弾薬名称:44マグナム
口径:11.18mm
初速(m/s):448
弾頭重量(g):15.55
エネルギー(ジュール):1560.5
初活力(m^2/kg):159.5
弾薬名称:.50AE
口径:12.7mm
初速(m/s): 419
弾頭重量(g):19.5
エネルギー(ジュール):1711.7
初活力(m^2/kg): 174.9
弾薬名称:ブリネッキ3インチマグナムスラッグ弾
口径:18.3mm
初速(m/s):434
弾頭重量(g):39.0
エネルギー(ジュール):3672.9
初活力(m^2/kg):375.3
20世紀初頭、スペインからフィリピンを得たアメリカは現地モロ族の掃討に
初めてショットガンを兵器として使用して以来、第一次大戦ではトレンチガンを
ヨーロッパ戦線の塹壕で使用し、第二次大戦、ベトナム戦争のジャングル戦で
使用し、絶大な成果と残虐性を見せ付けた。
肩付けせずとも、腰や脇からポイントシュートしても致命傷を与える事ができる
ショットガンは、自分の銃すら見えない暗闇や、突然の敵の急襲において
もっとも有効な近距離戦闘火器といえる。
何よりもショットガンのスラッグやOOBackが、拳銃やM4-A1の5.56mmと違う事は、
近距離戦でまともに1発食らえばまず生存は無理という点であろう。
この点から考えても米軍に制式採用されているBenelli M4のように、
12ゲージのバックショットやマグナムスラッグを回転不良なしに連射できる
信頼性の高い オートショットガン銃となりうる
米軍がオートマチック、しかも45口径を採用した理由として有名なのがフィリピンの
先住民族モロ族との戦闘です。スペインとの米西戦争に勝利してフィリピンを獲得したアメリカですが、
その治安に手を焼いていました。モロ族と戦闘になったのもそんな時期です。
当時米軍は38口径のリボルバーを採用。他方モロ族の武器は弓と槍。
この戦闘は楽勝だと思われました。
ところがモロ族の戦士たちは1、2発の銃弾を受けても全く怯まず、中には
全弾6発打ち込んでも前進を続け、その米兵を刺し殺してしまう事件まで発生。
米軍は大変な衝撃を受け、38口径への不信が決定的になります。尚、モロ族には
勇敢だった事以外にも、麻薬に似た薬物を習慣として常用していたとの話もあります。
ともかくも「一発で倒せる強力な拳銃」を求めて次期採用拳銃のトライアルが始まります。
ついでに速射性と再装填の利便性から種類はオートマチックとされました。
ここで出てくるのがジョン・ブローニングとコルト社です。彼らはコルトM1900を
トライアルに提出、その後の要求に応じて
M1900→M1902→M1905→M1909→M1911
と改良を続けます。
最終選考でコルトM1911は対抗馬のサベージM1910と一騎打ちとなり
、トライアル中全く故障しなかったM1911が採用されます。
1911年に採用され、ヨーロッパ各国の軍用ピストルが9mm(.38口径)
だったのに対し、アメリカが.45口径としたのは、
1902年フィリピンのモロ族と戦った時、
狂信的なモロ族の戦士達は当時装備していた
.38口径のリボルバーピストルの弾丸を数発喰らっても
そのまま平気で突撃してきた。
中には全弾6発を命中させられながらも米軍兵士を刺し殺したと言う事件があり、
対インディアン戦でストッピング・パワー(打撃力)の威力証明済みの.45口径ピストルを採用したのでした
コルトM1911(ガバメント)
この銃は1902年アメリカ軍がフィリピンのモロ族と戦った際、狂信的で戦闘前に麻薬を使用する
モロ族の戦士たちはアメリカ軍が使用する38口径の拳銃を数発受けても倒れず、
中には全弾6発を被弾してもアメリカ軍兵士を刺殺したケースもあり、アメリカ軍部は
マンストッピングパワー(肉体に与えるダメージ)の高い拳銃の必要性を痛感した。
そこで開発されたものがM1911自動拳銃である。他国の軍用拳銃が7.62mmから
9mm口径を使用するなかで強力な45口径(約11.4mm)の実包を使用するM1911は
文句なしのマンストッピングパワーNO1であり兵士から絶大な支持を得た。
1898年、スペインとの戦争である米西戦争が勃発した。
アメリカはスペインを圧倒、 スペイン領であったフィリピンを領有した。
その結果、1899年今度は米比戦争が起こった。
フィリピンの解放者として現れたアメリカがスペインを追い出したものの、
今度はアメリカがフィリピンを支配した。スペイン支配との違いは、アメリカは
友愛的同化を宣言し、できる限りフィリピンの民主化を保証したことにある。
しかしフィリピンを植民地としたことになんら変わりは無い。
民族意識に目覚めたフィリピン人はアメリカと敵対した。それが米比戦争だ。
フィリピンのミンダナオ島を制圧しようとするアメリカ軍に対し、この島を拠点とするイ
スラム教徒のモロ族が反発した。ミンダナオ島は、長いスペインのフィリピン統治時代でも、
スペインは制圧できていなかった。
モロ族は、戦闘の前に薬物で一種のトランス状態を作り出す。これにより痛みを感じにくくなり、
38口径のピストルで撃たれても倒れることなく突進してきた。
アメリカ海兵隊は急遽、38口径より威力の高い45口径リボルバーをフィリピンに送ると共に、
民間市場にあったウィンチェスターM1897を調達した。
突然、現れて至近距離から攻撃を仕掛けるモロ族に対し、ショットガンは有効な武器となった。
至近距離からBuck shotを撃ちこめば、モロ族と言えども吹っ飛んだ。
アメリカ軍が塹壕戦に持ち込んだショットガンは、高い成果を上げ、敵側であったドイツ軍は
その有効性を恐れた。当時、ドイツの新聞は、アメリカ人は野蛮人だと書きたてた。
また別の新聞は、アメリカ軍は錬度が低く、ライフルをまともに扱えないからショットガンを持つのだとした。
第一次大戦は、航空機や戦車、軽機関銃、Uボートそして毒ガスが戦場に投入された。
そこにショットガンが登場したからといって、それに過剰反応したのは実に妙だ。
しかし、ヨーロッパでは、ブランダーバス(Blunderbuss)以降、ショットガンが戦場で
使われることはほとんど無かった。
ショットガンは動物用の猟銃であり、それを対人用に使うことに感覚的な抵抗があったのかもしれない。
ここでドイツ軍は思わぬ行動に出た。ショットガンを戦場で使うことは、Hague Convention
(ハーグ条約)協定違反として公式に直訴した。
そしてショットガン持った兵を捕虜にとった場合、
即刻銃殺刑とするとした。鉛の散弾はメタルジャケット弾ではないので、1907年のハーグ条約に
違反しているというわけだ。アメリカは、ハーグ条約がメタルジャケット弾のみを使用するように求めたのは、
ピストルやライフルの高速弾で大きな外傷を引き起こすものにのみ適用されると反論し、
アメリカの主張が認められた。そしてアメリカ軍はショットガンの戦闘での使用を継続した。