誰が上手い事言えと。
659 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 21:52:53 ID:???
間が空いたので、例によってお返事が貯まってしまいました。
レス番ではなく議題ごとにお答えしたいと思います。
<チハの生産数 関特演時に1000輌あったか>
当方の各年度生産数は「帝国陸軍機甲部隊」からのものです。
こちらでは会計年度の生産数としています。(詳しく書くと面倒なのでお手元にあればご参照ください)
年と年度の表記を明確に区別しない資料も少なくないのでしょうが、日本は戦前から4月開始の年度制で軍の整備計画や行政が動いていますから、はっきり「年」であると判別できる場合以外は年度とみる方が無難かと思われますが。
既に上で、改修指示がS16年8月29日、仮制式上申が9月、改修開始は10月からと書いています。
関特演は6月上旬、作戦開始案の1つは8月29日。関特演時に生産転換の指示など出ていないわけです。
内容も指示されていないものを準備しようも無いわけですから、それまでに16年の生産車輌の多くを生産済みで1000輌超とは考えられません。
ご存知かも知れませんが16年度中の改修車番は631〜679或は683〜703の2説。
どちらにしても9〜10月の時点での新車の中にこの番号があった可能性が高いでしょう。
1000号以上車体が生産されている中で、わざわざ古い車体を連番で新砲塔の為に回収したというのも考え難いわけですし、この時点で既に日立が3〜400単位で生産していたとは寡聞にして聞きません。
660 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 21:53:26 ID:???
生産能力に関する情報もあります。
S16年9月の報告の中で、現在の生産能力を中戦車換算で年産1200輌としています。
これはようやく改修指示が出た頃の数字ですが、「生産能力」としていることに注目して頂きたいと思います。
実際わかっているだけでS16年度の生産は中軽戦車1192輌+軽装甲車であり、既にS16年も9ヶ月、年度でみても6ヶ月経過して設備拡充など多少年度或は年開始時より進んでいることや軽装甲車の生産数を考えれば概ね符合します。
次にS17年度の整備計画では1550輌。実績は1371輌で達成率約88%。
転換生産の影響も含んでいると考えられますが特筆するほど大きなものではありませんし、明らかにS16度実績を上回っています。
S18年度については計画の段階で730輌。実績は装甲兵車を除き895輌で若干上回ります。
これは前年度計画車輌がずれこんで生産されたことによると考えられます。
S18年の生産計画と生産量の縮小は原料の不足によるものです。
「主要物資の供給源は専ら地上兵器関係において負担するものとし、その整備、圧縮の順位左のごとし
1 戦車
2 地上弾薬
3 航空爆弾
4 自動車」
「装甲兵車、軽戦車、中戦車の整備は極力抑制す」
中戦車は兎も角、既に戦力価値を見限られていた為か軽戦車は大幅な減産を強いられます。
本格的にはS19年度から大きな影響がでてきますが、チヘへの転換生産が生産頭打ちの主要な原因ではないことがわかります。
661 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 22:17:58 ID:???
車番が全連番なのか、製造所ごとの連番なのかはまだ調査中ですが、いずれの場合も当時のチハ生産数をある程度推定し得る材料です。
<チヘの生産>
本題から外れてしまいますがちょっとだけ。
チヘが一応の形になったのがS17年9月の試運転時ですが、実際にはまだ改修が必要で開発終了はS18年6月。制式化は実用化前に行われていたわけです。
その時点では新砲塔チハの生産が始まっており量産命令は出ていません。S18年度までのたった15輌の生産は試作車の意味合いが強いものです。
※もっとも、この15輌はS18年度と明記がありますので、生産表に現れない初期の試作車(長い間かけてあちこち改修されたあれ)が少数別に存在する可能性はあります。
その後軍がようやくチヘに目を向け、公開運行試験が行われたのがS19年2月末、量産開始は同年春です。(三菱でチヘ大量受注の訓示があったのは3月末日締め)
8ヶ月の放置は既に同じ砲を装備した新砲塔チハが生産されていたからでしょう。
一般に転換生産には不効率が伴うのは仰る通りですが、S18年中では具体的に量産指示さえなされていない訳です。18年度の最終期に公開運行試験ですから19年の初期でしょう。
推測ですが、チハの生産がきれいにS18年度で終了しているということは、実際にはその少し前19年2月頃に生産が終了していたのではないかと考えられます。
その意味ではチヘの量産命令時期と重なり転換の影響が出ている可能性は大きいでしょう。
しかし年度計画730輌中、チヘとホニで200輌を差し引いた530輌。
前年度からの繰越もあると予想されるとはいえ、543輌のチハ、あまつさえ234輌のハ号と89輌のケニも生産されていますから、チヘの量産開始時期と考え合わせれば特筆するほど大きな影響ではなかったことになります。
662 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 22:19:29 ID:???
