1 :
名無し三等兵:
リアル中学生ですが教えてください。歴史の先生から、
・鎌倉武士は個人戦法、一方の中国軍は集団戦法で、戦術的・文化的に大人と
子供ほどの違いがあった
・日本軍の武器は太刀のみ、一方の中国軍は今で言う手榴弾や地雷のようなもの
まで使い、技術力の差は絶望的だった。
・日本軍は徒歩での突撃、中国軍は騎馬兵中心で、日本軍には機動力っていう
概念もなかった。
こんな状況で、当たり前のように日本は中国軍に散々蹴散らされ、もうダメだって言う
直前にたまたま台風が来襲して、偶然日本は助かった。
日本が勝ったわけじゃない。
こんな風に説明されました。
でも、何かおかしくないですか?中国軍は、海上から上陸してきたんでしょ?
最初の攻防は海岸線での上陸阻止戦なのに、なんで馬や地雷が関係あるの?
あと、散々苦労して上陸に成功したのに、夜はわざわざ船に戻って寝てたの?
台風で全滅したって事はそうなんだろうけど、普通上陸に成功したら野営するんじゃないの?
ただ単に、兵站が続かなかったから中国軍は撤退しただけじゃないんですか?
2 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 10:19:13 ID:???
当時まだ日本は大陸と地続きだったわけだが。
歴史で習わなかったか?
3 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 10:21:30 ID:e9mtJNDz
4 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:08:07 ID:???
>>1 おめー言葉にとうが立ち杉てんだよ
オレはなー
オヤジが厨や処女のフリして他人様に甘えるのが三度の飯より
5 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:14:36 ID:E89cjkkI
>兵站が続かなかったから中国軍は撤退しただけじゃないんですか?
最初の文永の役についてはそのとおり。
というか目的は威力偵察ではなかったかという説もある。短期間で矢が尽きてるし。
>鎌倉武士は個人戦法、一方の中国軍は集団戦法
文永の役緒戦はそうだったが、鎌倉方もすぐに集団戦法に転じている。
>技術力の差は絶望的だった
弘安の役は防御陣地に依っての防衛戦。
そこで有効だったのは弓。弓の性能はむしろ日本のほうが良かった。
>中国軍は騎馬兵中心で
元軍は馬はほとんど連れてきていない。
高麗に突貫工事で造らせた舟は小型で騎馬の輸送には向かなかった。
6 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:23:05 ID:???
7 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:26:54 ID:???
8 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:31:20 ID:???
台風とか関係ないよ
鎌倉武士は一人で百人をなぎ倒す猛者ばかりだった
元軍には人間台風として恐れられた
9 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:42:32 ID:???
> 戦術的・文化的に大人と子供ほどの違いがあった
> 技術力の差は絶望的だった。
> 日本軍は徒歩での突撃、中国軍は騎馬兵中心
日本の軍隊あるいはそれに準ずるものは、700年前からずっと
人命軽視、戦略皆無、戦術皆無、精神力さえあればおk
でどうしようもない代物なので、9条原理主義で軍備完全撤廃しようよ
というのが背後にあるんだろうな。
10 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:48:26 ID:???
海のシルクロードがどうのこうの言ったって日本を攻める理由がない
あれはモンゴル人による中韓の人減らしだったんだよ
11 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:12:05 ID:???
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 元・高麗連合軍
幕府側指揮官 北条実政
元軍総司令官 阿塔海
その他の将 范文虎 忻都 洪茶丘 金方慶
戦力
幕府側約40,000人 元軍142,029人
損害
幕府側不明 元軍110,000人戦死・溺死(「ビジュアル日本の歴史」より)
ワロタ どう見ても圧勝だろ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 文永の役から弘安の役まで7年間もあったから何も対策してないわけないな
文永の役で対馬の人間は殺されるか奴隷にされるかしてるわけだし
話し合いのできる相手ではなかったんだろうな
馬鹿教師に教育してやれよw
12 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:14:36 ID:???
台風のおかげで大いに助かった面は大きいけど
そもそもあいての主力は朝鮮人と捕虜だったしな
13 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:18:07 ID:???
鎌倉幕府は朝鮮人相手に苦戦したってこと?
14 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:19:30 ID:???
上陸戦力が船に逃げ込んだ時点で惨敗、
少しでも、余裕があれば、陸上で橋頭堡を維持するはず。
15 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:34:44 ID:???
鎌倉幕府は朝鮮人相手に勝利の美酒に酔い痴れたって意味?
鎌倉幕府は恥ずかしくないの?
16 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:42:15 ID:???
負けたら死ぬか奴隷なのに勝った時喜んじゃダメって馬鹿なの?
何?死ぬの?
17 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 13:00:56 ID:???
つか元寇での元軍を中国軍とか呼んでる時点でおかしいw
弘安の役の方では旧南宋の兵もかなり混じってるけど、中国軍じゃないし
あと、日本軍は太刀のみってのも素人目に見てもおかしい
鎌倉時代からすでに刀は野戦ではあまり使われなくなっており(今の拳銃みたいなもん)、
野戦における主な武器は弓矢と薙刀
あと、日本軍が徒歩兵で元軍が騎馬兵ってのは逆だと思う
元軍は槍を持った歩兵中心で、日本軍は騎馬武者中心って小学校で習ったんだが・・・
18 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:06:18 ID:???
日本軍、元軍ともにメインアームは弓矢。
元軍側戦力約三万のうち三分の一から四分の一くらいが
朝鮮の兵であとは漢人とモンゴル人。
対する日本側は北九州に所領を持つ御家人約五千。
幕府の援軍はまだ太宰府に到着してなかったんでこの劣勢の兵力で持って
当初の元軍の攻撃を凌がなければいけなかった。
そして文永の役での戦いは互いに楯を構えての射撃戦と
日本側弓騎兵による襲撃が主だった。
(こっからは推測がまじります)
兵力に劣る日本側は弘安の役でやったような水際防御は最初から諦め
幕府の援軍と合流した後防衛の準備がある程度整っていた太宰府で
元軍に対し決戦を挑む腹づもりだったようです。
そのため初日の攻防はいくつかの海岸に分かれて上陸した元軍の
合流の阻止と足止めを目的として行われました。
また、手柄狙いのため少数の騎兵で襲撃をかけた御家人は多くいたようです。
ほとんどは射殺されたり重傷をおったりして撃退されますが
ある程度纏まった数で行われた襲撃は効果があったようで
元軍の一部を敗走させています。
あの蒙古襲来絵詞の有名なシーンは実はその敗走する元軍をうしろから
追っかけてるところなんです。
19 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:33:00 ID:???
実際文永の役であれだけの優勢にあった元軍も筑紫山地の向こうには行けなかったもんね
20 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:46:26 ID:???
兵力に劣る日本側は時間の経過とともに
ジリジリと内陸側に押し込まれていきますが
初日での元軍全体の合流を阻止した上。
上級指揮官の一人に重傷を負わせることに成功します。
戦力の差を考えると大健闘、てーとこですね。
日没後、元軍は上陸した浜辺に。日本軍は太宰府に引き上げていきます。
たぶん互いに食料を備蓄していた拠点に戻ったんでしょう。
そこで元軍の上級指揮官たちはこの戦いを続けるかどうか議論を行いますが
「上級指揮官の一人が重傷を負ったこと」
「激しい射撃戦で矢が尽きかけていること」
「今後は敵側に増援があり自分達の数的な優位は
失われていくであろう」
などの理由により明日以降の継戦を断念、
博多の町に放火し(元軍が放火した、という明確な証拠は無いそうだけど)
奴隷を捕えた上で全軍を浜から撤収させます。
帰り道に例の暴風雨に遭って一万以上の犠牲を出し、彼等はほうほうの体で
帰還していきます。
21 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:52:48 ID:???
おっと。
「兵の統率に困難を感じていた」
という理由もあったな。
ここらへんは人種間の問題かなあ。
兵だけでなく上級指揮官も漢人、モンゴル人、朝鮮人といて
(総指揮官はモンゴル人のヒンドゥ)
それぞれの見解に相違があったようだ。
22 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:54:36 ID:ni9w7DVy
23 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:00:38 ID:???
>日本軍は太宰府に引き上げていきます。
夜は大宰府の手前にある水城に帰ったと記憶しているが?
24 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:02:23 ID:???
>>22 そりゃ船内での戦いなら槍より刀のが強いだろう
CQBでボルトアクションライフルよりSMGのが強いようなもんじゃね?
25 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:06:27 ID:???
>夜は大宰府の手前にある水城に帰ったと記憶しているが?
あ、ごめん。そこ間違えてた。水城ね。
26 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:21:41 ID:???
27 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:22:19 ID:REpbohlr
>>11 元軍総司令官 阿塔海
阿藤 快の祖先か?
28 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:47:35 ID:???
あながち、
>>1の教師の話もわざとではないと思う。
少し余談に入るが、元寇の記録は日本側と元側で非常に食い違いがある。
何かというと、日本側の記録にはことさら台風(いわゆる神風)が強調されている。
鎌倉幕府の行動も、皇室の行動もこれに沿うものが多い。
ところが、敵側の記録である「元史」を読んでも「高麗史」を読んでも、文永の役(1回目の侵攻)、弘
安の役(2回目の侵攻)ともに、蒙古・高麗軍の苦戦を記録している。
文永の役においては、日本軍によって撃破され、撤退するために舟に退却した夜に暴風雨にあった
と記録されており、弘安の役に至っては蒙古・高麗軍は「連戦連敗」であり、食料は尽き、疫病は流
行する中、日本軍の追撃を受け続ける悲惨な戦闘の様子が記録されている。
日本側の資料しか見ないでいると、
>>1の教師のようになってしまうのは仕方ないかなあ、と少し思う。
29 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:51:12 ID:???
>>28 それ台風で大損害受けたって書くのが恥ずかしいからそう書いただけに見えるんだがw
30 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:57:37 ID:???
>>28 いや、あえて書かなかったのだけど、「蒙古襲来絵詞」に、武士団が戦功に基づく恩賞を強硬に要求しているのよ。
こっからは予想になるけど、鎌倉幕府は何故武士団の奮戦を認定しなかったのか。それは恩賞が金銭ではなく「土地」であったから。
元寇は純粋な防衛戦であり、勝利しても他国の領地は手に入らない。
つまり、それまでの国内戦と違い、幕府は元寇の功績として配分する「土地」を持たなかったから。
故に幕府は武士団の功績を過小評価し、恩賞を軽減させる必要があったのではないかと。
31 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:10:13 ID:???
『高麗史』八十七巻 「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、
至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』
ものすごいおおまかな書かれ方しかしてないな。
博多湾から上陸してんのに壱岐で戦ったように書いてるし
陸戦で出た損害なのか暴風雨で出した損害なのかすら区別して書かれてない、
というか暴風雨の記述自体がないな。
「元史日本伝」『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、
官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
『鎌倉年代記裏書』『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。
同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』
こちらも暴風雨に関しては書いてないなー
「戦いで破った」てことになってるのがいつのまに
「神風で撃退した」てことになったのが気になる。
元側の記述だと単に「帰った」てだけで破れた、とは書いてないし
それぞれの記述の差がなぜ生じたのか考えるのも面白そうだ
32 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:13:01 ID:???
その高麗史の記述だと壱岐で負けたみたいに見えるが対馬と壱岐は2度とも労せずして奪ったんじゃないの?
33 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:13:32 ID:???
>>1 ディスカバリーチャンネルかどこかでいい番組があったからそれを見てみ。
34 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:21:55 ID:???
『鎌倉年代記裏書』の記述においても
実際には太宰府での合戦は行われていない、という点に注意。
実際は博多、赤坂など沿より岸に近いとこが戦場になった。
個々の立場の差とか、文献が書かれた状況とか、
細かい間違いや食い違いもたくさんあるから考察が大変だなあ
35 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:28:59 ID:???
>>34 実際にはつうか元軍が博多より南に来たっていう話を一度も聞いたことが無いのだが
36 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:30:46 ID:PH2c80bV
だいたい、元寇に使われた船って海を航海するのに不向きで、
日本に到着する前にもかなりの船が沈んでいたんでしょ。
接岸したらしたで、波に翻弄されてすぐひっくり返ったりさ。
37 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:34:36 ID:???
ついでにかっての定説だった
「日本軍、一騎討ちで元軍の集団戦法に大苦戦」てぇのの
根拠になった文献ものせとくね。
『三浦周行 『鎌倉時代史』 第70章』
十九日、敵軍舳艫相銜(ふく)んで筑前海岸に着し、先づ今津を占領し、
二十日、三郎浦(高麗史金方慶伝に拠る。三郎浦の三郎は早良にして、
同郡沿岸即ち百道原〈モモヂバル〉の沿海地区ならんといふ)に上陸し、
百道(モモヂ)、麁原、赤阪等の各地を侵す。
少弐経資〔?〜1291〕、大友頼泰〔1222〜1300.79歳〕、
島津久経〔1225〜84.60歳〕、菊池武房〔1245〜85.41歳〕、
竹崎季長〔1246〜?〕、及び松浦党、児玉党等防戦甚だ力む。
初め我兵、高麗人を軽んず。以為らく、元兵も亦高麗人の如くならんのみと、
先きを争うて赴き戦ふ。然るに元兵は、攻城野戦の功を積んで、軍隊的節制行はれ、
其兵は軽捷勇猛にして射を能くし、馬に長じ、其弓は短しと雖ども、二町に達し、
且つ我軍の未だ知らざる鉄砲をさへ用ゐ、堂々たる密集戦法を以て我が幼稚なる
一騎駈の進撃に臨む。宜なり、其の少からず我軍を悩ませること。
然るに此夜、暴風甚雨、敵艦岩崖に触れて多く覆没し、溺死するもの過当なり。
其中一艘志賀島に漂到し、将士哀を請ふ。即ち百余人
(八幡愚童記に拠る、一代要記六十人許に作る)を捕へて水城(ミヅキ)に斬る。
尋で敵艦悉く逃れ合浦に還れり。此役彼れの失ふところ、凡そ一万三千五百余人。
忽敦等捕獲するところの我童男女二百余人を高麗王及び公主に送れり。
38 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:35:16 ID:???
>>36 そうなの?
高麗人にしろ南宋人にしろ当時としてはわりと海に慣れ親しんだ民族だと思うんだが
39 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:41:43 ID:???
>>37 ちなみにこいつは明治時代に書かれたもの。
この定説はいったいどこから湧いてきたのか・・・
40 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:44:22 ID:???
日本の武士は一所懸命で土地を得るためなら親兄弟でも殺し合うのが普通だから
さすがの元寇も適わなかったんだよ
41 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:47:23 ID:???
法則発動の起源である
42 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:55:30 ID:???
てか教師は自分で研究しないからな。
未だにグリセロールをグリセリンと教えてるし。
43 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 19:13:05 ID:xVWWotER
>>38 海に適した船はほんのわずか。
ほとんどは、川を行き来していた船を集めてきただけという艦隊。
竜骨がないので波に弱い。
44 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 19:26:10 ID:???
時空を超えてきた亀船を使ったんだよ
45 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 21:50:16 ID:??? BE:772749656-2BP(1455)
坂の上の雲は、確かに史実とずいぶん違うところがあるけど、あの1冊から
近代史に興味を持つ人が多いという意味で、すごくいい本だと思う。
素直にあの本は、「興奮できる」。
お前らだって史実を学びたくて司馬文学を読むわけじゃないだろうし。
近代戦史の史実を学びたいなら、近くの図書館に逝って「戦史叢書」を素読
すればいいと思うけど、絶対に最初の2〜3ページで挫折すると思うぞw
「坂の上の雲」の最大の功績は、近代帝国主義の時代に、日本人の
祖先は何を思い、どのように必死に時代を生きたかっていう歴史を学ぶに
あたって、子孫にその動機付けを与えてくれることだと思う。
戦術や戦局の史実の誤りは、誤解を恐れずにいれば大したことじゃない。
多くの日本人に、近代史を学ぶという動機付けを与える強い力を持っているって
意味で、明らかに良書。
46 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 21:51:56 ID:??? BE:386375235-2BP(1455)
あわわわわわわわわ
なんでこんな所に誤爆を・・・・
みなさんすみませんでした ピョーン°゜°。。ヘ(;^^)/ スタコラサッサ
47 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 21:54:51 ID:???
>>43 キール無いんだ
でも清代のジャンク船は輸送力でヨーロッパの帆船を上回ってたという話をどっかで聞いたような気が・・・
48 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 22:37:08 ID:C96GNUM8
>>47 そりゃあそこのメイン輸送は川を使っていたんだし。
49 :
名無し三等兵:2007/11/10(土) 23:01:09 ID:???
「第二次元寇時の鎌倉幕府の戦略は、撤退戦で敵に消耗を強いつつ内陸部までおびき寄せ、
補給線が伸びたところを撃破するというものだった」と主張する学者(?)もいた気がするが。
50 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:00:49 ID:/u3K6C8C
51 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:05:49 ID:??? BE:1236399168-2BP(1455)
52 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:06:57 ID:???
>>30 蒙古襲来絵詞は竹崎季長が恩賞の海東郷を与えられたかなりあとに作られてる
現在では恩賞を要求するために描かせたというのは根拠がなくなってる
確かに絵詞には安達泰盛邸をたずねる場面はあるが…
53 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:11:31 ID:22N9q06o
元軍は台風で沈んだんじゃなくて、ボロ負けして撤退しただけ。
54 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:16:10 ID:???
55 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:16:47 ID:4viijqT2
撤退中に台風にあって全滅
56 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:51:39 ID:???
勝手に上陸すると出入国管理法違反で福岡県警にタイーホ。入国管理局に引き渡される。
難民認定が出る事を期待して市民団体の支援を受けつつ沖合いで待機
57 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 06:19:57 ID:???
>>39 鎌倉時代の武士が一騎打ち戦法で戦っていたというのは、「八幡愚童訓」という八幡信仰布教のための
宗教書が唯一の根拠となってる。
でも、その「八幡愚童訓」は実は後世に改編された物で、オリジナルにはそんなこと書いて無い。
戦後の元冦研究はインチキだから、そのことを内緒にして改編された方を資料として使い続けてるけどね。
唯一の根拠の「八幡愚童訓」に資料価値が無い以上、鎌倉武士が一騎打ち戦法で戦っていたなんてことを
裏付ける資料は存在しないっていうことになるよな。
実際に元冦の戦闘に参加した武士の残した資料である「蒙古襲来絵詞」では、武士は集団戦法で戦って
元軍を蹴散らしてるし。
58 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 13:16:33 ID:???
>>34 大宰府って今でいえば防衛省
有事に防衛担当の者が出向いて戦うのは不自然じゃないと思うが
59 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:10:52 ID:Tcj7tTRg
一騎打ち戦法みたいな奇麗事として扇を持ち出し、舞いまで踊った平家の連中を
那須与一が「ふざけんなボケ」って射抜き殺して源平の合戦が始まったのに、
その末裔の鎌倉幕府が一騎打ち戦法なんか取るはずがないだろう。常考。
60 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:30:31 ID:07Qx1UcN
元は馬鹿チョンに船を作らせたり
河川運行用の平底船を持ってきた
しかも元は内陸部の騎馬民族だから
艦船はただの運搬目的としか考えてなかった
そのあたりが玄界灘の荒波にやられた要因だろうな
61 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:39:44 ID:???
62 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:50:20 ID:???
高麗が自分たちも乗る船に手抜きする訳がない。
元軍は文永の役も弘安の役も普通に戦って負けただけ。
63 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:50:27 ID:???
ttp://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm 件の有名な場面の全体図。
当時の武士だけでなく元軍側の装備や戦法も見れる貴重な一枚。
季長に向かって矢を放つ手前の三人の蒙古兵は後世の加筆。
画面左は負傷して退却する蒙古兵と、麁原(そはら)に陣取る蒙古軍の本隊。
画面右は、季長の旗指(はたさし)・資安(「季長旗指、三郎二郎資安」)と、
季長を救援するため駆けつけた白石通泰(しらいし・みちやす)の軍勢
(「白石六郎道泰、其勢百余騎、後陣よりかく」)。
【解説】
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。武房はすでに敵と戦い,首二つを薙刀に貫いて引き上げてくる途中であった。
それを見た季長は,いっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。
菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み,本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は,
馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
武勲をあせり馳せ向かう季長に対して藤源太資光は味方を待って合戦に臨むよう忠告したが、
季長は先に功績を挙げることが肝要と突進していった。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
まず、旗指が馬を射られて跳ね落とされた。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻めてきたため、敵は退却を始めた。
こうして、季長は一命をとりとめただけではなく、
互いに勲功の証人となることを誓い合ったのであった。
さらに敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。
64 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:55:18 ID:???
解説を見る限りじゃー
竹崎季長はけっこうな猪武者だったようです。
後から来る味方待たずに突撃してるし
弘安のときも頼み込んで他の御家人の船に乗せてもらって
出撃してるし
65 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:55:38 ID:07Qx1UcN
>>62 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E7.A5.9E.E9.A2.A8 敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて
日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。
遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し
連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。
また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として
船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。
彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり
突貫工事的に手抜きによって建造されていた。
また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため
士気が低かったと思われる。江南軍のほとんどが嘗ての南宋の兵であり
放っておけば社会不安の要因となる彼らを厄介払いする目的もあったと言われる。
(それを裏付けるように、モンゴルの司令官たちが乗った船は一隻も沈んでおらず
江南軍に従軍した兵士達の墓も旧南宋の領内では確認されていない。)
66 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 15:43:46 ID:???
>>65 >日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。
>遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し
>連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。
元軍が船上の戦法を心得ておらずというのは嘘。
元軍は1271年の三別抄との海戦や、1279年の南宋の大艦隊との海戦に勝利している。
それから文永の役ではお得意の騎馬隊も鎌倉武士の集団戦法に負けてるしな。
>船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。
>彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり
>突貫工事的に手抜きによって建造されていた。
高麗人が自分たちも乗る船に手抜きをしたなどと書いた史料はない。
弘安の役でも高麗製の船に乗った部隊は、旧南宋製の船に乗った部隊より遥かに生存率が
高かった。
そもそも元冦は高麗側からフビライに要請して実現した侵略戦争であり、高麗に不満など
あるはずがない。
>(それを裏付けるように、モンゴルの司令官たちが乗った船は一隻も沈んでおらず
>江南軍に従軍した兵士達の墓も旧南宋の領内では確認されていない。)
これも嘘。
高麗史には文永の役の暴風で「官軍(つまり元兵)の溺死するもの多し」と書いてある。
それから、弘安の役でも副将の范文虎の乗っていた船が沈没し、漂流しているところを
救助されたという記述もある。
あと、元史の記述では、台風の後で日本に置き去りにされ処刑された兵士の中には、高麗兵や
女真兵だけでなく、蒙古兵も含まれている。
最後に、江南軍に従軍した張成という人物の墓が発見されているぞ。
67 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 16:47:14 ID:oAd9eAKN
>>66 結局のところ蒙古は船戦対策だってそれなりにして、配下の高麗、漢人、旧南宋兵も先頭意欲満々。
船だってぼろいもんではなくしっかりしたもの作らせた。
世界史上空前の大帝国を作った民族、教科書や学校教師の教えのような軍事音痴な民族だったらこれ自体が不可能。
しかし鎌倉武士は強かった。鎌倉幕府も馬鹿ではなかった。鎌倉武士の武器も優秀だった。
合理的に戦い戦闘で勝利した。
それが元寇です。
68 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 16:57:08 ID:???
朝鮮はやる気あっただろうけど
宋兵はやる気微妙だろ
69 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 16:57:34 ID:???
そもそも、「また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため士気が低かったと思われる。」って何さ?
モンゴル軍の侵略戦争なんて全部「占領した民族を徴用した多民族軍」だろーが・・・
70 :
名無し亡命@お腹減った:2007/11/11(日) 16:59:24 ID:OA90pc6v
文永と元寇じゃねぇ・・・
日本人だって猿じゃないんだから学習するわな。そりゃ。
台風があって勝ったというのは確かだが、
別に勝つ見込みが0だった訳ではない。楽して勝った。それだけのこと。
第一捕虜の大群と正規で強力な兵少数だぞ。
無論作戦だって日本が優秀だった。どう考えても日本が有利。
1回偵察にきて瞬時に自然に負けて敵の能力も知らずに、
しかも兵士には神の国なんてイメージがあって士気は少ない状況で
もう1回攻めて勝とうなんて考えが甘すぎる。
その上もう1回台風の到来。どうやって勝つっていうんww
71 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 17:32:12 ID:???
2回目は防御固めてたから良かったけど
1回目のときに大群で来られなくて良かったな
72 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 17:35:07 ID:???
73 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 20:59:35 ID:???
元に率いられた高麗軍に上陸されて蹂躙され尽くした能古島、糸島半島先端の西ノ浦あたりは
今や特アからの密入国が頻繁にある場所です、よく巡視船「はかた」や「あそ」「みずき」などが警戒しています
74 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:04:15 ID:3jV+gcKc
中国が作った、対モンゴル用要塞、万里の頂上は、容易にモンゴル軍に越えられたが。
日本軍が対モンゴル軍用として海岸線に築いた、石塁は越えられなかった。
75 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:18:25 ID:???
>>73 あそって雲龍型空母阿蘇を連想させるなwwwwwwwwwww
76 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:26:38 ID:???
>>62 急な計画だったから造船が間に合わずに、川の運搬船をいっぱい集めたんだよ。
しかも作った船さえ
>>65のありさまw
77 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:29:25 ID:???
>>67 いや、あれだけの大船団を作るには時間があまりにも足りなかったんだよ。
だから川の船を持ってきた。
78 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:36:02 ID:???
日本史板でしろよな
79 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 22:50:26 ID:???
中世の東シナ海を通しての日本と宋/元/明との貿易って相当盛んだったと思うんだが、
当時の中国人に外航に適する船を作る技術がなかったとは思えんのだが
むしろ元の命令で短期間に突貫工事で何千隻も作った粗悪な船だったからあっさり沈んだんじゃないの?
80 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 22:55:01 ID:???
80そし
81 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:00:30 ID:???
>>75 鋭いシェイプの「はかた」が一番好きですが
「あそ」と「みずき」は前部に載せた機銃が頼もしいですね、この2隻は遠くから識別するのが少し難しいです
高麗から押し寄せた軍船で埋め尽くされたという今津湾では巡視艇「とびうめ」もよく警戒しています
82 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:00:55 ID:???
>>78 むしろあえて軍板でやるからには軍事的な考察をするのがよろしいかと
元軍は海岸付近ではわりと優勢に戦って博多を侵すことが出来たのに
水城の先(つまり筑紫山地以南)には侵攻出来なかったんだよな
俺が思うに、今北九州に中国なり韓国が攻めてきても以外と似たような結果になるような気がするんだよな
海岸線付近では艦砲と陸揚げした砲兵に阻まれて機械化の進んでいない第4師団が橋頭堡を叩くのは難しいだろうが、
かつて水城と大野城・基肄城のあったラインで陣地による抵抗を試みればそれ以上南に行くのは難しいだろう
それでも敵は元軍よりはまともな準備をしてくるだろうからおれだけで帰ったりはしないだろうが、
彼らにお引き取り願うには富士教か7師がくるのを待てばいいかと
ごめんやっぱ他スレでやったほうがいいかも
83 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:06:12 ID:???
中国、韓国あたりが九州に侵攻してくる場合は
まず春日の駐屯地付近にミサイルによる波状攻撃を仕掛けてきそうな気もしますね
84 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:22:56 ID:???
まあ波状攻撃をするほど機体とミサイルの余裕があるかどうかは分からんが、
航空攻撃が先に行われるのは間違いないだろうな
85 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:44:33 ID:???
>>84 全国各地での市民?による反戦デモの方が先だろ。
86 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:50:38 ID:???
最近の傾向だと10人以下の寂しいデモしか起きないと思うが。
87 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 05:04:42 ID:???
攻めて来られて反戦デモやってたら
さすがに白い目で見られるよな
88 :
東条大将:2007/11/12(月) 07:09:05 ID:???
武器が刀槍に過ぎない元寇の時代ならともかく、現代では他の方面軍が援軍として来るのを座視するほど中韓連合軍は甘くはあるまい。
上陸して来るくらいだから制空権は中韓連合軍のもの。第七師団は移動中に空爆で叩かれるだろうな。
89 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 07:42:03 ID:???
>>76-77 高麗製の船は弘安の役の台風でも無事だった。
手抜きどころか精魂込めた立派な仕事。
元艦隊は外洋用の大型船300艘の他に、上陸や給水などに使用する使い捨ての小舟600艘も
装備していたから、発見された船はそれだろうな。
90 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 07:55:03 ID:???
じゃあ明らかに人減らしの旧宋兵がそうやって・・・
南無
91 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 11:40:21 ID:wwaxhfwW
>>89 中国の川は広大だぞ。
川の船だからといって、小さいものではない。
92 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 11:46:01 ID:???
そういうレベルじゃないだろ海と川の違いは
93 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 12:49:28 ID:???
>>92 おまえは対岸が見えないくらいの川を知らないのか?
当時の外洋船の大きさを過大視していないか?
94 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 12:55:00 ID:???
どうしても「日本が遅れていた」「日本が弱かった」としたいのだろうな。
左巻きの史観だと、戦前、そして封建時代の日本が世界的に優れてると、
国民主権の時代、そしてその後(?)の社会主義の価値が相対的に無くなる。
左へ行けば行く程、素晴らしい世界になるんだよ♪としたい訳だ。
更に中朝は「日本が優れているのは我々のお陰」と言いたい。
「日本が独自に優れた国になった」とは死んでも認めたくない。
ここら辺の事情で歴史教育はバイアスがかかる傾向がある。
少なくとも後半は日本の国土で元軍と真っ向から戦えていたのは事実であり、
元軍の敗北の最大の原因であった「兵站」がしっかりしていたとしても、
日本全土が征服されるという事態にはならなかったであろう。
大陸型の機動戦法を島国の日本が知らなかったのは必要が無かったからで、
国として全てが大きく劣っていた訳ではない。わずか300年後には、
逆に朝鮮へ出兵し、明王朝滅亡の遠因となった程の大戦争を戦っている。
たった300年で、それ程に差がつくとは考えにくいがどうか?
ついでに「元寇」は「高麗」が元の皇帝に強要されたのではなく、
高麗が積極的に日本侵略を企図して動いたのだが、教科書にはあるまい。
95 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 13:01:50 ID:???
96 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 13:52:43 ID:???
新羅の時代から九州北岸部はたびたび半島からの侵入者に蹂躙されてましたからね
いきなりやってきては略奪をはたらき村を焼き女を襲い住民を虐殺する
こういう非道を小規模ながら何度も繰り返してきたことさえ教科書には載りません
元寇や刀伊の入寇と呼ばれているものはそれが大規模に行われたものですが
住民がこういうのに慣れており比較的混乱も少なく武士団に協力できたのも勝因のひとつではないでしょうか
博多の旧くからの名家や生粋の福岡人は伝統的にいわゆる嫌韓ですが、それはやはり理由のあることです
とくに自分たちのつくった街を焼き払われた宋人の怒りはかなりのものだったといいます
自分たちにへこへこそていたはずの高麗人が元をバックにつけるやいなや高圧的に侵略し街を焼いたわけですからね
97 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:12:33 ID:???
>>94 戦前、戦中だと「日本は神の国」だと教えるために
元寇は神風で勝った、というのが定説になってたみたいね。
元寇はその時々の体制や国家のイデオロギーに応じて
さまざまにわい曲されて歴史教育に利用されてきた。
>どうしても「日本が遅れていた」「日本が弱かった」としたいのだろうな。
こうした史観は
>>37の文献のように早くも明治時代から出現してたようです。
西欧の進んだ技術、思想を取り入れるにあたってこうした考えが
むしろ逆に必要とされていたのかも・・・
思った以上に根の深い話だ。
98 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 15:52:38 ID:???
>>97 元寇は神風で勝った、なんて説は、戦前は定説じゃなかった。
>>37みたいのは少数意見。
白鳥庫吉博士が書いた昭和天皇のための歴史教科書では、文永の役は武士が奮戦して
元軍を撃退した事になっていて、「神風」なんて記述はまったくない。
昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳) 出雲井晶・訳 講談社
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に
迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに
退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』
文永の役の勝因が神風という説が一般化したのは戦後になってから。
99 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:27:44 ID:???
>>93 海と川は水のもつ力学からしてちがうんよ
波とかそういうのがいろいろ面倒な負荷を船に与えるらしい
俺も専門家ではないのでさわりの情報だが同じ大きさの船が作れても当時の川用の船は海ではもたないとのこと
>>93 大きさの問題じゃなくて川と海じゃ
船の作り方が全然違う
>>99 だから、造船が間に合わずに川用の船を利用したから、大半の船が海の藻屑となったわけよ。
>>101 元艦隊全部に渡航能力が必要なわけじゃない。
川用の船は外洋航海中は渡航用の大型船に曳航したり収容すればいいだけ。
海の藻屑となったこととは関係ないよ。
外洋航行への向き不向きを別にして
単純に船体のサイズで見れば
黄河とかのでかい河で使ってた船でも
外洋航行できそうなでかい船はあるよ。
>>102 曳航って、海の波に耐えられない作りなのに何の意味があるんだよ。
収容ったって、おまえは川の船のでかさを知らんのか?
>>103 竜骨がないと、でかい船は海の航海には耐えられない。
106 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 18:08:20 ID:3Hds+/0B
>>104 元艦隊には限定された目的のための小型船が多数含まれていたんだよ。
川用の船ってこれだろ。
だから最初から外洋航海能力は必要無いの。
>>97 >>98 イングランドがイスパニア無敵艦隊「アルマダ」を
破った時に、「神」が風向きをイングランド有利にした、
従って、イングランドは「神」によって正義と認められたんだ!
