1 :
1:
ではマンネリにならないように
語ってください。
2 :
名無し三等兵:2007/06/27(水) 14:15:20 ID:aUwWK2jK
やだ
3 :
名無し三等兵:2007/06/27(水) 14:21:22 ID:???
そんなんシュリーヘンわ
4 :
1:2007/06/27(水) 15:24:45 ID:t3NYSOE0
マンネル『ハ』イム
が正しいのか・・・!? ひょっとして
5 :
名無し三等兵:2007/06/27(水) 15:40:22 ID:???
マンネリゲイムが正しいw
6 :
名無し三等兵:2007/06/27(水) 16:21:48 ID:???
毎日がマリネラ王国
7 :
名無し三等兵:2007/06/27(水) 21:44:56 ID:???
神が降臨してマントイフェルスレみたいな良スレになること期待
8 :
816:2007/06/28(木) 02:21:44 ID:VxfwYjV/
若い頃このひと来日してるよな。 長崎?
>>7 凄い良スレになってW
9 :
名無し三等兵:2007/07/13(金) 00:41:45 ID:???
10 :
名無し三等兵:2007/07/14(土) 12:56:36 ID:???
まだ始まらないの?
11 :
名無し三等兵:2007/07/18(水) 05:16:09 ID:axfxGs/j
立てた人には悪いけど、やっぱドイツ軍人スレじゃないと無理じゃね?
マントイフェルスレは、立てた本人はネタスレのつもりで立てたんだろうが、
一人の神により、軍板きっての良スレなったけどさ…
12 :
名無し三等兵:2007/07/26(木) 23:50:58 ID:nxYKBi8m
昭和15(1940)年11月、横浜に入港した客船から2人のフィンランド軍将校が降り
立った。
アンノ・カイラ大佐とラウリ・レイネ大尉である。三国同盟成立、仏印進駐、米
国による経済制裁等
緊張した状況下にあった当時の日本政府・軍部は南進論と北進論の議論を続けて
いたが、北進の際の仮想敵国
ソ連の研究に迫られていた。
後に言われるほど日本の情報戦略は、お粗末なものでもなければ、間違ったもの
でもなかった。
ソ連を取り巻くバルト三国、フィンランド、スウェーデン、ポーランド、ハンガ
リー、ルーマニアからトルコ、イラン、
アフガンに至るまで、日本軍は情報網を張り巡らせていた。フィンランド駐在武
官小野打寛大佐(陸士33期)は、
前年11月の冬戦争でのフィンランド軍の奮戦ぶりを注目していた。彼に請われた
フィンランド軍が、
極北の凍土でのソ連との戦訓を伝えるために派遣したのが2人の将校である。
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥は、「もしも若ければ、自ら
日本へ行きたかった。」と語ったという。
13 :
名無し三等兵:2007/07/27(金) 15:00:16 ID:???
ついにこのスレにも神が来たか?
14 :
名無し三等兵:2007/07/28(土) 00:00:13 ID:lNmVf5uZ
実はマンネルヘイムは、日本と浅からぬ因縁を持っていた。
マンネルヘイムは1867年(慶応2年)フィンランド南西部の港町トゥルク近郊に生まれた。
スウェーデン系貴族であるマンネルヘイム男爵家は没落の最中にあり、彼は軍隊に職を求めた。
当時フィンランドを支配していたロシア帝国のニコラエフスク騎兵学校に入学した彼は、
ロシア陸軍の騎兵将校としてシュバリエール近衛騎兵連隊に配属された。
明治37(1904)2月、不凍港を求めて南下する帝政ロシアは、朝鮮政策を巡り新興の大日本帝国と衝突し、日露戦争が始まった。
日本は弱小国と考えられていたが、陸海の戦いで想像以上に善戦する。
マンネルヘイムは、沙河会戦後の11月10日にカウリバルス大将の率いる第3軍に加わり、出征する。
彼は翌年1月25日に始まる黒溝台会戦では、ロシア最良の騎兵指揮官と讃えられた
パーヴェル・ミシチェンコ中将指揮下のネジンスキー竜騎兵連隊で活躍し、2月の奉天会戦でも奮戦する。
両会戦でミシチェンコの騎兵集団は秋山好古率いる日本陸軍の騎兵旅団と激戦を展開した。
日本軍の勇戦は、ロシア騎兵に強い感銘を与えたという。
彼らは日本軍戦死者を弔う墓碑を建てた。ミシチェンコは「もっと墓碑を高くせよ」と命じた。
戦争は、日本海海戦によるバルチック艦隊の壊滅によりクライマックスを迎え、明治38(1905)10月講和に至る。
マンネルヘイムのこの戦争における受勲は3度に及ぶ。
大佐に昇進した彼にとっても、当時世界最強と言われたロシア軍を退けた日本軍との戦いは強い印象となって残った。
15 :
名無し三等兵:2007/07/28(土) 23:26:57 ID:Nd2M6qNa
満州の日本軍戦いぶりの何がマンネルヘイムに感銘を与えたのか?
明治38(1905)年の正月、沙河を挟んで日露両軍が睨み合っていた。
1月8日秋山好古少将の命により永沼中佐が騎兵176騎を率いて、敵の後方撹乱に向かった。
一方翌9日ロシア軍はミシチェンコ中将指揮下の騎兵72個中隊、竜騎兵4個中隊、砲22門
から成る1万騎を威力偵察に出撃させた。彼らの活躍は、後に「ミシチェンコの8日間」と呼ばれる。
ロシア騎兵は日本軍の通信網、補給拠点を破壊しながら、遂に日本軍の弱点を発見した。
黒溝台を守る寡兵の秋山騎兵旅団である。ロシア軍の攻撃は1月25日に始まった。
しかし生涯を世界最強のロシア騎兵を妥当することに捧げていた秋山は、劣勢を戦略と装備で補った。
日本騎兵隊は、常識に反して機動力を殺して拠点防衛に徹したのだ。
さらに肉弾戦が主流だった野戦で、機関銃を集中使用した。まさに満州版長篠の戦いである。
ロシア軍は5倍の兵力を有していたにもかかわらず、遂に防衛ラインを突破出来なかった。
やがて、戊辰戦争で桑名藩兵を率いて勇戦した立見尚文の第8師団が救援に駆けつける。
28日夜、立見は師団をあげて夜襲を行った。29日午前5時半ロシア軍は退却し、黒溝台会戦は終わった。
ミシチェンコの騎兵隊は、永沼挺身隊に振り回され、会戦には間に合わなかった。
16 :
名無し三等兵:2007/08/01(水) 23:58:53 ID:/UuD3MUK
露将クロパトキンは、黒溝台で奮戦した秋山の騎兵旅団を必要以上に恐れた。
続く奉天大会戦においては日本軍騎兵へ備えるため、遥か後方の松花江付近に
ミシチェンコ騎兵軍団を配置した。
そのため、ロシア最強の騎兵軍団は奉天会戦に参加出来なかった。
ポーツマスで講和条約が締結され復員したマンネルヘイムは、1907年からフランス人
主催の東アジア横断ツアーに参加する。
これは、ヨーロッパから東トルキスタン、チベット、を経て清国に至る、
シルクロードを騎馬により踏破する学術探検旅行であった。
マンネルヘイムは軍の機密任務のもと、この冒険に参加した。
彼の足跡は日本にまで及ぶというが、公式記録は残っていない。
17 :
名無し三等兵:2007/08/04(土) 14:59:08 ID:Gx+wmPV7
1909年1月マンネルヘイムは、第13ミハイル・ニコライビッチ・ウラジミール大公
近衛長槍騎兵連隊長に任ぜられポーランドに赴任する。
1911年からは少将に昇格し、皇帝近衛長槍騎兵連隊長としてワルシャワで過ごし、
翌年には皇帝の随行員にもなった。
帝政ロシア陸軍における彼の出世は順調であった。
1914年6月1日マンネルヘイムはワルシャワ軍管区の第23軍団に所属する
別働近衛騎兵旅団長に任命された。
18 :
名無し三等兵:2007/08/05(日) 17:20:11 ID:AOlXogo8
この時代、騎兵は未だエリート部隊であった。
マンネルヘイムの旅団は近衛長槍騎兵連隊、近衛偵察騎兵連隊に
支援の砲兵1個大隊が配置されていた。
長槍騎兵(ウーラン)とは、ポーランド騎兵の歴史を継ぎ、
胸甲、長槍を装備した重武装機動部隊であった。
偵察騎兵(ユサール)とは所謂軽騎兵であり、サーベル、拳銃等の
軽装備で偵察、連絡、後方攪乱を任務としていた。
両者の中間的な位置付けが、騎兵銃で武装した竜騎兵(ドラグーン)である。
帝政ロシア軍には10個近衛騎兵連隊、17個長槍騎兵連隊、21個竜騎兵連隊、18個偵察騎兵連隊があり、
この他、精強を謳われたコサック騎兵939個中隊があった。
半農武装集団であるコサック軍は全員が騎兵で、ドン、アムール、クバン、シベリア、ウラル等
11区域に常設されていた。これらの地域には、裁判権も含めて高度な自治がコサックに許され、
軍備費用は銃を除き、総てコサックの自己負担だった。
ワルシャワ軍管区第23軍団作戦序列(1914年開戦時)
第3近衛歩兵師団
第2歩兵師団
別働近衛騎兵旅団
第3近衛騎馬砲兵中隊
第23曲射砲大隊
第9工兵大隊
19 :
名無し三等兵:2007/08/05(日) 21:29:32 ID:???
もともとはロシア貴族ではあるんだよな、マンネルヘイム
20 :
名無し三等兵:2007/08/06(月) 23:24:57 ID:7PD/p/N0
1914年6月28日、サラエヴォでオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻が
セルビア人民族主義者ガブリロ・プリンチプにより暗殺された。
7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告し、30日にはセルビアを支持するロシアが総動員令を布告した。
これに対抗してドイツ帝国が総動員を発令したのが翌8月1日である。
帝政ロシア軍は、平時には37個軍団制を敷いており、ワルシャワ軍管区には
第6、14、15、19、23の5個軍団が配置されていた。ロシア軍司令部は動員と戦時編成で大騒ぎであった。
平時の歩兵1個大隊は将校15人下士官兵440人で構成されているが、
戦時編成では将校18人下士官兵958人にしなければならない。
新師団編成のため要員を抽出し、更に予備兵から輜重部隊を作る必要がある。
マンネルヘイムも多忙を極めた。
平時騎兵部隊は軍団に属しているが戦時には分離され、代わりにコサック騎兵中隊が軍団に配属される。
東プロイセンに侵攻する第2軍が編成されると、第6、15、23軍団は第2軍に所属することなり、北へ向かった。
一方、別働近衛騎兵旅団はルブリン地区で第4軍に配属される。
マンネルヘイムは幸運だったのかもしれない。
ロシア第2軍は、8月下旬有名なタンネンベルグの戦いで全滅する。
21 :
名無し三等兵:2007/08/11(土) 08:32:29 ID:dm73yPY9
ロシア軍は皇帝ニコライ2世の叔父、陸軍総司令官ニコライ大公のもと、
対オーストリア戦用に南西軍を組織し司令官にニコライ・イワノフ将軍、参謀長には日露戦争で
第3軍参謀長を務めたアレクセイエフ・ミカエル・バシレビッチ将軍が任命された。
ロシア軍は45個師団のうち2個師団が未着であり、ポーランド内のサルツア男爵の
第4軍とプレーベ将軍の第5軍は3個軍団編成だった。加えてルツスキー将軍の第3軍と
ブルシロフ将軍率いる第8軍が東からレンベルグに向かっていた。
さらにロシア軍はワルシャワで第9軍を編成中だった。
オーストリア軍の動員は緩慢なものであった。オーストリアはガリシア地方に37個師団を
集結させる予定だったが、6個師団は未着だった。8月19日ダンクル将軍の第1軍と
アウフェンベルグ将軍の第4軍は国境を越え、ワルシャワを目指して進撃する。
第1軍は主にウィーンとその周辺の出身者から編成されており、
この中に母の葬儀に参加するためウィーンに帰省していた哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインも
志願兵として参加していた。
オーストリア第1軍戦闘序列
第1軍団:第5歩兵師団、第46予備師団、
第5軍団:第14歩兵師団、第33歩兵師団、第37ハンガリー歩兵師団
第10軍団:第2歩兵師団、第24歩兵師団、第45予備師団、第12歩兵師団、第3騎兵師団、第9騎兵師団
オーストリア第4軍戦闘序列
第2軍団:第4歩兵師団、第25歩兵師団、第13予備師団
第6軍団:第15歩兵師団、第27歩兵師団、第39ハンガリー師団
第11軍団:第10師団、第26予備師団、
第17軍団:第19歩兵師団、第6騎兵師団、第10騎兵師団
22 :
名無し三等兵:2007/08/11(土) 08:43:29 ID:???
ハーケンクロイツってカッコイイね
23 :
名無し三等兵:2007/08/11(土) 09:00:05 ID:???
ちゃんと次スレとして機能しそうだな。
24 :
名無し三等兵:2007/08/12(日) 11:18:12 ID:Q3gC7zcX
マンネルハイムの所属する第4軍は第14、第16、擲弾兵軍団及び軍直轄部隊から構成されている。
8月21日、日食のこの日、ヤロスラビスでオーストリア第1軍先遣隊と
ロシア第4軍の騎兵斥候隊間で前哨戦が行われた。
23日オーストリア軍第1軍はルブリンの南のクラスニックで、ロシア第4軍本隊と遭遇した。
兵力はほぼ同数。不幸にもロシア第14軍団は意図せずオーストリアの2個軍団の間に迷い込み、
完膚なきまでに叩きのめされた。
マンネルヘイムは、満州の戦いと同様に最前線で敵と戦った。彼は、自ら偵察隊を率いて
クラスニック、ゴストセラドフ、アノポリス、オペル、ホーデル川を転戦した。
25日までの3日間の激戦でロシア第4軍は6万人の死傷者を出し、ルブリン近郊まで退却。
そこで塹壕構築を始めた。救援のロシア第9軍がワルシャワ方面から急行しつつあり、
ルブリン南方で鉄道下車を開始したのが、26日である。
司令官サルツァは罷免され、司令官はエベルト将軍に交代した。
25 :
名無し三等兵:2007/08/14(火) 08:00:18 ID:lVyZjGih
アウフェンベルグのオーストリア第4軍も、コマロウでロシア第5軍を破って前進した。
オーストリア第1軍はポーランド内に100km侵攻し、ルブリン前面まで進んだが、
その補給線は伸び切っていた。
8月28日、ツロタリパ河畔でオーストリア第3軍がロシア第3軍に敗れると、
状況は一変した。ロシア第4軍と新着の第9軍の反攻が始まる。
8月30日クラスニックで再び両軍が激突した。
オーストリア第1軍は4万人の死傷者を出す大敗を喫する。この戦いでも奮戦した
マンネルヘイムは敗走するオーストリア軍を追撃して各地を転戦し、
9月7日タマルカで戦う。ロシアの騎兵隊はカルパチア山脈にまで達した。
ガリシアの首都レンベルクは9月3日に陥落。
26 :
名無し三等兵:2007/08/15(水) 07:44:48 ID:l6YrvBIZ
9月10日は激しい雨が降った。ロシア南西軍司令部は全戦線での激しい戦闘を報告している。
9月11日、オーストリア陸軍参謀総長コンラートはガリシア戦線のオーストリア軍に、
サン川への撤退命令を出した。
この後9月14日のロシア軍の渡河により戦線維持は困難となり、オーストリア軍は
ヴィースラ川まで撤退した。
ヴィースラ戦線で没収ロシア砲艦ゴブラナ号への乗船を命じられた哲学者ルートヴィッヒは、
9月13日の日記で「ロシア兵が追ってくる。何度も恐ろしい光景を見た。もう30時間寝ていない。
体が弱ってきたし、援軍があるとも思えない。」と書いている。
この間マンネルヘイムの旅団は、オパトフ付近のデルサル将軍の別働隊を援護し、
9月14日にはヴィースラ川東岸のスロプトフ・クリモノトヴィの戦いに参加した。
結局オーストリアはガリシア東部全域を失った。オーストリア軍の損害は40万人にのぼる。
ロシアは25万人を失った。この間のマンネルヘイムの勇戦は皇帝の目に留まり、
彼は聖ジョージの剣、さらに後に聖ジョージ勲章を授与された。
27 :
名無し三等兵:2007/08/18(土) 12:02:26 ID:Q+iEXOcs
9月16日上シレジア防衛のため、ドイツ第9軍が編成された。
司令官にはタンネンベルグ、グンビンネンの戦いで第17軍団を率いて
勇名を轟かせたアウグスト・フォン・マッケンゼンが任命された。
彼もまた近衛軽騎兵連隊出身の生粋の騎兵である。
ドイツ軍はガリシアのオーストリア軍支援のため、4個軍団と2個師団
からなるこの第9軍を750本の列車に載せて送り出した。
クラコウ付近でドイツ軍の攻撃が始まったのは9月25日である。
ロシア軍はヴィースラ河に集結した。
マンネルヘイムの旅団は第9軍に派遣され、イワンゴロドでドイツ軍を迎え撃つ。
激戦が続いた。
遂にドイツ軍は10月17日までにロシア軍を撃退し、ワルシャワ前面まで進んだが、
そこが攻勢限界点であった。東部戦線には冬が近づいていた。
28 :
名無し三等兵:2007/08/18(土) 12:22:11 ID:???
なんでお前はさげないの? 学習できないのか?
29 :
名無し三等兵:2007/08/19(日) 11:48:01 ID:x5jxzUa8
1915年2月18日マンネルヘイムは第12騎兵師団長となった。
第12騎兵師団戦闘序列
アーサー偵察騎兵連隊
ベルゴロド長槍騎兵連隊
スタロズボフ竜騎兵連隊
オレンブルグコサック連隊
ドン及びトルキスタンの山岳兵数個大隊
塹壕戦となった西部戦線は騎兵の時代の終焉を告げていた。
一方、東部戦線は戦場があまりに広大であったため、機動戦が中心であり、
このため、索敵、後方攪乱など騎兵の活躍の余地は残されていた。
しかしながら、強固な陣地に立て篭もり機関銃で武装する歩兵部隊に対して
騎兵は最早無力であった。
マンネルヘイムは、これまでの戦争の規模を遥かに越える破壊と殺戮に戦慄した。
騎兵の養成には時間がかかる。一度全滅すると再建は困難なのだ。
彼は勇敢な前線指揮官から部下の生命に気を配る司令官へと変わりつつあった。
1915年8月から9月のオペルジェの戦いに参加したマンネルヘイムは、
暫く後には第2騎兵軍団の指揮をとり、カルパチアの防衛線を戦った。
30 :
名無し三等兵:2007/08/23(木) 23:57:35 ID:y5lZ5yCQ
この頃の東部戦線の状況を概観する。
1915年4月の東部戦線では、前年ワルシャワ前面まで進出したドイツ軍は,
冬の訪れと共に後退し、ポーランドでロシア軍の巨大な突出部が形成されていた。
西部戦線は膠着しており、ドイツ軍参謀本部は東部戦線での攻勢を計画した。
西部から8個師団が抽出され、10個歩兵師団及び1個騎兵師団、兵力12.6万人から成る
第11軍が編成される。司令官には第9軍を率いたフォン・マッケンゼンが任命された。
突破点はゴルリッツが選ばれた。
攻勢には、兵力8万人のオーストリア第4軍の参加も決まり、目立たぬよう鉄道輸送の手配がなされた。
攻撃は5月2日午前6時、毒ガス攻撃を伴う4時間の猛砲撃で始まった。矢面に立ったロシア第10軍団は
3万4千人の兵力が、瞬く間に5千人になった。昼過ぎまでにロシア軍戦線は崩壊した。
独墺軍は急進し、6月22日にはレンベルグを奪還。7月22日ニコライ大公はポーランドからの全面撤退を命令し、
8月5日ワルシャワが陥落した。ロシア軍は9万人が死傷し、24万人が捕虜となった。
31 :
名無し三等兵:2007/08/25(土) 15:25:48 ID:W8DUyXZx
ゴルリッツ突破戦の最中の1915年5月、イタリアが連合国側に立って参戦した。
しかし国家意識が未成熟だった当時のイタリアの兵は、同盟国軍の脅威にはならず、
「少数のドイツ兵は多数のロシア兵に勝ち、ロシア兵は数が同じならば
オーストリア兵には負けない。オーストリア兵は数倍のイタリア兵を打ち破る。」
とまで言われる。
10月にはブルガリアが同盟国側に参加。
ドイツ参謀本部は、マッケンゼンと指揮下のドイツ第11軍をバルカン戦線に送る。
1916年頭までにセルビア、モンテネグロは同盟国軍が制圧した。
2月、西部戦線ではベルダン要塞の攻防戦が始まった。
32 :
名無し三等兵:2007/08/26(日) 07:50:32 ID:QWR2iR59
マッケンゼンの攻勢によりロシア軍は大打撃を受けた。
陸軍総司令官のニコライ大公は辞職。皇帝ニコライ二世自らが後任となり、
参謀総長も北西軍司令官だったアレクセイエフに交代した。
しかし後退に次ぐ後退により、戦線は縮小され、予備兵力を作ることが出来た。
また補給線も短くなり、ロシア軍の再建が始まった。
かつて満州で激戦を繰り広げた日本とロシアは、今は共に連合軍側にいる。
フランスは、ベルダン要塞に対するドイツ軍の圧力軽減のため、東部戦線での攻勢を要請していた。
しかしロシア軍は、重砲はおろか、兵員も武器も、そして弾薬も不足していた。
日本は、潜在的な仮想敵国ロシアへの援助を渋っていたが、英仏の度重なる要請に基づき、
小銃100万丁、重砲、迫撃砲、日露戦争時の戦利艦等多くの軍需物資をロシアに送った。
この救援により、漸くロシア軍兵士に銃が行き渡るようになった。
33 :
名無し三等兵:2007/08/28(火) 07:59:02 ID:g6OpxVwp
1916年4月、南西軍の司令官に、ロシア第8軍を指揮していたブルシロフが就任した。
彼のもとに第8軍、第11軍、第7軍、第9軍の4個軍、40個歩兵師団と15個騎兵師団が預けられた。
総兵力は63万3千人。対するオーストリア軍は39個歩兵師団と10個騎兵師団が、
3重の防衛ラインに配置されていた。
塹壕陣地により戦線が膠着すると、戦線突破は不可能と考えられるようになった。
しかし、ブルシロフには新しいアイデアがあった。
彼は攻撃部隊を少人数に細分化し、塹壕陣地を多点突破することを考えた。
敵に気付かれずに第一線陣地を突破し、その後は敵の防衛線内で突破部隊が
集合分散を繰り返して、戦線を攪乱し、通信・指揮系統を切断し、補給拠点の襲撃を行う。
敵部隊を陣地に止めたまま戦線を突破するので、敵の砲兵は浸透部隊に砲撃出来ない。
そして、敵の前線部隊を孤立させ、その地域を制圧するのだ。
攻勢準備は密かに進められた。
34 :
名無し三等兵:2007/08/31(金) 13:39:32 ID:pSEC+KNL
この時、オーストリア軍は総兵力の7割近くを前進壕に配置していた。
西部戦線では、塹壕は前進壕と予備壕から構成されていたが、
オーストリア軍陣地には幅約1kmの前進壕3線しかなかった。
東部戦線は敵味方間の無人地帯の幅が広く、敵兵が前進壕に殺到する前に
遮蔽物のない中間地帯で、殲滅できると考えていたのだ。
兵士は3交代で、第1線、第2・3線、と後方を順番に勤務する。
ロシア軍はオーストリア軍塹壕陣地に向けてトンネル工事を始めた。
マンネルハイムの所属するロシア第9軍は、マッケンゼンの攻勢により
130kmもの後退を強いられていた。
彼らの正面には、ハンガリー人とクロアチア人から構成されたオーストリア軍
最強と謳われる第7軍が布陣している。
司令官フランツアー・バルティンはテレサ士官学校を卒業後、参謀畑を歩み、
1914年10月から第7軍団長としてガリシア戦線で戦っていた。
ゴルリッツ突破戦ではブコビナに進出し、1915年12月のストリパ川の戦いでは
第7軍を指揮して3倍のロシア軍を迎え撃ち、2週間の間に5万人の損害を与え、
ロシア軍の攻勢を撃退している。オーストリアきっての名将であった。
35 :
名無し三等兵:2007/08/31(金) 14:05:35 ID:???
私はじろじろ見られていた。
駅員は私が古典派であることを確かめると、
「ちょっと来い。お前は貨物車の方へ移るんだ。」と怒鳴りつけた。
私は元帥の杖を持っていると抗議した。
「駄目だ。お前は客車から出て行け。」
駅員は無理やり私の腕を掴み、荷物もろとも客車から放り出した。
身に凍みるような厳しい寒さだった。
私は腰掛けたまま、震えていた。
マンネルヘイム語録より
36 :
名無し三等兵:2007/09/01(土) 18:41:45 ID:4+T4VDdk
6月4日、ロシア南西軍全戦線で砲撃が開始された。ブルシロフの攻勢が始まったのだ。
ロシア第8軍は、51ヶ所でオーストリア軍防衛ラインを突破した。
攻撃は同時多発的であったため、オーストリア軍は予備兵力の投入場所を決めることが
できなかった。瞬く間に戦線は崩壊し、6月8日ルックが占領される。
ロシア第11軍はドブノを占領。
ロシア南西軍最南のロシア第9軍は、オーストリア第7軍と激突した。
ロシア第9軍戦闘序列
第11軍団
第12軍団
第33軍団
第41軍団
混成軍団
第3騎兵軍団
37 :
名無し三等兵:2007/09/02(日) 09:54:22 ID:eCXxPyvL
オーストリア第7軍は数日間持ちこたえた。この時、哲学者
ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは第11軍団第7師団砲兵連隊に所属し、
弾着観測の任務についていた。彼は猛砲撃の中観測を続行し、
重迫撃砲2門の破壊に貢献し、その功により2等勇気銀賞を授与されている。
しかし、6月9日ロシア第9軍は、南方からオーストリア第7軍の側面をつき、
オーストリア軍を粉砕した。6月11日、ウィトゲンシュタインは日記に書き残した。
「神と生の目的について私は何を知っているのか?」
ブルシロフは6月12日、捕虜19万人と砲216門、機関銃645丁の捕獲を報告した。
6月17日、ロシア第9軍はチェルノヴィッツを占領。7月4日歩兵で増強された
ロシア騎兵部隊はプルト峡谷で鉄道を切断し、オーストリア軍を包囲しようと試み、
ドイツ軍第129歩兵連隊とオーストリア第18猟兵大隊と激戦を繰り広げた。
7月5日、ドンコサック第1師団と第11軍団による包囲網完成を阻止するため、
バルティンは、12個大隊をかき集め反撃を行った。
この頃からロシア軍は弾薬不足に悩まされるようになる。
7月13日、ウィトゲンシュタインは豪雨の中の敗走途上で手紙を書いた。
「自己を失わないようにするのは恐ろしく難しい。病気になりたい。
そうすればわずかでも安らぐだろうに。」7月15日、増援のトルコ第15軍団が
ガリシアに到着した。バルティンは残存部隊をかき集め、8月一杯かけて
カルパチア山中に防衛線を敷いた。
38 :
名無し三等兵:2007/09/03(月) 22:28:00 ID:???
これって何を元に書いてんの? まさか完全に記憶してるわけじゃないよね・・・?
39 :
名無し三等兵:2007/09/04(火) 01:14:44 ID:BPcPhEyS
本当はこれが読みたい。
グスタフ・マンネルヘイム―フィンランドの“白い将軍”
植村 英一(著)2,524円』(荒地出版社、1992年)
ところが在庫がないのだ。
40 :
名無し三等兵:2007/09/05(水) 12:18:35 ID:5gkWFOYX
グスタフ・マンネルヘイム―フィンランドの“白い将軍”
俺持ってるよ
一万円でお譲りしたい。
41 :
名無し三等兵:2007/09/05(水) 12:46:19 ID:sZ0c9ppg
わたしも持ってるな。
埋まってるけど。
42 :
名無し三等兵:2007/09/08(土) 14:57:48 ID:wxgxqNFM
ブルシロフ攻勢で見せたロシア騎兵のパフォーマンスは極めて高いものであった。
レチスキー将軍率いるロシア第9軍の騎兵隊はドニエストル河を泳いで渡り、
鉄道に沿って疾走し、ハンガリーへ侵攻した。
彼らは数百から1000騎ほどのグループに分割された。
敵に出会えばどれほど強力であろうと交戦し、暫くすると姿をくらまし、
翌日にはまた別の場所に現れた。同時に三ヶ所に出没することもあった。
コサック騎兵は勇猛で、敵を容赦しなかった。
馬術にたけ、負傷者であれ戦死者であれ、軽々と馬の上に載せ運んでいく。
歩兵との協同作戦もうまくいった。
その典型例がカルパチア山中における、9月11日のカプル高地の攻撃である。
歩兵は一方から縦隊攻撃をし、別方面から騎兵が全速力で険しい斜面を駆け上った。
両者は、ほぼ同じタイミングで山頂に達した。
激しい戦いの後、ロシア軍は高地を占領した。
43 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 08:03:09 ID:D3a6gHXi
ブルシロフは、さらなる戦果の拡大には隣接部隊による攻勢実施が必要である、と説いた。
彼の戦術は、軽装の歩兵が敵陣に浸透するため補給が続かず、数日のうちに停止せざるをえない。
追撃や占領地拡大には向かず、敵軍撃滅を主眼にした戦術なのである。
コーカサスから呼び寄せたコサック騎兵師団群は疲弊、消耗し、彼の手元の健在な機動戦力は、
マンネルハイムの第12騎兵師団しかなかった。
しかし友軍は動かなかった。
7月になるとブルシロフは、近衛軍団の増援を得て、交通の要衝コーウェルを攻撃した。
このコーウェルは後の独ソ戦でSS第5装甲師団ヴィーキングが奮戦した場所として有名になる。
ここでは、ドイツとオーストリアの混成部隊リンシンゲン集団が堅固な陣地に立て篭もっていた。
(ベルリン予備第53擲弾兵連隊は、リンシンゲン集団に所属していた。後の有名なスパイ、
リヒャルト・ゾルゲはこの時この連隊にいる。)
もはや奇襲効果は望めず、近衛軍団の精鋭セミョノフスキー連隊とプレオブラチェンスキー連隊は
17回もの突撃を繰り返したが、前進できなかった。
44 :
名無し三等兵:2007/09/11(火) 21:09:44 ID:???
やっぱりマッケンゼンは強いなぁ
45 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 07:36:17 ID:TaxBBYkb
アウグスト・フォン・マッケンゼンの息子がエバーハルト・フォン・マッケンゼンで、
この人も第一装甲軍の司令官として第3次ハリコフ戦で活躍したり、
第14軍を率いてアンツィオで米第5軍と激闘したりしてるんですね。
46 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 20:23:36 ID:???
47 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 02:01:52 ID:ZPjbVYWR
こうしてブルシロフ攻勢は終わった。
この攻勢は、帝政ロシア軍の歴史の中でも燦然と輝く勝利であった。
8月10日までの同盟国軍の損害は70万人にのぼる。
これに対し、ロシア軍は55万人の損害をうけた。
ガリシアではロシア第9軍はハンガリー国境を越え、ブダペストは騒然となった。
ドイツ軍は西部戦線から7個師団を東部に移送し、このためベルダン戦は収束に向かう。
イタリア軍の負担も軽減された。
オーストリア軍は壊滅的な打撃を受け、以降ドイツに依存せねば戦争を継続できなくなった。
また戦争技術の面でも、ブルシロフの戦法は強固な防衛ラインの破壊・突破法として、
軍事テキストに新しい1ページを加えることとなった。
48 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 18:13:15 ID:???
ロシア軍はドイツ軍相手だと弱いけど、オーストリアハンガリー軍やオスマントルコ軍が
相手だとものすごく強い。
オスマントルコ軍とのカフカス戦線も連戦連勝であわや「東アナトリア打通作戦」が成功しかけるほど。
革命が起こったあとも唯一戦力らしい戦力を維持していた。
革命がもし起こらなかったらロシア軍はバン湖を超えて、バグダッドまで進撃できたかもしれない。
そうすればイギリス軍とも手を結ぶことはできたはず。補給の問題も解決したしね。
カフカスのニコライ大公とニコライ・ユデニッシュの二人はブルシーロフに次ぐロシア軍の名将と思う。
49 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 12:18:15 ID:fluu2rXs
ブルシロフの戦術の特徴は歩兵による縦深突破と広正面攻勢である。
このアイデアを積極的に取り入れたのは、むしろドイツ軍であった。
フーチェル将軍のドイツ第8軍は、1917年8月リガで浸透戦術を使い成功した。
1917年10月イタリアのカボレットでも、1918年3月のカイザー攻勢でもこの戦術は有効だった。
(しかしドイツ軍は、後の電撃戦に見られるように、あくまでも一点集中突破にこだわった。
従って失敗したドイツ軍の攻勢は、大抵突出部が3方向から反撃されて終わる。)
ドイツ軍以外にこの戦術を最も評価したのは大日本帝国陸軍だった。
日本軍は第一次大戦の戦訓により歩兵操典を改正し、攻撃方法を分隊突撃に改めた。
日本軍による浸透戦術の成功例のうち有名なものが、第二次上海事変である。
50 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 19:43:00 ID:???
>>49 何気にノモンハンでもソ連軍に大打撃を与えている。
51 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 19:51:11 ID:???
日本陸軍って実はそんなに低レベルな軍隊ではないのに
相手が自動小銃もってたり戦車に予算が下りなかったりしただけなのにヒドス
えっ補給って何?
52 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 21:16:37 ID:???
日中戦争勃発時(1937年)の日本陸軍(航空隊は考慮せず)なら1918年の英仏米の西部戦線の
塹壕線を突破できるかも?一応戦車もあるわけだしね。
二十年もたてば技術革新も起きており、WWTの連合国軍もかなり弱く感じたり?
53 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 21:29:36 ID:???
>>49 カポレットないしはカポレットーじゃね?
>>52 正直、準備射撃だけで射耗すると思う
54 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 23:32:16 ID:???
>>52 結局後方の輸送力が追っつかないから
突破できても確保は出来ないのじゃないだろうか。
55 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 12:26:46 ID:5c4KgkNG
当時蒋介石の中国軍は、ドイツ、チェコの兵器、ソ連の航空機で武装していた。
加えてドイツは、マッケンゼンの参謀長を務めたフォン・ゼークトの他、ファルケンハウゼンら
古参の将軍を主とする約300名の軍事顧問団を派遣していた。
中国軍は、前進壕三線と要所に強化されたトーチカを配置するゼークトラインと呼ばれる
上海・南京間の要塞線に25個師団が立て篭もっていた。
10月10日、7個師団半の上海派遣軍は総攻撃を行った。
分隊単位での浸透戦術は成功し、12日までに中国軍防衛ラインは崩壊した。
この時中国軍に配置されていた軍事顧問団のドイツ軍人は、日本軍の突破を知ると、
自ら銃をとり多数が戦死した。
後の太平洋戦争でも日本軍はアメリカ軍相手に無謀な白兵突撃を行ったと喧伝されているが、
それは誤解である。
多くの場合所謂バンザイ突撃は、補給を絶たれ戦闘力を失ったものの、
投降を選択しなかった部隊が行ったものである。
ガダルカナルでも硫黄島の栗林将軍の最後の突撃でも、日本軍の攻撃は基本的に
浸透戦術に基づいていた。
56 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 13:29:00 ID:???
>>55 ゼークトラインなんか壕3線(確か)しかないやん。
ドイツ顧問団も日本軍を舐めていたと思うが、ゼークトラインで西部戦線を測れると思うのもちょっと。
>後の太平洋戦争でも日本軍はアメリカ軍相手に無謀な白兵突撃を行ったと喧伝されているが、
>それは誤解である。
攻勢時に無謀な白兵突撃をしたっていうのはあまり言われないような気がする。
まあガ島は浸透しても火力を避けきれなかったわけだけれど。
むしろ日本軍のアレな所は補給が貧弱で弾が尽きかけ、
別に玉砕するしないというような局面でもないのに銃剣で打開しなきゃいけないことが多かったところ。
第二次長沙とかさ。
57 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 23:21:04 ID:5c4KgkNG
58 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 23:32:19 ID:???
59 :
名無し三等兵:2007/09/16(日) 01:35:05 ID:???
独仏英が参戦を見送った場合のWWTで
オーストリアハンガリー+オスマントルコ対ロシア+セルビア
になれば確実にロシア側の圧勝で終わる。オーストリアハンガリーのガリチア東半分とトルコの東アナトリアは
確実にロシア領となるでしょうね。
60 :
名無し三等兵:2007/09/16(日) 10:18:29 ID:TtIsoK8E
独仏英が参戦を見送った場合は、世界大戦にならず第3次バルカン戦争になったかもしれませんね。
でも、オーストリアはロシアと戦うと負けると予想してたから、ドイツと同盟したのでしょう。
一方ロシアはドイツが参戦すると面倒だからフランスと同盟したのでしょうね。
61 :
名無し三等兵:2007/09/16(日) 13:42:21 ID:TtIsoK8E
さて、話を1916年8月の東部戦線に戻そう。
マンネルヘイムの属するロシア第9軍は、ハンガリー平原への突入を目前にしていた。
ブルシロフ攻勢の成功はトランシルヴァニアの帰属を巡ってオーストリア・ハンガリーと
敵対関係にあるルーマニアを刺激し、同国は1916年8月31日オーストリアに宣戦を布告した。
ルーマニア軍は20個師団を繰り出して攻勢に出た。
弱体化していたオーストリア軍は後退を強いられたが、間もなくドイツ軍4個師団が
応援に駆けつけると、ルーマニア軍の進撃は止まった。(この頃ドイツと
オーストリアの軍内に確執が生じ、フランツアー・バルティンは更迭されている。)
ロシアはルーマニアの支援を決定し、マンネルヘイム(1917年5月に中将に昇進)の
第12騎兵師団に、ルーマニア軍との連絡を命じた。
ルーマニア軍は、装備も士気も劣悪だった。
兵士は字が読めず、将校に軍事知識はなく、将軍には指揮能力がなかった。
マンネルヘイムはルーマニア軍を、「その価値に疑問が残る弱い同盟軍」と評している。
62 :
名無し三等兵:2007/09/16(日) 17:53:54 ID:???
ドイツ軍はタンネンベルクで2倍の数のロシア軍を打ち破ったが、同時期にレンベルクではロシア軍が逆に
2倍の数のオーストリアハンガリー軍を打ち破った。この実力差は終始変わる事はなかった。
63 :
名無し三等兵:2007/09/16(日) 17:59:01 ID:???
1915年のセルビア
1916年のルーマニア
1917年のイタリア(カポレット)
全部ドイツ軍のおかげで勝てた戦い。オーストリアハンガリー軍だけではどの国も倒せなかった。
明らかにドイツ軍だけが同盟国側で抜きん出ているね。
ロシア軍は協商国側では第三の勢力。でもオーストリアハンガリーもオスマントルコも単独でロシアと戦うと
いつも完敗する。ドイツがもう少し弱かったらロシア革命も起こらなかったでしょうね。
フィンランドも独立することなくマンネルハイムもロシアの軍人で一生を終る事に。
64 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 01:05:23 ID:???
ロシア革命が起こった時に唯一まともな戦力を保持していたのがカフカス戦線のロシア軍。
終始トルコ軍を圧倒していた。
正にアジア太平洋戦争における中国戦線の日本軍状態。
戦闘には勝っているのにどう言うわけか戦争を止めなければいけない。
将兵の間では大きな不満が続出したとの事。これは厭戦気分が高まり脱走兵が続出していた他の戦線では
決して見られなかったこと。最後の最後まで戦闘では負けていないトルコに降伏する事をよしとせず、戦いながら見事な撤退を
やってのけた。士気が非常に高く、自身は負けたと思っていない。
当然彼らは「勝っていたはずの戦争」を無理やり止めさせられて大いに不満であった。
もちろん彼らがソビエトに反抗して白軍の主力となりロシア南部で赤軍と激しい戦闘を行ったのは自明の理。
中国戦線の日本軍と言い、勝手に本国が降伏して戦争を停止したのではさぞかし不満だったのでしょう。
65 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 01:06:42 ID:???
コラテラルダメージ禁止
66 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 12:29:15 ID:Rd9TfIjR
ルーマニアに対する同盟軍の反撃は早かった。
常勝マッケンゼン将軍はドイツ第11軍とオーストリア第3軍を率いて南のブルガリアから、
ファルケンハイン将軍のドイツ第9軍はトランシルヴァニアからルーマニアに侵攻した。
ファルケンハインは、指揮下最精鋭の、エーデルワイス記章を付けた猟兵部隊、
アルペン軍団を前線に投入した。
アルペン軍団戦闘序列
バイエルン第1猟兵旅団
バイエルン第1猟兵連隊(3個大隊)
バイエルン第2猟兵連隊(3個大隊)
バイエルン親衛猟兵連隊(3個大隊)
第201〜210猟兵機関銃大隊
第4予備機関銃大隊
バイエルン第4竜騎兵連隊
猟兵第1砲兵大隊
バイエルン猟兵第2砲兵大隊
第203野戦砲兵大隊
第204野戦砲兵大隊
第101徒歩砲兵中隊
第102徒歩砲兵中隊
第101工兵中隊
バイエルン第102工兵中隊
バイエルン第269曲射砲中隊
第270猟兵曲射砲中隊
67 :
名無し三等兵:2007/09/19(水) 21:28:41 ID:???