チヘの整備計画は元々S18年度中に140輌とされていました。
しかし量産開始はS19年度にずれ込みます。
ところが今度は途中でチヌへの生産転換が始まります。
どちらにしても前項で書いたように戦車生産は資材不足の為圧縮されています。
S19年度の整備計画はチト、チリ、ホリを各5輌。従来型中軽戦車はゼロです。
実際にチハ、ハ号は生産中止、チヘの生産はS18年度計画のずれ込みです。
チヘの車体はチハとは少なからず異なりますので、量産時期が重なれば砲を食い合ってしまいチハ−新砲塔チハと同等以上の困難があったかもしれません。
北進スレなんだから、戦車の生産数より日ソ戦の話しろよ。
664 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 23:38:16 ID:???
なんか長くなって申し訳ないのですが、常駐できないので大事な質問には出来るだけお返事した方がよいですよね。
<バルバロッサの大敗>
バルバロッサ当時の赤軍の大敗は酷いものですね。
将校と異なり、兵士の質はピークだったというお説にも同意です。
しかし兵士の質だけでは近代戦は戦えません。
>有効な対策をとりえず、完全な上意下達の命令系統のせいで実際に攻撃を受けても対処できずですよ
その通りだと思います。そして奇襲に懲りたソ連軍は満ソ国境では待ち構えていました。
実際、初期の奇襲を受けた国境付近の戦いと異なり、セバストポリでは41年の攻撃を凌ぎきっていますしオデッサもかなり長期に抵抗しています。
背後へのソ連軍上陸がドイツの攻撃中止に大きく影響したことは否めませんが、それまでにドイツも第24歩兵師団が壊滅的打撃を受けるなど大きな損害も出し順調なのは第22歩兵師団だけだとも表現されます。
攻撃中止の決断前に実質的に多くの攻撃部隊は手詰まりになりつつあったとも言えます。
その為、42年の攻略戦ではあれだけの大砲兵火力と航空部隊を投入し、数日間の事前砲爆撃期間をとったのです。
他氏も言及されているので今は詳しく書くまでも無いでしょう。
そういえば背後へのソ連軍上陸については、極東方面でも似たような状況(必ずしも上陸ではない)が起こり得ると個人的に危惧しています。
>関東軍は善戦したのに
これは個々のエピソードという点では正しい面がありますね。
反対にソ連にも個々のエピソードで言えば勇敢な抵抗もあります。日本軍ファンの私としては総じて日本軍を持ち上げたいところですが。
とはいえ、勇敢に抵抗した部隊もある関東軍でしたが、ソ連軍の進撃速度はバルバロッサを凌ぐほどです。
状況が違うので直接比較するのは意味は有りませんが、個々のエピソードだけでは大規模会戦を読むことは難しいと言うことですね。日ソどちらにも言えます。
665 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 23:41:34 ID:???