そんな戦勝記念メダルが作られた事があります。
「神風」も「日本=正義」としたい、そんな流れでしょうか。
戦時中に士気高揚のために一気に流布された考え方のようですね。
明治維新以前の日本を遅れた暗黒時代と考える史観が見直されて
来ていますが、少なくとも秀吉の朝鮮出兵の頃の日本の国力は
欧米列強・中国と比較しても対等程度であった考えられます。
室町期に日本の国力が相当な勢いで発展したのは間違いないのですが、
これも明治維新と同じで基盤が無ければ出来ない事です。
「白村江の戦い」の時代でさえ、既に5万超の兵力で
遠征して唐と戦える国力があったわけですから、
鎌倉時代だけ日本の国力が弱まっていたとは考え難いです。
>>1 要するに「日教組」「サヨ教師」を叩けばいいんだろ
学校によっては、アイヌはモンゴルに勝ったとか教えてる所もあるみたいだな。
実際には負けた記録しかないのに。
史料には勝ったと書いてある鎌倉武士は負けたと教え、アイヌではその逆をやる・・・
歴史教育で勝敗を決めるのは、史料ではなくイデオロギー。
秀吉の朝鮮出兵は小学校の社会の教科書に大きく書いてあるのに、
応永の外寇や刀伊の入寇は高校の文系選択者のみが使う日本史Bの教科書に小さく書いてあるだけのは何故だろう
本来こういう国難こそ歴史で教えとくものだと思うがな
私が中学生のときの若い社会教師は
「イムジンウェラン」という言葉を私たちに暗記するように言い
試験のときもそう書かないと正解にしないと明言していました
小学生のときの元軍国少年の先生は「朝鮮征伐」という言葉を使っていました
「唐入り」という言葉を知ったのは大人になってからです
>>106 ナショジオかなんかの番組で沈んだ船に竜骨がなかったというのをやってたよ。
かなり大きい船だったよ。
>>105 遣唐使や遣隋使の船って歴史の教科書でだと
平底で竜骨が無い形をしてたような記憶があるんですけれど
700年前のネタで盛り上がれるなんて軍オタってすごいな
>>113 ジャンクって大型のものでも竜骨はないよ。
でも外洋ではまったく問題無し。
>>117 対馬海峡は波が荒いときくが、そんなとこでも平気なのかね?
川から持っていった船はそういうのとは構造も違うんじゃないか?
119 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:30:09 ID:ri0PYmvD
まず鎌倉時代の日本は世界の中でも大国だったという認識持つべき。
中世のヨーロッパでの戦争は数千程度だけど、日本は源平、奥州藤原氏など万単位の軍隊動員できる政権がいくつもあり、
一応東国のもと統一された承久の乱で鎌倉幕府は10万以上動員している。
こんな国は当時それほどない。
そして鎌倉時代は米の二毛作がほぼ全国に普及したのに中国では南方でやっと始まったばかり。
それから時代は少し下るけど日明貿易では日本の日本刀や鎧などは主要輸出品。
ようするに鎌倉時代の日本は大国で農業先進国で工業先進国でもあった。
明治維新までずっと遅れていたなんて歴史観をまず拭い去るべき。
まぁ中世欧州なんて辺境のド田舎もいいとこだしなぁ
>>118 川から持っていった船とか言われてるのは、もともと雑事用の小型船だろ。
そんなの外洋航海能力なんか無くて当然。
>>121 兵士や大砲運ぶんだから川のでかい船を流用したんだろ。
ナショジオの番組でやっていたのはそれなりにでかい船だったぞ。
>>119 え、なんで先進国なのに室町将軍は日本国王臣源道義なんて名乗って明に臣称してんの?
カクリコン・カクーラー
室町になってから明のポチに成り下がったわけね・・・
日本国王臣ってのは日本の国王である天皇陛下の臣ってことじゃないの?
128 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 23:22:53 ID:7K/9REQ8
そのとおり
明の使者が携えてきた国書には、次の一文があった。
「爾日本国王源道義」
即ち、日本を明の属国とし、義満をその国王として認めてやる。という事である。
それに対して義満は、属国視を立腹するどころか、逆に易々諾々と受け入れ、明皇帝への国書でも、
「日本国王臣源表す」
と記すありさまであった。明皇帝の臣である日本国王源(義満)が申し上げます、という意味である。
130 :
東条大将:2007/11/12(月) 23:51:57 ID:???
↑たわけっ! それは日本国王・臣源道義と読むのだ。
大明国の臣下である日本の王(つまり天皇を否定している)である源(足利氏は源氏)道義(義満の法名)と言う意味だ!
売国奴足利義満が、日明貿易の利益を得んが為に臣礼をとったのだ。
ああ、嘆かわしい。 はるか昔の聖徳太子以来、我が国は決して大陸に臣下の礼をとった事は無かったのに...義満のアホが。
確かに義満だけは死ぬべき
なんか今とかわんねーな。あ、でも当時は戦争で負けてないか
>>122 鄭和の艦隊とかにも川用の船を改修したのが含まれていたよ
>>122 当時はまだ大砲はないよ、てつはうという爆竹の大きいのがあるだけ
136 :
名無し三等兵:2007/11/13(火) 08:39:11 ID:aXLFWNZD
>>123 経済的な利益から名を捨て実を取っただけ。
実際その後の日明貿易では表向き明に臣下の例を取っていたけど
細川氏、大内氏などはトラブルが起きたら中国で乱暴狼藉を働き
明の役人殺したりなどといろいろやってる。心底明を尊敬なんかしてない。
こんなとき威力を発揮したのが日本刀。
当時の中国の文献に「倭刀は剣で受けてはならない。こちらの刀が折られる」
といったものがあるが日本刀は中国兵の刀を真っ二つにたたき折ってしまうくらいの精度だった。
臣従しないと朝貢貿易出来ないんじゃ
『懲録』
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
>>119 君こそ西欧中心史観におかされとるぞ。
当時の西欧はド田舎だったんだ。
せめてイスラム教圏や、中国などの先進地域と比べろよ。
>鎌倉時代の日本は大国で農業先進国で工業先進国でもあった。
そこまですごくないぞ。地域大国かもしれんがなw
工業先進国ってのも大嘘だ。中国の宋って鉄の生産量(質は別として)は、
産業革命がおこるまでイギリスの鉄の生産量をぬけなかったくらい生産してた。
朝鮮やベトナムとかとも違って強力な外圧がなかったから
割と好き放題できたのも大きいよね。
倭冦やバイキングみたいなのもそれほど来なかった。
元寇の時は北条氏による中央集権もだんだん進んできてたし
飢饉、内乱といった国情不安もあまりなかった。
>>139 下三行がちょっとよく意味わかんないんだけど、日本と宋とイギリスの生産量が
それぞれどうだって?
手もとの本、
「大国の興亡」(ポールケネディ著 草思社)と
「概説西洋経済発達史」(荒井政治、竹岡敬温編 有斐閣選書)によれば
宋の時代、11世紀末頃の中国の鉄鋼総生産高が
だいたい十二万五千トン(主な用途は軍事)で
英国がこの水準を超えたのは1790年代
日本がこの水準を超えたのが1910年代となってます。
ただし
宋のは何のデータをもとにして算出された値なのかいまいち不明瞭だった、
という点は考慮に入れつつ参考にして下さい。
143 :
東条大将:2007/11/13(火) 20:26:31 ID:???
足利氏も細川氏も大内氏も心底臣従する気がなく、実利を重んじた見せ掛けだけの臣従である事は分かっている。
そして明の皇帝もそれを知っていて朝貢貿易を許している。
明としては形だけでも臣下の礼を取らせれば良い訳だろ。
がっ!しかし!それでは聖徳太子に申し訳無いではないか?
室町時代に明に輸出された日本の主な物品は「刀」
一説によれば最も盛んな頃は年間三万七千本も輸出されとったらしい
そして明の軍人や支配階級だけではなく個人にも
大量の日本刀が行き渡ることになる。
これらの大量の武器は倭冦が猛威を振るう一因となり
タタール,後金の跳梁、秀吉の朝鮮出兵等と並んで明の軍事財政圧迫と
衰退を招く一大要因を成した。
秀吉の刀狩りに代表される人民の非武装化って実は大事な事だったんだネー。
そして明は日本の朝貢は認めない方が長生きできたかもしれない
145 :
名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:06:17 ID:wLIfABEa
>>139 例が西欧では悪いな。
チムール帝国の皇帝チムールが明の大遠征に率いたのが20万。
オスマントルコのスレイマン大帝のウィーン包囲の親征も20万。
中世においては大帝国でもこんな感じ。
だから鎌倉幕府の承久の乱の10万以上は中世では相当なもの。
しかも鎌倉幕府はこの承久の乱後初めて西日本を実効支配できるようになった。
南宋を滅ぼして旧南宋兵中心に編成した弘安の役でも総勢14万だから、
日本には兵力は充分対抗できた。
工業先進国は確かに表現が悪いけど工業技術は進んでいた面はあった。
今時チムールって・・・
ティムールだろ、常識的に考えて・・・
軍板は平均年齢高いからな
同時代だと、守勢側でモンゴルと戦ったホラズムが40万てところか
>>148 ホラズムの方は国王が軍に信をおかず
各地の都市や拠点に分散配置されていました。
そのためホラズム攻略戦は野戦よりも
都市攻囲戦がメインだったそうで
今、元寇が熱い!
結局その後は明の属国になっちゃうってのもどうかと
「動員可能な兵力」と「国力」が問題になってますが、
この時代は古代王政が崩壊して絶対王政が確立する前で、
中央政権が弱体で地方の封建領主が割拠する形態の国が多かった。
従って一概に「動員可能な兵力」=「国力」とは言えないかと。
牧畜を基盤とする遊牧国家モンゴルの生産性が高かったとは言えず、
むしろ北方遊牧民族は南方の豊かさを目指して侵入を繰り返して来ました。
定住しないが故に技術力や文化も農耕国家と比べると発展し難いです。
「統一の度合」と「常備軍」も国の強さですので、
技術や文化、生産性が低くても強国と成り得る訳ですね。
左巻きが「日本は弱かった!」と言って来たら、
「統一国家権力が弱いと、国も弱くなって戦争で負ける!」と、
こう返してやるのが一番良いわけですね。
「鎌倉武士」達を上手く一つにまとめていくと、
明と朝鮮を相手に戦える秀吉軍のような強さになり、
更にもっと強力に「国民国家」としてまとめていくと、
米英中を相手に真っ向から戦える大日本帝国が出来る理屈。
ただ問題は、傾向として「強力な中央集権国家」をやると、
「富」が強烈に吸い上げられてしまうために「個」が貧しくなる。
崩壊したソ連然り北朝鮮然りで、全体として成長性が阻害される。
(全部税金かと思ったら、そりゃ皆やる気無くなる罠)
「平和が一番」ってのは確かにその通り。
だが逆に「豊かさ」を求めてまとまれなかった為に、
カルタゴや宋は滅亡し、オランダは弱体化し、
富裕を誇った都市国家群も征服され飲込まれた。
結局「適切な抑止力が必要である」という軍事板的な結論になったw
>米英中を相手に真っ向から戦える大日本帝国
さすがにここまで行くと酷使様だ
>>162 真っ向から戦ったじゃないか。
負けただけで。
この場合、国力という概念だから戦ったかどうか
じゃなく、「戦える国力の国家」ととらえるべき
で、そうすると、さすがにそれはちょっと・・・
という事になるな。
166 :
東条大将:2007/11/14(水) 23:08:24 ID:???
↑だまれっ!白熱の議論が展開されているのに水を差すな。
定住農耕民族と遊牧騎馬民族では国力と総兵力の関係がいくぶん異なります。
農耕民族の場合兵力を増やし、遠征を繰り返すほどその影響は
軍事費の増大、人民への増税という形で国政に跳ね返ってくるため
総人口に対する兵士の比率がある一定をこえると
国力がどんどん低下していきます。
一方騎馬民族はその人口や生産力において農耕民族に
圧倒的に劣りますが、
乗馬、騎射、家畜の追い込み等といった戦争にも容易に転用できる技能が
生存のために必須のものとなっている、
定住民族や他の騎馬民族に対する戦争。略奪という行為自体が
生活の一部を成しているため平時、戦時の境目が無いに等しい、
といった要因により総人口に対する動員可能な兵力の割合を
農耕民族より遥かに高く設定でき、遠征の連発も
国力に悪影響を及ぼしにくいという特徴があります。
>>162 なんの脈絡もなく登場する左巻きと脳内幻魔大戦を始めた時点で酷使様だろ
玉川大学の元寇サイトもひどいな
>1
元軍の作戦は、
・朝鮮半島方面から別動隊(東路軍)が九州北部に上陸して、日本軍を引き付ける。
・中国本土から出発した本隊(江南軍)が、沖縄経由でぐるっと迂回して日本軍の背後に上陸し、
日本軍を包囲・殲滅する。
というものだった。
しかし、事前の準備不足や、元軍の実態が旧高麗軍、旧南宋軍などを寄せ集めた多国籍軍
だったことによる指揮統制の不備、10万人を超える大軍に対して海路で補給を維持することが
当時の航海・造船技術では困難だったことなどから、作戦は失敗。
後退した日本軍との間で、塹壕戦になってしまった。
塹壕にこもって弾幕射撃で応戦する日本軍の防衛線は、いかに元軍の得意とする騎兵隊の
突撃であっても突破することはできなかった。当時は、まだ戦車や装甲車はない。
まったくの消耗戦が数ヶ月続き、結局台風シーズンになって海路が荒れて補給切れ。
元軍はやむなく撤収した。
>10万人を超える大軍に対して海路で補給を維持することが
当時の航海・造船技術では困難だった
兵糧に関しては船団の中に必要な分だけ積んで来る、て感じだったな。
弘安の時なら兵糧を3か月分は搭載してただろう。
そもそも「海路による輸送で補給を維持する」という発想は当時あったんだろか。
>塹壕にこもって弾幕射撃で応戦する日本軍の防衛線は、
いかに元軍の得意とする騎兵隊の突撃であっても
突破することはできなかった。
野戦での元軍側の戦い方も歩兵による弓矢の射撃を中心としたものだったよ。
日本側と同じく大きな盾をたくさん並べて置き、矢で弾幕を張る。
資料からすると彼等は騎兵隊も同伴してきてたようだけど
元軍の騎兵部隊の主力は専ら弓矢の射撃で戦う軽騎兵で、
敵に突撃を行うような重装備の騎兵はあまり数多くは居なかった。
ただ・・・
文永の時に元軍が持ってきた軍隊がどういうモノだったかは
もっと慎重に考える必要があるな。
同じ元軍といってもモンゴル軍本体と、朝鮮で戦ってた部隊、
南宋で戦ってた部隊とかでは編成が異なるはずだ。
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm この図の一番左側に陣を張る元軍が描かれている.
この兵士たちを装備によって分類すると・・・
(1)弓矢を装備した歩兵
(2)槍を装備した歩兵
(3)銅鑼を持った歩兵
(4)弓矢を装備した騎兵
(5)槍を装備した騎兵
これくらいに分けられる。
(一番右側の3人は後世の加筆である、という点に注意!)
図には3頭しか元側の騎兵が書かれとらんので歩騎の比率とかは分からんけど
概ね弓矢、槍を装備した歩兵が主力で
それに同じく弓矢、槍装備の少数の騎兵がつく、て感じだ。
まあ少なくともこの図をちゃんと見てりゃ
「元軍の戦法は騎兵突撃」なんて考えは出てこないだろ
>>171 モンゴル軍の征服戦争は全部「寄せ集めた多国籍軍」によっておこなわれてる。
「寄せ集めた多国籍軍」だから「指揮統制の不備」があったなどと言い出したら、
モンゴル軍はモンゴル高原から一歩も外に出ることは出来なかった。
そもそも10万以上の大軍の長距離侵攻に船舶以外の方法で補給を行うことは、
当時の技術では不可能。
元軍の艦隊は数カ月分の食料を輸送する能力があり、現地調達に頼るしか無い
陸上侵攻に比べたら遥かに有利。
弘安の役で日本軍は塹壕にこもって戦ったことなどない。
日本軍は志賀島に上陸した元軍を、自分たちの方から攻撃して撃破。
元軍が壱岐に後退すると追撃してこれも撃破。
更に鷹島、平戸へ逃亡し、塹壕にこもって応戦する元軍を攻め立てているうちに
台風が来たんだよ。
あと、元軍で撤収できたのはごく一部。
元軍のほとんどは日本軍によって殺された。
>日本軍は志賀島に上陸した元軍を、自分たちの方から攻撃して撃破
撃破、ってのはちとニュアンスが違う気もする。
志賀島での戦闘は六月六日〜十二日にかけて行われたんだけど
その間、日本と元軍双方の決戦はおこらず、
(というか志賀島は大軍の機動にも物資の揚陸にも地形的に適さない
http://www.kkc.co.jp/social/disaster/200503_fukuoka_eq/20050420/image/1e.jpg 志賀島東岸。このように山と岩場だらけで砂浜や平地は存在しないのだ)
この戦いは人員と物資をなんとか揚陸しようとする元軍と、
それを海と陸(当時の志賀島は干潮時だけ本土から徒歩で行けた)
からゲリラ的な襲撃を反復して妨害する日本軍、という図式で
行われた。
そして最終的に戦闘で1000人、疫病で3000人あまりを失った元軍は
上陸を諦め、東路軍との合流のため壱岐、さらに平戸まで退いていく。
経過を見ると「撃破」よりは「撃退」の方が適切なんじゃないかしら。
>>175 高麗史にはこの戦闘について元軍が「敗績」したと書いてあるよ。
「敗績」ってのは「戦争で大敗する」って意味ね。
>>176 別に元軍側は
この戦いでは負けてないとか、負けを認めてないとか
そういう事を言おうとしてるわけじゃないよ。
「撃破」だろうが「撃退」だろうが結局元軍側の負けにゃ変わりはないし。
ただ「攻撃して撃破」という表現が
どうも戦闘の様相とは剥離してるんじゃないか?と考えたんだ。
志賀島での戦いで元軍側が継戦能力を喪失するほどの
決定的な打撃を受けたのなら「撃破」でいいと思うけど
実際は損害に耐えかねて壱岐に退いた、ということで
戦闘力はまだ保持してたでしょ
(江南軍の増援が無けりゃこの時点で撤退してた可能性は大いにあるけど)
>>175 当時の日本には上陸側が圧倒的に不利という戦訓が無かっただろうから、
今で言う一般的な「撃退」を、敵方の大敗北と記したとしても不思議はない。
数で言えば陸戦での大敗北に匹敵するだけの打撃を与えた、という意味に
解釈するのが自然ではないか。
>>178 いや、元軍側の史料である高麗史に「大敗北」と書いてあるんだよ。
それと、上陸側が圧倒的に不利だというなら、壱岐に退いた元軍に追い討ちかけ、
更に鷹島までの後退を余儀なくさせた日本軍は、上陸側の不利にもかかわらず
元軍に勝利したわけで、滅茶苦茶強かったってことになるよな。
壱岐での戦いは上陸戦ではなく水上戦だ。
少弐経資の指揮のもと、
元軍の艦隊泊地に日本軍が櫓漕ぎの小舟で大挙して殴り込みをかけるという
倭冦を先取りしたような内容の戦闘だった。
この戦いで日本側が壱岐へ着上陸を行った、て話は聞かないから
元軍側が戦力を壱岐に揚げて無かったか
既に上陸してた元軍戦力は無視して船だけ襲ったんだろう。
この件に関してもっと詳しいこと知ってる人いたら教えて。
この戦いは六月二十九〜七月二日まで続き、最終的にここも支えられなくなった
元軍は東路軍との合流のため平戸へ退いていく。
そういえば壱岐に上陸した高麗軍はこのとき徹底的な殺戮を行い、生存した島民は47名しかいなかったそうですね
182 :
名無し三等兵:2007/11/19(月) 15:41:40 ID:r2aijxIo
このとき?
それって博多湾に行く途中、最初に壱岐に上陸したときでないの?>殺戮
その話って、たしか眉唾だって研究もあるよね。
その話ってどの話かしら?
最初から兵站が続かない時点で蒙古軍の敗北はほぼ決まっていた。
仮に今、日本がどこかへ上陸したとしても、
補給も補充も一切無しでどれだけ戦えるだろうか?
蒙古帝国が強かったのは遊牧民族であるために、
「遠征」しても兵站が維持されるからだ。
ハマチか何かを養殖しながら船上生活する民族だったら
ひょっとしたら日本も征服されていたかもしれない。
現地調達ですむと考えてたんだろ
アジアの無人の大草原じゃなくその辺中に人が住んでるとこ侵略するんだから
兵站物資の大部分が糧食だからな。
それでも日本側が焦土戦術取ってれば戦わずして楽勝できたろうが、
当時の封建社会ではそれやるの絶対無理だし。
臣下といえど実質は地方豪族なのだから現地の意向は無視できん。
残さず根こそぎ持っていくのは侵略側だけに許される自由なんだな。
昔の戦いは補給の概念がまずちがうからなー
モンゴルみたいな遊牧騎馬民族はまず「奪うために戦う」
自分達が飢えれば他の騎馬民族から羊を奪い、
農耕定住民族からはお宝、穀物、人(奴隷)と何でも奪う。
略奪そのものが彼等の戦争の目的であり生活の一部でもあった。
そして遊牧民族である彼等は
自分達の食糧であり財産でもある家畜たちを軍事遠征でも常に同伴しており、
干し肉やチーズといった形でそこからダイレクトに補給を受けていた。
それ故彼等の軍隊はケタ違いに広い行動範囲と高い機動力を得られたんだ。
だから現代の軍隊で言うとこの補給の概念がどこまであったかはちと怪しい。
ちなみにこいつが悪名高い牟田口の「ジンギスカン作戦」の元ネタになった。
漢人のような定住民族型の軍隊だと現代の軍隊の如き補給の概念が存在し、
馬匹による策源地からのピストン輸送で兵站を支えるシステムになる。
モンゴルも漢人を兵士として使い出すようになってからは
部分的にこちらのシステムに切り替えていったんじゃないかなあ
元寇の場合だと当座は船に積んだ兵糧を使い、占領地域ができた後は
そこでの現地調達でまかなう、という腹づもりだったんじゃないかと思う。
作戦の規模と期間を考えるとそこらへんの見積もりが
ちと甘かったんじゃないか? とは思うけど。
元の立場から見れば
日本を占領しても利益ないべ
騎馬民族にしてみれば大陸の広い大地は利益になるが
馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。
1回目の目的は偵察
2回目の目的は支配下に置いた宋の残党の厄介払いが目的で、やるきなし。
どっちにしろ外交上(元の覇権を認めろ、元の内政上のご都合)の問題で、戦争が目的じゃないべ。
戦争が目的なら、元の支配本土が打撃受けたわけじゃないんだから、何度でも来るべ。
日本の政治家連中が何を勘違いしたのか、勝利なんてうたうから。
日本がうまみを持つのは、1945年以降 ソビエト連邦を背後から牽制する状態だけ。
アメリカ以外が日本を占領してどんなうまみがある。
>1回目の目的は偵察
趙良弼の偵察活動は無視ですか。
>馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。
馬を養うのが難しい山だらけの南宋占領して何の利益がある。
>日本の政治家連中が何を勘違いしたのか、勝利なんてうたうから。
その政治家というのは具体的には誰のことですか?
191 :
名無し三等兵:2007/11/20(火) 22:42:38 ID:7UhmH5lm
鎌倉殿(いわゆる鎌倉幕府)の幹部たち
それを綴った『吾妻鑑』を参考にした鎌倉以降の武家や公家
明治期の政治家や学者
>馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。
ジンギスカンが金を滅ぼした時にいいました「農民はヌっ殺して畑は牧草地にしてまえ」
耶律楚材「もちつけ!!農民と畑は生かしとけば毎年年貢をおさめてくけれるぞ」
馬を養うことの重要性の段階はとっくにおわっトル
>>189 >馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。
馬を養うに足る地かどうかについて述べているわけじゃないが、
趙良弼も「山水多く、耕桑の利無し」って言ってるな
>>191 >それを綴った『吾妻鑑』を参考にした鎌倉以降の武家や公家
吾妻鏡の記述は1266年までだから、これは当てはまらないかと
>>192 耶律楚材・・・、ね・・・
元寇ってチョソ語のWikipediaに載ってないな
チョソが日本に侵略した歴史を隠蔽してるのか
そうでしょうね、彼らにとって自分たちが日本を侵略しようとして失敗したことなどは
消さねばならぬ歴史なのでしょう
九州北部沿岸は何度となく朝鮮人による侵攻を受けています、そのたびに多くの九州人が虐殺、拉致されました
刀伊の入寇なども朝鮮人によるものではないでしょうか
上陸した賊どもは犬を襲って喰っていた、という記録もあります
94 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:04:59
>>92 威力偵察はありえない
恫喝というのはざっくりしすぎだがそっちのほうがまだ該当する
大宰府落せばそれで日本がしっぽ振って朝貢すると思ってたんだろう
ようは自分らに有利な条件で制限なく貿易させろ邪魔すんなよということだよ
なのでモンゴルの軍事力を見せ付けるというのが目的といえば目的
返り討ちにされて全く目的を果たせなかったが
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!
フビライはDQNだったのか
犠牲出してまで占領するほどじゃないってことでしょう。
農業生産なら大陸の南方のほうがおいしいし
民族は従わなそうだし。目ぼしい資源(蚕や生糸や木材なら、大陸で作っているし)なさそうだし。
元の政治権力の鼓舞したいけど、
裏目に出て元の中央で反乱起こされてもたまらないし。
元の視点から辺境にあたる島々に時間兵力、軍備取られて
元の中央や陸続きの南であるベトナムや北であるロシアで反乱起こされたほうが損。
植民なら他にも候補(インドシナ半島、中央アジア、シベリア、ロシア)があるから、採算割れの日本から撤退。
宣伝したい宗教勢力や政治勢力が、
寺社「神風だ」
幕府「幕府は強い。〜以下、政治営業発言〜〜」。
ただまぁ、産業革命以前の木造船&風任せ・海流任せで海渡るのは、別に元じゃなくても困難な作業。
平和な状態でも船が沈むし、病気は起きるし、んな状態で軍備まで回せといわれても、どこの人間でも厳しい。
>>198 白村江やら朝鮮征討で数万の軍を送った日本は最強ということで
白村江の戦いで大敗北
別に日本や元に限らず
産業革命以前の船舶で戦争するってかなり無理があるぞ。
帰国分の物資のことも考えつつだから、現場の兵隊が使う物資は更に限られてくるし。
むしろ、よく日本にたどり着けたなと思う。
>>200 産業革命以前の船舶でだって渡海侵攻による征服なんか何度もおこなわれてる。
イングランドなんか征服されまくりだっただろ。
元寇の艦隊は3ヶ月分の物資が与えられていて、現場の兵隊が使う物資は豊富だった。
元軍は普通に日本軍よりも弱かったから負けただけ。
>>201 イングランドと日本の気候風土や各種条件の違いを考慮せずに
同列に並べるのは危険だ。
イングランドにゃ台風来ねえしノルマンコンクエストの時は
英軍の主力は上陸したノルウェー軍と戦うためヨークにいたから
ノルマンディー公の軍は無傷で楽々と上陸できたんよ。
元寇レベルの大規模な渡海侵攻作戦が大変なのは
まず第一に船員とか船舶とか、陸戦で同規模の遠征を準備するのに比べて
大量の資本投入が必要になること。
船作るとこから始めると準備に年の単位で時間がかかるし
常備海軍はすげえ金食い虫だ。
元寇の場合はその船や船員を朝鮮側が手配してくれたことでだいぶ
実行へのハードルが下がったわけだけれど。
あとは兵士がおかれる劣悪な環境の問題。
多数の人間が木造の船に所狭しと積み込まれて、
何日も昼夜を問わず波に揺られながら過ごさないといけない。
海に慣れない将兵は当然船酔いに悩まされたろう。
弘安の時は船内での疫病の発生で3000人も死んでるし。
その上でやっと上陸したと思ったら自分達の見知らぬ土地で
即殺る気まんまんの武士たちと戦わにゃならんわけだ。
こうした要素が将兵の士気に大きく悪影響を及ぼしたことは容易に想像できる
>>202 文永の役では台風来なかったし、弘安の役でも台風が来たのは侵攻から2ヵ月後。
元からの使者も全員無事に対馬海峡を往復している。
それに比べて、ウィリアム征服王の艦隊は悪天候で一度海峡越えに失敗しているし、
ハロルド二世も海峡で難破した経験がある。
ノルマンコンクエストの方が、元寇よりも気候風土などの条件は厳しかったんだよ。
それにイングランドはノルマンコンクエスト以前にも海外からの侵攻で征服されてるだろ。
991年にはノルウェーのオラーフ・トリッグヴァサンが93隻の船団に兵1万数千を乗せて
エセックス海岸に上陸し、迎え撃ったエセックス伯ビルフトノースがモルドンの戦いで戦死。
1015年にもデンマークのクヌートの侵攻で征服されてる。
渡航侵攻の成否を決定するのは軍の強さ。
元軍はこの部分で武士に劣っていたから敗北した。
>ノルマンコンクエストの方が、元寇よりも気候風土などの条件は厳しかったんだよ
天候の件は自分の不勉強でした。
>渡航侵攻の成否を決定するのは軍の強さ。
この点に関しては部分的に反論しときたい。
>迎え撃ったエセックス伯ビルフトノース
この時モルドンで襲撃を迎え撃った兵士は200人ぐらいだそうだ。
どーやって勝てっつうんじゃい。壱岐や対馬の戦闘と同レベルじゃないか。
この前後の時期のバイキングの攻撃は基本的に戦術的な奇襲が多い。
敵の防備の薄い部分に船で素早く戦力を集中させ、敵側がそれに
対応する前に目標を達成する、というのが基本的な戦い方で、
襲われる側が防備をがっちり固めていた場合はパリの戦いのようにこう着、
あるいは撃退されることも多かった。
元寇の場合、海軍自体が服従した国家から接収したもので元軍自体は典型的な陸軍。
その点でいわば全員が海兵のようなバイキングとは性質が異なる。
また、渡航侵攻のノウハウの蓄積もあまり多くはなされなかった。
この当時なら三別抄鎮定を初めとする朝鮮半島での戦闘くらいか。
そして元寇に参加した元軍側の将兵はこれほど長距離かつ大兵力での
渡航侵攻は初めてで、改めて遠征用の船を造らせるところから
準備を始めなければならなかった。
そして長期の渡洋侵攻による将兵の士気の磨耗や必要な兵力、兵糧の準備など
未経験である故に見積もりの甘い部分も多かった。
遠征に参加した兵自体は大元ウルスの精鋭も含んでいたし文永では当初
数の面でも圧倒してた。文永の場合は純粋な強さ以外の要素で
決着が付いたんだと考えてるよ。
ええい!もっと手短に分かりやすく書けないものか。
要するに
「元軍は日本への渡洋侵攻に関する根本的なノウハウを欠いてたから
二度とも失敗したんじゃないか?」ということで
軍隊そのものの強さの差よりもそちらの要因の方が
大きかったんじゃないか、と書きたかったんだ。
>>205−206
例えば第4次十字軍と比較してどうなの?
第4次十字軍も全員が海兵のようなバイキングとは性質が異なり、主力のフランス騎士たちは
典型的な陸軍。
第4次十字軍も改めて遠征用の船を造らせるところから 準備を始めなければならなかった。
それでもちゃんとコンスタンティノープルを攻め落としてるじゃん。
あと、元寇で長期の渡洋侵攻が将兵の士気に悪影響を及ぼしたというのも疑問。
金方慶は「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」という兵法を引用し、 長期の渡洋侵攻によって
将兵の士気が高まってると言ってるよ。
韓国人には、このとき高麗が日本のためにわざと手抜きした船をつくったおかげで日本は救われたのだから
日本人は子々孫々にいたるまでこの恩を忘れてはならない、と言う人がいますね
在日の「歴史学者」の著書にもそういう記述があり、とても不思議な感じがしました
>>207 第4次十字軍の遠征を手配したのはベネチアだったな・・・
あん時の攻防戦は8か月の長さに渡ってるから渡洋侵攻作戦というより
普通の攻城戦の性質の方が大きいんじゃまいか。
最大の敵はビザンツの野戦軍ではなく城壁だったわけだし。
初期のイスラム軍に攻められたときゃまだ小アジアの軍管区も、ビザンツ海軍も
健在だったから陸上の補給線を絶つことで撃退できたけど
今回は制海権無いから十字軍側はベネチアによる海上の補給ルートを
普通に使えたろうし、ビザンツ側は既に四方に敵を抱え
後詰めも期待しにくい状況になっていた。
あと金方慶の言葉はあまり鵜呑みにしちゃならんと思う・・・
対馬で配下の高麗兵がよけいな虐殺を働いて本土への上陸をおくらせ、
日本側に防衛の準備を行う時間的余裕を与えちゃってるし
このまま戦っても不利になる一方なのに
「船を焼いてでも戦いを続けよう」とか進言してたりとどうも
状況を読めてないんじゃないかと思える部分がある。
>>209 作戦が長期に渡ったことや、城壁を乗り越えなければならないことは、
元寇では全部元軍に不利な要素として説明されてきたことじゃん。
比較すれば、元軍の方が第4次十字軍よりも圧倒的に条件面で恵まれてる。
第4次十字軍ではピザンツ軍が十字軍より弱かったから征服された。
元寇では武士は元軍より強かったから撃退できた。
こういうことじゃないの?
渡洋侵攻して8ヶ月も野戦より兵站に負担のかかる攻城戦をやってたのか
十字軍スゴw
奇しくもほとんど同年代に行われた戦争だな。
これは以外といい比較対象になるかも
>>210 十字軍が8か月も攻城戦を続けられたのは制海権を握る
ベネチア海軍の補給面でのバックアップがあったからだけど
元寇とちと比較してみよう
・元軍は船の輸送による補給で橋頭堡を維持しようという発想がそもそも無い
当面必要な物資を全て最初の船団に積み込んで行く、という方式をとった。
・十字軍側はベネチア海軍により制海権を確保していた
一方元は弘安のときには制海権も日本側に握られがちになっていた
・当時の幕府の統治体制はコロコロと皇帝が変わり、四方に多くの敵を抱えた
ビザンツ帝国よりはずっと安定したものだった。
・文永以後日本は使者を斬り殺していたため日本側の防衛体制に関する情報が
元側に入らなくなっていた。
一方十字軍側は前年に一度コンスタンティノープルに入城しており
より敵側の防衛体制を良く把握できていた。
・そもそもダーダネルス海峡に神風は吹かない。
・コンスタンティノープル内に多数いたベネチア居留民も十字軍側について抵抗
ビザンツ側が有利な点は大城壁とギリシャ火くらいのもんだな。
何より補給面での十字軍側の優遇ぶりがたまらんなー
仮に元寇に関してもベネチア級の海軍が遠征を手配し補給と増援を行ってたら
えらいことになったろうな。
ベネチアを味方に付ける→勝利
高麗を味方に付ける→敗北
って言いたいんですね
>>212 補給面で十字軍が恵まれていたというのは間違い。
十字軍も当面必要な物資を全て最初の船団に積み込んで行く、という方式でその後は略奪による現地調達。
常にギリギリの状態で、物資が大量に残っていることを理由に踏み止まった弘安の役の元軍の方があきらかに
恵まれてる。
>>212 コンスタンティノープル内に多数いたベネチア居留民は、1171年に全員逮捕投獄され、
そのことがベネチアとの対立の原因だったはずだが
>>215 この戦闘は1204年の話だ
ヴェネツィア人達がコンスタンティノープルにあるイスラム教徒の居住区を襲い
モスクを荒らしたことが戦闘の発端の一つになってるので
逮捕投獄したマヌエル1世が死んだ後いずれかの時点でまた居留地が
作り直されたんだろう。
217 :
212:2007/11/24(土) 16:02:06 ID:???
