【孫氏】中国古典兵書研究スレ【六韜】

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584黙殺
誤解を恐れず言えば、中国には伝統的な軍事戦略は存在しない
中国は統一国家であった時期より数多くの国が互いに抗争しながら興亡を繰り返していた時期のほうがはるかに長い
これらの国々は様々な局面で様々な戦略を用いてきた
ただし歴代王朝に脈々と受け継がれてきた二つの類型が存在しそれぞれ固有の文化的な起源を持っていた
一つは遊牧騎馬民族のステップ文化、もう一つが「漢人/漢民族」の定住文化である
明らかに歴代中国王朝の軍事戦略はこれら二つの要素から構成されていた
孫子をはじめとする中国の兵書には騎馬民族を意味する「胡」の文字はほとんど見られない
585馬さん:2012/01/07(土) 09:07:49.85 ID:???
古代から近代初期に至るまで遊牧民族はいわば「戦争の達人」だった
洋の東西で彼らは数々の軍事遠征を手掛け劇的な征服を成し遂げてきた
文字を持たないことも珍しくなかった遊牧民は成文化された記録こそ残さなかったが、洗練された軍事教義の隊形を開発していた
定住民である漢人は遊牧民の軍事教義の理解に努め時にはそれを実際に採用しようとさえした
この遊牧民族の伝統が中国の軍事戦略の二大潮流の一つを形成している
586牛さん:2012/01/07(土) 09:08:40.08 ID:???
もう一つの潮流は遊牧民族が中国の歴史に本格的に介入する以前から存在していた中国固有のものだった
これは中国大陸に定住した民族が建てた古代国家同士の戦乱の経験を起源としていた
ユーラシア大陸周縁部の西は欧州から東は朝鮮半島にかけて存在した多くの定住社会は常に遊牧民の襲撃にさらされていた
他の地域の定住社会の経験と同様に中国の定住社会から生まれた軍事戦略は遊牧民の軍事的脅威に対応できなかった
587元から清へ:2012/01/07(土) 09:10:04.85 ID:???
しかしこうした中国固有の軍事戦略は文化的社会的に深く根付いていたために捨て去ることも不可能だった
慢性的に遊牧民の脅威にさらされていた中国歴代王朝の安全保障は異なる起源を持つ二つの軍事戦略の試行錯誤の歴史だった
金、西夏、南宋を征服したモンゴルは東アジアで唐以来最大の版図を持つ元を築いた
しかし広大な元は政情が不安定で度重なる後継者争いにより弱体化し建国後1世紀も待たずに明の建国者朱元璋後の洪武帝によって中国全土からモンゴル高原に蹴り出された
この新しい王朝は元と同じように安全保障問題に対して最初のうちは積極的に取り組んだ
多くの対外事業が展開され数次にわたるモンゴル高原への遠征、安南の征服を企図した軍事遠征、鄭和の南海遠征が行われた
15世紀中頃から明の政策は内向していく
正統帝自ら率いた遠征軍がモンゴルによって壊滅的な打撃を受けた1449年以降明は積極的な対外政策を控えるようになり対処療法的な防衛戦略を採った
「万里の長城」と呼ばれる北辺防衛のために建設された要塞群の大規模な修築計画である
明王朝は17世紀まで存続したが大規模な反乱と満州族の侵入により滅亡する
588あなたが二番:2012/01/07(土) 09:10:57.03 ID:???
遊牧民の軍事戦略と漢人の軍事戦略を巡る試行錯誤は明にとって知的作業以上の重要性を持っていた
中国の安全保障はその時の政治体制の性格を忠実に映し出す鏡なのだった
明の経済を支えた中核地域は南の肥沃な大河流域と低地地方だった
そしてそこでは生産性の高い農業と急速に拡大した商業の恩恵を享けた貴族が洗練された文化を完成させた
結果自らの文化のみが文明的であるという考えが急速に堅固に広まった
清の征服ですら明の時代までに形成された貴族文化をほとんど変えることはできなかった
これをもって明と清の時代を継続性のある一つの時代ととらえるのが「後期中華帝国」という概念である
589新しい箱:2012/01/07(土) 09:11:34.48 ID:???
しかし建国初期の明は後期中華帝国の名称とはかけ離れた異質の国だった
明の建国以前のほとんどの時代において現在の中国の領土は南の漢人による政権と北の遊牧民の政権に分割されていた
南北の政権はそれぞれ別個の統治方式と軍事教義を発達させてきた
元のみが南北を一元的に統一することに成功したがこれは中国の歴史において例外的なことだった
漢民族国家である明がモンゴル族を北方の草原に追いやった際に直面した問題は伝統的に漢民族が定住する南部地方と数世紀にわたって遊牧民族の支配的影響下にあった北部地方をどうやって一つの政治組織で統治するかということであった
そして明の建国者が受け継いだ昔ながらのやり方はこの問題を解決する指針にはならなかった
590古い革袋に古い酒:2012/01/08(日) 16:08:14.95 ID:???
一般に明の元に対する勝利は遊牧民族の野蛮に対する漢民族の文化や民族性の勝利と理解されている
しかし明の勝利は中国伝統の文化の復興を象徴するどころか実際には初期の明は新しい王朝の下で元の統治制度をそのまま継承していた
確かに明の王族は中国南部地方の出身だが明は北方の遊牧民族の戦争教義や民族衣装の多くを採用した
それだけでなく多数のモンゴル人を軍に登用する等モンゴルの支配機構の多くを継承した
明清両王朝は確かに外見上は中国化したが実際にはモンゴル人による支配下でも見られた後期中華帝国の本質を定着させたに過ぎない
591最初から無理でした:2012/01/08(日) 16:08:56.98 ID:???
定住の漢民族と絶えず移動を繰り返す遊牧民族を一つの国家に吸収することを目指せば様々な緊張が国内に内在化されるのは道理だった
そうした緊張は対外戦争を起こす場合や軍用インフラの建設で表面化することが多い
元では中国風の法律や戦争教義の導入を唱える官僚が存在した一方であくまで北方の遊牧民族固有のスタイルの墨守を唱える官僚も存在した
明の初期の状況も同じだった
明のこの時期の為政者が腐心した特有の問題は北方に駆逐された元との継続性を求める感情と文化的な中国らしさを求める漢民族の根強い感情の対立をいかにして解決するかだった
一般に後者の感情は「儒教」という概念に集約される
成熟期に入った明はますます中国的な理念と伝統を重んじるようになる
社会的構造の面からいえば遊牧民族と漢民族の両要素を一つの国家の支配機構の下に組み込んだ明は以前には見られなかった新しい国家となった
漢民族の伝統は新しい時代の政治体制や国家政策の模範とはならなかった
これは明の国家安全保障政策において最も顕著だった
明の国家安全保障政策は根本的に北方遊牧民族に由来するアプローチと中国伝統のアプローチが絶えず相克しながら形成されたのだった
592文化が違う:2012/01/09(月) 10:04:31.77 ID:???
このうち中国伝統のアプローチははるかにわかりやすい
中国では軍事問題を著述する伝統が前6世紀頃から存在していたが明の時代にもこの伝統は継承されていた
前6世紀頃の中国では全国を統一するような国家は存在せず群雄割拠の様相を呈し諸侯は覇権を求めて抗争していた
対立する諸勢力が同じ文化を共有し技術的資源的にも同程度の実力を持つ場合それらの勢力は軍事力や武力行使と並んで心理戦や政治を用いて国策を遂行する傾向が強い
「孫子」は戦闘することなく勝利を得ることが最善の方策であると述べている
「是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」
戦略の心理的政治的側面においては「孫子」はいまだその意義を失っていない
しかしこの兵法書が書かれた当時ですら中国ではその直接的な有用性は失われていた
当時の漢民族は全く新しい脅威に直面していたのだった
この頃になると内陸アジアのステップ地方を根拠地とする正真正銘の騎馬民族が中国文化圏の辺境に現れはじめた
この機動戦を得意とする騎兵集団に対して漢民族は歯が立たなかった
593非軍事アプローチ:2012/01/12(木) 00:01:03.45 ID:???
遊牧民族の登場によりそれまで中国の政治/軍事理論はもはや時代遅れになった
中国文明の発展に決定的な影響を及ぼした思想家である孔子や孟子は文化的な国家の基本原則を提唱した
そして彼らの描く理想郷は文化的かつ道徳的な規範により社会秩序が維持される農業国だった
この思想の最大の特徴は社会に秩序を与えるものとして露骨な武力の行使より文化的かつ道徳的な規範を重視していたことだった
つまり中国における理想の国とは文化的倫理的な規範により秩序が作り出される国家すなわち単なる軍事力より文化的倫理的な規範が尊ばれそういった規範がより強い影響力を及ぼすことのできる国家を意味する
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ず其の国を治む
其の国を治めんと欲する者は先ず其の家を斉ふ
其の家を斉えんと欲する者は先ず其の身を修む
其の身を修めんと欲する者は先ず其の心を正す
其の心を正さんと欲する者は先ず其の意を誠にす
594名無し三等兵:2012/01/13(金) 08:57:28.58 ID:???