<満ソ国境陣地>
はい。書いた通り陣地配備兵力を少なくとも8.7個師団相当と日本軍は観測。
陣地守備隊は地形や地域によって若干異なり3〜5個機関銃(独立砲兵機関銃)大隊と1個独立狙撃兵連隊、独立砲兵大隊〜中隊1、独立対戦車砲大隊、独立工兵大隊その他で編成され国防人民委員部系と見ていました。
独立狙撃連隊については逆襲部隊と位置付けられていたようです。
但し、私としては対独国境陣地に関するソ連側資料で機関銃大隊や砲兵連隊〜大隊について言及があるのに対し、独立狙撃兵連隊に言及しないので狙撃兵連隊の存在には多少疑問符をつけています。
そこで36〜60個大隊という推定東部国境守備隊には狙撃連隊は計上せず機関銃大隊のみ計上しています。(しかし極東は狙撃師団の編制なんかでも特別扱いされていたりするので…)
これら陣地守備隊はソ連の満州侵攻に際しても作戦に参加していますし一部は砲兵機関銃旅団へ改編されていますから、一般の狙撃部隊とは編制が異なるにせよ、日本軍の読みに近い旅団級部隊であったと考えられます。
その他に、陣地守備隊=設堡守備隊が配置されない間隙には内務人民委員部系の国境警備隊が配置されていると見ています。
各狙撃連隊級の兵力で、1932年の時点で既に5〜6個を観測。
例を挙げれば1942年時点で第57国境警備隊は2300名、第77国境警備隊は1200名と観測していますから、これも地域と重要度で多少規模が異なるのでしょう。
その他に鉄道警備師団や同旅団など警備系部隊も色々あるようです。
これだけの兵力に対し25個師団攻勢計画は無理ではないかと言う感想は正しいと思いますが、実際に日本が観測していた相手がこれです。
他の方が少し前に仰られていますが、国境陣地が突破されるのは突破できる戦力や作戦を用意しているからで、それを用意できない場合は本格的に攻撃されないということでしょう。
日本は自分で勝算を持てなかったから攻撃を実行しなかったのです。
個人的見解を言わせてもらえれば、後先考えずに時間と損害を覚悟するならいずれ有利な形に持っていけると考えています。
「ソ連軍は弱いからまともに抵抗しない」と考え始めたらもうスレでの検討なんか初めから無駄ですね。
666 :
暫編第一軍:2007/08/10(金) 23:44:59 ID:???
>>663 ごもっともです。戦車についてはこの位にしましょう。
たまにしか来られませんが時々お相手いただければ幸いです。
お願い
砲兵機関銃旅団や東ソ陣地守備隊或は野戦陣地守備隊のソ連側からの編制装備資料をお持ちの方、ご教示願います。
連隊じゃないや、大隊だ。
>>666 ソ連軍には機関銃・砲兵師団が普通にあるから、それを2つに割ったものじゃない?
670 :
暫編第一軍:2007/08/11(土) 18:13:25 ID:???
昨日は仕事から帰って推敲せずに書き込んだので日本語が変なところが多々ありますね。気をつけます。
>>667 日本側の資料ですが、陣地守備隊の編制については
>>665の通りです。
同じく編制内の東ソの砲兵機関銃大隊は、本部、砲兵機関銃中隊3〜5、後方機関よりなります。
各砲兵機関銃中隊は
「若干の小隊(9個内外)に分ち其の平均装備数は76o砲2、45o対戦車砲3、重機20、軽機13程度なるが如し」
他に注釈として、欧ソ情報(ドイツからのものでしょう)による欧州方面の中隊についても情報があり
「重機小隊(重機2、自動単銃2)若干及び、迫撃砲(50o及82o各2)、対戦車砲(2)、対戦車銃(7〜9)、76o砲(2)各1小を有す」
もう1つの注釈では東ソの機関銃大隊について
「砲兵機関銃大隊は機関銃中隊及砲兵中隊若干より成るやの情報あり」
ともしています。
ようはあれか、機関銃・砲兵大隊とごっちゃになってるだけか?
672 :
暫編第一軍:2007/08/12(日) 00:02:43 ID:???
>>671 訳し方の違いという考え方もありますね。
「バルバロッサのプレリュード」でも砲兵機関銃大隊(略する場合は機関銃大隊と表記)と表記していますし、「ソ連軍侵攻と日本軍」でも砲兵機関銃旅団とあります。
問題はどういう意味で砲兵機関銃と名付けたのか。
安直に砲と機関銃を両方装備しているからか、砲兵科の管轄にある機関銃部隊という意味かもしれません。
そのあたりは識者の見解をうかがいたいところです。
尚、「バルバロッサのプレリュード」によれば対独戦線の要塞部隊は要塞が未完成の上定数不足、完成していたものにも守備隊が未だ配置されていなかった例も多いことがわかります。
また配兵された要塞でも兵器装備の点でも必ずしも良い状態ではない場合が多々あるようです。
しかし野戦部隊で増強された要塞地帯は果敢な抵抗を示しているとありますから、準備がなされていればまあそこそこの期待は出来るのでしょう。
いやいや、機関銃・砲兵師団は赤軍の正規編成だから。
今のロシア軍にも引き継がれている。
砲兵師団とは別なので注意。
セヴァストポリや独ソ国境にも居た筈。
674 :
暫編第一軍:2007/08/12(日) 00:22:54 ID:???