ちっと調べ直してみたけど第四回十字軍の
第二次コンスタンティノープル攻囲は1204年4月12日、
都市内の有力な貴族がこぞって逃げ出したことで
攻囲が始まってたった一日でカタがついてるな・・・
8か月てのはなんだったんだwikipediaめ。
あと十字軍の補給体制も
>>214のいうような形式だった可能性の方が高いな
適当なこといってすまんかった・・・
つーわけで
>船の輸送による補給で橋頭堡を維持しようという発想がそもそも無い
というのは当時の渡洋侵攻作戦全般に云えることだったのか。
また、この第二次攻囲で
ビザンツ海軍は高さ十数メートルに及ぶ大城壁に乗り移るため
帆柱の上に「攻撃用の橋」を作り、甲板に
投石防御用の板を立てておくなど攻城機材の準備に余念がなかった。
>>217 8ヶ月ってのは第一次攻撃と第二次攻撃を一連の戦争として書いてるんだと思ってた。
今考えると少し計算合わないが・・・
wikiの「12月になり遂に城壁への侵入に成功し」は、恐らく「12月」と「12日」を
勘違いして書いてるな。
元寇と第4回十字軍との比較で言えることは、
第4回十字軍は元よりうまくやった、
日本はビザンツよりうまくやった、ってことであって、
日本が元より強かったという結論にはならんさ。
”文永、弘安の役で”日本が勝ったという事実に変わりがあるわけでもないがな。
>220
第4回十字軍>元
日本>ビザンツ
は成り立つが
日本と元では比較できない
って変じゃね?
たとえば、元がヘタしたから日本が勝った、
という場合、日本がビザンツよりうまくやったとイコールではないのでは?
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!
224 :
名無し三等兵:2007/11/27(火) 22:01:56 ID:TdoXek0z
皆、元寇について真面目に考察している。いいスレだなあ。
>220
普通に考えれば、”文永、弘安の役で”日本が勝った以上、
日本が元より強かったという結論になるだろ
こと戦争において、結果的に「うまくやった」ことを「強かった」と称することに
私はそれほど違和感を感じないのですが、感じる人もいるのでしょうか
勝ったもん勝ちでしょ
戦争は、勝ったもんが強いとしか言い様がないな、
負けた方が弱いでも良いけど。
>227
そこは政治の問題
勝ちを宣伝しすぎる。
すると
負けた(と日和見の第三者に解釈される側)が
「弱点と見られて内部や周辺国から革命起こされると迷惑だなぁ。革命抑止と武威威嚇を目的に進軍するか?」
「採算が取れないから撤退しただけで、負けたわけじゃない。証拠に進軍しようか?」
と
いらない報復を招く。
終わってから10年とか100年程度しか経ってなくて、まだ歴史になりきってない戦争なら分かりますけど
700年以上前の戦争で「勝利を宣伝しすぎたことによる弊害」を気にしないとならないものなのかなあ
半島なんか
1200年前という1000年以上前の
白村江
をひきずっていますが。
中東なんかユダヤ・アラブ双方がそれ以上だし。
Chinaも1000年かけて、王朝の分裂・統合を繰り返しているし。
イタリアなんか800年前の1200年あたりの分裂都市国家(ナポリ王国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、中には1000年近く前)のまま、2001年の現世をつっぱしていますし。
京都では一部の人の間(公家や神官)では戦をさすと応仁の乱(1467-1477)のこというし。
あくまで、(700年前なのにー)は日本側の価値観
気持ちは内に秘め、用心にこしたことはないかと。
政治の世界は、何が言質・口実になるかわかりませんから。
近隣諸国に対する配慮から、
>>1の教師みたいな嘘八百を学校で教えることの方が
遥かに弊害が多いと思うけどな
>>234 隋の高句麗遠征でどうよ?
服属したはずの高句麗が勝利宣言するから3度も攻めた
採算が取れないから撤退ってのもあてはまるし
ともかく、
>>230のいいたいことは
元寇は台風のおかげで勝ったと教育しないと中国が攻めてくるってこと
中国がそんなアホな国なら、日本には戦争する以外の選択肢はないな。。。
237 :
名無し三等兵:2007/11/30(金) 16:17:00 ID:5ps4sXcU
>>235 実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、
「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」
という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。
明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
>>235 そりゃ内容が伴わないのに勝利宣言するからだよw
陸続きじゃなくて本当に良かったな
陸続きじゃなくて良かったのは元の方
陸続きなら日本の方が元を征服していた
んなわけねーだろ
モンゴル軍は2回とも鎌倉武士の集団戦法に全く歯が立たなかった
陸続きなら当然あっさりと日本に征服されていたはず
アジアの大平原で日本の重装備+木曽馬の騎馬武者が勝てるかな?
木曽馬はまったくハンデにならないよ。
モンゴル軍の蒙古馬と木曽馬は遺伝的にかなり近い種で馬格も同じくらい。
海越しというハンデを今度はこっちが負う訳だが
>>245 白村江や朝鮮征討ではハンデになってないが
白村江は当時世界最強の唐水軍にガチで負けた
海越えは日唐両軍とも同じ
それ以前の391年に海越しで新羅と百済を征服したこともあるね
時代も状況もまったく違うではないか
249 :
名無し三等兵:2007/11/30(金) 22:38:03 ID:dlpnXbqM
>>223 ドキュ語なんだろうけどスイーツってどういう意味?
>249
223ではないが
「
スイーツ=菓子
お前かわいいな、俺の手の上で従ってればかわいいから守ってやるが、逆らえばお菓子のように食うよ?
」
どうとでも解釈できる、食おうか食うまいか微妙な感情を表した、褒めてるようにもけなしているようにも感じる、政治でよくある政治言語。
政治言語に正式な意味もとめる方が無理がある。
無視するか、意味を考えず書き換えず転載するのが政治答弁に対する処世術。
政治言語には政治言語で返すがよろしい。
251 :
名無し三等兵:2007/12/01(土) 11:55:29 ID:DaiB2gRb
>>249 スイーツ(笑)
にかんしては恋空関連のスレ見てみれば概略理解できると思う
多分その女の文章が発祥だろうな
>>250は意訳として間違ってるわけでもないけど別に政治とは関係ない
>>1はこのスレ印刷して、授業で配ってみろよ。
これだけ高度な軍事学的知見から、頭の悪い馬鹿左翼教師の嘘が明白に誰にも理解できるだろw
>>243 蒙古馬やイリ馬も結構小さいから大丈夫と思うよ。
わしは,イリ馬を持っているが100kg以上の人間を乗せても
結構走るし…。
木曽馬も似たようなものではないかな。
>>253 うらやましいなー
在来馬は消化器官と骨格が頑丈で西洋馬にくらべて怪我に強いらしいね
蹄鉄がいらない理由の一つにそういう身体的頑健さもあるようだね
食い物スレだと思って見たみたら
エライ良スレでびっくりした。
お前らすまんかった
>>194 韓国では「元寇」の事を、「日本征伐」と呼んでいる。
こういう傲慢さはあの国の特徴。
征韓論も日本の「皇」を認めない対応が「無礼」として巻き起こった。
(未だに韓国は日本の「天皇」は「日王」と呼称している。)
話は逸れるが、朝鮮でも開国時に日本の様に攘夷運動があり、
フランス人宣教師9人と8000人ものキリスト教徒を処刑、
アメリカのジェネラル・シャーマン号の乗組員を虐殺した。
報復を恐れた朝鮮は、江戸幕府に救援を要請しているが、
この際に幕府の返礼使節が「大軍」で来ると疑心暗鬼になり、
今度は幕府使節を拒否するという訳の解らない対応をしているw
(ちなみに仏・米は個別に江華島へ報復攻撃を行っている。
米国の侵攻「辛未洋擾」では、戦死者は朝鮮が約350名、米3名だったが、
この惨敗でも、韓国では「撃退・米国に勝利」なんだそうだ…w)
比較して、幕府軍約4万と博多周辺の20qの大防塁で元軍14万人と戦い、
元軍11万人を戦死・溺死させる勝利をしても「台風のお陰だよ!」か…
「歴史」って怖いね。
>>237 そういう他板からのイタイコピペはしなくていいです
元寇=韓国大敗戦w
辛未洋擾、丙寅洋擾は米仏が目的を達せないままに引き揚げてるし
李氏朝鮮側の勝ちと言っても良いんじゃないか?
目的の達成のために許容できる損害、とか、そもそも敵の目的不達成が利益となったのかってのはあるけどね
朝鮮半島の黄海側は潮の満ち引きが激しい
そこいら辺の情報を集めてなかった米仏の手抜かりがあった
李氏朝鮮の批判されるべき点は、それについて勝った、と言ったことよりも、
その勝利を欧米列強への侮蔑に繋げて欧化を拒否したことにある、と言える
そりゃ倭寇じゃね
中の人の比率はともかく
元寇の理由は厨劣王が故郷に帰りたかったから日本征伐を元に吹き込んだからだろう
そもそも倭寇が活性化したのは文永の役のせいなわけだが
まあ戦争の大義名分にそんな細かいこと気にするわけが無い
特に時代が時代、国が国だし
>>263 元の第二次日本遠征に際し、高麗の定慧寺の禅僧冲止(1226〜1293)が
日本遠征の威容をマンセーする「東征領」の中で述べたもの↓
皇帝(フビライ)が天下を統御するに
神功は放勲(帝堯)より越えた
徳は寛大で断折を包容し
広い恩沢は隅々にまで及んだ
車は千途の轍と共にし
書は天下の文章と共にした
ただ醜い島夷だけが残り
仮に鼎魚のように群れをなして生きていた
ただ滄溟を隔てていることを頼りにして
よって領域を分けることを図った
苞茅(朝貢のこと)はかつて入ったことがなく
班瑞(朝貢のこと)もまた聞いたことがない
そこで帝がこれに怒って
そのとき我が君に命令した
千隻の龍鵲(軍艦カ)の船と
十万の勇敢な軍兵で
扶桑(日本)の野において問罪し
合浦(馬山)の水辺で軍師を興した
鼓声が大海に鳴り響き
旗は長い雲を揺さぶった
(以下略)
偉大な元皇帝の属国にならないから「征伐」ということらしいよ。
なるほど時代主義で奴隷根性が骨の髄まで染みとおった朝鮮らしい論理展開
事大主義だった
>>270 違うね。
新羅や高麗前期の政権は事大主義といいながら巧みにシナ王朝の動静を利して
国益につなげていた。
それが元の侵攻で三別抄や各地の義軍に加わったような気骨ある高麗人は死滅し
奴隷根性の持ち主だけが生き残ったんだよ。
その後は李氏朝鮮が清に受けた扱いのように、朝貢国というよりは属国として徹底的
に搾取されるだけで、そのしわ寄せがすべて庶民に回ってくる「李朝五百年の腐敗」
が始まるわけで。
文禄・慶長の役で再び数少ない国士が斃れてますます腐敗濃度が濃くなったし。
>>272 >三別抄や各地の義軍に加わったような気骨ある高麗人
三別抄も裏では元に対して「朝鮮半島南部の支配権を認めてくれるのなら元に直接臣従したい」
とか申し入れていた卑怯者だけどな
「卑怯」ってのと、「巧みに強者の動静を利して国益につなげる」ってのは
言い方が違うだけでかなり似たようなものなんじゃないかと思うの
>>274 三別抄のやろうとしたことは国益に反する行為でしょ。
自分たちの利権を守るために、高麗の国土を切り売りしようとしたんだから。
鎌倉が三別抄を支援していれば元が日本に侵攻する余裕を奪うことができた
という意見があるようですが、どんなものですかね?
>>275 自分たちの利権のためだろうと、世界最強の蒙古に立ち向かったのは大したもんだと思わんか?
後の「大清国属国」の時代を考えると特にw
日本みたいに大陸の情勢がわからずにうっかり開戦しちゃったのとは違うんだし。
19世紀末にアメリカやフランス相手に交戦したのは明らかに世界情勢を把握していない夜郎自大
だったけどなw
>>277 三別抄は蒙古に立ち向かうつもりなんか最初からないの。
反乱前、高麗では王族と武臣たちの対立が続いていた。
王族側が上手くフビライに取り入ることに成功し、モンゴル軍をバックに武臣たちを
弾圧しようとしたから、それに反発した三別抄の乱が勃発。
三別抄は南下して半島南部に勢力を築くと、それを取引材料にフビライに直接臣従
しようとした。
つまり、三別抄の立ち向かった相手は高麗王朝で、ようするに国がモンゴル軍に征服され
ようとしてる時に、お互いモンゴル軍の威光を利用して権力闘争していただけなんだよ。
それから、日本が大陸の情勢がわからずにうっかり開戦しちゃったというのは嘘。
日本側は最初から大陸情勢を正確に把握していた。
『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」
『元史』にも、元軍を朝鮮半島南部の金州に配備したところ、来日した元の使節が日本側から
抗議されたという記事がある。
当時の日本は、朝鮮半島内の元軍の配備状況まで把握していたってこと。
>>276 それも間違い。
日本に救援要請してきた時には既に三別抄は壊滅状態だった。
>>278 >日本側は最初から大陸情勢を正確に把握していた。
が、直接見聞してそれを記録に残していない以上、
どこまで大陸情勢に通じていたか疑問と言わざるを得ない
>>280 何で?
日本、元、高麗、全ての関係国の文献が鎌倉幕府が正確に大陸情勢を把握してたことを示してるじゃん。
>>281 なんでそれだけの記述から、最初から大陸情勢を正確に把握していた、ってことになるんだよ
無知ではなかった、と言えるくらいだろ
詳細な記録を残してるんなら、正確に把握していた、と考えてもいいかもしれんが
相手の事がわからずにうっかり開戦しちゃったのは、ボロ負けしたフビライの方だったな
元をそそのかして日本侵攻を企てた高麗の愚かさは普通ではないですね
宋とは存外関係が深かったのであるが。
平家なんかドップリと漬かっていたし、
武家の棟梁は「利権」の大親分の意味合いが濃い。
誰でも「利権」は欲しいが「血統」と「武力」で、
実際にそれを確固としたものにする大義名分が源氏。
鎌倉幕府も正式には交流していないが、
鎮西奉行を中心に宋・高麗との貿易交流は行っていた。
勿論情報も存外大量に集まっていたと推測できる。
それに北条得宗家は禅宗の保護者として名高い。
禅僧から学問を学び長じても相談役として繋がっていた。
その禅僧も中国からの渡来僧・留学僧が沢山いたから、
鎌倉幕府はかなり高いレベルで中国情報を持っていたと思う。
博多にはかなりの情報が集まっていたでしょうね
博多自体、宋から逃げてきた商人たちによって大きく発展を遂げたわけですから
宋の商人たちも何とか元に一矢報いたいとさまざまな情報を積極的に鎌倉に流したようです
鎌倉側がその情報を十分に活かしたかどうかは議論のあるところでしょうが
鎌倉幕府は元に対して正確な対応を続けていたのに、これ以上何の不満があるの?
288 :
864:2007/12/11(火) 17:50:04 ID:HhTQKCN6
289 :
288:2007/12/11(火) 17:55:09 ID:???
スマン。途中誤爆だ。アンカーも打ち間違ってるorz
>>287 それについては、
>>223,
>>269。
要するに、日本人から見たら誤りのない対応でも、向こうさんとしては面子を潰されたということになるわけだよ。
>>289 そういう国に対しては日本も面子を守るために戦うしかないじゃん。
何で戦えば勝てる国の属国にならなくちゃいけないの?
元の属国になり、侵略戦争の尖兵となってこき使われるのが正しいことなの?
まったく
相手は勝てもしない相手に向かって脅しつけてるわけだよ
アホなのはどっち?
292 :
288:2007/12/11(火) 18:08:50 ID:???
>>290 待て待て。悪いが、オレは難癖をつけてるわけではないぞ。
別に、元の味方でもない。
小国が属国になるのを拒否して、大国の勘気に触れる。
ありがちだよな、と言いたいだけだ。
別に元は属国になれと言って来たわけではないし
戦争には勝ったが、慎重に外交してれば避けられた無用の帥で
いらん被害出して、鎌倉幕府滅亡の遠因になっただろ
>>223で国書の内容が超意訳されてるけれど
これを「属国になれと言ってきた」という内容と見なすのかそうでないのかって
議論があるところなのどうなの
295 :
名無し三等兵:2007/12/11(火) 21:04:35 ID:6SSZbMku
>>292 鎌倉時代の日本は世界でも相当な大国の部類に入る国。
まず小国史観、後進国史観から脱却しましょう。
明治維新まで日本はいつの時代も後れていて小さい国だったという考えに凝り固まっていると真実が見えなくなるよ。
>>293 元の国書はまさに属国になれといってきたもの。
大体、自分を大蒙古皇帝とし日本国王より一段高く書いているくらいだから
完全に日本を臣下扱いだった。
こういう国とは当然対等な外交関係など成り立つはずがないし、正式に臣例を取れば南宋との戦争に借り出されることは必定。
まともに外交なんかしたらそれこそ無用な被害を出さなければならなかった。
あれだけ領土を拡大したモンゴルが日本とだけは対等で健全な外交関係を結びたがったなんて阿呆なこと本気で思っていますか?
モンゴルと対等で健全な外交関係を結んだ国ってあるの?
>>295 >大体、自分を大蒙古皇帝とし日本国王より一段高く書いているくらいだから
そんなもん歴代の中華帝国だって全部同じだろw
「属国」と「冊封・朝貢国」の区別つけろ
モンゴルが中華帝国である「元」になる前に占領された高麗は完全な属国
だったけどな
>正式に臣例を取れば南宋との戦争に借り出されることは必定。
南宋と断交して元と通交しろ、という国書だと思ったが
どこからそんな妄想がw
このスレ全部読んですごい参考になった。ありがとう。
>>297 この時代の、宋の主要貿易相手国ってのが日本なんだっけ?
元側は最初に宋と日本の関係を遮断して、宋の孤立化を計るつもりで最初に日本に使節を派遣したんだろな。
元の弓と日本の弓の違いによる有利さはどうなの?
元寇防塁は海岸から約50メートルのところに築かれましたが
それは当時の日本の弓の射程に合わせたものだったと言いますね
>>297 元は最初から日本の征服が目的だったよ。
だから使者を送るのと同時に日本征服用の戦艦の建造を開始している。
「慎重に外交してれば避けられた無用の帥」なんてのは当時の世界情勢を無視した空想平和主義。
>>302 使節派遣と同時に艦船建造開始したのは日本が二度までも国書を黙殺した後の
はずだが?
>>303 艦船建造開始したのは最初の使節の日本滞在中。
つまり日本の対応とは無関係に日本侵略の準備が開始されたってこと。
何しろ馬王来訪者には苦しめられたからな
朝鮮が大国の手先になって日本に攻めてくるってのはまさしく明治日本が恐れてたこと
ま戦後はタブー扱いされるわな
>>306 手先というか場所が悪かったというべきか、それに認識方法がその事大先の位置という
救い様のない思想の賜物というのがなんとも・・・・・・。
>>306 まあアホすぎれば勝手に潰れて、中国や露西亜の手先になりかねないし
こっちが併合したり保護国にしたりするのは御免被る、つかもう懲りた
適当に援助してホルホルさせとくのが次善の策だったかも知れないが、アホ杉てそれでも潰れそうだし
ホルホルしすぎて勘違いして餌をやる手に噛みつく始末・・・
本当に救いようのない連中だ
>>297 占城はモンゴルが中華帝国である「元」になった後の「冊封・朝貢国」だけど、
完全な「属国」扱いで東南アジア諸国との戦争に借り出されそうになったから
反乱を起こしたんだよ。
モンゴル帝国と他の歴代の中華帝国とを同列に考えちゃダメね。
hosyu
311 :
名無し三等兵:2008/01/13(日) 14:11:06 ID:EzpYpo/9
日本軍のモンゴル軍に対する勝利は全世界の戦史に燦然と輝く偉業
案外、護衛艦がタイムスリップして大暴れしたとか。
タイ風
314 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 10:27:32 ID:y8KVOgDE
世界中の国がモンゴル軍相手にヒーヒー言ってた時代に、日本だけは楽々とモンゴル軍を粉砕。
大陸の興亡なんて日本から見れば数段レベルの低い争いだったということだ。
そんなことないだろう
316 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 14:21:34 ID:y8KVOgDE
>>315 何を根拠に「そんなことないだろう」なんて言ってるの?
現実に大陸で圧倒的な強さを誇ったモンゴル軍が鎌倉武士には全く歯が立たなかったんだから、
当時の日本は同時代の大陸より数段進んだレベルだったってことじゃん。
対馬や壱岐の部隊は蒙古軍が来襲して1〜2日程度で玉砕。
伊松に上陸した蒙古軍にも現地部隊が撃破され、
博多湾から上陸した高麗軍にまで現地部隊を撃破される始末。
鎮静軍主力が到着してやっと蒙古軍の進出を停止することが出来たが、
戦場となった百道原は湿原地帯で蒙古軍の機動力が発揮できなかったことが大きな要因と考えられる。
結論
どちらかというと歯が立たなかったのは鎌倉武士の方であった。
318 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 17:43:01 ID:y8KVOgDE
>>317 対馬や壱岐や博多湾上陸地点を守っていた兵力なんて元軍よりも二桁以上少ない数なんだから、
撃破できるのはあたりまえ。
むしろ対馬制圧に約一週間、壱岐制圧に丸二日もかかってることの方が異常。
あきらかに戦闘力はモンゴル軍よりも鎌倉武士の方が遥かに上。
博多湾から上陸した後だって、鎌倉武士の方はしっかりと騎馬の機動力発揮してモンゴル軍を
圧倒してるのに、地形のせいだなんて言い訳は通用しない。
だいたい、敗北したのはモンゴル軍の方なのに、「歯が立たなかったのは鎌倉武士の方」なんて
結論になるわけないだろ。
勝つだけなら核で皆殺しだから簡単なんだよ
それで最強名乗っておもしろいかね?
>>318 >対馬や壱岐や博多湾上陸地点を守っていた兵力なんて元軍よりも二桁以上少ない数なんだから、
現代じゃないんだから、対馬や壱岐をそんなすぐに制圧できるわけ無いだろう常識で考えて。
対馬上陸、撃破、制圧、そして次の目的地への進出準備を1週間で終わらせている。
これはこの時代の軍事レベルからしたら驚異的な速度だぞ?
>博多湾から上陸した後だって、鎌倉武士の方はしっかりと騎馬の機動力発揮してモンゴル軍を
箱崎、今津じゃ蒙古軍に正面撃破されているよ。
博多、百道原方面はよく言って引き分けだよ。両軍戦場から引き上げる結果になってるからね。
鎌倉武士が蒙古軍を圧倒していたならなぜ追撃を行わなかったのか?ということになる。
>だいたい、敗北したのはモンゴル軍の方なのに、「歯が立たなかったのは鎌倉武士の方」なんて
正面戦で勝てなかったのだからまぁ少なくとも「」モンゴル軍が鎌倉武士には全く歯が立たなかったんだか」は否定されるね。
321 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 18:42:08 ID:Ry5NXp3h
武士団は昼過ぎには蒙古軍を海岸まで押し戻してるんじゃないの?
ご存知だとは思いますが
文永の役のとき戦闘が行われたのは鳥飼、別府、赤坂といった内陸ですよ
百道浜から上陸してきた高麗・元連合軍は一気に西新の南、祖原山へと進出しました
蒙古襲来絵詞で有名な竹崎李長はこのとき自身を含めたわずか五騎で祖原山に奇襲をかけています、当時29歳ですね
鳥飼から西新にかけては湿地帯で騎馬での戦闘には支障があったでしょうね
弘安の役のときは防塁によって上陸を阻まれた高麗・元連合軍は一旦志賀島に集結しましたが
このとき鎌倉側はボートで高麗船を奇襲したり、海の中道から志賀島へ進軍して攻撃したりしていますね
地の利があったとはいえ鎌倉武士たちの活躍ぶりは見事だと思います
>>320 >対馬上陸、撃破、制圧、そして次の目的地への進出準備を1週間で終わらせている。
>これはこの時代の軍事レベルからしたら驚異的な速度だぞ?
全然速くない。
1019年の刀伊の方が速いし。
>箱崎、今津じゃ蒙古軍に正面撃破されているよ。
それを裏付けるような信用できる史料は存在しない。
モンゴル軍は攻撃目標の大宰府に到達できないまま僅か一日で敗退したんだから、
当然正面の戦闘では鎌倉武士に手も足も出なかったと考えるべきだろ。
>>316 つか、モンゴル軍の撃退に成功したのは日本だけじゃないし。
>>324 マムルーク朝がアイン・ジャールートで勝ったモンゴル軍は僅か1万2千程度の兵数。
文永の役のモンゴル軍の約三分の一、弘安の役だと一割にも満たない兵数。
北ベトナムの陳朝だって攻め込まれる度に首都征服され、ゲリラ戦でやっと撃退だろ。
比較すれば、14万もの大軍を九州に橋頭堡を築かせないまま壊滅させた日本の凄さが際立つだけ。
>>323 >モンゴル軍は攻撃目標の大宰府に到達できないまま僅か一日で敗退したんだから、
敗退?
鎮西軍も策源地まで下がってるだろうが。
>当然正面の戦闘では鎌倉武士に手も足も出なかったと考えるべきだろ。
というのだったらなぜ追撃が行われなかったの?
つまるところ痛みわけだったからではないか。
なんか、現状を正確に認識しようというよりも、「負け」と言われたくなくて
必死になってるように見えますが。。。
必ず追撃しないといけないか?
勝敗はついたけど、敗走する敵を追わなかったという戦闘はいくらでもあるよね。
「痛み分けだから追撃しなかった」と「追撃しなかったから痛み分けだった」
言葉が逆でも意味は大きく違うわな。
>>326 日本の史料にも元の史料にも高麗の史料にも「元軍が戦って負けた」と書いて
あるんだから文永の役は「痛みわけ」ではなく明確に「元軍の敗退」。
332 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 20:47:49 ID:2k933+n2
追撃をしない理由がないのに追撃をしない馬鹿はいない
理由がないのに追撃をしなかったとしたら、追撃を出来なかったと考えるのが妥当
では、何故追撃が出来なかったのか?と考えるのがロジック
>>332 日本軍はしっかりと追撃してるけど。。。
「蒙古襲来絵詞」には敗退する元軍を追撃する武士の様子が描かれている。
敵戦力が定かではない時は追撃しないという選択もあると思うが・・・。
335 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 20:56:35 ID:2k933+n2
追撃が出来なかったとしたら、ハード面で出来なかったのか?ソフト麺で出来なかったのか?
損得勘定から敢えて追撃をしなかったのなら、それによって何を得たのか?
僕はこう思う!!みたいな小学生みたいなおおざっぱな意見なんかいらない、そう思うに至った過程を端的かつ明確に書け書け
非建設的すぎる
>>332 >追撃をしない理由がないのに追撃をしない馬鹿はいない
一般的な話だけど、戦闘の目的が敵を退却させる事であって、全滅させることでなければ、追撃はしないよね。
追撃しなかった理由を考えるのは止めないけど、「痛み分け」に短絡するのは良くないよ。
まあ、台風の後に日本に残った元軍の人たちは、掃討・虐殺されたみたいだけど。。
元軍というより高麗軍ですね
高麗は元の力をバックに日本を侵略できると喜び勇んで出撃したのでしょうが
結果は悲惨なことになりました
>>335 >ハード面で <--- これは正しく変換できているのに、
>ソフト麺で <--- その直後のこれが変換できないのは興味深い。
給食を食べてる人なのかな?
というか、古い戦闘を分析する上で、何の定義づけもせずに
ハード面、ソフト面という言葉を振り回す人も珍しい。
もちっと冷静になってくれ。
>>335 >損得勘定から敢えて追撃をしなかったのなら、それによって何を得たのか?
追撃というリスクの回避
>>335 蒙古襲来絵詞・詞書
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。塚原より鳥飼の汐干潟を大勢に成り合はむと退くを追ひ
駆くるに馬干潟に馳せたばして、その敵を延す。凶徒は鹿原に陣を取りて、いろいろ
の旗を立て並べて、乱鐘暇なくてひしめきあふ。季長馳せ向かふを、藤源太資光申す。
御方は続き候らん。御待ち候ひて、証人を立てて御合戦候へ、と申すを、
弓箭の道先を以て常とす。ただ駆けよ、とて、をめいて駆く。凶徒麁原より鳥飼潟の
塩屋の松のもとに向け合はせて合戦す。一番に旗指馬を射られて跳ね落とされる。
季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国の御家人白石六郎通泰
後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、
夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、
互ひに証人に立つ。筑後国の御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。」
元軍は赤坂で日本軍に敗北。
その後、日本軍は麁原まで敗走する元軍を追撃してる。
納得した?
>>332,
>>335 ID:ID:2k933+n2
どうした? 他人の分析と書き込みを心待ちにしているようだけど、
元寇のレポートでも書いてて、提出期限が迫って困っているのか?
344 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 22:08:57 ID:7irO0Uyh
憲法9条のお陰です。
ここまでのレスで幾つか気になった点を指摘したい。
先ず、南宋は海洋国家の一面も持ち、その交易圏は広大で、
遠くインド洋にまで及んでいた。また、造船技術も
高く、欧州に先駆けること800年、既に密水構造を
完成させていた。(当然、竜骨も備えている)
その南宋が滅亡した崖山の戦いは海戦史上、初めて
火砲が使用された戦いだが、この戦いの南宋側の戦術的な敗因は
1南宋軍の司令官張世傑は船団を連結したため、機動性が損なわれた。
2水場を元軍に知られ、之を断たれた為、脱水症状を
起こす者が続出した、等である。
バイパルスに負けた事と鎌倉幕府にそれぞれ敗北した事を
比較し、バイパルスが勝ったのは一万数千と比較的少数だが
鎌倉幕府が勝ったのは14万だから鎌倉幕府の強さが
際立っているとの趣旨のレスがあったがこれは決定的に
間違っている。そもそもバイパルスが破ったのはイルハン国の精鋭
であり、鎌倉幕府が破ったのは、二線級の戦力であるが
そういった瑣末な点よりも根本的な違い、即ち戦略的状況と
地政学的な相違がある。よって比較するのは無意味である。
またモンゴル軍は決して無敵ではなく、日本やエジプト以外にも、
東南アジア等でも敗北しており、モンゴルに勝利し得たから
と言って日本が格別優れていたとは言えない。ただし、
当時の日本が先進国の一つであった、というのはあながち
間違いではなく、GNPでは上位10カ国に入っている。
さらにモンゴルはその覇業の当初から多民族国家の性格を持ち、
(所謂、バルジュナトもモンゴル人だけではない)殊に経済面
ではウイグル人に実権があった。また南宋掃討戦においても
その司令官(都元帥)は漢民族の張弘範であり、副司令官は
西夏の王族出身の李恒であった。
尚、南宋の残党の一部は南宋滅亡後、ベトナムに亡命し、
対モンゴル戦で奮戦している。
>>345の補足
中国における密水構造の発見は南宋代ではなく、唐代。
あと言い訳になるけど、只今外出中につき、ちと見辛いかも・・・。
ソースも挙げられないので、その点は御容赦頂きたい。
(手元に無いんですよ。)
>>345 >バイパルスが破ったのはイルハン国の精鋭であり
これ間違い。
バイパルスが破ったのはフレグ率いるイルハン国の精鋭ではなく、留守を任された
二線級の戦力。
あと、歴史学の基本的な方法論は「比較」。
東南アジアにもモンゴル軍に対して日本ほど圧倒的な勝利を収めた国はない。
だから東南アジア諸国は、日本と違って最終的には元への朝貢を受け入れてる。
元と戦いながら最後まで独立を保ったのは日本のみ。
348 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 23:09:43 ID:o/Wmaut5
蒙古襲来絵詞を見れば解る様に元軍はろくに馬を連れていない。
地に足を付けて戦っている蒙古兵の絵は世界的にも珍しいのではなかろうか?
更に、そもそも軍勢の主力は奴隷たちである。
蒙古兵は見張りとして少数存在しただけ。仮に馬を連れて来ていたとしても、大規模な騎馬戦などは生起しない。
>>348 ちゃんと蒙古襲来絵詞を見れば騎兵はたくさん描かれてるよ。
それからね、モンゴル軍に蒙古兵が少数で後は征服した民族で構成されてるなんて
ことは当たり前なの。
ヨーロッパに攻め込んだモンゴル軍も、中東に攻め込んだモンゴル軍も、
中国に攻め込んだモンゴル軍も全部同様。
例えば中東に攻め込んだモンゴル軍だと、蒙古兵は見張りとして少数存在しただけで、
軍勢の主力はトルクメン人やタジク人だったんだけど、タジク人ってペルシア系の
都市定住民。
つまり歩兵なのね。
350 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 23:33:39 ID:H+wghIY+
仮に元側が博多に拠点を確保して長期戦になったら、日本側の戦術を把握したり、
日本側からも寝返りがでて危なかったんじゃ?
