堤師団長は、2時10分全兵団に戦闘準備を下令、2時30分に戦車第11連隊長池田末男大佐に対し、
工兵2個中隊を併せ指揮し、国端崎方面に急進してこの敵を撃滅するよう命令した。
戦車連隊は、出撃の命令を受けると直ちに非常呼集をかけ、3時20分までに飛行場に集結した約20両をもって、
連隊長車を先頭に急進した。5時、国端崎から14Km手前で小休止し、白鉢巻で戦車上に立ち上がった
池田連隊長は訓示した後、再び乗車前進を命じた。この時の訓示が、かの有名なセリフである
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/ | ・| ・ | 、 \ 「上陸軍を一人残さず海に叩き落とすまで奮闘せよ!」
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| 三 | 三 `(___)
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18日午前6時、ソ連軍は占守島北部の四嶺山までなんとか進出し、ここで独立歩兵第282大隊との接近戦が始まった。
6時20分頃、第11連隊は四嶺山南麓台地に進出した。既に先ほどのソ連軍約1個中隊が山を越えていたが、
連隊長はこれを突破して四嶺山頂に進出する決心をした。6時50分、攻撃を開始して所在の敵を撃破しつつ
南斜面を駆け上がり、7時30分頃には山頂に到達した。ソ連軍には動揺が広がっている。
敵戦車出現の報告はない。敵砲兵の威力も濃霧の為制約されると連隊長は判断し
↓池田連隊長
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∩( ・ω・)∩ 「一挙に敵を圧倒して、水際に撃滅する」ことを決心した
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|ミ/// / ~~|ミ|丘百~((==___
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((◎)~~~O~~~~~O~~(◎))三)──)三)
ゝ(◎)(◎)(◎)(◎) (◎)ノ三ノ──ノ三ノ
7時50分、連隊長は身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じた。約40両の戦車が連隊長の
統一指揮のもとに敵中に突入したのである。それは、さながら運用教範の実演の如く見事な隊形であった。
それも当然で、その教範は実は戦車学校の教官であった池田中佐(当時)が編纂したものだったのだ
歩兵・陣地を相手とするチハの七面六腑の活躍が見られた戦場を数えれば、占守島は間違いなく三本の指に入るだろう
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ξ⌒( // ̄ ̄/ `l / ☆ / / | | \ \ | ,`T` _ 6) \ \ \________
 ̄∪  ̄ ̄ l´二,二 | \ 〃 〃 | | \. ( |王王土/ノ――´ ノ
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l 二 二_/~ } \ \ _, | \ | o ̄ ~| ̄
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し、 、_ゝ ゝ ノ | o |
連隊は、南斜面より上ってくるソ連兵の群れに突撃を敢行した。しかしながら、視界約20mの霧が、
死角の多い戦車に不利をもたらした。本来ならば、戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮
できるのであるが、急な出動で協力できる歩兵がいない為、不慣れな工兵を随伴したが、協同
不十分なまま押っ取り刀で飛び込んで行ったのである。一旦は混乱して潰走しかけたソ連軍だったが、
8時30分頃までに全対戦車火器(対戦車ライフル約100挺と45mm対戦車砲4門)
を日本軍の逆襲正面に結集して激しく反撃した。欧州戦線では陳腐化した対戦車ライフルだが、
装甲の薄い日本の戦車相手で近距離なら、十分であった。それでも士魂部隊は攻撃の手を緩めない
r''"〜 ̄ ̄^'ヽ
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゙l;| | ` − o−|;i | <チハタンはブリキ缶だぜ!
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/"ヽ 'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄ [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`"
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この戦闘の間、カムチャッカ半島のロパトカ岬からソ連軍重砲4門が射撃を行っていたが、
四嶺山の日本軍重砲1門が応戦し、1門でこの4門を撃破することに成功している
また天候と航続距離のせいで、ソ連側は航空機による十分な支援が出来なかった
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/___ヽ / ヽ\\\
/  ̄  ̄ ヽ. i
\\ /  ̄ ̄ ̄ ̄ \ \ | こちとら人間弾道計算機じゃあ!
/ へ /ヽ ヽ ヽノ
/ /^ヽ /^ヽ ヽ ヽ \\\ 光学装置なんぞクソ食らえ!
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\\| `− 6 `−′ |. |
! ! !
ヽ /  ̄ ̄ ̄ \ / /
\ \_ (⌒ヽ丿 / /
━━━6━━━━━ヽ、
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占守島にはノモンハンやガダルカナルを生き延びたベテランや、キスカ撤退作戦の経験者も
多く配属されていた
やがて四嶺山南東の高射砲が砲撃し、南麓から駆け付けてきた歩兵大隊も軽戦車を先頭に攻撃を開始
耐え切れなくなったソ連軍は、遺棄死体100以上を残して竹田浜(上陸地点)方面に撤退した。
戦車連隊の損害も少なくなく、戦車27両が撃破され、池田連隊長以下96人が戦死した。だが、
その代償と引き替えに、連隊はソ連軍の内陸部への侵攻を阻止したのである。
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|| @| + ||ニ(( | ( ( 二二ヽ | 「押し返した、ロスケを追い出したんだよ!」
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> 二 ´_ ヽ  ̄ ̄ / ノ
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その後、ソ連はアメリカ政府からの抗議を受け、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立した。
この間、日本側が派遣した軍使が射殺されるという事件も起きている。8月21日午後、堤師団長と
ソ連軍司令官グネチコ少将が会同して降伏文書の正式調印が行われた。
この戦いで日ソ両陣営が手に入れたものはなんであったか?
当時のソ連政府機関紙イズベスチャは「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べた。
また、ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない、全く無駄な作戦だった。」と回顧録を残している
さらにこの闘いにおけるソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している。
しかし、9月4日に侵攻を止めるまでに、ソ連はスターリンの念願であった千島列島と南樺太および歯舞諸島、
色丹島の占領に至った。生き延びた日本兵は武装解除の後ことごとくシベリアへ送られ長く厳しい抑留生活
を余儀なくされる……。当時を知る人の中には、「ロシアの言うことだけは信じてはいけない」と
かたくなな考えを持つ人もいる。今日に至るまで北方領土問題は解決の兆しを見せない……。
しかしそれでも、今この瞬間も、間違いなく北海道は日本国固有の領土として認められ、そこには8万3千平方キロメートルの土地があり、
560万人の人々が生きている。彼ら日本兵の奮戦により、スターリンはとうとう北海道占領を諦めることを余儀なくされたのである
国土分断の危機を回避すべく、第二次世界大戦最後の戦いに挑んだ彼ら満州・樺太・千島の人々のことを、どうか忘れないで欲しい
――――ドラえもん のび太のTHE LAST BATTLE――――
(了)