880 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 00:45:24 ID:zJkIsDr9
>>832 >>張戎の新作『マオ』によると張作霖爆殺はソ連の陰謀ということらしいが。
少し前に否定的なことを書きましたが、気になってアマゾンの書評を覗いてみたら、
読む価値はありそうですね。優先順位を繰り上げて近々入手したいと思います。
つーか、マジで本を読む時間が捻出できませんw。明日の『東方不敗小町』でも
待ち時間で一生懸命、ペンを片手に消化しているでしょう(核藁)。
ところで支那事変における対共産党ですが、日本側に「共産党」の専門家が
いなかったことが特筆されます。いわゆる「支那通」軍人にも国民党に近い
人間は多々おりましたが、共産党に対しては皆無に近いです。
一応、中村常雄という人が『中国共産軍研究の権威』と言われていましたが、
特務機関の諜報専従員という低い身分です。済南市に生まれて、青島中学校を
卒業後、河南・陝西・綏遠・チャハルなど中国7省を股にかける凄腕なのですが、
士官学校から陸大を出たような「チャキチャキの情報参謀」ではありませんでした。
881 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 01:00:43 ID:zJkIsDr9
その中村氏のメモ曰く、
『私は開戦前後の日本陸軍における共産軍研究の最高権威だった。開戦前、私以外に
共産軍にたいする諜報専従者は1人もいなかった。
日本陸軍の第一の仮想敵はソ連赤軍で、中国共産軍と戦うことを予想した軍人は
いなかった。第二の仮想敵は、蒋介石と彼が統率する中央正規軍であった。
共産軍は早晩、蒋介石によって始末されると判断し、その存在を重視しなかった。
そこに日本陸軍の重大な錯誤があった」
日本陸軍は共産軍を嫌う余り、共産党を深く研究することをしませんでした。もちろん
共産党に関する情報を集めなかった訳ではありませんが、どれも断片的なもので
客観的な分析をするには雲をつかむようなものだったでしょう。
882 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 01:14:35 ID:zJkIsDr9
>>共産軍は早晩、蒋介石によって始末されると判断し、その存在を重視しなかった。
念のため日本陸軍を弁護しますと、上記の考え方は非常識でも何でもありません。
1930年代から蒋介石は、共産党に対する攻勢を強めます。具体的には、江西省瑞金を
中心とした「中華ソビエト解放区」の包囲殲滅ですが、第一次〜五次まで行なわれ、
特に第5次では100万人規模の兵力が投入されます。
紆余曲折がありまして、ここで史上初めての中国人同士の近代的な塹壕戦が
発生する訳ですが、詳細は割愛。またどこかでやります。結果は共産党側の
大敗でした。そして1934〜1936年まで、あの流浪の『長征』が始まります。
一発逆転の『西安事件』(1936年)が起きなければ、自分も共産党は消滅していた
と思いますから、あまり日本軍を責めるのも酷な気がします。
三笠宮の大問題訓話でもわざわざ中共を持ち上げているのを見ると、現地軍将兵には中共に一目置いている風があったのは否めない。
日本側には中共を理解している者がいなかったというより、特務本来の接触相手とは少々違う接触パイプが必要だったために交渉を持ちかけるのが困難だった、という事になるのだろう。
その反面、中共側には日本留学経験のある周恩来と延安に逃れた日共重鎮の野坂参三がいた。
(野坂参三の辛光洙同務なみの大活躍は驚異的でもある)