1916年12月位にブルシーロフにカフカス戦線に移動してもらって、トルコ軍に
浸透戦術を仕掛けて今度こそトルコ軍を木っ端微塵に粉砕してくれたら面白かった。
ニコライユデニッシュならエベルトと違って、ブルシーロフの浸透戦術の後詰めをしっかりやってくれるだろうし。
トルコ軍5万人死傷、15万人の捕虜でアルメニア大虐殺は停止してロシアの後押しでアルメニア独立。
ここでトルコ軍の予備兵力を大幅に削減しておけばたとえロシア軍がアルメニアから撤退してもおいそれとは再併合は
不可能となるであろう。カフカス戦線版カポレットが1年先駆けて確実に実現できる。
この戦線のロシア軍とトルコ軍の戦力差はあまりにも開きすぎているからね。
68 :
名無し三等兵:2007/09/20(木) 00:28:59 ID:F0QW0LJf
アルペン軍団は山岳戦の専門部隊であった。
フランス、オーストリア、イタリアと異なり、ドイツ軍は山岳部隊を持っていなかった。
近代戦の時代に、少数精鋭の特殊部隊の価値はないと判断したのだ。
しかし緒戦のフロンティアの戦いでフランス山岳兵の強さを知り、さらにイタリアが
連合国側に立って参戦すると、特殊戦の訓練を積んだ専門部隊の必要が実感された。
かくしてアルペン軍団が編成される。中核となったのはアルプスの登山口バイエルンの2個猟兵旅団であった。
軍団の兵力は約1万5千人で1個師団規模である。しかしこの軍団は、鉄道の未整備な地域で活動するため、
通常の歩兵師団以上の馬匹が与えられていた。
しかも軍団独自に戦闘することが目的とされていた為、機関銃、砲兵、工兵等の支援部隊が大幅に
増強されていた。彼らはベルダン戦で消耗し、バイエルン第2猟兵旅団司令部とバイエルン第3猟兵連隊を
欠いたまま東部戦線に異動した。
ここで軍団は強力な補強を受ける。ヴェルテンブルク山岳猟兵大隊である。
69 :
名無し三等兵:2007/09/20(木) 00:43:54 ID:???
もしかしてあの人が登場か?
70 :
名無し三等兵:2007/09/20(木) 20:30:37 ID:P16sl7Jm
71 :
名無し三等兵:2007/09/20(木) 21:14:20 ID:???
往年の中年オヤジの頃もイケメン将軍と言われたが
若い頃は更にイケメンだった。
が、チョビヒゲは全然似合ってなかった。
72 :
名無し三等兵:2007/09/21(金) 00:54:22 ID:3gZiQ5qX
エリート部隊だけあって、アルペン軍団出身者は後の第二次世界大戦でも活躍した。
軍団司令部には、後のスターリングラードでドイツ第6軍を指揮した
フリードリッヒ・パウルス大尉がいた。彼はベルダン戦において、最も要塞内部に
進出したポンメルン第140連隊の数少ない生き残りであった。
また、バイエルン親衛猟兵連隊には、第二次大戦終戦時に中央軍集団の司令官を
勤めることとなるフェルディナント・シェルナー中尉もいる。
アルペン軍団は山岳猟兵と言っても、主戦場は高地や渓谷を想定して訓練されていた。
しかし、ヴェルテンブルク山岳猟兵大隊は加えてスキー、ロッククライミングの訓練を
受けた、正真正銘の山岳戦闘用の特殊部隊であった。
73 :
名無し三等兵:2007/09/22(土) 10:43:20 ID:???
第二次大戦の有名で優秀な指揮官って第一次大戦でもその片鱗を見せてるよね
74 :
名無し三等兵:2007/09/22(土) 17:47:17 ID:TmoS+y6H
ルーマニア軍支援に駆けつけたロシア第12騎兵師団は、ルーマニア第2軍に配属された。
マンネルヘイムの部隊が守る1001高地を双眼鏡越しに睨む若いドイツ軍将校がいた。
彼こそが、若き日の砂漠の狐、エルヴィン・ロンメル中尉である。
勿論2人はこの邂逅を知った形跡はない。
ロンメルは1912年1月に少尉として任官し、第124歩兵連隊に入隊した。
第一次大戦では西部戦線で戦い、アルゴンヌの森の戦いで功績を上げ、第一級鉄十字勲章を授与された。
1915年10月に彼は、ヴェルテンブルク山岳猟兵大隊の第2ライフル中隊長に任命されていた。
(同大隊は、6個ライフル中隊、3個機関銃中隊、1個砲兵中隊、1個通信中隊で編成されている。)
ドイツ軍の攻撃は11月10日に始まる。
ロンメルの中隊は、ファルケンハイン軍のトランシルヴァニア平原進出に大きな貢献をした。
要衝レクスイ山は、大隊主力がロシア・ルーマニア軍守備隊を拘束している間にロンメルら
2個中隊が迂回攻撃し、陥落させた。
困難な局面で必ず部隊の先頭に立つロンメルは、兵の尊敬を集めていた。
副官テオドル・ヴェルナーは語る。
「ロンメルの作戦は敵の意表を衝くもので、直感的かつ、本能的な考えに基づくことが多く、
その狙いが不明瞭なことはほとんどなかった。」
マンネルヘイムは後退を強いられたものの、戦線の突破は許さなかった。
ロンメルは「ルーマニア軍は次第に熟練し、強敵となった。」と評している。
75 :
名無し三等兵:2007/09/22(土) 17:53:10 ID:???
>>73 大体、中隊長とか参謀なんをやってる時期だからね
76 :
名無し三等兵:2007/09/22(土) 18:53:14 ID:???
ロンメルってものすごい数学できたらしいけど
戦場での判断では論理より直感を重視してるね
77 :
名無し三等兵 :2007/09/24(月) 01:12:35 ID:esXbwmQ5
つーか、物凄く数学できる人って直感冴えてるよ。
囲碁が強いとか、ああいうのに近いんじゃないの。
右脳のキレがいいんだよ、多分。
78 :
名無し三等兵:2007/09/24(月) 02:42:18 ID:???
数学できるやつは「なんとなく」で解くもんな
79 :
名無し三等兵:2007/09/24(月) 03:41:24 ID:???
エクセルの数字いっぱいの表見ると吐く
80 :
名無し三等兵:2007/09/24(月) 16:03:15 ID:JSDb0dE9
11月23日、南から進撃するマッケンゼン軍はドナウ川を渡河した。
一方ロシア軍は3個師団からなるドブルジャ軍を編成し、救援にかけつける。
しかし、ブルガリア兵やトルコ兵も含む諸国連合部隊を見事に統率し、攻撃する
マッケンゼンの前にルーマニア軍は四散し、僅か2個師団の敗残兵が
カルパチア戦線に辿り着いた。12月7日マッケンゼンはブカレストに入城する。
マンネルヘイムは12月11日から、ロシア、ルーマニア連合軍ウランザ集団を指揮していた。
集団はロシア第12騎兵師団、スタルザ大佐のルーマニア歩兵旅団から構成され、間もなく
ルーマニア騎兵師団、さらに2.5個ルーマニア歩兵師団、4個ルーマニア騎兵連隊が指揮下に
加わり、フォクサンからシレト渓谷までの約60kmの幅の戦線を守った。
少なくとも6回の激戦が記録されている。
マンネルヘイムの親友だったアーサー偵察騎兵連隊長ボガルディン中佐は、
ここでの戦いで戦死した。
81 :
名無し三等兵:2007/09/29(土) 15:36:23 ID:cmQZ7K2o
他のロシア人と異なり、マンネルヘイムはルーマニア軍とうまくやっていた。
1917年1月キシネフのロシア司令部のパーティーで、激しい防衛戦で
障害者となったルーマニア軍将校がロシアの将軍に失態を罵倒された時、
マンネルヘイムは彼を抱きかかえて擁護した。
またウランザ集団で共に戦ったスタルザ大佐について、「勇敢で優れた戦術家」と絶賛している。
その一方で、彼は卑怯な同僚を容赦しなかった。1月2日クリモフ将軍が
「ルーマニア軍は信用できない。」と宣言して彼のコサック師団に戦線離脱を命令した。
その結果マンネルヘイムの左翼はがら空きとなり、当然ドイツ軍はその間隙を衝いた。
マンネルヘイムはなんとかドイツ軍の前進を食い止めたが、クリモフを軍規違反者として告発した。
82 :
名無し三等兵:2007/09/30(日) 21:28:20 ID:sU815OYT
同じ頃ロンメルはガジェスティの村落を巡って戦っていた。
第一次世界大戦のドイツは、交戦国で唯一将校・下士官が最前線にたって
戦闘することを禁止していた。しかし、瞬時に状況が変化する山岳戦は例外だった。
ロンメルは自ら、第2ライフル中隊と機関銃中隊を率いて夜中に戦場に到着した。
小銃の直射距離まで無事に進出できたことを知ると、ロンメルは作戦を変更し、
友軍を待たずに攻撃を開始した。彼の小数の部下は大声を上げ、駆け回った。
夜の闇の中、ルーマニア軍は大隊規模のドイツ軍の攻撃を受けたものと錯覚し、
降伏した。その数は360名、ドイツ軍の3倍の兵力であった。
山岳猟兵には一人の負傷者もいなかった。
「敵を惑わせ、牽制し、釘付けにしろ。」とロンメルは、戦闘で勝利するための方法論を
語っている。
83 :
名無し三等兵:2007/10/01(月) 12:04:37 ID:KEl3Lk0X
84 :
名無し三等兵:2007/10/03(水) 09:23:44 ID:BxlfluwM
映画の「西部戦線異状なし」でも、兵士の食事中に中隊長が来て、
「たまには前線に来るのもいいもんだな」と言ってた。
85 :
名無し三等兵:2007/10/03(水) 09:25:43 ID:???
朝鮮が半島で韓国が氷の島か
86 :
名無し三等兵:2007/10/05(金) 11:25:29 ID:???
マントイフェル・スレがdat落ちの模様。
87 :
名無し三等兵:2007/10/05(金) 22:31:00 ID:???
980越えると書き込みがないとすぐ落ちる
88 :
名無し三等兵:2007/10/06(土) 07:12:45 ID:i2X/hyvb
1917年1月7日第12騎兵師団は軍予備となり、マンネルヘイムは戦争が始まって以来
始めて後方へ下がることが出来た。
ヴェルテンブルク山岳猟兵大隊もまた冬期戦の終了と共に、補充、再編、休養のため
戦線を離れた。
ロンメルはこの戦役で、厳しい自然環境下、少数兵力で頑強に抵抗する敵を攻略するため、
諸兵科の効率的な協同、将校及び下士官の自発性、兵の変化する環境への適応性の重要さ
を学んだ。これらは後の電撃戦、砂漠での戦いで役に立った。
一方マンネルヘイムは、天然の要害を利用しながら、、効率的な防御ラインで
優勢な敵を迎え撃つことを経験した。
これがやがて、冬戦争や継続戦争で活かされることになる。
89 :
名無し三等兵:2007/10/08(月) 10:42:48 ID:???
>>88 > 一方マンネルヘイムは、天然の要害を利用しながら、、効率的な防御ラインで
> 優勢な敵を迎え撃つことを経験した。
洋の東西問わず、機動がキモの騎兵なのに数が少ないとこうなるかorz
90 :
名無し三等兵:2007/10/13(土) 19:24:58 ID:L9CW5xJ1
2月、帝政ロシアに驚天動地の大事件が発生する。
この年の冬ロシア西部は豪雪に見舞れ、交通網が遮断され、ペテログラードは食料不足に陥った。
市民の不満は高まり、26日女性達を中心とする散発的なデモが発生した。
3月8日になると、配給の列に並んでいた市民は一向に改善されない事態に不満を爆発させ、
商店のウィンドーを壊しはじめた。10日には「パンをよこせ」と怒号していた市民は、赤旗を持って
政治スローガンを叫び始め、ネフスキー大通りは群集で埋まった。
ニコライU世は、ハバロフ軍警司令官に鎮圧を命じた。
11日アニチコフ宮殿前で軍隊がデモ隊に発砲し、200人の死者がでた。しかし、兵士達は市民に
同情的であり、彼ら自身も現状にたいする強い不満をたぎらせていた。発砲を拒否する兵が続出し、
12日にはボリンスキー連隊のキルピチニコフ曹長とマルコフ伍長が出動を命じた上官を射殺した。
他の将校は逃げ出し、兵士は街に繰り出す。ニコライU世は鎮圧のため4個連隊を急派した。
しかし各連隊の兵士達は次々と反乱軍に参加し、プレオブラチェンスキー近衛連隊までもが反乱に加わった。
反乱軍は内務省、軍司令部、兵器庫等市内要所を襲撃し、10万人以上の労働者がストライキに突入した。
91 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:40:05 ID:???
>>90 ミャンマー軍事政権もこんな感じで潰せよ。あと北朝鮮も。
今こそ革命の時じゃないか。
92 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:46:04 ID:???
>>91 ミャンマーは軍が実権を握って現状に満足してるんだからこんなこと起こりっこない。
93 :
名無し三等兵:2007/10/20(土) 11:09:28 ID:7nnLBmi2
首都は無秩序状態に陥った。国会議員らは自ら臨時政府を発足させた。
その中心人物は社会革命党のケレンスキーだった。
一方でこの動乱の最中、労働者や兵士を代表するソヴィエトも誕生しており、
この二重権力が連携して政権運営がなされた。
既に反乱軍参加者はペテログラード市内の17万人の軍隊のうち6万人以上に達し、
鎮圧部隊は進撃を断念した。
一方ニコライU世は12日昼、モギリョフの軍総司令部から首都へ向かったが、
鉄道の復旧の遅れと、前線にむかう兵士の混雑のため、車両の中で
無為に過ごすことを余儀なくされた。
94 :
名無し三等兵:2007/10/21(日) 10:41:25 ID:Hzr2X+uT
14日ペテログラード南方に到着したニコライU世は、反乱軍接近中との連絡を受け、
急遽首都行きを断念し、北西軍司令部に向かった。到着は夜の8時だった。
その頃には、軍の首脳部は皇帝を見限りつつあった。
翌15日早朝、北西軍司令官ルツスキー将軍はニコライUにニコライ大公やブルシロフら
軍司令官達の退位の意見書を手渡した。
進退極まったニコライU世は退位宣言に署名し、ロマノフ王朝は304年の歴史を閉じた。
市民や兵士の間には厭戦気分が蔓延していた。
しかし臨時政府は、従来の英仏との同盟関係を尊重し、対独戦を継続した。
95 :
名無し三等兵:2007/10/26(金) 08:50:45 ID:0bqwAeuP
マンネルヘイムはこの時、休暇でペテログラードに滞在していた。
彼は皇帝のいない首都で、帝国の崩壊の生き証人となった。
彼は騒擾のさ中を脱出し、ベッサラビアの自分の部隊に辿り着いた。
96 :
名無し三等兵:2007/10/27(土) 21:16:32 ID:Yg6lSJyH
4月16日、ドイツ軍情報部はウラジーミル・レーニンを封印列車でペトログラードに送り込んだ。
レーニンは帰国するとすぐに、ソビエトによる権力奪取、臨時政府打倒、戦争終結をテーマとする
4月テーゼを発表した。共産主義勢力が次第に拡大していった。
一方5月、ロシア財務省はもしも戦争が続き、連合国が新たな借款を提供しなければ、
財政破綻は避けられないと警告した。臨時政府を主導するブルジョア資本家は、英仏からの援助と
引き換えの、軍事攻勢への強い要請を無視できなくなった。
これに、2月革命以来権威の失墜した将校達が、失地回復を狙って飛びついた。
攻勢準備のため、ロシア軍内の人事異動が始まる。
5月5日、コサック出身のコルニロフ将軍が南西方面軍司令官に任命され、部隊の再編が始まった。
18日ケレンスキーは陸軍大臣に就任した。
6月4日、ロシア軍参謀総長アレクセイエフは更迭され、ブルシロフが後任となった。
この過程の中で、6月25日、マンネルハイムは第6騎兵軍団長になった。
97 :
名無し三等兵:2007/10/27(土) 21:27:50 ID:???
ケレンスキーがニコライ二世の弟に帝位に就かないように迫り、ロマノフ王朝に自分が
幕を引き歴史に名を残したと高笑いした時期。
「帝位についてもあなたを守ることはできません、悪い事は言わないから止めてください」
ニコライ二世はその話を聞いてたいそう怒ったがもうどうにもならなかったと言う。
スターリンは後にケレンスキーを「ピエロ」のコードネームを付けて暗殺者リストに加えた。
98 :
「毎日がスペ○○○」クイズの答え:2007/10/27(土) 22:38:03 ID:0PR2uEe1
毎日がスペツナズ
99 :
名無し三等兵:2007/10/28(日) 03:03:46 ID:???
ランカー・・・じゃないのか
>>95 やっぱり自分の軍が安全だったんだろうか。
101 :
名無し三等兵:2007/10/28(日) 21:23:26 ID:opm+Kx3R
ケレンスキーとブルシロフは前線を視察した。北西軍の塹壕は兵も疎らだった。
脱走が相次ぎ、兵士達の間には厭戦気分が蔓延していた。西部軍も同様だった。
兵士は将校の命令を聞こうとしなかった。しかし、南西軍ではブルシロフの名声は、
揺るぎのないものであった。そこで彼らは南西軍で前年の勝利を再現すべく、
攻勢の目標としてレンベルクを設定した。40個歩兵師団と8個騎兵師団、1300門以上の
砲がフィンランド、シベリア、コーカサスから集められた。この砲のほとんどは、
日本とイギリスからの援助であった。アネンコフ将軍の装甲列車、ベルギー軍から
派遣された装甲車部隊、捕虜から選抜されたチェコ軍団も南西軍に編入された。
対するドイツ、オーストリア軍は1100門ほどの野砲に支援された26個歩兵師団と
1個騎兵旅団とであった。
トロツキーと並び称されるアジテーター、ケレンスキーは熱弁を振るった。
「私は諸君に自由のために進軍することを求める。喜びにではなく、死に向って。
我々革命家は死ぬ権利を持つ。自由と革命の名において、全世界の前で
名誉ある死をとげよ。」
6月30日ガリシア全域でロシア軍の猛砲撃が始まった。
102 :
名無し三等兵:2007/11/03(土) 19:07:37 ID:piUzM7N+
7月1日、ロシア軍3個軍が前進を開始した。
右翼のエーデリ将軍のロシア第11軍は、ベスマー将軍のドイツ南方軍とオーストリア第2軍の継ぎ目を攻撃した。
中央のベルコビッチ将軍の第7軍(歩兵20個師団と騎兵4個師団)がスタニスラウ・ブロディ間を進撃し、
ドイツ、オーストリア、トルコ軍混成の10個師団からなる南方軍陣地に殺到し、左翼のコルニロフ将軍の第8軍
(歩兵8個師団と騎兵4個師団)はハリツ・スタニスラウス間でオーストリア第3軍と第7軍(6個歩兵師団)に
襲い掛かった。
翌2日、ロシア第11軍第49軍団に所属するセリバンチェフ将軍のチェコ軍団は、同じチェコ人で編成された
オーストリア第19師団を攻撃した。たちまちチェコ出身兵3000名のが降伏し、オーストリア第2軍の戦線に
空白地帯が形成された。この戦線の裂け目に、第4フィンランド師団が殺到した。
ベルギー装甲車師団はコニュキで激戦を展開した。
7月5日、ロシア第8軍はスタニスラウス付近で、オーストリア第3軍の防衛線を突破し、32km前進した。
ケレンスキーは、緒戦の成果に満足して、第11軍司令部を発った。
103 :
名無し三等兵:2007/11/04(日) 22:06:32 ID:vbloiZMt
実はドイツ、オーストリア軍はブルシロフ攻勢の経験から第1線には薄く兵を配置し、
後方に第2の防御陣地を作っていた。中央同盟軍は予備陣地で頑強な抵抗を始めた。
7日、カルーズでは予備のババリア騎兵師団、予備近衛猟兵大隊、予備近衛擲弾兵大隊が
装甲列車と共に投入され、家一軒を争う市街戦が展開された。13日は激しい雨が降った。
橋は流され、道は泥沼と化し、ロシア軍の進撃は停止した。豪雨は数日間続いた。
この間ドイツ軍は西部戦線から到着した近衛第1師団、近衛第2師団、第5歩兵師団、
第6歩兵師団をロシア第11軍正面に集結させた。ロシア第11軍は撃退され、ロシア第7軍は
側面を衝かれ後退を余儀なくされた。この頃から前線兵士が進撃命令を拒みはじめた。
「本国では自由な生活が始まっているのに、何故死なねばならないのか?」という
厭戦気分が漂っていた。ケレンスキーは、ペトログラード守備隊の一部を前線に派遣する
決定をした。しかし、これに反対する機関銃第一連隊が武装デモを起こし、これに各地の
兵や労働者が参加して大規模な反戦活動に発展した。
7月19日中央同盟軍が反撃を開始し、ロシア軍は総崩れになった。
>>103 食い物の供給でも止まったんだろうか?
兵隊がこういう事考え出すのは待遇の悪化が原因であることが
多いと思うんだよな。
食い物の供給もそうだけど、攻勢に出たところで、橋も流れるような豪雨……。
全軍が屋根のあるところに収容されたわけでもないだろうし、
そんな中でテント生活になったら、やる気の失せる部隊も多々あったろうな。
しかも、豪雨があけてみれば、敵は精鋭揃いで思いっきり反撃してくる。
食い物がそれなりにあっても、これは辛いと思う。
マンネリ兵務
ケレンスキー攻勢はカフカスのオスマントルコ軍にやればよかったのに・・・・
確実に勝てた相手だから。
108 :
名無し三等兵:2007/11/06(火) 07:44:24 ID:iO10/k3s
既に200万の兵士が脱走していた。ボリシェビキのレーニンは兵士に呼びかけていた。
「我々は君達に対して、他人のために死ぬのではなく、国内の君達の階級の敵を
打倒するよう訴えるものである。」不服従、無限に続く政治集会、ボリシェヴィズム
への転向、そして集団脱走、この頃の状況をケレンスキーは回顧録に記している。
南西軍司令官のコルニロフは、3月革命時に廃止された死刑を復活して規律を強化し、
なんとか軍崩壊の危機から脱した。ケレンスキーはブルシロフを更迭し、総司令官を
コルニロフに代えた。彼は直ちに作戦を中止し、軍の温存を図った。こうして
第一次世界大戦ロシア軍の最後の攻勢、ケレンスキー攻勢は終わった。
かのウィトゲンシュタインは、前年の勇戦が認められて准士官に昇進していたが、
ここでも砲兵隊の弾着観測員としてレディツィアニ防衛戦で活躍し、ロシア軍
撃退後はプルト河に沿って前進、チェルノウィッツに進撃した。この一連の戦いで
彼は銀勲章を受賞した。
一方、マンネルヘイムの立場は、臨時政府との間でややこしいことになっていた。
109 :
名無し三等兵:2007/11/06(火) 09:20:20 ID:qUqJBRTk
毎日がぎりぎりであってますでしょうか!
110 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:07:02 ID:X4qdTnRB
臨時政府は反対派と見られる高級将校の粛清を始めていた。ブルシロフ攻勢時の第8軍司令官カレディンは
5月に更迭、第9軍を指揮してフランツァー・パルティンのオーストリア軍をカルパチアまで追い詰めた
レチツキーも7月に解任された。日露戦争でザバイカル・コサック師団を率い、第一次世界大戦では第1軍を
指揮したレンネンカンプや日露戦争時のロシア軍司令官で、第5軍司令官のクロパトキン等逮捕拘束された
将軍も多かった。臨時政府や勢力を拡大するボリシェビキと折り合いがつかず、自ら職を辞す者もいた。
黒海艦隊司令官コルチャーク提督は兵士委員会と紛争を起こし、艦隊を放り出して首都に帰ってしまった。
コーカサスで善戦していたニコライ・ユデニッシも辞任した。マンネルヘイムは中将に昇進したが、
この頃政府から彼宛に送付された手紙には「貴官はロシアの民主的な変革を全く理解していない。そして
臨時政府への態度は誤っている。」と彼を批判する文言が書かれていた。
111 :
名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:16:33 ID:EAhLyccV
111なら木内梨生奈とセックスできる。
111なら05年度の天てれの魔法少女姿の木内梨生奈とセックスできる。
111なら競泳水着姿の木内梨生奈とセックスできる。
111ならメイドさんの木内梨生奈とセックスできる。
111なら秘書スーツ姿の木内梨生奈とセックスできる。
111ならブルマー姿の木内梨生奈とセックスできる。
111ならスクール水着姿の木内梨生奈とセックスできる。
111ならバニーのコスプレをした木内梨生奈とセックスできる。
111ならハイレグレオタード姿の木内梨生奈とセックスできる。
111ならセーラ服のコスプレをした木内梨生奈とセックスできる。
111ならスチュワーデスのコスプレをした木内梨生奈とセックスできる。
111なら不知火舞のコスプレをした木内梨生奈が俺の乳首を弄りながらフェラしてくれる。
111ならセーラー戦士のコスプレを一通りした木内梨生奈がディープキスをしながら手コキしてくれる。
111なら透け透けピッチリ胸あきブラウスにタイトミニの女教師ルックの木内梨生奈が生姦&膣内射精させてくれる。
111なら木内梨生奈が結婚してしてくれて、四六時中、淫らなセックスで俺様に御奉仕してくれる。
そして俺様の遺伝子で木内梨生奈が孕んでくれる!
111ならJSFに法則発動
111なら空自の次期F-Xはライノ
※拒否や無効化,棄却、取り消しはできません。
>>110 戦時にもかかわらず有能なのも根こそぎぶった切りなのが
贅沢にして現実に適合してないこと極まりないが、
この強さをワイマルの政治家連中にも分けてやりたい。
113 :
名無し三等兵:2007/11/15(木) 01:46:27 ID:gSAqaul6
この頃ルーマニアはドイツ、ロシア双方にとって副次的な戦線に過ぎなくなっていた。
ルーマニアに国土回復の力はなく、ロシアは混乱し、ドイツ軍は油田を手に入れると、
それ以上の戦略的意義をこの地域に見出さなかった。それでも戦いは続いていた。
7月22日ルーマニア軍は、ケレンスキー攻勢に呼応して、マラシュティ地区で、
オーストリア第1軍に攻撃を開始した。参加兵力はルーマニア軍第2軍とロシア第4軍
及び第9軍の歩兵56個大隊、騎兵14個大隊、砲228門。劣勢のオーストリア軍は後退し、
ルーマニア軍の攻勢は8月3日まで続き、幅30km、深さ20kmの突出部を形成した。
この方面のドイツ軍司令官マッケンゼンは、予定していた攻勢を中止し、
ドイツ第9軍から増援を送った。
114 :
名無し三等兵:2007/11/17(土) 01:32:14 ID:QCyWDODT
ドイツ軍は8月6日、マラシェシュティで反撃を開始した。8月8日フォクサニ近くのアンゲレナで、
ババリア第8予備師団に所属する第18予備連隊の強行偵察部隊とロシア・ルーマニア軍との間に
小競り合いがあり、一人の軍曹が左の肺を貫通する重傷を負った。不屈の闘志で味方の塹壕まで
辿り着いたこの軍曹の名は、ルドルフ・ヘスという。
偶然にもヴェルテンブルグ山岳猟兵大隊は再度ルーマニア戦線に投入され、この日の夕方ロンメルは、
ヘスの所属連隊と連続した戦線を構築するためアンゲレナに到着している。彼は、788高地と呼ばれる
要衝コスナ山の攻略に取り掛かった。8月10日、ロンメルは大隊の先頭に立って突撃を開始する。
激戦の末コスナ山頂に到達したのは、翌日のことであった。しかしルーマニア軍の猛反撃により、
大隊は撃退される。この時、彼は至近距離からライフル銃による射撃を受けて、腕を負傷した。
ロンメルは病院行きを拒否して攻撃を続行し、8月下旬に再び高地を奪還する。
しかし戦局が風雲急を告げる中、マンネルヘイムに出番はなく、2人の再対決は実現しなかった。
書き手の人は何を参考にしてるんだ?
イタコの口寄せ
>>115 未訳の資料が根幹であることは間違いないと思われ。
現代日本語でこんなに詳しいのは見たことがない。
マントイフェルスレでもそうだったが大変勉強になる。
知識が追いつかなくてあまりレス付けられないのが難点だがw
多分プロの人なんじゃないかと思う。
119 :
名無し三等兵:2007/11/21(水) 00:25:30 ID:h1R3xH/w
ロンメルは1次大戦でプルメントリットをもらってるな。
>>119 ここは彼は調べたところ第71歩兵連隊に長くいたようで
接触はなかったんじゃないか?
と言うべきか、素直に読み方違うと言うべきかorz
121 :
名無し三等兵:2007/11/23(金) 14:48:46 ID:QUDgt4fn
122 :
名無し三等兵:2007/11/23(金) 23:26:10 ID:qqcZMDPN
真田昌幸とどっちが巧い?
しかし何の得にもならないのによくやってくれるものだ
>>121 > 他にも雑多な資料から、断片が得られることも多い。
これができる情報収集とフィルタリングの力は
凄いと思うわけですよ。
>>122 時代と規模が違いすぎて比較が難しい。
>>123 こっちは得ばっかりで心苦しいが
全くありがたい話だよな。
125 :
名無し三等兵:2007/11/25(日) 19:49:16 ID:TTrWHtwW
9月8日マンネルヘイムは、落馬事故により負傷し、戦線を去る。
既に50歳になっていた彼は、オデッサで療養しながら、自身の将来について
考える時間を持つことができた。
忠誠を誓ったロマノフ王朝は崩壊し、ロシアは混乱の極みにあった。
彼の負傷の少し前、8月26日に軍最高司令官のコルニロフは、クーデターを決行した。
コルニコフは、あらゆる秩序が失われていくことに我慢ならなかったのだ。
ケレンスキーはボリシェビキの力を借りてこれを鎮圧したのだが、彼らの
勢力をますます増長させる結果となった。
10月マンネルヘイムは予備役に編入される。
「もはや役に立たなくなったからだ。」と彼は後に説明している。
10月20日、7月の反戦デモの後フィンランドに逃亡していたレーニンが
ペトログラードに舞い戻ってきた。
明石大佐だ!
127 :
名無し三等兵:2007/11/25(日) 20:12:29 ID:88p80Kee
kwskの戦車戦
>>35のコピペって何なんだろう?
ぐぐったけど全く情報がない
革命の後にマンネルヘイムが酷い目にあったってことかな
HoI2ってゲームのネタ・・・?
特技に古典派っていうのがあって
経験値があまり入らない
マンネルハイムは古典派ついてたはず
ググったらガンジーじゃねえかw
私はじろじろ見られていた。
駅員は私が有色人種であることを確かめると、
「ちょっと来い。お前は貨物車の方へ移るんだ。」と怒鳴りつけた。
私は一等車の切符を持っていると抗議した。
「駄目だ。お前は客車から出て行け。」
駅員は無理やり私の腕を掴み、荷物もろとも客車から放り出した。
身に凍みるような厳しい寒さだった。
私は腰掛けたまま、震えていた。
――ガンジー語録より
おおっありがとう!
ガンジーだったんか・・・マンネルヘイムと関係ないじゃないか
>>131 お前は大晦日から正月にかけて
「映像の世紀」を見ろ。
またやるのか。
DVDに録画しよう。
クリスマスにまた!
135 :
名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:18:24 ID:qAzfuOZ5
ボリシェビキは公然と臨時政府打倒を呼びかけていた。
11月6日ケレンスキーは士官候補生部隊を動員し、彼らの機関紙印刷所を襲撃したが、
これに対してボリシェビキはレーニン、トロッキーの指揮下、一斉蜂起した。
翌7日午前10時に早くも権力の掌握が宣言され、同日午後9時には臨時政府が
立て篭もる冬宮への攻撃が始まった。8日午前2時に冬宮は占領され、閣僚達は逮捕された。
ケレンスキーは女装し、米国国旗を掲げた自動車を隠れ蓑にし、からくも脱出に成功した。
午前3時第2回全ロシア・ソヴィエト大会が開催され、ボリシェビキによる武力革命が
公的機関であるソヴィエトによって承認された。
革命政府につき物の殺戮が始まった。
10月革命?
