軍板の怪談

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1名無し三等兵
今年の夏たってなかったから一年分たまっているはず。
2名無し三等兵:2007/09/10(月) 20:36:54 ID:???
OK、そんな訳でとにかく「黒人のチンコはでかい」というステレオタイプが日本中に広がってるんだ、
12歳の子供にさえも。俺がこの国に来たのは単に英語を教えるだけじゃなくて、
「 文化的な認識を広める 」という役目がある。ステレオタイプを壊し、先入観を崩していくという訳だ。

まあ、とにかく俺は「チンコでかい?」と聞かれるんだ、とても多く。
1日に2-3回もだぜマジで、アメリカでの俺の人生全てでこんな事を聞かれたのは2-3回だけだから驚きに値するよ。
そして俺は何て答えたらいいんだよ?12〜15歳の子供達へさ?
俺が手を振って「 No no no. 」と言うと、「 Oh, sumaru dikku? 」(翻訳 "Small dick?") って言うんだぜ。
もちろん、それは間違いだから俺は訂正しなきゃいけない。つまり、俺には勝ち目の無い状況なんだよ。

チンコを掴もうとしてくる12歳の少年の横に座っていた時も、俺は " No! " と言った。
そしたら彼は「どうして?」と聞いてきたよ。だから俺はハッキリ言ってやった。
「あと10歳、年を取れ、そして生まれつきの女になるんだ。話はそれからだ。」
だが、その少年の取った行動は少女と席を入れ替わり、少女に俺のチンコを掴ませて彼に報告させるというものだった。

そんなつもりで言ったんじゃないんだよ。

日本に来る前、全然役に立たない事をたくさん教わったよ。
どんなコンピューターを持っていくべきか、アメリカのDVDは観れるのか、服のサイズはどうなのか、
でもそんなのはナンセンスだ。オリエンテーションの3-4ヶ月もの間に、日本の子供が指を突き立てて
尻に突っ込んでくるなんて誰も教えてくれなかったよ。それこそ、個人的に俺が知っておきたかった事だったのに。

カンチョーと呼ばれるそのゲームは、どんな子供でもカンチョー・アサシン(暗殺者)にしちまうんだ。
1番優しそうな少女でさえ、お前が振り返って後ろを見せた瞬間、その指をお前の肛門に
詰め込もうとするかもしれないんだ。その証拠に俺の友達の1人は、実際やられちまったよ。
- 誰も信用しては駄目なんだ。
俺の考えでは、少女達は最も危険だ。彼女達は自然に俺達の警戒心を解いちまうからな。