華北の中共が阿片⇔中古兵器取引を通じて、日本軍装備を入手していた事は先述したが、華北の中共はある意味“日本式中国軍”(これは蒋介石の理想でもあったのが皮肉だが...)とでも言える存在だったかもしれない。
戦後の話だが、毛沢東も日本語を勉強しようと思っていた(元警護員の回想)そうで、中共にとっての日本は非常に身近な存在だった。
中共が大長征(チベット問題や西南大開発等を通じて現代中国の動向を決定付けてもいる)の後に、文字通り“ボロボロ”の状態で華北に出現した時、蒋介石にとって直近の軍事的脅威とは映っていなかった。
蒋介石は、他の軍閥であればとっくに雲南あたりで壊滅していたであろう状態にありながら、依然として強力な組織を維持している中共の構造そのものに脅威を感じていた。
この感覚は上海クーデターの時から中共に対して持ち続けた“気持ち悪い連中”へのアレルギーであり、このため最も信頼していた張学良を、
“微妙”な距離感のあった西北軍閥の楊虎城の督軍に付けた上で殲滅するという念の入れようだった訳だが、張学良は若く行動的であり愛国心に燃えてもいた。
蒋介石の中共へ対する感覚は、義姉にあたる宋慶齢を通じた情報として中共にももたらされており、西安事件そのものが張学良のクーデターでありながら、
黄浦軍官学校での蒋介石の元同僚(ホーチミンもそのひとり)でもあった周恩来の斡旋によって解決するという奇妙な展開を見せる結果となった。
884 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 22:12:45 ID:nmvKF26D
>>865 >>尤も、止める為に送り込んだのが建川だったり、当の建川にしても
>>『君らの事は半分バレた。中央は止めよという。自分の意見はうまくやるならやれ、
>>駄目なら止めた方がよかろうというものだ』
>>と、完全に舐め切っています。精々、三月事件同様のクーデターごっこ程度だと思ったのでしょう。
満州事変当時、作戦部長だった建川美次ですが、直後の『10月事件』でも放言をしています。
事件の首謀者だった「桜会」の橋本欣五郎中佐は建川に報告に行きますが、そこで建川曰く、
『橋本よ。今回は失敗したが、近くまたやり直そう』
橋本は驚きます。こんな革命的なことが何回もできるものではない。それをとくと
知りながら自分を慰めるつもりかもしれんが、あんな放言をする建川将軍の図々しさには
とても敵わない、と語っていますw。
885 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 22:44:09 ID:nmvKF26D
建川美次は、支那公使館付武官(少将:1928年3月〜1929年8月)もしていますが、
ちょうど『張作霖爆殺事件』(1928年6月4日)の時期と重なります。当時の建川の
「人となり」を解説すると、以下の通り。
身長160センチ弱ぐらいの小太りの体格だが、英国製の背広と帽子にダンヒルの
パイプを手放さない。いわゆるキザな外見です。体裁だけはw。
酒豪だったが日本酒は嫌いで、毎晩オールドパーを傾けて昼食前にもジンを一杯
飲んだ――。時にはスポーツウェアに着替えてテニスコートにも出かける生活を送って
いましたが、問題は建川の中国観です。
中国語が駄目だったせいもありますが、もっぱら英米公使館に出入りして、支那人を
見下す態度が露骨だったと言います。いわば欧米派の秀才に共通したメンタリティです。
当時の第二部長は松井石根で、おそらくは門外漢で「旧来のしがらみ」に囚われない建川を
あえて支那公使館付武官にすることで、新風を吹き込むことを狙ったのでしょうが……w。
886 :
名無し三等兵:2006/02/05(日) 22:57:33 ID:syfqouJc
それなんて魚電?
