南雲忠一中将を再評価するスレ(呂)

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817GF長官
>>807の続き

昭和12年、伊藤大尉は欧州出張中に「独海軍が、夜間電波を使って測距
できる装置を開発した」という情報を聞き、駐独武官の小島秀雄中佐に報告。
「それが事実とすれば夜戦に革命的な変化がおこる。夜戦を得意とする
日本海軍も手をこまねいているわけにはいかない。私から中央に報告して
おこう」。だが、艦本の反応は鈍かった。

ところが、昭和14年になると突如「電波兵器の開発」を指示。
理由は、「陸軍の技研が電探の開発に着手したらしい」から。
ここでも「陸海共ニ争ヒテ、余力ヲ以ッテ米英ニ当タル」・・・

昭和16年5月、独戦艦ビスマルク追撃戦において、電波兵器を駆使した
砲撃戦が行われたという情報が入り、本格的に対空見張用電探の開発に
乗り出す。

ようやく完成した電探は「一号一型」と名づけられ、勝浦(千葉)や衣笠
(神奈川)などに設置されたが、誤作動が多く、昭和17年4月18日の
ドゥーリットル帝都空襲では、接近するB−25編隊を捉えることが出来
なかった。(後に改良型「一号二型」に置き換えられた)