310 :308<<:2007/06/14(木) 10:49:02 ID:???<<
ちょいまち、ホラー映画のことについて、詳しく論じる必要があるし価値がある課も知れない。
自分が、この世で最も恐ろしい映像について掲げるとすれば、それは、
精神医療の現場の映像であると主長することになる。
その映像は、電気ショック療法の映像であり、(電気ショックは強度に流しすぎると
その衝撃とベッドに縛り付けられて身動きがとれずに、背骨がポキリと折れてしまう
事がある。)ベッドに縛り付けられた障害者の被害者が、電気ショックによって
もがきながらもだえている映像である。
その電気ショック療法の映像を当時の一般人は、親切な医療を受けている
恵まれた人であることを示す精神医療行為の現場の映像であると解釈していた
はずであると判断することになる性質の映像と判定される。
つまり、患者本人は、拷問にもがいているのであるが、
精神科医が、親切に病人を治療している光景であり
当時一般の人からは、最先端の治療を受けている映像と受け取られ、
病人は恵まれていることを示す映像であると受け取とられていたに違いない。
しかし、その映像の本当の意味は、あたかも治療に見せかけられた
拷問に患者がもがいている映像を、世間一般の人に最先端の医療の治療を受けている幸運な
病人の光景を示す映像と解釈され評価されて、医者が、利益と名誉を手中にしてい
たことを決定付ける、病人が過剰な電気ショックにより殺ろされている性質の光景の
映像以外の他の何者でもないことが解かる事になることを示す映像である。
この日常で目の当たりにすることが出来る映像が
その映像をこの日常で目の当たりにしたときの常識的判断から生ずる見解であるが、
その大多数一般の見解を後で覆す事になる極めて残酷で悪質すぎる虐待の映像だからである。
これが、どの恐ろしい映像にもまして凄いのは、ホラーのグロシーンは、大方、
現実の一面をゆがめて拡大したものに過ぎない架空のものであるか、実際起こりうる
危険の可能性を表現したもの、に過ぎない。始めは、映像以前には、お伽話だった。
お伽話は、実際、実話に由来するものと、寓話を取り入れた架空の物語である。
実際の、恐ろしい映像は、事故現場、病気、傷害関係犯罪、戦争の映像のことである。
これは、誰から見ても、一目で怖い映像であることが解かる。
そこで、その精神医療現場の映像が何者にもまして恐ろしい根拠は、
病気、傷害関係犯罪、戦争関係イデオロギーの人体実験の拷問、ペテン、であり、
しかも、大多数が日常にそれを善行の光景であると信じ込んでいたことを示す
日常の身近に起きていたが追求されずに見逃していた身の毛のよだつ光景だからである。
さて、324のレスに関してであるが、おとぎのルーツは、やはり、神話か寓話
に行き着くものと言うことになるのであるが、、、。
しかし、何で医者が患者を拷問にかけて利益を引き出して、名誉を手中にする
ことが可能になる様な事がまかり通り放置されたのか?
患者を虐待し利益を引き出し、なおかつ、その正反対である善人に一般人の目には映る
と言うのである。
実は、この話は、物凄く高度に難しい話である。
先ず、犯罪学に通じていなければならない。
次に精神医療にも、軍事にも通じた上で、初めて扱いが可能となる社会心理の
問題だからな訳である。
ここで、犯罪学、精神医療、軍事に通じると言う事は、
精神医療を論じる意味では、科学や芸術や宗教に通じる必要も出てくるし、
やはり、軍事も同様であることが解かる。
犯罪学も、同様である事が解かる事になる。
そこで、科学や芸術や宗教に通じた時に解かる事は、人間は、
社会に属することによる習慣によって、極めて物事の本質を捉えることなく、
社会における決まりに関してありのままに真に受けて信じこみやすい生き物である
と言う事なのである。−−−−魔術的思考ーーーー
ちょいまち、、、、現時点では、軍事問題がらみの話しか進められないか、、。
詳しくは、映像に関した問題は、精神医療スレと犯罪スレが進んだ後でないと難しいな。
ただし、明らかなのは、331に書き込まれたような人間の性質を応用して発展させて、
イデオロギーと言う性質の働きの客観的影響を高度に巧妙に純粋に利用した
映像に関して世の中を取り囲む多くの工作による細部に至る仕組みによって、映像の解釈
そのものを決定付ける試みであったのは間違えないに違いない。
そこには、宗教や科学や芸術、教育やマスコミにる条件付けが既になされていて可能になった
と判断されると端的に告げられる。
どこまでも、単にうのみにして信じ込む習慣を利用しただけのものに過ぎないのだが
それが、あまりにも常識を超えていて率直過ぎたものであり意表を突いていたと言う事
なのである。
つまり、純粋にイデオロギーの働きを客観的に捉えて応用し極度に発展させた事が
人知れず、公で堂々と現実の決定権に直結することに至った根拠だったのである。