>>347 指摘サンクス。
しかし、置かれた戦略的な状況、地政学的な相違を無視するのは
史学のとるところではないと思う。
史学の真価とは、思想や善悪の彼岸から離れた、科学的論理的な
思考と分析にあるのであり、決して単純な比較を以て良しと
するのでは無い。
比較するならば、置かれた戦略状況、地理(軍板的には地政学的な、
と表現したがよいと思う)、文化、政治状況、経済状態、外交関係
・・・そういった全ての把握し得る限りの情報を資料から得て
論理的に思考しなければならない。
確かに、攻撃された東南アジア諸国は朝貢はしたが、実際には
その影響力の排除に成功しており、戦略的に勝利を
得ている点は日本と変わらない。中国諸王朝における
朝貢には文字通りの属国にする場合もあるが、形式に
止どまる例も多く、後者の場合、『独立を失った』とまでは
言えない。
352 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 23:40:28 ID:o/Wmaut5
>>349 あまりにも「蒙古=騎兵」と言う書き込み多かったんでな。
>>347 それと
>>351で書き忘れた事があった。
キト・ブカが率いていた軍勢が留守を守ったのは確かだが、
元々はシャーム(シリア方面)地方をフレグが征服した時の
先鋒隊であって、二線級とは言えないと思うが。(ただし、
規模は変えて無くとも中身を変えた可能性あり)
集史にも『強兵数千の騎兵』と言う表現があった筈。
蒙古襲来絵詞って、後世の加筆があるとかってしばらく前に話題になっていなかったか?
確かに貴重な史料ではあるが、あれだけに頼るのもどうかと思う
>>354 本当に疑念を提示したいんなら、
>しばらく前に話題になっていなかったか?
みたいなうろ覚えをひけらかすのはやめとけ。
>>354 蒙古襲来絵詞は元寇で実際に戦った人物が残した唯一の史料。
それに、元軍が戦って負けたと書いてある史料は蒙古襲来絵詞だけじゃないし。
『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」
『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
357 :
名無し三等兵:2008/01/15(火) 05:01:37 ID:9ixSPqci
>>341 撃退はしたが撃破しての潰走ではなく、追撃隊を伏撃出来る余裕がある状態での後退だった
ということだな
ようするに、分が悪くなったら勢力を保ったまま軍を退いたわけだな
野戦で撃破した潰走する相手を追撃しない理由はないからな
近代以前の戦争での死人なんて大多数が正面戦闘ではなく追撃戦で出てるわけだし
“撃退はしたが追撃出来る余力はなかった”でも我彼差を考えると大戦果なのに、完全勝利厨は何を根拠に敢えて追撃をしなかったなんて言ってるの?
鎌倉武士達は男気溢れるナイス兄貴な集団だったって主張したいわけ?ここ軍板だよ?
追撃すら出来ないのに一方的な勝利のわけねーだろ
>>357 追撃そのもののリスクを言っているのだろ?
追撃=無敵・一方的な攻撃じゃないわけで。
川船多数だったという話も。
>349
んで騎兵の割合はどのぐらいなのよ。
まず数字を出してくれ。
絵図からじゃ元軍も乗馬した将兵がいたということしかわからんよ。
鎌倉武士は執拗かつ狡猾ですよ
元寇は侵略してきた軍勢を撃退した時点で勝利でしょう
リスクを背負って追撃する必要はありません、鎌倉が朝鮮侵略を考えていたのならば別でしょうが
今まで戦ったことのない戦法をとる軍勢を相手にこれを一日で撤退させた
文永の役での武士たちの戦いぶりは見事です、この戦いから学んで防塁など軍備を整備し
後の弘安の役でも高麗・元軍による日本侵略を許さなかった、これらの戦役はもっと研究されるべきでしょうね
内輪での戦闘ばかりしてきた日本人が「日本」という国家を初めて意識するきっかけにもなったのではないでしょうか
>>357 史料ではっきりと鎌倉武士が追撃してるんだから、日本軍の一方的な勝利じゃん
>>357 例え遅滞戦術の末の撃退で追撃戦を行なっていなくても、
最終的に敵に凄まじい損耗を強いたケースは多々ある。
気象条件は確かに大きいが、気象が影響しない戦争などありえない。
また当時の戦況から、「台風が無ければ蒙古軍に日本は占領されていた」
=「蒙古勝利・日本敗北」という展開も、まず考え難いであろう。
「勝敗の判定」は見方によって変わる為に確かに難しい所ではある。
損耗率で敵を上回っても、敵の戦争目的を挫けば勝利と言えるし、
逆に敵に凄まじい損耗を与えた場合だけ、勝利とされる事もある。
しかし「追撃戦」をもって勝敗の判定を行うのは寡聞にして聞かない。
まさか「カンネーの包囲殲滅戦」を敗北とみなしてしまうのか?!
彼我の損耗率で圧倒し、彼の戦争目的を阻み、我の戦争目的を達成して、
「勝利」でないなら、これはもう戦争の議論の範疇から逸脱している。
追撃されるソフト麺www
>>345 文永の役の副司令官の劉復亨は、キト・ブカがフレグの先鋒として中東遠征に参加していた時、
モンケ・ハーン直属の武将として萬戸を率いて南宋遠征に参加し、釣魚山攻めで手柄を立てた人物だよ。
元寇の元軍が二線級の戦力なわけないでしょ。
それからキト・ブカが率いていた戦力については、集史に『五千の騎兵と歩兵』と言う表現もある。
・元軍は「機動力が発揮できなかった」=機動力が発揮できれば日本より強い
地政学上の有利不利や地形もその国の戦力です。
攻め込まれやすい地形と攻め込まれ難い地形で差があるのは当たり前です。
イギリスが島国だから弱かった事になるでしょうか?
「大陸」が島国型の兵備に負けたら「平原機動戦なら勝てる!」
「島国」が大陸型の兵備をしなかったら「平原機動戦なら勝てまい!」
こんなダブルスタンダードは有り得ません。
・元軍は「台風で負けた」=日本に負けた訳ではない
気象条件があるのが当たり前です。
突然の暴風雨や水不足・寒気の所為でどれだけの軍が滅んだか。
偶発性の「台風」でなくとも、日本では荒天は必然だった筈です。
元軍が九州制圧にどれだけの期間を見込んでいたのかは判りませんが、
「夜襲を恐れて船に戻る」戦況が続くとなれば来寇しなかった筈ですので、
短期間で九州を制圧可能と見込んでいたのは間違い無いでしょう。
この見込み違い(見込み違いを生じさせた高麗)が元軍の敗因であり、
更に言えばその見込み違いを生じさせたのは鎌倉幕府軍です。
「夜襲を恐れて船に戻る」戦況が短期間で大きく動いたでしょうか?
(短期間で終わらない限りは、必ず荒天が来るはずです)
台風の損害が船だけに限定され、地上兵力の損害が軽微だったとしても、
船が沈み補給が絶たれた状態で、九州を制圧可能だったとは思えません。
>>366 元軍が「夜襲を恐れて船に戻る」というのは史料の裏付けがまったくない俗説。
文永の役の元軍は「撤退するために乗船した」と明確に史料に書いてある。
弘安の役でも元軍は日本軍に連戦連敗で台風が来るまでの2ヶ月間逃げ回ってただけだし。
実際、台風の損害は船だけに限定され、地上兵力の損害は軽微だったけど、元軍10万以上は
日本軍の掃討戦で皆殺しにされちゃったのね。
>>365 文永の役の時、元の精鋭の大半は対南宋戦に投入されている。
問題なのは指揮官よりも率いていた兵力の内容じゃないかな?
集史の表現についてはサンクス。
369 :
名無し三等兵:2008/01/15(火) 20:10:38 ID:Y/wjMWBD
>>368 それは事実だ。高麗征服は主力を南宋戦に派遣して一部を高麗に遣わし、
高麗はその一部にやられた。
だから韓国人の学者がほざいているような高麗人の抵抗でモンゴルはへとへとに疲れて日本が救われたなんていうのは全く事実無根。
しかし俺は中学時代教師にこの韓国人の大嘘を教わった。
>>354 そのしばらく前のレスを見て貰えれば分かると思うが
後世の加筆がなされてるのは、よく教科書等に取り上げられる部分
従って、元軍の集団戦法、鎌倉武士の一騎打ち、台風による勝利
という教科書どおりの解釈をしている解説は眉に唾をつけて見る必要がある
371 :
名無し三等兵:2008/01/15(火) 23:07:09 ID:Y/wjMWBD
モンゴルは世界帝国で世界史にも大きな影響を与えただけに『蒙古襲来絵詞』は世界中の学者が研究対象にしている。
そしてイルハン国の史書「集史」の挿絵と細部にまで渡って一致している点が多く極めて価値が高い史料という形で史料批判はなされた。
しかし教科書に登場する3人の元軍兵士は他の鎌倉武士の集団騎馬攻撃に逃げ惑い、中には矢が刺さって死んでる兵士たちと色彩や冑など異なっているのでこの3人は後世の加筆で史料としての価値なしと判断された。
ひどいもんだよ。戦後の歴史教育。
世界中の学者の史料批判を経た史料の中で価値が高い部分を全部カットして無価値なところだけ載せて子供に嘘教えるんだから。
>>370 竹崎季長自身も筆を加えたそうですね
自身の額に刺さる矢や、ここの石垣は違う、こうだったとか
しつこく頑固な鎌倉武士の典型でしょうか、本当に興味深い人物です
こういう人物を映画化したものを見てみたい気もします
蒙古襲来絵詞の加筆説を検証した佐藤鉄太郎氏の本って、1万近くもするのね
学術書なら当たり前か……近くの図書館にあるかな?
どうでもいいけど、帝国海軍のあの人と同姓同名なんだな、通販サイトで著者が混同されてるぞw
>>366 >・元軍は「台風で負けた」=日本に負けた訳ではない
こういうふうに考えたい人って、今もいるのかね?
でも、結局日本に負けたわけで。
>>368 フレグの中東遠征も元寇も両方とも対南宋戦と同時に行なわれてるんだよ。
それなのに、元寇についてのみ対南宋戦を理由にして二線級の戦力なんていうのは
矛盾してるでしょ。
376 :
名無し三等兵:2008/01/16(水) 11:22:02 ID:T7gv+h+C
元寇について一般的な知識しかない私には、このスレは本当に色々と
目を開かせてくれます。時々2チャンネルらしい、アカデミックでない
物言いをする人もいますが、ほとんどは熱心に歴史の事実を探求して
いる方たちですね。これからも更なる論争を期待しています。
>>376 読めば解ると思うけど、最初から結果ありきで議論を進めようとしている
カキコやしうろ覚えを元にした意見も混じってるから、真面目に受け取らない方がいいよ。
受け取る意見や資料も、自分で検証可能なものにとどめるのが賢明です。
ソフト麺食べてがんばってください。
元寇の目的のひとつに博多の壊滅があった可能性もあるのではないでしょうか
対南宋戦をすすめるうえでも数多くの宋商人による後方支援をしていた博多は目障りな存在だったことでしょう
住吉宮など寺社勢力が強く、海外事情にも通じた貿易商人が多かったのが博多の特徴でしょうが
その情報収集力や財力が武士団を支援した点も見逃せない感じがします
>>378 「元寇の目的」は興味深い所です。
モンゴル帝国は世界にまたがる大帝国でしたので、
日本と元だけの関係で考えると見誤りそうです。
文永と弘安では恐らくモンゴルの目的は別だったと考えます。
大局で考えると、モンゴルにとって大切だったのは
「宋攻略」が第一義と考えて間違いないでしょう。
(第ニ義としては、「世界制覇」がありますが)
大理(タイ)・安南(ベトナム)・吐蕃(チベット)を攻め、
四川側から壮大に宋を攻略してのけたのがフビライです。
前帝モンケも宋攻略の陣中で没していますが、
「宋攻略」へのモンゴルの執念は凄まじいものがありました。
私見ですが、当初、そして文永の役時のモンゴルの考え方は、「宋」を滅ぼす為に
周辺国(日本)との通商関係を裂き、宋を孤立化させるのが主目的だったと思います。
侵略侵攻が目的であれば、国書の文面に「不宣」(皇帝として命令している訳ではない)とし、
更に数次に亘って粘り強く交渉する必要などありません、即大規模侵攻が行われたはずです。
宋滅亡後の弘安の役の時点では日本侵略に目的が移っていたと考えます。
この時期のモンゴル帝国の運営方法して、降軍を用いて更に拡大を図る方法が、
帝国にとって非常に効率的だったのではないでしょうか?降軍をそのままにすれば
反乱の可能性がありますが、これを未然に防ぎ更に帝国の拡大を図る一挙両得です。
弘安の役の失敗後も日本侵攻が続けて計画されている事からも、
日本侵略を企図していた事が裏付けられるかと思います。
鎌倉幕府軍が弱かったら、日本は確実に負けてます。
「文永の役」でも「弘安の役」でも、元軍は日本到着までは成功してます。
即座に九州を奪えなかった=鎌倉幕府軍が強かった ではないでしょうか?
弘安の役後は、計画だけで実際に侵攻なんかして来なかった訳ですが、
「鎌倉幕府軍なんか簡単に勝てる!短期間で九州くらい楽勝!」という見込みを
元軍が持っていたら、暴風雨の季節を避けて渡海すれば良いだけですから、
何度でもすぐ侵攻して来たと考えられないでしょうか?
また、「北条時宗」にスポットライトが当たらないのが不思議です。
日本が侵略される未曾有の危機に断固として立ち向かった英雄です。
彼の様な人を「英雄」とすると、都合が悪い人々がいるとしか思えませんが…
「元軍」と言うが、主力は東路軍=高麗軍、江南軍=宋軍?
だとしたら、全くやる気なんかないよな?
モンゴル兵も、士気は低かったんじゃないかな?
簡単に楽勝で勝てるなら良いけど、苦戦しだしたら絶対帰ろうとする筈。
〜想像〜
遙か東の聞いたことも無いような島国で、夜は野蛮人が襲ってくる。
長期間不潔な船にギュウギュウ詰めで、シラミとか疫病出まくりで臭いわ汚いわ。
「現地のイイ女選び放題!」「好きに略奪してヨシ!」
「勝てば一生お大尽だぞ!」「行かなきゃ頃すけど?」
こんな事を上に言われても…なんとかして適当に切り上げて帰るだろ普通?
で、「ヨッシャ帰ろう!」とした所で暴風雨でアボーンしたのが真相か?
もしくは暴風雨で統制が解けた所で集団脱走したとか。
>>382 東路軍=高麗軍じゃないよ。
高麗軍は東路軍のごく一部。
384 :
名無し三等兵:2008/01/16(水) 21:06:31 ID:eD4MRaRU
南宋だって高麗だってモンゴルに征服されていじけまくり。
こういう性根が卑しい連中はそれこそ次の侵略に大いに活用できる。
何故なら主に苛められてるから自分が苛められる奴を見つけるために。
大帝国の侵略と支配ってこんなもんだよ。
イギリスがインドを支配できたのはインドのカースト制によるところが大きい。
第2次世界大戦だって朝鮮人部隊の残虐は凄かった。
モンゴルに征服された連中が戦の士気が乏しいなんて簡単に決め付けられない。
385 :
名無し三等兵:2008/01/16(水) 21:21:38 ID:7mfd+7iF
高麗兵の数は?
捕まった元の兵のうちいやいや来たと思われる南宋兵は殺さず奴隷にしたとか?
386 :
名無し三等兵:2008/01/16(水) 21:37:25 ID:eD4MRaRU
>>385 いやいや来たって史料はどこかにありますか?
南路軍の司令官、南宋の名将といわれた男。
そんな将軍が士気の低いいやいや連中ばかりをつれて来たってそんな馬鹿げたこと信じられる?
物見遊山に行くんじゃない。戦争にいやいや行って負けたら待っているのは死か奴隷か。
創竜伝でガイエの主張では、
文永の役、弘安の役は日本軍は大したことはないとかいう論調だったような。
元を破った国は日本だけじゃなく多数あるというような感じで。
>>387 元に負けた国の方が圧倒的に多いような…
太平洋戦争末期のアメリカ潜水艦は
「攻撃準備完了」を「カントウセイシンオウセイナリ」
「魚雷発射!」を「トキムネ!」と信号していたようですね
「カミカゼ」という言葉を生んだ元寇をよく研究し、北条時宗をそれなりに評価していたのでしょう
時宗は若くして執権になったせいか、時頼に仕えていた家臣団からはよく思われていなかったのでしょうか
>>387 虚構の中の人物による評価を論拠に持ち出してどうする?
歴史小説ですらないだろ、あれは。
元が負けて船乗っ取って倭寇になった呉や越住民が多かったでFA
392 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 05:41:25 ID:cvy1gxkr
面倒だから朝鮮半島の造船技術の欠陥のせいで
モンゴル軍は勝手に沈没しましたってことでいいよね(´・ω・`)
∧∧
<,,`∀´>
「汚らしいモンゴル軍の将軍を口先で騙してイルボンにおびき寄せ、
船の欠陥を利用して始末してきたニダ。
我ながら賢く誇らしい計略ですねホルホルホルホル」
∧ ∧
<`∀´l|l>
「……で、大陸にいるモンゴル軍が怒ってウリたちの地元を燃やして
暴れてるけど、ウリたちはどうすればいいニカ?」
∧∧
<l|l`∀´>
「い、今すぐ謝るニダ!ウリの船は強かったニダ!!史上最強ニダ!!
負けたのはモンゴル軍が弱いからで了解スミダ!!
アイゴー!!鞭で打つのはやめて欲しいニダ!!アイゴ〜〜〜!!!11」
394 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 05:53:52 ID:KvL8RB0y
う〜む、やっぱり男女入れ替えは失敗かな
ファンとしてもイメージの問題があるからな
普通に俳優を探すとするか
>>390 創竜伝は歴史小説だし、
論拠になるだろ。
元に協力してた(させられてた)朝鮮が、元への復讐の為に、自分達ともども意図的に元軍を道連れにした
て何かで読んだ
400
401 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 08:43:19 ID:vyZvjRGb
日本中世史オタは馬鹿が多いので嫌いなんだが
そんな頭の悪い君らでもとりあえずすぐに理解できることを書いてやろう
16世紀の後半、日本軍は朝鮮の侵略をはかりましたが
結局領地を残せず全軍撤退しました。つまりは日本人は朝鮮人に負けたのかね?
>>401 朝鮮人には負けてないよ。
秀吉の朝鮮侵攻の時、朝鮮は日本軍に速攻で完敗。
その後の朝鮮半島は明軍と日本軍の戦場になっていただけ。
だから明も秀吉も李氏朝鮮は亡国扱いで頭越しに交渉を進めたのね。
403 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 09:33:00 ID:vyZvjRGb
慶長の役
目的 朝鮮を占領下におくこと
結果 目的を果たせず完全撤退、李氏朝鮮はその後も続く
404 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 09:34:15 ID:vyZvjRGb
へー援軍を得ると戦勝国にならないのか
やっぱ中世オタは頭悪いなぁ
ていうか、「朝鮮人には負けてない」とかが
どうしようもなく情けない
第二次大戦で、ドイツ軍はポーランドの侵略をはかりましたが
結局領地を残せず全軍撤退しました。
でも、ドイツ人はポーランド人に負けたとはいわないよね。
それと同じ。
朝鮮も日本軍にボロ負けし、その後は戦場になっていただけ。
だって、ドイツはソ連の奥深くに踏み込んでから負けてるし。
日中戦争も日本の大勝利ですね^^
じゃあ元寇の勝利でいいよ
日本が朝鮮人に負けたことにされるならそれでいい
スレ違い過ぎる
朝鮮出兵を出してきたのはいい戦略だな
>>401 そもそもの目的は明国を占領することですよ
当時は「唐入り」と言っていました
日本は当時世界レベルで見ても最大最強と言ってよい軍事力を持っていました
朝鮮半島での戦闘では朝鮮の軍勢は簡単に撃破し、意外なほど容易に首都漢城を落としましたが
朝鮮には日本の軍勢を押さえられないだろうという危機感を持って駆けつけた明国の軍勢には苦戦しました
日本と明が半島を戦場として戦った戦役です
ところが慶長の役は朝鮮を占領することが目的なんだよな
戦争目的の達成・不達成で勝敗を決めるのも、あながち間違いではない。
直接交戦なしに朝鮮併合を果たしたのは、正に孫子的大勝利だろうな。
ってかそれが普通
フォークランド紛争はどっちの勝利だ?
戦争をハイスコア(被害額)を競い合ってるゲームと勘違いしてるんじゃないか
朝鮮出兵で日本軍は朝鮮の首都漢城を攻め落としたのに、元寇ではモンゴル軍と高麗軍と南宋軍が
束になっても九州に橋頭堡を築くことすら出来なかった。
同じ対馬海峡越えの軍事侵攻なのに。。。
フィンランドとソ連の冬戦争の様に、45万対16万の圧倒的な彼我差の中で、
ソ連に大損害を与える激戦の末、結局はソ連の大物量に押されて
要求を呑まざるを得なくなったが、あれは敗北か?
マンネルハイム元帥は「救国の英雄」なのだが。
「300」で有名なスパルタ軍は10万人相手に全滅したが、これも敗北?
「レオニダス(レオニード)」と言えば「勇者」の代名詞なのだが。
朝鮮がそんな「勇戦」をする姿を見てみたいな。
「三別抄」も首領の裴仲孫が裏切って自壊してるし、
勇戦してモンゴル軍に大打撃を与えた様子も無い。
戦争目的も戦闘内容も敗北ですよね?
負けを悟れない人間に成長はない
哀れなものを見てしまった
>>418 元寇でモンゴル軍が日本軍に完敗したって悟った?
戦争だからな。
清や明や唐から「援軍を貰える」のも当然戦争行為の一部。
例えそれが全く援軍に頼りきりであろうとな。
米軍と自衛隊の関係もそれに近いであろうし、
実際に「国土を防衛し、戦争を防ぐ」目的は達成しているので、
今の平和な不戦状態でも「戦争目的」を立派に果たしている。
合理的に勝利しているのだから、これで全く問題無い。
>>417の脳内では南北戦争は南軍が勝ったことになってそうだな
元寇に対して大打撃とか言っちゃうと
閑山島海戦で李舜臣に負けたのは相当痛いわな
マウントポジションでボコボコにしてたら、
ヘヴィ級のパパが加勢して来た感じか?
さして殴られないで生きて帰っただけで充分だ。
マントポジションでボコボコにされてた奴を
世間は「負け犬」と呼ぶだろうがな。
とまあこのレベルで君は戦争を語ってたわけだ
戦争を単純な殴りあいに例えるとはあまりにもゲーム脳
秀吉の朝鮮出兵について語りたければ、そのスレが軍版にあるでしょ。
ここは元寇のスレなんだから、13世紀の日本のモンゴル・中国・朝鮮に対する
輝かしい勝利について語ろうぜ。
朝鮮出兵が出てきたのは逆バージョンを提議することによって
元寇についての主張の矛盾点をつくためだろう
つか面白いからもっとやれ
元寇についての主張の矛盾点って何?
てかね。
朝鮮出兵文禄の役の撤退理由って知ってますかね?
別に明の援軍のせいじゃないですよ。補給が上手くいかなくなったからです。
じゃあ何で補給が上手くいかなくなったのでしょうか?
それは陸上輸送部隊が朝鮮人のゲリラに襲われたからです。
何で海岸輸送を積極的におこなわなかったのか?
そりゃ朝鮮人の提督に海戦で負けたからです。
日本人は朝鮮人に負けたの?
まあ完璧に負けですな。
>>429 明史にはそう書いてないぞ。
朝鮮軍も明軍も日本軍に勝ち目はなかったが、秀吉が死んだお陰で戦争が終わったと書いてある。
それが当事者たちの認識。
文禄の役と慶長の役の違いも知らんのか
>>431 文禄の役では朝鮮から撤退してないじゃん。
日本軍は朝鮮半島に居座ったまま。
>>429 ☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) < ソースまだぁ〜?
\_/⊂ ⊂_ ) \_____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
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文禄
目的 明征服
結果 補給が滞り撤退
慶長
目的 朝鮮征服
結果 明の奮戦、秀吉の死により完全撤退
>>429 何で日本軍が朝鮮半島に居座ったままなのに「完璧に負け」なの?
日本が勝つためには備えのない文禄の役で一気に決めるしかなかった
それが出来ず敵に備える機会を作り最終的には完全撤退
朝鮮出兵を出したのは逆バージョンを提議することによって
元寇についての主張の矛盾点をつくためなんでしょ?
何時になったら元寇についての主張の矛盾点が出てくるの?
しらないよ
実際そうなのか真意も知らないし
完全に撤退することになるから「完璧に負け」なんじゃないの
でも、文永の役では完全に撤退してないんだから「完璧に負け」じゃないでしょ。
「完璧に負け」ってのは元寇のモンゴル軍みたいなのを指す言葉。
秀吉が死=台風
鎌倉武士の奮戦=明の奮戦
文禄と慶長は全然別の戦争って分けじゃなくつながってるんだが?
朝鮮出兵で朝鮮兵は大いに活躍し結局日本は完全に撤退することとなった
つまり朝鮮人は勝利し日本人は完璧に負けた
なににつっかかっているのやら
朝鮮出兵は秀吉の死がなくてもこの後戦線を維持することは困難だったろう
元寇は台風がなくても抑えられたかどうかはわからないな
>>442 朝鮮出兵で日本軍は秀吉が死ぬまで朝鮮南岸に拠点を確保していたし、漢城や
平壌を占領したこともある。
でも元寇の元軍は台風が来るまで鎌倉武士に歯が立たず逃げ回ってただけ。
海岸から10キロちょっとの大宰府に到達することすら出来なかったでしょ。
そりゃ時代の差航海術武装の差があるから単純比較するのは危険だな
やっぱこいつゲーム感覚で語ってんなぁ
「俺は3200点でゲームオーバー、友達は2200点だから俺の勝ち」てのじゃないんだけどね。
>>446 朝鮮出兵で日本軍は上陸してすぐに釜山を攻略したけど、元軍は文永の役でも
弘安の役でも上陸後すぐに撃退されてるじゃん。
航海術云々はまったく無関係で、陸戦で日本軍よりも弱かっただけでしょ。
>>447 戦争の犠牲者は一人でも少ない方が良いと考えるのは当然でしょ。
国土全部を戦場にして何年もかかって敵を撃退するよりも、敵に橋頭堡を築かせないまま
短期間で撃退した方が遥かに優ってるという認識のどこに問題がある?
醜い搾取を行っていた李氏朝鮮の王族や貴族たちから
朝鮮人民を解放した側面も見逃せないところですね
国家を見限った朝鮮人民は相手が日本軍であれ明軍であれ朝鮮軍であれ略奪を繰り返しました
>>447 彼我の損耗比も大事な要素だが?
勿論最終目標の達成を目的として全ての軍事行動は行われるが、
「我の損害を最小に抑え、彼の損害を最大にする」のも目標の一つ。
ほぼ全滅に近い大損害と、整然と撤退したのでは異なる。
また「国土の防衛」が守勢側の最終目標だったとするならば、
朝鮮は国土のほぼ全域を蹂躙されており、これに失敗している。
日本は壱岐対馬と九州の一部を蹂躙されたが、ほぼ全土の防衛に成功している。
戦争で失った「被害」もいずれが大きかったかは明白。
秀吉の失敗は譜代にやらせたこと
外様の家康や伊達にやらせりゃよかった
必死すぎてワロタw
創竜伝?釣りか?
そういや、創竜伝の竜堂兄弟って、
今日が誕生日の設定だったような。
で?
で、ガイエの主張とは?
460 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 21:50:38 ID:aMPDB4ac
なんか朝鮮っていつの時代も負け犬だな。
そのうち「ヤン語録」とか持ち出してきそうだな。
しかし地理的な位置関係が原因で(それだけじゃないだろうけど)、
属国、衛星国家、併合、内戦、分裂とかの憂き目にあってるわけで
災厄続きだね。
462 :
名無し三等兵:2008/01/17(木) 22:48:03 ID:UNwvk/Kt
丁寧に史料を提示してくれる人と、自分の思い込みだけを語る人のギャップが凄くて笑った。
そんな中で、
>>8を讃えたい。
>>230は神経症か何かか?
何百年も前の戦争の勝利を言うことに、何を怯えているんだw
これがサヨク思考なのか??
ナイーブというのか、外国マンセーなのか、思考回路が全く理解できない
規制解除があったからかな
最近遠投レスが多いよね
アカ狩りをやらない限り日本の歴史学会は腐ったまま。
>>455 日本以外のモンゴルに勝った国って元寇よりも一桁や二桁少ない兵数のモンゴル軍に勝っただけ。
それも国土を散々蹂躙された末にやっと撃退とかね。
文永の役や弘安の役の圧勝と比較すれば全部大した事ないものばかり。
やっぱ島国は負けにくいけど勝つのも難しい
>>467 そんなことない。
イギリスも島国だけど何度も大陸に征服されている。
日本が例外なんだよ。
ドーバーと対馬じゃ大違いだと思う
イギリスからフランス見えるんだろ
>>469 1016年にイングランドを征服したクヌートは遠くデンマークから北海越えて侵攻したんだし、
1066年にウィリアム征服王が渡ったのはドーバーではなくイギリス海峡。
イギリス海峡は100キロ位あるし、北海に至っては対馬海峡より遥かに距離が長い。
へーそうなんだ
でも、そのあと海峡を最大限に利用して帝国作ったんだしなあ
デンマークをロシアドイツの門番
オランダをドーバーで締め上げってなかんじで
征服される前のケルトやローマの占領民ってどれくらいいたんだ?
>>470 一度甘い顔をすると敵はとことんつけこんできますからね
当時のイングランド人はクヌートに貢物さえくれてやれば平和が守られると思っていたのでしょう
そういう意味では断固として元の要求を拒否した鎌倉の決断、そして侵攻軍を迎えこれを打ち破ったことは
後の明などによる日本侵略を抑止したという点で、その後の日本の歴史においても大きな影響を持ち続けたということになりますね
>>472 どの時代のイタリアを指しているのか分かりませんが
古代ローマなら世界最強クラスですし、
WW2ならば同胞で殺しあう羽目になっているので「うまくやった」とは言えませんね
元寇もひどいが、古代日本史もひどい。何人の天皇を実在しないことにして闇に葬れば気が済むのだろうか?
根拠もなく
476 :
名無し三等兵:2008/01/19(土) 18:11:54 ID:vmJ8u2Ct
高麗がモンゴル(中国基盤政権)にけしかけて始まったのが元寇なんだよな。
50年後くらいにありえなくも無い話だな。
>>476 あの国は「常に緩衝地帯」にしておかないとな。
統一朝鮮が中国と日本のどちらに味方するかは明白。
韓国の小学生に日本の絵を書かせると、日本が燃えてるか沈んでる絵を描く。
478 :
名無し三等兵:2008/01/19(土) 19:22:01 ID:DYQr8kE8
日本のゆとりは韓国の絵なんて描けないんだから笑えない
>>477 でもそのガキ共は日本の漫画とアニメとゲームに夢中なんだよねえ。
なんかいろんな意味で可哀想な連中だ
>韓国の絵なんて描けない
Q.嫌いな国に対する対応
1.殴る
2.甘い顔してだます
3.無視して、物資人材の移動を遮断して孤立させる
俺が、3.に気付いたのは22歳ころかなぁ。
敵を知ることは、敵に利益を与える「利敵行為」
Q.ネズミ(嫌いな動物)を駆除したい。
1.活きのいい家畜(ライオン)は、ネズミの拠点を見つけて食った。(そしておなかを壊したとさ、チーン)
2.頭のいい人間は、家の前に糞をするネコをネズミの巣に入れた。ネコとネズミ両方を始末して一挙両得
2.に気付いたのは20歳だったかな。
1.殴る
2.甘い顔してだます
3.無視して、物資人材の移動を遮断して孤立させる
人生経験からどうなるか。
1.→敵にデータ(殴り方、思考、拳の形、拳の強度、他沢山)を取られる。証拠が残る。日和見の第三者の疑心暗鬼を招く。
2.→証拠が残る。日和見の第三者の疑心暗鬼を招く。
3.→証拠はどこに?孤立させられた側が最初の1発を撃ったら、「悪役」になる。孤立させられた側が何もしなくても、勝手に「消耗・自爆」する。第三者は、別に気にしない。
まぁ、孤立の怖さを知りたかったら、服も水もなしに「穴」の中に6時間でも入ってみろ。
>>478 ヒント
普通の日本人は韓国に興味がない
興味がある日本人は嫌韓になるな
知れば知るほど嫌いになる国だから
私はいわゆる「韓流」で韓国についていろいろ調べてから嫌韓になりましたね
とくに韓国の歴史を勉強しようとして手にした在日の歴史学者?の著書を読んで呆れ果てました
「高麗がサボタージュしたおかげで日本は元に征服されなかったのである
日本人は子々孫々にわたるまでこの恩を忘れてはならない」
物凄い違和感を感じた部分です
韓国生まれで日本に来た小学生をひとり知っていますが彼女はセーラームーンが日本のアニメであるということを認められず
それが本当であることを知ったときかなりショックを受けていました
日本=韓国のパクリばかりやる国という認識だったのに、それが真逆であるという現実を突きつけられ
いまだに混乱しているようです
あーなんかわかるなそれ。中国の留学生と話したとき「上海がアジアで一番の大都市」と
教えられて育ったので東京に来たとき本気で驚いたよとか言ってた。笑ったのはその話を聞いてた
韓国人留学生のセリフで「私もソウルが一番だと言われてたんでそう思ってた」。その後その二人が
「いくら電車で走っても街がとぎれない」とか「ベンツが凄く多い」とかどこの田舎から来たんだよ的な会話で盛り上がりw
でも「国の束縛がほとんど無いからとてもいい国だよね」って二人がうなずきながら言ってたのが一番印象的だった。
統制思想を強制して闇の部分が多い韓国・中国に較べたら日本はやり放題に見えるみたいよ。
>>485 たまたま日本の、それも東京が世界一なだけで、
日本人でも地方都市の人は東京来て驚くだろうね。
日本語変
「いくら電車で走っても街がとぎれない」のはアメリカやヨーロッパの人間も驚くらしいな
あっちだと鉄道って基本的に都市と都市を「都市じゃない場所を走って」繋ぐものだから
東海道あたりの、別の都市へと移動する道程にも町並みが延々と続いてるってのは
かなり奇妙に写るらしい
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491 :
485:2008/01/20(日) 16:31:18 ID:???