>>673 いや他氏が機関銃は中隊までしかないと言われた件に関してです。
大隊や旅団が存在していることは私の資料で判っているので、他氏の資料では砲兵機関銃大隊や旅団が別の訳し方をされているのかなあと。
ところで師団の方でも結構なのですが、編制装備とか資料はお持ちでしょうか?
つーか、機関銃砲兵大隊と機関銃大隊は別物だろ。
水雷戦隊と駆逐戦隊が違うように。
ソ連と機関銃部隊には狙撃科系と砲兵科系があって前者は旅団、後者は師団まであるみたい。
どっちも機関銃○隊と略称されることも多い。
Пушечный артиллерийский полк
だから「砲兵機関銃」が訳としては妥当。砲兵科に属する機関銃主体の部隊だから機関銃部隊でも可。
あれ?
機関銃/砲兵隊って砲兵科の管轄だっけ?
砲兵師団には20ミリ機関砲の隊があったりするけど、それと混同されているのでわ?
砲兵機関銃部隊は砲兵科
狙撃機関銃部隊は歩兵科
それは装備される機関銃が違ったりするとか?
>>678 全部そうだとは言わんけど、ソ連の野戦部隊なら23ミリじゃないかな?
任務の違いじゃないかな。
という建前で縄張りの問題なんだろうけど。
ドイツ空軍野戦師団みたいなもんかのう。
突撃砲と駆逐戦車とか。
突撃砲と駆逐戦車はかなりモノが違うので、突撃砲と自走砲で勘弁してあげてください。
砲戦車と自走砲ということで赦してつかわそう。
直接照準しかできない突撃砲や砲戦車と、間接照準射撃する自走砲を同列に扱うと
砲兵のエロイ人に怒られるぞ。
>>659 「帝国陸軍機甲部隊」は手元に無いので今確認はできませんが、
>日本は戦前から4月開始の年度制で軍の整備計画や行政が動いていますから
を信じるならば、昭和二十年二月制式の五式戦は、昭和十九年度すなわち皇紀2604年度制式と言う
事になり、四式戦闘機(疾風と被るので、四式二型戦闘機とかになるでしょうか?)になる筈では?
戦車だと少な過ぎたり、諸説あったりで参考にしにくいですが、航空機や銃砲等の生産実績を見れば、
昭和二十年三月までを十九年分、二十年分は四月〜八月分になっているとは思えません。
先のレスでも書いたつもりですが、私は関特演開始予定時点でチハの生産に改修による生産減が
かかっていたなんて言ってませんよ。
現代風に言えば、昭和十六年の第4四半期のチハ生産数は、チハ改への改修の影響で減少したと思われ、
つまり、昭和十六年のチハの生産数507両は第3四半期までにその多くが造られていて、累計で
関特演時点のチハ生産数は1000両を突破しているのではないかと言う事です。
何か、この点を正しく理解していただいていないように感じられるのですが?
車番についても、チハの総生産数2123両(
>>625の貴方のデータだと2208両でしょうか)の内、
三菱で作られた物は1450両です。
チハ改への改修開始時点での工場別生産数は存じませんが、三菱が700両前後であっても別段おかしく
ないと思います。
>>661 全連番なのかどうかは私も知りませんが、昭和十一年に八九式の生産が打ち切られてからは、
十六年迄の生産中戦車は全てチハな訳ですから、全連番にしては少ないですね。
>>660 末期に戦車の生産数が激減するのは、おっしゃる通り原料の不足…と言うか船舶と航空機に優先的に
回されたからですが、今までの話の流れとの関連がイマイチ分かりかねるのですが?
中戦車は昭和十八年までは増産が続いていますし、砲戦車も合わせれば、終戦までそれなりのペースです。
>>661 別視点からの話になりますが、貴方はチヘの生産台数を幾つだと把握しておられますか?
資料によって200両弱の数字を挙げる物と、600両弱の物とありますよね?
