日本の戦国時代の合戦の虚像と真実3

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1名無し三等兵
大河ドラマ・司馬歴史小説等、さまざまに流布している戦国時代合戦のイメージは、不正確極まりないものとされています。
真実はどうなんでしょうか?
軍事的な知識を多くお持ちの皆さんで論じ合いましょう。
 ・日本だけではなく、同時代の他国の状況との対比
 ・前史としての 律令制→室町中期 との比較
 ・後史としての 江戸時代と黒船来航以降の幕末戦争 との対比
など積極的に話題を提供してください。

初代スレ
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1128176890/
その2(前スレ)
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1090124419/

※注意
少佐は書き込み禁止、もし書き込んでも徹底スルー
少佐に関わる奴は同類
2名無し三等兵:2006/07/16(日) 04:17:00 ID:???
3少佐:2006/07/16(日) 05:20:09 ID:dXZe/ecS
原始的な当時の大砲も使われていた。
ただ鉄の玉が飛んでいく漫画に出てくるような奴ね。
ほうろく火矢という当時の手投げ弾も使用されていた。
石だろうが、手裏剣だろうが、弓矢だろうが、火縄銃だろうが
使えるものは親でも使えという発想があったのだろう。
白兵戦では棍棒も使用されてる。
4名無し三等兵:2006/07/16(日) 08:04:26 ID:???
>>1
スレたて乙カレー
スレッドルールがいい感じだ

さて、マターリ行こうか
5名無し三等兵:2006/07/16(日) 08:30:18 ID:???
蔵米制は、近代軍への第一歩。
6名無し三等兵:2006/07/16(日) 20:27:47 ID:xcDC61zq
近代化って点では、武士と農民を分離して、戦闘に特化した階層を作り出した点も重要かと
7名無し三等兵:2006/07/16(日) 20:31:14 ID:???
農民と専門戦闘者を分離すると、弱兵化するのが欠点
利点は農作業に戦闘行動を阻害されないこと。

収穫の秋に攻め込まれると非常に痛い。
8名無し三等兵:2006/07/16(日) 20:35:13 ID:???
火縄銃を長銃身化させたのがあるそうでつが…
9名無し三等兵:2006/07/16(日) 20:38:13 ID:???
>>8
城内など防御戦闘用に長銃身のやつは結構あるぞ
10名無し三等兵:2006/07/16(日) 20:51:12 ID:???
>>8-9
戦国期に使用された火縄銃の実物は意外と残っていない。
長銃身は、江戸中期以降のものの可能性はあるぞ
11名無し三等兵:2006/07/16(日) 21:15:45 ID:???
弩が発達しなかったのはなんで?
12名無し三等兵:2006/07/16(日) 21:24:04 ID:???
>>11
中央集権国家じゃなくなったから
13名無し三等兵:2006/07/16(日) 22:46:56 ID:???
中央集権国家の頃(地方分権国家にになる前)は結構孥もあったと
聞いたことあるけど
具体的には何時代でどの程度の孥があったのだろう?
14名無し三等兵:2006/07/17(月) 00:23:34 ID:???
>>10
そうなんだよね
博物館なんかに残ってるのも大抵が江戸時代初期以降のやつで
戦国時代の奴はあんまり残ってない
非常に残念だ
15名無し三等兵:2006/07/17(月) 05:10:54 ID:???
>>14
なんで戦国期のは残ってないんですか??
江戸時代のときでもたしか軍役は課せられてましたよね??
まさか捨てちゃったことはないだろうし。
16名無し三等兵:2006/07/17(月) 08:02:26 ID:???
江戸時代は、平和時なのに、鉄炮の生産は続いていたので、みな入れ替えられてしまったようです。
そもそも、火縄銃の銃身はある程度の消耗品で、命数が少なかったようだ。
17名無し三等兵:2006/07/17(月) 08:14:53 ID:L5kLrc5D
流石に300年維持するよりは、新規更新し続けたのでは無いかと
使用限度がどれ位か予想するのは難しいが、戦国時代の銃よりも江戸時代の銃が格段進歩した訳でも無いから、常時更新されて旧式は無くなったのでは
江戸時代では、一部例外を除いて、幕府・各藩にて銃を所持していたのだから、随時新旧交代していたと推測
個人所有してる銃こそ、使用限度超えたら、更新していた筈
余りに古い(使用回数の多い)銃は、暴発の危険性もあるだろうから、余程事情が無い限りは残されていないのでは無いかと
18名無し三等兵:2006/07/17(月) 08:19:10 ID:???
古代には弩が使われていた、とする説が主流ですけど
奈良朝以前、「魏志倭人伝」において長弓の記述が有るので引用
> 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。
その時点で、狗奴國には上下の長さの違う重藤弓形式の弓が有り
近隣の部族も同様の弓矢を使用していたと読めます

そこで、弩は輸入品だったんじゃないかと推察
中央集権に成功して、軍備の必要が無くなったので輸入する必要が無くなった
という仮定は成り立ちませんかね?

