討伐をしていた頃の話だが、『高麗史』の元宗十四年三月己卯
(1273年4月15日)の条に、

「(元宗十四年三月)己卯、西海道戰艦二十七艘至伽耶召島遇大風敗没。南京判官任恂仁州副使李等
 録事裴淑及蒿工水手等一百十五人溺死。慶尚道戰艦二十七艘亦敗溺。」
(己卯、西海道の戦艦二十七艘伽耶の召島に至り、大風に遇い敗れ没す。南京判官任恂、仁州副使李シ]
 録事裴淑、及び蒿工水手等一百十五人溺死す。慶尚道の戦艦二十七艘亦た敗れ溺る。)

という記事がある。
数百人単位での艦船での行動は、戦闘とか何もしていなくとも風雨にさらされ船が転覆すればその
数百人単位で指揮官込みで部隊が丸ごと全滅する危険性もあり、トータルで見れば動員数が多ければ多い程、
海上侵攻が陸上での侵攻よりも楽とは言い難い。

無論、好天順風に恵まれれば大量輸送が出来るという利点は大いに発揮出来るだろうが、毎回そうとは
限らない。当時の船での海上輸送は飽くまでも「ハイリスク・ハイリターン」。
弘安の役は、出発からしてグズグズな感じだったが、完全に失敗したのは例の大風で船団が殆ど全滅状態に
なったことが直接の原因だったことを想起すれば十分だと思う。
293名無し三等兵:2009/05/06(水) 23:54:20 ID:???
>>290
もしかしたら、海流の関係もあるとか?
例えば日本→大陸は比較的簡単だが、大陸→日本は難しいとか。
まあ>>283の指示する棄民策とやらはナンセンス極まりないがね。
用済みになった住民や兵は、射的の的代わりにして皆殺しがデフォだったモンゴルが
南宋の時だけなんでそんな回りくどい真似すんのよ。
294名無し三等兵:2009/05/07(木) 01:54:56 ID:???
>>292
朝鮮西岸は半島にぶちあたって荒れまくり危険
対馬より東方は対馬海流の流れが速くて危険
北部九州と朝鮮南岸は順調に渡れば危険は回避できる
295名無し三等兵:2009/05/07(木) 02:54:50 ID:t22W5yLo
二回目は棄兵と考える方が自然。
旧南宋兵皆殺しにする方がコストも人員もかかるし、現地人の不満も募る。
それなら大遠征の大義名分で日本に捨ててきた方が効率的。
上手くいけば儲けもん。まあノーリスクハイリターンって事さね。
元が本腰入れてたのはベトナムだべ。
296名無し三等兵:2009/05/07(木) 03:46:54 ID:???
国書出せないの?
297名無し三等兵:2009/05/07(木) 04:17:38 ID:t22W5yLo
俺は例の国書の奴とは違う。ただ元側の目的について述べてるだけだ
298名無し三等兵:2009/05/07(木) 05:04:16 ID:???
まあどのみちベトナムも失敗してるけどね
299名無し三等兵:2009/05/07(木) 05:05:53 ID:???
>295
面白い妄想だが
まるで南宋人だけで攻めてきたような言い草だなw
300名無し三等兵:2009/05/07(木) 15:52:45 ID:???
元は常に侵略した先の人間を兵士に使う
反抗しなければよし使えない民なら普通に虐殺
そうしたなか
なぜ弘安の役だけ意味不明な珍回答連発してるのか

答え
日本の圧勝を認めたくないから
301名無し三等兵:2009/05/07(木) 16:48:55 ID:???
この際、元が本気だったかどうかなんてどうでもいい。





何故なら「結果的には」鎌倉幕府もまだまだ兵力動員する余裕ある状態で終わったわけだしw>>274
302名無し三等兵:2009/05/07(木) 17:10:23 ID:???
ようは人口も兵力も桁違いに多い日本を4万で落とすのは不可能ってことだな2回とも
303名無し三等兵:2009/05/07(木) 17:52:50 ID:???
一応弘安の役自体は大宰府の占領を目的にしてたのでいきなり日本を落とすというより
大宰府を落とすのに成功したら
そこを拠点にさらに次、さらに次と侵食していく予定


まあ兵力的には大宰府落とすんなら四万ぐらいでよかろうと予想したこと自体は
結構妥当。他国はそれぐらいで落ちてるんだから。

ただ武士が強すぎて計画がまったくうまくいかなかったw
304名無し三等兵:2009/05/07(木) 17:59:35 ID:???
>>301
確かに

本気じゃなかった論でいえば動員数的には日本の方が片手間だったともいえるわな
まあ現地の武士は当然本気、必死でやってたわけだが…

指の先ではじいたようなもんだな。本気のデコピンってやつだわ。
305名無し三等兵:2009/05/07(木) 18:09:10 ID:???
>>276
逆、グレゴリオ暦なら約一か月遅くなる
306名無し三等兵:2009/05/07(木) 18:29:03 ID:???
>>303
それって文永のことじゃね
弘安だと日本側も5万以上になり上回る

文永に関しては示威行為だと思うけどね
307名無し三等兵:2009/05/07(木) 19:03:52 ID:???
そういや、日本攻めた元軍はやたら寄せ集めだの何だの言われるが
他地域攻めた連中はどうだったんよ?元々モンゴルは人口そんなにいないんでしょ?
308名無し三等兵:2009/05/07(木) 20:25:46 ID:???
>>307
昔ここか日本史のスレで西征には全部族から抽出されたメンバーが参加したとあったな
当時は国士みたいな住人しかいなかったので完全にスルーされてた
309名無し三等兵:2009/05/07(木) 21:05:34 ID:t22W5yLo
バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍や
フラグ率いる西アジア遠征軍や南宋遠征軍に較べれば
日本遠征軍は戦力的に将、兵卒共に大きく劣ると言わざるを得ない。
フビライが本気だったとは思えない。やはり高麗が日本攻めろと五月蝿いから
形の上だけ攻めて、実質棄民だったと見るのが自然。
兵士の九割以上が属国の高麗と旧敵の南宋だから失敗しても痛くも痒くもない。
310名無し三等兵:2009/05/07(木) 21:21:10 ID:???
>>295,>298
陳朝のベトナムはクビライの時代には元朝側に服属していて、鎮南王トガンが現地で無茶な徴発を
行ったせいで離叛した。
陳朝のベトナムでの戦役は、最後に鎮南王トガンの軍が雲南へ撤退中に襲撃されてボロボロに
やられているけど、それ以前には陳朝の側も鎮南王の軍に何度もフルボッコにされているから
なかなか決着の付かない消耗戦だった訳で、2重3重に日本への文永・弘安の役と内容が違う。

あと、陳朝は鎮南王トガンの軍を雲南へ撃退はしたけど、元朝には陳朝側にかなり有利な条件で
再度元朝の服属政権として復帰することを誓約していて、元朝もこの要求をほぼ全面的に受け入れて
いるから、この点も日本の場合と違う。

ベトナムの場合、元朝としては離叛した陳朝を再び自らの側に引き留めることが目的だったので、
鎮南王トガンの軍が最後惨敗したとは言え、当初の目的は最終的に達成出来たから、その意味では
「成功した」と言えると思う。
311名無し三等兵:2009/05/07(木) 21:39:14 ID:???
>>189-191
思い出した
以前モンゴル関係の本を見てたら朝鮮や中央アジアで結構モンゴルの高名な連中とか
弓で死んでたんだよな。すっかり失念してた
劉復亨が重傷を負った件は、それらと比べるとむしろ見劣りする
312名無し三等兵:2009/05/07(木) 22:56:22 ID:???
>>310
そりゃまあ、一旦服属させた地域で反乱起きりゃそっち優先で鎮圧するよなあ。
313名無し三等兵:2009/05/08(金) 00:32:31 ID:???
>>309
つまり元寇の元凶は高麗であり、朝鮮人を征伐するその後の行為はそれですべて正当化。いいかもw
314名無し三等兵:2009/05/08(金) 01:49:46 ID:???
>>309
ウルスにあやまれw





315名無し三等兵:2009/05/08(金) 03:03:08 ID:???
>>304
>本気のデコピン

言いえて妙
316名無し三等兵:2009/05/08(金) 17:51:33 ID:???
牟田口「モンゴル帝国の亡霊がインパール作戦の邪魔をした」
317名無し三等兵:2009/05/08(金) 18:22:01 ID:???
モンゴルはカラフトアイヌにすら勝てなかったって本当ですか?
318名無し三等兵:2009/05/08(金) 19:43:57 ID:???
和弓伝説が崩れていく
319名無し三等兵:2009/05/08(金) 19:53:06 ID:???
どっちかというと和弓は過小評価される傾向にあった気がするが。
320名無し三等兵:2009/05/08(金) 20:39:15 ID:???
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1147423539/

668 :世界@名無史さん:2007/09/02(日) 03:17:35 0
上の方で元寇での日本勝利は暴風雨のお陰という相変わらずの書き込みがあるが、
ディスカバリチャンネルで元寇のことを取り上げたときに、日本の勝因は、やはり上陸
されても橋頭堡を築かせなかったこと、長大な弓を使ったので、射程ギリギリでは
日本の弓の方が威力があったこと(劉復享が小弐景資に射倒されたのは、日本軍
弓の射程外と思っていたらそうでなかった)、接近戦では刀剣の扱いに巧みな鎌倉
武士の方が強かったこと、そして急に船を揃える為に生粋の浅い内陸河川用の船
を多数徴用したので、台風にはひとたまりもなかったとかなり客観的に分析してる。
再現ビデオの日本軍の時代考証は滅茶苦茶だったが。
アメリカが無理に日本びいきにする必要もないわけで、勝てる要因があったから
勝てたというきわめて当たり前の分析だったよ。
別のアメリカの歴史番組をアメリカにいる時に見たときには、皮や布製の元軍、高麗軍
の鎧は、騎射や槍を構えての突撃には身動きが容易で向いていたが、鉄の鎧を貫通
する日本の弓矢と斬撃に向いていた日本刀に対しては有効な防御にはなってなかった
と言ってたな。実際中国の鎧を矢で打ち抜いたり日本刀でばっさり切り裂いて見せていた。
321名無し三等兵:2009/05/08(金) 21:47:51 ID:???
東南アジア戦線に数千の兵力しか投入しなかった元が、その数倍の兵力を
投入した日本戦が、単なる牽制攻撃ですぐに引き上げる予定な訳がないだろ。
322名無し三等兵:2009/05/08(金) 23:00:33 ID:???
合計16万人以上も送って失敗
そして倭寇が荒らしまわるようになった

民衆はどう思ったのかな
323名無し三等兵:2009/05/09(土) 00:18:54 ID:???
>>322
民衆についてだが
前に図書館見てきたんだが
その後にもあった小規模な侵攻で日本中が大騒ぎしただの
元寇後は脅威が続いたとか書いてる本ばかりだった
324名無し三等兵:2009/05/09(土) 02:13:13 ID:???
小規模な侵攻は刀伊の件かな?
325名無し三等兵:2009/05/09(土) 04:51:23 ID:???
「その後」だから刀伊じゃなくて応永の方か。

しかしまあ、同じように対馬攻めたのに
片や大虐殺が繰り広げられ、片や対馬の武士達に瞬殺されるとは
蒙古襲来の対馬攻めと応永の対馬攻めで
なんでここまで差がでたもんなのか?
326名無し三等兵:2009/05/09(土) 06:52:15 ID:uCbV6VXC
1日で引き上げたことから威力偵察説なんだろうが、むしろ1日で撤退したことのほうが異状。
撤退して大風に遭ったのではなく低気圧の中に飛び込んだ。
また往路の対馬、壱岐では滞在せざるをえなかったのだろう。

魏志倭人伝なぞ解きの旅さんの
通信使一行日本往還日記から渡海の状況が察せられる。
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/nituki.htm
>『往路』
初十日、この日朝陰るも晩に晴る。早朝船を発し、三百里を行き、
夕府中〔対馬厳原町〕に到る。乃ち島主平義智の居る所。……
八月十一日、この日晴れ。風勢好からず、因って留る。・・・
十二日、この日晴。・・・
十三日、この日陰る。仍(よ)って町中に留る。
十四日、この日陰り、洒(さい)雨あり。・・・
十五日、この日陰る。・・・
十六日、この日朝晴れ晩は雨ふる。・・・
十七日、この日陰雨。・・・
十八日、この日陰る。朝府中浦を離れ、開船して洋に出づ。
風濤甚(はなは)だ緊(きつ)く、已むを得ず、内浦に回り泊す。
……

『帰路』
(旧暦10月10日名護屋発11月23日釜山着、最後はかなり冒険したようだ。)
対馬に回りてより後、風に阻まれ留ること二十六日。……
盖(けだ・蓋?)し渡海には須(すべか)らく東南風を得べくも、
冬月はこの風を得難し。故に留滞してここに至る。嘆ずべし。
327名無し三等兵:2009/05/09(土) 07:35:23 ID:???
>至元十一年冬十月、入其国敗之。而官軍不整。又矢盡。惟虜掠四境而帰。

官軍整ならずは集団戦術を使うので元軍の損害を示すと読むのが通りがよいと思うんだけどどうだろう。
南太平洋海戦の航空隊やろ号作戦の一航戦搭乗員のような
328名無し三等兵:2009/05/09(土) 09:21:32 ID:???
>>326
自己スレ。いや別に杉山先生がいい加減な説吹いてるとかそういう意味じゃ全然ないですから
ただ、攻略目的だろうと威力偵察だろうが関係なく天気待ちせずに玄界灘に漕ぎ出したのは、
波乗りして遊ぶほど余裕があった可能性があると思うんです。
329名無し三等兵:2009/05/09(土) 11:27:54 ID:???
急がないと武士に殺されちゃう死ね
330名無し三等兵:2009/05/09(土) 13:55:58 ID:???
>>322
「民衆がどう思ったのか」についてはよくわからない。
基本的に史書は官僚が残した記録なので、司馬遷のような変人でもなければそういうものは言及しない。

渡海遠征なら、日本以外にもヴェトナムやジャワ等々にも行った。
しかし、これらの国はその後、元に対して恭順の意志を示し、朝貢の使節を送っている。
つまり、軍事遠征としては失敗だったかもしれないが、政治的には成功していると言える。
(少なくとも「中国」という枠組みの中では、軍事遠征の成功という言い訳が可能。)

一方の日本は、他の国と同じ様に「元に朝貢の使節を送ったのか?」と言えば、答えはNO。
日本が元に送ったものは、報復の軍事行動、即ち「倭寇」だった。
無論、これらは海賊であり、当時の鎌倉幕府やその後の南北朝、室町幕府、つまり日本の中央政府とは無関係なものであったというのが日本側の一般的見解。
なのだが、支那ではそうではないらしいw
明代の寧波の乱なんかが倭寇の典型的な倭寇の例として語られるように、朝廷や幕府とは別の「日本の意思」か何かが存在しているらしいw

何れにせよ、日本からの報復行動としての倭寇は、元に対してそれなりのダメージを与えた事は確か。
これに対して元側が防戦一方であり、根本的対策=倭寇の根拠地への討伐等が一切できなかった事は元朝への求心力の低下、その衰退、滅亡への一歩となった事は間違い無いだろう。
331名無し三等兵:2009/05/09(土) 14:34:00 ID:???
>>325
いやたぶん甑島の件だと思うな
それだけで1冊あり日本中が上を下に大騒ぎになったというのを
多数の資料を示して解説してたわ
、残りの本も多くが第3次侵攻の噂だとか異国船発見で
国内が驚天動地の大騒ぎになった事態を取り上げてるんだわ
332名無し三等兵:2009/05/09(土) 15:12:12 ID:???
>>326
魏志倭人伝のそれは風待ち
当時の船は順風じゃないと対馬海流超えられないからひたすら待ってる

高麗の船がどんなもんかわからないけど、南宋の船に似た
ジャンク船なら逆風でなければ航海できる
333332:2009/05/09(土) 15:22:49 ID:???
ん?これ朝鮮通信使の日記なのか すまん
334名無し三等兵:2009/05/09(土) 21:46:08 ID:???
外国からの初めての大規模な侵略だから、
元軍の強さ、残虐さは誇張されて伝わっていてもおかしくないな
八幡なんたらってのも宗教書だし
335名無し三等兵:2009/05/09(土) 22:44:14 ID:???
元はハイドゥ軍との戦いではどういう編成だったんですか?
期間が長すぎるから一口にどうとは言えないかも知れませんが
詳しい方お願いします。
336名無し三等兵:2009/05/09(土) 23:04:22 ID:???
>>334
『八幡愚童訓』は名前のとおり八幡大菩薩の神徳を称揚する宗教書なんだけど、
文永・弘安の役について部分の元ネタは、文永の役の主戦場のひとつだった博多の
箱崎八幡宮の社官が残した両戦役の実見記らしい『八幡ノ蒙古記』をベースに
使っているらしい。(江戸時代の漢学者、橘守部などの談)

『八幡愚童訓』は八幡大菩薩の神徳称揚を目的として岩清水八幡宮の社僧あたりが
十三世紀末から十四世紀の初頭頃に編纂したものらしいが、神功皇后の三韓征伐や
唐天竺のエピソード等、本地垂迹説の観点から八幡大菩薩にまつわる雑多な内容を
網羅的に叙述していて、寺社縁起系の文学として非常に完成度の高い書物。
その1エピソードとして文永・弘安の役についての話が載せられている。

勿論、宗教文書だし、「八幡大菩薩の神徳称揚が目的」という内容だけに全部が全部
実際にあったことそのままが書かれている訳ではないだろうけど、例えば有名な
「てつはう」が使用されたことは博多湾の海底発掘調査にも合致しているし、文永・
弘安の役当時の水城について詳述がされているが、これも戦後の水城の発掘調査とも
良く合っている。

ただ、室町時代から江戸時代にかけて写本や流布本が多く出回ったが、時代を経るごとに
内容が大雑把になったり部分部分で改編や脱漏などが多く、諸本同士で内容が食い違う
箇所も見られる。(江戸時代には絵入り本まで出た)
文永・弘安の両役の戦況全体を記述しているため、(水城の記述とかも含めて)非常に貴重な
資料なんだけど、如何せん資料としての性格が性格ゆえ非常に扱いが厄介な代物でもある。

(ちなみに「蒙古の連中は牛馬を食する輩だから捕殺した武者を食べるに違いない」みたいなことを
 書いているが、無論、華北や高麗でのモンゴル軍の戦役からしてそんな展開は実際にはないw)
337名無し三等兵:2009/05/10(日) 04:35:02 ID:???
そういや従来は蒙古襲来絵詞は竹崎さんが
武勲を誇示する為に描かせたって言われてたが
あれホントは安達さんや少弐さんを鎮魂する為に描かせたんだよね。
だから彼ら2人がイケメンに描かれてるw
338名無し三等兵:2009/05/10(日) 16:48:20 ID:???
棄民説の意味がマジでわからん。
フビライの治世を通してカイドゥと戦ったり周辺諸国に出兵していて
別に兵士が余っているわけでもないのに、なんで日本相手にだけ
無駄金を大量に費やして棄民を送り込む必要があるんだ?
339名無し三等兵:2009/05/10(日) 17:12:06 ID:???
水際防衛のための防塁と古代からの大野城・水城はわかるけど、
博多湾を見渡すことができる愛宕山、祖原山、赤坂(桜坂)とかには築城しなかったの?

大宰府を攻め落とすためには、現在の西鉄に沿った道で進軍するのが最適だと思うけど、
なんで今津・姪浜・百道・箱崎・香椎・海ノ中道に戦力を分散して上陸したんだろ?

340名無し三等兵:2009/05/11(月) 23:34:24 ID:???
>>338
南宋や高麗の武官が腐ってて、
大して強くもなければいつ裏切るか判らんので、船に積み込んで送り出す鉄砲玉みたいな使い方しか出来なかったんだろう。

341名無し三等兵:2009/05/12(火) 01:03:06 ID:???
棄民ネタ飽きた ほかのネタやってくれ
342名無し三等兵:2009/05/12(火) 09:00:53 ID:???
三度目の国書マダー
343名無し三等兵:2009/05/12(火) 09:20:40 ID:???
結局、棄民派や威力偵察派の主張は具体的な裏付けや根拠に欠けてるんだよ。
惨憺たる結果の理由を後付けの推測で負けじゃないことにしようとしているだけ。
344名無し三等兵:2009/05/12(火) 10:08:47 ID:???
>元寇の弘安の役の際に、江南軍司令官として3500隻、10万人の大船団を率いて現在の浙江省寧波を出発し
日本に来襲。敗戦により将兵を見捨てて帰国したことが、生きて帰った3人の兵からクビライの耳に入り、
クビライは激怒したため斬首に処された。

予定通りに棄民しただけなのに、なぜかフビライに怒られて首を斬られてしまう范文虎カワイソス。
345名無し三等兵:2009/05/12(火) 14:28:15 ID:???
フビライ「三人も帰ってきてるぞゴルァ!」
346名無し三等兵:2009/05/12(火) 14:34:23 ID:???
しかも一番、棄民したかった南宋兵が一番生存率高かった件
347名無し三等兵:2009/05/12(火) 17:37:21 ID:???
>>344
いや、『元史』世祖本紀によると、弘安の役から6年後の1287年(至元二十四年)にテムゲ・オッチギン家の
ナヤンが東方三王家を率いて叛乱した時、范文虎も衛軍五百を率いてクビライの親征に扈従したらしい。
『元史』では范文虎の伝がないので詳しくは分からないが、『新元史』で編者・柯劭[文+心](かしょうびん)
(20世紀前半に活躍した中国の歴史家)は彼の伝記を設けていて、どこからの引用か不明だが弘安の役での
損耗について范文虎には「世祖之を罪とせず」としたと書いている。
『元史』世祖本紀に記録されている限りでも、その後も范文虎はナヤンの乱鎮圧後の遼寧行省での事後処理を
任されたり、尚書右丞、商議樞密院事に任じられ、クビライが進めていた江南開発についてもクビライの没年まで
関わっている。

(ちなみに『新元史』は20世紀に入って柯劭[文+心]が編纂したものだが、引用箇所の典拠を載せず、しかも
 典拠の分かる箇所でも誤記脱漏が多すぎて、研究者から非常〜〜に不評をかった書物)

クビライが亡くなった後、成宗テムルの初年(1295年)に平章政事になっていた范文虎が、先年開通していた
通恵河(クビライが開削させた、大都と現在の天津にあたる通州と結ぶ運河)施工の監督に関わり、二品銀印を
給されたことが出て来るので(『元史』成宗本紀の序言の至元三十一年八月己丑条)、少なくともこの頃までは
存命みたいだが、その後の足跡が分からない。范文虎は南宋からの降臣でもかなり活躍したことで有名な割に、
実は生没年が今でもよく分からないなままだったりする。

なので、弘安の役から帰って来た范文虎がクビライによって斬刑に処されたという情報はガセだと思う。
348名無し三等兵:2009/05/12(火) 17:55:22 ID:???
企画した連中とクビライではまた別の思惑があったりするんでないの
壱岐の虐殺にしてもクビライは絶対に民衆が一人として殺してはならない
と出撃前に伝えたそうでリアルで起きた事と違い過ぎるw
349名無し三等兵:2009/05/12(火) 17:56:04 ID:???
民衆が

は民衆を
350名無し三等兵:2009/05/12(火) 18:05:10 ID:???
>>347
ついでに、『元史』日本伝では「十萬之衆得還者三人耳(十万の衆、還りを得たる者三人のみ)」と書かれて
いるようだが、

同じ『元史』でも范文虎や李庭に従って江南軍に加わった相威の伝記(『元史』巻百二十八)では
「八月朔、颶風大作、士卒十喪六七(八月朔、颶風大いに作り、士卒を喪うこと十の六、七)」とか

同じく弘安の役の江南軍司令だった阿塔海の伝(『元史』巻百二十九)でも
「征日本、遇風、舟壞, 喪師十七 八(日本を征するも、風に遇い舟壞れ、師を喪うこと十の七、八)」とあり、
(阿塔海伝では、至元二十年(1283年)に征東行省丞相に遷され日本遠征に出たとあるが、弘安の役は
 至元十八年なので、阿塔海伝の紀年は誤りだろう)

『元史』世祖本紀 至元十八年八月壬辰条(1281年9月13日)でも、
「詔征日本軍回、所在官為給糧。忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利、
 餘軍回至高麗境、十存一二。」

とあって、『元史』での記述の傾向は、「軍の6、7割を失った」とか「7、8割を失った」、あるいは
「1、2割りしか残らなかった」という書かれ方をしているので、蒙古襲来関係の研究でも日本伝の
「十万の衆、還りを得たる者三人のみ」は誇張が過ぎる表現だというのが大方の見解のようだ。
この「三人」というのは弘安の役の報告を行った于[門+昌](うしょう)と、その後帰還した莫青、呉萬五の
ことらしい。

相威伝では「帝震怒」してただちに阿塔海に再度の遠征させるつもりだったそうだが、諫言するものが
いなかったため、相威が上奏して「今は残余の戦艦も足りないため、まず練兵や戦艦の建造など準備を固め、
相手側の防備が弛んだ頃を見計らい、風に乗じて急襲するのが万全の策かと思われます」というような
内容を述べたので、クビライは遠征を一旦取り止めとかいうらしい。(本当か?)

ただ、『元史』の他の記事を見ても弘安の役の時の指揮官クラスが明確に処罰されたというような記事は
見付けられなかった。阿塔海にしろ洪茶丘にしろ、後のナヤンの乱でクビライの親征に関わって出征して
なにがしか活躍しているから、そのあたりと関係があるかもしれないが、良く分からない。
351名無し三等兵:2009/05/12(火) 18:44:03 ID:???
「残ったのが1,2割」でも想像を絶する大損害なのには変わりないがね。
352名無し三等兵:2009/05/12(火) 19:08:11 ID:???
それでも勝ち負け云々以前に「十万のうちの三人」という数字と
「全軍のうちの一、二割(全軍十四万とすれば1万4000〜2万8000)」
じゃあ実数というか現実味の有る数字として大分違う訳だが。
353名無し三等兵:2009/05/12(火) 19:12:11 ID:???
>>352
そうだね。まだ全体の八割か九割しかやられてないんだから、まだまだ戦えたよね。
354名無し三等兵:2009/05/12(火) 19:25:48 ID:???
>>353
> そうだね。まだ全体の八割か九割しかやられてないんだから、まだまだ戦えたよね。
弘安の役の後の意見具申には「現状でもまだ戦える」的な意見は見られないし、>>350にも触れたけど
相威の上奏でも「まずこちらの戦艦を修造し軍も練兵を重ねて体勢を立て直し、先方の防備が緩みなどが
見られような時期を見計らい、万全を期してから再度遠征を行うべきだ」と述べているようだから、
文永の役の時の金方慶ではないけど、遠征軍が帰還した直後では「まだまだ戦え」るとかは無理だろう。
355名無し三等兵:2009/05/12(火) 21:13:24 ID:???
生存3人とか中国の史書は無茶苦茶な所が多いな
他の時代もそんなのだらけ
船団が壊滅約7割が溺死ってのが実態に近いのか

>>347 >>350

Wikipedia(>>344)も本当にどうしようもない
第3次ソロモン海戦の日米の損害とか両者出鱈目だらけになってる
356名無し三等兵:2009/05/12(火) 21:53:29 ID:???
江南軍十万のうち三人生還じゃなくて
置き去りにされた十万のうち三人脱出できたってことか

>>345
三人くらいなら良かったようだね
棄民が1万4000〜2万8000還ってたら首が跳んでたな
357名無し三等兵:2009/05/12(火) 22:21:58 ID:XSNlVkxM
>>337 河野水軍の子孫としても河野六郎通有、河野通盛親子が出てて嬉しいです。
358名無し三等兵:2009/05/12(火) 23:25:27 ID:???
>>355
煽りでなくご自分で編集してみることを勧めるよ。
359名無し三等兵:2009/05/13(水) 03:21:34 ID:???
>>354
いや、>>353は単に皮肉を言っただけなんじゃ・・・

>>357
御子孫の方ですか。
国難に立ち向かった武士を先祖に持つのはさぞ誇らしいでしょう。
私の先祖なんて室町時代にヒャッハーやってたゴロツキのようですw
360名無し三等兵:2009/05/13(水) 15:06:55 ID:???
>>288
はい↓
上天眷命 “皇帝奉書日本国王:朕惟自古小国之君,境土相接,尚務講信修睦,
况我祖宗受天明命,奄有区夏,遐方?域畏威?コ者,不可悉数。朕即位之初,
以高麗无辜之民,久瘁鋒鏑,即令罷兵,還其疆?,反其旄倪。高麗君臣,感戴来朝,
亦雖君臣,而歓若父子。計王之君臣,亦已知之。高麗,朕之東藩也。日本密迩高麗,
開国以来,時通中国,至于朕躬,而无一乘之使以通和好。尚恐王国知之未審,
故特遣使持書布告朕心,冀自今以往,通問結好,以相親睦。且?人以四海為家,
不相通好,豈一家之理哉?以至用兵,夫孰所好,王其図之。” 不宣白
どうみても友好的
361名無し三等兵:2009/05/13(水) 15:26:44 ID:???
訂正

上天眷命 “皇帝奉書日本国王:朕惟自古小国之君,境土相接,尚務講信修睦,
况我祖宗受天明命,奄有区夏,遐方昇域畏威懐徳者,不可悉数。朕即位之初,
以高麗无辜之民,久瘁鋒鏑,即令罷兵,還其疆場,反其旄倪。高麗君臣,感戴来朝,
亦雖君臣,而歓若父子。計王之君臣,亦已知之。高麗,朕之東藩也。日本密迩高麗,
開国以来,時通中国,至于朕躬,而无一乘之使以通和好。尚恐王国知之未審,
故特遣使持書布告朕心,冀自今以往,通問結好,以相親睦。且経人以四海為家,
不相通好,豈一家之理哉?以至用兵,夫孰所好,王其図之。” 不宣白
362名無し三等兵:2009/05/13(水) 16:43:58 ID:???
↑の日本語訳をどうぞ。

天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!
363名無し三等兵:2009/05/13(水) 17:02:50 ID:???
コピペ探すのに何年かかってんの
364名無し三等兵:2009/05/13(水) 17:28:26 ID:???
どこが平和的なんですか?
365名無し三等兵:2009/05/13(水) 19:13:06 ID:???
そもそも鎌倉幕府より過激な対応した国も沢山あるしw
366名無し三等兵:2009/05/13(水) 19:13:53 ID:???
歴代中華帝国の文章も、もし残ってればまあ似たり寄ったりな天上天下唯我独尊っぷりなんだろうなとは思うw

が、それをフォーマットだからってそのまま使うのはどんだけ無能なのか、ボコボコにしてやんよとマジで思ってたかのどちらか。
367名無し三等兵:2009/05/13(水) 19:16:32 ID:???
>>362
上のほうで既に突っ込みを受けてますね。
368名無し三等兵:2009/05/14(木) 03:04:11 ID:???
>>360-361
冒頭が「大蒙古皇帝書」ってなってないうえ末尾の紀年がないから多分『元史』日本伝あたりからの
コピペなのだろう。

ちなみに、東大寺尊勝院に宗性という人が著した『調伏異朝怨敵抄』という文書に「蒙古國牒状」として
1268年に高麗牒使・潘阜がもたらしたクビライからの国書が書写されていて、現在も東大寺に所蔵されて
いるんだそうな。

↓はwikiに掲載されているもの。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3ALetterFromKhubilaiToJapan1266.jpg

369名無し三等兵:2009/05/14(木) 03:04:52 ID:???
>>368のテキスト化したもの。

上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
 日本國王朕惟自古小國之君
 境土相接尚務講信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異
 域畏威懐徳者不可悉數朕即
 位之初以高麗无辜之民久瘁
 鋒鏑即令罷兵還其疆城反其
 旄倪高麗君臣感戴來朝義雖
 君臣而歡若父子計
 王之君臣亦已知之高麗朕之
 東藩也日本密邇高麗開國以
 來亦時通中國至於朕躬而無
 一乘之使以通和好尚恐
 王國知之未審故特遣使持書
 布告朕意冀自今以往通問結
 好以相親睦且聖人以四海為
 家不相通好豈一家之理哉至
 用兵夫孰所好
 王其圖之不宣
   至元三年 八月 日

(紀年が至元三年(1266年)となっており、擡頭、平出がすっきりしているため、
 現在、この東大寺蔵文書は最初の国書のかなり正確な写しと考えられている。)
370名無し三等兵:2009/05/14(木) 04:04:22 ID:???
>>369の書き下し文。東大寺蔵文書の国書を引用される先生方の読みとだいたい合っているはずだが、
>>369も含めて原文とで転写間違いがあったら寛恕願いたい。