887 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 23:03:06 ID:nmvKF26D
張作霖爆殺事件の首謀者:河本大作大佐は、1928年3月に旅順に立ち寄った
建川美次に「機を見て張作霖を下野させて、息子の学良を立てるつもりだ」と
打ち明けています。
張作霖が特別列車で北京から奉天に向かうとき、建川は、張に同行する儀我誠也
少佐に、「お前は今度ちゃんと軍服で行きたまえ」と注意しています。
『建川メモリアル』(森克巳博士が昭和18年に筆記したもの)には、河本大作が
途中で張を捕らえて下野させるものだと予想していたが、列車ぐるみで爆殺するとは
思わなかったと語っていますが、真相は闇の中です。
満州事変の「止め男」ぶりを考えると、建川がどの程度絡んでいたのか疑わしい限りです。
そんな建川ですが政治的野心も旺盛で、宇垣一成の『四天王』と呼ばれていました
(その他は、杉山元、小磯国昭、二宮治重)。十月事件の責任追及で皇道派が天下を
握ると、建川はジュネーブ軍縮会議全権随員として中央からパージされて転落します。
888 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 23:16:30 ID:nmvKF26D
その後の建川は「鳴かず飛ばず」(それでも第4師団長はやっていますが、
中央には戻れず)で、2.26事件後の『粛軍』で予備役に編入されます。
2.26事件で三島から急遽上京、陸相官邸に乗り込んだ橋本欣五郎大佐が、
「真崎総理大臣、結構! 陸軍大臣・建川美次中将で、このさい一挙に事態を
打開する方策はどうだ?」と持ち出したのが致命的となりましたw。
その後の建川は「松岡洋右人事」で駐ソ大使となりますが、独ソ戦が始まる数日前に
「独ソ開戦はありえず」との見通しを述べて、駐独大使の大島浩に『建川は何を寝ぼけて
いるか!』と憤慨されるなど、その凋落振りは並大抵のものではありませんでした。
しかし既述したように、建川は日露戦争で『敵中横断300里』のモデルにもなった
若きヒーローだったのですね。どこでどう道を誤ったのやら……。
世に『ピーターの法則』なるものがありまして、簡単に言うと
「階層社会では、すべての人は昇進を重ね、各々の無能のレベルに到達する」
としたものです。自分の能力を超える職についた瞬間、一気に無能化する。
建川はその典型例だったかもしれません。
890 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/05(日) 23:49:55 ID:nmvKF26D
>>883 >>中共はある意味“日本式中国軍”(これは蒋介石の理想でもあったのが
>>皮肉だが...)とでも言える存在だったかもしれない。
それに少し絡んで書評をひとつ…。
『白団――台湾軍をつくった日本軍将校たち』(中村?悦著、東洋経済新報社:
1995年刊、定価2200円)
「白団」は「パイダン」と呼びます。1949年、蒋介石に招かれて台湾に極秘で渡った
日本人の軍事顧問団の話です。蒋介石は日中戦争時の「日本軍の精強さ」を非常に高く
評価し、早い話が『日本式の陸軍大学校』を台湾につくろうとした訳です。
もちろん、後年には「アメリカの軍事顧問団」も台湾に訪れるのですが、蒋介石は日本の
白団の高等教育を重視し、白団の教育を経ることが師団長などの高級将官への登竜門とする
位置づけさえしています。
>>889 近衛は総理大臣をやっている時よりも終戦時の方が何故か冴えている…
近衛上奏文で見せた見識を何故、支那事変の時に見せなかったのか悔やまれる。
まぁ、若過ぎたから無能を発揮するラインをすっ飛ばして総理大臣やったのが拙かったのでしょうかね。
ご高説の最中で恐縮なのですが
そろそろ次スレを考えておかないと前スレのようになりませんか?
華北で29軍を率いた宋哲元の末路ってどうなったんですか?
894 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 00:01:39 ID:nmvKF26D
無論これには理由がありまして、蒋介石は台湾に落ち延びた今となっては
『アメリカ式』の物量で圧倒するような戦術は不可能であることを非常に
よく理解していたのです。また、いつアメリカの援助が打ち切られるのか
分かったものではありません。
そこで「金も無い、物もない、けれど精強」だった日本軍のエッセンスを
熱心に吸収しようとしたのです。
またアメリカ式の戦術教育では、問題の解答が「選択式」であることも蒋介石は
気に食わなかったようです。日本のように最初から自分で選択肢も捻り出すような
教育を望んでいました。まあ、アメリカの『選択式』というのも、指揮官すら速攻で
大量生産しようというアメリカの価値観が如実に現れていて面白いのですが……。
白団は実に1968年まで台湾での参謀教育を続けるのですが、この本はその活動の
最初から最後までを追った良書と呼べるでしょう。
895 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 00:15:49 ID:xLWXTaSr
こんな人にお勧めです。
●根本博は「白団」ではありませんよ? まったくのイレギュラー分子ですよ。
●白団は実戦に参加した訳ではありませんよ? あくまで教育機関ですよ。
●金門島の戦闘に日本人(根本博)が絡んだというけど、どの程度なの?
