1 :
名無し三等兵:
精鋭師団近衛第一師団
2 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 06:09:19 ID:???
>>1は柏原芳恵とセックスできる。
>1は競泳水着姿の柏原芳恵とセックスできる。
>1はメイドさんの柏原芳恵とセックスできる。
>1は秘書スーツ姿の柏原芳恵とセックスできる。
>1はブルマー姿の今の柏原芳恵とセックスできる。
>1はスクール水着姿の今の柏原芳恵とセックスできる。
>1は亞里亞のコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>1はバニーのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>1はハイレグレオタード姿の柏原芳恵とセックスできる。
>1はDOAのクリスティのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>1は御剣冥夜のコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>1はセーラ服のコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>1は水銀燈のコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>1はミニスカポリスのコスプレをした柏原芳恵とセックスできる。
>1はキュティーハニーのコスプレをした今の柏原芳恵とセックスできる。
>1は真紅さまのコスプレをした今の柏原芳恵がアナルセックスしてもらえる。
>1は不知火舞のコスプレをした柏原芳恵が俺の乳首を弄りながらフェラしてもらえる。
>1は冥王せつなのコスプレをした柏原芳恵にディープキスをされながら手コキしてもらえる。
>1はコギャル姿の柏原芳恵にアナルを舐め、乳首愛撫をしてもらいながらローション付きで手コキしてもらえる。
>1は攻殻機動隊の草薙素子のコスプレをしペニバンを装着した柏原芳恵にアナルを調教してもらえる。
>1は透け透けピッチリ胸あきブラウスにタイトミニをはいた女教師ルックの柏原芳恵が生姦&膣内射精させてもらえる。
>1はヴァリスの優子のコスプレをした今の柏原芳恵が立ちバックでセックスできる。
>1はランブルローズXXの紅影のコスプレをした危険日の柏原芳恵が種付けセックスさせてもらえる。
>1はフェイト・テスタロッサのコスプレをした柏原芳恵と触手プレイできる。
>>1は柏原芳恵と結婚してしてもらえて、四六時中、淫らなセックスで柏原芳恵に御奉仕してもらえる。
そして
>>1の遺伝子で柏原芳恵は孕む!
※拒否や無効化はできません。
3 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 06:26:02 ID:???
オリエンタルラジヲが空挺強襲します。
4 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 07:48:10 ID:???
4なら、今後
>>2が、柏原芳恵コピペを止める
※拒否や無効化はできません。
5 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 08:30:24 ID:???
2.26の時、昭和天皇が「あの野郎よくも俺の忠臣を…ぶっ殺す。近衛師団出せ!」
て言ったそうだけど、そんときの近衛師団の編成てどんなもん?
6 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 08:49:42 ID:???
7 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 08:51:03 ID:???
________________________
| ./丶 /丶 |
| /::::丶 /::::丶 |
| /:::::::丶 /:::::::::丶
>>5の |
| ./:::::::::::丶 /:::::::::::::丶 童貞奪いません |
| /:::::::::::::::丶/:::::::::::::::::丶 |
| /:::::::::::::::::::::':::::::::.___:::::::丶 |
|/:::::::::::::::::::::::::::::-'_┃,‐::::丶 |
|\:::::::::::::::::::::::::::::::: ̄:::::::/ |
| \::::::::::::::::::::::::::::::::::/ |
| \:::::::::::::::::::::::/ Cat's Eye |
| \::::::::::::/ |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
8 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 09:43:42 ID:???
中卒ニートのべるりんを語るスレはここですか?
9 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 11:49:29 ID:???
緒戦の頃南方で、暑くても衿のホックを外さず服装を乱さないので
近衛の兵はすぐ判った、とか聞いたことがある。
10 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 12:52:44 ID:???
苫米地四桜
11 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 14:26:52 ID:???
マレー戦やフィリピン戦で活躍してるな
美丈夫も選考条件だったって本当?
12 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 14:46:56 ID:???
なんかホモ臭いすれだな。11とか
13 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 19:22:53 ID:???
その昔都会モンの集まりで貧弱って言われたのは
ただの東京第一師団だったよな。近衛師団じゃないよな。
14 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 19:38:10 ID:???
少なくとも開戦前までは、近衛の隊員は、
各師団からの選抜者ではなかったでしょうか?
15 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 23:25:51 ID:6cpSO2rX
>>9 そんなことしなくても帽章のデザインが違うんだから、すぐにわかるんでないかい?
俺の曾爺さんは現役兵の頃に近衛に入ったが(近歩2)伍長から軍曹になるときになぜか
麹町憲兵隊に呼ばれてそのまま憲兵に兵科替えするという稀有な経験をしています。
曾爺さんはちなみに明治3年かなんかの生まれだが、没落旗本の長男だった。
16 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 23:27:46 ID:???
>>5 「朕自ら近衛師団を率い、此が鎮定に当たらん」
とか言ったそうだが実際どんだけの兵力動かせたんかね?
17 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 23:30:46 ID:???
ぬるぽ
18 :
名無し三等兵:2006/07/13(木) 23:42:49 ID:???
うちのじいさんも近衛師団でマレー戦にも従軍してた。
あんまり話してくれなかったけどとにかく暑かったらしい。
19 :
ポン:2006/07/14(金) 20:10:24 ID:mdBJcenf
>>14 一応そういう建前になっていた。けど、実際は本当に優秀な人材は地元部隊や
海軍が此れなりの比率で持っていたので、近衛に回されたのは見栄え重視で
背の高い人で実力的には少し劣る人を選抜していたそうな。
20 :
名無し三等兵:2006/07/14(金) 20:22:03 ID:???
大叔父かなんかが近衛師団だったけど残っている写真を見ると、
騎馬姿で帽子に羽が付いていてカッコいいよ。
名家の出でなければなれないと聞いた。
ちょっと調べたら近衛師団の中に宮城守護とか天皇護衛の部隊があったようだ。
それ以外の近衛師団は普通の師団と変わらないみたい、まあ近衛の名誉はあったろうけど。
21 :
名無し三等兵:2006/07/14(金) 20:43:29 ID:???
確かにうちのじいさんも背がむちゃくちゃ高かったよ。
マラソンの選手で頭も良かったし。
名家というほどじゃないけど旧家の出だし。
何故か俺にはまったく遺伝子が受け継がれてないどころか
家も没落の一途を辿ってるけど・・・orz
22 :
名無し三等兵:2006/07/15(土) 04:14:42 ID:Pnza04NI
>>21 途中で不倫があったのかもな。まあいいだろ。
賢い奴よりバカな男の方がかわいげがあるぜ。
23 :
名無し三等兵:2006/07/15(土) 04:44:45 ID:???
近衛に入ると色々と悪い遊びを憶えると聞いたのだが。
24 :
名無し三等兵:2006/07/15(土) 05:19:58 ID:USsXtAN0
あと一族内で思想的に問題ない奴がいないか、調査されたらしい。
25 :
名無し三等兵:2006/07/15(土) 08:32:59 ID:???
26 :
名無し三等兵:2006/07/15(土) 08:49:39 ID:???
27 :
名無し三等兵:2006/07/16(日) 15:43:00 ID:???
「カッコいい=背が高い」だったんだ
列強に文字通り見下された日本人カワイソス
28 :
名無し三等兵:2006/07/17(月) 05:30:09 ID:???
近衛師団が精兵だったって言うと拒絶反応を示す輩が居るが、太平洋戦争でも日露でも先陣に含まれているってのは普通に考えて精鋭部隊だったって証明だと思うんだが。
29 :
名無し三等兵:2006/07/24(月) 01:07:45 ID:???