=========================
上天眷命
大蒙古國皇帝、書を
 日本國王に奉る。朕、惟みてば古より小國の君は
 境土を相接す。尚(たとい)務めて信を講じ睦(むつみ)を修(お)さむ。況んや我が
祖宗は天の明を受け、命區夏を奄有(えんゆう)す。遐方の異
 域は威を畏れ、徳に懐(なつ)く者、悉(ことごと)く數(かぞ)うるべからず。朕、即
 位の初めに高麗の无辜(むこ)の民の久しく
 鋒鏑(ほうてき)に瘁(つか)れるを以って、即ち兵を罷め、其の疆城(「域」の誤りか)に還し、其の
 旄倪(ぼうげい)を反えせしむ。高麗の君臣、感戴して來朝せり。義は
 君臣と雖(いえ)ども、歡は父子の若(ご)とし。計るに
 王の君臣も亦(また)、已(すで)に之を知らん。高麗は朕の
 東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)す。開國以
 來、亦時に中國と通ず。朕が躬(み)に至っては、而(しか)るに
 一乘の使の以って和好を通じる無し。尚お恐るらくは、
 王國之れを知るも未だに審(つまびら)かならざるを。故に特に使を遣わして書を持せしめ、
 朕が志を布告せしむ。冀(こいねが)わくは自今以往(じこんいおう)、問を通じ
 好みを結び、以って相(あい)親睦せん。且つは聖人は四海を以って
 家と為す。相(あい)通好せざるは、豈(あ)に一家の理ならん哉(や)。
 兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ。
 王、其れ之れを圖(はか)れ。不宣。
   至元三年 八月 日

=========================
この至元三年の国書が、モンゴル帝国(および元朝)の命令文としてどういう体裁の代物なのか
一応説明する必要があるし、>>362はすんごい大雑把な意訳なのでちゃんとした訳文をどっかから
また引用しようかと思うが、それはまた今度にして、取り敢えず原文と書き下し文だけで。
371名無し三等兵:2009/05/14(木) 09:07:42 ID:BGAPJSo4
素直に読む場合>>362は誤訳相当のミスリードだらけで意訳ですらない
訳というより自分の主観を受け取った国書風味に仕立て上げただけの代物
372名無し三等兵:2009/05/14(木) 10:24:31 ID:7agdZc0U
ネタニマジレスカコワルイ
373名無し三等兵:2009/05/14(木) 10:25:57 ID:???
あなたが和訳してみたらどうだろう?なぜやらないの?
374名無し三等兵:2009/05/14(木) 11:07:07 ID:???
>>353にマジレスした件でもそうだが、軍板とはいえ
所詮ここは2ちゃんなんだから、もう少し肩の力抜いてもいいと思うぞw
375名無し三等兵:2009/05/14(木) 12:02:46 ID:???
2ちゃんでここまでネタにマジレスする人
久しぶりに見た気がするw
376名無し三等兵:2009/05/14(木) 12:32:31 ID:???
かつての山野氏を思い出すな
377名無し三等兵:2009/05/14(木) 12:33:42 ID:???
論破されたからネタと言う事にして誤魔化そうとしてる様にしか見えんね。
>>219とか>>222は忘れるつもりか?
378名無し三等兵:2009/05/14(木) 12:38:56 ID:???
友好なんて無理あるだろw
周囲を侵略か属国化してる国が
軍事力の行使を匂わせているんだからな。
379名無し三等兵:2009/05/14(木) 13:26:23 ID:???
論破きました
痛いこちゃんが貼りついてるみたいね
380名無し三等兵:2009/05/14(木) 14:27:31 ID:???
一方的な勝利宣言ってあの国の人かよw
なんかヤケにあちらの肩を持つなあと思ったらやっぱり
高麗人の子孫だったのかwww
381名無し三等兵:2009/05/14(木) 14:39:28 ID:???
>>379-380
具体的な反論は何一つ出来ない低脳が何か喚いてるようですね。
かわいそうに。
382名無し三等兵:2009/05/14(木) 15:40:51 ID:???
>201 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

>206 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/28(火) 14:41:43 ID:???
>>205
>帰ったら載せてやるよ国士さんw

暴れてるのはこの人?
383名無し三等兵:2009/05/14(木) 16:01:26 ID:???
>>381
>>378なんだけど俺の主張は無視なんだな。
384名無し三等兵:2009/05/14(木) 17:28:08 ID:???
>>382日本人の全員が全員国士様ではない、ってことだね

>>383
どこに軍事力の行使を匂わせてるんだよw
最西の未開地域にあったフランス族やイタリア諸部族とは友好関係だし
インドやシャムは侵略も属国化もされず交易関係ありだから
日本も海の向こうだから通商関係のみを求めても不思議じゃあない
385名無し三等兵:2009/05/14(木) 17:45:47 ID:???
ゾンビきめえw
386名無し三等兵:2009/05/14(木) 17:49:24 ID:???
ループさせることが目的
387名無し三等兵:2009/05/14(木) 17:53:25 ID:???
無双国士の糖質患者様やべえな
388名無し三等兵:2009/05/14(木) 18:15:56 ID:???
ふ ふ ふらんすぞく?
389名無し三等兵:2009/05/14(木) 18:27:56 ID:???
>>359
うーん、皮肉とか煽りの類いだろうことは承知しているけど、どうもその「ネタ」すら
鵜呑みにして、今は亡き元寇スレの後半みたいに中身のないただの煽り合戦になるんじゃ
なかろうかと思って、敢えて「ネタニマジレス」してみたんだけれど・・・
あんまり効果なかったかも(汗

自分としては文永の役にしろ弘安の役にしろ、元朝側と鎌倉勢側とどちらが勝ったとかいう
話よりも、記録に残る数字やデータが実際問題どこまで現実味があるかどうかに関心があるので、
断片的でどこから来たとも知れない情報で妄想を凝らして煽り合戦で華やぐよりかは、ある程度
しっかりした情報ソースを持って来て、実際当時や近い時代ではどう言われていたかとかを
見て行った方が生産的なんじゃないかなあと。

>>374
>>362的なネタはネタとしてあっても全然良いと思うけど、ただ、それしか無くて元のソースが
全然出て来ない→誰も知らない、という状態でそのまま実際の歴史的な話をするとかになったら
そーいう状況はちと不健全が過ぎるので、スレの流れがどうなるかは分からないけど、一応ちゃんと
元ネタが出せるなら出した方が良いと思って、ここでもまあちと大人気ないかもと思いつつ
敢えて「ネタニマジレス」ということで(w
390名無し三等兵:2009/05/14(木) 18:54:14 ID:???
おk把握。まあでも、この手のスレじゃあ
ある程度基地外じみた煽り合いも起こるのは仕方ない。
でも幸いな事に軍板住人はスルースキルには定評があるし
あんたみたいにどちらかと言えば、双方の事情とか詳しい経過なんかに興味があるから
結局思想に凝り固まったレスの応酬になった日本史板みたいな事にはならないとは思うよ。
391名無し三等兵:2009/05/14(木) 19:19:26 ID:???
ここまで大げさに用意して本質的にはなんらネタコピペと変わらないわけだが。

>兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ。
一方的に属国になれといっておいて、これでしめる時点で実力行使満々だよな。
ましてすでにことごとく隣国を侵略しているのに。

>フランス族やイタリア諸部族とは友好関係だし
なんだこれ?いざとなればネタだとか言って逃げるつもりか?
392名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:02:25 ID:???
>>384
至元三年の国書(いわゆる「蒙古国牒状」)は「皇帝」の出した国書としてはあまり高圧的な表現が
使われておらず、中華思想に良く見られる鷹揚・寛大な皇帝像に基づいているような表現で占められているが、
鎌倉時代後期から室町時代以降、この「蒙古国牒状」はだいたい「無礼な書」だという評価が一般的だった
みたい。
(モンケが陣没した直後にクビライが帰還した開平府から南宋皇帝に宛てた国書の内容が伝わっているが、
 「こそこそと裏でこちらを妨害するくらいなら、軍備を整えでもして再度の会戦の時まで首を洗って待っとれ!」
 的な内容で、例の杉山センセなどは至元三年の国書に比べて、こちらの方があからさまに恫喝的で威嚇的だと
 評しているようだ)

具体的に牒状のどういったところが「無礼」とされたのかは、資料中でははっきり書かれていないことが
多いが、中世史の研究者の人たちは、文末の「兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ」
という箇所が当時の人たちにかなり引っ掛かったようで、そのことから「無礼な書」と看做されたんだろう
と見ているようだ。

このスレでも関連スレでも何度か名前が出て来る『八幡愚童訓』の主だった現存する古い諸本には、
(菊大路家本や内閣文庫本など)どれも実は「蒙古国牒状」が丸ごと載せられていて、江戸時代中期の
漢学者・橘守部は『元史』からの転載だろうと断じていたっぽいけど、『元史』日本伝ではなくて、
>>368-370で上げた東大寺蔵の「蒙古国牒状」の系統のものらしい。(いずれも東大寺の国書写しと同様に
全文が載り訓点が附してある。橘守部が色々と批判した群書類従本などにもちゃん訓点付きで全文載っている)
393名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:04:31 ID:???
>>392の続き。
室町時代中期に歌道や文芸の分野で活躍した、後崇光院こと伏見宮貞成親王(1372年-1456年)という人が
いるけど、彼の「宸筆」つまり直筆した『八幡愚童訓』の断片がいくつか残っていて、その断片のひとつが
実はこの『八幡愚童訓』載録の「蒙古国牒状」の後半部分だったことが分かっている。
>>369で言えば12行目の「高麗開國以來」から末尾の「至元三年 八月 日」までの全文にあたる。

単に過去に蒙古からもたらされた国書が無礼な内容だったという伝聞的なものではなくて、「蒙古国牒状」の
全文自体が『八幡愚童訓』という書物を介して室町時代には割と知られていたということがなかなか興味深い。

>>390
甚だ?ォクス
自分は元々世界史板の方で、日本史も中国史も専門でなかったけど、断片的な資料を引っ張て来て
牽強付会というか我田引水な論法で放言する輩が横行する状態に我慢がならなくて、自分の直接の
専門でもなかったけど関連する資料を集めて自分なりに突っ込み的なレスを付けていたら、元寇スレは
大荒れに荒れて今に至るという感じ。日本史板も世界史板も年々住民のスルースキルが低下していて、
煽りはスルーしつつ資料を出し合う的なやり方は廃れつつあるのかと正直がっくりしていた。
(なので鎌倉時代の文書資料とか元代の漢籍については、活字本とかの翻刻文や訓点がないと読めない)

歴史板の住人なので軍事板にはお邪魔させてもらっている感が今でも強いけど、割と冷静に煽りを
スルーしてレスを読んでくれる人も多くて非常に有難い。
394名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:23:41 ID:???
>>384
1247年に第三代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語による
国書がバチカンに現存するけど、こちらは威嚇と言うか最後通牒的な内容で、教皇自らがただちに
欧州の諸王を率いて我らの面前に出頭しなければ、天より全世界の支配権を任された我らが天罰的に
お前達を滅ぼすぞ的な内容で、この頃は交戦的姿勢があからさまだった。

時代が下って、13世紀後半から14世紀初頭にイルハン朝の君主、アルグンやガザン、オルジェイトゥ
などがフランス国王やローマ教皇にモンゴル語による書簡を送っているけど、こちらはマムルーク朝に
対抗してエルサレムを含むパレスチナの領土奪還を狙ってフランス国王フィリップ4世に共同作戦を持ちかけたり、
オルジェイトゥの頃は、近年ようやくモンゴル帝国全土が融和したので挨拶状を送る的な内容だったが、
グユクの時の国書のような、応じない場合は欧州への武力侵攻を前提にしている風な書き方は全く出てこない。

いずれの書簡も邦訳で読めるので、比較材料としてその内それらもうpしてみようかと思う。
395名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:41:49 ID:BGAPJSo4
>>391
一言も属国化の要求に相当する字句が見当たらない。

>兵を用いる事はしたくない
素直に解釈するなら、戦は望まず奉書に認めた事を応諾するよう望む。としか読めないが
396名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:43:28 ID:???
このスレ見るたびに感心するんだが>>392の知識と情報収集力はすげえな。
397名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:55:09 ID:???
>>395
「君とは喧嘩したくないから、俺の要求に従ってくれ」

と言われたら君は威嚇されてるとは感じないわけ?
それの意味する所は「要求が拒否されたら実力行使しなければならなくなる」以外に無いでしょ。

兵を用いる事に関して否定肯定以前に、全く触れる必要が無いわけだよ、
単純に「良かったら国交結ばない?」ならね。
398名無し三等兵:2009/05/14(木) 20:59:14 ID:???
あと誰に対してもいつでも上から目線で喋ってる奴だから
別に君を見下してるわけではないんだよ、みたいな論法も如何なもんかね。

単純にそいつは全ての人間を見下していて
それに君も含まれちゃった(つまりやっぱり見下してる)って解釈の方が素直なんでは?
399名無し三等兵:2009/05/14(木) 21:03:21 ID:McqDJwkT
【社会】「チンギス・ハン」はどの国の出身の人? 韓中蒙で大論争  オンラインゲームめぐり、三つ巴の“国際問題”に発展★4

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1242296653/
400名無し三等兵:2009/05/14(木) 21:08:57 ID:???
>>396
中世史が専門の人なんかな?


にしても、だからといって「はい、そうですか。」って
友好の使者送ってたら、本当に日本は元に攻められずに済んだんかな?
高麗はかなり執拗に日本を攻めるように進言してたみたいだけど。
つかなんでまた高麗は日本遠征にこだわったんだろ?
401名無し三等兵:2009/05/15(金) 00:51:36 ID:BkL8Yeu9
平和船が帝国水軍を只で使うてのもなぁ。
日頃の二枚舌も極まれりだけど。
402名無し三等兵:2009/05/15(金) 01:27:18 ID:Zq6OA9MS
>>397
その程度で威嚇と感じる人間が会社勤めしてたら
鎌倉幕府のゴロツキ共と同じように儀礼も何もないヤンキーみたいな行動とるんだろうなw

まあ意図的にトンチンカンな事書いて話をうやむやにしたいだけだろうが
403名無し三等兵:2009/05/15(金) 04:21:44 ID:???
>>394
>天より全世界の支配権を任された我らが天罰的にお前達を
滅ぼすぞ的な内容で、この頃は交戦的姿勢があからさまだった。

なるほど、確かに日本への牒状と似て好戦的だ。
日本のも天より全世界の支配権を云々で始まり、攻めるのは好まないんだがな的な好戦的な内容だ。
日本のもだがこれは読んで貰えない。読んでないから当然返事はだせないだろうね。

しかしながら、西洋や西アジアへの牒状と対応はあくまで参考な。
日本が判断の材料にできるのは日本が知りうる範囲の事柄なんだから、
西洋などので日本の対応を評価したり、日本がこうしとけばよかったってのはSF仮想戦記だよ。

それに元の牒状を比べるのは、あくまで侵略を繰り返し版図を広げた元にしては好戦的か友好的かどうかの評価であって、
外交の常識として評価したいなら他国の外交と比較しなければならない。
さもなければ一部の史料で我田引水な論法で放言する輩となるだろう。
404名無し三等兵:2009/05/15(金) 04:35:49 ID:???
ここまでいまだ
一度目と二度目の国書なし
405名無し三等兵:2009/05/15(金) 05:20:16 ID:???
「脅しには屈しませんよw」という鎌倉武士かっこよす
406名無し三等兵:2009/05/15(金) 11:52:49 ID:???
つまり鎌倉幕府は遺憾の意を表明すべきだったってこと?
407名無し三等兵:2009/05/15(金) 12:50:04 ID:???
つまり明にやったように「来るなら来いヘタレ」と返信してやればよかったってことね

日本からの返信に顔真っ赤になるも、日本へ攻撃できなかった明↓
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
408名無し三等兵:2009/05/15(金) 13:23:08 ID:???
また酷使様のオナニーが始まったか。
409名無し三等兵:2009/05/15(金) 13:42:34 ID:???
>>403
読んでもいないのに「好戦的な奉書なので読まなかった」意味不明過ぎだw

それにこの奉書を見て好戦的な内容だと思うのは、それこそ中身も読まずに即断したか白痴のどちらか
410名無し三等兵:2009/05/15(金) 13:45:18 ID:???
>>369
なんで変なとこで改行してんの?
411名無し三等兵:2009/05/15(金) 14:06:45 ID:???
200 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 17:57:52 ID:???
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!


201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw



そもそも>>200の国書って最初のじゃん
しょっぱなから無知さらしてまんがな
412名無し三等兵:2009/05/15(金) 14:20:19 ID:???
>>400
忠烈王が人質の身分から解放されたかったから
413名無し三等兵:2009/05/15(金) 17:01:09 ID:???
三度目の国書マダー?
414名無し三等兵:2009/05/15(金) 17:10:53 ID:???
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」
    至元三年八月 日
415名無し三等兵:2009/05/15(金) 17:11:45 ID:???
三度目の国書はー?
416名無し三等兵:2009/05/15(金) 17:38:27 ID:???
好戦的かどうかというか
では実際の元が日本に対しどう動いたか?

答え
無視されたのでかっとなって殴ったら
逆に殴り返されて逃げた
で、もう一回今度はもっと大勢で殴りに行ったら
今度はあてることもできずに蹴り飛ばされて玄関に立たされた。
ずっと立ってたら大雨になっておぼれた

友好的な国書?だったら無視されただけで攻撃ってどんだけDQNなのよ
しかも最初の国書が届けられた段階(まだ使者が日本にいる段階)で日本の返答を待たずに元は対日に向けた軍備を始めているし
これじゃ最初から属国化する気満々としか言いようがない
どう見ても「笑顔で恫喝」ってやつですね

417名無し三等兵:2009/05/15(金) 18:33:44 ID:???
そもそも通交が目的なら土産なりなんなり持ってくるもんなんじゃね?
418名無し三等兵:2009/05/15(金) 20:36:59 ID:Zq6OA9MS
>>414
左右が全く対応してないし、何をしたいのか意味が分からない
419名無し三等兵:2009/05/15(金) 20:50:03 ID:???
見苦しいな。で、三回目の国書はどうなった?
420名無し三等兵:2009/05/15(金) 20:53:36 ID:Zq6OA9MS
>>416
北条一門の対応は、二度友好を求める奉書を受け取りながら一切返答しないという
武士らしい極めて非礼な対応。

それを受け、説明要求のために送られてきた三度目の使者に至っては
殺害するという野蛮人丸出しの対応、もしくは血に飢えた北条一門の形を変えた宣戦布告
戦争に至る原因は0ー10で北条一門にあった、それが真相。
421名無し三等兵:2009/05/15(金) 20:56:32 ID:???
だからもういいから。詭弁の練習でもしてるのか?
422名無し三等兵:2009/05/15(金) 21:07:05 ID:???
このスレにいる詭弁野郎みたいなのが教師やってるんだな。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html

>10月20日.元・高麗軍は筥崎(はこざき)・赤坂・麁原(そはら)・百道原(ももじばる)・今津あたりに分散して上陸を開始,
>日本側武士団と壮絶(そうぜつ=とてもはげしい)な戦いをくり広げた・・といいたいところですが,
>元・高麗の記録を見ると日本側は一方的に不利だったようです.

それにしても元や高麗のどういった記録に日本側が一方的に不利だったと書かれているんだ?
いまだに日本は一対一でどうこう言ってるし、『蒙古襲来絵詞』を出すわりには
日本側が集団で元軍を追い散らす場面は出していない。
423名無し三等兵:2009/05/15(金) 21:15:16 ID:???
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/otayori7.html#kourai
案の定突っ込まれてるが、なぜ「高麗史」よりも「八幡愚童記」が信頼できるのかの理由もなく
「文永の役でメタメタにやられていたのは日本の武士達です」とは恐れ入るな。
424名無し三等兵:2009/05/15(金) 21:55:43 ID:???
>>409
国書だとわかってのかね?事前に大勢目を通すんですが。
準備した返牒は太政官から蒙古の中書省宛じゃないか
読んでないし、仮に読んでたとしても読んでない体裁をとってる。
425名無し三等兵:2009/05/15(金) 22:18:35 ID:???
>>410
「平出」(へいしゅつ)と呼ばれる文書で使用される神仏や皇帝以下の皇族・王族などに対する
敬意表現のひとつで、日本でも大宝律令の頃から色々形式が決められていたもの。
「蒙古国牒状」でも敬意表現として「擡頭」と「平出」が行われているけど、それについても
あとで説明しようかと思う。
426名無し三等兵:2009/05/15(金) 22:35:49 ID:???
>>423
文頭で「大蒙古国皇帝奉書」と書かれているし、東大寺蔵の「蒙古国牒状」やそれを
転載しただろう『八幡愚童訓』の各諸本でも訓点が附されているうえ、当時の日記等でも
国書が鎌倉にまず送られたうえ、京都の朝廷にも転送していたことが記録されているので、
鎌倉幕府は国書の内容を実見、検討し、これを蒙古皇帝からの国書であることと認識したうえで
返牒しないことに決め、朝廷の返牒案もわざわざ止めさせているんだと思う。
(これも蒙古襲来関係の研究でははっきりしているみたいだけど)

「蒙古国牒状」の訳文うp以外でもいろいろ書かねばならんことがどんどん増えてってる気が・・(汗
427名無し三等兵:2009/05/15(金) 23:22:45 ID:???
いやまあ、無理せず自分のペースでやってくれたらいいよ。気長に待つから。

にしても戦況はさて置き、やあやあ我こそ(ryで儀式的な戦いしてたなんて
馬鹿げた説はどっから出てきたんだろ?そしてなんで国内外問わず
未だに偉い先生ですら信じてる人が多いんだろう?
源平期の時点で一騎打ちなんてレアケースなのが現状だったのに。
428名無し三等兵:2009/05/15(金) 23:23:38 ID:???
というわけで、>>368-390の訳文。
杉山センセの『モンゴルが世界史を覆す』(日経ビジネス文庫、2006年3月1日、335頁)に
載っている東大寺蔵「蒙古国牒状」の訳文をベースに適宜字句を補いつつこの国書の訳を載せてみる。
やっつけ仕事なので至らぬ部分もあるだろうけど、そこはどうか寛恕願いたい。

=========================
1)  上天(テングリ)にいつくしまれた
2)  大蒙古国(イェケ・モンゴル・ウルス)の皇帝(カアン、つまりクビライのこと)は信書を
3)   日本国王にたてまつる。私がおもうに、古から小国の君は、
4)   領土がたがいに接していても、それまでも講信修睦つまりまことを語り合い、ならい親しみあった
        ものである。まして、
5)  祖宗すなわちチンギス・カン以来の我らの歴代は、天の明らかな命令を受けて、区夏(華夏の区域の
        意味で、 中国全土=天下)を奄有(ことごとく有すること)し、
6)   遐方(はるか遠方)の諸国も、威を畏れ徳に懐くものは数え切れない。私は即位
7)   のはじめ、高麗のつみなき民が長い鋒鏑(いくさ)につかれているので、
8)   すぐに兵をやめて領土を返還し、旄倪(老若)をかえすようにさせた。
9)   高麗の君臣は感戴(恩を感じて尊奉すること)して私のところへやって来た。名義上では
429名無し三等兵:2009/05/15(金) 23:25:23 ID:???
>>428の続き。

10)  君主と臣下だが、歓しみは親子のようである。おしはかるに、
11)  王の君臣も、もはやこのことを知っていることではあろう。高麗は私の
12)  東の藩屏である。日本は高麗と密邇(間近く)し、国をつくって以来、
13)  しばしば中国と通交していた。ところが、私の治世に至ってからは、
14)  一度も友好を通じる使いがない。それでも(私は)
15)  王の国が十分にそのことを知らないのではと恐れている。そこで、特に使いを遣わして信書を
16)  持たせ、私の気持ちを布告させる。どうか、今からのちはたよりを通じ好(よし)みを
17)  結んで、たがいに親しみあおう。そもそも、聖人(天子の雅称)は四海をもって家とする。
18)  たがいの好みが通じあわないことは、一家としてのことわりだろうか。
19)  兵を用いるなどは誰が好むことだろう。
20)  王よ、よくお考えあれ。不宣(不宣白、意を尽くしませんの意味)。
       至元三年 八月 日

=========================
430名無し三等兵:2009/05/16(土) 00:30:57 ID:???
>>427
おk。適当にそこそこの程合いでやっていこうかと。
> やあやあ我こそ(ry
文永の役の戦況については多くの場合、例の『八幡愚童訓』から引用される傾向にあるんだけど、
恐らく、一騎討ちをしようと名乗りをあげた云々もそこら辺から出て来ているのかも知れない。
菊大路本でも群書類従本でも、文永の役の時の博多での合戦については当然どの諸本にも記載
されているからどれをうpしても良いんだけど、取り敢えず、書き出すのに面倒な漢字が少ない
『八幡ノ蒙古記』からその部分をうpしてみる。

「十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻めかゝる、
 こゝに前小貳入道覺慧孫わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を射出したりしに、
 蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷をたゝき、とらを打て鬨をつくる事おひたゝし、
 日本の馬とも、これにおとろき、をとり、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、
 向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、」

前小貳入道覺慧の孫という人物が、矢合戦をするため鏑矢を射ったら、何故か蒙古勢側が大笑いし、
そのまま太鼓を叩くやら銅鑼を打鳴らすやらして、鬨の声を上げながら襲って来たので、日本勢の
軍馬が驚いて暴れだし、逃げ始めた、ということらしい。

上の『八幡愚童訓』の記述は、表現で使われている漢字が諸本で微妙に違う程度で、どの諸本も
ほぼ同一の記述がされている。 名乗り云々の出所は良く分からないが、あるいは江戸時代当たり
言われている可能性もあるかもだけど、あるいは明治からか、戦前、それとも戦後からか。
やはり専門で無いので良く分からない。
> 川添昭二先生の『蒙古襲来研究史論』とかに何かヒントがあるかもしれない。
431名無し三等兵:2009/05/16(土) 01:21:34 ID:???
>>430
よく解らないのですが『八幡愚童訓』によると
前小貳入道覺慧の孫という人物が一騎打ちを挑もうとしたが名乗りはあげてないということですか?
432名無し三等兵:2009/05/16(土) 01:46:34 ID:???
この辺りは蒙古襲来時以外の、源平〜鎌倉期の記録も照らし合わせた方が良さそうだな
433名無し三等兵:2009/05/16(土) 03:03:51 ID:???
>>414
>>428
こうしてならべてみると>>200はほとんど原文ママの翻訳だったんだな

434名無し三等兵:2009/05/16(土) 04:57:45 ID:uRTzMJ6X
流石は国士様、あまりにも見苦しい足掻き。ではなく抗戦w
435名無し三等兵:2009/05/16(土) 05:12:30 ID:zacNSvyq
中国共産党や、日本共産党、社民党、民主党、自治労、日教組は「琉球は中国領だ」
という主張するために「百越人(FR-2b民族)が琉球人や日本人の祖先だ。」という
ことを必死になって隠したがっている、というか気ずかせないように隠している。
日教祖、日本共産党、自治労ぐるみで、だ。

なぜなら「百越人」(DNA遺伝子Y染色体FR-2b)は中国では「絶滅」させらているから
である。そのことが日本人に広く知られると、
「なんだ中国人は、最近、尖閣諸島、沖縄も中国領だとか、中国領が奪われたんだ、とかって
被害者意識ばっかで言ってるが、 なんのことはない、そもそも我々の祖先、つまり百越人
である祖先を大陸から追い出して我々の祖先の土地を奪って乗っ取ったくせに、今度は、
我々の祖先(百越人)が亡命して辿りついて苦労して開拓したこの土地まで欲しがるのか?」
という反論されると、国際社会でもグーの音も出ない、反論のしようがないからだ。


436名無し三等兵:2009/05/16(土) 05:28:29 ID:zacNSvyq
また中国政府は「鳥居」が百越人の文化であることを必死になって隠すために
華南一帯にあった、数年前までなら長江流域、雲南省、湖南省、江西省、広東省など
華南一帯の稲作地帯の農村でごく普通に見られた「鳥居」の原型を壊させている
兆候がある。

また韓国支配層(現在でも隠然として力を持つ韓国の闇の李子朝鮮王朝時代の権力集団のワイ人
(夫餘・高句麗・沃沮・穢の前身)も同じである。
自分たちが李氏朝鮮時代、つまり「両班時代」、「百越人」が苦労して開拓した土地を接収して
増やしたことが明らかになっていくと困るからだ。
朝鮮半島でも百越人が過半数だが、実権は握っていない、少数民族の「ワイ人」支配層は、
必死になって「倭人」と読んで、「倭人」に対する敵愾心で百越の子孫を騙そうとしている。
そうして韓国民衆(過半数が百越人)を騙し続けていないと圧倒的に多い、一般民衆の、
「百越人」に 「ワイ人(本当の朝鮮人)特権階級、人種差別構造」をひっくり返されると
困るからだ。
437名無し三等兵:2009/05/16(土) 10:52:06 ID:???
ここは日本史板じゃないので、右だの左だの関係ない話は謹んで下さい。
438名無し三等兵:2009/05/16(土) 13:13:37 ID:???
暴徒鎮圧にはゴム弾や催涙弾が使われるが、殺していい相手でも軍隊はそういう
装備で挑むのかい?相手や目的によって装備を変えるなんて当たり前のこと。
重火器持った軍隊が相手なら、盾なんか持たないよ。無意味なんだから。
439名無し三等兵:2009/05/16(土) 13:15:19 ID:???
↑誤爆失礼
440名無し三等兵:2009/05/16(土) 13:24:25 ID:???
>>427
右からすれば「礼儀正しい日本武士」
左からすれば「国際常識も知らない時代遅れでマヌケな日本の支配層」
と言う事になるからじゃね?


「日本勢が一方的に不利」なら蒙古軍はなんで九州一つ落とせなかったのか?
台風のせいだの海があるからなんてのは事前にわかってた事
それを承知で日本に攻めたんならその時点で重大な失敗だろう

日本の武士が弱いか強いかとか言う以前の問題
441名無し三等兵:2009/05/16(土) 13:30:38 ID:???
勝ちに不思議な勝ちあれど、負けに不思議な負けは無しってか。
442名無し三等兵:2009/05/16(土) 14:31:25 ID:uRTzMJ6X
日本の軍事力を甘く見たというより、日本人の抗戦能力が思いの外高かったんだろ
他地域の連中と違って裏切り脱走がないだろうし、日頃盗賊海賊を生業にしているから戦慣れしてるし
武具も日本刀が輸出品になるくらいだから白兵戦用の物は良質だったんじゃないか?