137 :
名無し三等兵:2007/12/08(土) 18:43:01 ID:ZMXkDeUm
2月の革命が労働者を中心とする民衆の革命であったのに対して、
10月革命はいわばボルシェビキによるクーデターであった。
彼らは決して多数派ではなかったが、新政府の要職を押さえていた。
共産主義者達は、次第にその暴力的、独裁的性格を暴露し始める。
既に新聞の検閲が始まっていた。11月28日にはブルジョア政党
カデットの指導者が、反革命容疑で逮捕された。
12月には全ロシア反革命・サボタージュ対策非常委員会(後のNKVD)
が設置される。間もなく彼らは人民委員会議布告により、
銃殺の権限を含む裁判抜きの審理権限を与えられる。
既存の価値観の破壊に邁進する共産主義者達にとって、
特に海軍士官と騎兵隊将校は旧体制の象徴であった。
138 :
名無し三等兵:2007/12/09(日) 20:31:52 ID:ifXgiuyX
例えば日露戦争で騎兵軍団を率いたミシチェンコは、第一次世界大戦では
第2カフカズ軍団、次いで南西軍の第31軍団を率いていた。彼は二月革命後
軍団長を罷免され、病気を理由に退役させられた。誇り高いミシチェンコは、
その後も常に階級章と勲章を身につけて過ごしていた。ボリシェヴィキが
ミシチェンコの家に押し入り、階級章と勲章を剥ぎ取ろうとした時、彼は
拳銃の引き金を引き、自らの命を絶った。
マンネルヘイムは30年過ごしたロシア軍に別れを告げる決意を固めた。
もはや軍は組織の体をなしていなかった。
元ロシア軍参謀総長アレクセイエフは、長年皇帝に忠誠を誓ってきたコサックの
本拠地、南ロシアで反ボルシェヴィキ勢力を糾合しようとしていた。
12月になるとラーヴル・コルニロフ、アントン・デニーキンら多くの元帝政ロシア軍の
将軍達がこれに合流すべく南に向かった。
しかしマンネルヘイムは、彼らとは逆に故郷に帰るべく北へ向かった。
とうとう郷里へ帰るのか。
140 :
名無し三等兵:2007/12/15(土) 14:12:49 ID:4b6HplHc
フィンランドはロシア帝国領内でも自治権を持つ大公国であり、独自の議会、法律、
軍隊、通貨を持つ特別な存在であった。しかし19世紀末に台頭してきた熱狂的
ロシア・ナショナリズムの中、皇帝の権威を絶対視するニコライU世はフィンランドの
自治権を剥奪し、ロシア語の強制、フィンランド人の徴兵を行った。これらの弾圧政策は、
フィンランド人の独立心を刺激し、フィンランド総督ボブリコフの暗殺など激しい
抵抗運動を引き起こした。日露戦争時に日本帝国陸軍は明石元二郎大佐を派遣し、
このフィンランド独立運動を支援している。
第一次世界大戦が始まると弾圧はさらに強化されたが、ロシアで2月革命が起こると
フィンランド人は立ち上がり、有産階級諸党6人,社会民主党員6人からなる
最高行政機関、セナーッティが成立し、憲法を復活させた。10月の選挙では、
社会民主党ら左派勢力は議会における多数派獲得に失敗し、政府はロシア軍の
国外追放を決議する。11月14日首都ヘルシンキではゼネストが始まり、
青年フィンランド党のペール・スヴィンフードは有産階級による新内閣を組織した。
12月3日、マンネルヘイムはオデッサを発った。
141 :
名無し三等兵:2007/12/16(日) 01:28:47 ID:e/AybQev
俺は毎日がルントシュテット元帥の心境だわ。
142 :
名無し三等兵:2007/12/16(日) 17:15:51 ID:laPx00sh
12月6日、フィンランド議会はセナーッティが起草した独立宣言を承認し、独立を宣言した。
しかし、20世紀初頭に急速に工業化、都市化が進んだフィンランドでは、階級闘争が芽生え始めていた。
とりわけ第一次世界大戦が始まると、食糧が不足するようになり、社会不安が高まった。
独自の軍隊のないフィンランドでは治安維持機構すらなかったので、1917年春の農林経済スト以来、
伝統派及び有産階級はボランティアの武装自警団を各地で組織した。
自警団のメンバーは、青年団、スポーツクラブ及び消防団員であり、その数は1917年末には400以上、
団員数は38,000人にも上る。一方、1917年5月に結成された労働者の自警団は、年末には30,000人に
膨れ上がり、その名を赤衛軍と改めた。両者の対立が高まる中、ボルシェビキは、労働者階級が主導する
革命を支援していた。
18日、革命騒ぎのロシアを縦断して、マンネルヘイムはヘルシンキに到着した。困難な旅であった。
明けて1918年1月1日彼はロシア軍最高司令部に辞職の手紙を送る。12日、議会は軍設立を決議し、
自警団がその中核になった。しかし、新生フィンランド軍には司令官がいなかった。
そこで、スヴィンフードは隠遁していたマンネルへイムに白羽の矢を立てた。
143 :
名無し三等兵:2007/12/16(日) 23:19:13 ID:ATTcUZbi
144 :
名無し三等兵:2007/12/22(土) 10:36:25 ID:xrgDEH7c
15日にマンネルへイムが軍事委員会委員長に任命された。
新生フィンランド軍は、各地に設立された自警団が母体となっており、
白衛軍と呼ばれるようになる。
マンネルヘイムは全般的な状況を分析した。
赤衛軍の勢力はヘルシンキ、タンペレ等南部の大都市で強く、
またバルト海沿岸部にはロシア・バルチック艦隊の根拠地クロンシュタットを守る
海岸要塞があり、各地にロシア軍守備隊も配置されていた。
そこで彼は、伝統派の勢力が強く、いざとなったらスウェーデンとの連絡も容易な
ボスニア湾岸地区の小都市ヴァーサに司令部を設置することにした。
19日フィンランド第2の都市、ヴィープリで赤衛軍と白衛軍が衝突した。
早晩労働者勢力が優勢な首都ヘルシンキが、赤衛軍に制圧されるのは明らかであった。
彼は、商人マルミベルグの手引きにより、赤衛軍の監視の目を避け、
変装して白衛軍の根拠地南ポホヤンマーに移動することに成功した。
145 :
名無し三等兵:2007/12/23(日) 09:11:31 ID:RbD/Siv0
マンネルヘイムは精力的に走り回った。参謀の選任、司令部の編成、部隊訓練、物資調達等
やるべき仕事は多かった。一方赤衛軍の司令官にはアリ・アールトン中尉が就任した。
赤衛軍は南部フィンランドの都市労働者や小作農10万人を動員し、兵員は最大時で7万人であった。
ただし兵士の投票によって選ばれた赤衛軍の将校は能力も経験も不足し、
兵士は武器を持った民間人でしかなく、軍規も乱れていた。
ボリシェビキは赤衛軍へ軍事援助を行ったが、革命直後のロシアに直接介入する余裕はなかった。
当時、第106師団を中心とする8万人のロシア軍部隊がフィンランドに駐留していたが、
その大半は望郷の念に駆られ,戦意を喪失していた。実際の実働戦力は7000から1万人程度、
赤衛軍に自主的に合流したロシア兵は僅か1,000人程にすぎなかった。
147 :
名無し三等兵:2007/12/31(月) 20:18:50 ID:1WNu3Lcp
一方、最盛期の白衛軍兵力も7万人で拮抗していた。白衛軍の構成員は自作農が
最大多数で、官吏、教員、大学生を中心に、労働者の15%,小作農の10%ほどが
参加した。錬度は白衛軍も、赤衛軍同様であったが、マンネルヘイム自身、
そしてマルティン・ヘッザー、オスカー・エンケル、ヴィルホ・ネノネンら
帝政ロシア軍出身の彼の部下は、第一次大戦でドイツ軍相手に十分な経験を
持っていた。また、欧州各地から義勇兵も駆けつけてきた。
そのうちの最大のものが青白青の腕章と襟章をつけた2000人の義勇兵からなる
スウェーデン旅団であった。即戦力となるのはせいぜい5〜600人であったが、
手弁当で東ボスニアに駆けつけてきたハラード・ジャルメルソン、
エルンスト・リンダーらスウェーデン軍将校84人は有能であった。
この他白衛軍を支えたのはドイツで訓練を受けたイェーガーと呼ばれる
猟兵部隊出身者達であった。
148 :
名無し三等兵:2008/01/03(木) 12:40:12 ID:ZSijC6IT
フィンランド人猟兵部隊は、1914年12月のドイツとフィンランド独立派の秘密協定により生まれた。
この協定に基づき、ドイツ軍は第9軍団管区ハンブルグ近くのロックシュタットで、フィンランドの
若者に軍事訓練を行った。スウェーデンを経由してドイツに渡った青年の数は、1915年8月には
2,000名を超えた。多くの者は4〜6週間の訓練を経て故国へ戻ったが、実戦経験を希望する者は、
1916年5月にプロイセン第27猟兵大隊に編成された。指揮官マクシミリアン・バイヤー少佐以下
大隊は1,600名から成り、4個軽歩兵中隊に機関銃、工兵、砲兵が各1個中隊、これに騎兵、通信部隊が
付属していた。彼らは6月11日ラトビアで前線に投入された。
149 :
名無し三等兵:2008/01/05(土) 18:48:13 ID:EYyPLRnh
第一次世界大戦当時のバルト海戦線を概観してみる。マッケンゼンの攻勢の最中の
1915年5月、ドイツ軍はロシア海軍の拠点リバウを攻略した。次いでリガ攻防戦が
8月8日に始まったが、この時のドイツ軍の攻撃は失敗に終わった。1916年3月、
今度はロシア軍が攻勢に出たが、夥しい損害を出して撃退された。夏の間リガ、
バラノヴィッチ、ヴィルナで激しい戦いが繰り広げられた。1917年1月5日リガ戦線の
ロシア第12軍はバビット湖付近で再び攻勢に出た。しかし砲兵の不足と幾つかの部隊の
戦闘拒否により、攻勢は行き詰まった。22日、今度はドイツ第8軍が反撃を行い、
2月4日まで激しい戦闘が繰り広げられた。
この間、第27猟兵大隊はミサ川からリガ湾にかけて転戦した。彼らは歴戦のドイツ軍の
中でも精鋭部隊の名に値する活躍をした。大隊は、11名の戦死を含む270名を負傷、
病気により失っている。3月8日のリガの南方ミタウでのドイツ軍の攻撃も撃退され、
戦線は膠着した。間もなくロシア革命が勃発し、3月25日、彼らは補充・再編成のため
リバウに呼び戻された
>>147 >マルティン・ヘッザー
この人冬戦争で将軍やってた気がする。
Hoi2だと「マルティン・ヴェツァー」と訳されていて
ちょっと気になって調べた覚えがある。
(が、資料HPが出てこないorz)
151 :
名無し三等兵:2008/01/12(土) 22:26:45 ID:NVLMxzeu
ケレンスキー攻勢の後、ドイツ軍はまたしても攻勢に出た。ドイツ第8軍は、
リガ湾南方ボルコウィッツ付近でロシア第12軍に対し突破作戦を開始した。
司令官オスカー・フォン・フーチェルは前年のブルシロフの浸透戦術を
徹底的に研究していた。8月31日ゲオルグ・ブルクミューラー大佐の砲兵隊
575門の野砲が砲撃の火蓋を切った。日付が9月1日に変わる頃、3個師団が
突撃部隊を先頭に、ドビナ河の夜間渡河を始めた。
フーチェルの浸透戦術の前にロシア軍の防衛ラインは破壊され、初日だけで
9,000人が捕虜となり、3日遂にドイツ軍はリガを占領することに成功している。
これ以降浸透戦術は、別名フーチェル戦術と呼ばれることになる。
18日には、リガ湾制海権獲得と海上側面掩護のためアルビオン作戦が発動
された。参加兵力は陸軍第42師団、海軍は戦艦10隻、軽巡洋艦8隻他からなる
大艦隊を出動させた。10月12日、ドイツ軍はオーゼル島に上陸。17日、
戦艦カイザーとクローンプリンツ・ヴィルヘルムは、ロシア戦艦スラーヴァ、
装甲巡洋艦バヤーンと交戦した。この戦闘でスラーヴァは大破し処分された。
18日までに、オーゼル、ダゴエ、ムーン島は全てドイツ軍の手中に帰した。
この戦闘は、第一次世界大戦における唯一成功した上陸作戦である。
ドイツ軍の現地司令部はフィンランド猟兵を頼りにしていたが、帝政が
崩壊するという政治情勢の変化により、大隊はこの一連の戦闘に
参加していない。ロシアで10月革命が勃発し、フィンランドが独立すると、
フィンランド猟兵に帰国の要請が高まった。かくして先発の80名は、
1918年1月故国へ向けて出発した。
152 :
名無し三等兵:2008/01/13(日) 14:25:31 ID:lT2Eov1t
154 :
名無し三等兵:2008/01/14(月) 22:39:48 ID:GEmMM/oi
帰国した猟兵達は実戦部隊に参加することを希望した。しかしマンネルヘイムは
それを許さず、彼らを未熟な素人兵士の訓練教官に充てた。これには2つの理由があった。
マンネルヘイムは、戦争の勝利には海外、取り分けドイツの援助は必要と考えていたが、
ドイツ軍の直接介入には反対していた。彼は3年間ドイツ軍と戦ってきた。毒ガス弾を
撃ち込み、戦死者収容の休戦も認めないドイツ軍は、勝つためには手段を選ばない
戦闘マシンであり信頼できる相手ではなかった。第一次世界大戦中、東部戦線を訪れた
日本軍観戦武官にロシア軍将校が、「日露戦争では、我々は日本の侍と戦った。しかし
ここでは野蛮人と戦争をしている。」と語ったエピソードがある。
マンネルヘイムにも同じ感情があった。従って、ドイツ軍として戦った猟兵を
即時実戦に投入することは、ドイツ軍に介入の口実を与えることになりかねない、
と考えたのである。
もう1つの理由はより実務的なものであった。当時の白衛軍の練度の低さである。
マンネルヘイムは、近代戦を戦い抜くためには、兵力の多寡、武器の優劣だけではなく、
十分に機能する組織が必要であることを知っていた。彼には寄せ集めの民兵集団を
近代戦に耐えうる軍隊に再編成しなければならない、切実なニーズがあったのだ。
155 :
名無し三等兵:2008/01/19(土) 13:21:27 ID:EwnxdyCK
マンネルヘイムの戦争準備は、兵器取り扱い講習や士官学校の開設から始まった。
実は、マンネルヘイムは、スウェーデン語を話す家庭で生まれ育ち、ロシア軍に
勤務していたため、フィンランド語が堪能でなかった。そのため司令部スタッフや
上級将校は、帝政ロシア軍出身者やスウェーデン系軍人が充てられ、実戦部隊の
指揮官には猟兵出身者が配置された。1月25日内閣の中に国防部が設置された。
しかし状況の変化は、彼に十分な時間を与えてはくれなかった。敵も動いたのだ。
翌日26日に赤衛軍は革命の声明を出し、深夜赤軍兵士が革命の発生を知らせるべく
ヘルシンキ市内の塔に登り、赤いランタンを掲げた。1月27日労組執行部が、
人民委員代表会議議長にクレルボ・マンネル、中央執行部に オットー・クーシネン、
イルホ・シロラ、オスカリ・トコイらを選出し、革命政権を樹立する。それから
数日のうちにフィンランドの大都市はほぼ無抵抗のまま、赤衛軍に制圧された。
フィンランド政府は、ヘルシンキを脱出し、ボスニア湾沿岸の都市ヴァーサを
臨時首都とした。
156 :
名無し三等兵:2008/01/20(日) 20:44:12 ID:gxecEkLz
赤衛軍の社会主義者の多くはロシアの傀儡ではなくフィンランドの独立存続を望んでいたし、
プロレタリアート独裁ではなく民主的な社会主義国家の樹立を企図していた。しかし彼らの
最大の援助者はロシアのボルシェビキであり、目指すのは既存社会体制の破壊であった。
赤衛軍支配下の南フィンランドでは甚だしい混乱が生じていた。彼らは公共サービスを停止し、
土地の私有を廃し、1,600人を超える自作農、教師、牧師、地方公務員が人民の敵として
処刑されていた。マンネルヘイムの動きも迅速であった。
157 :
名無し三等兵:2008/01/26(土) 20:22:35 ID:ilpfEVsx
同日、ポホヤンマーではマンネルへイム率いる白衛軍部隊がヴァーサの
ロシア軍守備隊を武装解除する。ヴィープリ方面では自警団と赤衛軍との
戦闘がすでに始まっていた。
フィンランドの冬は厳しい。道路網は未整備であり、戦闘は寒さを避ける
家のある村落と、それを結ぶ鉄道に沿って行われた。ポホヤンマー鉄道は
赤衛軍の主要攻撃ルートであった。それは白衛軍へのドイツからの援助物資
輸送ルート上の戦略拠点、ハパーマキ鉄道分岐点とポホヤンマー港を
結んでいるからである。
こんな素晴らしいスレがあったんだな・・・
160 :
名無し三等兵:2008/01/27(日) 12:54:38 ID:nAux08BU
29日、ロシア軍が部隊を鉄道輸送するのを防ぐため、白衛軍は
ハパーマキ鉄道分岐点の7km南のコルホ鉄橋を爆破した。翌日
白衛軍民兵がハパーマキ駅を占領。2月1日ラプアから増援の
民兵部隊が到着し、白衛軍はハパーマキの南方ビルップラまで
進出した。
この日までに白衛軍は5,000人のロシア軍を武装解除し、
8,000丁のライフル、34丁の機関銃、37門の野砲を入手した。
フィンランドで戦う意義を見出せないロシア軍将兵は、
協力的ですらあった。こうしてマンネルヘイムはロシア軍の
脅威を排除し、南部との鉄道を切断し、ボスニア地域を確保した。
一方、赤衛軍はタンペレ、ヘルシンキ、ヴィープリの3都市に
司令部を設置。翌2日ロシア軍第106師団長スベチェニコフ大佐は、
タンペレの赤衛軍とロシア軍を率いてビルップラを攻撃した。
>コルホ鉄橋
Googleマップで「yla kolho finland」で検索すればその回りらしきところが出る。
この鉄橋落とすのは覿面だわ。
ちなみにハパーマキ〜ビルップラはだいたい30km位っぽい。
162 :
名無し三等兵:2008/02/01(金) 00:23:58 ID:RPKfLRlL
スベチェニコフには、白衛軍と戦う理由が二つあった。一つは白衛軍に武装解除され、
捕虜となった友軍と同じ運命に会いたくなかったからであり、もう一つは、
共産主義者としての使命感であった。
スベチェニコフがどのような経緯を経て共産主義に傾倒したかは不明である。
しかし、実はロシア軍の将校は小規模農家、小作人の出身が多かった。
ロシア軍の給料は諸外国に比べて低く、多くの貴族達にとってあまり魅力的な
職場ではなかった。その一方で、実力主義の軍隊は上昇志向のある貧しい家庭の
出身者を惹きつけたのだ。
163 :
名無し三等兵:2008/02/02(土) 17:39:44 ID:0/HlC4jP
ミハイル・スベチェニコフは500名の兵士をかき集めた。
対する白衛軍は僅か145名。正午に始まった赤衛軍の攻撃は
圧倒的な兵力差にも関わらず、夕方には失敗に終わった。
その後の数次の攻撃も、いずれも撃退された。
マンネルヘイムの思惑通り、組織と訓練の差であった。
遂にスベチェニコフは、切り札の投入を強く要請した。
ロシア軍装甲列車である。
164 :
名無し三等兵:2008/02/03(日) 21:38:15 ID:fVdmVrui
史上、初めて装甲列車が登場したのは南北戦争と言われている。
20世紀半ばまで、鉄道は大量輸送に対応しうる唯一の陸上交通手段
であった。従って鉄道路線の確保は前線の補給線の確保を意味した。
装甲列車は鉄道網の拡大と共に発展する。ロシアでは国土の広大さと
道路網の未成熟から、多数の装甲列車が運用され、第一次大戦でも
活躍している。
戦争当初から、赤衛軍はポホヤンマー鉄道にロシア軍装甲列車
ケレンスキー号とパルティザン号を配置していた。2両の装甲列車は、
平貨車、砲車、機関車、砲車、平貨車というほぼ同じ編成をしていた。
砲車には、回転砲塔付の76mm砲1門と、機関銃8丁(うち2丁は回転銃座付)
が装備されていた。
装甲列車は後にはフィンランド国内でも製作され、白衛軍の強敵となって
立ちふさがることになる。
165 :
名無し三等兵:2008/02/09(土) 11:11:20 ID:peJSYlM1
7日、スベチェニコフはロシア軍砲兵隊の増援を得て攻撃に出た。
赤衛軍の兵力は1,300人にもなっていた。対する白衛軍は僅か300名。
塹壕に立て篭もって敵を迎え撃つ白衛軍兵士達は、有利な位置から射撃を続けた。
間もなく彼らは黒煙を上げて近づく鉄の塊を発見した。ロシア軍装甲列車であった。
白衛軍に砲兵の援護はなく、装甲列車は機関銃、ライフルの銃弾を跳ね返して前進する。
列車上の回転砲塔が火を噴き、機銃座の至近に着弾する。土砂が吹き飛び、
たまらず兵士は逃げ出した。パニックに陥った白衛軍は水門を開いてあたりを水浸しにし、
線路を水没させた。
スベチェニコフは、装甲列車の活躍に一応満足し、一旦10km南のリリー駅までの後退を命じた。
166 :
名無し三等兵:2008/02/10(日) 19:59:27 ID:LxulY8ev
赤衛軍は雑多な寄せ集めであったが、スベチェニコフは勝利のために
あらゆる努力をした。彼は、ヘルシンキからバルチック艦隊所属の
アナーキストのロシア水兵400名を呼び寄せた。線路はまだ水浸しに
なっていたので、スベチェニコフは別方面からの攻撃を命じた。
しかし攻撃は統率を欠き、またも無惨な失敗に終わった。水兵部隊は
たちまち戦意を失い、ロシアに帰国してしまった。
この頃フィンランド中南部、サボ鉄道方面でも赤衛軍は攻勢に出ていた。
白衛軍の主力はボスニア地方にあり、この地域の白衛軍は極めて貧弱で
あった。一方約1,000名の赤衛軍には、数日前に到着したばかりの
ボルシェビキの最精鋭部隊、第6ラトビア狙撃兵連隊所属のラトビア人
兵士200名が加わっている。
167 :
名無し三等兵:2008/02/16(土) 12:03:22 ID:YeL+x+s3
第一次世界大戦中のドイツ軍にフィンランド猟兵がいたならば、対するロシア軍には
ラトビア狙撃兵部隊があった。ラトビア人部隊は、マッケンゼンのゴルリッツ突破に
伴うドイツ軍の攻勢がラトビアに迫る1915年8月に創設された。士気を喪失して後退を
続けるロシア軍を見て、ラトビア人達は自らの土地を守るために立ち上がったのだ。
その数は狙撃兵8個大隊と予備1個大隊。その中にルドルフ・バンゲルスキス大尉がいる。
彼は1895年に帝政ロシア軍に志願し、サンクト・ペテルブルグの士官学校を卒業後
日露戦争に従軍した。1914年、ニコラエフ参謀本部アカデミーを卒業し、第一次世界
大戦開戦以来第31軍団の参謀将校を務めた後、ラトビア狙撃兵大隊創設に参加している。
10月29日、彼の率いる第1大隊の第1中隊はミサ川のドイツ軍橋頭堡を攻撃し、4倍の
ドイツ軍を破った。
エストニア・フィンランドのような選択を行わなかったところを見ると
ラトビアってのはある程度親露傾向があったのか、それとも
ドイツも似たり寄ったりだと分かっていたのか。
しかし、師団で1000ちょいとか定数割れが凄いな。
169 :
名無し三等兵:2008/02/17(日) 16:17:03 ID:AmyIiJSu
1916年3月そして6月のブルシロフ攻勢時の2回、ロシア軍はラトビアで
攻勢に出た。2度ともラトビア狙撃兵大隊はドイツ軍陣地を突破したが、
ロシア軍司令官は追加兵力の投入を怠り、結局戦果を拡大することが
できなかった。10月、第2大隊はリガ南方30kmのダウガワ川岸の「死の島」
と呼ばれるロシア軍橋頭堡の防衛線に参加する。第3大隊は既に4月から
そこにいた。死の島は幅、奥行き共に3〜5km程度で、常時ドイツ軍砲兵の
管制下にあった。
170 :
名無し三等兵:2008/02/20(水) 22:21:37 ID:XSXxT3cD
ラトビア兵の2個大隊は他のロシア軍数個大隊と死の島の防衛を担った。
橋頭堡には常時2個大隊が配置され残りの部隊は交替で、対岸で休養をとった。
補給物資は艀で運び込まれたが、ドイツ軍の砲撃のため輸送活動も命懸けであった。
第3大隊には唯一の女性兵士リナ・カンカがいた。彼女は髪を切って男装し、
死んだ兄弟のパスポートを持って部隊に潜り込んだが、変装がばれた後も大隊長に
懇願して部隊に残っていた。
橋頭堡の日常は同じ事の繰り返しであった。砲撃、ドイツ軍の突撃、これを
撃退するとロシア軍の反撃、そしてドイツ軍の機銃掃射による退却。
171 :
名無し三等兵:2008/02/23(土) 12:24:44 ID:8alpPJhH
10月の或る日、彼女の小隊は左翼の陣地と連絡を回復するよう命令を受けた。
激しい砲撃を縫って移動した彼女達は、塹壕に折り重なる夥しい戦死者を
発見した。ドイツ軍の毒ガス攻撃であった。無知なロシア軍司令部は、
ガスマスクの配布を怠っていたのだ。やがてドイツ軍の突撃が始まった。
兵士達は塹壕の外で腹這いになって射撃し、何とかドイツ軍を撃退した。
ラトビア兵の抗議によりガスマスクが支給されるまでに多数の兵士が失われた。
しかし、それでも彼らは橋頭堡を守り抜き、ドイツ軍のリガ侵攻を防いだ。
ドイツ東部軍司令官ヒンデンブルグは、「もしも、ラトビアの8つの星
(狙撃兵大隊)の輝きがなければ、我々は1916年のイースターにはリガに
到達していたであろう。」と回想録に記している。
増税公共事業論
従来、景気対策としての公共事業は国債の発行を前提として語られることが多かった。
これは公共事業によって景気を刺激すれば景気が回復し、税収が増加するので、
税収が増加した後で国債を償還すれば良いという考え方に基づいている。
しかし近年では公共事業を増やしてもそれによって景気は回復せず、国債発行残高が
増加する一方でさらなる公共事業による景気対策が求められている。
そこで提唱したいのが、赤字国債を発行することによって景気対策の公共事業を
おこなうのではなく、公共事業をおこなっても将来的な景気回復・税収の増加はあり得ない
ことを前提にしつつ、景気や雇用の維持のために増税して公共事業の財源を確保する
ことである。
財源は法人税でも良いし、所得税でも良いし、消費税でも良い。しかし民間レベルでは
もはや需要の増加が望めない以上、公共事業によって需要を拡大する必要があるのは
明白である。また公共事業も必ずしも道路工事や土木事業に限られるわけではなく、
たとえば環境対策としての植林や森林整備事業、あるいは資源確保を目的とした
リサイクル事業、あるいは不法移民対策を目的として不法移民が多い地域の近くに
刑務所を増設するなど、日本の国民生活を向上させるインフラ確保を目的とした
数多くの事業が考えられる。
国債発行額を目の前にして、景気対策か財政均衡かを論じるのはもう古い。
これからは増税しつつ景気対策をおこない、景気の拡大と財政赤字の減少を両立させるべき
時代なのだ。
173 :
名無し三等兵:2008/02/24(日) 21:10:17 ID:Qz2cmLzx
ラトビア兵部隊は2個旅団に拡大再編成され、第6シベリア軍団に配属された。
12月23日、ロシア軍はクリスマス攻勢に出た。マシンガン・ヒルと呼ばれた
砂丘上のドイツ軍機関銃陣地が彼らの攻撃目標となった。早朝雪の降る中、
2個旅団は攻撃を開始した。奇襲効果を狙うため砲兵の援護射撃もなかった。
工兵が匍匐前進をして鉄条網を啓開すると、着剣した兵士が突進する。
ドイツ軍陣地に警報が鳴り響き、機関銃が一斉に火を噴く。ラトビア兵は
手榴弾で対抗し、最後は塹壕内での白兵戦になった。3日間の激戦の後、
マシンガン・ヒルは陥落した。ドイツ兵1000名が投降し、砲32門が獲得された。
これは第1次世界大戦中のバルト海戦線におけるロシア軍最大の勝利となった。
しかし、8000名のラトビア兵の犠牲にも関わらず、両翼のロシア兵は一歩も
前進できなかった。
1917年1月末ドイツ軍の反撃が続く中、マシンガン・ヒルはまだラトビア旅団の
手中にあった。しかし、ロシア軍はそこから一歩も進むことは出来なかった。
この時期バルト戦線には第27猟兵大隊が投入されている。ラトビア狙撃兵部隊と
フィンランド猟兵が直接戦闘した可能性は高い。
174 :
名無し三等兵:2008/03/01(土) 10:16:24 ID:I+RMAe3N
革命期ロシア軍が崩壊していく中で、ラトビア旅団は戦闘序列を維持する
数少ない部隊の一つであった。臨時政府はロシアの一体性を保とうとして、
ラトビア人自治派と対立していたが、ボルシェヴィキは世界革命による
再統一の夢と、将来の自決権を交渉材料に、ラトビア旅団の支持を
取り付けることに成功した。
1917年9月にドイツ軍の攻勢が始まると、革命の混乱で弱体化した
ロシア軍は瞬く間に蹴散らされた。ただ、ラトビア狙撃兵だけが抵抗し、
第5連隊は26時間の戦闘で将校の80%、兵の67%を失っている。
ラトビア旅団が僅かな間戦線を支えている合間に、後退するロシア軍は
道中でラトビア人の財産を略奪し尽くした。3日リガが陥落。64万人の
ロシア第12軍は降伏するか、逃亡した。
故郷から追われたラトビア兵達は、一部の例外を除き、ボルシェヴィキの
強力な軍事力となった。12月8日、第6ラトビア連隊は各派が勢力争いを
繰り広げるペトログラードでボルシェヴィキの護衛についた。
175 :
名無し三等兵:2008/03/01(土) 14:32:11 ID:djlJZXcx
スレタイで「へ」が「ヘ」であるべき件について、どうぞ。
>>174 えげつねぇ。
なんでここまでやられてロシアにつくか。
ロシアにつかざるを得なかったんだろうね・・・
ロシアにつかざるを得なかったんだろうね・・・
179 :
名無し三等兵:2008/03/02(日) 12:37:42 ID:auQmiw9j
ラトビア人部隊は、平貨車に土嚢を積んだ即席の装甲列車で鉄道上を進んだ。
白衛軍は待ち伏せ攻撃をかけたが、歴戦のラトビア兵は素早く列車から
飛び降り、散開して攻撃に移った。白衛軍はたちまち追い詰められ、8名の
捕虜を残して後退した。赤衛軍に引き渡された捕虜は、兵士に急き立てられ、
森の中へ連行された。騎馬の将校が「人民の敵を処刑しろ。」と命ずると、
銃声が響いた。ラトビア兵は俯いてその場を離れた。
捕虜虐殺はその後も続いた。ラトビア人は赤衛軍と行動を共にすることに
疑問を感じていた。満足な補給も得られていなかった。ラトビア兵の間に
継戦に疑問の声が高まり、11日に彼らはロシアに引き上げていった。
180 :
名無し三等兵:2008/03/08(土) 11:05:08 ID:YJn9pvjS
フィンランド南東部カレリア方面では、第27猟兵大隊出身の
アールネ・シフヴォ大尉が司令部からの後退命令を無視して、
ロシア軍の増援を得た圧倒的多数の赤衛軍と戦闘を続けていた。
彼はスウェーデン系将校が多数を占める白衛軍の中では、
数少ないフィンランド語のみを話す将校である。
戦闘の焦点はハンニラ駅であった。ここを失うことは、
ブオクシ川北岸を失うことを意味していた。彼の頼みは、
装甲列車カレリアの救世主号であった。それは、白衛軍
唯一の正式装甲列車であり、装甲機関車と1両の砲車から
編成されていた。車載砲は、白衛軍が1月27日にブオクシ川で
押収したロシア海軍砲艦に搭載されていた76mm山砲1門である。
181 :
名無し三等兵:2008/03/09(日) 12:20:16 ID:8kN8P0G7
13日、シフヴォはカレリアの救世主号と共に、赤衛軍拠点
カヴァントサーリ駅を攻撃した。カレリアの救世主号の
威力は期待以上であった。76mm砲の砲撃は正確であり、
赤衛軍の機関車、彼らが立てこもる駅舎を次々と吹き飛ばした。
本当の戦闘を目の当たりにすると、ロシア軍の増援部隊は
みるみる戦意を喪失した。モスクワからの義勇兵部隊と
パブロフ連隊の兵士はありったけの略奪品を列車に積み込むと
さっさと国境を越えて逃げ帰った。シベリアからの義勇兵も
18日には引き揚げていった。
マンネルヘイムはこの知らせを聞くと、即座にシフヴォを
カレリア地域の司令官に昇進させた。
>>180 > ロシア海軍砲艦に搭載されていた76mm山砲
この時点であり合わせ感漂う一品だが、
さらにこれを回収して列車に積む辺りフィンランドだよ。
183 :
名無し三等兵:2008/03/16(日) 16:23:01 ID:wr39jcoA
ほしゅ
NGワードに入れてあぼーんオヌヌメ
あ〜げあ〜げさ〜げさ〜げまーんねーるが〜
続きが読みたい まだかな
人大杉で無くなるまで無理じゃね?
ん?まさかマンネルヘイム伝(?)書き込んでる人専ブラ使ってないの・・・?
そういやage続けてる?
前にもいいスレがあったけれども
これも本当にいいスレ
進展があるかと思って一日に何度もミニ着ます
ほしゅ
見落としていたエピソード。
日露戦争直前、マンネルヘイムは騎兵学校に勤務していた。
その時の上司がアレクセイ・ブルシロフである。
赤衛軍の士気が上がらなかったのは、補給問題にも原因があった。
元々国土の大半が不毛地域であるフィンランドは慢性的に食料に
不足していたが、冬期にはそれが一層深刻なものになった。しかも
赤衛軍は大都市、工業中心地を押さえたものの、彼らの支配地域は
食料の大消費地でもあった。一方白衛軍は自作農の大半の支持を
得ており、彼らから備蓄食料の提供を受けることができた。
マンネルヘイムは、兵力不足という問題も片付けねばならなかった。
彼は、政府に対して熱心に徴兵制の許可を求めていた。
昔冬戦争て映画を見た。その冒頭にウクライナみたいな黒土の大地が映ってて、「豊かやね〜」なんて思ってたけど、実際そんなに栄養ある大地じゃないんだね。
14日、ヴァーサ内閣はベルリンまで出向き、ささやかなものではあったが、
フィンランドの持つ海外市場の利用権やフィンランド国内の基地設置権を
譲って、ドイツとの援護協定に署名した。
ドイツ帝国はバルト海防衛軍から陸軍1個師団、大海艦隊からは
フーゴ・ナウアー少将の指揮する艦隊の派遣を決定した。
17日、タイペレに赤衛軍支援のロシア軍装甲列車が到着した。汽車は
装甲板に覆われ、さらに57mm砲3門と機関銃8丁を装備した2両の装甲
貨車から構成されていた。
赤衛軍はフィンランドの重工業地域を制圧していた。この中には、2つの鉄道工場、
ヘルシンキのフレドリクスベルグ製造所とヴィープリのヴィープリ製造所が含まれている。
緒戦での装甲列車の活躍に満足した赤衛軍鉄道委員会は、この2工場に自前の
装甲列車の製作を命じていた。
当時フィンランドにあった560台の蒸気機関車のうち495台は赤衛軍が抑えていたし、
16,722両あった貨車のうち15,722両は赤衛軍支配地域にあった。
砲兵の不足する白衛軍にとって、装甲列車は相当な脅威となった。白衛軍は、十分な
防御なしに装甲列車と対峙しなければならなかった。
196 :
名無し三等兵:2008/04/13(日) 11:06:20 ID:JQu6xpe/
18日、政府は徴兵制を認め、漸く白衛軍側の大動員が始まった。
21日、赤衛軍の攻撃は始めて成功し、その先鋒はビルップラ東方
ランゲルマキに達した。「装甲列車の脅威を取り除かねばならない。」
司令部に出頭したヴィルホ・ネノネンにマンネルヘイムは言った。
ネノネンは、帝政ロシア軍の砲兵将校として1909年にミハイロフ
砲兵アカデミーを卒業した。第一次世界大戦時にはピョートル大帝
要塞の砲兵大隊長の職責を担っていた。10月革命後フィンランドに
帰国し、白衛軍に参加したネノネンは、ロシア軍から押収した砲を
用いて白衛軍砲兵隊を練成中であった。
「装甲列車の回転砲塔は一度に2方向を砲撃できません。線路を
破壊して動きを止めた上で、列車の両側から砲撃すれば始末できる
かもしれません。」マンネルヘイムは暫く考えた。「我が砲兵に
それが出来るか?」アイデアはよい。問題は技術であった。「練度は
上がっています。やってみましょう。」とネノネンは答えた。
ネノネンは87mm砲と122mm榴弾砲を各4門ずつ装備する猟兵砲兵
3個分隊を出動させた。
直射だったら簡単、なのか。
軍板はたまにこういうスレがあるから嬉しい
>>197 フィンランドだぜそんなの朝飯前だろ。
本気でそう思える今日この頃。
sageだとNGワードに入れられない、困ったな
保守
あああ
今日こそ進展あるかな?
wktk
翌日、赤衛軍増援部隊を乗せた装甲列車が再び前線に向かい、
待ち伏せた白衛軍猟兵砲兵隊と撃ち合いになった。
線路の両脇に布陣した猟兵砲兵は40数発を装甲列車に浴びせた。
装甲列車も激しく応射する。双方とも被害は軽微であったが、
直撃弾を受けた装甲列車指揮官のA・トイボネンが戦死した。
装甲列車が後退を始めると、白衛軍兵士達は歓声を上げた。
カレリア地峡でも赤衛軍は、ロシア軍水兵の増援を得て激しい攻撃を
加えていた。
トイボネンと聞いてヘンリ・トイボネン思い出してしまった。orz
カレリア地峡でもロシア軍水兵の増援を得た赤衛軍は、激しい攻撃を始めていた。
キヴィサルミでは、僅か65名の白衛軍が1,000名の赤衛軍と戦っていた。
23日、白衛軍はラウツ駅を放棄して退却し、赤衛軍はそこで進撃を停止し、防衛態勢をとった。
白衛軍司令官シフヴォ大尉は、副官のユハン・ハッグルンド中尉と前線を巡回した。
彼らは農場主、学校教師らの惨殺された姿を目にする。この地方の赤衛軍司令官カルユネンは、
その傲慢な態度と残忍な所業で知られていた。怒りを掻き立てられた民族派のシフヴォは、
この地域の数千のロシア人の財産は必要に応じ、白衛軍が接収できるとの布告を出した。
内戦は市民を巻き込み、次第に凄惨なものになっていく。
25日、プロイセン第27猟兵大隊に参加していた1,000人の猟兵がドイツから帰国してきた。
彼らはスウェーデン系貴族のヒューゴ・エステルマン指揮下、第5猟兵大隊に編成され、
白衛軍の戦闘能力向上に貢献した。彼らと共に、少なくとも7人の将校がドイツ軍を退役して、
白衛軍に参加している。
さらにスウェーデンからは、十字軍騎士を祖先に持つ伯爵エリック・フォン・ローゼンが、
私費でツーリンD型複座偵察機を購入し、自ら操縦して応援に駆けつけてきた。
ローゼン伯ついにきたw
ハカリスティ、キタ━(*゚ー゚)#・ж・)・∋・)´∀`)・ω・) ゜Д゜)・∀・) ̄ー ̄)´_ゝ`)ノД`)・゜・。━!!!!
ローゼン伯爵家はスウェーデン貴族の名門であり、エリック自身は医者、探検家としても知られ、
21歳のラップランド冒険旅行以来、南アフリカ、ナイル河等数々の探検に参加している。後には、
かのヘルマン・ゲーリングと義理の兄弟になる。フィンランドに飛来したエリックは語った。
「騎士は自ら馬を駆って、窮地にある人々を救うものだ。」
3月6日には、彼が購入したもう1機のツーリンDも到着し、この2機からフィンランド空軍が始まった。
ちなみにその時伯爵が翼に識別マークとして描いたのが、ローゼン家に伝わる幸運のシンボル、
青いスワスチカであった。この2機は白衛軍には貴重な存在であり、エリックは偵察や銃撃に
獅子奮迅の活躍を見せた。白衛軍兵士達は青いスワスチカの描かれた飛行機を見上げる度に、
その士気を高揚させたといわれている。
ここからローゼン伯爵親子の(ry
212 :
名無し三等兵:2008/04/28(月) 22:35:57 ID:zBC02tO0
タンペレでは漸く赤衛軍自前の装甲列車が完成しつつあった。
製作作業は遅れていた。この頃赤衛軍を支持する労働者の
多くは兵士として前線に送られ熟練工が不足していた。しかも、
上級技師達は赤衛軍にあまり協力的ではなかった。それでも、
4台の蒸気機関車に装甲板が装着され、貨車にも鉄板が
打ち付けれらた。ロシア海軍の海岸要塞からは各種の砲が
運び込まれ、列車に搭載された。これらは装甲列車1〜4号と
呼ばれ、乗組員が集められると順次前線に向かった。3月7日、
赤衛軍鉄道委員会は、さらに3両の装甲列車の製作に着手した。
3月10日ハパーマキに対する赤衛軍の攻撃が再開された。
スベチェニコフは既に、ヘルシンキの総司令部に移り、
北部軍は元俳優で縫製工場労働者のヒューゴ・サルメラと
ロシア軍のゲオルギー・ブラッセル中佐が指揮していた。
作戦はビルップラを側面から衝き、守備隊を拘束した後
一気に中央を突破するというものであった。赤衛軍は
15,000名を動員した。しかし攻撃は初動から躓いた。
好位置を占めた白衛軍の機関銃掃射により、赤衛軍兵士は
なぎ倒された。赤衛軍はそれでも繰り返し攻撃を仕掛けたが、
白衛軍は前衛拠点を守り通した。赤衛軍の攻勢は、戦略目標
ハパーマキを奪取できず,当初の陣地すら失い、挫折した。
マンネルヘイムは白い毛皮のマントをまとって、雪と氷に
覆われた戦場に現れた。彼はいつも戦闘の焦点にいた。
白衛軍の将兵は、彼を「白い将軍」と呼んで歓声を上げ、
敵軍は「白い悪魔」と呪った。
白い悪魔と聞いて某白い魔王を思い出した。
常に戦場の焦点に居続けられる戦略眼ってどんだけだよ
216 :
名無し三等兵:2008/05/03(土) 22:14:54 ID:0aDhA/ij
この頃、白衛軍司令部はセイナヨキに停車した列車の中に移動していた。
列車の周囲は鉄条網に囲まれ、鳥籠という冴えない綽名で呼ばれている。
「主導権を握らねばならない。」マンネルヘイムは、集まった幕僚達を
見渡した。彼は、ドイツ軍到着前に白衛軍自らの手で勝利の実績を作ら
なければならないと考えていた。
ベルグ大佐の後任の参謀長ゴスタ・セスロフ大佐が応える。「つまり
攻勢に転じる、ということですな。」マンネルヘイムは頷いた。
「我が軍の準備は?」訓練担当のポール・フォン・ゲーリッヒ少将が
答えた。「猟兵6個連隊は、何時でも戦闘に出る準備は出来ています。」
次はネノネンの番であった。「砲兵11個分隊も訓練を終えております。」
この頃ドイツの支援が本格化し、ドイツ軍が鹵獲したロシア製の野砲と
弾薬が届き始めていた。
ドイツ軍は、1個師団のフィンランドへの移送準備を進めていた。あまり
時間はなかった。マンネルヘイムはイグナチウスに作戦立案を指示した。
217 :
名無し三等兵:2008/05/04(日) 21:23:56 ID:TymQ7VV5
12日、マンネルヘイムは12,000名の兵を集結させた。
攻撃目標は、フィンランド南西部の工業都市タンペレである。
この町には赤衛軍の北部戦線司令部があり、そこが徴兵、
部隊編成、補給の拠点であった。しかも、タンペレは
フィンランドにおける労働運動の中心地であり、レーニンが
最初にスターリンに出会った場所でもあった。
しかし、先手を打ったのは赤衛軍であった。
218 :
名無し三等兵:2008/05/05(月) 20:44:54 ID:FPoqd9gm
13日、赤衛軍はビルップラ駅に弾薬輸送車が停車しているという
情報を得て、幽霊機関車作戦と名付けた蒸気機関車による体当たり
攻撃を敢行した。
赤衛軍は、出力を最大限にして安全バブルを閉鎖した3台の無人
機関車を攻撃に振り向けた。貨車には爆薬と大量の石も積み込まれた。
爆発の後、駅に突入すべく装甲列車も待機していたが、結局何も
起こらなかった。駅に弾薬輸送列車はなく、幽霊機関車は駅を通り抜け、
やがて障害物に阻止された。奇策は失敗に終わったのだ。業を煮やした
装甲列車は進撃を始めたが、白衛軍砲兵の猛射撃により後退を余儀なく
された。
219 :
名無し三等兵:2008/05/10(土) 21:29:53 ID:ePMTAqMk
15日、マンネルヘイムはタンペレ攻撃部隊を閲兵した。馬上の
マンネルヘイムは整列した猟兵大隊の兵士を満足げに眺め、
自身が名誉連隊長を勤めるウーシマー竜騎兵連隊の前で馬を
止めた。スェーデン軍騎兵出身のエルンスト・リンダー大佐が
馬を寄せて囁いた。「一人前の騎兵に仕上がっています。」
マンネルヘイムは頷いた。隊列を一巡するとマンネルヘイムは
告げた。「親愛なる兵士諸君、前進の時は来た。」
白衛軍は行軍を開始した。
220 :
名無し三等兵:2008/05/17(土) 11:16:34 ID:PNQu/jMs
白衛軍は、16日にはビルップラとタンペレの鉄道を遮断し、
赤衛軍主力を包囲しようと試みた。赤衛軍の抵抗は脆かった。
ビルップラ西方で白衛軍が突破すると、包囲網完成の前に、
赤衛軍兵士は我先に陣地から逃げ出してしまった。
18日、オリベシ駅に突入した白衛軍セイナヨキ大隊第3中隊は
軌道上を向かって来る黒煙を発見した。「装甲列車だ。」
兵士の叫びと同時に赤衛軍装甲列車が砲撃を開始した。白衛軍は
線路を破壊して列車の進行を妨害しようとしたが、装甲列車からの
銃砲撃は激しく、日没までに2個大隊の白衛軍は後退した。
一方、この日リリーでは、2時間の激戦の後白衛軍は駅を占領し、
即席装甲列車1両を捕獲した。
まずは簡単に始められる海外マネー撃退法を教えてあげよう。
日本の株式市場に流入している金の約6割が外資マネーということを知っているかな?
平均株価は外資によって維持されていると言っても過言ではない。もちろんこのような状態は
不健全であり、日本の株価は外資の思惑一つで簡単に上がったり下がったりしてしまうのが
現実なのだ。
しかし裏を返して言えば、あなたが株の売買を通じて利益をあげることができたとした場合、
その利益の6割は外資から金を奪うことによって成り立っていると言えるわけなんだ。
もしも君が株で100万円の利益をあげれば、外資から奪い取った金は60万円。
1億円の利益をあげれば、外資から奪い取った金は6000万円。
100億円の利益をあげれば、外資から奪い取った金は60億円にも達することになる。
つまり君が株式市場に参入し、利益をあげればあげるほど、外人投資家がそれに応じた
打撃を被るというわけだ。
君が利益をどんどんあげていけばいくほど、ハゲタカファンドは苦しんでいくんだ。
それがどれほど日本を守ることにつながるか、わざわざ説明するまでもないだろう。
株で勝つ方法は簡単。日経新聞や株に関する雑誌を講読すれば良い。
日頃から情報収集を怠りなくおこなえば、そして外資がすぐには入手することができない情報を
日本の地の利を生かして先に入手することができれば、外資を出し抜いて金を奪い取ることなど
造作もないのだ。
最近は株に投資するなとレスする奴がいるが、そいつは外資のスパイだ。日本の愛国者が株で
外資から金をせしめることを恐れて、外資のスパイが情報工作しているのだ、気をつけろ。
金が無いならサラ金で借りれば良い。株式トレーダーは自営業みたいなものだから、職業を聞かれたら
自営業と答えれば良い。
アコムで無理ならプロミスで借りろ、プロミスで無理なら武富士で借りろ、
武富士で無理ならアイフルで借りろ、アイフルで無理ならレイクで借りろ。
海外ファンドから日本経済を守るため、そして海外ファンドを苦しめるため、君も株に投資しよう。
222 :
名無し三等兵:2008/05/18(日) 10:03:09 ID:QZGCGgfu
19日、白衛軍の猛砲撃の前にビルップラの赤衛軍戦線は崩壊した。
赤衛軍兵士は雪崩をうってタンペレ方面へ逃走を図った。この日、
ブレストリトウスク条約に基づきロシア軍はフィンランドから
引き揚げにかかった。
東部戦線では既に前年12月15日に休戦が成立し、ロシア・ドイツ間で
和平交渉が始まっていた。しかしロシア代表レオン・トロツキーは、
講和条約なくして戦争を終了させようと長演説をふるい、交渉は決裂した。
2月17日、ドイツ軍52個師団は、休戦ラインを突破した。ロシア軍の
抵抗はなく、ドイツ軍の進撃は無人の野を進むようなものであった。
20日、ドイツ軍はミンスクに入城し、24日にはラトビア、エストニアを
占領した。レーニンはペテログラードを逃げ出し、モスクワに首都を
移転した。ドイツ軍は、1週間で300km進出した。
3月1日、再度ブレストリトウスクで交渉が再開された。トロツキーは
全てを観念し、3日講和条約条約に調印したのであった。
クソスレ立てんなヴォケ、って煽るつもりだったのに・・・くやしい(ビクビクッ
224 :
名無し三等兵:2008/05/24(土) 22:31:02 ID:ZMMdf5GM
21日、フォーセル大佐率いる2個歩兵大隊と1個砲兵大隊の白衛軍
増援部隊は、リリー駅で捕獲した即席装甲列車と共にタンペレ
東方20kmのスイヌラ駅を占領した。
ヒューゴ・サルメラは装甲列車1、3号に出動を命じた。彼は
軍隊の経験は無かったが、実戦の中で軍事的才能を発揮しつつ
あった。彼は白衛軍が急速に強大になったことを悟った。
ここで攻勢を食い止めねばならなかった。赤衛軍5個中隊による
反撃が始まった。しかし、砲兵の援護を受けた白衛軍はひるまず
戦った。装甲列車3号が数発の命中弾を受け、さらに装甲列車1号と
接触事故を起こした。2両の装甲列車は修理のため、タンペレに
引き揚げていった。
砲兵が敵を食い止めている間に、マンネルヘイムも増援を送り込んだ。
激戦が続き、この日一日だけでスイヌラ駅の主は何度も交代した。
225 :
名無し三等兵:2008/05/25(日) 13:10:18 ID:zgLPIycr
赤衛軍も諦めなかった。ミッコ・コッコ率いる即席装甲列車が、
機関銃5挺と300名の歩兵と共に赤衛軍の応援に駆けつけてきた。
彼らはスイヌラ駅を奪還し、さらに前進し、シータマ鉄橋で
白衛軍の阻止部隊と衝突した。激戦の後、コッコはスイヌラから
5kmほど西のカンガサラ駅まで後退した。
22日、赤衛軍はカンガサラで防衛線を再構築しようとしたが、
特に砲兵が不足していた。白衛軍が攻撃を開始すると、兵士達は
陣地を捨てて壊走した。
後衛を務めるコッコの装甲列車は奮戦した。装甲列車は白衛軍を
攻撃しつつ、線路脇を彷徨する落伍兵を収容した。タンペレ
東縁のメッスキラに到着した時、列車は弾痕だらけとなっており、
かなりの乗組員を失っていた。
227 :
名無し三等兵:2008/05/29(木) 06:46:30 ID:b766Ulka
駅に到着すると列車は汽笛を鳴らした。医療班が駆け付け、
負傷者が運び出されていく。コッコは拳を振り上げて叫んだ。
「同士諸君、まだ我々は戦えるぞ。」彼の言葉は動揺していた
赤衛軍の兵士に勇気を与えた。彼らはメッスキラに留まり
白衛軍を迎え撃つことを決議した。尾根に沿った道路には、
石造の教会と墓地の石壁があり、格好の防衛線となる筈であった。
教会の周囲に4門、東の森に砲2門が配置され、機関銃は
教会内に設置された。ヘルシンキから来た1個中隊がタンペレや
ペテログラードの労働者中隊と共に尾根に陣取った。
228 :
名無し三等兵:2008/05/31(土) 19:54:35 ID:4z0JCc2b
24日、帝政ロシア軍出身のカール・フレデリック・ウィルクマン大佐
率いる白衛軍ジェムサ戦闘団がタンペレ南方20kmのレンパーラ駅に
突入した。「南部との連絡が遮断されました。」サルメラは、報告を
聞くと即座に反撃を決意した。敵はタンペレを包囲しようとしている。
レンバーラの敵は何としても撃退せねばならなかった。「装甲列車は?」
彼はブラッセルに尋ねた。「2両が出撃可能だ。」ブラッセルにも事態の
重要性は理解できた。すぐに反撃部隊を乗せた装甲列車が出発した。
装甲列車の戦いカコイイ
装甲列車同士の戦いって実際に起きたんだろうか?