好好・・・要高潮了
好棒!!好棒!!
再来!再来!
 要去就去!!!
 要去了!要去了!!
要去了!!要去了!!!要去了!!!!
私処要去了!!!!!!!



595認めないものは存在しない:2012/01/13(金) 21:03:51.29 ID:???
中国における治世の歴史はこうした治国斉家修身正心誠意の思考プロセスを政治的に分裂し技術的に劣る土着の「蛮族」にも拡大適用したことに始まる
中国土着の蛮族は「夷」あるいは「狄」と呼ばれていた
中国的な道徳の影響を受けず中国人の観点からすれば「未開人」にすぎない敵が軍事的に自分たちより強いことがありうるという主張は孔子や孟子に代表される思想家にとっては論理的に破綻した考え方だった
しかし新しく侵入してきた遊牧騎馬民族はまさにそうした矛盾した性質を持っていた
そして彼らの登場により中国では思想上の理論と軍事上の実践の乖離が大きくなりこれは明朝以降の王朝の下でも継続的に現れた
繰り返すが中国の古典では「夷」や「狄」は何度も言及されているが「胡」は孫子をはじめとするいかなる古典にもほとんど登場しない
とはいえ「胡」とその末裔の遊牧騎馬民族に対する防衛は清にいたる時代まで中国にとって主要な軍事上の問題だった
596こんなの初めて:2012/01/14(土) 17:05:19.36 ID:???
こうして中国人の政治に関するドクトリンは思想的に分裂する傾向が強くなった
以前は個人や家族の道徳と健全な治世のあり方を結びつける考えが綿々と受け継がれていたが明の時代になるとその二つの分裂が顕著となる
社会秩序を維持するためには古典が描くような道徳を基礎とした国内秩序を確立するだけでは不十分であることが明らかだった
中国文化に全く感化されていない外部勢力が存在すれば中国の社会そのものが滅ぼされる可能性があるからだった
中国の文化の影響を受けた領土を支配する場合は中国の古典を引用するだけで十分事足りた
ところが遊牧民族と対峙した場合は今までとはかなり違う対処のやり方が必要だった
その結果表面上は一元的かつ普遍的な伝統に亀裂が生じた
そしてこの亀裂こそが明の国家安全保障政策を脅かし機能不全に近い状況を生み出した元凶だった
597ヒール:2012/01/20(金) 16:43:20.36 ID:???
驚くべきことに明朝時代の教養ある中国人ですら自分たちの国の安全にとって重大な戦略上の脅威についての知識をほとんど持ち合わせていなかった
科挙の試験科目では遊牧民族の重要性に関する記述はほとんど扱われず遊牧民族を統治するための効果的な政策に関する記述も誤解を招きかねないほど歪んでいた
遊牧民族に関する基本的な知識は実際に見聞して得られたものではなくその大半を歴史書を通じて伝承されたものだった
中国人が遊牧民に対して抱くイメージは現実をそのまま映し出したものではなくその多くはステレオタイプの歪曲されたものだった
更に中国の学者は同時代のモンゴル族についての研究を怠るばかりか元朝の歴史すら研究しなかった
かわりに中国の学者が歴史から教訓を得るために研究したのは前漢及び後漢朝と匈奴の関係の歴史だった
中国の学者は遊牧民族の行動と思考の様式が政治的経済的な必要性に迫られて形成されたとは考えずむしろ彼らの性質や道徳的な性格に由来するものと考えていた
司馬遷は遊牧民族の攻撃の特徴を次のように観察している
「平和時の遊牧民は遊牧生活を行い狩猟を生業としていたが国難の時は武器を取り周辺の略奪や隊商の襲撃を行った」
「漢書」でも遊牧民族は道徳的に悪の存在として描写されている
遊牧民は「人間の顔をしているが獣の心を持つ貪欲で卑しい民族」だと
598名無し三等兵:2012/02/13(月) 13:18:19.70 ID:???
逃げるが勝ち。
戦わずして勝つ奴が一番強い。
戦争はなるべくやめろ。損するから。

これが兵法かな。
599名無し三等兵:2012/02/13(月) 13:29:35.44 ID:???