郷土意識が無いので他の現役師団と比べるとやはり弱い。
一応は軍規が厳正なので占領地の警備には向いていたそうだが。
30 :
名無し三等兵:2006/07/31(月) 23:43:02 ID:RNbYz/qF
檜山氏の「日本本土決戦」での、東京防衛用の最後の
精鋭部隊としての、近衛師団の活躍が印象に残っているな。
基本的に現役兵ばかりだっただろうし、普通に強いよね。
31 :
名無し三等兵:2006/07/31(月) 23:54:16 ID:???
郷土意識か。
っ大阪八聯隊
32 :
名無し三等兵:2006/08/01(火) 05:09:30 ID:???
大阪八連隊は特に弱くありませんよ?
33 :
名無し三等兵:2006/08/03(木) 15:31:23 ID:6mpNMD7K
マレー電撃戦では、25軍司令官の山下奉文と師団長の摩擦が絶えずバタバタしとった。シンガポール攻撃の際は「近衛師団は勝手にセヨ!」と言い放ったとさ。
34 :
名無し三等兵:2006/08/11(金) 23:35:13 ID:???
皇宮警察を廃止して、近衛連隊を創設すべし。
巡査風情が皇居を守るなどおこがましい!
35 :
名無し三等兵:2006/08/11(金) 23:59:04 ID:???
朝起きたら巡査が兵隊になってたら陛下がびっくりするじゃんw
36 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 01:27:52 ID:???
近衛師団創設するなら真っ先に高射機関砲部隊を作らないとなw
37 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 03:20:44 ID:???
まあ確かに、巡査に高射機関砲は持てんわな。何にしても「近衛将校」とか
「近衛兵」とかいうのををいっぺん見てみたいというのはあるな。行進する
んでも、巡査じゃ絵にならんし。
38 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 03:42:46 ID:RvukDKHs
日本じゃレアな装甲ハーフトラックを装備してたよね?
39 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 03:57:34 ID:???
他の部隊から式典儀典用の行軍専門とバカにされていた。
近歩(キンポ)のお飾り部隊と呼ばれていた。
→私の中の日本軍 山本七平
40 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 06:40:48 ID:???
苫米地四楼少将
41 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 08:44:35 ID:???
聞きたいことがあるのですが、歩兵第二連隊ってどこの部隊ですか?
42 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 09:23:36 ID:lUpQfIYF
>>39 陛下の前で失態は許されんので式典の訓練はかなり厳しかったようだが
43 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 16:49:11 ID:???
さげ
44 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 16:59:19 ID:???
日露では近衛師団も最前線で戦ってたけど、第二次大戦ではどうだったんだろう?
45 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 21:27:12 ID:???
シンガポール陥落させてるよ。
46 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 21:28:12 ID:???
>>41 近歩2か歩2かで回答が変わりますけど。
漏れの親戚は近歩1連隊長とか近歩2旅団長とかやってましたけどね。
47 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 22:18:22 ID:???
>>46 歩兵第二連隊です、教えてくださいお願いします
48 :
名無し三等兵:2006/08/12(土) 23:17:50 ID:???
日本最弱部隊
49 :
名無し三等兵:2006/08/13(日) 00:00:13 ID:bnmrkY/y
前にも出てたが、近衛に選ばれるのは2番手、3番手の、最優秀ではないそこそこ
優秀な子弟とは言われているな。
やっぱりムラ意識の高い陸軍では地元部隊のレベルが下がるのを一番恐れていたし、
連隊区司令部司令官の幹部は、無天組で地元部隊の中隊長、大隊長と上がってきた
ものの最後の花道だからな。
50 :
名無し三等兵:2006/08/13(日) 00:36:46 ID:???
近衛師団には優先的に99式短小銃が配備されていたとか。
理由は撃つ事がないので弾薬の供給は後回しで良いからだと。
51 :
名無し三等兵:2006/08/13(日) 10:36:56 ID:???
テス
52 :
名無し三等兵:2006/08/13(日) 10:51:01 ID:???
近衛素奈緒とは、どんな関係なの?
53 :
名無し三等兵:2006/08/13(日) 14:25:38 ID:???
第二連隊って第一師団じゃなかったか?
54 :
名無し三等兵:2006/08/13(日) 23:24:55 ID:ORYzeU1a
>精鋭とはいえ装備している兵器は他の師団とかわらんのだろう?
対戦車兵器とか持っていたのか?
>有名なはなしで(勲章をもらいたいために?)自分で建物に放火して
消火活動をして、後からばれて・・・という話があったな
55 :
名無し三等兵:2006/08/14(月) 00:18:59 ID:???
>53
ちがう、14師。水戸の。
56 :
歩兵2連隊のお膝元:2006/08/14(月) 00:38:39 ID:/rUntfbQ
>>48は本気で歩兵2連隊が日本最弱部隊だと思ってるの?
最弱の基準が良く判らないけど、ペリリュー島で結局玉砕してしまったから、最弱
と思われてるのかな…。
57 :
名無し三等兵:2006/08/14(月) 00:50:16 ID:cIovYBiU
>>56 自信を持ってください。中川連隊の頑強な抵抗は、戦訓となって硫黄島の
戦いに生きていたし、フィリピンが陥落せずに山中に籠ったのも、中川連隊の
戦訓の賜物でしょう。文春文庫『大本営参謀の情報戦記』堀 栄三著あたりを
ご参照ください。
>>48 故無く玉砕部隊を誹謗するものではありません。
58 :
名無し三等兵:2006/08/14(月) 02:21:08 ID:???
最低の人間を選んだりはしないだろ。
比較しやすいからどこの師団は最弱だとかいわれそう。
59 :
名無し三等兵:2006/08/17(木) 22:09:37 ID:A4vnbpys
>>50 内地とか関東軍の装備を99式に替えて、38式は中国戦線や
南方に送ったらしいね。弾薬も。
60 :
名無し三等兵:2006/08/17(木) 22:56:43 ID:nF6JH77G
命中精度は38式の方が反動がない分だけ上だけどね
まぁ威力はないんだけど…
61 :
名無し三等兵:2006/08/18(金) 01:48:59 ID:???
威力ないけど怪我手当てするために他の人が動かないといけなくなるから
それでよくね?ってことになったって聞いた。
62 :
名無し三等兵:2006/08/18(金) 20:59:16 ID:rh/0kGpT
>>61 当時はそういう事だったね。
まあ沢山弾を持てる事が良かったな。戦記等を見てて思うが。
63 :
名無し三等兵:2006/08/18(金) 21:19:45 ID:???
山本七平は近衛第二師団の砲兵?
64 :
名無し三等兵:2006/08/18(金) 21:50:19 ID:???
>34
>皇宮警察を廃止して、近衛連隊を創設すべし。
>巡査風情が皇居を守るなどおこがましい!
皇宮警察は、明治時代からありますけど。
65 :
名無し三等兵:2006/08/18(金) 21:56:29 ID:???
どうせなら 親衛戦車師団がいいな
66 :
名無し三等兵:2006/08/19(土) 00:37:24 ID:???
>>63 違う。近衛第一で教育受けてから歩103師に転出。
67 :
名無し三等兵:2006/08/20(日) 14:17:54 ID:PiWHZ+Cd
第二連隊は土佐だから精強だよ。
68 :
名無し三等兵:2006/08/20(日) 19:04:06 ID:V2R7U0b+
>>52 近衛首相の一族
死んだ父はかつて皇宮警察に勤めており、賊との戦闘で殉死。
父がいないのにあれだけ豪華な家(プラズマTV)に住めるのは
一族の財力のおかげ。
負けず嫌いなところも貴族らしい。
69 :
名無し三等兵:2006/08/20(日) 20:24:52 ID:ESDan1Dl
内の爺さんも近衛師団だった
農家だけれど
身長と容姿で決まるらしい
70 :
名無し三等兵:2006/08/20(日) 20:25:30 ID:???
