1 :
名無しさん@胸おっぱい:
2 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 09:35:36 ID:???
2
3 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 12:37:04 ID:9JhvMaIh
4 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 16:47:17 ID:???
>>1乙
テンプレに戦時中の所属部隊の照会方法も書いといた方が良いかもね。
5 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 17:55:10 ID:???
6 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 18:14:40 ID:???
>>1 乙です
これだけじゃアレなんで、うちの父方のじーちゃんの話でも。
じーちゃん、名古屋だかで戦闘機の整備をしていたそうだ。
ドイツから戦闘機用(メッサーシュミットのとか言ってたが…多分違うだろう)のエンジンとか部品とかと一緒に
説明書みたいなのも送られてきたけど、ドイツ語なんかわからないから勘で整備してたって。
「自動車のエンジンと同じだろ」とじーちゃんは言い切ったそうだ。
…うちのじーちゃんの整備の所為で、乗ってた飛行機落ちた方がいないことを祈るばかり。
戦後はその知識?とスキルを活かして自動車の整備工場を開き、片言の英語でアメさん相手に商売してた。
上着のことを「ジャケツ」という、ちょっとイカしたじーちゃんだったな。
7 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 19:13:40 ID:???
うちのじいちゃんは第二十一師団八十二歩兵連隊所属でした。
戦場へは北支作戦で北支派遣軍として
その後仏印の方へ行ってます
戦場には終戦まで7年間いたそうです
その間に下士官試験を受けるも不合格
それでも終戦の半年ほど前には軍曹にはなってたみたいです
そのじいちゃんの初年兵時代の話。
8 :
名無し三等兵:2006/10/27(金) 19:23:56 ID:???
祖父が陸軍に入ったのは17の頃だそうだ
当時背も高く体格も大きかった祖父は徴兵検査に甲種で合格した
それによると初年兵は大変だったらしい
まず跳んだり跳ねたり腕立てやったり走ったりと基礎体力をつける
それでへとへとになるしお腹も減るが、初年兵に許された食事時間は10秒もなかったらしい
茶碗一杯の米にみそ汁、たくわんが出る。
食事はじめの号令とともにみそ汁をご飯にかけて一気に飲み込みたくわんをかみくだく
一番最後の物は班付き上等兵から往復ビンタを食らったらしい。
当然その程度で腹がいっぱいになるわけなくお腹空かせた初年兵は古兵たちの残した飯を履きそうになるまで食べたのだとか。
9 :
名無し三等兵:2006/10/28(土) 08:34:21 ID:zHVAaY5a
私の祖父は農家の出で、猛勉強して陸士→陸大を卒業してる。宮様と同期だったらしい。
最近関心を持ちはじめているのですが、陸大とか陸士って軍人養成学校ですか?どういう人が行くんだろ。
大学時代、祖父の名前が載った陸軍の本を発見した。かなり偉いひとだったみたい。
祖父には戦争の話は一切触れられなかった。子供心に触れてはいけない気がして・・。今は聞いておけば良かったと思う。召集されて戦争に行った人と自分から軍人になった人と、戦争の捉え方は違うのだろうか。
10 :
名無し三等兵:2006/10/28(土) 08:53:06 ID:???
11 :
6:2006/10/28(土) 14:49:12 ID:???
>>10 資料の提示、ありがとう。読みながらうわああああってなったorz
そうだよ…じーちゃん言ってたよ…「ハ型は駄目だ」って。
話を聞いた当時、私はエンジンの事なんて何にも知らないから、じーちゃんが教えてくれた。
エンジンの中みると「ハ」の字型になってるから「ハ型」なんだって言ってた。
そうか…じーちゃんが生涯「ベンツの車になんか乗らない」って言い続けたのはこれの所為だったのかも…。
あの頃、もっとちゃんと戦闘機のこと聞いておけばよかったなぁ。
戦闘機乗りであった方々のご冥福を深くお祈り申し上げたい…。
他に聞いた話は、玉音放送後のどさくさに紛れて、軍からかっぱらった食料を積んだ車だかサイドカーだかで
横須賀辺りから家族の待ってる小田原まで逃げたってぐらい。
橋が封鎖されてて仕方なしに車を乗り捨てて、持てるだけの食料を手に何度も川を往復したって。
戦争に負けて、もう自分は米兵に殺されて家族に会えないんだって思ってたから、空襲に耐えて自分の家が
残ってて、しかも家族もみんな無事で自分を迎えてくれたときは本当に嬉しかった、そう言ってた。
酔っ払ったときに話してくれたことだけど、この時じーちゃんが食料持って逃げてこなければ、うちの父は
生まれなかったわけで…じーちゃんGJ。
12 :
名無し三等兵:2006/10/28(土) 18:44:02 ID:???
ひょっとして遊就館の大展示室に吊ってあるの、彗星?
13 :
名無し三等兵:2006/10/28(土) 19:24:25 ID:???
>12
そう
液冷の彗星艦爆
14 :
衛兵伍長:2006/10/31(火) 12:54:18 ID:FBj34+lZ
>>9 陸軍士官学校は学業・体格ともに優秀な少年が競争試験を受けて合格すると入学できます。
家柄は問いませんが、お父さんが軍人だと試験をうけてみる子が多かったようです。
また明治時代には東京の大学に遊学するだけの学資がない貧乏な家の子が、お金のかからない士官学校で勉強しようと受験することも多かったそうです。
皇室や宮家は男の子供を陸海軍の軍人にする慣習がありました。(その場合は無試験同様で、入校・入隊しても少佐級の御付武官がつく特別扱いでした。)
一般には士官学校(予科・本科)在校中に士官候補生・見習士官と身分が進み、階級も上等兵から曹長に短期間で進級します。
卒業すると部隊に配属となり、少尉となります。30歳代で大尉、40歳代で少佐〜大佐くらいになり、50歳代で定年で退職します。
ところが、中尉の時に陸軍大学を受験して合格すると、エリート・コースに乗ることになり、参謀や陸軍省の幹部となってスピード出世し、将官になります。
今でいうキャリア公務員というところです。
師団長や陸軍省局長、参謀本部の部長という要職は陸軍大学卒業者が占めていました。
おじいさんは、軍人として大成功した方なのですね。たぶん中将にはなっていらしたのでは。
15 :
9:2006/10/31(火) 21:21:15 ID:UPTkRyrK
14>>
詳しい説明ありがとうございます!
確かに本には祖父は終戦時中将となっていました。
戦後は自衛隊にいたようです。
父が剣道の有段者だったのですが、全く敵わなかったとのことで、小さいころから祖父に習い、中学で段をとりに行った時に、「君はどこで剣道習ったの?それは実践向きだ」と言われたそうです。
口数の少ない人だったのですがもっと聞いてみたらよかったと思います。
これからも祖父のことを通じて戦争のことを調べてみたいです。
16 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 21:35:40 ID:e6i/bAqe
うちの祖父は、ラバウル海軍航空隊(あってますかね?)で暗号を前線に知らせる部隊の軍曹をしていたそうです。
部下を前線に送り、何人も戦死させてしまったと残念そうに話していました。
終戦時の武装解除も担当し、海中に武器を投棄したそうです。
現地の住民との関係も良かったようで、心配していた蜂起や襲撃も無かったと話していました。
当時は興味もなくなんとなく聞いていたのですが、興味を持ったいま祖父はもう他界してしまい聞くことができません。
祖父がいた部隊について、詳しくわかる方はいらっしゃいませんでしょうか?
長文すみません!
17 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 21:57:40 ID:DlfG0qCk
おおっと、これは通報だぁあああああああああああああ
18 :
16:2006/10/31(火) 22:06:22 ID:e6i/bAqe
えっ!?
>16ですけど、何かいけないこと聞いちゃいましたか?
19 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 22:15:10 ID:FV/pBDoy
うちのじいちゃんは301飛行隊(だっけ?)の燃料補給班に所属していたらしいです。
よくトラックに乗ってるときにグラマンに追い回されたって話をしてくれますね。
20 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 22:17:08 ID:FV/pBDoy
うは、気になって調べたら343航空隊だったorz
よく調べてから書き込みするべきだ。
21 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 22:19:27 ID:???
22 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 22:25:27 ID:FV/pBDoy
確か、松山だったと思います。
今年緊急入院・緊急手術してから痴呆になりはじめたらしく
記憶が曖昧なので今は聞いてもわかりませんが
23 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 22:39:40 ID:???
>>19 第343海軍航空隊戦闘301飛行隊「新選組」
だから、あってるとおもう。
24 :
名無し三等兵:2006/10/31(火) 23:02:49 ID:???
25 :
衛兵伍長:2006/11/01(水) 15:21:02 ID:06osNAn9
>>15 「実践(実戦)向き」剣道は、幼年学校(士官学校の付属中学みたいなとこ)から教えていたそうです。
軍人は、たいていこの式で、競技用剣道で有効打とされる技も、陸軍剣道では無効と審判されるほどの違いがあったといいます。
確実に相手を無力化しないと逆にこちらがやられてしまうので、強力な攻撃力に加えて、剣を投げ捨てての組討ちもありでした。
私の親戚が競技用剣道の有段者でしたが、町の道場で在郷軍人の将校に組討に持ち込まれてボコボコにされ悩まされたそうです(笑)
26 :
名無し三等兵:2006/11/01(水) 17:58:59 ID:jGutlCZE
戸山流剣術だろう、真剣使用が前提。竹刀の剣道とは別物。勝負すること自体意味無し。
27 :
名無し三等兵:2006/11/01(水) 18:39:49 ID:???
>>15 これどうなの?将は自衛隊に参加できなかったんじゃないの?
28 :
名無し三等兵:2006/11/01(水) 18:47:10 ID:QB+GPRVn
>9さんへ
陸軍士官学校の入試は理系旧制高校の入試に匹敵したそうです。僕の部屋におじいさま等が解かれた入試問題ありますよ^^
29 :
9:2006/11/01(水) 19:19:14 ID:i1m6AwUs
すみません。調べなおしたら中佐の間違えでした。中将と中佐では大きく違いますよね。恥ずかしいです。失礼しました。
調べたら第七方面軍の参謀部にいたようなのですが、参謀部って何をする所なのでしょうか?
30 :
名無し三等兵:2006/11/01(水) 23:53:40 ID:???
伯父の父は、豪放な性格で稀代の遊び人だったらしい。
一緒に出征した親族の話を繋ぎ合わせて足跡を辿ってみたが
事実かどうか、どうにも怪しい部分が多々あるが、ここに記してみる。
・生まれも育ちも宮城県
・酒を飲むと決まって、あの乃木希典の指揮の下で戦ったんだと自慢した
・日露戦争に歩兵で参加。
・ナントカ高地(203高地か?日露=203高地という意味か?)の戦いに参加
・絶対に折れない心で弾薬の残量もきにせず、ひたすら突撃し奉天を占領。
・日露戦争後は実家に帰り、趣味の馬の育成に没頭及び大酒飲みということで
金にならないことばかりする、遊び人と呼ばれる
・満州事変勃発で軍馬の徴用があり、莫大な利益をあげる
・ついでに本人も徴兵される。事変と名の付くものにはほぼ参加
・ひたすら快進撃、中国兵は日本兵を見ると武器を置いて逃げ出した
・日米開戦後、しばらく敵がいないので暇だったが軍の命令により南下を開始
・ガ島だかで突撃時にわき腹を弾丸が掠め少し怪我をしただけで傷痍軍人となる
(本来数発撃たれた位では認定されないが、皆死んだし激戦だったから認定して貰えた)
・この頃は30代後半だったので軸重兵になる。40歳くらいになると
周りから、おじいちゃんと呼ばれ丁寧に扱われるようになる
・フィリピンからビルマのあたり(親戚も参戦してるため記憶が被ってる可能性がある)
まで移動、インパール作戦に参加する部隊を支援(見送り)
・壊走してきた15軍は裸足でボロボロの服と骨と皮だけになっていて
出撃した人間の殆どは帰って来なかったので、えらい負けたと皆思った
・とにかくグラマンには酷い目にあった
・現地人には解放軍として大歓迎される、が食い物がないのでニワトリ泥棒
をして部下に食料を調達する
・ビルマのあたりで捕まえた捕虜を軍医が生きたまま解剖するのを見せられる
かなり悲惨なもので精神的にかなり堪えて最後まで見ていられなかったと
戦後、酒を飲んだ時に伯父に話す(信じられない話だが)
・終戦後、鉄道建設で1〜2年現地で働かされ帰国
・国から金が振り込まれてくるので遊んで暮らすが、タバコ吸いすぎで肺がんになる。
しかしタバコを吸えないなら死んだ方がましと言って吸いまくって死亡
31 :
名無し三等兵:2006/11/02(木) 01:02:38 ID:???
323 :名無し三等兵 :2006/11/02(木) 00:57:53 ID:???
父方の爺や→海軍士官
母方の爺や→陸軍士官
既に二人とも他界。詳細は不明。
==========================
ですがスレより転載
32 :
衛兵伍長:2006/11/02(木) 11:12:37 ID:RqDPqyD8
>>29 中佐でしたら、まだお若かったのですね。陸大卒業なら終戦時40歳代前半というところでしょうか。
参謀部とは方面軍司令部の主要部局のひとつで、副官部と一緒にして「幕僚」と呼ばれ、司令官補佐に任じました。
具体的には、作戦・補給計画の立案・実行、軍事情報の収集・分析が主な仕事で、参謀が課・班に分かれて仕事を分担していました。
参謀は将官級の参謀長から大尉のヒラ参謀まで大勢揃っていましたが、中佐参謀でしたら課長クラスですね。
33 :
9:2006/11/02(木) 17:37:27 ID:vWg1PwgS
32>>
軍政監部参謀も兼任とありました。昭和天皇がなくなった直後に祖父もなくなったのですが、終戦時何歳だったのか不明です。
何故陸軍を選んだのか、軍人としてあの戦争をどう思ってるのか聞いてみたかったです。
祖父の遺品に戦中の写真や遺書(誰のか不明です)、日記があり、大事にきちんと保管されています。
今度祖父の家に行く時改めて遺品をよくみてみようと思います。
34 :
名無し三等兵:2006/11/02(木) 19:43:29 ID:???
>30
>伯父の父
貴殿の祖父?
35 :
名無し三等兵:2006/11/02(木) 22:03:31 ID:???
うちのおじいさんは二人とも戦争には行ってないが、母方のおじいさんは
学生時代に剣道で全国大会クラスだったそうだ。
剣道と真剣を扱うための術とはかなり違うんだろうな、そんなことを聞いてみたかった
と今頃思う。
36 :
名無し三等兵:2006/11/02(木) 23:42:27 ID:KuU16EWG
そういえば曾祖父母の戦争の話はおろか存在すら聞いたことないな…。じいさんは変わり者で「8人くらい兄弟いるけど何人くらい生きてるんだっけなぁ?戦争で何人か死んだ気がするなぁ?」と…
37 :
名無し三等兵:2006/11/03(金) 00:12:06 ID:KTnFiZhx
父方祖父
終戦時多分20歳くらい。徴兵される前に志願。
その方が行く先が選べたからって言ってたけど本当ですか?
終戦時は群馬で零戦とかの整備をしていたらしいです。
38 :
名無し三等兵:2006/11/03(金) 21:15:44 ID:???
父方祖父
戦闘機乗りで零戦に乗っていました。(トラックだったと思う・・。)
海軍中尉でラバウルにも行ったと父がいっていた。
確かどっか全滅する数ヶ月前病気で帰国したとか・・・。
その後は終戦まで教官をやっていたそうです。
(バリバリ戦っていたときは、何度も死に掛けたとか・・・・・。)
原爆落ちる数日前まで広島にいたという噂もちらほら・・・。
39 :
名無し三等兵:2006/11/04(土) 23:20:48 ID:TsfUoGSj
うちのばあちゃんは日赤で従軍看護婦でした。大局の婦長がいて
仕事をチンタラやっていると怒鳴られ、若い兵士と話していると
往復ビンタされたそうですが、ところで兵士はみんな優しかった
そうで、よく甘いものを持ってきてくれて、フィリピンでは
すごくモテて楽しかったそうです。外出は集団行動だったそうですが
みんな別れて誰かとあっていた(笑)、負傷する人より伝染病の人が
多くて、ホルマリン消毒が臭くて大変だったそうです。
フィリピンから移動して半年後に台湾で、前いたところの
部隊が玉砕したとか言う話を聞いて悲しかったそうです。
終戦時は博多にいたそうですが、原爆は「新型爆弾」とか
言っていたそうですが、上の人はどんな代物かみんなわかっている
ふうだったそうです。長崎に派遣された看護婦もいたそうですが
同僚は「体がこわい(苦しい)」とか言う人も多くて原爆症?の人
もいて、あまりのショックで長崎で何があったか話さなかったそうです
終戦はわめき散らす将校とかがいたそうですが、概ね平穏だったそうです。
うちのばあちゃんも好きだった兵士なり将校がいたみたいですが
戦争中のことは俺以外のじいちゃんにも話していないし、棺おけまで持っていきそうです。
40 :
名無し三等兵:2006/11/05(日) 10:30:14 ID:???
>これどうなの?将は自衛隊に参加できなかったんじゃないの?
最初はな。でも徐々に解除されていって、そのうちどうでもよくなったんだよ。
豪傑バカ参謀で名を売った片倉だって、終戦時少将だったけど、戦後まで
生き残って陸自に入り、陸将補になって師団長やったぞ。
41 :
名無し三等兵:2006/11/05(日) 15:41:10 ID:???
一度予備役になってから自衛隊(警察予備隊?)に入った元帝国軍人ってどのくらいいるんだろ?
42 :
名無し三等兵:2006/11/05(日) 17:52:18 ID:???
豚切スマソ
母方の祖父は志願兵だったため、比較的戦火のひどくない
南国の戦線へ送られたそうだ(場所は知らん)
戦闘らしい戦闘もなく、周りにたくさん生えてる青いバナナを
もいで吊るして黄色くなった頃に食べたとかで、食べ物にも
不自由しなかったとか。戦後は即引き揚げられたそうだし
運が良かったとしかいいようがない。早死にだったけど・・・
43 :
名無し三等兵:2006/11/05(日) 22:20:55 ID:dJ+Nm9dX
44 :
名無し三等兵:2006/11/05(日) 22:21:32 ID:???
45 :
衛兵伍長:2006/11/06(月) 15:51:25 ID:PVgS7fEp
>>43 別にありません。早く兵役を済ませときたい人や、下士官になってずーっと軍隊で暮そうとする人が徴兵適齢年以前に志願することが多い。
特に海軍は志願制が主で、不足兵員を徴兵で補っていたので、志願兵が幅を利かせていたが、これとて徴兵で入った人と待遇は変わらなかった。
若年で志願すれば要はそれだけ長く軍隊に在籍でき、志願兵だからというので、上官から目をかけられる度合いも多少増える程度。
46 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 16:10:57 ID:g9x9fe6G
俺の爺さん(故人)は、日中戦争で川崎重工から召集され中国戦線に借り出されたが、
昭和14年ぐらいに、川崎重工が出した「優秀工員兵役免除申請」で日本に
つまりは川崎重工に帰ってきた。そのとき、造船工事にたずさわったのが
空母瑞鶴。もう、何かあるつうのは分かってたのかは聞きそびれた。
47 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 17:17:16 ID:???
今思ったが
戦争体験=軍隊での体験じゃないよな。
母方のじいさんは兵隊には取られたが、何をしてきたのか分からん。(農業指導の勉強してたから満州とかか?)
家は農家だったので(連れてこられたのか、勝手に来たのかは分からない)朝鮮人はかなり役に立ったらしい。
そして終戦後、土地を耕しきれないから人に貸してたり、雇ったりしてただけで暴利な地代取ってないのに地主に認定され農地縮小。
開拓すればするだけ自分の物になる新天地蝦夷に来て苦労したのにこの仕打ちは何なのだろう?
GHQに謝罪と賠(ry
48 :
42:2006/11/06(月) 17:56:44 ID:???
遅レススマソ
>>43 おかんから又聞きしたけど、うちの場合も赤紙が来る前に志願しただけで別に
特権があったわけじゃないらしい。階級もお情けで一等兵。
当時戦況が穏やかなところへ送られただけで(着いてから激化する可能性も
あったろうし)あんまり関係ないと思う
ただ消防の宿題でじいちゃんの話を聞いたときは、正直拍子抜けした。
けど、悲惨なイメージしかなかった戦争に興味を持ち始めたきっかけでも
あるんだよな・・・
何かスレ違っぽくなってきたから俺消えるわノシ
49 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 19:02:45 ID:MxDj3fDz
>>16に父方の祖父の話を書き込んだ者ですが、母方の祖父の話です。
陸軍だった祖父の所属していた部隊は、中国兵の捕虜へ酷い対応をすることなく優しく接していたそうです。
その中の捕虜だった方が、今から15年前くらいに祖父に会いに来てくれました。
その人は台湾に住んでいて事業を起こし、かなり成功されていました。
今はもう祖父は亡くなってしまいましたが、小さい頃に「おじいちゃんも人を殺したの?」と聞いたことがあります…
その時、無言になった祖父の顔が今になっても忘れられません…
おじいちゃんごめん(つд`)
50 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 19:15:17 ID:reXrXAVI
うちのじいさんは、船に揺られて中国に駆り出されたわけだが、
船からおりた直後、空爆で乗ってた船が撃沈。
マラリアにかかり、国に戻されたが、戦場で撃たれた銃創痕がある
51 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 23:12:28 ID:UJyFH/2N
うちのじいさんは、戦争終了まぎわ、近くに分捕った(単戦などは電線に
引っかかるようなことがあったらしい)アメリカの戦闘機が並べてあるのを
見に行って、あまりのかっこよさとハイテクな感じにショックを受けたそうだ。
そんで「日本の戦闘機は不細工。雷電なんか無理して作ってるのが一目瞭然」
と言った。雷電って言葉が出たときはびっくりした。
52 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 23:23:07 ID:Ro0z3B79
じーさん、陸軍で隼に乗ってた
53 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 23:25:52 ID:???
うちのばあちゃん老人ホームにいるんだがなんか話聞いてるとじいちゃん特攻隊だったらしい
千葉だかの基地で特攻に行く当日に昇進試験の結果が届いて合格してたから特攻は無しになって
代わりに逝くことになった人を「残念であります!」とか言いながら見送ったらしい
じいちゃんもう死んじゃったしばあちゃん軽くボケてるから本当かどうかわからんのだけど
これってありうる話なんだろうか?
宿題でじいちゃんに戦争のこと聞いたら小学生の俺にプリンスオブウェールズを沈めた話ばっかしてたからな
54 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 23:29:07 ID:Ro0z3B79
マレー海戦の陸攻乗りで
後に特攻隊に回されたのいたっけか??
55 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 23:32:24 ID:???
>>54 多分マレー沖には参加してない
日本が勝った話をしたかっただけなんじゃないかと思う
56 :
名無し三等兵:2006/11/07(火) 00:10:24 ID:???
家の爺は幹部候補生だったらしいが腸チフスになって帰ってきたとか
57 :
名無し三等兵:2006/11/07(火) 14:58:09 ID:???
>>47 うちの祖父も農大出て北海道に渡ってたことが有る。
戦後、本州の方だが農地ずいぶん取られた。
58 :
名無し三等兵:2006/11/08(水) 00:16:36 ID:???
ウチのじーちゃん、戦中は30超えていたので徴兵される事無く終了。
長男が南方で戦死したが、詳細は不明なまま自分が高校生の時に死去。
このじーちゃんは戦後、子供8人を育てるために
焼け跡から電線などの鉄を闇で売りさばいていたが、
あまりに儲けすぎて同業者から目をつけられて
当時にしてはものすごい金額の罰金刑を受けたが
それまで稼いだ金でスパッと払ったそうな。
そんなじいちゃんが娘たちの食べさせたのがかぼちゃだそうです。
だから、伯母達が集まると「かぼちゃは嫌い」という話になります。
戦後生まれの母は特にかぼちゃに思い入れは無いそうです。
59 :
名無し三等兵:2006/11/08(水) 16:33:21 ID:Es1oreGU
昭和20年2月、空襲で名古屋が焼け野原になっている時、
近郊の稲沢では天下の奇祭として知られる 国府宮神社の
「はだか祭り」が、通常通り開催され賑わった。
近所のおばあちゃんの小学疎開 時代の日記より。
60 :
名無し三等兵:2006/11/08(水) 18:28:11 ID:/EdrWrGI
うちの爺ちゃんは海軍。
ちっちゃい隊?を指揮してたらしい(詳細不明
戦艦の上を敵飛行機が飛んでると、頭が冷たくなるって言ってたな
終戦が後2日遅れてたら、特攻してたって。。。
61 :
名無し三等兵:2006/11/08(水) 19:29:36 ID:???
>>59 めちゃくちゃな時代だからこそ、
『昔からの予定通りの行事』
を狂った様になぞるのさ
62 :
名無し三等兵:2006/11/09(木) 08:00:07 ID:???
オレの爺さんは明治の人だったので兵隊には行ってない。
代わりにちょっとほのぼの(?)ネタを。
爺さんは釣りが趣味で釣り船(時代劇に出てくるようなヤツ)を持っていた。で、戦時中
も釣りに出かけてたんだが、ある日、水上で釣り真っ盛りの最中に空襲警報発令!!
結局、B公は素通りしたらしく空襲は無かったんだが、爺さんは無人の通りを蓑・傘株っ
て釣り竿片手にトボトボと歩いて家に帰った(船着き場から家までちょっと距離があった)
んだとか。よっぽど恥ずかしかったらしく、それ以来、爺さんはパッタリ釣りを止めてし
まいましたとさ。
63 :
名無し三等兵:2006/11/09(木) 12:52:55 ID:l7JhQSx2
昭和20年9月初旬、焼け野原の名古屋。
焼け残った東宝会館(納屋橋)でいち早く
「なごやをどり」(西川流)を開催した。
終戦直後にもかかわらず、大勢の観客で賑わった。
みんな娯楽に飢えており、平和の解放感を満喫したと。
64 :
名無し三等兵:2006/11/09(木) 18:24:40 ID:???
敗戦は平和ではないぞ 惨めなものだ
平和とは戦い勝ち取るものだ。
昔からどこの国でも平和のためというのが戦争の建前だが、
現実世界においては確かに平和とは力なくして得られぬのだ
65 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 07:25:38 ID:fjKb9kR1
その力が必ずしも軍事力というわけでもあるまい
66 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 09:55:56 ID:???
>敗戦は平和ではないぞ 惨めなものだ
その通リだ!半世紀たっても、その為にユスられる。
どれだけ自分たちの正当な利益をタカリ取られたか。
そろそろ真剣に考える時期だ。
67 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 12:40:47 ID:d9SZcJsv
68 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 14:17:33 ID:???
海軍で満州に逝き、鳩の飼育をしてた。
戦後はシベリア抑留を経て、死んだと思われていた所に帰ってきた。
何故海軍のくせに満州に逝ってたかは、全然語ろうとしない。
69 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 17:21:19 ID:???
はと!? 食用かな・・
70 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 17:26:45 ID:TvEArBuX
伝書鳩じゃね?
しかし、何故海軍が?
昔は船から陸への連絡手段が伝書鳩だった事が
あると何かで見た記憶があるがまさかねぇw
71 :
名無し三等兵:2006/11/10(金) 21:30:22 ID:???
72 :
名無し三等兵:2006/11/11(土) 20:21:03 ID:u6UNJTrF
インターネットも伝書鳩だったら、、、という研究論文があったね。
73 :
名無し三等兵:2006/11/11(土) 20:25:11 ID:Fz2fLPuW
うちのじいちゃん中国行ってたらしい。肩に弾丸の痕があって小さいころよく見せてもらってた。
結構自慢げに話してる。前線で何人かの部下とドンパチしたらしい。大砲撃つ合図もしてたとか
74 :
名無し三等兵:2006/11/12(日) 17:01:26 ID:YnoCVIs4
75 :
名無し三等兵:2006/11/12(日) 18:22:38 ID:/pPb3NPE
うちのじいちゃんは茨城で訓練部隊の指揮官?をしてて、戦争には行ってなかったらしい。
だから、その時の話。
部隊は朝は早くて6時起き。突撃ラッパ(某埼玉のプロ野球チーム応援団が試合の合間に吹く奴)
の音で起こされる。どんな訓練をしていたかは分からない。多分いろんな事してたと思う。
俺が聞いたのは、じいちゃんが自腹で葉書を買ってきて、季節ごとに部下に故郷の実家に
手紙を書かせてたそうな。ただ、その時文章に間隔をあけて書かせ、その合間にじいちゃんが
「お宅のお子さんは元気で、たくましく〜。私が責任を持って指導しておりますのでご安心してください。」
と書いてたらしい。
そのせいか面会日には部下の家族が食べきれないほどのおはぎとか持ってきてみんなで食べたりしてたと。
色々な人間もいるし、じいちゃんも訓練は厳しくしてただろうけど、でも兵隊さんは鬼でも悪人でもない。
ちなみにそのじいちゃん、最後の方は「この戦争は負けるだろうし、時期が来たら自分も戦って
死ぬかもしれない。でも、やる時はやってやる。」と思ってたそうな。
この人がいなかったら俺は今存在しない。こんなじいちゃんを俺は誇りに思います。
76 :
名無し三等兵:2006/11/12(日) 22:34:05 ID:xbQgezNn
>>75 俺のじいさん44年か45年に茨城の多分その部隊にいたっぽい。東京帝国大学の学徒兵で将校してたみたいなんだが会ったことあるかもね。
77 :
名無し三等兵:2006/11/12(日) 23:26:07 ID:JyOb7DfJ
うちのじいさんは最初に入ったときは近衛兵してたみたいです
再度志願したときには千島に送られ占守島の戦いに参加しました
停戦後かなり荷物をぶんどられたらしく今もロシアが嫌いです
シベリア抑留もされたし
78 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 02:58:13 ID:8DIAbh/G
>>76 茨城にどれくらい部隊がいたかは分からないけど、そうだったら奇遇ですね。
今度じいちゃんに聞いてみます。
79 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 03:17:01 ID:eAW0GlZs
>>77 うちのじいさんも露助を死ぬほど嫌ってる
満州から逃げるときに荷物全部ボッシュートされたからだとか・・
でも、その時親切にされたからとかで支那人にはやたら寛大
80 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 03:23:22 ID:???
>>4 これを知りたいのですが、どうやって調べるのですか?
81 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 04:32:01 ID:XBpNzMw8
おれのひいじいちゃんが陸軍士官学校出で中佐だったんだと。
大陸での任務ばかりだったそうで、補給部隊だったと祖母はいうが、
父親の話では「おじいちゃん(父からみて)の軍刀は血で錆びていた」そうだ。
どこかで誰かを殺しているのかもしれない。
そして月見酒ばかりに耽る晩年だったらしい。
「戦場はなあ。気ィ狂うからな…」と父に言ったこともあるという。
下の名前は嘉三郎(よしさぶろう)
ちなみにおれのおじいちゃんは陸軍伍長。
これといった逸話ナシ。
メロンを食べた後63歳で死去。
むしろばあちゃんのほうがよく戦争話をしてくれた。
82 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 04:33:26 ID:MdsAitOL
メロンに毒でも入っていたのか?
83 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 04:41:41 ID:???
>>82 脳溢血かなんかだったよ。
まあたしかにばあちゃんとは仲悪かったけど毒殺はないと思う。
84 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 04:53:37 ID:MdsAitOL
そうか。俺のじいさんは桃食ったら死んでたな。
桃が好きで80近いのに5個くらい食ってたもんな。
たった5個でしんじゃうんだもん。
85 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 05:18:13 ID:???
死ぬ間際に自分の食べたいと思った物を食べて、
安心感の様なものが出て、気が抜けて死んだのではないだろうか?
末期の水みたいに。
86 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 07:16:57 ID:???
>>80 『軍歴照会』ですか?
・陸軍の場合は、対象者の御本籍地の県庁で恩給・援護関係業務の担当部課に尋ねる。
・海軍の場合は、厚生労働省・社会援護局業務課調査資料室に尋ねる。
87 :
80:2006/11/13(月) 10:29:42 ID:0UcwH115
>>86 ありがとうございました。
本籍地まで遠いので次のお盆までお預けです。
88 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 12:16:07 ID:gpCxInay
なんかいいスレだな。
みんな、じいちゃんばあちゃんをもっと敬おうぜ。
自分個人の血類だけじゃなく、「その人々のおかげで今の我々がある」
ところの昔の日本人一般に対してね。
89 :
名無し三等兵:2006/11/13(月) 12:52:38 ID:xsAXj/6Z
90 :
名無し三等兵:2006/11/14(火) 02:24:30 ID:???
>>88 なんで日本人に限定するのだろうか?
人間の起源たるアフリカ、自由権のヨーロッパ諸国、
漢字やいろいろな知識のアジア、そして今のアメリカ。いろんな国のいろんな人のおかげです。
91 :
名無し三等兵:2006/11/14(火) 07:02:46 ID:???
>>90 どうぶつやむし、くさやはな、みんなにかんしゃ みつを
92 :
名無し三等兵:2006/11/14(火) 09:06:57 ID:???
>90
地球形成に影響した太陽や銀河中心のブラックホールにも
93 :
名無し三等兵:2006/11/14(火) 17:54:51 ID:???
以前、墺太利のTa152に乗ってた爺様の話を書いた者です。
また行って来ました。爺さま元気でしたが目がそろそろ・・・
Ta152に初めて?(機体に慣れる訓練の後かも?)乗った時の
お話。それまでFw190Aに乗っていた爺様にとってTa152は凄い
機体だったそうな。 5000m以下では190より性能が少し良い
程度だが、5000m以上だと格段に性能が良かったそうな。
ある日テンペローフ?という飛行場を4機で飛び立ち連合軍の
偵察機を迎撃したときは、いつもなら5000mからは、なかなか
高度が取れず敵に合う事すら出来ないが、この日は2機の英軍
機をしかと補足! その英軍機2機は(たぶんモスキート!)
分かれて、わずかにダイブしながら逃げ出したそうな。
こちらは上昇中、相手は高高度からわずかにダイブしながら
速度を増すので、さすがの152でも追いつけなかったそうな。
そのうちフラック(高射砲?)が邪魔しだしたので、帰還
したそうな。
94 :
名無し三等兵:2006/11/14(火) 23:00:29 ID:???
>>93乙です。
飛行場の名前ですが、多分現在のテンペルホフ空港の事だと思われます。
95 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 01:06:05 ID:???
行きつけのバイク屋の爺ちゃん。我が親父の元世話役だった。
陸軍の整備教育を受けたことが大の自慢。
「一式戦(ハヤブサ)、九七重(爆撃機)で教育を受けた」から始まって、
百式重では人が沢山事故死した(高速で飛ばないと危険な殺人爆撃機
だったらしい)とか、三式戦(ヒエン)はラジエターに直ぐ穴が開いて大変
だった(配管の取り回しが悪かったらしい)とか、 語らせたら一時間は喋り捲る。
手に入れたハ103の整備マニュアルをコピーを渡したら大変に喜んでくれた。
街で一番古いホンダのバイク屋で、今でも現役整備士。
ソーイチロウさんから直に受け取った表彰状など多数あり。
96 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 01:12:33 ID:???
知り合いの爺ちゃんその一。
陸士73期・・・だったか、最後のほうだけれど
中野学校にいかされ特務につく。
737部隊(ハイラルといってたけど満州?)の砲兵隊づきだったが
あそこの要塞はすごかったとか、それからフィリッピンへ行かされ
たけれど戦闘になる前に転属命令が出て船で移動中に潜水艦に
ボカチン食らって台湾の猟師に助けられた。親切にされたとか。
台湾で終戦。特務だったので籍を抹消されていて帰国が大変
だったとか。
97 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 01:23:21 ID:???
私の大叔父。
旭化成か住友化学か忘れたけれど、そこの技術者だった。
ところが戦争が進むと赤紙が来て兵隊にさせられてしまった。
それから火薬の製造が滞ってしまった。
軍がクレームをつけたところ、会社はその人がノウハウを
持っているからうまくいかんのですと回答。
結局、大叔父は直ぐに戻されたとか。
98 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 08:25:44 ID:???
>94
テンペルホフ空港でしたか気がつきませんでした。
ベルリンの中ですよね。
といいますのも、この空港に降りたわけが何やら機材の取り付けの為
だそうで、その機材を作ったメーカー名がWeser・・・GmbH(詳細名
わかりません)ブレーメンあたりの川の名前ですのでドイツ西部での
お話と思っておりました。
99 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 15:39:58 ID:hLVe0gvt
俺の爺さん(86)は40年から終戦まで香港や広東あたりを
守備してたらしい。ロッキード(多分P-38のこと)の
機銃掃射を喰らって機関銃で反撃したらしい
近所のおばちゃんは子供の頃、名古屋の空襲に遭った。
屋根を突き抜けてきた焼夷弾を、ホウキで一生懸命叩いていたら、
駆けつけた親は手につかんで外へ放り投げたとのこと。
叩いたおかげで、畳の焼け焦げが広がり、ずいぶん怒られたと。
書いてみると、なんだか、のんびりしてるけど、親も子も必死だった模様。
おかげで、我が家も延焼を免れたはず。
101 :
名無し三等兵:2006/11/16(木) 02:15:38 ID:Tfjk/kYE
俺の母方の祖父は徴兵されて陸軍二等兵となり
昭和21年までラバウルで魚とってそれほど不自由なく暮らしていたそうだが
うちのじいちゃんのアニキ二人が
陸軍で大陸に行ってたんだけど
一人はブカンサンチンってところで戦死したらしい
だけど、死ぬ前に奇跡的に上海だったか香港だったかで
再会したらしい
片方のお兄さんは南京攻略戦に参加したとかで
民間人らしきに人を殺す場面を見た事があるって言ってたけど
でも、中国軍は民間人のフリをするからしょうがない・・・
みたいな事を爺ちゃんはアニキから聞いたらしい
多分、皆様、よく聞かれる話だと思います。
わたしの祖父(故人)は、満州にいて、ロシアに捕まってシベリア送りされました。
シベリアでよほど酷いものを見たのか・・・
祖父はシベリアでの経験を決して話そうとしませんでした。
ただ、曾祖母(故人、祖父の母)だけにはポロっとこぼしたようです。
(わたし自身が曾祖母から聞いたわけではありません。
曾祖母が孫娘(わたしの母)に話したので、母から聞いた話です。
また、曾祖母も母に全てを話したわけではないようです。)
「あいつら、死体からモノを剥ぎ取ってる・・・」
「文字も読めんのに、腕に一杯、嬉々として時計をつけて・・・」
「(時計の数を)仲間同士で比べあっていた」
祖父は非常にロシアを憎んでいたそうです・・・。
東京オリンピックが開催され、ロシアの選手が入場するのを見たとき、
それまで機嫌よく娘(わたしの母)を膝に抱えていたのが、突然、
「ロス公!死ねぇっ!!」
ともの凄い形相と大声で叫んだそうです・・・。
祖父の胸の内の傷を思うと、物凄く、やるせない気持ちになります・・・。
104 :
名無し三等兵:2006/11/16(木) 03:30:18 ID:BLGmnJNQ
俺の死んだじいちゃんは名前忘れたけど、打ち落とされた大きな戦艦の中のラムネ工場制作の責任者の一人だったらしいお
あんまり戦いには貢献してなかったそうだけど
>>104 ちょ・・・大和・・・mjd?
釣られた?
武蔵とか?
しかし打ち落とされたって何?意味分からん。
沈められたと言う事か?
昔お世話になった印刷屋の主人は、ラバウルで衛生兵してたと。
P-38の機銃掃射食らって、戦友は胴体がちぎれたそうな。
椰子の木も倒れる威力とか。なぜか「16mm弾」と言ってたが…
108 :
名無し三等兵:2006/11/16(木) 07:42:53 ID:YyfDNiG0
>>103 死体から物奪うのってそんなに酷いことなのかな?
戦争映画で、米兵が独兵から奪った服とかルガーとかを
楽しそうに自慢し合ってたから、当たり前のことだと思ってたんだけど。
へ〜 あたりまえのことなんだ。
今度その当たり前のことを、やってみな!
アメリカ兵はスーベニアのために戦ったというぐらいだから。
基本的に余裕あって金持ちだから、戦利品にも
ちゃんと交換品か金銭をはらうケースが多かったようだ。
死体にどうやって対価を払うのだろうか。
死んでくれてサンキュー・ベリマッチ!と感謝の言葉。
>>108 北アフリカや東部戦線・南方の過酷な地域なら物資も不足気味だし
死体から色々使えそうな物を物色したかも知れないが、
アメリカとかは記念にこれ持って帰ろうかな〜、みたいな感じだと思う。
ソ連兵の場合は皆貧乏な奴が多かったり、極悪過ぎるから平気で持っていくだろう。
うちの爺さんから聞いたのだが、
ソ連軍に捕まった爺さんの友人の話では、ソ連兵は、奪ったねじ巻き式の時計を
止まったら壊れたと思って捨てていたらしい。
これを見て本当に馬鹿だと思ったそうだ。
115 :
103:2006/11/16(木) 16:12:23 ID:???
>>108 わたし自身、先に書かせて頂いた様に
祖父から直接聞いたわけではありませんので・・・。
(なにかもっと酷いものを見たような感じですし)
ただ、わたし個人の感覚と推測ですが
敵国の兵が祖父ら酷使しながら、祖父の仲間の兵の死体から
祖父らの目の前で物を剥ぎ取り、それを自慢し合っていますから・・・。
物の価値もわからず、大量にあつめて見せ合っているならなお更・・・。
憎まないこともないんじゃないかな、と。
映画見ても、わたし個人の感覚では(エゴですけど)
敵兵の死体から者を剥ぎ取って、喜んでいるというのはどうにも
生理的にうけつけられません。
>115
>敵兵の死体から者を剥ぎ取って、喜んでいるというのはどうにも
>生理的にうけつけられません。
一般的な日本人ならそれが普通の感覚ではないかと思います。
>108や114の書き込みにレスなど時間の無駄ですよ。
映画やゲームの中で云々といった非常に幼稚なたとえで粋がって
いるだけです。程度が低すぎます。
あなたの言いたい事は、ほとんどの人に伝わっています。
アホにまで丁寧に伝える必要はありませんよ。
>>114 ガンガレ、チミにもきっと出来る仕事がある!
でも、俺が兵隊として戦場に駆り出されたら、
最初はイヤかもしれないけど、きっと死体から装備や食料をを剥ぐ様になると思う。
生き延びたいから。
全体的に勝ってる戦争でも、
一時的に守勢に追い込まれ、補給が滞る事もあるだろう。
だからきっと死体から装備や食料を貰う。(死んだ人はもう使えないんだから)
人肉もたぶん食べる。
どうしても生き延びたいから。
それは生き延びた後が必ず平和だと思っているからじゃないかな。
俺も118と同じようになると思う。
それよりも一番怖いのは他人を殺さなければいけないことだな。
>>118,120
過酷な環境で生き残るための獲得と
ただ自慢したいだけの分捕りは違うだろう?