>>584-593
>>595-597

面白かった。続きに期待。遊牧民の兵書口伝とかあったらいいのにね。
600名無し三等兵:2012/02/13(月) 13:43:11.11 ID:???
遊牧民の戦略は非常に高度だったらしい。
状況的にやむを得ず戦ったチンギスハンが、あっという間にアジア一帯を征服したからなwww
601名無し三等兵:2012/02/13(月) 13:49:53.45 ID:???
でもチンギスハンは後継者を育てられず、モンゴル帝国はチンギスハンの死後崩壊した。
その点、家康は凄いな。
逃げ逃げの家康が天下取りの後は、徳川幕府260年の基礎を築いたからなwww
602名無し三等兵:2012/02/13(月) 18:15:42.36 ID:???
チンギスハンよりエリザベス女王のほうが後継者を育てるのは上手いな。
御家断絶しても国は今でも五大国。
603名無し三等兵:2012/02/13(月) 18:50:05.05 ID:???

>>601
それは後継者問題だと理解してるけど。
つまり、「どれだけバカでも長子相続」を徹底させたことが泰平の条件の一つ。
モンゴルは、そういう大事なもの、守るべきものという中心をでっち上げることが出来なかった。
後継者争いはエネルギーの無駄使いってことなんだろう。
604名無し三等兵:2012/02/18(土) 10:56:39.22 ID:???
言えてる。
後継者はどんな馬鹿でも長子相続が基本。
ただし次子以降を冷遇すると逆に危険な事態を招く。
家康の凄さはどんな馬鹿が権力を相続しても、国家が成立する確固とした基盤を作り上げた事だ。
605名無し三等兵:2012/02/20(月) 21:21:59.77 ID:???
てす
606アクセス規制に引っかかっていたのだった:2012/02/20(月) 21:25:24.51 ID:???
実際のところ歴史書の遊牧民族に対するこのような偏った評価は道徳を基礎とする中国の政治思想にうまく合致していた
しかし遊牧民族と定住民族の複雑な関係に対する理解が全く欠如していたために行動指針としては全く役に立たなかった
遊牧民族の社会は定住の農耕民族から富を略奪することで発展したという点で現代の学説は一致している
このため農耕社会は経済的な便宜を与えることで遊牧民族の脅威を軽減する方法をとることが多かった
そして農耕社会が遊牧民族に供与する経済的負担は通常の防衛費に比べると格段に安上がりだった
このような遊牧民族の懐柔策は既に前漢の時代には広く実践されていた
前2世紀中頃まで前漢は遊牧民族に対して経済的な供与と外交を織り交ぜた懐柔策いわゆる和親策をとり完全な成功を収めたとは言えなかったがある一定以上の成果を上げていた
607これだけは譲れない:2012/02/20(月) 21:27:13.11 ID:???
しかし中国の歴史の正史は伝統的に遊牧民族に対する懐柔策の成功を軽視する傾向にあり更には道徳的な観点からそのような政策に反対した者を高徳の士として称えてきた
前漢の賈誼は漢朝が遊牧民族に対して行ったプラグマティックな政策を声高に非難した
彼の見解を記した碑文には明朝の政策立案者や知識人が好んで引用した非現実的な一文から始まっている
「匈奴の人口は中国の大きな郡や県よりも少なく偉大な前漢帝国が郡県より少ない人口しか持たない国の支配下に入ることは大臣として大いに恥ずべきことである」
彼は中国の歴史に登場する典型的な政治家の一人でありこのような(偉大な)政治家の存在のため中国の国家安全保障政策の形成は非常に複雑なものになった
道徳を考慮した場合「野蛮人」の遊牧民族と対等な立場から喜んで交渉することなど考えられなかった
こうした遊牧民族に対する高圧的な態度はそういった政策を支える道徳観が中国文化の基盤となっていた場合に限って強い影響を及ぼすことができた
しかし一方でそのような高圧的な態度が他の更にプラグマティックな政策を軽視し圧迫する結果となった
608差別じゃないよ区別だよ:2012/02/20(月) 21:46:44.67 ID:???
しかしプラグマティズムの要素が中国の対外政策の伝統に全く欠如していたわけではなかった
唐は遊牧民族が文化的に劣っているという思想を放棄したため対外政策上大きな成果を上げた
李世民は廷臣からなぜ彼の対外政策が歴代皇帝の対外政策を凌駕することができたか問われたとき次のように答えている
「古代以来すべての皇帝は漢民族を尊び夷狄を蔑んだが朕だけが彼らを漢民族と同等に扱ったので彼らは朕を父母のごとく崇めるようになったのだ」
李世民ほど大きな野心を持たなかった皇帝や遊牧民族を対等に扱うことを嫌った皇帝は理論上は帝国の版図の拡大が制限されるとはいえ少なくともステップの遊牧民族の脅威を緩和することを目的とした防衛政策をとった
長城の構築はこのような政策のなかで最も重要な対策の一つだった
古代以来中国人は自らの国土の境界やステップの辺境に長城を構築してきた
初期の長城は堆土を突き固めた塁壁だった
後漢の蔡?は長城の目的を次のように説明している
「天が山川を創造し秦が長城を築き更に前漢後漢が城壁を建設した、こうした創造物建築物が造られた目的は一つには異国の地を中原から隔離するためでありもう一つは中原とは異質な伝統を持つ土地をはっきり区別するためである」
しかし中国歴代王朝による国境の閉鎖は一般に考えられているように中国の伝統に根差した伝統的な志向ではなかった
歴代の多くの王朝特に強大な権力を持った王朝は国境を開放していた
したがって中国における国境の閉鎖はむしろ政治的な選択によるものだった
609機種依存文字だったのだった:2012/02/21(火) 00:56:31.09 ID:???
×後漢の蔡?は長城の目的を次のように説明している
○後漢の蔡ヨウは長城の目的を次のように説明している
蒼天航路で董卓に重用されてた儒者
610名無し三等兵:2012/02/21(火) 11:57:38.29 ID:???