完成品としてのチへの量産が始まったのは、おっしゃる通り昭和十九年四月です。
そして、それから終戦までの生産数は200両弱(170くらい)です。
では、600弱の根拠はと言うと、車台はそのくらい作られているようです。
で、前の
>>637に繋がる訳です。
チヘの車台と砲塔は同じようなペースで生産されているのに、砲塔だけチハに取られた感じでしょうか。
>>662 チハの車台とチハの車台、もっと言ってしまえばチヌの車台まで、九七式系と言われる事がある程
基本構造は同じです。
チハの車台とチヘの車台を比べてみれば、転輪・起動輪・誘導輪は同じ、チヘは第一転輪と第六転輪を
チハよりちょっと離して付けて接地長を20cmほど長くとってます、それに伴いサスペンションもちょっと
長くなってます。
足回りがこのくらいで、車体は大きいエンジンを積む為にエンジン室を延長、装甲を厚くしてリベット
留めから溶接に変わったくらいで、要は一回り大きいチハ車台です。
砲は無論ですが、車台の生産ラインも食いあってます。
まぁ、正確に言えば、順次転換ですけどね。
昭和十九年度の整備計画ですが、これは後に大幅に変更が加えられてますね。
本土決戦が現実味を帯びてきた為、船舶や航空機優先から戦車にも資材が割り振られるようになり、
チヌの大量調達等も決定されてますよね。
チリは減りましたが。
>>664 確かに兵士の質だけでは近代戦は戦えませんが、兵士の質なくして近代戦は戦えませんよ。
特に、苦しい防御戦闘では兵士の質が大きく影響します。
>奇襲に懲りたソ連軍は満ソ国境では待ち構えていました。
そうでしょうか?
縦割り指揮系統は変わってませんし、むしろバルバロッサの戦訓は、国境線で敵を止める難しさを
痛感する事として反映されている気がします。
余力が無かったと言うのもあるでしょうが、バルバロッサ後ソ連軍が国境で日本軍を止めるべく
国境線の防備を強化したと言う話を私は知りません。
シベリア鉄道の防備は強化してますが。
オデッサは主力がルーマニア軍だからその分を割り引くとして、41年のセバストポリは攻撃を
凌ぎ切っていると言えるでしょうか?
大まかに経過を追うと、
41年
9/24 ドイツ軍、ペレコプ地峡に攻撃開始。
9/27 ペレコプ地峡を突破。
10/29 10/16のオデッサ陥落を受けて、クリミアへの本格攻勢開始。
11/9 ヤルタ占領。
11/16 ケルチ占領。
同日 ドイツ軍、セバストポリを包囲。
12/28 ソ連黒海艦隊陸戦隊がドイツ軍の後方ケルチに上陸。
〜ドイツ軍、挟み撃ちの危険からセバストポリの包囲を解いて後退〜
42年
3/1 ソ連軍第一次攻勢。
4/9 ソ連軍第二次攻勢。
5/8 ドイツ軍、ケルチのソ連軍に対して反撃に出る。
5/13 ソ連軍、ケルチから撤退。
5/19 再びセバストポリに向かうドイツ軍の攻勢により、クリミア半島のソ連野戦軍撤退。
6/7 セバストポリを再包囲。
7/3 ドイツ軍、セバストポリを占領。
要塞で耐えていると言えるのは、11/16〜12/28と、6/7〜7/3ですが、前半はケルチ占領に割いた
部隊の合流待ちが長くて、積極攻勢が始まった所で逆上陸ですし。
後半は、時間稼いだ間に防備強化してコレか…と言うのが素直な感想です。
極東でのソ連軍の後方への逆上陸は…やる事はあってもやられますかね?
海軍の協力がどの程度得られるかにもよるでしょうが、黒海艦隊陸戦隊逆上陸時、黒海はソ連海軍が
制海権を握っていました。
ソ連軍は日本海の制海権取れますかね?
あ〜、改行制限うぜぇ。
個々のエピソードを見ても、バルバロッサでソ連軍が勇戦した例はあまりにも少ないと思います。
進撃速度ですが、バルバロッサは6/22の開戦から、中央軍集団が500km彼方のスモレンスクを
占領したのが7/20ですから、28日間。一日平均18km弱ですね。
ちなみにこれは直線距離なので、実際の進撃距離はもっと長いです。
最もこれは一番速いところですが。
満州はと言うと、8/9の侵入開始から15日に終戦、17日に関東軍が停戦命令、この間わずか8日
ですから、期間が短過ぎて比較しにくいですが、それ迄に占領された主要都市と言うと、
8/16の牡丹江くらいでしょうか?ちなみに、国境から100km程です。
一番深く食い込んだ所と言うと、外蒙から張家口目指した、ザバイカル方面軍の機械化騎兵集団が
200kmちょっと進んでますね。
殆ど戦闘してませんが。
関東軍が防衛線と考えていた大連-新京-図們の三角線は破られてませんし、降伏後は進撃が速くて
当然でしょう。
バルバロッサのドイツ並と言うと、8日間の進撃距離は速い所では140kmです。
その圏内には牡丹江の他にも、ハイラル、佳木斯、延吉等、ソ連軍の攻撃目標になった都市が
ありますが、何所も守り抜いています。
佳木斯はちょっと微妙かも知れないけど。
そりゃ、新京や大連の占領日を考えれば、バルバロッサのドイツ軍を凌ぐ程ですけど、
攻撃前進では無いですわな。
おっしゃる通り、直接比較の意味は余り無さそうです。
>>665 えーと、およそ30個の赤軍正規師団の他に、国境陣地に7〜8個師団相当、更に国境警備隊が
5〜6個連隊ですか。
ざっと計算すると、総数で100万超えちゃいますが、これが関東軍の認識だったとすると、
25個師団に満軍を足して70万、ソ連軍とほぼ同等の兵力と言う攻勢見積りと矛盾しませんか?