領土的魅力に比して軍事力が高かったと
443名無し三等兵:2009/05/16(土) 14:37:00 ID:???
文永の役の元軍の撤退に関しては、そんなに深く考えなくても
単純に副司令官の劉複亨が重症を負ったからじゃね?威力偵察説は
進軍行程が短く偵察になってないのと、偵察にしては多い3万という
数字、その後、得宗家が大陸出兵計画を企てたり元の外交官を斬ったり
強気になってるしイマイチ説得力がない。それより副司令官が負傷した
ので撤退したの方があり得そう。
444名無し三等兵:2009/05/16(土) 14:53:49 ID:qPY06RPY
単にたった5千の日本兵にボコボコにされて勝ち目がなかったから撤退しただけ
445名無し三等兵:2009/05/16(土) 15:07:54 ID:???
五千って数字はどこからだっけ?
446名無し三等兵:2009/05/16(土) 16:52:27 ID:???
ボコボコって程、一方的ではないだろう。
日本側もかなり被害を出して、一旦水城に引き上げたわけなんだし。
尤も戦略的な意味では、何一つ得るものが無かった元軍の大敗北だが。

>>440
俺もちょっと調べてみようと思うが
当時、日本国内の合戦は夜戦や奇襲から始まってるケースが多かった気がするんだ。
夜討ち朝駆け騙し討ち、何でもアリだった奴らがそんな一騎打ちだなんて
お行儀良いことするんかなあって学校で習った頃から疑問だったんだわ。
447名無し三等兵:2009/05/16(土) 17:02:10 ID:???
>>443
例の杉山センセが文永の役を「威力偵察」だと言い出したから「威力偵察」の話が出て来たんだけど、
モンゴル帝国の軍で三万前後の規模で(ただし文永の役の軍は中央アジアなどの戦役と違って歩兵の
比重がかなり大きかったような印象あり)拠点攻略や領土征服を含まない掠奪遠征的な軍役は
イラン方面とかの例でも普通にあるので、杉山センセなどが言わんとしていることは、文永の役も
モンゴル帝国の軍が在地の政権の帰順を促すような、その種の広い意味での「物見」的な遠征の
ひとつだったということらしい。(結果的に帰順や返牒などは引き出せなかったが)

勿論、左副元帥の劉複亨が負傷したことで指揮系統の面では少なからぬ動揺はあったことは想像に難くないけど、
あまり「威力偵察」というタームにこだわらず、モンゴル帝国の軍役の傾向として考えれば、自分としては
(歩兵騎兵あわせて)三万前後の軍勢とはいえある程度合戦して戦果の如何を問わず一日で撤退しても特に
驚くべき事例とは思わない。

幾度か太宰府攻略云々もされているけど、文永の役での博多に上陸した軍勢の実数は不明だし、例の杉山センセが
何かのインタビューで「太宰府を陥落させるくらいならもしかしたら出来た規模かも知れないが、領土征服的な
ことは無理だろう」的な発言をしていたと思うが、水城は割と長大な要塞なので、大陸と地続きならまだしも、
海洋を隔てた単発で三万前後の軍勢でこれを攻略するとなると、他の地域での事例から考えると、ちと無茶な作戦だ。

よしんば陥落させても当時のクビライ側は南宋作戦中で、日本遠征が継続的にされるかかなり不透明な状態で、
九州で永続的な領土支配をする準備は出来ていない。杉山センセは「もしかしたら」と言ったが、攻略しても
結局一旦撤退しなければならないので、文永の役の時点で太宰府を陥落させてもあまり意味は無かっただろう。
(攻略→水城周辺を破壊しても、次の遠征の時には修繕されているだろうし)

杉山センセは「威力偵察」とは言ったが、モンゴル帝国の軍役として割とあるこの種の遠征を指して、
軍板的に「威力偵察」と表現し得る物なのか、そこら辺はちと判断がつかない。
448名無し三等兵:2009/05/16(土) 17:03:35 ID:???
一騎打ちってのは那須与一のエピソードみたいな戦場の華というか、
例外に属するケースなんじゃないのと思うけど。
449名無し三等兵:2009/05/16(土) 20:10:05 ID:???
>>430
学校教育で名乗りの例に「資時の矢合せ」一騎討ちの例に「季長の先駆け」が使われている。

「矢合戦」じゃなくて「矢合せ」な。戦を始めるにあたり代表が口上を述べ音が鳴る矢を射る。
要するに、汝らに義はない、兵を引かなければ討ち果たすぞみたいなことを宣告すること。
450名無し三等兵:2009/05/16(土) 22:19:51 ID:???
まあそれは儀礼っつーより政治的なもんだしなあ
そもそも言葉も通じん元や高麗の軍とじゃあ最初からそんな事も出来んだろ
451名無し三等兵:2009/05/16(土) 22:48:53 ID:qPY06RPY
>>446
妄想乙。
海岸で無理に迎撃した松浦党が百人くらい死んだのが日本側の被害の全て。
伝統的な防衛ドクトリンに乗っ取った福岡平野での決戦では
日本側が完勝している。
水城に撤退したのは日が暮れたから。
452名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:01:46 ID:qPY06RPY
>>447
あなたの妄想は置いておくとして、
海岸からたった10kmの水城にすら到達できず、
やれ船を焼いて背水の陣をしくとか言い出したり、、
海峡を越えて3万人も連れてくる遠征で、
一日で矢が尽きたとか見え透いた言い訳を弄してる時点で、
ああ、モンゴル軍は惨敗したんだな、と捉えるのは自然だね。

水城を攻略困難と本当に見なしていたなら別の場所に上陸すればいいだけ。
まあ三万人も動員した海越えの遠征で、
たった一日で矢が尽きてしまうおとぼけ軍隊らしいから
その程度の知恵も働かなかっただけかもしれないが。

事実は水城のど真ん前に上陸し、目標すら拝むこともできず惨敗したわけだ。
453名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:07:22 ID:???
なんか酷使様っぽいのが来たな。
454名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:15:08 ID:qPY06RPY
>>447
>よしんば陥落させても当時のクビライ側は南宋作戦中で、日本遠征が継続的にされるかかなり不透明な状態で、
>九州で永続的な領土支配をする準備は出来ていない。杉山センセは「もしかしたら」と言ったが、攻略しても
>結局一旦撤退しなければならないので、文永の役の時点で太宰府を陥落させてもあまり意味は無かっただろう。

これなんかはいかにも軍ヲタらしい後知恵。
文永の役の時点で太宰府を陥落させても
後から後から重装騎兵が万単位で湧き出てくるという日本の国情を分かってるなら
そもそも文永の役なんてやってねーよwww
弘安まで待つわなww

疑心暗鬼と楽観主義が混在する実際の政治的決断の現場を想像できないから、
こういう後知恵議論がまかりとおるんだよね。
で、実際に決断を要求される場面に立たされると思考停止して
さっぱり役に立たないのがミリヲタ=作戦ヲタ。
455名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:16:43 ID:???
もしや何時ぞやの「鎌倉武士は世界最強」の人か?
456名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:16:54 ID:qPY06RPY
>>453
リロードして分かったが、
早くも思考停止したミリヲタが登場したなww
酷使厨www
457名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:18:22 ID:qPY06RPY
>>455
思考停止→議論の飛躍
ミリヲタのパターンどおりwww
458名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:19:35 ID:???
>>457
飛躍も何も、文体も言ってる事も同じだから単に気になってるだけだが。
違うんなら違うって言えばいいじゃん。
459名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:21:45 ID:qPY06RPY
>>458
反論できないなら反論できないって言えばいいじゃん。
負け惜しみの何とか認定はいりませんwwwキモヲタ君ww
460名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:23:19 ID:???
>>459
なんで敵意をむき出しにしてるのかさっぱり解らんのだが。
461名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:24:56 ID:qPY06RPY
>>460
はい、反論できない負け犬キモヲタの被害妄想www
462名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:33:19 ID:???
略奪だけして帰るってのも地続きの大陸ならともかくわざわざ日本に来て行うやり方とは思えないが…

463名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:33:29 ID:qPY06RPY
資料に基づき日本の勝利、モンゴルの敗北を結論づけた我が議論に対し、
ミリヲタ側は酷使様認定厨の登場を見ただけでした。
軍ヲタの正体見たり、後知恵日和見主義者。

「私がもっとも嫌うのは、共産主義者と日和見主義者だ」
〜イサー・ハレル
464名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:35:35 ID:qPY06RPY
そもそも略奪に成功したのが壱岐対馬だけだからな。
トイの入寇みたいな海賊まがいならまだしも、
三万人も動員した正規軍が、あんな寒村の略奪だけで満足するわけねーじゃんww
465名無し三等兵:2009/05/16(土) 23:36:55 ID:qPY06RPY
作戦至上主義者のミリヲタ諸君も、
ちっとはコスト対効果というのを考えましょうね!

せんそうにはおかねがかかるんです!
466名無し三等兵:2009/05/17(日) 00:53:39 ID:???
国書厨の次は酷使様かよ
467名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:05:42 ID:???
矢が尽きた→元史日本伝
元と属国と非戦闘員で3万
正規兵1万5千程度で即日矢が尽きる程度の物資保有量から本格侵攻ではなく威力偵察であると断定出来る
468名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:07:14 ID:???
アンタの言いたい事はわかったからまずはsageてくれ。
バカ同士が煽り合って潰れた日本史板のスレみたいになるのは御免だ。
だからこそ、こっちはsage進行で細々とやってたのに。
469名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:10:00 ID:???
酷使様の頭の中
エビフライ「1日分の矢弾で海の向こうの国占領してこい」
470名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:18:24 ID:???
>>430
けっこう解釈間違えてるんだよね、あと誤解させる書き方も。
例えば>>350
「十萬之衆得還者三人耳(十万の衆、還りを得たる者三人のみ)」
全文読めば、残された蒙古人、高麗人、南宋人など10万のことなんだが、
これを全軍の損害と比較して
>誇張が過ぎる表現だというのが大方の見解のようだ。

>>352
>それでも勝ち負け云々以前に「十万のうちの三人」という数字と
「全軍のうちの一、二割(全軍十四万とすれば1万4000〜2万8000)」
じゃあ実数というか現実味の有る数字として大分違う訳だが。

では誤解釈か誤解させてるか。

唯の間違いなら指摘すればいいだけだから構わないが、
意図的に史料を切り抜いたのではとも疑った。
471名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:26:36 ID:???
>>449
> 「矢合戦」じゃなくて「矢合せ」な。戦を始めるにあたり代表が口上を述べ音が鳴る矢を射る。
> 要するに、汝らに義はない、兵を引かなければ討ち果たすぞみたいなことを宣告すること。
ああ、なるほど。「矢合せ」ってそういうものだったのね(汗
無知で申し訳ない&情報さんくす。
なるほど、竹崎季長が『蒙古襲来絵詞』で散々こだわった「先駆けの功名」とかも「一騎討ち」云々に関わっていると。

モンゴル帝国それ自体とか蒙古軍側の動向ならあれこれ言えるけど、やっぱり付け焼き刃だから鎌倉時代とかの
ことの常識的な情報はかなり抜けがあるなあ自分(汗
472名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:29:59 ID:???
特にあれっと思ったのが
「蒙古国牒状」無礼の定番>>425の敬意対象を1文字上に書いた「擡頭」を
>>392でスルーしたのは意図してではと引っかかった。↓

>具体的に牒状のどういったところが「無礼」とされたのかは、
資料中でははっきり書かれていないことが多いが、
中世史の研究者の人たちは、文末の「兵を用いるに至っては、
夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ」
という箇所が当時の人たちにかなり引っ掛かったようで、
そのことから「無礼な書」と看做されたんだろうと見ているようだ。

>ははっきり書かれていない

のは「擡頭」を指すものじゃないのかなとか

すると>>393
>『八幡愚童訓』という書物を介して室町時代には割と知られていたということがなかなか興味深い。

ここは、「蒙古国牒状」が同時期に朝廷外に知られ、
民間人がN速+状態だったらしかったことをスルーする意図があるのかと嫌なことだが深読みしてしまった。
473名無し三等兵:2009/05/17(日) 01:31:51 ID:xyU1A5Lf
474名無し三等兵:2009/05/17(日) 02:34:47 ID:???
>>422
>>423
武士の起源が未だに中央の横暴から身を守るための農民の武装化ってなってるな
今じゃ軍事貴族説の方が有力だが
475名無し三等兵:2009/05/17(日) 02:44:07 ID:???
軍事貴族も何もその先生の中では、桓武平氏や清和源氏はどうなってるんだろ?
476名無し三等兵:2009/05/17(日) 03:38:42 ID:???
>>467
確かに矢がつきたという記述はあるけど、航海という危険を冒してまで
彼らは何を得れたのかだが。実際ほとんど何も得ることなく、案の定撤退最中に
暴風雨にあって座礁してるし。また、高麗史金方慶伝の忽敦と金方慶のやりとり
と威力偵察説は相反してる。もう一つ考えられるのが、蒙古襲来絵詞を見ても
わかるが、鎌倉武士は重装備で元軍の短弓が武士に対して効果が薄かった可能性もある。
そのため、無駄に矢を射つくしたか、それを見越して退却したのかも。
477名無し三等兵:2009/05/17(日) 04:03:09 ID:+qw9HE3H
矢弾が尽きたってのは、足痛いとか風邪ひいたとか親戚が亡くなった〜の類なんじゃなかろうか
予想外の戦上手ぶりに面食らって、撤兵しようとしたところへ台風直撃〜みたいな

あと短弓から放たれる矢を身に着ける装備で相当程度防ぐのは、いくら重装備でも無理でしょ
478名無し三等兵:2009/05/17(日) 04:11:47 ID:???
対馬も壱岐も単に制圧するだけで良かったのに
ハンティングゲームなんかやって無駄弾使うからそんな事になるんだよw
479名無し三等兵:2009/05/17(日) 04:20:13 ID:???
元軍ったってモンゴル騎兵で構成されてた訳じゃなくて実態は南宋や高麗崩れの歩兵が主体な訳で。
和弓+騎馬でアウトレンジに徹されたらただの的かもねw

それでやられて二回目も装備の改良もなしに送られるのって懲罰部隊以外の何者でも無い気が。
高麗は知らんが南宋なら強力な弩で発射速度を犠牲にして射程を稼ぐ選択肢も有るんじゃない?
480名無し三等兵:2009/05/17(日) 04:33:43 ID:???
>>462
いや、軍事行動として当然掠奪も含まれるというのであって、掠奪そのものが目的という訳でなく、
「こちらは渡海して侵攻するだけの戦力・実行力があるぞ→だから何かしらメッセージをよこせ!」
という政治的なジェスチャーをもった遠征だったと自分などは踏んでいる。
(これは杉山センセなどもおおよそそのように考えておられるようだけど)

掠奪に関しては、「相手側の領域に侵攻した!」という確実な戦果・実績を残し中央に報じるためにやる、
という意味もあるので、多分、日本遠征は、珍島や耽羅島の三別抄討伐の時のように高麗近海の島嶼を
征するという段階を一段超えるものだったと思う。クビライも「風濤険阻」と言ったように、文永の役は
モンゴル帝国史上初の「外洋遠征」だった訳で、ともかく一度、千単位、万単位の軍勢を、外洋に渡海
させて、上陸させ、軍を展開させるということそれ自体が、文永の役という遠征の大きな価値のひとつ
だったんじゃないかと予想している。勿論、これは飽くまで私見だけど。

万単位の軍勢で水域を渡るという行為は、チンギス・カン時代の中央アジア遠征でシルダリヤ・アムダリヤ
両河の渡河作戦などや、水軍そのものの運用は南宋遠征の襄陽包囲戦あたりで既に見られているけど、
「外洋遠征」で日本・九州のような「大島」に上陸して数千、万単位の軍を派遣するのは、実際初の試みだったし。
481名無し三等兵:2009/05/17(日) 04:56:49 ID:???
>>480の続き。
> 軍ヲタらしい後知恵。
残念ながら、自分は飽くまでもモンゴル帝国史とか中世史の人間なので軍ヲタとかは到底名乗れるような
立場に無い。自分の意見はモンゴル帝国に関する文献史や研究史の範疇を超えられないし、それ以上は
僭越極まりない。
というか歴史関係ならまだしも、軍事関係の知識はほとんど無いので。

> やれ船を焼いて背水の陣をしくとか言い出したり
いや、そこは読み違ってるよ。その『高麗史』の金方慶伝に出て来る話は、今の遠征軍の状況は春秋戦国時代、
秦の穆公の孟明の「焚船」とか漢の韓信の「背水の陣」みたいな状態だ、ていう故事になぞらえて、今が正念場で
戦闘を継続したい!というのが金方慶の主張の主眼で、実際に船を焼くとかそういう話ではないので・・

(金方慶の「伝」なので当然のことなんだろうけど、「れい声大喝するに、倭辟易して走る」とか、どーにも
 記述のいちいちで金方慶の行動をことさらに持ち上げている感じがありすぎる。
 杉山センセは金方慶伝の金方慶と司令官の忽敦との会話は、当初からの撤退予定を踏まえた上でのやり取り
 だったろう的な意見を『モンゴル帝国の興亡』だったか別の本で述べていたけど、左副元帥の劉復亨は負傷して
 いるから良いとして、同席していたはずの彼にとってほとんど仇敵だった右副元帥の洪茶丘が全然発言していない
 っぽい感じにすごく違和感を覚える。一応博多に来た軍勢には居たはずだが・・)

うーん、何となく流れが今は亡き元寇スレの二の舞いな展開になりかけているような・・(汗
482名無し三等兵:2009/05/17(日) 05:26:50 ID:???
>>404
クビライからの日本招諭について大まかにまとめると、

クビライからの第一次日本招諭(1266年、正使・兵部侍郎・黒的、副使・礼部侍郎・殷弘)と
その国書と高麗からの国書をもって太宰府へ来た第二次日本招諭(1267年、高麗使臣、起居舎人・潘阜)で
その潘阜が持って来たクビライからの国書の写しが>>368-370

第三次日本招諭は1269年初めに黒的、殷弘らを正使として高麗から知門下省事の申思[イ全]、同侍郎の
陳子厚とふたたび潘阜が対馬まで来たけど、現地の住民と悶着を起こし、そのまま引き返してしまっている。
この時、どういう訳か塔二郎と弥二郎という島民を拉致って、そのまま黒的、殷弘は申思[イ全]や潘阜ら高麗の
使者たちとともに、この二人の俘虜を大都まで連れてきている。

クビライは使者たちと謁見し、申思[イ全]を高麗国王ともども慰労し、この二人の対馬の島民も歓待して
大都の宮殿群を観覧させたそうだ。三度にわたり返牒を得る事に失敗したため、二人を送還して日本招諭の
ために使おうとしたらしい。

第四次日本招諭は同年10月頃に対馬に弥二郎らを伴った使者達が至ったものの、使者達は対馬に留め置かれ
国書はただちに鎌倉へ送られた後、幕府はこれを京都へ転送している。朝議が開かれ、蒙古への通交要求を
拒否することが決し、その旨拒絶する内容の返牒を出すこととなった。この時の文書博士菅原長成の起草に
なる返牒案が伝世しているが、幕府側がこれに待ったを掛け、返牒も不要として返事もせずに使者を追い返す
ようにした。
483名無し三等兵:2009/05/17(日) 06:41:48 ID:???
>>482
同じ内容を二回送ってきたと言いたいの?
484名無し三等兵:2009/05/17(日) 06:53:20 ID:???
>482の続き。
第三次・第四次日本招諭の時の国書の内容は現在には伝わっていないが、第四次日本招諭の時にもたらされた
国書は、第一次・第二次が「大蒙古国皇帝」からのものだったのに対してモンゴル帝国の中央官庁でこの時
実質クビライ政権の内政機関だった「中書省」から出されたもので、日本の朝廷側から出そうとしていた
返牒もそれに即して「太政官牒」として作成されたものだった。

こうしてクビライも今度こそはと期待を掛けていたっぽい四回目の日本招諭も不発に終わった訳だが、
実はこの時期、高麗で権臣・林衍による高麗国王元宗の廃位事件が起きており、この事態を収拾するため
のちの忠烈王がクビライに急報して色々と活躍したり、高麗の重臣たちが釈明に大都へ上京したりと
大変なことになった。(元宗はモンゴル皇帝に即位間も無いクビライの肝煎りで高麗国王になった)
そのことも影響してかクビライ側の態度も怪し気な雲行きになっていったりするのだが・・・

第五次日本招諭は1271年、女直人出身の趙良弼がかって出て彼がこの都度の正使になったんだけど、
この頃には元宗廃位事件やその後の三別抄叛乱などの諸々の影響で、第一次日本招諭ではただの絵空事
レベルだった軍事的緊張が、軍艦の建造とか高麗南部への軍事力の投入で、日本遠征が現実に出来る
レベルになってしまっていた。この趙良弼がもたらした国書が『元史』日本伝に載せられているけど、
いつまでも国書を無視して返事を送ってこない日本側の態度が失礼だと非難し、軍事力的な衝突も
現実的になるかも知れないと、ややあからさまでひどく苛立っているような感じの文章になっている。
485名無し三等兵:2009/05/17(日) 07:00:37 ID:???
>>484の続き。
趙良弼が高麗や太宰府あたりに留まってなんとか日本からの返牒を得ようと艱難辛苦する話があるんだけど、
書くのが面倒な量なので割愛(汗

第六次日本招諭は1272年、五月、高麗の書状官・長鐸が日本人、弥四郎(前述の弥二郎と同一人物の可能性大)と
ともに太宰府へ到着、それに前後して趙良弼も来て返牒をしてくれるよう、太宰府側と再度交渉説得を試み
約一年粘るも結局、翌1273年五月にはクビライのいる燕京(大都の前身)へ戻っている。同年7月13日に趙良弼は
日本へ滞在中に見聞した日本の君臣の爵号、風俗、産物等を記録してクビライに献呈している。
趙良弼もこれ以上の招諭は無効と判断。この時、趙良弼は「日本へ遠征しても産物も乏しいし船で渡るのも
面倒なので遠征とかしない方が良いです」と上奏しているが、結局は入れられなかった。これが決定的だったようだ。

そして、趙良弼が日本から帰還したこの1273年七月、クビライの召集によって高麗軍の主将・金方慶や洪茶丘、
忻都など大都で謁見し、三別抄討伐の功を賞された後、日本遠征が議論され、ついにクビライのもとで日本への
出兵が決まった。この翌年の1274年の八〜九月くらいまでに遠征の準備が完了し旧暦の十月に例の『高麗史』で言う
「蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」が合浦から出発した。

『元史』の世祖本紀か日本伝に日本遠征についてのクビライの聖旨でもあれば、最終的にどういう理由で遠征する
ことを決したのか分かるはずだろうけど、生憎両者にはそこら辺は書かれておらず、『元史』を一通り見たけど
日本遠征の聖旨そのものは見付けられなかった。『高麗史』でも無さそうな雰囲気だが・・
486名無し三等兵:2009/05/17(日) 07:09:13 ID:???
>>483
ああ、ちょっと説明不足だったかもだけど、
第一次日本招諭の黒的と殷弘の時は、例のクビライが「風濤険阻をもって辞と為すなかれ!」と
釘を指したのにその「風濤険阻」を理由に海も渡らずに引き返して来た回。
今度は高麗がやってくれと命じられて、高麗国王の側近で上記の二人を接待した縁で使者を命じられた
らしい高麗の起居舎人・潘阜が第一次日本招諭の時出された国書を太宰府まで持って来た、ということね。
487名無し三等兵:2009/05/17(日) 07:33:37 ID:???
>>486
要するにそれがいわゆる一度目の国書ね
>>414でDQN訳されてるやつにして
やたら国士を連発してるやつが>>201で「三度目のやつだ」と言い張っていたアレね
488名無し三等兵:2009/05/17(日) 08:13:27 ID:???
>>400, >>412
のちの忠烈王が日本遠征に執心したのは、高麗の権臣たちに王位や権力を左右されがちだった
高麗国王位を強固にするため、クビライ宮廷と親善関係を樹立して関係を密にしようという
狙いがあったようだ。

ただ、そのためには服属政権の義務として課されていた皇帝が行う軍旅・外征への兵員派遣義務を
全うする必要があったが、高麗は久しい戦災によって国力が疲弊しているので、遠方の南宋や
その他の地域への遠征は負担が甚だしく耐え切れないので、どうか派遣する場合は日本への遠征に
限定にしていただきたい! ということだったらしい。
日本遠征そのものが目的というよりも、モンゴル皇帝であるクビライ政権傘下の服属諸勢力のうち、
高麗国王位の地位向上のため、外征の義務負担を日本のものへ集中させようという感じだったようだ。

この日本への遠征が実際に云々されるようになったのも第四次日本招諭と1269年の権臣・林衍ら
一党による元宗廃位事件に前後しているようだだけど、さっきから目が痛くて適わないので
忠烈王と日本遠征に関わる件で現在の東洋史研究で言われていることについての話は、またの
機会と言うことで・・

あと、高麗がクビライ以降のモンゴル皇帝の宮廷に出し続けた質子、「トルカウト」とモンゴル帝国の
王族付きの侍衛組織「ケシクテイ」との関係についても色々込み入った事情があるけど、それもまた
別の機会に・・
489名無し三等兵:2009/05/17(日) 08:30:30 ID:???
>>うーん、何となく流れが今は亡き元寇スレの二の舞いな展開になりかけているような・・(汗
どう見てもID:qPY06RPYは議論をしたいんじゃなくて「論破」したいだけなのは明らかなので相手にしないほうがいいよ。
490名無し三等兵:2009/05/17(日) 11:04:24 ID:???
上げてる奴は意図的に荒らそうとして煽ってるだけだから無視してヨロシ
491名無し三等兵:2009/05/17(日) 12:11:01 ID:???
威力偵察が目的なら尚更矢弾が尽きるなんて事態はマヌケ極まりないと思うんだが…

普通戦線を広げ過ぎてとか略奪できなくなって兵糧や矢弾が尽きる事はあっても初めから不足してるとか…

492名無し三等兵:2009/05/17(日) 12:20:56 ID:???
日「…」
伊「…」
493名無し三等兵:2009/05/17(日) 13:36:43 ID:OLiaSF8G
ID:qPY06RPYもっとやれ

落し所を探る議論はクソ
494名無し三等兵:2009/05/17(日) 13:59:52 ID:Vc4acfLk
>>491
1257年にタガチャルが南宋侵攻から撤退した理由について元史には、
「秋の長雨のため」と記されているし、1260年にフレグがシリアから撤退した理由については、
ルイ9世宛ての書簡で「馬匹に与える飼料と牧草が尽きたため」と記されているんだよね。
こういった言い訳は、モンゴル軍が撤退する際のお約束だから、通常なら真に受けたりはしない。

ま、ミリヲタは通常の知能は持ち合わせていないからwww
495名無し三等兵:2009/05/17(日) 14:02:14 ID:Vc4acfLk
フビライが日本征服の意図を明確にし、高麗に準備の開始を命じたのは1268年。
それから、1274年の文永の役まで、6年もかけて準備した遠征で、
たった一日で撤退することを正当化しうる理由は何も存在しない。


たった一つ、負けたから、というシンプルな真理を除いてはww
496名無し三等兵:2009/05/17(日) 14:36:37 ID:???
矢が尽きたのは事実だと思うよ

というのも当時の日本武士団の弓矢に対する対応能力はモンゴルが
それまで相手にしてきた国々とは桁違いだったからね

高麗の史書に出てくる前期倭寇との戦い、朝鮮の史書に出てくる日本武士団との戦いを見れば
全身に矢が刺さってハリネズミ状態になんても平然と戦闘を続行する日本武士に対する記録が
幾度も出てくる

日本の甲冑が弓矢に対して極めて高い防御能力を持っているのは言うまでもないし
日本武士団が使う盾は弓矢に対する防御を重視したタイプであることが日本軍が矢戦に強い理由だね

なので元軍としてはいくら矢を飛ばしても反撃が弱まらない日本の軍勢に戸惑ったと思うよ

それと矢が尽きたという記述は重要な意味を持つけど、それは元軍が戦場で矢を回収できなかったという
ことでもあるんだよ

それは戦場で主導権を握ることができなかったことを意味するし
事実、日本側の記録を見たら惨敗して戦場を元軍に明け渡して逃走した風には
見えないんだよね
497名無し三等兵:2009/05/17(日) 14:56:49 ID:???
ID:Vc4acfLkさんが、軍ヲタの低脳どもを次々と論破していく様は
壮観ですらあるなw
498名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:06:43 ID:???
弓矢がだめなら近接戦闘に持ち込むしかないけど問題は元軍の近接戦闘能力が
日本軍より落ちることだよね

実際、元軍や高麗軍の近接戦闘能力はそんなに高くないから少数の武士を取り囲んで打ち取るならともかく
大規模の武士団に正面から斬り込まれたら敗退するしかなかったんだろう

ちなみにモンゴルはヨーロッパ侵攻でも近接戦闘では騎士団に苦戦している
499名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:10:34 ID:???
広い草原で機動戦なら別として、やはり上陸作戦では…
500名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:21:01 ID:Vc4acfLk
>>498
蒙古襲来絵詞に正面から切り込むシーンなんてあるか?
矢戦でモンゴル軍をぼこってるシーンばっかじゃん。
501名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:22:52 ID:???
いや、そうなるって(やらなくても)分かったから矢の回収ができなかったって話だろう
502名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:25:42 ID:Vc4acfLk
いや、だから日本の騎兵に矢を射掛けられて逃げ回ってるんだけど、
回収するも試みるもクソもなくそれ以前の問題だろ?

その矢の回収云々はどこから出た妄想?
503名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:46:31 ID:???
>>504
あなたが何が言いたいのかわからんのだが・・・

そもそも元軍が矢を射掛けられて逃げ回るにいたったプロセスとかはまったく
考えていないのか?

矢の回収とかは中世までの世界各国の戦争で普通に行なわれた行為なんだが

それと斬りこみは日本武士団の得意技の一つだから使わない方がおかしいだろう

蒙古襲来絵詞になければないことになるのか?

あれは個人が経験した戦場しか出ないのに?

それじゃ八幡愚童訓を根拠に日本敗北を叫ぶ輩と何が違う?
504名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:48:29 ID:???
間違った・・・・
未来にレスしてどうするんだ
上は>>502へのレスね
505名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:48:38 ID:Vc4acfLk
>>503
矢の回収ができないから逃げ回ってるのではなく、
それ以前に矢戦で敗北して痛くて苦しいから逃げ回ってるんだよ。

知識をひけらかしたいならチラ裏でどうぞ。
506名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:52:08 ID:Vc4acfLk
>個人が経験した戦場

主戦場の状況については十分に描写されているし、
何よりそれが実際に経験した戦場、であることが重要。
最も重要な記録といってよい。

政治判断や編集者によって浄化された史書とか、
「侍は負けたけどウリたちがお祈りしたお陰で
神様が降臨して追い払ったニダ!」というカルト本よりもね。
507名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:54:45 ID:Vc4acfLk
まぁ、ミリオタと本物の軍人というのはとかく相性が悪いものだから
>個人が経験した戦場しか出ない
とくさす気持ちは分かるがww

それを言うなら、あなたや史書の書き手なんぞは
何も経験していないのだから批評したり意見を述べる資格は皆無だわww
508名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:58:31 ID:???
ID出してくれるとはありがたい
509名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:59:13 ID:Vc4acfLk
そうそう、もう一つ重要な点は、
単に経験したにとどまらず、
プロの軍人の目による観察が記録されている点だ。

ド素人の文系オタクの記録には全く欠落した、重要な要素だ。
510名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:08:45 ID:???
>>505
あなたは何か勘違いしてるようだが・・・
そもそも何故回収という言葉にだけ噛み付く?

オレは元軍に矢が足りない理由のひとつを説明してるんだが・・

それと痛くて苦しいから逃げ回る?

なんかガキの喧嘩と勘違いしてないか?

指揮系統の存在を無視するんじゃねえよ

矢戦に敗北したなら指揮官の選択はそのまま退却するか近接戦闘に活路を求めて突撃するかの
二択なんだ

元軍がばらばらになって逃げるというのは退却する前に武士団の突撃を食らったか
武士団に突撃して返り討ちを食らったかで指揮系統がずたずたにされたからだろうが

数が物を言う矢戦で元軍が兵力的に劣勢の武士団相手に指揮系統がばらばらになって兵力が
離散する被害を受けるなんてありえないんだよ

元軍兵力が離散したこと自体が近接戦闘があったというのを意味するんだろうが
511名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:13:37 ID:Vc4acfLk
>>510
>オレは元軍に矢が足りない理由のひとつを説明してる

ああ、それは説明じゃなくて妄想って言うんだよ。
お疲れ様。一つ賢くなったね。
512名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:20:12 ID:???
>>509
その論理なら戦闘機乗りの戦記に空中戦しか出なかったら
陸戦は発生しなかったということになってしまうな

蒙古襲来絵詞にないなら近接戦闘はなかったのかというオレの質問には
答えてないわけだが

そもそも蒙古襲来絵詞自体に元軍の一隊が菊池勢に蹴落されて兵力が二分されて逃げたことが
記されているが、まさか矢戦だけで二分されたと考えているのか
513名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:26:09 ID:Vc4acfLk
>>512
>その論理なら戦闘機乗りの戦記に空中戦しか出なかったら
>陸戦は発生しなかったということになってしまうな

実際の空戦記には地上部隊の話もよく出てきます。
それどころか水上部隊の話も。
あなたと違ってプロの目は節穴じゃないので。

有り得ない仮定、人、それを妄想と呼ぶ。
514名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:27:35 ID:Vc4acfLk
>まさか矢戦だけで二分されたと考えているのか

あなたの妄想は知ったことではございません。
どうぞ現物をごらんください。
矢を射掛けられて逃げ惑う蒙古兵が存分に絵付きで描写されておりますwww
515名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:36:47 ID:???
>>514
矢を射掛けられて逃げる兵士の絵は敗残兵が三井と竹崎に追いかけられる場面で
菊池勢の合戦は絵になってないんだが・・・

もういいよ。 自分に不利なことは一切無視する荒らしみたいなやつには
これ以上レスする気も起きない
516名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:38:27 ID:???
>>515
自分が有利と妄想していた足場を完全に崩壊させられ涙目www
517名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:41:09 ID:???
よこから喧嘩に入るのは何なんだが・・・
「蒙古襲来絵詞に白兵戦がない」ことを前提に言い合いするのは
不毛だからお互いやめれ

だって白兵戦してることも書かれてるんだもん
まずそこをお互い再確認してからあらためて議論を開始してみてくれ

518名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:53:06 ID:Vc4acfLk
>>517
>「蒙古襲来絵詞に白兵戦がない」ことを前提に

はぁ?誰もそんなことは言ってないが?
逆に聞くが誰が言った?引用して明示してもらいたいね。
519名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:53:31 ID:???
>>510
えーと
蒙古襲来えことばに白兵戦があるというのは上に書いた通りなんだが
ただし>>510の場面では基本的に騎射による突撃(言葉として矛盾しとるがほかに言いようがないので)
であって白兵で元軍が崩壊したわけじゃなさそうよ。
どどどーと騎馬武者が騎射しながらひと塊りになって突っ込んでくるのを見て元軍が肝をつぶしちゃったと解釈するべきじゃないかな。

蒙古襲来絵詞での白兵戦は主に船戦での白兵場面の描写と鷹島での白兵の文章
520名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:55:23 ID:Vc4acfLk
>>519
馬鹿かお前はwww
それは弘安の役じゃねーかww

ドがつくアホウだなこいつはww
521名無し三等兵:2009/05/17(日) 16:58:01 ID:Vc4acfLk
とりあえずここんとこずーっと文永の役の実態の議論できてるところへ、

おとぼけ>>519がいきなり弘安の役www

もう脱力www
522名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:00:55 ID:???
>>518
ID(ID:Vc4acfLk)からみて>>518>>500だよね?おかしいなー

500 :名無し三等兵:2009/05/17(日) 15:21:01 ID:Vc4acfLk
>>498
蒙古襲来絵詞に正面から切り込むシーンなんてあるか?
矢戦でモンゴル軍をぼこってるシーンばっかじゃん。

↑の文章からみて「蒙古襲来絵詞に白兵戦がない」とこの人は勘違いしておるようだなと
俺は読んだのだがちがうのかいな?

