730 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/07(日) 22:31:34 ID:HmFIn1ej
>>727 >>尊氏は陸軍か・・・ 廣田は陸軍怒らす事だけはホント上手いな・・・
おっしゃる通りですけどw。ちょっと他の人に補足が必要ですね。言うまでもなく
戦前の足利尊氏は、後醍醐天皇に弓を引いた『逆賊』として非常に評判が悪い人物
な訳です。これは戦前の国定教科書にも大書してあります。広田内閣から2代前の
斎藤実内閣(広田が外相を途中から務める)の商工相・中島久万吉は●「足利尊氏を
礼賛した論文を書いた」と野党に糾弾され、辞任する羽目になります。
まあ滅茶苦茶な例えですが、現在の『田母神論文』みたいな扱いを受けた訳ですw。
もちろん戦後は、吉川英治の『私本太平記』(足利尊氏が主人公)がベストセラーに
なりまして再評価されています。広田は国会演説で、自分の首相就任にあたっての
心境を『楠木正成』に例えた訳ですが、天皇に仇なす逆賊(足利尊氏)が誰である
かは分かりきったことでしょう。
しかし「2・26事件」という未曾有の不祥事を起こして、天皇の優諚も降下した以上、
陸軍は何を言われても文句を言える立場ではありません。であるからこそ、組織防衛に
必死になる訳です。下手したら「陸軍から首相を出す」とでも言い出しかねないでしょう。
731 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/07(日) 22:45:28 ID:HmFIn1ej
テレビで「派遣切り」の特集がやっていますが、見ていて背筋が寒くなります。
トヨタを筆頭に3万人って何じゃらほい。自分は愛知県出身なのですが、今まで
どんなに不景気でも「トヨタのお膝元の愛知県だけは大丈夫」と言われており
ましたが、この分では実家に帰っても仕事は無さそうですw。
3万人たら小さな市町村がまるまるです。しかし先週の金曜日の夜は、アメリカの
雇用統計で失業者が先月から50万人も増えて「ダウ終わた――!」と、日本株を
持ち越してしまった自分は涙目になったのですが、引けてみれば250ドル超上げて
います。これには空いた口が塞がらず、アメリカ人を株板では「プリオン」と呼んで
いるのも思わず納得です。狂牛病で脳がスカスカになっているという意味ね。
どんだけアイツらは楽観的なのでしょう。
732 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/07(日) 23:09:08 ID:HmFIn1ej
>>727 >>廣田は陸軍怒らす事だけはホント上手いな・・・
とは言っても、そこは広田弘毅です。満州事変時や毎年トラブル続きの漁業交渉など
胃に穴が幾つも空く様な「ソ連大使」を及第点以上に務めています。驚異的な粘り腰
こそが広田の真骨頂な訳です。陸軍に対しては内心ハラワタが煮えくりかえっている
でしょうが、首相となった広田にとって今度の『外交の相手』は陸軍でした。
駐支公使館を「陸軍の意向」を全く無視して大使館に昇格させ、かえって北支
分治工作の激化を招いたのと「同じ轍」は踏みたく無かったでしょう。ですので
広田は側近に対して、以下のようなことを語っています。
●「軍部は野放しの暴れ馬だ。それを止めようと真っ向から立ち塞がれば、蹴り
殺される。かといって、そのままにしておけば何をするか分からん。だから正面
から止めようとしては駄目で、横から飛び乗ってある程度、思うままに寄せて
抑えていく他はない。もっともこの馬には鞍(くら)もなく、飛び乗るのが大変
だし、裸馬だからいつ振り落とされるかも知れん。しかし誰かがやらなくちゃ
いかん。そう思って自分は飛び乗ったのだ――」
スレ違いですが、ちょと続けて。
「首都圏でも、北は大宮、東は千葉、南は横浜等のターミナル駅を中心とした
半径約30km.以遠と、西は八王子あたりを輪郭とした、都心部経済から
取り残されて急速に衰退しつつある地域がドーナツ状に広がりつつある」
と、一年くらい前に考えており、それらの地域に住む者や自治体に勤務する者、
その手の研究職についた友人に雑談旁々話したところ同意を得たことがあります。
地方都市がその人口と経済の中で活力を維持できていた(というかピーク)は1980年代ですが、
その後はそれまで以上に「売り」のない都市は生産人口が減少して産業が衰退し、
それが人口流出につながり、と悪循環の中で寂れてしまうんでしょうね。
734 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/07(日) 23:59:04 ID:HmFIn1ej