近衛十四郎
71 :
名無し三等兵:2006/08/20(日) 20:36:54 ID:vA3ym8g5
東京の近衛師団の司令部跡は、美術館になってるけど
終戦直前のあの師団長が斬殺された師団長室も現存してる
一度行ったけど 映画「日本のいちばん長い日」でも首斬られて、血だらけになった
師団長の幽霊も出るらしい 行った日がたまたま東京地方が雷雲出て、大雨だったけど
ほんと幽霊屋敷のような威厳のある建物
室内の美術品もなかなかだけど 今にも日本軍の軍服着た人間が出てきそうな建物
夏の肝試しには格好のアナ場かも
72 :
名無し三等兵:2006/08/21(月) 15:49:15 ID:???
>69
うちのじいちゃんも近衛。
身長は5尺8寸だったとか。ちなみに大正10年生まれ。
73 :
名無し三等兵:2006/08/21(月) 21:00:05 ID:???
近衛師団のことあまり知らないので、
>>71氏の仰る近衛師団司令部跡をググって調べてみたけれど、
なんか言うほど怖くなさそうだし、ホントに単なる美術館なんすね・・・
漏れはてっきり当時の軍資料があるとか、そんな感じを期待してましたので、
行く気失せました・・・
>今にも日本軍の軍服着た人間が出てきそうな建物
この一言に騙された・・・
74 :
名無し三等兵:2006/08/27(日) 00:41:57 ID:T/YYg0Vx
メンテナンス 挙げ!
75 :
名無し三等兵:2006/08/28(月) 14:36:43 ID:???
うちの爺さんも近歩1だか2にいたらしい。
終戦間際に脱走したけど・・・
76 :
名無し三等兵:2006/08/28(月) 17:09:52 ID:???
曾祖父が近衛師団だったらしい。
日露戦争と日清戦争の勲章が有るよぉ。
一等兵ごときで4個も有るけど大判振る舞いだったのか?
77 :
名無し三等兵:2006/08/28(月) 20:37:52 ID:1dkTYW14
うちのおじいさんは近衛歩兵師団第2連隊。もう亡くなったけど、
軽機関銃の射手で、日支事変当時から主に中支で活躍した。
桂林の奥で、重慶に向かって山岳戰をしている時に
終戦になったと言っていた。
生きて帰れたのが、不思議なぐらい最前線ばかり、行かされていたらしい。
「激戦地ばかりまわされて、損な役回りばかりだった」とぼやいていた。
それでも、南方に回された兵隊は、もっと大変だったらしいと、言っていた。
78 :
名無し三等兵:2006/08/28(月) 22:42:38 ID:???
近衛歩兵第二聯隊って戦地に行ったっけ?
79 :
77:2006/08/28(月) 22:59:34 ID:1dkTYW14
>>78 手短に書き込んだので、はしょってしまった。
第2連隊は、皇居から動かず、わが家のじっちゃんは、
抽出部隊で戦地に出たと言っていた。
80 :
名無し三等兵:2006/08/28(月) 23:10:25 ID:???
山本七平もその口だな。
81 :
77:2006/08/28(月) 23:17:30 ID:1dkTYW14
>>79 漏れの方が、皆に教えてもらいたいのだが、、、
うちのじっちゃんが近衛兵で皇居にいた時、
いまの天皇陛下が、中隊長だったと言っていた。
天皇が当時まだ、ちっちゃな子供だったが、
白馬に乗って、時々、閲兵したとか。
そんなこと、あったのだろうか???
82 :
名無し三等兵:2006/08/29(火) 15:10:35 ID:???
軍人ごっこの相手をしてやったというのはどう?
83 :
名無し三等兵:2006/08/29(火) 23:08:56 ID:???
先帝陛下は十二歳で陸海軍少尉に任官してるけど、今上陛下の軍人教育はどうだったのか良く判らん。
84 :
名無し三等兵:2006/08/30(水) 00:14:37 ID:???
85 :
77:2006/08/30(水) 01:25:49 ID:???
>>82 遊びで中隊長ごっこも、あり得たのかも知れませんね。
>>83 > 先帝陛下は十二歳で陸海軍少尉に任官してるけど、今上陛下の軍人教育はどうだったのか良く判らん。
先帝陛下が十二歳で陸海軍少尉に任官されたのなら、今上陛下もご幼少のみぎりに尉官・中隊長と
いうことも、あり得ない話ではないですね。
>>84 先帝陛下の任官は、なかったのですかね。
>>82,83,84の皆さん、色々なご意見や情報をありがとうございました。
86 :
名無し三等兵:2006/08/30(水) 03:57:36 ID:???
>>85 今上天皇は任官しなかったの。
数えで12才の時は戦争中だったんだよ。
先帝と宮内庁は先がよく見えていたと思う。
87 :
77:2006/08/31(木) 23:11:14 ID:???
近衛兵は、休日で外出すると近衛兵以外と帽子の徽章が違っているので、
区別ができたのと、近衛兵は兵卒でも白手袋を着用する事ができたので、
一目で区別が出来たとか。
しかし、地元の郷土出身者で編制される一般師団と違って、
全国から選抜されている近衛兵は、関東出身者以外は、
簡単に実家に帰る事が出来ず、
休日のたびに、味気ない思いをしたらしい。
わが家のじっちゃんは、休日に浅草など繁華街に行くと、
他師団でも将校や上級者に行き会うと、いちいち敬礼しなければ、
ならないので、わずらわしくて嫌だったと言っていた。
給料が安いので、金の掛かる遊びもできないし、
休日は、郷里が遠くて簡単に実家に帰れない同年兵らと
連れだって、深川の木場に行って日なたぼっこをしながら、
よく一日中過ごしたそうです。
88 :
名無し三等兵:2006/09/01(金) 07:20:37 ID:???
おまえもイケメンの可能性があるわけだよな
89 :
名無し三等兵:2006/09/01(金) 20:18:48 ID:???
90 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 00:30:49 ID:???
>>87 うちの爺さんと支那じゃ一緒だったかもしれないな。
その後その大変といわれる南方にも回されたらしいけど。
91 :
77:2006/09/02(土) 01:03:02 ID:???
>>88 > おまえもイケメンの可能性があるわけだよな
−−わが家の年寄が、近衛兵で皇居にいた時の写真が、何枚も残っているが、その顔と来たらタヌキのマンガも顔負けなぐらい、太った丸顔で、その上に
昔のまん丸眼鏡を掛けているものだから、笑っちゃうような丸顔なんだ。
オレもその血をしっかりと引き継いでいるんだろうね。 情けないことに、いまのオレもそっくりな輪郭の丸顔さ。
年寄がゆうことにゃ、入隊した頃は、兵隊食の麦飯なんてまずくて嫌だったが、毎日へとへとになるまで訓練をしているうちに、腹が空いて腹が空いて仕方がないようになり、
自分の麦飯なんて、あっという間に平らげて、そのうち人の分を盗んでも食べたくなるような状態で、 気が付いたら、まん丸に太っていたというんだな。
そんな顔でも、近衛兵になるには、背が高くて容姿端麗、 学業優秀品行方正で、家柄が良いという三拍子も四拍子もそろっていないと慣れなかったと、本人は言っていた。
確かに、その当時としては比較的背も高くて体格は しっかりしていたようだ。「儀仗兵だったから、背も高く顔も良い人間しか、選ばれなかった」というのが、口癖だった。
近衛兵について伝説的に語られる話だが、 千鳥ケ淵から半蔵門あたりで皇居のお堀の土手で、歩哨に立っていると、外務省の若い女性職員が手を振ってくれたというのがあるが、本人も、そんな事があったといっていた。
真偽のほどは、別にして、近衛兵がもてたのは、 イケメンかどうかは別にして、比較的裕福な家庭からしかも、両親の面倒を見なくてもよい次男、三男以下が 主に選ばれており、怖いお姑さんと暮らすのが、嫌な 当時のOLやキャリアウーマンに相当する女子事務員に
結婚相手として人気が、あったのは本当らしい。
長男も選ばれていたが、子だくさんの当時だから、 結果的に次男、三男以下が多かったのかもしれない。
そんな近衛兵の年寄も、敗戦で家が没落し、 お陰でわが家も下層階級の暮らしです。
92 :
77:2006/09/02(土) 01:06:43 ID:???