231 :
名無し三等兵:2008/06/01(日) 20:24:15 ID:ZRj4/XoO
25日、マルティン・ヴェッザーの率いる白衛軍7個大隊と
砲兵3個分隊は、タイペレ東縁メッスキラに達した。
赤衛軍は強烈に抵抗し、最初の攻撃はすぐに撃退された。
「撃つな。軍使を派遣する。」
白衛軍ヴァーサ大隊のレンナルト・ノルデンスワン大尉は、
赤衛軍に交渉を持ちかけた。やがて石壁の裏から一人の男が
出てきて、ノルデンスワンと握手をしながら言った。
「洒落た軍服だな。」ノルデンスワンは降伏を求めた。
労働者風のその男は首を振った。「我々は最後の血の一滴
まで戦う。」2人はもう一度握手をして別れた。
白衛軍は直ちに攻撃準備を始めた。志願兵が集められ、
手榴弾が配られた。午後4時、マルムベルグの砲兵隊7門が
攻撃の火蓋を切った。砲撃が10分間続く合間に突撃部隊
18名は尾根の西側に回りこみ、赤衛軍の拠点に手榴弾を
放り込んだ。彼らの攻撃は完全な奇襲となった。
僅か15分の戦闘で尾根は白衛軍の手中に帰した。
232 :
名無し三等兵:2008/06/07(土) 13:08:02 ID:9h7ijYm3
26日、エルンスト・リンダー率いるサタクンタ戦闘団がポリ・タンペレ鉄道を
遮断し、タンペレと海岸部との連絡を断った。白衛軍司令部は安堵の
雰囲気に包まれた。「レンパーラ駅を制圧したジェムサ戦闘団も北上して
タンペレを目指しております。」イグナチウスが告げた。タンペレの包囲は
完成しつつあった。しかし、ハラード・ジャルメルソンの部隊は、未だ
キロス湖とナシ湖の間にいた。マンネルヘイムが当初目指した野戦での
赤衛軍の包囲殲滅の機会は逸したのだ。戦闘は、マンネルヘイムも
経験したことのない市街戦の段階に移行しつつあった。「なかなか考えた
通りにならないものだな。」マンネルヘイムは呟いた。
この極めて詳細な戦史はどこから引っ張ってきておられるのでしょうか。
234 :
名無し三等兵:2008/06/08(日) 10:16:51 ID:vIej30p3
タンペレ郊外カレヴァンカンガスの墓地では激戦が続いていた。
27日の戦闘では赤衛軍装甲列車3号の指揮官J・V・メキネンが
戦死した。それでも赤衛軍装甲列車は白衛軍の前進を食い止めて
いたが、赤衛軍の戦意は衰え始めていた。赤衛軍テイスコ中隊長の
ヴェルナー・レーティマキは小隊長の一人ユーハ・アールニオを
呼んだ。「君の小隊を味方の後方に展開させろ。逃亡兵を配置に
戻すのだ。」中隊の兵士達は既に4日も何も食べていなかった。
白衛軍にとっても、戦闘は過酷なものであった。
>赤衛軍装甲列車3号
どのような車両だったのだろうか?
236 :
名無し三等兵:2008/06/08(日) 13:39:46 ID:vIej30p3
>>236 有難うございます。映像とかあるもんですねえ…。
238 :
名無し三等兵:2008/06/08(日) 13:46:25 ID:vIej30p3
240 :
名無し三等兵:2008/06/09(月) 04:19:28 ID:Zinl+uuc
中の人初めて反応あった・・・?
242 :
名無し三等兵:2008/06/09(月) 22:12:16 ID:aqDRYxmx
28日の白衛軍の攻撃は、朝9時に始まった。猟兵部隊はスウェーデン義勇旅団の
左翼を進んだ。赤衛軍は墓石を盾に、強力な防衛線を敷いていた。猟兵砲兵旅団
第1分隊のヴァルブ・ヴァイノ中尉は教会の塔に観測所を設置し、砲撃を誘導した。
赤衛軍の抵抗は激しく、将校は兵を叱咤激励しながら前進を試みた。第12猟兵大隊
第2中隊の小隊長イーバリ・アクセリ・カウラネン曹長は回想している。「我々の大隊は
43人の将校と兵が513人いた。夕方点呼を取ると、12名の将校と208名の兵士しか
残っていなかった。」この日、赤衛軍司令部もタンペレ包囲を確認した。市内の戦闘が
始まっていた。
243 :
名無し三等兵:2008/06/14(土) 17:58:12 ID:sbTrpWuG
赤衛軍指揮官達は司令部に集まってきた。「南部との連絡を
回復しなければならない。」サルメラが言うと、エイノ・ラーヤが
応えた。「私が行きましょう。」彼は1903年にボルシェヴィキに
入党した古参のメンバーであり、1917年夏レーニンがヘルシンキに
亡命した際には、彼の隠れ家を用意し、個人的なボディーガードも
勤めた熱狂的な共産主義者であった。「では突破部隊を編成しよう。」
義勇兵として留まっていたロシア軍のブラッセル中佐が兵士の集合を
命じた。
倉庫から武器弾薬が運びこまれ、司令部は騒然となった。ブラッセルは
2両の装甲列車に加え、砲兵、さらに飛行機1機の増援も手配した。
号令がかかり、兵士が整列する。木箱がこじあけられ、各人に銃弾が
配布された。この後赤衛軍を予期せぬ悲劇が襲った。
一兵卒のミスにより備蓄手榴弾が爆発したのだ。これに巻き込まれ、
赤衛軍司令官サルメラが爆死した。
244 :
名無し三等兵:2008/06/15(日) 22:21:33 ID:pdls7MJc
30日早朝、続々と兵士達が広場に集まってきた。その数はおよそ3,500名。
整列の号令がかかり、エイノ・ラーヤは即席の壇上から訓示を行った。
「同志諸君、これから南方へ突破する。ヘルシンキで1万5千の援軍を
組織して、もう一度タンペレへ戻るのだ。」
前進の号令と共に兵士達は行軍を始めた。ラーヤはこれまで専門の
軍事訓練を受けたことなどなかったが、実戦で能力を発揮していた。
南下するラーヤの部隊はレンパーラで白衛軍と衝突した。
245 :
名無し三等兵:2008/06/21(土) 19:46:38 ID:H5TdMcfl
レンパーラの封鎖線には1300名の兵士しかいなかった。
ウィルクマンは3倍近い敵に対して懸命に防戦に努めた。
マンネルヘイムの前線指揮所に、戦塵にまみれた数人の
猟兵が現れた。黙って壁に地図広げ、無造作にナイフを
突き立てて止める彼らを見て、スウェーデン人司令部員は
眉をひそめた。一人の将校が簡潔に戦況を説明した。
「レンパーラに敵の反撃です。兵力は数個大隊規模。砲兵と
装甲列車の強力な援護を受け、南へ突破しようとしています。」
マンネルヘイムは即座に状況を理解し、他の戦線から1個大隊を
引き抜いて救援に向かわせた。赤衛軍の反撃は猛烈であった。
今後仲間になりそうなEUキャラ
広報担当:ヨーゼフ・ゲッベルス
警察担当:ハインリヒ・ヒムラー
開発部門:フェルディナント・ポルシェ
医療部門:ヨーゼフ・メンゲレ
参謀部:ヘルマン・ゲーリング
ハインツ・グデーリアン
ハッソー・フォン・マントイフェル
パイロット:オットー・ショコルツェニー
エルンスト・フォン・バウアー
ミハイル・ビットマン
247 :
名無し三等兵:2008/06/22(日) 21:02:08 ID:rg+/rYvY
4月1日、ラーヤ率いる赤衛軍は、レンパーラ駅舎の間近まで
迫っていた。「第1猟兵連隊から2個大隊を差し向けるのだ。」
マンネルヘイムは命じた。
第1猟兵連隊長トルステン・エリック・ジェンストローム少佐は、
猟兵第1大隊と第2大隊にレンパーラ急行を命じた。2個大隊の
増援により、白衛軍はかろうじて戦線を維持することに成功した。
バルト海では、戦艦3隻を主力とするフーゴ・ナウアー提督率いる
ドイツ艦隊が遊弋していた。
バルト海派遣特別任務艦隊
戦艦ヴェストファーレン
戦艦ラインラント
戦艦ポーゼン
軽巡洋艦コルベルク
敷設巡洋艦ノーティラス
砲巡洋艦メーヴェ
軽巡洋艦シュトラールズンド
その他駆逐艦、水雷艇、掃海艇、敷設艦等の補助艦艇
一番古いクラスの弩級戦艦3隻と小巡2隻、敷設艦、
メーヴェってのは仮装巡洋艦らしいです。
英海軍の脅威が薄い地域とはいえ
ドイツ海軍的にはそれなりに出した方ではないかと思います。
249 :
名無し三等兵:2008/06/28(土) 13:38:01 ID:Vcq4yMKg
1916年5月のジュトランド海戦以降ドイツ外洋(大海)艦隊は、
艦隊保全主義の元、キール軍港の奥深く逼塞していた、という
記述がしばしば見られる。しかし事実はそうでもない。
1916年8月にはサンダーランド、10月にはドッガーバンクへの
出撃が記録されている。この時はイギリス艦隊と会敵しなかった
ものの、ドイツ艦隊は1917年12月にはノルウェー沖で輸送船団を
攻撃し、1918年4月には再びノルウェー沖に出撃する等の活動を
見せている。既述した通り、バルト海においては、1917年10月に
アルビオン作戦に戦艦10隻が参加している。
メーヴェって仮装巡洋艦のなかでは結構戦績残してたはずだぞ。
251 :
名無し三等兵:2008/06/29(日) 17:58:09 ID:XSrPxEnb
3月30日にダンツィヒを出航したナウアーの
艦隊と17隻の輸送船団は北東へ向かっていた。
砕氷艦サンポと掃海艇が先導し、戦艦と水雷艇
部隊がこれに続いた。5海里後方を軽巡洋艦
コルベルク以下5隻の輸送船が続き、その後方には
敷設巡洋艦ノーティラスの第2船団と砲巡洋艦
メーヴェ以下の第3船団、殿はタグボート船団
であった。彼らを支援するため第16、37、214の
3個野戦航空隊が派遣された。
3日早朝、艦隊はフィンランド南部ルッサーロ島沖に
姿を現した。
ルッサーロ島にはロシア軍の沿岸要塞があった。軍使が要塞へ向かう。
要塞司令官は即座に降伏に同意した。艦隊はそのままハンコまで進んだ。
南東から微風が吹いており、視界は良好であった。「上陸日和だな。航空
偵察を依頼しろ。」ナウアーは幕僚に命じた。ルドガー・フォン・デア・ゴルツ
伯爵の指揮するドイツ・バルト海師団が上陸を開始した。
バルト海師団戦闘序列
第12後備師団司令部
第95予備歩兵旅団
第3予備猟兵大隊
第4猟兵大隊
第14猟兵大隊
第2猟兵大隊第1自転車中隊
第2猟兵大隊第2自転車中隊
第11自転車中隊
第228猟兵機関銃分隊
第229猟兵機関銃分隊
第2近衛騎兵旅団
第2近衛長槍騎兵連隊
第3近衛長槍騎兵連隊
ザクセン竜騎兵連隊
バイエルン第2猟兵砲兵分隊
近衛野戦砲兵連隊第4中隊
第14予備戦砲兵連隊第1中隊(随伴歩兵隊を含む)
師団随伴工兵中隊
赤衛軍シンパの新聞は、飢えた漁師がハンコで騒ぎを起こしている、と報じた。
ドイツ軍前衛部隊がタミサーリの鉄橋を占領して初めて赤衛軍司令部は阻止
部隊の編成に取り掛かった。
253 :
名無し三等兵:2008/07/05(土) 20:53:55 ID:r+iwTQEe
同じ頃、タンペレの白衛軍は36門の重砲による猛砲撃を市内に加えた。
1時間半後にはバイヤー少佐を継いで、プロイセン第27猟兵大隊長と
なったドイツ人将校、エデュアルト・アウスフェルド大佐が率いる
第1猟兵旅団の進撃も始まった。
第6猟兵大隊のエリック・ガンナー・メリン大尉の第4中隊は、被服
工場と建築資材工場の間をすり抜け、市の中心部に向かった。彼の
前方にはナシンリナ宮殿があった。「我が中隊が一番乗りだ。続け。」
メリンは無謀とも思える突撃を行い、宮殿に突入した。白衛軍の
兵力が僅少であることに気付いた赤衛軍により、間もなく宮殿は
包囲された。赤衛軍は、装甲列車2号、重榴弾砲まで持ち出し、猛攻撃を
行った。メリンは夜の闇にまぎれて後退した。
この冒険により34名が戦死し、50名が負傷した。
254 :
名無し三等兵:2008/07/06(日) 21:44:56 ID:Haq0Wya0
4日、タンペレでは第1猟兵連隊第3大隊がナシンリナ
宮殿を再び占領した。赤衛軍の装甲列車の砲撃により
白衛軍はパニックに陥ったが、ついに白衛軍砲兵が
装甲機関車を吹き飛ばした。白衛軍は、あらゆる
方向から市内になだれ込んだ。家一軒、地下室から
屋根裏部屋まで総ての場所が戦場となった。
市の中心部では、市庁舎の時計台に設置された赤衛軍の
機関銃が白衛軍を釘付けにしていた。
255 :
名無し三等兵:2008/07/12(土) 21:44:42 ID:9CUC0Yr5
市庁舎の赤衛軍はあらゆる窓から銃撃を加えてきた。
白衛軍猟兵達は、手榴弾を投げながら「降伏しろ。」
と叫ぶ。一人の勇敢な猟兵が、窓辺に駆け寄り手榴弾を
放り込んだ。彼は2度成功したが、3度目に赤衛軍の
銃弾が彼を捕らえた。ムクハノフ中尉他ロシア軍将校も
斃れていた。この夜から赤衛軍兵士はタイペレから
逃亡を始めた。白衛軍は一区画毎に前進し、市庁舎の
中では、降伏を主張するグループと徹底抗戦を叫ぶ
グループが激しい討論を繰り広げていた。白衛軍による
捕獲を恐れ、装甲列車3号は爆破された。夕刻、市庁舎を
守っていた400人の婦人部隊が投降する。
256 :
名無し三等兵:2008/07/13(日) 13:04:19 ID:zVPraZCk
ヘルシンキの赤衛軍司令部は混乱に陥っていた。
彼らにはリーダーシップが欠如していた。この頃既に、
アリ・アールトネンは総司令官を更迭され、新聞社で
編集をしていたエウロ・ハーパライネンがその後を
継いでいたが、赤衛軍には革命を指導するレーニンの
ような人物もいなければ、兵士を奮い立たせるトロツキーの
役割をする者もいなかった。ヘルシンキ市外周には、
1914年にロシア軍が構築した要塞線があった。ある者は
そこでドイツ軍を迎撃すべきと言い、別の者は積極攻撃を
主張した。結局、ドイツ・バルト海師団を阻止するため、
装甲列車4号だけが出撃準備に取り掛かった。
257 :
名無し三等兵:2008/07/20(日) 22:56:41 ID:1lHcHTXN
5日前進するドイツ軍は、ラーセポリ駅付近で撤退を
支援する装甲列車4号と遭遇した。ドイツ軍先遣隊は
砲兵を呼び、装甲列車を追い払った。装甲列車4号は
その後も遅滞戦闘を続けた。
カレリア地峡のアールネ・シフヴォも攻勢に転じて
いた。彼の指揮下の第1カレリア連隊は、ラウツで
約2,200名の赤衛軍を包囲していた。この日、赤衛軍は
包囲網の突破を試みた。ロシア国境へ向かう長い隊列は、
2挺の機関銃と共に待ち伏せた白衛軍に阻止された。
850人がラウツ近郊の「死の谷」と呼ばれた場所で
命を落とし、1200人が捕虜となった。何とか逃げのびた
者は200人もいなかった。
258 :
名無し三等兵:2008/07/21(月) 23:14:43 ID:A9euVyvI
ラウツの戦いについて、マンネルヘイムは後に回想
している。「ラドガ湖の橋頭堡は最も困難な状況に
あった。エルフェングレン大尉の第1カレリア連隊は
ブオクシに通じる道路をキヴィニエミで封鎖していた。
敵は野砲と機関銃で武装し、強力であった。4月5日、
敵は完全に撃破された。第1カレリア義勇連隊の損害も
甚大なものであったが、鹵獲された野砲15門、機関銃
49挺、小銃2000丁及び多量の弾薬はこの地区の我が軍
の強化に貢献した。」
保守。
260 :
名無し三等兵:2008/07/27(日) 18:52:05 ID:EzdIg7Zy
幾つかの拠点はまだ激しい抵抗をしていたが、6日になると
タンペレ市内の赤衛軍の戦意は急激に低下していた。「戦争は
終わりだ。」兵士達は武器を置き、白旗を掲げて投降し、装甲
列車1号と2号が白衛軍の手に落ちた。こうして戦いは終わった。
赤衛軍の戦死者は2,000名にのぼり、1万1000名が捕虜となった。
白衛軍の損害も甚大であった。家一軒一軒を奪い合う市街戦に
より戦死者も900名を越えた。
血なまぐさい事件も起きた。投降したロシア軍中佐ブラッセルは、
許可もなく前線部隊の裁量で銃殺された。白衛軍猟兵達にとって
敵は共産主義だけでなく、帝政ロシアも含まれていた。過酷な
戦闘を経た彼らは、マンネルヘイムの元ロシア軍将校に対する
寛大な処置にも納得していなかった。その後数日間、白衛軍兵士
による逃亡兵狩りが続いた。
「気温が・・・℃の時、フィンランド人はどんなふうにふるまうか、そのとき他国では何が起きているか」
+40℃。日本人は汗流しながらスーツ着て仕事に行く。ド変態だろこいつら。フィンランド人は暑さでミイラになる。
+30℃。日本人はスーツ着て外をうろつく。変態じゃないの?。フィンランド人は、汗でフロ桶が満たされてしまう。
+15℃。スペイン人は毛糸の帽子をかぶり、手袋とコートを着用。フィンランド人は日光浴をする。
+10℃。フランス人は集中暖房をつけようとむなしい努力をする。フィンランド人は花壇に花を植える。
+5℃。イタリアでは車のエンジンがかからなくなる。フィンランド人はオープンカーでドライブする。
0℃。蒸留水が凍る。フィンランドのヴァンターヨキ川の水は、ほんの少し凝固する。
−5℃。カリフォルニアでは住民が凍死寸前。フィンランド人は庭で、夏の最後のソーセージをグリルする。
−10℃。イギリスでは暖房を使い始める。フィンランド人はシャツを長袖にする。
−20℃。オーストラリア人はマヨルカ島から逃げ出す。フィンランド人は夏至祭りをおしまいにする。秋の到来である。
−30℃。ギリシャ人は寒さで死亡。フィンランド人は、洗濯物を屋内に干し始める。
−40℃。パリは凍えてガチガチ音を立てる。フィンランド人は屋台に行列する。
−50℃。シロクマが北極から退避しはじめる。フィンランド軍は、本格的な冬の到来までサバイバル技術の訓練を延期する。
−60℃。コルヴァトゥントゥリが凍結。フィンランド人はビデオを借りて家の中で過ごすことにする。
(コルヴァトゥントゥリはフィンランド北部・ラップランドにある山でサンタクロースが住むとされる)
−70℃。サンタクロースが南方へ引っ越す。フィンランド人は、
コスケンコルヴァを屋外に保管しておけなくなり、いらいらする。フィンランド軍がサバイバルの訓練を開始。
(コスケンコルヴァはフィンランドの蒸留酒でアルコール度数が非常に高い。通常、飲む前にビンごと冷凍庫に入れて冷やす)
−183℃。食品の微生物が死滅。フィンランドの牛は、乳しぼりに来る人間の手が冷たいと文句を言う。
−273℃。絶対零度。あらゆる原子の運動が停止。フィンランド人は「くそっ、今日はずいぶん寒いじゃないか」と言い始める。
262 :
名無し三等兵:2008/07/31(木) 23:38:56 ID:zLEkAEoi
この頃かろうじて包囲網を突破したエイノ・ラーヤが
総司令部に姿を現した。彼はタンペレの友軍のための
増援を懇願した。しかし、赤衛軍の人的資源は枯渇して
おり、ラーヤの要請は却下された。「ヘルシンキでは
防衛に不利だ。北から白衛軍、海からドイツ軍に挟撃
されてしまう。」赤衛軍司令部のアドルフ・タイミと
エベルト・エロランタは救援どころか撤退を考えていた。
「2正面作戦は不利だ。ヴィープリまで下がれば、
ペテログラードとの連絡も容易だ。」ヘルシンキの
人民委員会はヴィープリへの撤退準備に入った。
運べる荷物は次々と木箱に詰められ、不要な書類は
焼却された。
263 :
名無し三等兵:2008/08/03(日) 22:28:38 ID:RBmtqnsS
一方、第3近衛騎兵旅団司令部、第225予備歩兵連隊を
基幹とする、オットー・フォン・ブランデンシュタイン
男爵の率いる別働隊は7日にエストニアからロビーサに
上陸した。海は未だ凍結しておりドイツ軍の上陸は
困難を極めたが、ロビーサの赤衛軍は僅か50名で
発砲することすら出来なかった。赤衛軍は貴重な反撃の
チャンスを見逃すことになった。ドイツ軍はフィンランドと
ロシア間の鉄道を遮断すべく前進を開始した。
264 :
名無し三等兵:2008/08/09(土) 18:35:52 ID:Jl2wIMkM
「諸君、我々はヴィープリの南部軍司令部と合流する。」
ヘルシンキの司令部では、新たに赤衛軍司令官に就任した
クエルボ・マンネルが集まった指導者達に告げた。既に
駅には司令部撤退用の軍用列車が待っていた。司令部の
一団は、バリケードを構築する労働者や前線に向かう兵士、
後送される負傷兵達を掻き分け、プラットフォームに向かった。
8日、前線の赤衛軍は予備をかき集め、僅かな間ドイツ軍を
食い止めることに成功した。しかし、赤衛軍の指令系統は
混乱し、一度ドイツ軍が反撃に出ると部隊は総崩れになった。
265 :
名無し三等兵:2008/08/09(土) 19:43:40 ID:EbUPWiBD
?
266 :
名無し三等兵:2008/08/09(土) 19:44:29 ID:EbUPWiBD
??
素人の悲しきだな。
基本的に塹壕戦じゃなくて機動戦だったのかな。
−70℃。になればフィンランド軍ですら活動が鈍化するから
赤軍もそこまで持ちこたえればよかったのに
269 :
名無し三等兵:2008/08/10(日) 13:52:48 ID:HfJB3Rxg
10日、マンネルヘイムは司令部をミッケリの鉄道駅近くの
セウラフォーネ・ホテルに移動させていた。タンペレ戦は
輝かしい勝利に終わった。しかし、その代償も高くついた。
「我が軍の損害は戦死900名、負傷1,200名、340名が行方
不明です。」参謀のW.ホルムベルグ大佐が報告した。少な
からぬ損害であり、幾つかの部隊は再編成が必要であった。
「砲と弾薬は十分か?」この問いには砲兵総監のネノネン
が答えた。「タンペレとラウツで多数の砲と銃を手に入れ
ました。弾薬も不足はありません。」
マンネルヘイムの目は、既に次の戦場に向けられていた。
このようなスレに出会えた事を幸運に思う、ここまで一気によんだ
この辺りのフィンランドを扱った戦記なんて日本語で読めるのここぐらいなんじゃね?
時々こういう神スレがあるから2chはやめられないよなw
>>272 しかし第一次世界大戦もマイナー。
フィンランドはさらにマイナー。
さびしいよね。
274 :
名無し三等兵:2008/08/16(土) 20:07:43 ID:gHlXxQn+
ドイツ・バルト海師団は、線路と道路に沿って進撃を
続けていた。赤衛軍は線路を破壊しながら後退したため、
ミューラー大尉の率いる工兵中隊は線路補修に忙殺された。
抵抗らしい抵抗もないまま、ドイツ軍は11日に帝政ロシア
軍が建設したヘルシンキ外縁の要塞線に到達した。
「西のレッパバーラ要塞、マッキラ要塞、それから北の
マルミ要塞地帯、カタヤノッカの海軍基地を押さえるのだ。」
ゴルツは命じた。ドイツ軍は3方から攻撃を開始した。
レッパバーラ要塞の防衛拠点29が真っ先に陥落した。
赤衛軍は、完成間近の装甲列車をフレドリクスベルグ製造所から
ヴィープリへ退避させた。
その頃、フィンランド湾では、ジュトランド海戦でも活躍した
歴戦のドイツ戦艦ラインラントが座礁事故を起こし、戦列を
離れている。
275 :
名無し三等兵:2008/08/17(日) 19:36:49 ID:/nJOF1iF
12日、ブランデンシュタインは初めて組織的な
抵抗にあった。赤衛軍300名がエスキロムの森で
待ち伏せていたのだ。数時間の激しい白兵戦の後、
ようやくドイツ軍は赤衛軍を撃退した。この日
ヘルシンキと北方の連絡が断たれ、市内の攻防戦が
始まった。ドイツ軍の攻勢は、早朝フオパラーティ
への攻撃から始まった。鉄道土手に待機していた
歩兵が機関銃の支援の元に前進を始める。赤衛軍は
1914年に建設されたイルマラ要塞線に後退して、
抵抗を試みた。1500名の兵士が配置についた。
しかし、兵力に不足する赤衛軍は昼には撤退を始め、
午後には装甲列車の製造拠点フレドリクスベルグ
工場がドイツ軍の手に落ちた。戦いは市街戦の
フェイズに移行した。
276 :
名無し三等兵:2008/08/19(火) 16:28:04 ID:7UWDHH5o
フィンランドは、ソ連の圧力に対して、血を流してでも抵抗を続け、
けっして最終的な屈服はせず、自国の独立を守り通した。
故に、ソ連の政治的圧力の影響を受けながら国家を運営しても、
格好いい。フィンランドが、冬戦争のような頑強な抵抗を行わなかったならば、
バルト三国のようにソ連に併合されたであろう。
故に、小国フィンランドは偉大である。
韓国は、フィンランドに対するソ連のような圧倒的な存在でさえない日本の圧力に安易に屈服し、
戦いもせず、おめおめと軍の武装解除を行い、結果的に戦争もせずに女々しく併合された。
韓国は正面から日本の政策に抵抗することもせず、ハーグ密使事件のような姑息な手段を弄するだけで、
何もしなかった。
バカにされて当然である。
フィンランドの気高さ、崇高さに比べて、大韓帝国のなんと卑屈なことか。
韓国は独立さえも自力でできなかった、能なしの記念日8月15日は明日である。
>>276 まぁ韓国は韓国で事情があるんだよ。
数千年の昔からあっちから圧力こっちから圧力とな。
このスレにも夏が来たか。
この程度の夏季攻勢は大したことないな
280 :
名無し三等兵:2008/08/21(木) 12:00:29 ID:9RpBf6T/
まぁ韓国はそーかもしれんが別スレにいけ。大人になってほしいね。
しかし、神は盆休みなんだろうか。
281 :
名無し三等兵:2008/08/21(木) 20:41:50 ID:DE/0+yzS
ヘルシンキ郊外ティックリラ駅で赤衛軍は、
装甲列車と共にドイツ軍を待ち構えていた。
しかし、実戦経験も錬度もあまりに差が
あった。赤衛軍が100名の戦死者と50名の
捕虜を出したのに対して、ドイツ軍は僅かに
2名を失っただけであった。午後ドイツ軍は
市内に潜んでいた白衛軍民兵と連絡に成功した。
残る赤衛軍の主要拠点は、スウェーデン劇場、
国立劇場、スモルナ(政府ビル)、鉄道駅、
上院ビルであった。
ゴルツは、海軍に支援砲撃を依頼した。
「ヴェストファーレンとポーセンが支援砲撃を
実施する。」ナウアー提督が応えた。
282 :
名無し三等兵:2008/08/22(金) 23:31:37 ID:B/WGoRg3
13日、戦艦ヴェストファーレンとポーセンが
ヘルシンキの赤衛軍拠点へ艦砲射撃を浴びせた。
両艦と座礁したラインラントは同型艦であり、
ドイツ海軍初の弩級戦艦であった。3隻はいずれも
ドイツ外洋艦隊の第1戦隊に所属し、1916年の
ジュトランド沖海戦を戦っている。
ヴェストファーレン、ポーセン(ナッソウ級)
竣工: 1907年
排水量: 18,570t(基準)、21,000t(常備)
全長: 137.7m
全幅: 26.9m
最大速力:20ノット(公試時)
乗組員: 1000名
兵装: 28.3cm(45口径)連装砲12門
15cm(45口径)単装砲12門
8.8cm(45口径)単装砲16門
7.6cm(40口径)単装砲6門
45cm水中魚雷発射管3基
戦艦2隻の28.3cm砲弾が次々と赤軍陣地で炸裂した。
ここに至り、エドワルド・ヨハンソン率いる
赤衛軍の大半は降伏した。その数は8000名にのぼる。
散発的な戦闘はその後も続いたが、ヘルシンキ戦は、
上層部が早々に撤退し、赤衛軍の戦意が衰えたため、
犠牲が比較的少なかった。赤衛軍の戦死者は300名、
ドイツ軍は54名、白衛軍民兵が17名である。
ミッケリでは、マンネルヘイムが全般的な軍事情勢を分析していた。
タンペレとラウツは白衛軍の手中に帰し、ヘルシンキも解放された。
タンペレが包囲された時、レンパーラ南方にいた赤衛軍西部軍は
まだそこに留まっていた。その中にはかなり多数の砲兵隊も含まれ、
ロシア軍装甲列車パルチザンの支援も受けていた。しかし彼等の
戦意は衰えていた。
マンネルヘイムの関心は、赤衛軍首脳が移動したヴィープリに
向けられた。赤衛軍南部軍の兵力は約1万5千。主力はヴィーブリに、
残りはヴィープリ・ペテログラード・鉄道沿いに配置されていた。
「カレリアで攻勢に出る。決着を付けよう。」。マンネルヘイムは断じた。
タンペレ攻略により兵力に余裕が出来た。猟兵3個旅団、北ハメ連隊、
猟兵砲兵大隊、第2重砲分隊、2個通信隊がカレリア地峡方面へ移動し、
エルンスト・ロフストローム少将を司令官とする兵力18,400名の東部軍が
編成された。
東部軍戦闘序列
シフヴォ戦闘団
カレリア第2連隊
北ハメ連隊(第2大隊、第3大隊)
カレリア第3連隊
カレリア砲兵隊
ウィルクマン戦闘団
第1猟兵連隊
第3猟兵連隊
第4猟兵連隊
第6猟兵連隊
猟兵砲兵連隊
カレリア騎兵連隊
アウスフェルド戦闘団
カレリア第1連隊
第3カレリア大隊
第4カレリア大隊
第2猟兵連隊
第5猟兵連隊
第4猟兵連隊(第8大隊)
カレリア騎兵連隊(第1中隊)
第2猟兵砲兵連隊(第3中隊、第4中隊)
軍直轄
ヴァーサ連隊
北サヴォ連隊
野戦通信隊
航空隊
ゆっくり良スレ進行
286 :
名無し三等兵:2008/08/31(日) 19:59:23 ID:ohiX+r6I
東部軍司令部に、指揮官達が集まっていた。「作戦の目標は2つ。
テリヨキまで進撃し、ヴィープリ・ペトログラード鉄道を遮断すること、
もう1つはヴィープリ北西の赤衛軍を撃破し、市を占領することだ。」
ロフストロームの次に、参謀長のフォン・アドラーフラグ大佐が敵情を
説明した。「ラースリからレンボロヴォにかけての国境地帯に1万名
以上のロシア軍が集結している。赤衛軍の主力はヴィープリ北方の
アーボラからジョウセノに展開しており、ヴィープリ・ペテログラード
鉄道の北側の敵はカマロとムオラー周辺に防衛線を用意している。」
「ロシア軍の介入は避けねばならない。攻勢に先立って国境地帯を
制圧せよ。」マンネルヘイム自らアウスフェルドに命令を与えた。
一方、赤衛軍側はクエルボ・マンネルが総指揮を執り、ロシア軍の
スベチェニコフ大佐がアドバイサーとなっていた。エイノ・ラーヤは
ペテログラードに赴き、武器弾薬の調達に奔走していた。
19日、白衛軍はカレリア地峡での攻勢を開始した。
287 :
名無し三等兵:2008/09/04(木) 22:05:03 ID:zdIo14Op
まず、アウスフェルド戦闘団が動いた。
アウスフェルドは、カール・レンナルト・オシュ大尉に
第8猟兵大隊と民兵1個大隊を率いてラウツからラースリに
向かうことを命じた。そこには2,000名のロシア兵がいる筈で
あった。キヴェンナーパへ向かったエドワルド・クムリン大尉の
2個大隊は、カウクサモの赤衛軍を攻撃し、エドワルド・ハネル
大尉の第4猟兵大隊はタルッピラを占領し、砲2門と機関銃4挺を
捕獲した。
288 :
名無し三等兵:2008/09/06(土) 22:24:45 ID:inztjtmd
ブランデンシュタインも鉄道と道路の分岐点がある交通の
要衝、ラーティ市に向かって進撃を続けていたが、赤衛軍
装甲列車の執拗な抵抗に直面した。ラーティは赤衛軍の
中でも精鋭と言われたラーティ連隊が守っていた。連隊長
ネストール・リンナネンは、ドイツ軍の接近を知ると、
16歳から55歳の総ての男性市民を徴兵する命令を布告した。
19日早朝、フォン・ルック中佐の第225予備歩兵連隊主力が
西から、デュリエル騎兵大尉の第3大隊とウィラモウィッツ
大尉の第5自転車大隊が南から市内になだれ込んだ。
赤衛軍は無線塔等数箇所の拠点に集結しようとしたが、
ドイツ軍は猛烈な砲撃を浴びせる。この日のうちに
ラーティ占領は完了した。
ドイツってなんでこんなに強いんだ
まともな食い物がジャガイモとビールと腸詰だけだから。
291 :
名無し三等兵:2008/09/07(日) 18:50:55 ID:9ElRpxE/
マンネルヘイムは、ミッケリからブランデンシュタインに
電話をかけた。「おめでとう、ブランデンシュタイン大佐。
寡兵でよく戦ってくれた。感謝している。」東方へ進撃する
ドイツ・バルト海師団と南下する白衛軍に圧迫された
タンペレとヘルシンキの間のおよそ2万5千人の赤衛軍が、
ラーティに接近しつつあった。マンネルヘイムは尋ねた。
「大佐、必要なものがあれば言って欲しい。」
ブランデンシュタインは答えた。「閣下、ご配慮に感謝
します。しかしながら、私の部隊で赤衛軍を迎え撃つ
準備は出来ています。」
この時のブランデンシュタインは、未だ後の苦しい戦いを
知らない。
292 :
名無し三等兵:2008/09/11(木) 21:20:41 ID:ROfVKlWU
南下するエストニア系フィンランド人のハンス・カルム大尉の
北ハメ連隊第1大隊は、待機命令を無視して前進を続けていた。
20日、彼らは道路上に武装兵士の集団を発見した。彼らは
統率がとれ、行動も機敏であった。斥候に出した兵士が報告した。
「ドイツ軍です。」双方の兵士が握手を交わした。ドイツ軍と
白衛軍が連絡に成功した瞬間であった。カルムは、この功により
少佐に昇進した。
293 :
名無し三等兵:2008/09/13(土) 19:42:15 ID:V0bQUqT5
カレリアでは、アウスフェルドの主力が
キヴェンナーパを攻撃した。赤衛軍陣地には
ロシア軍部隊もいたが、彼らは交戦を避け
退却した。アウスフェルドはこの裂け目を
見逃さなかった。白衛軍は防衛線を突破し、
夕方には敵後方に進出した。100名以上の
赤衛軍兵士が斃れていた。電話連絡網が
各所で寸断されたため、赤衛軍部隊は、
相互に連絡を取ることが不可能になっていた。
21日朝、白衛軍はキヴェンナーパを制圧した。
4門の砲と大量の弾薬が押収された。赤衛軍は、
ヴィープリ・ペトログラード鉄道まで敗走した。
赤衛軍は、ボルシェヴィキにロシア軍出動を
懇願したが、回答は得られなかった。
アウスフェルドは、部隊をキヴェンナーパに
集結させた。彼は攻撃部隊を4つに分け、
ウーシキヴェンナーパイヴォラ、テリヨキ、
クオッカラの4駅を一気呵成に攻略することとした。
294 :
名無し三等兵:2008/09/14(日) 20:59:49 ID:Str/CU6k
リーヒマキを攻撃していたドイツ・バルト海師団の
ゴルツ伯爵は、偵察機からの報告により、大規模な
赤衛軍部隊がラーティ方面へ移動するのを確認した。
赤衛軍は命令に反し、家族と家財道具を伴って移動を
続けていた。彼らは軍隊というより難民に近かったが、
その数は2万5千名以上、2両の装甲列車に護衛された
20の機関車が牽引する数百の貨車で移動していた。
「敵は手負いの野獣だ。侮ると危険だ。」ゴルツは
兵力に劣るブランデンシュタインに支援部隊を急派した。
ブランデンシュタインは将校を集めた。
「敵は謂わば袋の中の鼠だ。一人も逃がすな。」
援軍の到着はぎりぎり間に合う。
「赤衛軍です。」観測哨の兵士が有線電話に駆け寄った。
22日、ドイツ軍前哨部隊は、黒煙を上げて接近する
装甲列車を発見した。
295 :
名無し三等兵:2008/09/15(月) 22:34:24 ID:yR6XW8d2
「今我々がいるこの場所が焦点だ。」ブランデンシュタインは
鉄道駅に主力を集めた。装甲列車の砲撃が始まり、ドイツ軍
砲兵も応戦を開始した。赤衛軍の波状攻撃は終日続いた。
「奴ら何度でも来るぞ。」ドイツ兵は戦慄した。
午後、ブランデンシュタインは市南方に上がる黒煙に気付いた。
「まずいな。突破されたぞ。」彼は阻止部隊の編成を命じた。
しかし、赤衛軍は手薄な市の南部に攻撃を集中せず、鉄道駅の
攻略にこだわった。このため、彼らは遂にドイツ軍の防衛線を
突破できなかった。
「戦闘停止、各小隊長は点呼して中隊本部に損害を報告せよ。」
夕刻、伝令がドイツ軍陣地を駆け回った。長い1日が終わった。
赤衛軍主力は西方へ後退し、僅か2,000名が市の南部を突破して、
東方へ脱出した。
保守
297 :
名無し三等兵:2008/09/19(金) 22:10:34 ID:R/fcmYzO
23日アウスフェルド戦闘団はヴィープリ・ペトログラード鉄道に到達し、
幾つかの駅で激しい攻防戦が繰り広げられた。特にライヴォラ駅では、
赤衛軍は付近の森林に潜み、文字通り最後の一兵まで、頑強に抵抗した。
ライナー・スタヘル少佐率いる2個大隊の白衛軍は12時間の戦闘の末、
ようやく駅を占領した。赤衛軍は150名が戦死し、残った者のほとんどは
負傷していた。スタヘルは元プロイセン第27猟兵大隊第3中隊長であり、
アウスフェルドと共にドイツ軍を除隊しフィンランド軍に参加していた。
彼はこの後数奇な運命を辿る。
フィンランド人でも〜ネンばっかりじゃないんだな
299 :
名無し三等兵:2008/09/20(土) 18:20:49 ID:YXlsTQ3G
1933年フィンランド軍を退役したスタヘルはドイツに戻り、
新たに設立されたドイツ空軍の一員となる。フランス、
イタリア、ロシアを転戦した彼はワルシャワ防衛司令官となり、
1944年8月1日、ワルシャワ蜂起に遭遇する。彼は戦闘初日に
司令部で包囲され、オスカー・ディルレワンガー少将の
SS部隊に救助されるまで篭城を続けた。その後スタヘルは
ブカレストへ転任し、ルーマニアの親独政権崩壊と共に拘束され、
その後の人生をソ連の収容所で過ごすこととなるのである。
>>298 ケケ・ロズベルグ
マーカス・グロンホルム
ミカ・サロ
ヤリ=マティ・ラトバラ
コスティ・カタヤマキ
ハリ・ロバンペラ
見事なまでにラリードライバーとF1ドライバーばかり。
彼らのドラテクは変態の域に達してるからなw
ドリフトしながら両手離してホカ弁食うような奴らだからな
実際カートの世界チャンプスオミ人は両手はなした状態で体重移動だけでコースを走れる
サミ・ヒューピア
ミカエル・フォルッセル
テーム・セラニ
サク・コイヴ
サッカー選手とホッケー選手も混ぜてくれ
306 :
名無し三等兵:2008/09/21(日) 19:05:14 ID:sP2DhIz0
2両の装甲列車と共にロシア国境のクオッカラ駅を守っていた
赤衛軍のカルユネンは、第2猟兵連隊の攻撃を受け、テリヨキ
まで撤退した。エルフェングレン大尉のカレリア第1連隊が
テリヨキを攻撃したが、砲兵を欠く彼らは激しい赤衛軍の
砲火に射すくめられた。
第6猟兵大隊からも緊急連絡が入った。「国境からロシア軍の
攻撃です。」アウスフェルドの司令部に緊張が走った。しかし、
この攻撃は、タンペレの英雄、メリン大尉の第4中隊が撃退した。
ウィルクマン戦闘団も前進を始める。先鋒の第2猟兵大隊は、
カマラ駅付近で赤衛軍装甲列車ケレンスキーと交戦した。
遮蔽物のない平野では装甲列車は手強い相手であった。
白衛軍の進撃は暫くの間、食い止められた。
307 :
名無し三等兵:2008/09/23(火) 20:16:58 ID:uib/qsC7
白衛軍は態勢を立て直し、夜の闇に紛れて前進していた。
テリヨキ駅に赤衛軍兵士が駆け込んだ。「敵の位置は?」
カルユネンは部下に尋ねた。「ここから1.5km先です。」
機関銃の掃射音が聞こえた。カレリア第1連隊第3大隊が
駅に迫っていた。既に残りの拠点との連絡は途絶している。
「退却だ。ロシアへ向かう。」カルユネンは500名の兵士と
共に白衛軍を突破しながらロシア国境へ向かった。24日、
早朝5時半カルユネンはロシア国境を越えた。
アウスフェルドは40kmの鉄道路線を制圧し、作戦目的を達成した。
カマラ駅もこの日白衛軍の手に落ちた。
保守
309 :
名無し三等兵:2008/09/28(日) 18:21:59 ID:AvmSkM+w
ヴィープリには赤衛軍7,000名が集結していた。
タンペレの戦いが示すように市街戦における
赤衛軍兵士は恐ろしい抵抗を見せるはずであった。
実際赤衛軍野戦部隊の戦意は衰えてはいなかった。
シフヴォ戦闘団はヴィープリ北方アントレアで
足止めされ、東から回りこんだウィルクマン
戦闘団の先鋒、第16猟兵大隊も市郊外で僅か1両の
装甲列車に阻止されていた。
しかし、ヴィープリの赤衛軍指導者達は恐慌状態に
陥っていた。彼らは戦意を失い、統一した指揮系統を
再編することさえ出来なかった。
310 :
名無し三等兵:2008/10/02(木) 21:16:15 ID:Jmbumt31
「革命の理想をここで失うわけにはいかない。」
クエルボ・マンネルは、赤衛軍指導者達に告げた。
港にはペトログラードのボルシェヴィキが用意した
逃亡用の船3隻が待機していた。「ヘルシンキを捨て、
ここでもまた逃げ出すというのか?」財務委員の
エドワード・ジリングが反論した。前線から戻った
装甲列車の汽笛が聞こえた。負傷者を下ろし、
補給を済ませると彼らはまた前線に向かうのだ。
「兵士や市民を見捨てるというのか?」
マンネルは答えなかった。
これって毎日がギリギリとか崖っぷちって意味だよね?