長文乙

日本は遊牧民と同盟すべきとおもうのは、
特亜の反日にたいする反感で、戦前はちがったのかな?
同じ夷敵、四夷に分類されてるのに、
日本人は自分も中華だと思ってたんだろうか。
明治時代の清国は日本を同文同種と思ってたらしいけど、
それは漢民族としてだと思ってたけど、
ひょっとして満州民族としてだったのか?
とりあえず、日清戦争までは尊敬・畏敬・憧憬の対象だった中国が、
日清以後は侮蔑(言い過ぎか?)と征服の対象になったような気がする。
611ロングウォール:2012/02/21(火) 22:48:56.86 ID:???
北魏の孝文帝に仕えた中書監の高允は長城建設の長所について体系的に説明している
彼は北方の異民族の本質について次のように述べている

(北方の異民族は)野鳥や野獣のように獰猛でありかつ愚かな生き物である
彼らは平原での戦いを得意とし逆に要塞化された場所に対する攻撃を苦手としている
もし我々が彼らの弱点に付けこむことで彼らの長所を封じることができれば彼らが数的に有利な立場であっても我々は彼らの災禍に見舞われることはない
また例え彼らが我々を襲撃しようと試みても(長城を乗り越えて)我々の領土に足を踏み入れることは不可能である

戦争資源に乏しい遊牧民族が本格的な攻城兵器を保有したケースが少なかったことを考えれば要塞のもたらす戦略的戦術的優位は明らかだった
高允はこのように自国とステップ地方を隔離するために国境に塁壁を巡らせることを北魏政権に献策した
612窓際勤務:2012/02/21(火) 22:49:48.06 ID:???
中国の歴代の正史のどこにも遊牧民族の洗練された側面を正当に評価する記述はなくまた遊牧民族との現実的な交渉方法を提唱している記述もない
獰猛で単純な生き物という高允が描いた遊牧民族のイメージはその実像をあらわしてはいない
例えばモンゴル族は実践された領域が狭かったとはいえ独自の高度な生活様式と文化を発展させ非常に洗練された軍事作戦を遂行している
またモンゴル族は確度の高い情報組織を持ち高度で柔軟な外交も展開した
軍事行動において各部隊がかなり離隔して展開している場合でも複雑な作戦行動を調整・遂行できる実力を備えていた
中国の防衛担当の役人の中にはこうした事実を十分に認識していた者もいた
彼らは辺境勤務の経験があり中にはモンゴル語に通じている者もいた
しかし彼らを取り巻く中国文化や明朝政府の制度的な枠組みのためにモンゴルに精通した人材が明朝の国家安全保障政策の形成に大きな影響を及ぼすことはなかった