>>730 >>しかし「2・26事件」という未曾有の不祥事を起こして、天皇の優諚も
>>降下した以上、陸軍は何を言われても文句を言える立場ではありません。
戦前というフィルターが掛かっているので事件の重大性が今いちピンと来ないかも
しれませんが、現在に例えれば、自衛隊の一部隊が決起して首相官邸の麻生太郎を
襲撃、財務大臣の中川昭一を***……。まあ、止めておきましょうw。
>>732 >>首相となった広田にとって今度の『外交の相手』は陸軍でした。
外交官出身の人物で憲政史上初めて「首相」になったからには、自ら外交をリード
していきたいという希望は、広田に大いにあったでしょう。しかし、前述のように
首相になったからには、広田の『外交の相手は陸軍』など軍部であり、不慣れな
内政にも力を注がなければなりません。というか、『粛軍』が最優先事項ですし、
マトモな国会運営のために忙殺されることでしょう。
という訳で、首相の広田の代わりとなる『外相』を決めなくてはなりません。
広田は自身の外相時に、駐ベルギー大使から駐支大使へ抜擢していた有田八郎を
さらに外務大臣へと抜擢することに決めました。
735 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/08(月) 00:23:48 ID:PtuSLnMa
>>733 >>地方都市がその人口と経済の中で活力を維持できていた
>>(というかピーク)は1980年代ですが、
最近、「東京湾アクアライン」を使って木更津に行く機会があったのですが、
高速バスから降りてみて、あまりの寂れ様に絶句しました。よく経済が回って
いるものだと。しかも更なる高速バスの値下げ問題に揺れているそうで、バスが
値下げされると都内に出やすくなり、ますます地元に金が落ちなくなるとか…w。
>>734 >>という訳で、首相の広田の代わりとなる『外相』を決めなくてはなりません。
本当は自分が「首相と外相を兼務」できれば最善ですが、仕事量からいって現実問題、
不可能でしょう。田中義一なんかは首相と外相を兼務していましたが、田中はああいう
人物ですから、外務省の仕事は『猟官運動』で次官の座を得た吉田茂に全て任せきりの
状態でした。まあ、陸軍からの横槍で「組閣問題」に揺れた広田内閣では、1ヵ月ほど
広田が外相を兼務していたのですが、田中のように外務次官に丸投げするのは健全な形
ではありません。どうせ、外交活動を任せなければいけないのなら、きちんと外相を
決めた方が良いのは自明なことでした――。
737 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/08(月) 00:53:48 ID:PtuSLnMa
>>734 >>という訳で、首相の広田の代わりとなる『外相』を決めなくてはなりません。
ところで本当は、広田弘毅内閣の外相は同期入省で『盟友(腐れ縁)』の吉田茂が
就任するはずでした。近衛とともに広田に首相に就任するよう説得に当たったのも
吉田でしたし、一蓮托生でその責任を取るうえでも自然な流れだったでしょう。また、
外相就任はイタリア大使を最後に「依願免本官」して浪人状態だった吉田にとっても
「さあ来た!」という思いだったと思われます。むしろ、そのために広田を首相にと
画策したような気さえします――。
しかし吉田茂は「自由主義者だから」と陸軍からイチャモンがついて、外相就任は
結局流れてしまいました。もし吉田が広田内閣の外相だったとしたら、日本の歴史も
大きく変わったと思うのは自分だけでしょうか。良い方か悪い方か、知りませんが
とにかく、何かしら「大きな分岐ルート」に入っていったと思えてなりません。
さて吉田茂が陸軍から忌避された理由の1つには、広田との関係にまつわる小話
というかエピソードがあります。広田も吉田と同じく、閑な時期というものが
ありまして1933年にソ連大使から日本に帰国して待命となり、斎藤実内閣で
外相に就任するまでの期間でした。
738 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/08(月) 01:12:28 ID:PtuSLnMa
広田はその閑な時代に『大亜細亜教会』の設立委員になっておりました。これは
満州国の出現を受けて、皇国日本の指導のもと「大亜細亜連合の結成」を目指す
というアジア主義的な団体でした。「玄洋社」と関係の深い、いかにも広田らしい
と言えば、らしいのですが――。
何という怪しげな団体と思われるかもしれませんが、「大亜細亜協会」の設立
委員は広田のほかに、恒例の近衛文麿w、ジャーナリストの徳富蘇峰、外交官の