http://goyaku.seesaa.net/article/23875911.html
3名無し三等兵:2007/09/10(月) 20:40:25 ID:fHtePkme
白燐弾をあびるとなんかいろいろヤバい…らしい
4名無し三等兵:2007/09/10(月) 20:43:07 ID:???
>>3
是非をめぐって意見が分かれているね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%87%90%E5%BC%BE
5名無し三等兵:2007/09/10(月) 20:54:57 ID:???
5なら木内梨生奈とセックスできる。
5なら05年度の天てれの魔法少女姿の木内梨生奈とセックスできる。
5なら競泳水着姿の木内梨生奈とセックスできる。
5ならメイドさんの木内梨生奈とセックスできる。
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そして俺様の遺伝子で木内梨生奈が孕んでくれる!
5ならJSFに法則発動
5なら空自の次期F-Xはライノ
※拒否や無効化,棄却、取り消しはできません。
 海外は欧米、中近東、北アフリカ、東南アジアなどの40数ケ国を訪れていますが、
1986年から1990年までの4年半をインドネシアの首都ジャカルタに駐在した
私が現実に体験した出来事をお話しします。1988年になってから不思議なことが
起こり始めました。インドネシア国営企業と日本企業の合弁企業の責任者(副社長)
の立場にあった私は子供の学校の関係で単身赴任でしたが、郊外の新興住宅地の2階
建ての大きな家(左の写真)に(現地の習慣で)3人のメイドを雇い住んでいました。
それまでは何事もなかったのですが、ロビーの方から夢現つの中で子供の走り回るよ
うな物音を聞くことがしばしばあるようになりました。ネズミ(インドネシアのネズミ
は猫くらいの大きさ)かなと、気にしないようにしていたのですが、どうもおかしいと
思い始めたある夜、あまりに物音がうるさいので目が覚め、寝室のドアをいきなりパッ
と開けてみました。とたんに音はピタリと止み、家の中はシーンと静まり返ったのです。
見上げたロビーの時計は午前3時を指していました。泥棒という可能性もあるので、
用心のため持っている木刀を握り締め、家の中を調べて回っていたら、ロビーにある
食器棚の引出しが開いているのに気がつきました。メイドたちの部屋は外にあり、ロビー
の鍵は内側からしか開閉できないので不思議だなあと思いながらも、他に異常は見られ
ないのでまあいいやと思い再び眠りにつきました。
朝になってすぐにロビーの鍵を開け、メイドたちを呼んで「誰か引出しを開けた者はいない?」
と訊ねてみましたが、全員「ティダ!Tidak!(No!)」という返事です。「この引出し
だよ。。。」と食器棚の所に行くと、何と例の引出しは閉まっているではありませんか!この
引出しの中にはガラクタしか入っていないことは彼女たちも知っているし(それを盗むような
娘たちではないし)、何よりも前夜ロビーの鍵を(内側から)掛けたのは私なのですから。
ついでですが、太平洋戦争(第2次世界大戦)後のある時期に以前日本で「ティダパッパ!」
(気にしない、平気だよ)という言葉が流行りましたが、これはインドネシア語そのものなのです。
誰か南方から帰ってきた人が使っていたのが広がったのでしょうね。
さて、この日の夕方会社から帰ってくると、サイというメイドが青い顔で「他の2人(のメイド)が
外の掃除をしていた朝の10時頃、ちょうど雨が振り出す前だったが、(メイドを呼ぶために私自身
が配線した)ベルが2回なったので3人で調べたが家の中には誰も居なかった。」と震えながら報告
したのです。「気のせいじゃないのお?」と言いたいところでしたが、あまり真剣なので、茶化すの
は止めて聞いてやったのですが、後になって振り返ると、この日の少々不思議な出来事は、それから
始まる一連の不思議な出来事の始まりだったのです。

インドネシア語では幽霊を「セタン」(お化けは「ハントウ」)と言います。白い服のセタンを見た
というメイドたちの報告を聞くことが多くなってきた頃の、今夜は雨かなと思われる蒸し暑い日曜日
の午後3時頃のことです。私は独りでロビーに座って本を読んでいました。疲れてきた眼を休めようと、
ふと目を上げて庭を見ると、池のある辺りに、背の高い女性の姿が上下に揺れているのが見えました。
一番背の高いタルミが箒で掃除をしているんだなと思って再び本に目を移したのですが、「待てよ。
メイドたちはさっきから門の傍でお喋りをしていたはずだし、(家の中の配置から)ロビーに居る私に
気が付かれずに庭に行くことはできないはずだ。」と自問し、急いで目を上げて庭を見ると、さっきの
姿は見えないではありませんか。確認してみると、3人は相変わらず門の傍でお喋りに興じており、
ずっとそこに居て、庭には行っていないと言うのです。幽霊は錯覚か、勘違いか、夢だろうと思ってい
た私も、自分自身で不思議な体験をしているうちに、何か奇妙なことが起こっていることは事実だと認
めざるを得なくなってきたのです。