自分はこの本を読んで、かなり蒋介石に対するイメージが好意的に変わりました。
白団の『身元保証人』『後見人』だった支那派遣軍総司令官の岡村寧次やその他の白団の
面々が、参加の動機を「蒋介石への報恩のために」と口々に言う理由が分かった気がします。
他にも、終戦時の支那派遣軍の武装解除や、岡村寧次の戦犯無罪の駆け引き、太平洋戦争後の
国共内戦についても簡潔にまとめていますので、これらの点もお勧めです。
残念なのは、アメリカの軍事顧問団の貢献の程度と白団との軋轢があまり語られていない
ことです。あと蒋介石を「これでもか」と褒めちぎっているのと、後半が事実関係を淡々と
述べるにとどまり、少し無味乾燥なところです。まあ、資料として考えれば問題ないのですが。
蒋介石はドイツ→アメリカ→日本と3国の軍事顧問と関わってる
どれが一番評価が高いんだろうな
↑白団ね。以前、台湾板に白団に参加していた人の息子が書き込んでいて、後期の白団には路線対立があって、嫌気がさして辞める人が多かったとの事。
蒋介石の事を考える時、彼に与えた大日本帝國の影響の大きさと、その大日本帝國が最後まで彼を軍閥首領のひとりとしか見なかった事で崩壊して行く事が歴史の皮肉として見えてくる。
青幇の殺し屋から身を立てて日本とソ連で近代軍人へと成長した蒋介石は、間違いなく天命を受けた人物だった。
だが、その天命は大日本帝國の崩壊と共に終わり、名もない田舎の仏教系インテリで苗族の混血児だった毛沢東へと移ってしまった。
尚、日中国交回復を成し遂げた田中角栄の地元には“元苗(げなえ)”と呼ばれる、渡来した苗族の末裔と言われる被差別部落の人達がいた。
戦前まで新潟の人達は皆知っている言葉だったが、最近では誰も知らない。
蒋介石が関わった軍事顧問は、トロツキー時代のソ連赤軍→大日本帝國陸軍→ドイツ国防軍→アメリカ→戦後日本の失業軍人達。
蒋介石が高く評価していたのは大日本帝國陸軍だったが、実際の政治/軍事手法として多用したのはソ連のやり方だった。
むしろ延安時代の毛沢東+周恩来の方が、大日本帝國陸軍の長所をうまく取り入れている。
1945年からの国共内戦は“ソ連式中国軍”である国府軍が米国援助を受けつつ、“日本式中国軍”の中共軍と戦ったものだった。
この構図は後の越南戦争にも引き継がれる事になる。
>>892 >>ご高説の最中で恐縮なのですが
>>そろそろ次スレを考えておかないと前スレのようになりませんか?
このスレは「容量が500KB」を少し超えた辺り(端数あり)で『突然死』します。
今のペースですと、まだ3〜4日持ちそうですが、こればかりは他の方の書き込み
具合にもよりますので、正確には読みようがありません。
基本的に「容量が一杯です!」というような表示が出て、書き込めなくなったら
終了です。大抵は夜にチェックしてますので、次スレは自分が立てるつもりです。
次スレもお付き合い頂ける「奇特な方」は、スレ立てまで少々お時間を下さい。
>>70 >>スレが伸びないな。そもそもスレタイが悪い。被害担当艦なんて
>>書くから誰もよってこない。あやまれ。
>>1 次回は「サブタイトル」に失敗しないぞっ、と。雪辱、雪辱(核藁)。
もう案は決めています。
900 :
前スレ32:2006/02/06(月) 01:00:33 ID:???
