Sさんは息子の説明と犬の吼え声を頼りに、
笹深きブッシュを分け入った。
「下方から上に向かって」だ。
彼は永年の数多い経験から、この様な場合、
決して下方から近寄ってはならないと常日頃いってながらだ。
これは彼にとってまさに「魔の一瞬」だった。
前方の殆ど見えない、長い笹の繁みの中から、突然
赤黒い小山が湧き上がり、怒涛の様に荒波を立てながら
覆い被さってきた。それは全く瞬時の電光を思わせたが、
そこはベテラン猟師、持っていた銃が無意識に火を噴いた。
ウォーという怒声とともに、ヒグマは彼に重なるように
斜面を転げた。
気丈な彼はそれでも気絶しなかった。
ヒグマは彼を放そうとせず、上になった時顔に
ガブッと咬み付いてきた。
彼はしっかり握っていたライフルを、思わず顔の前に
持ってきてカバーしようとしたが、ヒグマはものともせず
咬み付いてきて、顔の右半分をがっぷりと口の中に入れた。