2億以上の人口を抱えるインドネシアでは、雇用の機会を増やすためにも、一般のレベルの家庭でも、
少なくとも料理担当、掃除・洗濯担当のメイドをそれぞれ雇う慣習になっています。私の家では最初2
人のメイドを雇うつもりだったのですが、遠い田舎から出てきたばかりのルマナという幼い感じの娘が
採用されず泣いているのを見て、かわいそうに思い追加で雇ってやったのですが、ある日、帰宅したら
ルマナが飛んできて、興奮して震えながら次のように報告したのです。
「小さい女の子が家の中にいたんです。今朝、独りでロビーのテーブルを拭いていて、ふと横を見ると
(30センチ位の)女の子が目の前に立っていたのでびっくりして見つめると、その子はクルリと私の
後ろに回ったんです。門は閉まっているし、外から他人が入って来るはずはないので、おかしいなあと
思いながら、恐る恐る後を振り向くと、そこには誰も居なかったんです。瞬間、セタンだ!と怖くなり、
テーブルに手をつきながら腰が抜けてしまったんです。その後、サイとタルミを呼んで、一緒に家の中を
隈なく探してみましたが、誰も居なかったのです。」
(注)途中ですが、これは全てインドネシア語による会話です。駐在当初は全くインドネシア語を知らな
かった私ですが、仕事上は英語を使うものの、私生活(運転手、メイドへの指示や買い物等)ではインド
ネシア語でしか使えないので、必死に勉強し、3ケ月で何とか生活には困らなくなり、3年経った時には
インドネシア官公庁のお役人さんたちとかなり込み入った仕事上の会話もできるようになっていました。
本だけで勉強しても効果は上がらないので、同じ頃着任した日本人の友人と一緒にいつもノートを持ち、
英語が少しは話せる女学生たちのアルバイトが多い午後7時オープンのカラオケバーに行き、彼女たちに
夕飯の出前を取ってやる代わりにインドネシア語の単語や言い方を教えてもらい、それをノートに書きと
めていくというやり方を取った結果、一気に上達することができました。午後9時頃になるとやっと本物
のお客さんたちが入店してくるので、私たちは帰宅するというスケジュールを3ケ月続けました。(その
後はたまに顔を出すくらいでした。)語学はそれを使わないと生活に困るという状況に置かれれば何とか
話せるようになるものです。(ちなみに私は英語、インドネシア語の他に、海外での仕事の機会を捉え、
ドイツ語、ロシア語、フランス語で少しは会話できるレベルになっています。でも、アラブの国への出張も
多かったので必死に勉強しましたが、アラビア語だけは、あのミミズ文字がやっぱり難しくて断念しましたが。)
嘘をつくはずはないがと思いながら、念のために、彼女が拭いていたというテーブルの表面をチェックしてみると、
手をついて震えていたという部分に、強く、くっきりと指紋の跡が付いていたのです。
その頃、毎週日曜日に車で、30代と思われるインドネシア人の夫婦が私の家の横の空き地に来て、何かチェック
しては首をかしげて帰って行く姿を見掛けるようになりました。気になるので、ある日曜日の午後、彼らを呼び止め、
「何か探しているのですか?」と尋ねてみました。「実は、私たちの娘(幼児)が8年前に病死し、確かこの近くに
埋葬したのですが、墓石が見つからないのです。転勤先からジャカルタに戻ったので、ここに来て探しているんです。
当時はこの辺りは墓地でした。娘を埋めたのは、お宅の真下だったと思うのですが。」と指差した先は、ちょうどロビ
ーと私の寝室の付近だったのです。

もし霊というものがあるのなら、時々やって来る両親に呼びかけようと、私の家の下に埋められたままになっている
女の子の霊が、どうやら目覚めてしまったのではないでしょうか。インドネシアでは人口の約90%は回教徒で、火葬
しないで埋葬します。いろいろ聞いてみると、ジャカルタ南部のこの地区は、10年ほど前までは野原で、所々に木が
植えられている場所は墓地だったと分かりました。最近になって新興高級住宅地として開発され、遺族の分からない墓
については、そのまま上に家を建て、外国人などに賃貸したりしているらしいと分かってきました。(一般に、特に外
国人との契約では賃貸契約時に一括して2年分の家賃を前払いしなければならないので、前任者から引継ぎ契約更新し
て住んでいるこの家を簡単には引っ越すわけにはいかず、困ってしまいました。)
この頃、私の家を訪ねて来るインドネシア人も日本人も、ほとんどが「この家の中に入ると何かぞっとしますね。」
と口々に言うようになり、誘っても遊びに来てくれる人が少なくなってきました。会社の庶務担当のトニーという陽気な
社員は、家の修理などが必要になると喜んでやって来てくれていたのですが、「庭の池に掛けてある石造りの小さな橋の
付近が特に寒気がして(ディンギン!)怖いので、申し訳ないが自分はもう呼ばないでほしい。」と言って逃げ帰って
しまいました。
ある日曜日の昼下がり、1階のロビーをぶらぶらしている時、ふと、2階へ通じる螺旋階段の上の方に、
女性の姿を見たような気がしました。メイドが2階を掃除しているんだなと思っていましたが、なかなか
降りて来ません。おかしいなあと思い2階へ上がってみましたが、誰の姿もありません。2階のドアなど
には全て鍵が掛かっているのも確認しながら、この日はメイドたちには外出許可を出しており、朝から全
員出かけていたのを思い出したら背筋が寒くなってしまいました。