>>486 ほんと心から出たセリフって感じだった。
その後自国の悪口が始まったんだけど韓国で学生運動やってた知り合いが秘密警察みたいなのに誘拐された話とか
中国が日本に就労ビザや留学生として送り込んでるスパイの話とか日本人には現実感のない話してたよ。
大陸の国だと、何も無い地域に都市が出現し、また延々と何もない中を延々と進むと次の都市が現れ・・という風景。
日本だと、山で区切られた少ない平地に人が密集し都市を形成し、山を越えると次の都市が出現するという具合。
関東平野は日本最大の平野だからそれはその分でかい都市が作られている。
元寇当時で賑やかな日本の都市はやっぱり京都?
萌え絵だらけの歴史的武器の本を読んだら
日本の弓は合成弓なのは良いが
腱やニカワなど、動物性材料を用いなかったため
どうしても弾性に乏しく射程で劣った
とか書いてあった
弓の大きさを考えても日本の弓の方が飛ぶ筈だ、という説は多い
それをこのように反論した例は初めてだ
打ち比べて検証すべきではないのかな
今まで見たことない火薬兵器で混乱したのは確かだろうけど、1人ずつ名乗り出てたら
途中で元軍に囲まれてフルボッコにされたなんてギャグみたいな展開は無かっただろう。
当時の武士って棟梁を頂点として血縁や郎党がいて一個のグループだったから
個人戦闘といっても文字通り1人1人が名乗りあって戦ってたんじゃなくて
各武将達が各々のグループ毎に戦ってて全体の軍としての統率は取れてなかったってことじゃないの?
名乗りを上げるってのも、あれって軍記物の物語上1つの演出で
実際は名乗ってる暇なんてなかったと思う。
当時頻繁にやってた夜討ち朝駆けなんか名乗り上げてたら奇襲する意味ゼロだし。
ただワールシュタットの時みたいなだだっ広い平原で会戦してたら
間違いなく東欧連合軍と同じ運命を辿ってたと思う。
でも実際はそんな状況になる前に波打ち際で撃破されるか、
仮に上陸に成功しても、戦線伸びきったとこでゲリラ戦仕掛けられてあぼーんだったかと。
>>495 1人ずつ名乗り出てたら元軍に囲まれてフルボッコにされたなんて話は、資料的な
裏付けが全くない作り話。
実際はその反対。
鎌倉武士は組織力でモンゴル軍よりも優っていたから元寇で圧勝できた。
元史に書かれている文永の役失敗の最大の理由は元軍側の「官軍整わず」だからな。
高麗・元の軍勢を博多湾まで手引きしたのはやはり朝鮮人商人なのでしょうか?
軍勢は博多湾の地図などを持っていたのでしょうか?
>>497 耽羅(朝鮮半島南岸の済州島)の人間がフビライのために博多湾の地図を描いて
「大宰府に侵攻するためには2〜3万の兵力が必要」と進言したという史料がある。
その他に、日本に使節として来た趙良弼とかも大宰府周辺の地形とかを詳しく
調べてフビライに報告してるから、高麗・元の軍勢は事前にかなり詳細な情報を
得ていたはず。
>>494 そんなのだいぶ前にこち亀でも解説されてるぞ。上長下短で射るのが難しいとか
歴史群像シリーズの北条時宗では同じ筋力の射手が使用した場合、弦の素材や
矢の品質で優る和弓の方が、モンゴルの弓より飛距離や命中率が高いという
解説だったな。
弓のひき方が違うから、上から下に落とすようにする和弓の方が、同じ腕力の人でも肩の筋肉の分、モンゴル弓より強い弓をひけるんじゃないの?
武器の優劣って最終的には「実戦で勝った方の武器が優れてる」と考えるしかないんだよね
>>502 それは極端すぎる考えだな。敗れた側でも良い武器使ってる事がある。
504 :
名無し三等兵:2008/01/27(日) 13:40:27 ID:3s5NrjfZ
蒙古弓はサイズの割には威力があるということであって、和弓と比べて威力があるという事実はない。
蒙古弓と比較するならば、半弓だろう
現代の洋弓と和弓では、洋弓の方がよく当たるとは聞いたことがある。
威力はともかく、難しいのかな。
>>505 西洋や中国の弓は、中央の部分を握って矢をつがえる
日本の弓は、中央より下の部分を握る
この位置を握ると、手にかかるショックは最小になるのだが、的に当てるのにかなりの技術が必要になる
魏志倭人伝にも、倭人の弓の使い方に関する記述があるくらいで、こういう握り方をするのは世界的にも珍しいらしい
いや、日本の弓は長いから中央を持つと下側が地面につかえるだろ
>>507 イングランドのロングボウも長いが、普通に真ん中を握るぞ
>>508 ロングボウ
4-6フィート(1.2-1.8メートル)
和弓
全長は七尺三寸(約221cm)を標準
510 :
名無し三等兵:2008/01/28(月) 00:04:13 ID:KeStOezl
和弓の経験しかないけど遠距離までよく飛ぶんです。
弓道部の1m40ぐらいの女の子が使ってた弓もでかかったなあ。全然的に当たってなかったが
和弓と洋弓だと、上下だけじゃなく左右についても
和弓:中心より右
洋弓:中心、あるいは中心より左
に矢をつがえるという違いがあるけれど
弓の話で「騎射」が気になったのでまとめてみた。
モンゴル/複合短弓/軽騎兵運用
〇「軽騎兵隊が機動力を使用し、主に重装歩兵を弓で攻撃」
受ける側は、騎兵か弓兵でしか対応出来ず、
有効な兵科での反撃が出来ないと全滅する。
(元寇では軽騎兵の兵科運用は出来ていない?)
日本/長弓/兵科運用ナシ
●「地形的に細分化された軽装歩兵を少数隊で近接弓射撃」
当時は頭立った者しか騎馬には乗っていなかったと思われる。
(農耕民族では騎射三物等での騎馬兵育成に訓練時間と経費がかかり過ぎる)
・長弓騎射は弓が長大すぎて射角が「ほぼ横方向」に限定される
・長弓騎射は中長距離での命中精度が低い=集中運用が必要だが不可能
流鏑馬に見られるような極短射程、かつ少数騎で元軍の弩や複合弓を相手に、
日本側が騎射戦術を多用したとは考え難い。
時代が下がった戦国時代には「騎馬隊」としての運用もあった?が、
この当時に、大規模な弓装備の軽騎兵運用があったと思われない。
元軍も、多数の「戦闘に使用できる馬」を揃えられず、
日本には重装歩兵が無いため、最も有効な戦法が発揮できなかったと思う。
蛇足だが「元軍」は中国兵(重装/軽装歩兵)主体だったと推量するのだが…
(流石に島国に騎兵主体の軍を派遣しないのでは?長江以南の南宋戦役の間、
騎馬隊使用の大勝利は無く、歩兵主体での水戦・攻城戦の連続だったはず)
>>507 縄文時代の弓は160センチ程度だったらしいが、当時はどういう握り方をしているのか気になるな
魏志倭人伝に書かれている時代の弓は、既に人間の身長を超すサイズだし
鎌倉期に騎馬(侍)以外の歩兵がどの程度だったか?
「御家人」が騎兵なのは解りますが、全国総数で500人弱で
その郎党(侍)や非御家人を入れていけば数では確かに数万になります。
また源平〜鎌倉で、戦記に普通に数万〜数十万「騎」と記されており、
歩兵戦闘の記述があまり無い事から、「鎌倉武士」=「騎兵中心」で、
郎党(侍)より下の歩兵は積極的に戦闘していなかったとも考えられますが、
この時代だけ歩兵が存在しないのは非現実的ではないでしょうか?
戦闘では槌「打撃」と金床「拘束」が必要ですが、
騎馬隊に騎射され続けて逃げない敵など考えられません。
敵の動きを止める歩兵がいなければ必ず逃げられる筈です。
義経に見られるような将クラスの有力家門の馬廻り郎党衆や
東国中心に「牧」を持つ地域は騎馬の部隊もあったかも知れませんが、
換馬や荷駄を運ぶ家人が随伴しただけでは恐らく戦果が薄すぎます。
律令時代〜国衙時代の「軍団」は歩兵の比率が高かったですが、
以降の「健児」では郡司の子弟を中心に騎兵の比率が高く、
南北朝〜で今度は足軽歩兵の比率と動員兵数が急激に増えます。
戦国になると「備」と呼ばれる部隊編成が行われ始めましたが、
弓・槍・鉄砲・騎馬(全侍)・荷駄等に分かれて「侍」階層だけが騎乗でした。
(「本陣備(中核部隊)」等に多数の騎馬を集中させる事はあったようです)
鎌倉当時も騎馬の比率が高いにせよ、これと似た構成ではないでしょうか?
>>513 和弓はあの長さなので「前に射る」のを想像すると、
馬体と馬首が相当邪魔になるのではと思われがちですが、
「前方射・押し捩り(パルティアのような後方射!)・馬手射」等の用語があり、
「X鞍に座ったまま射る」のではなく、「〇鞍から立ち上がって射る」
やり方をしていたようです。(和弓の下が短いのはこの意味も)
那須与一が遙かな船上の扇の的を馬上から射抜いた例もあります。
日本の歴史上の軍制とか兵器とか戦闘教義って、
研究してるスレありませんでしたっけ?
無ければスレ立てしても良い?
そうやって西欧・中国と比較してみないと、
本当に日本が強かったのかわからないし。
>>518 どれぐらい捜した?、又は、図書館とか通って文献調べた?
まさか思い付いて5分や10分じゃないよな?
>日本の歴史上の軍制とか兵器とか戦闘教義って、
図書館に行けばある。
ネットでも捜せば見つかる。
最低でも一ヶ月は自分で悪戦苦闘して捜せ、思いつきでスレ立てるな。
ハルジー朝のことも思い出してやってください。
>>505 アーチェリー(洋弓)やってるけど、命中精度は和弓よりずっと高いよ。
そもそも弓道(和弓)は“的に当てる”競技で、アーチェリー(洋弓)は“的の真ん中に当てる”競技だから。
それにアーチェリー(現代の洋弓)は命中精度を高めるために弓に色々つけたり、矢の硬さやポイント(鏃)の重さとか調節したりして、当てることに全精力を傾けているから昔の弓とは別物だぞ。比べる方がおかしい。
現代ので比較するならモンゴルの弓(正式な名称は忘れた)とか韓国の国弓と比較しないと。
まあ、昔の弓だったら和弓は結構優れていると思うが。少なくともヨーロッパのロングボウなんかよりはずっと良い。
>>518 この時代の武士の戦術などについて知りたいなら、お勧めは近藤好和の「弓矢と刀剣―中世合戦の実像」だな。
もう絶版だけど図書館なんかには置いてあるだろ。
主に源平合戦について考察した本なんだけど、笑っちゃうのは武士が集団戦法で戦う様子を描いた史料として
蒙古襲来絵詞を載せてること。
日本史研究者って、国内戦争の源平合戦と東アジア相手の対外戦争である元寇とで、平気で矛盾する説明を
使い分けてるのね。
>>521 「日本史研究者」という単独の人格がある訳じゃなし。それとも近藤氏=日本史研究者という
意味なのかい?
>>522 試しに最近書かれた源平合戦時の戦術についての本を何冊か読んでみれば?
中世の武士が一騎打ち戦法で戦っていたなんてことはありえないってのが常識。
>>523 悪いが、それくらいのことは知っているよ。じゃ、具体的に
>国内戦争の源平合戦と東アジア相手の対外戦争である元寇とで、平気で矛盾する説明を
使い分けてる
なんてことしている学者の名前でも挙げてくれないかな。俺が言っているのは最後の2行に
ついてだから。
>>524 中世合戦の本では、武士の一騎打ち戦法は否定されているのに、元寇関連の本には中世の武士は
一騎打ち戦法しか知らなかったと書いてある。
これって、日本史研究者は国内戦争と対外戦争である元寇とで、矛盾する説明を使い分けてるって
ことでしょ。
>>519 1ヶ月ロムれ!って定番で返されてもね…
ググれば充分な内容を質問してる訳じゃなくて
「そういう議論の場がいるかどうか?」ってだけだ。
研究書読めば如何にも判るようなセリフだが、
騎兵運用だけでも未だに異論反論が凄まじいぞw
騎馬民族日本征服説みたいな論破され尽くした説もあるが、
換え馬が無ければおかしいとか、馬体が小さかったかどうかとか、
武田騎馬隊なんか存在しなかったとか、下馬して戦ってたとか、
俘囚の弓射騎兵への影響とか、「教科書に無い」事は「定説」になってない訳だ。
しかもこれは歴史学の研究成果であって、軍事史学の学会なんかどんだけ寒いか。
元寇一つ取っても軍事学の見方からすると、
日本側は文永役の教訓を生かして、
弘安役ではその戦闘教義も変化させ、
防塁を築き、部隊編成や戦闘方法も一変させた。
当然元側でも文永役の教訓を元に弘安役を行ったはずだが、
こうした考え方は歴史学はしようとしないし、
勝因と敗因の分析も内線防御とか機動と言った見方では行わない。
元寇の教訓を日本の防衛に役立てる事もない。
たった一日で元軍を撃退した文永の役も普通に日本軍の圧勝なんだけどな
当時の日本にはまともな海軍はなく、海上の相手には小舟で切り込みかけるゲリラ戦法がせいぜい
大打撃となると自然の力が必要だった
台風がなくて継続攻撃かけられてたら歴史が変わったかもね
この偶然がカミカゼが困ったら吹いてくれるさという困った考えになってしまうわけだが
>>528 そしたら大苦労して防塁なんて作らなくね?
元軍の歩兵も弩や弓を装備していたし、
特に宋は騎馬民族との戦いの中で、弩の性能と用法を強力しており、
連射こそできないものの、集団で待ち受けて一斉射撃するので、
鎌倉幕府軍の弓射騎兵も射程内に入れば一瞬で大損害を受ける。
弩の弱点を突いて散開して波状的に攻撃するしかないが、
味方の数が少ないとそれだけ狙われるので近寄りにくく、
敵に与える損害も小さくなってしまう。
昼間は間合いと装填速度を経験で学びながらチクチクやって、
弩弓が使えない夜間に斬り込み攻撃するのを繰り返して、
常に機動して損害を軽微に抑えて包囲されるのを避ける。
これだと味方は絶対大敗しないし、逆に敵は包囲殲滅による
勝利の可能性も奪われて「士気」と「戦意」はガタ落ちになる。
ただ昼間に敵が大軍で一斉に移動するのを止めるのは、
やはり防塁が無いとどうやっても難しいだろう?
防塁とそこで戦った武士たちに感謝ですね、近所の防塁跡へ今からジョギングしに行きます
文永の役では博多焼かれて批判されたからな。
それに防御施設があるのとないのとでは味方の損害に雲泥の差がでる。
戦域と被害を局限するという意味では大きかった。
>>529 スレも500過ぎてるのに、こんなレスを書けるお前が凄いよ。
しかも元軍は矢が補給できず、「弾切れ」を起こしたら、
退却するか全滅するかになる…実際そうなったようだが。
矢が無くても突っ込め、とかいわれなかったの?
だったらWWUの日本兵よりマシな扱いだったな
湾を延々と埋め尽くす大船団
元軍の千人単位の一斉射撃と黒々とした矢の嵐
矢羽が風を切る音の中で騎馬を乗り回す華やかな鎧武者
炎上する街、手に穴を空けられ繋がれ連れ去られる人々
夜間に音も無く目だけを光らせて斬り込む決死のサムライ達
北条得宋家の若き君主時宗、世界最大の帝国と大汗フビライ
…そんなスペクタクル映画が見たいニダ!
日本をモンゴルの奴隷の運命から救った英雄
北条時宗の時宗廟に先月お参りして来た。
鎌倉の円覚寺内で拝観料100円とお得。
538 :
名無し三等兵:2008/01/31(木) 10:33:20 ID:mq2SNNJI
モンゴルの奴隷でしかも残忍な高麗人が支配する地獄絵図から救われた。
秀吉ナイスリベンジ。
朝鮮半島人民は秀吉の「唐入り」によって李氏朝鮮による奴隷支配から解放されましたが
そのことは忘れ去られているようですね、結果的にそうなっただけとはいえ
自分たちを解放してくれた人物に対してさえ感謝の念を持たないというのが朝鮮なのでしょうか
なぜか半島は日本が干渉するたびに人口も増え、良い時代平和な時代を迎えてしまうのです
そういうのを盗人にも三分の利、とそれこそ日本ではいうんだがなぁw>侵略したからありがたく思えとか
勝手に攻撃しておいて恨むな、とは無理w
542 :
名無し三等兵:2008/01/31(木) 12:59:49 ID:GKmZSk+0
>>529 今更だが・・・・台風が来る前に蒙古軍は攻撃する意志はすでに消えております。
もう一度時系列で史実を振り返るけとをお勧めします
文永では帰り道に台風にあった説が有力だっけか?
弘安だと話はまた別だが
この勝利が後に「日本は神の国、敵が来たら神風が吹き飛ばしてくれる」という滅茶苦茶な思想となり
それは第二次大戦で敗戦するまで残留するという恐ろしさ
偶然を生かすも殺すも人次第って感じ
>>544 きちんと戦史研究をして後世に繋げないと、
亡国をもたらすという事か…
日露戦争も太平洋戦争もきちんと研究しなければ、
現在の俺達だってどうなるかわからんな。
>>544 WW2で終わってませんよ、未だにその名残は続いてます。
日清日露での努力無視ですか
548 :
名無し三等兵:2008/01/31(木) 15:51:23 ID:GKmZSk+0
役後の資料で神風を吹聴しているのは祈祷をしていた寺社のもの。
実際に戦闘を行った武士は当然自らの手柄を主張している。
そもそも武士達は台風のおかげで勝ったという意識はなく記録もない。
それは当然だろう。
文永の役は蒙古軍は帰路で大風に会い難波しており、日本側がそのことを知ったのは数年後のことだ。
弘安の役では、完全に元軍の上陸を防ぎきり1ヶ月もの間元軍は海上をさまよい逃げ続けたのだから。また台風後も戦闘は続き、日本軍は皆殺しと言っていいほどの掃討戦を展開している。
神風思想などというものは近代人の、それも右翼左翼問わずリアリズムの欠如した人間の頭のなかにしか存在しないと俺は思う。
赤胴にゅーにゅー切りー!!
>>544 昔の人が本当に「日本は神の国、敵が来たら神風が吹き飛ばしてくれる」なんて
考えていたら明治維新は起こってない。
戦前の史書で文永の役は武士がちゃんと自力で元軍を撃退したと書かれていた。
台風のお陰で勝ったなんて嘘が広まったのは戦後になってから。
戦前、昭和天皇の歴史教科書に書かれていた文永の役↓
白鳥倉吉【国史】
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の
ことでしたので、これを文永の役といいます。』
それが太平洋戦争で負けた後作られた歴史教科書だと↓
第七期国定教科書【くにのあゆみ】
『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の兵を
乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、
大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退ける
ことができました。』
>>550 >台風のお陰で勝ったなんて嘘が広まったのは戦後になってから。
それ大正生まれの婆さんに聞いたらあっさり否定されたよorz
むしろ広まったのは戦前・戦中で「日本は神の国、敵が来たら神風が吹き飛ばしてくれる」
を軍人さんが女学校に来て日露戦争の輝かしい勝利と共に一生懸命喧伝してたとか。
戦後教科書はむしろその影響もあるんじゃないかねー
>>552 戦中の一番おかしな時期ですら元寇観は武士も散々元軍相手に活躍して最後神風が止めを刺すみたいな話。
戦後みたいに武士が元軍にフルボッコにされて神風のお陰で勝ったみたいな話じゃないだろ。
勝因は神風だよ。
日本武士も強かったけど、神風はもっと強かった。
>>554 文永の役で元軍が嵐に遭ったのは逃げ帰る最中なんだから勝因とは無関係。
弘安の役だって元軍が台風に遭遇したのは日本軍に2ヶ月間も上陸を阻まれた後。
日本軍が元軍よりも強かったから元軍は台風に遭遇するような状況になったわけで、
勝因が神風というのはおかしい。
WWUで「進駐軍」の上陸を許したのが悔やまれる…
国土防衛の輝かしいスコアが台無しになってしまった。
(「連合国」=「世界」を相手に負けたのだから仕方無いが)
少なくとも竹島とか尖閣諸島とか北方領土とか、
1:1で侵略を許したら、完全に「負け犬国家」になってしまう。
これ以上スコアを悪くして欲しくないね。
>>554 「神風」が無かったと仮定しよう。
機動力と地形を熟知した鎌倉幕府軍が大敗する可能性があったのか?
騎兵兵力が歩兵兵力に包囲殲滅される可能性はほぼゼロと言える。
そして補給ナシでエンドレスに戦い続けられる軍隊など存在しない。
負ける事が無い日本と、勝つ事が出来ない元、日本の勝率はほぼ100%。
しかも日本は「九州防衛」に出て行かなかった大部分の勢力が未だ健在。
558 :
名無し三等兵:2008/02/01(金) 09:30:11 ID:7uSjo2We
弘安の役終了時点でまだ関東から続々と進軍中。
朝廷の呪詛が効果的だった
博多で小学生をしていたころ教師に
箱崎宮に奉納された亀山上皇による「敵国降伏」の額が元軍を追い払ったのだと習いました
軍隊を持つことや戦争をするのは悪いこと、平和への祈りが何よりも大切なのだと
この国の教育には本当に醜いものがあります
元寇で来たのは、大半が朝鮮人・中国人だろ?
神風が吹かなくたって、負けるわけがない。ただの野盗だからな。
むしろ、対日侵略戦争をしかけたかどて、モンゴル・朝鮮・中国に謝罪と
賠償をするんだ。
まあ、あれだ、ジンギスカンは源義経なのであるが。
ここだけの話だぞ?みんなには内緒だぞ?
元寇に朝鮮人なんて少ししか参加してない。
朝鮮の国力では自力で日本を侵略するのが無理だから、朝鮮国王は何度もモンゴルに
日本を侵略してくれって頼んだんだろ。
モンゴルの日本征服に自分たちも形式だけ軍を参加させて、おこぼれをもらうつもり
だったんだよ。
〇日本侵攻元軍の実態
・文永の役
元軍船舶 900
侵攻元軍総兵力 25000
内高麗兵 12700
内モンゴル兵 30
他漢人(旧金の兵)等
当時の元軍の主力は対南宋戦投入中
・弘安の役
元軍船舶 4400
侵攻元軍総兵力 50000
内高麗兵 25000
内モンゴル兵 150
他ほとんど旧南宋の老兵で征服した日本に植民目的、たいした武装をしていない
屯田兵であり、沈没船からの引き揚げ物を見ても武器より農具が目立つ
当時の元軍主力は対オゴタイ・ハン国のカイドゥ(ハイドゥ)戦投入中
>>564 モンゴル軍ってのは複数の侵略戦争を同時におこなうのが普通なの。
例えば、ヨーロッパ侵攻と南宋侵攻とか、中東侵攻と南宋侵攻とかね。
西方配備のモンゴル兵をカイドゥ戦に投入したら、東方配備のモンゴル兵は
バランスとって日本戦に投入ってのがモンゴル帝国のやり方。
なんだよ、ほとんど高麗軍が主力でモンゴルは軍事顧問団みたいなもんじゃん・・・
史料に残ってる文永の役の元軍の構成は、蒙漢軍2万5千、高麗軍8千、水手などの非戦闘員6千7百で
主力はあきらかに蒙漢軍。
あと、弘安の役で日本に置き去りにされて皆殺しにあった元兵10万の中には、モンゴル兵も含まれて
いたけど、よほど大勢が参加しない限り、モンゴル兵が置き去りにされるなんて事態にはならないだろ。
>>564 あれ?
俺素人で詳しくないから何なんだが、兵力って14万くらいなかったっけ?
>>564 元寇沈没船からの引き揚げ物
昭和55・56年度の調査
引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片143点(完形品3点)のほか、投石弾や片口などの石製品4点、
鉾先やインゴットなどの鉄製品8点、磚9点、青磁碗・小鉢3点など、総計171点を数える。
昭和57年度の調査
引き揚げられた遺物は、褐釉壷の破片など173点である。褐釉壷はいずれも破片で、ほかに磚57点、
碇石10点、石弾2点、青磁碗・石製片口・石臼各1点がある。
鉾先や投石弾などの武器は引き上げられてるけど農具は・・・?
ベトナム軍は元軍の司令官を捕虜にするなど大量の捕虜を得ている
かつて白村江で倭軍が一万数千の兵でわずか7000、170艘の軍船しかない唐軍に
惨敗し400艘の倭軍船を焼かれた時も生き残った倭兵のほとんどは唐軍の捕虜に
なった
一部の人間が言うように元冦において大きな戦いがあり、なおかつ勝ったと主張
するのであれば大量の捕虜を得てしかるべきである
陸続きでないのだからなおさらだ
しかし実際、大量の捕虜どころか少数の捕虜すら得ていない
本当に戦闘らしい戦闘があったのか?
太宰府を攻めるならモンゴル軍の戦術から考えて大型攻城兵器があってしかるべ
きなのにないし、日本軍が勝ったのであれば捕獲できたはずである
凄い香ばしいのが来た。
誰か相手してやれよ
壱岐・対馬住民はどうなったのか。
「手の平に穴をあけられて船に吊るされた」だけでも
残虐すぎて、そこから先を考えられなかったが…
こんなのがあった…
何十日もかけて航海し、到着した頃には食糧は不足状態であった。
そんな中、対馬・壱岐島で捕らえた女子供は絶好の食材に見えたに違いない。
捕らえて数珠繋ぎにした女子供を船内に積み込むと狭いし、
泣き叫んで喧しいし、糞尿を垂れ流す。さりとて殺してしまうと、
すぐに腐敗が始まる。だが舷側に吊るして生かしておくとすべてが解決する。
必要な時に必要なだけ引きずり上げて慰みものにした揚げ句食材として処理。
573 :
名無し三等兵:2008/02/01(金) 21:21:05 ID:hXo771Iy
>>570 降伏した連中片っ端殺したから捕虜なんてほとんどいない。
白村江では滅亡した百済人約3000人程も日本に連れ帰ってるくらいだよ。
彼らを東国の開拓に当たらせたんだから。
負けはしたけど秩序正しく撤退した。
そうでなきゃ百済人をたくさん連れ帰るなんてできない。
>>570の言うことの方が一理あるな
捕虜がいないなんて不自然すぎる
捕虜に出来ずに殺戮したというなら大量の武器や防具が捕獲できたはずだし
火薬の製法だって鉄砲伝来に先立ち日本で作れたと思うが
南宋人は御家人に分配され、そうでないものは首を刎ねた。
蒙古兵の兜は戦利品として神社に奉納されていたりするからよく調べて見なされ。
576 :
名無し三等兵:2008/02/01(金) 21:40:21 ID:hXo771Iy
>>574 日本の大鎧や日本刀の方が優れていた。
室町時代の日明貿易ではそれらは主要な輸出品だった。
事実中国の文献「元史」には生きて帰ってきたのは3人だけとある。
>>571 ワカタ オイカエス
『元史』外夷伝(日本側の資料ではない)
「七日、日本人が来り戦い、ことごとく死に、
残りの二・三万は、虜(捕虜)となって連れ去られた。
九日、八角島(博多?)に至り、ことごとく蒙古・高麗・漢人を殺し、
新付軍(南人の江南軍)は唐人であると言い、殺さずに奴(奴隷)とした」
>>572 南宋人以外の「高麗人捕虜」とかは、当たり前に皆殺しにしているな
文明も技術も持たないに等しい半島の蛮族など
捕虜として生かしておく価値がなかったということですね
579 :
名無し三等兵:2008/02/01(金) 23:03:13 ID:hXo771Iy
いずれにせよ高麗人は降伏しても皆殺しにして南宋人は多少助けた。
諸悪の根源高麗人皆殺しはとてもいいことだと思う。
高麗人は奴隷にする価値すらなかったって事か・・・ある意味納得
唐入りでも秀吉が死んだってだけで諸大名がとっとと撤収したのもよくわかる
奴隷以下の利用価値しかない原住民に荒れ果てた土地じゃなぁ
581 :
名無し三等兵:2008/02/01(金) 23:53:22 ID:PWskmiDF
>570
日本兵は基本皆殺しだよね。長崎の鷹島ってとこに行った時、民俗資料館に
書いてあったけど、上陸しながら帰るべき船を大風で失った蒙古兵1千が、
鷹島に取り残され、上陸してきた1万強の日本兵に全員虐殺されてるんだっ
て。蒙古兵達は皆武器を捨てて日本兵に泣きながら命乞いしたけど、これら
を生かしておいても益がないって事で殺しちゃったんだってさ。かなり徹底
してるよね。
例外的に日本と交流があった南宋兵のみは生け捕りにされ、他は片端から皆殺しだったという・・。
今も各地に蒙古塚というものがありますな。
当時の幕府は高麗が蒙古と一体となって侵略していることをきちんと把握しており、
文永の役後は幕府主導で高麗の港を叩く計画まであった。諸事情により途中放棄されたが。
また弘安の役の後は、一連の戦乱によって被害を受けた松浦の兵は報復のために
同じく高麗に出向き荒らしまわったという。これが倭寇の始まり。
やられたら徹底的にやり返す、受けて立つどころか自ら攻める鎌倉武士。恐るべし。。
スレから少し遠ざかるが、古代から日本は南方地域にシンパシーを感じるようですな。
古代、白村江の戦いでも、新羅・唐という北方系の国に対抗し、百済という南方系の国を
日本は支援した。
元寇の時代では朝鮮半島はすでに北方系民族一色になっている。
だが大陸でも南宋とは親密な関係が続いている。得宗家では高僧を招いたりしている。
>>574 俺もそう思うな
だってあんな狭い戦域で2万〜数万殺したんならちょっと掘ればかなりの人骨が
出てくるはずなのに
現在人口密集地でいろんな工事され堀つくされてるのにそんなことないし
元冦より800年以上昔に起きたカタラウヌムの戦いのあった戦地に近いシャロ
ン近郊では敗れたフン族と思われるモンゴロイドの人骨が考古学調査で多数発見
されてるのにな
戦前から何度も人骨は見つかっているのだが・・。
一度でいいから、『蒙古塚 人骨』で検索してみなさ
い
な
や
く
そ
く
よ
ぼ
う
や
、
ま
た
き
て
ね
自
作
自
演
は
や
め
て
ね
、
お
ね
が
い
よ
おっぱい
590 :
名無し三等兵:2008/02/02(土) 11:39:50 ID:+apuVYEE
>584
人骨が出てるのかどうかは知らんけど、たしか蒙古兵の死体は全部焼いてる
でしょ?大量の死体をそのまま土葬するのはまず無理。
しかし、日本人と大陸人ってやっぱ歴史観が違うよね。韓国では今でも秀吉
の朝鮮役の事を非難する人がいるって話だけど、対馬や鷹島では蒙古兵や高
麗兵による虐殺があった地域なのに、今ではそれらの国と友好関係結んでる
訳やし。対馬では韓国人旅行者誘致やってるし、鷹島はモンゴル村作ってる
し。
まあ中韓じゃ2回の元寇よりも400年近くやられた倭寇の方が有名だからな。
被害者意識の方が大きいんじゃね
そりゃ、全土が焦土になった戦争と、
局地戦で終わった戦争ではぜんぜん違うだろうね。
元寇が京都まで攻め込まれていたら
日本の歴史観もぜんぜん変わったと思うよ。
関東の大軍が戦場に駆けつける前に、終わってしまったからな。
戦力的にはほとんど九州の御家人だけで勝利したようなものだ。
なかには瀬戸内あたりの海賊も出張ってきたようだが。
蒙古軍弱すぎだろ
「元寇」&「蒙古」って「言葉」のせいで、
「モンゴル人が大挙して攻めて来た」イメージが強すぎる。
高麗・中国北部(旧南宋)・中国南部(旧金)は、「元帝国」の一部だが、
「元寇」で日本に襲来したのは、高麗と中国の兵が主体であって、
生粋の「モンゴル騎兵」が、10万人も海を渡って来た訳じゃない。
世間一般に流布しているイメージは、こんな感じじゃないか?
・モンゴル人がイッパイ来た!・台風でモンゴル人は海の藻屑!
・一騎打ちを挑んで鎌倉武士ボロ負け!・運が良かったね!
「文永の外寇」とか「弘安の外寇」の方が正しく学べる気がするよ。
「蒙古」は「蒙古に率いられた高麗・中国兵」とでも表現すべきか?
戦前は歴史教育でも「ニッポンヨイクニ ツヨイクニ」のイメージを出す為か、
・天皇に従わないのはショッパイ蛮族!
・日本は強いので、攻めて来るのは弱っちぃ盗賊の類!
こんなんじゃ、「侵略から国を守る」なんて意識沸かないよな?
しかも戦後に至っては「平和」ってばかりで更に意識低下…。
日本は「侵略から国を守る事の大切さ」を、もっと知るべきだと思う。
北方領土と竹島と東シナ海は今も侵略されて失われつつあるのに。
>>594 >高麗・中国北部(旧南宋)・中国南部(旧金)は
ここは逆ねw
597 :
名無し三等兵:2008/02/02(土) 17:36:04 ID:+apuVYEE
>592
うん、それはそうなんだけど、局地的ではあっても対馬とか鷹島っていう島
は蹂躙された訳でしょ?
