>>724の
>捕虜を収容所送りにしたスターリンの方が日本軍より偉かったのか
これは、一度でもドイツ軍の捕虜になってたソ連兵は、例え脱走して
帰って来た場合でもスターリンはそのまま収容所送りにしたと言うこと
でしょ。捕虜は必ず洗脳されたり、工作員にされているに違いないと
疑ってた。ソ連も同じことやってたからね。
739 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 22:39:20 ID:OkdcQ9zx
>>738 >>これは、一度でもドイツ軍の捕虜になってたソ連兵は、例え脱走して
>>帰って来た場合でもスターリンはそのまま収容所送りにしたと
あ、そういう意味ですね。取り違えていましたw。まあソ連の場合、独ソ戦冒頭の
惨敗に驚いて、1941年8月16日にスターリンが「自軍の将兵が捕虜になったら
どうなるか」についての通達を発します。
「捕虜になった将兵は祖国の裏切り者と見なし、その家族は逮捕し、国家の保護と
援助を停止する。脱走者や投降者は見つけ次第、その場で銃殺せよ」
ところが当のスターリンの長男、ヤコフ砲兵中尉がドイツ軍の捕虜になって
しまいますw。親父のスターリンは、「捕虜となった赤軍兵士には裏切り者
しかいない。私にはヤコフという息子はいない」と見捨てる発言をしました。
それを伝え聞いたヤコフは、1943年に捕虜収容所で見張りの兵士の指示に
逆らって射殺されてしまいますが、これは有名なエピソードですね。
うん、有名。
741 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 22:59:41 ID:OkdcQ9zx
まあ、家族にまで『累が及ぶ』という点では、ソ連の方が支那や日本よりも
強烈でしょうかw。日本も捕虜(敵前逃亡)になった兵士の実家は、周りから
白い目で見られて半ば村八分になりました。
しかし兵士が出征すると、日本の村などでは『出征兵士の家』という
かなりデカイ旗が玄関先に「札」と共に掲げられるなど、一方では
名誉であることが非常に強調されていましたから、その反動でしょう。
まあ、上げて落とすと(藁)。
ちなみに兵士の家族が、玄関先に掲げられた「出征兵士の家」の旗の
写真を戦地に送ると、非常に喜ばれたそうです。
支那の場合、戸籍制度もあやしいので「家族に累を及ぼす」というのは
困難でしょうw。保甲制度はありましたが。
フジテレビを見ていたら、「池上彰の北朝鮮リポート」をやっていて
池上GJ! ちょっと認識を新たにしました。
「この日本人の名前はなんていうんだ?」と先方から聞かれるのは
なかなか出来る事ではありませんw。ただ膝を組むのはあまり良くない
と思いますw。
キモッ
文革で自己破壊に耽ってる期間は、深刻にヤバかったみたいだよ、
支那人民の昔の経歴暴き。
745 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:29:38 ID:OkdcQ9zx
さて支那(革命連座法)と日本(戦陣訓)の比較ですが、
>>「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に
>> 答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
ここで兵頭軍師の言葉を思い出します。「今も昔も、日本の指導者層というのは
国民全てを納得させることができる(納得させなければならない)とアプリオリ
(先天的)に思い込んでいるという事です。
その結果、兵士1人ひとりに『戦陣訓』を暗唱させるような脳内コントロールに
しゃかりきになったのではないかと思いますw。
>>736 >>試しに日本軍で『戦陣訓』の代わりに『革命連座法』が適用されて
>>いたらと思考実験してみるのも面白いでしょう(藁)。
実際に作ってみた方が早いですw。という訳で以下の通り。
746 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:42:25 ID:OkdcQ9zx
『皇軍連座法』(1941年1月8日)
【第1条】
皇軍は聖戦を完遂し、我が肇国の理想たる八紘一宇の精神を四海に光被せしめる
ことを目的とする。皇国軍人は犠牲的精神を具えるべきである。敵と交戦するときは、