613ワンマンへの道:2012/02/22(水) 21:17:45.77 ID:???
明朝初期の数十年の権力はかなりの程度中央に集中されていた
明の皇帝は二分割された政府を統括していた
宰相である中書令が民政部門の責任者であり大都督が軍政を司った
このような明の統治機構は元朝の統治機構と酷似していた
しかし建国者の朱元璋は治世の半ばにいたるまでに中書令と将軍の両方に対して極端な猜疑心を抱くようになった
1380年に中書令のポストが廃されさらに軍事の最高機関であった大都督府を廃止して権限が分割された五軍大都督府が設置された
さらに多くの高級官僚が追放されたことにより民政と軍政の両方で組織の長が不在になるという異常な状況が生まれた
強力で積極的な皇帝ならばこうして生まれた権力の空白を埋めることができた
しかし分裂した官僚機構はもはやそれ自体では適切に機能する能力が欠如していた
しかも強力な皇帝が登場したとしてもさらに多くの問題が発生することになる
614たくさんいると安心:2012/02/23(木) 22:20:38.55 ID:???
1380年以降の明政権の特徴は中央政府と地方政府の間の権力の分散にあった
しかしさらに極端に権力が分散していたのは中央政府自体でありここでは五つの軍都督府と十二の親衛軍、六の部、都察院、さらにこれらより下に位置する無数の諸機関がそれぞれ皇帝の寵愛を得るために互いに抗争していた
自己の保全を守るために洪武帝は自ら中書令の役割を果たす気概を持ちそのために1380年以降の彼の残りの在位期間は行政文書を読むことに費やされた
権力の分散は官僚機構内においても存在した
辺境政策の決定においては常に二人の大臣が責任者に任じられていた
兵部が軍事側面を担当していたのに対し一方で遊牧民族に与える称号の決定や遊牧民族が明の領内で交易を行うための条件を定める問題(当時の中国語で朝貢と呼ばれた慣行)は礼部が扱っていた
そしてこの二つの部の仕事の内容は常に重なり合っていた
615てす:2012/03/03(土) 22:28:56.16 ID:???
てす
616責任者を出せ:2012/03/03(土) 22:30:25.95 ID:???
明の建国初期に確立されたこのような制度上の仕組みが意味していたのは責任感のある皇帝が帝位についていない場合明の政府は安全保障政策を形成することが文字通りできないことだった
大臣や将軍や皇帝の友人や親類そして時には廷臣や宦官等立場の異なる多くの人々が安全保障政策の形成プロセスに参加した
しかしたとえ彼らが完全に協力して政策の形成プロセスに参加したとしてもひとつの統一した政策を実際に形成できる権力を持つ者は存在しなかった
そしてよくあることだが官僚的個人的知的理由から彼らの意見が分かれた場合には政策を形成することは不可能になった
更に悪いことに明が建国された14世紀以降王朝の軍事力が危機的に衰退していった
建国者の洪武帝が確立した徴兵と兵站のシステムが機能不全に陥ったことが明らかになっていた
戦費や宮廷の建設費用そして貿易による支出が急速に収入を超過するようになった
これらすべての要因が明の戦略の形成に影響を及ぼした
617線を引こう:2012/03/04(日) 08:13:46.75 ID:???
こうした問題は中国の歴史には頻繁に現れる
有史以来中国歴代王朝は自らの王朝が統一国家であると主張していたが実際には全土に権力を及ぼすのは不可能であることを理解していた
4世紀から17世紀にかけて中国南部に存在した諸国家は中国北方の回復をしばしば訴えていた
その一方で北方を回復するためのいかなる政策の遂行も慎重に回避して外交と貿易と強力な防衛を組み合わせてプラグマティックに北部政権に対応した
しかし1368年にモンゴル族がステップ地方に駆逐され中国の北部と南部を含めた統一国家の権力を中国人が握った時それまで学問的な問題にすぎなかったものがにわかに現実のものとして眼前に突き付けられた
それは中国の領土はどこまでなのかあるいはいかなる国境が理にかなっているかという問題である
618永久要塞:2012/03/05(月) 20:50:19.90 ID:???
このような議論は明朝時代に活発になったが特に長い海岸線やステップ地方の辺境に対する明の国境政策の形成において最も鮮明なかたちで現れた
明の正史には国境政策の形成プロセスに関する夥しい情報とともに国境政策を巡る論争に対する様々な立場の参加者の上奏文が記録されている
ステップ地方の辺境に関する政策の場合その政策論争の証明が「万里の長城」という物理的な記録として今日まで残ることになった
要塞群を連携させたこの防衛システムは古代から2000年にわたって継続的に建設されてきたと誤解されてきたが実際には明の中期から2世紀かけて段階的に建設されたものだった
約4世紀後にフランスがマジノ線の建設を決定したときと同じように中国における長城の建設が攻勢的または反攻に適した軍事姿勢から戦略的防衛への政策変更を伴うものだった
そしてフランスの場合と同様に長城の建設の決定は中国で大きな論争を巻き起こした
619三代目:2012/03/06(火) 20:10:28.99 ID:???
建国から間もないころの明朝は内陸と沿岸の辺境地帯に対してモンゴル風の政策を踏襲していた
北方に対して明朝はモンゴルの首都だったカラコルムを含めて元帝国の領土をできる限り多く引き継ごうとしていた
こうした企図の下に騎兵を中核とする明の辺境遠征軍はモンゴル族をステップ地方に駆逐し1372年と1380年にはカラコルムを陥落させる寸前まで迫った
朱元璋が死去した後北方育ちの皇子朱棣は朱元璋よりはるかにモンゴル族のように振る舞った
モンゴルで一般的に行われていた慣習に従って彼は凄惨な相続争いを勝利し世子の皇子から帝位を簒奪した
関係ないがモンゴル族は朱棣の母親はモンゴル族出身と思い込んでいた
永楽帝として即位した彼は残存するモンゴルの抵抗勢力を殲滅するために大規模な親征軍を率いたが最終的にそれは無益な試みに終わる
620あの空を目指して:2012/03/07(水) 22:20:34.14 ID:???
東南アジアおよびその沿岸地域においても初期の明朝は同様に拡張主義的な政策をとった
元朝時代のモンゴル軍は中国南西地方や東南アジアに進出して領土を拡大したが新たに興った明朝は雲南地方を勢力下においた
一方ヴェトナムは永楽帝に征服され1407年から1427年にかけて明朝の統治を受けた
この頃になると中国東南地方沿岸では海上貿易は繁栄の緒につき始めていた
ちょうどキャラバンや貿易商が北京や中国北部地方と内陸アジアをそして究極的にはシルクロードを経てヨーロッパを結びつけたように中国の商船隊は海上貿易を拡大しその活動範囲は東南アジアを越えてインド洋まで更にはアフリカ大陸沿岸や中東にまで及んだ
元朝は強力な海軍を保有していたがこの伝統は明朝にも継承されイスラム教徒の提督である鄭和が大艦隊を率いて南海遠征を実行した
鄭和の遠征はそれまでの航海の歴史における世界屈指の偉業でありこの遠征の結果明朝は国威を内外に誇示し東南アジア諸国と外交関係を築くことができた
11世紀にいたるまでマラッカ海峡を長らく支配していた唐と宋がシュリーヴィジャヤとの間で行ったような活発な貿易を明朝は復活させた
明朝は16世紀にポルトガルが登場するまでこの地方に対する支配的な影響力を維持し続けることになる
621名無し三等兵:2012/03/07(水) 22:44:18.09 ID:???