なぜ国産化しなかったのか?という疑問は残りますが。
19名無し三等兵:2006/07/17(月) 08:27:08 ID:L5kLrc5D
>>16
うっは被った…スマソ

>>18
弩の国産化がされなかった理由かぁ、興味があるから調べてみよう
20名無し三等兵:2006/07/18(火) 06:02:08 ID:???
第3スレが二つ有る・・・あっちが本スレですか
俺、気付くの遅すぎorz
21名無し三等兵:2006/07/18(火) 06:26:43 ID:???
>>20
あっちは乗っ取られてますから
こっちが本スレだよ
22名無し三等兵:2006/07/18(火) 20:13:14 ID:???
23名無し三等兵:2006/07/18(火) 21:45:33 ID:zo9UMfDq
軍板にこんなのが一つ位あっても良いんじゃないかね?
時代が変われば戦術も変わる
今は、当たり前にある物が無い時代はどうだったかを検証するのも悪くは無かろう
24名無し三等兵:2006/07/18(火) 21:53:36 ID:???
別に戦国時代の軍事だって板違いじゃないし
25名無し三等兵:2006/07/18(火) 23:09:43 ID:???
>>18
弩は連射性能に劣る事と、同威力の弓より重いという弱点があります
ちなみに、戦国時代の国内資材での生産は可能でした

しかし、弓よりギミック多いから故障時の取扱いや部品調達とかで不利だったと推測
26少佐:2006/07/19(水) 00:49:36 ID:h9k7plvM
乱入する。
みなさんも書いてるようにボウガンは足で弦を引くのだから、連射性には欠けてしまう。
手でハンドルを回して弦を引くものや、一度に複数の矢を発射する
改良型も製作されたが、それだと重量が増え、メンテナンスの手間も
増すし、何より量産性が低くなる。
普通のボウガンでもその形状から言って弓矢より量産性に欠けるからね。
威力面も問題も弓矢が改良されて威力を増すことで威力面での弓矢に対する
絶対的な優位性が崩れたというのがあるのだろう。
27名無し三等兵:2006/07/19(水) 01:15:08 ID:???
お前は隔離されてなさい。
28名無し三等兵:2006/07/19(水) 03:38:37 ID:???
弩の製造法は国家機密であり、制式兵器として規格品が国衙工房で製造・支給されていました
蝦夷や海賊に悩まされる諸国の国府においては弩の技能教官、弩師が設置されており
各地の国府や鎮守府、城柵には弩が備蓄されていました
駆動部、照準器など金属部分はほぼ青銅製であり、機構は中国のものとほぼ同一だそうです

日本が独自に発明した新弩は大型の設置式弩砲で、全方位に弩を回転させることができました
戦国vsローマ軍スレ(だったか)にあったように、
弥生時代には弩は既に日本に伝来しており
前九年の役においては安倍軍が柵から奪った弩を使用しています
29名無し三等兵:2006/07/19(水) 07:14:11 ID:???
なるほど、国産化は既にしていた、と
なぜ廃れたのかも、大体結論が出ていますね

地形的に、重い弩を運用するのに無理があった
というのも考えられます
大型の設置式弩砲を運用するのは大変でしょうし
街道の整備がどの位されていたのかな・・・
30名無し三等兵:2006/07/19(水) 18:38:15 ID:SsfH8res
街道や水運の整備状況に関わらず、戦国時代の輸送は人と馬が基本かと
余りに多くの物資輸送は無理な為に、ある程度の現地調達が基本になったのだろうが…
信長上洛の話しからしたら、人員すら調達しつつ移動した様だが、合理的なのやら無計画なのやら、サッパリ判りません
実際はどうだったのだろうか
31少佐:2006/07/21(金) 00:23:00 ID:GhhvM7n7
古代中国の絵とか兵馬俑なんかを見る限り、古代中国で使用されてた
ボウガンは木製でかなり大きい。
それ自体が白兵戦で棍棒になりそうな代物だ。
そりゃ手作業の時代で基本は徒歩だろうから、量産性、携帯性で難点
があったとしてもおかしくはない。
32名無し三等兵:2006/07/22(土) 04:40:36 ID:uXx834m/
やはり、ネタが無い時は飯ネタだな

戦国時代で食べてみたい物って何かある?

俺は当時の豆腐を食べてみたい、沖縄の島豆腐みたいな固めの豆腐とか凍み豆腐とか、結構あったみたいだからねえ
33名無し三等兵:2006/07/22(土) 12:56:05 ID:???
だれか戦国時代のレシピ紹介して〜
34名無し三等兵:2006/07/22(土) 20:34:37 ID:UExHWiLB
武士の家来が持ってきた鉄炮は、武士と鉄炮を操作する家来を分けること出来るんだろうか?