>>90 >
>>87 > うちの爺さんと支那じゃ一緒だったかもしれないな。
> その後その大変といわれる南方にも回されたらしいけど。
−−そうかも、知れませんね。並んで、鉄砲を撃っていたかも。
93 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 17:43:08 ID:???
>90
>87
それ、家の爺さんも一緒だったかもしれませんね。
家の爺さんも近衛師団配属で、昭和13年から数えて三回出征し、最後は満州でソ連軍に捕まりシベリアに抑留され、戦後二年後に帰ってきた運の良い人です。
自分が幼い頃、納屋の中で新品のゲートルがでてきたのでビックリして聞いたら、『戦争が続いてれば南方に行く予定だったんだよ。』と、言ってました。
94 :
77:2006/09/02(土) 23:58:40 ID:???
>>93 > >90
> >87
> それ、家の爺さんも一緒だったかもしれませんね。
> 家の爺さんも近衛師団配属で、昭和13年から数えて三回出征し、最後は満州でソ連軍に捕まりシベリアに抑留され、戦後二年後に帰ってきた運の良い人です。
> 自分が幼い頃、納屋の中で新品のゲートルがでてきたのでビックリして聞いたら、『戦争が続いてれば南方に行く予定だったんだよ。』と、言ってました。
−−昭和13年から数えて三回ご出征ですか。その上、シベリア抑留まで。ご苦労をされたのですね。
わが家の年寄は、昭和15年に博多から玄界灘を渡って中支に行って終戦までそのまま戦地に
留まっていました。
年寄の話で記憶に残っているのは、満州のような極寒の地では、冬に銃身など鉄にさわると
余りに冷たいので皮膚が鉄にくっついてしまう。慌ててはがそうとすると、皮膚が鉄にくっついた
まま、ちぎれてしまうので、慌ててはがそうとせず、ゆっくりと暖めながら、鉄からはがさなければ
いけない−−という話です。
わが家の年寄は温暖な中支南支しか転戦していませんので、この話は軍隊内で
誰かに聞いた話だと思います。
私の理解では、北支&満州では第2次世界大戦中は、八路軍や匪賊との戦闘はあっても、
ソ連軍が侵入してくるまでは、大きな戦闘はなくむしろ楽な勤務地だったのでは、ないでしょうか。
それにしても、シベリアで2年も抑留とは、大変なご経験をされたと思います。
95 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 00:19:25 ID:???
イラクの現状を知らんのか。治安戦をなめるな。
民衆=圧倒的多数の潜在的な敵の中に分散して、いつ攻撃を受けるか判らん立場なんだぞ占領軍は。
しかも相手はいくらでも卑怯な手口を使える(それを可能にする大義名分がある)のに、こちらはそれを最初から封じられている。
まともな正規軍と戦う方がずっと楽な、神経を苛まれる戦争だ治安戦は。戦史叢書「北支の治安戦」あたりを当たれ。
96 :
77:2006/09/03(日) 00:26:31 ID:???
>>95 > イラクの現状を知らんのか。治安戦をなめるな。
> 民衆=圧倒的多数の潜在的な敵の中に分散して、いつ攻撃を受けるか判らん立場なんだぞ占領軍は。
> しかも相手はいくらでも卑怯な手口を使える(それを可能にする大義名分がある)のに、こちらはそれを最初から封じられている。
> まともな正規軍と戦う方がずっと楽な、神経を苛まれる戦争だ治安戦は。戦史叢書「北支の治安戦」あたりを当たれ。
−− 突っ込まれると思いました。治安戦も大変だったと思います。しかし、中支(上海、南京の治安良好な地域を除く)では、治安戦と正規戦と同時並行に行われていたんですよ。治安戦だけでも、ご苦労だったと思いますが、
例外として北京あたりは、毎日が休日のようだったとか。戦地といっても、場所によって状況(大変か、大変でないか)は、天と地ほども違っていたようです。
97 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 00:36:48 ID:???
近衞兵に選抜された者は、その村中は勿論山越えた隣の村からも見合い願い者が殺到だったとかはよく聞くな。
>>37 礼装した馬上の今の皇宮護衛官の写真見たけど、普通にカッコよかったぞ。
旧軍時代の助骨の騎兵正衣(大礼服)みたいな制服で。
98 :
77:2006/09/03(日) 01:05:52 ID:???
>>95 > イラクの現状を知らんのか。治安戦をなめるな。
イラクの市街戦では第1次、第2次ファルージャ戦が象徴的ですが、仮に米軍の立場で考えますと、あれだけ物量(弾薬食料)が、用意されていれば
第2次世界大戦の日本軍の立場から見れば、天国のような恵まれた戦闘では、ないでしょうか。敵の軍民の識別が難しいだけの話だと思います。
激戦地では、日本兵は本当に敵と銃剣や銃剣をはずして、とっくみあいの格闘戦も行いましたが、
ファルージャ戦では、ほとんどそのような話が伝わっていません。もっとも、最後の
モスク内の戦闘はすざまじかったと思います。それでも、格闘には至らず、手榴弾の投げ合いが
もっとも肉弾戦にちかいものだったと思います。
99 :
77:2006/09/03(日) 01:15:32 ID:???
−−近衛師団から抽出されて中支で戦ったわが家の年寄の話の続きです。悲惨だった方の話では、大戦末期の重慶に向けての山岳戦では食料も弾薬も補給が途絶え、日本兵はヘビやネズミを捕まえて命をつなぎながら、戦闘を続けて いたといいます。
都会出身の日本兵の中には最後までヘビを食べられずに、長い戦闘中に次第に衰弱して病死だか衰弱死だか分からないような状態で死亡した人も少なからずいたそうです。
もちろん、体が衰弱すると動作も鈍くなり、敵の弾に当たることも多かったといいます。
軍靴はぼろぼろではけなくなり、最後の頃は、わらじをあんで履いていたそうです。支那兵ではなく、日本兵がわらじですよ。
軍服もぼろぼろで、死んだ支那兵の服(米軍補給の米式軍服)をはいで着ている日本兵が多いので、
重慶に向かう山岳戦では、敵と見間違えて、よく日本兵同士の同士討ちが、あったそうです。
対する蒋介石軍は仏印やビルマ、支那西北方から 重慶に通じる「援蒋ルート」によって、莫大な軍事経済援助を 受けており、日本軍よりよほど、豊かな補給を受けていたといいます。
支那兵は、状況が悪くなると装備を何もかも捨てて逃げたといいます。
三八銃を命よりも大切にさせられた日本兵から見ると信じられないぐらい、何もかも捨てて逃げたそうです。
ある時、うちの年寄が、敵が捨てていった缶詰を見つけたそうです。
何かうまそうな物が入っていると思い、戦闘中も背嚢に入れて何ヶ月も担いで歩き、ある時、その缶詰を開けてみたそうです。
そうしたら、何と中身は水だったのだそうです。今でいうミネラルウォーターですね。
何ヶ月も重たい思いをして運んだあげく、中身が水だったと知って本当にがっかりしたそうです。
同時に米軍(補給を受けた支那兵)は、水まで缶詰にして持ち歩くのかとびっくりしたそうです。
>94
おお、そうなんですか。貴重な情報をありがとうございます。
実は、家の爺さんは頑固で威張り屋な所があったんですが、『戦だけは、二度とやりたくねぇ』と、とりわけ戦闘自体の話は数える程しか話してしてくれなかったんです。それだけ恐かったんだと思います。
亡くなる少し前も、『突撃の号令がかかり走って、中国兵(どこの兵だったか聞けませんでしたorz)の死体の破れた腹に足を挟めて転んだのが忘れられない』とい話していましたから。
良スレ上げ!!