で、そう言われた相手が>>503でこう返してる

それと斬りこみは日本武士団の得意技の一つだから使わない方がおかしいだろう
蒙古襲来絵詞になければないことになるのか?
あれは個人が経験した戦場しか出ないのに?

↑これ読む限りこっちの人も蒙古襲来絵詞に白兵戦がないと考えているように読めた
これじゃ喧嘩するだけ無駄だなと思ったのよ。

523名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:03:09 ID:???
ID:Vc4acfLkとか変なのが湧いてきたな。やっと、酷使様連発してるキチガイが
消えたと思ったら、今度はコイツか。

524名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:05:27 ID:Vc4acfLk
>>522
ウン、それで君が反証として持ち出してきたのが

>主に船戦での白兵場面の描写と鷹島での白兵

なんだね。
横から議論に参入するときは、今の議題が何かよく見極めようね、ボクww
525名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:05:44 ID:???
>>523
ID:Vc4acfLkは
大まかにいえば「騎射メインで闘っていた」という意見なんだから
まあただしいっちゃ正しいんだが、どうもあおりたがりというか、絡みづらい人だね
526名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:08:04 ID:???
>>522
オレが>>503のレス書いたけど最初はID:Vc4acfLkにつられて蒙古襲来絵詞に
白兵戦がなかったかのように書いたが考えてみると蒙古襲来絵詞にも白兵戦が
あることを思い出したので以後のレスではそれを踏まえて書いた

煩わしくさせて申し訳ない
527名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:08:54 ID:Vc4acfLk
>それと斬りこみは日本武士団の得意技の一つだから使わない方がおかしいだろう

銃剣突撃は英国の得意技のように言われているが、
マルビナスとイラクでそれぞれ一回ずつしかやってないよね。

君は白兵突撃がやる側にとってもどれくらい心理的ストレスになるか
よく考えてみたほうがいい。
>得意技の一つだから
使うというのは余りにも戦争ゲーム的な論法。
矢戦で方がつくならそれで済ませるよ。
528名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:13:06 ID:Vc4acfLk
>>526
>最初はID:Vc4acfLkにつられて蒙古襲来絵詞に
>白兵戦がなかったかのように書いたが

繰り返しになるが、私がいつ、
>蒙古襲来絵詞に白兵戦がなかった
と書いたのかな?明示してもらいたいww
529名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:16:06 ID:???
>>524
まあ蒙古襲来絵詞に白兵があることをちゃんと知っていたんなら
こちらとしてはそれでいいのよ

まー百道原方面では騎射メイン(おそらく騎射だけ)
で勝敗が決したであろう点では同意見だし
530名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:16:47 ID:???
> 517 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/05/17(日) 16:41:09 ID:???
> よこから喧嘩に入るのは何なんだが・・・
> 「蒙古襲来絵詞に白兵戦がない」ことを前提に言い合いするのは
> 不毛だからお互いやめれ

今回の議論で“白兵”という言葉が初めて使われたレス。
勝手に勘違いしてしかも責任転嫁しようとしてる奴がいるな。
531名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:17:33 ID:???
532名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:17:54 ID:Vc4acfLk
>>529
おっと、妄想ミリヲタクンが撤退を開始しましたww
533名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:17:57 ID:???
1日でスレ伸びすぎ。つか上げんな
534名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:18:53 ID:???
近接戦闘とは言ったが白兵とは言ってないというのはあまりにお粗末な言い訳
535名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:19:16 ID:Vc4acfLk
>>531
正面から切り込んだ例がない(しかも文永の役の話)

=白兵戦がない

はい、完全に妄想ですwww
536名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:20:42 ID:Vc4acfLk
>>534
近接戦闘と言ってるのもミリヲタクンだけだが?
スレ内検索してみようねwww

他に言い訳はあるかな?www
537名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:23:52 ID:Vc4acfLk
ミリヲタクンは妄想がひどくなりすぎて
自分の意見と他人の意見の区別がついてないねぇ
538名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:24:40 ID:???
ID:Vc4acfLkがどこを向いて矢を射ているのかさっぱりわからん
539名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:26:26 ID:???
>>538
負け惜しみにしか聞こえないからやめたほうがいいよ
540名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:28:13 ID:sXp+PpPH
まあこれで国書関係のスレは完全に流れちゃったな
541名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:30:42 ID:Vc4acfLk
俺:正面から切り込んだ例がない
(ちなみにここまでずっと文永の役の話が続いていた)


ミリヲタフィルター通過
あいつは白兵戦がなかった!近接戦闘がなかった!と言う
でも弘安の役ではあったじゃないか!論破完了!

俺:白兵戦?近接戦闘?何の話?
俺は一言も言ってないけど。
そもそも何故に唐突に弘安の話が?
542名無し三等兵:2009/05/17(日) 17:36:38 ID:???
と言うかミリヲタじゃないだろ、そいつ。
543名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:02:09 ID:sXp+PpPH
>>519を読む限りID:Vc4acfLkと>>519は同意見に思えるんだが…
544名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:09:48 ID:Vc4acfLk
>>543
ミリヲタの自演じゃない?そいつは
立場がなくなってきたから転向するために別人格造ったんだろうね。
545名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:10:34 ID:Vc4acfLk
なにしろいきなり登場して唐突に弘安の役の話を始めたキチガイだからねww
怪しすぎるww
546名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:18:02 ID:+qw9HE3H
大国士閣下ことID:Vc4acfLkは奉書の内容を全く誤認識してた事に気付き
別の話題へ移行させようと必死なんだろw
547名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:18:32 ID:???
変にスレが伸びたと思ったらやっぱり変なのがいたか。
専ブラでIDのところを見るとそいつのカキコ数出してくれるんだが、
お前今日で24回も書き込んでるのな。
548名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:34:46 ID:Vc4acfLk
>>546
はい、負け惜しみの誰かさん認定が始まりましたww
反論できないミリヲタ哀れwww

>>547
無知なミリヲタクンを教化してあげていただけ。
馬鹿だから手間がかかる。
549名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:42:35 ID:???
あのな、>498が近接戦闘の話をしていて、それに対するレスなのに「白兵戦?近接戦闘?何の話?」って文盲か?
それともお前の脳内では近接戦闘=正面からの切り込みなのか?
550名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:45:16 ID:???
「軍ヲタだからこう言う考えをする筈だ!」とか当人が否定してるのに軍ヲタと扱うなど思考停止と議論の飛躍を行ってるのはどうみてもこのキチガイだろ。
551名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:48:34 ID:???
久々に注目を集めて充実した日曜、という人なんだから・・・
552名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:48:46 ID:???
>>549
>>549
500 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/17(日) 15:21:01 ID:Vc4acfLk
>>498
蒙古襲来絵詞に正面から切り込むシーンなんてあるか?
矢戦でモンゴル軍をぼこってるシーンばっかじゃん。

502 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/17(日) 15:25:42 ID:Vc4acfLk
いや、だから日本の騎兵に矢を射掛けられて逃げ回ってるんだけど、
回収するも試みるもクソもなくそれ以前の問題だろ?

その矢の回収云々はどこから出た妄想?


これで近接戦闘の話が展開していったと考える君は
人と話したことがないんでしょうなぁwww
553445:2009/05/17(日) 18:48:58 ID:???
なんかスルーされたみたいだからもう一度聞きたい。
五千って数字はどこからだっけ?
554名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:50:06 ID:Vc4acfLk
ミリヲタクンは他人と議論した経験のない淋しい人であることが判明しますたwww
555名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:51:43 ID:???
>>552
だから元々(>>498)が近接戦闘の話なんだが。
なんで近接戦闘全般の話なのにお前は>>500で勝手に正面からの切り込みに限定してるんだ?
議論した経験が無い?
「低脳で愚劣な軍ヲタを論破・教化して悦に入りたい」ようにしか見えないお前の事か?
556名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:54:55 ID:???
>>552
頼むからsageは使うな
557名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:55:44 ID:Vc4acfLk
>>555
要するに>>498へのレスだから近接戦闘の話に違いないと。

はい、妄想乙www

502 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/17(日) 15:25:42 ID:Vc4acfLk
いや、だから日本の騎兵に矢を射掛けられて逃げ回ってるんだけど、
回収するも試みるもクソもなくそれ以前の問題だろ?

その矢の回収云々はどこから出た妄想?

510 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/05/17(日) 16:08:45 ID:???
>>505
あなたは何か勘違いしてるようだが・・・
そもそも何故回収という言葉にだけ噛み付く?

オレは元軍に矢が足りない理由のひとつを説明してるんだが・・
558名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:57:23 ID:???
>>557
質問に答えろ。
なんで元々(>>498)が近接戦闘全般の話なのにお前は>>500で勝手に正面からの切り込みに限定してるんだ?
559名無し三等兵:2009/05/17(日) 18:58:16 ID:Vc4acfLk
ちなみに
>低脳で愚劣な軍ヲタ
の一例www

>数が物を言う矢戦で元軍が兵力的に劣勢の武士団相手に指揮系統がばらばらになって兵力が
>離散する被害を受けるなんてありえないんだよ

その後、別人格でのミリヲタのカキコ
ありえないことが起こっていたそうですww
一体どっちなんだ!!www

>ただし>>510の場面では基本的に騎射による突撃(言葉として矛盾しとるがほかに言いようがないので)
>であって白兵で元軍が崩壊したわけじゃなさそうよ。
>どどどーと騎馬武者が騎射しながらひと塊りになって突っ込んでくるのを見て元軍が肝をつぶしちゃったと解釈するべきじゃないかな。
560名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:02:21 ID:Vc4acfLk
>>558
だって>>500は近接格闘の話じゃないんだもん。
でも話はちゃんとつながってるけどねww
下に再録しておくからかんがえてみようね、ボクwww

500 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/17(日) 15:21:01 ID:Vc4acfLk
>>498
蒙古襲来絵詞に正面から切り込むシーンなんてあるか?
矢戦でモンゴル軍をぼこってるシーンばっかじゃん。
561名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:04:56 ID:???
元軍が壊走したって点は認めるんだね?

逃げる権利を行使できる部隊は、指揮官がまともなら矢が本当に無くなっちゃう前に引き上げるんじゃないかと。
それを一番元側に有利な資料でも壊滅状態になるまでって、旧軍並みの縛りが入ってたのかと。
(そのくせ逃げ帰ってるんだよね)
562名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:11:50 ID:Vc4acfLk
>>561
ハァ?
今さら何言ってんの?
元から元軍は敗北した派ですが?

君は今まで何を見てたの?
とんでもないアホなんだね、君って。
563名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:11:54 ID:???
>>ID:Vc4acfLk
よければ
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1242479425/l50
に来てミリヲタを教化してやってくれ。
564名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:14:15 ID:Vc4acfLk
アホなミリヲタが、元軍敗走の原因を、
矢が回収できなかった!
とか接近戦で勝てないからだ!
とか抜かしてたから、

そんなのを議論する段階にすら到達せず、
矢戦でぼこぼこにされて壊走してますよ、
という現実をミリヲタに納得させたのが今回の経緯なわけだ。
565名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:17:01 ID:Vc4acfLk
>>563
ああ、コミンテルンの陰謀はない、
とかほざいてるミリヲタがさんざん現実でもって論破されて
また酷使さま認定という惨めな手段に訴えているスレか。

ミリヲタってあわれなもんだね。
ま、何事も適度が肝心。
陰謀論を否定すると賢明に見えるけど、
何でもかんでもってわけじゃないがそりゃああるわな、普通に。
566名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:17:55 ID:Vc4acfLk
俺の今日の戦果↓

>数が物を言う矢戦で元軍が兵力的に劣勢の武士団相手に指揮系統がばらばらになって兵力が
>離散する被害を受けるなんてありえないんだよ

その後、別人格でのミリヲタのカキコ
ありえないことが起こっていたそうですww
一体どっちなんだ!!www

>ただし>>510の場面では基本的に騎射による突撃(言葉として矛盾しとるがほかに言いようがないので)
>であって白兵で元軍が崩壊したわけじゃなさそうよ。
>どどどーと騎馬武者が騎射しながらひと塊りになって突っ込んでくるのを見て元軍が肝をつぶしちゃったと解釈するべきじゃないかな。
567名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:19:10 ID:Vc4acfLk
また一人あわれな子羊を救ってしまった・・・

しかし何度見ても笑えるwww
>数が物を言う矢戦で元軍が兵力的に劣勢の武士団相手に指揮系統がばらばらになって兵力が
>離散する被害を受けるなんてありえないんだよ

まさにゲーム脳www
568名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:20:42 ID:???
満足したようだから、そろそろ帰ってくれないか?
569名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:22:26 ID:Vc4acfLk
>数が物を言う矢戦で元軍が兵力的に劣勢の武士団相手に指揮系統がばらばらになって兵力が
>離散する被害を受けるなんてありえないんだよ

せんせー、ありえないそうですwww
570名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:24:52 ID:???
>>565
ぜひ、そのスレに行ってどの様にしてコミンテルンがアメリカを操ったのかを証明してやってくれ。
最近は養殖物ばかり天然物に飢えてるんだ。
571名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:28:01 ID:Vc4acfLk
>>570
N速+その他スレに行って指導を仰ぎなさい。

N速+スレに行ってください!
と論破された君達が論客に嘆願した後がたもがみスレには顕著だなwww
572名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:29:10 ID:Vc4acfLk
論破されたミリヨタの反応↓どこでも一緒だなwww

523 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/05/17(日) 18:01:24 ID:???
二度とくるなよ

★★★同志スターリンと語らい合うスレ【99】★★★
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1241269034/

軍事板でN速+その他土人を生暖かく見守るスレ27
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1242451366/

巣に帰れ
573名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:29:17 ID:???
また見てみたらカキコ数36回に増えてる。もう休日は終わりだぞ。
毎日がお休みの人は別だが。
574名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:31:02 ID:???
>>571
いやいや、こことは違って軍ヲタがたくさんいるから君にとっても有益だと思うよ?
一人の軍ヲタを論破してこれだけ嬉しいんだ。そこには十人はいると思うから十倍の喜びが得られる事になる。
なに、君の手にかかれば軍ヲタ如き十人いようが二十人いようが論破するのは簡単な事さ。
575名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:31:19 ID:Vc4acfLk
さ、論破されたミリヨタ、いよいよ人格攻撃に移行しました!
相当悔しかったようですwwww
576名無し三等兵:2009/05/17(日) 19:34:06 ID:???
それにそこに行ってコミンテルンの陰謀を証明出来れば一人ではなく何人もの軍ヲタを教化し、救う事が出来る。
それが君の目的だろ?なら君にとって得する事ばかりじゃないか。
577名無し三等兵:2009/05/17(日) 20:05:22 ID:SYyY5diq
なんでコミンテルンの話になってんだよ
元寇の話をしろ
578名無し三等兵:2009/05/17(日) 20:06:08 ID:???
騎士様が578ゲット
579名無し三等兵:2009/05/17(日) 20:08:42 ID:???
>>573
関西のゆとり世代限定で、もう一週間休みが続きますw
580名無し三等兵:2009/05/17(日) 20:58:21 ID:VckhTEfQ
【社会】「チンギス・ハン」はどの国出身の人? 韓国・中国・モンゴルで大論争  オンラインゲームめぐり、三つ巴の“国際問題”に発展★8

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1242537226/
581名無し三等兵:2009/05/17(日) 21:22:58 ID:???
16 :名無しさん@九周年:2009/05/17(日) 14:21:05 ID:elFI5JCq0
なぜ元寇が行われたか?
『元史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライに
「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、
戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」
と具申したとある。
また「高麗史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して
日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。つまり、元寇は高麗が積極的に進言した為
引き起こされた侵略であった。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E6.96.87.E6.B0.B8.E3.81.AE.E5.BD.B9
元軍の人員構成(1)
元軍と言いながら、実は高麗兵主体の軍であったことが判る。モンゴル兵は指揮官のみである。
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub203.htm

31 :名無しさん@九周年:2009/05/17(日) 14:32:33 ID:0UEFoES70
>>16
モンゴルの支配は、征服地の領主が早々と服属したら、知事と連絡係の少数の
兵員だけ置いて、本隊は引き上げてしまう。
ところが、高麗の忠烈王って国内で評判の良くない王様で、内乱を蒙古の征服
軍の駐屯で押さえ込んで貰っている状態。
蒙古兵の大半が引き上げてしまうと、王様でいられなくなる。虎(蒙古)の威を
狩る狐なわけ。
なんとかして蒙古の占領軍の本隊を高麗国内に留め置こうとして、日本侵略の
進言。
582名無し三等兵:2009/05/17(日) 22:19:15 ID:???
>>581
元軍の民族構成云々は元々、日本軍のモンゴル軍に対する勝利を認めたくない連中が
言い掛かりとして持ち出した話じゃん。
モンゴル軍の他の戦いでは、そんなこと気にしないくせに。

チンギス・ハン死亡時(1227年)のモンゴル軍左翼の民族構成
モンゴル同盟部族 39%
契丹人 16%
バリアン氏族 16%
女真人 16%
オイラート族 6.5%
オングト族 6.5%
583名無し三等兵:2009/05/17(日) 22:38:09 ID:???
>>チンギス・ハン死亡時(1227年)のモンゴル軍左翼の民族構成
それって全部モンゴル・テュルク系の遊牧民族じゃね?
584名無し三等兵:2009/05/17(日) 22:42:10 ID:???
この場合、他地域への遠征での民族比率を出したほうがいいと思う。
585名無し三等兵:2009/05/17(日) 22:50:24 ID:???
>>583
女真族は違うだろ。
586名無し三等兵:2009/05/17(日) 23:30:17 ID:???
>>582
いやそれには誰も文句は言ってないと思うぞ

連中が言うのは
・この場合は特にモンゴル人は少ない
・中国人と高麗人が主力なんで遊牧系とは別物
ってことだろう

モンゴル軍が異民族混成なのは
こういう話題に参加する奴なら知ってるのが当然だな
587名無し三等兵:2009/05/18(月) 00:04:32 ID:???
中国人と高麗人だから弱かった…
酷い差別
588名無し三等兵:2009/05/18(月) 00:18:24 ID:???
高麗が、弱いのは確実だが、南宋人は明らかに強いだろ。モンゴル軍が何十年も倒せなかったし。
モンゴル軍が一番苦戦したのは、南宋じゃね?
589名無し三等兵:2009/05/18(月) 01:26:54 ID:qMpybX1l
モンゴル軍が一番苦戦したのは南宋だけど、当時の全世界でダントツ飛び抜けた陸上兵力、水軍と物質に
世界最高水準の城郭、装備、兵器があってのものだし、一線級の兵卒は西方へ回されてただろうから
二万程度じゃ大したことないんじゃないの
590名無し三等兵:2009/05/18(月) 11:13:58 ID:???
いや、だから上の方でも出てるが主力は高麗国境付近の華北人じゃん。
そいつらが強かったのかどうかは知らんけど。
591名無し三等兵:2009/05/18(月) 14:03:09 ID:???
南宋が強くても武士派にとっては何も変わらんけどね
592名無し三等兵:2009/05/18(月) 17:39:01 ID:???
南宋兵そのものは激弱
戦うことすらなく海の藻屑だからこの場合は強弱に意味ないな
593名無し三等兵:2009/05/18(月) 17:53:49 ID:???
>>592
南宋人とは鷹島で闘ってるよ
まあ残党狩りだから戦いになってないかもしれんが「戦闘」はしてる

まあどの道南宋の強弱が測れるような戦いじゃないけど
594名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:06:36 ID:???
>>581
これに関しては民族も重要だが
忠烈王が日本侵略に積極的な真相がわかったという点が凄くないか
今まで出てこなかったわけだし

>>593
なんで沖合いの船に皆いたんだろうね
鷹島に10万人が陣張って物資だけ船から運べばいいと思うんだけど
595名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:44:35 ID:kxd8iioX
>>586
史料に書いてある数字は、あくまでも蒙漢軍2万5000が本隊で高麗軍は8000。
何の根拠も無い適当な数字を並べている時点で、そいつの書いてることは信頼性皆無。
参考文献には、「有効射程」と「射程」を比較してあからさまな印象操作をおこなった
黒田俊雄の『日本の歴史8 蒙古襲来』が並んでいるし・・・

さすがミリヨタww騙されやすいwwアホすぎwww
596名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:48:14 ID:???
>>595
連中は養殖物ばかりで退屈してるんだ。
ぜひコミンテルンスレに行ってコミンテルンの陰謀を信じないミリヨタを教化してやってくれ。
597名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:49:01 ID:???
コミンテルンはもういいから
ここは元寇スレ
598名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:51:45 ID:kxd8iioX
>>596
だからN速+板いきなって。
今も勇敢なミリヨタが火達磨にされてるから助けてやんなよww

「酷使様!酷使様!」
↑哀れなミリヨタの喚き声www
599名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:53:02 ID:kxd8iioX
軍事は好きなのに、なぜか本職には嫌われる有言不実行妄想ミリヨタwww
600名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:53:15 ID:???
>>581のレスはそもそも軍事板の物ですらないわけだが、一体どのような超能力を使って軍ヲタが書いたと特定出来たんだろう。
601名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:56:13 ID:kxd8iioX
反論できずに
「お願いだからN速+スレに移動してください!」
とお願いして移ってもらったくせに、ソース>>572
いなくなった途端に強気になっちゃってねぇwww

>連中は養殖物ばかりで退屈してるんだ。

バロスwwwミジメwww
602名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:56:29 ID:???
>>598
別に連中を教化したいわけでも論破したいわけでもないし。
そんな事してもただの時間の無駄。
でもあんたは軍ヲタを教化して救ってやりたいそうだから。
あんたにとって軍ヲタを論破する事くらい簡単だろ?
603名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:57:48 ID:kxd8iioX
>>600
はぁ?俺は>>586にレスしたんだけど?

ミリヲタちんはアタマだいじょーぶ?

(失笑)
604名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:58:57 ID:kxd8iioX
>>602
>別に連中を教化したいわけでも論破したいわけでもないし。
>そんな事してもただの時間の無駄。

その割には随分こだわるじゃんww
みえみえの言い訳wwミリヨタアホすぎwww
605名無し三等兵:2009/05/18(月) 21:59:10 ID:???
>>601
反論?脳内の話しか?
そこの523が誰にどのようにして論破されたのかを示してみ。
その前の100レスを見る限りAA荒らししかいないんだが。
どこにコミンテルンの陰謀を証明したレスがあるんだ?
606名無し三等兵:2009/05/18(月) 22:01:28 ID:kxd8iioX
釣り針垂らしても逆に海中をひきまわされてるのが、
今のアホなミリヨタ>>602

ミリヨタくんはさぁ、少しは弁論術磨いたほうがいーよ?
部下に訓示するときに必要だから。

あ、ミリヨタには必要ないかwww
軍隊に入るわけじゃないからwww
シャバでも部下なんてもつ気遣いもないしwww
607名無し三等兵:2009/05/18(月) 22:01:38 ID:???
>>603
586は単に
>>連中が言うのは
>>・この場合は特にモンゴル人は少ない
>>・中国人と高麗人が主力なんで遊牧系とは別物
>>ってことだろう
>>モンゴル軍が異民族混成なのは
>>こういう話題に参加する奴なら知ってるのが当然だな
と言っているだけで本人が何を考えているのかは言っていないわけだが。
昨日もそうだが日本語能力に著しい欠陥があるみたいだな。
608名無し三等兵:2009/05/18(月) 22:04:15 ID:kxd8iioX
>>607
はい、ご苦労さん
即ツッコミいれられなかった時点で
基礎資料すら読んでない証拠www

つか文永の役の総兵員数くらい覚えとけww
その時点で嘘ってのは分かるだろwww

ミリヨタのアホさ加減を示してるだけだなwww
609名無し三等兵:2009/05/18(月) 22:11:16 ID:kxd8iioX
昔の軍板では>>586みたいな低能は「100年ROMれ」
で済まされてたもんだが、
今のミリヲタは酷使様認定しかできないアホばっかだからなww

せいじごっこする暇があったら勉強しなさいwww
610名無し三等兵:2009/05/18(月) 23:28:14 ID:???
>>609
酷使認定してる奴なんてほんの一部だけだろ。
ミリオタで括るなよ。
611名無し三等兵:2009/05/18(月) 23:54:52 ID:???
>>608
> 即ツッコミいれられなかった時点で

あんたみたいに暇じゃないから張り付いてらんないし
馬鹿に即レスしても馬鹿を見るだけだからな
612名無し三等兵:2009/05/19(火) 04:25:35 ID:???
>>582
今更突っ込みを入れるのもなんだけど、一応は触れておく必要がありそうなので・・
> バリアン氏族
は、「バアリン」(Ba'arin)ね。

1227年にチンギス・カンが逝去した時、モンゴル帝国に属す諸部族の軍は千戸隊単位で
諸部族の首長たちに分封されたが、129個の千戸隊からなる右翼軍、中軍、左翼軍に分けられた
モンゴル帝国軍は、その大部分(101の千戸隊)がトルイのもとに相続された。
> 左翼軍
この時トルイが相続したモンゴル帝国諸軍うち、左翼軍に属すものの構成は以下の62の千戸隊。
(『集史』チンギス・カン紀の諸将表から)

==============================
 「左翼」
ジャライル部族のムカリ国王の3つの千戸隊
ウリヤンカン部族のイェス・ブカ・タイシの千戸隊
ウルウト部族のケイテイ・ノヤン、ブジル・ノヤン兄弟の4つの千戸隊
イキレス部族のブトゥ附馬の3つの千戸隊
トトカリウト・タタル部族のイェケ・クトクト・ノヤンの千戸隊
コンギラト部族のアルチ附馬の5つの千戸隊
マングト部族のクイルダル・セチェンの千戸隊
バアリン部族のナヤア・ノヤンの3つの千戸隊
コンゴタン部族のストゥ・ノヤンの千戸隊
ジャライル部族のジャライルタイ・イェスルの千戸隊
バヤウト部族のオングル・ノヤンの千戸隊
ジャライル部族のウカル・カラジャ、カラチュ兄弟の千戸隊
ウリヤンカン部族のスベエテイ・バアトルの千戸隊
アルラト部族のドゴルク・チェレビの千戸隊
フイン・ウリヤンカン部族のウダジの千戸隊
チンギス・カンの異母弟ベルグテイの千戸隊
コンギラト部族のアシク附馬の4つの千戸隊
613名無し三等兵:2009/05/19(火) 04:30:54 ID:???
>>612の続き。

バアリン部族のウカル・カラジャ、クドス・カラジャ兄弟の千戸隊
スニト部族のオゲレ・チェレビの千戸隊
スニト部族のテムデル・ノヤンの千戸隊
ジャライル部族のタイスン(ムカリの兄弟)の2つの千戸隊
ジャジラト部族のクシャウル、ジュスク兄弟の3つの千戸隊
マングト部族のモンケ・カラジャのの千戸隊
 (以上はもともとモンゴル高原中部から東部にいたテュルク・モンゴル系の諸部族)

契丹のウヤル元帥の10の千戸隊
女直のトガン元帥の10の千戸隊
==============================

以上がトルイが相続した諸軍だが、チンギスの実弟たちの所領も興安嶺の西麓に分封されて
いたらしいので、その千戸隊も大きく分ければモンゴル帝国の左翼軍を構成していた。
ちなみにこの諸弟たち、ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンのいわゆる東方三王家の
1227年時の千戸隊の数は以下のようになる。

テムゲ・オッチギン
 ケレングト・オロナル部族の2つの千戸隊
 ベスト部族の1つの千戸隊
 (その他ジャジラト部族などを含む)
ジョチ・カサル
 (各地に散在している者を集めた混成の千戸隊)
カチウン
 (ナイマン部族など潰散した諸部族や、ウリヤンカン部族の混成の3つの千戸隊)

チンギス・カンの異母弟ベルグテイも左翼軍に配属されていたが、王族というよりも臣下の諸将の
ひとりという扱いだったようで、「ベルグテイ・ノヤン」などと呼ばれていて彼のチンギス・カン家に
おける位置付けは興味深い。
614名無し三等兵:2009/05/19(火) 04:39:37 ID:???
>>613の続き。
>>582はどこからの情報に依っているかは分からないが、いくつか訂正を要する点がある。
> 契丹人16%   バリアン氏族16%  女真人16%
の部分だが、左翼の諸軍でバアリン部族(「バリアン」は明らかに誤記)の軍が、契丹の
10の千戸隊や女直の10の千戸隊に匹敵する規模だったかというと、左翼にあった
バアリン部族の軍は、ナヤア・ノヤンの3つの千戸隊とウカル・カラジャ、クドス・
カラジャ兄弟の千戸隊のあわせて4つの千戸隊だけで、数があわない。

ところが他にバアリン部族の軍は、マングル・トルカンの千戸隊と、コルチ・ノヤンの
10の千戸隊が別にあり、多分、「バリアン氏族16%」はそのことに由来するのだろう。

ただし、このマングル・トルカンとコルチ・ノヤン旗下のそれぞれの千戸隊は、この
チンギス・カンの諸軍のうち、"右翼軍"に属していたため、左翼軍には属さない。
(これらもトルイが相続した)

また、オングト部族長アラクシ・テギト・クリ旗下の4つの千戸隊、およびオイラト部族長
クドカ・ベキ旗下の4つの千戸隊も双方ともに"右翼軍"に属していたため、左翼軍には属さない。
(これらもトルイが相続した)

なので、>>582のように、1227年当時、契丹や女直の軍勢に匹敵する規模のバアリン部族の軍勢が、
左翼軍に居たような書き方は実際には誤りであるし、同様にオングト部族の軍やオイラト部族の軍が
左翼軍に配属されていたような書き方も明らかに誤っている。
(特にオイラト王家はチンギスの進めた政略結婚によってジョチ家やチャガタイ家、オゴデイ家、
トルイ家など、モンゴル高原の中部から西部に所領があったチンギスの諸子の王家と姻族関係を
強固にしていて、クビライとアリクブケの皇位継承戦争にも帝国中央部の一大勢力として関わっていく)
615名無し三等兵:2009/05/19(火) 04:44:13 ID:???
>>614の続き。
あと、この頃のモンゴル帝国軍は、チンギスの幕下に臣従したり姻族となった部族連合の諸勢力と、
チンギスの軍に敗北して解体・分配された諸部族などが、おのおの序列化されていたりするので、
単純に「異民族混成」という言葉ですませて良いという訳でもない

しかもこれら兵力込みで記録している将軍たちのリストは、『集史』のようなペルシア語文献に
主に記されているが、これらの資料において 基本的にこの頃にモンゴル帝国の戦力として数えて
いるのは「騎馬兵力」であって、歩兵については別途言及しないと記録には出てこないという特徴もある。

ちなみに上記の左翼軍の諸将リストで、最初のムカリ国王は良いとして、四番目のイキレス部族の
ブトゥ附馬はチンギスの長女コアジン・ベキの娘婿であり、五番目のトトカリウト・タタル部族の
イェケ・クトクトはチンギスの第三皇后イェスルンと第五皇后イェスゲンの実の兄弟。六番目に
出て来るコンギラト部族のアルチ附馬はチンギスの第一皇后ボルテの実弟と、モンゴル帝国の
特にチンギスの一門と姻戚関係を結び、中枢を担う所縁の人々が固めている。また、八番目の
バアリン部族のナヤア・ノヤンはムカリ国王と並んでトルイ家旗下の諸軍を統括する左翼軍第二位の
地位にあった譜代家臣きっての将軍で、後のクビライの時代に南宋遠征で活躍するバヤン丞相の
大伯父にあたる人物だったりする。

契丹や女直の軍勢はおのおの10の千戸隊をもつ実数的に大きな勢力だったが、序列的には最外部分に
位置していたようである。(この種の序列は、日本の大名における譜代と外様の関係になぞらえて
説明される場合が多い。モンゴル帝国に投降・臣従した契丹や女直系の軍は、金朝との境域地域に
配属されていたので、位置関係もリストに影響されている可能性もあるとは思うが)
616名無し三等兵:2009/05/19(火) 07:15:00 ID:???
サヨクも手の込んだ荒らし方をするようになったものだ
617名無し三等兵:2009/05/19(火) 16:17:30 ID:???
>>610
そもそもこいつ自身が軍ヲタじゃね?
>>513とか>>527とか。
618名無し三等兵:2009/05/19(火) 16:28:04 ID:???
>>616-617
国士様は自分の誤りを認めたくないのと無知故に
>>612-615のような話題が出るとAgeSage混ぜて全力で荒らしますw
619名無し三等兵:2009/05/19(火) 17:02:39 ID:???
>>618
616、617もお前も荒してるわけだが。頼むから他のスレに逝ってくれないか?
政治系の掲示板なら国士様だのお前が好きなネタさんざんできるぞ。
620名無し三等兵:2009/05/19(火) 17:05:35 ID:???
次スレが立つのなら「政治ネタ禁止」とテンプレに入れて欲しいな。
とにかくウザ過ぎる。
621名無し三等兵:2009/05/19(火) 17:22:33 ID:???
>>612-615
千戸隊は共通した装備、訓練、運用をされていたんでしょうか?
それとも各部族ごとにバラバラだったんですか?
622名無し三等兵:2009/05/19(火) 17:40:57 ID:???
件の人じゃないけど装備は基本自弁でバラバラ、訓練・運用は統一
623名無し三等兵:2009/05/19(火) 23:38:53 ID:???
万戸隊長って妄想をかき立てられる響きだよね
624名無し三等兵:2009/05/20(水) 00:50:12 ID:???