死体から剥ぐという行為だけを見て同義に考るのか?
腕時計でどうやって生きていく気だ、お前らは・・・
インパールで死んだじいちゃんは食べられたんだろうか・・・
123 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 03:30:16 ID:wChXw5TL
>>105 何を言っているのかわからないけど、釣りじゃなくて本当の話
お前、素人だろ?
ラムネ工場があったのは戦艦ヤマト
ラムネってジュースのラムネ?
知らなかった
軍オタじゃないんで所属とかその辺詳しく覚えてないんだけど
俺がおじいちゃんから聞いた戦争話
その1
数年前にじいちゃんと話てたら、爺ちゃんが左手の薬指が麻痺して
動かないとかって話になって
なんでも、兵役中に上陸作戦っだかなんかの演習で
瀬戸内海で船に乗って訓練してた時に仲間が海に落ちて、それを助けた時に
網だったかなんかに挟んで動かなくなったらしい
その2
私情で爺ちゃんと静岡に行くことになって(仙台在住)新幹線に乗ってたのね
俺は窓側で爺ちゃん通路側
上野駅に近づいてきて、「上野〜」ってアナウンスが流れたら
爺ちゃんが外のビル郡見て
「は〜、上野も立派になったな。俺が戦争から帰ってきた時は焼け野原で何にもなかったんだぞ
みんな腹すかしててな、なんかくれ、なんかくれって集まってくるから
持ってたカンパン全部あげてな、国民をこんなにするために戦ったかと思うと悲しかった」
爺ちゃんだって食い物なかっただろうにカコイイと思った
後は仲間が撃たれたとかそういうのも軽く聞いたな
軍服来た写真飾ってあったし、勲章?みたいなのもどっかにあるって言ってたな
最近、軍関係に興味出てきたんで見せてもらいに行ってみるかな
127 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 06:51:55 ID:B6ulCBTJ
ラムネ工場って言えば大げさかもしれないけど、ラムネは少なくとも重巡洋艦でも作られていたみたいだから、いろいろな艦で製造・販売していたんじゃないのかな。
ソースは歴史群像シリーズの妙高。
128 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 07:06:41 ID:KKBDFtut
ラムネ作れるてコト自体軍機だというのに貴様らはペラペラと。 酸素魚雷用の酸素製造の副産物がラムネだ。
ネタにマジレスマン参上!!!!!
>>128 炭酸ガス消火器の副産物ですが。
酸素では、発泡しません。
私も軍オタじゃないので、所属とかよく知らんけど・・・。
うちのジイちゃんは鉄道隊で、タイやビルマとかで橋を掛けていたと言ってた。
戦争が終わって、捕虜になった時、連合国の隊長に橋の修復を命じられて
「現地に任せると半年かかる橋を、わが隊では3ヶ月でかける事ができる。」
なんて自慢されたので、じいちゃんの隊の隊長が
「この程度の橋なら、ウチの隊なら3週間もあれば充分だ」
と宣言して、見事に3週間後に橋を掛けてしまったとか。
それまで、「日本はセメント使いすぎだ!。横流ししてるんじゃないのか?!」とか
何かにつけて文句を言ってきた向こうの隊長も、それ以来、一切文句言わなくなったとか
131 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 12:42:44 ID:971WOz0d
人肉を食べるのは極限状態にならなければ精神に何かしらの異常がなければ出来ないと思う。
戦死者から装備品や弾薬・食料を得る行為は将兵としては常識ではないだろうか。
祖母が家を整理してたら写真が出てきて
なんか、中国軍らしきやつを軍刀で斬ってる写真出てきた
133 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 19:16:37 ID:T1xkwGHF
サイバイバルと捕虜虐待を同義に考えるなと(ry
134 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 20:04:37 ID:bhrQ7UTV
>132
趣味の悪い遺伝子をもった頭がおかしい家系だからお大事に。それ!うそだろうが。
祖父ではないのでスレ違いだけれど。
高校の時の歴史の先生の話。
自分は三十代半ばだが、この年代はおそらく
『元・軍人』の戦争経験者が教師をしている最後の世代だと思う。
その先生も終戦は陸軍少尉として中国で迎えたそうで。
色々と教科書では『まず伝えない』ような話を、たくさんしてくれた。
戦争ではないが、大正時代の授業。関東大震災の説明を終えた時に。
先生、やおら声を潜め。まじめな表情で
「……実はこの年に、帝都を揺るがす大事件が起きたのじゃ。
歴史では語られないが、この事件が起きたおかげで本当に帝都が揺るいだ
ために震災が起きたというのが、真相とも言われておる」
こういうと、先生。
教壇から身を乗り出すように、小声で
「……誰にも言うでないぞ……この年に……東京で……」
我々に、大事件の内容を告げた。
「……ワ シ が 生 ま れ た の じ ゃ ッ !!」
一拍の沈黙。
そして。
『ア、ア、ア ン タ の せ い か ー ッ !?』
一同、大爆笑。
先生、話術が妙に巧みで、このときは全員息を詰めて神妙に聞いていたので。
このオチにはクラス全員がやられた。
136 :
135:2006/11/17(金) 20:09:02 ID:???
そして、先生の授業は大正から昭和の初期になると『体験談』となっていく。
極めつけは『二・二六事件』。
実は、先生のお父さんも軍人で。それも先生曰く『偉い軍人だった』そうで。
反乱軍(確かにこう言った)の決起を伝えられ。刀掛けから軍刀を引掴み
『これから悪い奴をやっつけてくるから、それまで絶対に外に出るんじゃないぞ』
と言い残し、まだ薄暗い中、先生の父親は迎えの車に乗り込んでいった。
家に残るのは母と姉、そしてまだ学生の自分。
(反乱軍が狙うのは、敵の指揮官の家かもしれない)
とたんに不安になった家族一同。とりあえず隠れようと、玄関の脇にある納戸に身を
隠すことに。
使わない家具だのガラクタがいっぱいある中、必死に奥の方に隙間を作って家族三人
潜り込む。
……ところが、家の中と言っても納戸の床は土で、その日は2月時分でも格別寒い日
だったのでとにかく冷え込み、母と姉と時分が身を寄せ合い、恐怖と寒さでガタガタと
震えた。
先生はシンバリ棒でつっかえた入り口の扉を見ながら
(……こんなに玄関からすぐのところに隠れてて、大丈夫なんだろうか……?)
と、ただただ不安な時を過ごしたそうだ。
ちなみに東京市内は戒厳令で、どっちにしても一歩も外には行けない状態だったそうで。
父親が帰ってきたときには、本当に嬉しかったと言っていた。
まあ、なんというか……近代史はこんな話ばっかりで。
本当に、この先生の授業を受けられて良かったと思っている。
>>134 斬ってるの誰か分からないが、
場所は奉天昭和15年3月て書いてある。
既に他界したがうちの祖父はニューギニアで高射機関銃分隊の分隊長やってた。
階級は曹長。
家に戦友会発行の刊行物がたくさんあった。
うpすべきか?
139 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 21:27:03 ID:uPHrJA7L
>>139 そうかっかするな。俺、PC持ってないんだが…。
それ以外でうp出来るものある?
141 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 22:19:08 ID:llMVJVCS
昔、勤めていた会社の会長が子供の頃、青山に住んでいたらしい。
生きているハチ公を見たとか226事件のこととかを酒が入ると
よく話してくれた。もっと沢山聞いておくんだったよ。
142 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 22:21:42 ID:u6pwaviS
>>140 ピクトとかつかえば携帯でuぷできる。サルでもできるから使い方ワカンネとかなしな。当然メンドクサとかもなしな。オーケ?
証拠なんか必要ない。昔から小日本人は野蛮人と分ってます。
東洋鬼は反省が足りませんね.
>761 :名無し三等兵 :2006/09/28(木) 16:56:26 ID:0b58l3Xj
>うちの爺さんは、中国で人を殺しまくったって言ってたな。
>三光作戦って言って、焼きつくす、殺しつくす、盗みつくす。とかやってたみたい。
>中国は寒い場所で、村狩りをして住居を燃やして暖をとるのが一番の楽しみだったとか。
>女性の腟に酒の瓶突っ込んだとか笑いながら言ってた、変なジジイだった。
日帝は このように沢山の絶滅部隊で中国人民を9千万人も虐殺しました。日本人民は真摯に歴史と向かい合わねばなりません。
>>144 彼は「南京事件は夢幻派」なんで、
それらしいこと聞くと火病起こす体質なんです。
コネタ
うちの爺ちゃんは、大和の沈没時の通信を受け取ったと「酔っ払う」度に言っている。
流石に嘘くさいので、毎度「はいはい」と聞き流している。
スレ汚しすまん
昔勤めていた会社の役員だが、
どこかの島で高射砲陣地の測的手をしていた。
敵機の速度に高射砲の照準計算盤が追いつかず、
「転把2回余分に回せ!」とか山勘で照準していたから、
弾が当たるはずないと言っていた。
149 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 23:17:26 ID:u6pwaviS
>>147俺は中国帰りのじいさんに話聞いていたから大陸で虐殺がなかったなんて思ってない。その規模もそれなりだったと思っている。そんな事は関係なしにせっかくの良スレに例のヤシが湧いてしまったかと非常に残念に思ってな。写真の話に責任もってほしかったんだ。
150 :
147:2006/11/17(金) 23:21:11 ID:???
>>149 大変失礼しました。申し訳ない。
自分が言うのもなんだが、スルーが一番かと思う
相手にしなければ、くいついて来なかったんだしさ
151 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 00:12:26 ID:5EMUk+G/
仙台の人多いな。何人くらいいるんですか?
152 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 09:34:08 ID:PQUR4ORO
内のじいちゃんはフィリピンに上陸した米兵を捕虜にしたそうな…
残念ながらその後は語らない
153 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 09:40:29 ID:PQUR4ORO
誰か老人ホームや介護の人とかいないか?
戦争の話を聞ける貴重な場だよな
母方の祖父が、フィリピン・クラーク区で亡くなってる。
海軍の工兵のようでした。
155 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 10:18:05 ID:MQzCJJko
内のじいちゃんは横須賀の工場で飛行機作っていたそうだが
ある日、艦載機が襲来して機銃掃射されたそうだ。
たまたまそのときは昼休みだったそうで窓際で芋喰っていたら
空襲警報がなり防空壕に逃げようとしたら艦載機が
機銃掃射してきて工場の屋根が蜂の巣にされたと語ってくれた
ちなみにじいさんは防空壕に逃げようとしたら艦載機に散々
追い回されたと言っていた。
ついでに防空壕にたどりつくことができず近所の竹藪に逃げ
無事生還した。
終戦後は飛行機のナットやボルトネジ、計器その他多数を持てるだけ持ち
故郷に帰ったそうだ。
なぜ飛行機の部品をパクッタか聞いたら金になると言っていた
ちなみに飛行機の計器が現在も実家にのこっている。
そりゃお宝だな。
そりにしても機銃掃射は腹立つな。
157 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 10:56:28 ID:DuTzvLJQ
アメ公は普通の農民を狙って機銃掃射したからな。
これは人道に対する罪じゃねーの?
158 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 11:21:55 ID:BETcAE2m
看護学生なので、老人ホームや訪問看護、病棟での受け持ち老人患者などから
戦争の話はよく聞きますが。
今年なくなった祖父は駆逐艦の船長さんだったそうで
お葬式の時に自衛隊の人とは別に軍歌?をおじいさん方々が肩くんでうたっていました。
大尉のおかげで生きて帰れました…云々
正直こわかったです(((^^;)ほんとに戦争してたんですね
160 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 11:54:33 ID:sdKipjTD
>>146 >中国人民を9千万人も虐殺しました。
ミートソース吹いたwwww
スイスで情報将校(中尉)してた
ソ連の対日参戦可能性のレポートを書いたのに
上司他に無視されたあげく、中立条約があるからそんなわけないと
馬鹿にされたそうだ。
>>161 もっと詳しく知りたいです。
駐欧の情報将校では小野寺誠中佐が有名ですね。
163 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 12:48:18 ID:umz1O7oY
>>145 中国兵捕虜の斬首はあったよ。
だって、彼等(共産党軍)は庶民の安全を省みず、庶民を虐待し、庶民の服装を着て
卑劣な戦いをしていたから、日本軍は彼らを犯罪者扱いにしていたんだよ。
中国民、日本兵を残虐に殺すので当然の報いだ。
斬首は虐殺とは言わない。虐殺とは非人道的に嬲り殺す事を言う。
分かったか?東洋鬼よ
164 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 12:51:23 ID:umz1O7oY
最も統率のとれた軍隊の見本、日本軍と 中国賊軍を一緒にするなよ
中国は連合側だったので、一応勝者。
だから、中傷やりたい放題。 それが中国式。
165 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 13:03:59 ID:umz1O7oY
大体、中国は内戦で国が分かれて争っていたし、
後の、文化大革命で3500万人以上の中国人が殺されたのを見れば、どんな国か分かろう。
166 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 17:41:57 ID:DuTzvLJQ
中国国民党軍の蒋介石が「日本兵を見習え。彼らは寒い朝でも冷たい
水で顔を洗う」と自分の兵隊に言っているレベルだからね。
167 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 18:51:08 ID:0FgQoIxc
中国大陸の日本軍が支那事変初期の頃から明治期では考えられないほど風紀が乱れドキュソ集団化していると嘆いた松井石根の手記は今で言う団塊世代の「最近の若いものは…」とは重みが違うよな…
168 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 19:43:01 ID:m7ewpEn7
「日本軍は中国で悪い事をした」をカキコする奴が現れるのが不思議。
シナ工作員が必死でカキコしているかもw。
ドキュソ日本兵がいた事は事実だが全部が全部じゃないだろ。
シナ兵に比べたら天と地の差だね。
父方→中支、南支、台湾(計3回)無傷。衛生兵長。戦後市役所課長
母方→ノモンハン。銃創×2上等兵 戦後 駅長
以上我が家系の軍歴。
一般庶民らしさがでているだろ。
170 :
名無し三等兵:2006/11/18(土) 21:07:25 ID:VFmd5cxF
親父の実家に逝くと、「白い軍服を着て乗馬」している若き日の
じいちゃんの写真と「裕仁摂政宮」から賜った「瑞宝章」の賞状?
が額に入れて飾ってある。
じいちゃんは偉かったのだろうか?
いやフツーだろウチにもあるよ旭日章だけど。
うちのじいさまは陛下に鮎を献上してお褒めの言葉と勲章を賜った
…なんて非常にネタ臭い話を聞いた事がある。
賞状と銀色の勲章染みたもんが一緒に額に入ってるのが実家にあるが、
それが何なのかは、じいさまが亡くなった今ではさっぱり分からん。
じいさまの遺影(笑顔)の横に今でもちゃんと飾られてるけどな。
戦争体験とは掛け離れてるな…スレ汚しスマン。
うちのじいさんの金鵄勲章もありふれてる?
うちのじいちゃん皇族だから。
>>167 ろくな補給もないし。終わる見込みの無いまま、下らん理由で
えんえん戦い続けたらモラルもなくなっていく。
明治の人間だろうがなんだろうが変わらない。
会社の受付警備を請負の警備会社社長は
茨城で兵隊に取られてジャガタラ芋作ってたそうな
なんでもガソリンを精製するとか
百里に機銃掃射にきたグラマンに狙われて大木の陰に飛びこんだら
大木は打ち抜かれなかったんで助かったとか
うちの爺さんは医者だったけど、中国の陸軍病院にいたらしい。
婆さんも爺さんも戦争中の話はあまりしなかった。
戦後、しばらくの間はGHQで仕事をしていたらしい、幸いそのお陰で食い物には
こまらかったらしい。
一時期、731部隊が話題になった時にマスゴミが取材にきていて、すげー激怒していた
事があった。今、思いおこすと何らかの関係が有ったんだろうね。
うちのじいさんは海軍なんだが、やはり古参兵が嫌だったらしい(殴るから、しかも激痛)
で、ある日銭湯に行ったんだ。服を脱ぎ、風呂に入ろうとしたらのろのろ動いてる香具師がいたらしい。
そいで「邪魔だ、どけ!」と怒鳴ったら「すいません!」とすぐどいたらしい。
問題はここから、その後早く出てきたじいさん。そいつの服みたらじいさんより階級上、つまり古参兵。ヤバイと思ってすぐ逃げたらしい(笑)
うちのおじいちゃんは徴兵がかかる歳より下だったんだけど国の役にたちたかったから志願したって(嘘かもしれんが
本当は空軍に入りたかったらしいんだけど眼が悪くて陸軍に配属したらしい。
衛生兵になって、各地を転々としてたって。
空襲警報が出て防空壕に戻るとき自分のすぐ後ろに爆弾が落ちてビビったって言ってた。
そんな皇国軍一兵士も今は病院で入院中 はやくよくなっておくれ(´・ω・`)
180 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 18:29:23 ID:SoaF7XHI
じいさんは学徒兵の少尉だったんだがやはり壮絶な新兵イジメを受けたのだろうか…と気になる…
ばあちゃんの時代、隣組/町内みんなで
手榴弾の部品作りを内職したそうな。
その時の紐が、以前残っていた。
>>155 うちの近所には飛行機やらその部品やらなんやらが隠してあったらしいが
終戦と同時にみんなで解体して山分けしたそうで
それと戦時中に焼夷弾をバラして金にしようとしたオッサンが
金槌で不発弾を叩いた瞬間、爆発、死んじゃったこともあったらしい
183 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 19:38:17 ID:1JK8mMi2
うちの爺ちゃんは明治31年生まれで、大正天皇の近衛兵だった。
戦地には行ってないらしい。
近衛兵は家柄が良く、頭が良く、顔が良くなければ成れないってよく自慢してたな。
184 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 19:43:45 ID:Wfd24iIz
うちの人は中国あたりで軍医をしてたらしい俺が物心ついた時は
死んでて何も聞けなかったが
小さいころ風呂場で見たうちのお祖父さんの銃創、
どうみても後ろから前に抜けてた。
(後ろがへこんでて前がザギザギ)
どんな撃たれ方したのか聞かないまま亡くなったが。
僕の祖父は北支派遣軍です
予備役で奈良六七連隊から昭和17年2月に独立混成第二旅団独立歩兵第一大隊第四中隊に配属されました
なんか変な文になりました
俺の祖父は戦争に負けたとき南部十四年式を隠し持ってて俺の親父の七五三のお祝いのときに泥酔して
十四年式を乱射、親父の太腿に弾が貫通して大騒ぎになって当時の新聞に載ったんだって。
みんなのじーさんスゲェなぁ。
ウチの爺さんは満州行って商売してたらしいが
満州引き上げが地獄だったと聞いている。
姿勢が少しでも悪いだけで往復ビンタ
虐めか軍規かは指揮官によるが、
結果として、最高に統率のとれていた日本軍。
皇軍が賊行為などするわけが無い。
末期状態の兵の質低下時は知らんが。
>>188 貴殿の御爺様も凄いですよ。
満州からの引き上げは・・・さぞ御苦労なさった事でしょう。
191 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 22:52:59 ID:SoaF7XHI
自分まだ20代なのにここに書いてあること読むと異常にナツカシス(´ω`)なのはなんなんだろう…前世だらうか…
192 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 23:14:47 ID:n0cNNa6K
漏れもココを読んでいると懐かしい感じがする。
靖国神社へ行くと自分の家に帰ってきた気になる。
前世は兵隊だったのかな・・・・・
193 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 23:21:48 ID:+UKfbTU7
友達のジィさん話だが戦中は海軍にいたらしく
味方の船に載っていた兵たちが「天皇陛下万歳」
と言って沈んだという話を涙ながらに語っていたらしいが
友達は軍事とかには興味がないのと食事中だったので
えらい迷惑だったらしい(´・ω・`)
194 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 02:01:48 ID:oGysNmDT
14歳で満州開拓団に志願したって聞いたな
その時の写真があったけどじいちゃんまだ顔が子供だったなぁ
葬式の時に部下が来てお別れの言葉述べてたっけ
軍曹のおかげで内地に帰って来れましたとか言ってた
195 :
194:2006/11/20(月) 02:03:39 ID:???
よく考えたら14歳で軍曹ってありえないよな?とりあえずその人よりは
上官だったみたいだけど
196 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 05:09:32 ID:JSeaGf4F
お前のじーちゃん14で死んだんか?
コンニチハ、14歳デ軍曹ニナリ死ニマシタ(^o^)
満州に渡ったのが14歳なんだから、
何年も現地で暮らして成長してから軍隊に入り、
終戦時には軍曹になってたんだろ。
199 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 11:18:55 ID:J67KWLzi
俺のじいさんでなくてオヤジなんだが.....中年ネラーもいるということで許してください。
陸軍暁部隊所属で満州駐屯から南方?かどっかへ移動させられる途中で台湾沖航空戦の
時の空襲で負傷(指程度だったそうだが)。入院中に肋膜炎となり、内地に戻された。広島の
西条?とかいうところの病院に入院中に広島原爆。オヤジの病院では直接被害はなかった
ようだが、市街方向に立ちのぼるキノコ雲を見たってよ。
オヤジが本当に南の孤島に送られて玉砕したら? 8月6日にたまたま広島市街にいたら?
などと考えると、本当に生きるも死ぬも運だな、と思ってしまう。
>>191 俺は陸軍と日本刀と士官の軍服を見るとやけになつかしさを感じる。
満州なども。他にも日本兵を見ると肩を叩きたくなるとか。前世は憲兵かな?(笑)
戦艦が名古屋港で一般公開されたことがあった。
当然撮影禁止だったが、内緒で撮ったとのこと。
山城か扶桑らしい。写真が行方不明で残念。
中学の時学ランを初めて着たとき妙に懐かしく感じた
DQNをまとめられない指導力不足の指揮官っていたと思う。
訓示のときに兵の間から野次が飛んでくる なんて話を読んだ事がある。
205 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 16:48:32 ID:DY23ZbOH
>>204 ベトナム戦争ではアメリカ軍の士官の戦死者の半分は陣地内で起きた【事故】と部下に殺されたもの。さらに原因不明が多数。
206 :
sage:2006/11/20(月) 17:03:04 ID:GeZ0NGyw
「白人」を見ると身体の奥の方からこみ上げて来る何かが出てきます。
そんな時は、何故か別に危害を加えられた訳ではないのにムショウに
憤りを感じて、その「白人」を攻撃したくなります。
DNAに刻まれたプログラムなのでしょうか?
それとも前世で軍人だったのでしょうか?
207 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 17:40:45 ID:JSeaGf4F
いいえ、それは病人です
私たちは小高い丘の上に陣地を構えていました。小銃や騎兵銃に手榴弾、重機などありません。大きな砲隊鏡がありました、七糎砲隊鏡、日本光学今のニコン製です・・・現世の記憶(知識)が交錯します。
その七糎砲隊鏡で見る遥かむこうには、もう何日も前から露の戦車がありました。そう現世で知った名はT34/85・・・わが軍の戦車では考えられないほど砲身が長かった。
そして物凄い砲撃に合わせて動き始めました。すべての記憶がよみがえります。私の小隊・・・といっても、もう十数人しかいません。
「○○少尉!」私の前世の名です。不思議と違和感はありません。 そう、少々裕福な家に生まれ大学出てから候補生となれたのと親類の伯父が陸軍の将校だったおかげで、私のような青二才が士官です。
この砲撃とあの大きな戦車に立ち向かうすべも勇気も、もうありません。恥ずかしいが足が震えます。たたき上げの○○軍曹ですら顔色がありません。すでに砲撃で左の壕が全滅、私は退却を命じました。
他の小隊とも合流ままならず、結局我が小隊の生き残り8人で南へと脱出、農家から食料もらったりして5日ほど歩きました。そして最後の夜がきました。
その夜は農家の軒先で休みました。家主は私たちが怖かったろうと思います。なけなしの食料も分けてくれましたが、脅したわけではありません。よく、我々が満州であこぎな事をしたと言われますが、
どこの軍隊もみな同じです。 ハラを少し満たして皆は寝ました、疲れ切っていました。もう、見張りを立てる様なこともありませんでした。
そしてその瞬間がきました・・・・ いきなり「パーン」「タターン」相手が露兵なのかわかりません・・・さらに手榴弾の炸裂「キーン」といきなり耳鳴りがなり炸裂音など聞こえませんでした。
私は腰の14年式を出し応戦しますが敵が見えない2〜3m這って進むと○○が・・・呼んでも動きません。 ○○軍曹が騎兵銃を持って向こうに走ります。
発射光に拳銃を2発、1人飛び出します・・・平服のゲリラか山賊です。もう1人・・・頭に当たったのによろよろ歩いてきます。もう1発・・・ 納屋の向こうへ軍曹を探しに出たその時・・・
腹を何かが通りました・・・さらにもう1つ、そして背中にタバコの火を押し付けられたようでした。数m前には軍曹が・・・すでに数人に毟られていました。
そいつらに拳銃を全弾撃ったと思いますが、もうわかりません。そこからは何も思い出せませんでした。
以上 私の中の他人の記憶です。
「金髪」を見ると身体の下の方から起立して来る何かが出てきます。
そんな時は、何故か別に刺激を加えられた訳ではないのにムショウに
興奮を感じて、その「白人」をオカズにしたくなります。
DNAに刻まれたプログラムなのでしょうか?
それとも単に私が金髪好きだったのでしょうか?
単なるオナヌー好きな厨房
猿みたいにするなよ
212 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 20:50:33 ID:DY23ZbOH
実際じいさんとかの記憶とか感覚なんて備わってるわけないよな?
213 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 21:36:41 ID:qmL5+XyK
うちの祖父母は満州に行ってました。職業軍人で少佐。
終戦後祖父は追われて、知人宅の天井裏にかくまって貰った。勿論その家にも探しに
来たが、知人が「この日本刀に誓って、○○少佐はここには居ない!」と言い張って
その場を逃れることができたらしい。
子供3人を連れて一人で引き上げてきた祖母は凄いです。
私の母は赤ん坊でしたが、日本に着いたころは本当に骨と皮だったとか。
昔はよくそのあたりの話聞いたなあ。すごく面白かった・・・
>>214 シーっ、『14年式』の時点で馬脚をあらわしちゃってるんだから
>>208-209 面白い読み物乙
>>ALL
ところで、源平の戦の時代の地面に立掛けてる戸板みたいな木製盾の正式名称なんだっけ?
216 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 22:49:02 ID:+/8bWRBh
>>199 陸軍暁部隊所属・・・
生還率は非常に低い部隊だったと聞きましたが・・・。
確かに運なんですよね。
217 :
名無し三等兵:2006/11/20(月) 23:29:10 ID:ZaM7IYaG
なかなか、しんみり読ませる良スレだ。
ウチのオヤジは終戦時ガキだったんだが、歩いて一時間程のところに中島飛行機の
工場があったんで毎日のように遊びに行ってたらしい。
写真にも残ってるが、武装解除のため何百機という零戦やら隼やらがバラされて
ゴロゴロしてたらしい。いじくったりしてたらしく、大戦機大好きだった厨房の頃
俺が「なんで持ち帰らなかったんだ」と責めたら
「重くて持って帰れるか!」とのこと。そりゃそうだ。
仕事で知り合った坊さんは酒を飲むと戦中の話をするんだが、
やはり終戦間際のころ戦闘機の音がするんで庭に出て手を振ってるとまっすぐ
突っ込んでくるんで思わず近くの蔵に隠れると屋根すれすれに機銃掃射していく
グラマンだったそうだ。パイロットの顔がよく見えて笑ってたとさ。
んで、またしばらくすると戻ってきてまた掃射、という感じで5,6回?遊ばれる
んだと楽しそうに話す。まあ、生きてるから笑えるんだろうが。
余談だが十年程前に飛行可能な零戦が里帰りした時に見に行ったんだが、一緒に
来たマスタングが上のような状況を再現したんだが、一キロ以上向こうからあっと
ゆーまにこちらに突っ込んでくるスピードにびっくりした記憶がある。
それと同時に聞こえてくる爆音がまたスゲエ迫力なんだが・・・
そのときの零戦のエンジン音がスバルの水平対抗エンジンにそっくりで、ああ
繋がってるんだなあ・・・としみじみしたなあ。
>>217 いや、スバル360に近いのは隼だよ。
と、書いたときに零戦と同じエンジンだったのに気づく
219 :
名無し三等兵:2006/11/21(火) 01:45:23 ID:3dTYGvC1
うちのじいさんは広島に原爆が落ちた時に広島にいたそうだ
技術者で船の修理をする部隊にいたらしく、階級は少尉
その日は朝礼があったらしく、部下たちは職場の庭でじいさんが来るのを
待っていたが、たまたまじいさんが寝坊して遅刻したために立ちっぱなしで
ずっと待っていたらしい(笑)
それを尻目に他の隊は朝礼を終え、建物の中に戻っていった・・・
やっとじいさんが庭に到着した瞬間に、原爆投下・・・
ものすごい爆風で吹っ飛ばされたそうだが、じいさんの隊は全員無事だった
でも建物の中に戻った人達はガラスの破片で怪我人多数だった
で、市内の方を見ると大きなきのこ雲・・・
じいさんはそれを見て不謹慎ながら「大きな花火みたいできれいだな」と
思ったそうだ・・・
220 :
219:2006/11/21(火) 01:47:59 ID:3dTYGvC1
補足
じいさんがいた職場は広島郊外にあったそうなので
放射能の被害はうけなかったそうです
208です。
「14年式」はおかしいですか?「南部14年式」ならおかしいと知っています。
旧軍の兵器に詳しいようで・・・
>>215氏
砲隊鏡はどうですか?七糎砲隊鏡って知ってますか?
別に信じてくれとは言いませんが、あるんですよ記憶に・・・
目当て部のウロコみたいなのが気持ち悪かった事。
そこが錆びて緑色だった事。
砲隊鏡も自分で調べてみましたよ・・・
でもあんなに大きな物は無いんですよ・・・
子供のころ戦車の図鑑でT34/85を見て、ものすごく恐怖を
感じた事。
気のせいですかね? 頭おかしいですかね?
本当だというのなら、前世の名前くらい晒せよ。
前世の本人は戦死だし、公表しても問題無いだろ。
>>221 催眠術等で『思い出す』前世の記憶と言うものは、
ほとんどが『現世での後天的な記憶』という報告結果が出てます。
俺にだって『田原坂の戦い』の記憶があるw
224 :
名無し三等兵:2006/11/21(火) 19:34:31 ID:HfBx1pRO
俺も50〜60年代の在日米軍の兵士だった記憶ならある。何かに引かれてフラフラと一人で米軍基地跡の廃墟に入った事もある。今でも基地近くを通ると憂鬱になる。 まぁ俺は精神科通いだが。
225 :
名無し三等兵:2006/11/21(火) 21:49:31 ID:x3VX75sQ
田原坂といえば5代前のジーサンが
抜刀突撃
こないだばーさんが戦争中の防火訓練の話をしてくれたなー.
全然苦労話でもなんでもないんだが,戦争体験ということで.
防火訓練では,赤いお手玉を焼夷弾に見立てて在郷軍人?の人が放り投げて
それをムシロで覆ったり水をかけたりして「消火」したそうだ.
で,あるとき在郷軍人さんが投げたお手玉が屋根の上に乗っかってしまい,
どーするよ,あんなのとどかねえじゃんってことになった.
そのとき在郷軍人さんは別の班を指導しに行ってたので,
竹の棒でお手玉をつつき落としてから「消火」したそうな.
あとで在郷軍人さんが様子を見に来て
「おや?お手玉は屋根の上ではなかったか?」
「いやぁ,ちゃんとここにありますよ」
といってムシロをめくった.すると
「あっ,お前ムシロをめくったな!お前は今負傷した!」
といってそこから負傷者搬送訓練になってしまったそうな.
ばーちゃんいわく「田舎だったから,防火訓練も全然緊張がなかった」らしい.
たしかに,むしろ疎開先になるくらいの田舎だからな.
ちなみにそんな田舎にも一発だけ爆弾が落ちたらしい.
熊本を爆撃して帰る途中の爆撃機が,余った爆弾を捨てていったようだ.
その爆弾の威力を見て,「こんな消火訓練やってもどがんしようもなかとやなかかねぇ」と思ったそうだ.
あんた俺の近所だな
先日、旅先の山梨の温泉で会ったお爺さんの話。
呉の海軍工廠の工員で、瑞鶴など有名艦にもいろいろ乗る機会があったらしい。
ぼろぼろになって帰ってくるたびに、もう駄目だもう駄目だと思っていたと。
一番悲しかったのは、それまで機銃の増加作業が多かったのが、地上部隊用に撤去したときだと。
原爆のときの空はなんともいえない色だったとか。
湯に浸かりすぎてのぼせるほど長い話を聞いたのだが、
アメリカみたいなジェット機を開発できなかったから、日本の空母は負けたとか、
そういう感じであったので以下略。
229 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 01:23:42 ID:7tVkY5Mz
俺のは沖縄だが、沖縄戦には直接触れない話
沖縄戦当時、婆ちゃんは読谷飛行場造りを手伝っていた
日に日に日本兵が増えて、ある日本兵から「ここは戦場になるから台湾へ疎開しなさい」と言われて商売で貯めたお金を使って家族みんなで台湾へ疎開
台湾に向かう間に米軍の潜水艦に追われてたらしく何度も何度も小島に寄って隠れていたってさ
台湾に着いてからはB29はほとんど見なかったって。
敗戦後に沖縄に帰って来て愕然としたらしい
島全体が焼き払われたかの様だったと
230 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 01:48:16 ID:7tVkY5Mz
>>158 なるべく多くの出来事が聞きたいです
壮絶で貴重な体験の記録としてお願いします
231 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 01:50:23 ID:7tVkY5Mz
232 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 01:59:37 ID:lesrA4j8
軍事にオカルトは不用
>>229 そのある日本兵がお婆ちゃんに話した時期によっては、その日本兵の評価は変わるな。
そもそも軍部は先に台湾が戦場になると考えてたし。
本土や種子島じゃなくて何故に台湾だったのか?
>>232 正論だな 神社に必勝祈願に行った時点で敗北必至だ
235 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 07:52:11 ID:7tVkY5Mz
>>233 沖縄戦間近だったと思う
台湾も囁かれてたが沖縄に確定的だと分かった時期かも
店に来た、幹部から聞いたらしい
何故台湾かと言えば、まず本土への道のりが危険
そして台湾には親戚も多くいてどうせ行くなら台湾へと決めたらしい
まぁ沖縄人ってのもあって本土に行きづらいってのもあったかもしれない
>>214 必ずいるな、こーゆー軍オタ
当の話は作り話みたいで何だが、本人が任官時を思い出して士官
おじさんはその時すでに将校なら非常に正確(すぎる面もあり)だろ
任官後に付く兵科により、この話場合将校になるんだろう。
14年式もそうだが、以前 紫電ついて面白そうな話があったが
十一と書くからウソだなんてバカオタが書くから続きが聴けんかった
221も誰かから聞いた話を、おもろく書いてるのかもしれんし。
重箱の隅が好きな軍オタはこなくてよし。
興味深い話は、細かい予断ははさまずに
黙って聴いて上げてもよいのではと。
60年以上も昔のことなのだからね。
ある時、坂井三郎氏が誰かからもらったと言う零戦のV-103号機、しかし濃緑色の模型を嬉しそうに見せびらかしている。
記者:「飴色塗装じゃなくて残念ですね。」
坂井氏:「いいのいいの、一般人は飴色の零戦なんて見た事ないんだから。」
239 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 15:06:18 ID:OvLPeC5H
おれのじいちゃんの話でもするかな。
最前線じゃないから銃弾の嵐かいくぐったとか、大量の死体見たとかそんな話はないけど。
面と構えて話してっていうのはお互いなんか気まずくない?
俺は毎年一回祖父母と旅行するんだが、宿で少し酔ったとき女性陣(祖母とか姉)がいないと自然と戦争時分の話をしてくれるようになる。
じいちゃんは満鉄で機関工として働いてた。満鉄で働くと勉強にもなるし、資格の面でもよかったらしい。戦後は国鉄に勤めてました。
で、満州にいる間に召集でそのままロシア国境近くの守備についたそうだ。
ここには約1年いたが、とにかく寒かったと。特に手が凍傷になるといけないので、真冬に集合がかかると、「またすり」というのをしたらしい。
両腿をくっつけてその間に手を挟んでこすり付ける様にして凍傷を防いだそうだ。もちろん、手が恐ろしく痛く、シモヤケっぽくなるけど凍傷防止のために命令されてやったそうだ。
あと、宿舎?で脱走者がいたら屋根裏なども徹底的に探したそうだ。過去に屋根裏に隠れてそのまま凍死した人もいた前例があったらしく、折檻より先ずは人名保護しなければと考えていたそうだ。
満州には約1年駐留し、その後、終戦2年前に南鮮(祖父の言い方)の守備に行くよう異動命令が下り、南鮮で終戦をむかえました。
朝鮮での話はまたこんど。
>233
なら、なぜ、沖縄に駐屯していた精鋭部隊1/3は台湾に移動したのか
やはり捨石か
241 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 16:38:21 ID:6gx6cQUg
>>239 >俺は毎年一回祖父母と旅行するんだが
おまえ、イイヤツだな
w( ゚Д゚)⊃旦
>239
朝鮮での話もたのむよ。
243 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 22:03:34 ID:oYjWrVoJ
そういやシベリアの寒さは【寒い】んじゃなくて【痛い】とか言ってたなぁ。
日本西部でも、バイク乗ったら痛い。
極厚手袋してても千切れそうなほど痛いよ
真冬の話だけど
246 :
名無し三等兵:2006/11/23(木) 06:33:29 ID:2n4WUVX4
俺なんか未だに「バイクは危ないから」って祖父母が反対してて原チャ免許すら取れないorz 実際危険か?
247 :
名無し三等兵:2006/11/23(木) 07:16:06 ID:skohUiGe
聞くまでもないだろ
剥き出しだから防御力0どころかマイナス(自分の速度もプラスされる)だぞ?
248 :
名無し三等兵:2006/11/23(木) 11:36:39 ID:AY+sMUqX
昭和20年4月1日、沖縄の米軍上陸地点は、がら空きだったんだよね。
エイプリルフールとおもったって。
私が生まれる前に死んだ父方のじーちゃんは満州に行ったそうだ。
大型車の免許を持ってて車を走らせてたらしい。(詳しくは知らん、スマソ)
日本に帰ってきて、大型車の運転ができれば高給取りになれたのに、
じーちゃんは絶対にハンドルを握ろうとしなかったそうだ。
ばーちゃんもそれに対して文句は言わなかったんだと。
よっぽど辛い事があったんだろうなあ、おかげで子供の頃は貧乏だったけど、と
父や伯父が話していた。
251 :
名無し三等兵:2006/11/23(木) 13:46:06 ID:2n4WUVX4
俺の地元のじいさんの話だが。関東軍の倉庫に日露戦争に使った軍服が大量にあって、シベリア抑留ではそれを着ていたらしい。大正時代の詰襟の軍服は戦時中は大人気だったとか。
俺の一昨年に亡くなった、爺さん。
上海特別陸戦隊→マレー鉄道の警備→第9根拠地隊でスマトラの小サバン?島(名前をよく覚えてないみたい)だかに行ったて、言ってたけど、召集18年、最終階級兵長でこんなに回るもんなんかな?
253 :
名無し三等兵:2006/11/23(木) 16:43:47 ID:u5xXk6o6
母方のじいちゃん
大富豪だった曾祖父のコネで近衛連隊へ配属
内地で終戦を迎える
父方のじいちゃん
猛勉強の末、士官候補正になる
しかし、内地で終戦を迎える
終戦時20歳
戦後は税務官として働く
母方のばあちゃんの弟
長岡連隊に配属
ビルマへ出征
4回死を覚悟したらしい
結局、命からがら生還
因みに彼の所属した大隊500名中生存者は12名
彼はその中のひとり
残念ながら、俺の生まれる前に癌により他界
全員陸軍です
254 :
名無し三等兵:2006/11/23(木) 17:25:58 ID:eniyGtD5
当家の祖父は小牧長久手の戦いにて百五十石の加増を賜る。
俺の実家は熊本の田舎で周りは畑ばかり、でも昭和二十年の七月に町全体が凄い空襲にあったそうだ。
友人のばあちゃんによると、数日前にB29がやってきて大量のビラ(内容は不明)を撒いていったそうだが身重だったばあちゃんは空襲が終わるまでの数日間を怯えながら防空壕で過ごしたそうだ。
やって来たのは皆艦載機で空襲は駅、橋を銃爆撃するところから始まったそうだ。
その際は大量の薬筴が俺の母校にあたる小学校のグランド(芋畑として使っていた)に落ちてきたそうだ。
当時グランドで畑仕事をやってた伯母(父の姉)は落ちてくる薬筴を男の子達が拾うのを叱ったそうだが、案の定その後先生にブン殴られて瘤だらけなってたらしい。
別な友人のばあちゃんは橋の下で大根洗ってたら突然銃撃が始まり慌てて川に飛び込んで難を逃れたそうだ。
空襲の恐怖のせいか俺のばあちゃんは急に産気づき、そのまま壕内で俺の親父を産んだそうだ。
伯母は小学校から帰る途中、駅に停まっていた汽車から銃撃に頬を撃ち抜かれた兵隊さんをみたそうだが爆弾は一発も駅舎等を直撃してなくて、むしろ機銃による損害が大きかったそうだ。
俺の実家の前にはデカイ煙突が何本も有る絹工場があったからそれを軍需工場と間違ったんじゃないかと思う。
ちなみに俺が生まれる随分前に死んだ爺ちゃん(叩き上げの海軍准尉、写真で見るとかなりのイケ面)は家族放り出して愛人宅に転がり込んでいたそうだw
罰が当たって戦後間もなく急死、字を書くことも出来なかったばあちゃんはセメント工場で肉体労働をしつつ女手一つで子供三人を育てたそうだ。
長男だと思ってた親父は爺ちゃんの葬式に腹の違う兄や姉が何人もいて驚いたそうだ。
256 :
名無し三等兵:2006/11/25(土) 01:03:13 ID:fToCmQIY
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。
大学生のとき色々聞いていっぱいあるから少しずつね。
じいちゃんの代までうちは坊主だった。だからじいちゃんが軍隊に入ったのは
赤紙だった。
配属されたのは小倉だか戸畑にあった高射砲部隊。八幡製鉄所を守ってたそうだ。
いろんな話を聞いたけど一番印象に残ってるのはやっぱり昭和20年8月9日の話だ。
その日は曇っていたそうだが、西の方から地鳴りのような音がしたらしい。隊の
みんなとそっちを見ると、西の空の雲が真っ赤になってたそうだ。当時上等兵の
じいちゃんが「あれなんじゃろ?」と周りの兵隊に聞いてもみんな不思議そうに
しているだけだったが、隊長(小隊長なのか分隊長なのか不明)だけが、
「あれはたぶん原爆だ。」と騒いでいたそうだ。
じいちゃんたち兵隊は原爆ってのがなんなのかはもちろん3日前に広島に落とされ
たこともよく知らなかったので、それを聞いても????だったそうだ。
しかし、終戦後数十年たってなんかの番組で8月9日の第一目標地が小倉だったと
初めて知ったときは腰が抜けそうになったという。
もし、8月9日の小倉の天気が晴れだったら俺はこの世にいなかったかもしれない。
他の話はまた今度。
257 :
名無し三等兵:2006/11/25(土) 02:02:41 ID:9tPe2z5Q
オレの祖父の話を。
なんかオンボロ輸送船(日露戦争の戦利品だったらしい)の対空要員だったらしい。
で、夜間に空襲があってグラマンなんかがバリバリ撃ってきた。
しょぼい機銃じゃどうにもならんので秘密兵器を使用。
なんか筒に火薬入れて紙製の10センチ程度の紙の玉入れて火のついたこよりを入れ
るとどか〜んと火の玉が上がった。
空中で高射砲の爆発なんかメじゃない位でかい爆発。
しかも、赤・青・黄色とかの派手で綺麗な爆発が。
ってそら花火じゃね〜かと呆れていたのだが、敵機はビビッて逃げて行った。
次の日の空襲は昼間でどうにもならず、あえなく港で沈没して祖父唯一の戦闘
は終わりだって。
祖父曰く、「しょぼい軍隊生活だったなぁ〜」ってのはよく聞いた。
ずっと前にちょっとだけ聞いた話なんだけど
祖父が、戦闘機のパイロットは結構口があんまりよくないそうな
試作機の試乗(?)で、不満に思ったところは容赦なく文句つけるって
その点、偵察機のパイロットは結構おとなしいらしい
〉〉256
小学校の頃、担任の先生が同じようなこと言ってたな。
先生は中学生だったそうだが長崎とは有明海を挟んだ対岸、熊本から見たそうだが長崎の空がピンク色に染まっていたそうだ。
太平洋戦争の戦死者達は犬死なのでしょうか?