いかに危険であろうとも、陣に臨んで『退却』してはならない。
【第2条】皇軍連座法は、戦時に臨んで『退却する』将兵に適用する。
【第3条】皇軍連座法の規定は次の通りである
747 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:47:40 ID:OkdcQ9zx
1.分隊長が分隊とともに退けば、分隊長を殺す。
2.小隊長が小隊とともに退けば、小隊長を殺す。
3.中隊長が中隊とともに退けば、中隊長を殺す。
4.大隊長が大隊とともに退けば、大隊長を殺す。
5.連隊長が連隊とともに退けば、連隊長を殺す。
6.師団長が師団とともに退けば、師団長を殺す。
7.軍司令官もまたかくの如し。
748 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:53:59 ID:OkdcQ9zx
8.軍司令官が退かず、全軍の将兵がみな退き、それによって軍司令官が
戦死すれば、軍司令官に所属する師団長を殺す。
9.師団長が退かず、全師団の将兵がみな退き、それによって師団長が
戦死すれば、師団長に所属する連隊長を殺す。
10.連隊長が退かず、全連隊の将兵がみな退き、それによって連隊長が
戦死すれば、連隊長に所属する大隊長を殺す。
11.大隊長が退かず、全大隊の将兵がみな退き、それによって大隊長が
戦死すれば、大隊長に所属する中隊長を殺す。
12.中隊長が退かず、全中隊の将兵がみな退き、それによって中隊長が
戦死すれば、中隊長に所属する小隊長を殺す。
749 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/15(日) 23:58:05 ID:OkdcQ9zx
13.小隊長が退かず、全小隊の下士卒がみな退き、それによって小隊長が
戦死すれば、小隊長に所属する分隊長を殺す。
14.分隊長が退かず、全分隊の兵卒がみな退き、それによって分隊長が
戦死すれば、全分隊の兵卒を殺す。
【第4条】各級の将校相当官、軍属もまた皇軍連座法を適用する。
【第5条】皇軍連座法は公布の日より施行する。
色んな意味で「こんな皇軍イヤだ!」と感じますが、
『戦陣訓』と『皇軍連座法』で好きな方を選んで下さいw。
751 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 00:22:00 ID:JN12Z3ut
>>744 >>文革で自己破壊に耽ってる期間は、深刻にヤバかったみたいだよ、
>>支那人民の昔の経歴暴き。
韓国でも親日行為についてありましたが、昔の経歴暴露というのは中共だから
やるのか、儒教も関係あるのか、日本も「共産国家」になっていたら当然
同じ事をやっていたのか、などと思いますw。
>>支那の場合、戸籍制度もあやしいので「家族に累を及ぼす」というのは
>>困難でしょうw。保甲制度はありましたが。
あくまで「戦時の話」という事にしておいて下さい。だいたい支那では
徴兵の身代わりを「金で雇って差し出す」という行為も頻発してましたしw。
752 :
元32:2006/10/16(月) 00:54:18 ID:???
>>750 基本戦略としては後退再展開を愛用する東條のもとで、
退却禁止というのはちょっと考えにくいですね。
753 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 22:15:12 ID:jgjvc5vj
>>752 >>基本戦略としては後退再展開を愛用する東條のもとで、
>>退却禁止というのはちょっと考えにくいですね。
>>『皇軍連座法』(1941年1月8日)
まあ、1941年1月8日の日付はヒデキが『戦陣訓』を自身で録音した日に
合わせていますが、あくまでシャレです。シャレw。
ヒデキについては、『大本営機密日誌』の種村佐孝が1945年2月16日に
用賀の自宅を訪れて話を聞いていますから、参考までに触れておきましょう。
以下、ヒデキが首相在職中を振り返っての反省です。
「食料事情が逼迫し国民大衆の戦意が低下していること、知識階層の敗戦必至感は
まことに憂慮すべきものがある。4月以降ソ連の動向は注意を要する。殊に敵が
本土に上陸したならば、ソ連の対日参戦は必至である。
754 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 22:29:00 ID:jgjvc5vj