>>311 1939年のカレリアにおいてはそうかもしれないなぁ、うん。
313 :
名無し三等兵:2008/10/04(土) 21:59:16 ID:9cDEMXKu
その頃、プロシア第27猟兵大隊第4中隊長だった
ドイツ人将校ウルリッヒ・フォン・コラー大佐
率いる第2猟兵旅団の5個大隊が市の東部の防衛線に
到達していた。赤衛軍司令部と革命政府の要人の
多くは、25日にロシア船で逃亡した。しかし、
ヴィクター・リパッティ、オスカリ・ランターラ
以下の兵士達に救いはなかった。赤衛軍指導者では、
ジリングと、赤衛軍の総司令官を更迭されたエウロ・
ハーパライネンの2人だけが、踏みとどまった。
27日、白衛軍東部軍はヴィープリを包囲した。
314 :
名無し三等兵:2008/10/05(日) 22:14:56 ID:5Yb2Slqj
ライト兄弟が有人飛行に成功して僅か15年のうちに、
航空機の軍事利用は進んでいた。ドイツ帝国では
1910年にドイツ帝国軍航空隊が発足し、第1次大戦でも
偵察と弾着観測に活躍した。この日、フィンランド
戦線で航空偵察に出動したドイツ軍機は、地上からの
激しい対空射撃に晒された。「飛行時間、午後1時20分
から3時45分。飛行ルート、ロビーサ、ラーティ、
コウボラ、コツタ、ロビーサ。ラーティ駅付近で納屋
2軒の炎上を見る。コウボラ駅に貨車500両、一部は
貨物積載。コツタ駅には貨車50両。道路上の交通は
ほとんど認められず。」観測員として航空偵察に
参加した第16野戦航空隊のレス・ハーネル少尉は
バルト海師団本部にこの日の偵察結果を報告している。
冬戦争はまだ遥かに遠い。
指導部に見捨てられた赤衛軍の規律は乱れていた。
この混乱に最中に、政治犯を護送中の1隊の赤衛軍
兵士がヴィープリ城に到着した。「責任者はどこだ。」
答える者は誰もいなかった。彼らは指揮官を失い、
することもなくたむろしていた兵士達と酒を飲み始めた。
「俺達は包囲されたみたいだぞ。」その頃には首脳部の
逃走も伝わってきた。兵士達は荒れ始め、遂には30名の
虜囚が腹いせに殺害された。
28日、ジリングは休戦交渉を試みた。
その日の夕刻、負傷兵や避難民を掻き分けながら、
疲れきったジリングは司令部に戻ってきた。赤衛軍
将校が彼を取り囲む。「交渉はまとまらなかった。
明日にも総攻撃が始まる。」ジリングは首を横に
振りながら言った。指揮官達の間に沈黙が流れた。
兵士は小さい声で囁きあったり、武器の手入れを
したりしている。誰の顔も疲労の色が濃かった。
「捕虜になるのは真っ平です。脱出しましょう。」
一人が言った。たちまち賛成の意見が続いた。
「よし、皆を集めよう。」ヴィクター・リパッティが
立ち上がった。
赤衛軍残余は包囲網突破に賭けた。
その夜白衛軍は猛砲撃と共に攻撃を開始した。
「コトカの友軍と合流出来ないか?」ジリングが地図を睨んだ。
近くで砲弾が炸裂し、ランタンの火が揺れた。
「西のティエンハーラへ出ましょう。ハミナへの道路があります。」
リバッティが地図をなぞった。別の将校は市の南部パッピラ岬へ
向かうルートを主張した。「各自、最善と思う道を選択することに
しよう。また皆で会おう。」ジリングが言うと会議は終わった。
脱出の第1派、赤衛軍と彼らの支持者達7,000名は、西方へ
脱出しようとした。城塞橋を渡った彼らは市の境界、
ナウラサッリの交差点で待ち構えていた白衛軍に阻まれた。
320 :
名無し三等兵:2008/10/16(木) 22:16:02 ID:xTVglEYy
警戒中の白衛軍猟兵は直ちに射撃を開始し、
ナウラサッリの交差点は屠殺場と化した。
機関銃が人々を薙ぎ倒し、脱出に成功したのは
100名もいなかった。約6,000名は突破を
あきらめた。「撃つな。降伏する!」即席の
白旗が振られた。両手を挙げて生存者達は
街路に出てきた。
脱出の第2派には約1,500名が参加した。
彼らも十字砲火に行く手を阻まれ、翌朝
降伏を選んだ。
321 :
名無し三等兵:2008/10/19(日) 09:53:49 ID:Zv6ee8Bh
リパッティは捕虜となった。ランターラの消息は
不明である。南方グループは第17猟兵大隊の虚を
突き、封鎖線を突破した。1000名の赤衛軍が、
数時間狭い回廊を保持し、約2000名が市街を
脱出した。最もその多くはすぐに白衛軍の検問で
捕捉された。ジリングとエウロ・ハーパライネン
だけは奇跡的に逃げ延び、スウェーデンに亡命した。
29日ヴィープリは陥落し、白衛軍の勝利は決定的な
ものとなった。
ほしゅ
323 :
名無し三等兵:2008/10/25(土) 17:41:20 ID:Z8v1PTUZ
ヴィープリ解放の知らせがミッケリの
司令部に伝わるのと時を同じくして、
ブランデンシュタイン旅団からは
ラーティ北西方のホッロラ村制圧の
報告が届いた。「赤衛軍は死に体だ。」
幕僚達の間で歓声が上がった。
「フィンランドは自らの力で解放戦争に
勝利し、独立を成し遂げるのだ。その
ことをフィンランド国民、そして世界に
知らしめねばならない。」
マンネルヘイムの頭の中に一つの構想が
形を成しつつあった。
324 :
名無し三等兵:2008/10/26(日) 11:25:46 ID:JtiZIKML
5月1日、分断された赤衛軍は次々と降伏を始めた。
ラーティ西方では赤衛軍西部軍3万名が、20両の
機関車、350両の貨車と共に降伏し、30台の車両と
50門の野砲、200挺の機関銃が捕獲された。この時
装甲列車4号を含む装甲列車2両も降伏している。
ヘルシンキ戦争博物館と砲兵博物館に、なぜか2門の
日本製31年式速射山砲、別名有坂砲が展示されている。
第一次世界大戦中日本は、ロシアに対して、多くの
軍事物資を売却しており、その中にこの31年式山砲も
含まれていた。ボルシェヴィキは赤衛軍に対して
約50門ほどの31年式山砲を送っている。内戦の過程で
この山砲はさらに、白衛軍の手に渡ったのだ。
325 :
名無し三等兵:2008/10/30(木) 00:17:08 ID:2rkrIFo1
赤衛軍の初代司令官アリ・アールトネンも
捕虜の中に発見され、ハンス・カルムの
部隊によって逮捕された。ヘルシンキと
ヴィープリの間の海岸部では、リンダーの
部隊が3日コウボラを占領し、放棄されていた
装甲列車を捕獲した。ごく僅かな赤衛軍が
無益とも思える戦いを続けていた。コトカでは
婦人部隊が絶望的な抵抗を試みた。しかし、
5日までにこの方面の赤衛軍9000名も降伏した。
赤衛軍の残余約5,000人はロシアへ逃亡した。
14日、最後の拠点イノ海岸要塞からロシア軍も
撤退した。
婦人部隊・・・悲惨だな。
327 :
名無し三等兵:2008/11/01(土) 19:35:37 ID:Zo5kCpGs
双方に約35,000人の死者を出し、内戦は終わった。
白衛軍の報復は苛烈であった。赤衛軍捕虜とその
支持者達は強制収容所に送り込まれた。待遇は
お世辞にも良い物ではなく、多くの者が命を失った。
正式な裁判を経ない報復的な処刑も横行した。
アリ・アールトネンもその犠牲者の一人である。
戦闘終了時以降の処刑者の数は8,300人に達する。
マンネルヘイムが直接報復に関与した記録はない。
しかし、彼は責任を担う立場にいたことは間違い
なかった。マンネルヘイムは流血の男爵と呼ばれた。
328 :
名無し三等兵:2008/11/02(日) 11:04:04 ID:eF9OZcLA
白衛軍は5月16日にヘルシンキで祝勝パレードを行った。
1万2000名の兵士が5個軍楽隊を先頭にヘルシンキ市内を
行進した。マンネルヘイムら司令部要員は騎乗し、
ヴェッザー、ジャルメルソン、リンダーらの指揮する
歩兵部隊を先導した。その後には砲兵隊、ウーシマー
騎兵連隊が続いた。パレードはヘルシンキ市民の歓声の
中を進む。部隊は広場で市長に迎えられた。
「古い時代の紳士達、ロシアのために奉仕した人達が
去る時が来た。」
カレリアで白衛軍を指揮したアールネ・シフヴォは
興奮しながら記者団に語った。
329 :
名無し三等兵:2008/11/03(月) 23:03:50 ID:20HmAzn/
マンネルヘイムはニコラス教会で歴戦の猟兵大隊、
カレリア連隊、ヴァーサ、ラプアの自警団の栄誉を
称えた。「目的は達せられた。ラップランドの
ツンドラから岩に覆われたオーランンド諸島まで、
我が祖国は自らの手で、自由を勝ち取ったのだ。
今こそ心に刻もう。強い国民だけが安心できる
未来を築くことができるのだ。」
その後マンネルヘイムは、ルーネベルグ像の近くで
さらに続くパレードを観閲した。
この日のセレモニーは、発案したマンネルヘイムに
とっても十分満足のいくものであり、彼にとっても
最良の日となった。
330 :
名無し三等兵:2008/11/04(火) 21:11:31 ID:zP4dVRvm
パレード上げ
職人さんってブログ書いてますか?
それっぽいのを見つけてしまったもので、気になった
ブログあるなら俺も見てみたいな
333 :
名無し三等兵:2008/11/08(土) 13:08:47 ID:xXuf9h6r
復興への動きも始まっていた。議会はスヴィンヒューヴドを
臨時政府の長として任命した。国家建設について政府は
ドイツを頼みとした。ドイツの影響は日増しに強くなっていた。
ゴルツはヘルシンキの旧赤衛軍司令部スモルナ(政府ビル)に
司令部を置き、総督の如く振舞った。重要な要件があると、
スピンヒューブトや議会議長パーシキヴィもしばしば
ドイツ軍司令部に呼び出された。ドイツの力を国家建設のために
利用しようとする政府の姿勢は、マンネルヘイムを苛立たせた
「上院はドイツの力を過信している。」彼は不満だった。
ドイツはマンネルヘイムが進める東カレリア侵攻にも反対していた。
ドイツ利用しようぜ!→ドイツ敗戦、どーするべのあたりは興味あるぜ
335 :
名無し三等兵:2008/11/09(日) 11:23:43 ID:aZkgYg8+
その頃ドイツ軍は西部戦線で、乾坤一擲の
カイザー攻勢を展開していた。ドイツ軍は
一時は、パリを長距離砲の射程距離に捉えたが、
すぐに戦線は押し戻され、戦況は膠着状態に
陥っていた。「間もなくアメリカ軍が
ヨーロッパに到着する。ドイツの勝利は
望めないであろう。」連合国に知己の多い
マンネルヘイムは憂鬱だった。
5月30日、マンネルヘイムは上院から内戦後の
フィンランド軍設計についての会議に呼ばれた。
336 :
名無し三等兵:2008/11/12(水) 21:14:50 ID:N4l288gB
上院議員フレイが説明するプランは、
マンネルヘイムを驚愕させた。政府は
軍制をドイツ式とすることとし、
フィンランド軍司令部にドイツ軍将校が
常駐し、重要な命令文書にはドイツ将校の
署名を必要とするというのだ。
あのパレードから2週間しか立っていない。
「政府はそこまで自分達を信じられないのか。」
マンネルヘイムは政府に辞職の手紙を送り、
慌しく故国を旅立った。
軍人にしてはやたら視野の広い人だよなぁ。
338 :
名無し三等兵:2008/11/13(木) 06:53:18 ID:QZJUKT4m
貴族で近衛騎兵将校ですから、社交には慣れているのでしょう。
画家崩れのチョビヒゲや強盗上がりのたわし髭のオヤジ達とはえらい違いだ・・・
>>338 他の国の該当するタイプの国外と付き合いがありそうな人物でも
こう言う人は希有だと思うけどなぁ。
特に独とか見てるとw
341 :
名無し三等兵:2008/11/15(土) 20:08:51 ID:DmhFk+d9
フィンランド議会では、共和制か君主制かの議論が
続いていた。議論を主導したのはスウェーデン系
フィンランド人の王制派であった。
スヴィンヒューヴドは摂政となり、パーシキヴィが
首相に就任した。一方、共和派はストールベルイを
中心に野党を形成した。
積極的な東方進出も続いた。シフヴォは、
第3師団長となり、東カレリア遠征隊を指揮している。
マンネルヘイムは、夏をストックホルムで過ごした。
>マンネルヘイムは、夏をストックホルムで過ごした。
何か和んだw
343 :
名無し三等兵:2008/11/16(日) 21:03:27 ID:52I/DrPs
7月下旬にマンネルヘイムは、忠誠を誓った
前ロシア皇帝ニコライ二世の殺害の報に接した。
ロシアでは、内戦が激化していた。5月14日の
チェコ軍団の反乱以来、各地で旧帝政時代の
軍人や反ボルシェヴィキの政治家らが武装
決起していた。彼らは白軍とよばれた。
欧米列強は干渉軍を派遣し、内戦を助長していた。
その頃西部戦線では連合軍が最終攻勢に出ていた。
ドイツ軍は破れ、ヘルマン線とヒンデンブルク線
と呼ぶ防衛陣地で辛うじて連合軍の進撃を阻んでいた。
345 :
名無し三等兵:2008/11/19(水) 22:46:53 ID:Hyne5O5N
9月になるとブルガリアが連合国と単独講和し、
ドイツ軍首脳部も政府も休戦に傾きつつあった。
ところが、フィンランドは10月9日、新国王に
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟である
フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン=カッセルを
フィンランド国王に選出した。マンネルヘイムは、
祖国の行く末が案じられてならなかった。
ボルシェヴィキの力は次第に強大になりつつあった。
その頃、漸くフィンランド政府はマンネルヘイムに
接触をしてきた。
346 :
名無し三等兵:2008/11/22(土) 22:52:41 ID:8HlPb6U0
「連合国との話し合いが必要です。
食糧も買い付けなければならない。」
フィンランド外務省のカール・エンケルは、
ストックホルムのマンネルヘイムを訪ね、
英仏両国との接触を依頼した。
今になって自分を利用しようとする政府の
対応は腹立たしかったが、春期に内戦下にあった
フィンランドの食糧事情は切迫していた。
10月27日、マンネルヘイムはロンドン・パリ行きを
承諾する手紙を上院議員のステンルーツに送った。
その中でマンネルヘイムは、あくまでも私人として
行動することを強調し、もしも現実的かつ前向きな
決定がある場合には、政府代表となる用意がある旨
書き加えた。
終生共産主義への険悪で生きてたそうだ
ソ連をボコボコにしたのは凄いよ
まさに北欧の英雄だな
希望の星
>>346 本当に今更感があるよなあ。散々ドイツべったりだったのに…
だが結局引き受けてしまうあたりが苦労人マンネルヘイムなんだろうw
351 :
名無し三等兵:2008/11/23(日) 23:45:37 ID:hfr+O3DB
11月4日、キール軍港で水兵の反乱が起こると、あれほど
強大だったドイツ帝国は脆くも崩壊した。9日にはド
イツ帝国皇帝ヴィルヘルムU世が退位する。
12日、ロンドンに到着したマンネルヘイムは、新聞の
見出しに休戦の文字を見た。前日、パリ郊外
コンピエーニュの森の食堂車2419Dの車内で、ドイツは
連合軍との休戦協定に署名し、第一次世界大戦は
終わったのだ。
戦勝に湧くロンドンで、マンネルヘイムは英国外務省を
訪ね、ロバート・セシル卿とチャールズ・ハーディング卿と
会談した。
352 :
名無し三等兵:2008/11/24(月) 21:48:22 ID:sUklQfJo
フィンランドの立場は複雑であった。英仏は
ロシアに干渉し、ボルシェヴィキと戦う白軍を
支持していた。はそのボルシェヴィキと
フィンランドは敵対していたが、一方で英仏の
敵であるドイツの強い支援を受けていた。
マンネルヘイムはまず、英国にフィンランド独立の
承認を打診した。2人はマンネルヘイムに語った。
「フィンランド現政権は、両国の建設的な関係を
作る上で障害となるでしょう。」
さらにマンネルヘイムは、ロンドンのロシア白軍
代表が活発に活動し、彼らは、フィンランドは
ロシアの一部である、と主張していることを知った。
ロシアの旧体制復興を期待するハーディング卿は、
その見解を支持していた。
超ソ連嫌いのマンネルへイム万歳
「冬戦争」でソ連をフルボッコにした偉大なる英雄
マンネルへイム万歳!
「冬戦争」のフィンランドの活躍は日本に希望を与えてくれたな
なにせマンネルへイム様は大の共産ソ連大嫌いだからな
ソ連との講和を政府に進言したのはマンネルヘイムだが……。
共産主義大嫌いだと認めたくないバカがいるな
ソ連厨とみたwwwwww
鬼畜ロスケによく奮闘した!
日本はフィンランドに感謝すべき
たった32人で4000人のロスケをぬっ殺した
フィンランドは最強すぎるな
ソ連大嫌いで大の親日家だったマンネルヘイム元帥
鬼畜ロスケ相手によく奮闘した。 この強さは日本も見習うべきだ
内戦でソ連支援の赤軍を撃破したマンネルヘイム
偉大なるマンネルヘイム
急に人増えたがν速あたりにリンク貼られたかな
>364
アラシが一匹紛れ込んだだけだ
他のスレにも出没してるから相手すんなよ。
何日何週間でも粘着するから。
フィンランド軍スレにも現れたんでまさかと思ったんだがこっちにもきてたのか
せっかくの良スレなんだから荒らすのだけは止めて欲しい・・・
368 :
名無し三等兵:2008/11/29(土) 20:37:05 ID:AINu9P2S
24日、ロンドンに居ても埒が明かないと判断した
マンネルヘイムは、パリに向かった。有力同盟国
ロシアを失ったフランスには東方の友好国が必要
であろうとマンネルヘイムは睨んでいた。彼は、
フランスに政府にフィンランドとの友好関係を
築くことのメリットを説き続けた。
その頃、北欧は風雲急を告げていた。バルト海
沿岸では、慌しくドイツ軍の撤退作業が始まって
いた。ボルシェヴィキはこれを好機と考えた。
18日、レーニンはブレスト・リトウスク条約の
破棄を宣言し、ドイツ軍占領地域への進軍を赤軍に
命じだのだ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
マンネルへイム様は偉大すぎる
NGIDを使えたらいいのに。
とりあえず、翻訳職人さんがやる気を失くさないでくれるよう応援sage。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
379 :
名無し三等兵:2008/11/30(日) 21:55:32 ID:PAl3nTz3
11月22日、赤軍第7軍はエストニア北部ナルヴァを
攻撃した。南部では赤軍第2ノブゴロド師団7,000名が
侵攻してきた。独自の軍など無きに等しいエストニアは、
軍司令官にヨハン・ライドネル大佐を任命し、総動員を
開始すると共に友好諸国に救援を求めた。
ライドネルはエストニアのマンネルヘイムと呼ぶべき
人物であった。彼は帝政ロシア軍人として第3コーカサス
軍団参謀、第21師団及び第62師団参謀長を勤め、第1次
世界大戦をガリシアで戦い、1917年12月にエストニア
師団長となった。革命の激化と共に彼はロシア軍を退役し、
故郷エストニアに舞い戻ったのだ。
ライドネルは600名の将校と11000名の志願兵を集めた。
乙です!
粛々といきましょう
384 :
名無し三等兵:2008/12/03(水) 21:51:23 ID:oyd0yaWs
ライドネルは帝政ロシア軍人として
第3コーカサス軍団参謀、第21師団及び
第62師団参謀長を勤め、ガリシアで
第1次世界大戦を戦い、1917年12月に
エストニア師団長となった。
革命の激化と共に彼はロシア軍を退役し、
故郷エストニアに舞い戻り、独立運動に
参加したのだ。
ライドネルは、600名の将校と11000名の
志願兵を集めた。
385 :
名無し三等兵:2008/12/06(土) 18:15:23 ID:b2bmMy09
25日、エストニアから支援を求められたフィンランド政府は、
物資、資金の提供を決定し、12月5日に5000丁のライフルと
20門の野砲が弾薬と共に届けられた。元々フィンランド
エストニアは民族的起源を同一としており、両国民の連帯
意識は強かったのだ。
一方、連合軍は、赤軍の進出を阻むためドイツ軍に残留を
依頼していた。同じ5日、ラトビアでドイツ第8軍の残兵と
本国からの義勇兵により、鋼鉄師団という義勇部隊が編成され、
バルト海師団を率いたルドガー・フォン・デア・ゴルツが
その指揮を執った。
wktk
連合軍とドイツ軍にとって赤軍は共通の敵だったということか
まことに欧州情勢は複雑怪奇だ
388 :
名無し三等兵:2008/12/07(日) 20:18:28 ID:6Zh5nbhN
その頃マンネルヘイムはロンドンに戻り、英国政府と交渉を
再開していた。フランス政府はフィンランドが王制を廃止
すること、ドイツ軍を撤退させること、速やかに総選挙を
実施することを条件に、マンネルヘイムを支持することを
約束していた。
12日、スヴィンヒューヴドは辞任し、マンネルへイムが
摂政となり、14日にはフリードリヒ・カールが即位を辞退し、
フィンランドは共和制に移行することになった。独立承認を
巡る外交交渉は続いていたが、少なくとも食糧は確保できる
見通しがついていた。マンネルヘイムは帰国の途についた。
23日、マンネルヘイムはヘルシンキに到着した。駅前広場から
大通りまで歓迎の市民が溢れ返っていた。「僅か7ヶ月前、
送る者もないまま私は旅立ったのだ。」マンネルヘイムは
感無量であった。
あれ?目にゴミが入ったかな
涙が
こうして見て行くと、まさしく一生をフィンランドに捧げたんだな。
「一生を国に捧げた人」というのは言っては何だがそう少ないわけじゃない。
マンネルヘイムが偉大なのは、長期にわたってその責任を全うしたところにあると思う。
国家レベルで「失敗しない」ということは恐ろしく難しいこと。
392 :
名無し三等兵:2008/12/10(水) 23:04:51 ID:UipstwO/
エストニアでは、赤軍の侵攻が続いていた。
残留していたドイツ軍は、交戦を避け後退したため、
赤軍は瞬く間にタリンまで30kmの地点まで進出した。
連合軍がバルト海沿岸に展開しうる有力な部隊がない
ことを見て取ったマンネルヘイムはエストニアに義勇
部隊を派遣することを決意した。
旧知のマルティン・ヴェッザーが呼ばれた。
「2個連隊を編成してエストニアを助けて欲しい。」
彼はフィンランド湾南岸に友好国が位置することの
安全保障上の意義とフィンランド戦闘部隊の存在が、
欧米列強の独立承認に与える影響を語った。
「期待に沿うべく最善を尽くします。」ヴェッザーは
敬礼をすると、軍司令部に向かった。
394 :
名無し三等兵:2008/12/13(土) 18:34:53 ID:4LodwEbX
1919年1月2日、マルティン・エクストローム少佐が率いる
1500名のフィンランド自由軍団が砲20門と共に、砕氷船で
凍ったフィンランド湾を渡ってきた。
スウェーデン生まれのエクストロームはスウェーデン軍の
軍曹であったが、1912年にペルシャ政府の依頼で同国軍に
参加し、第1次世界大戦ではかの地で戦いドイツ軍中尉の
階級も持っている。フィンランド内戦ではヴァーサ連隊を
指揮して、タンペレ、ヴィープリで戦った。
最初に到着した2個中隊はすぐに前線に向かった。さらに
12日、エストニア系フィンランド将校ハンス・カルム中佐と
義勇連隊「北の兄弟」が到着し、フィンランド義勇兵は
4000名になった。
395 :
名無し三等兵:2008/12/14(日) 18:40:52 ID:NpA1kDMF
増援を得たエストニア軍は反撃を開始した。
17日、エストニア第1師団とフィンランド
自由軍団はナルヴァを奪回する。
一方、ヴェッザーが指揮を執った南部戦線では、
指揮下のユリウス・クペルヤノフ中尉率いる
タルツ・パルティザン大隊が、アントン・イルブ
大尉の指揮する装甲列車と共にタルツを解放した。
元教師のクペルヤノフは、帝政ロシア軍兵士として
第1次世界大戦に出征したが、故国エストニアが
独立すると志願兵を集めてタルツ・パルティザン
大隊を結成した。大隊はエリート部隊として、
独立運用されていた。
元兵士が大隊長か
エストニアも中々格好良いな。
どういった国であれ、独立戦争は燃える。
鬼畜共産ソ連の痛い目にあわせたマンネルヘイムは偉大すぎる!
鬼畜共産ソ連を痛い目にあわせたマンネルヘイムは偉大すぎる!
マンエンルヘイムはソ連大嫌いで大の親日家でもあるしな
日露戦争での日本の勝利を見て親日家になったらしい
フィンランドは常にロシアに虐められ続けてましたから
フィンランド人のロシアへの憎悪は日本より強いだろう
隣国がロスケだと大変だな
日本も領土をロスケに盗まれたままだしな
「我々はスウェーデン人ではないがロシア人だけにはなりたくない、我々はフィンランド人でなければならない」
byマンネルヘイム
「我々はスウェーデン人ではないがロシア人だけにはなりたくない、我々はフィンランド人でなければならない」
byマンネルヘイム
そりゃロスケなんぞと一緒にされたくないってw
「キラー・ヒルの戦闘」は神話みたいで凄いよなw
4000人ものソ連兵がたった32人のフィンランド兵にフルボッコにされるんだからw
赤軍兵士雑魚すぎ
マンネルヘイムは愛国者であり続けたな
鬼畜ロスケを505人ぬっ殺したシモ・ヘイへ様も偉大
冬戦争でソビエトとの講和を進言したのもマンネルヘイムなら、
継続戦争で和平交渉に臨んでソビエトと休戦したのもマンネルヘイムなのに、
この荒らしはなんで歴史を無視するんだろう。
>>413 歴史に対して、いやそれどころかマンネルヘイム元帥や
フィンランドという国にも全く興味がないからに決まってる。
「我々はスウェーデン人ではないがロシア人だけにはなりたくない、我々はフィンランド人でなけらばならない」
byマンネルヘイム
「我々はスウェーデン人ではないがロシア人だけにはなりたくない、我々はフィンランド人でなければならない」
byマンネルヘイム
418 :
↑:2008/12/18(木) 15:35:16 ID:???
そりゃロスケなんぞと一緒にされたくないって
≫ 416、417
これだよこれ、これがマンネルヘイム様の本音なんだよ
売国ソ連厨には受け入れがたい事実だろうなww
売国ソ連厨は何で日本にいるの?
日本から出てけばいいのに・・・・・
マンネルヘイム元帥はソ連共産主義が大嫌いだったからな
日露戦争で日本の勝利に感激して大の親日家だし
まあ、売国左翼ソ連厨には受け入れがたいだろうねw
何せフィンランド内戦でもソ連支援の赤軍と戦ったぐらいだからな
しかし「キラ−ヒルの戦闘」の凄いな
たった32人で4000人の鬼畜ロスケをぬっ殺したんだから
フィンランド最強すぎる
「冬戦争」でのフィンランドの奇跡は日本に希望を与えてくれた
日本とフィンランドは糞詐欺師ロスケの隣国という共通点がある
>>414-415 マンネルヘイムは「現実的」という高級将校に一番必要な能力を持ってる人だったからなあ。
それに引き換え現実感のない日本の将校……。田母神を見るに今もまだ伝統として続いてるみたいだな。
いい加減通報してもいいか?この頭の悪い荒らし。
!偉大なるマンネルヘイム!
内戦で共産ソ連と戦ったフィンランドの英雄!
!偉大なるマンネルヘイム!
内戦で共産ソ連の支援を受けた赤軍と戦ったフィンランドの英雄!
フィンランドの極左共産化を阻止した英雄だな
やはり日本も見習わないといかん
偉いぞマンネルヘイム
大の親日家だしね
親日家で反共のマンネルヘイム
日本にとっても英雄だな
436 :
名無し三等兵:2008/12/18(木) 22:41:24 ID:sFeMgaCM
「次の焦点はここだな。」司令部のライドネルは
地図上の一点、交通の要衝ヴァルガ市を指差した。
「タルツ・パルティザン大隊と北の兄弟連隊は
ヴァルガを解放せよ。」命令を受けたヴェッザーは
両部隊兵力のうち683名を進撃させた。赤軍は、
ヴァルガ防衛に精鋭ラトヴィア狙撃兵連隊を投入した。
その兵力は1,200名。彼らは装甲列車及び装甲車の
支援を受け、パジュ農場に陣取った。
「冬戦争」でのフィンランドの勝利は冷戦時代の日本に希望をくれた
フィンランドと日本は置かれてる状況が似てるな
糞ロシアの隣だからねw
ロスケなんかが隣だと悲惨だよな
基地外ソ連が隣という悲惨な環境にいながらもマンネルヘイム元帥は良くやった
日露戦争での日本の勝利に感激してたらしい
そりゃ散々フィンランドはロスケに苦しめられてきたからな
444 :
428:2008/12/18(木) 23:06:57 ID:???
通報してきますた。
今もフィンランドはロシアの脅威と戦ってるよ
日本はロスケと戦うフィンランドを支援しよう!!
そりゃロスケなんぞ劣等土人と一緒にされたくねえってw
フィンランド最強!
450 :
名無し三等兵:2008/12/21(日) 00:16:21 ID:aDQV2DYi
カルムは作戦打ち合わせのため、タルツ・
パルティザン大隊を訪れた。「砲4門と
機関銃32挺を確認しました。」偵察から
戻ったヨハネス・ソードラ中尉が報告する。
「強敵だな。敵も精鋭を繰り出した。」
クペルヤノフも有名なラトヴィア狙撃兵の
ことは知っていた。「中尉、勝利を信じる
のだ。我々もラトヴィア兵と戦った。」
カルムはエストニア将校達を励ました。
夕食の後、カルムは戦場での再会を約して、
大隊本部を後にした。
451 :
名無し三等兵:2008/12/22(月) 20:54:41 ID:xsHLtkUP
1月30日、戦闘の火蓋が切って落とされる。
エストニア軍は、一度は農場を制圧したが、
歴戦のラトヴィア狙撃兵の反撃により、
すぐに農場は奪回された。頼みの綱の装甲
列車は、サンガステの鉄道橋が破壊された
ため、戦場に到着していない。
フィンランド兵の姿も未だ見えなかった。
「やり直しだ。明朝もう一回攻撃しよう。」
クペルヤノフは再攻撃を計画した。
翌日、エストニア軍は開けた土地を散開して
前進を始めた。
452 :
名無し三等兵:2008/12/23(火) 23:34:05 ID:D5qYDu5g
歴戦のラトビア部隊はエストニア兵の攻撃を
400mまで引き付けて、一斉射撃を浴びせた。
クペルヤノフは血に染まって斃れ、周囲は
阿鼻叫喚の地獄と化した。「俺が指揮を継ぐ。
続け。」ソードラが叫ぶ。この時北の兄弟連隊が
応援に駆け付けてきた。夕方まで血みどろの
白兵戦が続いた。夕方戦場を制したのは
エストニア・フィンランド連合軍であった。
「到着が遅れ申し訳ない。クペルヤノフ中尉は
何処にいる。」カルムはソードラを見つけると
駆け寄った。「撃たれました。重傷です。」
翌日、ヴァルガは無抵抗のまま解放された。
クペルヤノフはカルムと再会することなく世を去った。
死山血河ですね・・・
再会できなかったのか…。
hoiでバルト三国でプレイするモチベが湧きました スレ神ありがとうw
バルト三国ってエストニア・ラトヴィア・リトアニアだろ?
ラトビアプレイで、目指すは3国統一ですね。にっくきエストニアを倒すと。
さあ、リトアニアでメーメル割譲要求けり飛ばしてドイツとガチバトルするんだ!
460 :
名無し三等兵:2008/12/27(土) 21:54:14 ID:E/ethXUZ
この戦いによりエストニア南部の赤軍は
制圧され、ラトビア北部まで後退した。
カルムは独断専行によりラトビア領内に
侵攻し、2月21日激戦の後マリエンブルグを
占領した。カルムは厳しく批判され、
フィンランド義勇兵は、24日マリエンブルグから
撤退したが、これにより南部戦線の脅威は
解消された。
その頃マンネルヘイムは、英国のチャーチルと
ロシア内戦への介入について協議していた。
ネオナチはすでに京都に多数集結してたよ。
支部が地図に卍マークで示されていて、ためしにそのウチのいくつか回ってみてきたが
どこもスキンヘッドのネオナチで溢れてた。
建物に入ってみたらドラッグもやってるようで、
部屋中変な香りと煙で溢れてて全員で壁に向かってなにかブツブツ唱えてた。
聞いても何を話してるのかよくわからなかったんで多分ドイツ語なんだろうな。
熊本や宮城の地図にも多数拠点があったから、かなり広範囲で活動してるみたいだぞ。
なんか各地域で荘厳な党集会開いてるらしいし。
京都では山に火を放つテロ行為にまで及んでる。
割と出来が良いのでこれはこれでコピペ帳に保存させてもらう
>>456-
>>459 自分でバルト三国帝国MOD作って赤軍、独帝相手に無双じゃ駄目ですか そうですか
466 :
名無し三等兵:2008/12/28(日) 18:57:28 ID:6xNoJBML
当時イギリスは、ムルマンスクとアルハンゲリスクへ
軍を派遣して北ロシア政府を樹立した。
一方、フランスはルーマニアにいたペルトローク軍を
ベッサラビアに進出させ、デニーキンの支援をしている。
コルチャーク提督のオムスク政権軍もウラルまで進出し、
内戦は白軍優勢と言える状況であった。
英国政府はフィンランドにペテログラード攻撃を求めていた。
マンネルヘイムは共産主義者との戦いを続けることを決意して
いたが、幾つかの条件を付すことを忘れなかった。
「まずロシア白軍はフィンランドの独立を認めなければならない。
ペツアモと東カレリアのフィンランド帰属の承認も必要だ。
さらに5億ポンドの資金援助を要請したい。」
>>466 流石はマネンルヘイムですね。
冷静な要求だなあ。
東カレリアの帰属は冬戦争の開戦原因になったような・・・
まあどの道喧嘩は吹っかけられたんだろうが
469 :
名無し三等兵:2008/12/30(火) 22:15:36 ID:z+Id19gg
しかし現実にはロシア内戦への参加は容易ではなかった。
カルムはペテログラードまでの進撃を夢見ていたが、
兵士達は傭兵契約の更新を拒否した。フィンランド義勇
部隊は多くの犠牲を払い、生き残った者達にも望郷の
念が高まっていたのだ。
3月、フィンランドでは国会議員選挙が行われ、共和制を
支持するK.J.ストールベルイの進歩党が君主制支持の
国民連合を破り、多数派となった。
選挙後、約束通りイギリス、アメリカがフィンランドを
承認し、他の国々もこれに続いた。4月、フィンランド
義勇部隊は帰国した。
470 :
名無し三等兵:2009/01/03(土) 17:16:17 ID:sSjSFrdt
マンネルヘイムは、新たな戦線の形成も
企図していた。21日、フィンランド義勇兵
1000名は、再び東カレリアへの侵攻を
開始した。俗に言うアウニュス遠征である。
部隊は3つに分かれ、北の第2義勇連隊
第2大隊はラウリ・マスクライン大佐、中央は
パーヴォ・タルベラ中佐の第2義勇連隊主力、
南はガンアー・フォン・ヘルゼン中尉が
第1義勇連隊を率いた。23日、ヘルゼンの
部隊がアウニュス市を占領した。しかし、
間もなく赤軍の抵抗により戦線は膠着した。
大隊を大佐が、連隊を中尉が指揮するってのはなんか理由があるの?
義勇兵だからかな?実際には連隊規模ではない(定数ではない)のかも。
473 :
名無し三等兵:2009/01/07(水) 06:37:19 ID:OiiM7APB
エストニアで戦ったフィンランド自由軍団は、軍団と言っても1500人で、
少佐が指揮してますからね。
このとき31年式山砲が活躍したらしい。
475 :
名無し三等兵:2009/01/10(土) 20:53:31 ID:EwgK9wlQ
エストニアでは独立戦争が続いていた。
ゴルツの率いるドイツ義勇軍は2月には
ラトビアのリバウに追い詰められていたが、
3月になると攻勢を開始し、赤軍を駆逐して
リガを占領した。ドイツ義勇軍は規模を
拡大し、自由軍団と称していた。
6月になるとエストニア軍は、同じく独立を
目指すラトビア軍と共に北部ラトビアで
赤軍次いでドイツ義勇軍と次々に交戦した。
19日から3日間にわたるセシスの戦いで、
エストニア・ラトビア連合軍はドイツ自由
軍団に完勝する。
連合国はドイツ義勇軍にラトビアからの撤退を
命じた。ゴルツは装備をロシア白軍に引渡し、
リガを去っていった。
476 :
名無し三等兵:2009/01/11(日) 21:50:25 ID:7MPQ4x2m
東カレリアのタルベラの義勇兵部隊は、
ペトロザヴォーツク郊外まで進出していたが、
赤軍と亡命フィンランド赤衛軍によって
進撃は阻まれた。26日士官候補生の
アーロ・パヤリが至急電を持って司令部に
飛び込んできた。「敵600名がラトガ湖畔に
上陸。主力は赤衛軍の残党です。」
タルベラは顔色を変えた。
後方遮断を恐れたマンネルヘイムは、作戦の
中止を命じ、フィンランド義勇兵部隊は
撤退した。
残党キタ!
アーロ・パヤリとは、後のパヤリ中佐かな?
戦史の陰にやっぱりパヤリ
保守
481 :
名無し三等兵:2009/01/17(土) 21:52:28 ID:rQ7z55OS
この頃、コーカサス戦線で名を馳せた元帝政
ロシア軍将軍のニコライ・ユデニッシが、北西部の
司令官としてこの地域の白軍部隊の指揮を執ること
となった。
状況は悪くなかった。コルチャークとデニーキンの
白軍部隊はモスクワ目指して進撃していた。
ボルシェヴィキはさらに、新興ポーランドとも戦端を
開いていた。
3ヶ月間、彼は部隊の編成と訓練にかかりきりになった。
英国が資金の面倒を見た。ユデニッシの帝政ロシア軍
時代の友人マンネルヘイムは、ユデニッシを援助して
共に進撃するよう政府にかけあった。
ここは伝説のマントイフェルスレの次スレですか?