よく「あなたがたの犠牲のおかげで今の日本があります。」と言われますが
日本が大敗しようがそうでなかろうが戦後のアメリカの方針に大差無かったと思うと
戦死者の方々が無駄死にしたと思えてならないのです。
>>60 うちの父方のじいちゃんもその回天ってやつに乗ってたらしい。
内容は殆んど同じなんだけど出撃の一日?前に終戦。
上官は独り出撃して故障か燃料切れで海上でピストル自殺してたって…
因みにじいちゃんは回天に乗る前、あの戦艦大和で電気技師やってたらしい。
下士官?か古参の精神棒とかいうやつで毎夜毎夜叩かれて、しまいには嫌になった新兵が夜中?海に飛込んで自殺したとか…
トラックに停泊している時に
「あら?あんなとこに島あったか?」
と思ったら空母大鳳だったとか
悲しくも面白い話をじいちゃんの手記で読んだ。
ちょうど10年前に亡くなったけど、本当にもっと話を聞いとけば良かったと思う。
じいちゃんが亡くなってから大和や回天に乗ってたことがわかって、あんだけ厳しかった(正月とかよく尻叩かれた)のはそういう理由があったのかと納得。
そういえばじいちゃんの手記の中じゃ瀬戸内海(多分広島近く)の訓練地か基地の事を「P基地」と呼ばれていたとなってるんですが何か意味あるんですか?
誰かご享受を。
262 :
256:2006/11/25(土) 16:19:57 ID:cpQHlbkI
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。その2
じいちゃんが赤紙で軍隊に入ったばっかりの新兵時代の話。
日本軍は(別に日本に限らんと思うが)新兵いじめが酷かったという
話をよく聞くので、本当かどうか聞いてみたことがある。
やっぱりすごかったそうだ。入隊初日はすごく丁寧に扱ってくれたそうだが
次の日からは、殴る蹴るは当たり前になったらしい。手で殴るのは珍しい方で
大体樫の棒か下駄だったそうだ。将校連中は見てみぬふりが基本だったが、陸士出
の奴らはたまに自ら参加したり、殴り方が悪いと逆に上等兵や下士官をぶん殴ったり
していたらしい。「陸士出の奴らは筋金入りだからそいつらの部下だったらもっと
苦労してた。」とのこと。
じいちゃんは何かヘマをしたときに殴られたりするのは(例え連帯責任であっても)
まあ納得できたそうだが、どう考えても新兵を辱めて楽しんでいるとしか思えない
ような仕打ちをされるのは納得できなかったと言っている。
退屈しのぎという理由で、褌一丁で「ミンミンゼミ」や「鶯の谷渡り」という芸を
やらされたときは悔しくて涙が出そうになったらしい。
また、初年兵だけが苛められるわけではなく、兵隊(兵長以下)はみんな何かしら
上官から苛められていたらしい。ただ苛められっぱなしではない様で、隊長だか
班長だかの飯当番(お膳に並べられた食事を頭の上に押戴いて持っていくらしい。)
の上等兵は苛められた腹いせに味噌汁の中に自分のフケや痰をまぜていたらしい。
じいちゃんも「お前もやったれ」と誘われたそうだ。
その話をしたときのじいちゃんの名言
「軍隊では『できません』とか『やりません』という言葉は存在せん。」
被害者の隊長だか班長は上手そうにその味噌汁を飲んでたそうだ。
じいちゃんが上等兵時代の話はまた今度。
263 :
名無し三等兵:2006/11/25(土) 19:52:43 ID:eR+nX8HP
聞いたことあるなぁ>>フケ飯 なんでもフケ飯を食って急な腹痛を起こした古参兵は盲腸と診断されて手術されたとかw 自衛隊ではイジメとかどうなのかな?
〉〉263
イジメと紙一重の‘指導’は日常茶飯事だよ。
前の勤務地で一人自殺したけど、彼を棺に入れる前、制服に着替えさせた時は本当に辛かった。
何で力になれなかったのか今でも悩むし、彼を助けれることが出来ず傍観していた俺はイジメた連中と同罪だと思う。
今、イジメがマスコミやらで話題になってるけどやっぱい良くないことだよ。
今の職場にもイジメられてる奴が一人いるが、影で慰めるくらいしか出来ない・・・無力な自分が情けない
265 :
名無し三等兵:2006/11/25(土) 21:36:48 ID:w9ApndkE
老人ホームでの話し。
防災訓練で、防災頭巾をかぶせて避難の練習。
突然鳴った火災報知機のブザーで大パニックになったそうだ。
たとえボケていても、忘れられない空襲体験。
なんか理解できる。
うちの爺さんは幸運な部類だったんだな。
爺さんは開戦して少しして軍に行ったそうだが、終戦まで地元の沿岸で漁船に毛が生えた程度の船に乗ってたらしい。
最初は水平線を見てたそうだが、何時ごろからかそれが空に変わったとか。途中でボロイ機銃が積まれたそうだが敵に撃った事は無いらしい。無線機は意外に使えたとか。
これって洋上哨戒線でもやってたのかねえ?
267 :
名無し三等兵:2006/11/25(土) 22:46:26 ID:p63Cwyts
志願兵で軍隊に入って少尉になるのは
陸軍と海軍ではどっちが難しかったの?
>>266 監視艇隊ですね。
凄まじい戦闘を経験していますよ。
よくぞ御無事で。
>>268 本当は戦闘してるってこと?
俺の祖父は当時、大学生(大阪帝大の理系学部)で、
大阪の空襲で落ちてきた焼夷弾の不発を分解して調べたことがあるらしい。
詳しいことは聞いてないが。
>>268 そうなの? ガキの頃に2度聞かされただけだったが、そんな凄い戦闘経験があるとは言ってなかったが。言いたくなかったのかな。
もう鬼籍に入ってしまったが、もう少し真面目に聞いておくべきだったかな。
〉〉270
監視艇隊って言うと正に縁の下の力持ち!
運の良い艇は本当に平和な、何もしてないように感じられる部隊かもしれんがかなり重要な隊だよ。
装備があまりに貧弱で、敵と遭遇すればかならず負ける、だからと言って左遷されたような情けない配置では決してない。
事実、監視艇隊から大和に転属になった人間もいる。
あなたのお爺さまは強運の持ち主だった、自分の仕事に誇りを持っていたからこそ、わざとそんな言い方をしたんだと思いますよ。
272 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 00:26:09 ID:2YSOammv
俺の爺さんは海軍の兵卒だったらしい。
(艦の名前は聞いたが忘れた・・)
海南島に居てたから、食べ物には困らなかったらしい。
野生の猪とか捕まえて、丸焼きにして隊の人間で食べたって言ってた。そりゃ美味かったらしい。
陸戦隊の友人も多かったらしいが、シナ人との戦闘は悲惨だったらしい。
ジュネーブ条約なんて勿論知らないから、捕虜は殺した上に、更に死体から肝臓も取ってったらしい。
爺さん、涙目だった。爺さんの友人もやられたとの事。
あいつらは獣だと言ってたな。。
だから、こっちも仕返しで捕虜を取らずに、銃殺する事もあったらしい。
まぁ、奇麗事で済む世界じゃないという事は感じた。
俺も何も言えなかった。
>>269-271 監視艇隊は宮崎駿監督が「雑想ノート」という漫画の中で
秀逸な作品を描いてます。
「最貧戦線」と言いますが、本当に最貧だ・・・
>>268 まあ、機銃を撃ったことが無かったっていうからには、戦闘はしていないんだろう。
逆に言うと、だから生きてるのかもね。
監視艇隊で機銃を撃つということは・・・
終わりだ・・・
>>274 貴殿のお爺様は幸運であったかと。
「敵機発見、天皇陛下万歳」って感じだろうな。
無線の感度がいいのは後半は航空機用無線を積んだから
278 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 07:17:00 ID:Tbqu2kkl
ウチの祖父は、召集されてからずっと内地で高射砲第3師団 独立第17中隊 指揮小隊 計算班所属で
鉛筆をもって戦ってました。
大阪を起点に駐屯する都市が空襲で焼けると、瀬戸内沿岸の都市に転進の日々で
昭和20年8月4〜5日頃に広島市の己斐駅の裏にある茶臼山に移動して
原爆を体験しました。
279 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 09:52:55 ID:vL3RSg6i
受け持ち患者さんで、今年80になる爺様がいたんだけど、横須賀の海軍陸戦隊で、高射砲の砲手だった人がいた。
横須賀の高射砲隊にいた時は、12,7mmの連装対空砲で、砲塔内に入って射撃管制を受けながら射撃してたそうだが
ある時、少し離れた部隊に転属になり(イクタだかイナダだか)そこは砲身むき出しの単装砲で、口径もずっと小さい(7,5cm?)
それが数門しかなく、そのくせに敵艦載機の空襲をよく受けたと。
だだっぴろく見晴らしが良いところで、ずっと遠くから飛んでくるのが見えるなら、当てようもあるが
あまり射界の良くないところで、撃たれにくいような飛び方で急速に接近してくるものだから、全く命中しなかったと。
高台にあったらしいが、俯角の取れない下からや、太陽を背にして来たり、二方向から挟み撃ちにされたりと苦戦したそうだ。
敵機の射撃音は「パラン、パラパラン」と別に恐ろしくもなく、「あんなの当たっても死なないんじゃないか?」と思える
ものだったそうだけど、機銃弾が砲座の中に飛び込むとエライ事になったらしい。円形のコンクリートの台座の中をガラガラと
恐ろしい音を立てて跳弾し、当たった兵士は重傷を負ったが、戦死者は幸運にも出なかったと言う。
あと、日頃威張っていた隊長が対空射撃の際に一人で逃げ出して、行方不明になってしまい、副隊長が指揮を継続したと。
その隊長はそれっきり行方不明になり、探したが見つからなかったと言う。「脱走したのか、戦死したのか」と笑っていた。
280 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 10:47:59 ID:khym8x+D
今は亡きじいちゃんの話。
小学校のころ、学校の授業の国語の授業の一環で、お年寄りに戦争の話を聞いて来いっていうのがあって、じいちゃんに聞いてみた。
で、B−29の話をしたら、じいちゃんは
「日本にはもっと大きい飛行機がいた」と自慢げに話していた。
戦争中、じいちゃんは航空母艦か何かの機銃員をやっていたらしい。
その船で燃料を補給するために、デカイ飛行機が何ども飛んできていて、それを見るたびに日本は強いんだな思ったそうだ。
その後、トラック島(で良かったはず、違うかもしれない)で敵に襲われて、機銃の弾を運ぶために機銃から出た途端、爆弾が近くで爆発して、破片で背中を大きく切った。
その傷を見せてもらったけど、背中にばっさりと30センチぐらいの傷があった。
戦闘が終わった後、船から降ろされて、病院で治療を受けてそのまま、ずっと島にいたそうだ。
機銃員という配置になっていたけど、やったことは、畑仕事と飛行場の穴を埋める作業ばかりだったという。
そのまま、終戦を迎え、復員船で帰ってきたそうだ。
乗っていた船がじいちゃんが下りた後に沈んだのを知ったのは、日本に戻ってからだそうだ。
俺のじいさんは陸軍で南方に行ってて敵から奪ったトンプソン使ったって言ってた。倒したアメリカ兵の武器を使う仲間も多かったって言ってた。弾どうすんだろ
282 :
???:2006/11/26(日) 12:04:23 ID:???
>>275 監視艇隊と言えば〜べ―リング海で監視艇やってた元漁船がどうやら無電を打つと危ないって事がわかったらしく、監視をサボってもっぱら『本業のカニ漁』に精を出してたらしい。
司令部には申し訳無さそうにカニを届けていたとか…
ウチのじーちゃんは某一流大学の教授だったから戦争言ってないとの事。
284 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 13:09:24 ID:edfUrhaC
読んでると、ジイサンかっこいいよ!!! って思えてくる。
老人は大切にしなきゃね。
285 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 13:28:30 ID:4rWpMW60
俺達がいるのも祖父達のおかげだよな
色々映画化して欲しい
286 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 13:29:49 ID:TaCfmhFk
爺さんではなく、ゼミの教授の話。
シベリア抑留時代、収容所内での密告・リンチには酷いものがあったそうだ。
「天皇なき皇軍は、かくも弱い」。
そう思ったそうだ。
かたやドイツ兵の捕虜たちは、よく協力しあっていたんだとさ。
どこでも隣はよく見えるらしい。
うちの爺さんは満州行って、その後シベリアで捕虜生活送ったって。
シベリアでは収容所?で、食うものがなくて看守の猫を食べた人がいて
それでそのロシア人がブチきれてたっていう笑い話を何度もしてくれた。
隊列組んで歩いてたらいきなりヘリが上空から一気に近づいて掃射してきて、
本当にギリギリで交わして助かったそうな。因みに隣にいた朝鮮人兵士は死んだと。
それとは別にもう1つ、本当に死に掛けた話を聞いたけど忘れた。
あと満州時代、中国人をチャンコロチャンコロって呼んでみんな威張ってたんだけど、
ある時、朝鮮人兵士が中国人と喧嘩になったって話も聞いた。
お前が日本人だと笑わせるな!日本の犬になった朝鮮人の分際で!!みたいな
感じで殴り合いの喧嘩をやってたって。それが取り合えず一番印象に残ってる・・・。
うちのジジィの口癖は「武田の赤備えは強かった苦労した」でした
289 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 14:36:47 ID:t7ezlegj
俺のじいさんは仕事の関係で前線に行けなかった
悔しかったそうだ
290 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 14:43:59 ID:kNAdukJn
子供の頃に聞いたきりなので、色々間違ってるかもしれないんだけど
うちの爺さんは中国で夜襲に合った時、機関銃(?)の弾が無くなってしまったので
仕方なくそこにあった石を投げて応戦してたたそうだ。
あと大戦末期、ガ島に行くように言われたとき、拒否して助かったって言う話も聞いた。
結構面白い人だったらしく、俺の幼い頃に亡くなったのが残念でならない。
291 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 14:48:51 ID:kBRkKGdc
うちの爺さんの口癖は川中島の戦いは激戦だった苦労しただった
292 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 14:54:03 ID:HCsCVWSp
うちの爺さんは横須賀で技術者をやってた関係で従軍はしなかったみたい。
従軍しなかったけど軍艦の技術改善で表彰されたことを誇っていました。
今となってはもっと詳しく聞いておけば良かった。
大戦後ならあったんじゃない。ヘリ
日本だって戦中、萱場式オートジャイロ作ってるんだし。
以前中国戦線で副官として仕えていた上官(手記には「村井将軍」と書いてある)にフィリピンで再会したが、
その上官がペリリュー島守備隊に派遣される事になって
「大陸の作戦なら慣れてるが島嶼防御には全く自信がない」
と彼が言っていたので内地勤務時代に手に入れた島嶼防御研究資料を手渡して説明してあげたら喜んでくれた
といった内容(一部省略)がうちの祖父の手記に書いてあった
爺さんは学徒出陣で中国→満州と転戦。
曾爺さんは技術軍属で満鉄に居た。
と言う事で、うちの一家は全員満州に住んでた。
爺さんは当時の事は余り話さないが、それでもちらほらと語ってくれる。
部隊が大休止をとる際、湯を沸かす入れ物を探せと言われ
きれいな皿を見つけて喜び持って行くとそれは中国人たちが
使う便器だと言われ怒鳴られたとか。
空襲に対して高射砲を撃つが、爆撃機よりも下でポンポンと弾け届かず
同期の連中と呆然と空を見上げていた事とか。
塹壕に籠もって戦闘中、必死に防戦していた戦友が頭をや肩を打ち抜かれ
苦痛にのたうち回り、死んでいく姿をみて、震えながら敵兵を撃ち殺していた事とか。
つい2〜3年前、小泉首相から当時の兵隊に対して証書か何かが出たらしく。
首相の名前が入った証書をうれしそうに眺め、やたらと自慢してきた。
297 :
名無し三等兵:2006/11/26(日) 19:32:30 ID:5gD8SSjm
祖父は旧制中学の高学年での軍事教練で市街戦訓練をミッチリ受けたそうだ。
市街戦訓練の内容は日本軍らしく、奇襲による肉弾攻撃だ。
訓練は銃剣を装着した38式(訓練では木銃か竹槍)を持って物陰に潜んで、
合図の号令とともに物陰から素早く飛び出して10mくらい離れたところにある
米兵に見立てた「土のう」に駆け寄って突き刺し、そのまま全速力で走りつつ
別の物陰に隠れ直すという内容だったそうだ。走るのが遅い奴や、突きに気合が
入っていない奴は、がんがん鉄拳制裁をくらったそうだ。
曾爺さんは満州事変後から技術軍属として満州へ行っていたらしい。
らしいと言うのは曾爺さんはすでに俺が生まれたときには居なかったから。
この話は婆ちゃんから聞いた物でどれほど真実かは知らん。
曾爺さんは「おまえらは内地で暮らしていろ」と、曾婆ちゃんらに言ったが
曾婆ちゃんは「あんたが一人で行ってなにができるんや」
と言うような事を言って一緒について行ったそうだ。
満鉄の電気配線(車内の電気設備や計器)の業務に携わっていたという。
大戦末期には、婆ちゃんに「この戦争は負ける。今から内地に帰る用意しとけ」
と言って出かけていき、その日、工場が中国人に襲撃されで殉職したらしい。
当時天皇陛下の為に云々と言って命令していた上官に
「陛下の為にと言うのは、陛下にわしらを背負わせる行為だ。
自分の事は自分で背負わにゃならん。陛下に頼って良いもんではない。」
と曾爺ちゃんは言っていたらしいから、異端だったのかも知れん。
>>294 大戦後、移送中の捕虜を機銃掃射はしないと思うよ。
時系列逆になるが、降伏前の話で、ヘリってのは誤認では?
あるいは作り話か。
婆ちゃんがよく話すのは満州での事と、満州から引き上げる時のことだ。
満州の田舎に居を構えたが、近くには市場がなかったらしい。
そこで、婆ちゃんは荷車を押して町まで行き、物資を買い込んで
近所で売ると言う八百屋のようなものを経営していたそうだ。
経営と言っても、当時は14〜16だったから、相当な物だと思う。
そんなこんなで、大戦末期、降伏。
日本人には内地への帰還命令が出て、兵隊が護衛についた。
集められたのはどこかの軍施設で鉄道と徒歩でプサンまで移動する物。
持ち物は食料と現金2000円のみ。それ以上は持って行けなかったらしい。
その現金二千円も中国人らの検閲で少しずつ取られ、減っていったそうだ。
兵隊の護衛も途中で終わり。
何でも兵隊が一緒にいると便衣兵にねらわれるのだとか。
最後は自分らが居る建物から駅までの大通りを駆け抜けたんだと。
その時兵隊はトラックを並べバリケードにし、トラックとトラックの間の
隙間に立ち、一般人が撃たれるのを防いでいたと言っていた。
それでも全部の弾を防げるはずもなく、何発も弾が耳元をかすめたと言う。
婆ちゃんらが一番驚いたと言っていたのは、朝鮮人。
終戦まで日本人と同じ様に付き合っていた朝鮮出身のご近所さんが
手のひらを返して冷たくなり、それまで共同で分け合っていた食料を
出し渋り、半島の検閲で自分は朝鮮人だと名乗り上げてさっさと
どこかに行ってしまったそうだ。
それ以来何となく朝鮮人が嫌いになったそうな。
以上、大戦期の曾祖父、祖父、曾祖母、祖母らの話でした。
俺がガキの頃近所の爺さんに聞いた話だが南京戦に参加したそうだ。
敵兵と民間人の区別がつかず、恐くてかなり乱暴なこともしたらしい。
敵が毒ガスを使ってきて、慌てて防毒面を被って難を逃れたこともあるそうだ。
今考えてみると捕虜の扱いもいい加減で、気が立ってる時は簡単に殺してたそうだ。
虐殺云々も聞いてみたけど現場はゲリラがいないか探したり、敵の反撃に備えたりで殺して廻る暇は無かったそうだ。
ただし、敵の居そうな市街地の家々を捜し回る過程で虐殺みたいなことが少なからず起きたのも事実だそうだ。
>>295 村井権治郎少将か・・・
あなたのおじい様の渡した資料のおかげで、
2〜3日で終わる筈のペリリュー戦が2ヶ月半にも及ぶ激闘になった訳だ
303 :
256:2006/11/26(日) 21:49:35 ID:3j5wigWh
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。その3
じいちゃんから聞いた実戦の話。
じいちゃんは八幡製鉄所を守ってた高射砲部隊にいた。だから何度
となく空襲は経験してるんだろうけど、はっきりと聞いた空襲の話は
これだけ。
ある日B29の編隊が空襲に来た。じいちゃんたちは早速高射砲で迎撃
し始めた。じいちゃんは照準係だったので、照準用の望遠鏡?を覗いていた。
すると、狙っていたB29の機首(操縦席かな?)で火事が起こったのが見えたという。
とにかく火が出て敵兵が慌てふためいているのがものすごくはっきり見えたので、
「ただ今敵機内に火災発生!!」と怒鳴ると、周りの兵たちは命中したんだと思って
すごく盛り上がったらしい。しかしどうやらそれはB29が勝手に火事を起こしたらしく
その内に火も消えて何事もなかったように飛び去って言ったという。
「日本の高射砲はB29の飛んでる高度までとどかなかったんでしょ。」
と言うと、何機かは打ち落としたことがあると反論された。
長くなったのでいったん切る。
304 :
256:2006/11/26(日) 21:50:09 ID:3j5wigWh
303の続き
その後に第2次攻撃があったそうだが、今度はじいちゃんたちの高射砲陣地に猛爆撃を
仕掛けてきたそうだ。上官が「敵機を撃ち落す高射砲の兵が逃げたら誰が敵機を撃ち落すんだ!」
と檄を飛ばし、最期まで逃げずに応戦したそうだが、沢山の戦友が戦死してしまったらしい。
じいちゃんは覚悟を決めてずーっと照準器を除き続けていたそうだが、大爆音がするたびに
断末魔の叫びが聞こえてきてその恐怖はものすごかったらしい。ちなみに爆弾に吹っ飛ば
された人間の断末魔は「天皇陛下ばんざーい」なんてものじゃなくて「グギャー」とか
「ドゥブォワー」とか人間のものとは思えないようなものだったそうだ。
運よく最期まで爆弾の餌食にならなかったじいちゃんは、上官に肩を叩かれてようやく照準器
から目を放すことができたらしい。
そこから兵舎へ帰る道でじいちゃんは木の枝に引っかかって血をポタポタと垂らしている人間
の髪の毛(おそらく頭皮ごと吹っ飛んだのだろう。血まみれのカツラが木に引っかかっている
ようなものだったらしい。)を見たそうだ。それを見たじいちゃんは初めて
「わしらは一体何でこんなことをしとるんだろう。なんでこんなことをしなきゃならんのだろ
う。」と切なくなったと言っていた。
実戦の話はこれしかしてくれなかったが、兵舎での軍隊生活の話は辛かったこともあれば楽し
かったこともあったようで沢山してくれた。
その話はまた今度。
305 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 07:01:18 ID:VkjX23JU
古いアルバム見つけた。ある人の0歳児から成長の記録が写真でしっかり整理されてたんだ(9歳学校ノ遠足ニテ)みたいに。で何故かアルバムは半分くらいで終わってたから最後のページ見たら【上海ニテ戦死】とか書いてある紙がはさまってた。見なければヨカタ(´Д`)=3
今年の一月に94歳で鬼籍に入った私の父。開戦時から戦車、トラックの整備兵として南方で従軍、敗戦時曹長、今は立派な空港のあるチャンギで二年の英軍捕虜暮らし、支給品のヒゲソリをその後永く愛用していた。
うちの祖父は、
27歳の頃に海軍の輸送艦の対空機関砲を担当してたのこと。
長崎から朝鮮半島に行く途中に敵の攻撃を受けて、足の指、腰に機銃の跳弾が当たり、かなり重体の怪我でしたが気を失う前に、
止血、自分の血液型(偶然、祖父を運搬してくれた人が同じ血液型だったとか)を言ったためか奇跡的に助かり、長崎の小浜療養所に入ったそうです。
その後、祖父の乗ってた船は修理のために長崎港のドッグに入り、修理中にあの長崎原爆に巻き込まれたそうです。
数日後、終戦になり重体の身ながら九州〜東北間を
ほとんど徒歩(鉄道がやられたため汽車が使えなかったとか)で帰って来たとのことです。
余談ですが、輸送艦は敵に狙われ易いが食べ物は豊富にあった(何かあったときのために余分に食料を積載するため)らしく、
海軍に入って逆に太ったそうです。
308 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 17:43:24 ID:DqjYW+um
話によるとうちのじいちゃんは準戦闘員ではなく他の兵隊に料理を作る仕事?だったらしい。
それがある日その日の戦闘が終わって数人で他の仲間より早く帰り、帰ってくる兵士の飯を作ろうとしたところ、
その煙で場所がばれて襲撃にあい応戦中に被弾幸いそのときは一命を取り留めたが、
本国送還その後傷からの感染症で山口の病院で死んだらしい
部隊名は分からないが広島の福山にある部隊だと思う
309 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 20:05:13 ID:WMBm3Yrn
父方の祖父は産婦人科医だったんだが、大平洋戦争当時は軍医として従軍していたそうだ。
普段は駆逐艦の船医として普通の医師の任務を果たしていたのだが、本来の任務は駐留先に上陸してから…
士官以上を相手にするために日本から連れて行った芸者と、それ以外を相手する現地で募集(強制は無かった)した“女給”の性病検査が主な仕事だったらしい。
検査用の小屋に内診台をずらりと並べて、開脚させた女を次々に流れ作業で検査しまくったそうだ。
さらに敗戦前、中国から引き上げてくるときには、帰国を希望した女を二艘の偽装船に乗せて帰り、北九州上陸前にとある小島(名前は教えてくれなかった)に接岸。
そこのほったて小屋で全員掻爬(中絶手術)したそうだ。
その際、何人かは麻酔や掻爬に耐えられずショック死したため、掻爬内容物や現地での女性達の検査記録と一緒に、ほったて小屋ごと重油をかけて燃やしたらしい。
あまりにも酷いことを見過ぎて、祖父は帰国後しばらくはノイローゼ気味だったらしい。
メディアで「従軍慰安婦」という言葉が出てくる度、その話をしてくれた。
310 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 20:36:39 ID:WMBm3Yrn
母方の祖父は郵便局員で、モールス通信が出来たので、軍属として船艦に乗務していた。
郵便業務と給与分配が仕事だったそうで、待遇とも良く結構役得もあったらしい。
戦時中、外地から本土への贅沢品持ち込みは厳禁だったが、戦死者の遺品だけはノーチェックだったので、遺品を入れる木箱を作って、中に高級紳士服地や革製品、時計、葉巻、キャラメルなどを詰め込んで本土へ送っていたらしい。
これってヤバいんじゃね〜!?
311 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 20:40:02 ID:WtGnT5/v
母方の祖父の話。
開戦前、台湾にいたところ、マラリアに罹り、どの道助からないということで、
適当に扱われ、結局、貨物船で帰還したそうな。
その後、開戦となったが、赤紙が来ることなく、終戦を迎えました。
塞翁が馬ですかね。
ウチの爺さんは何か試験に合格したらしく、すぐ少尉になれるような状態だったらしい
で、舞鶴だか呉だかに行く直前、重度の腹痛を起こして汽車に乗れず、その話はお流れ
ところが、同じ試験に合格した人が全員南方で戦死していたそうだ
その後も、中国軍だか米軍だかの攻撃で部隊が全滅→実は半月前に小隊が転属
ソ連の満州侵攻に遭う→同じく一ヶ月前に(ry
爺さん、運良すぎ。おかげで俺が生まれたわけだが
313 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 22:31:59 ID:s8Prral/
父方の爺の話。
どこに所属していたとか詳しい話はわすれたが、衛生兵として大陸へ出兵。
戦争の話はあまり聞かないが、アニキ2人は南方で戦死したため、
三男の自分が家を継ぐことになったと話していた。
また、曽祖父は遺族年金をかなりもらったとか…
旦那の爺の話。
高崎十五連隊に所属。
トラックの運転を主にしていたとかしていなかったとか…
マラリアに罹り部隊から離脱。
その間に部隊は玉砕。
写真の整理をしていたら軍のが沢山出てきました。
オレンジレンジ」着メロ無許可配布で逮捕 著作権法違反 [11/27/2006]
日本音楽著作権協会(JASRAC)の許可を受けずに、インターネットのサイトで携帯電話の着信メロディーを配布した
として、長崎県警生活環境課は27日、著作権法違反の疑いで長崎県佐世保市桑木場町の無職山下耕一容疑者(45)を
逮捕、自宅を家宅捜索した。調べでは、山下容疑者は昨年10月から今年8月ごろまでの間、人気グループ「オレンジレンジ」
の曲など5曲の着信メロディーのデータを作成し、自分のホームページから不特定多数の人が無料でダウンロードできる状態にした疑い。
県警は数百のメロディーをダウンロードさせていたとみている。
今月21日に同協会が告訴し、県警が捜査していた。同協会は「携帯の着信メロディーに関する不正の摘発は初めてではないか」
としている。
http://www.sanspo.com/sokuho/1127sokuho031.html (引用元配信記事)
元海軍大佐(故人)が保管していた拳銃が見つかり、遺族である川崎市多摩区の無職男性(75)
が多摩署に届けていたことが二十四日、分かった。拳銃とともに見つかった遺稿には、終戦直後、
この拳銃で自決を試みたが果たせなかった元大佐の無念の思いが、生々しく記されていた。
同署は「旧軍人が悪意なく保管していた拳銃で、刑事処分は問わない」と同日、行政措置として
廃棄を決めた。
届け出たのは、九月二十五日。男性が、父親である元海軍大佐の遺品を整理していたところ、
竹で編んだ箱の中に、旧海軍の書類とともに、新聞紙に包まれた拳銃を見つけたという。
同署によると、拳銃は旧ドイツ共和国製で、自動式の「オルトギース」。実弾八発が込められたまま
で、発射した形跡はなかった。
元大佐は戦後「自分は死に後れた。戦友や部下に申し訳ない」と、家族に話していたという。原稿
用紙四十二枚に及ぶ遺稿には、一九四五年八月十五日に自決した上官に従おうと、同十九日に
「一死を以(もっ)て君国に謝罪せん事を決心し」とあり、自決するため、拳銃に弾丸を装てん
しようとしたが、故障でできなかったこと、また数日後に別の拳銃を入手して海岸で試したが、再び
不発に終わったことなどがペンで切々と書かれていた。
表紙には、「追想」と書かれ、毛筆で「信は当年のことに発し 義は千載の後に及ぶ」と続けられて
いた。最後に「昭和二十五年稿」とあった。
元大佐は一九六二年、六十歳で病死したが、男性は遺品を改めずにそのまま保管。九八年に
亡くなった母親の遺品とともに、今年になって整理していたという。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kgw/20061125/lcl_____kgw_____006.shtml
うちのじいさんではない 2ちゃんの実況スレでいつぞや聞いた話
その人のじいさんは戦争末期満州の最前線で5人程の小隊で
小さな小さな塹壕掘ってソ連軍が来るのを待ち構えていたそうだ
で、ついにいよいよ目前にソ連軍がやって来た
覚悟を決めて決死の覚悟で塹壕に籠って待っていたところ
あまりにも小さな塹壕だったのでソ連軍は全くその塹壕に気が付かず
華麗にスルーして行ったそうです…
317 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 23:30:15 ID:XpvUG/ob
>>30 ガダルカナル戦(1942年〜1943年)で30代後半、終戦(1945年)前に40歳台なら、
日露戦争(1904年〜1905年)当時は生まれたばかり。
旅順攻囲戦(203高地)やら奉天会戦に参戦出来るはず無かろうが!w
318 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 00:22:15 ID:x8N840La
うろ覚えだが
知人の じいさまに前聞いて じいさまには自分含め三兄弟だそうで、じいさまが末っこ
兄二人が兵隊へ…
兄の一人は 戦死
兄の一人は 仲間に殺され食べられたそうだ
うちの父方の爺さんはもう亡くなりましたが
特攻隊として出発することが決まっていたらしい。
結局、特攻前に終戦になるんだけど大分航空基地にいたもんだから
宇垣纏が部下を引き連れて特攻するときに爺さんも志願した。
まだ若かったから止められたみたいだけど。
民社党員だったな
321 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 01:14:56 ID:jk3kCrD7
>>30 おおw俺の親父のじいちゃんは親父の話によると同じだったらしい
・酒を飲むと決まって、あの乃木希典の指揮の下で戦ったんだと自慢した
・日露戦争に歩兵で参加。
・ナントカ高地(203高地か?日露=203高地という意味か?)の戦いに参加
・絶対に折れない心で弾薬の残量もきにせず、ひたすら突撃し奉天を占領。
ここまでまったく一緒w
もう一人のおじいちゃんのほうは特攻隊に志願して出陣の前日に終戦だったとか
二人とも死んじゃったのでうろ覚えでスマソ
322 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 01:32:27 ID:vGtKVIxK
うちのじーちゃん。
陸軍でモールス信号を受け取り、解読する部隊だったらしい。満州にちょこっとだけいて、北海道に移動させられ終戦。カニがうまかったなーとよくいってますWW
323 :
321:2006/11/28(火) 01:57:45 ID:jk3kCrD7
母方の父で自分にとってはおじいちゃんですが、3年前になくなりました
母の話によると、若い時に特攻隊に志願して出陣の前日に終戦
失意のまま生きていき、殺人以外のあらゆることをやったそうです。
その後、祖母と出会い、体が丈夫だからという理由で結婚
貧乏な暮らしをしていたのですが、母が成人する頃には中小企業の社長になってました。
その後、会長として3年、その後引退して1年で癌でなくなりました。
母によると、何でもできる人間で、唯一尊敬する父だそうです
戦後の暗黒時代を生きていただけに、忍耐力や精神力などなど、
見習うことが多いなと今さらながら思い出しました。
ところで出陣前日に終戦ってあるのでしょうか?
山口か京都の人だと思うのですが
324 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 02:18:29 ID:/of6o5mz
みずきしげるはガ島へいって生還した1割のうちの一人です。9割は死んだそうです
325 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 03:10:39 ID:lDosCyZR
家の向かい側の老人ホームに(認知症じゃないグループホーム)に
片腕の無いじーちゃんがいて、話を聞いたら「武蔵」の三連装機銃の射手をしていたそうだ
レイテ沖で米軍機の攻撃を受けた時に、近くで爆弾が命中して、奇跡的に腕だけ飛ばされて
命拾いしたらしい
ちなみに機銃は旋回も大変遅く、全く当たらなかったらしい
隣の単装機銃は、狙いが付けやすく、面白いように撃ち落としていたそうだ
326 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 04:19:44 ID:uIsYXbu1
>>324 片手が吹っ飛んだのを見て、この程度で済んだと喜んだらしいよ。
ガ島ともなると、感覚が違うな。
まあ、ウソだけどな。
水木さんがいったのはラバウル。
おー面白いスレだな。戦争って本当にすげーなってしみじみ思ったよ。
激動の中を日本のために戦ってくれた祖父母達に尊敬と感謝の念を抱きたい。
ここに書き込まれたおまいらのじーちゃんばーちゃん、それともちろん俺の爺ちゃん婆ちゃんにも乾杯。
うちの祖先は、モンゴル兵をやっつけた!!元寇の役。
330 :
239:2006/11/28(火) 11:05:39 ID:8WdhMbaK
>>241 祖父は足が弱いからツアーとかムリなんだよね
祖母もトイレが近いから融通利くような、俺が運転する車で旅行するのを楽しみにしてる
すっかり書き込んだこと忘れてました。ので南鮮の話に移りましょう。
朝鮮には終戦までの2年いたそうで、ずっと順天というところにいたそうだ。
部隊の一番の上官は朝鮮人の人で、とにかく厳しい人だったが、部下と酒を飲む席を作ったりしてくれてよい人だったと言っていた。
しばらくして、自分の後に入ってきた南鮮出身の一人の部下の面倒というか指導係みたいなものになったそうだ。
その部下の実家は南鮮で自動車整備会社をしていたそうで、結構裕福な家出身だったようだ。
ある日、その部下の両親が差し入れを持ってきて面会に来た。彼の両親が豪勢な料理を沢山もってきて、部下と彼の両親に是非にと呼ばれて祖父も一緒にご馳走になったらしい。
貧しい農家の出の祖父はそれまで食べたことのない豪華な料理に驚いたそうだ。
驚いたことはまだあった。部下が席を少しはずすと、彼の両親が祖父に明らかに中身は金と思われる包みを渡そうとしたのだ。
受け取る理由もないし、上官に知れたらどうなるかも分からんと固辞しつづけるんだが、両親はなんとか祖父に渡そうとする。
どうしても引き下がってくれなかったので、いったん受け取って部下に言って返させたそうだ。うーん、朝鮮賄賂文化ってあるんだなw
で、終戦。南にいた自分は問題なく日本に帰れたが、北や満州にいたら生きて帰れなかっただろうなぁとしみじみ言っていた。
大陸にいたらロシアの脅威は誰でも分かっていて、いつくるんだとずっと心配していたそうです。
332 :
天草四郎:2006/11/28(火) 13:53:13 ID:s+HrXiK4
皆さん立派な御爺様で羨ましいです。
うちのじい様は関東軍と電話工事の仕事をして財をなし、アメ車でタクシー会社
を満州で経営していたと聞きました。終戦の前から内地に現金をトランク一杯を送って
熊本で隠していたそうだ。
終戦後、数年間、日本に帰れず。やっと帰って来たらデノミで現金が紙くずになってたそうだ。
俺は「何で金塊かダイヤモンドにしなかった」と言ったら、そんな事、判る訳無いだろうと怒られた。
ちなみに軍隊と共に樺太から満州に移動したと言ってました。義理の婆様は従軍看護婦で連れ合いが軍人で
2人とも戦死したとも言ってました。
333 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 13:57:39 ID:9BHl9XE+
俺のじいちゃんは、軍属(17才)
日露戦争時代の古い商船で物資の輸送をしていた。
フィリピンのマニラ湾でグラマンの機銃掃射を受け
あえなく沈没、しかし底が浅いので全沈はせず半分は残ったらしい。
船員がはい上がったり、泳いだりしているのを
グラマンは執拗に繰り返し攻撃してきたらしい。
多くの船員は撃たれて死んだ。
「船さえ沈めりゃいいじゃねえか」と怒り心頭だった。
334 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 14:08:19 ID:tj+LSPXC
俺のおじいさんは戦後、駅の近くの土地を二足三文で購入して、ホルモン焼き⇒パチンコ屋と拡大させて
大金持ち、そのおかげで、俺も楽して生きていられる。本当におじいさんには感謝している。
335 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 14:45:14 ID:ibuGBdke
スレ違いかも?
うちのオヤジは昭和ヒトケタ生まれなんだが・・・。
なんでも、海軍最後の少年兵だったらしく兵籍番号をもっとると言うとった。
んで、戦時中なにをしてたのか聞いたら
「特攻隊の要員として、岩国で(訓練のため)赤トンボと零戦を飛ばしてた。」
「二式大艇も乗った事がある。」
と言うてました。
いやぁもう少し終戦が遅かったらオイラはこの世に存在しなかったかも・・・。
336 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 14:48:32 ID:Q8hjRRga
うちの母親は7人姉妹なんだけど、2番目の姉の嫁いだ人が戦争で亡くなったらしい。
で、死ぬ少し前、その人が母親の家を訪ねて来たそうだ。
雪の降る夜で、長いこと母の父(俺のじいさん)と話していたそうだが、部屋から「頼みます・・・。よろしくお願いします」という声と、すすり泣きが何度も聞こえたって。
その人が敬礼をして去っていった後姿。
雪を踏みしめる足音が、姿が見えなくなってもしばらく聞こえていた事。
その2つをはっきり覚えていると、戦争の話になると必ず話してくれる。
おお〜面白そうなスレだ軍事とか全然詳しくないけど書き込み
うちの片方のじいちゃんはすごい硬派で警察に何回もやっかいになってたそうな(よくわからんけど)
国のために特攻隊に17のとき志願して九州の訓練所みたいなところに行ってたらしい、けど、
そこで戦争終わってがっかりしたとかなんとか
その後大学行ったそうな
もう片方のじいちゃんは岐阜県で戦争行きたくないからって先生?になったらしい
そのときのことあんまり話したがらないから詳しく聞いてないけど
やっぱ聞いちゃいけないんだろうか?