開戦の可否に関しては、今でも日本はあれより外に進む途が無かったと
信じている。しかし、その後の戦争指導に関しては、大いに反省しなけ
ればならぬ点が多い。
私は開戦前、わが海軍の実力に関する判断を誤った。しかも緒戦後、
海軍に引きずられてしまった。一方、わが攻勢の終末を誤った。緒戦後の
わが攻勢はインド洋に方向を採るべきであった。
また石油に関する観察も誤った。日満支の燃料施設を、全部南方に送って
しまったのは誤りであった。さらに独ソ戦の推移に関する判断を誤った。
独ソ和平斡旋のチャンスもあったのに惜しいことをした。三国同盟の功罪は
今日自分からは何とも言えぬが、単独不講和の条約は帝国の戦争終末施策を
束縛したことは事実である」
海軍に文句ブー垂れているのはともかく、石油の燃料施設の件は興味深いです。
まあ、しかし開戦後は海軍に引きずられていった点は間違い無いでしょうw。
755 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 22:39:48 ID:jgjvc5vj
開戦後、ヒデキの海軍に対する気の遣い様は尋常ではありませんでした。
「ご機嫌取り」に終始したと言って良いでしょう。
ヒデキ自身「日本の戦争指導の危機は、陸海軍が分裂した時とソ連が対日
参戦した時に存する」と繰り返し述べており、陸軍省の幹部は、陸海軍で
話がもつれた時にヒデキ(陸相)の下に話を持って行くのを極端に嫌って
いました。
ヒデキの所へ行けば、文句無しに『陸軍の負け』となるからです。1944年
春にも、軍艦の沈没が多くて海軍が意気消沈しているというのでヒデキは陸軍
配当の鉄2万トンをお見舞いとして海軍に回していますが、これも一向に海軍
から感謝されなかった、という話があります(前述の種村佐孝・談)
756 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:15:26 ID:jgjvc5vj
>>話を元に戻しますと、このA分遣隊の人員は「坂上少尉」以下19人。
>>「坂上少尉」は幹部候補生あがりで25歳です。他に分遣隊の中心人物
>>として「倉田軍曹」という30代半ばの人物が登場します。人格的に多少
>>問題がありますが百戦錬磨の古兵です。当然、若い上官を疎んでいます。
>>685 の続き。北支の治安戦(警備任務)に付いていた『ある分遣隊』のお話です。
「上官殺害」のイグザンプルです。
いつもの如く『中隊討伐』(八路軍討伐)に応じて出動したA分遣隊は異常に
気が付きます。自分たちより先行している中隊本部と尖兵小隊からの信号弾の
連絡がちっとも来ないのです。「これはおかしい」と倉田軍曹は呟きます。
「斥候を出してみるか?」と分隊長である坂上少尉は聞きますが、倉田軍曹は
「いや」と首を振りました。とその時、銃声が前方から鳴り響き、大地に響く
ような重機の音が続きます。八路軍の待ち伏せに遭ったのでした。
757 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:27:33 ID:jgjvc5vj
倉田軍曹は「東の方角だ。尖兵隊がやられている」と落ち着き払った
声でした。中隊本部からの信号弾は依然として上がりません。銃声は
ますます激しくなります。
「救援に行こう!」坂上少尉の眼が血走るように光ります。興奮して
いることは声でも分かりました。しかし「駄目だ」と倉田軍曹は
きっぱり否定します。
「敵は1個小隊どころじゃない。ちゃんと情報を掴んでいて先制攻撃を
かけている。今飛び出したら俺たちも全滅だ。敵はこっちにも重機を
向けているに違いない」
「どうしてそれが分かる?」と坂上少尉。「それくらい分からなくて
どうする?」と倉田軍曹。
758 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:42:04 ID:jgjvc5vj
「しかし友軍がやられている」
「ボヤボヤしているからやられるんだ。討伐はピクニックじゃない」
「見殺しにするのか?」「止むを得ない」――倉田軍曹は銃声に耳を
傾ける表情で前方に視線を凝らし、少しも動じませんでした。
「小松伍長――」坂上少尉は、倉田軍曹から向きを変えて声をかけます。
しかし小松伍長は銃を抱くようにかかえ、うずくまるような姿勢のまま