白鳥敏夫、また陸軍人では、支那通の大御所の松井石根、本間雅晴、鈴木貞一、
海軍人では、末次信正、石川信吾ら、合わせて40人が名前を連ねました。
とくに当時、中将で軍事参議官だった(同年、大将に昇進)松井石根が重要な
役割を担ったのは言うまでもありません。広田は外相に就任するまで、この大
亜細亜協会の評議員を務めており、斎藤実内閣で外務大臣になるとその祝賀会が
協会でも開かれました。松井は広田を気に入って、近衛文麿によく「外務大臣は
変えた方が良い。広田などどうだろう?」と推薦していたと云います。
739 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/08(月) 01:46:51 ID:PtuSLnMa
広田は他にも、政党政治に批判的な『国維会』の理事も務めております。
この時期、広田は湘南・鵠沼の別荘に暮らしていたのですが、足しげく
東京まで足を伸ばしていました。
ちなみに『国維会』は、思想家の安岡正篤をイデオローグとしておりまして
「日本精神」によって国政を刷新しようとする団体でした。政党政治の腐敗
が「政権争奪戦」となる弊害を批判しています。そして、またまた同じ理事に
当時貴族院の副議長だった近衛文麿も名を連ねており、広田と近衛の関係も
こうしたところから深まっていきました。
まあ、たまに広田弘毅が●「政党政治に執着がない」(軍部大臣現役
武官制もさしたる抵抗をせずあっさり認めてしまった…etc)と批判
されるのも、玄洋社絡みだけでなく、こうした団体に所属していた
ことが理由に挙げられるのでしょう。
まあ、脱線話が長くなりましたが、広田弘毅は「盟友(腐れ縁)」の吉田茂を
上記の「大亜細亜協会」へ熱心に誘い出しておりましたが、吉田はあまりの
「アジア主義的」な傾向に閉口して、大亜細亜協会に出席しなくなりましたw。
この辺りが、軍部や右翼から毛嫌いされるようになった1つの要因だったと
吉田自身が追想しております。
いまドキュメンタリー番組で『トリアージ――命の選別』を見ていますが、
なかなか良テーマですね。秋葉原で起きた大量殺傷事件で重傷患者の「搬送
優先順位」を色タグを付けて『選別』した訳ですが、黒タグは「救命不能」と
判断され、病院に搬送されるのも後回しになります。(赤タグは最優先)
なぜ自分の息子は、早く病院に搬送してもらえなかったのか?
本当に十分な救命処置をしてもらえたのか?
まあ戦場でしたらガンガン、「黒タグ」を付けていくのでしょうけど。
>740
将校に介錯されたり手榴弾渡されて置いていかれるよりましだよな・・・
この手の優先順位って、漏れた人間の関係者には気持ちは分かるが諦めろとしかいえない
>737
>吉田が広田内閣の外相だったとしたら、日本の歴史も
>大きく変わった
陸軍と喧嘩してあっさり内閣瓦解に一票
743 :
俄将軍:2008/12/08(月) 06:35:43 ID:???
満州事変は、陸軍ではなく、外務省が満洲での夜郎自大が、根本原因、ということになるのか、
などと、嘯いてみたり。
「在支公使館の大使館昇格」というのは、日本国内の陸軍、外務省などの権力闘争といったよ
うな矮小な問題ではなく、日本国以外の諸外国も、在支公使館を大使館に昇格させた、とい
うことになると、大日本帝国の国益にとって、百害あって一利なく、マイナス以外の何も
のでもない、といったような結末になるであろうことは、火を見るよりも明らか、とい
うことになるのか、などと。
>>741 『遠すぎた橋』では、軍医に見捨てられたのを銃で脅して強引に治療させ、生き延びのがあったよねぇ…
要らんコテ犯壱号が久々に湧いてきたが、どうせスルーできないんだろうなあとちとすでに絶望気分
そういや最近ネットの左巻きの人を中心に「トリアージ=ホロコースト」論争ってのもあったなぁ
苺の経済学板にまでスレ立ってて何かと思ったが
スレ/板違い承知でトリアージ話に便乗すると、
こないだ防災士の講習で習ったトリアージの基準は
「頭部切断等、明らかに死んでると認められる場合、
もしくは死後硬直が認められる場合」だった。
因みに後者が基準となる理由は、「良く動く筋肉程死後硬直が早い
=心筋が一番良く動くので、その他の筋肉(顎が一番早い)が硬直する時、
既に心筋は完全に硬直してるので蘇生不可能」と言う事らしい。
しかし問題はそうした基準が、災害医療に関心のある一部の医師や、
監察医(都内では全6名)を除き余り周知されてない事である。
ただでさえ災害直後の混乱下、
付け焼き刃の知識すらない医師が大半を占める状態で、
トリアージが適正に行われるか否かは甚だ心もとない。
なんつーいい加減な講義だwwww