>>620
> 元朝は強力な海軍を保有していた
> 11世紀にいたるまでマラッカ海峡を長らく支配していた唐と宋

マジで?!
622国を鎖す:2012/03/08(木) 18:58:19.28 ID:???
しかし明朝の立場は15世紀中頃にいたるまであらゆる分野で悪化の一途をたどった
建国者洪武帝は沿岸地方の貿易に対して猜疑心を持っていて当初洪は管理貿易を実施していたが後に海禁を命じた
しかし海禁のために設置された哨所や沿岸の巡視が災いして大規模な密貿易が横行することになり明朝の国力はさらに衰退した
永楽帝はステップ地方やヴェトナムにおける問題を軍事力によって解決しようとしたが戦費がかさんだうえにたいした戦果を上げることができなかった
他方1420年に明朝の海軍は紅河の河口のひとつであるHuang-giangで敗北した
この敗北とその後に引き続いて犯した失策によって明朝の国力の衰退が加速し最終的にヴェトナムからの撤退と南海遠征の中止という結果に繋がった
明朝は建国初期や元朝時代にすでに実施されていた政治・経済・国家安全保障政策を段階的に転換しはじめた
例えばステップ地方の辺境に沿って以前より大規模な要塞の建設が開始された
この要塞群が最終的に今日に「万里の長城」と呼ばれる建造物となった
さらに16世紀中頃までに明朝は沿岸におけるすべての貿易を禁止することになる
623ご破算:2012/03/09(金) 19:27:43.23 ID:???
こうした明朝の戦略上の政策転換のプロセスは何十年もかけて静かに起こったものだった
しかし永楽帝の死から四半世紀後に発生した土木堡における軍事的大敗北が最も重要なターニングポイントとなった
1449年英宗正統帝がモンゴル系オイラートのエセン打倒のためにステップ地方へ軍を進軍させる途上で敵の周到に準備された伏撃によって壊滅的な打撃を受けた
その結果明朝軍はオイラート軍に壊滅させられ正統帝自身も捕虜となった
この土木の変における大失態により明朝の戦略が一時的には有していただろう首尾一貫した国家目的のすべてが潰え去った
624決戦場は主戦場にあらず:2012/03/10(土) 00:07:35.87 ID:???
明朝はステップ地方に対抗するための効果的な安全保障政策を継続する知識も能力も徐々に失っていく
フビライがステップ地方の対立諸侯に対して行った数回にわたる軍事遠征が明朝の採用すべき手本だった
フビライの軍事遠征は経済封鎖と軍事攻撃という二つのアプローチを連携して行われた
アリクブカやハイドゥに対してフビライは自軍を支援するために中国本土の資源をステップに動員する一方で同時に敵軍に対しては定住社会の資源へのアクセスを断ち切ることに重点を置いていた
その結果激しい消耗戦の末にフビライは勝利を収めることができた
フビライが示した北方民族に対する戦い方が明朝建国初期の皇帝たちの戦争の遂行に影響を及ぼしたことは間違いない
しかし1530年代になるとそのフビライの影響も跡形もなく消え去ってしまう
625名無し三等兵:2012/03/10(土) 19:38:33.54 ID:0zVaCeFr
孫子ってクラウゼヴィッツの「戦争論」と違って
なぜかほとんど批判の対象になることがないね。
626軍人は平和主義者:2012/03/14(水) 20:30:14.02 ID:???
その後明朝ではステップの辺境に対する戦略上の問題を巡って議論が延々と戦わされたが提唱されたどの案も洗練され潜在的に効果的な北方遊牧民族の戦争のやり方に対抗できるものではなかった
中国の閉鎖的な伝統思考に縛られたため明朝における対北方政策を巡る議論は二者択一の選択の問題へと単純化された
第一の戦略論はステップの辺境地帯を制圧してこれを明朝の支配下に置くという積極策だった
これに対して第二の戦略論はたとえ抽象的な国威の失墜を犠牲にしてもある種の現状維持を保つという消極策だった
概して武官は後者の消極策に賛同する者が多く文官の政治家はおそらく賈誼の成功の事例に倣って前者の積極策を唱える者が多かった
627名無し三等兵:2012/03/15(木) 04:38:54.98 ID:???