こんぐらいしかないな
338 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 15:36:41 ID:s+HrXiK4
居酒屋兆治を書いた山口瞳は同年輩のインテリの多くが戦時中、どうやって徴兵を
逃れた自慢話をするので辟易すると言ってた。
軍歴の有る、多くのじい様たち、尊敬します。
339 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 15:43:48 ID:l7ow5WAP
うちのじーさん(故人)は海軍でした。
初陣はどっかの海戦。びびって食料庫に隠れて自棄酒していたそうです。
その後結核が見つかり除隊。
長崎の五島で漁師をしていました。
長崎に原爆が落ちた次の日、妹を探しに長崎市内へ。
結局見つける事が出来ませんでした。
戦後、被爆者手帳をもらったら?とばーちゃんが勧めると、
「自分の面倒は自分で見る」と拒否。
毎晩2合の晩酌を楽しみに生きていたようです。
遺産に現金一億と庭付き一戸建てを残して74歳でぽっくり逝きました。
戦争体験はかっちょわるかったけど、恐くて優しいじい様でした。
340 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 15:56:28 ID:gRCMo8cG
>>337 話したがらないのはやっぱり戦争に行かずに逃れたことに
引け目を感じているからだと思うが、戦後日本の再建に
頑張られたことは間違いなかろうからやはり敬うべし
親父方の爺さんの、先輩なんだが、伊号潜水艦の乗員(艦長だったかも)で、
ドイツまで連合軍の監視をかいくぐって行ったことがあるという経歴の持ち主。
ヒトラーから下賜された西洋人形をお持ちだとのことだった。
もうとうに鬼籍に入られたと思うが、20年以上前にお会いした当時、若い頃に見た
ハレー彗星をもう一度見たい('86年に来るのが話題になっていた)とおっしゃっていた
のを覚えている。軍人らしくきりっと筋の通った感じの方だったな。
爺さんは従軍してどっかの島に配属されたが、特に戦闘らしい
戦闘にも合わず帰ってこられたそうな。ちょっとボケたがまだ元気。
343 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 16:52:49 ID:e5cZOWmk
潜水艦とかマジで怖そう
344 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 17:03:38 ID:R4y/WRIv
うちのじいちゃんは戦前省線の列車掛で、徴兵されたのは19年らしいです(戦後も国鉄マン)。
名古屋のどこかの部隊で通信兵をしていたそうで、有線のドラムを背負って通信を確保する役だったとか。
話してくれた話は、通信兵に回ってきた旧式の小銃(38式?)のほうが、歩兵の小銃(99式後期?)より綺麗で「なんじゃこりゃ」と思ったと。
それと東海地震のとき、沿岸部で演習をしていて隊長がとっさに「退避!」を命じなかったら流されて死んでいたと。
あとは「大した事じゃない」と…
それと小松の生まれなので、軍のパイロットが初めて小松上空を飛んだときの話をしていました。もっとよく見たかったのに、母親が「おちなさんなや、落ちなさんなや」といって抱きかかえたのでよく見えなかったらしいです。
…あれ?小松に飛行場ができるのは戦争末期なのに、なんで小松を飛行機が飛んでたんだろう。もしかして源田サーカスだったのか?
また、それいらいパイロットを志した小学校の友人は、フィリピンで特攻戦死したそうです。
うちのじいさんはもう死んでしまいましたが自分から志願して
軍隊に入り海軍に所属したそうです。心底筋金入りの神教の信者でした。
名前は忘れましたが(知らない名前だったので軽巡かと思います)
巡洋艦に乗ったこともあるといつもいってました。南シナ海に出陣したそうです。
史実を学んだ今考えるとぞっとします。最初は戦果上々、
華々しい活躍の海軍でしたがご想像の通り攻防の大激戦で乗艦は撃沈され
うちのじいさんは海に投げ出されたそうです。その後海に投げ出された
じいさんは何キロも泳いで楽々陸地に戻ったと子供のようによく話してました。
じいさんが鉄人のような人間でよかったと思います。
346 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 17:33:08 ID:e5cZOWmk
友人の祖母の話だが、沖縄戦の時に銃弾の飛び交う最中、ガジュマルの木の下で出産したそうな
捕虜となり、助かったって
後、うちの家のアルバムに陸軍の兵士の写真があった
階級は伍長、沖縄戦で亡くなった人かもしれん
詳しい事はばあちゃんに聞いてみる
347 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 17:48:22 ID:SlH2dxJR
母方の爺さんの話
日本語教育の先生なんですけど、軍属になるのかな。
でも兼任していたようで、所属部隊の戦友会みたいなのから手紙が来るので
本隊なのか軍属なのかわかりません。3年前から脳溢血で全身麻痺状態にあり
肝心な所を聴けなくなってしまいました。
マレー半島に居たらしく、まだマレー語を話せた。
シンガポールへ旅行に行ったときは通訳要らずだった。
よく話の中にジャワの話があって、イモを兵隊と一緒に盗みに行った話し。
初めて戦車に乗せてもらったときの話、おいしそうな木の実を食べて猛烈な下痢をした話。
学校へ生徒や親がイモや果物を持ってくる話、
青いパパイヤは塩付けにすると食べられた話。
戦争している気分じゃなかったという話。でも最後は戦火に巻き込まれて、
捕虜になってしまった話。
戦争中なのに平和だった時期があったことを
一番良く話してくれました。
うちの祖父は陸軍でした、戦争で約6年その後捕虜で約2年
約8年の戦争経験だったそうです。(回想記を残してくれたので)
戦争の話は正直聞いたことは覚えていませんが。
小さい頃(小学生位かな?)一緒に戦艦や飛行機、戦車などの
プラモデルを作ったこと、敬礼の仕方を教えてもらったこと等々
ここを読んで少し思い出しました。
うちの爺さんは終戦時せいぜい15、6歳くらいだったが少年飛行兵だったらしい
訓練は終わってたが肝心の飛行機がなかったから特攻は出来なかったんだと
もう五年も前に逝ってしまったが、もっといろいろ聞いとけば良かったな
350 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 18:54:11 ID:taO1fmwX
10年位前の正月に酒飲みながら聞いた話だから
聞き間違いもあるかもしれんが
長門に乗ってたらしい
陸に上がってどうこう実験がどうこう言ってた奇ガスw
もっと話聞いとけばよかったな(´・ω・`)
うちの爺さん、中国戦線で戦闘中に敵に頭を撃たれたんだが、
鉄帽を貫通した銃弾が角度が良かったらしくそのまま鉄帽の内側に沿って頭の周りを一周、
そのままポトリと落ちて爺さんは掠り傷ですんだ。まさに紙一重
今でも実家に貫通痕のある鉄帽がある
うちのじいさん(大正10年生まれ)は、満鉄の車掌をしてて召集。
>>239のおじいさんみたいに、ロシア国境近くに配置された。
落馬して入院している時に戦友達はみんなフィリピンに送られたらしい。
極寒の中警備中、うんこしたくなると、めちゃくちゃ早く尻出して、すぐまたズボンはいたってじいさんが言ったから、
「拭かなかったの?」って聞いたら、「アホ、んなことしてたら凍るわ」だって。
その後の紆余曲折は知らないんだけど、じいさん終戦は九州で迎えた。
本土決戦に備えてたんだと思うけど、ある日、民家に部下と泊めてもらっていると、
どこからか部下が白米を持ってきた。「おい。これはどうしたんだ?」と聞くと、部下は笑いながら「中尉!秘密であります!」
じいさんもよっぽどうれしかったんだろう。
終戦後何日かたって、部隊解除が出て、汽車で山梨まで帰ったんだけど、広島に着く前、家々がこっちに傾いていて、広島はなんもなくて、広島の後は家が進行方向に傾いてたって言ってた。
まだ生きてるけど、老人性うつ病っぽくていらん心配ばっかしてて、頭脳明細で豪傑(一日一升飲んでたらしい)だったかつての面影も無くなっちゃった。
体はピンピンなんだけどね。。
みんなとうちのお爺ちゃん、お婆ちゃんに最敬礼!
353 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 20:47:41 ID:n2nWfW29
うちの祖父は満州へ出兵してたそうです。
あまりに寒く素手で銃身をさわると貼り付いてしまうとか
現地の人間は顔を洗うときに日本人みたいに水を流さないから日本人はすぐ判ってしまうとか
上官の印象を良くするために飯は人より早く食べ終わり上官の食器も片付けたとか
夜戦で光ったところを狙って撃っていたらもっとめくら撃ちしろと怒られたとか
いろいろ教えてもらいました。
その後肺炎を患い本土に帰還したそうで帰るときには戦友にスマヌスマヌと詫びていたそうです。
終戦頃には回復し7月まで広島にいて南方へ向かう船で終戦を迎えたそうです。
あのまま満州にいたらきっとノモンハン戦闘で死んでただろうなというのが口癖でした。
御蔭で今私がおります。
354 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 21:25:13 ID:CJ6RXZfG
355 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 21:42:33 ID:s+HrXiK4
数ヶ月前、駅前の居酒屋で一人で夕刊読みながらビールと晩飯食ってたら、
隣に冴えない爺様が一人で来て話し掛けて来た。俺はこの爺様、ウザイ奴だなと
思って適当に答えていた。ビールを何杯もおごってくれて、俺はふと、「おじさん!戦時中は何してたんですか?」と
聞いたんだよ。爺様は「俺は輜重兵で中国にいた」「毎日、馬に物資を積んで輸送していると
P51が編隊で機銃掃射をする。仲間と馬が多く撃たれてバタバタ倒れていった」
「ある日、2機のP51が機銃掃射をしていたら、突然、日本機が1機、(ゼロ戦と言うが
俺は陸軍機だと思う)そのP51に飛び掛って行くとあっと云う間に1機を落とし、パイロットは
パラシュートで脱出。残った1機はすぐ逃げたらしい。地上の兵隊は万歳、万歳の連呼!日本機は翼を
振って帰って行った」俺は脱出したパイロットはどうなったか聞いたら。
「うーん!」大きく息をしてから「皆で捕まえに行った.....」
生き残った兵隊達は脱出したパイロットを捕まえに追いかけて行ったらしい。
「そのパイロットは銃剣で串刺しだった。」悲しそうな顔で言った。
俺は「毎日一方的に銃撃されて手も足も出ないし、仲間も殺されて、それは当然ですよ」
「若い、色の白いパイロットだった。可哀相な事をした」と言った。
その後、無事に日本に帰って来た言うが戦後の苦労は並大抵の事じゃないだろう。
思わず、俺は「叔父さん!立派な活き様です。尊敬します。」と心から言った。
それから、その居酒屋に何度も行くんだが会わないんだ。元気で居てくれれば良いが。
その戦場は何とか湖近くで昭和19年9月頃らしい。誰か知ってますか?調べたが判らん。
もう一度、あの爺様に会って話をもっと聞きたい。
356 :
ぷらら:2006/11/28(火) 21:45:33 ID:x0OH7lv0
僕の父はなんか早稲田の理工系に入って戦争に出兵するのを避けたそうです・・・。
>>355 輜重隊への敵戦闘機からの機銃射撃など日常茶飯事なので特定は出来ないでしょう。
358 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 21:55:44 ID:s+HrXiK4
>>357 P51を撃墜したから判ると思うんだが?
>>358 思い出話というものは、撃墜されたのが本当にP-51であったのかという所から調べないといけないから中々大変。
輜重兵の戦記というものもないし。
360 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:05:17 ID:s+HrXiK4
361 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:11:00 ID:e5cZOWmk
これからは温泉とかで老人に会ったら積極的に話を聞いてみようと思う
>>361 空気読んで話かけないと怒り出す爺さんが多いから気をつけてな。
363 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:20:39 ID:+Ns+CfvR
爺様連中と話しても要領を得ない答えしか返ってこないときも…
なんか 映画独立愚連隊とかのイメージで話してる爺もいるような…
364 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:21:58 ID:Sw16ISCC
>>344 うちの会長(元2飛曹)と北陸道の小松空港近くを走っていた時、会長が
ポツリ、同期の何とか君は、ここから特攻に出たんだよ。 頭が良くて、
一番操縦がうまかった。と言っていた。 ホラは吹くが、嘘はつかないので、
本当だと思うが。 小松から特攻? でした。
社長と同じ年なら18,9歳。
因みに会長は、陸攻乗りで、詳しくは言わなかったが、桜花を吊ったことがあるようなこと
言っていた。 立派な人たちだったよ。の一言が印象的だった。
>>361 ふ〜んって聞くだけにしておけよ、おかしい所があっても絶対に指摘してはいけないよ。
366 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:27:15 ID:9MMLL1cQ
367 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:36:20 ID:m4MpF4IM
ウチのじいさまは砲兵として日支事変から始まって
仏領インドシナで軍曹として終戦を迎えたそうな。
支那は冬の行軍で馬の腹に氷柱ができるほど寒かったと言うし
ものすごく苦労してきたんだと思う。
それでなぜかパイナップルを取り分けるのがものすごくうまい。
缶詰のパイナップルみたいにきれいに切ってくれる。
なんでこんなにうまいのかと聞いてみると
戦争で部下に平等に切り分けるためにベトナムの現地の人の真似をした
それで覚えた…とのこと。
また、ほったて小屋の建設や左官工事などの土木技術が神懸り的にうまい。
終戦後は特にそのような仕事をしていたわけではないそうだが。
これも、戦闘にはほぼ参加せず道路建設などに従事していたためと
聞かされた。
日本の戦後の奇跡の復興の影には戦争でこんな技術を学んでき人々の
おかげかもしれない。
推敲ナシ乱文スマソ
368 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 22:42:12 ID:JqMc3O8T
うちの亡くなったじーちゃんは、横須賀で海軍の軍属として働いていたらしい。
詳しい仕事は分からないけど、下働きでそう重要な部門ではなかった
と話していた記憶がある。なのに、昭和19年になって突然陸軍に
召集され、前線へ出てすぐに重傷を負って後送。
結局、誰も殺さずに済んだと話していたなあ。海軍軍属でも陸軍に召集
されるなんてこと、よくあったのだろうか?
そういえば普段は絶対に台所に立たないおじいさんが、
小坊の頃夏休みのお昼に中華料理を作ってくれて二人だけで食べた事がある。
「おいいしいよ」って言ったら「そうかそうか」と言って笑っていた。
嫁(母)が嫁いできてからは料理をしなくなったそうだが満州の有名なホテルのコックだった。
>>364 自分の父方の実家が小松(石川県)なのですけどかつて祖父が
「大正の頃御先祖様が今空港になってる所の土地を海軍に売った」と言っていました。
詳しい事は良く分からないのですが祖父の言っていた売却時期が正確であれば、
大正年間に土地は海軍が確保していたことになります。
>>370 小松空港は戦中に軍用空港として開発したから。
>>364の疑問は小松から特攻部隊が発進したのかなってことだとおも。
372 :
名無し三等兵:2006/11/28(火) 23:19:21 ID:Sw16ISCC
>>371 364ですが、その通りです。
海軍なら主に鹿児島鹿屋を出撃基地にしていたし、日本海側で特攻があった
とは本などで見聞きしていないもので。
うちのじいちゃんに話聞いたら第二次世界大戦中自分は学生だったけど父親が
203高地に行って右足撃たれてほっとかれるところを
う〜う〜うなってたらほとんどの仲間がスルーするところ優しい味方が助けてくれたそうな
それ以来、あの人が助けてくれなければ我が家は終わってたなと言ってたそうです
ちなみにその人は長男で唯一の男だったみたい
消耗した721航空隊708飛行隊(通称神雷部隊)が20年春に小松で再編してますよ。
4月頃の作戦は小松から鹿屋基地へ進出し突入されています。
>>372 戦記に載っていない事も色々あったのが戦場。
376 :
名無し三等兵:2006/11/29(水) 00:15:14 ID:18nz0gBc
母親と爺ちゃん婆ちゃんが満州帰り。場所は「ころとう」?とか言うところ。
住んでいた家は戦時中でも鉄筋で暖房完備で、帰国したときに
日本の家がもの凄くみすぼらしく感じたらしい。
終戦後はロシア軍が進駐してきた時は、中国人に匿ってもらって
家の中に閉じこもって、日本語を話たらダメだと厳命されていたらしい。
満鉄の業務引き継ぎのために、しばらく満州に残っていて
終戦2〜3年ほどしてやっと帰国できたという話。
女だけど「戦争は結局やるか、やられるかしかない。綺麗事じゃない」と
男みたいなことを言うのを聞いたことがある。
父親は田舎の百姓の息子だったのでほとんど戦争の実感はないそうだけど
長崎の原爆雲を防空壕の中から見たことがあること、焼夷弾の明かりが
放物線を描くのが印象に残っているらしい。
余談だけど、終戦を一番多感だった15歳で迎えたから、終戦後のマスコミ
教員、政府の変節ぶりに今でも不信感を持っていて、政治家、評論家、マスコミは
右でも左でも絶対に100%は信用しない。特に筑紫は大嫌い。(母親も)
戦争の話は断片的にしか聞いたことがないので「らしい」ばかりでスマン。
爺ちゃん婆ちゃんはもう死んでしまったけど、このスレが良い機会だから
両親にきちんと話を聞いてみたいと思う。
葫芦島かな
引き揚げ船とかで有名だが
378 :
名無し三等兵:2006/11/29(水) 00:58:44 ID:/CUQr6AE
俺の祖父は全く戦争の事を喋ってくれない。
だが、祖母から聞いた話だが…
かなりの海軍上層部だったらしく、何人もの部下を港から無謀な作戦に送り込んだそうだ、今でも祖父は死んだ兵士達に申しわけない気持を背負いながらいきている、今は老体で行けないが…
まだ若い頃にはその基地があった港街へ終戦記念日には慰霊へいき 海に向かって敬礼をしていたらしい、ある日自分は戦争の話を祖父に聞いたところ 戦争の話をするのは自分が死ぬ時に遺言として、そして二度と戦争を起こさないように後世に話なさい、と言われました。
379 :
名無し三等兵:2006/11/29(水) 01:12:04 ID:DBlVxB11
俺の祖父は、潜水艦乗りの職業軍人でした。終戦時には、トラックにて向かえたそうですが、どんな部隊なのかはっきりわかりません。
知っている方がいるのでしたら、教えていただけたら・・・・
祖父は10年前に他界され、詳しいことは聞いていませんが・・・・
>>379 トラックには、いろいろな人が取り残されていたので、断定はできませんが、
一可能性としては、潜水艦「伊14」の乗員というのが挙げられます。
終戦直前に、ウルシー泊地偵察用の彩雲艦偵をトラックに輸送(「光作戦」)して、
そのままトラックに停泊して終戦を迎えています。
うちの爺ちゃんは戦争時代、実戦参加は一度も無かったのに三回も
死にかけたって笑い話にしてた。爺ちゃんは19歳の数ヶ月だけ徴兵されたそうな。
一度目の災難は、トンネル工事してて崩落事故に巻き込まれたこと。
爺ちゃんが居たのはトンネルの割と奥のほうで、工事道具や装備を持ってると
脱出できないと思った爺ちゃんは、とっさに手荷物全部捨てて逃げた。
同僚は荷物を捨てずに走って、逃げ切れなかった。
結果、爺ちゃんが居た辺りで生き埋めにならずに済んだのは爺ちゃん一人だけだった。
二度目の災難は崩落事故の時に装備やら道具やらを捨てて逃げた罪で
拷問にあったことだそうな。徴兵された素人軍人として工事作業してたわけで、
同僚たちは皆誇り高く死んでいったのに、お前は自分の命欲しさに
天皇陛下から頂いた装備や道具を一切合財捨てて逃げたな!ということで
リンチされて自力で立てないくらいの怪我をした状態で
座ることも出来ない狭い独房に何週間か拘禁されたそうな。
これは怪我のこともあって、一番キツかったらしい。
三度目はアメリカの本土上陸があるかもしれないというのが真実味を帯びてきた
終戦間近、関東(千葉県?忘れた)で上陸の可能性があるという場所で
地雷を背負って戦車が上を通るのを待ってたそうだ。
で、地雷を背負った状態で終戦の知らせを聞いた、と。
地雷背負うの嫌じゃなかった?って聞いたら
「嬉か無かったし嫌は嫌だったけど、皆が家族から兵隊出してた時代に、
自分はこれは嫌だやりたくないとか、そういうのは無かったな。」
「だが崩落の時に荷物ごと埋まるのが誇り高いだのは馬鹿ばかしいと思った。」
「結局、一度も前線に行かなかったし空襲にもあわんかったから
三度死にかけたって言っても、ずっと運がいい方だな。」って感じだった。
戦前は裕福な家だったらしい。
昭和19年に徴収された爺さんは小学校の先生だった。
死を覚悟して記念写真を撮って親戚一同に配っていったが、
入隊した先ですぐ除隊されて帰って来た。
第3師団工兵隊。豊橋に基地があったから18連隊配下かと思ったら違った。
工兵隊は師団直轄。シナ事変で上海近郊へ敵前上陸。海岸で苦戦。
次にゼークトのドイツ式陣地に苦戦。大場鎮の戦いは豊橋近辺の年寄りの間で有名。
連戦の後南京へ。渡河作戦は工兵の出番だった。
例の虐殺の時、河に死体が流れてきたというが、祖父は特にそういう話はしていなかった。
死体が流れ着くくらいは当たり前だったのか、ま、何とも言えない。
その後一旦除隊するが、大東亜戦争末期に再召集。
18年末に召集、再訓練を受け19年にフィリピンへ。何とか輸送船はたどり着いた。
狭い船内は居住性が悪く、潜水艦に怯える日々だったそうだ。
ミンダナオ島でジャングル戦。壊滅後は逃げながら食い物を探す毎日。
アメリカ兵がテニスをして遊んでいるのを見たそうだ。
終戦でダバオの収容所に。舞鶴で復員。
そこで誰一人「ご苦労様でした」と言ってくれなかったことに激怒。
384 :
名無し三等兵:2006/11/29(水) 19:52:37 ID:r/co1Jt5
良いスレだな
俺の場合中年なので、親父の話だけれど勘弁してくれ。
親父は、九州の築城基地で終戦を迎えた。
零戦のパイロットだった。もっとも、実戦に出る前に終戦だったのだが。
実戦の場といったら、特攻しかない。そんな時期だった。
ちなみに、パイロットは養成に時間がかかる。だから助かったとも言えるのだが。
実際、親父の同期でも(甲飛13期前期)訓練期間が短い偵察の搭乗員は、結構特攻で死んでしまっているそうだ。
築城基地は、特攻の前進基地でもあったので、グラマンがしょっちゅうやってきたという。
一度、近くで爆弾の爆発を食らい、爆風で吹っ飛ばされて茂みの中で気絶していたという。
ふと気付いた時、身体全身に霜が降りていたと語ってくれたっけ。
身体は血まみれで、ふくらはぎを破片は貫通して、背中にいくつも破片が食い込んでいた。
治療を受けている間、訓練ができないことが苦しかったとのこと。
385 :
384:2006/11/29(水) 19:56:30 ID:r/co1Jt5
親父はウナギを食べない。
俺の住んでいるところは、ウナギの名所なのだけど絶対に食べない。
友人の死体をむさぼり喰らうウナギを見てから、決して食べまいと心に決めたんだって。
俺達にはうかがい知れない世界を、当時の人たちは生きてきたんだろうなあ。
387 :
名無し三等兵:2006/11/29(水) 20:57:06 ID:pPQuI5xt
こんなスレがあったんだね
折りを見て
父と祖父の話するわ
祖父はアッツ島から帰ってきたそうなのですが・・・。
大工で軍属だったそうです。
足に敵の照明弾を喰らい、大火傷をしたそうです。
何分無口な人でしたから父や伯父たちも詳細はよくわからないそうです。
>>388 負傷により玉砕前に後送されたのか、戦闘中に人事不省状態で捕虜になったのか…
しかし武運の強いお方ですね。
>>388 >大工で軍属だったそうです。
父方の祖父と同じだ。
行ったのは南方ですが。
391 :
384:2006/11/29(水) 23:04:06 ID:r/co1Jt5
親父はよく、訓練の話をしてくれた。
座学のあと、いきなり赤とんぼに乗せられて空中に上がり、後席の教官からいきなりバットでド突かれたこと。
モールス信号の読み取りに必要な集中力について。
この出来不出来で偵察と操縦が別れたとも言っていたな。
きりもみ訓練で、下手な教官と組まされてきりもみから回復できなくなった時の恐怖。
ぐるぐる周りながら地面が近づいて来る。後席でも教官が狂ったように操縦桿を動かしていたそうだ。
もう駄目だと思った瞬間、突然回復できたのだがそれは地上すれすれだった。
機体から降りて、いきなり数発殴られた・・・
当時のパイロット達は、やろうと思えば裸電球をまばたきせずに5分以上見ていられる精神力があったという。
涙をぼろぼろ流しながらも。
特攻については、フィルムなどを見る時「可哀相に、可哀相に」と繰り返し言っている。
最後の特攻をした宇垣中将については、「パイロットが可哀相だ。逝くならば一人で逝けばいいんだ」と、ぼろくそに言っていた。
死んだパイロットは、優秀な人が多かったそうだ。
392 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 01:31:30 ID:AAA3hwzO
おれのじいちゃんは南方のニューギニアにいった。サルミに上陸したらしい。
とにかく食べるものがなくて、コオロギとか蛇とか平気で食べたらしい。
煙を上げると米軍に見つかるんで、煙を上げないように気をつけて暮らした。
目の前で輸送艦が撃沈されたのも見たと。そんなおじいちゃん、のいた小隊は、
おじいちゃんを除いて隊長ともう一人だけしか生き残らなかった。
おじいちゃんは、たまたま軍輸送用車に轢かれて、後方の野戦病院(ともいえないような洞窟)
にいたから、奇跡的に助かったみたい。いろいろ聞いたけど、もっといろんなこと聞いておきたかったな。
98年に亡くなっちゃったけど・・・・無事に復員できたから俺がいるわけで、感謝でいっぱいです。
南方から帰還した方の話はいつ聞いてもズシンとくる
うちのじいちゃんはシベリアに抑留された。
小さい頃は戦争で死んだと聞かされていたから、なんとなく銃で撃たれて死んだじいちゃんを想像して
いた。
あるときばあちゃんが命日だといって神棚(うちは神道)を拝んでいた。
そのときに死亡通知(だっけ?)を俺に見せてくれた。
死んだ年が昭和22年だった。
その頃には昭和20年に戦争が終わったことは知っていたので不思議に思ったものだ。
ばあちゃんも親もロスケは相当に嫌っていたな。
じいちゃんを亡くして、農地解放で耕作地を減らされ、女手ひとつで娘3人を育て上げたばあちゃん。
華々しく散った軍人さんもいただろうが、そんなばあちゃんみたいな女性もたくさんいただろう。
ばあちゃんも90を超えたがまだまだ元気だ。
ひ孫の数が12人にもなった。
穏やかに暮らして欲しいと思う。
オレのジジイ、シンガポールだかマレーシアだかに行ったそうだ、南方じゃ食い物がなかったってよく言われてるけど、なんでも芋が沢山あって飢えはしなかったと聞いて以外に思った記憶がある。
でも、なんて部隊に居たか聞いたら、近衛師団?がどうこう言ってた記憶があるのでちょって今考えると胡散臭い気がする…
397 :
383:2006/11/30(木) 02:29:33 ID:???
>>386 ありがとうございます。祖父も喜ぶでしょう。
しかし、ま、祖父も軍には不平タラタラでした。
先輩兵士はむちゃくちゃですからね。体育会系の世界。
ただ、士官は割と好きだったみたいです。
「へらへらしている」という理由で殴られるわけですが、「うちの兵隊に何をするか!」だか
「天皇陛下の兵士を勝手に傷つけるな!」とかと言って止めてくれたそうです。
よっぽど嬉しかったんですね。何度も聞かされたエピソードです。
部下からはよく年賀状が届いていましたね。やさしいから慕われたんでしょう。
戦後の米兵による強姦や略奪にはどう対処してたんざんしょ=帰還兵
399 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 07:35:59 ID:/uV3e1sP
うちの爺様は徴用で陸軍として満州へ渡って従事したと教えてくれました。
勿論、有名な南京へも行ったそうです。
無知で未経験な現場指揮官が来る度に
戦場で仲間達と現場指揮官を撃ち殺したそうです。
皆が生き残る為にには必要だった…
全滅を免れる為には指揮官を殺す以外に方法はなかった…
と、教えてくれました。
爺様が亡くなるまでに爺様の戦友も近所にたくさんいらっしゃったので
爺様の話と戦友方の話もたくさん聞いたのですが当時、南京に皆、行っていたのですが
ショッキングに騙られる事もなく、一般市民に成りすました便衣兵に手間取ったと聞きました。
一般市民を殺すワケにはいかないので日本兵にも被害が大きく、支那人は卑怯者だと皆さんが
口々に申しておりました。
そんな爺様も自身の身に3発の弾を受けて何度か生死の境をさ迷ったそうで
酒に酔う度に勲章の様に私に何度も自慢げに見せてくれました。
私の事を一番可愛がってくれた祖父が亡くなって10年以上なりますが
「じいちゃん、俺、元気だよ。お袋はじいちゃんのとこに先に行ってしまったけど…
あんなに仲悪かったおやじとも今では一緒に暮らして憎まれ口を互いに叩きながら仲良くしてるよ。
じいちゃんの形見の腕時計とボンボン時計…お袋がじいちゃんのとこに行ってから動かなくなちゃったよ。
誰にも触らせたくないから大事に保管してます。」
>>396 近衛師団(後の近衛第二師団)は、マレーシアとかジャワ方面にいるよ。
ということは、毎度のことながら美男子なのでしょうか?
ひいじいさんが日露戦争での旅順戦の生き残り。
おじいちゃんがニューギニアの生き残り。
オーストラリアの兵隊は脂身が多かったが美味かったそうだ。
403 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 09:17:07 ID:06SKmGxR
>>400 オレの目がおかしくなけりゃ…
まあ昔はイケメンだったのかもしれんが…
404 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 10:58:59 ID:uhVrHqbW
父方の祖父が戦時中、中国で描いていたノート(メモみたいなものを
後から綴ったもの?)を見たことがある。
子供の頃なので初きり覚えていないが筆か鉛筆で風景や人物、植物などが
のんびりとしたタッチで描いてあった。
場所や日付もあったから、残っていれば結構な資料になったかも知れないのに、
本家の人が残念ながら処分してしまった(何でも地元の研究者から出版の相談
も会ったらしい)。
うちの祖父の場合。
背格好が華奢な祖父は赤紙きて出兵。
詳しい配属は海軍ということしかわからないけど
フィリピンの海戦で囮のほうの部隊・・・マニラ湾だったかな?に行って
幸いなのか負傷して戻ってきたそうです。
その部隊はフィリピンの海戦で全滅したそうだから戦友会が一度もなかったそうな。
ちなみに祖父の兄弟で祖父以外の3人も南方の激戦地いって全員帰還。
強運一家なのだろうか。
406 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 13:13:09 ID:VxQ1+5p3
>>164 最も統率のとれた軍隊の見本、日本軍
↑
悪いミートソースはいたwww
407 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 14:06:33 ID:oq9T2Ufn
408 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 14:07:20 ID:oq9T2Ufn
厨獄軍と比べれば、のハナシだが
409 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 15:29:46 ID:VvofSfj4
インパール作戦からの帰還者って結構いるのかな?
>>410 お隣のお爺さんがそうでした。
英印軍から食らった凄まじい砲撃のさまを
面白おかしく話してくれたなあ。
>>406 上官の命令で命まで差し出すのだから
統率は取れているだろう。「最も」が何にかかるか不明なので関わりたくないが。
否定したい人はどこのが上かためしに挙げてみる?
>>405 栗田艦隊は主攻で小沢艦隊は機動艦隊に対する囮役として外洋で行動したから…
助攻としてレイテ湾に殴りこんだ西村艦隊か志摩艦隊の所属艦に乗っていた方ですか?
415 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 19:21:48 ID:D1oH/S7o
>>399 >>無知で未経験な現場指揮官が来る度に
>>戦場で仲間達と現場指揮官を撃ち殺したそうです。
>>皆が生き残る為にには必要だった…
嘘だと思うよ。ばれれば日本に帰れるはずがない。
それなら死んだ方がまし、と考えるお百姓さんが殆どだったはず。
子供のときから行ってる行きつけの床屋で、大学の工学部で、電気系の学科に入った
と話していたら、時々一緒になる爺さんが話してくれた。
爺さんは戦中に観測兵?で電探(今のレーダー?)を扱っていたそうで、
とにかく真空管のあたりはずれが大きくて、いい真空管はいつまでも持つが、
ダメなものはしょっちゅう切れていたそうである。
そのほかに、電探の送信機と受信機が分かれていて、周波数が合わずに受信できないこともあったそうだ
状況によっては他の隊のものと交換して合うやつを探したりしていたらしい
大学入りたてのときだからもう生きていないだろうな。
群馬県の桐生という所にはアメリカのスパイが大勢潜んでいたのだ。
リハビリでよく行き会うじいさんはいつも勝手にしゃべり出す。
当時桐生には軍服の縫製施設など、ノコギリ屋根の工場が数多くあった
のにバクダン一つ落ちなかったそうだ。そして何人かのスパイは
警察署の裏をアジトにして近隣太田市の軍事工場の機密情報などを
日々送信していたそうだ。スパイは戦前から潜伏していて鹿児島?で
繰り返し訓練されていた真珠湾攻撃にみたてた演習の情報も桐生から
送信されていたんだって。本当か憶測なのかは不明であるが...
418 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 20:27:24 ID:7NkDXMsp
>>417 桐生は紡績の関係で朝鮮人のスパイが多かった。戦後、パチンコ機械のメーカー多い。
桐生銀行などはつい先頃迄、国内唯一の北朝鮮送金銀行です。
419 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 20:33:13 ID:7NkDXMsp
ロッテの重光と名乗ってる朝鮮人は戦後、直ぐ進駐軍の横流し物資利権に
入り込み現在の基盤を作り財をなした。国際興行も同じ!
戦前からの協力者だからこそ出来た事!
現在のイラクでも同じ!協力者には戦後のご褒美が貰える事です。
420 :
名無し三等兵:2006/11/30(木) 21:06:22 ID:qW1AWJyK
>>417 母方のばあちゃんは桐生の軍需工場で働いていたそうだ。
爆弾は落とされなかったが、グラマンから機銃掃射をうけた事があるっていってたなぁ。
>>418 「桐生銀行」ってなんだよ。半島送金は「足利銀行」だろ。
422 :
名無し三等兵:2006/12/01(金) 00:14:44 ID:4GTyktXt
うちの曾祖父は戦争中商船乗りだったが、乗ってた船が潜水艦に沈められ帰らぬ人に。陸海軍の南方における活躍の影にはこれら商船乗り達の貢献があったことも忘れないでほしいと祖父は言っていた。
母方の爺様が中国大陸で戦車乗りとして戦ってたって言ってた。
引き上げの時に、シラミが沸いて大変だったって言ってたな。
県内では3人位しか戦車乗りはいなかったって言ってた。
80歳だけど、現役ドライバーで、免許も大特とか2種とかほとんど持ってる。
>>421 足利銀行の元・頭取さんって元・戦車将校だったんだよね・・・
つい先日、他界されちゃったけど。
>>422 この前、『昭和のポスター展』みたいなのがあって見に行ったんだけど、
戦前の日本郵船や大阪商船のポスターとかも展示してあったんだ。
浅間丸や志あとる丸、蓬莱丸のポスターを見て、
「ああ、ここに颯爽と描かれている船は、今は海の底なんだなぁ...」
と思うと、涙ぐみそうになった。
でも回想録とか読んでると現場の司令官も後ろから狙われないように
あんまり厳しいこと言わないようになったって言ってる人もいたなぁ
ほとんど末期の話だけど
部下に無茶な命令を出せる人ってのが人間的に魅力があって部下から慕われていた、って場合もあるね。
インパールのときに部下を撤退させて軍法会議にかけられたなんとかって人もいたけど
あの人は尊敬されてたよな
429 :
425:2006/12/01(金) 15:45:46 ID:4GTyktXt
>>422 軍艦もいいけど、商船にもかっこいい船はいっぱいあるよね。特に外国航路の客船なんかは外国人が乗っても恥ずかしくないように外観や内装にこだわった船が多い。まあ今でもそうだけど。
私の父方の祖父は戦争の事を孫には絶対話してくれない。
だから、戦後に生まれた幼い父が母(祖母)や近所の人から聞いた話になる。
祖父は地域の大店の番頭さんをやって家族を養っていた。
住んでいた地域はとても田舎で、戦時という雰囲気はないような山村。
しかし、その集落にも赤紙が届いて、一気に働き盛りの男が召集された。
妻(祖母)や親族の老人や女・子供達は徴用で横浜へ行った。
祖父は会津の陸軍?学校へ入って訓練生活に入った。
そこでは夜間に山中行軍訓練をやっていて、ある日祖父は足にマメを作った。
「何のこれしき!」と仲間にも絶対の秘密にして夜間行軍を続けた。
マメが痛くて仕方ないが教官も怖いし、数日後に部隊は戦地への移動が
決まったので、今は痛さを我慢して戦地で華々しく活躍するつもりだった。
が、訓練中の整列であまりの痛さに真っ直ぐ立てず、気絶してしまった。
マメはひどく炎症を起こしていて、一部は壊死しかかっている状態。
軍医と上役に「お前は足を切断したいのか!」と叱られて、祖父は
「お願いします、見逃してください。みんなと共に明日戦地へ行かせて下さい」
と懇願したが、軍医と上役の許可はとうとう下りなかった。
翌日、ベットに縛り付けられた祖父は、涙を流しながら仲間達を見送った。
数日後、仲間達が乗った輸送艦が魚雷か敵攻撃で撃沈した事を知った。
そして、足を負傷している祖父は「用無し」とされ、地元に返された。
地元の若者も同じ会津へ行っていたから、一帯の若者は皆「戦死」してた。
会津から帰ってきた祖父は「根性なし」「逃亡兵」と囁かれる生活が続いた。
>>431 続き
戦況が悪化し、再び祖父へ赤紙が届いた。祖父はこれを泣いて喜んだ。
「これで自分も国の役に立てる。死んだ仲間に詫びることができる。」
しかし、配属先は山形の訓練校での教官役だった。人手がない陸軍は、
祖父の会津生活を「軍隊経験アリ」と判断して、指導側にしたらしい。
落胆したが、最後の時は自分も出撃できるだろうと思いなおした。
針の筵のような地元での生活から逃れるように、祖父は山形へ行った。
山形での生活は自分が思っていたものとは違うものだった。
本当に若い、子供のような少年。しかも訓練期間はわずかばかり。
ろくな訓練も受けさせず、若い命を戦場へと送り出すのが仕事だった。
南方へ向かう船は撃沈され、戦地に辿りつけない事実は言えなかった。
やがて終戦を迎え、再び地元に「帰還」した。
その町から出征した人は、ほとんど帰って来なかった。
祖父は二度も生還した。罪も無い若者を死の旅へと送り出した。
それを生涯、悔いた。恥じた。罪悪と思い続けた。
会津の仲間は皆、戦死してしまったから、戦友会もない。
卒業校の同級生で生き残った男子生徒は祖父ら数人しかいないので、
女子ばかりなので同窓会に出たこともない。(皆、方々で戦死した)
あの日、もう一日だけ祖父がマメを我慢して戦地へ赴いていたら、
自分は今、存在しないのだろうね。本当に激動の時代だったのだろうね。
433 :
名無し三等兵:2006/12/02(土) 05:21:43 ID:F0ogIHn8
>>432 いやさ、なんかあなたの親父さんのフィルターを通っているからなのか、
戦後自虐教育の成果を文の端々に感じるんだよな。
不快になった。
特にこのあたり↓
本当に若い、子供のような少年。しかも訓練期間はわずかばかり。
ろくな訓練も受けさせず、若い命を戦場へと送り出すのが仕事だった。
南方へ向かう船は撃沈され、戦地に辿りつけない事実は言えなかった。
罪も無い若者を死の旅へと送り出した。
それを生涯、悔いた。恥じた。罪悪と思い続けた。
じいさんが死ぬちょっと前に話してくれたんだけど
じいさんの所属してた部隊は最初中国人をみだりに殺さなかったらしいけど
「自分たちが中国人に捕まれば拷問されて死んだのに、何で俺たちが殺して悪い」
という感じで復讐半分面倒臭いの半分で捕虜採ったりしなくなったらしい
で、じいさんいわく
「中国もたくさん殺しただろう、こっちは1万、2万しか殺してないぞ」
中国は戦勝国だからいくらでもでっち上げできるんだよな・・・
435 :
名無し三等兵:2006/12/02(土) 05:34:03 ID:KfqvtI5Z
うちのじーさまは、戦中は海軍だったそうな。ただ、終戦直前でほとんど何もしなかったそうな
もうちょっと早ければ、自分は特攻に行っていただろうといっていました。特攻で乗るものすらなかったそうな
戦後は中国への艦船引渡しと朝鮮半島での機雷掃海をやった後、海事に入ったそうな
そんなじーさまもついに今年、老衰で帰らぬ人になってしまった・・・
死の直前には戦中の仲間が迎えに来たといっていたそうな・・・
つーか支那人は自国が混乱すると自国民同士で平気で虐殺して皇帝になろうとするからなあ。
>434
テロリスト相手の戦争と同じ感じだな。
最初は人道仁義、色々考えてても
極限状況が煮詰まればもうめんどくせーって
なっちゃう心理は理解できる。
戦時中、私の祖父は京都大学の数学科に所属していた。
本人曰く、数学科では五本の指に入ったとか何とか。
戦争が始まった翌年の1942年に卒業予定で、卒業したらどこかに志願しようかと迷っていた、ある日、教授に呼び出されて、軍の暗号解読の手伝いを一緒にしないかと言われ、そのまま賛成。
教授と同期の卒業生数人とそのまま軍属になり、1944年の10月までは暗号解読をやっていたそうだ。
その後は、人手不足から無線基地に配属され、終戦まで無電を叩いていた。
学徒動員の話を聞いた時は、胸が痛くなり、仲間内で一緒に志願しようなどと言う話もあったが、教授に一喝され思いとどまったそうだ。
>>434 降伏する意思を示しても、捕虜としてとるかそのままやっちゃうかは
現場の判断でOKじゃなかったっけ?(ジュネーブ条約的に)
中国人全員に降伏されて捕虜にせにゃならんのじゃ日本破産だわ
投降の意思を示したものを、捕虜とするかどうかは、相手方の自由では?