私は国境守備隊がそんなに居るなんて話は知りません。
例えば、昭和十三年に満朝ソ国境で、朝鮮軍とソ連軍との間に張鼓峰事件がありましたが、
この時張鼓峰に進出して来たソ連軍の国境守備兵は、日本軍が攻勢をかけて全員捕虜にしてみると
僅か11人でした。
後に軍団レベルの兵士を動員して攻撃を掛けて来ますが、それは赤軍の正規師団です。
私がウラジオストックに向けて攻勢を取る事を想定した場合に懸念するのは、ヴォロシーロフ〜
ウラジオストック一帯に構築された要塞群の攻略中に、当然あるであろうソ連極東軍主力による
反転攻勢を凌げるかどうかです。
10個師団が想定されるこの攻勢は正直怖いです。
むしろ、貴方が言うようにソ連軍の兵力が国境線に広く分散されている方が戦い易いと思います。
私は存在を知りませんが、東部国境線にトーチカが何百個並んでいようと、マジノ線と同じように
攻撃側は一点に穴を開ければそれで事足ります。
例え八個師団居ようと、800kmの国境線に並んでいれば、100km当り一個師団ですから。
要塞線を構築する最大の利点は後方に迂回攻撃をかけられない事ですが、それこそ関東軍が
予定していたようなハンカ湖上を舟艇機動でもすれば迂回攻撃はかけられます。
実際にマレー攻略戦の時にはやってますしね。
日本軍が勝算を持てなかったのは、国境陣地を破れるかどうかではないでしょう、大局的に見て
ソ連を屈服させられるかどうかです。
私は「ソ連軍は弱いからまともに抵抗しない」なんて思っていませんよ、当時の赤軍は
攻撃に特化した軍隊ですから、陣地守らせたら弱いでしょうが打撃力は脅威です。
バルバロッサの時でさえ、防衛戦は連戦連敗ですが、所により反転攻勢に出てドイツ軍を押し返して
ますし、41年の冬季反攻ではあらだけやられていた軍隊とは思えない程の威力を発揮して、
モスクワ正面からドイツ軍を400km押し戻しています。
ドイツ軍はもうちょっとで総崩れになる所ですよ。
当時の赤軍の抵抗は陣地に篭って粘り強くではありません、敵の攻勢に攻勢をぶつけるやり方です。
失敗して短期間に大量の兵力を失ったりもしていますが、効果も発揮しています。
>>666〜
砲兵機関銃旅団や機関銃大隊ですが、週末を使って資料いっぱい漁ってみましたが、該当するものは
見当りませんでした。
戦史戦記から、親衛称号や叙勲隊まで見たんですけどねぇ…。
>>670にあるような、小隊に重機を20も配備するような編成はとても考えられないので、日本側の
誤認じゃないですかね?
ギリギリそれっぽい編成だったのは、狙撃兵師団に通常一個配備の対空大隊ってのが、PM1910重機関銃を
四連装にした対空機関銃を3ないし6基装備してます。(他にもっと大きな装備もありますが)
重機数に直せば、12〜24ですけどねぇ…。
砲兵隊所属の機関銃は、基本対空機銃しか無かったです。
ちなみに、防空隊には師団までありますが、砲兵機関銃隊ってこれですかね?