秋葉原のトリアージで一番問題になった判断要素は
「外傷性の心肺停止は9割9分蘇生しない」というものだった。
そしてそれに近い状態、即ち呼吸が止まり、心拍も極めて微弱な場合や
逆に心拍がとまり、呼吸も殆どない状態も、外傷性なら自然快癒する見込みは
全くないため移送中に死亡する可能性が極めて高く、赤タグ扱いとなる。
まぁ、戦場じゃ普通に死んでる状態だわな。
赤タグじゃない・・・。
間違えた。
つかよ、切り傷刺し傷や鉄砲傷による出血多量のケースが多い大規模犯罪現場
/戦場でのトリアージと、
家屋/家具倒壊の下敷きによる圧迫や窒息のケースが多い
(阪神大震災では8割)のトリアージでは、自ずと基準が異なるんだが。
751 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/09(火) 01:39:37 ID:p7YkbpIP
>>741 >>将校に介錯されたり手榴弾渡されて置いていかれるよりましだよな・・・
昔、読んだインパールかどこかの戦記ですが、担送患者が「すまんなあ、すまんなあ……」
と運んでくれてる人に謝り続けるんですよ。状況が状況ですから運ぶ人もフラフラな訳で。
だんだん自責の念に耐えられなくなって、「用を足してくる」とジャングルの茂みに入って
手榴弾で「ボカン」。運んでいた方も「畜生! 死ぬ思いで、ここまで運んでやったのに」
と怒るんですが、体力を消耗したその人も次の担送患者になって延々とループに。てな事を
なぜか思い出しました――。
>>この手の優先順位って、漏れた人間の関係者には気持ちは分かるが諦めろとしかいえない
まあ、ねえ。それで救急救命士とかが訴えられたら、やり切れんことこの上なしです。
自分が遺族の立場になったら、絶対納得できないのでしょうけど。しかし現場では
絶対に、齟齬、無駄、ミス、誤解、が生じる訳で、全部それらを無しでやれ、という
のは無理と思います。株で「最安値」で買って「最高値」で売り抜けろ、と同じです。
しかも秋葉原に行く人は分かると思いますが、現場は最も人だかりができる場所です。
752 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/09(火) 01:57:38 ID:p7YkbpIP
>>745 >>要らんコテ犯壱号が久々に湧いてきたが、どうせスルーできないんだ
>>ろうなあとちとすでに絶望気分
もう少し分かりやすく書いてくれたらレスする気にもなるのですが、文量を
増やすために、わざわざ回りくどく書いているとしか思えません。「という」
は可能なかぎり削るのが短く読みやすい文章の第一歩です。割と自分の文章の
初期のお手本は、別宮翁の文章だったりします。あのやたらと、断言口調のw。
>>747 >>付け焼き刃の知識すらない医師が大半を占める状態で、
>>トリアージが適正に行われるか否かは甚だ心もとない。
トリアージの知識も一般に普及してくると、負傷者が早く治療を受けたいが
ために自分で「色」をいじってしまったり。日本だと「もぎ取り式」なので、
緑色の人は千切って黄色に、黄色の人は千切って赤色に。でも最初から黒色
(手遅れ:もっとも治療の優先順位が低い)の人は、どうしようもないですw。
まあ、意識も無いのでしょうけど。
意識があって黒札つけちゃったら・・・
そりゃダメだろ・・・
754 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/09(火) 02:16:03 ID:p7YkbpIP
>>750 >>家屋/家具倒壊の下敷きによる圧迫や窒息のケースが多い
>>(阪神大震災では8割)のトリアージでは、自ずと基準が異なるんだが。
福知山脱線事故もトリアージが使われたそうですが、どうだったんでしょうか。
昨日、テレビで久しぶりに「現場の映像」を見ましたが、今見ても酷すぎます。
>>そういや最近ネットの左巻きの人を中心に「トリアージ=ホロコースト」論争
だったら「どないせえ」というんでしょうか。そういえば、昨日の番組のサブ
タイトルも「命の選択」ではなく「命の選別」でした。1文字でも大違いです。
>>742 >>吉田が広田内閣の外相だったとしたら、日本の歴史も大きく変わった
>>陸軍と喧嘩してあっさり内閣瓦解に一票
まあ、そりゃそうなんですけど、広田と吉田の「二人三脚」というのは果たして
可能だったのかなあ、と思う訳ですよ。水と油で即、喧嘩別れか、逆にお互いの
足りない面を補完しあったのか……。『相棒』みたいになったら腐女子がネタが
増えたと泣いて喜びますw。
>>753 >>意識があって黒札つけちゃったら・・・ そりゃダメだろ・・・
そりゃそうでした……orz.