>>898 「世界一強いといわれた日本軍」とは毛首席の言葉ですねえ。
このスレ見てると、Hearts of Ironで中国軍閥プレイがしたくなってくる。
生き埋めで全住民皆殺しとか?w
中国侵略でいえば広田や重光の露骨さには吐き気がする。土肥原の謀略、関東軍の暴走。
天皇や内閣、陸軍すら押し切られた。あの連中は狂ってるよ。
あの昭和天皇ですら熱気に煽られて上海から先への侵攻にGoを出してしまった...
時代の空気とは言え、張学良が徹底抗戦していれば なかっただろう暴走なので。
向こうは蒋介石の本体と地方軍閥の寄り合いだからね
徹底抗戦は力を失って張学良自身の破滅になる
支配地を失った張学良は、結局軍を引き連れて蒋介石の世話になりつつ 華北から西北へと流転して行った。
最終的には西安事件で軟禁され軍も失ったが、中国史に残る英雄にはなれた。
満州で関東軍と激戦を繰り広げていても、同様に歴史に名は残せただろう。
907 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 22:27:48 ID:PwIMaFxc
>>897 >>蒋介石の事を考える時、大日本帝國が最後まで彼を軍閥首領のひとりとしか
>>見なかった事で崩壊して行く事が歴史の皮肉として見えてくる。
全くご賢察です。日本は支那の『分治工作』(分断統治)を延々と続けてきた訳ですが、
それがようやく改まったのが1937年です。古株の『支那通軍人』ほど、支那に近代的な
統一政権をつくるのは不可能であるとの認識を変えませんでした。
この対支政策の「根本的かつ全面的な転換」を行なったのは、実は『林銑十郎内閣』です
(1937年2月〜1937年6月)。
「食い逃げ解散」「ロボット宰相」「なにもせんじゅうろう内閣」と歴史的評価は散々な
林内閣ですが、この1点だけは根本的改革と評価できます。すなわち、
『我が国、従来の帝国主義的侵寇政策をこの際抜本的に改め、北支もその主権は
「中央政府」に発するものなる事を確認し、従来の如き「分治合作」の政策を放棄する』
908 :
名無し三等兵:2006/02/06(月) 22:32:26 ID:20OsCgDB
>>887 四天王とは誰が言い出したのか知らないが、建川と外の3名が相識るのはかなり後になってから。
ちなみに小磯によれば、杉山二宮に畑を加えた4名は陸大の学生時代から非常に仲がよく
連れ立って遊んでたので、4人組などと呼ぶ人もいたとか。
宇垣は長く陸相をやったので、宇垣派とみなされる人はたくさんいるが、一番の忠臣は
楠公研究で知られる林中将だろう。
909 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 22:43:34 ID:PwIMaFxc
ここに改めて華北もその主権が「中央政府(蒋介石政権)」に発するとした点は、
前年(1936年1月13日)岡田啓介内閣のもとで決定された『北支処理要綱』を
根本から撤回する意味があります。すなわち第一項には、
「北支5省の自治化を進め」云々とあったからです。
さらに日本が古くから続けてきた「分治工作」を否定することで、従来の対支政策の
二重の転換を意味していました。
しかし時すでに遅く、前年1936年12月には「西安事件」が起こり、1937年7月には
「盧溝橋事件」が勃発し、情勢は急展開して元の木阿弥となってしまいますw。
910 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 22:53:56 ID:PwIMaFxc
>>908 >>四天王とは誰が言い出したのか知らないが、建川と外の3名が
>>相識るのはかなり後になってから。
一応元ネタは『昭和史の軍人たち』(秦郁彦著、文藝春秋)です。
1929年8月の人事異動で、
陸軍大臣:宇垣一成、陸軍次官:阿部信行(ついで杉山元)、軍務局長:
小磯国昭、参謀次長:二宮治重、第二部長:建川美次