1988年の独立記念日(8月17日)も近づいたある夜のことでした。暑い国で、ハードな仕事に疲れ切
った私はぐっすり寝こんでいたのですが、夢現(ゆめうつつ)の中で、右のわき腹を誰かが、物凄い力で押
してくるのを感じたのです。瞬間、プロレスラーみたいな男が私をベッドから押し落とそうとしているのだ
なと思いました。半分目も覚めて必死にその力に対抗して体を右側に戻そうとするのですが、負けて押し返
され、とうとうベッドから転げ落ちそうな状態になりました。なにくそ、と力を振り絞って右側へ戻そうと
したとたんに、わき腹にかかっていた2本の屈強な腕の感覚が嘘のように、すーっと消えてしまったのです。
時計を見るとちょうど午前3時を示していました。家の中を念入りにチェックして回りましたが、何も異常
は見つかりませんでした。
(注)インドネシアは約350年間オランダの植民地でしたが、日本軍が南方進出でオランダ軍を追い払い
3年間程統治しました。1944年8月15日の日本敗戦の直後の8月17日にインドネシアは独立を宣言
しましたが、オランダ軍が再び植民地にしようと来襲し、これをインドネシア軍は(残留した日本軍兵士の
助力も受けて)何度かの戦闘の後に退去させ、実質的な国家独立を勝ち取ったのです。独立のリーダーは
(デヴィ夫人のご主人でもあったスカルノ大統領)とハッタという人でした。ジャカルタ国際空港の名前が
「スカルノハッタ国際空港」と呼ばれる由縁です。余談ですが、この残留日本兵の中でもインドネシア軍の
対オランダとの戦闘に何回も参戦し最も貢献され、スカルノ大統領の信頼も篤く、インドネシア英雄勲章を
授与された方(O.H.氏)が、私の以前の上司(元通産省の偉い方)が同郷(中学の同級生)であったと
いうご縁からご紹介いただき、ジャカルタ駐在中にはご親交をいただいておりましたが、後年(私の帰国後)、
ジャカルタ郊外の自宅で強盗に惨殺されるという不幸な事件でお亡くなりになりました。インドネシアのため
に身を捧げられた方がインドネシア人によって命を絶たれるという皮肉な運命に驚き悲しんだ次第です。
この家は前任者が借りていたものをそのまま引き継いだものだったので、(既に日本に帰国済みの)前任者のAさんに
電話して尋ねてみましたが、Aさん夫妻が住んでいた頃は何も不思議なことは起きなかったという返事でした。さて、
それなら、当時と違う何かがあるはずだと色々考えているうちに、あることに思い当たりました。

1988年の始めでした。借りている家の家主さん夫妻がやってきたことを思い出しました。ジャカルタからスマトラ島
のパレンバンに転勤になるので、いずれジャカルタへ戻って来るまで、自分たちの家具などの一部を預かってくれないか
というのです。家は大きく、邪魔になるわけでもないので快く了承しました。早速、翌日からいろいろなものが運ばれて
きました。その中に、古風な形のアーチ型の石橋と、高価そうな骨董品らしい鏡台が混じっていたのでした。

インドネシア人と日本人の信頼できる友人たちを招き、一連の出来事について意見を聞いてみました。予想に反して
「そんなもの、錯覚だよ。」などと言う者はひとりもなく、彼らの意見を集約すると、次のようなことが分かってきました。
「運ばれてきた鏡台の鏡面が、ロビーの壁に貼ってある大きな鏡と真正面に向かい合っており、これが関係していないか?。
鏡と鏡が向かい合うと良くないことが起きると昔から言われている。」、「石橋の形が回教徒を埋葬する棺の蓋にそっくり
で気持ちが悪い。」