そういやマントイフェルスレってもう見られないのかなあ。
484 :
名無し三等兵:2009/01/18(日) 22:41:06 ID:xDaUEn6j
マンネルヘイムは日記に記している。
「ペテログラードの解放は、純粋には
フィンランドの問題ではない。だが、
最終的な平和に関わる問題だ。
フィンランドがボルシェヴィキとの戦いで
勝利を収めたのは、ロシア白軍が南や東で
赤軍と戦っていたからだ、という事実を
無視することはできない。」
共産主義を嫌悪するマンネルヘイムは、
隣接する大国ロシアに、安全保障上
より好ましい政体が出現することを
期待したのである。
しかし、白軍は…
どう転んでも危ない気がしないでもない。
危ない橋を渡らざるを得なかったんだな…
488 :
名無し三等兵:2009/01/24(土) 20:01:11 ID:M0spBz81
懸念もあった。ユデニッシはフィンランドの
独立を是認する立場を取ったとも言われている。
しかし、大ロシアの復活を夢見るコルチャーク、
デニーキンら白軍首脳部はフィンランド独立を
是認する気はなかった。
また、国内では大統領選挙が近づいていた。国民
融和を急ぐフィンランドは、収容所悪名高い政治犯
収容所を廃止し、赤衛軍の支持基盤であった社会
主義者達に恩赦を与えた。彼らは早速政治運動を
始め、国会内でも無視できない勢力となっていた。
489 :
名無し三等兵:2009/01/25(日) 17:55:18 ID:6vebgwm1
7月25日、国会で大統領選挙が行われた。
マンネルヘイムは143対50という大差で敗れ、
ストールベルイが初代大統領に選出される。
東方積極外交は支持されなかったのだ。
新政府はマンネルヘイムに軍司令官の地位を
打診したが、その任務はあくまでも防衛に
留まるものであった。マンネルヘイムは就任を
辞退した。以後マンネルヘイムは公職から身を
引き、隠遁生活を送ることとなる。
一方、ユデニッシは作戦「白い剣」を発動し、
9月28日、2万の兵を率いてペテログラードへの
進撃を開始した。
マンネルヘイムスレなのに、
彼が引退だと!?
>>490 最低限の史実くらい調べるべきだ。
いつもの荒らしならそれすら不可能だろうけど。
すまん
例の嵐でもなければ識者でもないから
wktkしながら待っているだけなんだ
通史ざっと読んできた
スレ汚し申し訳ない
まあこの状況でクーデター起こさずにおとなしく引退した一事だけで彼は偉大な軍人だった、とこの段階では思っとけ
しばしの別れ。
「閣下、すぐに戻ってきてくれますよね?」
496 :
名無し三等兵:2009/01/29(木) 22:54:09 ID:YkQaGxqV
保守
497 :
名無し三等兵:2009/01/31(土) 15:21:11 ID:BvowAH2Z
ロシア白軍北西軍戦闘序列
第1軍団
第2師団(4個連隊2450名他)
第3師団(4個連隊2250名他)
第5師団(5個連隊2480名他)
騎馬猟兵連隊
工兵中隊
第1予備砲兵師団
第3航空隊
装甲車分隊
第2軍団
第4師団(4個連隊2900名他)
第6師団(4個連隊1780名他)
騎兵連隊
予備歩兵連隊
工兵中隊
第2予備砲兵師団
軍直轄:第1師団、第20連隊、第1独立軽砲兵師団、独立国境警備大隊他
英国艦隊とエストニア陸海軍が彼らを支援した他、
6台のイギリス軍Mk.1戦車が行軍に加わっている。
軍団にしては規模が小さいがしかたないな
航空隊もあるのか・・・
ドイツ軍あたりから接収したのかな
500 :
名無し三等兵:2009/02/01(日) 17:58:12 ID:y96/2yic
菱形の外観で有名なMk.1戦車は、膠着した塹壕戦を
装甲で身を守りながら、装備する火砲で突破するため、
英国が生んだ新型兵器である。そのデビューは、
1916年9月15日ソンム会戦の第5次攻撃である。
戦車はその後の戦闘で次第に大量投入されるようになり、
その有用性が各国で認められるようになった。
赤軍はシベリア、ウクライナで白軍と激闘を繰り広げており、
北部は手薄になっていた。英国のユデニッシに対する期待が、
この6台の戦車に現れている。
29日、白軍第4師団はストルガ駅を占領し、プレイリー・
プスコフ間の鉄道を遮断した。
501 :
名無し三等兵:2009/02/07(土) 22:50:30 ID:0+T2gu39
各地で進撃する白軍の前にたちはだかったのが、
レオン・トロツキーであった。トロツキーは、
赤軍を徴兵制に切り替え、食料徴発隊を派遣して
穀物を強制徴発し、旧帝政ロシア軍将校登用により
赤軍の規律を整え、戦意を昂揚させていった。
彼は内務命令を公布した。「もしも軍隊が、
許可なくして退却するならば、まず軍事委員を、
次に指揮官を銃殺する。卑怯な者、自分の身を
大事にする者、裏切り行為をする者も銃殺する。
このことについて、私は全赤軍の前に責任をとる。」
トロツキーは演説と声明で、白軍と戦う兵士達を
奮い立たせていった。
ピッケルキター!!
ピッケル登場記念カキコ
トロツキーの名前がここで出てくるのか、勉強になった
赤軍名物の督戦部隊の誕生かよ....。
506 :
名無し三等兵:2009/02/08(日) 17:46:00 ID:k9gEqSVw
装甲列車「革命軍事列車」がペテログラードに到着した。
革命軍事列車は、謂わばトロツキーの移動司令部であり、
司令部要員と数十人の古参の革命闘士と献身的な共産党員を
乗せ、補給物資、浴室、寝室等の居住設備から映写機、
電信電話設備、印刷機まで、その他の全てを揃えていた。
トロツキーは軍事に関して素人であったが、専門家の意見に
耳を傾け、的確な判断をすることができた。彼は、ここでも
赤軍第7軍各部隊を回り、将兵の指揮を鼓舞し、自らバリケードの
建設に参加した。
トロツキーおじさんの革命的装甲列車がキター!
トロツキーは革命的にダメだよ。
byスターリンおじさん
「革命軍事列車」
うう、何だろ… 中ボス臭がすげえ
無駄にカッコイイぞソレ
510 :
名無し三等兵:2009/02/09(月) 18:11:06 ID:CfyloTY/
やべぇ
フィンランド軍大好きだが、
トロツキーも好きな俺にとっては夢のような時間が始まるぞ…
512 :
名無し三等兵:2009/02/11(水) 15:58:14 ID:DOIb5jRQ
10月12日、ユデニッシの部隊はペスコフ、ヤンブルグを
奪還した。3台の戦車、ファースト・エイド、ブラウン・ベア、
キャピテン・クロミーが随伴している。戦車は白軍の攻撃を
先導したが、その重量のためルガ河の橋を越えることが
出来なかった。
15日、白軍はガチナを制圧した。戦車隊は漸く河を越え
白軍部隊に合流した。「ペテログラードまであと25マイルだ。」
北西軍司令部から戦車隊を訪れたグラゼナップ中将は英国
義勇部隊隊長のE.H.カールソン中佐に語った。
>>512 > 「ペテログラードまであと25マイルだ。」
攻撃側の「〜まであと〜マイル(キロ)だ。」
ってのはさりげなく死亡フラグな気がしたw
中佐の運命やいかに
515 :
名無し三等兵:2009/02/14(土) 21:05:57 ID:0NHyZtuy
先にMk.1戦車と書いたのは、Mk.V戦車の誤りでした。
Mk.V戦車は、ソンム、アラス、イーブル、カンブレー等
各地での戦訓を取り入れ、改良が加えられたMk.1戦車の
発展型である。1918年1月に生産が開始され、8月の
アミアンの戦いに大量投入され、僅か7時間でドイツ軍
防衛線を突破した。
Mk.V戦車
全長: 8.047m
全高: 2.645m
重量: 29.0t
乗員: 8名
最大速度: 7.4km/h
武装: 23口径6ポンド(57mm)戦車砲×2及び8mm機関銃×4
又は8mm機関銃×6
装甲: 6〜12mm
ルノーFTは居なかったのかな?
Mk.Vでチハタン倒せそうだw
518 :
名無し三等兵:2009/02/15(日) 18:36:40 ID:uy6qf5i0
白軍第2師団は赤軍装甲列車の抵抗を排除しつつ、19日には
ペテログラード郊外ツアールスコエセロに達した。
「革命発祥の地ペテログラードが危機に瀕している。君は
一歩も後退してはならない。」トロツキーは、赤軍第15旅団長
コンブリグ・ポドボイスキーに厳命した。
戦機は熟した。白軍第2師団長ヤロスラフセフ少将は、指揮下の
第3タラブスキー連隊、第8セミョーノフスキー連隊に攻撃を
命じた。「戦車を起動させろ。」カールソン中佐が号令を
かけると、操縦手がスロットルをオンにした。戦車の後方では、
数人の兵士が巨大なクランク棒を必死に回している。轟音と
共にエンジンが始動し、巨大な戦闘機械が動き始めると、
兵士達は歓声を上げた。
519 :
名無し三等兵:2009/02/17(火) 23:05:17 ID:ios/44jw
保守
520 :
名無し三等兵:2009/02/19(木) 23:25:42 ID:ImaWQecY
戦闘は3台のMK.V戦車が主導した。ファースト・エイドと
キャピテン・クロミーは500ヤード前進し、キスキサリの
赤軍陣地を蹂躙した。ファースト・エイドは油圧系の
トラブルでいったん後退したが、今度は故障修理を終えた
ブラウン・ベアが遅れて攻撃に参加した。
赤軍は総崩れとなった。「聖アイザック教会の塔が
見えるぞ。」プルコヴォ高地を制圧した白軍第2師団
先遣隊の兵士達は歓喜の声を上げた。
「明後日にはもう双眼鏡は不要になるだろう。」
高地からペテログラードを望見したユデニッシは、
幕僚達に言った。
ユデニッシ以下白軍の台詞が死亡フラグだなw
522 :
名無し三等兵:2009/02/21(土) 19:47:34 ID:/hsnUmXs
ペトログラートの共産党指導部は恐怖にかられていた。
ジノヴィエフを長とするペトログラート防衛委員会は、
諸工場の疎開命令を出し、艦隊の自沈まで討議していた。
トロツキーは共産党中央委員会を動かし、共産党員、
労働組合員を動員し、新たな部隊を編成した。さらに、
赤軍の東部戦線派遣を中止し、ペトログラートから企業や
軍需品を疎開させることも厳禁した。
トロツキーさんマジぱねぇッスwww
地図が欲しい。フィンランド、東欧、白ロシアの日本語地図が。
525 :
名無し三等兵:2009/02/22(日) 22:35:24 ID:7wcT+Qsf
ペテログラードへの一番乗りは白軍指揮官を
魅了していた。しかし、このことが弊害をも
生んでいた。ペトログラート・モスクワ鉄道を
遮断する筈の白軍第3師団は、師団長ベトレンコ
少将がペトログラード進撃により熱心だったため、
僅か1個連隊を任務に差し向けただけで、結局
失敗に終わっていた。
赤軍の補給路は維持され、間もなく赤軍第15軍が
戦線に到着した。激戦が続き、予備兵力に不足する
白軍北西軍は次第に消耗した。
526 :
名無し三等兵:2009/02/26(木) 07:29:28 ID:/d2UtOdb
保守
カヴェナンターを使ったと聞いて
529 :
名無し三等兵:2009/02/28(土) 10:52:36 ID:FYV3Zs9d
ユデニッシはフィンランドに使節を送り、物資の
補給を要請した。しかし、その時彼が頼みとした
旧友マンネルヘイムは既にパリに発った後であった。
大統領選敗退後、マンネルヘイムは自らの目で
全般的な状況を確かめるべく、フランス、ポーランド、
ウクライナへの旅行を企画していたのだ。
エストニアとの同盟も脆いものであった。そもそも
白軍中枢部はエストニアの独立には反対していたので、
エストニア政府は彼らを嫌悪していた。英仏政府の
圧力が両者の協力関係をかろうじて維持させていた。
共産党は、エストニアに独立承認と引き換えに
白軍支援の手を引くよう秘密交渉を開始していた。
530 :
名無し三等兵:2009/03/01(日) 22:35:34 ID:tf4XqTqB
20日、凶報が届いた。白軍左翼のエストニア兵2500名が
戦場を離脱し、この間隙に赤軍水兵部隊が進出したのだ。
21日には、赤軍の反撃が始まった。ネヴァ河に停泊する
戦艦セヴァストーポリが305mm砲の砲門を開いた。
「戦車は何所に言ったのだ。」白軍北西軍司令官補佐
ロジャンコ中将は不平の声を上げた。この時代、未だ
戦車の運用には多大な困難が伴った。整備作業中の
戦車隊は稼動戦車僅か1台となり、燃料、弾薬、
エンジンオイル、ギアオイル、グリース、機関銃の
予備銃身、砲の予備等の資材の到着を待っていた。
「ロシア人は戦車を馬のように考えている。」
カールソンは整備兵達を急がせながら不平を口にした。
そういえば、こいつら死亡フラグ立てまくってたもんな
532 :
名無し三等兵:2009/03/05(木) 22:18:11 ID:hJfArYQK
赤軍は次々と新たな部隊を送り込んできた。
レーニンは22日トロツキーに書き送っている。
「2万の労働者と1万のブルジョアを動員することは
可能だろうか?彼らの背後の機関銃を配置する。
たとえ数百人を殺してでもユデニッシに強力な
圧力をかけねばならない。」
24日、白軍は漸く出撃準備が完了した戦車と共に
反撃を開始したが、戦線の裂け目は回復できず、
プルコヴォ高地は放棄された。
>彼らの背後の機関銃を配置する。
独ソ戦で猛威を振るった督戦隊ですね わかりますw
それにしてもわかりやすい死亡フラグだったなあ
534 :
名無し三等兵:2009/03/07(土) 22:07:16 ID:azIBAesy
「赤軍は人の壁を築こうとしている。」ユデニッシは
焦りを感じていた。マンネルヘイムは、フランスから
もう一度大統領ストールベリイに手紙を書き送った。
「白軍がペトラグラードに入城した時、そこに
フィンランド軍がいなかったら、その後の安全保障に
大きな影響を与えるであろう。私は、そのことを
危惧している。」
しかし、赤軍の圧力は増大する一方であった。南方の
プスコフは赤軍第15軍に占領され、白軍北西軍は
包囲の危機にあった。ユデニッシは局面打開のため、
精鋭部隊を集め、臨時編成の突撃集団を組織した。
>彼らの背後に機関銃〜
ペレストロイカ期にこの文書が公開されたのがレーニン崇拝終焉の
一つのきっかけになったらしい。
536 :
名無し三等兵:2009/03/08(日) 22:14:50 ID:dTTSkzaK
ユデニッシは反撃を開始した。しかし北西軍は、
6万に膨れ上がった圧倒的多数の赤軍の前に
11月1日の戦いで大敗を喫する。
「ペテログラードを守るという我々の目的は
達成された。しかし、我々には未達成の任務がある。
白軍の殲滅である。」トロツキーは大号令をかけた。
遂に白軍は総崩れとなった。赤軍は4日にガチナ、
12日にはヤンブルグを奪還した。14日、ユデニッシは
攻勢開始点のエストニア国境まで後退した。
537 :
名無し三等兵:2009/03/14(土) 12:32:25 ID:lbv1H8SA
この段階で、エストニアの裏切りは明白になった。
24日、ユデニッシはエストニアの官憲に拘束され、
グラゼナップが指揮を引き継いだ白軍は、
エストニア領内で武装解除される。
1920年1月3日タルツ条約が締結され、ロシアは
エストニア独立を承認し、両国の戦闘は終了した。
ユデニッシとその部下は、フランス政府の
庇護により解放され、イギリス船でエストニアを
脱出した。彼はフランスへ渡り、そこで残りの人生を
過ごすのである。
538 :
名無し三等兵:2009/03/19(木) 11:47:40 ID:kgpSFCq7
保守
このスレでユデニッシが結構有名な名将だってこと初めて知った
プルシロフとかぐらいしかしらんかったw
コルチャーク提督やウランゲリ男爵、デニーキンと並ぶ白軍の指揮官ってことしか知らなかったな。
顔みると髭が偉そうなおっさんだけど。
たまには保守したい
やあ同志諸君、私は中学2年のパマギーチェ君なのだが、このスレを見て全身の血が沸騰するような感嘆を受けた。こんな世の果て板の果てみたいな処で…いやぁハラショーハラショー
でだ、相談があるのだけれど、印刷しちゃっていいのかな?
ダメカナァ
>>542 イワンめ、シベリアに帰りやがれ!
とりあえずあれを書いている人に聞いたら?
>>542 個人的に閲覧する目的でなら特に問題ないんじゃないかと思う
不特定多数に配るとか売るとかなら勿論許可とか色々必要だろうけど
スレを勝手に商業出版すると何かと問題化するNE!
同人誌とか文化祭レベルだと知らないけど、多数への公開目的での印刷は普通は避ける
>>545 何かと問題になったのは電車男の時だっけ
ここで読むのになんか支障あるんだろうか?
纏めておいて外出中にに読みたいとかなのか。
>>544-545 他人が労して書いたもので金取るのは流石に論外だろう。
最近の商業は色々あるらしいけどorz
>>548 googleのはプログラムやルーチンに金が支払われてるんだろ? なんか別の話?
ホログラムのプーチンに見えた
>>549 書籍のアーカイブ化。そこからの全文サーチの始まり。
552 :
名無し三等兵:2009/04/02(木) 14:50:35 ID:A0oeGo9S
553 :
名無し三等兵:2009/04/05(日) 13:21:46 ID:vue303y9
保守
その後のフィンランドとロシアの間では、
西カレリア地方の領有を巡って断続的に
武力衝突が起きたが、1920年10月14日、
フィンランド・ロシア間にもう一つのタルツ
条約が締結されて、戦いは終わった。
北極地方のペツアモがフィンランド領となり、
国境線は確定し、フィンランドの独立が
再確認されることとなった。
ポーランドとロシアの戦争も1920年10月に
終わり、クリミア半島に立て篭もった最後の
白軍も11月14日に壊滅し、ロシア内戦は
終わった。
こうして1914年以来の欧州大戦の戦火は
漸く終息したのであった。
HoI脳の俺はあんまり理解してなかったWWIが遂に終わった・・・
キターーー
待ってたぜ
ktkr
さて、これまで登場した人物のその後を少し追ってみたい。
まず、帝政ロシア軍将軍、アレクセイ・ブルシロフ。
彼は、ケレンスキー攻勢後世間から忘れられ、10月革命を
自宅で迎えた。
その後、彼は他の多くの仲間と異なり、赤軍に参加した。
彼にとっては国への忠誠が第一で、政治思想は無関係で
あったのだろう。そして、赤軍総司令官附属特別会議
議長に就任した。
しかし、内戦終了後に恩赦を約束されて投降した
クリミアの白軍将兵が、容赦なく処刑されたことを知った
彼は、信仰の世界にのめり込むことになった。
1926年モスクワでひっそりと死去している。
名将ブルシロフの末路が切ない…
帝国軍人の赤軍参加はシャポシニコフとかの大佐級までだと思ってたけど、
将軍級もいたんだ。しかし30年代前に自然死って幸運だな。
粛清や亡命という末路よりはマシ…と思ってはいけないかな<ブルシロフ
フランスまで亡命したのにNKVDに拉致されてソ連大使館の秘密部屋で殺された元白軍将軍もいるしな…
次はドイツの常勝将軍、アウグスト・フォン・マッケンゼン。
彼はルーマニア総督となった。第一次大戦終戦時、
ハンガリー臨時政府に拘束されたが帰還を許された。
退役後は全ドイツ退役将校クラブの会長となり、1930年代には、
ナチス運動にシンパシーを示している。軽騎兵の制服を着た
彼が、ヒトラーとオープンカーに同乗している映像が残っている。
皇帝ヴィルヘルム2世には生涯の忠誠を示した。1941年
ウィルヘルムU世がオランダで死去すると、92歳の彼は
その葬儀に駆けつけ、棺に軽騎兵のコートをかけた。
第2次大戦終了後の1945年の11月、96歳の誕生日を目前に
彼は死去した。
>>563 本部まで連れてこられて殺された人いなかったっけ?
フランスの亡命ロシア人会の偉い人で。
オーストリア第7軍を指揮してロシア軍に立ち向かった
フランツァー・パルティンは、ブルシロフ攻勢後病気を理由に
退役したが、1917年9月再召集され、アルバニア方面軍の
司令官となった。情勢は彼の休養を許さなかったのだ。
彼は1918年7月、アルバニア南部のフランス軍に対し攻勢に
出た。作戦は成功し、アルバニア全土が占領された。その後、
連合軍は反撃に出たが、彼はカッタロの線で踏みとどまり
抗戦を続けた。バルティンはオーストリア休戦以降も戦いを
継続し、停戦に応じたのは1918年11月後半だった。12月に
退役し、1925年ウィーンで死亡した。彼は、最後の瞬間まで
ハプスブルグ家に忠誠を尽くした将軍であったと言えよう。
キター!!乙乙
保守
ルーマニアでマンネルヘイムと対峙した、エルヴィン・ロンメルの
その後はあまりにも有名である。ヴェルテンブルク山岳猟兵大隊は
1917年秋、ルーマニアからイタリアへ転戦した。イタリア北東部の
カポレットの戦いで、ロンメル中尉の僅か1個中隊は、300名の捕虜を
得る著しい功績を挙げ、彼は1917年12月にプール・ル・メリット勲章を
授章した。
第一次大戦後、ヴェルサイユ条約により10万人に限定された国防軍に
残ったロンメルは、ナチス政権誕生後の1939年には総統警護大隊の
指揮官に任命された。西方電撃戦では第7装甲師団長を務め、
北アフリカでは有名なアフリカ軍団を率いてエジプトまで侵攻した。
1944年ノルマンディーで防衛戦を指揮中負傷し、その後ヒトラー暗殺
事件への関与を疑われ、10月14日服毒自殺をした。
>>563 ピッケルさんのことも忘れないで上げてください
3000名の捕虜の間違いでした。
そっちに間違えますかww
300名でも十分凄いのに
573 :
名無し三等兵:2009/04/21(火) 22:45:59 ID:9ZOOOa5i
保守あげ
のんびり保守。
575 :
名無し三等兵:2009/04/28(火) 19:14:16 ID:h1rfnp2N
激しく保守
576 :
名無し三等兵:2009/05/05(火) 13:18:56 ID:ffZpzjOl
粘着的に保守
577 :
名無し三等兵:2009/05/09(土) 01:09:54 ID:fx6b4Atn
保守
多分書いてるのは兵頭氏だと思いつつ保守www
580 :
名無し三等兵:2009/05/20(水) 15:40:00 ID:l9VCU9A3
保守age
兵頭ってフィンランド軍とか詳しいのか?
なんか日本の軍事専門で核武装しろとか喚いてるイメージなんだが
うああああマンネルまだかああああ
585 :
名無し三等兵:2009/05/30(土) 08:15:48 ID:CBJPWdOh
保守
586 :
名無し三等兵:2009/05/31(日) 16:25:46 ID:actiRgxo
保守
587 :
名無し三等兵:2009/06/05(金) 14:42:56 ID:JxGTSSKQ
捕手
フィンランドって野球するにも場所少なそう…
野球というかペサパッロ
1939年はソ連の対外強硬姿勢に覆われつつ明けた。
既にブルガリアに対して実施不可能な"国境線"のブルガリア側後退を外交通知したスターリニスト達は、次いでフィンランドに目を向けた。
しかし彼らは強硬であり、フィンランド湾にある幾つかの島の借用を認めなかった。
更に次いで、バルト三国にソ連が武力進駐したのは、そのフィンランドの"カレリア反し"から、わずか数ヵ月後の事であった。
一方、マンネリヘイムは相変わらず東洋の空白地帯探索に熱中していて、エストニア政府が国営ラジオで最後の国歌を流している頃には、ちょうどニューギニアはピアク島付近で愛用であるFB.2を乗り回している処で、................
わたしは神だ
まってたぜ!!!
そして続きが激しく気になる!!
偽者だろw
まて、こいつは第五列だ!
つマンネ リ ヘイム
594 :
591:2009/06/09(火) 22:44:49 ID:???
うわわわわわわああああぁぁぁぁ
最後の一行に違和感を感じていたし、ageてなかったから
ちょっとおかしいと思っていたら
そういうことかぁぁorz
「"国境線"のブルガリア側後退」
こんなのに引っ掛かるなよ…
皆それほどに飢えてますんやがね
マンネルハイム飢饉www
ザイドリッツ部隊に襲われたスレはこちらですか?
俺の予想によると、我らの守護天使
>>1は今…
1)文献を読み漁っている
2)女を侍らせてもはもはやっている
3)フィンランド情報機関により拉致、森の下で永眠
4)平行第6世界のマンネルヘイム将軍により、冬戦争時のタリ線へタイムスリップ
5)実は2ch上の自我で、削除されてしまった
おもろいやろ、どや
601 :
名無し三等兵:2009/06/16(火) 12:45:38 ID:F598Wh3u
ほしゅ
602 :
名無し三等兵:2009/06/19(金) 20:10:15 ID:gm216R9X
ロシア革命時の臨時政府の立役者、アレクサンドル・ケレンスキーは、
10月革命の騒乱のさ中、冬宮を脱出することに成功した。11月11日、
彼はプスコフの北部軍司令部に姿を現した。そこで彼は、クラスノフ
将軍率いる第3騎兵軍団のコサック700騎と共に反撃に出た。彼らは、
ツァールスコエセロを占領しさえした。しかし、そこで赤軍の反撃を
受け、敗退した。ケレンスキーは、水兵に扮して、またも捕縛寸前に
姿をくらますことに成功した。
彼はフランスへ亡命した。ボルシェビキは彼の監視を続けたが、
あまり重要視されなかったようである。1940年代、彼は渡米し、
大学講師、研究所職員等の職を得た。1970年にニューヨークで
死去している。10月革命の当事者としては、最後の生き残りの
一人であった。
再会乙!
待ってましたあ!
605 :
591:2009/06/20(土) 12:56:42 ID:???
本物?第五列じゃない?
いや〜二ヶ月ぶりか!
一日一回のスレチェックがまた楽しくなるぞw
>>605 …マジで見分けられないのか?
偽と本物を良く読み比べてみろ。
ここの神は気まぐれ
気まぐれでない神などいるのか?
611 :
590:2009/06/27(土) 21:44:28 ID:???
やっと再開したぁぁぁぁぁぁ
毎日愉しみに待ってます
保守しよう
保守
615 :
名無し三等兵:2009/07/10(金) 19:48:51 ID:kUZQp6ar
哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは、
1918年に栄えあるオーストリア・ハンガリー帝国軍
少尉に任官し、イタリア戦線の山岳砲兵部隊に転属
した。ここでも彼は勇敢に戦い、2度目の受勲を
果たしている。休戦直前に捕虜となった彼は、1919年
8月に故郷に帰還した。
1922年、哲学史上の残る名著「論考」を発表。その後は
教育者となり、1939年にケンブリッジ大学の哲学教授と
なった。1939年のナチス・ドイツのオーストリア併合に
より故国への帰国の途を断たれた彼は、イギリス人として
1951年に死去した。最期の言葉は「素晴らしい人生だったと
伝えてくれ。」だったという。
さて、身に覚えはないけれどアクセス規制というものに
引っかかって、自分のPCから書き込めなくなってしまった・・・
二項論理は使える ベッカムの剃刀というネタもあったな
シベリア辺りに出張所でも立てたらどうだろ。
なんという皮肉www
>>619 まぁ半分くらい本気でw
何なら、住人がこっちへ転載すれば良い訳だから。
621 :
名無し三等兵:2009/07/20(月) 18:18:46 ID:3G72Q6jb
保守
保守
保守
紹介サンクス 続きが楽しみ
ほす
627 :
名無し三等兵:2009/08/01(土) 21:41:22 ID:7IZ4c8SD
その後10年以上に渡り、マンネルヘイムには静穏な生活がやってきた。
ヘルシンキ郊外カイヴォブイスト公園内の一軒家を借り、彼は赤十字や
児童福祉活動に没頭した。僅かな使用人と時折訪ねてくる知人を除くと
彼はいつも1人であった。部屋には狩猟の成果、数々の表彰と世界各地で
手に入れた美術品と共に、ニコライ2世の肖像画が掲げられていた。
「陛下は私の皇帝なのだ。」理由を尋ねたジャーナリストに、彼は
語っている。国土防衛に関する本を4冊執筆し、郷土防衛隊の設立も
支援した。個人的な冒険旅行を楽しむ余裕も出来た。マンネルヘイムは
1927年には、英領インドに数ヶ月滞在し、狩猟を楽しみ、自動車と
飛行機で中東を横断した。
このスレが今後も続くであろうって事がこんなに嬉しいなんて
629 :
名無し三等兵:2009/08/02(日) 17:13:14 ID:m8ySx+yU
フィンランドを取り巻く周囲の国々にも徐々に変化が生じていった。
ロシアでは、1922年に行われた全連邦ソビエト大会で、ソビエト
社会主義共和国連邦樹立が宣言された。2年後にレーニンが死去し、
ペテログラードはレニングラードに改称された。
その後独裁権力を握ったのは、ヨシフ・スターリンであった。
彼は、政敵となったトロツキーを国外追放し、一国社会主義路線を
確立した。
支援保守
631 :
名無し三等兵:2009/08/05(水) 22:54:56 ID:99GCxk+t
革命騒ぎにより治安が乱れたドイツでは、1919年ワイマール
憲法が公布され、議会第1党となった社民党を中心に共和制が
始まった。
多額の賠償金支払いによる驚異的なインフレに苦しんだが、新生
ドイツはこの危機を乗り越え、アメリカ資本による経済再建に
成功する。1925年にはロカルノ条約が締結され、その翌年には
国際連盟に加入し、ドイツは漸く国際社会に復帰した。
その影で、連合国の思惑とは別に、治安維持に活躍した国防軍、
右翼は穏然たる力を蓄えつつあった。
保守
633 :
名無し三等兵:2009/08/12(水) 07:04:10 ID:PS+1KFsf
保守
634 :
名無し三等兵:2009/08/15(土) 23:53:48 ID:CS+koMrC
ベルサイユ条約における民族の自決の原則に基づき独立した、
新興ポーランドは驚くほど領土に貪欲な国家であった。
リトアニアからビリニュスを奪い、ドイツからはダンツィヒ
回廊を手に入れた。東方の同盟国を欲していたフランスは、
同国を積極的に支援した。
ポーランドは西ウクライナを巡り、ロシアと戦争をし、西
プロイセンやシレジアでもドイツと国境を争った。独立の
英雄ユゼフ・ピウスキスは開発独裁を掲げ、ポーランドの
国力増強に邁進していた。
やっぱ過去の大ポーランドが忘れられなかったんかねえ。
まぁ、当時の独立新興国は揃いも揃って領土的野心旺盛だったし、
どこもかしこも『大○○』を掲げてたけど…
ピウスキスじゃなくてピウスツキな
637 :
名無し三等兵:2009/08/16(日) 19:23:27 ID:hGoWklRG
1929年大恐慌が始まると、欧州には俄かに不穏な空気が
流れ始めた。フィンランドでは、再び階級闘争が激しさを
増していた。11月、東ボスニア地方のラプアで共産主義者と
右翼の衝突が発生し、これを契機に極右運動が先鋭化した。
1931年3月、独立の英雄ペール・スピンヒューブトが第3代
フィンランド共和国大統領に就任した。再びマンネルヘイムに
国家に奉仕する時が来た。大統領に乞われ、彼は新設された
国防委員会の議長となった。マンネルヘイムは、軍の徴兵、
動員システムの改善、武器・装備の近代化に乗り出すことと
なる。今度の敵は未曾有の不況と官僚機構であった。
ラプア運動の起こりか?
フィンランドの極右てどんなだ?
Bothnia を日本語で「ボスニア」と書くのはどうかと思う。ユーゴスラヴィアかと思ってしまう。
スウェーデン語準拠で「ボッテン」くらいが適当ではないか。
ちなみにウィキペによると「東ボッテン」のスオミ名は「ポヒャンマー」だそうだが。
ボッテンってどういう意味だろう
google瑞→英翻訳だと底もしくはフィールドってでてた
つまりVästerbottenは西の大地…でもあれスウェーデン北東部だよなぁ…
642 :
名無し三等兵:2009/08/22(土) 18:06:35 ID:vRVbkWeg
6月10日に開催された第1回目の委員会会合で、マンネルヘイムは、
財政状況の厳しさを思い知らされた。軍には1億2500万マルッカの
装備購入予算があったが、7500万マルッカへの減額圧力を受けていた。
「まだルノー戦車を使っているのか。あれは、私が摂政の時に
購入したものだ。」1920年代を通じて、海軍は2隻の海防戦艦、5隻の
潜水艦を中心とする一定の増強がなされていた。沿岸砲兵も
旧ロシア軍の装備を引き継ぎ、相応の戦力を維持していた。しかし、
陸軍の装備は旧式化し、航空戦力に至っては無に等しかった。
マンネルヘイムは次々と政府の要人を訪ね、説得を試みた。「何故
軍はそれほど多額の予算を必要とするのかね?戦争が近いとでも?」
国立銀行総裁のリスト・リュッティとの会談は物別れに終わった。
予算不足のため、フィンランド軍はその年、演習すら満足にすることが
出来なかった。
マンネルヘイムの戦いは・・・まだまだ続くのだね・・・
フィンランドの経済がどの辺りで持ち直したのか
(あるいは、フランスのように持ち直せないままWW2に突入したのか)
知らないけれど、いかんせん時期が悪すぎる。
軍事と経済は国の両輪か
646 :
名無し三等兵:2009/08/23(日) 19:21:40 ID:p186Ks8B
マンネルヘイムは精力的に動いた。カレリア地峡に赴き、1920年代に
建設された防衛施設の視察も行った。せっかく作られたコンクリート製の
機関銃座や砲台は、満足な維持管理もされていなかった。彼は国防大臣
アルビン・マンネルを説得して、失業者対策予算を使い、道路、飛行場の
整備と防衛陣地の修復作業を行った。
「動員システムの改善も必要だ。」彼は委員達に説いた。当時のシステム
では、戦時体制の移行に18日を要した。「部隊を編成している間に、ソ連
軍はカレリア地峡を制圧するであろう。」委員達は頷いた。
9月18日、極東の満州、奉天郊外で南満州鉄道爆破事件が起きた。これを
きっかに日中両軍は武力紛争を繰り広げる。平和な時代は終わりを
告げようとしていた。
647 :
名無し三等兵:2009/08/23(日) 21:47:02 ID:BO7uTWcm
唐突に出てくる
>>35はなに?
ロシア革命の時の話し?
「映像の世紀」に出てくるガンジーの回想とHoI2(PCゲーム)ネタの混合だろう。
>>642 国立銀行総裁のリュッティって継続戦争時の首相になった人?
自分から泥かぶって、戦後唯一の戦犯になったんだよね…
二ヶ月お休み貰ってhoiやりきりたいわぁ
651 :
名無し三等兵:2009/08/29(土) 18:58:05 ID:mHEHu8Aj
1932年4月、財務省は国防予算の10%削減を通告してきた。
「これでは何も出来ない。新動員システムへの移行だけでも
7000万マルッカが必要だというのに。こうなると1月に
締結されたソ連との不可侵条約だけが、頼みの綱だな。」
マンネルヘイムは嘆いた。「出来ることから進めましょう。」
内戦を共に戦った旧友のルドルフ・ワルデンが慰めた。
それでも軍は何とか、新規装備調達のために3億2500万マルッカ
の予算を獲得し、12月には新徴兵法が施行された。
1933年1月、ドイツでは国家主義を掲げるナチス党政権が発足し、
2月になるとリットン報告書可決に反発した日本が、国際連盟を
脱退した。
立ち込める暗雲…
653 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 15:18:17 ID:ucFdjbdD
5月19日、独立戦争終結15周年記念日に、マンネルヘイムには
元帥の称号が与えられ、元帥杖が贈られた。「思いもしなかった
栄誉だ。」66歳の彼は、祝福に訪れた友人達と喜びを分かち合った。
今日に至るまで、フィンランド軍の元帥はマンネルヘイム唯一人で
ある。
一方職務においては、マンネルヘイムは空軍増強の必要性を痛感
していた。7月15日、空軍ウッティ基地でリク・ロレンツ少佐を
司令官とする、マンネルヘイム念願の戦闘機部隊、第24戦隊が
編成された。装備は15機のグロスター・ゲームコックである。
ロレンツには、革新的なアイデアがあった。彼は当時主流だった
3機編隊を改め、2機編隊による新戦術を導入したのだ。「3機の
空中機動は非効率的だ。何より我々は、それほど多くの飛行機を
保有できまい。」ロレンツは、彼の右腕、グスタフ・マグヌッソン
大尉に語った。
後のエース軍団の始まりか
機上無線機とかどうなのかね?
陸の通信機器の配備状況も気にはなるけど。
>>74 ロンメルとマンネルヘイムって直接対決したことがあるんだ!
ナイストリビア!
658 :
名無し三等兵:2009/08/31(月) 23:24:30 ID:uM4TVIJ+
直接対決って言っても
ロンメル→中隊長
マンネルヘイム→師団長
だから。
スレ住人と主のレスがいい案配でミックスされてる事に感動
やはりここは良スレですなぁ
661 :
名無し三等兵:2009/09/01(火) 18:41:30 ID:XZFLKPu7
マンネルヘイムは戦間期に海外旅行の途中で日本にも来てるそうだけど
いつだったっけ?
662 :
名無し三等兵:2009/09/01(火) 19:14:09 ID:ejYlYb4j
やっと雪中の奇跡買った(・∀・)
次は流血の夏だー
>>656 フィン空のイギリス複葉戦闘機シリーズのうち
次のブリストル・ブルドッグまでは無線積んでなかったみたいだから、ゲームコックも装備ないとヲモ
グラディエーターにはRAFのTR9D積んでたみたい。まあ例のごとく各国のラジオが混在してカオスだったらしいw
ちなみに小型軽量のゲームコックを選んでライセンス生産までするこだわりが、根っから格闘戦志向のフィン空らしくて良い
冬戦争にはちょっと間に合わなかったけど、着陸中のソ連DB-3爆撃機に機銃掃射しかけて1機を鹵獲した戦果?があるそうな。
でかすぎて持て余しそう。
665 :
名無し三等兵:2009/09/02(水) 19:56:18 ID:OZ+Edjk9
マンネルヘイムは、懸命に軍の近代化に努めるが、
折からの世界的な恐慌や政治家の無理解により、
彼の助言は省みられることなく、この年の国防予算も
限定的なものに留まった。
「我々は、諸外国から学ばねばなりません。」
マグヌッソン大尉は、最先端の戦闘機運用を学ぶため、
遂に自費でフランスに渡航した。それほどまでに、
フィンランド軍には予算がなかったのだ。
1934年5月、念願の新動員システムが導入された。地方
組織の役割が増強され、これにより9日間で全野戦軍の
編成が終了できることとなった。
政治家と経済危機って自衛隊とどことなく似てるな
マグヌッソンは自費で渡仏ですか。
いかにも貧乏フィンランド軍らしい話ですね。
このくらい遅レスなら大丈夫だろう。
>>378みたいな奴って、どうして荒らしに餌を与えるんだろうね。
蒸し返す奴が最も有害
>>668 フィンランド湾の機雷の数でも数えていたまえ
1つ、2つ、3つ…
ひとつたりない・・・
>>663 ありがとう。
無線機が要る空戦ってのはもっと先の話か。
> 例のごとく各国のラジオが混在してカオスだったらしいw
うん、実にフィンランドだw
>>665 フランスか‥
他に何処と言われて行く所がないのも確かだけど。
>>667 自費突っ込むような根性がある公務員が居るのは素晴らしい。
フィンランド湾では機雷戦を盛んにやってるね。
地味だけど、あの狭い海域では非常に有効だなあ。
帝政ロシア海軍は機雷戦が得意で世界的に見て技術も進んでたそうな。
>>675 世界で最初に機雷開発したのがロシア帝国なわけだが。
日露戦争で戦艦2隻も機雷で沈められたよなあ、そういえば。
678 :
名無し三等兵:2009/09/06(日) 22:19:24 ID:shP7LOBw
6月、マンネルヘイムは航空ショーに招待され、
英国に渡った。航空機の目を見張るばかりの
発展を目にしたマンネルヘイムは強い感銘を
受けた。帰国した彼は、新聞に声明を発表し、
国防予算に注目を集めようと努力した。
一方、渡仏したマグヌッソンは失望を味わう事と
なる。彼はフランス空軍最精鋭の第3戦闘機連隊に
迎えられた。フランスはいち早く空軍を独立させて
いたが、全世界的な戦闘機無用論の中で、単葉双発
万能機に運用の主軸を置いていた。
それでも第一次世界大戦のエースからは学ぶことも
あったし、フランス空軍が使用していたガン・カメラ
には強い印象を受けた。
更新乙 この分だとマグヌッソンがドイツに行った時の話しもやってくれそう
まぁ、当時は双発戦闘機が役に立つとみんな信じてたからね…
純粋に成功したのは米のP-38だけみたいなもん
英のモスキートは高速爆撃機的要素が大きいし
独のBf110や日本の月光や屠龍は対大型機迎撃機の需要があったから役に立ったようなもんだし
681 :
名無し三等兵:2009/09/08(火) 01:06:43 ID:NR5lk4Ni
まあフィン空もフォッカーG.1を買おうとしたり(マグヌッソンも試乗してる)
モスキートにDBエンジン積んだピーコ機作ろうとしたりしてるから
双発機にも興味はあったんだろうけどね。流行みたいなもんかね
フォッカーG.1はどうだろうね。
あまり高性能には見えないけど、もし実際にフィンランド軍に供与されてたら・・・
うーむ・・・
フィンランド補正は伊達じゃない。
戦闘機として使えなければ爆撃機にでも改造するだろう。
コードロン714は流石に使われなかったらしいが
686 :
名無し三等兵:2009/09/08(火) 22:54:20 ID:NR5lk4Ni
>>684 フィン空も急降下爆撃機探してたみたいだけどね。
その割りに旧式のフォッカーCXを50年代まで酷使したり、ソ連のPE-2は高速偵察任務に使ったり。
友軍ドイツのスツーカを間近に見てる割りには、行動が良くわからん
>>685 しかし悪評を承知の上で
ポーランド人亡命部隊はCR714でドイツ空軍に抵抗してて、泣ける。
Do174機、メッサー109を3機、110を5機撃墜してるそうな。
>>687 もともとポーランド亡命軍によるCR714部隊も、フィンランド援助のために結成されたものだしね。
30余名のパイロットと同数のメカニックを伴った気合の入ったもので、「フィンランドの翼」部隊と呼ばれた。
しかも隠密参戦のスウェーデン義勇軍と違って、ポーランドのインシグニア「Szachownica」付けて堂々と戦う予定だったらしい。
結局は芬ソの停戦でキャンセルされちゃったけど、そのまま独仏戦に参戦し、仏占領の後はRAFで頑張ったり
とにかく涙ぐましすぎる亡命軍だったのでした。
というかスレチですね。スマソ。
?