左翼教育の賜物だろうな
遊牧民は基本的に人口が少ない。
モンゴル人は侵略した国の兵を使い、さらに先の土地へ侵略するのが常套手段。
元寇も同じ。
東欧に攻め込んだのは「蒙古に率いられたキプチャク・スラブ兵」
中東に攻め込んだのは「蒙古に率いられたトルコマン・タジク兵」
南宋に攻め込んだのは「蒙古に率いられた漢人・キタイ・女真兵」
>>516 鎌倉時代は郎党も馬に乗る。蒙古襲来絵詞でも季長の幟持ちは騎馬
純軍事的にはともかく政治的には元寇の影響は大きかっただろう。
鎌倉武士の精神は「滅私奉公」じゃなくて「御恩には奉公」。
防衛戦だから勝っても土地が恩賞にもらえるわけじゃないとなれば
幕府の求心力はぐっと下がる。
多分、元寇は鎌倉幕府の寿命を縮めた一因だろう。
元も国力が落ちた
もっともその後も南方を攻略したりはしているが
鎌倉幕府が滅びかけた1320年代末にもう一回元寇があったとして
楠木正成が元相手に奇襲戦法をやるというのは仮想歴史小説としても
ネタとして面白くなるw
>>601 郎党も馬に乗る文章だったつもり、判り難くてごめん。
当時の武家階級の中でも後世の「侍」・「士分」とされる部分は
少なくとも東国武士に関しては騎乗であったと考えています。
ただ、有力な「牧」を持たない西国では、
「馬」は相当な高級品・貴重品であったはずで、
どの位の割合が馬に乗れたのか疑問です。
文永の役では120人以上の御家人が恩賞獲得してるんだけどね
>>605 ぜんぜん足ラねー。
って、九州の誰かが言ってました。
文永の役当時、御家人は全国でも約480人なんだから120人も恩賞獲得すれば十分だろ
一騎
って武士+馬1頭ではなく
周囲に2、3人の従者がいても含めて一騎だっけ
2倍になるか3倍になるかは、騎数だけじゃ分からん
補給が予測できねえw
従者は戦力なんだから一人で一騎だろ
610 :
名無し三等兵:2008/02/09(土) 10:47:32 ID:VdQH7vyw
>606
北部九州の御家人の中には、自分の領地を守るための戦いって片付けられて
恩賞与えられなかった人も多々いたみたい。
>>607 貨幣経済が発達した時代ならヨソから徴収した税金で恩賞をくれてやることも
できただろうけど、当時の恩賞といえば基本的には土地だったと思う。
恒久財産となる土地しか、賞与が無いというのがなあ
613 :
名無し三等兵:2008/02/17(日) 02:15:28 ID:oZnb491S
鎌倉時代には既に問屋があったシナ。
今はネット時代の中抜きで次第に卸がなくなる傾向だが
614 :
名無し三等兵:2008/02/17(日) 08:19:36 ID:sz/l3M5H
話かわるが、元寇の際の苦労を書いた井上靖の小説ままおもしろかった。
国がぼろぼろなのに、兵隊だせ、すげえ数の船つくれって言われて苦労する朝鮮の話。
>>614 「風涛」だろ。
フビライを唆して日本を侵略させた高麗を無理やり被害者に仕立て上げようとした小説。
「高麗史」に記されてる忠烈王がフビライに日本侵略を唆す台詞の直訳
『日本は一島夷のみ、険を恃みて庭せず、敢えて王師に抗す。臣自ら念うに、以って徳に報ゆるなし。
願わくは、更に造船・積穀し、声罪・致討して、蔑てて済わざらんことを』
※【声罪】罪を強調し、討伐する。
これが井上靖の「風涛」だと
『この広い世界の中で、日本という小さい島だけが険をたのんで不逞であります。が、やがては皇恩に
浴する日も参りましょう。そのために臣が為すことがあれば、何なりと御命令下さいますよう』
意味が全然違うじゃん・・・
>元の日本侵攻
>
>モンゴルは日本を懐柔するために高麗に協力を要請した。何回か懐柔を試みたが日本は
>応じなかった。そこでモンゴルは日本侵攻を計画し、高麗に兵士と艦船や軍需米などの
>軍需物資の調達を強要した。
>>614 興味持ちました
図書館で見かけたら読んでみます
40年間もモンゴルに抵抗していたのか
確かに半島はボロボロになっただろうな
元寇とは比べ物にならない被害だっただろう
619 :
名無し三等兵:2008/02/22(金) 21:51:35 ID:+Znq857G
そのころ朝鮮はモンゴルと内戦でむちゃくちゃだったらしい。
男手もほとんどいなくて木材すらとりにくい状況だったらしい。そんな中で
兵を何人、船を何隻とかっていろいろ指示されたりして王様が必死こいてフビライに
許しにもらいにいったりする話。ホントのところはしらないけどままおもしろい。
ホントのところは高麗の王様の方からモンゴルに「日本を侵略しましょう」って進言したんだよ
>>618 元寇が高麗とは比較にならない程少ない被害で済んだのは鎌倉幕府のお陰。
高麗の為政者たちは江華島で自分たちの安全だけを確保して、後はモンゴル軍が
好き放題に朝鮮半島全域で略奪したり奴隷狩りしたりするのを、30年間も放置
していたんだから。
622 :
名無し三等兵:2008/02/23(土) 10:37:20 ID:4yGpL7wV
高麗は40年間モンゴルに抵抗していたのではなく、40年間なにもしなかっただけ。
戦うことすらできずに逃げ出した。
これを抵抗と呼ぶならば、抵抗とは怠惰そのもの。
まず第一に海のおかげだわなw
それならモンゴルが領土拡大できたのは草原のおかげだわなw
>>624 基本的にそうだと思う。
騎兵戦術を展開しにくい土地、
ベトナムやインドネシアなどの密林地帯、ゲルドクーフ城みたいな山岳地は非常に手こずっている。
文永の時は今日みたいな強風だったのだろう
>>625 騎兵戦術を展開しにくい土地でもモンゴル軍は普通に強かったぞ。
ベトナムは僅か3000の兵力でハノイを征服してるし、インドネシアでも首都を
あっさりと攻め落として国王の首を持ち帰ってる。
強固な山岳地に拠っていたはずの二ザール派もモンゴル軍の前では瞬殺。
一方の日本では、騎兵戦術を展開しやすい福岡平野で普通に日本軍と戦って
ボロ負け。
あと、モンゴル軍が元寇に投入した兵力は、ベトナム、インドネシア、中東侵攻
よりも多い。
日本侵攻では海のお陰で船の大輸送力を利用できたから、モンゴル軍は圧倒的な
大軍を投入できたのさ。
>>564-565 > 文永の役
『高麗史』では「蒙漢軍2万5千」ってかなり大雑把な書き方しているけど、
『元史』の方では「屯田軍及女直軍、并水軍、合萬五千人、戦船大小合九百艘、征日本。」
と書かれてあって、『高麗史』で「蒙漢軍」という割には『元史』の方では「蒙古軍」に
ついては特にそれらしいことは書かれていないよね。あるいはこの「屯田軍」に何部族出身から
なる部隊かは知らないけど「モンゴル騎馬兵」が居たんだろうか?
『高麗史』が編纂された時、明朝との関係から元朝時代のクビライ王家と高麗王家との関係の
事蹟についてわざと曲筆げることもよくあるとか聞いた覚えがあるだけど、『高麗史』のやたらと
詳しい数字も後から水増しした可能性とか無いんだろうか。文永の役についての元朝側の資料は
実質『元史』と『高麗史』しかないので仮に水増ししても立証はほぼ不可能だろうけど・・
(『高麗史節要』はいまいち信用出来ないとも聞くけど)
何レス目だったか忘れたけど、「『集史』の挿絵と『蒙古襲来絵詞』に出てくるモンゴル兵の
装備が全く同じことが分かったらしい」みたいなことが書かれてあったけど、これには個人的に
ちと疑問が。
『蒙古襲来絵詞』に出てくる「蒙古」の歩兵は皆、矢筒をひものようなもので肩から担いで
筒を胸の当たりに持って来ているみたいだけど、実は『集史』やその他の絵画資料に出てくる
モンゴル時代のモンゴルやテュルク系の連中は、弓入れも矢筒も腰から下げていて、肩から
担いで胸の方に筒を持ってくるってスタイルは採っていない。
歩兵だけかと思ったら箱崎浜だったかに集結した「蒙古」兵で、騎兵も歩兵と同じ位置に
矢筒を担いでいて、『蒙古襲来絵詞』のこの場面に描かれている騎馬兵たちは、どうも当時
中央アジアでカイドゥやクビライ旗下、散々戦闘に明け暮れていた「モンゴル騎馬兵」とは
全然違うんじゃ無いかと思わせるんだが、どうなんだろうか。
(重装備の甲冑についてはかなりと似ているけど)
>>625 東南アジアの方は良く知らないけど、イラン方面の山岳城塞の攻略については、
セルジューク朝やホラズム・シャー朝時代の攻城戦の話を見る限り、割と手際よく
陥落させている方だと思うけど。ただこれも、両王朝に比べて物量で物を言わせて
複数の城を同時に攻め落としているというのが違うくらいで、アラムート城塞に限らず
調略とかフレグ側は硬軟織りまぜて落としているし、城攻めの場面の記録を見る限りは
攻城兵器の種類もセルジューク朝やホラズム・シャー朝の頃の物と質的に同じような
ものを使っているように思う。
ギルドクーフ城塞についてはモンゴルが来る前から難攻不落の名城として知られて
いたそうで、確かセルジューク朝のスルタン・ムハンマドも落とせなかったとか何とか。
「瞬殺」と言って良いかは疑問だけど、少なくとも「モンゴルは城攻めが全く不得意」
っていう風聞は全然あたらないと思う。
630 :
名無し三等兵:2008/02/25(月) 01:31:49 ID:+FQ3QGnn
かのアサシン教団すらモンゴルの軍門に下ったしな
台風じゃねーよ
タイムスリップしたイージス護衛艦「みらい」が・・・・・
わかった!
タイムスリップした護衛艦「しらね」が・・・・・ え、しらね?
633 :
名無し三等兵:2008/02/26(火) 18:37:17 ID:jCNxufWs
時事ネタは不謹慎だからやめれ
モンゴルの場合無駄な城攻めをしなくてもよい補給体制だったからだとおもうな。
家畜を連れて移動していれば拠点を構えなくても長距離移動できるなら、城攻めして
拠点を押さえる必要は余り無い。
むしろ長駆けして防御の低い町を取っていく。防御が固い町に避難民を追い込んで
兵糧攻めが基本だし。
これが南方になると水の手が有る所は町以外にも豊富に有るし、野宿しても食料は
砂漠や草原より取れる。ゲリラ戦を展開しやすい森林と相まってモンゴル従来の
戦法が通じなくなったって事だと思う。
?
すまん
誤爆った orz
>>634 モンゴルの場合無駄な城攻めができない補給体制だったんだよ。
常時移動し続けてないと直ぐに周辺の飼葉を食い尽くしてしまって全軍が餓死してしまう。
638 :
名無し三等兵:2008/02/27(水) 03:14:47 ID:LKcnMgnR
騎兵を編成できるほど大量の馬を運ぶのは無理だな。
>>638 騎兵を編成できるほど大量の馬の輸送なんて紀元前から普通に行なわれている。
しかも、元寇の艦隊よりも遥かに小規模な船団によって。
モンゴル軍はむしろ攻城戦得意ですよ。
全ての戦争で最終的に敵国を滅ぼす時は
「都城」を陥落させないといけない。
首都へ行き着くまでにもどれだけ城があったか。
野戦と比べると地味ではありますが。
日本に侵略してきたのはモンゴル軍というよりは、実質高麗軍ですからね
642 :
名無し三等兵:2008/02/28(木) 08:08:00 ID:r7jVqyp9
モンゴルはその異民族侵略の過程で特に南宋などの漢人に影響されて
大掛かりな攻城兵器を使用することに慣れている。
遊牧民から見て、まず長城を突破しなければ農耕民を侵略できないから。
日本に攻めてきたフビライの時代で、未だに攻城戦が苦手だとするのは無理がある。
とっくにノウハウは蓄積済みだろう。
>>641 それははっきりと間違い。
文永の役の元軍3万3千の内、高麗軍は8千だけで残り2万5千は蒙漢軍。
弘安の役だと総兵力14万の内で高麗軍は1万だけ。
元軍に占める高麗軍の割合なんて微々たるもの。
644 :
名無し三等兵:2008/02/28(木) 08:30:39 ID:dXOVmg4p
ヂンギス・ハーンの時代に既にサマルカンド陥落させてる。
近代までは基本的に国とは城であり城とは城壁だから。
城攻めが下手なら帝国なんて築けない。日本には城壁都市はないけど。
>>644 一応大宰府は海岸方向を水城という城壁で守ってるのね
鎌倉軍が強すぎたせいでモンゴル軍はそこまで到達できなかったけど
大宰府を拠点とした既存の防衛システムを充分に活用し、
防衛のための兵力を北九州・中国地方に結集し、敵の侵攻があれば
すぐに増援を派遣できるよう京都に予備兵力を置き、前回上陸のあった
博多湾には防壁を築く。さらに博多の商人から、元軍についての情報収集も行う。
事前にしっかりと諜報や防御戦略をちゃんと練っていたからこその勝利じゃないか。
こういった功績を無視して、神風の一言で済ませるあたりが何ともいえない・・・
太平洋戦争なんて神風が吹いたあとの米艦隊にすら負けるくらいだからな。
異国に占拠される事は
当時の武家社会の崩壊を意味します。
鎌倉武士は本能的に自分等の危機を感じたんでは?
朝も昼も夜も、絶えず小競り合いを続けたら敵も…
しかも、九州諸藩から兵力は無尽蔵に近い。
なんというかもっと長引いてた方が面白かったんじゃないかという気がして来たw
各地の武将が活躍出出来るようなチャンスがあったかも知れんという火葬戦記レベルの妄想だけど
12回も元軍が攻めて来る
だが最後の方は、何故か元から少年兵が来て
何故か日本で全員使用人として販売されてしまった
「神風」の軍事的考え方
暴風雨も「戦場の不確実性」として認識すべき。
自然条件が「味方」をするとは限らない、当然「敵」になる事もある。
「全てが作戦通り」に進めば必ず勝利する。
しかし、予定外のミスが出たり、予定外に敵が強かったり、
兵器が予定外の性能であったりと、計算には必ず狂いが生じる。
「予定外のミス」を出来る限り少なくし、
(ワーテルローのグルーシー軍不着が好例であろう)、
尚且つ「予定外」の事象を「予定内になるように調整」
し得た方が、最終的に「勝利」を得る。
文永の役で元軍が神風に遭ったのは日本軍に戦闘で負けて逃げ帰る途中。
「神風のお陰で元軍に勝った」なんて言い方は「イギリスはスコットランド沖の
悪天候のお陰で無敵艦隊に勝った」と言うみたいな無茶苦茶な話なんだよね。
モンゴル帝国の戦闘について詳しい人がいるみたいだから質問させてください。
モンゴル帝国が金朝に決定的打撃を与えた「三峰山の戦い」について教えてください。
騎兵2万、歩兵13万、計15万の金の大軍を大敗させたって、ちょっと想像つかない。
>>645 巡視船「みずき」は今日も博多の海を警備していますよ
北朝鮮の工作船との奄美沖での戦闘でも活躍しました
杉山の説明だと、トルイのモンゴル軍は塹壕を掘って金軍の攻撃をしのいだ
それで金軍が厳寒期の寒さと飢えで弱ったところで反撃に転じて勝利したということだが
なんか官渡の戦いっぽい?
656 :
名無し三等兵:2008/03/06(木) 09:59:10 ID:Bb3wwAsR
弘安の役の元艦隊と比較すれば、レパントの海戦のオスマン艦隊も、
アルマダの海戦のスペイン艦隊も規模が小さい。
元艦隊14万を壊滅させた日本軍の勝利は世界史に燦然と輝く偉業。
弘安の役の旧南宋兵10万は元がもてあましていた老兵でまともな武装をしていな
い屯田兵
引き揚げた元軍船からの農具の多さから推測がつく
後継争いから発した長年の抗争で西方に釘付けになっているモンゴル兵はほとん
ど参戦していない
それ以前に日本軍は対馬、壱岐で敗退し捕虜も捕えられている
同じく松浦党も敗退したことも記述されている
弘安の役で元軍の実質兵力は4万程度
658 :
名無し三等兵:2008/03/06(木) 10:43:37 ID:Bb3wwAsR
>>657 また適当なことを・・・
引き揚げた元軍船から農具なんか見つかってないよ。
引き揚げた元軍船から見つかったのは石弾や矢尻などの武器類。
老兵とかいう話も資料の根拠はないし。
659 :
名無し三等兵:2008/03/06(木) 11:00:36 ID:Bb3wwAsR
>>657 松浦党が敗退したと記述されてるのは文永の役ね。
当時の文献によれば、この時の松浦党の犠牲者は数百人。
一方の元軍はその後少弐氏率いる御家人部隊に敗退し、犠牲者は1万3500人以上。
日本軍は素晴らしい強さだな。
ウチの先祖が「芝居みたいに大音声で名乗りを上げたあげく
蒙古軍にフルボッコ」されるようなアホじゃなかったことが良く分かりました
身銭切って石塁築いた甲斐があるってもんです
オカルト板になぜ元寇のスレがあるのか激しく疑問なんだが・・・
燃料補給してくれと言いに来たのか?
板違いなら運営に報告すればいいだろうに
一休さん乙
>引き揚げた元軍船から農具なんか見つかってないよ。
プププw
まだこんなのいたんだ
668 :
名無し三等兵:2008/03/07(金) 22:54:44 ID:UYmFDWLQ
鎌倉武士強すぎ。
モンゴル人さえやられちゃったんだから付録の高麗なんか負けて当然か。
付録というより寄生虫、疫病神ではないでしょうか
670 :
名無し三等兵:2008/03/07(金) 23:17:16 ID:UYmFDWLQ
船つくるのサボタージュしてたら、自分も乗せられて涙目だったらしいよ(笑)
高麗製の船は丈夫だった。
弘安の役の台風で沈んだのはもっぱら中国製の船のみ。
だから後日、「日本遠征が失敗したのは中国製の船が脆かったのが原因だから
今度は全部高麗で造船しましょう」なんてわざわざ高麗人の方からフビライに
進言してたりする。
673 :
名無し三等兵:2008/03/08(土) 10:49:21 ID:pinVbee3
>>673 現実に半島経由で生還してる奴が多数居るわけで、そいつらの船は台風に耐えたってことだろ
675 :
名無し三等兵:2008/03/08(土) 12:57:16 ID:pinVbee3
それは運が良かったとか、避難したとかだろう。
台風の知識があったとかのレベルであり、
構造的な問題には見えない。
決定的に構造が違うのなら話はわかるが。
>>1 神風が吹いたんだよ、神風が!
万世一系の現人神の霊験を信じない奴は日本人じゃねえ。
日本から出ていけ!
日本、朝鮮、中国、関係国全部の史書に元軍が戦って負けたと書いてあるんだから
日本軍が普通に戦って勝ったってことだろ
負けてもいないのに、船に戻るとかありえんから。
679 :
名無し三等兵:2008/03/08(土) 14:51:49 ID:pinVbee3
>>676 昭和天皇の学んだ歴史教科書にも武士が奮戦して元軍を撃退したと書いてあったわけで、
日本人なら自軍の勝利を信じるべき。
白鳥庫吉著【国史 昭和天皇の歴史教科書 口語訳】
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の
ことでしたので、これを文永の役といいます。』
後の大東亜戦は、裕仁が神仏への加持祈祷祝詞上げをサボったから負けた。
裕仁の精神は西洋近代の毒に深く冒されていた。
だから日本は欧米列強に負けた。
682 :
名無し三等兵:2008/03/08(土) 15:10:59 ID:pinVbee3
沖縄で神風吹いたよ。
打撃を与えている。
幕末の志士たちに愛読され、明治維新の原動力となった日本外史でも武士が
戦闘で元軍を撃退したことになってるな。
元寇の勝利は日本が欧米に屈することなく近代化に成功した精神的支柱。
神風は明治の歴史学者が言い出した
ここは何かの信者の集まりみたいなスレだな
◇ ミ ◇
◇◇ / ̄| ◇◇ 日本の地から不浄の朝鮮民族を祓いた〜まえ
◇◇ \ |__| ◇◇ この地から穢れた朝鮮民族を掃討した〜まえ
彡 O(,,゚Д゚) / 祓〜らいた〜まえ 清めた〜まえ
( P `O
/彡#_|ミ\
</」_|凵_ゝ
半島が絡んでしまっている時点で変なのが沸くからな・・・・・・
まともなスレにならないのもしょうがない気がする
しょうがないじゃん
だって日本人は潜在的に半島民嫌いなんだものw
東亜の某スレは50スレ目突破してるしな・・・
>>688 日本人の平均的人種DNAの3分の1が朝鮮半島に由来する件について
もう3分の1は中国に、残りはアイヌ人や南方系だそうだ
縄文人はアイヌにかなり近い人種だったことが判明してるから、
元々日本にいた原住民は大半が駆逐されて、現在の日本人は朝鮮・中国系人種が大半を占めているわけだ
>>690 >朝鮮半島に由来
えっと、共通する因子を持っているだけで、「由来」とまで言い切るのは
どういうことでしょうか?ミトコンドリアイブの調査みたいに、分岐の年代
まで調べたのでしょうか?してませんよね?つか、できませんよね?
つか、中国もアイヌも朝鮮も、それぞれ型の違う因子を持っていて、それ
ぞれの中の多数派を中国型・アイヌ型・朝鮮型と呼んでいるだけですよ。
>>691 今の朝鮮人は高句麗系だお
::::::::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::: ∧_∧ 俺の椅子 ∧,,_∧
:::::::::: (# ´∀`) 返せよ・・・ <`∀´ ,.> < ウリは椅子取りゲームで勝ったニダ。
:::::::: (○ .○ -=Pニ. Oノ だからコレはウリのものニダ。
:::::::: |.. ノ ⊂ _ノ 裁判所なんか行かないニダ。来たら撃つニダ。
:::::::: しー-J し【竹島】
日本困らせるの いい加減止めませんか?
韓国は同時期に、黄海側の島々も北朝鮮と激しい領有権争いの結果
線引きを済ませてしまった
ついでに日本の国土もぶん取りに掛かった。それが竹島だ。
もし竹島を日本に渡した場合、
北朝鮮と分け合っている島々をどうするか?という問題が再燃するであろう
そんな訳で簡単には、韓国は竹島を渡さない
かといって、韓国が竹島に居座る期間が長くなるほど既成事実を作られるので
日本も定期的にプレッシャーを掛けざるを得ない
これが、国際政治だとさ
朝鮮半島南部は日本固有の領土
みなま とかか?
日本の歴史研究者って自分の国を貶めるためなら平気で史料に工作して、
勝った戦いも負けたことにしてしまうんだな。
まさに逆大本営発表・・・
ぶっちゃけ竹島不法占拠を口実に半島=敵性国家として相応に距離を置けるならそれはそれで良いかって気がしてる
699 :
名無し三等兵:2008/03/14(金) 22:15:19 ID:4QVXVPGu
国益が失われるぞ。
韓国は日本に対しての貿易赤字だけはどうにも出来ない。
>>697 親分の網野にして歴史の論文書く前に資本論読むってキチガイだったからな。
701 :
名無し三等兵:2008/03/15(土) 04:56:53 ID:2Iz9O4AH
もし元冦の日本の勝利が偶然の産物で実力じゃない
って理屈が通るんならイギリスが無敵艦隊破ったのもマグレ勝ちになるわな。
商品の単価が10万円以上場合、消費税の税率を8%にする。
商品の単価が10万円未満の場合の消費税率は現行のまま税率5%に据え置く。
これが最善の消費税率。
500万以上は15%(住宅は除く)
一億以上は20%(住宅も含む)
704 :
名無し三等兵:2008/03/15(土) 09:01:56 ID:3sf8+LSX
水城はまだ残ってるから近くに住んでるヤツは行ってみると良い。
木が生えてしまって判りにくいが、高さ 10 m 程の土塁だ。堀の方はもう無い。
長さは結構ある。1 km ちょい。これに門が付いたらしい。
これで二つの山に挟まれた狭隘地を塞いで守る。
当たりを眺めれば判るが、既に 10 km あまり内陸へ入ったところで、
ここまで進軍するのだって大仕事だ。
まして夜間に進むのは、もともと不可能に近い。
今でもこれが道を分断していて少々不便だが、史跡に指定されていて簡単には壊せんw
中世の世界で万を超える軍勢は圧倒的な戦力だよ。
第四回十字軍は兵3万3500の予定が3分の1の兵数しか動員できなかったのに、
ピザンツ帝国の征服に成功してる。
4万、14万の大軍で攻め込んでおきながら2回とも10kmあまり内陸の水城に
到達すらできなかったってのは大問題。
モンゴル軍は話にならないほど鎌倉武士より弱かったとしか考えられない。
そもそも元軍≠モンゴル軍だろうに
何で?
元軍=モンゴル軍じゃん
内陸の、朝青龍や白鵬みたいな民族は少数しか占めていない
弘安の役でも、朝鮮半島人と南宋人ばかりが主力だった
弓を射る能力、剣を振るう能力、敵陣地突破能力で本家の
モンゴル兵士に及ばないだろう
特に南宋人兵士は、急遽募集の寄せ集めばかりだった
未だに、元軍の弓と当時の日本の長弓でどっちが飛んだか?という
疑問に決着が付いていない
元のは200m飛んだが日本のは100mだった
と、学研の歴史漫画wに書いてあった
その作者が横山まさみちだったらしいのだがこれはまた別w
(オットセイとかは出てこなかった)
一方で、日本の弓でも三十三間堂を一直線に飛んでいっているわけだから
弱い筈が無い、と語る人がいる
この前出た萌え絵の武器本では「日本の弓は接着剤に膠を使っていないので
長大だが反発力に乏しかった」という苦しい説明があったがこれも説得力不足か?
刀剣に関しては、青龍刀と日本刀で打ち合うと日本刀が折れたという説もあるが
少なくとも戦国時代が終わるまでは、日本刀はそれほど脆くなかったと言う
江戸時代になってから、普段から持ち歩くのに重いのは煩わしいと細く薄くなり
切る能力は落ちなかったが打ち合うと折れるようになったとか
日本に手持ちの盾が存在しないのは日本の弓矢が強力で
これを防げないからだ、という。
アルミ鍋程度は簡単に射抜くことが分かっている
しかし海外の矢でも同様の破壊力だという
そして海外の盾は、色々材料を組み合わせて強度を増しているらしいのだが
勝ったことは勝ったが、なんで勝ったか今ひとつわからないというのも不思議やね
>>708 そんなの元寇だけでなく全てのモンゴル軍に当てはまることじゃん。
モンゴル軍は、ども征服戦争でもモンゴル人は少数だけで残りの大半は、征服した民族の寄せ集め。
元寇の元軍は典型的なモンゴル軍だよ。
712 :
名無し三等兵:2008/03/15(土) 16:16:24 ID:XMUi0F39
昔の事はわかんないよ。でも武士が勝ったんだろう。
朝鮮兵と南宋兵が主力なら勝てたんじゃないのか。
韓人が元と戦って元が消耗してたから劣等倭人も勝てた
>>710 なんで勝ったかはハッキリしてる。
武士の方がモンゴル軍より強かったから勝ったんだよ。
勝因が今ひとつわからないような気がするのは、戦後の反日歴史学者どもが半世紀以上も
デタラメを吹聴して散々武士のことを貶めていたから。
例えば
>>709の「元のは200m飛んだが日本のは100mだった」という話の元ネタはこれ↓
黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦
したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」
何故か日本の矢の「有効射程」とモンゴルの矢の「射程」を比較してるだろ。
戦後の元寇研究はこんなインチキを繰り返して、まるで武士が弱かったかのように
日本人を洗脳してた。
日本の弓が大きいのは肉食の習慣が無かったから動物の腱を使うことが無かったからその分大きくなった
でも弓なんだから結局のところ張力が大きい方が良く飛ぶんじゃないか?
モンゴルの軽騎兵と違って鎧兜を身に纏って武芸に磨きをかける武士がそこそこの張力で済むような弓で満足するとは思えない
筋力が許す限りの限界ぎりぎりの張力で弓を作ったと考えて良いんじゃないの?
716 :
名無し三等兵:2008/03/15(土) 21:49:53 ID:e9a3tjmU
なぁ、アホに質問だが弓って反動あるの?
>>716 そりゃ、飛ばしていく矢の分の反作用はあるだろ。
718 :
名無し三等兵:2008/03/15(土) 23:45:06 ID:3sf8+LSX
元は弩を持ってきてなかったのか?
弩なら弓より長射程であった可能性がある。
エンコリで去年あたり 韓国の弓(?)と日本の弓の射程論争やってたな
>>717 弓じゃなくてバネとパチンコ玉みたいな物体で考えると
・(左手を前にして)引き絞った時の、バネの伸びによる左右の腕への力の掛かり
・右手を離してからバネの伸びがゼロになるまでの、左腕への力の掛かり
・バネの伸びがマイナス(和弓で言えば返りの部分?)での、左腕への力の掛かり
(ゼロになったところで矢が弓から離れるよな?)
(バネがマイナス伸びでなくガチャン!と短く締まっただけなら、鉄分子が微小変形して戻る時間に
急激な力の変位があるよな??)
の3過程を考えたい
722 :
名無し三等兵:2008/03/23(日) 12:45:33 ID:QVFzCfVh
保守上げ
723 :
名無し三等兵:2008/03/30(日) 07:09:20 ID:9gcz4oep
保守
保守さげ
725 :
名無し三等兵:2008/03/30(日) 15:21:29 ID:iLS0rCRw
>>678-679 > 船大好きだったんだよ!!
モンゴルには陸軍しかないよ!
船が好きなんて奴もいないし‥
彼らが乗って来たのは韓国海軍
だったらしい(笑)。負けたのも
モンゴルではなく韓国のせい。
>678
> 678 名前:名無し三等兵 [sage] 投稿日:2008/03/08(土) 14:26:32 ID:???
> 負けてもいないのに、船に戻るとかありえんから。
>
負けて無くても後方で問題(本拠地で反乱が起きるとか、別の国境(陸の側)で侵略があるとか)があったら帰るのが大人の軍隊ですが・・・
元の国境って[[元]-[日本]]の1個だけか?
[[元]-[ロシア]], [[元]-[西夏]], [[元]-[アッバース朝]]の国境は無視していいのかい?
-----------------------------
兵法
[南で鐘をたたいて、北で軍隊を動かす]
って大人の世界では知ってて言わないだけで、
たいていの大人は知っている。
WW2で日本軍がアッツ島に上陸してミッドウェー海戦を支援したことを忘れないでね。
お子様のケンカ
1対1
----------------
大人の本物の戦争
[多数]対[複数]
イギリスのことわざを教えよう。
『Two dogs fight for a bone, and a third runs away with it.』
訳[2匹の犬(AとB)が骨をめぐってケンカした、三匹目の犬(C)が骨を持ち去っていった]
日本人には漢文がわかりやすいか。
「夷を以って夷を制す」→日本語意訳「敵(K)と敵(Z)をぶつけて共倒れにする」
> 715
> 日本の弓が大きいのは肉食の習慣が無かったから動物の腱を使うことが無かったからその分大きくなった
> でも弓なんだから結局のところ張力が大きい方が良く飛ぶんじゃないか?
> モンゴルの軽騎兵と違って鎧兜を身に纏って武芸に磨きをかける武士がそこそこの張力で済むような弓で満足するとは思えない
> 筋力が許す限りの限界ぎりぎりの張力で弓を作ったと考えて良いんじゃないの?
>
(/前置き)たぶん自分だけじゃなく、多くの大人も「いつか気づくさ」って感じで「答え」を教えないで生暖かく見守っているんだろうけどさ(前置き/)
日本側は[どこから出発]して「どういう移動法・経路」でたどり着き「どこで戦ったか」、その国の「主戦場」はどこか。
元側は「どこから出発」して「どういう移動法・経路」でたどり着き「どこで戦ったか」、その国の「主戦場」はどこか。
を考えればたいていの疑問(弓の大きい小さい、防具の多い少ない)は解けると思うんだが。
元軍が船で移動する際に、大きい弓って便利か?昨日まで慣れない船で移動して疲弊した兵が「大きい弓」持たせてひききれると思うか?
各国の軍隊の指導者がどうして「指導者自身の時間」を割いてまで「階級が下の兵の精神・肉体」の心配すると思ってんだ。
元軍の行軍距離(100km単位)と移動方法(産業革命前の木造船)知れば選択肢は限られてくるだろ。
逆に日本軍が上海に上陸するとして、[元軍の小さい弓]と[日本で使っている重苦しい鎧兜大弓]
どっちを選択したほうが都合がいいか?[勝つという保障]があるわけじゃないから[徹退の移動の早さ(味方の犠牲を小さくする為)]も考えないといけない。
元軍と日本軍どっちの選択もそれなりの合理性・長所・利点がある。
情緒で物事を考えるのは成人(20歳)前にしておいてね。
大人の判断基準は「利益になるか」「損害になるか」だから。
(了)
>710
> 710 名前:名無し三等兵 [sage] 投稿日:2008/03/15(土) 14:20:33 ID:???
> 勝ったことは勝ったが、なんで勝ったか今ひとつわからないというのも不思議やね
>
元軍は本拠地から遠い外地で戦ったからじゃね?
本拠地から遠くなると「物資の補給」が重要になってくるし。
逆に日本が[香港]に上陸したらってことを考えると、逆の立場で逆の結果が起きる予感。
相手の立場で考えるとよくあんな長距離移動に耐えたなぁと思う。
元軍も日本武士も優秀だと個人的には思いたい。
四百〜余州を挙る〜十万余騎の敵〜♪
>727-729
教えちゃだめでしょう。
「気づかせない」と。
気づいてこそ本物の能力
まぁ、教わる立場から見れば、この教師は偽者か、この教師は本物か、解釈に悩むし、理解するまで疑心暗鬼になるが。
元軍:主戦場は東アジア大陸、広大、広大だから移動は「馬」が便利、移動距離は長いから[軽い衣服][小ぶりな弓]
日本:主戦場は島の中、徒歩で移動できる範囲、山がちだから主要な移動は「徒歩」、移動距離は短いから[重い甲冑]
日本国と元国どっちも合理性と利点がしっかりある。じゃなきゃどっちも生き残れない。
733 :
715:2008/03/30(日) 22:43:10 ID:???
>729
何が言いたいのかさっぱり判らない
一応言っとくけど私は別に専門家でもなく専門書を読んだわけでもなく、単なる理屈としての思い付きを書いただけなんだが。
元々は日本の弓と元軍の弓のどちらが遠くまで飛んだのか?って話ですよね?
誰も確固たる資料が出せなかったわけですが。
そこで単に(矢の質は置くとして)矢の飛距離は弓の大小ではなく張力で決まるのでは?