756 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/09(火) 02:28:47 ID:p7YkbpIP
>>742 >>吉田が広田内閣の外相だったとしたら、日本の歴史も大きく変わった
>>陸軍と喧嘩してあっさり内閣瓦解に一票
まあ、吉田茂が外相になれたのは、広田弘毅が外相になった年の10年後
なんですよねえ。広田が1935年9月14日(斎藤実内閣)で、吉田茂が
1945年9月17日(東久邇宮内閣)です。3日違いで惜しい! 日付まで
同じだったら1つの話のタネになるんですけど。でも、運命的なものを感じる
のは自分だけでしょうか。
>754
まあホロコーストもトリアージも命の選別ではあるんだけどね。
ただ、殺すものを選ぶのと助けられる人を探し出すのは180度違うどころか同じ質的次元にはいないわけで・・・
ホロコーストは語源的にはスケープゴートと同じなのに、大量殺人って現象面だけ見て原爆や戦略爆撃と混同しちゃう連中だからまあいつものことではあるんだがひどいやね。
より悪質で悪意まであるが・・・(ホロコースト=虐殺行為全般ってのは大半無知だろう)
>>739 >>広田弘毅は「盟友(腐れ縁)」の吉田茂を上記の「大亜細亜協会」へ熱心に
>>誘い出しておりましたが、吉田はあまりの「アジア主義的」な傾向に閉口して、
>>大亜細亜協会には出席しなくなりましたw。
_
_....(゚ー゚)
, ´ ⌒ヽi)
i|(( ) )) )iリ 「絶対に面白いから!」と、自信満々に友人を
(リ,i;゚ ヮ゚ノョ' 同人誌即売会に無理やり連れていったのですが、
゙,ヘi_i][i,l\ [] 会場で思い切り『ドン引き』されたみたいなものですねw。
<_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
`¨i.ラi.ラ'´ (
 ̄  ̄
>>758 >>ホロコーストは語源的にはスケープゴートと同じなのに、
_
_....(゚ー゚)
, ´ ⌒ヽi)
i|(( ) )) )iリ
(リ,i;゚ ヮ゚ノョ' 目からウロコ!
゙,ヘi_i][i,l\ []
<_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
`¨i.ラi.ラ'´ (
 ̄  ̄
>758
高級官僚が政治団体の会合にのこのこ顔出しちゃ不味いだろう。
この辺の広田の脇の甘さというか無神経さはなんなんだろうね・・・?
距離を置いた吉田のほうがまともで良識的だったんじゃないの。
この辺の感覚と処世は考察の価値はあると思う。
まあ当時は、政治活動絶対禁止のくせにゴソゴソおおっぴらにやってた軍人ドモの存在があるからその辺の意識も鈍るのかな、とも思わぬでもないが。
761 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/09(火) 03:07:20 ID:p7YkbpIP
>>735 >>どうせ、外交活動を任せなければいけないのなら、きちんと外相を
>>決めた方が良いのは自明なことでした――。
結局、広田内閣の外相には駐支大使の「有田八郎」が就任することになりました。
駐支大使を『外相』に抜擢するあたり、広田が「対支外交」に気を遣っていた事が
よく分かります。本当は、外務次官だった重光葵を外相に繰り上げる手もあったの
ですが、重光は「反英・対支強硬路線」の気が多分にありましたから、広田が心配
したのでしょう。しかし、重光は広田と同じコースとなる「駐ソ大使」に出される
訳なので、広田は重光を買っていたのも事実です。一番きついポストですからね。
ちなみに重光は、のちに「駐英大使」にもなっています(1938年)。
また広田は有田を抜擢した理由として、●「そのころ駐支大使だった有田を外相に
抜擢したのは私であって、陸軍ではない。有田は職業外交官であり、日本が(満州
問題で)国際連盟から脱退したときに、有田は外務次官として連盟脱退に同調しな
かった。私は有田と同じ考えであった。このため私は、有田を信頼していたのである」
と述べています。まあ、陸軍に吉田の外相を阻止された広田の、せめてもの抵抗だった
と言えるかもしれません。しかし別宮翁などは、●「広田は無能な人間を偏愛する」と
バッサリですw。
762 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 00:12:45 ID:WM0C/9d2
>>760 >>高級官僚が政治団体の会合にのこのこ顔出しちゃ不味いだろう。
>>この辺の広田の脇の甘さというか無神経さはなんなんだろうね・・・?