35名無し三等兵:2006/07/22(土) 21:10:58 ID:???
培臣だから基本無理じゃね?
長篠では各隊から種子島扱う隊だけ抽出して集成したらしいが
36名無し三等兵:2006/07/22(土) 22:48:43 ID:???
戦国期の軍制は庄屋仕立てだから難しいかと。
鉄砲は単なる武器でなく兵とセットだし、その指揮官もセット。
鉄砲が足軽の武器とは限らないし。

長篠は馬防柵と鉄砲が有名だけど、あれって所謂野戦築城だよね?
同時代の欧州ではありふれた戦術だし。
酒井忠次の鳶の巣山夜襲が効いて長篠城包囲網が崩れたことが本当の決定打かな?
37翡翠(星砂) ◆PujjQOi5D. :2006/07/22(土) 23:58:16 ID:???

秀吉の墨俣1夜城
(今までは4日〜1週間説。最近発見された古文書では3日での建設)
の時の秀吉は足軽鉄砲隊を数十人(50より多くて100より少ない数です)
をつれていたみたいです。

いっぽう、
当時の武田(資料は1570年代初頭)の軍役では、
30人近い軍役に5人の鉄砲装備を求めていたりとか。家によって色々?

なお、
木下藤吉郎秀吉の墨俣特攻隊(?)のメシのメニューは・・
干飯(ほしめし)の1メニューだけだったのかしら。
そんな記載が見えますです。
38名無し三等兵:2006/07/23(日) 00:04:55 ID:???
慶長年間の徳川家で16%くらいだったと思う。
天正年間の明智家ではもうちょっと少なかったように記憶。

長篠の折の鉄砲の装備率で言えば、実は両軍とも大差なかったとか。


篭城戦のときの畳や壁まで食うというのは、
元々食える物から作ってあるから食えるのだと、割と最近まで知らなかった漏れ。
39名無し三等兵:2006/07/23(日) 01:00:39 ID:???
鳥取城攻囲戦や、長島一向一揆の末路とか知っていたら、
とてもじゃないけど贅沢などいってられん。
たしか、壁まで食える工夫はどこかで読んだけど、どこで読んだんだろう。
40名無し三等兵:2006/07/23(日) 04:07:27 ID:???
壁まで食べられるネタは城関連で見た記憶があるが、個人的には本当かな?と思っていたり

戦国時代の保存食って色々あったみたいだしねぇ
本当なら、素材は何だったんだろ
41名無し三等兵:2006/07/23(日) 07:41:25 ID:???
縄文クッキーなんて代物が有りますが、これなんかは壁の素材にも出来そうですね
http://www.jomongaku.net/note/kakoshokuhin.html

保存のきく食材を、思い付くまま書いてみる

大豆→味噌
小豆、蚕豆
干物、塩漬け肉
甘蔓、片栗、胡桃、松の実、銀杏、橡の実、栗、団栗、アケビ
粟、稗、黍、麦、蕎麦


まだまだありそうですが・・・
農民が秋や春先に収穫して、農閑期にせっせと作っていたのでしょうかね>>保存食
そして武士に売り付ける。
42名無し三等兵:2006/07/23(日) 12:09:04 ID:???
芋縄なんかがポピュラーかも。

芋の蔓を味噌でしめてよりあわせる。これを縄代わりに使う。
兵糧や消耗品を縛るのに使うと、戦が進んでくるにつれ縄が余る。
んで、この余った縄をぶつ切りにして煮れば、簡易味噌汁の出来上がり。

とはいえ戦国期の戦いは基本的に内戦だから、現地調達が期待できるだろうしね。
大規模な包囲戦だと付近の農民やら商人やらがいろいろ物を売りに来たりして。

こういう戦争体験ばかりだから、後の対外戦争でも兵站を最重要視しなかったんだとちょと考察。
43名無し三等兵:2006/07/24(月) 03:08:53 ID:g+hPqYpA
>>33
つ「猫まんま(玄米バージョン)」

戦国時代にサツマイモ普及してないから、鰹節が普及していたかどうかは謎だが…
44名無し三等兵:2006/07/24(月) 20:43:54 ID:???
うは、間違ってた。蔓じゃなくて茎ね。里芋の。
いもがら縄といってかなり有名らしいが、ググってtopが戦国無双というのがなんとも。
因みに、鍋は陣笠。
45名無し三等兵:2006/07/25(火) 23:05:17 ID:???
腹減った
46名無し三等兵:2006/07/25(火) 23:11:33 ID:hRspPjlQ
>>41
あけびって漬物だったのかな?
なま物で、おやつってイメージしか無かったよ

アワビの書き間違いなら・・・・・そんな事は無いか
47名無し三等兵:2006/07/26(水) 00:04:01 ID:pELta41A
城壁にスルメや昆布を塗り込めて置くとか読んだ気が
48名無し三等兵:2006/07/28(金) 00:26:46 ID:???
保存食の歴史とか調べてみても面白そうだね
今度調べてみよう
49名無し三等兵:2006/07/28(金) 23:15:39 ID:???
ネタがないのか?