顔を上げません。「小松伍長――」坂上少尉はまた呼びかけますが、小松
伍長は返事をしませんでした。
業を煮やした坂上少尉は、苛立った、そして上擦った声で「みんなよく聞け、
友軍はいま敵の攻撃を受けて苦戦している。わが隊はこれから敵陣に突っ込む。
敵の背後を突くのだ。絶対に遅れを取ってはならん!」と檄を飛ばします。
759 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/16(月) 23:49:28 ID:jgjvc5vj
「馬鹿を言うな! 貴様には八路の戦法が分かっていない」と倉田軍曹が
すぐさま反駁します。「なに――」坂上少尉は当然いきり立ちます。
坂上少尉はまだ25歳で、倉田軍曹との間には10歳以上の年齢差があり
ました。もちろん実戦経験も乏しかった訳ですが、彼は倉田の上官でした。
「貴様は上官の命令が聞けないのか?」「上官なら上官らしい事を言え」
「叩っ斬るぞ!」「勝手にしろ。貴様なんぞに斬られやしない」
「よし、後で叩っ斬ってやる。さもなければ軍法会議だ。他の者は俺を
信じて付いて来い!」
「皆ここにじっとしていろ。隊長の命令を聞いたら犬死だぞ!」
倉田軍曹もさすがに緊張した声で、怒鳴るように言いました。
760 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/17(火) 00:00:23 ID:jgjvc5vj
坂上少尉は倉田軍曹を無視して、軍刀を抜きました。血気に逸っていたという
事があるかもしれません。しかし、それよりも指揮官としての実力を部下に示し、
倉田軍曹の勝手を抑えたい気持ちが強く働いていたに違いないでしょう。
もちろん坂上少尉も、若輩で実戦の経験は倉田軍曹に劣っていても、彼なりに
情勢判断には自信があったでしょう。一途な性格で倉田軍曹にも一目置く様子
でしたが、決して臆病な男ではありませんでした。
「突撃――」坂上少尉は攻撃目標を示すと、軍刀を振りかざして躍り出ました。
しかし後に続く者はだれも無く、坂上少尉はたちまち一斉射撃を受けて斃れました。
A分遣隊は、崖の斜面の岩陰に伏せっている格好でしたが、やはり崖上の八路軍
から重機で狙われていたのでした――。分遣隊長の坂上少尉を見殺しにした格好
ですが、倉田軍曹らも危機から逃れられた訳ではありません。このまま谷間に退却
しようとしても、同じく崖上の八路軍から狙い撃たれて全滅でしょう。
761 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/17(火) 00:11:08 ID:WiLrOnJl
しかし、倉田軍曹らも軽機を2挺(うち1挺はチェコ軽機)を岩陰で
構えています。仮に八路軍が崖上から突撃してきたとしても充分に
迎え撃てるでしょう。全員が着剣して白兵戦を覚悟しますが、基本的
には日没待ちです。闇夜に紛れるしか不利な戦闘を避ける方法はあり
ません。
そうこうしている内に「尖兵隊」の方向から聞こえてきた銃声は止み
「全滅かな」と軽機を抱える倉田軍曹は不機嫌そうに呟きました。
夕方近くになっても八路軍の斥候がちょくちょく様子を窺いに来て、なか
なか身動きが取れません。夜を迎えて隙を見て、坂上少尉の遺体を回収し
担いで引き揚げましたが、胸に2発、喉にも1発が貫通していました。
結局、この時の中隊討伐で尖兵隊は全滅、中隊長も戦死しています。
中隊長は大隊長からハッパをかけられて功を焦っていた様です――。
762 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/17(火) 00:29:03 ID:WiLrOnJl
このエピソードは命令不服従、『小隊長を見殺しにする』典型的なパターンです。
もっと酷いのだと、飛び出した小隊長を、八路軍が崖上から撃つよりも先に
後ろから「味方がズドン」でしょう(藁)。
しかし、あくまで一例です。他の戦例ですと、小隊長に全く突撃の意気地がなく、
古参の下士官から銃剣で「早よ突撃せい」と尻をつつかれるケースもありますw。
また小隊長が完全に自信が無いからといって指揮権を放棄し、「軍曹(伍長)、
あとは君に任せた」と後方に下がってしまう例もあることを付記しておきます。
763 :
元32:2006/10/17(火) 01:21:13 ID:???