『脇の甘さと無神経さ』で近衛文麿に勝る者なし!w と言って済ませたいところ
ですが、広田の場合、まさか自分が直後に外相やのちに首相になるとは思っても
いなかったでしょう。1933年の時点で、広田は55歳。少し前まで、オランダ
公使が外交官としての『上がり』のポストだと考えられていました。にも関わらず、
ソ連大使まで務めることができたのです。外務次官も経験していないのに「お呼び」が
掛かるとは思っていなかったのだと思います。
どのみち玄洋社にも●『関わりが深い』のに、今さら「大亜細亜協会」や「国維会」を
気にしてどうする?という気もしますw。
さて、有田八郎が「広田内閣」の外相になった訳ですが、その他の外務省高官の
メンバーは以下の通りです。●堀内謙介次官、●桑島主計・東亜局長、●東郷茂徳・
欧亜局長、●岡本季正・亜米利加局長、●松嶋鹿夫・通商局長、●栗山茂・条約局長、
●天羽英二・情報局長です。まだ天羽が情報局長に留任していますね。さらに吉田茂が
『広田の心遣い』(吉田自身の表現)で、駐英大使としてロンドンに出向いたのは言う
までもないことです――。
763 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 00:30:47 ID:WM0C/9d2
>>723 >>広田が首相を務めた期間は「10ヵ月半」ですが、東京裁判で広田が
>>文官でありながら「死刑」になる布石
広田の首相としての在任期間は1年弱で「功績が少ない」と批判する向きも多い
ですが、大きな間違いです。前スレとも重複しますのでザッと流していきますが、
まず「2・26事件」の決起部隊将校らの軍法会議がありました。1936年4月
28日に始まった軍法会議は7月5日に判決、同月12日には磯部浅一ら15人の
『死刑』が執行されます。ちなみに同年7月に拘留された真崎甚三郎は、翌37年
9月の判決で無罪になりました。何にせよ、軍人としては両腕両足を?がれた形です。
また『粛軍』の名目で広田は1936年4月に「軍部大臣現役武官制」を認めています。
この背景は前スレで詳しくやりましたので省きますが、広田自身、自らの組閣で必死の
思いをさせられましたので、単なる名目上「予備役・後備役」の陸相の選択肢があったと
しても意味が無いと考えたのでしょう。また『玄洋社』『大亜細亜協会』『国維会』などの
関係から、広田は「政党政治」に対して愛着を感じていなかったと批判する意見もあります。
764 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 00:46:10 ID:WM0C/9d2
また広田お得意の●『名を捨てて実を取る』戦略で、軍部大臣の現役武官制を
認める代わりに、首相候補者が陸海軍の大・中将のなかから自由に軍部大臣を
選べるように取引し、当時の陸相・寺内寿一と海相・永野修身に「完全に同意
させた」と云いますが、真相は不明です――。この●『交換条件』があったと
主張するのは、実は広田自身に過ぎないからです。
しかし東京裁判での取り調べで広田は、●「天皇陛下から組閣の大命を拝した者は
誰からも介入されずに、陸海軍の中将と大将から自由に大臣を選べるようにせねば
ならない。他の閣僚を選べるのと、同じようにである――」と寺内と永野の2人に
説いた(そして認めさせた)と陳述しています。
広田が検察の取り調べに対して非常に協力的だった(それが死刑を招く結果となる)
ことを考えると、全く嘘を付いているとは思えず、当時ほぼこれに近いやり取りは
あったと思われます。ただ惜しむらくは、広田が首相を辞めると直ぐにウヤムヤに
なってしまった事ですw。
765 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 01:06:49 ID:WM0C/9d2
また広田弘毅は1936年4月17日、「支那駐屯軍」の増強を決定しています。
それまで『歩兵10個中隊規模』だったのを一気に3倍の兵力に増やしまして、
『混成1個旅団(5774人)規模』となります。また、これに合わせて支那
駐屯軍司令官は『親補職』(天皇の親任式をもって補任される)とされました。
この背景には、満州から北支へと手を突っ込みたがる『関東軍』に歯止めを
かける狙いがありました。要するに、それまでの支那駐屯軍は「格下扱い」で
同じ陸軍といえども関東軍に舐められていた訳です。支那駐屯軍の規模と地位を
向上させる事で、収拾がつかなくなるのを防ごうとした訳です。また陸軍中央も
関東軍を「対ソ戦」に専念させたかった背景もありまして、首相の広田と利害が
一致したのです。
しかし支那駐屯軍が一気に3倍に増えたのは、支那の土人共をいたく刺激し、
1937年7月の「盧溝橋事件」が勃発する遠因ともなりました――。