となったのを指しているのでしょう。建川メモリアルによると、「三月事件も
四天王で謀議が練られた」とありますから、建川が自称で『四天王』と名乗っていた
だけかもしれませんw。
911 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 23:25:15 ID:PwIMaFxc
>>909 の続き。
比較的、時代の新しい『分治工作』の一例として「広東駐在武官」だった和知鷹二(中佐)の
工作を見てみましょう。
和知の工作の相手である胡漢民は、広東に独立政府を樹立し(1931年)、中央政府(国民党)に
対して半独立国家となります。また隣の江西省では、李宋仁・白祟喜が強く根を下ろしており、
強度の民衆軍事訓練を行なっていました。いわゆる『西南派』です。
もちろん国民政府も両省を屈服させようとしていましたが、江西省などは李白の地盤が強固で
難攻し、両省も不承不承中央に妥協するなど、「面従腹背」に近い関係でした。そこに和知が
広東駐在武官として現れたのです。
その頃の広東は「排日感情」が凄まじく、昼間は要人との会見もできない程でした。ちょうど
満州事変が上海に飛火した頃で(1932年初頭)、上海で被害を蒙った民衆が主として広東・江西・
福建の出身者が多かったためです。この頃の和知の活動は、『興中マンの粋』という機関紙によると
以下の通り。
912 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/06(月) 23:43:44 ID:PwIMaFxc
「和知鷹二中佐は、排日の広東に駐在武官として赴任したが、家を借りる事も
出来ぬほど甚だしかったので、夫人と2人でホテルに住まい、夫人が書記を
兼務してタイプを打って報告書を作っていた。こういう空気の中で、胡漢民
以下の要人達と親密に往来接触し、何時しかこれら頭領を親日に転向させる
に至った。この努力は将に高く評価さるべきである」
和知中佐は、蒋介石の中央政府に対して敵国に近い観さえあった『江西軍』に対して、
日本兵器の売り込みや軍事顧問団(日本人)の送り込みにも成功しています。
当時、日本兵器の輸出には政府の指導でつくられた『太平組合』(兵頭軍師の本を
参照)が当たっていましたが、既に小銃2万挺、弾薬500万発、山砲8門、軽機関銃
12挺、飛行機4機、通信機材等、多数が売り込まれていました。
また、広東・江西両省の「経済建設資金」として差し当たり300万元ずつ、計600万元を
満鉄から借り受けたいなどの中国側からの要望も来ます。
確か林中将の息子が戦後初代統幕長の林敬三氏でしたよね。
敬三氏は第三次近衛内閣の未公表のままに終わった行政機構改革プランに関わってたようですが
これもなかなか興味深い。
914 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/07(火) 00:03:47 ID:PwIMaFxc
途中で和知中佐は「広東駐在武官」から「支那駐屯軍参謀」に転出して
しまいますが、上記に書いたのは1932年〜1935年の話です。
>>907 で挙げた『対支政策の根本的転換』が1937年の話ですから、いかに
直前まで『分治工作』が行なわれていたかが理解できるでしょう。
昔から「保境安民」と言いますが、旧軍閥の頭領は、蒋介石の中央政府による
支那統一下に置かれるよりも、旧態依然とした地方権力者の地位を守ろうとする
傾向が強かったのです。「鶏頭なるも牛尾となるなかれ」という所でしょうかw。
そのための支援を現地の日本軍人に求めた訳ですが、地方軍閥から提供される情報は
勢い甘言に近く、支那統一に向けた民衆の熱狂的なナショナリズムを図るうえでは
ミスディレクション(誤導)以外の何物でもなかったでしょう。
これらの点が、日本の中枢における支那情勢の判断や政策決定に大きな影響を与えた
事は言うまでもありません。
915 :
暫編第一軍:2006/02/07(火) 00:19:31 ID:???