>>754 石油の件については、南方の油田確保・掘削は成功して、
日本の戦争遂行に必要なだけの膨大な石油を入手することに成功するのですが、
水上交通の途絶と油槽船の不足により運べなくなるのです。
おかげであまった石油は海に捨てたり、ゴムの袋につめて放流していました。
というわけで、もういちど本土・半島・大陸で石油掘削を試みようと思うのですが、
設備も技術者もみんな南方に送ってしまったわけで。
ですから、これも貴重な油槽船を乱用して、海上護衛を放り出した海軍批判の一環かと。
>>762 この種類の話、とても勉強になります。
続きを期待します。
しかし、末期に近づくにつれ、護衛をつけても護衛艦ごとボコボコ沈められていた例が多いですよ。
まっこと残念無念。
765 :
だつお:2006/10/18(水) 08:21:33 ID:Ahwbvf+t
>緒戦後のわが攻勢はインド洋に方向を採るべきであった。
インド洋からスエズ運河が陥落すればイギリスは戦線離脱となるが、
代わりにアメリカ太平洋艦隊がインド洋に現われたであろう。
(これは米英でもそういう計画だったそうだ)
太平洋で攻勢するよりは、ガッチリ大陸打通が最高であった。
イギリスと中華民国を先に戦線離脱させればアメリカもそれ以上
は手が出せなくなる。史実よりも講和条約が早くなっていたかも。
インドと中国が米英に牙を向けば、米英は日本と講和するしかない。
東条英機が死刑になったのに対し、岸信介が総理大臣に復帰したのは、
単に講和条約の時期がズレただけのことだったはずだ。二キ三スケと
してまったく同じことをやって一方が戦犯で一方が総理復帰だから。
766 :
だつお:2006/10/18(水) 08:32:00 ID:Ahwbvf+t
http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm 日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党−ケ小平語録
戦時においては「敵の敵は味方」が鉄則。
よって米英と中華民国の敵である中国共産党こそ皇軍にとって
最高の味方であって、中国共産革命こそが朝鮮特需と日米講和
の決定的引き金であったといえる。
インドも徹底的に攻略してボースに指揮させれば、インドと中国の
両方を米英と戦わせることができて、講和条約は早まり東条英機も
死刑にならずにすんだはずだ。
海戦こそ敗れても、わが帝国陸軍の戦闘能力は偉大。
767 :
だつお:2006/10/18(水) 08:38:18 ID:Ahwbvf+t
中国の共産革命は、敵にとっての痛撃であって日本への害ではない。
共産主義が嫌いだからといって、中共勝利を安易に否定すべきではない。
中共勝利・米中決裂がもっと早ければ東京裁判もなかったのにと、
これはもっとそういう意味で悔やまれるべきであろう。
日中戦争で皇軍が中国人を虫けら同様に大量殺戮したというのは、
あくまで敵に与えた損害が甚大であったということでありそれは
皇軍の偉大な戦果であったと記憶すべきことだ。
>>766 > インドも徹底的に攻略してボースに指揮させれば、インドと中国の
> 両方を米英と戦わせることができて、講和条約は早まり東条英機も
> 死刑にならずにすんだはずだ。
なるほど!!
そろそろ、このスレもご臨終の時期(500KB)を迎えましたので総括に
入ります。2ヵ月弱で1スレ消費したのは最短でしょう。つーか、コピペ
多過ぎですw。思えば「初代スレ」で、
>>20 名前:イナゾウ中佐 :2005/10/08(土) 00:05:56 ID:???
>>ではスレの番号も若いことですし、自分が頂きましょう。
>>ただ今現時刻を持ちまして、このスレは『被害担当艦』になりますw。
としたのが始まりですから、もう1年間が経ってしまいました。まあ、どこまで
続くか分かりませんがコツコツと積み上げて行きましょう。きっと最期はプッツリと
音信不通になってサドンデスですw。それとも「おめでとう!」「おめでとう!」と
どこかで見たような拍手が連呼されて終わるのでしょうか(藁)。それはさて置き、
>>89 >>その功績により、どうぞこのスレでは『少将』の階級をお名乗り下さい。
>>もちろん「使徒」にも後の機会にうpさせて頂きます(笑)。
とこのスレの最初の方で書き込みましたので、1年間を振り返る意味も込めまして
「使徒一覧」をまとめさせて頂きます。このスレを訪れた主だった人は以下の通り。
第1使徒「32」さま(この人が最初に相手してくれなかったらスレは無かったかもしれません)
第2使徒「俄将軍」(初代スレを確認したら2番目の登場。幣制改革は二度とやりませんw)
第3使徒「だつお」(この人も早い登場でした。コピペ多過ぎ、要考慮KBw)