>>1よ、今も見てるならなんかネタを出してくれ。検証してみたい疑問なんかでもいいぞ。
50名無し三等兵:2006/07/29(土) 08:14:34 ID:???
1ですが
ネタを振ってみます

当時の一日の行軍距離なんてどんなもんだったのかな?
秀吉の中国返しなんか驚異的なペースだけど
平均的な行軍距離ってどのくらいだったのだろう?
信玄が領内に棒道とか作ってるけどどの程度の効果があったのかな?
あと、当時の一般的な街道って整備状況はどんなかんじなのかな?

こんな感じで
51名無し三等兵:2006/07/29(土) 21:35:54 ID:JbDhpqfE
街道整備資料探索中につき、しばしお待ちを
52名無し三等兵:2006/07/30(日) 14:34:46 ID:???
現代の歩兵は、1時間4kmで10時間行軍が限界だな
日没と共に行軍開始で、朝日が上がる前に陣地に対空偽装完了するのが基本
なので夏はどうしても行軍距離が短くなる。
53名無し三等兵:2006/07/30(日) 20:34:26 ID:???
>50
大体20km/日だった模様。
古代ローマ軍の行軍速度もそのくらい。
東海道のような大街道の道幅はローマの街道とほぼ同規模なので、街道に沿っての移動速度と見て良いかと。
54名無し三等兵:2006/07/30(日) 22:18:34 ID:???
秀吉の小田原攻めでは、京都−駿府間が秀吉本隊19日の行軍。
行程はJR東海道線で計算すると333km、つまり17.5km/日という感じかな。
この軍勢は秀吉直属の3万2千。先方でなく勝ち戦を決め込んでの進発だから
そういう部分を加味すれば概ね>>53の指摘通りでないかと。

腰兵糧の使用という条件なら、もう少し行軍速度は上げれそう。
但し3日が限界だし、目的地で兵糧が確保できない状況だと駄目。
55名無し三等兵:2006/07/31(月) 01:02:36 ID:???
とすると関ヶ原の時の家康の江戸から清洲まで10日ってのもかなり速いな
56名無し三等兵:2006/07/31(月) 01:15:37 ID:???
東海道線での距離は366kmで移動は11日だから33.3km/日、速いね。
直前に東軍先鋒による岐阜城攻略があり、家康としては急ぎたい理由があったと思う。
先手の主将は豊臣恩顧ばかりで、万一秀頼出馬ともなれば浮き足立ちかねない。
戦場に近い場所に自分という重石が必要、
場合とあれば正則らに直接言質を与えれる情況が欲しかったのだと思う。

実際これは強行軍だったようで、家康は風邪を引いて翌日も清洲に留まっている。
57名無し三等兵:2006/07/31(月) 07:11:52 ID:???
>>53
質問でスミマセンが
当時の街道って道幅は何メートルぐらいなのでしょうか?
砂利とか石とか敷いてあるのでしょうか?
それとも土をならしただけなのでしょうか?
58名無し三等兵:2006/07/31(月) 07:48:18 ID:???
一応決まりでは道幅は6間とされていた模様。
舗装は通常は土をならしただけ。箱根などの難所は石畳を敷いております。

ttp://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index.htm
59名無し三等兵:2006/08/01(火) 18:05:51 ID:???
6間ですか、10Mぐらいというとかなり広いですね
大きな荷車でも余裕をもってすれ違えますね

参考アドレスありがとうございます
石畳のひかれる前は竹をひいていたのですね
石畳になるのは江戸時代からみたいなので戦国時代は竹だったのかな?
60名無し三等兵:2006/08/02(水) 00:13:40 ID:LBQgQBrn
場所によりますな
石が簡単に手に入らない(輸送困難な)場所では、土のままでしたし
川の渡し付近も、石の場所は無かったかと(富士川付近)
61名無し三等兵:2006/08/06(日) 00:41:41 ID:Gq2sdtoQ
久々に保守
62名無し三等兵
中国大返しは兵を褌一丁で目的地まで走らせたという説があります。
武器甲冑は別部隊が運搬。
先発部隊が街道沿いの民家にお金を渡してお握り・水を用意させておき
仲間が走っている間は敵の襲撃をうけないよう街道を警備、というもの。