>>893殿
確か1939年か1940年頃病死していたと記憶します。
汪兆銘政権軍シリーズも大分間が空いてしまいましたが、現在満州事変に話題
が移っているところでもあり、番外編マイナー軍シリーズとして張学良の東北軍を
特集するのも興味深いと思われます。
しかしどうもこのスレも後数日以内で容量オーバーになるとのこと。例によって
長文になり容量を食いつぶしてしまいそうなので次スレに移り次第書き込ませて
いただきます。
では。
>>909 >>さらに日本が古くから続けてきた「分治工作」を否定することで、従来の対支政策の
>>二重の転換を意味していました。
まあ結局、日中戦争が始まってしまうと、
●王克敏らの中華民国臨時政府 ●梁鴻志らの中華民国維新政府
さらに上記を吸収して、●汪兆銘の南京国民政府が生まれる訳です。
●蒋介石の重慶の国民政府も合わせて考えれば、依然として『分治工作』
以外の何物でもありませんw。
>>915 どうもでございます。このKBですと、多分明日あたり新スレを立てることに
なると思います。では。
しかし軍人って大勢いたんだな
敗戦後は軍人全員が失業 戦後は何の仕事に憑いてたんだろう
731の石井は宿屋の親父だったらしいが俺は絶対泊まりたくないなあ
919 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/07(火) 22:19:54 ID:aXh4ltSy
>>893 >>華北で29軍を率いた宋哲元の末路ってどうなったんですか?
日中戦争が本格化すると、第1戦区副司令長官兼第1集団軍総司令となりますが、
1938年7月に病気のため辞職します。その後、綿陽で療養しますが、1940年5月に
55歳で死去。国民政府より『陸軍1級上将』を追贈されました。
920 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/07(火) 22:45:52 ID:aXh4ltSy
まあ、スレ潰しwのためにもう少し補足しますと、以下の通り。
宋哲元は旧軍閥時代、もともと「親ソ派の馮玉祥」の部下でした。馮玉祥の『西北軍』が
蒋介石の国民革命軍に敗れたとき、宋哲元は馮を見捨てて『西北軍』を代わりに率い、
国民政府軍に編入されます。
そして第29軍長となる訳ですが、従来どおり地方の『雑軍』扱いをされて
チャハルと熱河省の辺境守備に回されていましたw。そんな宋哲元の転機と
なったのが、『梅津・何応欽協定』(1935年6月)です。
協定よって国民政府軍が河北省から撤退した後を受けて「北平・天津地区」に進出、
政治と軍事の両権力を握ります。支配地区が豊かなため役得が多く、宋哲元の収入は
膨れ上がり、これ以上ない悠々自適な時代を迎えます。日本軍の存在を除けば、ですがw。
もちろん事変が拡大すれば、この貴重な地盤を失うことになるので、盧溝橋事件でも
何とかして和平解決したかった、というのが宋哲元の偽らざる本音でしょう。
921 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/07(火) 23:10:24 ID:aXh4ltSy
まあ、
>>916 でも述べましたが、日本の問題点というのは、事実上の「中央政府」である
国民政府(蒋介石)との交渉を『二の次』にして、国民政府でさえ相手にしないような
『地方の雑軍の頭領』ばかりと熱心に駆け引きしていた事です。
長らく続いた「分治工作」の呪縛は抜けがたいものがあります。
922 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/07(火) 23:41:19 ID:aXh4ltSy
>>918 >>しかし軍人って大勢いたんだな