>97
あ、自分>100の者ですm(__)m
お見合いではないんですが、郷里での人気は確かにあったようです。
家の爺さんもそんな話をした事がありました。
第一回出征時、東京にいた時期に身内の不幸で郷里に帰れたことがあったそうです。
あまり長く滞在はできなかったらしく、東京から軍服にコートとブーツ姿で帰ったそうです。
これが当時としては珍しかったのかはわかりませんが、家に着いてすぐ母(自分から見れば曾祖母)が親戚の家に連れていき自慢してまわったそうです。
爺さんは『身内の不幸時に、不謹慎な』と思っていたらしいですが、当の親戚連中もまんざらではなかったらしく居間に通されるとすぐ家中の者を呼んで話をしたんだそうです。
全然お見合いとかと関係なくてすんません。
家の爺さんは第一回出征時、28才で既に結婚して子供もいたのでモテたとかの話はまったく聞けませんでしたorz
103 :
77:2006/09/05(火) 22:22:09 ID:???
>>102 > >97
> あ、自分>100の者ですm(__)m
> お見合いではないんですが、郷里での人気は確かにあったようです。
> 家の爺さんもそんな話をした事がありました。
わが家の年寄の話ですが、皇居の中に、近衛兵の面会所があって、
近衛兵を訪ねて行くと皇居の中が見物できるので、休みになると
親類縁者が、しょっちゅう面会に来て大変だったとか。
中には会った事もないような遠縁の人まで、つてを頼って面会に
来ることも珍しくなかったそうです。
休みに時間を取られるので面倒に思った半面、面会に来た人は
必ずおはぎなどのおみやげを持ってきてくれるので、訓練の明け暮れで
甘味品に飢えている身としては、有り難かったそうです。
へぇ〜、面会所まであったんですねぇ。内地勤務時代のお話は、あまり聞けなかった話題なので良い勉強になりました^^
ものすげぇツライ訓練をがしがしやってるイメージだったんですが、遠縁の人がたずねてきたり、おはぎなんかの差し入れがあったりとなんか和んでしまうモノがありますね。
105 :
77:2006/09/05(火) 23:53:41 ID:???
>>104 > へぇ〜、面会所まであったんですねぇ。内地勤務時代のお話は、あまり聞けなかった話題なので良い勉強になりました^^
> ものすげぇツライ訓練をがしがしやってるイメージだったんですが、遠縁の人がたずねてきたり、おはぎなんかの差し入れがあったりとなんか和んでしまうモノがありますね。
この面会所で、面会に来た人たちと一緒に撮った写真が何枚か残っています。
面会所のお陰で、貴重な写真が残せたともいえそうです。
訓練の厳しさと言えば、軽機関銃の射手だったわが家の年寄は、
御殿場から背嚢を背負い、機関銃を担いで駆け足で富士山の上の方まで登らされたと
その苦しかった事を口癖のように言っていました。
>105
うへ、やっぱそれなりにキツかったんですねぇ。
訓練ではないんですが、家の爺さんの中隊でも、行軍中に手榴弾で自殺してしまった人がいたと言っていました。
ヘトヘトになるまで歩いてそこから銃の撃ち合い、の連続だったそうで、特に補充できた新兵さんなんかは必ず隣に古参兵を付けたんだそうです。
俺の曽祖父も近衛師団の軍曹だったそうな。
選べれた理由は、家が代々続いた地主(20代目くらい)で家柄が大事だと祖父がいってた。
曽祖父はシナ事変で中国へ出征して、太平洋戦争前に歳で除隊したらしい。
その後、例に漏れず農地改革で家は没落してます。
108 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 06:47:32 ID:/4j1irXV
俺の祖父ちゃんの兄貴は佐倉57連隊から福井部隊っていう旅団編成で上海へ出征。戦死広報が出るくらいの激戦で負傷しながら
も生還。しばらく近衛第2連隊にいて当時麻布にあった祖父ちゃんの家から連隊へ通勤していたらしい。
特別幹部候補生上がりの中尉だって聞いた。他師団から選抜されて近衛師団に配属されるってのは本当なのかも。
その後原隊復帰して満州へ。57連隊が満州からレイテへむかう船上でなぜだか伊豆半島防衛のための新編の部隊に転属命令が
出て結果的に命を拾った形らしい。(行ってたらレイテ戦記の中の人だったろう)
佐倉市の国立歴史博物館では今佐倉57連隊の展示をやっていてそれを見てきた親父が
そんな話をしていた。早速俺も見てきたが期間限定の企画展だけど38歩兵銃の重さを手にとって体験できたり、
当時の兵隊の生活や部隊の戦史の展示があってけっこう面白かった。
(近衛じゃなくて第1師団の話になっちゃうけど)
109 :
sage:2006/09/06(水) 07:40:16 ID:???
>>106 > >105
> うへ、やっぱそれなりにキツかったんですねぇ。
> 訓練ではないんですが、家の爺さんの中隊でも、行軍中に手榴弾で自殺してしまった人がいたと言っていました。
> ヘトヘトになるまで歩いてそこから銃の撃ち合い、の連続だったそうで、特に補充できた新兵さんなんかは必ず隣に古参兵を付けたんだそうです。
近衛兵に限りませんが、日本軍は、守備についている支那軍が撃破されて潰走するのを昼夜兼行で追いかけて、敵の損害を拡大させる追撃戦を一つの理想としていたようです。
戦闘が終わって一息付く間もなく逃げる敵を追って追撃戦に移る訳です。敵は、それこそ命からがら必死で逃げる訳ですから、追う方も走るぐらいの速度で追わないと、逃げられてしまう訳です。
追撃戦の最も成功例として語られるのが、昭和12年の第2次上海事変で、潰走する支那軍を上海から南京まで追撃した例です。
この時は、潰走する支那軍の数が多すぎて、支那軍が撤退の再集結点とした南京周辺が大混乱して、有名な南京事件につながりました。
上海から南京への追撃戦では、追撃する日本軍の速度が余りに速いので、逃げ遅れた敵を追い越したり、逃げる敵と
並んで進撃する形となったようです。ですから、夜になると支那兵が味方と間違えて日本兵に
道を聞いたりする例も、少なからずあったようです。
追う日本兵も不眠不休で行軍する訳です。昨年、戦後にに書かれた近衛師団の指揮官の回想録を読みました。
それによると、へとへとになりながら敵を追う自軍の兵士に対し、指揮官としては休ませてやりたいという気持ちがあっても、
心を鬼にして追撃に次ぐ追撃を命じたと書いてありました。
追撃戦の時は、敵に休むいとまを与えないように、徹夜で行軍することも多かったそうです。
上海事変の頃は、敵は本当に撃破されて潰走したのですが、
その後、蒋介石軍は余力を残しながら、わざと撤退して日本を広大な中国奥地に誘い込む戦略的な撤退戦術を取るようになります。
そして、日本軍の補給線が伸びて消耗した所を日本軍の後方からゲリラ的に攻撃して日本軍に一層の消耗を強いる訳です。
日本軍がこうした状態に追い込まれた時、行軍から落伍した日本兵は敵の格好の目標とされ、なぶり殺しにされるのが通例だったようです。
110 :
77:2006/09/06(水) 08:06:01 ID:???
