島根県の告示は、同年1月28日の閣議決定に基づいている。その閣議決定で「竹
島」と初めて命名し、それまでは「リヤンコ島」などと称していた。また、告示は県
レベルにとどめ、これをただちに大韓帝国に通告せず、1906年4月になってわざわざ
通告している。その間の1905年11月には、乙巳保護条約を強要して、日本は韓国の外
交権を剥奪している。そのため、韓国は島根県告示の通告を受けても、何ら反論でき
なかった。こうした事実経過は、日本が「竹島」を日本領ではなく韓国領と認識して
いたことを示している。
閣議決定に至る経緯にも問題がある。1月の閣議決定は、前年の1904年9月に一事業
者が明治政府に提出した「リヤンコ島領土編入並びに貸下願」に基づいている。『島
根県誌』および『島根県竹島の新研究』(いずれも「竹島は日本領」と主張してい
る)によると、事業者は「竹島」は韓国領と認識していたとされ、独占的利用のた
め、農商務省に帰属を確認したが、農商務省では分からず、海軍省に問い合わせたと
ころ、水路部長が「帰属ははっきりしないが、日本の方が韓国より近いから、領土編
入してしかるべきだ。領土編入願いをいっしょに出せば独占的に貸し下げてやる」と
事業者を説得したとされている。海軍省の要請に従って、事業者が「願い」を出し、
即日政府がこれを受理している。海軍省=軍部が、一事業者を利用して、韓国領土と
みなしていた「竹島」の日本領有を確定してしまったことになる。
海軍省は1905年7月、「竹島」に望楼を建設している。折からの日露戦争の戦況を
有利に進めるためである。日露戦争は朝鮮半島の領有権をめぐる戦争である。日本の
「竹島」領有は、この事実からも朝鮮植民地支配に密接に関わっていることがうかが
える。1905年の「竹島」領有を肯定することは、日本軍国主義による朝鮮植民地支配
を肯定するに等しい。
以上から、「竹島」=独島は植民地支配の過程で日本が韓国から奪ったことが明ら
かである。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-April/001046.html