第4使徒「名無しロサ・カニーナ 」 (懐かしい名前です。確か樋口季一郎中将の話でした)
第5使徒「唯」(台湾の人。英語と中国語だけの書き込みで対処不能に。自分の語学
コンプレックスを程良く刺激w)
第6使徒「えICBM」(こうしなければ降格だ!と自分に格下げを迫る恐い人w)
第7使徒「暫編第一軍」(汪政権軍を皮切りに支那軍隊の編成に激詳しい方。他の
話題は不明ですが、前者のみで言えば少なくとも大佐クラス)
第8使徒「ue少将閣下」(初出は、田中上奏文の記述についてだった記憶が……。
このスレの過去ログを作って下さったエロイ、もとい偉い人。
経済・政治史についても詳しい方です:高橋是清財政等)
第9使徒「四季映姫・ヤマザナドゥ様」(楽園の最高裁判長の二つ名を持つ地獄の閻魔様、
このスレにたびたび光臨されますw。御髪は深緑色)
四季映姫さまは冗談が過ぎましたw。また恐れ多いので取り消します(藁)。
第9使徒「579(4代目スレ)」(山西残留兵問題で、蒙を啓いて頂きました。
あの時の自分は明らかに勉強不足でした)
加えて多くの「名無し」の皆様方――。単発で鋭いツッコミを入れて下さった方も
大勢いらっしゃいましたが、識別困難なので割愛させて頂きました。スマソ。
あと8KB。まだ1日2日は持つでしょうから、感想・苦情・要望などございましたら
恒例でどうぞ。スレの冒頭で大テーマを幾つかやると(阿片問題等)偉そうな事を抜かして
おりましたが、ほとんど雑談レベルで終わってしまいました。正直仕事の方がキツイので、
次スレでもしばらくこの調子で逝かせて下さいw。
773 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/18(水) 23:26:51 ID:eGkq0bjr
>>763 >>日本の戦争遂行に必要なだけの膨大な石油を入手することに成功する
>>のですが、水上交通の途絶と油槽船の不足により運べなくなるのです。
種村佐孝の『大本営機密日誌』を見ますと、1942年5月13日の日付で
既にタンカーが足りないとぼやいています。南方作戦で陸軍はスマトラ島の
パレンバン油田、海軍はボルネオの油田を確保していました。
ところが陸軍のパレンバン油田では予想以上の石油が採れるのですが、これを
運ぶタンカーがありません。開戦当初の日本のタンカーは海軍が8割を握って
いましたが、ボルネオから出る石油の量は微々たるものです。パレンバンの比
ではなかったのです。
陸海軍の「保有タンカー比率」は1941年9月末の連絡会議で決められて
いましたが、これは不用意であったと陸軍は嘆きますが後の祭りですw。
774 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/18(水) 23:41:55 ID:eGkq0bjr
海軍からは「陸海軍共同でパレンバン製油所の運営をやろう」という意見が
出ましたが、これには陸軍が反対します。逆に陸軍からは「海軍からタンカー
(8割を占める)を吐き出させろ」と主張しますが、もちろん海軍が反対します。
陸海軍がお互いの既得権益を守ろうとして一歩も譲りませんから、話がちっとも
まとまりません。1942年5月の段階でこれですw。
南方総軍総司令官の寺内寿一から、総理大臣のヒデキ宛に「陸海軍のタンカー問題
を一刻も早く解決されたい」と意見具申が送られるなど、中央の面子は丸潰れと
なりましたw。結局、海軍が保有タンカーを融通することで、パレンバンの
石油は上手く流れることになります。
以前、別スレで日本の継戦能力を奪ったのは『戦略爆撃』か『潜水艦作戦』かで
揉めていた記憶がありますが、『大本営機密日誌』を読む限り、ひたすら
「船が足りない、船が足りない」と船舶問題しか書かれていませんw。
775 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/18(水) 23:57:46 ID:eGkq0bjr
「船舶問題」は作戦行動に直結しますから深刻です。
また1942年6月5日の日記に、陸軍省の岡田菊三郎・戦備課長が
本年度の石油配分について、田中新一作戦部長に「陸軍100万トン、
海軍270万トン、民需250万トン」の案を説明しています。
これを聞いた田中新一は、怒髪天をつくような大声で「これで作戦が
できるか!!」と戦備課長を叱咤しました。岡田は悄然として部屋を去った
と言います。
ちなみに岡田菊三郎は、開戦前にヒデキと武藤から命じられて『日米戦力比』を
作成した陸軍屈指の合理主義者と呼ばれた人物ですw。それにしても配分案を
見るかぎり、「陸軍省」側はかなり海軍に遠慮していると言えないでしょうか。
ヒデキによる海軍へのご機嫌取りの部分もあったかもしれません。
776 :
元32:2006/10/19(木) 00:07:30 ID:???