766 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 01:33:42 ID:WM0C/9d2
また広田内閣では、日本の外交方針が大きく●『国防』●『外交』●『国策』の
3つの面から見直されておりまして、それぞれ
●「帝国国防方針の改定」●「帝国外交方針」●「国策の基準」の形となります。
このうち「帝国国防方針の改定」は日露戦争以来、3度目の改定となり、仮想敵国が
従来のアメリカとソ連・支那に、イギリスが加えられたのが大きな変更でした。また
長期戦に備える必要性を説きつつも、「作戦初動の威力を強大ならしめる」ことにより
短期決戦の『速戦即決』を主張したのも特徴でした。実は、支那事変と太平洋戦争は
この新たに改定された「帝国国防方針」に基づいて起こった訳です。
しかし「帝国国防方針」の改定作業は、それこそ「統帥権の独立」に関するもので
首相の広田もほとんど口を挟むことが出来ず、陸海軍の決定をそのまま鵜呑みに
せざるを得ませんでした。これが1936年6月3日に天皇陛下から裁可される
ことになります――。
767 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 01:56:08 ID:WM0C/9d2
また1936年8月7日に、首相の広田弘毅、外相の有田八郎、陸相の寺内寿一、
海相の永野修身の「四相会議」で定められた「帝国外交方針」は、陸軍の意向を
中心に反映しており、『ソ連の脅威の解消』と『赤化防止』を重視していました。
また同じ日の8月7日に、蔵相の馬場^一を加えて「五相会議」で決定された
「国策の基準」は、今度は海軍の主張が盛り込まれており、『東亜大陸における
帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出発展する』と南北併進論を謳う
メチャクチャなものでした。
要するに、ソ連の脅威を排除しながら、日満支提携のもとで、南洋にも進出する、
という、明らかに日本の国力を度外視した無謀な内容です。首相の広田弘毅は、
この時の背景を「巣鴨プリズン」で同じA級戦犯であり、外務省で部下だった
東郷茂徳に対して以下のように語っています。
「海軍が(第2次ロンドン)海軍軍縮条約の廃棄後の『軍備拡張計画』を正当化
するための下地作りと、これに陸軍が『負けてはならじ』と便乗したものが
合体したものである。単に『予算を取る』ため軍部において拵えたもので、
それ以上の実質的な意義は考えていなかった――」
768 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/10(水) 02:24:26 ID:WM0C/9d2
少し補足が必要ですが、広田が首相を務めていた1936年には、日本が既に
第2次ロンドン海軍軍縮会議を脱退する事が決定しており、翌年の1937年
からは『無条約時代』に突入する危機的というか、実に不安定な時代でした。
広田内閣が批判される1つの理由に、馬場蔵相のもと「軍事予算を急増させた」
というものがありますが(結局、寺内の『腹切り問答』で予算は通ることなく、
総辞職へ)、これが戦艦「大和」や「武蔵」の建造にも繋がっていく訳です
(話が飛びますが、広田の内閣総辞職に海相の永野が反対したのは、折角の
海軍予算が頓挫してしまうためですね)。
陸軍も、海軍の「軍縮条約の脱退」をネタに巨額の予算を獲得するのを黙って
指を咥えて見ている訳にはいきません(予算額はそのまま権力の額)。結局、
広田は陸海軍の双方の面目が立つように『調整』を図った訳ですが、これらは
陸海軍と政府の『共同謀議』を立証するための格好の材料に使われる事になります。
まあ、こんな広田の首相の時代にまで遡ってやるのは、近衛文麿が自殺したため
なんですがね。誰かがババを引かされる訳です。
769 :
名無し三等兵:2008/12/10(水) 03:31:53 ID:276XHMZZ
>>765 満洲国の存在が癌となり、広田にとって国民党政府の神経を
逆撫でしてまで陸軍と妥協するような本末転倒なやり方以外に
選択肢が無かったのはよく分かりました。
ただ、支那駐屯軍の増強については、現地における正規軍の直接的
な武力の強化という意味で、それまでの妥協とは一線を画すように
思えます。
盧溝橋事件が起こることを視野に入れての結果論かもしれませんが、
この手の嗅覚が鋭い外交官出身の広田自身、こうした行為によって、
現地で軍が揉め事を起こす確率が高くなる―それだけ事態の収拾が
難しくなり、軍につけいる隙を与える、とは考えなかったのでしょうか。
確かに、これだけ政軍関係が乱れると何が起こっても不思議では
ないのでしょうが、このタイミングでの出先の軍の増強について
は、いくら交渉の産物とはいえ、他に利害の一致を見るような材料
は無かったのかとも思います。