690 :
名無し三等兵:2009/09/12(土) 20:28:25 ID:bJqI7DsQ
12月、ソ連で共産党中央委員会書記セルゲイ・キーロフが
暗殺され、これを契機にスターリンによる大粛清が始まった。
翌1935年3月14日、ドイツは再軍備を宣言した。共産主義も
膨張していた。7月25日に始まった第7コミンテルン大会には
65カ国の共産党代表が参加している。
第一次世界大戦のエースパイロットにして、新生ドイツ空軍
総司令官ヘルマン・ゲーリングは、フィンランド空軍に最初の
1機を進呈したローゼン伯爵の妹カリンと結婚していた。
これが縁となり、マンネルヘイムは9月にドイツを訪れ、その
航空産業を視察し、ゲーリングの邸宅で狩猟を楽しむ機会を
得た。
10月、イタリア軍がエチオピアへ侵攻する。国防予算は徐々に
増加が認められるようになった。
>>691 ( ゚∀゚)ノ〃∩ヘェーヘェー
と言う事は、この機体はツーリンDなのかな。
まだハカリスティは描いてないね。
693 :
名無し三等兵:2009/09/13(日) 22:43:39 ID:P2mLYrng
1936年2月、スペインでは人民戦線政府が成立した。
全世界で左翼勢力が伸張していた。
この頃、マンネルヘイムは職を辞することを考えて
いた。国防予算は確かに増えたが、国家予算に占める
割合は、彼が委員長に就任した時から4%も低下していた。
新装備調達、防衛産業の再編成等やるべき仕事は
多かったが、政治家、取り分け社会民主党との駆け引き
にはうんざりさせられていた。
7月、スペイン領モロッコで軍部が蜂起し、スペイン
内戦が始まった。ドイツはフーゴ・シュペルレ少将
率いる義勇部隊、コンドル軍団を編成し、イタリアは
7万もの部隊を派遣し、反乱軍を支援した。人民戦線側
には、コミンテルンを通じてソ連が兵器供与、軍事顧問
の派遣を行った。
>>690 >イタリア軍がエチオピアへ侵攻する。
この時、息子ローゼン伯の飛行機冒険譚が始まったのだった…
>>695 息子ローゼン伯って、エチオピアといい、フィンランドやビアフラといい
常に「絶望的に」弱い側に付いたよね
騎士道スゴス。
>>697 ををを〜〜〜
このサーブB17は興味深いですね。
>>697 ローゼン伯親子がスワスティカ付けた機体に乗ったのって、フィンランドだけなんですかね。
父ローゼンは持ち物のいろんなところに卍付けてたって記述はあるけど、飛行機はツーリンDしか見たこと無い。
そういえば二次大戦前には、各国で幸運のシンボルとしてスワスチカ付けてた事例がいくつかありますが
あの有名な大西洋単独無着陸横断の”スピリット・オブ・セントルイス号”にもこっそり付いてるんですね。
戦後は本当に不遇な扱いのシンボルですが。
マ元帥
マンネルハイム線死守
702 :
名無し三等兵:2009/09/19(土) 13:22:46 ID:QB4YXKw6
国防委員会の努力は実を結び始めた。漸く予算が認められ、
フィンランド陸軍は7月20日に、これまでのルノーFT戦車に
代えて、ビッカース6t戦車を次期主力戦車に採用し、33両
を発注した。ルノーFTは完成当時は傑作戦車であったが、
如何せん20年前の旧式兵器であった。
一方ビッカース6t戦車は、最高速度時速35km、47mm砲を
装備する第1線級の新鋭戦車であった。
ビッカース6tは車体のみ、砲・無線機なしの状態でフィンランドは輸入しました。
のちに機銃搭載タイプとルノーFTから外した37ミリ砲搭載タイプに改修されましたが、
この37ミリ砲は取り付け方がいい加減で照準が甘く、演習砲弾しか発射できず、
訓練にしか使用できない代物でした。
冬戦争直前になってボフォース37ミリ砲に換装されましたが、これまた砲との照準調整、
乗員の射撃訓練もせずに実戦に投入され・・・大損害をこうむりました。
冬戦争後、大量に捕獲したソ連製45ミリ砲に再度換装、やっとまともな状態になったビッカース6tは
継続戦争で捕獲T26と共に主力戦車として活動しています。
取り付けがいい加減でよく事故が起きなかったなあ…
冬戦争でほぼ全滅したものだと思ってたけど、45ミリに換装して継続戦争でも戦ったのか。
ビッケルスの冬戦争の損失は確か8両。
しかも一両は無傷でロシア軍に捕獲されてる。
ホンカニエミ戦車戦はまともに戦闘を行うのに四苦八苦するレベルだったもんな…
708 :
名無し三等兵:2009/09/20(日) 19:02:25 ID:OnJEAuY+
11月、今度はフィンランド空軍が、オランダが植民地蘭印防衛用に
フォッカー社に発注し、その後キャンセルされ、行き場を失っていた
フォッカーD21の買い付けに成功する。その値段は、対抗馬の
メッサーシュミットBf109の半額であったという。
D21は固定脚ではあるものの、低翼単葉の近代的な戦闘機であった。
最高速度は時速446km、武装は7.9mm機銃を4挺搭載していた。
同時期のソ連軍主力戦闘機I-16が最高速度時速455km、7.62mm機銃
4挺搭載であり、ほぼ互角に戦うことが出来た。(当時の日本海軍の
主力戦闘機96式艦上戦闘機は最高速度時速406km、7.7mm機銃2挺搭載)
マグヌッソン大尉は、早速フォッカー社に赴き、テスト飛行を
繰り返した。
フォッケル、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
対抗馬のMe109、この頃は何型だろう?
もしフォッケルの代わりにMe109だったら、どうなってたかな。
半額だったのか! そりゃいい買い物したわ!
Me109だったら、まず予算の都合で機数が約半分に?
Bf109じゃ、ドイツ空軍向け納入が最優先で、手付けだけとって納品あとまわしっつうか永遠に納入されない可能性が高かっただろうな
フォッケル、スキー板つけてもあまり性能落ちなかったらしいしね
俺もいい買い物だったと思う
即納、安い、性能も十分。
他の北欧諸国の戦闘機事情を考えると、ありえないほどついてる。
>709
最初のフォッケルがフィンランドに配備されたのが38年10月。
その頃はドイツはBf-109E-1が生産ラインが稼動する直前くらいだから仮にドイツから
購入できてもD型だったろうね。
もっとも独ソの秘密協定があったからフィンランド相手に売る気はさらさら無かったろう。
イタリアのG-50の空輸に横やり入れて妨害してたくらいだし
フィン空のフォッケルは、前述の英ゲームコック戦闘機の次世代機として採用されたもの。
ソ連がTB−3爆撃機の運用を開始し、より高速で武装の強力な戦闘機が必要となったため。
機種選定は1935年に始まり、各国の計7機種(英グラディエーター、米P-60やフランスMS405他)
のなかからポーランドのPZL-P24とフォッケルが選ばれた。最終的には長い付き合いの関係でフォッケルに決定。
値段の安さもさることながら、ライセンス生産の融通が利いたことと、シンプルな構成で生産しやすかったのも良かったらしい。
しかも素材調達も加味したかなりの設計変更を行い、フォッカー本社で製造するよりも早くロールアウトできるようにまでなったとか。
ところが1939年になって、ソ連のSB-2高速爆撃機が登場、ふたたび新型機の機種選定が始まる
ここで候補に挙がったのがBf109、ハインケル119、スピットファイア、ハリケーン、ホーク75A、セバスキーEP-1、MS406、フィアットG50とフォッケル
その中でBF109はドイツに拒否されたはず、その代わりに提案されたのがハインケル119、でも高すぎて断念。
結局お金のないフィンランドが購入できたのはフィアットG50とセバスキーEP-1だけだった。
(ちなみにG50はドイツの妨害でほとんど届かず、EP-1はライセンス権まで取ったのに冬戦争開始で頓挫(隣国スウェーデンはかろうじてゲットした))
しょうがないので増産したのがフォッケル(シリーズ4)「ワスピ」。エンジン変えたので性能落ちちゃったけどね。
そのほか収納脚試してみたり(失敗)、武装を変えてみたり(失敗)、フォッケルはとても愛された機体だったみたい。
以上おソースはWIKI他
いまさらだが北欧空戦史を読むことをすすめる
>>715 セバスキーは惜しかったな。
イタリアの方もRe2000にしとけばよかったと思うんだが、
向こうがG50を提示してきたのかねぇ。
He112はちょっと使わせてみたかったかも。
718 :
715:2009/09/22(火) 00:00:07 ID:???
>>717 ハインケル112だw・・・間違えてスマソ。
SB-2爆撃機が400k/h以上の速度を出すので、500k/h超えの戦闘機として、He112は是非とも欲しかったらしい。
ちなみにセバスキーも値段が高かったのだけどフィン政府が渋っているうちに頓挫。
マンネルハイム元帥の苦労がしのばれます
Re2000はハンガリーやスウェーデンも購入してるのにね。足元見られたのかもしれん。
ハンガリー空軍ではRe2000で苦労してるね。
フィンランド空軍に導入されてたら・・・やっぱり活躍したかな。
フォッケルはブレニムと同じエンジンをつけてるから、ライセンス生産にも都合が良かったのだろうね。
マーキュリーはブレニムにいるからワスプに換装だ!とやったら、駄作機になったけど・・・
720 :
名無し三等兵:2009/09/22(火) 18:35:21 ID:N7idDT6e
同じ頃、一応の軍装備近代化に目途を付けたマンネルヘイムは、
再び英領インドに狩猟旅行に出かけた。この時は、ネパール王に
招かれ虎狩りに参加し、2mを超す大物を見事仕留めている。
翌1937年3月の大統領選挙では、キョスティ・カッリオが第4代
大統領に選ばれ、スピンヒューブドは引退した。これを機に
マンネルヘイムは引退を申し出たが、新大統領の強い要請に
より、職に留まることとなった。
スペインではフランコ将軍率いるナショナリスト軍が、北部制圧を
進めていた。4月には世界に衝撃を与えたゲルニカ爆撃が実施される。
>ナショナリスト軍
何でだろうか。ボランティア軍思い出した
「フィンランド空軍第24戦隊」によると、
フォッカーD21
オランダ製機体(エンジン抜き)・・・110万マルッカ。
フィンランドライセンス機・・・55万マルッカ。
ブルースターバッファロー・・・270万マルッカ。
Me109G 新品・・・400万マルッカ 中古・・・360万マルッカ。
メッサーの価格差がwww
中古ってやっぱ再生機とかかなあ?
>>718 気にすんない。
He112は当時としちゃ大火力だし、多分メッサーより高いだろう値段を
考えなければいいんじゃないかな。
あと
>>714の人の言う通り独製は納品されれば、ってのがあるよなw
Re2000ってセバスキーの互換(ry
>>719 ハンガリーの件、良かったら詳しく頼む。横だけど。
>>723 エンジン付けてやれよw
メッサーは相場の変動か足下みられてるんじゃないかこれw
>>723 値段の安い機体しか買えないのも当然ながら
フィン空の主力機はIVL A.22 ハンザの頃から、とにかくライセンス権とセットで購入できるものを優先してるよね。
なんせスペアパーツ切れたら終わりだから。
でもフィンランドの技術力では、フォッケルやブレニムあたりが国内生産できる限界で
継続戦争時点では購入か鹵獲兵器が主力。戦歴みるとパーツ切れたから活動停止とかあるしw
最後にはドイツも敵にまわしちゃったから、もう少し戦争が長引けばメルスも持たなかったと思われ
ミルスキ、ピョレミルスキ、フムの木製3兄弟じゃどうにもならんしね。
ドイツは戦車も航空機もせっせと改修して再生してる。
フィンランドが供与されたMe109G2「MT225」は、クロアチア空軍お下がり中古機。
クロアチア空軍時代に8機撃墜、フィンランド空軍時代は6機と1/2撃墜してる。
フィンランド空軍のメルスによる初撃墜も「MT225」が記録しているけど、相手はドイツ空軍機だった事が
判明してる。
敵見方標識をちゃんと描いてなかったJu188だったとか。
1943年に供与してもらったV突Gは、29両で一億マルッカだったそうな。
現邦貨で34億円くらい、高いか安いか。
抱き合わせでファモ18トンハーフトラックとかビューシングNAGトラックも
買わされてる。
予備の砲身やエンジンや弾薬込みならまあ安い方じゃないか
空軍でもゲーリングがフィンランドにはかなり好意的だったし
730 :
名無し三等兵:2009/09/26(土) 17:53:57 ID:O+UKJDrK
ドイツはコンドル軍団を通じて、メッサーシュミットBf109
戦闘機、ハインケルHe111爆撃機、ユンカースJu87急降下
爆撃機等の新機材を実戦投入していた。
共和国軍を支持するソ連も、I-16戦闘機やT26戦車を送り込み、
スペイン内戦は新兵器の実験場となっていた。ロシア内戦時に
エストニア軍やユデニッシの白軍と戦う赤軍第15軍の予備砲兵
大隊で戦った赤軍砲兵将校ニコライ・ヴォノロフは、志願して
軍事顧問としてスペインに到着した。
彼は熱心な共産主義者であったが、この時故国を離れた理由は
イデオロギーとは別の所にあった可能性もある。
>>729 ドイツ軍は突撃砲教官まで派遣してるので、訓練費込みならお安い買い物だったかもしれませんね。
が、当のフィンランド軍首脳は突撃砲の威力に疑問的でした。
が、1944年夏のソ連大攻勢での活躍を知るとすぐに追加供与を
要請してます。
V突が無かったら戦線が崩壊した可能性が高いから、安いも高いも無いな。
733 :
名無し三等兵:2009/09/27(日) 18:46:05 ID:LRAErgg3
この頃、ソ連では大粛清の嵐が吹き荒れていた。赤軍は多くの
有能な将校を失っている。数々の画期的な戦術理論を編み出し、
赤軍の近代化に貢献したミハイル・トゥハチェフスキーですら
ドイツのスパイとして処刑された。赤軍全体では、5人の元帥の
うちの3人、15人の大将のうち13人、85人の中将のうち62人等
高級将校の65%が犠牲になった。
累はボルシェビキ以来の古参の共産党員、知識人から海外からの
亡命者にまで及んだ。元赤衛軍幹部のクエルボ・マンネル、アドルフ・
タイミ、エウロ・ハーパライネン、エドワード・ジリング、そして
おそらくエイノ・ラーヤもこの時、命を落としている。
反革命罪で有罪とされた者の数は1937年から1938年だけで、134万人
を超える。
この大粛清って、そもそもなんで発生したの?
ギシンアンキを飲んだ人が独裁スイッチを持ってしまったから
正直なところ、よくわからない点が多いと思う。
発端(といっていいかな?)のキーロフ事件からして
スターリンの陰謀説とその否定説で決着がついてないし…
スターリンのやったことはともあれ
粛清は、短期間で権力を掌握するのにもっとも確実な手段
反対勢力あるいは反対を疑われる勢力は排除するのはどの国も同じ。
マ元帥も継続戦争時には強制収容所を作って、思想犯や左翼系をぶち込んでる。
ちなみに友愛社会の現代日本では、戦争が起こっても反分子の人権は保障されますw
>>733 エイノ・ラーヤ…(ノД`)・゜・。
オールドボリシェヴィキは悉く葬られたから仕方ないのかorz
しかしクーシネンは生き残ってWW2後に幹部会員(政治局員)になっている。
そーそーそー、オットー・クーシーネンは冬戦争の失敗の後も生き抜き、
無事に天寿を全うしてるね。
741 :
名無し三等兵:2009/09/27(日) 23:53:07 ID:NYKi8ks+
>>738 エイノ・ラーヤが1920年に画策したマンネルハイム暗殺が成功していたら
歴史も変わっていただろうね。
>>739-740 カミさんであるアイノ・クーシネンの著した「革命の堕天使たち」が大学図書館にあったので今度借りて読んでみようかなと…。
>>741 だろうなあ。
>>734 長いナイフの夜の影響もあったんじゃ?
「ヒトラーめ、やはり奴は天才だ」
とかなんとか喜んで参考にしてたような…
744 :
名無し三等兵:2009/10/01(木) 23:16:12 ID:pfzCJetx
スペインに渡った赤軍将校ニコライ・ヴォロノフは、
マドリッド攻防戦、グアダラハラの戦いを最前線で
経験した。彼は、共和国軍に砲の操作、標点観測、
から砲撃管制まで砲術理論全てを教授し、訓練を行った。
「砲撃のために一番重要なことは偵察だ。また砲撃の
際には1門1門が独立して戦うのでなく、目標に集中
しなければならない。」ヴォロノフは、貧弱で前近代的な
共和国砲兵に繰り返し、赤軍砲兵教本を叩き込んだ。
彼の指導を得た共和国軍は、国際旅団と共にマドリッドを
守り抜き、イタリア軍4個師団を撃破した。
金塊はソビエトがおいしくいただきました
ソ連の砲兵戦術はすばらしいな!
だが肝心の大祖国戦争じゃみんな土の下に・・・
ヴォロノフは大祖国戦争中に砲兵総元帥まで昇進してる。
粛正はまぬがれたのか・・・
>>749 前任者がトゥハチェフスキーらと共に粛清されたので1937年に軍団長になった。
やっぱ国力の差なんかね。アメリカもソ連も砲兵が充実してる。
圧倒的な火力差を貧乏国は正面装備で補う他ありまへんのかね。
イギリスが砲兵に力入れてたのも、やはりまがりなりにも大国だったからか
我が自衛隊も火力だけは充実していたからな…
753 :
名無し三等兵:2009/10/03(土) 17:01:22 ID:LhfX8uKZ
7月7日、今度は極東の盧溝橋で日中両軍が衝突した。紛争は
瞬く間に規模を拡大していく。
「国際的な緊張が高まっている。ボフォース社からライセンスを
買った105mm榴弾砲と37mm対戦車砲の配備の見通しは?」
マンネルヘイムは、ヴィルホ・ネノネン中将に尋ねた。内戦時、
白衛軍砲兵隊を育てた彼は、国防省兵器会議議長を務めている。
「タンペッラ社とVTT社で生産が決まっています。設計図と工具は
届きましたが、工作機械がまだ到着していません。」彼は4月まで
砲兵総監としてフィンランド軍砲兵の育成に心血を注いでいた。
彼が残した偉大なアイデアの1つに砲撃管理チャートの導入がある。
それまでの帝政ロシア式の三角関数法では、砲撃データの分析のため、
高度な数学的素養が必要とされていた。このチャートにより、
フィンランド軍砲兵は迅速な目標変更が可能になったのだ。
「戦場において最も多くの敵兵を倒すのは砲弾だ。生産を遅滞無く
進捗させて欲しい。必要な助力は惜しまない。」マンネルヘイムは
ネノネンを見つめた。二人は握手をして別れた。
754 :
名無し三等兵:2009/10/03(土) 19:02:01 ID:sb+E5Kc0
ネノネンも若いころにちょっとだけ日露戦争に参加してるんだな
あのねのねん
日本が帝政ロシアに売却→内戦で赤軍が白軍より捕獲→フィンランド独立戦争で赤軍から白軍が捕獲、
と、流れてきた日本製クルップ150ミリ榴弾砲は出てくるかな。
>>753 もし余裕があれば砲撃管理チャートについてご教示お願いします。
>>753 ボフォース37ミリ対戦車砲は冬戦争に間に合った。
が、105ミリ榴弾砲は生産に手間取り、一番砲完成がなんと1942年。
759 :
名無し三等兵:2009/10/04(日) 22:29:48 ID:LN4Cpa5C
11月、フィンランド空軍第24戦隊は、最初の7機のフォッカーD21を
受領した。パイロット達は、この新戦闘機をフォッケルと呼び、
嬉々として完熟飛行に取り掛かった。「フォッケルは特に急降下
性能が素晴らしい。何と言っても急降下は優勢な敵から離脱する
唯一の方法だからな。」マグヌッソンは語っている。
新しい戦闘マニュアルも配布された。その概論部分に、当時の
フィンランドの国情を表す1文がある。
「戦闘機隊は、敵空軍の作戦行動を制限し、自国空軍の作戦行動を
円滑に遂行させるために戦う。この任務のためには、通常多数の
戦闘機が必要とされる。しかし、例え少数であっても、熟練した
戦闘機隊は、地域的かつ一時的な制空権の確保を可能にする。」
>>759 フィンランド空軍戦闘機隊はまさにその通りに行動してるね。
フィンランド軍の強さってのは、
自分達の事をよく理解して準備していたが故のものだね。
>>718 ヨッペ・カルフネンが書いた本に、
マグヌッソンがドイツでHe-112に試乗した際の様子とその後フィンランドで行われた試験の様子が載ってた。
今更だけど、需要あるのかな?
訳すのに手間掛かりそうなんだ。
763 :
718:2009/10/06(火) 07:33:08 ID:???
>>762 ブルーステルのフィン空による試験評価は見たことあるけど、HE-112のもあるんですね。
後学のために是非知りたい。
でもフィンランド軍スレに移った方がいいかも。ちょうどフィン空の話してる。
>>762 是非ともお願いします。
カルフネン氏の自伝、面白そうですね。
「乗るどころか、見るのも嫌。なぜ私がメルスが嫌いか?」の記述はありますか?
765 :
名無し三等兵:2009/10/07(水) 22:11:42 ID:6rhM5L9j
11月6日には、日独防共協定にイタリアが加わった。
「反共国家による包囲網の形成は、ソ連の国防戦略に
大きな影響を与えるであろう。」国防委員会の席上で、
マンネルヘイムは沈んだ口調で自説を述べた。委員達は
互いに顔を見合わせた。
マンネルヘイムは憂鬱だった。政府与党の社会民主党は、
国防力の充実を唱えるマンネルヘイムに対して国際協力の
枠組の中で安全保障は達成出来ると主張していたし、
リベラル派の国民進歩党出身のカヤンダー首相に至っては、
軍備増強はむしろソ連を刺激すると考えていた。
「理想主義は美しいが、中身がない。」国防戦力の不備を
外交努力で埋め合わせるという考えは、マンネルヘイムに
とっては非現実的なものであった。
>>765 なんか日本の現状と照らし合わせてみると
マ元帥の憂鬱に共感できるな
>「理想主義は美しいが、中身がない。」国防戦力の不備を
>外交努力で埋め合わせるという考えは、マンネルヘイムに
>とっては非現実的なものであった。
この行はいまの日本のボンクラ議員どもに是非読ませたいところだな
>>763 もうちょっと時間かかりそうなんで、気長に待っといてくれ
>>764 自伝っていうよりは、彼が所属してた試験飛行班についての本だよ
どんな機種をいつテストして、内容はこうだった、っていうような
メルスの記述はあんまり無いっぽいな……
理想主義も別にいいんだが、たいていそれがダメだったときの事を考えてないんだよなあ。
むしろ現実を考えたくないから理想に走るのか?
日本は海があってすぐに攻め込まれるって事が無いから、基本呑気なんだよな。
>「理想主義は美しいが、中身がない。」
まさに金言、至言ですな。
771 :
名無し三等兵:2009/10/10(土) 11:05:39 ID:Evs87RQF
1938年1月17日、研究熱心なマグヌッソンは、今度はドイツ空軍の
戦術開発を担当する、テーベリッツの第132戦闘航空団を訪れた。
ドイツもまた、3機編隊を2機編隊に改編している最中であった。
彼はそこで最新鋭戦闘機メッサーシュミットBf109を見て衝撃を
受けた。Bf109には格闘戦能力は求められていなかった。ドイツ
空軍は一撃離脱という新しいコンセプトを採用しようとしていた。
スペイン帰りのパイロットが次々と戦訓を伝え、若い空軍士官達は
階級の違いなど気にせず、自由闊達に意見を交換していた。基地には
活気が溢れていた。訓練の激しさはフランスやイギリスの比では
なかった。マグヌッソンは戦争が近づいている予感を感じた。
>>770 日本も福祉なんか全部なくして軍備を増強し核開発し、特亜との戦争に備えるべきだな。
>>771 bf109みたいな一撃離脱機とチャイカみたいな複葉格闘戦機が
同時に存在してるところが、よせあつめフィンランド空軍の面白いところだな。
>>772 フィンランドもそうだけど、国防の基本は教育。日本はこれが既に絶望的にダメ。
あと徴兵制だな。北チョンとは言わんけど、極東みたいな危ない場所ではスイス・フィン並の危機感が必要。
サヨが戦時の赤紙とか持ち出して偏向してるけど、実際のところWW2時の日本軍の徴兵率は連合軍や独と比べてかなり低い
WW2中のフィンランドの(女性も含めた)とんでもない動員率に比べれば、日本人ってのは基本的に消極的な民族。
徴兵制真面目に主張する奴ひさしぶりに見た
778 :
名無し三等兵:2009/10/11(日) 09:23:57 ID:uF7y3OIN
3月12日、ドイツはオーストリアに武力進駐を開始した。
「総統の演説が始まるぞ。」第132戦闘航空団の
ミーティング・ルームに人々が集まってきた。
「僅かな間にドイツ民族共同体の中で大いなる変革が
起こった。」ラジオからヒトラーの声が流れると、
士官達は歓喜の表情を浮かべた。「オーストリアの
独立などという物は、平和条約に頼り、諸外国の
寛大さにすがりつく独立であり、真の大ドイツ帝国の
建設を妨げ、ドイツ民族の明日への道を塞ぐものに
過ぎない・・・」マグヌッソンは静かにラジオに
耳を傾けた。
ナチス・ドイツの対外膨張が始まった瞬間であった。
779 :
名無し三等兵:2009/10/14(水) 22:52:56 ID:e0GVxAii
マグヌッソンはドイツから戻ると、第24戦隊長となった。
後のエース・パイロット、エイノ・ルーカネン中尉が、
この頃のマグヌッソンの様子を語っている。
「マグヌッソンは、何といっても学習能力が高かった。
フランスから帰って来た時には身振り手振りが大袈裟に
なっていたし、ドイツから戻ると今度はカチコチの
ドイツ野郎になっていたよ。」
1938年4月、ルドガー・フォン・デア・ゴルツを団長と
するドイツからの訪問団がヘルシンキに到着した。
彼らは、ヘルシンキ解放20周年記念式典に参加した。
町を闊歩するドイツ人をソ連外交官は苦々しい思いで
見つめていた。
イギリスかアメリカに留学するべきだったなw
こう考えると、ドイツとフィンランドの縁は深いんだな。
>>780 肩をすくめながらアメリカンジョークを飛ばすマグヌッソンとか、あんまり見たくないような気が・・・
第2次大戦前までは欧州からみればアメリカは未だ格下扱いな風潮があったしな
1918年頃の創生期フィンランド空軍はドイツ人によって整備されたしね。結構因縁深い。
機体もドイツのものだし、教官もドイツ人、基地設立とかいろいろ手助けしたみたい。
まあ翌年には1次大戦の敗北でドイツ人が去り、フランス人とフランス機がやって来ることになる。
クラスに一人ぐらいは、漫画とかの影響で、所作がそれっぽくなる奴っているよねw
>ドイツとフィンランド
ただ、ソ連との同盟次第でフィンランドを切り捨てようとしたりと、
(ていうか積極的に妨害してたよね。イタリア機の移動とか)
両国関係は結構ドライだったし、ベッタリという感じではないと思う。
継続戦争ではフィンランドの反ソ主義と膨張主義を利用して枢軸に引き込んでるように見える。
マ元帥のドイツに対する駆け引きも上手かった
後年ヒトラーがマ元帥を電撃訪問したときに
禁煙家のヒトラーにタバコを勧めて、訪問の意図を見抜いたのは有名な話
帝政ロシアの上流社会で鍛えられた社交術は見事です
>>787 自己レス
×禁煙家のヒトラーにタバコを勧めて
○嫌煙家のヒトラー前でタバコに火をつけて
ヒトラー専用機が着陸したマルミ飛行場だったか、すぐ近くに高い煙突があって
あやうく専用機はそれをかすめた。
もう少しずれてたら歴史は変わった云々という話があるね。
このヒトラー訪問時のマンネルヘイム元帥の写真はどれを見ても、仏頂面。
迷惑だったろう・・・
>>789 この煙突
ttp://www.fao.org/docrep/44279f/44279f03.jpg 現Stora Enso社のパルプ工場のもの。今でも残ってるみたい。工場含めて北欧近代の名建築です。
ヒトラーの電撃訪問は
ソ連の制空権から200kmしか離れてない場所を、メッサー30機以上に護衛されて来るというヤバイもの
煙突にぶつかりそうになるわ、着陸時にブレーキ火災起こすわ、まさに命がけ(消火したフィン人は大十字ドイツ鷲勲章貰ったらしい)
そこまで命がけで訪問したからには、ソ連侵攻の支援を要求されるんじゃないかと邪推されても仕方ないかとw
ちなみにこの時ヒトラーを運んだパイロットは、ヒトラーの自殺まで付き添っている。シュトルヒでベルリンから逃がす計画だったらしい。
戦後ソ連に拘束、のちに西ドイツにもどり余生を全う。
(笑)
まったく、つくづく運のいい男だな
>消火したフィン人は大十字ドイツ鷲勲章貰ったらしい
勲章が安く感じるのは何故……w
>>790 たぶん大十字のないドイツ鷲勲章だろうな。
あれいろんなランクあるし。
マンネルハイムやリュティ は黄金大十字ドイツ鷲勲章だったか、一番ランク高いの貰ってるはず
>>772 海外渡航後のマグヌッソンについてはビクトル・ピエチエ(イサ・ビッキ)も同じ事を言っていたw
>>795 マグヌッソンどんだけ頭おかしいんだよwww
797 :
名無し三等兵:2009/10/17(土) 17:56:41 ID:I9bWa7BM
反応はすぐに現れた。
駐フィンランドソ連2等書記官ヤルチェフが、フィンランド政府に
相互援助条約の打診をしてきたのだ。この中にはフィンランド
領内におけるソ連軍基地設置が含まれていた。フィンランド政府は
国家主権維持の観点からこの提案を拒絶した。
さらなる領土拡大を目論むドイツが、次に目をつけたのは、チェコ
スロバキアであった。ドイツは、ドイツ系住民が多いズテーテン
地方の割譲をチェコ政府に強要する。チェコ政府はこれを拒否し、
戦争に発展する危機が生まれたが、宥和政策をとる英仏は、ドイツに
屈した。
9月29日のミュンヘン会談で、ドイツはチェコスロバキアからズテーテンを
奪うことに成功するのである。
ソビエトの魔手が・・・
>>797 このときスターリンが基地設置と引き換えに提案してきたのが
カレリア地方のレポラとポラヤルヴィの一部地域の返還
この一帯は、民族叙事詩カレワラの元となった民族詩が多く残る、フィンランドの心の故郷みたいな地域
フィンランド独立戦争後のタルトゥ条約(1920)でソ連に持っていかれてしまったこの地方は
その後もゲリラ戦で住民が抵抗したりしたんだけど、これも殲滅される。
また伝統を育んできた自営農民たちも、レーニン時代から徹底的に粛清されほとんどが収容所送りに。
なので1930年代当時には、カレワラに繋がるフィン族文化の源流は、ほぼこの地方から消滅させられていたと思われ。
継続戦争の一時期にフィン14師団が現地を奪還するが、戦後はソ連領に戻り現在にいたる。
文化が…消滅!?
ソ連恐るべし
いやまあ、そういうのはソ連に限らず
アメリカも中国も日本も、世界中がやってることだから…
強いて言えば国民国家恐るべし
>800-801
余りその辺を言い出すと、継続戦争中にフィンランドが東カレリアで行っ
たフィンランド化政策やらロシア系住民の強制収容所への収容やそこで
の飢餓などの話が出てきてしまうのでその位に。
あの頃はどの国も似たようなことやってたからな、その中でも突出してたのがナチスやソ連
だけど・・・
>>804 まあこういう大フィンランド主義運動が、ソ連のフィン侵攻の口実にも使われてるわけで評価は難しいね。
電撃訪問時のヒトラーもモロトフが小国の脅威論を力説してた事を、笑い話としてマンネルハイムに伝えてるし。
ロシアで出版されてる冬戦争関係の書籍なんか
今でも大フィンランドの侵略行為とか、ハカリスティとハーケンクロイツを恣意的に関連づけて書いたりしてて
どこの国でも歴史問題というものに解決はないのを思い知らされる。
ロシア・フィンランド両首脳は無用なトラブルを避けるため
「カレリア問題を表面化しない」としているのが現状。
ただしプーチンがカレリア問題は解決済みとする一方で
ハロネンは解決済みかどうかの言及を避けている。
難しい問題だよね。
807 :
名無し三等兵:2009/10/18(日) 20:01:56 ID:7ck1WgtY
1938年秋から翌年春までの状況は、ソ連にとって
好ましいものではなかった。スペインでは、共和国側
の敗色が濃厚となり、極東では、日本軍の攻勢に
よって、ソ連が支持する国民党軍は後退を強いられて
いた。膨張するナチス・ドイツはスラブ民族国家、
チェコ・スロバキアに恫喝を続けている。
1939年3月5日、ソ連外相リトヴィノフがフィンランド
駐ソ大使ユルヨ・コスキネンに、フィンランド湾
諸島の30年間の租借を提案した。レニングラードから
フィンランド国境まで僅か32km。ソ連はフィンランドに
ドイツの影響が及ぶことを恐れていた。
808 :
名無し三等兵:2009/10/21(水) 23:40:45 ID:R8nDG7ze
「フィンランドは厳正中立を保証します。しかし、
いかなる国であっても国内に軍事基地を設置する
ことは承服しかねます。」フィンランド政府は、
またも提案を拒否した。
「我々はこれが最終回答とは思っていませんよ。」
リトヴィノフは、右手を差し出しながら、コスキネン
に言った。
15日、ドイツは実力でチェコを併合し、さらに今度は
ポーランドに対してダンツィヒ自由市及び東プロイセン
との間の回廊地帯の返還を要求し始めた。
イタリアはアルバニアに侵攻し、同国を保護領としている。
戦雲は濃くなる一方であった。
いよいよ始まるぞ・・・
このペースだと次スレがいるな
811 :
名無し三等兵:2009/10/24(土) 22:58:52 ID:bqNoFNbN
5月、遥か彼方の極東ハルハ河でソ連軍と日本軍が衝突した。
始めは局地的な紛争に過ぎなかったが、やがて両軍は、
戦車、砲兵、航空機を投入して激戦を繰り広げた。
スペイン帰りの赤軍砲兵局次官ニコライ・ヴォロノフは、
砲兵運用の計画・統制のため、現地の第57特別狙撃軍団に
派遣された。この紛争は、ソ連軍にとってポーランド・
ソビエト戦争以来の本格的な戦闘となった。
ヴォロノフの目には、歴戦の日本兵に比べると赤軍
兵士は未だ素人同然に見えた。
だれかまとめ作って?
>>812 構わんがなに形式で?
それとこのスレの前身も?
814 :
名無し三等兵:2009/10/25(日) 20:49:56 ID:UG+UOJv4
6月4日、フィンランド政府は、郷土防衛隊及び
アカデミク・カレリア・ソサエティを動員して
カレリア地峡の防衛施設構築工事を再開した。
ボランティアによる工事には、限度があったが
彼らは自然石を並べて、対戦車障害を構築した。
この月の終わりには、ドイツ陸軍総司令部参謀
総長フリッツ・フォン・ハルダー大将が、作戦
部長のクレーブス少将と共にヘルシンキを訪れた。
議題の中心は武器及び資源の取引だったと推察
される。当時のドイツは日量30万マルク相当の
資源を必要とし、中国やルーマニア等の諸国と
積極的な貿易を行っていた。
ハルダーは、ヴィープリ、ペルク湖といった
カレリア地峡の要衝を視察して帰国した。
ハルダーはフランツです。
読みの違いじゃないのか
モロトフがアップを始めました
>>816 外国語の間違いを指摘すると、必ずこう言う奴が出てきて腹が立つ。
間違いは間違いなんだよ。検索して調べることもできない奴は黙ってろ。
Fritz
Franz
820 :
名無し三等兵:2009/10/28(水) 23:33:17 ID:XMkfu5fn
マンネルヘイムは緊迫する国際情勢を鑑み、軍に大規模な軍事演習
開催を進言した。これを受けて、この夏フィンランド軍の大演習が
実施された。閲兵式で次々と現れる、私服姿の急ごしらえの不揃いな
予備役の兵士の隊列を、馬上のマンネルヘイムは身じろぎもせず、
敬礼で迎え続けた。壇上には首相カヤンダー他の閣僚が並んでいたが、
兵士達は、ただ彼らの英雄マンネルへイムだけを見つめ続けた。
行進が終わり兵士が整列すると、カヤンダーが演説を始めた。
「フィンランドは十分な兵器を持っていない。制服にも不足し、銃も
旧式だ。しかし、そのことに私は誇りを持っている。我が国は、
国防費を削り、生活水準を向上させ、優れた教育制度を作り上げた。」
兵士達の間に白けた空気が流れた。マンネルへイムは舌打ちしたい
気持ちであった。彼は辞任覚悟で、政府に抗議した。彼の目には
政府は国防問題から目をそむけているように見えたのだ。
さて、ハルダー大将の件は間違いでした。正しくは、フランツでした。
821 :
816:2009/10/29(木) 00:25:40 ID:???
>>818 すいませんでした。これはまったく自分の失敗です。軽率な書き込み失礼しました。
カレリア地峡保守
まあ、お互いカリカリせずにゆるりと行きましょうや。
スオミのように我慢強くおおらかに・・・
スオミには、ハンシン・ユッカという短気で凶暴な悪党がいてだな(ry
つーか民族性ジョークだと
フィンランド人は短気ってことになってるんではないか?
眉唾かも知れんがキチガイは多いんだと
ヒトラーがフィンランド人の精神病的傾向とかを語っているな
北極光の影響と宗教に対する姿勢が原因とか言ってる
(互いの農場同士が離れて冬季は特に孤立した生活を強いられる→精神生活の充実に宗教が重要視される
→そういう生活を続けていると宗教狂いになって精神的におかしくなる)
只の思いつきの発言だろうけれども
サウナ熱もそこからなんかな。一方では社交の場でもあるのに
寂しいからサウナへ行くんだろうな
ビッケルス軽戦車あげ
良スレ保守!
パンとカクテルをたんまり用意して続きを待ってますよ
>>832 カクテルで歓迎したのはフィンランド側じゃなかった?
モロトフのパン籠対モロトフのカクテルの応酬で保守。
では俺は更新来るまで布団爆弾で寝るとするか
アンパン地雷食ってくるわ
北欧系スレだけあってきちがいばかりだ
冗談抜きで1/8だけだけどスウェーデンの血が入ってる俺を怒らせたな
保守
モンゴル平原では、日ソ両軍が師団単位の部隊を投入し、
激戦を繰り広げた。8月20日、赤軍は増強1個師団の日本軍に
対し、52000名の兵と戦車・装甲車約850両、各種野砲300門を
動員し、大攻勢に出た。遂に日本軍は包囲殲滅され、停戦に
応じた。この戦いで日本軍は19000名の死傷者と戦車30両、
航空機180機の損害を受けた。
ヴォロノフは、この戦いで多くの教訓を得たが、とりわけ、
152mm砲のトーチカに対する威力には感嘆した。機動戦に
おける砲兵支援のあり方は、今後の課題となった。
赤軍の損害も甚大であった。死傷者は24000名、戦車・装甲車
400両、航空機は350機が失われた。この戦いに後方支援担当
として参加し、後に参謀本部情報局(GRU)情報部長等の要職を
歴任したノボブラネツ大佐は手記に記している。「損害は、
全く正当化されない。我々が日本人に勝ったのは、兵力と
武器で優位に立っていたからであり、戦闘能力によってでは
ない。率直に認めれば、赤軍兵士と若い将校だけが申し分の
ない状態にあった。」
842 :
名無し三等兵:2009/11/18(水) 18:55:57 ID:K/JW3vV/
>>841 こないだどっかのスレで、「ノモンハンはソ連のが大軍だったんじゃないか」って言ったら
兵力は互角で損害は日本のが上だと言われたんだが、どっちが正しいの?