>>敗戦後は軍人全員が失業 戦後は何の仕事に憑いてたんだろう
それはもうピンキリですw。もちろん貧窮に喘いだ軍人が圧倒的でしょうが、
会社の役員などに滑り込んだ軍人も多くいます。
映画『男たちの大和/YAMATO』にちなんで、大和級の艦長を何人か取り上げて
みましょう。
まず「レイテ沖海戦」で大和艦長だった森下信衛です。森下はレイテで米軍の爆・雷撃を
ほぼ全てかわし、一躍乗員から『不沈艦伝説』を巻き起こした人物です。もちろん僚艦の
武蔵が撃沈されたことも背景にはあるでしょう。「森下艦長のためなら死んでも良い!」
という乗員が大量発生したとか…。「森下信衛ファン倶楽部」が出来そうな勢いですw。
その後、森下は第2艦隊参謀長となりますが、乗艦は以前と変わらず『大和』です。そして
沖縄水上特攻を命じられますが、大和は沈み、森下は海中に投げ出され奇跡的に生き延びます。
923 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/07(火) 23:58:46 ID:aXh4ltSy
森下は戦後の苦しい生活の中で、病魔にも冒されて絶望し、「大和と共に死ぬべき
であった……」と漏らしたと言います。
それと対照的なのが、「武蔵」の艦長を経験した古村啓蔵です。古村もまた第2水雷戦隊
司令官として「沖縄特攻」に赴きますが、辛くも生き延びます。乗艦が撃沈され重油の海を泳ぎ、
やっとの思いで駆逐艦に拾われたところ、「我が闘志なお衰えず。直ちに再度突撃せん」と
叫んだエピソードは有名です。
戦後の古村は、米軍関係の仕事をしていたようですが、家政婦を雇うぐらいには
裕福な暮らしをしていました。旧海軍の集まりにもよく出席し、何かの代表を頼まれれば
二つ返事で引き受けます。年を取ってからも非常に元気で、趣味のゴルフや長唄を満喫。
60歳を過ぎてからは10歳はサバを読んで周囲を唖然とさせ、山本リンダの大ファン
となり、講演会にも入会します。
コンサートにも足を運び、「年寄りは俺だけだったよ」と嬉しそうに語ったとか。
人生勝ち組 古村敬蔵w。
え? 映画に出てきた「有賀幸作(大和艦長)」はどうしたですって?
もちろん、沖縄で大和と共に海中に没しました。
戦後、同郷で幼馴染の古村啓蔵が自ら建設委員長となって、故郷の辰野町に
『有賀幸作の記念碑』を建立してもらったとさ。
お後がよろしいようでw。
閣下、残り2KB。誘導も含めてそろそろかと。
スレが埋まるまで、あと少しが長い…w。
次スレでは「支那の幣制改革」も取り上げたいな〜と。結局、経済問題を触れないと
どうしても片手落ちの気がします。あと、いい加減に戦闘部分も具体的に踏み込みたい
のですが(上海事変などは前スレでやった記憶が…w)、いかんせん資料が足りなくて心配です。
結局、戦史叢書も「支那事変」分は揃える必要があるのか……w。何か一般書籍で
戦闘部分を上手くまとめた本はありませんでしょうか? 各戦記本は「木を見て森を見ず」で
食傷気味です。
何か次スレの要望等がございましたら、余白でどうぞ。
イナゾウ中佐に意見愚申するとスリッパで頭を叩かれそうだ
いや、自分が一番迷っているのが、「四季映姫・ヤマザナドゥ」様を
再登場させてもいいかですw。
アレ(
>>726〜)で一気に書き込みが減った気がします(核藁)。
一応補足すると『楽園の最高裁判長』で、いわゆる「地獄の閻魔様」です。
ただし緑髪の幼女ですがw。
929 :
前スレ32:
>>924 松田千秋少将も大和艦長をしていたような気が。
ネット上の情報では発明家として大成功をしたようですが、
自分には反省会での活動が印象的です。
>>926 太平洋戦争期ですと、林三郎大佐の書いた岩波新書がコンパクトで大変便利かと思います。
ただ、イナゾウ中佐も、このスレのみなさんもごぞんじでしょうね。