小火器総合スレッド M1A 2

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坂本天山(1745年〜1803年)
信州高遠藩の高名な砲術家、坂本俊豈天山は、寛政十年(1798年)紀州
の太地浦を訪れた。この折の紀行文「紀南遊嚢」の中で、天山は銃殺捕鯨を主
張している。天山の見た、太地の捕鯨法は300人を超える人数で銛と網によ
る不経済非効率なものであった。
天山は漁夫が鯨を恐れ、銛の打ち方も拙く、操船もよくないと批判した。「我
輩此ノ家ヲ掌リテ下知ヲナサバ此ノ間中ヨリ逃レタル魚ハ皆獲ツベシト思ヘリ、
又我ガ神器(鉄砲)ニテ制セバ殊ニ易々タルベシ、千百群ヲナストモ鏖獲スベ
シト思ヘリ」更に天山は入り江に追い込まれた二頭の背美鯨(セミクジラ)に対
して、帯刀を銃に模して頬付けをして構え、「天晴レ余ガ百目カ五十目ノ抱エ
筒ヲ携居タランニテハ手ノ下ニ二頭共ニ獲ツベシト思ヘリ」と豪語している。
(天山全集信濃教育会)

この時の二頭の背美鯨は二重に張った網を破り二百本の銛を背に受けたまま
沖へ逃げ去った。失った網代は百両、銛の代金は五十両であった。もし百目玉
火縄銃を用いれば、一両の玉薬代で十頭は仕留めることができたであろうに。
しかし、この後に天山が大筒で鯨撃ちを決行したという話を聞くことはなかった。