文官が現実を見ない理想だけのお花畑で
武官が現実を見てるってことか
628山を動かす:2012/03/16(金) 17:34:41.62 ID:???
突き詰めれば明朝がどれだけ多くの資源を動員できるかという問題が対北方政策の決定に重要な影響を及ぼしていた
中国の富の源泉は華南に集中していたためステップ地方における軍事作戦の成否は歴代王朝がその華南の多くの富を華北に輸送して内陸アジアで消費する意志があるかどうかにかかっていた
ステップ地方に対する元朝の政策の成功の鍵は華南で動員された資源を華北での軍事作戦や経済援助のために利用したことにあった
明朝は元朝が作り上げた軍事機構のほとんどを継承した
旧元朝の主力軍が明朝の攻撃の及ばないモンゴル高原の奥地に後退したにもかかわらず多くの旧元朝軍の将兵が明朝に投降していたため洪武帝の遠征軍は急激に膨張した
1392年までの間に延べ120万の旧元朝軍将兵が明朝の兵役に就いていたと推定されている
相当数の騎兵を含む旧元朝軍将兵の一部は内陸アジアやステップ地方の辺境に派遣され建国者洪武帝の死後もモンゴルの残存勢力を相手に戦いまた残りの一部は内地や北辺の駐屯地に送られた
629馬の経済学:2012/03/17(土) 22:48:22.12 ID:???
こうした大軍を維持するためには膨大な費用がかかった
純粋に遊牧民族のステップ系騎兵で構成された補助部隊の中には自ら馬を養いステップで容易に自活できる兵士もいた
しかし中国人の兵士が活動するためには外部からの軍馬をはじめとする様々な補給を必要とした
中国本土では優秀な軍馬が全く産出されなかったため明朝はモンゴル馬や朝鮮産の驢馬を活用していた
しかし少なくとも明朝建国初期は辺境警備にあたっていた明朝の騎兵はモンゴル軍と互角以上に戦うことができた
630人頭:2012/03/17(土) 22:49:28.74 ID:???
建国当初の明朝は常備軍を確保するために元朝が用いたのと同じような緊急避難的な手段を用いた
明朝は人員と武器の供給を割り当てた軍戸から何世代も兵士を徴集していた
この常備軍制度に加えて明朝は兵士が実際に戦闘に従事していない期間に任務地を開墾させることによって自給自足の辺境防衛の駐屯地を建設しようと試みた
こうした屯田制度に起源は漢朝までさかのぼりその後も歴代の王朝で幾度となく提唱されていた
建国者洪武帝は屯田制を行うことで「人民から一粒の米も搾取することなく百万の兵を養うことができる」と豪語したが実際には屯田制は彼が意図したとおりの機能を果たすことはなかった
相次いで発生した財政上の危機のために15世紀初頭には明朝の軍事制度の基盤は崩れ始めることになる
631金持ちの戦争:2012/03/17(土) 22:50:17.57 ID:???
明朝が潜在的に周囲の敵対勢力を凌駕する巨大な経済力を有していたことを航路すれば15世紀初頭以降の明朝の財政悪化の進行は恐るべき現象だった
中国経済の規模は巨大でありまた見事な水上輸送網が整備されていたため兵士や物資を南から北へ比較的容易に移動させることもできた
例え中国人の間で北方産の軍馬の不足が事実であってもその一方で北方の遊牧民族の間では穀物や貴金属や医薬品をはじめその他の定住社会で生産される物品の多くが慢性的に不足していた
明朝の軍備は十分に整っていた
兵士は槍や銃を装備していたし小型の砲を保有する部隊も少なくなかった
多くの兵士は詰め物をした布製の鎧や戦袍を支給されていた
当時末端の兵士までこれほど装備が充実していた軍隊は東西に例を見ない
632強いられていたのだ:2012/03/17(土) 22:51:01.43 ID:???
ところが資源の動員はおそらく元朝の時代より更に困難になっていた
元朝の統治機構のほうが官僚主義の蔓延した明朝の統治機構よりはるかに柔軟性が高かった
とりわけフビライのような強力な統治者の治世下の元朝では法律の改正や資源の再分配を容易に実施することができた
元朝とは対照的に明朝の建国者洪武帝は網羅的な資源の目録を作成し特定の需要を満たすことを目指した
明朝ではある特定の一族が特定の衛所の管轄下で軍役に服するのと同様に登録されたある特定の一族が永遠に同じ商品やサービスを提供した
これは手工業者、俳優や興行者、製塩業者、猟師などあらゆる分野に及んでいた
明朝は包括的かつ自給自足的な社会の均衡を目指したが意図した通りの結果を得ることはできなかった
一世代もたたないうちに明朝の統治機構では計画通りに資源を移動させることができないことが明らかになった
つまり兵士を供給できなくなった軍戸が存在し続ける一方で貨幣経済を通じて兵士を雇用しなければならなかったために明朝は国防のために二重の負担を強いられていたのだった
633名無し三等兵:2012/03/20(火) 14:28:31.79 ID:???
関連スレ
軍事板中国総合スレ 支那(中国)・台湾・比・極東情勢総合025
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1331958112/1
634生まれが違う:2012/03/20(火) 21:23:37.59 ID:???
こうした明朝における資源の動員の困難性は明朝が元朝の業績を模倣できず元朝のようにステップ地方を支配することができなかった理由の一つに過ぎなかった
これと同じくらい重要な理由は明朝が華南から興った王朝であるという事実だった
明朝は元朝ほどステップ地方との戦争に資源を投入することに熱心ではなかった
その他に考えられる理由として挙げられるのが15世紀までにそれまで口伝で継承されていたモンゴルのステップ統治に関するノウハウが失われ始めたことだった
モンゴルの指導者や将軍はこうしたノウハウに通暁しており中国の将軍の中にもそれを学んだ者は少なくなかった
しかしそうした将軍たちが辺境から中央に召還されることはほとんどなかったし中国では文字で記録を残す伝統に従ってモンゴルとは異なる戦い方が数多く記録されたためこの膨大な記録の前にモンゴルの口伝の伝統は埋もれてしまった
635なんでもやります:2012/03/20(火) 21:24:39.37 ID:???
こうした例に代表されるプロセスはステップの脅威に対する認識だけではなく明朝の安全保障に対する脅威への認識や理解に顕著だった
明朝は本質的に中国史上において新しい時代を切り開いた王朝だったため参考にすべき前例をほとんど持ち合わせていなかった
明朝の建国へつながる戦争はほとんど中国本土を舞台に元朝の転覆を企てる反乱軍の指導者とモンゴルに忠誠を誓った中国人の指導者との間で戦われた
元朝の最も偉大な将軍の一人であるココ・テムルはモンゴルに帰化した中国人だった
このような戦争は領土の拡大を巡る戦いというより政治的な正統性を巡る戦いだった
朱元璋は中国の指導者になることを目指したが具体的にどのような指導者になるかについては確固とした考えを持っていなかった
そのため朱元璋は正当な儒教の教えから救世主の出現を説く仏教の教義に至るまで自己に都合のいい部分のすべてを取り入れた
ある時は宋の皇統の再興を願う宋皇帝の末裔を演じまたある時は領土的野心に燃えた新王朝の将来の建国者を演じた
中国本土の征服を達成してステップ地方に拠るモンゴルの残存軍と対峙して初めて朱元璋は自ら開いた新王朝の国家安全保障を遅まきながら考え始めたのだった
636七人の敵あり:2012/03/20(火) 21:25:37.85 ID:???
とはいえ朱元璋にとって最も深刻な心配事は彼個人の権威に対する脅威だった
朱元璋は配下の高官や将軍の多くがかつてモンゴルに仕えた前歴を持つために再度モンゴルに仕えかねないことを承知していた
しかも朱元璋は明朝の宮廷の中に内通者がおりそういった連中をステップのモンゴル族の宮廷が背後で操っているのではないかと疑っていた
このような恐怖心を引き金に朱元璋は中書令の廃止と将軍たちの粛清を決断して君主の権威に挑戦するような勢力が二度と現れないような権力分散型の統治機構を構築した
言い換えれば朱元璋は自己の権力の維持だけに腐心し「中国」の安全保障どころか「明朝」の安全保障すら顧みなかった
すなわち朱元璋自身が明朝の統治機構の内部に多くの脆弱性の種を故意に播いたのでありこれが後の歴代の皇帝を悩ませ続けることになる
朱元璋にとって脅威は内部勢力や外部勢力を問わずどこからでも現れる可能性があった
637兇状持ち:2012/03/22(木) 23:03:31.86 ID:???
朱元璋のこのような考えは息子の永楽帝にも幾分か受け継がれていた
燕王として封じられていた永楽帝は北方の遊牧民族の支援を取り付けて朱元璋が認めた正当な皇位継承者であった甥の建文帝に反旗を翻した
こうした簒奪行為は中国の慣習に反するものだったがステップ地方では広く見られた慣習でもあった
重要なのはこのようなことを仕出かした永楽帝は儒者の支援を頼ることができなかったという事実だった
したがって永楽帝は父の朱元璋のように彼を取り巻くどのような人間に対しても猜疑心を抱くようになる
一説によれば永楽帝が鄭和の大航海を支援した目的は皇位継承者である建文帝が宮殿の廃墟の中からどうにか脱出して東南アジアのどこかに存命しているという噂を確認するためだったといわれている
この説の信憑性はほとんど否定されているがそれでも永楽帝はこういう噂が立てられても仕方なかったのだった
638ボス猿の憂鬱:2012/03/24(土) 17:26:37.27 ID:???
明朝初期の二人の皇帝の時代つまり1420年代まで明朝では脅威を認識するために不可欠な国家意識がいまだ確立されていなかった
洪武帝と永楽帝にとって明朝への脅威とはすなわち皇帝の地位への脅威だった
二人はモンゴル族と通じたという罪科で中国人を粛清しまた中国人の地方勢力に対抗するためにモンゴル族と同盟を結びさらに中国人とモンゴル族の分け隔てなくステップ地方の防衛のために兵士を徴集した
二人の皇帝の脅威認識は北方遊牧民族の伝統と合致していた
ステップ地方では国や文化が違うことは脅威の理由にはならなかった
むしろステップ地方では為政者個人やその配下が脅威の源泉だった
つまり為政者個人が敗北すれば脅威は消滅しその配下を支配下に入れる可能性もあった
このように流動的かつ個人的な安全保障観が初期の明朝を支配していた
639糸電話:2012/03/24(土) 17:27:26.13 ID:???
とはいえ明朝が安全保障システムの制度的に整備したことも事実だった
元朝と同様に洪武帝と永楽帝はステップ地方の辺境地帯に点々と衛所を配置した
一部は明朝の時代に新しく配置されたものだが元朝の時代に設置されたものも少なくなかった
明朝が元朝と違う点は15世紀初期に永楽帝が首都と定めた北京に通じる街道沿いに要塞網を整備したことだった
最終的には哨所や狼煙台も建設された
北方遊牧民族に少しでも優位に立つためには明朝は脅威の存在をできるだけ早く察知しなければならなかった
そして脅威の早期発見と伝達のために構築されたのが火や煙や音響を哨所から次の哨所へと次々に砂漠や山脈を横断して伝えることができる数百キロに及ぶ伝達システムだった
640マニュアルがない:2012/03/24(土) 17:29:33.10 ID:???
さらに初期の明朝はステップ世界の政治の内部事情についてかなり詳細な情報を持っていた
何故なら多くのモンゴル出身の将兵が明朝軍で勤務しておりまた北方防衛に従事した経験を持つ中国人の中にはモンゴルの言語を習得し北方遊牧民族の政治の仕組みを理解できる者がいたからだった
建国間もない明朝はステップ地方に強い関心を持ち北方遊牧民族との間に外交に似た関係を積極的に構築しさらに交易や朝貢の使節団を首都に受け入れもした
明朝初期のステップ地方に対する戦略は本質的には元朝が実行した戦略をおおむね踏襲したものだった
このような戦略形成においてはそこに従事するそれぞれの個人がどれだけ多くの知識と深い洞察力を備えているかに成否の鍵があった
何故なら明朝ではそのような政策を実行するための中国語で書かれた指針が全く存在しなかったからだった
そしてこれは明朝に限らずモンゴル族でも同様だったのだが
641やる気もない:2012/03/28(水) 18:52:34.60 ID:???
個人の資質に基調を置いた戦略は初期の明朝の安全保障システムにとって深刻な弱点だった
永楽帝のような皇帝であればステップ地方の政治をどのように操るかについてほとんど直観的に理解することができた
しかし宮殿の深窓で育てられ儒教の古典に基づいた伝統的な教育だけを受けたような皇帝はステップ地方の政治を全く理解できなかった
皇帝を補佐すべき立場の大臣も皇帝と同じような教育を受けていたからステップ地方の政治に対して無知だった
結果として明朝が次第に「中国化」するにつれて遊牧民族である元朝の後継者としての基盤が徐々に崩れ去っていく
また明朝が政治的倫理的な指針を中国の古典や先例だけから求めるようになり明朝の安全保障政策は次第にその効力を失っていく
中国的なアプローチとりわけその多くは南宋時代のものを採り入れるに従って明朝の安全保障政策は単にその効果を失うだけでなく明朝にとって破滅的な結果を招くことになる
642コスパ最強:2012/03/28(水) 18:55:23.57 ID:???
こうした戦略形成のプロセスは中国の古典にその着想の源泉があった
中国の古典には外交や安全保障の分野に関する記述はほとんどなかったは中国の知識人は儒教思想の要素を外交問題に繰り返し適応してきた
この点に関して儒教思想を最も忠実に集約しているのが「最小限の人為をもって最大限の成果を上げる」という思想だった
儒教の古典の描く世界観は中心部に文明化された地域があり外部に向かうほど野蛮な周辺部が存在する統一的な世界である
この世界では皇帝が人と人智を超えた神の領域の間を橋渡しする存在であると考えられていた
そしてこうした政治思想では中華の主である天子による天下の統治が直接的にせよ間接的にせよ自然界の基本的秩序の当然の結果と考えられた
言い換えれば天下の統治は征服や輝かしい外交的業績では達成することができないものだった
天下の統治はむしろ自然的プロセスが機能する場合によってのみもたらされるものでありこれこそが最大限の成果だった
そして真に徳のある天子がいれば社会の自然な成り行きに任せて何も行動しなくても天下は統治できる
これこそが最小限の人為による政策だった
643名無し三等兵:2012/03/28(水) 22:32:52.83 ID:???
「戦略の形成」の第4章?
644名無し三等兵:2012/03/31(土) 16:24:13.41 ID:???