という意味で最初の二行を書いたわけ。
その上で残りの二行は
元軍 → 遊牧民族が狩猟用に作った弓 → 取り回しが利くことに重点
日本 → 武士が戦闘目的に作った弓 → 戦で手柄を上げることが目的 → 鎧兜を貫通する威力に重点
という意味で書いたつもりで、別に弓の大小を問題視したわけではないのだけど。
まあ本当に思いつきなんで的外れならごめんなさい。
>>733 もっと単純に考えるんだ。
2、3回引いたくらいで腕がバカになるような張力で張る訳ない。
>734
すまない。
私はもっと単純に考えて
元軍 → 遊牧民族の全ての男達が使う弓
日本 → 特権階級を誇りとする厳選された戦士達が使う弓
武士の筋力>遊牧民族の筋力
としか考えてないw
わかりづらくてホントにゴメンよ
736 :
名無し三等兵:2008/03/31(月) 17:11:35 ID:cvQFTaZE
まあ所変われば戦い方も変わるからね。
日本と同じ島国のイングランド人は下馬して戦うのを好んだし
スコットランドに至っては貴族階級ですら下馬して戦ってたからね
なるほど、イギリス人が銭ゲバ内ゲバ大好きなのも納得です
スコットランドはブリテンじゃない!と反論が出そうだが。
スコットランドも間違いなくブリテン島だからそれはない
740 :
名無し三等兵:2008/03/31(月) 17:43:03 ID:M3ao4a+Q
スレ違いかもしれませんが『朝鮮の法則』について詳しく教えて下さい
朝鮮は不幸の女神なんですよね?
>>740 ハングル板で聞け。ほんとに詳しく教えてくれるから。
742 :
名無し三等兵:2008/03/31(月) 18:19:43 ID:M3ao4a+Q
729はアホだが追従した732はもっとアホってことだな
744 :
某研究者:2008/04/05(土) 04:06:45 ID:AKLEvaUF
平安時代の絵を見ると
長巻には針金が巻いてあるが
此れは同様の長巻での攻撃で柄を折られぬ為かも知れぬし
長巻で蒙古軍の短槍を折ると言う事は
可能だったと言う事かも知れぬが
槍襖への突撃にはランツクネヒトのドッペルソルドネルの様に
重装甲で無ければリスクは無かったのかだが
蒙古軍歩兵の槍はパイクと比べ可也短かっただろうか
(長巻では無く垣盾を構えての突撃と言うのも
有り得たのだろうか)
745 :
某研究者:2008/04/05(土) 04:11:53 ID:AKLEvaUF
まあしかし騎兵突撃等やったら
蒙古軍重装騎兵の槍にやられるかも知れぬが
此れは投げ槍と言う可能性も有る訳だろうか
(蒙古軍重装騎兵の槍突撃で騎兵・歩兵がやられたと言う様な記述は
有るのかどうかだが)
746 :
某研究者:2008/04/05(土) 04:17:12 ID:AKLEvaUF
近年、日本人の国語力の低下が顕著になっている。
これはゆとり教育によって、特に国語の時間が減少したことが主な原因である。
日本の国語力を向上させるためには、教師の土曜休みを月〜金休みに分散させることに
よって、授業週6日制を復活させるしかない。
週6日制授業を復活させ、日本人の国語力を回復すべきだ。
某研というのは自然現象かどうかだが
久しぶりに来たんだけどいつの間に某研が出入りするスレになってんの?
出入りしてるわけじゃないぞ。744から書き散らして去っていっただけだし。
751 :
名無し三等兵:2008/04/06(日) 12:30:26 ID:KCBU5JL3
てか某研ってスクリプトちゃうの?
752 :
翡翠(星砂) ◆ntzrt5Dq3U :2008/04/06(日) 12:34:42 ID:yVBy9tlG
あまり理解されていないと思うけど、某研氏は、資料収集魔なんな。
< 語れる人、募集中! って事。
某研は2chが出来る前からあのスタイルで軍事系BBSにいたからな。
その頃はもちっと人間味があったんだが今はほんとスクリプトに近い
754 :
名無し三等兵:2008/04/06(日) 21:06:00 ID:3rAnTHlh
対馬・壱岐で連れ去られた島民「奴隷」はその後どうなったんですか!?
船と一緒に沈んだのか日本軍の攻撃時に奴隷満載の船が発見されに救出されたのか、本土上陸とは別で奴隷乗せた船は先に半島に持ち去られたのか
詳しく
756 :
名無し三等兵:2008/04/08(火) 03:12:29 ID:uoIGA8qa
モンゴル軍が連れ帰った日本人奴隷って200人の子供だけだろ
758 :
名無し三等兵:2008/04/08(火) 14:13:01 ID:V0R6ubFQ
デカいの2回に小規模な略奪が多数ある中、島民は移住してまた住もうなんて良くできるよね
満蒙開拓団みたく国に上手いコト言われて移住するのかな
日本は我々の核兵器で一掃するアハハハハ
>>758 農耕民族が他の土地で新たに生活できるほど豊かじゃない。
墓を放置で移動なんて、あの当時できんジャマイカ?
逆に対馬から朝鮮に移住して帰化した一族もいる。倭寇が始まったら虐殺されたけど
762 :
名無し三等兵:2008/04/08(火) 16:56:11 ID:V0R6ubFQ
辺鄙な場所だし大変なんだね 日本海側の人達は
>762
別に日本海側の人に責任は無いよ
ただ日本海の向こう側がなぁ・・・・・
ややこしすぎ
辺鄙な場所だし大変なんだね 坂東の人達は
黒船来るしね
高麗軍元軍が上陸してきたまさにその場所で通り魔殺人が起きましたね
>>766 犯人はまたもや朝鮮人、もういい加減にしてほしいですね
冷静に考えてみると当時の日本の技術力や軍事力では
元を追い返すことは不可能に近い
台風がなければ絶対に無理だろ
時間稼いで補給切で撤退させればいい。
地図を見れば有利不利は日本にあるはず。
よほど技術に違いが無ければ
矢は竹林から無限に補給できるもんなw
矢羽の鳥の羽が無くなったら笹の葉で代用
歩いて補給できる日本
片や船の備蓄が切れたらモノが無い元
いかにして持久戦に持ち込むか。
船の移動って神経使うしな
後知恵加えるなら
ビタミンの欠乏もあったはず>元帝国
果物や生野菜の保存が出来る時代じゃないし。
いつの時代でも本土から遠ざかると病気に弱くなるのはよくある話
ベトナム戦争、スターリングラード、ナポレオンのロシア遠征、アフガニスタン侵攻
例外的なのは大英帝国(あれは(英国海軍)、システムレベルが高い)
英国人は食い物に頓着しない、何でも食べてパワーにしてしまうイメージがありますね
犬肉がなければ火病を起こす高麗人のような脆弱な連中とはわけが違います
t
>>768 いや、鎌倉時代の日本の軍事力はモンゴル軍より遥かに上だよ。
元寇でもモンゴル軍は鎌倉武士の組織戦術にまったく歯が立たず逃げ回るのが精一杯。
だから文永の役も弘安の役も九州に全く拠点を築かせないまま短期間で撃退するという
日本の圧勝で終わった。
具体的に何が優れていたんだ?>775
あの時代に海を渡って兵力を送るだけでもかなり高度な作業だよ。
渡航距離を考えれば元軍もなかなか優れている。
大人の戦いは複数對複数だぞ?
元の国家としての版図見ると日本一国に深入りできる状態じゃない。
元の立場だと
島国1国にかまってインドシナ半島(ベトナム)に空白作る方が怖い。
>776
海を渡って兵力を送るなんてことは人類が紀元前から頻繁にやってきたこと。
あの時代はね、ウィリアム征服王が万に満たない兵力で海を渡ってイングランドを征服したり、
第四回十字軍が1万ちょっとの騎士を乗せて海を渡り、ピザンツ帝国を征服したりした時代だよ。
1万前後の兵力で海を渡って一国を征服することができた時代に、元軍は4万、14万もの大軍を投入
しながら、九州に橋頭堡を築くこともできないまま、あっさりと日本軍に撃退されたわけだ。
元軍の戦術や組織力は、日本から見れば話にならないほど幼稚なものだったとしか考えられないな。
それから、「元の国家としての版図見ると日本一国に深入りできる状態じゃない」って現実に元は
日本一国にインドシナ半島を上回る大兵力を投入してるじゃん。
元の軍組織は各方面軍が独自に戦争を行なう仕組みになっていたから、日本方面とインドシナ方面は
ほとんど関係がないのね。
つぎは「寄せ集めの軍隊」編です
どっちも事実
複数のことが混ざっている
ああややこしい
出港地ってどこ?到着港が博多なのは有名
元軍の出港地が分からない(政治が絡むから)
780 :
名無し三等兵:2008/04/18(金) 22:21:46 ID:4dW+2pVJ
弘安の役の元軍14万。その60年前の承久の乱で鎌倉幕府が動員した軍隊は19万。
頼朝の奥州合戦で動員したのが28万。まあ誇張もあるだろうが当時の日本は14万ぐらいで攻めてきても兵力は優に対抗できた。
次に武器だが日本刀の威力は室町時代に日明貿易の主要輸出品で中国の文献には中国製の刀で日本刀を受けると刀がポッキン折られるとある。
大鎧の防御力だって相当なもの。時代劇のように簡単に刀を通すものじゃない。
矢合戦から身体を守るためのもの。逆に重すぎて機動性には向いていなかったが。
781 :
名無し三等兵:2008/04/18(金) 22:37:41 ID:kucDyqi3
>>780佐藤大輔の小説{主砲射撃準備よし!!}参考にするといいかも
782 :
名無し三等兵:2008/04/18(金) 22:40:16 ID:kucDyqi3
>>780間違えました>>1佐藤大輔の小説{主砲射撃準備よし!!}参考にするといいかも
783 :
名無し三等兵:2008/04/22(火) 22:34:00 ID:5Vr/Rlov
785 :
名無し三等兵:2008/04/22(火) 22:45:17 ID:5Vr/Rlov
1221年、承久の乱における鎌倉幕府の動員力 19万余騎。
1227年、チンギス・ハン死亡時のモンゴル帝国の総兵力 12万9000人。
ホラズム帝国の兵力も調べたら幸せになれるよ
なんにせよカミカゼがなければ日本は滅びていたな
789 :
名無し三等兵:2008/04/23(水) 15:00:24 ID:89/pOpKW
カミカゼがなかった文永の役でもモンゴル軍は日本軍に惨敗してるじゃん
790 :
名無し三等兵:2008/04/23(水) 18:07:59 ID:yRnVhtLH
1、石をこれでもかと積み上げて、揚陸しにくくした。
2、揚陸に手間取っているところに、船に乗り込んで船内強襲、これでもか、これでもかとぶった斬った。
3、中身チョン
まあ、晴れてても結果は同じだったと思うよ。狭い船内では、矢は使えないし、当時日本刀で武装した日本人に、歩兵で勝てる奴はそうはいなかったはず、ましてやチョン、サックリいけただろうよ。
文永の役ではモンゴル騎兵も鎌倉武士に騎馬戦でまったく歯が立たなかったけどな
運が良かったな
移動距離考えると当たり前のような気もするけどね。
港から海の航海
そして敵地
疲れるはずだが・・・
文永の役の戦闘は一昼夜だけだな
>>793 移動距離なんて何の言い訳にもならんよ。
同じ移動距離で朝鮮半島に攻め込んだ小西行長は、上陸から半月後にはソウルを占領していた。
単にモンゴル軍が鎌倉武士より弱かっただけ。
烏合の衆というのも理由なんだろうか
>>796 わざわざ何年もかけて日本侵略の準備してるのに、元軍が烏合の衆なわけないじゃん
798 :
名無し三等兵:2008/04/24(木) 20:13:30 ID:USpenZ0P
おそらく日本の狭隘な土地で蒙古得意の機動戦が展開できず遭遇戦が重なったと思う。
遭遇戦は被害が大きくなりやすいから消耗戦に巻き込まれた蒙古軍。
蒙古軍は現有戦力しかないのでこれはまずい、日本軍は次から次えと予備戦力を叩きつけてくる。
これ以上の戦果拡大は無理と判断した蒙古が退却した。そうとしか説明つかない。
上陸し圧倒的有利なのに攻撃発機点を放棄し船に戻る戦例なんて聞いたことがない
test
>796
時代的に、当時(鎌倉時代室町時代)の日本国も幾分か烏合の衆(難波か駿河か佐久か甲斐か尾張か津軽か松本か淡路か、他たくさん)だが。
日本国が名実ともに統一されたのって
おおざっぱなら明治維新1868年(幕藩体制では300近い藩があった)
厳密さを求めるなら1955年以降
中心となった高麗軍は弱いものにはめっぽう強いが、強いものにはからきし弱い。
文永の役
1274年10月対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、
壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。
この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし
見せしめにしたという。
また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、
高麗側に残っている。
平安時代は公家さん政治で高麗に壱岐・対馬・九州沿岸荒らされまくりだったけど鎌倉幕府は武士が作っただけあって強いね
803 :
名無し三等兵:2008/04/25(金) 08:54:58 ID:pWHoPHYC
>>800 1955年というのが興味深い。スレのテーマとは話題がそれるけど根拠を聞かせてください。
1971年の廃藩置県以降、いや1877年の西南戦争までは鹿児島は半独立だったけどそれ以降でも統一国家といえない理由はどこにあるのか。
>798
文永の役でモンゴル軍は、「これ以上の戦果拡大は無理」と判断して撤退したわけじゃない。
モンゴル軍の判断は、「このままでは全滅してしまうから生き残るには撤退するしかない」だよ。
史料にはそう書いてある。
つまりモンゴル軍は圧倒的不利だったということ。
実際、元寇の戦闘に関する一次資料ではモンゴル軍は鎌倉武士の組織戦術に圧倒されて逃げ回ってるしな。
>803
華族(かぞく)制度について調べるだけでも
1955年って年数がひとつの区切りってことが分かるかと。
----
華族(かぞく)制度
1947年5月3日、貴族制度の禁止(憲法14条2項)と法の下の平等(憲法14条1項)を定めた日本国憲法の施行とともに廃止。
----
んで制度(法律、工場、住宅、他に人間に関わるたくさん)が切り替わったり、切り替わった教育を受けた世代が成人するまでのタイムラグ(5年から10年)を計算に加えれば
1955年がひとつの区切りになる。
教育制度の切り替わりがひとつの目安(古書店行ってどういう内容の教科書が使われたかを見れば急に変化する時期(文体、字体、掲載内容、印刷技術そのもの)が見つかるかと思う)
その目安が1955年(近辺)であることが多い
戦前まで戦って勝ったことになっていた文永の役について、日本軍の方が負けていたとかいう
史料を無視したデタラメが定着したのもその辺りか
日本の高度経済成長が始まったのもそのあたり(1955年昭和30年)
アメリカが工業技術を提供してくれたから(特許や実用新案の時系列と付き合わせると)。
そんな区分だったら統一国家じゃない所の方が多い悪寒
>808
国際政治に参加する条件だよ「国内の統一」
「統一」って言葉にどの程度の線を引くかだけど。
フランスは統一に入るけど
イタリアはなぁ・・・・
徳川政権時代にガチガチの封建体制のせいで民の意識が自分とこのクニだけになったが、
日本の統一国家は大和朝廷の律令体制時代に成立、でいいだろ。
朝廷や天皇の権威が行き渡り、それを長く奉じたと言う証拠でもあるし。
>>804 そりゃ台風で船が沈んだらどうしようもないわな
>>811 記録だとモンゴル軍が風雨に遭ったのは戦闘で負けた後、帰り道の出来事。
戦闘で負けたからどうしようもない状態になったんであって、船が沈んだから
どうしようもない状態になったわけではない。
順番が完全に逆。
だから文永の役は日本の史書にも、敵側の史書である「元史」や「高麗史」にも
「元軍が戦って負けた」と書いてあるんだよね。
813 :
名無し三等兵:2008/04/25(金) 20:15:09 ID:4E2s1xms
日本の弓が蒙古の弓より弱いといった記述もノモンハンの日本軍の戦車とソビエトの戦車
戦いから想像した思い込みフィクションだったらしい。皆さんも思い当たる節がありませんか?
日本軍をことさらこき下ろす風潮がこの国にあるのを
そもそも一回も台風来ない年なんてないんだから、台風来るまで上陸させなきゃ勝ち確定なんだよ。
まあ文永の場合はさっさと帰ろうとして巻き込まれたらしいから、ご愁傷様だw
世界史上、あの時代以前の渡洋作戦はどのくらいの規模で行われていたのかね。
14万の兵力による渡洋作戦など空前のものだったんじゃなかろうか ?
紀元前のアケメネス朝ペルシャは何度も十万以上の兵をギリシャに送っているが、
すでにギリシャ北方にに足がかりがあったかな。
>>816 ペルシア戦争ではペルシア軍の大半は
ヘレスポントス海峡に架けたポンツーンブリッジ経由でギリシアに渡った。
快挙ではあるが渡洋作戦かどうかは?
数も大げさであろうし。
政治が絡む数字は信用性がなぁ
信用性の高い数字をだすと
政治が絡まないぐらい価値も低いという
相反する人間社会の宿命
数字の検証疲れちゃったorz
14万人の上陸作戦かー。なんかプライベートライアンを思い出してしまった。
820 :
名無し三等兵:2008/04/27(日) 07:34:08 ID:9W4FbumK
当時の軍船なんて千石船みたいなもので、台風でなくても海が時化たら
大揺れ、転覆だってあり得る。騎馬民族の蒙古人が船酔いに強いとは
思えない。
上陸作戦の場合、沿岸に大船を投錨して小船に乗り換えて上陸だろ。
小船がビーチングして兵士が降り立つ時点で陸上の石塁から放つ
鎌倉武士の弓矢で狙い撃ちだな。
821 :
名無し三等兵:2008/04/27(日) 09:55:57 ID:n+mbJiar
テテテーテテテーテテテテテー
テテテーテテテーテテテテテー
鎌倉はドイツの将校連中のように進出した内陸で叩く!のような考えじゃなくて水際徹底抗戦で良かったな。
>822
太平洋戦争1940の行動は一体・・・・
何かあったのか
本当に日本は運が良かったんだなぁ
まさに神国だな
>822
いや、文永の役は水際徹底抗戦ではなく進出した内陸で叩く!だよ。
少弐景資の作戦は、「一所にて合戦候べき由申し候ひき。赤坂は足立ち悪く候。
これに控へ候はば、定めて寄せ来たり候はんずらん。一道に賭けて追物射に
射るべき由申さるる」だもの。
その結果、モンゴル軍を僅か一日で撃退。
げんこう (なぜか変換できない)
倭寇
元寇が変換できねーなんて、支那チョンは安物旧式パソしか使えないんだなw
携帯
元寇も和冦も普通に変換できるだろうjk
>>825 文永の役で成功した内陸で叩く作戦ではなくて水際防御を徹底したのは偉いと思うけど。
これが旧日本軍なら(ry
太平洋戦争では
水際陣地は秘匿しにくくて爆撃と艦砲射撃の的になるから
内陸に陣地を構えたんだよ。合理的だろう。
本土決戦では、内陸に陣地の準備をしていたが、
民間人を戦争に巻き込むことを考慮して
不利な水際陣地に変更になった。これも合理的だ。
人道的には褒められるかもしれんが、軍事的にみて合理的かそれ?
少なくともあの当時の日本軍の状況下で。
軍隊は国家防衛の為にあるんだろ?
まぁ国民も国家の一部だから余裕があれば守るだろうけど。
国民残っても、国家なきゃ意味ないしナァ。
キレた国民と敵軍に挟撃されるのを恐れてたりしてw
837 :
名無し三等兵:2008/05/07(水) 00:20:18 ID:WnMeH2/J
あげ
838 :
名無し三等兵:2008/05/07(水) 12:43:07 ID:x6ABR+Ok
日本軍は策を巡らして博多に元寇の軍隊を上陸させておいてから
博多周辺に配置した軍で包囲殲滅したというのが真相です。
つまり、日本人の優秀な頭脳による勝利。
ちなみに、策とは博多を「無防備宣言都市」にしておいたことです。
え、博多の町に敵を引き入れて町ごと放火。
冬になり雪が降るのを待って反撃開始じゃまいのか。
840 :
キング:2008/05/07(水) 23:59:44 ID:GTOK5aaD
842 :
名無し三等兵:2008/05/14(水) 21:38:05 ID:11LtYD3C
エイジ
そして元寇勝利後に「え、意外とたいしたこと無いじゃん」と自信がついて朝鮮へのイヤガラセが始まる
小規模の倭寇の振り回されて、大げさに騒ぎたてて問題視する朝鮮。
これに目をつけた腹黒鮮人が自分達も稼ごうと、倭寇になりすます。
だから捕まった倭寇の9割は朝鮮人でした。
あの時代は大航海時代
東アジア〜南アジアを航行する船舶の大半が
乗員が何(なに)人だろうと倭寇みたいなもんだw
倭寇は日本側にあまり記録が残ってないけどシナや朝鮮には恐怖の記録が残ってて
朝鮮王も明も日本に泣き入れてるw
847 :
名無し三等兵:2008/05/22(木) 00:51:38 ID:EsjugoAH
日本の外交関係者も見習ってほしい。あいつらは困ることされると泣きいれる
朝鮮王朝実録の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条によれば、「然其間倭人不過一二而本國民仮著倭服成黨作亂」
とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の賎民であるとする
どうせ、いつものウリナラなんとかだろうが。
倭寇のことでしょ
>>848 最初の倭寇から200年も経って応仁の乱のちょっと前の時代じゃん・・・
その頃は今川了俊の尽力や朝鮮から大内氏へ貢ぎ物もあって明との貿易がメインでしょ
倭寇ってシナも居たんじゃなかったっけ
シナ人なりすまし倭寇はシナ沿岸で活動してたんじゃね?
わざわざ半島まで出かけないだろ。
前期はチョンが、後期は支那がメインかな
後期倭寇は明相手だね。日本人は真倭、支那人は偽倭、さらに支那人だけの団体は土倭子と呼ばれる。
日本人の服装をして髪型も月代だった。こう書くと日本人に罪を被せるためにやったように思う人も
いるかもしれないが当時の明の海賊は倭寇の下請けやってるからそんな感じになった。
今でもそうだが支那人朝鮮人の成りすましはお家芸
857 :
名無し三等兵:2008/05/31(土) 13:13:13 ID:/NT0AEUA
あげ
しかし元寇の結果見ると、休戦で引き上げたとはいえ文禄・慶長の役ってとんでもないことやってるよな。
ボロ負けしたのは海戦だけだし、その海戦も李舜臣がいなかったらどうなってたかわからないし
素直じゃないな
お前
>>858 ×ボロ負けしたのは海戦だけだし
○ボロ負けしたのは輸送船団がゲリラ的に襲われたときだけだし
861 :
名無し三等兵:2008/06/09(月) 08:33:01 ID:UawPA2cK
鎌倉武士団 訓練はよくされてるが実戦経験がなく世界の軍事情勢技術に疎い軍隊.
モンゴル軍 実戦経験が豊富な一部の輩と国に忠誠心もない被支配民族の強制徴用者の集団
ただし最新装備と実戦上有効な装備を身につけている。
高麗の忠烈王ってなんであんなに日本侵攻に固執したの?
>>862 モンゴル軍と一緒に日本を征服すれば、支配される側から支配する側になれるじゃん
そういえば、亀山上皇の銅像に雷落ちたな〜
小学生の頃の話。
俺が疑問に思うのはモンゴル軍の上陸後の戦略ってどんなのだったんだろう?
>>866 とりあえずの目標は大宰府攻略で、その先は状況次第だろうな。
モンゴル軍の常識だと、文永の役の兵力なら本来は九州程度は余裕で征服できないとおかしい。
九州に牧草はあったのかな
ああ阿蘇山があるか…
チョンのせいで蒙古が負けたってこと?
チョンの有無にかかわらず蒙古は負けてたろうね
ただ、チョンが同盟軍にとってさげまんなのは、チョンと組んだ軍隊は十中八九負けてる事からあきらかだしなあ
朝鮮戦争、ベトナム戦争の米軍も韓国軍に足を引っ張られて勝てなかったわけだしな。
特に朝鮮戦争、総司令官のウォーカー中将なんて韓国軍のトラックに轢き殺されてるんだぞw
>>871 朝鮮人は自国に関わったものが必ずロクでもないことになるという法則の発動性には胸を張っても良いのではないですか?
873 :
名無し三等兵:2008/06/18(水) 14:09:41 ID:DpPDvKGO
鎌倉武士団の戦意がぶれなかったのも勝利の理由の一つではないかと。
自分の領地を守る心構えが半端なかったと。
874 :
名無し三等兵:2008/06/18(水) 21:12:30 ID:5ZZ0lobe
鎌倉武士の奮戦もあったろうけど、台風も一定の被害を与えていたのでは?
名前は忘れたけど、第二次大戦末期に日本近海で艦隊ごと台風に突っ込んで普通の海戦やるよりもデカイ被害を出した米海軍将官がいたような・・・
875 :
PIXY:2008/06/18(水) 21:42:09 ID:sLVyZAqV
〉〉874
ハルゼーだっけ
>>869 「半島の法則」
といいます
日本の朝鮮経営も赤字でした
>>874 そうやって無理やり日本の戦果を自然現象に転化する発想自体、
日本を認めたくない特定勢力の考え方そのものw
877に同意。874の言は、左巻き教師がよく使うretrickと類似性が否定できない。
879 :
名無し三等兵:2008/06/19(木) 10:41:44 ID:7wbVSBiz
>>877 >>878 ご指摘感謝しますm(__)m
ただ二次戦ではそういうエピソードもあったなぁと思いまして
でも元寇のときの勝利と結び付ける必要は、たしかにありませんね
失礼しましたm(__)m
>>876 最初はね。でも途中から黒字になった。
つーか、戦争で一般投資を減らしで、軍事費を負担させたからだけど。
881 :
名無し三等兵:2008/06/19(木) 20:19:23 ID:kwFiSt/w
>>1 その先生、反日サヨクで日本が弱いってことを強調したかったのかな
先生に「中国のチベット虐殺についてどう思いますか?」って聞けたら
聞いた方がいい「そりゃ中国が悪い」って答えずに曖昧な答え方をしたら
反日サヨクだろう。ただし、よく空気を読んで、自分の評価が悪くなら
ないよう気をつけてね。
>>874 神風は吹いていたって奴かw。
ぶっちゃけ、『神風が吹いて云々』より『元に日本が屈しなかった』って姿勢の方が重要だと思う。
ちなみに元は属国化してた朝鮮にも出兵させていた訳で………と言うのを先生に言ってみたらw?
>>880 朝鮮総督府 朝鮮総督府統計年報(各年度)によれば
単純収支だけでも赤字になるんだが
確かに黒字が出てるときもあるが比にならないほどの赤字を出してるからな
そんな事より台風の話だ
今現在の基準で台風を語る無かれ、当時は予報もなければ避ける方法も無かった。
古今東西台風ないし類似の災害は各地で多大な被害を出している、そのエネルギーは膨大な物。
さらに言うなら当時の船はとても軽い、だから今の船に比べて高波で激しく翻弄された。
しかも材料強度はまさに雲泥の差と言っても良い。
現代の船でさえ(条件次第では軍艦でさえ)台風の直撃は沈没の可能性があるほどなのだから
元冠船団の船など鎧袖一触、海の藻屑になってもおかしくない。
まぁ実際にどの程度の嵐だったのかは不明ではあるが、もしそれなりの規模の嵐に見舞われていたなら、
それが戦闘の継続を不可能にしてもなんら不思議ではない。
むしろ戦闘継続できるのであれば驚嘆に値する物だ。
スカパー!でやってた番組で、当時の船の残骸や錨を発見するのがあったね。
海を渡るためにしっかりした造りの船と、中国で急造 or 徴用した平底船があって
ちゃんとした船の一部は帰れたが、平底船は沈没したということだった。
885 :
名無し三等兵:2008/06/19(木) 22:06:45 ID:7wbVSBiz
>>883 海自に大学の先輩がいるんだけど
その人の乗ってる艦、あたごと聖徳丸の衝突現場にも派遣されたらしい
それで、捜索時は現場海域もかなり風が強く、それを無理して捜索ら、艦橋にヒビが入ったそうな
>>883 いや。だから上陸作戦失敗した帰り道に台風に遭遇したんだってばw
上の方をちゃんと読んで来いよ。
あと、台風ネタをやたら喧伝したのは戦後の左翼もそうだけど、
当時は公家&寺社系が武家に対して、「祈祷によって神風を吹かせた
俺たちの手柄もあるぞ」と吹かす意味で喧伝していたのもある。
そして、そのネタを戦時中に引用して日本は神国だから大丈夫とか
言っていた連中もいたのではないか。
つまりだ。右だろうが左だろうが、台風のおかげと語る奴にはろくな
やつがいないという事だ。
朝鮮不勝伝説始まりの巻だね。
15世紀後半には、「冥土より、蒙古の牛ぞ来たりける、浜吹き返せ、伊勢の神風」、
という歌が歌われていたことからするに、
蒙古襲来を退けることが出来たのは(特に弘安の役は)、やはり神風(台風)のおかげなのだろう
少なくとも、そのように人々に意識されてきたことは間違いあるまい
1)蒙古襲来を退けることが出来たのは(特に弘安の役は)、やはり神風(台風)のおかげなのだろう
2)少なくとも、そのように人々に意識されてきたことは間違いあるまい
1)の事実そのものと、2)みたいにある時代にどう思われていたかを区別するのが
このスレの流れなんじゃねえのかよ
890 :
名無し三等兵:2008/06/20(金) 15:20:34 ID:kMgOryup
鎌倉軍は強かったんだよ、うん。
士気も統制も世界一だったんじゃね?
891 :
名無し三等兵:2008/06/20(金) 15:37:57 ID:Jlj/9HR7
そもそも運命のいたずらで勝利する場合は現にあるからな。
その時に正しい判断をした者が勝つ、とは限らない。
>>888 上陸拠点を確保できず、侵攻地への橋頭堡作りに長期間失敗している段階で、既に敗北は確定。
そりゃ、どんな年であっても夏場に洋上で数ヶ月も滞在してたら、台風の一つや二つにぶち当たるのは
必然じゃん。
逆に台風が一個も日本に上陸しなかった年なんて近年でもあるか?
数日間の滞在にて暴風雨に遭遇するのは偶然の産物といえるが、現実は暴風雨に確率的に遭遇するまで
海洋に長期間押し込められてしまった、と考えるのが筋だろうな。
>>891 この場合の台風は「運命のいたずら」ではないだろ。
蒙古側は船に押し返されて、勝てる見込みが無い状態だったから。
当時の人の感じ方はどうか判らないが、台風の果たした役割は
日本の劣勢を覆した、というよりも、手詰まり状態の蒙古側に
とどめを刺した、あるはゴミを掃除した、という所じゃないか?
日本は100人くらいの単位の部隊長が優秀なんだよ
そしてそれは日本の地形に良くあってる
数万の軍隊を大将一人に判断させる大陸の軍隊だと
日本の地形では軍隊が分断されてうまい指示がだせない
犬もそうなんだよなあ。洋犬集めると群れのリーダーが一頭で決まるけど
日本犬て数頭ずつに別れて大きな群れを作らなかったりする。
戦う単位としてやっぱりそうなるんだよな。
>>895 確かにそうだね。
このスレ勉強になるなぁ〜。
今迄、何の疑問ももっていなかったよ。
夜になると船に帰るってあたりに。
蒙古兵だってやっぱり夜はテレビを見たりネットをやりたいよな。
蒙古兵の余暇はヌルヌル相撲です
899 :
名無し三等兵:2008/06/21(土) 10:09:52 ID:RO2LNbFM
>>892 弘安の役では鎌倉幕府は北條氏一門を九州に派遣して御家人たちをきちんと統率して戦っている。
先に来た東路軍とは度々戦い一度も上陸を許さなかったし、あるいは上陸してもすぐに撃退している。
東路軍は台風シーズンの何ヶ月も前に来ている。蒙古だってバカじゃない。
わざわざ台風の時期に艦隊派遣をする愚を犯さなかった。
しかし南路軍は出発が遅れて東路軍と合流したのが旧暦7月20日。
7/27〜28にかけて日本の水軍と海上で合戦が行われたがこのとき元軍は4400艘の内、約千艘が焼かれたり破損したりしている。
(軽症も含め)。日本側も河野通有の一族で戦死者出すなど被害も大きかったがこの海戦は日本側の勝利。
全軍合流しても元軍は上陸できなかった。
そして7月31日には台風が直撃。敵を上陸させないという戦争目的は果たしたわけだから鎌倉武士軍の完勝。
900 :
名無し三等兵:2008/06/21(土) 11:02:15 ID:AwJ85S10
900
901 :
名無し三等兵:2008/06/21(土) 11:03:01 ID:AwJ85S10
901
少弍氏、龍造寺氏、宗氏、広田氏など九州の名族達が討たれているな
特に松浦党は壊滅的打撃を受けている
そして日本が後世に海中から引き揚げられた遺物以外捕獲した敵の兵具はわずか
しかも引き揚げ品も多くは兵具より農具や壺、印など非軍事品の方が多い
これは江南軍が旧南宋の老兵でたいした武装のしていない屯田目的であったのが
正しいことを示している
その上、引き揚げ品の多くは主戦場の博多湾から遠い鷹島
これは暴風雨で避難しようとしたからだろう
当時の日本の軍事レベルからしてかなりの数量の大船を沈めることは出来ない
それに日本は鷹島に難破して衰弱した下級兵士以外敵の高級指揮官を始め多くを
捕虜にできなかった(ベトナムは元の遠征司令官を始め多くを捕虜にしている)
太宰府を攻めるための攻城兵器も捕獲している遺物も記述も全くない
これらを統合すると日本軍との戦いより暴風雨で敵が大損害を受けたことが推測
できる
>>902 >日本が後世に海中から引き揚げられた遺物以外捕獲した敵の兵具はわずか
海上戦闘で敵の防具を持って帰る暇は無いでしょう。海賊じゃないんだし。
>太宰府を攻めるための攻城兵器も捕獲している遺物も記述も全くない
>これらを統合すると・・・
文法や言葉の用法に間違いがあって、何を言いたいのかよく分からない。
>>902 すまないけど、元寇で使用された攻城兵器はどんなものか教えてくれない?
投石機とか大型の弓矢みたいなもの?