>>842 時期によって異なるけど、まともに実戦参加した総兵力ではソ連側が多い。
日本側延べ3万に対して、ソ連側6万5千くらい。応急動員なので部隊数のわりに少人数。
最末期に出てきただけで戦闘参加しなかった分も入れると、日本側が7万5千くらいで多くなる。
以上は人員の話で、装甲車両や輸送車両、航空機では常にソ連側が多い。
損害は、ソ連側が多いと言われてる。
ただ一時的に前線が壊滅されてるのと、主要国境線がソ連側主張通りになってるので、ソ連の勝ち。
兵力推移5月→7月初旬→7月下旬→8月下旬→9月中旬
日本軍:2000→1万3000→1万3000→ 2万 → 4万
ソ連軍:4000→ 1万 ―→ 2万 ―→5万7000→ 不明
>>842 冷戦時代の通説では、日本側が歩兵兵力で優っていたが、損害も大きいとされていた。
おおむねソ連側の公式発表の数字が、歴史学の通説だったようだ。
日本の軍事専門筋では、日本側の兵力と損害については、
旧軍資料の数字に基づいて、現在と同じ数字が主張されていたようだが、
ソ連側の数字より少なすぎるなどとして粉飾した数字だと疑う見方が多かった。
日本軍の兵力7万5千、死傷3万〜5万
ソ連軍の兵力5万7千、死傷8千
世界でも有数の信用できない発表をする国同士の
記録に大きな違いがあっても驚かない
両者の中間の数字が一番現実に近かったりしてw
戦果はともかく、損害に関しては日本の記録はそんなにデタラメでもない気もする。
と思ったけど、こうやって書いてみると自信がなくなってきた(笑)
ソ連軍パイロット捕虜 「俺はフィンスカのバッファローを100機は落したエースだぜ」
ソ連軍戦時ニュース 「わが軍はフィンランド海軍の戦艦10隻を撃沈せしめたり」
この頃欧州では、領土帰属問題を巡り、ドイツとポーランドの間の緊張が高まっていた。
ポーランドと対立するドイツは、ソ連への急接近を試みる。反共国家に挟まれていたソ連も
ドイツとの融和に動いた。8月22日、突如ドイツとソ連は不可侵条約の締結を発表した。
条約そのものは全7条の簡単なものであったが、これには付属の秘密議定書がある。
そこには、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ルーマニア、そしてフィンランド等
ヨーロッパにおける両国の勢力範囲が定められていた。
ナチス政権誕生以来、犬猿の仲だった両国の提携は世界を驚愕させた。英仏は、
8月25日ポーランドと相互援助条約を締結し、これに対抗する。
やった更新キタw しかしMR協定と言う事はいよいよWWIIの始まりか…
とりあえずポーランド軍ファンとしては7TPとかシミャウィ号、PZLの奮戦に期待w
わるーいニェメツなんかみーんなやっつk(無理)。ずるいロシヤなんかも鎧袖一しょ(それも無理…)
ポーランド独立第1空挺旅団出撃!
1941年9月1日午前4時45分、ダンツィヒ港沖のドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの
28cm砲が火を噴いた。砲撃を合図に地方警察第2警察署の警察中隊、ダンツィヒ郷土防衛軍の
義勇兵、ナチス党突撃隊ら約150名がダンツィヒ中央郵便局へ攻撃を開始した。空軍の爆撃も
始まり、午前8時には地上軍がドイツ・ポーランド国境を越えた。第2次世界大戦の勃発である。
英仏両国は3日にドイツに対して宣戦布告をした。
ドイツ軍の進撃は目覚しいものであったが、さらに9月17日、独ソ不可侵条約秘密議定書に
基づき、ソ連軍が東からポーランドに侵攻した。大国ポーランドは、僅か1ヶ月で消滅した。
www
いや、まだポーランド国内軍が・・・
次はエストニアの番であった。18日エストニアの首都タリンに逃げ込んだ
ポーランド海軍潜水艦オーゼル号が、その後中立国スウェーデンに亡命する、
という事件が口実となった。
ソ連はこれをもって中立違反にあたると抗議し、24日、相互援助条約の
締結を迫った。陸海空軍を国境に集結させたソ連は、爆撃機と軍艦による
示威行動を始める。エストニア軍司令官ライドネル将軍は、抗戦の構えを
見せたが、世界は彼を見捨てた。29日、エストニアはソ連に屈服し、赤軍の
駐留を受け入れた。これがきっかけだった。ラトビアは10月5日、リトアニアは
10日、エストニアに続いた。瞬く間にバルト3国はソ連に制圧されたのだった。
10月5日、フィンランド駐ソ大使コスキネンは、再びソ連外務省に呼び出された。
いよいよその時が迫ってまいりました
>>856 ラトビア空軍のマークも”スワスチカ”、しかも赤い。
こちらは民族伝統のシンボルとして、フィン空に遅れること1年の1919年から空軍が採用していた。
ちなみにフィンランド製のハンザ戦闘機(IVL A.22)を海軍用として買ったりしてる。
その他ブルドッグやグラディエーターなど重複する使用機も多い。こっちは全く活躍できなかったけどw
これらの戦闘機は赤と青2つのスワスチカを背負ったことになる。
死守
コスキネンを迎えたのは、新たに外務委員となったモロトフであった。
「戦争の勃発の結果、国際情勢は急変した。ソ連政府は、政治的
性格のある具体的な問題に関して、フィンランド政府と意見を交換
したい。」モロトフは、外相クラスのモスクワ訪問を要請した。
フィンランド政府内では、ソ連の領土拡張の要求を阻止すべし、
との声が高まったが、マンネルヘイムはロシアの持つ潜在的な
ドイツへの恐怖を理解していた。
「彼らはレニングラード防衛のため必要なものは、どんな手を
使ってでも手に入れようとするであろう。」
フィンランドの常備軍の兵力は、僅か歩兵3個師団、騎兵1個旅団、
戦車1個中隊に過ぎなかった。マンネルヘイムは、動員開始を
政府に進言した。
待ってましたモロトフ先生
そういえば最近出たプラモで1/72のPEー8スターリン機仕様には
モロトフ先生のフィギュアが付いてるぞ、初キット化だw
同志スターリンとベリヤも付いててお買いどくだぞ
無茶苦茶小さいけど・・・
約2センチw
10月6日フィンランド軍は、演習目的と称して動員を開始した。
参謀本部とフィンランド国内の9の軍管区から3回に分けて
召集が発令された。多くの者は着の身着のままで、郷土
防衛隊という民兵組織に参加している市民は、自宅から
武器を持参して全国265箇所の地区事務所に出頭した。
軍管区の下部組織である31の軍区では歩兵連隊と砲兵
大隊の編成に大忙しであった。
セイナヨキ軍管区ソイニ村の小学校には、300名の予備役の
男達が集まっていた。「下士官教程修了者は向こうの部屋だ。
残りの者は、このまま進んで姓名を申告して軍装を受け取れ。」
男達は指図された順に従い、列を作った。「君達は第30連隊
第2中隊だ。これからケウルーラに列車で移動し、大隊に合流
する。」動員担当の将校の指示に従い、彼らは駅に向かって
行進を始めた。その中には詩人イエーロ・ジルハンもいた。
予備中尉の彼が中隊長となった。
詩人ってなんか文学青年=ひ弱そう、なんてイメージ持っちゃうけど、
歴史的にみると詩人って結構強いのよねw 自ら武器を持って戦い、後方では前線兵士のための檄文を書き、
そして革命とかでは政府の大臣とかにもなってるし… 何なんだ詩人ってw
>>862 けっこう危なっかしい機体を専用機にしてたんだな・・・
ヒトラー専用He-177とかチャーチル専用アブロ・マンチェスターみたいなもんじゃん
そういえばマンネルヘイムはハンシン・ユッカ号に乗った事あるのかな?
>>866 乗ったことがあるも何も
ハンシン・ユッカ号は立派にVIP輸送機として活躍、マンネルヘイムも複数回利用していますよ。
第34戦隊最初のメルス受け取りの際パイロットをドイツへ運んだのもハンシン・ユッカ号です。
冬が近づいていた。昼は日に日に短くなり、公園には薄氷が張るようになった。
雨の日が増え、ヘルシンキでは帽子とコートを厚手のセーターを身にまとった
市民の姿が増えきた。
7日、フィンランド駐在ソ連公使もフィンランド外務省を訪れた。「戦争で国際
情勢が緊張しているので、ソ連は隣接諸国が戦争を阻止しうるような状況を
作ることを欲している。」外相エルッコは断言している。「フィンランドの国策は
中立であり、同じ願望を持つ北欧ブロックに属している。独立を危うくするような
如何なる提案も受け入れ難い。」
>>862 商品名 プラモデル ズベズダ 1/72 ペトリャコフ Pe-8 スターリン機
メーカー GSIクレオス
発売日 09年11月下旬
製品仕様 プラモデル
【スケール】1/72
JANコード 4600327072801
詳細 ソビエト外交官の輸送用としても使われたソビエトの爆撃機です。
スターリン、モロトフ、ベリヤと4人のパイロットフィギュア付きです。
まさかと思ったら本当だった(ノ∀`)
戦時態勢への移行のため、フィンランド軍は混乱していた。
軍装と言っても兵士に供与する軍服すらなく、私服に
記章のみをつけたちぐはぐな兵士の格好は、首相の
名前をもじってカヤンダー・モデルと冗談のネタにされた。
対戦車砲、対空砲は皆無に近く、戦車、航空機も実戦に
耐えうるものは僅かだった。銃、野砲及びこれらの弾薬も
不足していた。
軍のデポからはお蔵入りしていた旧式兵器が次々と
運び出された。その中には内戦時代の装甲列車があった。
内戦終了時、各地で赤衛軍やロシア軍の装甲列車が
白衛軍の手に落ちた。フィンランド軍は、損傷の少なかった
機関車や砲車を組み合わせて、2編成の装甲列車を維持して
いたのだ。
8日、ヴィープリの郷土防衛隊から乗組員が集められた。
「我々は装甲列車1号に乗り込むことになった。」指揮官の
ヤルヴィネン予備中尉が宣言した。
装甲列車って機関車も設えてあるのか。
民間用のに非常時は出来たら装甲張って出してるんだと思ってた。
装甲列車は重いから機械的寿命も早いのだ
フィンランドの装甲列車の寿命は(無理矢理延ばして)長そうだ
ソ連との交渉が報じられると、フィンランド国民からは猛烈な反発が沸き起こった。
フィンランド政府は交渉継続のため9日に、全権代表パーシキヴィをモスクワに
派遣する。彼がヘルシンキ駅に到着した時、駅は愛国スローガンを叫ぶデモ隊に
囲まれていた。
ソ連は部隊の移送を始めている。カレリア地峡の国境地帯には第20重戦車旅団が
到着した。旅団は4個戦車大隊と支援部隊から成り、T-28重戦車を中心に145台の
戦車を保有していた。予備役の戦車兵が加わり人員が充足すると、旅団は夜間走行や
対戦車障害の突破訓練を始めた。
T-28戦車
全長: 7.44m
全高: 2.82m
重量: 28.9t
乗員: 6名
最大速度: 7.4km/h
武装: 16.5口径76.2mm戦車砲及び7.628mm機関銃×3〜4
装甲: 11〜30mm
T-28保守
フィンランド第30連隊本部は、ひっきりなしに出入りする将校や下士官達で
騒然としていた。連隊が所属する第10師団は、カレリア地峡に集結することに
なっている。師団本部は、第30連隊に19日までにラトガ湖畔のタイパレに
移動するよう命令した。
「補給廠に繋いでくれ。」プロイセン第27猟兵大隊以来、職業軍人の道を
歩んできた第30連隊長アルマス・ケンピ中佐は、受話器に向かって怒鳴っている。
各地の補給廠は、あちこちの部隊から問い合わせが殺到し、混乱していた。
「野営資材、炊飯用具、全てが足りないぞ。野戦病院もだ。ペニシリン、キニーネ、
包帯、注射器、ありったけ用意して欲しい。」国防省補給部は、新たにタンペレ、
ユヴァスキュラ、クオピオ、イルマヨキ、ジェプア、オウル、ヴァンマーラに弾薬
補給廠を設置し、さらに砲兵用に2箇所のデポを増設していた。
連隊本部は、さらに、2955名の将兵と軍馬489頭の移動用に、5本の列車の
確保に躍起になっていた。
いよいよ外交交渉は最後の時間稼ぎになってきましたな。
しかし総動員状態とはいえ中々鉄道を確保するのって難しいのかねぇ。戦時ダイヤになってないのか?
戦時体制移行は、女性も無縁ではなかった。フィンランドには、
内戦時から女性による軍の補助組織があり、看護、事務、給食、
さらには防空監視や伝令も担当した。この組織には、1921年に
ロッタ・スヴァルドという名称が与えられている。
メサビルティッサ村の17歳の少女レンピ・レッパネンは、ロッタ・
スヴァルドの裁縫クラブに所属していた。軍には全く備蓄が
なかったため、彼女はありったけの食料を集めるよう指示された。
彼女達は手分けして民家を1軒1軒訪ねて回り、渋る住民から
食料を集めた。
同じ頃、ウッティ駅に降り立ったフィンランド空軍大佐ロレンツは、
そのまま歩いて基地に向かった。
ヤローどもの制服がパッと見ドイツと区別つかんのう。
まあそういう時代なのか…
ウッティ基地には第2航空団が配置されている。指揮下には
フォッカーD21装備の第24戦隊と、10機の旧式のブリストル・
ブルドッグ戦闘機による第26戦隊があり、この46機の戦闘機と
約100名のパイロットが、フィンランド戦闘機隊の全てであった。
ロレンツはずかずかと司令室に入った。「只今より第2航空団
司令を引き継ぎます。貴官にはカウハバへ向かえ、との命令が
出ています。」司令官のライナー・アホニウス中佐は顔色を
変えた。「まだ引継ぎ書のサインも済んでいないぞ。」ロレンツは
無表情で答えた。「今は戦時中です。既に指揮権は引き継がれ
ました。午後の列車に間に合うよう速やかに出立願います。」
10月11日早朝、第2航空団指揮下の第24戦隊は、マグヌッソン大尉以下
ウッティ基地を飛び立ち、国境に近いイモラ基地に移動した。「赤い星の
戦闘機に遭遇しても、絶対交戦するな。」ロレンツは厳命した。隊員達は、
早速機体整備、装備品の点検、そして訓練に終われた。マグヌッソンは、
距離50m以遠での射撃を禁じていた。新米パイロットは75%の命中を達成
するまで、ひたすら地上の的を相手に射撃訓練を続けた。
この頃には戦闘機の傍らにテントが設営され、パイロットはそこで待機する
こととなった。暇つぶしに持ち込まれたトランプでポーカーが始まった。
勝負はいつもエイノ・ルーカネン中尉の一人勝ちである。「ラジオをつけてくれ。」
マグヌッソンの求めで、ラジオのスイッチが入れられた。人気番組モンテ・
クリスト伯の時間だった。しかし、ひどいひどい雑音のため番組は聞き取れ
なかった。「ソ連の妨害電波だ。」パイロットの間に白けた空気が広がった。
フィンランドの掲示板に
ブルーステルの予備の羽根?の上でピンポンやってる写真が貼ってあったな
いろんな娯楽を思いつくもんだw
地上の的に50mまで近づく…
さらっとえげつないこと書いてないか?w
>>886 確かによくよく読んでみると大分凄い事言ってるなマグヌッソンさんw なんかフィンランドだからそういうものなんだろう、とか普通に受け止めてたな…w
>>886-887 ようは待ち伏せと、森などの地形を使ってのゲリラ戦を徹底しろってことだろ?
そこまで突飛なことではなくね?
航空機で50m?!
流石にいくらなんでも地上標的に50m接近命令ではないだろ、JK
鈍足下駄履きの低性能機とはいえ、そこまで近づいたらよける間もなく激突だぞw
とはいえフィンランドなら、フィンランドならやりかねない・・・
12日、クレムリンではフィンランド特使パーシキヴィとソ連
外相モロトフの間で、第1回目の会談が始まっていた。
モロトフは、バルト3国が締結した条約と同様の相互援助
条約を結ぶ意向があるかを問いただした。
「何処の国が貴国の脅威となりましょうか?フィンランドは
貴国の安全を犯す国ではありません。」パーシキヴィに
モロトフは冷たく言い放った。「ドイツかもしれない。イギリス
かもしれない。いずれにせよ、近年兵器の進歩は目をみはる
ものがある。貴国には貴国の保有する飛行機以上の航空
基地がある。カレリア地峡の要塞に長距離砲を設置することも
可能だ。我が国に敵対的な国には好都合だろう。我々は、
レニングラードと貴国国境との距離に懸念を持っている。」
パーシキヴィは、フィンランドの国提である無条件の中立政策を
切々と訴えた。
「貴国の政策を尊重しよう。」モロトフは重々しく応えた。
ソ連は新たなカードを切った。その内容は、カレリア地峡における
30kmのフィンランド国境後退による領土割譲、ハンコ半島の海軍
基地の30年の租借、フィンランド湾の島々の割譲、ペツアモ方面の
国境調整、そしてその見返りとしてソ連領カレリアのフィンランドへの
割譲であった。パーシキヴィは本国政府と協議する猶予を求め、
モロトフはこれを承諾した。
フィンランド政府の対応を真っ二つに割れた。最強硬派は外相
エルッコであった。「正義は我々にある。ソ連は全世界の注目の中、
我が国との不可侵条約を守るであろう。」彼はフィンランドが毅然とした
態度を取ることが、ソ連に領土的野望を放棄させるために必要と
考えた。首相カヤンダーもこれに同調した。
航空機相手は50m以遠禁止、そのためにまず地上標的から訓練てことじゃないのか
そうだよな。
人外ならともかく、新米には絶対無理か。
でもフィンランドならと思ってしまうw
マンネルヘイムは、これに懐疑的であった。彼は、ソ連は実力を
行使してでも、彼らの要求を達成するだろうと考えた。「我が国の
人口は370万。レニングラードの人口と大差ない。国力の差は
歴然としている。軍事衝突を避けるためには出来ることは全て
しなければならない。」マンネルヘイムの言葉は、国防委員会の
メンバーを驚かせた。「早急にソ連と条約を結ぶべきだ。しかし、
フィンランドの海岸にソ連の基地設置を認めるくらいならば、
幾つかの島を譲渡するしかあるまい。」彼は、いざ戦争が
始まればフィンランド湾の島々の防衛など不可能であることを
知っていた。
フィンランド全野戦軍29万5000人の編成が完了するのは14日である。
カレリア地峡に12万人、ラトガ湖北方に4万人、ペツアモからクフモに
至る東部国境に1万6000人が配置された。フィンランド軍兵士の
80%は、1915年及び1916年生まれを中心とする予備役から召集した
兵士であった。
フィンランド陸軍戦闘序列
カレリア地峡軍
第2軍団:第4師団(第10、11、12連隊他)
第5師団(第13、14、15連隊他)
第11師団(第31、32、33連隊他)
作戦群U(騎兵旅団、第1猟兵大隊、独立第3大隊、独立第7大隊)
作戦群M(第3猟兵大隊、独立第1大隊、独立第4大隊)
作戦群L(第2猟兵大隊、独立第2大隊、独立第5大隊)
第3軍団:第8師団(第23、24、26連隊他)
第10師団(第28、29、30連隊他)
作戦群R(第3旅団、第4猟兵大隊、独立第6大隊、砲兵1個大隊他)
軍予備:第1師団(第1旅団、第2旅団他)
第4軍団:第12師団(第34、35、36連隊他)
第13師団(第37、38、39連隊他)
その他:独立第8、9、10、112大隊、第7自転車大隊、第4工兵大隊
北フィンランド集団
北カレリア集団:独立第12,13,14,15,16大隊他
ラップランド集団:独立第17大隊
オーランド戦闘団:第22連隊
第8自転車大隊
砲兵2個中隊
総司令部予備:第6師団(第16、17、18連隊他)
第9師団(第25、27連隊他)
野戦予備旅団
第6自転車大隊
砲兵中隊9個
この日、モスクワでは第2回目の会談が行われた。フィンランドは譲歩案を用意したが、
ソ連の主張とは相容れず物別れに終わっている。
17日、カリオ大統領はマンネルヘイムを国軍司令官に任命した。マンネルヘイムは
直ちに総司令部の編成を始めた。内戦時に、カレリア地峡の戦闘で活躍した
カール・レンナルト・オシュ中将が参謀総長となり、国防委員会以来彼の右腕となって
働いたアクセル・アイロ大佐が補給総監として戦闘準備を補佐した。
人員、装備に不足するフィンランド軍の頼みの綱は、1920年代から建設が始まった、
フィンランド湾岸インキラからムオラー湖を経て、ラトガ湖に至る、全長135km、
幅90kmに渡る防衛陣地帯、マンネルヘイム線であった。
>>895 総人口370万で全野戦軍29万5000人て・・・
ものすげー動員率・・・
若い男はホンと総ざらいだな
フィンランドの自然環境で自転車は割と有効だったのかとか
自転車部隊の兵科とか自転車装備率とか創設経緯と気になる。
正規の師団に組み入れる形じゃなくて独立大隊っぽい扱いのとことか。
Hoi2だと師団名で出てたけど流石に師団規模じゃないんだなw
関東軍の連中にスオミの連中の爪の垢を煎じて飲ませりゃ良かったんだ
>>898 そこらへんは図体が小さい方が楽だろうな>動員率
>>899 なんとなく想像だけど
冬期は歩くだけで体力や戦力を損耗するからじゃない?
それに行軍中の奇襲に致命的に弱いという点を除けば静かだし、機動力も上
>>899 冬戦争では自転車は…
補助輪がわりに橇つけても無理だろうw
一般論として、内燃機関の普及率が現在より遥かに低い時代には自転車の有効性は極めて高いわけだが
この防衛線は、1920年代及び1932年以降の2期にかけて
コンクリート砲台や機関銃座、掩体壕が建設され、自然の
地形を利用した防衛陣地が築かれていた。しかし、例に
よって予算不足の為、この時点では計画の全てが完成
した訳ではなかった。施設に使用されたコンクリートも、
ヘルシンキのオペラ座よりも少ないほどであった。
防衛線の東端タイペレ付近は、幾つかの小村があるだけの
寂しい場所であった。マンネルヘイム線は、ここでは川の
東端ラトガ湖からスヴァント湖の間の森林地帯を通っていた。
防衛線は塹壕、地雷原、鉄条網、障害物、機関銃座から
構成されていたが、対戦車障害は岩石や材木を利用した物や
対戦車壕があるだけであった。
ここには、カールナヨキとヤリセバの2個沿岸警備大隊大隊が
配置されていた。彼らは砲兵隊も持っていた。しかし、その装備は
1918年の内戦時にロシア軍から押収された152mm砲4門や、
明治31(1898年呉海軍造兵工廠製造の120mm砲2門という時代物
であった。
防衛線は野戦軍で増強されることとなり、第10師団がやって来た。
師団司令部は、第28連隊をタイペレに、第29連隊をその西の
サッコラ、その中間に第30連隊を配置した。
>施設に使用されたコンクリートも、
>ヘルシンキのオペラ座よりも少ないほどであった。
悲惨だ……(;´Д`)
>>902 自転車部隊は、冬季はスキー装備らしい。
第30連隊第2中隊を乗せた列車は深夜駅に到着した。
ソイニ村の男達は装備を背負い10km行進した。夜が明けると
目の前には森と川が見え、多数の兵士、車両、軍馬が集結
していた。「整列。小隊毎に朝食を受け取れ。将校は全員集合。」
ジルハンが号令をかけた。補給部隊が現れ、兵士達は湯気の
立つ野戦炊事車の前に列を作った。
「連隊長の承認が降りた。大隊のプラン通りに陣地を構築する。」
食事が終わるとジルハンは地図を広げた。「まずは個人用の
塹壕を掘ろう。射界を十分に確保し、倒木で偽装するんだ。」
この日から3週間の陣地構築作業が始まった。
>>902 流石に先頭が押し固めてor除雪車で整地したところを自転車で走るんだろ
第28連隊も到着し、将校達は早速、陣地を視察した。
ルスカと呼ばれる美しい紅葉の季節は、あっという間に
過ぎようとしており、辺りには冬の気配が感じられた。
第1大隊第1中隊のラエコリオ中尉、機関銃中隊長の
スオンティラ予備中尉ら一行は、ムスタオヤ川河口に
ある1920年代に建設された2つの機関銃座からなる
拠点アルカザールに到着した。「貧弱だし、配置も
最悪だ。」スオンティラは言った。「戦いが始まれば
決着は早いでしょうな。主防衛線から孤立している。
側面からの攻撃に弱いし、対岸からの砲撃にも弱い。」
ラエコリオ中尉は川に視線を送った。川はその部分で
屈曲し、アルカザールは格好の射撃位置を占めていた。
「これだけのコンクリートが使われたのだ。誰かが
ここを守らねばならない。」彼は随行していた第1小隊長
ウルホ・カホネン少尉に主防衛線との連絡壕の建設を
命じた。
>>906 「チャリの車輪部(前輪とか)にスキー装備」じゃなくて「スキー装備の歩兵」
ってことでいいんだろうか?
もしそうだったら、割と話題に上がるスキー歩兵は彼らだったのか。
いくら踏み固めた雪でも自転車では無理じゃね?
大丈夫だろ実際に真冬のフィンランドで自転車乗っている人居たし。
外交交渉は続いていた。パーシキヴィは、財務相ヴァイノ・タンネルを伴い、
23日にモスクワに到着した。即日会談が再開されたものの、双方の隔たりは
大きかった。ソ連は不満をあらわにした。
24日、カリーニン軍管区に駐屯するソ連第123狙撃師団長P.F.アルヤブシェフ
大佐は、ソ連軍最高司令部命令0145を受領した。「レニングラード軍管区に
移動して第7軍の指揮下に入る。」彼は幕僚達に告げた。エストニア帰りの
ソ連第56狙撃師団ではフィンランド軍の挑発に関する報道が、将兵達の間で
話題になっていた。「フィンランド軍は国境に軍隊を集結させ、フィンランド兵
1人はロシア兵10人に匹敵するなどという馬鹿げた宣伝をしている。」
第37連隊のポリトルカ・オレシンは日記に記している。
レニングラード北方のレンボロヴォでは、ソ連第50軍団の編成が進んでいた。
グレブ・チフトス少尉は第70自動車化衛生大隊の小隊長を命ぜられた。彼は
軍団本部、国境警備隊からの各種レポートの暗号解読をしていたが、最近
幾つかの報告書が彼の持っている暗号表では解読出来ない事に気付いた。
>>914 >フィンランド兵 1人はロシア兵10人に匹敵するなどという馬鹿げた宣伝
あながちウソじゃ無かったところがスオミ・クオリティ
フィンランド兵士一人を倒すためにソ連兵10人以上が基本になるとはこの時誰も思っていなかったのです。
スウェーデンがちゃんと支援してればレニングラードは今頃フィンランド領だったな。
>>917 もしくはキルナ・ナルヴィク・ルレオがソ連領
>>918 おいおい、装備さえしっかりしてればフィンランド兵がソ連兵に負けるわけないだろ。
人数比は1:4なんだから、フィンランド軍が4割損害を受けた時点でソ連は全滅。
きっちり訓練したソ連兵とマトモな指揮官が到着して
攻撃をかけたら戦線がきしみをあげて崩れだしたというのに
なんかフィンランド軍の知名度が上がってから
ルーデル崇拝みたいな痛い奴が増えたな
ロシア側の資料も出してきてくれるのは大変ありがたい。
>>917 さあ、『北欧の外交』を読むんだ。
曇天のヘルシンキは、町全体が暗く見えた。街路樹の葉は落ち、
公園の池や道路の石畳の窪みに氷が張るようになった。
「フィンランド湾の島々は交渉のカードに使うべきだ。場合によっては
イノ要塞も諦めねばなるまい。」マンネルヘイムは政府の諮問に
答えた。彼の許には不吉な情報が集まっていた。9月上旬以来、
ムルマンスク鉄道では民間人の移動が制限されていた。北へ向かう
列車は多数の軍人を乗せている。10月9日を初回として、連日
ソ連軍機は偵察を行っていた。
「政府は甘く考えているがソ連は本気だ。最近、ポーランドにいた
1個師団がレニングラード軍管区に現れた。東カレリアには、
少なくとも2個師団と支援部隊が増強されている。」マンネルヘイムの
言葉に政治家達は不満を漏らした。「これでは何のための国防
予算だったのだ。」マンネルヘイムは怒りのあまり押し黙った。
彼ら政治家の無知により、フィンランドは国防力不備のまま、国家
存亡の危機を迎えたのだ。
>>924 嫌露厨のイリノイみたいなのがいるからピリピリしてるんだよ。
昨日はユーロファイタースレにコピペ爆撃してきたし。
とりあえずスルーだ
楽観論を唱える政治家に対し、現実を見据えたマンネルヘイム元帥を見習いましょう。
>>919 そのレシオが最後まで維持されるといいけどな
スオミスレではあんまり言いたくないけど、ソ連の底力をあんまり舐めない方がいいと思うのよ
11月、モスクワで第3回目の会談が始まった。「ハンコ半島の租借の件は
取り下げよう。」4日、スターリンはフィンランド側代表の意表をつく代案を
提示した。それは、ハンコの租借に代えてその東側の島々の貸与又は
割譲にする、というものであった。この提案へのフィンランド本国の回答が
来るまで会談は中止となった。
6日、フィンランド第30連隊第2中隊はキヴィニエミへ移動した。「また
穴掘りか。」塹壕陣地構築命令が出ると、兵士達は不満の声を上げた。
穴を掘るのはそれほど苦にはならなかったが、土を土嚢に入れて積み
上げる作業は体力を消耗させた。
汗を拭う兵士の傍に、岩石を積んだ馬車の一隊が到着した。カレリア
地峡の土壌には多くの花崗岩が含まれている。コンクリートより安価で
あったし、何よりもセメント・ミキサーが不足していた。そこで、フィンランド
軍は対戦車障害に岩石を利用することを思いついたのだった。
第30連隊長のケンピ中佐は、相変わらず補給部門との調整に追われていた。
「ヴォロッスラからキルヴェスマキの間で防衛準備をしている。支援して欲しい。」
国防省補給部の担当者は困惑した。「連隊の補給に関しては、師団の補給部門か
砲兵指揮官に問い合わせるのが通常の手続きです。」ケンピはまくしたてた。
「型通りのことを言ってもらっては困る。非常時だ。」彼の担当地区には、1920年代に
建設された保塁が1つと機銃座が2つあるだけだった。指揮下の部隊は戦闘訓練を
後回しにして、穴掘りに追われている。「防衛資材が不足している。鉄条網、それから
地雷も欲しい。」電話の向こうから溜息が聞こえた。「そこら中で物資が不足しています。
知恵を絞って有る物で工夫してください。」彼はそう言いながらも、新設された
ユヴァスキュラの砲兵デポの連絡先を告げた。
なんで砲兵に話を回すんだろう。
段列も兼ねてるとかなのか。
>>932 何ででしょうね?
砲兵は射撃する時陣地作るので、資材管理しているのかもしれませんね。
あとは、輸送手段も持っているからとか。
他の兵科と比べるとトラックの配備数が多いからかもしれない
フィンランド政府内では議論が紛糾していた。「ソ連が譲歩を示すのは、
戦争の意思がないからだ。堂々と正論を貫こう。」政府首脳は主張した。
割譲の対象となっているカレリア地峡には、重要な産業施設と共に
フィンランドの人口の1割近い住民がいる。来るべき選挙を考えると、
国民の猛烈な反発を受ける領土問題の譲歩を纏め上げようとする
者はいなかった。
一方マンネルヘイムは、ドイツとソ連が同盟している状況での開戦に
断固として反対した。「勝てる見通しが無ければ、戦争は避けるべきだ。」
彼は、国民の批判の矢面に立つ覚悟まで表明した。
「かつて勇猛な虎のようだった元帥は、今や猫になってしまった。」
対ソ強硬派は、妥協を唱えるマンネルヘイムを弱腰と罵った。
モスクワは暗く重い雲に覆われていた。9日、陰鬱なクレムリン宮殿の1室で、
会談は再開された。パーシキヴィは、ソ連提案に対するフィンランド政府の
回答を読み上げた。「フィンランドは、貴国の提案を拒否する。」この回答は、
スターリンにとっても全く意外なものであった。タンネルは回想録に記した。
「相手側の人々の目は大きく見開かれた。我々がスターリンの示唆に喜んで
どういうするものだと、彼らが予想していたのは明らかであった。」交渉は
完全に決裂した。「我々文官の仕事は終わった。後は軍人が引き継ぐであろう。」
モロトフは不吉な言葉を呟くと、フィンランド代表に別れを告げ、部屋を出た。
13日にパーシキヴィとタンネルは帰国の途につく。
スプラッタ映画「恐怖のサンタクロース」の公開間近ですね。
その間にも戦争準備は進んでいた。装甲列車1号は補修を済ませ、
来るべき冬期戦に備えて白色に塗装を塗りなおしていた。
ラドガ湖北のスオ湖のフィンランド第12師団第34連隊本部では、
連隊長のマッティ・ティッティネン大佐が地図をにらんでいた。
この地域には第12師団の2個連隊と第10独立大隊が、若干の
砲兵と共に配置されていた。「主力はキヴィ湖に集結させよう。」
付近の森林には、地元の者しか知らない小道が幾つもあった。
「敵が街道を進んできたら、分団して各個撃破する。」作戦には
十分な自信があった。問題は装備であった彼の部下の多くには
ライフルさえ支給されていなかったのだ。
ニコライ・ヴォロノフは、多数の軍人と専門家から成る視察団の
一員としてレニングラード軍管区を訪れていた。
ライフルすらないとは…
何を持って行ったんだ?
槍とか?
自前の狩猟銃じゃね?
さすがに全国民がヘイへやコルッカというわけには(ry
兵員分のライフルが無くったって、
彼等はとにかく労働が可能なんだから塹壕が掘れる。
戦闘が始まったら、弾薬の運搬や伝令をやって貰えば良いんじゃなかろか。丸腰で。
なるほど!スコップか!
「森林、沼地、貧弱な交通手段。ここは機動戦向きの土地ではありませんな。」
粉雪の舞う第18狙撃師団の国境防衛線で、ヴォロノフはレニングラード軍管区
司令官、キリル・メレツコフ大将とレニングラード共産党書記長のアンドレイ・
ジダーノフに語った。ヴォロノフは、スペインとノモンハンの経験から、砲兵の
重要性を熱心に説いた。ジダーノフは、スターリンの側近として頭角を現し、この
頃には政治局員としてスターリンの独裁体制を支えている。
「同志、敵を過大評価しておられますな。国境の向こう側にいるのは、近代的
装備を欠いた田舎者の集まりですぞ。」
その国境の向こう側では、フィンランド軍兵士達が陣地構築と訓練に明け暮れて
いる。
マントイフェルスレは1スレで終わったけど、
さすがにこっちは2スレ目が必要な感じになってきましたね。
兵士達は各位の創意工夫で、少しでも塹壕陣地の住み心地を
良くする様心掛けていた。中隊本部の近くにはサウナ小屋も
設営された。
「男手が足りないと冬支度も大変だろうな。」フィンランド第30連隊
第2中隊の兵士達は1日の作業を終え、宿舎に入ると故郷を
思い出した。ラジオからロシア民謡のカリンカが流れてきた。
「モスクワ・ティルツだ。」彼女は、内戦時にソ連に逃れた赤衛軍の
残党であった。彼女はプラウダやイズベスティアの記事を読み上げ、
タンネル、カヤンダーらフィンランド政府首脳、そしてマンネルヘイムを
口汚く罵った。「音楽はいいが、こいつの声を聞くと気分が悪くなる。」
ジルハン中尉は眉をふそめてラジオのダイヤルを回した。
そういや知り合いに元韓国軍で朝鮮戦争時に前線で
プロパガンダ放送を垂れ流す任務に就いていた人がいたのを思い出した
駅?の蕎麦屋の横通ってて思ったが、食糧事情が悪ければ
肉焼く音とか調理音流すだけでも効果あるんじゃないだろうか。
食い物に関しては、香りの方がもっと強烈だがなw
日露戦争時に遥か極東まで遠征した高名なバルチック艦隊の司令部は、
レニングラード北西海上の軍港クロンシュタットにある。
バルチック艦隊戦闘序列
戦艦オクチャブリスカヤ・レボリューツィヤ
戦艦マラート
重巡洋艦キーロフ
嚮導駆逐艦レニングラード
嚮導駆逐艦ミンスク
駆逐艦12隻
潜水艦29隻
魚雷艇62隻
艦隊はこの他支援艦艇79隻と357機を有する航空部隊から成っている。
21日、メレツコフはクロンシュタットを訪れ、来るべき対フィンランド戦における
作戦協力の打ち合わせを行った。「陸軍は如何なる支援を期待できるだろうか?」
作戦計画では、もし戦争になればカレリア地峡のソ連第7軍は、東部を第50軍団、
海岸沿いの西部を第19軍団が進む予定になっていた。「戦艦を出動させよう。
オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤが艦砲により第19軍団を支援する。」
艦隊司令官ウラジミール・トリバッツ提督の返答にメレツコフは満足した。
トリバッツではなくトリブツ(Трибуц)では?
>>953 そうかもしれませんね。ありがとうございます。
ロシア語の地名、人名は難しいです。
時として、政権担当者は非合理的な状況判断を下すようである。
この時のフィンランド政府は、ソ連の意思を完全に読み違えていた。
流石にソ連がフィンランドに譲歩すると考えた者はいなかったが、
誰も戦争を想定したいとは思わなかった。その結果、現状の
膠着状態が続くと判断した政府は、動員の一部とカレリア地峡の
避難解除を決意した。
「レニングラードはソ連にとって本質的に重要なものではなくなった。
また、独ソが同盟を結んでいる今、ソ連は全く安全である。一方、
ソ連の要求はフィンランドにとって、中立と自衛能力の放棄を
意味するものである。フィンランド国民は小銃を背負って、土地を
耕すことを学ばねばならない。」24日、カヤンダー首相は国防式典で
演説をした。
「これでは職責をまっとうできない。」マンネルヘイムは辞任の決意を
固めた。
マンネルヘイムの苦悩は続く・・・
ベンチがアホやから野球ができへん……な心境ですね。
どちらかというと上層部の無能に苦しむ監督
おっと野村監督時代の阪神の悪口はそこまでだ。
銀のスプーン
このスレは凄すぎます。驚きました。
もっと深く知りたいので、参考文献を教えていただけないでしょうか?
もしこのスレのどこかに書いてあったらスミマセン。
>>961 入門レベルの本でいいなら、
「雪中の奇跡」「北欧空戦史」「グスタフ・マンネルヘイム」
「フィンランド軍入門」「北欧の外交」
継続戦争限定なら「詳解 独ソ戦全史」とかの独ソ戦の通史にも記述が見られるものがある。
紙幅はあまり割かれちゃいないが。
雪中の軌跡をいうなら
継続戦争は流血の夏教えてもいいじゃない
そうだったな。
自分が未読未入手だったもんで、忘れてた(苦笑
クレムリンの会議室には、勲章を身にまとった赤軍レニングラード軍管区司令官
メレツコフ、砲兵総監グレゴリー・クリークら高級将官が集まっていた。砲兵局
次長ニコライ・ヴォロノフは談笑する将軍達の間で、1人厳粛な面持ちで席についた。
「同志、君は我が国とフィンランドとの深刻な状況は承知しているな。」クリークが
問いかけた。ヴォロノフは黙って頷いた。「もしもカレリア地峡とラトガ湖北方で
戦闘が始まった場合、どれだけの砲弾が必要となるかね?」クリークの発言は
いつも具体性を欠き、部下は何を求められているのか理解できないことで有名である。
ヴォロノフは注意深く答えた。「全ては設定次第と考えます。我々は攻勢を企図して
いるのか、それとも防衛なのか。作戦の期間がどれくらいであるのか・・・」
クリークは微笑みながら答えた。「10日から12日だ。」忠実なスターリン追従者の
クリークは、恐怖を統率の手段に用いていた。答え方次第では命に関わると
思いながらも、ヴォロノフは言わずにはいられなかった。「2,3ヶ月のうちに作戦が
完了すれば、成功だと思料します。」一同は大笑いした。クリークはしかめっ面を
作った。「駄目だ。12日で総てを終わらせるのだ。」
フィンランド北部、スオムッサルミの北のジュスントゥランタ地区には、
第2国境警備隊58名が50kmに渡る国境線を監視していた。本部には
38名、そして国境の2箇所の監視哨にそれぞれ10名が駐在している。
国境警備隊は無線機を装備しておらず、連絡は電話に頼っていた。
彼らの毎日は単調なものであった。パトロール、武器の手入れ。
コーヒーとポーカーの合間に隊員達は語り合った。
「奴らは来るだろうか?」
指揮官のM.エロ注意が答える。「来るさ。いくら仲良くしていても
ロシア人はロシア人だよ。」
ラジオは、ソ連赤軍部隊が、国境地帯マイニラ付近でフィンランド
から砲撃を受けた、とフィンランドを非難するソ連のニュースを
流していた。
エロ注意
注意が中尉なのはわかったがM.エロは何ですか?
M・エロ中尉?
エムロ中尉??
わかった!マンコレフ?ダム所長だ!!
おお、ついに捏造放送キター! いよいよ冬戦争の勃発ですな。
>>970 ついに我らがダム長は本名すら呼ばれなくなってしまったかw
>>968 注意は間違い。中尉でした。
Lieutenant M.Elo なので。
この後はAhoとかそういう名前が出てくる予定。
このシーズン、スオミ人といえばアホネン選手を思い出す。
さてアイスホッケーは前回の雪辱に燃えていると思われる。
今回もサク・コイブ、テーム・セラニ両名とも入っております。
フィンランド・ソ連国境地帯には、ソ連赤軍約20個師団、兵力60万人、
戦車1500両、航空機800機が集結していた。
ソ連赤軍レニングラード軍管区戦闘序列
第7軍
第19軍団:第24狙撃師団
失礼。操作ミスをしました。
フィンランド・ソ連国境地帯には、ソ連赤軍約20個師団、兵力60万人、
戦車1500両、航空機800機が集結していた。
ソ連赤軍レニングラード軍管区戦闘序列
第7軍
第19軍団: 第24狙撃師団
第43狙撃師団
第70狙撃師団
第123狙撃師団
第40戦車旅団
カレリア要塞連隊
第50軍団: 第49狙撃師団
第90狙撃師団
第142狙撃師団
第35戦車旅団
第10戦車軍団: 第1戦車旅団
第13戦車旅団
軍予備: 第138狙撃師団
第136狙撃師団
第20重戦車旅団
第6NKVD国境警備隊
第7軍は、主攻撃ルートになったカレリア地峡に配置され、
フィンランド第2の都市ヴィープリの占領が目標とされていた。
(続)
ついに来ましたか・・・
即死回避
第8軍
第1軍団:第139狙撃師団
第155狙撃師団
第56軍団:第18狙撃師団
第56狙撃師団
第168狙撃師団
軍予備: 第75狙撃師団
第34戦車旅団
第7軍の北の第8軍は、ラドガ湖の北を回り、フィンランド第4軍団戦区を突破し、
カレリア地峡背後を衝くことになっていた。
(続)
今更だが、エストニア独立戦争とユデニッシのところで大分道草を食ってしまった。
せめて冬戦争勃発までは辿り着きたいところ。。。
いやいや、あせらずじっくり書いてください。期待してます。
でも980越えたから保守しないと落ちちゃうんじゃない?
ていうかそろそろ新スレ建てた方が良いんじゃないか?