全員が口を揃えて言ったことは、「インドネシアには幽霊が存在している。」という断言でした。興味はあっても、幽霊
などは自己催眠にかかりやすい人の見る錯覚だろうと考えていて、「徳さんの錯覚だよ。寝ぼけていたんだろう?」と言
ってくれるのを半ば期待していた私には驚きでした。ここで、彼らが話してくれた話をいくつか書いておきましょう。
以前に(日本の)ある全国誌(新聞)にも載ったということだが、ある商社の(日本人)駐在員の方が奥さんと、
ジャカルタからバンドンに通じる途中の、避暑地としても有名なプンチャク峠に出かけたところ、峠の中腹で奥さん
が尿意をもよおした。人影もなかったので、奥さんは用をたすため藪の中に入っていった。ところがなかなか戻って
こない。ご主人は藪の中を探し回り、やっと奥さんを見つけて車に戻り、予約していたバンガローに到着し、一夜を
過ごした。翌日、ジャカルタへ向かって帰り始めたところ、前日と同じ場所に差し掛かると、奥さんは再び尿意をも
よおし、また藪の中に入っていった。今度もなかなか戻ってこないので、ご主人は必死になって探したが、なかなか
見つからない。途方にくれていたところ、泣き声が聞こえてきたので、その方向に向かって歩き、辿りつくと、洋服
が泥まみれになった奥さんの姿が目に入った。ご主人の姿を見ると、泣き叫びながらしがみ付いて、次のように言った。
「どうして早く探してくれなかったの!昨日から私はここで動けなくなって泣き続けていたのに。」(一夜を過ごした
奥さんは誰だったのか?)

JICA(国際協力事業団)よりジャカルタ職業訓練学校の先生として派遣されていた方は、(この私の家での不思議
な体験をお話した数ケ月後に電話で伝えてこられた話ですが)このような体験をされたそうです。「ある夜、寝室のドア
が開く音で目を覚ますと、入口の所に運転手のお母さんが立っているではありませんか。その老婆は私に向かって静かに
お辞儀をすると、スーツと出ていったのです。おかしいなと思ってそのまま眠りましたが、翌朝になってその運転手の
お母さんが深夜に亡くなったとの知らせがあったのです。亡くなる前まで、お前の仕えている日本人の先生はやさしく
ていい人だ、真面目に勤めて可愛がってもらえと、息子に口癖のように言っていたそうです。葬式の日、私は墓地での
埋葬にも参列しました。イスラムの葬儀は初めて見たので(許可を得て)写真を撮りましたが、現像したら埋葬シーンに
白い人影のようなものが写っていたのです。息子をよろしく、との母心が死ぬ間際に私の所に挨拶にきたのでしょうか。」
私の家の不思議な出来事を耳にした友人たちからは、さらに次々と幽霊話が寄せられました。そのいくつかを簡単に紹介して
おきましょう。(これらの話をしたインドネシアの友人たちは、いずれも大学卒のしかるべき地位のある人たちばかりです。
彼らが、真顔で語った話です。)

1.ジャカルタ北部の海岸沿いのアンチョール公園(ホテル、360度回転ジェットコースターもある遊園地、娯楽施設、
野外映画館、カーサキットまである広大な総合レジャー地域)の横を流れる川に架かっている、ある橋のたもとには、
頻繁に若い女性の幽霊が出る。(この話は現地の新聞にも出たというくらい、インドネシアの人には有名な話です。) 

2.家を借りた外国人が、あまりに不思議なことばかり起きるので調べてみたら、以前住んでいた人が風呂の中で溺れて
死んだ家だったことが分かった。借り手がないので、事故を知らない赴任したばかりの外国人に貸したとのこと。

余談ですが、以前、私の息子が東京のある地域でアパートを探していた時、不動産屋さんのお姐さんから、「その予算で
借りられる部屋はないよ。でも、ひとつだけあるよ。出るけど、それでいいなら。今2人入っているけど、その人たちも
今月で出るから、君1人になるけど、いい?」と(親切に)言われたそうです。勿論、お断りしたことは言うまでもあり
ませんが、現代の東京でも似たようなことがあるみたいですね。あなたのお住まいには出ませんか?