機関銃・砲兵隊も見かけなかったです。
ロケット・砲兵隊ならゴロゴロありましたが。
砲機混成の大きな隊としては、要塞軍ってのがありました。
これがまた編成バラバラで、旧式装備に定数割れ続出のようで全然定量化できなかったですが、参考までに
冬戦争ちょっと前の1939年6月にレニングラード郊外に居た隊で、
45mm対戦車砲×15、76mm砲×52、107mm重迫撃砲×12、107mm重迫撃砲(別の型?)×38、
152mm榴弾砲×24、203mm榴弾砲×8、8個機関銃中隊(定数なら重機96丁)、各種補助部隊。
砲兵師団の1/2〜2/3に一個狙撃師団の2/3くらいの重機と若干の対戦車砲を配備した感じでしょうか?
この隊も定数では無いようですが、私が見た中では一番良かったです。
ちなみに、要塞軍は師団とか旅団ではなく、「第○○要塞軍」と言う命名方式みたいです。
とりあえず数はソ連全土で5つまで確認しましたが、全部で幾つあったかは定かじゃないです。
>>672 39年以降は新国境線に焦点が移され、装備も一部流用されてしまった旧国境の要塞線、いわゆる
スターリン・ラインって奴ですが、ここはバルバロッサ時の国境から100km以上奥にあって、
対応時間も装備もそれなりにあった訳ですが、大した事は出来てませんよ。
700 :
暫編第一軍:2007/08/14(火) 05:35:55 ID:???
>>688 <制式年の問題>
制式年については行政上の年度が19年度でも、実際年が20年なら五式と命名されて何等の不思議もありません。現在でも平成18年度2月の書類が19年2月の日付入りで決済されますから。
実際には制式名の年が実用化年とは限らないのが我が軍ですがいずれにしても別の問題でしょう。
ただ私の方にも誤解があるかもしれません。
「帝国陸軍機甲部隊」で会計年度と明記しているのはS14年までで、それ以降は特に明記していないので年である可能性がありますね。その場合14年度と15年の間にダブルカウント時期が出てしまいますが。
年で計算したと思われる(明記はされていないが)戦略爆撃調査団の資料で確認した所昭和15年で一致、16年で12輌違い、17年で一致、18年で1輌違いでした。
しかしこれだと軽戦車が昭和16年、17年で各100輌以上違ってしまうので判断を保留します。
<チハ生産数>
>>525の記述より16年度の生産数は、新砲塔への移行の為に多くが関特演までに作られたのではないかという件を対象にした内容です。
日立については全生産数がはっきりしていまして、15年2月の最初の2輌の後、18年までで279輌に過ぎません。多くても16年末まででは100輌前後でしょう。
生産所別の連番であったとしても9月以降に600〜700の三菱と合わせて6月の時点で1000に届くとは思えません。
断片的なのですが、陸軍の記録では16年1月に41輌、3月に43輌の生産ですからまあ年だとして6月初めまでに推定200輌、年度だと80輌。
尚、八九式の生産は昭和14年度に20輌(帝国陸軍機甲部隊)とあり、昭和10〜14年に乙が184輌という資料(帝国陸海軍の戦闘用車輌)がありますから、昭和11年以降も作っていたようです。
<チヘ>
古い資料の中には587輌とする数字も170説と同じくらい挙げられていますね。「日本の戦車と装甲車輌」もその説を採っています。(同書はバックナンバーの編集)
「帝国陸軍機甲部隊」では昭和18年度(年かも)15輌、19年度155輌で計170輌としています。試製時代は別に数両あると思われますが。
戦略爆撃調査団の記録だと、昭和19年の中戦車生産が294輌、20年89輌であり計383輌です。
これには同じ車体を改修したチヌ166輌やもしかしたらチトなどが含まれるわけですが、「帝国陸軍機甲部隊」の数字が年度だった場合は19年1〜3月のチハも含まれることになります。
※逆に20年に111輌を生産したとされるチヌの数が22輌かそれ以上合いません。資料の誤差なのか調査団も年度なのか。
いずれにしても587輌説は微妙な説ではないでしょうか。新砲塔チハとの混同があるのではないかと思います。
他の皆様、戦車の話ですみません。
残りについてはまた暇なときにレスしたいと思います。
>>700 チハは三菱と日立以外に相模造兵廠でも作ってるお。
どういう編成だったんだろうな。
706 :
名無し三等兵:2007/08/17(金) 20:58:18 ID:jOBNuAp4
BF1942から太平洋戦争にちなんだマップが消える
悪い、sage忘れた