>>106 > >105
> うへ、やっぱそれなりにキツかったんですねぇ。
> 訓練ではないんですが、家の爺さんの中隊でも、行軍中に手榴弾で自殺してしまった人がいたと言っていました。
> ヘトヘトになるまで歩いてそこから銃の撃ち合い、の連続だったそうで、特に補充できた新兵さんなんかは必ず隣に古参兵を付けたんだそうです。
−−上からの続きですが、行軍中に落伍しそうな兵が出ると、仲間が背嚢や銃を背負ってやったそうです。兵は自分の背嚢や銃を背負っている
わけですから、仲間の分を背負うと二倍の重さになるわけです。
背嚢や銃を肩代わりしても歩けなくなった場合は、その兵を交代で背負って行軍したそうです。歩けなくなった兵を置き去りにしたら、
敵に狙撃されて即、死を意味するわけですから、置いて行くわけには行かなかったそうです。
徐州作戦に参加した作家火野葦平の従軍日誌「麦と兵隊」や軍歌「麦と兵隊」に行軍の辛さがよく描かれています。
わが家の年寄も徐州作戦で、敵弾を足に受けて、行軍が不能になり戦友に代わる代わる担いでもらったのだそうです。
疲れた戦友に担いでもらって延々と行軍するのは、申し訳なさで死ぬほどつらかったそうです。
私は、落伍兵の自殺をわが家の年寄から聞いたことは、ありませんが、歩けなくなって戦友に迷惑を掛けたくないと
自殺する兵があったのかも、知れませんね。
行軍は本当につらいもので、「小休止の命令が出ても腰を下ろして休むと疲れがひどくなって立てなくなってしまうので、
立って休んだものだ」などと、よく聞かされたものです。
面会は出来なかったときも多かったらしいぞ。
特に初年兵は殴られまくりで合わせられなかったらしい。
112 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 09:58:35 ID:TTXLc+O/
親王誕生を祝して近衛師団を復活させようよ
当然、天皇直轄で
近衛兵てだけでやっぱかっこいいな
朕みずから率いて…てくだりもかっこいい
ばんざーい
>110
あ〜、家の爺さんも小休止の時の話をしていました。
やはり、『座ると立てなくなる』と言ってましたよ。
中には、その場歩きをしたまま小休止した人もいたんだそうです。
小休止の掛け声が聞こえてないのか、そのまま一人歩いて行ってしまう人もいて、慌ててみんなで止める一幕もあったんだそうです。
たまに歩兵砲の砲弾を一人4発づつ持たされた事があったそうで、この時が一番ツラかったと言ってました。
爺さんの隊では北国出身者が多く、夏でも小休止のときには『雪の進軍』を歌ったんだそうです。歌いながら立ち上がると不思議とすんなり立ち上がれたそうで。
自分が小さい時も良く歌っていました。
『頼み少なや、煙草が二本』というフレーズが気に入っていたようで、そこだけ歌う事もよくありました。
116 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 16:00:15 ID:p08LeFwE
ばんざーい
>>112 陸自が戦わずに壊滅してる現状、
宮内庁予算でなんとかならんかね?
訓練と指揮は陸自に委託する方向で
118 :
77:2006/09/06(水) 23:15:23 ID:???
>>111 > 面会は出来なかったときも多かったらしいぞ。
> 特に初年兵は殴られまくりで合わせられなかったらしい。
−−わが家の年寄の話では、「近衛には、一般に伝えられているような内務班の私的制裁はなかった」といいます。
テレビの戦争映画やドラマで内務班の私的制裁が映るたびに、「こういう事は近衛にはなかった」と繰り返し話していましたから、
少なくともわが家の年寄が入営した昭和13〜15年当時の近衛には、なかったのだと思います。
理由は色々、想像できますが、私的制裁はかつての日本軍でも公には禁じられていたわけです。
陛下の直轄である、近衛師団では、軍律が厳しく守られており、私的制裁が行われなかったのかも知れません。
儀仗兵でもある近衛師団で、兵士の顔が私的制裁で赤や紫に腫れ上がっているのでは、様にならないので、
私的制裁が禁じられていたのではないかというのは、私のうがちすぎかも知れません。
一般の陸軍でも、中隊長レベルや内務班長の見識や考え方次第で、連隊や内務班によっては私的制裁が行われなかった
ことが山本七平氏の著作にも書かれていたと思います。日本陸軍で内務班内の私的制裁が、広く行われていたとしても、
例外も常にあったのだと思います。
>>112 さすがにいきなり師団規模は無理だろう。
まずは連隊で。
120 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 23:48:23 ID:1but+PJc
>>115 そこが郷土部隊の強さだな。強い戦友愛だな。
Imperial Guard Headquaters
皇宮警察本部の英訳名はカッコ良すぎだな
122 :
77:2006/09/07(木) 00:20:37 ID:???
>>115 > >110
> たまに歩兵砲の砲弾を一人4発づつ持たされた事があったそうで、この時が一番ツラかったと言ってました。
私は砲弾の重さを知りませんが、比較的小型に属する山砲、野砲の砲弾を想像しても、
自分の背嚢のほかに、砲弾を4発ずつ背負って行軍というのは、大変だったと思います。
>>122 75mm砲弾だとすると約5キロ、4発で20キロだよ・・・・・
>118
自分は爺さんの影響もあり、小学生のころから軍事知識に興味がありました。
図書室や戦争映画レベルで知識を得ていたもんで、旧軍は殴る蹴るがいっぱいなトコ、という先入感を持ってしまった時がありました。
今となっては恥ずかしい話です(@_@;)
しかし、経験者に聞くのが一番手っ取り早いと思い、爺さんに聞いてみたら、
『軍全体は解らないが、オレの知ってる範囲じゃ、そんなのはやれなかったぞ』
と言いました。
やらないではなく、やれないとはなぜ?と聞くと、
『そんな事したら、夜の大休止や戦闘時に殺されちまうぞ』
と、言ってました。
実際、爺さんの隊ではそんな事件はなかったようで、人にもよりますので又聞きだと思われます。
不確かな情報で申し訳ありません。
ただ、旧軍を悪く言う事がなかった爺さんが嘘を言う理由も見当たりません。
実際に戦争に参加したある兵士の言葉として、認識していただければ幸いです。
125 :
77:2006/09/07(木) 08:19:22 ID:???
>>123 >
>>122 > 75mm砲弾だとすると約5キロ、4発で20キロだよ・・・・・
−−さっそくのレス、ありがとうございました。
もし、自分の背嚢と銃のほかに20キロの砲弾を背負わされたとすると、
死にたくなるような重さですね。私ならたとえ立ち上がっても、
十歩も歩けません。
昔の兵隊さんのご苦労が忍ばれます。
俺の空挺団の友人の話だけど、40キロ超の個人装備プラス
対戦車誘導弾(45キロ程)を一発担いで、山道を25キロ行軍
したことがあるそうだ。
今も昔も歩兵はツライということなのかな。
127 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 15:28:49 ID:MxG0mhbG
うちの祖父は近歩だったが、
戦中の事をほとんど話さない。
近衛の軍帽を被った写真を見たが、確かにルックスは上々。
名家でもない平凡な庶民出だが、旧制中学を出ていたのと、やはり背が高かったからではないかと祖母が言っていた。
>>126 空挺団の隊員と一般普通科の隊員とじゃ違う気が。
>今も昔も歩兵はツライということなのかな
これが言いたかったんだろ?普通科でもキツイ行軍はあるよ。
俺は、首都圏の軍用地を減らして欲しいよ。
これ以上一極集中は止めて。
132 :
77:2006/09/07(木) 23:30:59 ID:???
