学園島戦争 開始21年目

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492ハリケーン ◆i3FjaNbBfI
ちょっと参考になるの見つけたよ。

松永太・緒方純子(北九州一家監禁殺人事件)




 2002年3月6日、17歳の少女が小倉北区にあるマンションの一室から逃げ出し、祖父母宅へ助けを求めに駆け込んだ。
 少女は怯えながら、
「お父さんが殺された。私もずっと監禁されていた」
 と語った。少女の右足の親指は生爪が剥がれており、
「ペンチを渡されて、『自分で爪を剥げ』と言われたので剥がした」
 とのことであった。
 それまでの経緯などもあり、祖父は少女をともなって門司警察署へ監禁の被害届を出しに行くことになる。しかし
彼女が供述した事実は監禁致傷にとどまらず、連続殺人――それも類を見ないほどの一家殲滅とも言える大量殺人であった。
 連絡を受けて現れた小倉北署員がこれ以後事情聴取を行なうことになり、そうして少しずつ、この事件の全貌が語られていくことになる。
493ハリケーン ◆i3FjaNbBfI :2007/02/18(日) 01:29:47 ID:???
1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
 今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。彼は松永と同い年で、離婚して10歳の娘とともに暮らしていた。
 松永は「新会社を設立するから共同出資者にならないか」と持ちかけ、連日酒の席へ連れ出して、言葉たくみに些細な軽犯罪の過去等を聞き出した。
計画がうまくいくまでの生活費は、純子に実家へ電話させ、泣き落としで送金させた。この金額も1997年まで63回に分けて、1500万以上にのぼったという。
 虎谷さんは松永に言われるがまま、新会社の事務所として小倉にあるマンションの一室を自分名義で賃貸契約する。
 そして純子が保育士をしていた経歴を大袈裟に吹聴して、10歳の娘を預かり同居させた。この少女が、のちに冒頭で警察に駆け込むことになる少女である。
 この時期から松永の虎谷さんへのマインドコントロールが始まった。
 虎谷さんが酒の席で口をすべらせた軽犯罪について問い詰め、お得意の書面(『事実関係証明書』と題され、私は〜の犯罪を犯した事実を証明しますと書かされたもの)を
作成した。松永のやり口は、内容は言いがかり同然でもとにかく執拗で、何度も何度も繰り返し相手の弱いところを長時間にわたって突いていくというものである。これをやられると
被害者は次第に消耗して、自分の言い分さえ見失ってしまうのだった。
 これによって虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
 虎谷さんは1995年2月、不動産会社を退社。いつの間にか新会社設立の話は消え、共同経営者どころか奴隷同然の身分になっていく。
 この頃から、虎谷さんへの「通電リンチ」が始まった。食事も制限され、一日中純子による監視がなされるようになった。虎谷さんは松永に命令されるがままに消費
者金融から限度額いっぱいに金を借りては渡し、親族、知人など考えられる限りのツテから借金してはそれを渡した。