要領を得ない質問ですみません。
内憂外患で内憂を優先した結果でしょう。
本読んでると海軍には、鉄砲屋とか水雷屋とか出身兵科が政治力に影響を与える描写が良く出てくるけど、陸軍はどうだったの
772 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/11(木) 01:27:13 ID:a89l0bT3
>>769 >>ただ、支那駐屯軍の増強については、現地における正規軍の直接的な
>>武力の強化という意味で、それまでの妥協とは一線を画すように思えます。
『関東軍の南下』を食いとめるためですから、当時の判断としては止むを得ない
と思われます。そもそも「良識的・支那通軍人」の代表格である多田駿(少将)が
新任の支那駐屯軍司令官として1935年9月に赴任した際、自身の責任担当
地域内における『関東軍の干渉』に憤りを表明したのがきっかけでした。
陸軍省も多田を支持して、1935年11月に北支での『地方的事件』の取扱いに
ついては支那駐屯軍の担当として、関東軍から手を引かせた訳です。これを受けて
同年12月に「参謀本部第二部支那課長」の喜多誠一大佐が、支那駐屯軍の独立性を
高めるために大幅な兵力の増強と再編を提案し、認められました。
これにより『北支の問題処理』は正式に支那駐屯軍の担当となり、関東軍の守備範囲は
万里の長城以北に限定されたのです――。
773 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/11(木) 01:57:32 ID:a89l0bT3
>>769 >>現地で軍が揉め事を起こす確率が高くなる―それだけ事態の収拾が難しくなり
これにより支那駐屯軍は、戦時定員5774人の旅団規模にまで拡大し(約3倍)、
新たに編成した「独立歩兵2個連隊」により火力がさらに強化された訳です。この
2個連隊は「3単位制」で編成され、重機関銃中隊、歩兵砲部隊を加え、通信部隊も
強化し、独立して作戦行動が取れるまでになりました。
しかし、ここで大きな問題が発生します。兵力が3倍になったのですが『兵員の宿舎』が
全然足りませんw。北京の外国人居留地は、既に日本の歩兵2個中隊と他の外国駐屯軍が
使用しており、定員オーバーです。やむなく兵力を過度に「分散配置」せざるを得なくなり
まして、歩兵第1連隊第3大隊は北京南西郊外にある『豊台』に駐屯することなります。
言うまでもなく歩兵第1連隊第3大隊は、『盧溝橋事件』で支那第29軍と衝突した部隊
です。豊台は数年前までイギリスの部隊が駐屯していましたが、「第3大隊」を1ヵ所に
収容するには狭すぎました。結局、3つの場所で別々に小さな宿舎を作らざるを得なくなり、
連隊本部が全体を指揮するのに不利になったばかりか、支那の土人部隊・第29軍の兵舎が
日本軍の兵舎の間に入り組むという「複雑な様相」を呈しました。当然、双方が衝突する
危険性が高くなります。実際、1936年9月には両軍の間で乱闘騒ぎが起きています。
774 :
イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/11(木) 02:11:00 ID:a89l0bT3
もちろん支那駐屯軍が大幅に増強されたことにより、北京の土人共は大反発して
『反日感情』に拍車を掛けました。まあ、関東軍のやりたい放題を止めるために
支那駐屯軍を増強させたのですが、実際やってみると思わぬ問題が発生した好例
になります。さすがに昭和天皇は「良いカン」をしておりまして、陸軍から支那
駐屯軍の大幅強化を聞かされると、これを承認しつつ「あまり目立たないように
やれ」と注意しています。
まあ、もともと首相の広田は『軍の統帥権事項』に口出しできませんし、よかれと
思って賛同したのですが、関東軍は「北支」が駄目となったら今度は「内蒙古」に
触手を伸ばしますし、なかなか上手くはいかないものですw。
ッ-ヘ。__。ヘ
レ, '´゚ `,〉.
i ハ)))ハ))ノ) ( :::)
イオi ゚ ヮ゚ノヘ__( ::) 今うどん食べてるんですよ
,ぐつ==\_/ 映姫様もどうですかい?
,メノ イ-i| ̄ ̄ ̄ ̄|
゙'ーソフ-Uフ ̄ ̄ U
また新スレで会いましょう。
あと12kb残ってるー
778 :
769:
スミマセン、御礼言わせて下さい。
丁寧な御回答感謝します。御話が実務レベルで見えて、来て目から
ウロコです。
>>770さんの見通しに沿ってますね。
元々提案したのが軍側であったので、広田にとっては統帥権が
足枷になったこともあって細かい注文を付けられなかったわけですか。
おしゃるように「毒を以って毒を制す」つもりが、藪蛇になった
ような印象を受けます。
成程、盧溝橋事件も、関東軍と北支派遣軍の縄張り争いによる
混乱と、居留地という手狭な状態が引き起こした側面があったわけ
ですね。