>>127 > 名家でもない平凡な庶民出だが、旧制中学を出ていたのと、やはり背が高かったからではないかと祖母が言っていた。
戦前は、中学に進学するのは田舎だと村で年に一人いるかいないかというぐらいのエリートだったと聞く。
都会でも、中学への進学率は現代より、ずっと、低かったのでは。当然、経済的余裕もないと進学できないし、
加えて背が高くイケメンでいらっしゃったとすれば、
近衛に十分な有資格者だったのでは、ないでしょうか。
133 :
77:2006/09/07(木) 23:33:33 ID:???
>>126 > 俺の空挺団の友人の話だけど、40キロ超の個人装備プラス
> 対戦車誘導弾(45キロ程)を一発担いで、山道を25キロ行軍
> したことがあるそうだ。
> 今も昔も歩兵はツライということなのかな。
−−現代の自衛隊員の方も、頼もしいですね。
134 :
77:2006/09/09(土) 10:57:32 ID:???
>>127 > うちの祖父は近歩だったが、
> 戦中の事をほとんど話さない。
−−わが家の年寄も近衛で日本にいた時の事は良く話したが、
戦地へ行ってからのことは、あまり話さなかった。
とにかく、前線は大変だったらしい。当たり前だが、余りにたくさんの人が死んで、
「死んだ戦友達は気の毒だった」というのが、口癖だった。
地方に住んでいるんだが、とにかく靖国神社に参拝に行きたがった。
変わった平和神軍ですね
136 :
77:2006/09/09(土) 14:06:51 ID:???
戦争体験って、結局、他人には伝わらないんだね。残念だけど。
良スレ上げ、!!
うちのばあ様の親戚(兄弟?)かなんかが近衛に行ったとか聞いたな。
『今思えば、近衛に人間を出せるくらいの家だったんだなぁ』とシミジミ言ってた。
139 :
77:2006/09/17(日) 07:49:20 ID:???
>>138 > うちのばあ様の親戚(兄弟?)かなんかが近衛に行ったとか聞いたな。
> 『今思えば、近衛に人間を出せるくらいの家だったんだなぁ』とシミジミ言ってた。
近衛に行ったわが家の年寄も戦後、没落し「世が世ならばなぁ 」と、よく嘆いていました。
農地解放で、農地を失ったうえ、末っ子の年寄が戦地から帰る前に、
戦後の新民法に変わる前の旧民法によって長男が、残った山林などの資産を一人で相続して
しまったそうです。
戦地に行っている間に、父親が病死したのが、不運でした。父親が生きていれば、末っ子の
自分にも、なにがしかのものは、くれたはずなのに−と嘆いていました。
戦地から生きて帰れただけでも運が良いのですが、平和であれば、年寄も
もっと楽な人生が、送れたのだと思います。
140 :
名無し三等兵:2006/09/18(月) 01:13:18 ID:ZyJslFwD
結構、お祖父さんが近衛師団だったという人いますね。うちも、戦争中はお祖父さんが近衛師団にいたみたい。あんまり詳しいことは聞いてないけど、終戦時は
皇宮警察をやっていて、8月15日のときは、終戦に反対する一部の軍に囚われの身になっていたみたいです。
「日本のいちばん長い日」という映画をお祖父さんと見ていたときに話してくれました。
俺のじーちゃんは近衛兵で終戦記念日に天皇陛下から青リンゴ二個もらったんだって。
142 :
77:2006/09/18(月) 19:55:18 ID:???
>>141 > 俺のじーちゃんは近衛兵で終戦記念日に天皇陛下から青リンゴ二個もらったんだって。
素晴らしい。名誉のリンゴですね。ご一族の名誉の歴史として
語り継いで頂いたらよいのでは、ないでしょうか。
良スレ上げ!!
陛下の御身辺を警護し奉る者として鍛錬は怠れぬ!!!!
近衞から一般に転属した将校の軍帽(帽章の跡)とか見た事あるけど、逆ならまだしもどういう経緯なんだろ。
隊の再編や不祥事起こしたとか?
146 :
77:2006/09/26(火) 20:11:24 ID:???
>>145 > 近衞から一般に転属した将校の軍帽(帽章の跡)とか見た事あるけど、逆ならまだしもどういう経緯なんだろ。
> 隊の再編や不祥事起こしたとか?
下士官、兵の場合は近衛師団配属は非常に名誉だったのに対し、
将校の場合は、他師団配属と比べてずばぬけて名誉と言うことは
なかったようです。
ですから、近衛に配属されていた将校が、他師団に配属になったからといって、
ことさら左遷ということはなかったようです。
147 :
名無し三等兵:2006/09/26(火) 20:50:28 ID:C+oGiJO/
戦地へ行かないからでしょうね。
逆に言えば、「将校にとって」、近衛師団への配属が特別名誉な軍隊って色々とやばくないか? ただでさえ軍閥が問題なのに。
そんなことないだろ?
>>147 > 戦地へ行かないからでしょうね。
日露、日中、太平洋各戦争でも、普通に戦地に
行っているのではないかい。
153 :
名無し三等兵:2006/10/01(日) 10:01:24 ID:+m2Yc+5G
近衛第1師団ということは、第2師団もあるのか?
つ[近衛は常設二個師団]
彡サッ
155 :
名無し三等兵:2006/10/01(日) 11:17:55 ID:szSY/93c
佳子様衛師団
>>146 長野だけど、田舎じゃ威張れたっていうか、親兄弟も隣近所や周囲に胸を張れたそうだね。
近衛配属の下士官兵。
ハンサムで頭脳明瞭、品行方正タイプが多かったらしい。
上の方で触れている私的制裁の少なさも、こういう人材ばかり集まった為かもね。
(天皇の前でリンチの痕とか見つかったら、それこそ一大事
158 :
77:2006/10/04(水) 22:04:06 ID:???
>>157 >
>>146 > 長野だけど、田舎じゃ威張れたっていうか、親兄弟も隣近所や周囲に胸を張れたそうだね。
> 近衛配属の下士官兵。
> ハンサムで頭脳明瞭、品行方正タイプが多かったらしい。
> 上の方で触れている私的制裁の少なさも、こういう人材ばかり集まった為かもね。
> (天皇の前でリンチの痕とか見つかったら、それこそ一大事
>77です。レス、サンクスです。
天皇陛下を御護りする、直属の近衞兵に選抜だしな。
息子が帝國大学にとか以上にでっかい事だし。
>>157 兵隊が陛下に拝謁する機会などない皆無、有り得ない。
161 :
77:2006/10/04(水) 23:31:54 ID:???
>>157 > (天皇の前でリンチの痕とか見つかったら、それこそ一大事
>>160 >
>>157 > 兵隊が陛下に拝謁する機会などない皆無、有り得ない。
兵の身分で、陛下に拝謁する機会はないのは、確かだが
行事のある時など 折に触れて陛下による閲兵は行われたようです。
それよりも、陛下が都内を(当時は府か?)移動されたり、
那須や葉山のご用邸に行啓される時など、
近衛兵は陛下の行列の沿道警備に立つことが多かった。
その折りには、沿道に集まった人々が路上に正座して
陛下をお迎えするのに対し、近衛兵は
陛下の行列を背に、人々の方に顔を向けて
警備に立つので、「陛下にかわって自分が、
人々に拝跪されているような気がして誇らしい気持ちがした」と、
わが家の年寄が話していた。
そういう場面で、近衛兵の顔が私的制裁で
紫色のあざが出来ていたり、打撲で腫れ上がっていたら、
やはり、まずかったのでは、なかろうか?
