人に勇気を与えるのは、思想である。この諺を少し拡大して考える。そこで、
本能的な行動(怒りなどからくる一時の感情)は、持続しないのであるが、
感情を持続させるために思想が作られ、次に、倦怠に陥ったときに思想が感情を
呼び起こすと言う反対の事が起こるのである。そして、思想を一度信じ込んだなら、
普通、本能的にしか出来ない冷酷な事も、冷静かつ沈着に行わせるのも思想なのである。
そのうち、思想は、かけがえの無い崇高な感情に変化してそれが正義となるのである。
さて、その正義は、大金持ちを悪い社会の代表者にして、誰も太刀打ちする事の出来ない
好色家をインモラリストの化け物にして悪者にしてくれるのである。彼らがねたむことを
不正であると信じ込むことによって、妬ましい事に対する賞賛すべき敵意になっている
のである。そのときには彼らは、もはや、やつかみではない。思想は、
忌々しい個人的感情を正当な憎悪に、気高く公平な美徳にも、
忌まわしい憎悪にも、変えたのである、、、、。
、、、、、、、、、、と言うような内容の事が記述されていたと思ったが、、。
イデオロギー 魔術的思考 思想 そのものについて考える必要もある。
人を呪わば穴二つ、、、実際、思想に生きる事は、ダメージや損失が大きい、、。
19世紀は思想の時代です、、、、。
私の経験からすると、私が精神不安定な時期は、思想関係に最も夢中になっていた
頃かも知れない、半生前の話だ。ニーチェとかワーグナー、フロイト、ユング、その他、科学者関係、、。
強度のうつ病に悩まされて、最後は、当時の分裂病(現在の統合失調症)ー破瓜型ーに一週間
前兆期にかかって、体重を3日で4キロ落とす羽目になった。
実際、思想に生きると言うのは、危険なもので、番人に向かない少数のすることである。
大体、思想に生きる奴は、自殺で一生を終えやすい。例え、思想を捨てようと
決意しても、中々抜け出せないことに続く事になる。そこで、初めて本当の地獄を垣間見る
ことになる。思想と言うものは、本能的なもので思想を捨てると言う事は、死ぬ異常の
カルチャーショックを受けることを意味する、、。しかも、青春時代の病的なロマンチズムも含まれていた
のも事実、、、。フロイトに比べるとユングはその様な閉鎖性は克服されていたが、
実際は、私は、ユングには引き寄せられなかった、、。
今の私から申し上げますと、思想は、生理的なもので本能的なもので、
到底理屈のものではない訳です、、、。(私の報告によると、うつ病は、超常現象
とは、無縁です、、、。おかしなジンクスとか、超常現象まがいの事は、うつ病とは
反対の統合失調症の関係者に起きやすいと考えている。思想の元祖はうつ病じゃね?)
思想は、19世紀のそれは、大方、精神病のものと言っていいでしょう、、。
実存主義にしても、芸術のワーグナーの作品にしても、、、。
特に、マルキシズムは、見れば解かるように、そこから発したものは、全て異常な状況
になっているのは、間違えない。青木雄二にしても、未だに支持を得ていますが、、。
このことは、ある理由によって、根本的に出発点がおかしいので、そこから得られる
結果も異常なものになる訳ですが、その事が解からない様になっていると言えます。
産業革命の起こりの流れにおいて、そのような事態は、不可避だったと言える。
イデオロギーの意味が本来のものと正反対に逆転することになった根拠がここにある
と言えます、、。つまり、大多数に、健康であるための最低限の条件が欠如していた
からであると言えます、、、。
そこで、どの様な異常へと発展していく事になるかといえば、
世界大戦の世界制覇の希望、、、。
人種差別、、、、。
思想かぶれ、、、、。
等が上げられる事になる、、、。
ダーウィンの進化論から、ヘッケルの形態学を元に、人間に値しない命、これは当時の言い方
ですが、人種差別が行われたと思います、、。
同じ事は、マルキシズムにも言えます、、。当時、人間を解放すると思われた思想から、
多くの人々を奴隷とする巨大な国家が出現したのです。
多くの科学者が、人々を解放しうると考えた思想を実現したとき、それが、彼自身から
発したものにも関らず、それが現実になったのを見て、突然驚くのです、、。
そのような事態が起きるのは、偶然ではありません、、根拠があるのです、、。
人間の英知と、科学的真理が矛盾しているからなのです、、。
アインシュタインも驚きました、、。原爆が投下された時でさえ、科学的真理と人間の英知が
両立しないものであることについに気がつかなかったのです、、、。<<といってたように
思えたが、、、、、。ぶっちゃけ、はっきり憶えていません。m(。。)m、、。
エンデの上記の発言に関しては、そこで言う科学の破壊性は、芸術や宗教にも当てはまると
突っ込みを入れることになるが、、、。
思想によって、ものの新しい見方が可能になったように思えたものの、
それは、トータルで見れば、欠如によって起こりえた、異変による錯覚であったのは
間違えない、、、。
さらに、欠如と錯覚による異変によって、次のことが起きる、、。
つまり、本来の道徳的な意味での良し悪しが解からなくなっていく
世界観の根本的基準が何一つ確かでないのだが、本能的な思想に依存する。
そこで、自然な状態ではありえない数々の行動を目の当たりにすることになる。
このことによって、多くの様々な思想家を我々も目の当たりにするのだが、、。
いずれも、大方が、肝心な焦点が定まらないのである、、、、。
アメリカや北方領土問題やパレスチナ問題、日韓中関係にも当てはまる事であるが、
オオカミが子羊を最もな理由、大義名分(cause 引き起こす、大義名分)をつけて
襲うことから明らかになる現代の深層心理の仕組みそのものは、
思想が境遇によって犠牲にされたゆがんだ本能によるものであること、その思想は、
日々日常において蓄積された感情であり、統制され制御された魔術的思考であること
そして、それらが大多数の暗黙の了解によって成り立つゆがんだ進化の破壊性の
るつぼのイデオロギーによって全体の方向付けがなされて、個人の日常にイデオロギーが
浸透する形で大方を決定付けて来ている今日に至ってきたと言える。