>>774 とにかく船ですね。
海軍の場合、艦隊の補給用にも油槽船は必要なので、余計深刻です。
後知恵で考えれば、ミッドウェイなどしないで、
その分の油槽船で石油を運んでいればどれほどよかったか、ということになります。
それでも昭和17年はいいのです。
昭和18年以降になると、
生産量の大半が米潜水艦により沈められることになります。
>>水上交通の途絶と油槽船の不足により運べなくなるのです。
まあ、本土決戦が始まっていれば、支那戦線の100万の日本軍が完全に
『遊軍』と化した訳ですから、やらなくて正解だったかもしれませんw。
海軍の大和が残置されている(もしくは港湾で大破)のに匹敵します。
支那から移動する輸送船も無ければ、強硬したところで米軍機に片端から
沈められるでしょう。
>>この種類の話、続きを期待します。
治安戦は「次スレ」にも引き続きまふ。
778 :
元32:2006/10/19(木) 00:15:25 ID:???
>>775 海軍はそれでも作戦を掣肘されたと怒りまくります。
でも、あおりを食らったのはむしろ民需のほうで。
本当に昭和17年に、第2段作戦などするのは無意味なことでした。
当初に石油を運んでおけば、機械も動かせるので船も造れます。
そうすれば、もっと石油を運べるのです。
>>777 次スレでもよろしくお願いします。
777getですね。
タンカー不足など、精神力でどうにかするのが皇軍というものだ。
貴様等は非国民だ。
>>779 するってーと、
存在しない大勝利の栄光を、精神力wで無限コピペする
だつおみたいなのが理想の皇国臣民だと、
そーゆーことですか、そーですか。
782 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/10/19(木) 22:33:14 ID:n/8PrrgE
>>778 >>でも、あおりを食らったのはむしろ民需のほうで。
>>本当に昭和17年に、第2段作戦などするのは無意味なことでした。
「船舶問題」と言えば、ガダルカナル攻坊戦が大きな端緒です。
1942(昭和17)年11月16日に、陸軍参謀本部が「船舶37万トン」の増徴を
要求して、企画院も止むを得ないとして政府側の同意を得ようとしている最中に、
海軍側が「船舶25万トン」の増徴を新しく申し出て来てオジャンになりますw。
国力(民需)の充実を優先させる「陸軍省」側は、参謀本部の要求に否定的でした。
「船をもっと貰わなければガ島の戦闘は負ける」と主張する作戦部に対して、当時
軍務局長だった佐藤賢了はこう反論しています。
「来年度の物動で鉄350万トンは絶対に確保する必要がある。この確保が困難に
なるような作戦は御免こうむる。両統帥部の要求を呑んだら民需に向ける船舶は
減少するから、鉄200万トン以下になる」(1942年11月30日)
783 :
名無し三等兵:2006/10/19(木) 22:38:52 ID:np1D56ZC
開戦時の年産60万トンを最終的に年産170万トンへ
引き上げられただけでも軍需省は十分がんばったと思ふ。
ッ-ヘ。__。ヘ ./ー- 、
レ, '´゚ `,〉 /==ヽ
i ハ)))ハ))ノ) ム, |/ 唐突だけど、スレの寿命が尽きたんで
イオi ゚ ヮ゚ノヘ / あの世に持って逝くよー。
,ぐ`i盃、ツつr'ソ
,メ∪イ-i、ゝ
゙'ーi_'ォ_ァ"
まだ1kもアナルじゃないか
787 :
三途の水先案内人 小野塚小町 ◆FU/OcfTlfM :
>>784 >>開戦時の年産60万トンを最終的に年産170万トンへ
>>引き上げられただけでも軍需省は十分がんばったと思ふ。
ッ-ヘ。__。ヘ ./ー- 、
レ, '´゚ `,〉 /==ヽ
i ハ)))ハ))ノ) ム, |/ あれ? フライング? じゃあ、代わりに
イオi ゚ ヮ゚ノヘ / 潰しておくよ。1942年末の段階でもう既に
,ぐ`i盃、ツつr'ソ 「船だ、造船だけが国を救う――」という
,メ∪イ-i、ゝ 雰囲気だったのさ。「川南式簡易造船方式」
゙'ーi_'ォ_ァ" の採用がやかましく言われるようになったのも
この頃さ。当時、首相だった東條英機は川南
造船所のことを聞くと、直ぐに飛行機で九州に飛んで、川南造船所を視察しているね。
(1942年12月1日)もともとフットワークが軽い方だけど、熱意だけは
買ってやったら?w