>>634
そうか、口伝か、
日本のマニュアルつくりが下手なのも、性根が口伝だからかも

>>640 >>641
やっぱり華北は遊牧民とその思想が支配すべきですな
しかし、漢化を避けるには口伝を文字にもして
文献的に対抗しておく必要があるわけか
日本人がいつも文面を読み上げるのはこれだな
その分、弁が雄にならないわけだが

>>642 
ブサヨのお花畑、現実無視になっていくわけだ
最後は無防備宣言だな
645名無し三等兵:2012/04/11(水) 17:35:26.45 ID:ioO6gnjn
この機関誌の中国に関する論文に孫子なども取り上げられていて興味深かったよ。

『国際政治』167号
「安全保障・戦略文化の比較研究」
ttp://jair.or.jp/publishment/kokusaiseiji/843.html
646名無し三等兵:2012/05/08(火) 03:48:01.26 ID:u3ccmYHC
確証はないが、思うに孫子の言説は彼の時代までにあった事跡から
共通項を見出してまとめたものなんだろうな。今の官僚や大学教授の論文や
レポートみたいなものだったんだろうな。
647名無し三等兵:2012/05/08(火) 08:29:55.64 ID:J4ZhrQwK
まあ今でいうサーベイ論文だな
648名無し三等兵:2012/05/31(木) 18:12:00.10 ID:ysAsnvRA
ネタがない
649名無し三等兵:2012/07/20(金) 23:40:22.27 ID:???
なんかこの
650名無し三等兵:2012/09/16(日) 17:30:30.75 ID:5r4UOhjM
マニュアル倉庫 - 統帥綱領
http://www4.atwiki.jp/tomoniaruyashiro/pages/27.html

誰か続き打ち込みしませんか?
651名無し三等兵
孫子と共に老子も勉強しろ