上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」
    至元三年八月 日

自演クンがどうしてもお流れにしたがった国書の超意訳(>>200)の補正版
この一度目の国書を三度目と言い張っていたため(>>201
「じゃあ一度目と二度目の国書をだせば?」と突っ込まれると
国士がどうのと意味不明な妄言を繰り返し、あげく「PCが壊れた」と逃亡
しかし、数日も我慢できず再び書き込みPC故障も大ウソであることを露呈
625名無し三等兵:2009/05/20(水) 09:39:37 ID:???
ここ最近の異常な伸びにはそんな秘密がw

まあ、>>201あたりのカキコは殿堂入りということで
次スレにもテンプレとして貼ってもらおう。
626名無し三等兵:2009/05/20(水) 11:02:44 ID:???
http://blog-imgs-17.fc2.com/n/i/k/nikuch/59ema.jpg

書かれたのはいつの時代か知らんが、武装は大鎧とか薙刀で鎌倉期周辺のものだよね。
これは突撃のうちに入らないの?
627名無し三等兵:2009/05/20(水) 12:11:27 ID:???
>>623
クランたんのお万戸隊長に僕のおちんちんクランクラン
628名無し三等兵:2009/05/20(水) 15:47:17 ID:???
>>624
左右が全く対応してないぞ、いつもはAgeてる国士様よw
それじゃあ単に妄想文へ尤もらしく国書を添えただけ
629名無し三等兵:2009/05/20(水) 16:14:22 ID:???
>>628
一度目と二度目の国書はまだですか?w
630名無し三等兵:2009/05/20(水) 16:34:15 ID:???
>>629
まだですか?wじゃなく、>>361>>369の友好的な文が一度目・二度目の国書なw
使者を殺害する蛮行に及んだ三度目が詰問調
631名無し三等兵:2009/05/20(水) 16:58:13 ID:???
201 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw
632名無し三等兵:2009/05/20(水) 17:26:26 ID:???
>>631
どうした?見えない強敵と戦ってるのか?w
633名無し三等兵:2009/05/20(水) 17:32:26 ID:???
>>201の間違いを取り繕うために>>630の人は必死に頑張ってるんですね。
634名無し三等兵:2009/05/20(水) 17:37:11 ID:???
というわけで、超意訳を自称する妄想感想文を垂れ流すのはもう無理だと思うよ>国士様w
635名無し三等兵:2009/05/20(水) 17:42:01 ID:???
またはじまったw
>>200>>201はテンプレ
636名無し三等兵:2009/05/20(水) 19:45:01 ID:???
えっと、使者殺したのは文永の後だから
流れとしては、とりあえず使者を二回送る→文永の役→脅迫の意味も強めて三度目の使者
→「負けてもねーのに降伏するかバカ」で首チョンパって流れだろ?


こうして見れば、鎌倉幕府の対応がDQNだというのなら
別に使者殺したわけでも無く、単に国書スルー(使者自身には穏便にお帰り頂く)
しただけで日本に攻め込んできた元も十分DQNって言えるんじゃないの?



しかし考えれば考えるほど日本なんて攻めるメリットゼロだろ。
別に土地が肥沃なわけじゃない、莫大な資源があるわけじゃない
災害とかで船難破しやすい、上陸難しい、したらしたでアジア最凶の戦闘民族がお出迎え。
フビライの最大目標だった南宋と友好的だったっつっても
日本との交易は、さほど南宋経済でウェイト占めてたわけじゃないし。
高麗の日本攻めるニダ!なんてスルーすりゃ良かったんじゃない?
637名無し三等兵:2009/05/20(水) 20:23:44 ID:???
超意訳だからあれは一度目じゃない、とか抜かしてるが
お前あれは三度目だといったよな↓


201 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw
638名無し三等兵:2009/05/20(水) 22:28:56 ID:???
>>636
文永の役の前の蒙古からの使者は
国的・潘阜の時に二回
張鐸が一回
趙良弼が二回
計5回きてるかな
639名無し三等兵:2009/05/20(水) 22:29:56 ID:???
×国的
○黒的
640名無し三等兵:2009/05/20(水) 23:00:31 ID:???
で、三度目の国書マダー?
641636:2009/05/20(水) 23:04:50 ID:???
>>638
おお、そうだったんか。トン
642名無し三等兵:2009/05/21(木) 01:51:14 ID:8yjdpmm3
>>641
その程度の事すら知らずに暴れてたのか、通りで話が噛み合わないわけだw
>>637,640
おまえはいつまで見えない敵と戦ってんだよw
643名無し三等兵:2009/05/21(木) 03:57:15 ID:???
>>636
当時の日本は金銀ざっくざくですお
644名無し三等兵:2009/05/21(木) 04:02:01 ID:???
>>637
帰ったらのせてやるとも言っていたよねー?(o ´д)(´д`o)ネー

205 :名無し三等兵:2009/04/28(火) 14:34:54 ID:???
>>201
じゃあ一度目と二度目を出せば?
どうせ無理だろうけどw

206 :名無し三等兵:2009/04/28(火) 14:41:43 ID:???
>>205
帰ったら載せてやるよ国士さんw
645名無し三等兵:2009/05/21(木) 06:51:01 ID:8yjdpmm3
>>643
鎌倉時代はまだ砂金が主だから、ざっくざくってほどじゃないんじゃね
>>644
国士様が妄想感想文の左へ勝手に添える漢文、あれのうち1つがそれだよw
帰ってからすぐPC直して載せるつもりが、今の今まで直らず仕舞で
わざわざ無知な基地外のためにPS3でちまちま書き込んでやる義理も無いから連休明け後になったワケ
646名無し三等兵:2009/05/21(木) 08:18:00 ID:???
>206 :名無し三等兵:2009/04/28(火) 14:41:43 ID:???
>>205
>帰ったら載せてやるよ国士さんw

ひょっとして一度目を出せば納得すると思って>>200と大意が変わらないやつを出し続けているのか?
誰も期待してないのに。


>201 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

せっかくだけど、君が期待されているのは>>200が三度目のものだと示すことだよ。
647名無し三等兵:2009/05/21(木) 09:48:02 ID:???
お前ら釣られんなよ
648名無し三等兵:2009/05/21(木) 13:47:55 ID:???
結局友好的な内容の国書を提示できなかったage厨哀れw
649名無し三等兵:2009/05/21(木) 14:24:13 ID:???
>>642
文永の役の前に使者殺したと勘違いしてるお前に言われたくない
650名無し三等兵:2009/05/21(木) 15:51:12 ID:???
>>200が三度目の国書だと聞いたのですが本当ですか?
651名無し三等兵:2009/05/21(木) 17:13:23 ID:???
大量の絹や銅銭を明から持ち出し
その報酬として
日本は一つまみの金を出すだけ

当時の大陸との取引はそんな感じ
652名無し三等兵:2009/05/21(木) 17:14:38 ID:???
>>648
一度目の国書、何をどう読んでも友好的だぞw
妄想感想文は何も訳してない分、当然敵意のある文になってるがw

上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
 日本國王朕惟自古小國之君
 境土相接尚務講信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異
 域畏威懐徳者不可悉數朕即
 位之初以高麗无辜之民久瘁
 鋒鏑即令罷兵還其疆城反其
 旄倪高麗君臣感戴來朝義雖
 君臣而歡若父子計
 王之君臣亦已知之高麗朕之
 東藩也日本密邇高麗開國以
 來亦時通中國至於朕躬而無
 一乘之使以通和好尚恐
 王國知之未審故特遣使持書
 布告朕意冀自今以往通問結
 好以相親睦且聖人以四海為
 家不相通好豈一家之理哉至
 用兵夫孰所好
 王其圖之不宣
   至元三年 八月 日
653名無し三等兵:2009/05/21(木) 18:14:27 ID:???
早く三度目の国書を出してよw
654名無し三等兵:2009/05/21(木) 19:49:45 ID:HZZskSjO
話の流れが全く読めないんですが。
ミリヨタの発狂が酷すぎてさすがの俺も突っ込めない・・・

とりあえず今回の“酷使様”は誰を指して言ってるの?
俺にはミリヨタの一人相撲にしか見えない。
655名無し三等兵:2009/05/21(木) 19:54:21 ID:???
ただでさえややこしいのにあんたまでいると収拾がつかなくなるから書き込まんでくれ。
頼むから。
656名無し三等兵:2009/05/21(木) 19:55:25 ID:???
>>652
そうは言っても南宋がまだ生きてる状態でしょ?
それで「中華皇帝でございます」ってフォーマットで文章出されても、北朝鮮が「朝鮮半島正統政権」を主張してるのと同じレベル。

どっちを取るかは軍板ってより政治版向きのネタなんじゃね?
657名無し三等兵:2009/05/22(金) 01:15:33 ID:???
そもそも現代の価値観に強引に当てはめて、鎌倉幕府をDQN扱いすんのなら
単に「考えておきます」って国書スルーしただけで
攻め込んで来た元のがよっぽどDQNだと言えるだろ。
658名無し三等兵:2009/05/22(金) 01:39:37 ID:???
なあそもそも国士さまだか酷使さまだかって勝手に命名してるけど
どういう状態のどんな意見のやつのことそう呼んでるのかさっぱり不明なんだよね

なに?元があっさり潰走したって事実を聞こえないふりできる人間以外は全部国士さまなの?
659名無し三等兵:2009/05/22(金) 01:52:06 ID:???
あからさまな酷使は減ったな
昔のスレのひでーこと
660名無し三等兵:2009/05/22(金) 02:32:03 ID:???
>>658
高麗軍が積極的だったということを否定しない人らしいよー
661名無し三等兵:2009/05/22(金) 02:59:41 ID:???
そろそろ弘安の役で東路軍と接触するシーズンだな
662名無し三等兵:2009/05/22(金) 03:04:22 ID:???
>>626
これは入るな
663名無し三等兵:2009/05/22(金) 03:10:45 ID:???
参考までに某先生のトンデモ論検証スレ。
中世の武士達の戦い方にも触れられてるから話題がてらにどぞー。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169129287/
つかこの手の歴史の偉い先生って、どうして言うことが極端な人が多いんだろうか?
古の武士達は少なくとも、こういう先生方よりは柔軟な思考が出来てたと思う。

>>659
2ちゃん以外の所で(てか2ちゃんでも)
蒙古襲来→鎌倉武士はフルボッコにされただけで勝っていません
唐入り→戦国オールスターが、平和国家の朝鮮や落日の明にケチョンケチョンにされた惨めな戦いです。
日露戦争→アメリカ様が仲裁に入って終わっただけで、日本は全然勝ってなんかません
という妄言に異議唱えると、酷使扱いされる時がたまーにあるから気をつけろ。
664名無し三等兵:2009/05/22(金) 05:12:35 ID:???
>>657
> 単に「考えておきます」って国書スルーしただけで
「考えておきます」とかいう穏当な感じじゃなくて、「絶対返事しないで下さい!無視です、無視!」
という感じで朝廷の返牒案を止めさせたらしい。

どちらかというと朝廷の外交権について幕府側から干渉した形になるんだけど、朝廷側も国書の到来そのものに
おっかなびっくりな感じだったこともあってか(返牒案では割と厳しい文言を使っているようだけど)、幕府側の
意見を入れて返牒出すをのやめちゃったらしい。
以降は太宰府の応対を含めて、幕府側が弘安の役以降も蒙古への対応は全て主導する感じになったようで、
文永の役の時の守備部隊の配備とか弘安の役までの石築地の建設とか輪番制による異国警護番役の設置とか
を通じて、幕府による九州北部の直接統治体制を段階的に進めていたりしているようだ。

ただの「蒙古なんぞガン無視!」とかいうことだけではなくて、幕府権力を日本の国制上でどこまで
伸長させるかという問題も絡んでいたようで、幕府中枢の安達泰盛なんかは幕府側と朝廷側の共同歩調で
蒙古との問題に対処しようとしていたようだけど、朝廷側からの影響を極力排除しようという動きも
幕府側にはあったようだ。そこら辺のせめぎあいもあったようだけど、基本的に幕府側の対応は初めから
国書の無視、臨戦体制への指向が強かったようで、国書に対して非難するとか内容を否むとかいった
もうちょっと広く「外交をする」という感覚が希薄だったと、鎌倉時代とか日本の中世史をやっている
先生方は見ているらしい。
(少なくとも今は亡き網野善彦、村井章介、奥富敬之各氏の近年の著書、近刊の「戦争の日本史シリーズ」の
『蒙古襲来』の著者、新井孝重氏なんかもおおよそそんなことを書いている)

>>653
趙良弼の時の国書ならあるけど、それで良い?
665名無し三等兵:2009/05/22(金) 05:31:24 ID:???
それにしても昔の教育はひでえな。俺が小中学生の時に習った話と全然違うじゃねえか。
武士はまず名乗りを挙げ、一騎打ちを挑んでいる間に次々と討ち取られ、元軍の
最新鋭兵器てつはうに対して武士は、無力で一方的展開だったが元軍が、夜になって
船で休息しているところを突然台風が起こって元軍は壊滅した。この台風を神風という。
この後、日本は神国思想が広がり、後々の軍国主義につながっていった。元軍が敗退した
背景には朝鮮半島の三別抄の抵抗をはじめ、アジアでの抵抗があった。また、元軍はこれら
征服地の兵から成っており、士気が低かったことも挙げられる。
って感じだった。今思い出すと、本当に教育ってなんなんだろうね。マジで教育不信になりそう。
666名無し三等兵:2009/05/22(金) 07:40:11 ID:???
>>664
その辺りのいろんないきさつは大河ドラマでやってたなあ。
667名無し三等兵:2009/05/22(金) 09:50:31 ID:???
>>663
つまり
酷使=反日史観者への蔑称
国士=反日史観者が武士有利派をなじるときの蔑称
ということかいな
668名無し三等兵:2009/05/22(金) 10:30:00 ID:???
自分以外はみんな敵にしたい人の定義なんか気にしても仕方ない
669名無し三等兵:2009/05/22(金) 10:34:25 ID:???
>>664

>>653じゃないけどプリーズ
670名無し三等兵:2009/05/22(金) 10:48:26 ID:???
>>661

5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 島津長久軍+松浦党らと小競り合いを繰り返す
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
671名無し三等兵:2009/05/22(金) 11:19:30 ID:???
>>663
>古の武士達は少なくとも、こういう先生方よりは柔軟な思考が出来てたと思う。
刀は槍より短いから理論上勝つのは無理だよー、なんて考えていたら戦場では生き残れないよな。
672名無し三等兵:2009/05/22(金) 11:48:08 ID:???
>>663
鈴木ってアマチュアなんだから「偉い先生」でも何でもないだろ。
単に威勢の良いが有名なだけで。
673名無し三等兵:2009/05/22(金) 13:16:36 ID:???
てか「これが歴史の真実だ!」みたいな感じの本出してる奴は大抵そうだなw
大学なんかの偉い先生はそもそもそんな暇無いしw
674名無し三等兵:2009/05/22(金) 14:01:55 ID:???
>>663
>酷使扱いされる時がたまーにあるから気をつけろ。
そのくせ奴らの母国の正史である『高麗史』よりも日本の宗教書である『八幡愚童訓』を信頼するワケのわからなさw
675名無し三等兵:2009/05/22(金) 16:26:06 ID:???
>>633
しかも>>630すら間違っているという自爆の上に自爆を重ねるプレイ
676名無し三等兵:2009/05/22(金) 18:49:32 ID:???
大分スレが伸びてるけど、>>201がテンプレに貼られるのが早まるだけなのになwww
677名無し三等兵:2009/05/22(金) 19:08:21 ID:???
一度目の国書にした所で、要するに「そっちから挨拶に来なかったのは忘れてやるから高麗と同じような位置に付け」という催促でしょうが。

勝算の有無に関しては現にお引取り頂いたんで不問としていいと思うし、そうなると南宋が立ってる間に元に付くメリットって見えて来ないんだけど。。
678名無し三等兵:2009/05/22(金) 22:44:37 ID:???
> 一度目の国書にした所で、要するに
> 「そっちから挨拶に来なかったのは忘れてやるから高麗と同じような位置に付け」
> という催促でしょうが。
>>368-370,>>428-429を読めば分かると思うけど、第一回の国書の場合、文中での国書を発した
主旨について「いままで我々と日本とは信書の往来なども無かったから、今後は互いに通交したい」
という内容に飽くまでなっている。色々言ってはいるが、基本的に「通交したい」という主旨で
締めくくられるようなっている。

「高麗と同じような位置に付け」というが、何時の時点かで高麗とモンゴル帝国との関係は違ってくるし、
国書文中では「高麗は朕の東藩なり。」とあり、「義は 君臣と雖ども、歡は父子の若とし。」とあるように
国書が発した時点で高麗がモンゴル帝国(具体的にはクビライ政権だが)の服属・臣従国家のひとつと
していたことは疑いの余地は無い。

一方、この時の国書、特に東大寺の「蒙古国牒状」にその特徴が良く出ているが、同時に日本については
冒頭で「"奉書"日本國王」とはじまり、末文では「不宣」と締めくくっている。「不宣」とは「不宣白」の
意味。さらに、元朝後期に編纂された文書集『元文類』に日本に発せられた国書について言及があるが、
「不宣白。不臣之也」とある。
そのため、「奉書」にしても「不宣白」にしても、第一回の国書の段階で、クビライ側は日本を高麗のような
「臣」的な立場としている/しようとしている形跡はない。
これらのことから、例の杉山センセがその代表格として有名だが(主に東洋史の先生方だが)モンゴル帝国
時代の命令文書の研究から第一回の国書について言及される場合、日本に臣従を求めるとかあるいは臣下と
みなす文面などでは無い、というのが定まった見解だ。
679名無し三等兵:2009/05/22(金) 23:04:22 ID:???
>>669
了解。とりあえず>>482,>>484-485で触れたけど、>>368-370,>>428-429で上げた、
東大寺蔵の至元三年付けのいわゆる「蒙古国牒状」が高麗使臣、起居舎人・潘阜によって
もたらされた三年半後、クビライは第五次となる日本招諭に女直人出身の趙良弼を派遣した。
『元史』日本伝では至元三年八月条に>>368-370,>>428-429とほぼ同じ国書の文を
載せたたあと、至元六年十二月(1269年12月25日〜1270年1月22日)条でこの
趙良弼がもたらした国書の文も載せている。

東大寺の「蒙古国牒状」と違い、至元三年八月条では国書の文はベタ張り状態で、
至元六年十二月条の国書も同じくベタ張り状態だが、こちらもとりあえずその部分を
うpしてみる。

『元史』巻二百八 列伝第九十五 外夷一 日本 至元六年十二月条
「十二月、又命祕書監趙良弼往使。書曰:「蓋聞王者無外、高麗與朕既爲一家、王國實爲鄰境、
 故嘗馳信使修好、爲疆場之吏抑而弗通。所獲二人、敕有司慰撫、俾齎牒以還、遂復寂無所聞。
 繼欲通問、屬高麗權臣林衍構亂、坐是弗果。豈王亦因此輟不遣使、或已遣而中路梗塞、
 皆不可知。不然、日本素號知禮之國、王之君臣寧肯漫爲弗思之事乎。近已滅林衍、
 復舊王位安集其民、特命少中大夫祕書監趙良弼充國信使、持書以往。如即發使與之偕來、
 親仁善鄰、國之美事。其或猶豫以至用兵、夫誰所樂爲也、王其審圖之。」良弼將往、
 乞定與其王相見之儀。廷議與其國上下之分未定、無禮數可言。帝從之。」

ただ、見れば分かる通り、『元史』日本伝のものは、東大寺の「蒙古国牒状」に見られるような、
冒頭の「上天眷命」と 「大蒙古國皇帝奉書日本國王」、それから文末の「不宣(不宣白)」と発令した
年月を欠いている。
680名無し三等兵:2009/05/22(金) 23:07:26 ID:???
>>679の続き。
某杉山センセは東大寺の「蒙古国牒状」の形式から、冒頭の「上天眷命」と「大蒙古國皇帝奉書日本國王」、
それから文末の「不宣(不宣白)」と発令した年月を補って、趙良弼が持って来た国書の状態を復元している。
ただ、「恐らくこんなものだったろう」的なもので、あまり厳密な復元案ではないと一応断わっておられる
ようだが、それも一応うpしてみる。
(『モンゴルが世界史を覆す』日経ビジネス文庫、2006年3月、340頁より。句読点は>>679
 附されているので敢えて省いた)
==============
上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
 日本國王蓋聞王者無外高麗
 與朕既爲一家王國實爲鄰境
 故嘗馳信使修好爲疆場之吏
 抑而弗通所獲二人敕有司慰
 撫俾齎牒以還遂復寂無所聞
 繼欲通問屬高麗權臣林衍構
 亂坐是弗果豈王亦因此輟不
 遣使或已遣而中路梗塞皆不
 可知不然日本素號知禮之國、
 王之君臣寧肯漫爲弗思之事
 乎近已滅林衍復舊王位安集
 其民特命少中大夫祕書監趙
 良弼充國信使持書以往如即
 發使與之偕來親仁善鄰國之
 美事其或猶豫以至用兵夫誰
 所樂爲也
 王其審圖之不宣
   至元七年十二月 日
==============
681名無し三等兵:2009/05/22(金) 23:09:24 ID:???
>>680の続き。
この杉山センセの復元によりつつ、岩波文庫の『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』
で編訳された石原道博先生が書かれた当該部分の書き下し文と現代語訳文を適宜補いつつ
うpしてみる。
・書き下し文
==========================================
(上天よりの命に眷(いつく)しまれたる
(大蒙古國皇帝、
  日本國王を奉る。?)蓋し聞く、王者は外無しと。高麗と朕とは
  既に一家たり。王の國は實に鄰境たり。
  故に嘗つて信使を馳せて好を修めしも、疆場の吏のために
  抑えられて通ぜず。獲る所の二人、有司に敕して慰撫し、
  牒を齎(もた)せて以て還らしめしも、遂に復た寂として無聞く所なし。
  繼いで通問せんと欲せしも屬(たまたま)高麗の權臣・林衍、亂を構え
  是に坐して果たさず。豈に王も亦た此れに因りて輟(や)めて
  使を遣わさざりしか、或いは已に遣わせしも中路にて梗塞せしか、皆
  知るべからず。然らずんば、日本は素より禮を知る國と號す。
  王の君臣、寧(いずく)んぞ肯(あ)えて漫(みだ)りに思わざるの事を爲さんや。
  近ごろ已に林衍を滅ぼして王位を復舊し、其の民を安集せり。
  特に少中大夫祕書監・趙良弼に命じて
  國信使に充(あ)て、書を持して以て往かしむ。もし即ち
  使を發し之と偕(とも)に來らば、親仁善鄰、國の
  美事ならん。其れ或いは猶豫し、以て至用うるに兵を夫(し)れ誰が
  樂しんで爲す所ならんや。
  王其れ審らかに之れを圖(はか)れ。(不宣
    至元七年十二月 日)」
==========================================
682名無し三等兵:2009/05/22(金) 23:10:35 ID:???
>>681の続き。
・現代語訳文
==========================================
(上天より命を眷(いつく)しまれたる、
  大蒙古國皇帝が書を
  日本國王に奉る。?) けだし聞く、王者は外がない、と。高麗と朕とは
  既に一家である。王の国は実に隣境である。
  故にかつて信使を馳せて好を修めようとしたが、疆場の吏(国境の吏の意味。太宰府の
  役人のこと)のために抑えられて通じなかった。
  獲えた所の二人(塔二郎と弥二郎のこと)は、有司(役人)に敕して慰撫(なぐさめなでる)
  し、牒をもたせて還させたが、ついにまた寂(さびしい、ひっそり)として聞く所がない。
  つづいて通問(おとずれをする、称謝する)しようと欲したが、たまたま高麗の権臣・林衍が、
  乱を構え、これに坐して果たさなかった。なんとも王もまたこれによりて輟(や)めて
  使を遣わさなかったのか、あるいはすでに遣わしたけれども中路において梗塞(ふさぎ
  とざす)したのか、みな知ることができない。そうでないなら、日本は素から礼を知る
  国と号している。
  王の君臣は、なんであれ漫(みだ)りに思わない事をするのであろうか。
  近ごろ、すでに林衍を滅ぼして王位を復旧し、その民を安集(やすんじやわらぐ)した。
  特に少中大夫祕書監・趙良弼に命じて国信使に充(あ)て、書を持って往かせる。もしすぐに
  使を発し、これと偕(とも)に来るならば、親仁善鄰、国の
  美事であろう。それともあるいは猶予(ぐずぐず)し、そのため兵を用いるに至っては、
  それ誰が楽しんでなす所であろうか。
  王よ、よくこの点を思案されよ。(不宣
    至元七年十二月 日)」
==========================================
683名無し三等兵:2009/05/23(土) 00:12:13 ID:???
>>682の続き。
この文のすぐあとに、
「良弼、將(まさ)に往かんとし、其の王と相見の儀を定めんことを乞う。廷議すらく。
 其の國と上下の分未だ定まらず、禮數の言うべきものなしと。帝、之に從う。」
((趙)良弼は、まさに往こうとし、その王と相見の儀を定めることを乞うた。廷議(朝廷で
 論議すること)して、「その国と上下の分がまだ定まっていないし、礼数(身分相等の礼儀、
 待遇)の言うべきものはない」と。帝(クビライ)はこれに従った。)と続く。

○国書の解説
趙良弼派遣に前後する当時のクビライ宮廷と主に高麗での情勢を簡単に述べると、>>484-485でも
触れたが、この国書でも出て来る通り、前年の1269年に高麗では権臣・林衍が高麗国王元宗を廃位
する事件が起きていた。偶々クビライの宮廷から帰国途中の高麗国王の世継ぎ、世子・[言甚](たん、
後の忠烈王)が高麗国境でこのクーデターの噂を聞き付け、クビライのもとへ急使を飛ばして
クビライに詰問の使者と自らに軍の助勢を請うて林衍一派の企てを挫いたが、この事件はその後
林衍一門の一派からやがて例の三別抄の反乱が続くことになる。

・本文の内容
さて、趙良弼の持って来た国書には、林衍のクーデターによって信使の派遣が滞る状態があった
ことを述べ、こちら側の事情によって日本からの返信も届き得なかったのだろうか、という推測を
述べる。
684名無し三等兵:2009/05/23(土) 00:13:24 ID:???
>>683の続き。
ただ、続いて、

「或いは已に遣わせしも中路にて梗塞せしか、皆知るべからず。然らずんば、
 日本は素より禮を知る國と號す。王の君臣、寧(いずく)んぞ肯(あ)えて
 漫(みだ)りに思わざるの事を爲さんや。」

とあり、「こちらの事情のため返信出来なかったのか、あるいは途中で道が塞がれたものか、
事情の全ては知る事が出来ない」としながらも、

「日本は素より禮を知る國と號す。王の君臣、寧んぞ肯えて漫りに思わざるの事を爲さんや。」
(日本は礼を知る国と呼ばれている。日本の君臣はなんであれ心無いことをするものだろうか」)

と、婉曲的ではあるが、日本からの返信が黙殺的な状態を,
「日本は礼を知る国だから、礼儀に反するようなことをする訳がないよね?」と、返信が無い
ということは失礼な事なのだぞと、遠回しにだが、割と強く非難していることが伺える。
685名無し三等兵:2009/05/23(土) 00:15:18 ID:???
>>684の続き。
同様に、「故に嘗つて信使を馳せて好を修めしも、疆場の吏のために抑えられて通ぜず。」とあり、
初回の使者・潘阜が太宰府に留め置かれ、国書を日本の朝廷に手交することを妨害されたとして
ここでも太宰府側の対応を役所名を出さないまでも非難をしている。「疆場の吏」とは疆域、国境の
役人、役所の意味で、要するに太宰府のことを指している。

「もし即ち使を發し之と偕(とも)に來らば、親仁善鄰、國の美事ならん。」
(もしすぐに使を発し、これと偕(とも)に来るならば、親仁善鄰、国の美事であろう)

返信の使者さえあれば、善隣して、「国の美事」になろうと強調した上で、
「以て至用うるに兵を夫(し)れ誰が樂しんで爲す所ならんや。」と釘を指している。
さらに「其れ或いは猶豫し、」とあり、猶予、つまりグズグズしてこれ以上の返信の遅滞するなら
兵火を交えるようになってもそれは日本側の所為になろうと、ここでも返信の黙殺を強く非難している。

・趙良弼派遣の時期における高麗周辺の情勢
>>482,>>484-485でも触れたが、最初の潘阜が太宰府に来た至元5年頃は、あまり「変な風になって
交戦状態になったら嫌ですよね〜」的なことを言っていたが、実際に日本への遠征などは、高麗近辺に
海外遠征出来るような状態も準備も無く、あまり現実味のある話ではなかった。

ところが、林衍のクーデターとその後の三別抄の反乱と討伐の過程で、クビライは高麗に課すことに
していた外征義務を実施する方向に転換し、その議論で日本遠征も実際問題として視野に入れるように
なったようだ。林衍のクーデターが一旦鎮圧され、クビライは高麗の重臣たちに事情を釈明するよう
大都に召喚している。この時に高麗の重臣のひとり李蔵用がクビライに謁見して高麗の処遇について
なんとか軍役などの負担を軽減するよう必死に交渉しており、そのなかで遠征が本格化している南宋に
なるかそれとも日本になるかまだ分からないが、ともかく軍艦などの建造や準備をしろと命じている。
この時、はじめて日本への遠征についての話が出て来た。四度に渡る招諭が失敗した末の時期にあたる。
686名無し三等兵:2009/05/23(土) 00:22:18 ID:???
>>685の続き。
『高麗史』の李蔵用伝によると、この時、李蔵用は高麗の国土はいまだに疲弊と荒廃から立ち直って
おらず、南宋のような遠方への派兵はどうか勘弁して頂き、命じられるのであれば間近である日本への
遠征の場合に限らせて頂きたいとクビライに懇願し、この交渉の結果、だいたいは日本遠征に
あてられるだろうとしながらも、高麗はともかく軍艦と兵員の準備をはじめることとなった。
(勿論、場合によってはやはり南宋遠征に助勢することになる可能性もこの頃はまだ十分あった。)

趙良弼派遣には、それまでの四回にわたる招諭の失敗に加え、こういった高麗国内のクーデター騒動
から来る情勢の変化が多分、色々と影響していたと思われる。

同じ時期、南宋遠征は前年の1268年に南宋最大の拠点、襄陽・樊城の包囲戦がはじまったが、
中央アジアではクビライがカイドゥなどの帝国西部の諸王族の鎮撫のためチャガタイ家の補佐として
派遣した王族バラクが独断でチャガタイ家の当主位を簒奪し、趙良弼が派遣された1269年には
中央アジアの所領を巡ってカイドゥやジョチ家のモンケ・テムルの軍と交戦するという、予想だに
しない状態に陥っていた。

元宗廃位事件はクビライが中央アジア政策で重大問題を抱えていた時期に起こっており(特にモンゴル
皇帝としての正統性、存立基盤に直結する問題だったため、中央アジア政策は最重要課題であり、
深刻だった)、日本について強硬姿勢をほのめかせるようになったのも、「腹裏」と称されたモンゴル
高原やクビライの本拠地である中都、上都開平府周辺の情勢不安を押さえ込もうと神経を尖らせていた
ことも少なからず影響しているように個人的には感じる。ただ、残念ながら、クビライ政権における
情勢の変化と、日本への招諭・使者の派遣や、その後の日本への遠征軍の派遣についての影響や関連性に
ついての研究・論及はあまり進んでいないため、何とも言い難い。
687名無し三等兵:2009/05/23(土) 07:13:53 ID:???
まだちょっと早いですが、京都国立博物館でなかなか良さそうな展示会が
これからあるようですので、忘れないうちに貼っておきます。
開期的に夏休みなのですな〜