3.1987年(徳さんも駐在中)、ジャカルタ郊外で数百人が死亡する大列車事故があったが、その場所で血まみれの
幽霊を目撃したという話が、続々と(インドネシアの民衆の間では)噂されている。

4.ジャカルタのメインストリートに面した、国家機関の入っているある大きなビルのトイレとエレベータの中に、自殺
したスチュワーデスの幽霊が出る。(「昨日も出た。」という話を私も会社の従業員から聞いたことがありました。)
5.インドネシア人の友人の家族が深夜数人で食事をしながら語り合っていたら、死んだはずの祖父が部屋に入ってきて、
テーブルに座り、皆と会話をして出ていった。この間、「おかしい、死んでいるはずだが」と思いながらもあまりに生身の
人間と同じなので、誰もそれを言い出せなかったという。祖父が話した内容には本人しか知り得ないことがあったという。
それ(その人)が出ていった後、我に返った全員は「おじいちゃん、死んでいるんだよね。」と震えながら話しあったとのこと。

6.墓場の木の下に赤ん坊を抱いた幽霊が出るという話が(インドネシアでは)アチコチにあり、静かな場所で赤ん坊を
抱いてあやしていた女性が幽霊と間違えた住民に殺されてしまったという事件があった。

インドネシアの人たちからは、さらに興味ある話も聞きました。この国では、霊は姿を見せずに「匂い」で現れることも
多いそうです。良い霊は良い匂いで、悪い匂いは悪い霊で、例えば、危篤の病人の枕元に家族が集まっていて、急に良い
匂いがプーンとしてくると、その病人は助かる(vice versa)と言われているそうです。
対処策:さて、次々と起こる不思議な出来事にどう対処しようかと考えた結果、とりあえず、例の鏡台の鏡面を布で覆う
ことにしました。鏡と鏡が向かい合って反射し合ううちに、ある状態になると何か特別なエネルギーみたいなものが発生し、
それが不思議な現象を引き起こすのではないかと考えたからです。この処置をした後は、不思議な現象はピッタリと止み、
メイドたちからもセタンを見たという話を聞くことも無くなったのです。
1988年9月のある日のことです。家の賃貸契約更新のために、家主の奥さんがやってきました。とてもおしゃべりな
中年の婦人ですが、契約の手続きが終ったところで、「ところで、いろいろと不思議なことが起こるので、関係はないとは
思いますが、あの鏡台を引き取っていただけませんでしょうか?」と言うと、急に顔色が変わり、それまでの饒舌を止め、
黙って下を向いてしまったのです。しばらくの沈黙の後、「それでは、いつか持って行きましょう。」とだけ言って、逃げる
ように帰っていったのです。

その後、メイドの報告では、私が会社に行っている間に、家主夫人は数回やってきたが、こわごわと鏡台を見つめてはため
らって、なかなか持って行こうとしないということだったので、私から電話して強く頼み、やっと引き取ってもらいました。
家主夫妻は何も語ろうとしないので、やはり気になって調べてみたら、次のようなことが分かったのです。

この家は、本来は家主夫妻が自分たちが住むために建築したもので、当初はその家族が住んでいた。ところが、メイドや
ジャガー(門番)が幽霊が出ると怖がって辞めていくなどの状況が生じたので、外国人に家を貸すことにした。事情を知
らないオーストラリア人が住み始めたが、2年分もの契約期間中の賃貸料は全額前払いしてあるにも係わらず、ある朝、
真っ青な顔になり、大急ぎで(荷物の一部を残したまま)引っ越してしまった。その後、なかなか借り手がなくて、ちょう
ど事情を知らないで家を探していた私の前任者が、立派な家なのに得な賃貸料だと思い、気に入って借りた。(確認して
みたら、この時は鏡台は家主さんによって運び出されていた。)
以上が私が現実に体験した出来事ですが、本当に幽霊が存在するのか否か、今でも私には分かりません。ただ、ひとつだけ、
私にとって変ったことがあります。それは、以前は幽霊などの存在は信じていないのに、それが怖くてたまらなかったのですが、
一連の出来事を体験しているうちに、幽霊というものに対する恐怖感が全くと言っていいほど無くなってしまったことです。
そして、幽霊などよりはるかに怖いものは、「生きている人間」だということがしみじみと判った次第です。「死んだら、
こう考えている自分の心(魂)も完全に無になってしまい、自分の存在は全く無くなってしまうのか?それはとても辛いことだ。
魂は残るのなら、死ぬことも楽しいのかも知れない。(幽霊が本当にあるのなら魂は死んでも存続するという証しなんだから安堵
できるかな。)」と、子供の頃から考え続けてきていますが、まだ回答は得られていません。そろそろ、人生のゴールが見えてき
つつある年代になったから、何とか正解を知りたくて、様々な勉強をしているところです。(占いの研究、お遍路旅などもその一
環ともいえます。)