ただし、捕虜にしない場合は、そのまま放置しなきゃいけない。
この辺は、いずれも明文はないが当然の前提でしょう。
国際法は、こういう慣習による部分が大きい。
捕虜として捕まえなければ殺してよいというのでは、いかに捕虜の権利を定めても無意味。
中間的な処理としては、一旦捕虜にして武装解除した上で、誓約させて解放という手段が、
これは明文として1929年ジュネーブ条約なんかに規定されてる。
それと、もうひとつ中間的処理として言われるのは、
捕虜としておくことにより、自分の側が危険に晒されどうしようもない場合、緊急避難的にとる相当な手段。
これは明文がないが、解釈として定着していると言ってよいよう。手段には殺害も含む。
ただし、あくまで例外的な違法性阻却。
たんに迷惑だから殺すというのを認めれば、捕虜として値打ちがなきゃ殺されちまう。規定の意味なしだ。
とまあスレ違いなので
>日本軍の捕虜となった米兵たちは
>
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1162989312/ 続きはこの辺で振ってみたほうがよい話題でしょう。
すまん、記憶モードで書いてたら、間違えた。
1907年のハーグ陸戦協定に、明文規定があった。
投降の意思を示した敵兵は殺傷してはいけないし、捕虜をとらない宣言ももちろん禁止。
明文上例外規定はない。
しかし慣習法上緊急避難的な違法性阻却があるかについては、議論がある。
ただし、別号(ト号)にあるような明文がないことから、認められるとしても極めて限定的。
締結交渉に際して、原案の明文規定が削除されたという成立過程から、一切否定する見解も有力。
23条(禁止事項)(注:一部のみ引用。現代仮名に修正し、句読点追加。)
ハ、兵器を捨て、又は自衛の手段尽きて、降を乞える敵を、殺傷すること。
ニ、助命せざることを宣言すること。
ト、戦争の必要上、万已むを得ざる場合を除くの外、敵の財産を破壊し又は押収すること。
443 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 14:31:02 ID:SGlGXwvc
うちのじいちゃんは戦争時若かったが将校だったらしい
陸軍所属で外国には行かなかったみたい。
将校でも若いから軽く見られる事があったようだが
ある時、上からの命令で訓練?かなにかで船?に乗れと命令が来たそうだが
じいちゃんには気象学の知識があったからこの天候では出られないと言い張ったそうな。
結局じいちゃんの部隊は参加しなかったその訓練?(俺の記憶が曖昧)で
八甲田山に次ぐ事故による死者が出たと言っていた。(誰か知ってたら教えて。)
それ以来部下もじいちゃんの言う事を良く聞くようになったとか。
後は終戦間際沖縄に決死の覚悟で乗り込もうと言う時に誰かに
軍靴盗られたと言っていた。「これから死にに行くのに靴盗んでどうするんだ?」
と思ったとか。結局その前に戦争は終わったって。
今でも健在のじいちゃんの話。
陸軍で中国に行っていた母方の祖父曰く
「飯が不味かった あんなのより雑草の方が美味い(マジ泣き」
446 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 21:22:39 ID:ppImBWBj
時々競艇場にいくんだが、競艇場には年寄りも多い。
そこで知り合った爺ちゃんはラバウルに行ったそうだ。爺ちゃんは『ラボール』と発音してた。
ある日の戦闘中ふと上空を見ると戦闘機が撃ち落とされたので、よく見ると日の丸が見えたと。その瞬間涙があふれたそうだ。
また洞窟のような場所の入り口で立っていた時、後ろでいきなり爆発があって中に居た連中がやられたと言ってた。
その爺ちゃん90歳くらいになるけど今でも自転車で競艇場に来るほど元気だ。
死んだじいちゃんが言ってた事を気になったので質問してみる
うちのじいちゃんは福島県の浜通りの人間だったんだけど、
「うちらのとこからはガダルカナルに行った人が多くてな、
だから帰ってきた人が少ないんだよ。福島は南方送りだった」
とよく言っていて。
徴兵で陸軍送りの場合、出身地によって配属先に偏りってあるんですか?
日本の徴兵制度では本籍地の連隊区で徴兵検査を受けて召集時には基本的に
地元の部隊に配属されます。
福島だと仙台の第2師団ですね。
ガダルカナル戦だけでなくインパール戦にも参加してたかと
どっちも負け戦なんだから大阪の部隊で十分だったのに。
歌われるほど悪い戦歴でもないと思うのですが<第8、37連隊。
あー母方の従兄弟、16師団所属だったんだ…
4師団だったら生き延びれたのに…
451 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 23:36:53 ID:CuSaYWon
俺東京の人だけど関西とか沖縄の人ってさ敵に回すとスゴい恐いけどなぜか味方にすると頼りない印象ww 昔から東北は勤勉真面目、中国は仲間を見捨てない、九州は男らしい勇敢、四国は賢い事務が得意、北海道東京はノンビリ反抗する、というのが兵隊の間で言われたとか。
中部と北陸は?
アメリカ側から見ると、言葉は悪いがわーっと決死の覚悟で突っ込んで来る日本兵相手は
楽だったとか。大阪の部隊みたいに散り散りになるほうがやっかいだったらしい。
北海道にバイクで旅行に行ったとき、斜里という街で釣りをしてたらご老人が話しかけてきた。
戦時中は毒ガス部隊にいて中国で戦ったそうだ。「独立部隊だったんだ、すごいだろう」といっていたが
失礼ながら、どうすごいのかわからなかった・・・
455 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 01:11:48 ID:qMiwhUFY
沖縄の俺が来ましたよ
(っても福岡と沖縄だが)
沖縄は優しさと雰囲気で人を和ませる
これは日本一だと思うよ
で、話をスレに戻すと祖父は中国戦線にいた
丘陵部にある敵陣地攻略での戦いは壮絶だったそうな
その後、沼地での戦いで部隊は壊滅
中国軍に包囲され
最後は死んだふりして事無きをえたそうだ
456 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 03:03:14 ID:iFb8E826
うちのじいさん(故人)は 陸軍『楓4256部隊第4中隊』所属でした。任地はニューギニアの近くの「ハルマヘラ島」だそうです。
誰か同じ部隊だった人いますか?
457 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 04:30:33 ID:C0Wsgdul
祖母の弟の話。陸軍爆撃機乗り。
ノモンハンで撃墜され敵支配地に不時着して夜陰に乗じて味方陣地に逃げ帰った。
インパールでも撃墜され敵地に落ちたが親日派ゲリラに助けられて帰還。
幾多の出撃でいつも生還して、不死身の○○(名前だが伏字)と称えられ、
しかも、美男子でハンサムで、浜松や鉾田の地元の娘にモテモテだったらしい。
そんな彼が「今度ばかりは還れないかもしれない」と漏らしていたのが、
硫黄島侵攻の米艦隊を攻撃する靖4号作戦の時。結局出撃して帰らぬ人に。
最後の戦果がどんなのだったか気になる。
親戚中では、叔父なんかもその叔父に憧れて航空隊を志願して
毎日、赤とんぼで、特攻の練習をしてたが終戦。
458 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 05:39:15 ID:nx3upT3o
俺のじいさんは身長143センチ。兵隊にはとられませんでした。
だからゆっくりと酒を楽しみながら戦況を伝える新聞を読んでたらしい。
だが、末期に徴用され、軍属として朝鮮に。
そこでは軍馬の世話係で、馬のうんこを毎日とっていた。糞まみれであったという話。
まぁ戦場に行かなくてよかったのだから、勝ち組か。
赤紙で徴兵されて兵士として大陸に渡ったけど職人としての腕を買われて一度も戦闘を経験せずにずっと満州で建築現場で働いてたらしい。
そんな事ってありえんのかな?
うちの爺さん俺が物心つく頃にはボケて会話の出来ない状態だったからようわからんのだ。
あっそういえばもう一つ。
親戚のじいさん、といっても今生きていれば100歳ぐらいだろうが、二等兵から准尉まで上がった人がいた。
中国大陸で戦闘中弾が足に当たってもはや歩くことが出来なくなったとき、もう死ぬのかと思って
故郷日本の方角を向いて目を瞑ったとき、何やら首が持ち上がったらしい。
目を開けて見てみると軍馬が襟首の軍服を噛んで安全な所まで連れていってくれたそうな。
そのじいさんは常に、「わしは絶対に馬刺しは食わん!」と言ってたな。
馬の置物を大切にしていたらしい。
動物は大事にすべきだな。
田舎だったので近所で元英語の先生という老人が開いてる塾があって
そこに行ってたのだが、英語ができたおかげで満州で捕虜になったときに
楽な仕事に回してもらえたと言っていた。ソ連の役所か事務所のペンキ塗り
をしてたらしい。
私の祖父は戦前に結核を患ったので招集されなかった。
戦中は他の方を要所に送る車の運転手をしていたそう。
昔取引先の印刷屋のオジサンは、
三菱の養成工で実習中の事故で片目失明状態だったのに徴兵され、
ラバウルで衛生係をしていたと。
警備中に草むらでガサゴソ動くので、「誰か!」と誰何したところ、
「俺だ!」と立ち上がったのは、上官の軍医だったのでビックリしたそうな。
部下を大切にし、蚊の発生源となる草刈りを自らする立派な人物だったらしく、
帰還後も尊敬し、交流していた。
俺の祖父は陸軍中尉(中佐?記憶があいまい)だったそうで、
終戦時でだいたい30歳くらいかな。
で、大阪城で通信士?通信兵?をやっていたらしい。
具体的にどんな任務を任されていたのかとか、
当時の大阪城がどういう機関だったのかは不明なんだよね。
詳しい人がいたら教えて欲しいです。
>>大阪城
敷地内に中部軍管区司令部、第四師団司令部。
周辺に大阪陸軍造兵廠。
466 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 12:42:10 ID:C9KFNn1v
大阪城には第4師団司令部があり、その周囲に歩兵8聯隊、37聯隊、輜重兵聯隊が駐屯していました。
「大阪城で通信士」というのは、師団司令部か、あるいは師團付属の通信隊に勤務していたということでしょうね。
終戦時30歳というと、中佐にはちょっと早すぎ、中尉にしてはちょっと年寄りすぎ、なので、たぶん予備役応召なのではないかと、思われます。
>>457 夫の父と同じ部隊かもしれない。
姪が青山学院出身の人と結婚式を挙げたとき、田舎から出てきてうちに泊まった。
その時、青山と言えば…と義父の昔語りが始まった。
浜松の飛行場から硫黄島の攻撃に二人乗りの爆撃機五機?で出撃し、爆弾落として来た。
打ち落とされたのもいて、帰還の途についたのは二機だけで、しかし一機、途中で行方
不明となり、義父の乗った飛行機だけ帰り着いた。帰りに飛行機から見た富士山がとても
きれいだった。その時行方不明になったのが、青山出身のやつで、おしゃれで洗練された
感じのいいやつだったなあと。
しばらく前に聞いた話だし、あまり本気で聞いていなかったので、細かいところは違っている
かもしれないけれど、浜松、硫黄島、青山出身の人、あたりは確かです。
ちなみに義父は84歳、健在です。
468 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 13:50:32 ID:oK6r+4To
うちの祖父も郵政省勤め→通信兵だったらしい。
直接ではなく自分の父から聞いた話だが沖縄に通信兵としていたが
指をケガしてかえらされたらしい。(無線でつーとんとんができないからとかそんな理由かな?)
そのケガがなかったらお父さんもみんなもうまれてないんだよ。って言われた。
今も祖父は元気だけど戦争のことは聞きにくいな。
469 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 14:29:37 ID:jz9WltlF
俺のじいさんはテストパイロットでやくざなエンジニアの試作機に乗せられ片手片足を失った。
それでもやめずにテスト飛行続けて最後は急降下中に空中分解して殉職した。
>>469 乗ってた飛行機の名前キー99とか言うオチじゃないよな?
>>465 >>466 ありがとう。第四師団司令部で任務してたんやね。
その辺の単語から他にも調べてみようと思う。暇な時にでも(´-`)
473 :
名無し三等兵:2006/12/05(火) 03:09:00 ID:ajJDG/Sx
>> 467
457です。ありがとう。
一緒の部隊だった可能性があるね。
浜松の飛行第110戦隊です。
(4式重爆撃機飛龍だったので、二人乗りでは無いかもと思う)
ただ、大叔父が青山学院行ったとは聞いたことが無い。
夜間攻撃に出撃した5機のうち、エンジン不調で
途中で引き返した一機以外は未帰還で全滅だったと
こちらでは聞かされています。
硫黄島守備隊が夜間に沖合いで火柱を目撃したらしいと、伯父談。
数年前、おばあちゃんが何気なく口にしてたのを覚えてる
当時まだ幼かったおばあちゃんは、ある日ラジオから「珍、なんたら・・・」と流れているのを聞いていた
一緒に聞いていた母はおいおい泣いてたので、戦争が終わったんだな、と子供ながらに感じとったそうだ。
情報にはならないよね。たったこれだけですまない
「朕」ですな・・・
俺のじいさんの兄の墓には「レイテ島に於て激戦中、壮烈なる戦死を遂げたり
陸軍伍長〜」
と書いてある。
靖国を批判する奴は許せん。
バアちゃんから
買出しの汽車が米軍機に狙われて銃撃されてたって話きいたときは
マッカーサーと民主主義と平和憲法と正義のアメリカという戦後神話との不一致を
子供心に感じましたね。
なんで一般人の載ってる汽車を銃撃するんか、と。
ちなみにオレはいま29歳ね。
B29から投下された焼夷弾が防空壕の数メートル先に落ちて
あれがこっちに数メートルズレてたら家族が全員死んでたって。
>>477 >なんで一般人の載ってる汽車を銃撃するんか
ちょっとふざけてみただけ。
479 :
名無し三等兵:2006/12/05(火) 20:46:22 ID:FCaYREc7
ちょっとふざけすぎて撃墜された後には縛られて集められた50人のキレた住民に竹槍で拷問虐殺されました。ちなみにその場に憲兵もいました。うちの地元で実際に起きたお話。
>>479 俺はもういい年こいたおっさんだから母親の話になるが、紹介してくれた
ページの中に母親が話してくれたB29の話があるよ。
母親が小学生の頃、B29が撃墜されて落とされて、搭乗員が落下傘で
降りてきたのを見たそうだ。
実際に、B29の搭乗員が憲兵に連れて行かれる一部始終を見てて
子供心に印象に残っていたらしい。
地元では一番英語が出来るという学校の先生だった人が、話しかけてみたが
うまく通じなかったみたいだと言っていた。
しかし、記録見てみると、その搭乗員達全員処刑されたんだな。。
後、母親の兄貴、つまり俺の叔父は、インパールの生き残りだったそうだ。
ビルマの北部の方で結局負け戦になって部隊はちりじりになり、叔父を含めた
小さな部隊は、ビルマ、中国、タイの国境あたりを1年以上に渡ってさまよった
あげく、ハノイまで辿り着いた所で終戦になったと聞いた。
その後マラリアにかかり、日本に何とか引き上げてきたときには、ほとんど
助からないというような状態だったらしいが、その後回復して結局子供を二人
つくって、数年前に亡くなった。
まあ、米軍の検疫受けるだろうから、キニーネぐらいは打ってくれるだろ。
>>481 >うまく通じなかった
キングスイングリッシュでテキサス人に話し掛けても通じる訳ねぇよ
ウチのじいちゃんは80代後半で存命中。
農家の長男で、徴兵→皇兵→教官→沖縄→終戦と激動の20代を過ごしたらしい。
なかでも皇兵は「顔と頭が良くないとなれない」と自慢されたかなw
俺が小学生のころは大東亜戦争って日本が全面的に悪いことと学校で教えられてて、
悪気なしにじいちゃんに「日本が悪かったんだよね」って聞いたことがあったんだけど
いま思えば悪かったなと思う。今生きてる俺らと何も変わらない青春を過ごしてて、
その時のじいちゃんは、必死に周りのものを守ろうとしていた気持ちがあって、それは
今の時代の俺も共感を覚えるよ。
終戦間際に沖縄に100人の部隊で行ってじいちゃんを含めた、たった3人しか戻れなかった話を聞くと
本当に運命って...と俺は涙ぐみます。大人になってから色々なじいちゃんの本音話を聞けるようになったよ
また聞いたり、思い出したら書き込ませて頂きます。
うちは医者家系で、婆ちゃんの男兄弟8人が全員医者で
長男以外は訓練所とかの医務室勤務?になったが
兵隊さんそっちのけで順次、病死。
徴兵も徴用もされなかった長男も地元で病死して男兄弟全滅。
医者の不養生と陰口叩かれて辛かったと婆ちゃん談。
地元に居た堪れなくなった曾爺ちゃんは逃げるように診療所畳んで
宮津で軍医やるようになったそうな。
貯金が50万ほど(今のどのくらいの価値なのか知らんが)あったから
生活には困らなかったけど、曾婆ちゃんと年頃の娘3人の女所帯になったら
泥棒が何でも持っていくようになって途方にくれたとか。
そして家から物が無くなったところで終戦。
新貨になって貯金が超圧縮された段階で家オワタ\(^o^)/
父なんだが、太平洋戦争末期に幼児だった。
九州に住んでいて、特攻隊の出撃の時に基地に連れて行かれて
村じゅうの人達で見送った。
お姉さんたちやおばさんたちが精一杯の笑顔で見送る中、
引きつった顔で離陸して行った搭乗員を思い出して、いまでも
「かわいそうだなあ」と言う。そして見送った人達の笑顔を残酷だと
言う。父なりの幼児体験だったようだ。
いまから考えれば、見送った人達の精一杯の笑顔も、それなりの気の
使い方だったのかもしれない。しかし、女性達に笑顔で見送られた、
あきらかにまだ死にたくない搭乗員たちの気持ちを考えてどうしようも
なくなる父の気持ちも痛々しいほど感じる。そして、死にたくないのに
特攻に行くと言う、それを笑顔で手を振る女性達に見送られる若者達の
絶望感は想像を絶する
487 :
名無し三等兵:2006/12/06(水) 06:36:35 ID:ZJI1EchM
なんか30代以上のオッサン達が使った教科書ってすごそうだな。いろんな意味でゆとり教科書のが全然いいと思うよ。
>>487 >30代以上のオッサン達が使った教科書
別に。
前九年後三年の役とか、カノッサの屈辱とか、普通の事しか書いてませんよw
歴史は明治維新あたりで三学期が終了するから何が書いてあっても関係ない。
490 :
名無し三等兵:2006/12/06(水) 09:44:33 ID:8bhlEsxc
俺の祖父は今は180近くあるんだが15・6のころは身長足りなくて志願で落ちたって言ってた
1945年広島市内に住んでいたが当日は仕事でいなくて帰ってきたら焼け野原だったみたいだ
原爆の死体の片付けを小学生だった俺に生々しく語ってくれて以来聞いてない
俺も広島に住んでたから翌日学校の戦争学習ではだしのゲンの映画見せられてトラウマになった・・・orz
>>489 それよく聞く話だけどね。
最近じゃあれは教師のせめてもの抵抗だったんじゃないかと思うよ…
どちらかと言えば、文部省の抵抗って聞いたけどがあるけど。
昔の教科書にはクルスクの戦いが第二次世界大戦の天王山と
書かれていたか教えられたと、10年くらい前の歴史群像クルスク特集に書いてあった気がする。
494 :
名無し三等兵:2006/12/06(水) 14:31:32 ID:Rm3VEXZO
そういえば習ったなクルスク戦車戦でドイツは負けた
ミッドウェーで日本は負けたって。
>>491,492
ちゃうちゃう。
現代史までいくと、トンデモ歴史観を押し付ける左巻き教師がいるから
わざと維新程度で時間切れにする量を学校に押し付ける方策を
(当時の文部省に)やらせたのよ。
昭和中期の左翼運動に対する自民党の施策の名残りね。
21世紀になってからは、こんなことタブーじゃなくなったもんだから
(文科省大臣時代の)町村とか麻生とかが、上記のことを堂々と言うようになった。
497 :
名無し三等兵:2006/12/06(水) 18:27:33 ID:s9ZFOHe8
うちらの頃も(昭和53年生まれ)、日本史は第1次世界大戦が終った辺りで3学期が終って、
次は戦後史からの授業だったな。
戦中史は公務員受験の予備校で初めて授業を受けた。
家のジイチャン学徒の海軍少尉やったらしい。東京湾から出るときに機雷に当たって船が沈んで、後は本土にいたらしい、運いいよな〜
家のひいばあちゃんは名古屋がバクゲキされたときに
焼けたお金がとんできたって言ってるけど
ほんとにそんなことってあったのかなあ?
>>
家のひいばあちゃんは大阪にいたが
空襲が激しく何故か空襲のなかった京都に疎開(?)してきたらしい。
ところが、当初は原爆の第一ターゲット(東京府除く)だったとは。。
関西の田舎在住の93歳の祖母(大正四年生まれ)の話。
田舎なんで戦争末期だと思うが、艦載機が時々機銃掃射しにきて屋根瓦がパチパチはじけて怖かったとか。
また、B-29が山に墜落して米兵が落下傘降下してきた。
村人総出で竹槍もって血色ばって山狩りに出てソイツを取り囲んでる所を祖母は見たらしいが、10代の金髪の少年が真っ青な顔でブルブル震えていたらしい。
流石に皆も哀れに思って何もせず眺めていたら、軍のトラックが来てどこかに乗せられて行ってしまったとか。
今でも忘れられないそうだ
嫁のばあさんが鳴門の人間なんだが、終戦間際に予科練の人たちを乗せた輸送船を
米軍の飛行機が襲撃し沈没させたときに村の人たちと救助にあたったんだそうな。
海がまっかっかになり、身体の一部のない死体がごろごろ浜に打ち上げられたんだと。
最近その人から聞いたが、旦那さん(嫁の祖父)も予科練出で、戦後どうやら掃海業務に
ついていたらしいが、ある日船から降りたとたんに意識失ってそのままお亡くなりになったとか。
又聞きの話なんでこれぐらいしか書けないけど。
503 :
名無し三等兵:2006/12/07(木) 13:55:37 ID:AsWm5TnS
明日は12月8日
うちの母親の弟の嫁さんのお父さん静岡中伊豆出身でガ島帰りらしい
晩年、子供孫にも恵まれ何も不自由無かったんだが 納屋で自ら命を絶ってしまった
法事で田舎に帰るとよく「大変な所で戦争してきたんだよ」と叔父叔母連に聞かされてた
おれはそん時、そんな事には興味は無かったが後で大変な所にいたんだなと思った
内容なくてすまん
>>9を書いたものですが、あの後色々調べたのですが祖父は陸士が44期で陸大が55期でした。陸大で一緒だったのは三笠宮様でした。
昭和17年に卒業後輜重兵少佐になったようです。一時期体を壊したといってたから輜重兵だったのかも。
終戦時は軍政監部参謀でした。その時にシンガポールにいたらしいけど輜重兵の時にどこにいたのかがわからない。当時のことがわかる人ももう少なくなっていますね。
>>501 それも
>>480のに載ってるんでしょうね...
>>502 >予科練の人たちを乗せた輸送船を米軍の飛行機が襲撃
・・・有名な事件ですね。
宝塚空の予科練生が受難した事件で、
輸送船と言っても漁船に毛が生えた程度のポンポン船で、
無線装備がなかったため空襲警報が伝わらなかった様です。
ノンフィクション本や小説の題材にもなってます。
おいらの爺ちゃんは落下傘部隊だったみたい
家に行けば写真集とかたくさん持ってて、戦後生き残った仲間の隊員と撮った写真もあった
ヒルやヘビも食ったっていってたっけ
母方の祖父は徴兵されて満州にいたそうです。
小話1 虫退治
南京虫やらシラミが沸くと夜間、外に衣類を干したそうです。
翌朝取り込む時にポロポロと虫が落ちてきたそうです。
小話2 餅が・・・
正月に餅が配られたそうです。
手元に来るときは丸い餅がなぜか四角に・・・
下士官がミミを銀バエしたらしいです。
小話3 重い
射撃が大変上手かったらしく(一級射手?)
軽機関銃を持たされたらしいです。
「俺だけくそ重いもの持たされた・・・」
満期除隊後、故郷に帰ってきたぐらいに終戦
シベリア抑留とか引き上げのごたごたとかには出会わなかったそうです。
510 :
名無し三等兵:2006/12/08(金) 02:36:43 ID:4Z283nH8
ついに今日は12月8日。
忘れてはいけない日を迎えました。
511 :
名無し三等兵:2006/12/08(金) 10:42:35 ID:y91LqnrL
>>506 身体をこわされたとのよし、その時にたぶん他の兵科から輜重兵に転科なさったのだと思います。
陸大卒業者はほとんど官衙ないし幕僚勤務なのですが、1年ほど部隊長経験をすることになっており、たぶん輜重兵聯隊長を短期間なさっていたと思われます。
その後、幕僚勤務に戻られたのではないでしょうか。
512 :
名無し三等兵:2006/12/08(金) 12:57:28 ID:zb9OOBqO
死んだ爺さんは父方が工兵少尉、母方が憲兵隊(階級不明)だった。
<工兵少尉>
中国戦線で深夜、橋を爆破する時、手りゅう弾で負傷。今でもわき腹に傷あり。
体内に破片も残ってる。
目標の手前にある中規模のタイコ橋で前方の様子を見ている所に
横から手りゅう弾が2−3個投げられた。
少し撃ち合ってたら敵はいなくなったらしい。
<憲兵隊>
戦争中は勤務地は秘密。(実際は北海道にいた。)
手紙にも一切書かれていない。
テレビに出てくるような残酷なことは見た事もなければ、もちろん実行したこともない。
空襲時の対応ばかりだったとのこと。
おまけ<私設戦争博物館のボランティアおじいちゃん>
この人も元将校だけあって、90歳近いのに矍鑠(かくしゃく)としてかっこいい。
中国のどこかで戦っていたとのこと。
戦争映画の話をすると温和な表情が曇り、静かに語り始める。
「私も仲間も非戦闘員を殺したり、傷つけたことは一度も無い。
映画の話は全部嘘とは言いません。数の中だからね。
しかしね、ありえんですよ。実際そんな暇はない。」
なんか、日本のマスコミって嘘ばかり宣伝してないか?
オラが生まれる前に亡くなったけど、うちの爺ちゃんも元軍人。
聞く所によると、戦時中は参謀本部に勤務していたけど
ロシア語が出来るとの事で関東軍に転任。
そこで終戦を迎えたが為にシベリアに11年間抑留。
帰国後は(よくある話だけど)昔の同僚、後輩に防衛庁や民間企業に誘われるも
全て拒否(何故じゃろか?)。
結局、当時の環境庁の一部門だった皇居外苑の環境整備に関する仕事を亡くなるまで
続けたそうな。
515 :
名無し三等兵:2006/12/09(土) 00:59:33 ID:z4JKYTqT
>>511 輜重兵が兵科として独立した明治中期以外、他科で少尉任官後の輜重への転科は
ありません。将校、下士官兵を問わず、最初に決まった兵科から転科するのは
任官すぐにはなれない憲兵や、経理学校創設前の主計、急速な拡充で補充が
追いつかなくなった航空や機甲など特殊な場合に限られます。
輜重になった理由が体を壊したからというのであれば、予科時代ではないでしょうか。
もしくは隊付期間の陸大受験勉強の影響ではないでしょうか。
本籍県で保管されている兵籍簿には、傷病履歴もきちんと出ていますので
とってみてはいかがでしょうか。
516 :
名無し三等兵:2006/12/09(土) 11:54:57 ID:AgcweOiT
パールハーバーって名作映画を知ってか?
日本小鬼の若い女達この名作映画ラブロマンスとして見たとらしい。
若い小鬼の多数は、パールハーバーでの残虐行為が歴史上どんな意味持つのかや、
昔に日帝軍がパールハーバーを卑怯な卑襲攻撃した事実も全く知らない。
この名作映画見て初めて、自国の犯罪行為の事実を知った日帝も多数いてただろう。
これは、日帝の歴史教育が不十分だと云う事を意味する。
卑怯で野蛮な日本人民が、第二次世界大戦中に如何に多数の命を奪ったか、
亜米利加合衆国だけでなく、亜細亜の人々の間にどのくらいの悲しみを
残したのかを知り猛省するべきだ。
私、この映画見て、日帝が行った事実に苛立たしい気持ちになり、
二度と同じ事繰り返させてはいけないと思った。
そして、日帝の歴史に対する知識の少なさも感じた。
さらに、この映画は日帝の悪い点を的確に示しているとも思った。
しかし、これが軍事主義の下での日本人民の本当の歴史であり、
映画で見させられる残虐行為は、許し難いものである。
これを繰り返さないためにも、日帝達には今のような
国粋的な歴史教育は止め正確で充分な歴史教育と最終的な
日帝の国家主権の亜細亜代表への譲渡が必要である。
日帝は全世界への恒久的謝罪と賠償を合言葉にこの卑劣な
攻撃を忘れないようにするべきである。
この真珠湾卑襲の映画を見て真実の歴史を勉強し日本人民どもは猛省しろ。
517 :
名無し三等兵:2006/12/09(土) 12:03:51 ID:m0VfqNu+
戦争体験と言えるかわからないが
母方の爺ちゃんは当時からしても体格が小さく、
耳も多少不自由だったので徴兵されず大阪の工場に送られたらしい
父方も徴兵時の検査?で最低の評価だったらしく
終戦間際でようやく徴兵され、戦地に送られる途中の汽車で終戦になったとか
母親は今となっては良かったと言ってたが、
当時としてはかなり肩身が狭かったのかな
519 :
名無し三等兵:2006/12/09(土) 15:20:18 ID:59ahJ+bj
俺の父方のじいさんは明治35年の青森第5連隊八甲田山遭難事件の
翌年に同連隊に入ったそうだ。「あと1年早かったら俺も死んでたかも」
とあとで言ってたそうだ。
もっとも、そのじいさんは俺が生まれる前にお亡くなりで、会ったことはない。
「じいさんがそんな大昔の人?」と言うなかれ。そのじいさんの7男が俺の
オヤジ、そしてオヤジの4人の子供の末っ子が俺で、オヤジが結構な歳の
時に生まれた。でもって、この俺ももはや中年ネラー。嘘は言ってないよ。
520 :
名無し三等兵:2006/12/09(土) 18:12:47 ID:E2/yTenj
中年ネラーって本当にいるんだなw
521 :
68:2006/12/09(土) 22:48:30 ID:???
>>70 >>71 >>72 スミマセン。レスが遅れました。そういう任務なのですね。
無線を傍受される危険はないかもしれませんが、
鷹に襲われたり、最悪、敵に飼い慣らされなかったのでしょうか?
何はともあれ、これから叔父の事を聞かれた時に、
「海軍内部ではハト派だったんだ・・だから、タカには相当嫌な思いをしたらしいよ」
と、言う事にします。本当に有難うございました。
>>511 >>515 詳しくありがとうございます。本籍地にそのようなものがあるのですね!無知なもので初めて知りました。それは市役所にあるのですか?孫が問い合わせて教えて頂けるものなのでしょうか?
幼い頃父親に祖父が体を壊したと聞いたのですが、記憶が曖昧で。父も祖父も他界してしまっていて。陸士卒業から陸大まで少し間が開いてるのでその時かもしれませんね。
523 :
522:2006/12/10(日) 00:14:25 ID:???
すみません。本籍県ってありましたね。ありがとうございました。
524 :
名無し三等兵:2006/12/10(日) 16:01:01 ID:/hu2AfTe
うちのじいちゃんは戦時中満州に獣医としていたらしい。なんせうちの家系はど近眼もちのため、乙種合格で獣医大学出たらしいからさ。
そのごソ連の捕虜になったらしいけど毎日仲間が飢えと寒さで死んでったらしい。
あまり多く語ってくれないからこんなんですまない。
525 :
プリスキン:2006/12/10(日) 16:06:31 ID:GNelT/Pk
友達のじいちゃんが空を飛んでいる米軍機に手を振ったら機銃で撃ってきたらしい!銃弾はすぐ足元に着弾し急いで家に逃げ隠れたらしい!
私の祖父は美濃部達吉の助手。
実は天皇機関説は1920年代から陸軍からは非難を受けていたのだが、
その当時は陸軍上層部を黙らせる程の論理展開を行った。
ただ、1930年代の動きを抑えることは出来ず
最後は公職追放の憂き目にあった。
実際には天皇機関説自体ドイツ法を借用した大した理論ではなかったのだが、
それでも当時は駄目だったと祖父から聞いていた。
宮古島出身のばあさんは台湾で代用教員?補助教員?とかで
日本語を教えてた。
じいさんは足が悪かったので徴兵されずに済んだ。
528 :
名無し三等兵:2006/12/10(日) 16:43:35 ID:Am7cTWD+
ひいじいさんの話なんだが、
終戦まで憲兵をやっていたらしい、でも写真を見ると馬に乗ってるんだが憲兵も馬に乗れたの?
529 :
名無し三等兵:2006/12/10(日) 16:48:01 ID:7AZ8EgMP
父方の祖父は海軍だったそうで、階級はわからないけど、セーラー服姿の写真が残っている。
戦友たちに慕われていたらしく、生きていた頃は、遠くからはるばる戦友の方たちが来てくださっていました。
>>528 憲兵さんは最下級の上等兵でも帯刀し乗馬本分です。
(元々騎兵から分かれた兵科だかららしい)
うちの場合
有名人だから一発でどこのどいつだかばれる
533 :
名無し三等兵:2006/12/10(日) 23:02:19 ID:yH3pLYL7
戦争中の出来事をあまり話さない元兵隊さんが本スレに登場するが
硫黄島からの手紙を観たら理由が何となく分かった。
戦場での悲惨な出来事を思い出したくないし話をしたくないのだろう。
中国で第一連隊五中隊に所属し軽機関銃士だったそうだ。
十一年式軽機関銃を使っていて撃つときに弾倉を押さえてなくてはならなく大変だったそうだ
誰か第一連隊五中隊について知ってたら教えて欲しい。
うちの父方のじさまはビルマに行ったらしい。爆弾でとなりにいた友人が死んだとか・・・
うちの母方のじさまは京大に行ってて(自慢らしい)下士官になる学校にいたらすぃ。
毎日鉄拳の嵐で日記に殴られた回数を書いていたら、300を超え、嫌になり日記を書かなくなったとか。
大和を正面から見て、「たらいが浮かんでいるよう」と思ったと言ってた。
537 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 14:27:33 ID:GB5szTvz
そういえばもう十年以上も前の事だが俺の小学校の先生が軍板で大人気の某参謀の姪だかなんだかだった。で戦争体験を教えにきた俺と親しい近所のじいさんが「強制連行で参謀になんかなれるか!あなた間違っている」みたいな事言ってたの思い出したwww
>>528 手元に丸エキストラ97号ゴールデン特集憲兵隊秘録がある。
グラフ欄の乗馬訓練中の写真キャプションで
「市街地での巡邏や警備のとき、馬に乗ることもあり、
乗馬は必須科目の一つ(以下略)」
とある。
539 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 15:45:41 ID:SmeFVhjd
祖父は硫黄島で生き残った
先日の「硫黄島からの手紙」の実際の映像を見て、ずっと戦地の話をしてた
玉砕覚悟で米軍に攻撃する過程で両隣の人が撃たれて死んだとか
540 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 16:41:00 ID:iAsEtZlY
僕の祖母は陸軍軍属で上海の第2船舶輸送司令部に居たのですがもし第1に配属されてたら
被爆してたらしいです(第1は広島)
祖父は北支で鉄道警備,戦闘をやっとりました。祖父は予備役でそのまま戦地へ送られました
行軍中に前の人が地雷を踏んで破片が左腕に当りました
今も腕の筋肉が少し凹んでます
祖父は軽機関銃手でした
他には支那人を柱に縛り付けて銃剣で突き刺す訓練もやっていたんですがそこは珍しく
やりたい者だけがやっていたそうです
543 :
のうみん:2006/12/11(月) 18:45:17 ID:4wWrusBq
ウチの爺さん戦闘機乗りだったよー
なんか質問ある?
何処の航空隊ですか?
545 :
のうみん:2006/12/11(月) 19:14:39 ID:4wWrusBq
よこはま
546 :
のうみん:2006/12/11(月) 19:21:04 ID:4wWrusBq
もとい、鈴鹿海軍航空隊
547 :
歩兵第13連隊:2006/12/11(月) 19:40:35 ID:wl/fee2g
はじめて書き込みます。私も母方の祖父が戦争経験者ですが亡くなっています…
もっと祖父の経験してきたことが知りたく調べています。
実際に聞いた話です、ジャングルで敵と戦うより飢えやマラリアで死ぬ人の方が多かったそうです。
また、食べるものがなかったのでカエルとか蛇を食べていたそうです。
この話を聞いたとき、まだ私は小学生だったので「おじいちゃんも人を殺したの?」と
聞いてしまいました。祖父は、はっきりとは答えてくれませんでした。
今思えば、悪い事したと思っております…。
母からは満州にいたと聞かされていたのでジャングル?と思い調べました
祖父は秋田出身です。秋田の家にある祖父の写真は確かに満州っぽい写真もありましたので
満州にもいたんだろうと思います。そしたら満州からフィリピン防衛に向かった東北出身者が多い
歩兵第13連隊というのがあったそうですね?この連隊に詳しい方いませんか?
祖父は終戦から2年後くらいに帰ってきたそうでその後マラリアになったと聞きました。
階級はしたっぱとしか聞いてません。職業軍人ではなく召集された農民です。
軍で馬の蹄の取替えなどを覚えたと言ってました。
うちはA級なんで書けません
549 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 20:50:48 ID:g9bb7/76
うちの母方のじいちゃんは満州の自動車連隊で物資輸送などの後方支援してたそうです.
大型トラックを運転した事もなかったが「できる」と嘘をついて連隊に入隊したらしい.
なぜ嘘までついて自動車連隊に入ったのかと聞くと,
答えは「なんで天皇のために前線で死ななあかんねん」.
「それなら志願して後方支援」
あの時代にもそんな考え方する人間がいることにちょっと驚きました.
550 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 22:21:12 ID:SmeFVhjd
551 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 22:26:25 ID:T4xby46v
日ロ戦争の時に五円玉のベストを着て行ったって
>>551 五銭玉な
ちなみに銀貨で穴はない
明治三十年代の五円はちょっと大金
553 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 22:50:48 ID:r65X3eJT
554 :
名無し三等兵:2006/12/11(月) 23:47:46 ID:SmeFVhjd
あと祖母は機銃掃射で狙われて命からがら助かったそうです。アメリカ兵の顔が見えたとか。
真珠湾攻撃をして戦争が始まったときの臨時ニュースは今でもはっきり覚えてるそうです。
555 :
名無し三等兵:2006/12/12(火) 00:34:26 ID:1Q1ClGha
うちの爺ちゃんは駆逐艦浦風に整備兵として乗ってたらしい。
道に迷った飛行機助けたり、空襲にあった話大和の盾になった話とか足の銃創見せびらかしながら話しくれた。
もぅこの世にゃいねぇけども一度会いたいな(´・ω・`)
556 :
名無し三等兵:2006/12/12(火) 01:06:59 ID:f8FB5BOc
おまいらのジイちゃんは色々話してくれて羨ましいな。
もう10年以上も前に聞いた話。
うちのジイちゃん(現在97歳)は海軍だったそうだ(階級とか部隊がどこかは知らない)。
海軍は待遇が良かったそうで、ウマイ物を食べる事が出来て恵まれていたと言っていた。
肝心な話を聞こうとすると「友達がいっぱい死んだ。戦争の事を思い出すと辛い」と、
どんな戦場だったのか、なかなか話してくれない。
いろいろ聞きたかったけれどそれ以上の事を聞くのは酷かと未だに聞けないままでいる。
そんなジイちゃんが唯一教えてくれたのは“イロハニ…”等の手旗信号。
こんなふうに旗を振るんだと懐かしそうに教えてくれた。
ジイちゃんの昔の写真、一度しか見たこと無かったけどカッコ良かったよ。
100歳まであと少し。ジイちゃんには長生きして欲しい。
バアちゃんからも昔の話が聞きたかったな。
もうずっと前に亡くなっちゃったけど…
(´;ω;`) ぶわっ
>>512 じいさん方が常に本当のことを言ってるかどうかも
わからん。だから難しい。
↑ま、ある程度、証言が一致するものの
事実の可能性は高いがね。
>558
まあ確実なのは
シナや鮮人の言う事よりは
格段に信憑性が高いという事だ。
561 :
のうみん:2006/12/13(水) 19:00:15 ID:7UGr0emO
戦争終わって、軍人だった人に貰える軍人恩給だけど、
爺さんは「国が負けたのに、軍人恩給など恥ずかしくて貰えない!」って断った。
だけど当時上官だった奴らはみんな平然と恩給貰ってて、相当呆れたらしい。
562 :
名無し三等兵:2006/12/13(水) 19:59:27 ID:Dma0npBZ
法で補償された権利使って何が悪いんだか
563 :
535:2006/12/13(水) 20:29:42 ID:???
今日祖父とまた話す機会があったから色々聞いてみた
満州に居たとき。
なんか迫撃砲とは違うんだが背負うことが出来て色々な弾(それ専用の弾や他の何か)を発射できる兵器があったらしい。(瞬発信管や遅感信管もあった)威力は低かったが便利だったそうだ。具体性に欠けるがおまいらわかる?
ノモンハン事件について
速射砲1個中隊100人全滅連隊葬は凄かったそうだ
日本の戦車は皆ピアノ線でやられたそうだ
とにかく前線に行くまでにみな疲れてしまい途中で機銃弾を置いていったり、手投げ弾を置いてきたりして帰って来る時に回収などという事もあったそうだ。
3年ちょい満州に居てその後内地にて知事に地位を与えられて軍隊経験者が指導する青年??教官ってのをやっていたらしい。それで結局再招集されるような事はなく
20年4月になってようやく第一連隊に招集され江ノ島海岸で対米戦に備えトンネルや機銃座を作っていたそうだ。
だが結局終戦まで機銃や砲も来ることなく上官に「米軍が上陸してきたらどうするのか?」と聞いたら「持っているスコップで殴りかかれ」と言われたそうだ。そんなこんなで終戦。
564 :
563:2006/12/13(水) 20:48:27 ID:???
初心者スレで質問した所
八九式重擲弾筒ではないかという話でした。
565 :
名無し三等兵:2006/12/13(水) 20:58:36 ID:pm03Ah8c
近所のじいさんが「俺のいた頃は大陸には300万の日本兵がいた」とか言ってるんだが本当だろうか?
篠田正浩氏(映画監督)は、中学生時代に各務ケ原飛行場へ勤労動員された。
B29の1トン番弾の空襲に遭い、総出で爆撃の穴埋めをやったが間に合わず
迎撃に上がった飛燕の胴体着陸を見たとおっしゃっておられた。
567 :
名無し三等兵:2006/12/14(木) 01:36:05 ID:jycu7lp4
じいさんたちに慰安婦話聞いた猛者はいるんだろうか
酔っ払った勢いじゃないと話してくれなさそうで
うちのジサマは戦争の話といっても腹減った話と嫌な上官の話
しか言わなかった。戦闘の話はしなかった。
だけど「今思うとシナの女子供年寄りは随分可哀相なことだった」
とは言ったことがある。
>>568 猛者ってほどかな?
昔の置屋とさほど変わらないなら、
いまの大人にソープの話を聞くぐらいの感じでそ?
