自分が軍ヲタであることを自覚する瞬間 8回目

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891名無し三等兵
大学時代、イギリス文化史の時間に絵画に関するビデオを見せられた。
美術に興味がなかった俺は話半分に聞いていたのだが、とある絵画のタイトルに心を引かれ、その解説が進むにつれて涙腺が緩み、涙が溢れ、
最後にはスクリーンに映るその絵に対して、直立し敬礼を贈ろうとさえ思った。

美術に詳しい人は分かるだろう、その絵画の名は「解体のため錨泊地に向かう戦艦テメレール号」。

戦艦テメレール。
かつて栄光の風を万帆に受け、荒波を裂いて駆けた海の王者。
そして砲煙弾雨に傷つき、機械文明の波に打ちのめされた老英雄。
時代に追われたテメレールに残された最後の泊地は、解体場であった。天を仰ぐ3本マストに帆布はもはや翻らず、自らよりもずっと小さな蒸気船に曳航されるその姿は
落日の淡い光の中に霞み、まるでまどろみの中に過ぎ去った日々を懐かしむかのよう。水面に映る像もぼやけ、今にも水底へ溶けてしまいそうである。
一方小さな蒸気船は機械文明の力を誇るかのような力強い色使いで描かれ、自然に対する人間の凱歌のごとく排煙を靡かせる。
だがその船体に落ちるどこまでも深く暗い影は、後に凄惨な公害と格差社会を生み出す産業革命の災禍を暗示しているかのようだ。
沈む太陽は夕雲と水面とを柔らかな光で満たし、疲れ果てた戦士を慈しみ、帆走戦艦という一つの時代の終焉を看取らんとしている。
しかしこの一枚の絵の中でもっとも大きな面積を占める海、空、そして陽光は、人間の力が決して及ばない自然の雄大さを見せ付け、
死すべき定めの人間への、そして生まれては消えゆく時代への哀れみをも内包している。
事実、蒸気戦艦の時代も、否、戦艦の時代もまた泡沫の夢に過ぎなかった。
1944年、武蔵沈没。1945年、大和沈没。鋼鉄の装甲と46cmを超える巨砲で身を包んだ世界最大の戦艦も、また永遠に海の王者たり得はしなかった。
すべてはテメレールを包むあの光のごとき、黍一炊の夢であった。
戦艦テメレール。
それは暮れゆく黄昏の中に沙羅双樹の花の色を、打ち寄せるさざ波の中に祇園精舎の鐘の声を描いた、無常観の極致なのである。