シルクロード 文字を辿って―ロシア探検隊収集の文物―
2009年7月14日(火曜日)〜9月6日(日曜日)

「サンクトペテルブルグのロシア科学アカデミー東洋写本研究所には、
 ロシア探検隊が敦煌及び中央アジア各地において発見した貴重な文献と
 その断片、合わせて約2万件が所蔵されています。
 悠久のシルクロード周辺で記された典籍類や記録は、時代的にはほぼ4世紀から
 12世紀にわたっており、写本の仏教経典を中心に漢文・西夏語・コータン語・
 トハラ語・ソグド語のものなどもあります。それらの中から選りすぐった
 優品約150件を展示、その大半が日本初公開です。」

会場 京都国立博物館 特別展示館

ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/tenji/korekara/index.html
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/silkroad.pdf
688名無し三等兵:2009/05/23(土) 07:15:18 ID:???
失礼。誤爆しました(汗
689名無し三等兵:2009/05/23(土) 08:33:12 ID:???
久々に行ってみるかな。それにしてもkyohakuという略し方はいかがなものか
690名無し三等兵:2009/05/23(土) 08:50:41 ID:???
対馬と壱岐の犠牲者に哀悼の意を表します
691名無し三等兵:2009/05/23(土) 08:53:15 ID:???
ムクリコクリの子孫は対馬と壱岐に謝罪と補償をすべき
692名無し三等兵:2009/05/23(土) 09:34:32 ID:???
> ムクリコクリ
民俗学の泰斗・折口信夫は、北九州近辺で子供を躾ける時に見られる、「ムクリコクリの鬼が来る」と
いう脅し文句の「ムクリコクリ」とは、通常「蒙古」「高句麗(高麗)」の訛音とされると言われているけど、
本来は勿怪やもっこ、ナマハゲと同じ種類のもの、常世からあるいは深山やって来て子供を恐れさせる「剥くる」
とか「こくる(こそぎ落とす)」系の化け物が起源じゃないか、というようなことを言ってるようだ。

元々は全然関係ないものが、たまたま音が似通っているから蒙古や高麗に結び付けられているんじゃなかろうか
的なことらしい。
ただ、鎌倉時代末期の法律用語解説書、『沙汰未練書』には「一 蒙古トハ、異国ムクリの事也」とは書いてあるけど。
693名無し三等兵:2009/05/23(土) 10:01:11 ID:???
元寇とベトナム戦争における高麗・韓国兵の比較

元寇の際の高麗軍による壱岐対馬の島民大虐殺
・島の男は幼児・赤子に至るまで皆殺しにした上、耳鼻を削いだ。
・女性は強姦され、手の掌に孔を穿ち紐に通して船端に裸で吊るし「強制連行」した。
・高麗軍の将兵が彼女等をレイプしながら博多湾に侵攻した。
・捕虜となった者は、誰一人生きて帰った者は居なかった。

ベトナム戦争の際の韓国兵の大虐殺
・住民たち(大部分が女性と老人, 子供達)を一ケ所に集めた後、又はいくつかのグループに
  まとめて、機関銃を乱射して抹殺した。
・住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やした。
・子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込んだ。
・女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰した。
・住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させた。

共通の特徴として
@宗主国の「傭兵」として派遣され、無抵抗の現地住民を徹底かつ残忍に虐殺している。
A老若男女皆殺し、特に幼児や妊婦に至るまで死体損壊を徹底して行っている。
Bその事実に対する事態の認識、反省(勿論謝罪賠償)を全く行わない。
C逆に時間が経つと、自分達が「強制的」に狩り出された、辛い立場の被害者だったと言い出す。

壱岐対馬とベトナムの700(1274-1967)年と3千kmの時空を越え、同様な虐殺が繰り返されたが、
余りの共通点の多さに慄然とする。朝鮮民族の気質は全く変わっていないことが解る。
694名無し三等兵:2009/05/23(土) 10:03:03 ID:???
>耳鼻を削いだ。
その割には朝鮮出兵で日本軍の耳そぎを残虐だと非難していますね。
695名無し三等兵:2009/05/23(土) 10:39:40 ID:???
> 手の掌に孔を穿ち紐に通して船端に裸で吊るし「強制連行」した。
「強制連行」したのは間違い無いんだけど、「手の掌に孔を穿ち紐に通して船端に吊るした」
って部分は最近疑義がもたれているらしい。
696名無し三等兵:2009/05/23(土) 10:40:25 ID:???
ソースは
697名無し三等兵:2009/05/23(土) 11:15:05 ID:???
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 島津長久軍+松浦党らと小競り合いを繰り返す
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
698名無し三等兵:2009/05/23(土) 11:41:40 ID:???
>>694
日本の場合は、単に首だと邪魔になるから、代わりに耳や鼻の数で
戦果報告する習慣があったが、元軍のもそれに近いの?
699名無し三等兵:2009/05/23(土) 11:42:56 ID:???
>>696
もともと、文永の役の時に高麗軍だか蒙古軍だかが対馬や壱岐で女子供の手に穴を空けて
それに縄を通して連行した、という話の元ネタは、日蓮が文永の役の二年後というか翌年にあたる
建治元年に出した書簡の一部に出てくるもの。日蓮が身延から佐渡国在住の一谷(いちのさわ)入道
という人物の女房に宛てた書簡(通称「一谷入道御書」)で、日蓮の書簡集である『高祖遺文録』
に収められているそうだ。建治元年(らしい)五月八日の日付を持つもの(一応原本の一部が現存)。

「(前略)日蓮か申事は、愚なる者の申事なれは用ひす、されとも去文永十一年太歳甲戌十月に、
 蒙古國より筑紫によせて有しに、對島の者かためて有しに、總馬尉(宗助国)逃けれは、百姓等は
 男をは或は殺し、或は生取にし、女をは或は取集て、手をとをして船に結付、或は生取にす、一人も
 助かる者なし」

というのがそれ。「手をとをして」という部分は多分、「手のひらあたりに穴を空けて縄を通した」
という意味ではないかと、この書簡が引用される際に一般には言われている。

文永弘安の役前後の状況から日蓮のこの書簡の内容を検討した、という研究は実は今まであまりされて
いなかったようで、最近になって日蓮の書簡研究をやっている若江賢三という人がこの「一谷入道御書」
をはじめ、日蓮が蒙古襲来を言及したいくつかの書簡の系年研究を論文にしている。

「一谷入道御書」には出された月日は書かれているが、年号が附されていないため何時頃出されたかが
問題になっていて、同氏の結論としては様々な事情からこの書簡について伝承で述べられている通り、
建治元年のものと結論している。
700名無し三等兵:2009/05/23(土) 11:45:11 ID:???
>>699の続き。
それ以外の問題で、特に文永の役の時の蒙古軍側の蛮行のソースとして引用される同書簡だが、そもそも
捕虜の連行の際に、手に穴を通すなどという著しい外傷は化膿をおこさせ捕虜の生命に損亡させる行為
であり、人的財産である捕虜の連行でそのような事態があり得るのだろうか、という疑問をあげる。
他にも同書簡では対馬守護代の總馬尉(宗助国)が百姓を見捨てて逃亡したと言っているが、
鎌倉時代末期から室町時代にかけての宗氏の資料を見る限り、宗助国は対馬で討ち死にしたことは
どうも動かし難いようなので、日蓮が文永の役の翌々年に聞き知った「總馬尉(宗助国)逃けれは」
というのは誤報だったといえるようだ。

文永の役の翌年、文永12年の段階では、対馬や壱岐、博多が襲撃されたことは知らされていたが、
その内容までは分かっていなかった。ところが、翌々年の建治元年になると、対馬や壱岐での惨状が
色々入って来るようになったものの、かなりの損害を受けたということは確実だが内容はひどく混乱
していたようで、誤情報も入り乱れ仄聞した大仰な内容に動転していのではないかと、氏は推測している。

建治2年になると、実際の被害状況についても情報が整理されはじめたようで、日蓮のその後の書簡でも
対馬の住民が連行されたりしたことを非難する内容が多く見られるが、「手をとをして船に結付」という
ような生々しい情報は全く見られなくなる。対馬や壱岐の惨状を最初に伝えられたときに、未確認情報
ながら聞いた事がショッキングな内容だったためそれを書簡に書いたが、その後の情報では住民が
連行されたという以上の事は確実ではなかったので書かなくなったのではないか、と論じているようだ。
(若江賢三「蒙古襲来の伝聞を巡って--日蓮遺文の系年研究」『人文学論叢』8(2006年)
701名無し三等兵:2009/05/23(土) 11:52:22 ID:???
>>700の続き。
確かに、モンゴル帝国の戦役で、(中央アジア遠征など)外征先の住人を捕虜として掠奪・連行し、
奴隷として各種の農工業の人員として各地に投下して使役したという話はあるが、捕虜を縄や首木を
はめて連行したというなら話はあるが、「手をとをして船に結付」みたいな真似をした例は聞いた事が無い。

ちなみに、「手をとをして船に結付」という話は、20世紀編纂された、『元史』の改訂版、『新元史』の
日本伝にも出て来るんだが、編者の柯劭[文+心](かしょうびん)が『高祖遺文録』など日本からの資料から
孫引きしたものらしい。たまにモンゴル時代の史料として『新元史』が引用される場合があるが、
柯劭[文+心](かしょうびん)は記述の典拠を本文中で記していないため、それと分かるもの以外は、どこから
引いて来たのか分からない話が多く、資料としては問題があり過ぎるので、使う時そのまま引用するのはかなり
推奨"さない"もので、、むしろ元ネタになっただろう漢籍やペルシア語やその他の資料を直接当たった方が良い。

(『新元史』は20世紀初頭の編纂物なのでモンゴル帝国時代の「史料」としては使えないうえ、
 初歩的な誤記脱漏など細部の誤りが多くて、中国内外の歴史家やモンゴル史研究者などからも
 えらく批難されて、非常〜〜に人気が悪かった。)
702名無し三等兵:2009/05/23(土) 12:19:57 ID:???
そもそも700年前の出来事に「野蛮だ!野蛮だ!」と喚く時点で国書厨や秀吉の朝鮮攻めに謝罪を求める韓国人と同レベル。
それに
>その事実に対する事態の認識、反省(勿論謝罪賠償)を全く行わない。
とあるがベトナム戦争に関しては大統領が謝罪と賠償を行っているので間違い。
703名無し三等兵:2009/05/23(土) 12:54:20 ID:???
改行しっかり!
704名無し三等兵:2009/05/23(土) 12:57:13 ID:???
ムクリコクリが来ているようだな
705名無し三等兵:2009/05/23(土) 13:17:01 ID:???
>>702
確かに、いまだに元軍は残虐だの謝罪だの言ってる奴は韓国人と変わらんね
706名無し三等兵:2009/05/23(土) 15:03:29 ID:???
>>702
それ、後で韓国内の世論から猛反発受けて、取り消したんじゃなかったっけ?
707名無し三等兵:2009/05/23(土) 23:40:57 ID:???
>>701
モンゴル帝国の戦役で他に糞チョンを動員した例が有ったっけ?

モンゴルの連中が対馬やもっと沖の島を領地に貰って嬉しがるとも思えんから、実態は高麗領に編入だわな。
その時に捨てるほど余ってる自国民を入植させても良い訳で、一番ローコストな輸送法を選択しただけ。
勝てば代わりは幾らでも手に入るし。
(大航海時代以降の大西洋でも、輸送ロスって何?状態な運び方はしてた訳で、それがエスカレートすれば有り得る)
708名無し三等兵:2009/05/24(日) 07:25:04 ID:???
そもそも人体の構造として掌に体重をささえる強度は無く、言われるような事をすると
肉が破れて落ちていくとか。
709名無し三等兵:2009/05/24(日) 07:30:05 ID:???
そりゃ牛に鼻輪をしたからって船からぶら下げたりしない、犬に首輪をしたからって以下同文。
710名無し三等兵:2009/05/24(日) 10:33:20 ID:???
>>708
同じ理由で、かのキリストの磔でも実際には手のひらじゃなくて腕に釘を打ち込んだとか。
711名無し三等兵:2009/05/24(日) 12:51:51 ID:???
まあ鼻から針金とおしたり食人したりする国で
捕虜の健康状態を気にしてくれるとも思えんけどね



712名無し三等兵:2009/05/24(日) 13:23:17 ID:???
>>711
そもそも近代になるまでに、捕虜が人道的に扱われること自体稀。
713名無し三等兵:2009/05/24(日) 14:09:06 ID:???
牛でも犬でも繋いで置くことは出来るよね。十分「括り付けた」状態でしょ?
何で船からぶら下げる話になっちゃったんだろう。
714名無し三等兵:2009/05/24(日) 14:16:44 ID:???
>>713
ワシの言う通りにしないと国が滅びるぞって言ってた電波親父が、人を脅すためにでっち上げたから。
715名無し三等兵:2009/05/24(日) 14:35:20 ID:???
>>713
挑発および矢除けって説明してあったな
716名無し三等兵:2009/05/24(日) 14:38:35 ID:???
そもそもぶら下げたとかいうことじゃなくて
手の甲を通した捕虜を甲板に一列に立たせてあったとかう説明だったと思ったがどこからぶら下げたことになっちゃったんだ
717名無し三等兵:2009/05/24(日) 15:34:36 ID:???
>>712
おっと
日本軍の話題はそれまでだ
718名無し三等兵:2009/05/24(日) 18:05:11 ID:???
スレチガイだが一応
「日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り日本軍人であることに誇りを持っていた。
支那兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で例えば中共軍の捕虜になると、
四肢を斬り分けられ生きながらに火あぶりにされたり、はりつけにされたりしたのである
更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている
即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、男根を切り落し胸部を切り開いて石を詰め込み、
首は両耳を穿って紐や針金を通しさながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々それが中共軍の戦争様式であり
日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」
国際法学者ポール・フォーシーユ


719名無し三等兵:2009/05/24(日) 18:19:48 ID:???
>>718
フォーシーユが序言を寄せたのは日清戦争に関する著作なのに、なんで「中共軍」が出てくるの?
720名無し三等兵:2009/05/24(日) 18:35:35 ID:???
>>718
まあ日本軍は、太平洋戦争までの戦争は基本捕虜に対してかなり人道的だな。第二次世界大戦の捕虜の大量死は
虐待ってより、日本兵自体物資がなくて大量死してるから、捕虜の面倒みる余裕なんてなかったんだろう。
虐待にはかわりないが、同時に自国の兵への虐待でもあるな。
721名無し三等兵:2009/05/24(日) 18:57:14 ID:???
>>720
自分の食料を削って捕虜に大根やゴボウを食わせたら
それを理由に有罪にされた奴もいたとか

罪状は「捕虜に木の根を食わせて虐待した」
722名無し三等兵:2009/05/24(日) 19:08:10 ID:???
>>721
それはけしからんな、捕虜の癖に感謝が足らん。
酒のツマミに喰われなかった事を感謝して欲しいくらいだが。
723名無し三等兵:2009/05/24(日) 19:53:05 ID:???
父島じゃホントに酒の肴にしたけどなw
724名無し三等兵:2009/05/24(日) 19:54:43 ID:???
戦前は、フビライ=ハンて意外と人気あったんだな。

全世界英雄番附東洋編(明治42年 アンケート)
 1 豊臣秀吉
 2 チンギスハン
 3 徳川家康
 4 西郷隆盛
 5 北条時宗
 6 始皇帝
 7 諸葛孔明
 8 源頼朝
 9 伊達政宗
10 織田信長
11 源義経
12 毛利元就
13 フビライハン ←ここ
725名無し三等兵:2009/05/24(日) 22:33:33 ID:???
それ以前に北条時宗が入ってることに感動したよ。
今なら「北条時宗?台風に救われたラッキーボーイだろ?」
って答えるバカが大多数だろうからなあ。
726名無し三等兵:2009/05/24(日) 23:47:07 ID:???
今なら頼朝が義経の上ってのもないだろうな。
727名無し三等兵:2009/05/24(日) 23:47:15 ID:???
あれ?どっかの誰かが戦前は、徳川家康と源頼朝は皇国史観によって不当に貶められたとか
言ってなかったっけ?あれ嘘なのか?現代とは比べ物にならないくらい評価高いじゃん。
728名無し三等兵:2009/05/25(月) 00:17:08 ID:???
しかし公平な評価をしようと言う動きがちゃんと認められるよね。
いや、半島で同じアンケートをして、自国の英雄が何人出てくるか知らんが秀吉は絶対に無いだろw
729名無し三等兵:2009/05/25(月) 00:19:26 ID:???
流石に室町幕府将軍は入ってないなw
にしても、戦国の三傑の評価が今と正反対なのも興味深いな。
今ならゲームとかの影響で織田信長が三人の中で一番上だろうな。
あとは始皇帝も意外だ。昔は始皇帝=悪人って
イメージ持たれてたんかなあぐらいに思ってたから。
730名無し三等兵:2009/05/25(月) 00:21:55 ID:???
個人的に一番意外なのは伊達政宗だわ。
てっきり大河ドラマになるまでは、仙台以外じゃどマイナー武将だと思ってた。
731名無し三等兵:2009/05/25(月) 00:56:14 ID:???
>>724の西洋版
 1 ナポレオン1世  
 2 アレキサンダー大王  
 3 カエサル  
 4 ピョートル1世  
 5 クロムウェル  
 6 シャルルマーニュ  
 7 ワシントン  
 8 ハンニバル  
 9 フリードリヒ2世  
10 ガンベッタ  

11 リュクルゴス  
12 ネルソン 
13 ビスマルク 
14 リンカーン
15 モルトケ
16 カヴール
17 コンスタンチン 
18 ガリバルディ 
19 アレフレッド大王 
20 レオニダス  
732名無し三等兵:2009/05/25(月) 00:59:49 ID:???
スレチだけど、ついでに。全世界英雄番附東洋編(14位〜30位)
14 上杉謙信
15 武田信玄
16 源為朝
17 加藤清正
18 楠木正成
19 北条早雲
20 坂上田村麻呂
21 劉邦
22 上杉景勝
23 平清盛
24 徳川光圀
25 前田利家
26 大石内蔵助
27 源義家
28 黒田長政
29 
30 小早川隆景
31 加藤嘉明
32 蒲生氏郷
33 本多忠勝
34 藤原鎌足
35 項羽
36 石田三成
37 孟嘗君
38 山鹿素行
39 岳飛
40 真田幸村
733名無し三等兵:2009/05/25(月) 01:00:59 ID:???
31 加藤嘉明
32 蒲生氏郷
33 本多忠勝
34 藤原鎌足
35 項羽
36 石田三成
37 孟嘗君
38 山鹿素行
39 岳飛
40 真田幸村
41 関羽
42 新田義貞
43 張良
44 佐々成政
45 曹操
734名無し三等兵:2009/05/25(月) 01:01:15 ID:???
リュクルゴスなんて今じゃ古代ギリシャヲタくらいしか知らんだろうによくランクインしたな。
735名無し三等兵:2009/05/25(月) 01:02:31 ID:???
733はミス
46 吉田松陰
47 李鴻章
48 北条泰時
49 鄭成功
50 井伊直政
51 劉備
52 木村重成
53 佐久間象山
54 明智光秀
55 島津久光
56 高杉晋作
57 足利尊氏
58 坂本龍馬
59 明智秀満
60 畠山重忠
61 文天祥
62 木曽義仲
63 山中鹿之助
64 韓信
65 酒井忠次
66 吉川元春
67 後藤又兵衛
68 由井正雪
736名無し三等兵:2009/05/25(月) 01:07:17 ID:???
59 明智秀満?なぜだw
737名無し三等兵:2009/05/25(月) 01:09:05 ID:???
新撰組がカスリもしてないのが笑えるw
738名無し三等兵:2009/05/25(月) 01:47:25 ID:???
スキピオ入ってないんだなあw
739名無し三等兵:2009/05/25(月) 02:19:50 ID:???
>>737
そりゃあまあ当時は新撰組=テロリストって認識だしw

今じゃ小学校(勿論日本のw)の教科書にすら載ってる李瞬臣がカスリもしてないw
てか水戸黄門とか大石内蔵助はなんか違くね?w
740名無し三等兵:2009/05/25(月) 08:30:20 ID:???
>>739
イスンシンが教科書に載ってるってマジ?
日教疽まじやばいな
741名無し三等兵:2009/05/25(月) 18:41:19 ID:???
>>727
まあ、尊氏の不人気ぶりと楠木正成の不相応な順位には皇国史観とやらが現れているかな、ってくらいだな。
しかし、ナショナリズムで埋め尽くされているかと思いきや自分の国を侵略しようとした国の皇帝とその先祖を
英雄に選ぶってのもなかなかすごい人たちだw
742名無し三等兵:2009/05/25(月) 19:02:08 ID:???
勝者の余裕
743名無し三等兵:2009/05/25(月) 19:13:02 ID:???
そもそもどんな連中を対象にしたアンケートなのかが解らん。
744名無し三等兵:2009/05/25(月) 21:25:59 ID:???
>>740
少なくとも俺が小学校の時(1997年頃)は載ってたw
勿論、安重根や柳贋順とかも。あとシャクシャインや佐倉総五郎も。
逆に天智以前の天皇とか北条時宗とか楠木正成とか東郷平八郎とかは全員スルー。
てか授業自体が、歴史の授業という名の人権学習だったなあw



蒙古襲来?勿論、元を挑発してボコられたけど
高麗と台風に助けられた間抜けな鎌倉武士って習いましたよw
まあ当時からツッコミ所満載だと思ってたから
今このスレにいるわけだがw
745名無し三等兵:2009/05/26(火) 01:58:55 ID:???
鎌倉武士が間抜けなのは確かだろ
746名無し三等兵:2009/05/26(火) 13:46:05 ID:???
747名無し三等兵:2009/05/26(火) 14:11:10 ID:???
>>745
その根拠を二百字以内で述べよ
748名無し三等兵:2009/05/26(火) 14:29:38 ID:???
間抜けな結果を残したのは明らかに元だけどな。
749名無し三等兵:2009/05/26(火) 15:09:18 ID:???
やあやあ我こそは、を未だに信じているとしたらそいつが間抜けだな。
750名無し三等兵:2009/05/26(火) 16:07:54 ID:???
>>748
しなくともいい戦争を招いた時点で幕府も相当な間抜け
751名無し三等兵:2009/05/26(火) 16:12:42 ID:???
>>750
具体的にどうすれば戦争を回避できたのか、ご高説をうかがいたい。
752名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:08:54 ID:???
>>750
この間抜けはまたテンプレ貼られたいのw?
753名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:11:54 ID:???
しなくてもいい虐殺を対馬壱岐でしてしまったばかりに
疲弊して本戦で息切れする元軍高麗軍
754名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:18:00 ID:???
>>751
常識的なお手紙書けば回避できたのは確実だよ
現に戦争は1度きりで終わって、その後民間レベルの交易が盛んに行われたしな
>>752
また、捏造感想文で自爆するのか。そうかそうか
755名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:31:25 ID:???
>>754
常識的なお手紙とやらを書いてモンゴルとの戦争を回避できた国が一つでもあるのか?
756名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:32:55 ID:???
むしろ対日後、元の海運は縮小しちゃったはずでは?
757名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:50:22 ID:???
>>201でいうように>>200が3度目の国書だという証拠はどうしたんだよ?
758名無し三等兵:2009/05/26(火) 17:51:37 ID:???
>>754
自爆って

文永の役弘安の役の計二回戦ってるのに「現に戦争は一度きりで終わった(キリッ)」とか言っちゃうこと?
759名無し三等兵:2009/05/26(火) 18:01:01 ID:???
のこのこやってきてみじめに返り討ちにあった元は確かに相当間抜けだわな
760名無し三等兵:2009/05/26(火) 18:01:34 ID:???
そうか。鎌倉幕府が間抜けならベトナムもマムルークもジャワもみんな間抜けだな。
あいつら、とりあえず文永以前は無事にお帰り頂いた鎌倉幕府より過激な対応してなかったか?
拷問して殺したり屈辱的な入れ墨して送り返したりしてただろ?
761名無し三等兵:2009/05/26(火) 18:03:56 ID:???
自爆って>>201みたいなカキコのこと?
762名無し三等兵:2009/05/26(火) 18:59:59 ID:???
お前等いいかげんスルースキルつけろ
763名無し三等兵:2009/05/26(火) 19:07:28 ID:???
じゃわ話題転換。当時の武士達の戦術について具体的に。
764名無し三等兵:2009/05/26(火) 20:00:51 ID:???
ttp://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/bugu/bu_sentou.html
>この点、太刀の馬上使用は源平時代に増加したらしい。 『平家物語』(巻九)では今井兼平の最後の戦闘がその一例だが、騎射の後に太刀に移行している。
>弓射騎兵にとって、太刀が二次的な武具であることを示している。
>また、『平家物語』では、馬を射られるなどの理由で落馬してはじめて太刀を抜く記述も多い。これを「落馬打物(らくばうちもの)」とよぶこととする。
>落馬打物は太刀の徒歩使用を前提とした行為といえる。

騎射のち馬上打物、ときどき落馬打物。
765名無し三等兵:2009/05/26(火) 20:05:39 ID:???
http://blog-imgs-17.fc2.com/n/i/k/nikuch/59ema.jpg
そういう時は弓なんか捨てちゃうようです。
766名無し三等兵:2009/05/26(火) 20:35:56 ID:???
鈴木先生の嘘つき!
767名無し三等兵:2009/05/26(火) 21:05:40 ID:???
そりゃあ嘘つきだよ。戦国時代だって宣教師が最後に刀を交えると報告している。

『一五五七年十月二十八日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸より
インドおよびヨーロッパの耶蘇会のパードレおよびイルマン等に贈りし書翰』
「市民は叛逆者が自邸或は田野において攻撃を受くるを見物す。双方まづ矢を放ち、更に近づきて
槍を用ひ、最後に剣を交ふ」

鈴木先生は最後は首取りが行われただけで戦闘ではない、とか逃げるんだろうけどね。
768名無し三等兵:2009/05/26(火) 21:35:49 ID:???
当時の日本人が刀は役立たずって言ってるのに外国人は高く評価していたってのは面白いな。
769名無し三等兵:2009/05/26(火) 21:43:38 ID:???
本当に役立たずなら戦場から消えるよ。役立たずなものを大将から足軽に至るまで
持たせる費用(それも二振り)なんか浮かせるに越したことはない。

>当時の日本人が刀は役立たずって言ってるのに
一般論として語られていたような言い方だが、誰の発言なんだ?
770名無し三等兵:2009/05/27(水) 01:41:13 ID:???
よくいわれる槍>刀とか飛び道具マンセーを極論化しちゃったんじゃないか?

771名無し三等兵:2009/05/27(水) 01:51:21 ID:???
弓や槍は狭いところじゃ使えない、使いにくいし
落馬して初めて太刀を抜く、って事は落馬したときは太刀を使えって言う戦法があるって事でそれは役に立つと言う事じゃないか

772名無し三等兵:2009/05/27(水) 05:48:49 ID:???
刀が役立たずだったのは確か
それは残された武具の変遷を見てもわかる

戦国時代の中ごろまでヨロイは刀や矢が通らないほどに重厚化され
装着すると身動きできないほどになった
刀は鎌倉時代が頂点で、その後は道具としては技術的にも劣化しつづけた

それを変えたのが皮肉なことに鉄砲の登場だった

身動きできないほど重いヨロイは鉄砲にとっては格好の的となってしまったため
装着することが無意味となり、狙いをかわしやすいように軽量化されることになった
鉄砲は威力はあるが連発ができないため、対抗する側は額が触れるほどの
接近戦に持ち込むようになった

そうした戦法の変化の中から柳生流等の剣法が誕生した
剣法とはヨロイに頼らず太刀のみを駆使して勝つためのものである
773名無し三等兵:2009/05/27(水) 06:49:32 ID:???
どこのヨーロッパだよw>身動きできない
774名無し三等兵:2009/05/27(水) 08:51:47 ID:???
>>773
それ、ただの神話だよ。
実際のプレートは身動きできないどころか逆立ちや側転だって出来るくらい自由度が高い。
重量も当世具足と大して変わらない。
775名無し三等兵:2009/05/27(水) 09:07:42 ID:???
>>772
お前の説じゃ刀の変遷が説明できねーよ。なんで鎌倉よりあとの南北朝時代に
五尺の大太刀が生まれたり、戦国時代に抜き打ちができる打刀を二本差すようになるんだよ?