うちのジジイ、98歳でまだ生きてやがる。
陸軍中野学校出で、地元民からは後藤様と呼ばれて県内ではそこそこ有名だったとか。
574 :
名無し三等兵:2006/12/14(木) 06:44:39 ID:5zDGcyix
おれの祖父は
575 :
573:2006/12/14(木) 07:50:07 ID:++m716Y6
戦争の話は聞いた事無いけど、中野学校は成績優秀で行った訳じゃないらしい。
地主だから行けたみたい。
576 :
573:2006/12/14(木) 07:52:50 ID:++m716Y6
あ。88歳だった
隣のお婆ちゃんは、花の女学生だったが
三菱の大江へ勤労動員されてエンジン1個の飛行機の胴体内を磨いていたそうな。
空襲のたびに遥か大空を飛び過ぎるエンジンが4個もついたB-29を眺めて、
「私たちこんなコマイ飛行機つくっとってええのかしらん?」
と、乙女心を痛めていたそうな。
母方の祖父は学徒兵だった。学徒動員は文系から始まったそうで、理系の祖父は徴兵が遅れ本土決戦用部隊へ配属された。
先に出征した文系の友人達は全員が戦死。ただ祖父一人だけが、生き残ってしまった……以前、祖父から友人の出征前に皆で撮った写真を見せてもらったが、「みんな戦争で死んで、おじいちゃんだけが生き残ってしまった」とポツリと言った。
「父親達の星条旗」の話じゃないけど、生き残った事への罪悪感を感じてしまうのかな……
なんと選んだ学問でも生死が別れる時代だったとは。それにしても、将来は開発技術者の旧帝大理系まで兵士にされたとは、如何に後先の無い末期的状況だったのかよく分かる。
579 :
563:2006/12/14(木) 16:56:51 ID:???
>>568話した事あるよ
うちの祖父はしなかったらしいが戦友が慰安婦とやって性病をうつされたそうだ。
「(チンコを見せられて)おい○○(祖父の名)参ったよ…」と言われたらしいw
祖父の意見では無理矢理やらされてる感は感じなかったと言ってたな
580 :
名無し三等兵:2006/12/14(木) 22:24:22 ID:EHThqNdB
おれのひい爺さんは、江戸末期か明治初年の生まれだと思う。
名をきんべえという。
きんべえは村一番の知恵者といわれていたそうで、晩年は公民館長を務めていた。
写真が一枚だけ残っているが、和服にパナマ帽を被り、にやりとし笑って腕組みをした姿は
さすがに知恵者と呼ばれただけあって田舎の農村にあってひときわ光る風采を保っている。
若いころ、日清戦争のころだと思うが兵隊にとられそうになった。
そこは知恵者のきんべえさん、長男は徴兵されないという制度を聞きつけると
村はずれに住むひとり暮らしの身寄りのないおばあさんを探し当て、
ちゃっかり養子になりすまし、ほんとは次男の癖して兵隊にはいかなかったんだって。
ほんと、要領良かったんだと思うよ!
まあ、夏目漱石とかも徴兵避けに色々やったしな。
自慢することじゃないが、当時合法なら過剰に恥じることでもないだろう。
時代が違えばベトナム行かなかった子ブッシュも「腹を切って詫びろ!」とテキサス人に言われるのだろうか。
戦中だけじゃなく、敗戦直後の話も聞きたいな
>582 期待に沿えるか疑問だが、終戦前後の話を書いてみよう。
祖父は歩兵、昭和19年に下士官適任証をもらって兵長で除隊。
終戦前後は軍需工場に勤めていて、勤務先から招集延期の手続きがされていたのだが、
20年7月某日の朝、招集の電報が届いた。編成中の部隊の下士官要員と言うことだったらしい。
勤め先で報告したところ、「間違いだと思うが、明日壮行会やるから今日は帰ってよし」と言われ、
「もうじき子供が産まれるんだけどなあ(私の母のこと)」と思いながら家に帰ったところ、
訂正の電報が届いていて結局2度目の招集はなかったことに。
「すぐに戦争が終わると分かってたら、2通目を見なかったふりして出掛けて、
缶詰でも土産に持ち帰ったのだが」とは祖父の弁。
そして占領軍がやってきて戦犯の拘束が始まった頃のこと。
役所で兵事係をやってた知り合いが家へやって来て、
元兵事係:「憲兵だった人間は皆捕まるって言うんで、役所で該当者の軍歴を燃やしてる。
あんたも軍隊手帳を処分した方がいい」
祖父:「3ヶ月補助憲兵やっただけなんだが…恩給もなくなったし燃やしておこう」
結局祖父が捕まる事はなかったのだが、軍隊手帳を燃やしてしまったので
軍人恩給が復活したときに手続きで少し苦労したらしい。
やっぱりあっちこっちで「兵隊さん(アメリカ軍)」が女をテイクアウトして強姦しまくりでしたか?
>>583 調べてみて今でも軍人恩給もらってる人が少なからずいるのに驚いた。
復活したのは昭和28年か・・・。
うちのじさまはもらってるぞ
年間80万くらい
>>579 ありゃ、話が「全員」無理矢理だったかとか、そういう話になってしまってる
からな。基本的には、普通の娼婦だったと思う。ただ、フィリピンなどでは
「現地人」を無理矢理調達ってなこともあったらしいが。
588 :
名無し三等兵:2006/12/17(日) 08:38:27 ID:JNBxYOIe
じいさんは広島出身なんだが、復員した時はどんな気持ちだったんだろう…それ以来60年広島に帰っていない祖父…親戚とかいるのかな?
ここか、どこかのスレで、
「爺さんが造船大佐で家に大和の設計図がある」とか言ってたヤシに対し、
「大和ミュージアムに寄贈しろ」というレスがあったのだが、
先日、本当に寄贈してたな。
2ちゃんって凄いなw
俺の父方の爺さんは痔ろうで徴兵検査落ちたもんで戦時中も召集されなかった
母方の爺さんは戦争に2度出征した
一回目は上海に行った、2回目は朝鮮半島に行きそこで終戦向かえた
>>589 それは私も見ましたが、
時系列的に『カタリの便乗カキコ』に見えました。
と言うか、その図面の存在自体、その方の存命中から知られておりました。
じいさんではなくばあさんの話だが、戦時中は地元の飛行場で
練習機(赤トンボ?)の整備手伝いをしていたらしい。
時々軍人さんがテスト飛行時のバラスト代わりに後席に乗せて
飛んでくれて、その順番を待つのが楽しみだったとかなんとか。
鳥取の片田舎の飛行場なんだが、近くに軍港があったせいか
終戦間際はB29その他の空襲を受け、ばあさんも飛行場のトイレ
で敵機に機銃掃射されたらしい。
死んでたら、末代に残る間抜けな死に様だったと話してた。
笑い事じゃねーだろばーちゃん・・・・。
内地の民間人も大変だったんだな、と思った。
痴呆症の曾祖父のタンスを漁ってたら戦争中の写真がたくさんでてきた。
船舶工兵とかでドカジャン着てる、地味な兵科だったんだな。
594 :
名無し三等兵:2006/12/17(日) 22:22:44 ID:ud9N0X+M
携帯厨でスマンが、爺ちゃんに戦争中の話を聞いたら元海軍の少年兵?だったらしく、通信兵としてグライダーに乗る訓練をしたことがあると話してくれた。
ゴム製?のロープっぽいので飛行機に引っ張ってもらって、地上から大体10メートルくらいの高さまで飛んで、胴体から着陸したと言ってた。
その後戦闘に出る前に終戦となったらしい。
それ以外はあまり話してくれなかったが、普通通信兵がグライダーに乗ることはあるんだろうか?
自分で色々調べても桜花くらいしか思い浮かばないのだが、爺ちゃんの言ってた事って本当にある事なの?
>>594 航空科の電信員(のタマゴ)だったんじゃあるまいか。
596 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 13:29:02 ID:Prp45pgJ
>>595 ありがとう。多分それだと思う。
今度もちっと聞いてみる。
佐賀の乱?か何かで返り討ちにあった侍を泊めてあげた祖父の父
「侍辞めます」と言って火縄銃と刀と脇差を置いて行った。
その刀を太平洋まで持っていったらしいが役に立ったのかな?
脇差は未だにありますが、鉄屑と言っていいほど錆びてます、鞘なんてありません
目釘も取れて量販店の釘を曲げて繋げてます
ただ鍔の龍だけは綺麗なんだよな
598 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 18:36:09 ID:c44txGa4
うちにじいちゃんは満鉄にいたらしい
あんまりそういう話はしないけどあと少し終戦が遅れたら大尉に上がる予定だったらしい
最近、自殺のニュースを見ながら、あのころは何かあったらすぐ殴られて連帯責任だと走らされた。殴られるのは嫌だったが冬には二・三週走らされたほうが暖まってありがたい。と言っていた。
うちの曾じいさんは一応海軍に居たらしいんだけど、
補給部隊ということで上海に出張ってたらしい
陸戦隊?だったんだろうか
結局赤痢かチフスで早いうちに戦病死しちゃったけど
600 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 19:20:38 ID:ZyFV+x34
中国人10人は犯ったって言ってたな…
俺のじーちゃん秩父事件に参加したんだぜ
うちの爺さんは徴兵検査は丙種だったもんで戦争には行かなかったが、
よく戦時中の話をしてくれた
「騎兵連隊に配属された友人の○○って奴は〜」
「東部38部隊に配属された○○は〜」云々
空襲で空が焼ける色が忘れられないと言っていた
その爺ちゃんの兄はインパール作戦で戦病死
出身を考えると第33師団、んで確か山砲第33連隊所属だったような
連隊史が実家にあったはずだから今度見てみよう
603 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 21:01:43 ID:RzT1sSpS
>>597 お前さんの曽祖父が佐賀の乱に参加ってありえねーだろ
何歳だよ
604 :
597:2006/12/18(月) 21:08:24 ID:???
102歳だよ!
605 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 21:24:30 ID:iAgdfQCd
爺ちゃん、満州からの引き揚げ時、追ってくる追いはぎ中国人から日本人
を守りながら引き揚げて来たとか。
婆さんにも大陸での辛かった事はあまり話さなかったらしい。
606 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 21:57:55 ID:txhHqlw0
うちの爺さんはコネで憲兵になって、国内勤務マンセーだったんだが
長崎駐屯だったので、原爆で半身焼かれるハメになって、一生その部分から汗が出なかった
でも、終戦直前には包帯だらけの部隊で集まって本土決戦に備えて水杯したそうな
607 :
名無し三等兵:2006/12/18(月) 23:58:10 ID:93Yti97P
東京から出征した学徒はあの有名な神宮外苑を行進した学徒の人たちだけですか?あの人たちの下の学年の学徒も出征したんですか?知ってる方教えてください
おれの爺ちゃんはぼけて長らく寝たきりだけど
軍服姿で仲間と写ってる昔の写真はかこいい。
あの眼光の鋭さは今の若者にはない。
じいいちゃんはどんな青春時代を送ったんだろう。
元気なうちに話を聞いておけばよかった。
>>608 意識がないなら別だけど、昔の事を聞いたら案外答えてくれるかも。
610 :
名無し三等兵:2006/12/19(火) 23:36:46 ID:95dnAkwT
>>608の文章でなんかほろっときた・・
じいちゃん大切にな
611 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 00:03:21 ID:usDFltE+
612 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 00:04:08 ID:vlffRsbR
2日ぐらい前に俺の塾の
講師が、戦争の事を話していた。なんでもその講師の祖母の兄の子が硫黄島で戦死。ちなみに階級は少佐。身近な所からこんな話が出てマジで驚いた。
613 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 02:24:56 ID:J+Tt5LlD
実家は田舎なんだが、戦闘機の銃撃で死んだ人がいるってばあちゃんが言ってた。
だから農作業中に戦闘機が来ると竹藪に隠れてたそうな。
何にもないのどかな田舎銃撃するって何でだろ?
パイロットのヒマつぶしなのか…な
夏の葬列思い出した
ごむまりのように・・・・
615 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 03:23:31 ID:tU4yEBU1
>>613 どんな所でも機銃掃射には来たらしいな。
暇つぶしなんだろうか。
うちの爺ちゃん武田の騎馬隊だった。
信長は非道い奴だと言ってる。
>>613 上空から見下ろすような視線で見た場合、どうしても
「ここから見ると、まるで人間がゴミのようだ!」
という感情がどうしても沸き起こってくるらしい。
619 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 11:28:05 ID:PLVu8K40
終戦のどさくさに紛れて、勤め先の川崎航空から、
塗料のジンクロを頂戴してきた。
そのむかし庭の物置に塗ってあったが、結構きれいな緑黄色だった。
621 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 15:15:05 ID:J+Tt5LlD
>>618 そうゆうもんなんですか。
今父親達の星条旗見終わったばっかで、少し複雑な気分。
さらに続けて手紙を見るw
涙腺ゆるみまくりでヤバいww
スレ汚しすませんでした。
俺の爺ちゃんではないが、中学の同級生の爺ちゃんの話。
戦時中は長崎で魚雷の整備だか生産だかをやってたそうだ。
そして被爆
原爆が落ちてきたとき、とっさに魚雷の弾頭の中に身を隠して難を逃れたそうだ。
戦後は白玉粉の生産工場を立ち上げて今や日本の生産高の約半数を作る程だそうだ。
フルーツポンチとかに入ってる白いお団子だから皆も一度は食べたこと有るんじゃないかな?
漏れの厨房時代の先生も消防くらいのときグラマンから掃射された
といっていた。電柱の倍くらいの高さをとびさり、パイロットの顔
が見えるくらいだったと。 だからパイロットも必死で逃げ惑う
子供達が見えたはず。 お遊びで脅かしただけと信じたいが・・・
目の前の地面が捲れ、薬莢が回りに降り注いだと聞くと違うのかも。
ちなみに子供は数人いたらしいが、皆無事だったそうな。
濃尾平野の隅での出来事。
米軍機の機銃って六連装12.7mmじゃん
あんなんで掃射されてやられた加害者ってどんなんになっちまうわけ?
625 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 19:40:26 ID:kOUyL3vX
学徒出陣動画見てたらじいさんが出てきてビックリしたww顔の特徴とか柔道で耳潰しちゃった跡とか大学が一緒だし。
626 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 19:45:28 ID:hQC2yjGG
知り合いのおじさんが百式乗ってた
627 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 19:46:07 ID:zPZn+0FT
栄誉の軍歴を披露されたし。
クワトロ大尉でつか?
629 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 20:15:05 ID:ZtmsZTDA
学徒出陣で中国にいってたジイちゃん。
だだっぴろい草原で戦ってたら脇から撃たれて倒れた。
痛いけどそのまま戦闘。撃たれると放心すると聞いてたがズキズキ痛い。
伏撃らしい、長い草っぱらで銃声はすれど、どこに敵がいるかわからない。
なんとなく戦闘終了(こんな終わり方ばっかだったらしい)。
終わってから傷を見てみると、ぶら下げてた銃剣の根元にあたってたんだそうな。
怪我は痣のみ。
あといじめが酷かったそうな。
ただ上官が同郷出身で、知り合いだった。
それが皆の知るところとなり、
途端にいじめがなくなったと言ってた。
その上官は戦死されたそうです。
>>629 きみのじいちゃん下士官とか将校になれなかったの?
学徒出陣の兵隊はそう簡単に出世できない
将校なんてありえないぞ
632 :
629:2006/12/20(水) 21:25:11 ID:ZtmsZTDA
士官かどうかはわかんないというか教えてくれない。
六大学出身は何になるんだろ。軍刀あったらしいけど。
いじめは仲間はずれ、物を隠されるとかみたい。
ぼんぼんだったらしいから、役に立たなくてのけものだったんだと思われ。
伍長兵長でも軍刀つってるからな。
634 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 21:35:16 ID:2fjpznpH
南方の方の小さい島で、
真水の補給用に兵隊が駐留してた島って一杯あるのかな?
じいちゃんが話してたけど、島の名前が分らんと。
検索しても全然探せないです。
島じゃなくて岩とかサンゴ礁じゃないの?
636 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 21:42:46 ID:eF9ZT+1T
>>632 ちょwwwwwwwww旧軍でそれは苛めの範疇にはいらねーよ
気絶するまで角材で殴打とか、そのくらい
>>629 その程度だったら今の職場とかのいじめと同じ感覚じゃない?
士官の間でもいじめはあったんだろうな。今の時代と同じように。
それと学徒出陣の目的自体が当時絶望的に不足していた
下士官・下級将校の補充なので大抵は下士官や少尉になった。
いつまでもハンモックナンバーにこだわる様な超学歴至上主義の軍首脳部には
当時3%しかいなかったエリート層を【一銭五厘でいくらでも
集められる兵隊】と同じに使うという気がなかったようだ。
しかし試験はあったよ。落ちてしまえば二等兵だっただけ。
終戦時に普通の兵隊の二年兵だったとしたら軍刀を吊っているなんて
憲兵でもない限りあり得ないはず。
>>631 学徒出陣でも甲種幹部候補生に進んだ香具師は少尉任官だから一応将校
下っ端、消耗品だけど一応は。
639 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 21:54:04 ID:2fjpznpH
>>635 珊瑚礁とかじゃなく、
ちゃんとした島らしいけど、小ぶりな島だったと。
艦船へなのか、水汲みしてたとか。
探そうにも、何とか諸島とか大杉
いやウルシー環礁とかそんなのかも知んない。
厨房の地図帳に出てない?ひょっこりひょうたん島かインファント島だろ。
642 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 22:18:18 ID:2fjpznpH
>>640 ウルシーを検索してみたけど、ここだけでも40以上の島って。
そりゃ探しようも無いね。
そもそも、じいちゃんが名前を忘れたのか、名前すら無い島なのかさえ不明。
どうもありがとう
643 :
名無し三等兵:2006/12/20(水) 22:21:45 ID:ZtmsZTDA
>>637 >>638 ありがとうございます。
いじめが酷いっていうのは、
ジイちゃんがぼんぼんの世間知らずだったからみたいですね。
部下を殴るの嫌だったらしい。
雨の日に殴らなきゃいけない場面になり、上官の前だったので
焦って銃床で腹を殴ったとか言ってたけど、それはやりすぎなんですかね、
当時横行してたのかな。
十年くらいまえにテレビで大和の二時間ドラマやった時、似た場面で言ってました。
通信兵か電探係が所ジョージだったやつ。近藤真彦もいたような。
>>637 初歩的な疑問で申し訳ないが、陸軍でもハンモックナンバーって言うんですか?
>>637 初歩的な疑問で申し訳ないが、士官と将校の違いって何ですか?
お前の質問は高校生と大学生の違いはなんですか?と同じレベルだぞ
陸軍は将校
海軍は士官
>647
おいおい
漏れの田舎の話。
若い男はだいたい兵隊に出ている時にB29が墜落したそうな。
何人かパラシュートで負傷した状態でうめいたやつもいたみたいだけど。
念のため青年団(ってももうみんなえらく年だったみたいだが)でかわるがわる鍬や
竹やりみたいなので突いて止めを刺したらしい。
黒焦げの焼死体の部分的に焼け残りの腕が白くて線が細かったから「女が乗っていた
んじゃないか?」なんて話しをだいぶ後までしてたらしい。
それ、何処の話?
落ちた場所わかると、その米兵の名前とかわかるよ。
>>648 まぁ間違いではありませんよ。
厳密に言えば、階級が少尉以上は士官、
そのうち、部隊とかを指揮できるのが将校
(軍医少尉や法務少尉は士官ですが将校じゃないです)
652 :
名無し三等兵:2006/12/21(木) 20:27:22 ID:FLEwQj5u
曾祖父が日露戦争に陸軍の歩兵として出て行ったそうな。
銃弾を受けたが見事生還w
>>646 お前の反応は中学生レベルだぞ。
質問っていうのはな、純粋に質問内容を知りたい場合のものと、
相手が理解しているかどうか見極めたり、正解に導くためのもの
とあるんだぞ。
お袋が満州生まれなんだけど、婆ちゃんが豪傑でラジオをよく聞いていて
そのラジオの情報で?終戦前にはもう日本は負けると公言していて
爺ちゃんからよく叱られていたと言う話を聞いた覚えがあるんだけど
婆ちゃんいったい何の放送を聞いていたんだろう。
謀略放送??
657 :
。:2006/12/22(金) 10:09:43 ID:uuq1pEIz
父方の祖父母は戦時中に憲兵に目をつけられてたそうだ。特に祖父は英国留学した実業家だったので「親英派」と憲兵の標的に…近所にも政治家や実業家、更には226事件に関わった将校(某将官クラス)までいたので常に憲兵が徘徊していたとか。
厳格で寡黙な祖父が真珠湾攻撃のラジオを聞き、滅多に見せない不安そうな顔で「本当に勝ち目があるのか」と祖母につぶやいた(祖母の回想)。
近所の人達も声高にこそしないものの同じように不安顔だったというから、民間レベルでもインテリ層は開戦当初から先行きを危惧していたようだね。
>>594 うちの爺さまもそれとほぼ同じ事話してたな。
学校からただ一人だけ選ばれて訓練に行ったらしい。
婆ちゃんが尋常小学校の時の話だから、戦前のことだけど、
地元の某高等中学校に昭和天皇がおいでになるので、尋常小学校の4年生が駆り出されたらしい
婆ちゃんもそれに行って、陛下のありがたい話を聞いたそうだが、
話の間中ずっと頭を下げてなくてはならず、陛下のやんごとなき御身を
拝見することは出来なかったそうな
昔話をしない婆ちゃんから唯一聞いた話
だいぶ前のこのスレに
「私の遠い親戚のおじさんが戦時中に負傷して入院。するとおじさんを皇族の方が見舞いに来てくれた。
おじさんは嬉しくて後日妻に「皇族の方が俺をわざわざ見舞いに来た。」と知らせて自慢した。
しかし、妻には「ハァ?皇族の方があんたなんかを見舞いに来てくださる
分けないだろ?ホラ吹くんじゃねーよ。」みたいな反応をされおじさんは悔しがっていた。」
という内容の事をカキコしたと思うのですが、(記憶違いだったらすいません)
何と本日、我家の古いアルバムからおじさんの話を裏付ける証拠写真が出て来ました。
「高松宮妃殿下がお見舞いに」と説明書きが付いた写真が。
この写真を妻に見せていればおじさんの話が真実であったと信じてもらえたのになあ。
でもおじさん、高松宮妃殿下はおじさんではなく、その病院の患者と病院職員全員を見舞ったのだと思うぞ。
>>高松宮妃殿下
たしか戦時中は赤十字の副総裁じゃなかったか?
662 :
名無し三等兵:2006/12/23(土) 15:33:38 ID:Ii/2zYgs
父方の祖父(鬼籍)は東京の十条で町工場をやっていた。
戦時中は中島の飛行機部品を作っていたそうだが、毎朝近くの小学生が通学
途中に家の前を通る際決まって最敬礼をしていくそうな。
祖父は「何で最敬礼して行くんだろう…?」
自分の息子(俺の親父)に聞いてみたところ「先生が『○○の家は戦闘機の部品
を作っているのだから前を通る時はお辞儀して行く様』に言われた」との事。
銃後の生活の一幕でした。
(その町工場も3/10の空襲で全焼。戦後は板橋で日立製品の部品作りに精
出してました。)
直接戦争の話ではないが。
戦前に歯医者をやってた母方の祖父は、郷里でも数少ないインテリだった。
当時『改造』という総合雑誌があったが、その田舎街の本屋で定期購読している
三人のうちの一人。
『改造』は『文藝春秋』と並ぶ二大雑誌で、文春より少々リベラル。
今なら『中央公論』ぐらいだろうか。
ところがそれに警察が目をつけた。
毎月毎月、特高課と称する刑事が、祖父の言動の確認に来るようになったのだ。
祖父はその度に封筒を渡して帰ってもらっていた。
戦前のように過度に警察権が強いと、取締りは組織末端の匙加減なので、こうい
う警官のせびりたかりが起きたのだな。
ちなみに祖父のところには新聞記者も定期的にやってきた。
もちろん封筒目当てである(笑)
警官やら記者やらに何がしか金を渡すのは、戦前の地方名士の避けられない付き
合いだったらしい。
数年前、近所のデパートで大東亜戦争展みたいなのをやってた
従軍体験者の話やら、それを元に描かれた絵やらが展示してあった
その時、息子達(だと思う)を連れてた爺さんがいて、その人がワニを食べる兵士の絵を見ながら自分の体験を語ってたのを横から立ち聞き
何でもその爺さんもどこかは言ってなかったが南方で戦ってて例に漏れず飢餓地獄
絵と同じようにワニを食べたことがあったらしい
最初の内は、逆に食ってやるぐらいの勢いだったワニも、その内日本兵を見ただけで逃げるようになったそうな
ある日、ワニを捕まえて食べるために捌いたら腹から軍靴が出てきたそうだ
携帯から長文、駄文スマソ
>>4 戦時中の所属部隊を照会する方法があるのでしょうか。
もしご存知であればぜひ教えて下さい。
祖父は19年にホーランジアで身罷ったようですが、
九十になる祖母は、戦時中のことをあまり具体的に語りたがりません。
詳しく知らない・覚えていない、ということもあるようですが
孫に生々しい現実を伝えたくないという思いもあるのか・・・
30を幾つか過ぎて、自分のルーツを改めて辿りたいという想いも
あり、ここ何年か戦史を紐解いたりしています。
寡婦となった祖母や私の父・伯母を全く顧みる事のなかった
祖父の実家は疎遠となっており、手がかりは余りありません。
骨を拾うことは叶わぬまでも、どのように生きたのかを
追ってみたいと願っております。
氏名/生年月日/没年月日/戦没地、程度しか手がかりは有りません。
666 :
名無し三等兵:2006/12/23(土) 18:45:45 ID:nTNvmtTt
>>665 >祖父は19年にホーランジアで身罷ったようですが、
男がどうやって身籠るんだ?
669 :
名無し三等兵:2006/12/23(土) 19:19:33 ID:+2cZ3lWa
>>662北朝鮮みたいだな。どうりで「金一族は敗残日本兵」などといううわさが立つわけだ
私の祖母は姉さん女房なので、じいちゃんは出兵前に終戦を迎えてしまったらしいが
ばあちゃんは満州で従軍看護婦をしていたときの話をたまにしてくれる。若くて美人で注射がうまく
兵隊さんにモテモテだったらしいw手当てした若い将校に恋文とかももらって、いい感じになったらしいんだが
その人がまた出兵して戦死してしまって、手紙を見ながら何日も泣いたと話してくれた。
ばあちゃんいわく、「将校さんは飾諸(参謀飾諸?)をつけてシワの無い制服をビシっと来て、眉根も凛々しく
それはもういい男だった。特に海軍さんは真っ白い制服でみんなうっとりしていたよ」だそうだ。
ばあちゃん、ちょっとミーハーらしいw今でもタッキーとか二ノ宮が好きで、テレビで見ると乙女の顔になってるw
672 :
名無し三等兵:2006/12/24(日) 00:05:55 ID:3fsN2XJR
>>669 貴様俺の爺さんを愚弄するか!俺は貴様を絶対に許さん。
673 :
名無し三等兵:2006/12/24(日) 01:57:36 ID:wa6Fxw4K
俺の父方の親戚の一人は戦艦「大和」の乗組員で、階級は水兵長だった。
天一号作戦に参加し沖縄に出撃。配置場所は定かではないが、戦死した。
父方の祖父も陸軍の幹部クラスとして日中戦争に参加。無傷で帰国し、太平洋戦争前に退役して故郷に戻った。祖父の死後、宮内庁から贈られたとみられる皇族方の写真集らしきものが自宅から出て来た。随分とデカいサイズで、かなり大事にしていたようだ。
それ以外の親戚組は全員中国で戦ったそうで、戦後は極寒のシベリアに送られ、奇跡的に全員帰国したとか。
674 :
665:2006/12/24(日) 13:37:10 ID:???
>>671 有り難う御座居ます。
暮れに実家に帰省する際に、改めて祖母に詳しく聞いて
確認してみようと思います。
15年ほど前に、伯母が他界しました。
伯母も私の父も戦中生まれですが、
彼らは父親(私の祖父)の顔を知りません。
祖父は三度出征し、戻りませんでした。
伯母は、祖父が一度目・二度目に帰国した際に
祖父に会っているのですが、幼かった為その記憶が
無かったようです。
祖母はそれなりに夫から戦地での苦労を聞かされていたとは
思いますが、子供達にはそういったことは殆ど話さなかったそうです。
ですので、我が家には戦中の話は殆ど伝わっておらず、
寧ろ戦後の貧しさや苦労が生々しく言い伝えられています。
母子家庭で育った寂しさなどを一切語らぬ伯母でしたが、
遺品を整理していたところ、戦地に赴く前に撮られた
祖父の写真が出てきました。
その裏に、抱かれた事があるはずの父親の顔を知らぬまま
育ったことの悲しみや口惜しさを詠った詩がしたためてあり、
言葉にならぬ感慨を味わいました。
先日「硫黄島からの手紙」を観て、それを思い出し涙が止まりませんでした。
>>671 軍人なら遺族年金じゃなくて恩給だよ。
昭和27年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定されて軍人・軍属に
遺族年金が支給されるようになったが、軍人は昭和28年の恩給の復活でそっちに移った。
軍歴も陸軍なら厚労省に聞いてもわからんから、死亡時の本籍地都道府県に照会する。
何度も出てきてる話なんだから、正しく理解できるまでは知ったかぶって口挟むな。
676 :
名無し三等兵:2006/12/25(月) 19:41:31 ID:6ZxVnYZW
祖母が女学生の頃、
南の空に飛んで行く、特攻機の編隊から、岬に向けて花束が投下されていくを毎回見たらしい
祖母の話だと「特攻隊員達は、綺麗な花たちを、戦場に連れて行くのは可哀相だと思ったのだろう」との事
翌年の春、その花が根付き、岬に綺麗な花を咲かせるようになったそうだ
現在、地元では特攻花と呼ばれ大事にされている
677 :
671:2006/12/25(月) 20:15:01 ID:???
私の発言が不正確なものであったことを665さんにお詫びします。
675さん。
自分の誤りを指摘していただいたことは感謝いたします。
しかし私を罵倒するよりも、665さんに回答していただきたかったです。
678 :
名無し三等兵:2006/12/25(月) 21:08:30 ID:SviAlwU3
私の親戚(故人)は関東軍、ソ満国境の警備隊にいた。ノモンハン事件で友軍が壊滅した時救援に行く事になったが、親戚は病気に罹り残され内地に送還された(部隊名忘れました。詳しい人なら知ってるかな?)
国境はただっ広い荒野、冬は鼻毛が凍る寒さだったらしい。事件前からソ連軍としばしば小規模な戦闘があり、近代的なソ連戦車は当時から脅威だったと言ってた。
有名なサイダー瓶を使った火炎瓶は親戚のいた部隊の知恵者が考案した実話とのこと、「当時(日米開戦前)から前線部隊に補給はロクになかった」との話でした。
>>676 物凄く悲しい。
場所はどの辺りでしょうか?
「切花が根付くかよぅw」
とかいう野暮なツッ込みは禁止だぞ
>>675
特攻だなんてキレイな美談になったりするけど、ヘタクソがポンコツに乗って的になりにいくだけだよな...
>>681 その話自体は実在するす。
特攻花で検索してみ
685 :
名無し三等兵:2006/12/25(月) 23:43:41 ID:v802rDxU
>>683 実態はそのとおり。
だけど他に打つ手が無いから特攻しか手が無かったのだろう。
>>684 『伝承がすべて真実であるとは限らない』
現在、そこ見られる “ 根付いた(とされる)花 ” は戦後に入ってきた外来種である。
しかしまた、
『真実でない伝承が無価値であるとも限らない』
“ 花束 ” では操縦の邪魔になるだろう。
実際に特攻隊員に渡された花は、桜や山桜(の花枝)であったという。
>>685 しかし、やっぱり
「もっと他に打つ手はないか?」
と模索するべきでしょう。
>>685 ちなみに、特攻に使用された旧式ポンコツの九九式襲撃機や九八式直協機、
これらは部隊から引き上げてきたホントのポンコツではなく、新造機でした。(おニューのポンコツ)
それらの資材をを四式戦や紫電、飛龍の増産にまわせば良かったと思うのは私だけか?
たしかに、打てる手は少なかったかもしれない。
しかし、当時の指導者が選んだのは『最善の手』ではなかった。
>>687 それができてたら坊ノ崎海戦で4,000人も死んだりしないって。
無駄死にになるって下の人間は反対してたのにさあ。
690 :
名無し三等兵:2006/12/26(火) 00:24:04 ID:jWU2W1aC
おさーんが近頃「俺らの親父がめちゃくちゃにした日本を俺ら団塊世代が復興させて経済大国つくったのに━━」とうるさいんですが、なにか反論できないですか?
692 :
名無し三等兵:2006/12/26(火) 00:29:50 ID:kmJhNCC6
俺は生活保護のCW歴5年
当然日々家庭訪問する先は年寄りが主だから戦争経験者が多い
何年か前の話だが、80台半ばのじーさんの家訪問した時に、じーさんが今まで誰にも話したことないって話を聞いた
じーさんは陸軍の歩兵で、歌がすこぶるうまかったそうだ
酒席ではいつも歌わされてたらしい
戦地に赴き、米軍の猛攻で小隊が壊滅したらしい
鬼のように厳しくていつもじーさんをぶん殴ってた小隊長が、瀕死の状態でじーさんに言った
「貴様、日本の歌が歌えるか」
じーさんは軍歌ではなく、「ふるさと」を静かに歌った
小隊長は涙を流しながら息絶えた
俺が訪問した後まもなくじーさんは亡くなった
身よりがなかったので市で火葬し、今も市営霊園の無縁故者納骨堂に遺骨がある
いつか、じーさんの遺言通り遺骨を届けてやりたい
小隊長が、多くの戦友が眠る硫黄島に
693 :
名無し三等兵:2006/12/26(火) 07:53:07 ID:kXKtkfYf
>>692 がんがれ。力にはなれないが心の中で応援するぞ。
洩れも死ぬまでに一度は硫黄島行きたい......
うみ ゆかば みづく かばね
やま ゆかば くさむす かばね
おおきみの べにこそ しなめ
かえりみはせじ
俺の爺さんは海軍陸戦隊に所属していた。
潜水艦を使って夜中に南方の島へ上陸して、その後ニューギニアで戦ったそうだ。
爺さんは車の運転が出来たので(当時、車の運転が出来る人は多くなかったとか)、
将校の送迎やトラックの運転をしてたんだ。
しかし、トラックを運転しているときにゲリラの待ち伏せにあって肩から入った弾丸が、
反対の鎖骨あたりから貫通する形で銃創を負った。
(ゲリラは、殺した日本軍将校の階級賞を米軍に持っていって、金か物資に交換してもっていたそうだ。)
幸い命には問題なかったが、一旦後方へ下がって治療を受けた後、次はフィリピンで戦ったらしい。
終戦前後には山岳地帯でサバイバルを続けたそうだが、米軍機の撒いたビラで敗戦を知って投降した。
そのほか聞いた話は、
・米軍機が来ると隠れていることしか出来なかった。
・M1小銃は連発射撃が出来るからうらやましかった。
・そのM1小銃が山積みで備蓄されてるのを見て驚いた。
・米軍の収容所で米兵たちは非常によくしてくれた。ロシアじゃなくて本当に良かった。
・収容所ではブレックファースト、ディナー、サパーという形で配食された。(昼食が一番豪華だったんだろうな)
・先に捕虜になった日本兵が収容所で威張っていてむかついた。
こんなん。
怪我のせいで片腕が少しだけ不自由だが、今も元気にもみじマークつけて車を運転してる。
が、最近は耳が遠くなったのか、少しさびしそうなのでたまには実家へ顔を出してあげようと思う。
>>692の話、悲しく辛くもいい話だね。
私は文を読みながらも、伯母の話を思い出し涙止まりませんでした。
今現在の若者達のどれくらいの人が、その爺さんの気持ちをわかってくれるのか疑問をもってしまった。
697 :
665:2006/12/26(火) 20:44:05 ID:???
>>671さん並びに
>>675さん、有り難う御座居ます。
確かに祖母はお国から恩給を頂き、そのお陰をもちまして
私の父・伯母を無事に育て上げましたので、
私の今があるのも南方で散りました祖父のお陰です。
色々と、時間を掛けて調べてみようと思います。
みなさん有り難う御座居ました。
>>692さん。貴方の心意気に、私も涙を禁じ得ません。
698 :
名無し三等兵:2006/12/26(火) 22:37:50 ID:BobWhRXa
私の親戚ではないのだけど、つくば市にあるとある老舗の蕎麦屋さんのご主人(80歳近い)なのだが、
陸軍の少年飛行兵で空輸兵だった。(陸軍では空中勤務者?)穏やかで物静かだった。
襲撃機や直協機などを空輸する事が多かったらしいけど、大戦後半は隼三型を空輸する事が多かったという。
台湾やタイ等を飛ぶ事が多かったらしいけど、フィリピン方面に空輸した戦友や先輩達は大勢やられてしまったという。
「戦闘機に乗ってはいるけど、空中戦のやり方なんて習ってない。でも襲われたら逃げるつもりなどなかった。」と。
「沖縄戦の時に、九州の基地に隼を運んで、降りた直後に機銃掃射を浴びて、隼が炎上してしまう事もあった。」
その方の戦友が光人社の「陸軍少年空輸兵物語」を執筆していて、その作中にも登場されていて驚いた。
ファインモールドの隼3型を作って、プレゼントしたらとても喜んでくれた。
しかし、「実機はもっと黒っぽくて、完全につや消しのガサガサした、汚い感じだった。
こんなに綺麗じゃなかったね。でも工場出立ての頃はこんなだったのかな?」と。
未だに足腰もしゃんとして、車を乗り回している元気な方です。
>>695 ニューギニアにフィリピンですか。
本当に大変なところを転戦されたのですね。
お祖父様が今後もご健康でありますように。
最近、九十過ぎになる母の大叔父が出版した自伝本を貰って来たんだが
陸軍で朝鮮へ行ってシベリア抑留経験者とは、母から聞いていて
偶に御本人と話してアカ嫌いなのは知っていたけど
今、その自伝本をちらっと見たら陸軍中野学校卒で11年間抑留
浅原正基が失脚して服役した収容所にも居たと書いてあった
ウチの祖父は陸軍の戦闘機乗りで調布に配備されてたらしい。
何度かB−29や艦載機の迎撃に出撃したって言ってた。
乗ってた機種まではハッキリしなかったんだけどやっぱり「飛燕」だろうか?
>>701 水冷エンジンなら飛燕、
空冷なら疾風か鐘馗と思う。
>>702 意外と月光だったりして。
艦載機の迎撃って書いてあるから違うか・・・
>>703 OK、脳内で屠龍に読み替えた
キ102とかだったら凄いなぁ
俺の母方のじーちゃんは偏平足だからってんで兵隊に取られなかったんだって。
で、戦時中は米問屋だったから隠れて酒造っては近所に振舞ってたらしい。
あと海岸線だったから艦砲射撃受けて、ばーちゃんの目の前に人の首が転がってきたと。
20年くらい前に艦砲射撃で開いた穴が岸壁に点々と開いてる所を教えてもらったよ。
茨城の片田舎にも艦砲射撃しにくるんだねぇ。
常陸市の方ですか?
707 :
705:2006/12/28(木) 01:52:41 ID:???
>>706 当たり。よくわかったねぇ。
艦砲射撃って常陸近辺しか受けてないのかな。
工場は普通に爆撃されてたって聞いたけど。
みなさん。
正月に帰郷したら、ぜひ、伯父さんとかに聞いてみましょう!
知人から聞いた話です。
その人のお母さんが若い頃、東京に住んでいた時に皇居の近くで何度か撃墜される日本機を見たそうです。
皇居の近くだけに日本機も必死で、Bー29に体当たりを試みる機も多かったそうですが撃墜され脱出しても落下傘が開かず、地表に叩きつけられる瞬間まで皇居に敬礼を送っていたパイロットの姿は忘れることが出来ないとのことでした。
2000年に他界した祖父は,(たしか)昭和15年に応召して,
満洲へ出征し,たしかそのまま満洲で敗戦を迎えたはずです.
部隊名は,戦友会の写真などを参照すると,「満洲滴道第180部隊作業隊」と
なっているのですが,たしかこれは関東軍内での呼称ではなかったかと思います.
祖父はもともと旋盤工だったので,工兵部隊に居たのかと思っていたのですが,
この部隊は歩兵の部隊なのでしょうか.ご存知の方,いらっしゃればご教授願います.
ちなみに,別の写真で大阪護国神社で撮影された団体写真があり,
大阪勝山会の名がありました.これは戦友会とはまた別のものなのでしょうか.
ご存知の方,いらっしゃいませんか.
ずっと,祖父,祖母,曾祖母と暮らしておりましたので,いろいろと戦争の
話を聞かされました.
祖父の話で一番忘れられないのが,戦友の屍を焼く火で近くの畑からかっぱらってきた
野菜などを焼いて食べたという話.
あと,祖母,曾祖母が機銃掃射の怖さを身振り手振りを交えて話してくれたこと,
などを思い出します.
そうした話をしてくれた,祖父母,曾祖母,いずれも鬼籍に入って久しいです.
やはり,もっとたくさん話を聞いておけばよかったと思い,せめて,と,毎朝
仏壇に線香を供える次第です.
711 :
9:2006/12/28(木) 21:16:36 ID:???
以前何度か書き込みしたものです。
軍人恩給、祖母が貰っているはずなのですが呆けちゃってるので
聞けません。国会図書館に陸士、陸大の卒業名簿(非売品)が
あることがわかったので年明けにでも見に行こうかなと思っています。
新たにわかったことは、広島幼年学校→陸士→陸大と祖父はまさに
軍人コースの人生だったようです。
あと、5、15事件の時に、陸士の同期(44期)が何人か
関わっていたようです。ってことは2,26事件の時とか、
何やってたんだろう・・・。
第七方面軍の参謀時代は軍政に関わっていて、
シンガポールはそんなに前線ではなかったので
わりといい暮らしをしていたのではと思います。
シンガポールの占領の時はまだ陸大にいたようですから、
平安になってから行ったのかも。
昭南市長と祖父の私的顧問団(東京商大の教授らしい)が関わっていた、
という文面を見たのですが、
一参謀に私的顧問団なんてつくものなのでしょうか?