ブーゲンビリアとハイビスカスの美しい花が1年中咲き乱れていたあの家の周り(ジャカルタ南部ポンドック・インダー地区)
も、次々と住宅が建築され、今ごろはもう幽霊たちの住むスペースは無くなり、ジャワの山奥に追い払われているのではないで
しょうか。「スラマット・ティドウール・セタン・インドネシア!」(インドネシアの幽霊たちよ、安らかに眠って下さい!)
インドネシア語では「さようなら」という場面では「サンパイ・(ブル)ジュンパ・ラギ」(又会う時まで)という綺麗な発音の
お分かれの言葉を使います。少し歳月が経つと、何だかあの幽霊たちにこの言葉を言ってくれば良かったかななんて思わないこと
もありません。霊も元々は生きた人間だったんですから、よーく考えるとあまり怖くはありませんね。
スハルト政権下で成長を遂げはじめていた頃のインドネシアに駐在していた私には様々な想い出があります。
駐在して間もない頃には、日本赤軍派による日本大使館爆弾発射事件もありました。またこの駐在中に昭和天皇が崩御され、
私もジャカルタで記帳弔問をさせていただきました。デヴィ夫人もこの頃はジャカルタに居られ、私の会社はデヴィ夫人の
会社と同じビル内にあり、仕事上の関連もあったので面識がありました。公的な場面では極めて華やかに振舞われる方ですが、
夫人は通常は清楚な装いの品のある頑張り女性経営者として私の印象に残っています。ジャカルタ市の東北部にはコタと呼ばれる
古くからの中国人街があり、そこの美味しくて安い中国料理店にはよく食べに行っていたものですが、後年にスハルト政権が崩壊
する時の暴動でこの中国人街は襲撃されかなりの死者も出て主な建物は破壊されたと聞いています。それぞれの国にそれぞれの事
情があり、外国人が口を出すべきではないとは思いますが、悲しいことですね。やっぱり、幽霊より怖いものは人間の欲と権力の
争いなのかも知れません。

つづくv
19名無し三等兵:2007/09/10(月) 22:13:52 ID:???
>>11
>1944年8月15日の日本敗戦の直後の8月17日にインドネシアは独立を宣言
>しましたが、オランダ軍が再び植民地にしようと来襲し、これをインドネシア軍は(残留した日本軍兵士の
>助力も受けて)何度かの戦闘の後に退去させ、実質的な国家独立を勝ち取ったのです。独立のリーダーは
>(デヴィ夫人のご主人でもあったスカルノ大統領)とハッタという人でした。ジャカルタ国際空港の名前が
>「スカルノハッタ国際空港」と呼ばれる由縁です。余談ですが、この残留日本兵の中でもインドネシア軍の
>対オランダとの戦闘に何回も参戦し最も貢献され、スカルノ大統領の信頼も篤く、インドネシア英雄勲章を
>授与された方(O.H.氏)



素晴しい。負けて戦争が終わったと言うのに、復員もせずインでネシア独立の為に戦った祖先の日本兵。
これが何で侵略戦争だろうか?日本は負けたんだよね。もう良いじゃん戦わなくて。何のために戦ったのだ?

デビ婦人はスカルノの第3婦人か愛人だかじゃないのか?
20名無し三等兵:2007/09/10(月) 22:17:30 ID:???
wikiに妾扱いだったとあるな
21名無し三等兵:2007/09/11(火) 00:00:21 ID:???
>これが何で侵略戦争だろうか?

義勇軍はあくまで個人の参戦で、日本軍自体は「帝国領土と成す」と御前会議で決議し、
独立ゲリラ組織と戦う側だったからな。
冬の八甲田山には、第五連隊が未だにさまよっています。
23名無し三等兵
よくこそ戦って下さった・・・