>そうした戦法の変化の中から柳生流等の剣法が誕生した
>剣法とはヨロイに頼らず太刀のみを駆使して勝つためのものである
柳生流なんて言い方は正しくないし、新陰流にしたって上泉伊勢守が念流、神道流、陰流を
学んで立てた後発の流派。それにこの時代の剣術は鎧兜着用前提の介者剣術。
776名無し三等兵:2009/05/27(水) 10:43:06 ID:???
むしろ逆立ちや側転ができるぐらいで大喜びなところが動きにくさを物語っているような…

まあそれはどうでもいいけど>>772は0点だ…
ちょとツッコミどころが多すぎて…
777名無し三等兵:2009/05/27(水) 10:45:30 ID:???
>>776
じゃあ日本の鎧はどれだけ動けたんだ?
778名無し三等兵:2009/05/27(水) 10:56:03 ID:???
ルイス・フロイス
「武士は戦いにおいて強靱振りを示した。
徒歩の下級武士は、全身に重い甲冑を着け、恐るべき早さで野山を駆け走りあるいは駆け登った。

騎馬侍という一ランク上の階級も馬術に長けているばかりでなく、体躯そのものが強靱であり、我々ヨーロッパ人とは違い落馬してもそれで滅多に死ぬことはなかった。
また、敵に、一旦は馬から引き摺り落されても、掠り傷もせず再び騎乗し直すことができた。
779名無し三等兵:2009/05/27(水) 11:02:30 ID:???
>>776
大喜びも何も「身動きできない」と言うのが間違いだと指摘しただけだが。
お前さんの「動きやすい」の基準は一体なんだ?
仮にも鎧なんだから何も着ていない状態と比べて「動きにくい」のは当たり前。
だが出来の悪いファンタジーによくある「殆ど身動きできない」だの「落馬したら起き上がれない」だのと言ったイメージは単なる妄想。
日本の胴丸、当世具足や欧州のホーバーク、プレートアーマー。いずれもその重量は現代の歩兵の装備と大して変わらない。
そもそも身動き出来ない程重い鎧が実戦で使われるわけがない。糞の役にも立たないんだから。
実際欧州には馬上試合に50kg以上の重量の甲冑が使用される事もあったが、実戦で使われた例は皆無。


780名無し三等兵:2009/05/27(水) 11:11:07 ID:???
何この流れ
自爆くんの話題逸らし?
781名無し三等兵:2009/05/27(水) 11:12:23 ID:???
フロイスと言えば、鈴木センセはフロイスの「日本人は下馬して戦った」って供述を引用して論拠の一つにしてるらしいけど、フロイスは本当にそんな事を書いたの?
そもそもフロイスは戦闘を実際に観察したの?それとも又聞き?
782名無し三等兵:2009/05/27(水) 12:09:22 ID:???
>>779
神話だの逆立ちだの、どこが指摘しただけなんだ
今時の歩兵の装備の総重量と比較するのも意味不明
783名無し三等兵:2009/05/27(水) 12:10:09 ID:???
以前某スレで、散々日本の鎧は紙防御だの何だの言っといて都合がいい時だけ
「重くて身動き取れないから、外国の軍隊の動きに対応できない」って言う子見た事あるw
784名無し三等兵:2009/05/27(水) 12:15:21 ID:???
>>781
どの道
下馬して戦うことも
騎乗して戦うことも両方あっただけに過ぎないっしょ
785名無し三等兵:2009/05/27(水) 12:45:03 ID:???
>>781
あれは単に数で劣勢な方が防御が簡単な下馬状態で戦った、と言うのをフロイスが誤解しただけだと言われている。
そもそもフロイスのいた西国は元々下馬して戦う事の方が多かった。

>>782

元々の>>772が「胴丸や腹巻は身動きできないほど重かった」と電波を飛ばしているんだからそれに対する
>どこのヨーロッパだよw>身動きできない
という発言は明らかに「ヨーロッパの鎧は身動きできない程重量がある」という意味だろ?
俺はその都市伝説に対する反証として「重量は日本のものと大して変わらないし、逆立ちは側転が出来るくらいに身軽だ」と言った。
するとお前は「逆立ちや側転ができるぐらいで大喜び」などとわけのわからない事を言い始めたわけだ。

>今時の歩兵の装備の総重量と比較するのも意味不明
現代の歩兵が身動きできない程重い装備を背負っている、などと言い出す奴はいない。
その現代の歩兵とたいして重量が変わらないのなら同じく身動きできない、などと言う事は有り得ないって事だ。
これぐらい理解しろマヌケ。

はっきり言って>>772>>773は対象が違うだけでトンデモ具合は同レベルだ。
日本だろうがヨーロッパだろうが身動き出来ないほどの重量がある鎧は存在しえない。
そんな物を着たって役に立たないんだから。
786名無し三等兵:2009/05/27(水) 13:26:27 ID:???
いいかげん元寇スレでやる内容じゃないだろ
自重しろ
787名無し三等兵:2009/05/27(水) 14:26:54 ID:???
>>785
煽りだけのクズがはやくしんでください
788名無し三等兵:2009/05/27(水) 14:29:21 ID:???
>>785
いいからもう消えろ
789名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:01:01 ID:???
>>755-756
無知だなあw
フランス、インド、タイ
元の海運は南宋制圧後が最盛期なんだから
当然に、むしろ対日後元の海運は拡大しちゃったのですよ。
>>760
ベトナムもジャワも歴代王朝が朝貢国にしたり南征したりしてるから、日本とは明らかに違うな。
マムルークは最初から征服対象、これまた日本とは明らかに違うな。
790名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:08:11 ID:???
>>787-788
>>785じゃないが、現代の米兵も同程度の重さじゃん
電波ばかり飛ばすなよw
791名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:11:20 ID:???
やはり>>785は自爆くんだったか
792名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:18:29 ID:???
まだ日本とだけは友好的な関係を結びたかったとか思ってるバカがいるようだな
793名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:18:52 ID:???
自爆くんのやるべきことは>>201でいうように>>200が3度目の国書だという証拠を出すことだよ。
794名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:20:35 ID:???
これは次のテンプレ入りどころか次スレの>>1
ここの>>200->>201を貼るべきだな。
795名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:36:52 ID:???
>>785
またお前か
796名無し三等兵:2009/05/27(水) 15:55:16 ID:???
>>789
じゃあ国書スルーしただけで攻めて返り討ちにされたフビライより
「あいつらヤバすぎだから放置。」ってスルーした朱元障のが賢明だったわけか
797名無し三等兵:2009/05/27(水) 16:07:37 ID:???
おまいら落ち着け。
俺は>>785は正論だと思うぞ。鎧に関しちゃ多少の機能差はあれど
動き回れるという点じゃどっちも一緒だろ。
日本の鎧だって普通にあれ着て泳ぎ回る事だって出来たわけだし

むしろ自爆くんは>>789なわけで。
798名無し三等兵:2009/05/27(水) 16:48:27 ID:???
>>797
これは恥ずかしい
799名無し三等兵:2009/05/27(水) 16:58:46 ID:???
>>796
朱元璋は毛沢東並に賢明だろうね、クビライは結局暗殺されたカエサル程度。
800名無し三等兵:2009/05/27(水) 17:19:39 ID:???
中国側から見れば日本だって朝貢国の1つだったわけだろ?
だからこそ「政権がウチに変わってから使者をよこさないが云々」とか言ってるんだから
>>792
物凄い特別扱いだなw
801名無し三等兵:2009/05/27(水) 17:35:34 ID:???
>>800
朝貢国扱いしてないと、いつになったら理解できるんだろうねえ
散々教育されてるのに。
あと、辛いかもしれんがフランスやインドも友好国という事実を受け入れよう!
802名無し三等兵:2009/05/27(水) 17:46:14 ID:???
>インド
ハルジー「あれ?俺モンゴルとガチバトルしたんだけど?」
803名無し三等兵:2009/05/27(水) 17:48:51 ID:???
しきりに日本を攻めろと言ってた高麗の立場はどうなる?
804名無し三等兵:2009/05/27(水) 17:50:56 ID:???
だから、自爆くんのまずやるべきことは>>201でいうように>>200が3度目の国書だという証拠を出すこと。
>>201から逃げるな。
805名無し三等兵:2009/05/27(水) 17:57:05 ID:???
>>802
あれ?クビライとっくに死んでるんですけど?
そもそもわざと北部と南部を一緒に扱うとかありえないんだけど?
普通に友好、通商を行う関係なんですけど?
806名無し三等兵:2009/05/27(水) 18:22:59 ID:???
>>805
じゃあインドって言うなよw
807名無し三等兵:2009/05/27(水) 18:25:30 ID:???
自爆くんまた自爆かよwww
808名無し三等兵:2009/05/27(水) 18:27:16 ID:???
13C-14Cインドの南部ってどうなってたんだ?
809名無し三等兵:2009/05/27(水) 19:06:56 ID:???
14C初頭にハルジーさんに征服されたんじゃなかった?
ハルジー朝はすぐ滅んじゃったけど。ただハルジー以前の時代に
モンゴルは北インドには攻め込んでたはずだが、南インドとは友好関係にあったのかね?そういう記録残ってる?




なんにせよ単に鎌倉幕府は非常識ニダ!って火病ってるだけだろ。
国書無視されたんならスルーしてりゃいいのに。
810名無し三等兵:2009/05/27(水) 19:30:28 ID:???
>>801

>>789で貿易増加を主張してたの君?
理由はともかく二度も逃げ帰っておいて恫喝が成功したなんて言わないよねw

>>789で行われてるのは幕府や朝廷抜きの民間交易。それがお望みなら国書を出したり侵攻する理由が無い。
811名無し三等兵:2009/05/27(水) 20:50:52 ID:???
>>809
インド方面はオゴデイの時代にカシュミールに2万戸が駐留軍として投下されたけど、
その後は帝国中央の混乱でほぼ放置状態。フレグの遠征の時に一応フレグの旗下に編入
されたはずなんだけど、13世紀後半のジョチ家、カイドゥ一派、フレグ家の紛争で、
ニクーダリーヤーンみたいにこの混乱で逃れて来たモンゴル諸侯がカシュミールにいた
駐留軍の残余部隊に亡命して来たりと、モンゴルの軍としては色々良く分からない立場が続く。

中央アジアの政局が少し落ち着く14世紀前半にはチャガタイ家の当主ドゥアがインドへ
掠奪遠征のため何度か軍を出しているみたいだけど、北インドへはカシュミール周辺にいた
駐留部隊などがインド現地のムスリム政権の領地に掠奪を働くということはあっても、
国書の贈答のようなちゃんとした政治的なアクションをした、という話はあまり聞かれない。
812名無し三等兵:2009/05/27(水) 21:51:36 ID:???
>>775
ふん、足軽(歩兵)と騎乗の武将が同じヨロイなんて釣りのつもりか?
騎馬の武将は位置が高い上に狙い撃ちされるんだから、重厚なヨロイじゃなきゃ意味ねーよw
しかし馬に乗ると足元が死角になるから、五尺の大太刀なんてものが必要になる
それは日本刀の進化系なんかじゃねえ要するにヤリの代わりだわなw
ヤリそのものだと槍首が掴まれて引きずり落とされてしまうから、
こんなものが必要になるってだけの話ww

柳生ナントカ流でもなんでもいいわ名称はw
しかしやつらの目指した剣法はヨロイを着ないでするものだ
なぜなら鎧兜を着用すると上段が使えないので、著しく不利になるからよw

あと足軽は二本差ししていない
813名無し三等兵:2009/05/27(水) 22:08:01 ID:???
ここは釣堀なのか?
814名無し三等兵:2009/05/27(水) 22:09:28 ID:???
>>811
なるほどね。
815名無し三等兵:2009/05/27(水) 23:54:32 ID:???
>>801
実際はともかく、元が日本を朝貢国とみなして無かったらあんな国書は渡してこないだろ…
>>812
それはもう関ヶ原も終わって世の中が太平の世になった時代の事なんだが…
816名無し三等兵:2009/05/28(木) 01:47:50 ID:???
朝貢国と見下げていることに疑う余地はない。
元擁護の理屈は属国の程度の説明でしかない。

示威行動だから1日で帰ったってのも錯覚を狙った説。
示威行動が目的であったとしても目標を海岸線と決め付けられない。
目標=大宰府の制圧も当然否定できない。
また、作戦期間も示威行動=1日、でなければならないはずもない。
示威行動が目的として
目的=示威行動、目標=大宰府、期間=3日〜10日〜17日(天気に依る)もありうる。
示威行動と1日で帰ったことに何ら脈絡はない。
817名無し三等兵:2009/05/28(木) 15:45:41 ID:???
>>809
南インドの諸都市から元代青磁やコンテナ様陶器が発掘されてる。
宋代から盛んに交易が行われていた様子はあるけど、元代では更に出土量が急増
逆に明代の出土品はほとんど無いってくらい極端に少ない。
818名無し三等兵:2009/05/29(金) 16:21:28 ID:???
追加、宋と違いモンゴルは国主体の交易も行っていて
その際に使っていたと思われる(基本国外持ち出し禁止)金銀が
これまたタイやインド南部の各地で発掘されてる。
819名無し三等兵:2009/05/29(金) 21:00:42 ID:???
>>812
さすがにその釣り針はでかすぎて食いつけないってw
820名無し三等兵:2009/05/29(金) 21:10:53 ID:???
やあやあ我こそはと威勢よく突っ込むが、集団戦法に苦戦する武士
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm
821名無し三等兵:2009/05/29(金) 23:11:44 ID:7s6dymCg
>>809
とまあ、常識的に考えて友好関係にない国の人間が当該国で
官員として交易に携われるはずないよね。
822名無し三等兵:2009/05/30(土) 00:12:38 ID:???
>>820
不味そうな餌だなおいw
823名無し三等兵:2009/05/30(土) 13:15:33 ID:???
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.htm
蒙古兵は集団戦術主体で、一対一で戦おうとしない。卑怯だと思う。
824名無し三等兵:2009/05/30(土) 13:30:11 ID:???
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q139754348
>ですから「卑怯な行い」をすればその場は勝てても周りを敵に回してしまいますし、部下が離れていく。
>そういうことを避けるために中世の武士は「名誉ある戦い」を好んだのです。

>事実、勝てさえすれば良いという戦ばかりをしていた源九郎判官義経は壇ノ浦の戦いの後、
>兄頼朝、東国武士の支持を失い、結局は逆賊として討たれる事になります。政治的なことが苦手だった性格に加え、
>名誉ある戦勝の無かったことも理由だと思います。

武士は名誉を重んじたんだな。だから、やあやあ我こそはと名乗ったのか。
825名無し三等兵:2009/05/30(土) 17:30:43 ID:???
名乗ったのは、これは俺の獲物だ無関係な奴は手を出すな、て意味合いもあるがなw
826名無し三等兵:2009/05/30(土) 17:46:01 ID:???
http://brian.hoffert.faculty.noctrl.edu/TEACHING/Heiji.Monogatari.jpg
こんな戦いでも悠長にやあやあ我こそは、ですか?
827名無し三等兵:2009/05/30(土) 18:02:04 ID:???
>>826
よくわからないから 吹き出しつけてくれ
828名無し三等兵:2009/05/30(土) 18:31:17 ID:???
やばいwwwなんかまたバカが書き込んでるぞwwwwww
829名無し三等兵:2009/05/30(土) 19:19:49 ID:???
ワーモンゴル軍がきたぞー

土塁を築け〜

ドカーン!うわーっ

ワーワー

ざっぶーん

神風が吹いた〜



これの何が面白い?
830名無し三等兵:2009/05/30(土) 19:34:13 ID:???
お前のそのバカさ加減が面白いw
831名無し三等兵:2009/05/30(土) 20:05:02 ID:???
お客さんは去ったみたいだな 
832名無し三等兵:2009/05/31(日) 01:18:27 ID:g2Oz4g6u
で、棄民説はどうなった?
833名無し三等兵:2009/05/31(日) 08:07:45 ID:JxJd8RrT
>>831
主にパーンディヤ朝のマーバル、マラバールで盛んに交易が行われていたそうだね
834名無し三等兵:2009/05/31(日) 08:32:34 ID:???
元軍二度の侵攻とも対馬・壱岐を完全に制圧しておきながら、二度とも恒久占領せず、あっさり退去したのが分からない。
本腰で日本本土侵攻を考えてたなら、中間の島は足掛かりに押さえておきそうに思うのだけど、何か違う考えがあったのだろうか。
835名無し三等兵:2009/05/31(日) 08:36:00 ID:???
あの島ならいつでも取れるという王者の余裕だろう。


ワーモンゴル軍がきたぞー

やあやあ我こそは

うわーっ!
836名無し三等兵:2009/05/31(日) 09:19:18 ID:tOMvBOE/
やあやあ我こそは!


ズビュ!!


やあやあ我こそは!


ズビュ!!


以外無限ループ。


戦闘ではこのように元軍の圧勝だった。
神風が吹かなければどうなっていたことか・・・。
837名無し三等兵:2009/05/31(日) 10:04:14 ID:???
>>834
モンゴル帝国の戦法として、外征先の地域の行政的な中心を獲得しない限りは
その地域に駐留するということはしないのがセオリーだったらしい。
そのため、その地域の中心地を討滅するなり降伏させて帰順させるなりしない内は、
掠奪や攻撃をするだけで、そういった作戦が終了したら自分の勢力圏へ撤退するのが
普通だった。

特に中央アジアやイラン、金朝が滅亡するまでの華北周辺がそうだったが、その地域の
行政の中心が陥落するなりしない限りは、攻略が達成するまで複数回掠奪遠征を行う
ものだったようだ。
(そういう意味では、クビライの時代の襄陽・樊城包囲戦のように数年に渡って降伏するまで
 恒久的にひとつの都市や地域を包囲し続けるという作戦は、モンゴル帝国の戦法としては
 非常に珍しい。)

翻って、『元史』なり『高麗史』なりを見る限りは、壱岐や対馬は太宰府を行政の中心とする
地域に属しているように認識していたような書き方をしているので、文永の役の後に壱岐や
対馬からも撤退しているのは、特に不思議なことではないかも知れない。

ただ、『高麗史』では撤退途中で風雨にあって、「會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金ヒツ溺死。」
とあるように、かなりの被害が出たらしいので、それで壱岐や対馬を放棄したのかも知れないが、
「どこそこを攻めた、それからどこどこを攻めた」的な書き方をしていはいるが、文永の役の時の
作戦予定については具体的な記述がないので、事前にどこまでやろうとしていたかは良く分からない。
(金ヒツ(きんせん)は高麗軍の司令官・金方慶の息子のひとりで、文永の役の時に元朝・高麗側の
 資料上から遠征軍で死亡したことが確認出来る唯一の人物だったりする)
838名無し三等兵:2009/05/31(日) 10:07:15 ID:???
つまり
日本側:やあやあ我こそは→屍、の無限ループ
元側:死者一名

という結論が出たな。威力偵察で本当によかったネ。
839名無し三等兵:2009/05/31(日) 10:55:57 ID:???
やあやあ我こそは…・・・うわああ、大量の毒矢だ!!


やあやあ我こそ……うわああ、鉄砲だ!!


やあやあ我こそは……うわああ、一兆度の火の玉だ!!
840名無し三等兵:2009/05/31(日) 11:07:49 ID:???
やあやあ我こそは……うわああ、天狗の仕業だ!!
841名無し三等兵:2009/05/31(日) 11:08:20 ID:???
ガメラでもいたのかよw
842名無し三等兵:2009/05/31(日) 11:11:48 ID:???
>>837
その包茎の息子は戦死?それとも撤退中の遭難死?
843名無し三等兵:2009/05/31(日) 11:30:43 ID:???
ほほ、ほ、包茎ちゃうわ!
844名無し三等兵:2009/05/31(日) 11:40:29 ID:???
やっぱり文字化けしたorz

>>837
文永の役のとき、対馬の守護代・宗資国や壱岐の守護代・平景隆らが率いる守備部隊が全滅したが、
『八幡愚童訓』にしろ『蒙古襲来絵詞』にしろ、「蒙古兵」が武士側の攻撃で射殺されたり討ち取られた
場面は出て来るので、文永の役の時の派遣軍で、戦闘中の損害が0とかいうことは、まずあり得ない。

『高麗史』は文永の役についての記述は金方慶伝が最も記述の分量が多いが、高麗軍の指揮官「金方慶」
の「伝」だけあって、金方慶に縁のある高麗人の将校たちが活躍したことを述べはするが、(『高麗史』の
記述が正しければ)派遣軍の7割以上を占めていただろう「蒙漢軍」の活躍はほとんど記述がない。
一応、右副元帥の洪茶丘の名前は出てくるが、彼らの指揮下で行動したはずの各部隊の指揮官たちの
名前すら殆ど記録がない状態だ。

一応、『高麗史』では「軍の還らざる者、無慮萬三千五百餘人」と書いていて、書かれ方からすると
この「軍の還らざる者」の大半は、撤退中に襲われた風雨の影響が原因しているようだが、この
「萬三千五百餘人」のうち、どのくらいが戦闘中での損耗で、どれくらいが風雨による溺死した者か
判断のしようがない。もっともこの「萬三千五百餘人」という数字自体が『高麗史』の忠烈王世家に
しかでてこないので、他からの検証のしようもなかったりするが。
(これはもう資料的な限界なのでどうしようもない)

>>842
> 會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金?溺死
金?(金[イ先]きんせん)が溺死したのは撤退中の夜中の風雨に見舞われた時。文永の役の時、
金方慶の息子たちは金?を含めて何人か従軍していたようだけど、この夜中の風雨で金?が溺死
したことは、『高麗史』の忠烈王世家や、金方慶伝、『高麗史』完成の翌年に編纂された、
『高麗史節要』でも触れられている。
845名無し三等兵:2009/05/31(日) 12:07:18 ID:???
撤退途中に遭難したわけね。トン
846名無し三等兵:2009/05/31(日) 15:21:39 ID:???
いつの時代でも中国や朝鮮のデータはいいかげんだからな
特に水増しが多過ぎ
847名無し三等兵:2009/05/31(日) 17:51:37 ID:???
近代以前の中国大陸の人口推移に関する研究は研究者泣かせw
848名無し三等兵:2009/05/31(日) 19:50:00 ID:???
何も分からないヨーロッパよりは戸籍があるだけ研究し易いけどな
849名無し三等兵:2009/05/31(日) 21:21:39 ID:???
まあ日本も明治以前は推測によるもんだしなあ
850名無し三等兵:2009/05/31(日) 21:42:17 ID:???
愛宕山、祖原山、赤坂あたりの山や丘には築城せんかったん?
851名無し三等兵:2009/05/31(日) 23:34:34 ID:???
>>481
>杉山センセは金方慶伝の金方慶と司令官の忽敦との会話は、
当初からの撤退予定を踏まえた上でのやり取りだったろう的な意見を
『モンゴル帝国の興亡』だったか別の本で述べていたけど、

根拠は?
852名無し三等兵:2009/05/31(日) 23:42:55 ID:???
>>657
現代でいうと宛先不明で送り返されたってのが適当だよ。
「国皇さん」ならいますが「国王さん」は居ませんよと。
返牒云々以前に国王扱いの牒は不受理が国是だった。
例外として平清盛が地方長官からの朝貢だからと受理したことがあるが原則不受理。

>攻め込んで来た元のがよっぽどDQNだと言えるだろ。
その通り。元の場合も趙良弼がうやむやにしようと努めた。
武力行使のオプションを持たなければそのまま有耶無耶になるものだし、
通好を求めるなら「日本国皇に敬んで書を奉る」とでも対等の牒を送り直せばよい。
853名無し三等兵:2009/05/31(日) 23:53:15 ID:???
>>664
これは錯覚させてしまう。
村井先生と杉山先生が幕府陰謀論のようだからかな。
幕府が権力拡大の為、朝廷の元の要求を飲む返牒(割と厳しい文言だが)
を妨害したかのようにと。

>おっかなびっくりな感じだったこともあってか
(返牒案では割と厳しい文言を使っているようだけど)、
幕府側の意見を入れて返牒出すをのやめちゃったらしい。

>厳しい文言を使っているようだけど
「だけど」だから朝廷が臆して返牒を出さなかったと取れるが
1268年正月の1回目、1269年2回目の牒とも臆してというのは全く違い、
返牒拒否を主張した関白近衛基平のように臆したとは全く逆だった。

まず返牒云々以前に、天皇と自認する日本は無礼な牒状を受理しないのが国是だった。

1268年正月1回牒状、国是は不受理。朝廷は数ヶ月かかったが不受理に決定。
国是が牒状不受理だったからで臆したからではない。
また、幕府の助言は原則を守る意だろう。
ついでに、評定での牒状受理の意見さえそれが要求を飲むという見地からとは言い切れない。
なぜか、後に作成された返牒案は要求拒否の内容だったから。

1269年2回牒状、朝廷は中書省宛に元の要求拒否の太政官牒を作成するも幕府が止めた。
また、朝廷外からも返牒の噂に批判が起こった。
854名無し三等兵:2009/05/31(日) 23:56:08 ID:???
1270年正月付の返牒案の一部
(元に敬意をはらいつつ知らないからどうして好悪の便があろうかという意の後)

不顧由緒、欲用凶器。和風再報、疑冰猶厚、
聖人之書釈氏之教、以済生為素懐、以奪命為黒業。
何称帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎。
凡自天照皇太神耀天統、至日本今皇帝受日嗣、
聖明所覃、莫不属、左廟右稷之霊、得一無弐之盟。
百王鎮護孔昭、四夷之脩靖無紊、故以皇土永号神国。
非可以知競、非可以力争、雖以一二乞也。思量。

由緒を顧ず、凶器を用いんと欲す。和風再報、疑冰猶厚し、
聖人の書釈氏の教、済生を以て素懐となし、奪命を以て黒業となす。
何ぞ帝徳仁義の境と称し、還て民庶殺傷の源を開かんや。
凡そ天照皇太神天統を耀かしてより、日本今皇帝日嗣を受くるに至るまで、
聖明の覃ぶところ左廟右稷の霊、得一無弐の盟に属せざるなし。
百王の鎮護孔昭(はなはだあきらか)に、四夷の脩靖紊るなし、故に皇土を以て永く神国と号す。
知を以て競ふべきにあらず、力を以て争ふべきにあらず、
一二を以て乞ひ難きなり。思量せよ。
855名無し三等兵:2009/06/01(月) 00:17:33 ID:???
>>236
平戸に土塁つくってるから工兵に農具は必要だよ
856名無し三等兵:2009/06/01(月) 01:00:28 ID:???
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰。」
「又矢尽」を予定撤退の根拠としているのは強引すぎて意味不明だよ。
「官軍不整」を無視した切り抜きだし、「官軍不整」も予定通りなのか?
「官軍整、又矢不尽」なら作戦は継続したということで予定でも何でもない。
威力偵察だから1日分の矢しか持って行かなかったとか、
戦闘密度で変わる矢の消費量、日暮れまで続く戦況、戦闘密度を
想定していたとする文献、根拠があるのだろうか。
上の方のレスにあるが矢の回収というのもある。
857名無し三等兵:2009/06/01(月) 01:36:05 ID:???
>>481
確かに人物伝は武官の勇猛や文官の交渉巧みを持ち上げてある。
阿塔海伝の弘安の役の十のうち七八という数字の信憑性が落ちるらしい。

だからといってそれだけで戦況まで全否定できるのかね。
金方慶が作戦継続を主張しなかったとは言い得ても
兵を廻すしかない戦況を否定する根拠にはなってない。
金方慶を持ち上げてるからということで史料を全否定できる根拠を杉山先生は示してるのかな?
これも一部を否定しうる材料で全体を否定する、錯覚を狙った説じゃないのかね。
858名無し三等兵:2009/06/02(火) 08:36:55 ID:???
対外戦争で見られる日本史の不思議

日本の敗戦←日本は馬鹿で愚かだった。とやたらと日本を罵倒する

外国の敗戦←やる気がなかった。国内情勢が不安定だった。計画的に敗退した。と珍説をやたらと持ち出して
      外国を弁護する
859名無し三等兵:2009/06/02(火) 10:39:24 ID:GJ7K8hnP
歴史に対しての謙虚さが足りないんだろう
860名無し三等兵:2009/06/02(火) 12:44:12 ID:???
>又矢尽

消えて無くなるわけじゃあるまいし
矢くらい回収しろよ
861名無し三等兵:2009/06/02(火) 18:56:43 ID:???
そもそも、日本側が読む訳でもない文章に「命令どうりの転進」に矢が尽きただのの言い訳を書く必然性は無いと思うんだが。
862名無し三等兵:2009/06/03(水) 02:56:43 ID:???
>>852
> 通好を求めるなら「日本国皇に敬んで書を奉る」とでも対等の牒を送り直せばよい。
「國王」は、例えばモンゴル帝国初期の功臣ムカリがグイ・ワン gui wang 、つまり
「國王」という尊称で呼ばれて、彼以降ムカリ家は「國王」の称号を代々受継いでいった
ように実際にモンゴル帝国で現役で使われていた称号だし(このムカリ国王家の「國王」号は
金朝がチンギスの侵攻によってこれを名目的に抑えるために授受したという、かなり特殊な
事情に依っていて、やや例外的なことだが)、他にも高麗が文永の役の年に(色々働き掛けて)
「附馬高麗國王」位を授封されたし、ミャンマーやベトナムの陳朝のように自治性の高い地域の
君主たちは「國王」の称号を帯びていた。

だから、クビライ側の思惑はどうであれ「國王」という称号は12〜13世紀当時の中国周辺の
漢語の習慣としては使っていて別に不自然では無い称号だ。

しかし、秦漢時代以来、君主の称号として「國皇」なる称号が使用されたとかいう例は、まず
聞いたことが無い。(一応、星の名前では「國皇」という単語が出て来るようだが)

「天皇」は周知の通り中国上代の帝王が呼ばれたもので、いつ頃から日本の君主の称号は
「天皇」と呼んでいることが中国方面でも知られるようになったかは知らないが、少なくとも
元朝末期にトクトらが編纂した『宋史』日本伝などには「神武天皇」から「守平天皇」つまり
円融天皇まで「守平天皇即今王也凡六十四世」とあって、この頃には割と日本の君主の称号や
地理など正確に把握していたことが分かる。

863名無し三等兵:2009/06/03(水) 02:57:49 ID:???
>>862の続き。
日本も含めてだが、当時普通に古典的な漢文の素養のある人物だったら「國皇」などという
耳なれない上、実際に使われてもいない称号を外国への書簡で用いるとかは考え難い。
「皇帝」だったら奈良時代以降でも何度か日本の朝廷でも使われているし、例の太政官牒案でも
天皇の事は「皇帝」と読んでいるので、日本でも「國皇」などという称号は使わないだろう。
もしクビライ側からの書簡で「國王」以外で「皇」の文字のある称号を使うとしてもやはり
「南宋皇帝」とあるように「皇帝」が妥当だろう。
(もっとも『旧唐書』新旧の『五代史』では全然触れていないようだけど、『新唐書』日本伝では
 「神武立、更以『天皇』爲號。」ってあるようだから、全く分からなかった訳ではないだろうけど)

ただ、元朝末期には華北にも華南にも日本の禅僧がかなり往来していたし、中国から来た僧侶が
日本から地元へ戻って来る場合も多かったから情報源は多かっただろうけど、クビライが最初に
国書を出した段階でどこまで日本のことを知っていたかは分からない。趙良弼がクビライの
もとに帰還した時、一年近く太宰府に滞在している間に見聞きした日本の情勢や風俗地理などを
報告書にまとめてクビライに上呈しているが、わざわざ『元史』世祖本紀に、
「具以日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜來上。」と書いているから、多分、この時にようやく
日本の君臣の官職・称号について知る機会が得られ、それ以前はあんまり良く分かっていなかった
のかも知れない。

もっとも、それを事前にわかっていたとしても、金朝や南宋のような「中國」「區夏」(とされた)
の地域の君主でもないのに、外国の君主に「皇帝」という称号を使うかは怪しいだろうけど。

(「區夏」に含まれないベトナムの陳朝はウリヤンカダイの遠征が来るまで本来「皇帝」を名乗って
 いたが、1267年にクビライから「安南國王」に封じられている。ただ、そもそも前代の李朝の時代、
 1174年に南宋から「安南國王」の冊封を受けていて、陳朝でもそれは受継がれていたようで、
 1261年にもウリヤンカダイが撤退した後、南宋に「安南國大王」位の世襲を要請しているので、
 クビライの「安南國王」授封の処置もその慣例の延長とも見なせるかもしれない。)
864名無し三等兵:2009/06/03(水) 13:10:37 ID:???
文永威力偵察説が幅効かせてるんですかね?
数年かけて数万の軍勢で威力偵察っていうのは兵力的に見ても過大だと思うのですが
あと威力偵察って言葉は、いかにもちょっとぶつかってサッと引くみたいなイメージありますが
野外令とか読めば分かりますがそういう緩い攻撃行動じゃないですよ
対馬・壱岐の占領は博多上陸→太宰府占領のための策源地確保であり
その目的を放棄せざるを得ない敗北により両島を放棄全面撤退に至ったと見るのが妥当ではないですか?
弘安の役における元の動員兵力を見ても文永が威力偵察というのは困難だと思います。
865名無し三等兵:2009/06/03(水) 15:03:37 ID:???
あれだけ大掛かりな軍隊を出しておいて負けたら
威力偵察w

866名無し三等兵:2009/06/03(水) 18:09:53 ID:???
個人的には文永の偵察説より弘安の棄民説のが嘘臭いと思う。
867名無し三等兵:2009/06/04(木) 12:44:27 ID:???
>>860
勝ち戦ならともかく
敗走している状態の元軍に
「戻って矢を拾え」とは残酷な
868名無し三等兵:2009/06/04(木) 14:31:12 ID:???
というか壱岐や対馬には時間かけておいて、九州では水際でちょこちょこやってあっという間に撤退って何ですか?
それが威力偵察という行動にあてはまるの?
869名無し三等兵:2009/06/04(木) 14:47:31 ID:???
旧参謀本部の朝鮮の役買ったんだが、
これ誰がどういう経緯で編纂したの?

本の中に全く解説がないってどういうことだよ
870名無し三等兵:2009/06/04(木) 14:48:19 ID:???
スマンスレ違いwww
871名無し三等兵:2009/06/04(木) 19:55:28 ID:???
堂々日本史23が蒙古襲来だったので見てきた
河野氏が戦利品として手に入れた弓矢が紹介されてたんだけど
クジラのひげで弓が出来ていて威力が竹の日本のより高いと書いてあったが
そのあたりは教えてくれ
日本のものは強く引くほとで威力は高めれるが引き換えに速射できなくなるってさ
872名無し三等兵:2009/06/04(木) 19:56:50 ID:???
あと弘安についてだが
幕府は九州の御家人だけでは頼りないということで
関東から精鋭を大量に送り込んでて
実際に活躍したのは関東の連中だとも書いてあった
そこれもどうなん
873名無し三等兵:2009/06/04(木) 20:39:57 ID:???
弓については上の方で散々話が出てるから自分で見てちょ。
関東武士については知らん
874名無し三等兵:2009/06/04(木) 21:40:05 ID:???
>>197より

しかし史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、陸奥・出羽(東北地方)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、
信濃(長野県)、三河・尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、備前(岡山県)、筑前(福岡県)、日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、豊後(大分県)と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。
875名無し三等兵:2009/06/04(木) 21:42:19 ID:???
文永でさえ対馬に他地域の御家人が差し向けられてた
弘安ではもっと規模が大きい
ということは大量に関東勢が送り込まれたのも不思議じゃないかもな
876名無し三等兵:2009/06/08(月) 23:47:28 ID:???






もし堀北真希が足利将軍だったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164945963/

もし堀北真希が足利将軍だったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164945963/

もし堀北真希が足利将軍だったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164945963/

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http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164945963/











877名無し三等兵:2009/06/09(火) 08:36:56 ID:???
やあやあ我こそは

…うわーっ!
878名無し三等兵:2009/06/09(火) 11:42:27 ID:MtKVF5rj
またお前か
879名無し三等兵:2009/06/09(火) 11:44:22 ID:???
やあやあ我こそは>>878

…うわーっ!
880名無し三等兵:2009/06/09(火) 18:58:12 ID:???
まだお前か
881名無し三等兵:2009/06/09(火) 19:01:11 ID:???
うわーっ!
882名無し三等兵:2009/06/09(火) 20:48:25 ID:???
やあやあ我こそは…アッー!
883名無し三等兵:2009/06/10(水) 00:40:39 ID:???
お尻を出した子一等賞♪
884名無し三等兵:2009/06/10(水) 03:05:26 ID:???
むしろお前か
885名無し三等兵:2009/06/10(水) 08:51:31 ID:???
このスレも終わりだな。威力偵察・棄民説で結論は出たしもういいだろう。
886名無し三等兵:2009/06/10(水) 13:36:11 ID:???
本気でそう思うならもっかいスレ読み直せバカ
887名無し三等兵:2009/06/10(水) 15:22:39 ID:???
やあやアッー!
888名無し三等兵:2009/06/10(水) 16:01:48 ID:???
よもやお前か
889名無し三等兵:2009/06/10(水) 23:32:35 ID:???
>>834
小勢で駐留すれば殲滅される。
大兵力であっても弘安の役の壱岐と鷹島の掃討戦がある。とうてい維持できんよ。
島占領は兵力分散、兵站浪費、士気消耗、主力を縮小することになり下策。

>>844
>「金方慶」の「伝」だけあって、金方慶に縁のある高麗人の将校たちが活躍したことを

「活躍」では優位に戦ったと錯覚する人がいるかもしれないので

高麗史節要
「殊死して戦う」
【殊死】 (名) スル 死を覚悟して戦うこと。

金方慶伝
「力戦」
【力戦】[名](スル)力いっぱい戦うこと。力闘。「―奮闘」
890名無し三等兵:2009/06/11(木) 01:16:17 ID:???
それぐらいはわかるだろう
戰敗之みたいな勘違いはないよ
891名無し三等兵:2009/06/15(月) 18:53:48 ID:???
棄民説の根拠ってなに?
892名無し三等兵:2009/06/15(月) 19:25:51 ID:???
世界無敵モンゴルがジャップごときに不覚を取るはずがないというのが根拠なんじゃない?www
893名無し三等兵:2009/06/15(月) 19:52:01 ID:???
元寇でググるとちゃんとこのスレが引っ掛かるな
きっと色んな人が読んでいるんだろうなあ
894名無し三等兵:2009/06/15(月) 20:01:33 ID:???
となると元寇といえば日本側は「やあやあ我こそは」で元軍の集団戦法に苦戦云々、と言う人も段々消えていくかな?