713 :
白梅会:2006/12/29(金) 19:37:33 ID:rtwfqGZs
>>183,382,695
私の祖父の兄もニューギニアで戦いました。
戦後生き残った将校の方がが自費出版した本によってその最期をうかがいしることが出来ます。
祖父の兄は高射砲大隊の通信兵をしておりました。
行軍途中食料は乏しく畑で芋を栽培したり、貝を採取したりしたそうです。
しかし、彼は体力の限界を感じたのか行軍途中に拳銃で自殺したそうです。
私に将来子供が出来たら、国のために戦った祖父の兄の名前をつけたいと思います。
祖父も祖母も、喜んでくれると思います。
714 :
名無し三等兵:2006/12/29(金) 20:00:50 ID:wBHKrxrA
>>676 鹿児島の岬ですか?この間
野間岬まで行きましたので気になりました。
もしよろしければ教えて下さい。
715 :
慰霊:2006/12/29(金) 20:51:25 ID:6skBXy7s
漏れの地元の郊外、蜜柑畑が広がる山の中にそこで大戦中に戦死したパイロットの慰霊碑がある。
基地航空隊らしく文面は、「爆撃に向かう敵編隊を発見した迎撃命令が出ず、基地の隊員はその事に皆悔しがっていた。この時、基地の上原中佐がこのまま見過ごしては隊の名折れと憤慨する隊員達をなだめ、軍令違反を承知でただ一機で迎撃に向かった。
丁度この山付近で敵編隊と空戦になったが奮戦空しく戦死した。
その様子を見ていた地元住民により、大軍に単機で切り込み散った上原中佐を慰霊するため戦後に碑が建てられた」という内容
716 :
続き:2006/12/29(金) 21:13:57 ID:6skBXy7s
碑文によれば上原中佐の最期は「ただの一機で護衛の敵戦闘機隊?と格闘戦をやり、敵編隊を掻き乱し獅子奮迅に暴れまわり力尽きて炎上、最期は皇居の方角を向き万歳をし愛機『疾風』と共に山に激突した」といった模様。
壮絶に散った上原中佐の死に場所は、今は暖かい潮風の吹き込むみかん畑が広がるのどかな山。
しかし戦後60年、地元でもその碑の存在は忘れられ、山の片隅にひっそりと佇む。せめてオレは忘れないでいておこう、祖国を守ろうとした人達の事を……そしてこののどかな光景が、二度と血で染まる事のないように……
うちの爺さんは大戦中は慰安婦狩りが主任務の陸軍の軍属だったよ
×:大戦中
○:朝鮮戦争
719 :
名無し三等兵:2006/12/29(金) 23:46:39 ID:Z6Dg+JfO
>>716 マジで胸にくる、教えてくれてありがとう
そのパイロットも忘れずにいてくれる人がいて
きっと嬉しいだろうよ
720 :
名無し三等兵:2006/12/30(土) 00:41:56 ID:sFIXXM8q
都内で戦時中に航空審査部.航空工しょう.飛行場.飛行機工場があった場所が今は巨大で美しい国営公園。いまだに煙突やら工場の建物が残っている。そこに行くとやはり平和が一番だとつくづく先人に感謝の気持がわいてくる。皆様もどうぞ。
>>715 YO!ご近所さん!
場所は知っていたが、纏わる話ははじめてみたよ。
簡単な由来も書いてあったが、よく見てなかったし。。
こういう話は風化させちゃ駄目だね。
とりあえず語り継ぐ。
〉〉718
馬鹿、精強かつ高い規律を誇る朝鮮軍が慰安婦集めなんてするかよ。
慰安婦がいなくても文句一つ言わず、指示が無くても臨機応変なる判断で現地の女性を調達、それが朝鮮軍!
>>715-716 私の近所にも似たような碑があります。
つい最近知った。
「飛燕」で戦死した中村少尉を慰霊する碑。
工事現場で「飛燕」のエンジンや機関銃が発見されて
新聞記事やテレビニュースになった。
漏れはじいちゃんは砲兵とだけしか聞かなくて
現在軍ヲタになる前は軍人の時のこと聞こうともしていなかったが、
聞く前に倒れてしまいそれっきりだったお。(´・ω・`)
今も定期的にお墓参りはしているが、久しぶりにおまいらもちゃんとご先祖様のお墓参りしれ。
726 :
名無し三等兵:2006/12/31(日) 00:19:24 ID:jNcZ9eGA
今日プラモ屋で航空機見てたらご老人が話しかけてきました。
すっと二式大艇が入った模型の箱を手に取り操縦席後方を指差しながら一言。
『ここに乗ってたんよ。』
ご老人曰く二式大艇はよく日の丸を狙れて撃たれ、戦闘中に仲間が倒れる事もあり、20ミリ機関銃を扱ったのだとか。
『曳光弾が山みたいな弧を描いてとんでった。』等、色々聞く事が出来ました。
そして『日本のは人命を考えていないからねぇ。じゃ。』笑ってその場をすぐに立ち去っていくご老人。
思わず脱帽敬礼をしてしまいました。
何かまとまってなくてすみません。
727 :
名無し三等兵:2006/12/31(日) 08:44:30 ID:JP2KYZOR
3年前の終戦記念日で靖国神社参拝をした後の出来事。
九段下駅の近くに軍隊の帽子を被ったご老人が座っていました。
がっちりした体格でした。
敬礼をしたら敬礼を返して頂きました。
何か嬉しかったです。
3年連続で終戦記念日に靖国神社参拝をする度に感じる事ですがご老人
が年々少なくなってきた気がします。
20代と思われる世代が増えているのが救いですが。
728 :
名無し三等兵:2006/12/31(日) 09:02:26 ID:8hNI6Q1O
戦争に負けて、アメリカの占領軍がそこらじゅうで強姦しまくりなのを、横で指をくわえてみていたのが
おまえたちのじいちゃんというわけかw
729 :
名無し三等兵:2006/12/31(日) 09:24:29 ID:JP2KYZOR
>>728 三国人の残虐極まりない行為に対して天誅を下せなかった事を恥じているがな。
奴等はマスゴミの悪用をして嘘をばら撒いていたがメッキが剥がれてきたね。
今度はネット工作か。大晦日なのにご苦労なこったw。
730 :
名無し三等兵:2006/12/31(日) 13:56:20 ID:zzFvrH9S
おじいちゃんはニューギニアで白豚のお肉を食べたそうです。
手早く捌かないと敵が仕返しに来るので、まだ息があって「ママー」とか言ってうめいているのもかまわず
腿肉だけを切り取って逃げたといってました。
手に入れた肉は雑草と一緒に塩水で煮て食べ、豚の持っていた缶詰は大事にとって置いたそうです。
>719
「最期は皇居の方角を向き万歳」をし愛機『疾風』と共に山に激突した」といった模様。
て誰か見た香具師おるんだろうか?
>>731 “ 皇居 ” や “ 万歳 ” は枕詞みたいなものだから気にする必要ナス
>>715 埼玉の熊谷に有った熊谷基地(籠原)でも似たような話が残ってる。そっちは五式戦だったけど。
祖母の叔父さんは中国大陸に出征、機銃射撃中に敵の弾丸が頭に命中、戦死した。
その時、同じ機関銃のペアだった人が、形見に鉄カブトを持って帰還。
戦後数十年たって、遺族に返したいという話が地元の新聞に載り、少し有名になった。
俺も、その鉄カブトの実物を見た事があるが、弾丸の痕が生々しかった
鉄兜て私物か?
畏れ多くも天皇陛下からお預かりした代物ではないか・
んなら、支給されるものは褌に至るまですべからくそーゆーことになるな。
汚い股間を包んだ褌を天皇陛下にお返しするの?
褌と手ぬぐいは私物ちゃんか?
うちの母方のじいさんは海軍将校の短剣に憧れて
航空隊に志願。しかしすべってしまい鹿屋航空基地の
整備隊に入隊。
対戦末期だったので零戦と赤トンボしか見たことがない
とのこと。ゼロ戦のエンジンをバラしていたりしたらしい。
そしてそのまま終戦。
父方のひいじいさんはどちらとも陸軍で日清・日露・第2次
大戦に参加してどちらとも生還
してます。2年前に会いに行ったら勲章がたくさん
ありました。残念ながら最近亡くなってしまいました。
私の誇りです。携帯から長文すみませんでした。
>>734 日本兵を殺した後、
記念に奪った軍刀やら日章旗やらを、
元米兵が戦後になって、遺族に帰したいっつー話は良く聞くよね
741 :
名無し三等兵:2007/01/01(月) 20:30:22 ID:Dj7CJTIn
>>740 記念に下さいボタンを一つ♪
と、柏原芳恵の歌が出てきた38歳。
父方祖父
特攻隊員
震洋の操縦士
もともと志願兵でサイパンへ行く予定だったが全滅したので取りやめ
次の配属先が沖縄だったが、輸送船が撃沈され中止
結局九州のどっかの島に配属が決定
派遣先での訓練中にコルセア、グラマンに3度機銃掃射を受け
震洋2艇四散本人は3回とも海に飛び込んで無傷
出撃命令前に終戦
母方祖父(故人)の話なんですが、佐官クラスだったらしく、
終戦時に米軍に見つかるのを恐れて、軍刀等を畑かどっかに埋めて処分して、隠れてたそうな。
何やってたのか気になるんで、帰省したときに所属部隊とか調べてみます。
天皇陛下に機関銃向けた国賊だったら
腹を切るよう説得しとけ。
745 :
名無し三等兵:2007/01/02(火) 12:37:57 ID:fhcA6PQe
陸軍予備士官学校ってどういう組織ですか? うちに【陸軍予備士官学校戦史】という本を発見しますた(ノ´‥`)
弾よけと弾代わりの製造所でつ。
747 :
名無し三等兵:2007/01/03(水) 01:06:00 ID:pr+iRbAN
つまりへたしたら俺はいなかったわけだな。前橋予備士官学校にいたらしい。
詳しくは聞かなかったけど、武蔵の護衛艦に乗ってたらしい。
コックだったんだけど。
攻撃機にボカスカやられて厨房のオーブンに逃げ込んで難を逃れたらしい。
で、攻撃が止んで出てきたらさっきまで一緒に働いてた人は
みんな五体がバラバラになってたそうだ。
帝国ホテルの料理人だった人とは仲良かったから泣きながら頭を拾ったって言ってた。
「その人に教えてもらった」っていうグラタンが目茶苦茶美味かったよ・・・
俺の爺ちゃん、ラバウルにいたそうだが、
原住民の人達に、日本の畑作の仕方を教えてやり、
主食の芋の生産が増えて、すごく感謝された事とか、
近くに温泉が湧いてるから、原住民と日本兵みんなで一緒に湯につかり、
日本の歌を歌いながら温泉卵を食った話とか、
のほほんとした話ばっかりだったな
>>749 それはウルルンでやってたのとまったく同じ内容ではないか。
もう少しオリジナリティを出せや。
婆ちゃんが岩手県の人なんだが、
当時国内有数の、鉄の鉱山があった釜石という街が、米軍の艦砲射撃を受けたそうだ
婆ちゃんの家から釜石まで、60キロ近く離れていたが、物凄い爆音が聞こえて恐かったって言ってた
752 :
名無し三等兵:2007/01/04(木) 22:25:46 ID:1WMv1ai2
岩手の後に茨城の勝田町(現在ひたちなか市:水戸市の隣)で
艦砲射撃があった。
機関銃を製造していた工場があったから狙われたらしい。
航空機が目標上空を飛行して観測してから艦砲射撃が始まった。
とにかく攻撃の被害が酷かったらしい。
父の叔父(故)が中国〜東南アジアで戦っていたという話を聞いた。
三年式重機関銃の射手で射撃が上手かったらしいが、何時からか
殺した相手の顔が脳裏から離れなくなって、最期はまともに相手を
見て射撃が出来なくなったと言っていたなぁ……
父方の祖父は中野学校出身と言っているけど、ちょっと胡散臭いんだよなぁ。
>>751 岩手県の釜石は、東北地方で1番の工業都市だったから、米軍の標的にされたんだよね。
終戦間際に、二回も艦砲射撃を受けて、工場や街は壊滅。約1000人の犠牲者を出した。捕虜収容所にいた米兵も、犠牲になったみたいだね。
>749
うちの村の長老が高等農林出の中尉殿。
潜水艦仕立ててラバウルに農業指導で赴任したお人だと聞いたことがあるが
757 :
名無し三等兵:2007/01/05(金) 22:58:14 ID:7hDzo+hp
爺ちゃんは海軍で機関銃の講師をやった事もあるらしい。ちなみに、爺ちゃんは機関銃の大会で優勝したようだ。
その後、金剛や榛名に乗ったり、2人乗りの戦闘機(前が操縦担当・後が爆撃担当)に乗っていた。 最後には特攻隊になったんだが、エンジンの故障で鹿屋に引き返した。特攻隊になり1度は死んだ身なんだがなぁ…
w
笑ったら思う壺じゃんか!
761 :
寒いレス:2007/01/06(土) 00:12:19 ID:h+FcNMDs
かんた「ぶ〜ん」
ばあちゃん「誰かきったんけ?」
かんた「シラネ」
俺の祖父(母方)は満州にずっといて、擲弾筒を装備していたと聞く。部下が確か3、4人いたとか。
ソ連軍が来たとき、捕虜になってシベリアに連行されたけど、あまり強制労働はさせられなくて終戦後にカザフスタン経由で帰国できたんだと。
e
俺の母方のじいちゃんははじめ満州にいてその後内地に一回帰ってきたんだけどその後もう一回出征したって言ってた。
その際に神戸から台湾経由でフィリピンに行く予定だったんだけど船が出る日に曽祖父が会いに来たらしく上官が気を利
かせて次の船に乗るように手配してくれたらしいそんでその次の船で無事着いて上官にお礼をしようとしたらその前に出た
船は潜水艦の雷撃で上官もろとも沈没したらしく今でもその上官に感謝してるって言った。
なんだかんだで俺が生きてるのなんてまじで偶然の産物なんだとつくづく思ったよ。
他にも色々話し聞いたんだけど書いた方がいい?
是非お願いします。
お正月に再度、爺ちゃんに酒飲まして聞けた話いろいろ。
箇条書きでスマソ。
○予備士官学校に入れたものの、全員成績悪く、怒られっぱなし。(アイスクリームの食べ過ぎで怒られたりも)
結局、全員出征時には小尉になれるはずが訓練生?の身分のまま出征
○仕官は飛行機で出征できるが訓練生なので船に載せられた。
港から潜水艦が見えてこっちを狙っていたが、逃げ切れた。
○南支那海でまた潜水艦に遭遇、一隻沈められるが15隻はなんとか到着。
その後の船団は一隻を残して全滅とからしい。
○ジャワ・スマトラへ。ジャングルの中に。オランダ軍もいないが、
沖合には相変わらず、潜水艦がいて嫌がらせ?をしてくる。(怖いらしい)
カノン砲?で応戦するが、当然当たらず。
○海軍の船が来てくれた!でも帰ってこずに死体が流れついた。
あるラッパ兵が波打ち際までたどり着いたがラッパを吹いて死んでしまい、全員泣いた。
○スマトラで石油施設と飛行場警備。道が日本以上に整備されていて驚いた。
○ビルマから旧友の衛生兵が歩いて逃げてきた。(シンガポールか?)
ボロボロだったので軍服と下着を一着恵んでやって野戦病院に入れたら、そいつの方が先に内地に帰れた。
○自動車が壊れたので現地の車屋を探したらフォードの部品が大量にあり、驚く。
○戦友に「俺が死んだらこれを父と母に届けてくれ」と爪と髪を渡したら、その戦友が先に内地に帰れた。
○富永中将の息子が部隊にいたらしい。
○上層部が先に逃げ出して、全員呆れた。
○結局、敵は来なかった。
終戦後、念願の小尉になって内地に帰れたが、汽車の中から広島を見てびっくりした。
強運だな、じいちゃん。
>>767 ホントは大変だったんだろうけど、
読んでてすごいワロタ。おまいのじいちゃんにいやさかあれ
>760
富永の息子さんての大変な立場じゃね。
親父はシベリア送りでも「生きてかえってくるわ、
恨み神髄の帰還兵や遺族は多いし・・・。
牟田口の家族とどちらが大変なんだろうか興味ある。
770 :
名無し三等兵:2007/01/06(土) 19:36:36 ID:h+FcNMDs
771 :
名無し三等兵:2007/01/06(土) 20:36:34 ID:92FCa7J1
773 :
名無し三等兵:2007/01/06(土) 22:31:55 ID:VW9scGYG
祖母の兄はビルマでの衛生兵だ。彼はマラリアで亡くなった。彼は、ある一冊のビルマでの戦争の本の1ページに載っていた。著者もビルマでの衛生兵で、偉かったらしい。そして『彼のおかげで私は生きている』とさ。祖母は、手紙で本当に兄なのか確認したんだとさ。
774 :
名無し三等兵:2007/01/06(土) 22:33:56 ID:VW9scGYG
すると、返事の手紙と線香と金が送らてきた。ちなみに著者さ某大学の医学部教授らしい。
775 :
名無し三等兵:2007/01/06(土) 23:56:57 ID:m12YcHIM
>>769 そもそも富永中将は息子さんが戦死した事が原因で精神を病み、周りが「こいつはもう指揮などとれん」と台湾に送りつけたんじゃまいか?
俺の爺ちゃん、戦争に行って初めてアメリカ人てのを見たらしく、
体がでかくて顔の彫りが深いのにビックリ、
黒人を見た時は恐怖だったみたい
しかも米軍の攻撃力がとんでもなく強くて、
「オラ達、本物の鬼と戦争やってんでねーべか??」
って戦友と話してたみたい
俺のおじい様は
醤油・・・・・・・・・・・
ルソン島での戦いの時、祖父の部隊はアメリカ軍に包囲され、全員バンザイ突撃の準備をしてたんだと。
すると、アメリカ側から、捕虜になった日本人が降伏をすすめに来たらしい
隊長は「降伏などせん!!」って激怒し、アメリカ軍が見てる前で、軍刀でバッサリ切り殺した。
その様子を見てたアメリカ軍は、一斉に攻撃を開始し祖父の部隊はほとんど全滅。祖父は片腕と失って、倒れていた所を見つかり捕虜になったそうだ。
その隊長に後ろ弾て発想はなかったんかいの。
基地外は始末しますた。降参しまつて・・・。
俺なら確実に隊長を撃つな。
俺漏れも
オマイらが栗田の後ろに立っていたら歴史も変わったろうに。
栗田はやばいとこから逃げ出してくれたんだから問題なし。
俺たちみたいなのが後ろに立ってたからこそああなった。
やっぱり戦後は駐留軍に妻を貸したりしたのですか?アメリカ兵の強姦を見ても見ぬ振りだったんですか?
もしかして
>>758-759は
『水兵から航空兵になれる訳無いじゃんw』
とか思ってるのかな?
基本単座の戦闘機の後座に爆撃担当員
>768
月光で魚雷艇狩りしてたんだよ。
789 :
名無し三等兵:2007/01/08(月) 23:35:36 ID:Dn1qD1v9
じーさんは2006年10月半ば逝った
87歳の大往生だった
俺が大学生の頃(5、6年前)じーさんから聞いた話を最近思い出した
じーさんは中部太平洋の島の防備にあたっていた
島の名前は教えてくれなかったが、
陸海合わせて20000以上の兵力だったらしい
所属は海軍陸戦隊で階級は二等兵曹
応集兵だったそうな
米軍が上陸し、必死の抵抗を続けながらも部隊は後退
じーさんの部下も全員戦死した
いよいよ総攻撃という時に、
じーさんは海軍トップの少将の護衛を担当
じーさんも弾丸を2発受けたが、何とか少将の自決に立ち会い、
少将の遺体を地中深く埋めたところで意識がなくなり、
そのまま捕虜となって生還したようだ
じーさんは俺以外には誰にもこの話をしてないって言ってた
病床で苦しむじーさんを見舞って俺ら2人だけになった時、
じーさんが、やっと閣下達の元にいけるってつぶやいていた
あの達観したような顔が脳裏から離れない
ガムかテニアンかな。
軍歴照会してみたら判ると思うけど
硫黄島かもね
普通。海軍じゃ「閣下」は使わないような・・・。
>>792 まぁまぁ、一生懸命作ったんだから。
それくらいのミスいいじゃないの。
定期的に、ロマンチックな設定のお爺さんと、
日本人離れしたお爺さんが出てくるのはこのスレのお約束だもんな。
796 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 15:32:32 ID:/y6Wvjp4
30年前なら戦争経験爺さんはたくさんいたから戦争の
話はいくらでも聞けた
アメリカ兵は暗闇で光る日本刀が恐ろしくてたまらんかったと
いっていた爺さんもいたよな
明治生まれの戦争体験者には風格のあるカッコのいい爺さんが
結構いたけどな
797 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 15:41:05 ID:/y6Wvjp4
俺は子供だったからアメリカ兵を殺した話は聞かなかったが
南国に行ったあの爺さんはたぶん相当敵兵を倒しているよ
当時は子供だったで深くは考えなかったが今思うと全身から
殺し屋のような凄みがにじみ出ていたんだよな
798 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 15:43:22 ID:/y6Wvjp4
ヤクザとか娼婦は雰囲気ですぐわかると言われているが
殺し屋も雰囲気でわかると思う
799 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 15:53:02 ID:/y6Wvjp4
俺の知っているのはその爺さんが戦争で南国にいっていて
トカゲやネズミはうまかったと聞いたくらい
しゃべっていると落ち着いて普通なのに目が違うんだよな
800 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 16:02:29 ID:JrtGlXX1
入院してた時の爺さんは面白かった
「南方(場所は忘れた)で食料が無くなったのでマムシを食べた。
これがとても旨かった。今も食べたいが売ってない。」
「マムシはいくらでも獲れた。沢山食べてもいなくならないので食料に困らなかった。」
「腹が減ったらダイナマイトをかじってた。甘いが沢山食べると腹を壊す」
「ダイナマイトは密閉して雷管を付けなければ爆発なんかしないよ。
火を付けてもただボワーっと燃えるだけ。
爆発なんかしないよ。やくざ映画は大嘘だよ。」
「雷管ってのはニトロを固めたもので小指の先ぐらいあればこの部屋(6人部屋)ぐらいは全滅させることができるよ。」
こんな感じで、毎晩中国戦線での武勇伝を聞いてました。
楽しい入院生活でした。
ちなみに工兵中尉だったそうです。
801 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 16:08:55 ID:/y6Wvjp4
やせて色は黒くて背中も少しまがってた細くてひょろりとしていた
テレビで見たソ連軍と戦ったアフガニスタンのやせた老ゲリラの
ような風格があったな
803 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 19:09:40 ID:9O7s1d/U
765で書いた者です
色々忙しくてレスするの遅くなりました。
その他の話としては上陸後数人で行動していたらいつの間にか部隊からはぐれてしまったらしくジャングルをさまよっていたら、
ちょうど他の部隊と合流できたんだけど、その部隊の隊長?かなんかがすごい意地悪な奴で合流した後に寝る床用意してくれなかったらしく少し離れたところで寝ることになったんだって。
そしたらちょうどその部隊に襲撃があって部隊全滅、たまたま距離を置いて寝てたから助かったって言ってた。
他には飯は三食あったらしいけど唯一の楽しみはそこに塩かけて食べるときなんだって、おかずなんてものはなくて、たまに取れる蛇とか蛙とかで何とかしたんだって。
まあ最後には捕虜になって終戦後2年たって無事岐阜の実家に帰れたんだけど『この辺で出征して言って五体満足で帰れたのは俺一人だった』っていってたよ(´<_` )
あとなぜか今村中将?をすげー尊敬してた、それと何故か陸軍で出征したのに実家にある本は海軍関連の本ばっかりだったw
そんな祖父も去年の二月に帰らぬ人になってしまったけど最後まで他人に迷惑かけまいとしてたから本当に立派だと思うよ。
こんな長文&駄文になってしまったけど読んでくれてありがとう。。。
うちの親父が子供の時に近所のおっさんに聞いた話
なんでもそのおっさん、満州あたりで憲兵やってたらしくて
「志那兵捕虜を並べて立たせて三八式の貫通力の実験をしたんだよ。〇人の頭をまとめて貫通したよ。流石は日本の銃だ、がははは」
みたいな話をしてたらしい(何人だったかは失念しちまった)
とんでもねぇ野郎だよorz
∀ <_☆_>
G\(〇m〇)
\ ※:@*\
一発の弾丸も無駄にせぬ憲兵の鑑だな!
しかも、『硫黄島からの手紙』の嘘も判るというものだ!
806 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 21:00:28 ID:DhXxTA37
入院中に隣に担ぎ込まれてきたご老体は、
死に直面した容体で涙を流したりして情けなく思っていたが、
無事快復したら元気に昔話をしてくれた。
戦時中は銀河の偵察員してたそうな。
攻撃隊でなく偵察任務専門で、いつも零戦が二機護衛についていたと。
幸い飛行中には一度も敵機に出会うこともなく、
無事に終戦を迎えたとのこと。
仕事は数学塾の経営者だった。やっぱ頭はよかったようだ。
807 :
名無し三等兵:2007/01/09(火) 21:47:34 ID:+N5pV6I6
日露戦争に従軍したうちのひい爺さん。
そういった縁ゆえか乃木将軍からの手紙を持ってます。
しかし残っているのは封筒のみ(´・ω・`)
中身は誰かにあげちゃったみたい。。。
明治43年生まれのうちのじいさんは少なくとも3回は戦争に行ってると予想。
昭和6年時点で上等兵でした。
昭和18年〜20年の間に三十路も半ばになってもう無いだろうと思っていたのに召集された。
小卒だったからやっぱ上等兵どまりだったんでしょうかね?
811 :
1/2:2007/01/11(木) 02:14:58 ID:???
映画板の『硫黄島からの手紙』スレから誘導されてきました。
222 :名無シネマ@上映中 :2007/01/10(水) 23:42:27 ID:25Hk5Vut
年始の挨拶の時に祖父の軍隊での話を聞いてきた。
戦争中は(西郷みたく)国に帰りたいなんていえなかったよね?と聞いたら
「そりゃあ、言えなかったよ。何かあるとすぐビンタされるからなぁ。箸が1本なくなったら
ビンタ、シャツがなくなったらビンタ。夜になると古参兵とかが盗りにきて連帯責任でビンタ
何でビンタされてるのかわかんない時もあった。軍隊は地獄だと思ったよ。国に帰りたいなんて
言ったら大変だったよ」
やっぱり西郷みたいなのは異質なんだな、と思ったら
「戦友に国に帰りたいなぁと話してるところを班長さんに聞かれてな、貴様国に帰りたい
のか!って言われて、仕方ないから帰りたいです、と言ったら、何で帰りたいと聞かれる
からね、父がいなくて母だけだし弟も妹も小さくて心配なので帰りたいって言ったら
非国民!って言われてビンタされたよ。袖の滑り止めが七つになっちゃって向こうから
上等兵が歩いてきてもあっちから敬礼されちゃうから困った」と言ってました。
満州サイゴンシンガポールで航空整備兵だった祖父です。
死ぬのが怖くて有り金全部使って酒保でバカ騒ぎしたりしてた、でも最後は絶対に
日本が勝つと思ってたといってました。
812 :
2/2:2007/01/11(木) 02:15:48 ID:???
242 :222:2007/01/11(木) 01:00:56 ID:41NOD2u7
引き揚げの時の話とかは怖かった。武装解除して英兵に囲まれて、白・茶・黒の
天幕が用意されてる。一人一人受け付け行って氏名等級を名乗ると、どの天幕に行け!
と指示されるんだ。白は無罪、茶は軽犯罪、黒は犯罪者用だったんだよ。同じ部隊の
誰それは現地人を痛めつけてて黒の天幕に送られてオーストラリアに苦役に行かされた
とか、現地で靴下2足の米とタピオカ渡されて孤島に送られた、とか。
おじいちゃんが生き残れたのは運がよかったから、それだけなんだよ、と4回位
言ってた。硫黄島とかは応召(徴収?召集?)兵ばっかりだから大変だったろう、
昭南島はまだ食い物があったからよかった、と言ってました。
以上、転載
シンガポール作戦でパーシバル中将に勝った後、降伏の話し合いをしてるところの
近くまで行ってみた。
シンガポールのタンギにある国際空港は自分達が作った。
墜落した飛行機から使える部品を取り出す仕事を部下8人としてた最中に敵機の爆撃があって
死ぬかと思ったが、電話で助けを求めたら○○中尉が迎えに来てくれた。というのは
嬉しそうに話していました。
捕虜になって本当に食うものがなかったので、孤島から人のいるところまで泳いで
いって服と食べ物と交換したりする人もいた。捕虜になってからはビンタされなかった
なぁ。シンガポールの司令官だった△△少将(名前忘れてしまいました)の写真をこっそり
くすねてもってた。とも。
813 :
名無し三等兵:2007/01/11(木) 10:49:11 ID:ssTyD1gj
あと3年公開が早かったら首相の靖国参拝も支持率が全く違っていたろうな。
814 :
名無し三等兵:2007/01/11(木) 10:49:49 ID:ssTyD1gj
すまん誤爆
うちのジイチャンは中尉だったらしい。
ソ連軍につかまったがシベリアではなかった。
トイレで必死でロシア語マスターしたおかげで日本に帰れたんだって。
ジイチャン亡くなったけど戦中の事は聞けなかったよ。
ばあちゃんは広島の被爆者。
家族同然の付き合いの叔母の同級生の父親が海軍で司令官?だった(階級はよくわからない)
山本五十六と面識があった
“一人十殺”を提言していたけどその人が沈没させた船は数知れずだから10人どころじゃないはず
焼夷弾が隣に座ってた部下の膝に落ちてきて炸裂したとか
いろいろな南島に行った果てに長崎の原爆投下の際雲仙で被爆、以来右耳の聴覚を失ってる
年に数回予科練の部下の方が自宅に訪ねに来てたんだけど近所の散歩について行ったら
寺の階段で予科練の方(60代)がその人をおんぶしててあの時代の軍人の忠誠心に幼いながら驚いた
『月月火水木金金』という歌を作ったらしくお葬式では予科練の方々が泣きながら歌ってたのが印象的
ただ年金はありえないぐらいもらっていたらしい。
叔父が陸軍中尉だった。とはいったって親父と叔父は20歳離れてたんで、本当の祖父を知らぬ
俺にとっては叔父が祖父のようなもの。
半島の飛行場警備隊の隊長をしていたらしいと聞くが、何故か昭和19年頃に予備役編入になった。
何でそうなったかは最後まで教えてくれなかった。というより、あまり軍隊の頃の話をしたがらなかった。
半島で何かがあったんだろうな。
でも、俺が陸上自衛隊に入隊した時に一番喜んでくれたのが叔父だった。「国の守りは大事な仕事だ」と。
よく新隊員教育隊の話を聞かれたなあ。「海上はわりと海軍の伝統を残してるらしいけど、陸上は陸軍と
は別物だよ」と話したら「陸軍は戦後悪く言われっぱなしだったからな」と寂しそうに言ってたな。
父方のじいちゃんも母方のじいちゃんも病弱で召集されなかった
うちとこの親族は病弱が多い
当時なら非国民だったんだろうかなぁ
819 :
815:2007/01/11(木) 17:45:25 ID:???
父方のばあちゃんに詳しく話聞いてきたのでカキコ
徳島の高等工業専門学校製薬科学科卒業。朝鮮日本チッソかんこう火薬工場入社。
赤紙召集、福山部隊に入隊。幹部候補正になる。熊本陸軍予備士官学校→見習い士官。
ボルネオ、ニューギニア、シンガポールを通って満州奉天師団陸軍少尉。築城教育を受けた。
平壌の秋乙、第242部隊配属。ばあちゃんと結婚して陸軍官舎に入る。
ドイツが負けたのでソ連軍が攻めてきてじいちゃん捕虜になる。
ウラジオストクから日本に帰すと言われたが、天体観測で方向がちがうので嘘だと分かった。
モスクワの捕虜収容所に連れてかれる。この時中尉。
殺されるかもしれないからいざとなったら脱走する覚悟をしたので捕虜仲間からロシア語を習ったらしい。
ロシア語をでるから親ソ的と思われ早く復員出来たらしい。回りの人の髪が黒いから異様に思ったとのこと。
婆ちゃんはお爺ちゃんの兄弟が戦死したので平壌から帰国してたので北朝鮮に残留しなくてすんだ。
820 :
名無し三等兵:2007/01/11(木) 19:30:06 ID:2xv5aV9Y
NHK総合テレビ、今夜19:30 クローズアップ現代 〜
「日韓・知られざる新しい試み」
第二次大戦で日本軍兵士として戦った朝鮮人兵士たち。
821 :
名無し三等兵:2007/01/11(木) 20:47:44 ID:iVXPjvJc
うちの親父が大学の頃、グエンという南ベトナムからの留学生と親しくなったそうな。
聞けばグエンの父は政府軍の将校で裕福だったため、留学させてもらえたらしい。
しかしそんな生活も長くは続かなかった。大学三年の時ついにサイゴン陥落。グエンは帰国が
できなくなる。かといって仕送りもなくなったわけで勉強を続けるわけにもいかず。彼は両親のいるアメリカへ亡命したそうな。
サイゴン陥落から三十二年、今でも時々親父はグエンを思い出して感慨に浸っている。
822 :
名無し三等兵:2007/01/11(木) 23:16:47 ID:PZU3X6mn
もう20年以上前の話になる。
関東の田舎町に南ベトナムから亡命したベトナム人小学生がいた。
どの様な経緯で転校してきたか分からないが辛い事があったのだろう。
今は元気にしているかな。
ベトナム戦争中にアメリカ軍用の対地射爆地が地元にあった。
大東亜戦争中は日本軍の飛行場だった。
父親によれば米軍の戦闘機が来襲しても日本軍の戦闘機が緊急離陸
する事がほとんど無かった。
ベトナム戦争中はサンダーチーフが爆音を轟かせて爆撃訓練をした
そうだ。ガガガーンと強烈な騒音だった。
軍用機の騒音が酷いので小学校の窓は2重窓だった。
こんな田舎町にもベトナム戦争の影が落ちていた。
823 :
821:2007/01/12(金) 00:08:33 ID:N0xajmZ1
世界には多くの亡命ベトナム人がいる。最近ではベトナムにも帰れるようになり、移住先で成功した人が故郷に錦を飾ることも多い。一方アメリカには未だに亡命政府も存在し、元軍人を中心に反共反政府活動を行っている。そう、彼らにとって戦争はまだ続いているのだ。
824 :
大わらわ:2007/01/12(金) 03:09:50 ID:???
ここに書き込めばよかったかな?
私の祖父は、建築家でしたが、今から16年前に癌で亡くなりました。
その時はまだ小学校低学年くらいだったのであまり覚えていませんが、かなりの酒豪
だったらしいです。
戦争体験についても、いろいろ聞いていますが、何回か召集を受けています。
東南アジア(ベトナム)、広島の呉市、中国(?)など。旧ソ連で抑留されてそれから帰国。
実家には、祖父が書いた戦争体験の原稿が残っています。
読んだことがありますが、昔の人らしく、現代に生きる自分にとっては難解。
けっこう変わった人だったらしく、地元で有名だった”中島のてっちゃ”という放浪人(?)
とも話をしたことがあると聞いたこともあります。
もし今も生きていれば、本人から直接いろいろ聞けたと思いますが、ちょっと残念です。。
ばさまは、銃後の守りをしていました。
ただ、あまり公の場で言えないことですが、祖父の母親がばさま(嫁)に食事を与えなかった
という話を聞いたことがあります。それに対して、ばさまが怒ったということらしいです。
戦争中なので、食べ物の問題も出てくるわけで、こういうこともあり得ると思います。
ただ、ちょっとこれは個人的におかしいような気もするが。
まあ、戦争中だから仕方ないのかもしれない。
戦争体験者でもない自分が言うのもなんだけども。
ばさまが生きているうちに、戦時中の話をもっと聞けたらなあ。
追伸:
”中島のてっちゃ”とは秋田県(母親の実家)に実在した名物男です。
尺八を吹いて、あちこち放浪していたそうです。
ちょうど私の祖父と同世代ですが、体が大きく太っていたため、徴兵検査で
落とされて、徴兵されなかったらしいです。
”中島のてっちゃ”に関しては、あんばいこうという人の書いた本が
詳しいです。
826 :
名無し三等兵:2007/01/12(金) 21:30:20 ID:o2CRbkXd
私家版として埋もれている貴重な従軍記も
色々とあるんだろうね。
うちには日露戦争の時の手紙があるんだけど
くずし字で書かれてるので読める人が誰もいない。
827 :
名無し三等兵:2007/01/12(金) 21:49:00 ID:uPoOgkdS
去年の8月15日、母が実家に里帰りしていたとき祖父が語った話。
この話は母も始めてきいたそうです。
終戦の玉音放送はテープでとってあって、その放送日までそのテープを
守る任務に選ばれたそうです。祖父は海軍にいて、あちこちの部隊から
何人か集められたとか。母からの又聞きなので詳しくはわからないです。
小泉前総理が靖国参拝するテレビを涙をこぼしながら喜んでみていて
この話をしだしたそうで。
祖父が乗ってた船は戦時中沈められて仲間が大勢亡くなったそうで嬉しかったんでしょう。
祖父は数少ない生き残りの一人、この時祖父も亡くなっていたら母が生まれることなく、
私も存在しないので、祖父の強運に感謝する今日この頃です。
828 :
名無し三等兵:2007/01/13(土) 01:43:24 ID:uBCBp8iL
病院で働いているとじいさんがたくさん来る
マレー半島上陸のころはこっちが鉄砲をバンバン撃つと敵兵がばたばた倒れて
おもしろかったが、フィリピンの最後のほうなんか負けまくって、自分のいた
部隊は200人中生き残ったのは自分を入れて3人だった。
とか
工兵だったので父島から硫黄島に陣地構築をやりにいったが、往復で船を沈められるので
三回も海に浮かんで救出された。父島では米軍が自分たちがスコップともっこで作った
ところをブルトーザーでガーっとやるものだからもう圧倒的な力の差が悔しくって悔しくって
とか
海軍の大砲の学校に入ったとたんに終戦、横須賀に米軍の艦隊が進駐してきたのでみんなで
切り込みにいって死んでやろうと軍刀片手に千葉から横須賀まで歩いていったが
集結した大艦隊を前にみんな心の中でこりゃどうにもならんと誰も一言も言わずに
さっ帰ろうかみたいな雰囲気になっちゃってすたすた歩いて帰ってきた
とか
戦艦比叡にのっていたが一回だけ作戦会議に行く幹部にくっついて
大和に泊まった。甲板の上から見る大和はだだっ広くて海軍で洗濯
に使うおっきい金盥みたいだった
とか
爆弾に両足ふっ飛ばされちゃって八十過ぎたいまでも義足で元気に外来に来る
年金(恩給?障害者手当て?)がいいのですごくリッチな老人ホームで
暮らしている
とか、いろんな人が来ます
829 :
名無し三等兵:2007/01/13(土) 02:24:49 ID:PJVAQ/9b
俺のじいさんは大陸で陸軍上等兵として戦ってましたが営倉常連の極道あがりの二等兵と妙に馬があい
悪辣な上官や軍需物資をピンハネする業者などをこらしめていたそうです。
最後に送ってきた写真は、演芸大会の女装した写真だったらしい。
>>826 写真にとって(名前は伏せて)上げてみてはいかがかな?貴重な史料かも・・・
史学いってる人は結構読める人がいるから。
(自分は全然読めませんが、申し訳ない)
高齢になり、メッキがはげてその隠していた赤い衣が見えてきたナベツネ、
渡辺恒雄氏は、住み良いであろう元の自分の居場所に戻り福島女史やチョンイ
ル新聞の若宮啓文あたりとつるんで喜んでいる
<戦争の悲惨さを存分に語り、「回天(人間魚雷のこと)には内側から鍵は
かけられず、外側からしか鍵はかけられなかった。内側からはあけることも
できなかったのだ」と怒っていらした。そのことが頭にこびりついている。
内側からはもはやあけることはできないのだ。>
と平気でウソを喋って悦にいっている。
「回天」には脱出装置はついていないが、中から搭乗員が天井ハッチの開
け閉めができる構造になっていた。日本人を悪者にし、日本軍の残虐さを強
調するためであれば、どんなウソでも平気でつく。
こんな腐れ売国奴連中は早く表舞台から消えてほしいものである。
http://www.tamanegiや.com/nonnbee.html (や → yaに変換 )
引用: 酒たまね ぎやURAホームページ
うちはご先祖二人が戦死しているのだが、
詳しい事情も知らないままに当時を知る親類は皆逝ってしまった。
でも今になってもっと詳しく聞いておけばよかったと後悔している。
残された手がかりは、
・二人とも海軍
・一人は昭和18年12月4日戦死、戦後に勲八等白色桐葉章
・もう一人は戦死日不明、戦後に勲六等単光旭日章
・どちらかはパイロットだったらしい
といった程度。
名前はわかるけど、少なくともググってもヒットしない。
これじゃあ難しいよね…。
>834
内閣から勲記が来とろうが。
名前と階級が書いてあるから軍歴照会しとけ。
837 :
834:2007/01/14(日) 11:33:42 ID:???
>>835-836 ありがとう。過去スレ見ずにすまんかった。
名前はもちろんわかるので、今度尋ねてみます。
ただ勲章は紛失していて、賞状だけ残ってる状態。
賞状には階級が書いてないんだけど、
名前だけでも照会できますかね?
838 :
名無し三等兵:2007/01/14(日) 13:07:04 ID:8Q3EB747
祖父
マーシャル群島のウォッジェ島にて小グループを率いて敵の偵察活動中に戦死したらしい。
空母飛龍というものに乗っていたらしい。
遺品は小石が一個入っていただけだったらしい。遺骨無し。
ミッドウェーってのが近い場所と聞いたけど、どうなんでしょうか?
839 :
名無し三等兵:2007/01/14(日) 13:08:28 ID:dgIWSuGu
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2chの利用者たちよ!
http://jbbs.livedoor.jp/computer/34382/ この掲示板で、2ちゃんを守ろう!!
2chを守るのならば、この掲示板をお気に入りに追加!
この内容をこのまま、コピペし、他のところに、貼り付けてくれ!!
ひろゆき氏!俺たちが、ついている!がんばれ!!
2chを閉鎖しないでくれ!2chが無くなったら、俺たちは、孤独な生活を送る事にな
るのだ!!
2chが、大好きだ!!これほど、本気になったことはない!
俺は、糞スレを立てるな、死ねなどと、言われた!
だが、2chは、なくなって欲しくない!お願いだ!2chを閉鎖しないでくれ!!!!
2chを守ろう会会長(*・ー・)
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>>837 名前と本籍地がわからないと探しようがないぞ。生年月日はいるんだったかな。
>>837 一般的に以下の様な書類/情報が必要な様です。
・請求書(書式は自由。戦没状況・軍歴を知りたい旨、およびその理由を記す。戦没者氏名、生年月日、本籍地、判る範囲での軍歴を併記)
・戦没された人の除籍謄本コピー
・請求する人の戸籍謄本コピー(戦没された人と請求する人の血縁関係が確認できるもの)
・請求する人の住民票
・請求する人の身元が証明できるもの(運転免許証や健康保険証のコピー)
ただ、上記のもの全部は揃わない/判らない場合もあるでしょうから、
まずは
>>86に出てる厚生労働省の該当部署に問い合わせしましょう。
(厚労省のHP
http://www.mhlw.go.jp/general/work/index.html に代表電話番号が載ってますから転送してもらえばいいでしょう)
842 :
名無し三等兵:2007/01/14(日) 17:26:57 ID:sh/iiMmV
おれのおばぁは大阪の狭山てところで戦争中は空襲もなく割りと平和だったて言ってた。
おばぁちゃんの兄貴と一緒に池でナマズを取ってた時に、通りかかった女の人に「かんざしとナマズを交換してください」て言われて
交換したとも言ってた。
また堺の空襲の時は近所の人総出で丘の上から椅子をひいて見てたって言ってた。おばぁちゃんの祖母が「花火みたいできれいやなぁ」て言ってたらしい。
と昨日飯の時に話してくれました。
843 :
837:2007/01/14(日) 18:27:17 ID:???
