元号が昭和から平成に変わって数年を経たころ、防衛庁(当時)技術研究本部のそこかしこで小さな声が聞こえ始めていた。「21世紀の航空戦をにらんだ次世代の国産戦闘機をつくろうではないか・・・・」
とはいえ、当時、防衛庁・自衛隊の主力は「現代の零戦」と期待を集めながら、
米側の圧力で日米共同開発に落ち着いた次期支援戦闘機(FSX)の量産問題にかかりきり。
1980年代後半にぼっ発したFSX紛争を通じ、国産・自主開発派の間には言い切れぬ敗北感も漂っていた。
後に技術研究本部の航空機開発担当技官となる林富士夫(元空将)も中堅として、そんな庁内の空気を肌で感じる一人だった。
日本のハイテク技術を結集させるはずだったFSX。だが、激化する日米貿易摩擦の影響もあって日本政府は86年10月、
米国との共同開発に同意している。日米合意を受け、その機体班長となった林はFSXの企画当初から米国による横やりを懸念していた。
その頃、林が最も警戒していたのは、最終的にFSXのベースとなる米ゼネラル・ダイナミックス(GD)社製戦闘機、
F16の特別バージョンである。
林ら国産派は米側が売り込んできそうなF16やF18といった機体のスペックを押さえ、
これらでは満足できないような要求基準をFSXに盛り込んだ。
これにより米側の売込みを封じ込め「国産しかない」という結論を導き出そうとした。ただ唯一、
懸念としていたのが「GD社内で独自開発していたF16XLという機体」(林)だった。
このF16XLは通常よりも翼が大きく、国産派が設定した要求基準をすべて満たす。
苦肉の策として米側への質問書に「大型改造をしてはいけない」と注文をつけた。だが、結果的に林の悪い予感は的中する。
結局、FSXはF16をベースに「大型改造」することで決着したからである。
FSXでの苦い経験を踏まえ、「先進技術実証機(ATD-X)という名を与えられた未来の戦闘機には考えうる最先端の技術を盛り込もうとした。
敵レーダーに感知されにくいステルス性能。運動を実現するフライト・コントロール・コンピュータ(FLCC)・・・・・・