>>902 お前、また嘘ばかり書いてるな。
元軍から捕獲した兵具などは各地の神社などに納められ数多く現存している。
海底からの引き上げ品の中にも、鏃や石弾などの兵具が多数発見されているが、
農具などは見つかっていない。
元軍の沈没船が博多から遠く離れた鷹島沖の海底から見つかってるのは、博多の
戦闘で完敗し、日本軍の猛攻から2ヶ月間も逃げ回っていたから。
高麗史にも、この間元軍が日本軍に対して連戦連敗だったと書いてある。
それから、弘安の役で日本軍は元兵10万人以上を殺したり、捕虜にしたりしているが、
これは元がベトナムに投入した最大兵力よりも多い人数。
>>902 そもそも、当時の船団に対する「物理的な破壊力」を水軍と台風とで比較して
台風の方が破壊力が大きかった、と結論を出しても何の意味もない。
破壊力だけで見るなら台風は核よりでかいからなw
908 :
名無し三等兵:2008/06/21(土) 21:25:52 ID:218WhcdH
間違っていたらスマソ
弘安の役で日本側が有利になったのは、二枚の竹の間に細い木材を挟み込んだ合板弓を導入したことによる射程距離の大幅な向上だったと思うんだけど
あと、教科書の蒙古襲来絵詞は途中で切られてるけど
実際には竹崎李長に向かって槍を構えた蒙古兵の後ろに、日本側の矢をうけて血を流す蒙古兵が描かれている
>>905 >海底からの引き上げ品の中にも、鏃や石弾などの兵具が多数発見されているが、
>農具などは見つかっていない。
お前はまだホラを吹いているのか!?w
>>896 >今迄、何の疑問ももっていなかったよ。
>夜になると船に帰るってあたりに。
そのへん重要。
「夜になると船に帰る」ってのは軍事的には上陸地点の橋頭保を維持できずに退却に追い込まれたと
いう事に他ならない。
何故か日本で(戦後)元寇について書かれた本で、その点を指摘しているものは殆ど無い。
勝ち戦でせっかく確保した橋頭保をわざわざ放棄して船に引き揚げる馬鹿がどこの世界にいるものか。
しかし、夜襲を警戒して船に引っ込むということも考えられるしな…
何と言っても、地理不案内な敵地なわけだし
夜襲を警戒して船に引っ込んだ = 朝まで橋頭保を維持しきる自信がなかった
まぁ、そらそうだ
日本の武士達が手強い相手だと認識したればこそのことだろうし
蒙古側は4万もの大軍で攻めてきてるんだからな。
当初の彼らの目論見では、相手はこの大軍に恐れをなして戦わずして逃げ出す、もし戦ってもこの大軍ならば
鎧袖一触で蹴散らせると考えていただろう。
そのまま一気呵成に数日で大宰府を落としてしまう。
矢や兵糧は船に乗せられる量には限りがあるが、こんなものは敵地を占領してしまえはいくらでも現地調達で
きるハズのものだった。
ところが現実には敵の攻撃は執拗かつ苛烈を極め、上陸地点に釘付けにされほとんど進攻できないばかりか
わずか半日の戦いで矢は尽きかけ、兵は疲労し、副将の1人が重傷を負う有様。
高麗側の資料でも、蒙古の司令官の「このままじゃ全滅だ。撤退するしかない」との方針に対して高麗の将軍
が「我々は既に敵地に入っている。船を焼いて背水の陣でかかるべきだ」と継戦を主張してるわけで、完全に
切羽詰まった状況に追い込まれていたのがわかる。
結局、その夜に夜襲を受けたんで恐怖に駆られ、夜明けも待たず這う這うの体で逃げ出したらしい。
当時の航海術では夜中の航海は非常に危険で、実際多くの船が撤退中に遭難した。完全にパニクっていたん
だろう。
元軍が博多を占拠して即席の城塞を構築し、背後の船団から潤沢に補給を受けている、
という条件下で台風に遭遇して、城壁が崩壊、船団も壊滅して戦略物資を喪失、
その結果、日本軍の反撃を受けて駆逐された、
というような経緯があれば、「台風のおかげで日本は勝てた」と言えるけど、
史実はそうではないからね。
917 :
名無し三等兵:2008/06/22(日) 11:00:27 ID:U9cV4+H8
「夜になると船に帰る」
これは小笠原観光とかでは、今でもやっているのでは?
918 :
名無し三等兵:2008/06/22(日) 12:32:40 ID:3tApQPJM
見当違いのレスばかりだなぁ
俺地元なんだけど、みんなどうやって勝ったかぐらい知ってるぞ
まず、酒宴があったのも知らないだろ?
楽しみだなあ。
どうやって勝ったんだろう。
921 :
名無し三等兵:2008/06/22(日) 15:50:17 ID:uBh4uYfr
そういや、一時期元軍は最初から日本攻める気ゼロで
邪魔になった高麗や南宋の連中を日本に棄ててくるのが
目的だったっつー妙ちくりんな説があったな。
>>921 それ思い切りwikiに載ってるんだけれども、出典は何なんだろう。
ところで、何故元軍は博多攻撃に拘ったのだろうか?
前回の侵攻から7年も経って倭人は何の対策もしてないとでも思ったのか?
関門海峡を封鎖するとか、海峡を通過して一気に畿内へ攻め上るとか(これは無謀か)、他にも作戦の取りようはあるだろうに。
元軍の戦闘目的は一体何だったのか。勝利条件は何だったのだろうか。
>>922 元軍は博多攻撃になんて拘っていない。
元軍が拘っていたのは大宰府攻撃。
大宰府は古来から中国や朝鮮との外交を一手に引き受け、なおかつ日本の国防の要。
>関門海峡を封鎖するとか、海峡を通過して一気に畿内へ攻め上るとか
正確な地図もなく、コンパスやGPSなんて存在しない時代の軍事作戦なんだよ。
元軍が日本列島の詳細な地形を把握していたわけないし、仮に把握していても
きちんと目的地にたどり着ける航海技術もない。
昔からよく知られている大宰府を、対馬、壱岐って島伝いに目指すのが限界だろ。
>>922 Wikiの記事はジャンルによっては我田引水の応酬で書き換え合戦をやってるから
こういう国の名誉?みたいなのが絡む記事は真に受けない方がいいよ。
>>921 陳舜臣が似たようなことを自身の小説かなにかで書いてたな。
元では信じられないようなことが行われていましたみたいなこと。
>>923 うーん、やはり太宰府占領が目的なのか…。
それにしても、わざわざ7年前と同じ博多湾に進出する意味が感じられない。
日元関係については、政府間での国交は持たれなかったが、鎌倉幕府は民間貿易を認め、元も貿易を規制しなかったので私貿易は盛んに行われていたという。
民間人の中には日本国内の航路・地理に通じた者も少なくなかった筈。民間船でいくらでも航海してるんだから、航海技術の問題では無い。
実際、東路軍は一時期伊万里湾の鷹島を根拠に置いている。「博多への行き方しか知らない」のなら、こんな博多から離れた島を選ぶことはない。
日本が博多湾に防塁を設置し、そこに向かって元が大挙して押し寄せてくる様子は、実は両国が申し合わせをしたかの様にも感じてしまう。
太宰府を攻撃するにしても、唐津湾なり海の中道から揚陸する手段も取れたのではないか…
と思ってネットを検索してたら長門方面にも侵攻している可能性があるのね。うーむ。
>>916 それ以前に屯田兵的性格があったという事は、元軍が完全に占領、入植目的の侵略軍であった
動かぬ証拠にしかならないのだが ・・・
何故かこの屯田兵的性格を強調する事で元軍の侵略性を否定しようという、狂った議論を展開す
る奴がいるね。
>>926 鎌倉時代の民間貿易の窓口も、やっぱり大宰府なんだよね。
そこから先の航路・地理に通じた外国人がいたとは思えない。
元が民間貿易の関係者から入手できた情報も大宰府関連のものだけだし。
それから、元軍は防塁に向って押し寄せたわけじゃないよ。
弘安の役で防塁は全く戦場にならなかった。
防塁見て「こりゃだめだ」と思って海の上うろうろしてるだけだったんだよな。
志賀島に上陸したんだけど、日本軍が海の中道から猛攻を仕掛けて撃退した
>>928 平清盛は日宋貿易で大和田泊を利用していたよね。後の日明貿易でもやはり兵庫を貿易拠点にしている。
清盛の時代から100年も経過すると地理知識も消えてしまったのだろうか。
しかし、鎌倉時代は博多・平戸近辺でしか貿易を取り扱っていた訳ではないはず。
防塁が戦場になったならなかったの問題より、何故元軍が前回と同じ博多湾に来てしまったのか。
普通に考えて、博多湾の防備は強化されて以前より侵攻が難しくなってると思うはず。
なのに防塁を見てうろたえるなんて信じられない。遠路はるばる攻めに来てるんだから少しぐらい想定しておけよ、と。
それこそ近代のノルマンディーとカレーではないが、別の選択は無かったのかと。
932 :
名無し三等兵:2008/06/23(月) 16:24:38 ID:eYw7t+60
>>930 防塁の外側にあたる志賀島に上陸を試みてるみたいだね。
それでは元軍の兵力不足が上陸失敗の原因か?元軍方は当初東路軍だけで戦ってるよね。
攻撃側東路軍4万に対して守備方の幕府軍4万だから厳しそうだ。
もし計画通り14万人の兵力を一気に動員できたら幕府軍は崩れていたかな?
まあ志賀島・海の中道では防塁を迂回するにしても近すぎると思うけど。
>>931 気持ちはわかるけど、瀬戸内海は潮もきついし、水軍はそれなりにいる
だろうし、完全にアウェーなわけで、それに、博多側にも水軍いるだろう
から、そいつらを放置したら瀬戸内海で挟み撃ちにあうよ。
海戦でやられてしまうから上陸までこぎつける事自体が厳しいのでは?
上陸する場所選びなら、鹿児島あたりまで行けばよかったのに。
>>933 確かに瀬戸内の水軍の存在は大きい。関門海峡横断の時点でボロボロにされそう。
でも長門に一部の兵力を差し向けた記録もあるようだから、必ずしも無理とは言い切れなさそう。
こちらに14万、少なくとも4万の大兵力を差し向ければ幕府軍もかなり厳しかったのではないか。
大宰府が目的なら有明海回りで、と思ったけどこれも無謀かな(笑)
良スレになったなぁ
>>931 日本攻略しようとすれば大陸に近い博多湾を橋頭堡として確保するのは絶対条件だよ。
博多湾さえ抑えておけば朝鮮半島から何時でも後続送り込むことができる。
いきなり瀬戸内海通って京都を突き、仮に占領に成功したとしても、その後どうするの?
後続送るのは困難だし、そんな敵国奥深くで孤立した部隊は全滅するしかないだろ。
元軍の遺物から「農具」が大量に見つかった
こんなレスが散見されるが、ソースはあるの?
まあ、
>>916 への反論が無いから、左巻きお得意の飛ばしだろうが。
全然話は変わるが、「北条時宗」って評価低すぎると思わん?
日本を外国の侵略から守った救国の大英雄でしょ?
お札にするなら、聖徳太子でも諭吉でも伊藤公でもなく
時宗公を断トツに押す。
しきしまの 大和心を 人問はば
蒙古のつかひ 斬りし時宗
・・・万景峰号なんざ拿捕して競売にかけちまえ。
日本を外国の侵略から守ったせいで北条時宗の評価は低いんだろ
その外国が左巻きお気に入りの国々だからなおさら
しかも「日蓮」を「島流し」にしてるwww お札全部時宗でいいよw
台風の成果を軽視してる連中が多いな
台風が来る前に勝敗は決してたとか視野が狭いにも程がある
もし仮に、元側が台風にあわずに敗走した場合、ほぼ確実にまた来襲するだろう
実際、戦闘と台風でほぼ壊滅状態の状態からでも船団の再整備をして攻めようとしていた
そうなった場合日本は致命的な状況になっていたかもしれない
元冠が終わった後の幕府は十分な俸禄を出す事が出来ずに財政が困窮、
内乱の火種が其処此処で生まれ国内は大いに荒れた
もし再来された場合、十分な迎撃が出来なかった可能性は否定できないし
戦闘終了後の俸禄を考えれば時の幕府の崩壊・戦乱勃発の可能性が高かった
だから、台風で勝ったは間違いだが台風のおかげで日本は助かったのは確か
台風がなくても、史実どおり次はベトナム攻めたんでないかい?
>>931 >普通に考えて、博多湾の防備は強化されて以前より侵攻が難しくなってると思うはず。
これが必ずしもそうではない。
そもそも文永の役は勝ち戦であり、それをもって「蒙古恐れるに足らず」と油断を決め込み防備を疎かにして、
再度の来襲で成す術もなくやられるという可能性もありえた。
世界史的に見ればそういうパターンは非常に多い。
勝ち戦に驕らず、勝ってなお自らの問題点を見極め、再度の敵のより大規模な侵攻を予想して対策を立てて
実行し、前回の数倍もの敵を壊滅させてるんだから、これはある種の軌跡みたいなもんだ。
元側もそれなりに戦訓を酌んで来てはいるのだが、それがせいぜい「前回負けたのは数が足りなかったから
で、今回は3倍半もいるのだから楽勝」というレベルに止まっていた。
日本に比べ物事の認識が大幅に甘かったわけだ。
多分、モンゴルが戦ってきた連中でこのレベルの強敵はごく僅かだったろう。
1度の勝利に驕って2度目に不覚を取るなんてのは上出来で、たいていの相手は大軍になすすべもなく蹴散ら
されている。
日本も当時、未だ武家政治成立以前の公家が支配する古代社会だったなら、おそらく最初の来寇で手も足も
出ず蹂躙されていただろう。
943 :
名無し三等兵:2008/06/23(月) 23:06:03 ID:MX1eaLWX
>>937 祖国を守り抜いたのは確かだが、同時代のイスラム圏で
英雄視されてるバイバルスみたいに自分で直接大軍を指揮して
撃破したってわけじゃないからやや印象が薄いのかもしれないね。
ただモンゴルにボコられた国は、殆ど全てと言っていいほど内輪もめしてたから
そういう意味では赤マフラー始め反乱分子をさっさと粛清して、朝廷黙らせて
いち早く国内の方針を徹底抗戦に統一させた功績は
大きいと思うし、その統率力はもっと評価されていい。
少なくとも現在の、ただの宝くじ当たったラッキーボーイみたいな扱いは気に食わない。
>>939 それだw日蓮=創価の遠いご先祖様を迫害したから
今の日本での時宗の評価が低いんだよwかつては名君として評価されてた
親父の時頼も最近の教科書だと高校レベルにならないと出てこないしねw
>>940 どっちにしろ三度目の出兵しようって頃には
ハイドゥが宣戦布告してきたり、ベトナムあたりに兵出さなきゃいけないハメになったりで
日本に構ってるヒマなんてないお。
>>940 元寇は上陸戦であって、上陸を許さず、あるいは上陸を許しても橋頭保を築かせず撃退できれば
日本側の勝ち。
逆に上陸して橋頭保の確保に成功し、内陸に進行できれば元側有利(この状況でも日本側はまだ
対応の余地はある)
もともとそういう戦いなの。
台風なんてのは当然に与えられた自然環境にすぎず、これが無かったらなんて議論は意味がない。
あの時期に海が荒れるのは当然で、むしろ2か月もの間、嵐に合わずに済んでいたのは元軍にとっ
てこの上ない僥倖だったろう。
博多大宰府を目指したのは地の利が日本にある以上、上陸した後に船をやられるのを恐れたんじゃないかな。
戦時だから九州中の兵糧は博多大宰府に集まってるわけで、船をやられて博多大宰府を落とせなければ
飢え死にするしかない。なまじ兵士の数か多すぎるだけにね。
まぁ台風が無かったら3回目はあっただろうな
あったからって負けてたとは思わんけど、日本って外敵には一致団結する性質あるし
内乱してても別腹状態で結束しそう
それにいくら技術的に進んでても水にめっぽう弱いモンゴル人+日本と大差ない朝鮮人じゃね
数の不足を補うにはいたらないでしょ
創価は日蓮騙ってるだけで日蓮とは関係ないだろ
948 :
名無し三等兵:2008/06/24(火) 07:13:00 ID:w5rsPJv0
創価創価
公○党も学会とは関係ないらしいですね
950 :
名無し三等兵:2008/06/24(火) 07:30:22 ID:L4/L+VO3
>>947 同意
自分が在学してる大学は日蓮宗系だが、別に創価臭いところはないぞ
全共闘の時とか立て籠もりをドタキャンしたし、この間は韓国のカルト宗教による勧誘に対して注意を促すビラが置かれていた
>>949 それは流石にダウト
いくら建前で政教分離と言ったところでその辺は誤魔化せないでしょ
>>946 モンゴル軍は文永の役の野戦でも普通に日本軍に負けてるんだから水云々は関係ないよ。
軍事技術はモンゴル軍よりも日本軍の方が進んでたってこと。
東方見聞録で黄金の島として紹介された日本が気になって
フビライが軍を送ったという説が。
954 :
名無し三等兵:2008/06/24(火) 09:01:38 ID:q8ey/Jg5
東方見聞録は必ずしも出鱈目ではない。
現に日本は戦国時代まで世界屈指の金産出国だったし平泉の中尊寺金色堂のような建物もある。
また奥州藤原氏の平泉からは象牙だって発見されているが、奥州藤原氏が独自に海外貿易なんかも行っていてそれが広範囲に渡ることを示している。
とにかく日本史は日本は島国で小国でいつも閉ざされていた世界だという矮小化した歴史観だけで見るととんでもない誤解を引き起こす。
元寇についても認識を変える時期に来ているのだろう。
鎌倉幕府は元寇の半世紀前の承久の乱で19万動員しているわけだから。
そういえば、元軍の襲来予測地点は当初二ヶ所あったという説を聞いた覚えが
一つは実際に戦闘が行われた九州で
もう一つが、たしか今の山形県付近だったと思う
ここまでのまとめ?
1)元軍は最新兵器を装備した大軍で、日本軍は手も足もでなかった。
× → 兵力的に劣勢にもかかわらず元軍を撃破。
2)元軍は余裕綽々で勝利目前。
× → 日本軍の猛攻の前に将官も戦意喪失状態。
3)台風で間一髪!元軍は全滅! こうして日本は平和になったのであった。
× → 台風は戦局にまったく関係なし、むしろ数ヶ月も嵐が
なくて元軍ラッキー♪
4)北条時宗は執権になったときに、たまたま元寇が起こっただけの
能力的には見るところもないボンクラ。
× → 国内をまとめあげ、元軍の再来週に備えるなど
侮りがたい指導者。
て事で桶?
中国の「元韃攻日本敗北歌」にも元寇の原因は日本の富だという記述がある。
鎌倉時代中期の公卿、権中納言・藤原経光の日記である「民経記」の記述に、
1242年に日本から南宋に派遣された船が銅銭十万貫を持ち帰ったとあるが、
この額は当時の南宋の年間の銅銭鋳造量に匹敵する数字。
鎌倉時代の日本は超経済大国だよ。
958 :
名無三等兵:2008/06/24(火) 10:01:17 ID:Zd5RiMBe
>>937 >全然話は変わるが、「北条時宗」って評価低すぎると思わん?
日本を外国の侵略から守った救国の大英雄でしょ?
お札にするなら、聖徳太子でも諭吉でも伊藤公でもなく
時宗公を断トツに押す。
オレも「北条時宗」は、お札の顔にふさわしいと思うんだが、
問題はモンゴルがどう思うかだ。
モンゴルは今現在、親日国、
韓国・北朝鮮・中国と反日国が連なる中での親日国は大切だ。
そのモンゴルがモンゴル軍を撃退した者をお札の顔にされるのはあまりいい
気持ちがしないだろう。もちろん悪いのは元の方なのだから抗議はもちろん
皮肉さえ言わないだろうが、せっかくの親日国の気分を害するのは
どうかと思うが。
ポンゴルごときにどう思われようがかまわんが
一国一国は小さくても、親日国は少ないより多いほうがよい。
中国あたりが躍起になってアフリカに投資して親中を
ふやしてるのは、資源確保のほかに親中国を増やして
外交上有利にする目的もある品。
と、ネタにマジレス。
>>954 平泉〜
ありゃ金じゃなくて金箔だろw
久々に笑えたw
それにそれだけで金が豊富とかよく言えたもんだなw
>>961 無知乙。
奥州藤原氏の経済基盤が何だったか、よく調べてみ?
>>946 3回目以降が中止された理由は元の内紛が原因だよ
学研の歴史マンガでは時宗を書いたのは故横山まさみち氏だったかなあ
蒙古軍がオットセイに乗って攻め込んで来たら日本は負けていただろう
>>961 そもそも金箔を建物の外壁に張るお発想がお前に浮かぶか?w
小さい指輪でしか黄金を見たこと無いような人間には、
家を金箔で覆うなんて考えは絶対浮かばないだろ?
「黄金の国ジパング」は有名だが、西欧では日本の近くに
「金銀島」があり、金銀が産出されていると長く信じられていた。
そもそも「黄金郷」を探すって言っても、バカじゃない限り、
「この金はどこで産出されたんだ?」をたどって行くのが普通。
大量に出てなかったら、伝説どころか噂にすらならないだろう。
現にお隣の韓国が黄金の国とは一度も聞いた事が無いからなw
幕末に海外と金銀の交換比率で日本は金1;銀5・欧米は金1:銀15、
時代は確かに異なるが、日本は金の産出量は約3倍多かったんだな。
スペインが新大陸を発見し、銀相場が大きく変動して欧米の経済は
大混乱し、スペインは日の沈まぬ強国に成長したが、
実は同時期に日本の銀産出もそれに匹敵する量があった。
時々こんなウソ歴史文があるw
「それまでの大陸からの使者が金閣寺を見て、日本には金銀が豊富だと思い込んだ」
金閣寺は室町時代で、元寇から100年近くも後だw
中尊寺金色堂は平安末期だしこれなら南宋の使者が噂で伝え聞いたり出来る
東北地方の金は奈良時代に大仏建立中に見つかった
そして奈良の大仏は、作られた当初は金箔が押されていた
まあ火山活動が頻繁に起こる地域では何とか金鉱山が形成されている
ハワイなんかはさらさらの玄武岩でダメだろうが、花崗岩地域で
火山の歴史がそこそこあって今でも活動が活発で温泉もあれば可能性が高い
菱刈鉱山は金の含有率が高いとされるがそれでも1tから僅かな金しか取れない
だが、恐山の一部から大量の金が取れたり、海中だと熱水鉱床のある沖縄周辺の深海で
金を大量に含む鉱石が取れたりしている
>>965 ほぉ〜
じゃあ、金閣寺の金は金箔でなくて金でちゅかぁ〜w
だいたい東方見聞録、東方見聞録って言ってるけどよ
ジパングの金関連の文前後読んだことあんのかよ
ジパングでは白胡椒も黒胡椒も豊富に産出されるって書いてあんだけど
日本のどっから白胡椒や黒胡椒出るんすかねぇ!
マルコ・ポーロが記述させたのはジェノヴァの監獄だぞ
単なる記憶違いだって十二分にありうる
ただ単に当時の日本では金のレートが安かっただけのことであり生産量とは関係
ないことは当時の日本では金貨は勿論、貨幣が全く鋳造せず、宋銭、元銭に頼っ
ていたことで想像がつく
銀の生産に関しては日本の生産量が飛躍的に増大するのは採掘技術が伝搬してき
た戦国期以降だ
>>942 律令体制が続いていた日本が元寇に対処してたなら、ってのは面白いif考察だな。
最も、古代であっても逆に朝鮮半島とかに山ほど軍事遠征しているし、白村江でボロカスに負ける前まで
海外遠征能力も相当なモノがあった訳で・・・・・・・・・
それ以外にも東北地方の蝦夷討伐で朝廷側が動員した軍事力や唐の侵攻を恐れ、東国の防人等を
西日本各地に配置し大陸式の長城建設したりを考察するなら、大和朝廷が実権を握っていた場合であっても
相当な抵抗力を有していたと思われ。
更にいうと、大陸式の騎馬戦術がどれだけ険峻な地形である日本で通用したかも興味がそそられるな。
まあ、かくいう日本も騎馬による騎射戦が当時としてはメインだった訳だが。
>>969 当時の中国(元)であっても金貨や銀貨が大量に流通してたなんて聞いた事ないのだが・・・・・・・・・
更にいうと日本でも奈良時代までには既に和同開珎を嚆矢として貨幣を独自に発行してたし、少量ではあるが、
和同開珎等は銅銭だけでなく、銀銭も鋳造されてるぞ。
最も、朝廷の権威が失墜していた当時において、果たして幕府が貨幣鋳造の権利を持っていたのか?とか、
武家政権に貨幣鋳造の重要性を認識していたのか?であるとか、商業が大規模に発展した宋朝から大量生産
されていた中国の貨幣をそのまま輸入して使った方がメリットがあった、という点とかに原因があるんじゃまいか?
日本が大量の金が産出すると書いてある文献は東方見聞録だけじゃないし
現実に日本が大量の金を輸出していたから、中国人は日本に金が豊富だと考えていたわけで
南宋の銅銭買い占めるだけの巨大な経済力を日本が持っていたのは事実だろ
>>971 中世日本 貨幣で検索してみろ
知ったかするな
>>971 追加で開基勝宝は天平年間に作られた金貨だな。だから金貨も少量だろうが発行されていた訳だ。
最も、朝廷が発行したこれらの貨幣は朝廷の権威が失墜すると共に廃れ、もっぱら武家政権が続くと
貨幣の鋳造も全くストップしてしまってしまい、貨幣需要は宋銭や明銭に全てを託す事となる。
そしてその復活に600年ほど時間を要する事となったみたいだね。
貨幣の鋳造を再開したのはあの豊臣秀吉だったと。
あの有名な天正大判とかだな。
>>973 煽りはいいからさw オマエの自説をちゃんと主張してからにしろ、話はそれからだ、ボケ。
金箔って水銀と混ぜたりする特殊な技術が必要でなおかつ薄く仕上げる職人技
金箔状態での保存の難しさから単なる金の数倍の価値があったはずだが
さらに言うなら金箔張りできる下地は高度な加工が必要だからさらに高価だし
それだけ様々な技術が金の乏しい地方で生まれるとは思えんが
でも経済的にはともかく軍事技術云々は間違いだろう
元側は船で移動する必要上もっとも得意であり帝国繁栄の原動力であった騎馬戦が出来なかった
得手を封じられ苦手の状況で朝鮮と言うペナルティーがあれば何処とやったって負けかねん
何が言いたいかって日本海はまさに過去から現在に至るまで守護神であらせられるなっと
ヒント=金箔って金が材料
978 :
名無し三等兵:2008/06/24(火) 22:23:22 ID:q8ey/Jg5
ちなみに後三年の役の発端は砂金から始まる。
吉彦秀武が清原家当主の真衡に成衡との養子縁組を祝うため砂金を大杯に盛って庭先で待っていたが真衡が碁に夢中になって秀武に気がつかなかったため秀武は怒り心頭で砂金を庭先にぶちまけて帰った。
これに真衡が逆に怒り秀武を成敗すると兵を起こした。
奥州藤原氏は金を摂関家にも気前よく献上したりしているが当時奥州は金の産地だったことが分かる。
金は物凄く薄く延ばせるからちょっとの金があれば
幾らでも作れるんだろ?と思っている人も多い
しかし伸ばす技術も必要だとw
ちなみにチタンは伸びが悪くむりに圧延しようとすると割れてしまう
中尊寺金色堂の「金張り」が妙に気になってるようだが、
平泉の中尊寺と毛越寺の規模を知っているのだろうか?
現存すれば間違いなく国内最大級の壮大な規模の大伽藍。
毛越寺が堂塔40に僧坊500だったと言えば信じられるか?
これら全てと比較すれば金箔張りのお堂一つなんて大した事ない値段。
「金張り」がインパクトあるので、ついつい抜けてしまうが、
朱塗りの「朱」も凄まじく高かった。昔は黄金と並ぶ「宝物」だった。
それを使って「青丹よし」の都を作り、壮大な伽藍の数々を作った日本。
日本中あらゆる所に鎌倉時代からの神社仏閣があるが、
現存してる物だけでも、行けば素直に「スゲー」と思うだろ?
しかも僧侶や職人をそれだけ大量に養えていたって事でもある。
日本は昔から本当に豊かだったんだ。
HgS 酸化水銀が朱 の成分だもんなあ
秦の始皇帝やその夫人はこれを不老長寿の薬になると吹き込まれて使っていた
防腐作用があるから死後腐りにくい体に?
東方見聞録なんか沢山ある地理誌の一つに過ぎん。
そんな物は当時の日本の富や国力を測る材料にはならん。
スレからずれすぎだよ、面白いけどwww
それに国力=軍事力では決して無い。
歴史的に「西欧列強」が異様に強いが、ナポレオン以降の「国民国家」による所が大。
同じように遊牧民族は国民皆兵に近いが、農耕民族は軍人はその一部しかいない。
ゲルマン民族にローマ帝国が圧倒されて行くが、国力だけなら確実にローマが上。
牧畜・狩猟・漁撈・洋上交易を行う民族は、職業がそのまま戦闘能力になり得る上に、
農耕民族とは「動員可能」な人口の比率が全く異なり、更に必要な補給の程度も違う。
同じ人口数であれば蒙古が強かっただろうし、同兵数でも大陸長期戦なら蒙古が強かったはず。
しかし、戦争の強さで大事な要素「戦時リーダーシップ」が抜けている。
ジンギスカン登場までの蒙古は部族毎にバラバラ、強くも何とも無かった。
「北条時宗」が蒙古の使者を斬り、戦争への決意を固めた事。
これが素晴らしかったと思うのだが、いかがであろうか?
自衛隊がいくら強くても、国力があっても、人口が多くても、
リーダー不在で日本人が一致団結しなかったら、戦争は負けるんだ。
北方四島戦争
竹島戦争
尖閣戦争
東シナ海油田戦争
軍が動いてないだけで、全てに敗戦しそうだな。
とりあえず自民党政権も福田穏健路線ではもう駄目だ。
「神風」なんぞ吹くはずも無いぜ。
HgSって硫化水銀やよ。
文永では威力偵察でそれでも存分に日本は痛めつけられた、と日本側は感じたが
蒙古側も決して軽微な損害ではなく
まして夜襲もあるしと船に戻っていたら
風雨が強かったから
やばいと撤退した
そして、威力偵察である、と元の皇帝に報告するに留まった
そして日本側はこれでわが国の威力に恐れ入って次に使者を送れば
降伏するであろうと見込んでいた
文永が何か半端な帰国になってしまったのは、それが原因ではないかなあ
文永の役前後の、風水の占いの結果を分析した奴はいないかな?
高麗兵士がメインの元軍で、風雨が強くなった時に
そう言えば今日は当たりの悪い日だったとか言い出す兵士が多数いたら
撤退する筈である
朝鮮では占い師が支配的だった
弘安では、上陸が出来なかったw
とにかく防塁だらけだから攻めてきて防塁よじ登ってる間に殺されるのは当然だ
だから防塁の無い方向を探し回り、ついに志賀島からの上陸を試みたが
ここも狭い地域で逆にやられてしまった
博多からあまり遠くになると、今後の補給が出来ない
だから博多周辺で上陸地点を探すしかなかったがどこも防塁だらけ
そこに留まるうちに食料が腐っていった
その間は出撃もままならない
ニンポーを出港した本体が物凄い大群でやって来てくれたが、それでも防塁だらけだと
やっぱり上陸しにくいんだろうなあ
15万もいてもまだ足止めされていた
フランスとイギリスなら、1000年ごろのハロルド公の頃のサクソンは
人口も多くないし国土の深さも日本より小さくて攻め易い
だからノルマンがあっさりと勝てたりする
日本は博多から京まで500km、そこから鎌倉まで500km
馬の補充だって定かでない。
これで攻めるのは難しい
一気に攻め落とさないと全滅させられる
そうやって粘っているうちにとにかく熱帯性低気圧が来て
船の大半が沈み、残りの元軍を掃討する事が出来たと
国土そのものの広大さと縦深を生かして一応首都となる地域を落とさせた上で
更に奥地に逃げ、
冬に十分低温になって敵軍が弱ったところでゲリラ戦法で少しずつ潰して敗走させるのがロシア流
チフスも流行させられると完璧
海ということで補給が手間取り
その待ち時間を考えたり、上陸での敵陣地を突破する兵力不足などから時間を食わされ
その間に食物が腐って死者が出たりして、
十分時間を掛けさせて低気圧で船ごと転がすのが日本流
気象、地形、地勢を生かして相手の補給を絶つ!
大きな国土で敵の陸海軍を絶つにはこの手法が良いと
少なくとも、WW1 くらいまでは
現代戦では、アフガンの山道が長く細すぎて
ソビエト軍の補給が不可能になったというのがあったな
フラクタル的な縦深か
国土縦深を生かし、攻め込んだ敵の補給を絶って潰す兵糧攻めみたいなこの手法は
しかし敵の飛び道具的な航空輸送部隊が十分にある現在は使いにくい場合もある
ベルリン封鎖しかり、911後のアフガン然り
ベルリン封鎖で敵の輸送機を撃墜するのは政治的に問題があっただろうしなあ
(今の中国で似たような租界が同じ状態になった場合、中国政府は
問答無用で撃墜するだろう)
鎌倉幕府の力が弱く
例えば九州の数ヶ国の守護・地頭を相手に元が独自に貿易を行って
その代わり日本に攻め込んだ際に寝返る手筈なども整えて、
その上で攻め込み、九州でまだ元の影響の無い国を滅ぼして完全に
元の勢力下に置く、という手法が出来たら良かっただろうが、
南宋から元という国の恐ろしさは聞いていただろうし
これもままならん
しかし地方自治で平和宣言地域とか作っている所があるが
これって他国と通じてる事になりかねないよなあw
>>995 某県庁で働いてたことあるんですけど
あの手の平和宣言とか核廃絶宣言て知事や幹部に対してすら「言ってみただけ」以上の意味はないと思いますよ。
大体通じるも何も日々の入札やら契約やら公共事業やらに追われてるのが地方自治体の現状でして
本気で他国と通じるとしても、間違いなく「どの課が侵略国との窓口になるのか?」「それに対して予算つくのか?」
から延々幹部と知事を交えて議論して各課へ仕事の押し付け合いになると思います。
普段の仕事でも遅いとか仕事して無いって延々いわれ続けてる役所が
そういうことだけきっちり迅速に仕事するわけないでしょ
マルコポーロは日本には着てない
中国で日本について聞いた話を書いただけ
そもそも元の資料にも彼の名は無いw
だが元の王宮内のかなり細かな情報まで書かれているのは事実である
999 :
名無し三等兵:2008/06/26(木) 21:45:07 ID:A/FxHj0b
1000 :
名無し三等兵:2008/06/26(木) 21:48:59 ID:p7MrMr9A
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