逆に棄民説とか威力偵察説とかを仕入れてしたり顔で語ったりしなきゃいいがw
895名無し三等兵:2009/06/16(火) 06:02:23 ID:???
以前、東亜でスレが立った時は「ほぼ何から何までチョン主導でした(キリッ」
ってしたり顔で語る奴が多くて大いに参ったわ
896名無し三等兵:2009/06/16(火) 14:30:26 ID:???
棄民かどうかは兵質だけでなく装備でもわかるんじゃない
既に沈んだ船からは投石器は見つかったようだけど
通常の装備とかどうだったんだろうか
897名無し三等兵:2009/06/16(火) 14:35:40 ID:???
スレ検索したら>>479が弩について触れてるな
弩は持ってきたんだろうか
898名無し三等兵:2009/06/16(火) 16:02:48 ID:???
>>896
兜や弓や鎧なんかが多数奉納されてるにも関わらず
鋤や鍬がちょっと見つかっただけで「殆どは非武装民」
だなんておっしゃる先生もw
899名無し三等兵:2009/06/17(水) 10:47:15 ID:???
『高麗史』などの敵側の史書を無視して、宗教書の『八幡愚童訓』だけで
日本の大敗とする学説が大手を振ってまかり通る世界だからねw
900名無し三等兵:2009/06/17(水) 10:47:59 ID:???
×日本の大敗→○戦闘自体は日本の大敗
901名無し三等兵:2009/06/17(水) 12:39:32 ID:???
で、弩は見つかったのか
902名無し三等兵:2009/06/17(水) 12:45:55 ID:???
http://kome2-ki2naru.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-83d8.html
>元寇の際、モンゴル兵が用いた弩が博物館に残っていますが、モンゴル軍も主力の騎兵は長弓を使用していました。

どこの博物館だろう?それにモンゴル騎兵が長弓?
903名無し三等兵:2009/06/17(水) 13:19:01 ID:???
http://nippon.zaidan.info/jigyo/2006/0000050302/jigyo_info.html
F弩(KZK-02-1723))

4.「伊万里湾の海底に歴史を探る〜海に眠る元寇の跡〜」と題し「海の日」講演会を開催した。
(1)時期:2006年7月9日
(2)内容:水中考古学の現状、蒙古襲来(元寇)と鷹島、東アジアにおける水中考古学の成果
(3)場所:松浦市市民文化センター (4)参加者 一般住民約300名

これが果たして元寇のものかどうか?
904名無し三等兵:2009/06/18(木) 00:51:14 ID:???
>>902
> ヨーロッパに弩を伝えたのもモンゴル軍ですが、

これは怪しい。
第三代モンゴル皇帝のグユクの即位式に列席したローマ教皇使節、プラノ・カルピニのジョヴァンニが
教皇庁に提出した道中での報告書に、モンゴル軍対策として、モンゴル兵はクロスボウの威力を大変に
恐れているので、城塞の警備や歩兵などにクロスボウを積極的かつ大量に運用すべきだとか提言して
いるので、少なくとも13世紀半ばにはヨーロッパではクロスボウは既知のものだったはず。

クロスボウがヨーロッパでも戦場で使われ出すのは、十字軍によってシリア方面から移入されてから
じゃないか的な話は聞くけど、モンゴル時代まで時代が下るとかいうのは聞いたことが・・
905名無し三等兵:2009/06/18(木) 10:07:10 ID:???
> ヨーロッパに弩を伝えたのもモンゴル軍ですが、

モンゴルとの遭遇以前にヨーロッパでクロスボウの禁止令が出されているのはなぜだ?
十字軍兵士がクロスボウを用いているのはなぜだ?未来人の仕業かな?
謎は尽きないな。
906名無し三等兵:2009/06/18(木) 11:42:38 ID:???
>では何故使われなくなったかというと、弩 は集団戦闘向きの武器で対戦する兵力が多い程有効な武器ということらしい。
>他にも欠点として 連射が出来ない ということにもあったようだ。
>特に戦国時代の初期では、対戦する兵力が少なく、後期の大人数戦闘が主流の頃には 鉄砲 が伝来し、
>弩 が活躍する状況がなくなっていたということのようだ。

弩が使われなくなった時代なんて戦国よりはるか昔なのにw
こいつらどこまで無知なんだ?www
907名無し三等兵:2009/06/18(木) 11:45:19 ID:???
>少なくとも13世紀半ばにはヨーロッパではクロスボウは既知のものだったはず。
モンゴルの侵攻以前からあるよ。おそらくイスラム勢力との接触でもたらされたと思われる。

wikipediaより
>1139年に教皇インノケンティウス2世が召集した第2ラテラン公会議で、「キリスト教徒への使用」は
非人道的として禁止する教令が出されるほどにもなった。獅子心王リチャード(1157-1199)が
異教徒以外に対してもクロスボウを積極的に運用した結果
908名無し三等兵:2009/06/18(木) 20:10:30 ID:???
>モンゴル兵はクロスボウの威力を大変に恐れている

金も宋の弩を一番恐れて最良の兵器だと断言してた
文永だと弘安でも旧金の兵あたりが弩を幾つか持ちこんだかもしれないね
とはいえ日本側の記録には出てこないし絵巻にも出てこないな
戦力を
で、弘安の旧南宋兵が棄民すれすれの弱兵でなく
一級の戦力に該当するなら
ある程度は弩も携帯してきたのではってのが今やってる議論かな
909名無し三等兵:2009/06/18(木) 20:13:18 ID:???
ちなみに俺は最初から棄民目的というのは言い過ぎで
戦力にならない弱兵も大量に送り込めば
それなりの働きをするのではって期待込みだと思うね
もちろん連中が玉砕してもそれはそれでよしという
910名無し三等兵:2009/06/18(木) 20:33:49 ID:???
弱兵に平定された三別抄って一体?
911名無し三等兵:2009/06/18(木) 21:03:20 ID:zxQTb8uY
主力は東路軍だとしたらそれはそれで…
912名無し三等兵:2009/06/18(木) 22:06:30 ID:???
東路軍は文永と同じ
棄民どうたらってのは10万の宋軍限定のことじゃないのか
913名無し三等兵:2009/06/18(木) 22:25:01 ID:???
そうだけど
914名無し三等兵:2009/06/19(金) 00:59:47 ID:???
クロスボウ持ってきてないから弱兵ってどんだけ暴論だよw
915名無し三等兵:2009/06/19(金) 01:44:42 ID:???
日露戦争とか第二次大戦中の対英戦とかもそうだけど
なんで日本が勝った戦いについては、あーだこーだ難癖つけるの?
916名無し三等兵:2009/06/19(金) 01:57:26 ID:???
そうすると安心するんだよ
反対に日本にポジティブな評価をするのは不安
悪い事のように感じる
917名無し三等兵:2009/06/19(金) 10:55:19 ID:???
弩は防御兵器で攻撃兵器じゃないよ
918名無し三等兵:2009/06/19(金) 13:46:35 ID:???
宋は個人で携帯して使用も可能な弩を大量に持ってた

>>914
勝つなら持ってくるだろう
宋はもともと弱兵で有名だから装備も粗末なら全く戦力にならない
919名無し三等兵:2009/06/19(金) 17:45:13 ID:???
とうとう南宋まで弱兵になったか。南宋を陥れるのに時間がかかった元と
その弱兵を主力とする軍隊に敗北したハイドゥってなんなんだ?
920名無し三等兵:2009/06/19(金) 19:23:17 ID:???
>>914
え〜と、モンゴルの弓は短射程だが速射が売りだった訳でしょ?そして船で来たために基本は歩兵。
で、馬+長射程の和弓でヒットエンドランに徹されたら、ただの的じゃないのか? がスタートだった訳で。

そこで、せめて近代戦での狙撃銃とか対戦車ライフル位の密度で相手の射程を越える武器を用意しておくのは、それ程頭を使うことでもあるまいと。
まして中華残党なら対騎兵戦闘のエキスパートだろうに。

兵力は十分優勢だから、発射速度の遅さは数の暴力で補えるだろうし。
それとも、「武士は皆名乗りを上げてこっちの射程まで突撃してくる」とでも思ってたんかなぁ?

>>919
それと同じ仕事をするだけで橋頭堡で夜を明かせただろうに。
921名無し三等兵:2009/06/19(金) 21:23:32 ID:???
南宋は100万の常備軍とやらが売りなんで
兵は強弱千差万別でしょう
少数で大勢のモンゴルの騎馬軍を蹴散らす展開が幾度かあっても不思議なわけじゃない
922名無し三等兵:2009/06/19(金) 22:28:42 ID:???
>>908
>旧南宋兵が棄民すれすれの弱兵でなく一級の戦力に該当するなら
ある程度は弩も携帯してきたのではってのが今やってる議論かな

前提から逆だ。議論してんのどんだけ馬鹿なんだよ。
西南の役の警視庁抜刀隊を刀使ってるから弱兵というようなもの。
弓の方が熟練が必要で素人には使えない。
更に弓の発射速度を生かした運用は即ち部隊としての錬度も必要になる。
弓がクロスボウより威力が弱いって1点だけでどんだけ妄想膨らませてんだ。
923名無し三等兵:2009/06/20(土) 00:13:23 ID:???
つかクロスボウ厨って、日本でクロスボウが廃れた理由を
「使いたかったけど大量生産技術が無かったから、クオリティ低い和弓で我慢したから」
だなんて本気で考えてんの?
924名無し三等兵:2009/06/20(土) 00:15:42 ID:???
>>915
それでいて、日明戦争やノモンハンみたいな
微妙なのは日本の一方的敗北って決めつけるしな。
925名無し三等兵:2009/06/20(土) 06:17:09 ID:???
>>922
夜襲が怖いから船で寝る、なんて連中が野戦築城と重火器を用意しないでどうする。
(築城のほうは余分に用意した船そのものを陸に引き上げても良い)

弓の射程で負けてるのはガチにせよ強行偵察にせよ明らかなのに二回目でもそれを生かしていないなら、余程の馬鹿かソ連の懲罰大隊みたいな訳有りかのどちらかだろ。

西南の役でも「刀のみの部隊もある」と「鉄砲抜きで蜂起」では全然馬鹿の度合いが違ってくる。
926名無し三等兵:2009/06/20(土) 06:52:32 ID:???
懲罰のために七年の猶予を下さるなんて大ハーンはずいぶんと寛大なお方なんだねw
927名無し三等兵:2009/06/20(土) 09:13:50 ID:???
棄民の次は懲罰かよw
懲罰のための軍に10万の増援を下さるなんて本当に大ハーンは寛大だな。
928名無し三等兵:2009/06/20(土) 09:33:37 ID:???
じゃあ、モンゴル帝国も三代目になると鈍っちゃったでOK?
実際その後グダグダだし。

あう、今の総理もある意味三代目だな。。。
929名無し三等兵:2009/06/20(土) 09:34:41 ID:???
鈍ったどころかモンゴル民族悲願の中国征服達成してるだろうが。
930名無し三等兵:2009/06/20(土) 10:00:53 ID:???
高麗のような属国にもならず、ベトナムのような戦い方をしなくても勝った日本
ありがとう時宗、ありがとう
931名無し三等兵:2009/06/20(土) 10:25:47 ID:???
カントウセイシンオウセイナリ(敵艦発見)
トキムネ!(魚雷発射!)

大戦末期の米潜が使っていた通信符号(?)
932名無し三等兵:2009/06/20(土) 10:28:48 ID:???
フビライの時こそがモンゴル帝国の最盛期だよ。
逆に考えるんだ。日本に懲罰する為に
あれだけ大掛かりな軍勢を寄越す事ができるほど
元の国力は凄かったと。そう考えるんだ。
933名無し三等兵:2009/06/20(土) 14:56:41 ID:???
どうしても元軍が自爆したのであって幕府軍は戦功なしとしたい人がいるようだが
ならうだうだ理屈こねずに神風で元が負けたことにすればいいと思うんだが
934名無し三等兵:2009/06/20(土) 14:58:08 ID:???
最近は神風説が否定される流れだから必死にこじつけを考えているんだと思われ。
935名無し三等兵:2009/06/20(土) 15:05:26 ID:???
>>933
文永ではたった1日で撤退して、台風に遭遇してないし
弘安では台風に遭遇するまで2ヶ月も上陸すら出来ず
ワンサイドゲームで武士にボコられたのが明らかになっちゃったからね。
936名無し三等兵:2009/06/20(土) 19:31:06 ID:???
あれ遭遇してないの
937名無し三等兵:2009/06/20(土) 21:10:44 ID:???
三角波という特殊な波、とかなんとかの情報があって「元寇 三角波」で検索したらこんな誤植がw

http://blog.goo.ne.jp/yokukikuyo/c/a2b3d81d6b3d84c2f114f4b418235391
>さらに、経済産業省は日本政策投資銀行と商工組合中央金庫による中小企業への低利融資枠を元寇の10兆円から5兆円に拡大する方針です。
938名無し三等兵:2009/06/20(土) 22:23:21 ID:???
宋の弩ってのはこれだな

http://www5b.biglobe.ne.jp/~serios/bow.html

神臂弓
1068〜1077年に西夏出身の李宏(李定とも)が開発、宋に献上した弩
一人で操作可能で鉄甲を容易く貫く威力から軍に広く採用された。
味方だけでなく敵からも高い評価を得ており、
金の完顔兀朮に「宋軍の武器で最も恐ろしい」と言わせしめた。

射程もこの一覧の中で一番長いね
939名無し三等兵:2009/06/20(土) 22:46:38 ID:uOz68Dgx
すごく詳しいサイトですね
940名無し三等兵:2009/06/21(日) 05:49:23 ID:???
今の時期はちょうど来襲してるとこ?
941名無し三等兵:2009/06/21(日) 19:10:06 ID:???
東路軍がすでに負け戦ムードになってる頃か
942名無し三等兵:2009/06/22(月) 04:29:31 ID:???
>>938
なかなか興味深いデータが載ってるけど、アラビア語やペルシア語の読みに誤りが・・

Aqqarとjarkhは良く分からなかった。Aqqarはアッカールとでも読むんだろうか。

Zanburakhは、?????? zanb?rak のことで「ザンブーラク」と読む。
「ザンブール」とはペルシア語で「蜂」のことで、直訳すると「蜂的なもの」。
「ザンブーラク」とはペルシア語で、大体はクロスボウの類いを指した。
(アラビア語や古いペルシア語の資料だったら ?????? zanb?rakhにしてたり、
 ????? zanburakhにして-b?-のところが-bu-と長母音化していない場合もあり得る
 だろうけど)

Takhshは、khを日本語の文でカ行で読むかハ行で読むかの違いだから良いとして、
これもペルシア語でタフシュ ??? takhsh は、「弓矢」の意味。
別名にある「ZafarNama」は「ザファル・ナーマ」だろうが、これは『勝利の書』の
意味で、ここで「別名:」と書かれているのがちと理解出来ないが、普通、
「ザファル・ナーマ」 ??????? ?afar-n?ma(『勝利の書』)と言えばティムール朝の
開祖ティムールの伝記のこと。
ティムールが晩年に書かせたニザームッディーン・シャーミーの『勝利の書』
(1402-1404年作成)と、シャラフッディーン・アリー・ヤズディーによる同名の
『勝利の書』(1425年完成)の二種類がある。

「ザファル」 ??? ?afar はアラビア語で「勝利」のこと。「ナーマ」 ???? n?ma はペルシア語で「書物」。
多分、出典か何かのことだと思うんだが・・・
943名無し三等兵:2009/06/22(月) 04:33:44 ID:???
アラビア文字とか表示出来ないのかここは・・(汗
944名無し三等兵:2009/06/22(月) 04:37:09 ID:???
>>941
まだ陸繋島で粘ってるぐらいでは
945名無し三等兵:2009/06/22(月) 05:46:51 ID:???
なぜこのスレで威力偵察だの棄民説だの出てくるのか今までよく分からなかったが
たまたまwiki見て納得したわw
946名無し三等兵:2009/06/22(月) 06:08:08 ID:???
>>933
いわゆる「神風」=台風が吹かなかったというのは文永の役の時であって、
弘安の役では東路軍+江南軍が壊滅したのは台風かそれに匹敵する暴風雨だったろう
というのが現在の有力説らしい。
(鎌倉時代中期の公卿、広橋兼仲の日記『勘仲記』に蒙古軍が風雨に見回れた翌日の
 記事に京都でも大風があったと書かれているらしく、九州北部も一週間海が荒れて
 いたそうなので、弘安の役の時には実際に台風っぽいのが来ろうと言われている)

文永の役の時は、撤退中に風雨で艦隊にかなりの損害が出たとは『高麗史』や『高麗史節要』には
出てくるが、日本側の記録でも『八幡愚童訓』では博多での合戦の翌日に、前触れも無く突如海上の
艦隊が姿を消していたという件があり、『勘仲記』も文永十一年十一月六日の条に、(博多での情勢が
この頃に都にも聞かれるようになったということだと思われているが)
「或人云、去比凶賊船數万艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國」とあり、また日記現物のその箇所の
裏書きに「逆風事、神明之御加被歟」とあって「逆風は神明の加護か」と蒙古が退いたの確からしいが
かなり伝聞的な内容で撤退した状況については漠然に語っている。『一代要記』など他の同時代の
資料でも蒙古軍撤退の件では風雨があったような書き方はほとんど見られないらしい。
『勘仲記』にしても「逆風」とは言うが『高麗史』にあるような「大風雨」的な艦船が転覆するような
強い風雨のような表現はしていない。

文永の役での博多での合戦は旧暦の十月二十日で、今の暦だと11月25日と11月も末くらいになるため、
時期的に台風の類いがあったとは考えにくい。そのため、現在では文永の役のときに台風の類いが
あったかは否定的。もしかしたら突発的に海が荒れたため、それで「戰艦觸巖崖多敗」のような
状況になったかも知れないが、少なくとも台風とは考えにくい、ということらしい。

スレを読んでいて、文永の役の時の話をしているのか弘安の役の時の話をしているのか、
両者を一緒くたにして話をしているのか、時たま良く分からなくなるんだが・・
947名無し三等兵:2009/06/22(月) 09:05:52 ID:???
弘安の役で元軍はなぜ台風シーズンまで海上にいたのですか?
948名無し三等兵:2009/06/22(月) 10:59:49 ID:gT/FxWlc
効率よく棄民するために大ハーンが命じたからです。
949名無し三等兵:2009/06/22(月) 11:08:55 ID:ji1RGuDj
全員〜船酔いのためダウンそこに長旅の運動不足で
戦えるわけないよな
950名無し三等兵:2009/06/22(月) 11:41:49 ID:2f6eXSeL
大ハーン様の半島の始末のしかたが甘かったのですな。

後世のチベット並みに手入れなされておれば
951名無し三等兵:2009/06/22(月) 11:48:20 ID:???
>>945
それこそ20年以上も前からたいていの本でその2つは書かれてる
図書館で元寇関係の本片っ端から見てると出るわ出るわ
952名無し三等兵:2009/06/22(月) 12:32:08 ID:???
>>951
高麗史の中で背水の陣がどうたらこうたらいうくだりがあるそうだけど
それが事実なら威力偵察ってのはおかしいよねぇ
953名無し三等兵:2009/06/22(月) 12:55:34 ID:/Bi5LuLW
そもそも何を偵察したのか全く不明。
沿岸をちょろっと荒らしただけで
一日で帰るなんて

敵の本拠地大宰府をおがむことすらできてないし
本土からは動員途中で、地元の兵士数千名足らずとしか戦ってないので
敵の動員能力も全く不明

次の遠征まで間が大分空くしな
954名無し三等兵:2009/06/22(月) 12:58:22 ID:/Bi5LuLW
文永が本当に計画どおりなら
こんなのに3万もつぎこむのは
経済観念の欠落したただのアホ
3000名もいれば事足りる
955名無し三等兵:2009/06/22(月) 13:02:39 ID://uG75O9
どうも戦力についてはわからんことが多い
たとえば壱岐に上陸した元の兵は千人とかいう話もある
博多にしても全員が上陸したかはっきりしない
956名無し三等兵:2009/06/22(月) 13:39:06 ID:???
仮に計画通り威力偵察だとしたら、元軍が日本軍の軍事力を相当高評価したことになる。
14万もの大軍を弘安の役で差し向けたのが何よりの証拠。まあ文永の役で左副元帥の劉複亨
が上陸初日で重症を負ってるほどだから、元軍が文永の役で計画通りことを運んだ
なんてことは普通に考えるとないがな。
957名無し三等兵:2009/06/22(月) 13:41:59 ID:BBqvS6wo
>>949
渡海して朝鮮瞬殺して明ボッコにした戦国武将達はすごいなあ(棒)
958名無し三等兵:2009/06/22(月) 13:50:39 ID:E25p0wxy
あれは双方痛み分けっぽい
959名無し三等兵:2009/06/22(月) 14:20:46 ID:???
まあね。でもほぼ同じ規模の軍勢だったのに
元軍より遥かに大戦果を挙げたのは事実でしょ。
960名無し三等兵:2009/06/22(月) 15:17:41 ID:???
痛み分けではあるんだが、上陸を成功させた上、築城して長い間大軍で居座ったのは事実。
元軍は拠点を築けてすらいない。
961名無し三等兵:2009/06/22(月) 15:57:27 ID:???
結局文永と弘安って兵力の逐次投入って考え方で良いんじゃないの
威力偵察とか棄民とか無理矢理こじつけるんじゃなくて
文永の時は南宋が残ってたから兵力的には4万ぐらい
弘安の時は南宋も降伏後だからそこからも動員して14万ぐらい
ただ幕府軍も馬鹿ではないんでその間に防塁築いて待ち受けていたと
文永の時幕府軍を舐めてたのは間違いなさそうだけどそれはそれとして
962名無し三等兵:2009/06/22(月) 18:39:38 ID:???
逐次=順を追って次々と
八年も時間があいたらもう逐次じゃないじゃん
難しい言葉を濫用しても馬鹿を晒すだけ
963名無し三等兵:2009/06/22(月) 19:43:00 ID:???
一連の流れがわかり易く書かれてるサイト

http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/59075424.html

文永の日本兵力が5375人ってのは本土防衛戦史元寇が根拠だったようだな
いろいろと想像だけで書かれてるからなあれ
964名無し三等兵:2009/06/22(月) 21:57:31 ID:???
>>862
「日本国皇…とでも」は「とでも」で適当ですから、
本題は日本が国王宛の牒を受理しないのが国是だったというとこですから。

なるほど、ベトナムの陳朝や日本でも「皇帝」を使ったなど詳しいのですね。
そこで、
なら何故>>664なのか
>「考えておきます」とかいう穏当な感じじゃなくて、
「絶対返事しないで下さい!無視です、無視!」 という感じで朝廷の返牒案を止めさせたらしい。
>ただの「蒙古なんぞガン無視!」とかいうことだけではなくて、
幕府権力を日本の国制上でどこまで伸長させるかという問題も絡んでいたようで

知ってて幕府陰謀論のため伏せたのか?
965名無し三等兵:2009/06/22(月) 22:06:12 ID:???
>>961
あの程度の規模だと何回波状攻撃仕掛けても一緒な気がする
966名無し三等兵:2009/06/22(月) 22:19:28 ID:???
>>925
どう戦うべきかではなくどう戦ったかでしょ。
この板で既出だがクロスボウと弓にはそれぞれ長所短所があり、
弓主体の装備からは「弓の長所を使った戦術を考えていたのだろう」と推測できるのだから、
弓主体の装備=負けるのが目的、とはならない。

>西南の役でも「刀のみの部隊もある」と「鉄砲抜きで蜂起」では
弓の方が熟練が必要なので弓装備を「棄民すれすれの弱兵」の根拠にするのは全く見当違いということ。
武器の威力が弱い=弱兵、とはならない。

>野戦築城
平戸に作ってる。それで「農具を持った棄民」から「棄民すれすれの弱兵」にトーンダウンしたんだよ。
海岸に築城して防御兵器で守っても兵糧がなくなるだけで戦役の勝利になんら寄与せず、大宰府を攻めて落とさなきゃ勝ちはない。

>ソ連の懲罰大隊
負ける為の部隊ではなく損害を顧みず勝つ為の駒なんだよ。
元寇でも被支配の兵=負けてもいい、とはならない。
967名無し三等兵:2009/06/22(月) 22:31:11 ID:???
弓そのものは中国朝鮮では普通に熟練者から底辺の兵まで使う標準的な装備だな
熟練者の武器な日本とは違うだろうな
968名無し三等兵:2009/06/22(月) 22:50:50 ID:???
>>962
言葉尻しか捉えられない馬鹿だなぁ
程度低すぎるわ
969名無し三等兵:2009/06/22(月) 23:00:28 ID:qI8KhOBR
>>965
4万も渡海しといて「あの程度」はない。
幾らかかってるんだ?アレ。
14万も動員した二回目に至っては・・・

あれで失敗するんだから20万でも30万でも一緒。
大軍を揚陸できそうな博多正面は完全に固められてるし
志賀島戦に始まる一連の戦いは、場所が小さすぎて
総数がいくら増えようが戦闘に参加できる兵力は変わらない。
船に缶詰になって台風の藻屑になる人間が増えるだけ。
元が日本に比べて相対的に雑魚すぎたということだ。
970名無し三等兵:2009/06/22(月) 23:04:48 ID:ZKG2UTX1
10万のほうは来たと同時に台風でしょ
実質1回も2回も兵力は同じだね
971名無し三等兵:2009/06/22(月) 23:05:07 ID:???
>>968
モンゴルとコリアの祭りで弓を射ってたが手首返していて素人には無理そうだったが、宋はどうだろうか。
クロスボウと弓を比べどちらが熟練が必要かというと弓でしょう。
972名無し三等兵:2009/06/22(月) 23:25:45 ID:???
だいたい弓兵の割合は3割とみた
973名無し三等兵:2009/06/22(月) 23:49:59 ID:???
>>890
漢文の読みとは話が違う。
890が解ってないので説明すると
>>844
>『高麗史』は文永の役についての記述は金方慶伝が最も記述の分量が多いが、
高麗軍の指揮官「金方慶」の「伝」だけあって、
金方慶に縁のある高麗人の将校たちが活躍したことを述べはするが

活躍と解釈しているが「力戦する」ならともかく「殊死して戦う」では印象が違う。
例えば金方慶伝に三別抄を破った場面で「殊死して戦う」がある。
「方慶士卒殊死戦矢石倶盡又皆中矢不能起」
「方慶士卒殊死して戦い矢石(しせき)ともに尽き、また皆矢にあたり起きる能わざる」
とそうとうの激戦だ。

金[イ先]が溺れたところは『高麗史』、金方慶伝、『高麗史節要』
を出しているのだから『節用』の「殊死して戦う」を知らないとは思えない。

>金方慶伝が最も記述の分量が多いが…
以下の流れで「方慶伝」にしか記述がないよう錯覚させ、
「力戦」のみ切り抜き活躍と解釈したのではないのか。
「殊死して戦う」は威力偵察説に都合が悪いので伏せようとしたのではないのか?
974名無し三等兵:2009/06/23(火) 08:09:50 ID:???
>>940

5月21日 元軍対馬襲う
6月06日 元軍博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 元軍海上へ撤退
6月13日 元軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の元軍に追撃
7月02日 元軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 島津長久軍+松浦党らと小競り合いを繰り返す
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
975名無し三等兵:2009/06/23(火) 08:16:54 ID:???
976名無し三等兵:2009/06/23(火) 09:32:10 ID:bVhKacyL
>>974
どう見ても鎌倉武士の圧勝やん。
これがどうして台風のまぐれ勝ちになるの?
977名無し三等兵:2009/06/23(火) 09:57:34 ID:???
>>976
台風のまぐれ勝ちではさすがに苦しいので、最近では弱兵とか棄民ということになってますwww
結果として日本側より弱かっただけで、別に元軍が弱兵として送ってきたわけではないのですが。
978名無し三等兵:2009/06/23(火) 13:37:28 ID:???
次スレ

元寇総合スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1245701930/

次は日本史板でやるのがいいと思う
日本史板が正スレで歴史難民が副スレ

軍事板は基本近代以降なのと人が分散しないよう
これで打ち止めにしよう
979名無し三等兵:2009/06/23(火) 13:39:01 ID:???
>>977
弱兵とか棄民ってのはそれこそ20年も前からあって
たいていの本に書かれてたりする
最近になって出てきたわけではないよ
980名無し三等兵:2009/06/23(火) 14:02:09 ID:???
勝因は神風説なんかも含めて戦後になって言われたことだな。
981名無し三等兵:2009/06/23(火) 14:51:01 ID:???
>>981
確か、GHQ主導でできた歴史教科書「くにのあゆみ」からだったっけ?
982981:2009/06/23(火) 14:52:40 ID:???
981じゃなくて、980へのレス。ミスったorz
983名無し三等兵:2009/06/23(火) 17:48:05 ID:???
まあ戦後をひっくるめて最近といってもいいかも知れんね
GHQから日教組がある時代とない時代では元寇に関する見方が全然違うわけだし
984名無し三等兵:2009/06/23(火) 19:42:41 ID:???
棄民はそうでもないが、弱兵というのは30年ぐらい前の書籍でも多かった
モンゴル人が皆無に近く中国人や高麗人ばかりだと、当時の本もそんな認識

朝鮮征伐の秀吉軍と比べると、そんな弱兵にボコにされた武士ってどれほど弱かったんだと呆れたな
985名無し三等兵:2009/06/23(火) 20:56:38 ID:???
>>978
それでいいと思う。
元々このスレは荒れ気味だった日本史板のスレの
避難所みたいな感じだったし
986名無し三等兵:2009/06/24(水) 00:18:13 ID:???
興味あるやつは勝手に日本史板に行くしな
987名無し三等兵:2009/06/24(水) 00:32:11 ID:???
戦国板にもある
988名無し三等兵:2009/06/24(水) 11:16:33 ID:???
楳図かずお
989名無し三等兵:2009/06/24(水) 13:02:42 ID:w/yWUVch
じゃあ
あとは埋めて日本史板な
990名無し三等兵:2009/06/24(水) 13:04:03 ID:w/yWUVch
産めよ
991名無し三等兵:2009/06/24(水) 13:05:20 ID:w/yWUVch
増やせよ
992名無し三等兵:2009/06/24(水) 13:19:55 ID:???
992
993名無し三等兵:2009/06/24(水) 13:37:08 ID:???
高麗兵とモンゴル兵は捕らえ次第打ち首
南宋兵は助けてやっても良い
994名無し三等兵:2009/06/24(水) 19:13:21 ID:???
さて、積んであった井上靖の「風濤」でも読むか。
995名無し三等兵:2009/06/24(水) 19:37:59 ID:???
995
996名無し三等兵:2009/06/24(水) 20:00:17 ID:oEC1Kgyx
うんこ
997名無し三等兵:2009/06/24(水) 22:10:26 ID:???
ほんのつい最近、クビライ側の国書についての新資料が(再)発見されたらしいんだが、
(この間まで自分も知らなかったけど)分量が多いのでテキストファイルに打ち込むのは
えらく骨が折れるし、最近のスレの雰囲気も微妙で資料の内容も今更な感じもするので、
しばらくこの事は手を付けないで置こうかと思う。(もう1000になっちゃうし)
998名無し三等兵:2009/06/24(水) 23:35:16 ID:umvwrnBe
999名無し三等兵:2009/06/24(水) 23:42:32 ID:???
1000名無し三等兵:2009/06/24(水) 23:44:31 ID:???
さすが軍板
1000取り合戦なんてしないんだな

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