>>840-841 重ね重ねありがとう。
亡くなったご先祖の生年月日はわからないし、除籍謄本もないけど、
今度問い合わせてみます。
仕事の関係で窓口が開いてるだろう時間に落ち着いて問い合わせしにくいので、
ちょっと先になるかもしれないけど、わかったらまた報告します。
除籍謄本は申請すればもらえるっしょ。
そして除籍謄本には生年月日が書いてあるはず。
>>843 電話にて概略だけ話して、あとは文章(手紙)で、
とか方法は幾通りもあると思いますよ。
846 :
化粧男児:2007/01/15(月) 19:37:03 ID:???
私の父方の祖父は満州にいた。聞く所によると、朝鮮にもいたらしい。
朝鮮人・中国人にひどい仕打ちを受けたということを聞いた。
そのためか、朝鮮人や韓国人に対してあまり好感を持ってはいないようだ。
847 :
名無し三等兵:2007/01/15(月) 20:10:52 ID:iwX+xsRh
靖国神社の合祀の元ネタは陸軍省・海軍省、戦後は厚生省・各都道府県の横流しデータだから
軍歴持ってるところで認定してない戦没者は合祀されないけどな。
849 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 17:22:09 ID:734hFEpo
さて…じいさんは戦時中なにやってたんだろうか?俺がいくら聞いてもうんともすんとも言わない。
850 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 20:08:09 ID:2KtFnPUX
現在の中学校にあたるところを卒業してから電電公社に勤めていた爺ちゃんは
徴兵されて通信兵になったって言ってた。
体が弱かったから、徴兵された後やっていけるようにと、
汽車を使わず自転車で10キロ以上走って電電公社に勤めていたって。
徴兵されてすぐに初年兵として21歳で大陸に行ったそうです。
塹壕に上官2人と無線装置は入るけど、手回しの発電機を回すスペースはないとかで、
2人で交代で外で伏せて発電機を回していたと言っていた。
確か30秒だったか1分だったかで交代だったんだけど、
たまたま爺ちゃんが塹壕に入って待っている間にもう一人が狙撃されたって言ってた。
衛生兵とかがすぐに来て運んでいったけど、首から肩に貫通して死んだって。
もしかしたら自分が死んでたかもしれなかったって言ってた。
終戦のときは南方に向かう船の中で、着いてみたら戦争が終わってたって言っていた。
851 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 20:23:15 ID:2KtFnPUX
上の続き
話をきいたときは、もしかしたら僕は生まれてこなかったんじゃないかと思って、
いろいろ考えたりしてました。
それが後になって知った話しだけど、母ちゃんは養子で、
爺ちゃんが007のベッドシーンを見てあれ何してるのってきかれちゃった。
戦争に行く前は近視で眼鏡をかけていたけど、割れて遠視になって帰ってきてる。
今でも目はものすごくいい。
本人曰く、ただ前の遠くを見てたから目がよくなったって。
撃ってもあたってるかあたってないかよくわからなかったと言っていた。
最近戦争における人殺しの心理学って本を読んだから、
自分が人を殺したとは思いたくないんだよなあと、かなり納得できた。
行軍中休憩があっても、初年兵だから馬のすねあてをはずして洗ったりと、
全然休めなかったという。10分の休憩だからほとんど休めなかったって。
上官の食事の世話をしていたそうで、みんなの食べる食事よりずっとおいしくて量も多かったって言ってた。
上官は自分たちみたいに若くないから、食べないやつは全く手をつけずに残すので、
爺ちゃんたちはみんなの食事は全部残して、上官たちの残りを食べていたって。
味は全然違って、けっこういいものを食べてたっていってた。
852 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 20:32:32 ID:2KtFnPUX
続き
戦争の話をきいたとき、一番言い出しにくかった話が、
自分が死んだかもしれない話で、
次が村に入ったときの話だった。
自分たちが村に入るときには、もうみんな逃げ出して人がいないんだって。
それでみんな我先にと家に入って、まず酒を探して飲んだって。
もう酒が飲めるのはよかったって。
ちょっと戦争の話をしてもらっても、
眼鏡が壊れて遠視になったのと、
前のほうの遠くをとにかく撃てと言われるから撃つけど、
あたってるのかあたってないのかわからなかった。
って話しかしてくれなかったけど、
一回いろいろきいたら戦友が死んだ話とかをしてくれた。
終戦のことについては、なーん、行ったら戦争終わっとったってなこと言ってた。
昭和20年の終戦時に南方航路が維持されていたとは初耳だ。
たぶんシンガポールとジャワや仏印あたりの相互の間の部隊異動とかだろうけど。
854 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 21:25:22 ID:2KtFnPUX
>>853 南のほうに行ったとは言ってたけど、
具体的な場所とかは知らない。
855 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 21:36:32 ID:exdSVYPt
昭和20年8月9日、祖父は小倉にいた
祖父の父が中国戦線で中国人が薙刀(中国の武器かな?)持って踊りながら攻めて来たのを見たそうな。
祖母の兄が「ヨカレン」とかいう航空隊にいたそうな。(以下。祖母が覚えている特徴)
@七つのボタン
A白服
B同期の桜(?)
どーも特攻隊臭いのだが・・・
詳しい方が居たら教えて頂きたい。
858 :
名無し三等兵:2007/01/17(水) 21:47:03 ID:IyqDUJQ+
予科練
ドイツ兵で武装親衛隊にいたっていってる。
860 :
名無し三等兵:2007/01/18(木) 00:07:54 ID:eUPTeUKD
うろ覚えやけど、一昨年90歳で亡くなった僕のじいちゃんは日中戦争から従軍していて、インパール作戦にも参加した。
じいちゃんの部隊は2000人だか2500人いたうち生還者はたったの18人だったとか。じいちゃんはその内の1人。
階級は曹長で20人ほどの小部隊を率いていたみたい。
味方の野戦砲だか何かの薬きょうがメット越しに頭に突き刺さって亡くなった人の話とか、バナナ畑での戦闘の話とか、色んな話を聞かせて貰ったなぁ。
でも今思えばもっといっぱい話を聞けばよかったなと後悔してる…
とても立派な人でした。
861 :
名無し三等兵:2007/01/18(木) 00:42:33 ID:1Q2NubHF
南方の島で突撃、しかし足がすくんで塹壕から出れず。突撃した兵隊さんは全滅したそうです。
このスレ初来訪です。
自分の祖父も19年頃から小笠原方面へ行ってました。
辛かった思い出と思われるので全てを聞いたわけではないですが、
印象に残ったのは2つほどありますね。
自軍の輸送船が沖合いで潜水艦と思われる雷撃でしょうか
それによってくの字に折れて沈む姿を見たときは
「日本近海でもこんな物を見る様ではもう日本は駄目なのでは」と
当時は悔しい思いをしてたと伺ってます。
「硫黄島からの手紙」が話題となったのがきっかけで話してくれたと思われる
硫黄島からの通信で最後の突撃を行う旨の通信を聞き
以後の通信は一切応答がなかったというのは印象が強いです。
実家との連絡は検閲があったので家への手紙の四隅等に少しづつ何かしらの字等で
伝えて祖母は小笠原方面に配属されたと知ったそうです。
863 :
fuんwaか ◆X4bJkcf622 :2007/01/18(木) 01:17:35 ID:6dpulNPY
有名な話ですが、大東亜戦争後、我が国の思想解体を行い、大東亜戦争自衛論
を許さなかった占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーは一九五一年五月三日
〜五日の間おこなわれた米上院軍事・外交合同委員会聴聞会において、一日め
の五月三日に「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失
業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れた。したがって、日本が戦争に
駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」
と我が国の戦いは自衛戦争であると証言しています。
ブロック経済が不可能な我が国をアメリカは経済封鎖で追い込みました。
パール博士は「モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも立ち上がったろう」とまで述べています。
当時の状況をただ時系列で捕らえただけでは解決しないと思います。
引用:酒たまね ぎや のんべえ日記
http://www.tamanegiや.com/nonnbee.html (や → yaに変換 )
>>862 >実家との連絡は検閲があったので家への手紙の四隅等に少しづつ何かしらの字等で
>伝えて祖母は小笠原方面に配属されたと知ったそうです。
縦読みとか斜め読みとかやってた人もいたんだろうな、と思った。
おれの爺ちゃんは戦争中に空軍にいたそうだ。
でも零戦なんてもんじゃなくなんちゃら式とかって数字の入ったヤツ。
戦闘機の弾は二発の鉄こう弾と一発の焼夷弾の繰り返しなんだって。
燃料タンクに穴空けて火つけてドカーンってさ。これはよく考えられてると思ったよ。
飛行機の燃料が不足しててさ、みんなで松林に松ヤニを取りにいくんだってさ。
それどうすんの?って聞いたら、松ヤニで飛ぶんだぞーと教えてくれた。
本当?って笑って聞いたら、本当本当と爺ちゃんも笑ってた。
そんな爺ちゃんが捕虜に滑走路を作らせてたときの話。
中国人捕虜はずっと見てないとすぐサボリだして仕事にならん。
ロシア人捕虜は体格もでかくて、朝からすげー力でばりばり働くんだけども、
夕方ちょい前になるとみんな働かなくなる。一長一短だなと。
60年前から中国人は中国人なんだなあと爺ちゃんとお茶飲んでて楽しく話してたよ。
867 :
866:2007/01/18(木) 02:28:03 ID:???
そんな爺ちゃんはリアリスト。南京だってどこだって戦争なんだから虐殺ぐらい
あるだろうと。でも中国の数字なんて出鱈目であんなもん当てにならないと。
いくら平和平和って言ってもくるときはドカンと来るんだから日本だって備えて
なきゃいかんと。やっぱ戦争経験者は平和ボケしないんだなと思ったさw
最後に戦争違いだけど爺ちゃんから聞いた明治維新の話w
多分爺ちゃんも親父とかさらに爺ちゃんに聞いた話だろうけども、村の幕軍派に
そそのかされて幕軍についてたら、やってきた官軍に実家の寺子屋を
燃やされたんだってさw そんとき燃え残った本は村の資料館に寄贈されて
保存されてる。すげーよ爺ちゃん。年寄りはほんと歴史の証人だね。
869 :
名無し三等兵:2007/01/18(木) 09:57:23 ID:WSxA5wEC
水軍ならあった。
俺の爺さんも海軍のパイロットだったけど
少年航空兵出だから階級は仕官ではなく、下士官の一番上
(兵曹長か?)だった。かなり若いうちから訓練をつんでいたので
一応ベテランだったらしい。戦争後半では新兵の教官を
やっていたそうだ。主な派遣先はマレーシア、シンガポール
フィリピン、ベトナム等の南方。後半は内地だったと思う。
愛機は足つきの偵察機だったので華々しい戦果はない
大和や空母群を上空からみたことがあり、一度だけ霧島に乗ったことがある
らしい。また移動で潜水艦や輸送機などにも乗ったが、潜水艦はすごく狭くて
息苦しく、かなり不快な乗り物だったと言ってたな。輸送機はいつ敵機がくるかと
かなり不安だったそうだ。他人の操縦する飛行機は怖かったらしい。
>>871 海軍の飛曹長は准士官でなかったかな。
陸軍の曹長より偉い?
うちの父方の爺ちゃん赤城の整備兵って言ってた、ミッドウェーで船が沈没して大変だったって言っていた、それ以外は全く何も喋ってくれなかった。おそらく戦友が目の前で死んだりして言いたく無かったんだな〜って思う。
875 :
名無し三等兵:2007/01/19(金) 02:04:11 ID:9QiBsLYP
うちの嫁の爺ちゃん、木更津の基地で働いてたらしい。嫁の父親は当時小学生で、撃墜されたパイロットが
捕虜として連行されてるのを見て、でけーなーと思ったそうだ。
876 :
名無し三等兵:2007/01/19(金) 02:39:06 ID:PuouRbcO
友達の爺ちゃんは、ソ連の捕虜になったらしい。 腹を撃たれて弾が貫通したんだって。
そんで、ちゃんと生きて返って来て子孫を残して、俺の友達も産まれてる。よかった。
その爺さんは財産が三億くらいあって、東京に土地があるらしい。
うちの爺ちゃんは、戦時中に京都の帝国大いったらしい。 葬式の時に、おじさんが教えてくれたんだけど、スパイ???みたいな訓練受けたらしい… 本当かどうかは分からないけど…
そんで、うちの爺ちゃんが戦争に出発したら終戦して戦争には参加しなかったんだってさ。
俺が生まれるずっと前に亡くなった祖父は海軍准尉だったそうだ。
写真は水兵時代のしか無くて、かなりのイケ面。
ただでさえ海軍軍人はモテたのにあの顔だと愛人が何人もいて、長男だと思ってた父に実は腹違いの兄や姉が何人もいて驚いたって話に納得した。
写真では帽子のペンネントに「第二十二駆」と言う文字が読み取れるがそれ以外は不明。
祖父は今風なイケ面なのになんで俺はこんななんだ・・・
879 :
3:2007/01/19(金) 20:29:40 ID:???
10年ほど前に死んだじいちゃんは昭和19年に工業学校を出てすぐに満州で土木技師を
してたらしい。
で現地召集で2等兵になってすぐ終戦でそのままシベリアに抑留されてた。
俺に話してくれたことは
(1)パンは両端がきめが細かくて食べでがある、
(2)スープの配給は最初は上澄みで具がない、最後は湯で薄められる、
一番いいのは中ごろ。
そして・・・・
(3)収容所のソ連側医者が言うことには「おまえたち日本人は負けても
国があるからいい、俺の国はソ連に吸収されて無くなった」
多分東欧のどこかから流れてきた人だったんだろな、91年のソ連崩壊まで
生きてただろうか、自分の国に戻れただろうかと時々思う。
この話を聞いてから日本国を蔑ろにするやつを許せなくなった。
〉〉880
ありがとうございます。
祖父の年齢、写真を撮った時期から推測しますと第二十二駆逐隊のどれかかもしれません。
手違いで失われた写真の原盤では単装砲塔の前での集合写真らしいので可能性が高いと思います。
>>881 じいさんシベリアだったのか・・・大変だったろうなあ。
ウチのじいさんは海軍の少尉だったんだけど、
俺は勿論の事、ばあちゃんや親父にさえ戦争の話は一度もした事が無い。
だから何に乗ってたのかすら知らない。
戦友会みたいなのには顔出してたみたいだけどね。
でも、あのじいさんが開戦と同時に軍に入隊を志願したってのがなあ・・・
身体はでかいけど借りてきた猫みたいに大人しい人だったんだ。
日向ぼっこして煙草プカプカやってさ。
884 :
名無し三等兵:2007/01/21(日) 21:47:30 ID:m8jes1It
日本橋でまあじゃん荘やってる人が、元軍属技術准尉だったと。話では、ある日福生でテスト訓練して。P-51とBF109と三式と四式を、同時離陸させたそうだ。ぶっちぎりでPがあがったそうな。それを地表で見てた一同、これゃかてねーわ…
885 :
名無し三等兵:2007/01/21(日) 22:42:16 ID:u8NGyTsK
>>884 すげぇ、夢のコラボだな。その光景を見てみたい。
886 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 00:00:43 ID:FyYLcz/U
>>884 もう何年も前だが龍ヶ崎飛行場で里帰り零戦(52型)のフライトを観た。
同時にPも2機来ていたが、零戦の滑走距離の短さと旋回性能は素晴らしかったよ。
オリジナルの零戦との事で過度なアクロバットは無かった(空中分解の恐れあり)けど、それでも格闘戦なら
零戦の性能は素晴らしいものであった事が良く判った。尤も…その反面防御面では寂しい限りなんだけどね。。。
開戦当初、零戦の性能と手馴のパイロットの組み合わせなら正に鬼に金棒だったろうに。
>>886 >格闘戦なら
P-51は格闘戦なんてしません
888 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 00:03:29 ID:shyA3YSI
>>884 886だが…陸戦と艦戦の滑走距離を比較した俺が悪かった。
スマヌ。
889 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 00:08:08 ID:VroC22Dn
>>887 それもそうなのだが…
それにつけても陸には手馴のパイロットは居なかったのだろうか。
各言う俺の爺様は東京の下町で一式・四式のコックピット部品作ってました。
戦死した
俺もいずれいく
>>889 撃墜数の算定/確認方法、
撃墜数という個人記録への評価の重さ、
それらが海軍と違っただけで、エースパイロットはちゃんと居ました。
個人的には、
機体へのパーソナルマークの容認度、
部隊記号は必ず図案化して印す、
そういった事から陸軍機の方が好きです。
892 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 00:24:07 ID:VroC22Dn
>>889 俺の書き方が悪かった。
よく海軍では「ミッドウェーで優秀なパイロットの大多数が失われた」と言われるが
陸軍ではエース級パイロットが一気にいなくなる事はなかったのでは…と思ったのだわ。
ニューギニアの消耗戦で陸軍航空隊のベテランパイロット達は正しく『消耗』されてしまった訳だが…
なんか悔しいなぁ
>761 :名無し三等兵 :2006/09/28(木) 16:56:26 ID:0b58l3Xj
>うちの爺さんは、中国で人を殺しまくったって言ってたな。
>三光作戦って言って、焼きつくす、殺しつくす、盗みつくす。とかやってたみたい。
>中国は寒い場所で、村狩りをして住居を燃やして暖をとるのが一番の楽しみだったとか。
>女性の腟に酒の瓶突っ込んだとか笑いながら言ってた、変なジジイだった。
日帝は このように沢山の絶滅部隊で中国人民を9千万人も虐殺しました。日本人民は真摯に歴史と向かい合わねばなりません。
>>892 >ミッドウェーで優秀なパイロットの大多数が失われた
ミッドウェー海戦での搭乗員の消耗、実は少なかったのですが
(乗艦が沈んだだけで搭乗員自体は大多数は救助されている)
ちなみに、艦爆隊で見ると、
負け戦のミッドウェー海戦:搭乗員消耗40組(80人)
勝ち戦の珊瑚海海戦:搭乗員消耗80組(160人)
引き分けの南太平洋海戦:搭乗員消耗同じく80組(160人)
だそうです
(錬度の差はありますが/むしろ消耗が酷かったのは、南太平洋海戦を含むガダルカナル攻防戦でしょう)
895 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 01:07:03 ID:VroC22Dn
>>894 892です。そうだったのですか…素直に知らなかったです。
俗説を信じ込んでいたのが恥ずかしい。
と、言うことはやはりパイロットの錬度では工業技術力をカバーできなかったっつ〜
事になってしまうのか。。よく言う「百発百中の砲一門と百発一中の砲百門はどちらが勝つか」
問答ですね。
(でも本当は物資供給力の差が一番だったりして…輜重隊を軽視してはいけない)
うちの爺さんではなく、ちょっとだけ話を聞けただけの見ず知らずの
爺さんの話で恐縮なのだが、
「はちろぐんには本当に困った」と言っていた。
(↑「ばーろぐん」の間違いではないかとそのときは思ったが、
その爺さんは確かに「はちろぐん」と言った。)
ある村に行くと、村中荒らされて村民と思われる死体が散らばっていた。
八路軍が略奪をした上に村民を殺したらしい、とのことだ。
また、ある村に八路軍が潜伏していると情報を得たのでそこに行って
みたのだが、軍服を着ている人など一人もいない。
そこで尋問するために疑わしき村民を数人連れて歩いている途中、
その数人が全員暴れて逃げ出した。それで仕方なく全員射殺した、
と言っていた。
ラバウル長征1300キロという話があったな
898 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 03:41:20 ID:iJvpEblb
知り合いの爺さん、ミッドウエイで第二機動部隊の空母準鷹に乗ってたそうな。
味方の空母がやられたらしく、応援頼むの無電が入り南下して、母艦をやられて
空に残った飛行機を収容したが、数が多すぎて乗員のみを収容して、飛行機は
海に捨てたらしい。
三笠宮崇仁殿下インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか
人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とは
むごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。
私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育
には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばん
よい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、
陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られ
ました。
901 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 05:50:25 ID:CGfHOENN
>>898 おいおい、その時『隼鷹』が居たのは、
遥か北のアラスカ海だぞ?(ダッチハーバー攻略中)
たしかに同様の命令は来たが、
(『ミッドウエー攻略部隊と合流すべし』との内容)
実現できるはずもなく(実際に行ったら三日くらい掛かるので)、
隼鷹含む第二機動部隊は内地に帰ってから合流した
905 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 19:32:49 ID:WsqgzyMl
昔、働いてた京橋の会社の社長が元予科練。飯には不自由せんかったと。ある日、伊勢崎?に一式陸攻が不時着してきた。予科一同、実戦機がキターーと見にいったら、イメージと違う、芋虫みたいな飛行機だったと。ちなみに、ライターとは、友軍にすら言われてたんだと。
>>902 単に南太平洋海戦での思い出と混同してるだけでは?
南太平洋海戦の推移は正にその通りでしたから。
907 :
名無し三等兵:2007/01/23(火) 02:24:05 ID:yO+6Wvzo
>>906 そういえば、南太平洋海戦と第三次ソロモン海戦も参加したと
言ってたので、爺さんの勘違いかもしれん。
そのあと一度内地へ帰り、今度は輸送船で南方へ向かう途中
潜水艦の攻撃を受けひどい目に遭ったと言っていた。
>>899 嘘か本当かは別にしてそういう話を新兵にして
「戦場とはそういう所だ」
「敵に情けをかけるな」
「捕虜になると酷い扱いを受けるぞ」
って叩き込むのが目的の精神教育だったんじゃね?
第一、実際にやらされた訳じゃないんだし
マジレス、カッコ悪い?
909 :
名無し三等兵:2007/01/23(火) 13:40:30 ID:hbOWyjed
農民捕まえて匪族てことにシテ銃剣でて、なんだブッシュがイラクの市民捕まえてテロリストてことで始末してんの同じことだろ。
>>908 実際にそういうことをやっていたという証言は
複数あるので、大陸でやっていたのはまず間違いないとおも。
ただし、「捕虜」といっているが本当に捕虜の資格があったか、
それとも何をされても文句の言えない、いまならゲリラ、テロリストと呼ばれる
たぐいであったかもしれず。
中国において軍隊ならざる民衆が多く殺戮を被ったのは、軍隊が便衣を着用し
難民に化けて日本軍を攻撃する卑劣なる戦法をとったからである。
便衣隊と難民とをゆっくり区別している暇のない日本軍が、難民を射殺したこ
とは自衛上已むを得ない。
難民虐殺の責のみが問われて、便衣兵の交戦法規違反が咎められないことは、
正理に反している。
故に弁護側は、これらの証人の反対訊問にあたって、便衣隊の活動を鋭く衝い
ている。
(「新版 東京最後をさばく(下)」P95〜P98)
912 :
名無し三等兵:2007/01/23(火) 23:30:30 ID:znvySJN7
905サン い 芋虫ですか?何言ってるです、一式陸攻形だけ見たら最高ですよ!(彗星や震電、飛燕も好きです)確かにあれで防弾が十分でEgに(発動機)にターボチャージャか二段過給器がついて高馬力だったら言うこと無かったと思いますが
数年前亡くなってしまったが、うちの爺さんの話。
うちの爺さんは満州でソ連兵に背中斬られて(撃たれて?)負傷しながらも、生還した人だった
死体を運ぶトロッコ?みたいなのがあって、そこに紛れてソ連兵の目をごまかした話とか、
鉄道の線路伝いに大連まで行って復員したという話をよく話してた(らしい)。
酒が入らないと戦争の話をしない人で、正月に一族が揃うときだけその話をしたそうなんだが、俺は
まだ幼かった従兄弟たちの面倒を任されてて、全くといっていいほどそういった話は聞けなかった。
亡くなった後、親類からその話を聞いたときは、聞いておけばよかったってすごく後悔したよ
もっとお爺ちゃんの話を聞くべきだ
前に祖父の事を書き込んだので次は祖母のことを。
先日実家に行った時に祖母から聞いた話。と言っても小さな頃からよく聞かされてるんだけどね。
昭和元年生まれの祖母は戦時中に熊本の被服廠に勤めていたそうです。
被服廠なので、軍服を縫っていたとのこと。祖母の担当はポケット部分。
「おばあちゃんは、工場の中で一番縫うのが早かったから視察や将校さんが来るといつも囲まれて仕事振りを褒められていたよ。
今から考えると真面目すぎたかも」って。
戦争末期は軍服を縫う布さえなくて殆どの人が防毒マスクを縫わされていたそうです。祖母は防毒マスクが嫌いだったので
僅かに残された布で軍服を縫い続けたと。
被服廠と生活していた寮は隣同士にあったそうなんだけど、空襲を見越して被服廠だけ移転したそうです。
その後、案の定空襲で寮が丸焼けになってしまったそうです(被服廠は無事)
丁度お昼ごろだったので、お釜にたくさんご飯が炊かれていたのが幸いで皆でおにぎりにして昼食にした後上官が
「仕事にならないし、寮も焼けたので帰れる人は家に帰って」と言われて、残りのおにぎりを貰い友達と実家に帰ったそうです。
列車もバスも不通で、友達と荷物を棒に渡し線路沿いをとぼとぼ帰って行ったと。しんどかったよって。
家は砥用の方(三本松とよく言う)だったので結構歩いたとも。
戦時中、いつも白飯を食べていたそうで、すいとんやお芋なんか食べてた人の話を後で聞いてびっくりしたと言っていました。
地域によって食糧事情も違っていたのでしょうね。
飛行機は、自分の方に向かってくると危ないと教えられていた(機銃掃射のことかな?)ある日、一直線に自分の方に向かってきたけど
直前で進路を変えたのでびっくりした、と言っていました。
風のウワサで、原爆は熊本に落とす筈だったと聞いて「何で熊本??」と驚いたそうです。
当時、熊本の被服廠がどのあたりにあったかご存知の方はいらっしゃいますか?
勇ましい話ではありませんが、どこかに書き留めておきたかったので書かせていただきました。
凄く遅レスですが
>>272さん、お祖父さまは佐世保の所属でしたか?
ウチの祖父も陸戦隊で海南島におりました。
逆にウチの祖父から聞いた話は平和だったという事ばかり。
隊で雇っていた小遣いさん(イチマル)に逢いたいな〜と言っています。
916 :
名無し三等兵:2007/01/24(水) 01:06:54 ID:om1eJNl1
>740
それどころか、最近商売人が日本兵の遺族に返還したいと言って、
元アメリカ兵から日本刀をただで譲り受け手入れをして
マニアに売ってるって話をきいたことがある
軍刀といえば家は俺の親の代まで鍛冶屋なんだが(俺は継がない)
爺さんは前線での軍刀修理係りとして満州へ行っていたらしい
たぶん日本刀無敵神話の賜物だろ
木ならまだしも、中には石で試し切りしようとして折った人も居て厭きれ返ったったそうな
折れたりした刀の中には稀になかなかの名刀もあったそうで
それを「試し切りしたら折れた」とか「振り回してたらすっぽ抜けた(一番多かったらしいw)」
なんて言って持ってこられた時は悲しくなったって言ってた
この頃から既に多くの日本人は刀に対する正しい知識を持っていなかったらしい
だから100人切競争なんてのを国民の大部分が本気で受けちゃったわけだ、今もだけど
その爺ちゃん曰く「俺があの船(爺ちゃんが日本へ帰ってきた船)で帰ってこなけりゃお前はいなかった」だそうだ
別にそれならそれでよかったんだけどなぁ・・・
大津の少年飛行兵学校の校長?だったらしい。
馬に乗って通勤していて偉かったらしい。
>>916 ちなみに、映画の中で、死んだ日本兵の刀を拾った米国兵士が「すげえ、こんなもの拾ったぜ!」と自分のもの
にしてしまうシーンがあったのだが、これで思い出したのが近所のアメリカ人が、屋根裏部屋に置いてあった数
本の古びた日本刀を見せてくれた日のこと。終戦直後に兵隊として日本に上陸したその人の父親が、誰もいない
防空壕に放置されていたものを持ってきたのだという。どう処分しようか悩んでいると相談されたので、「遺族を
探し出して返したいのか?」とたずねると、そうではなくて「価値があるものだったら売りたい」と言う。
それを「戦利品」と呼ぶか「略奪品」と呼ぶのかは単に立場の違いでしかないし、60年も経っていれば何であれ
時効なのだろうが、「価値があるものだったら売りたい」と、どうどうと言われてしまった時には、何と反応して良
いものか少し悩んでしまった私である。
ttp://satoshi.blogs.com/life/2007/01/post_6.html
920 :
名無し三等兵:2007/01/24(水) 09:03:52 ID:qPpBNK3A
>>917 >その爺ちゃん曰く「俺があの船(爺ちゃんが日本へ帰ってきた船)で帰ってこなけりゃお前はいなかっ>た」だそうだ
>別にそれならそれでよかったんだけどなぁ・・・
そんなこと言ってはいかんぞ。爺に感謝せな。
平成になってすぐに他界してしまったのだが、うちの爺さんの話。
もともと農家の三男坊だったが、頭は良かったそうで商科高校を卒業後、
陸軍で満州方面へ行っていたそうな。最終階級は軍曹(うろ覚え)で、隊内の事務処理とかが担当だったとか。
上官から才を認められて昇級試験を受けさせられたのだが、
偉くなるより今の隊で皆と泥にまみれていた方がいいと、
もう一人の同僚と解答用紙を白紙で提出したと。
勿論推薦した上官からは「舐めた事をするな!」と鉄拳制裁を食らったそうだ。
帰国して鉄工所を起業、ようやく本来の才能を発揮できるようになってからも、
当時の中隊の面々がよく家に遊びに来ていた。
学校の同窓会等には興味ない爺さんも当時の仲間の集まりには欠かさず顔を出していたよ。
実家には爺さんが音頭とって作った戦隊史が今でもある。
中隊長が自分の葬儀には是非弔辞を、と言っていたが、
結局自分が中隊長に読んでもらうとは思わなかっただろうな。
922 :
名無し三等兵:2007/01/24(水) 12:54:54 ID:etjLMwss
>919
興亜一心刀や刑務所江村にはなんの価値も無いして教えてあげなければ。
>>912 予科練の人は初めて見た実戦機が、不時着してきた一式陸攻だぞ。
胴体着陸する機は芋虫みたいな印象だったのだろうし、
戦争末期ならかなりがっかりしたと思う。
お前さんが一式陸攻好きだろうが勝手だが、蘊蓄たれるのはウザイ。
924 :
名無し三等兵:2007/01/24(水) 18:38:50 ID:RPgHDGYV
↑ 当時の七つ釦は教育で、洋モノのBなんかの模型なんかを見てたから、ギャップに驚いたんじゃなかろか。写真やプラモでみるよりも、生でみた印象は濃いべや。
>>924 予科練の中の人:「いや、俺らが乗るのは銀河だから ( ´,_ゝ`)」
※部隊配備されて・・・
部隊長:「搭乗機?ヒコーキなんてねぇよ。あ、裏に一機あったな、白菊が (´∀`)」
↑923 じゃ何かね、あれに乗って戦うしか無かった人の気持や、あれを必死に造った人とかの事考えたこと無いの。予科練てパイロットの卵でしょ、まだ実戦にも出ていないね。俺じゃなく陸攻で死んだ人やこのスレにも居るかも知れないその身内に失礼だ、おまいの方がウザイ
因みに俺は言う資格あるのよ。戦死こそしてないが爺サン戦争行ってたし、俺自身機械の設計かじった事ある上、今は場合によって命掛けになる仕事してるしね。親父にいたっては元陸自だ
>>926 家も爺さんが陸軍に召集されて危険な目にあってるし、
親父も元陸自だが。
俺はただ、初めて見た?実戦機が不時着して来て。
内地でこの状況では、もうかなりヤバイのではないだろうか?
とか士気が落ちる感じでその人はガッカリだったのではないかと思って書いたつもりなんだが。
一式陸攻馬鹿にするつもりはないし、
生死を賭けて戦った搭乗員を冒涜する気も毛頭ない。
>>912が911の爺さまの話にチャチャ入れてる様に感じたから書き込んだが。
書き方が悪かったスマン。
>925
司令「今からアレを修理させるから、喪前、特攻けや、ゴルァ」
一式陸上攻撃機
・双発機ながら四発機なみの航続距離と搭載量と高速度(出現当時としては)を持って、
さらに当時としては考えられなかった雷撃まで行える名機。
だが、それを実現する為に防弾や防御火力は犠牲にされた。
さらに、後継機に恵まれず使い続けられ悲劇を増す。
「だが、俺にはこれしかない!だから、これが一番良いんだ!!」
931 :
925:2007/01/24(水) 22:20:01 ID:???
>>929 しかし、程なく終戦となる。
司令:「なんだかなー。あ、お前らまだ居たんか?戦争終わりだからあの白菊に乗って故郷に帰れや。」
俺の爺さんではないが、中学時代の数学教師が海軍の航空兵で、流星改に乗ってたと話してくれた。
先生の兄上は流星改で特攻出撃したらしいが、台湾に不時着、戦死した。
戦後、「この辺に落ちたらしい」という地点に行って、亡き兄上の慰霊をしたという話も聞いた
各地の慰霊祭に顔出してるらしく、日曜、勉強を見てもらおうかな、と思って訪ねてみると居なかったり…ということが良くあった
プラモ作りが趣味で、勉強教えてもらいに(遊びに)行ったとき、自信作だって言って紫電改出してきてたな。
ただ、ケースの中に米軍機が一機も居らず、旧海軍機のみ整列してるのを見て、ああこの人は生粋の軍人だったんだなと感じた
まだご存命のはずだから今度会えたときゆっくり話を聞いてみたいと思う。
933 :
名無し三等兵:2007/01/25(木) 19:29:23 ID:49Z9Kv5C
俺のじいさん。陸軍法務官ってので結構階級が上の方だったんだけど、まだ生きてる。95歳。
戦争の話は時々するよ。印象に残ってるのはスマトラ島でワニやウミガメを食べてうまかった!という話。
ただその後あさ袋がなんとかって言い出して。人間が一人すっぽり入るくらいのって俺らを
脅かすように言って笑ったけど、すぐにすごい悲しそうな顔になった。
結構思い出したんだろう。死んだ部下をあさ袋に入れたのかもしれない。
テレビでビルマの映像が現れたとき、ふとじいさんが、
ビルマやインドネシアなんかまで攻めこんでほんとに馬鹿な事をしたもんだと、ボソッと言ったな。
戦線拡大を批判してた。たぶん牟田口なんか大嫌いだろう。
何も語らないけど。
戦後だが
じいちゃんは戦死…と伝えられ、ばあちゃん大泣き→そして墓を立てた。しかしひょっこり帰ってきた。
戦死認定っていい加減なもんなんだろうか?
壊滅、壊乱が茶飯事の南方だとなぁ
戦死した時、夢とか何らかの虫の知らせがあって、ああ、今死んだな、とわかったという遺族も多いな。
夢は年中見てるけど、
たまたま死んだときに見た分だけ憶えてるんだよ。
939 :
名無し三等兵:2007/01/26(金) 19:52:58 ID:2PCbM/3D
age
凄い遅レスもいいところだが、
>>42の話、うちの爺さんそっくりだ…
俺がいるって言いたくなるぐらい
>>42と
>>940の祖父が同じ釜の飯を食った仲間であることは、
まだ、誰も知る由もなかった。
うちの爺ちゃんは松茂の近くで宿屋をやっていたので、
よく兵隊(航空隊)さんを泊めてたらしい。
もっとも爺ちゃんは戦争のことは一言も話さなかったので、
伯父さんの話であるが、松茂からは白菊特攻隊が出撃しているので
特攻隊の人間も泊めたのかもしれない。
玄関で見送りするとき、爺ちゃんが『ウチの客は一見さんばっかりじゃ』と
ボヤくの聞いて、複雑な気持ちになったといってた。
終戦後、宿屋を廃業しタバコとお茶と相撲だけを楽しみに95で亡くなった。
爺ちゃんはお年玉を貰いに来た俺の顔を見るたびに
『アホになれ、ワシより賢い奴は皆先に逝った。アホが長生きのコツじゃ』と
『この世のことは、この世で必ず解決する』といつも言っていた。
>>940 たんに42と940が従兄弟同士とか、兄弟とかなだけじゃね?
>>943 というか、
志願、南方の楽な戦線、青いバナナ・・・
あまり多くは無いけど良くある方の話でしょ
南方で比較的楽で食い物の心配も無く復員も早いで・・
台湾か海南島、タイ位しかないぞ。
ベトナムやマレー、インドネシアは降伏した後が悲惨だし。
>>945 祖父はまさに海南島帰り。
牛を煮込んだのを食べたとか、ぜんざいパーティーを隊でしたとかそんな話ばっか(ではないけど)
比較的平和だったみたいですね。
13人兄弟の3番目ですが、戦争で誰一人欠ける事無く13人ともに終戦を迎えました。
一方で激烈な戦いをされた方もおられるかと思うと複雑な思いです。
947 :
940:2007/01/28(日) 20:00:04 ID:???
早死にってところが無ければああ似てるなって思っただけかもしれない。
自分が生まれた時既に故人だったからなあ…
直接話が出来るっていいことだぞ。
948 :
881:2007/01/29(月) 01:55:20 ID:???
>883
戦後に従軍時代の話をされない方ほど死線をくぐって来られたのだと思います、
「話しても伝えられない」との思いもあrのではないでしょうか。
祖父がシベリア時代のことをはなしてくれたのは亡くなる数年前、私が成人に
なってしばらくしてからでした、話してくれなかったことのほうが多かったと
思います、日本人捕虜同士のいさかいも多くあったのではないでしょうか。
多分収容所での人間同士の醜いことも見てきたと思います、そのせいか嘘や
他人への裏切りは許せないという人でした。
なお、祖父の兄も満州で土木技師をしていたようでトランシットを覗いている
写真が一枚だけ残っています、祖父よりも少し早く召集されてソ満国境に
配備されたようで終戦直前のソ連侵攻時に戦死したようです、もちろん戦死の
正確な場所や日時は不明のままです。
>>942 『ウチの客は一見さんばっかりじゃ』
.・゚.(ノд`).゚.・
おまいも爺さんに負けずに長生きしろよ。
うちのダンナの祖父は特攻隊だったらしい。
特攻に行っている途中で終戦になったという話だがこういうことはありえるのか?
本人は余り話したくないみたいで、ダンナが小学生のときに一度話してくれたみたい。
>>950 ありえます。
途中というのは基地で待機中に終戦になったのかも
しれませんね。
出撃準備中に聴いた重大放送が玉音放送だったらそうかもね。
そうか、ありえるんだね。
おじいちゃんどんな気持ちだったんだろう・・・。
宇垣長官、自分も連れて逝ってくださいっ〜!
>>954 大西瀧治郎:「宇垣の奴め、ずるいぞ・・・オレは一人で死んでやる」
東條英機「米軍が捕まえに来るまで大人しくしてよう」
そのころ知覧でわ
鈴木参謀「一機用意いたしました。鈴木もおともします」
菅原大将「宇垣が死ねことにきめたとしても、自分にとってはこれからの後始末が大事だ」
「死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりは後の始末をするほうがよい」
959 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 03:29:44 ID:T0Cr8xoO
水戸光圀様も元特攻隊だったそうだ。
961 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 04:23:11 ID:q+DiQQ5G
962 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 11:27:34 ID:XiGZgX0Q
鶴田浩二、、、
西村晃さんでは。
お茶の千玄室先生とは戦友同士だったそう。
西村晃さんでしたか。あの世代の方々は苦労されてますね・・・
965 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 16:22:30 ID:QeMCc7IE
>>953 俺の友人の爺さんも特攻隊員だが今でも
「国を守るためなら死なんといけんのじゃあ!」と言ってますよ。
西村晃の親父さん、戦前の発明家で字を書くロボットみたいなの作ってなかったっけ?
で、西村晃が親父さんの役を映画でやってた気がする。
帝都大戦だったか?
968 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 17:06:03 ID:iAW/peis
969 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 18:38:28 ID:yBApLAAG
>962
営業用の特効隊だよん。あやつのは。世が世なら官等級詐称で憲兵隊行き。
正体はどうも大井航空基地の定員分隊の兵隊らしい。だれか軍歴照会してみんか?
照会したって本人、親族であることが証明できないと出さないよ。
971 :
名無し三等兵:2007/01/30(火) 23:15:25 ID:jRrQf2t3
>>9 44期って、戦後に有名なあの方とたぶん同期ですな・・・
西村晃氏、戦後復員するとき基地にあった飛行機を操縦して実家に帰ったんだっけ。
973 :
名無し三等兵:2007/01/31(水) 13:55:34 ID:APSzabca
俺の祖父は、戦時中に兵士として、
ガダルカナルに行ったが、そこで
リンゴを盗んで食べて上官にボコられて、
それに腹が立った祖父は、仮病を使って
マラリアのふりをして、帰国。
でも本当にマラリアになっていて治療。
その後、ガダルカナルは全滅。
命拾いしてくれたおかげで、今の俺がいる。
>>972 たしか、連絡/哨戒に使ってたお古の九七艦攻に乗って帰ったって聞いた
後席に奥様乗せて・・・。
976 :
名無し三等兵:2007/01/31(水) 23:30:17 ID:J2DXJ4l0
漏れの曾祖父は有川中将で、大陸を転戦後、沖縄戦で自決しました。64旅団という部隊を率いていたそうです。
977 :
名無し三等兵:2007/02/02(金) 20:39:15 ID:7vwGzmMA
学徒出陣の予備士官の祖父たちは、
終戦の翌日の夜、海軍豊橋飛行場のガンルームで
「厚木に続こう」「沖縄に突っ込もう」という話で
盛り上がっていたが、海兵出で上官のI中尉に厳しく止められたそうだ。
そしてI中尉は、「学徒出陣と聞こえはいいが、貴様ら学業をやりのこしてきたんだろ。
復学して学業に励み、社会の第一線で復興のために活躍しよう。」と言ったそうだ。
8月下旬、祖父は破壊処分される乗機の「銀河」に別れを告げながら、復員した。
>>977 矢矧の原艦長の話を彷彿とさせるお話ですな。
979 :
ルンルン:2007/02/03(土) 00:17:14 ID:???
>>977 >祖父は破壊処分される乗機の「銀河」に別れを告げながら、復員した
自宅の裏山に隠せば良かったのに。
戦争当時まだ学生だったじいちゃんの話。
出征の兵隊さんを町内で泊めたそうな、翌朝の朝飯のとき
「出発の時に梅干と鰹節を食べると運がつく」とい我が家の
ジンクスでそれを出した所その兵隊さんは梅干を種ごと飲み込んで
出征していったとのこと。
戦後しばらくしてその兵隊が無事復員して挨拶にきて言うことには、
「戦闘中に弾が胸に当たったけど胸ポケットに入れていた手帳で止まって
助かった、梅干のおかげです」・・・・うーん、出来すぎてるような気もするw
とはいえ、今でも我が家ではここ一番の朝には梅干と鰹節が出る。