陛下がどうこうという以前に、容姿も選考基準なんだから上官が気にするんじゃないか?
164 :
77:2006/10/05(木) 00:50:16 ID:???
>>163 >
>>146 > 将校だって無能な奴はダメだろ。
> なんと言っても親王が配属されるんだぞ。
>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B8%AB%E5%9B%A3 > 近衛師団の将校には昭和初期まで華族、士族しかなれず、平民出身の将校は配属されなかった。
これは、あんまり公表したくなかったんだけど、
兵営の外に自宅を構えている近衛将校の中には、
朝、タクシーで“出勤"してくるやつらが、いて、
これをうちの年寄は「華美だ。ぜいたくだ。軟弱だ」といって、
ものすごく怒っていた。
当時は一般師団の下級将校でも従卒が馬を引いて
朝、迎えに来るのがよくある風景だったと思います。
タクシーを通勤に使うのは、当時の金銭感覚では馬よりも、
ずっと贅沢な乗り物だったようです。
下級将校の給料は、近衛でも安かったはずですので、
やはり、実家が裕福なのが、多かったのかも知れません。
苫米地四楼について教えてください
俺のじいさんが憲兵だった。
2・26事件の時は皇居にいたらしいんだけど、生きているうちにもっと話を聞いておけば良かった。
>>163 それ嘘。
俺の親戚で、大正後期から昭和初期にかけて近歩一連隊長、近歩二旅団長歴任したが平民出身ですよ。
昭和帝の御大礼のときは京都御所の衛兵司令官やってました。
有能かどうかについては,、陸大出ているけど、旅順で負傷して片足引きづるようになっていたから、
実戦には向かないと思われw
168 :
名無し三等兵:2006/10/05(木) 23:15:54 ID:758iU9r+
近衛将校が平民ではなれないことはない。
やはり漏れの超遠い親戚で昭和大礼時近歩四の連隊長をしていた人がいるが
やはり愛媛県平民だ。
こちらも確かに有能かどうかは分からんが、日露の功績で功五を貰った後は
陸大在校中以外は、ほとんど隊付か歩兵学校の教官だった。
騎馬で帽子に羽が付いている古い写真をみると立派でしょう。
あの近衛騎馬の軍装で田舎の人は将校様になったと感違いしたなじゃないの。
>>139 何そのうちのばあ様の昔話と同じ内容。
まあ、うちの場合、じい様(次男で実家は金持ち)が商売失敗したのが直接の原因なんだけど
戦前の修身の教科書に出てるからな。
172 :
名無し三等兵:2006/10/06(金) 18:43:51 ID:vi7TR/3u
伊勢神宮の守備隊の情報を求む。
173 :
名無し三等兵:2006/10/06(金) 20:15:49 ID:SSDwRcpZ
こんなスレがあったとは
うちの爺さん(1982故)は
23歳で近衛師団中尉でした。
山三つ持ってた家の長男で、親父が言うには身長は172cmだったそうです。
当時としては高い方ですね。北支駐留だったらしいです。
177 :
名無し三等兵:2006/10/08(日) 12:30:46 ID:mpL1oi4c
>>172です。
>>175さん、
>>176さん有難う御座います。
ほぼ同年代ですねw。
うちの爺さんが最後の召集で近衛兵で伊勢神宮に配属という話でした。
爺さんは網元系、地主崩れの家で曽祖父が早く死んで高等小学校が最終学歴でしたが、それ以前の召集では初回は中国戦線で工兵もしながら、作戦会議に呼ばれて中国軍を撃破していたそうです。
2回目は教官(岡山?)をやってましたね。
178 :
名無し三等兵:2006/10/08(日) 16:27:55 ID:scJOZz8M
英国には近衛師団ってあるの?
近衛連隊があるのは知っているけど。
179 :
167:2006/10/11(水) 21:09:01 ID:???
>>168 御大礼当時の直接の上司と部下の子孫が、まさか2ちゃんで再会するとはw
俺の親戚も近衛以外で目だった閲歴は、第6師団参謀長と某宮様付武官くらいしかないですw
180 :
名無し三等兵:2006/10/12(木) 00:25:10 ID:QPcKE61t
168です。
俺は残念ながら子孫ではありません。傍系親族です。
本人は独身のまま亡くなっています。
近衛の後は10師団参謀長を勤めていましたが、
病気のため歩兵学校付となり、昭和6年に
現役のまま病死し、少将に名誉進級しています。
元気でいたら中将くらいにはなっていたのではと思いますが。
>>178 イギリスは伝統からして連隊だね。師団はない.
開戦時、タイで大失敗こいとるね。
>>181 Guards Armoured Divisionがあるじゃまいか?
我々には、OMG時、XXX Corps配下で戦ったあたりが、馴染み深いか?
185 :
名無し三等兵:2006/10/24(火) 10:55:28 ID:tMwal8Hp
>>180 揚げ足を取るつもりはないが、病死での一階級特進ってあったのかな?
>185
生前、特に功績があったり皇室から特にお話があったりすると、名誉的に階級が上がる事があります。
良スレ上げ!!
189 :
77:2006/10/31(火) 07:44:20 ID:???
>>188 > 終戦直後、近衛師団だけでも残そうと画策して、
> 皇宮警察と合体した禁衛府なるものを作った話がある。
禁衛府は知らなかった。情報、サンクス。
防衛庁の防衛省昇格を機に、近衛師団復活をキボンヌ。
近衛師団は家柄が優先され、華族の腑抜けの集まりで雑魚ばかりだったと聞きますが、本当ですか?
失礼、実戦経験のある明治は強かったんでしょうね。
乃木将軍もいましたしね。
>>190 それは嘘。
数少ない現役兵ばかりの師団だから、太平洋戦争でもいきなり、マレー攻略戦に
投入されてる.
主攻じゃ無くて助攻だけどね。
194 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 23:34:55 ID:AS3CcLRn
祖父は近衛師団の部隊で酒保の係りだったらしく、
gと升の差で余った酒を独占していた話や、大陸での食べ物の話はよく聞きましたが、
戦闘の話は全く聞きませんでした。
どこの大陸だろうねw
>>194 > 祖父は近衛師団の部隊で酒保の係りだったらしく、
> gと升の差で余った酒を独占していた話や、大陸での食べ物の話はよく聞きましたが、
> 戦闘の話は全く聞きませんでした。
戦争の不合理な所は、命をマトに必死こいて働かなきゃいけない前線と
後方に差がありすぎる事ですね。
イーストウッドの名作戦争映画「戦略大作戦」の“クラップ”を思い出すな。
真面目に戦争するやつあ〜バカ!!
これが、支那人の考え方。
近歩二会
まだあるのだろうか?
200 :
77:2006/11/26(日) 20:04:02 ID:???
亡くなったわが家の年寄も近歩二会に入っていたと思う。
しかし、いまも近歩二会は、続いているのだろうか?
以前に近歩二会発行の「或る近衛聯隊の記録」(近歩二会 編 )
というのを古書として買ったことがあります。
201 :
199:2006/11/26(日) 22:12:38 ID:???
祖父は25年ほど前になくなったが、
近歩二会のキャップをもらったんだ。
(緑か青のキャップに近歩二の徽章が入ったもの)
実家も押し入れに入れっぱなしだ。
ちなみに、当時の双眼鏡と射撃大会のメダルなんかももらった。
当時の刀も許可もらっておばあちゃんが大事にしてる。
202 :
名無し三等兵:
近衛って言うぐらいだから給料は他よりもいいんですかね