【精鋭】関東軍について語るスレ2【最強】

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>>220
出先で手持ち資料が無いのでネットで拾い集めた報で失礼するが

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まず昭和12年〜(盧溝橋事件から日中が本格的に戦争状態になった時)

<中略>
経済的には、当然、軍事費増大による戦時インフレが進む。
8〜11月までの期間に鉛・硝酸・大麦・銅・木炭・アルミなどの価格は20%以上の高騰を見せる。
9月には臨時軍事予算20億円が提出され、戦費は通算25億円に昇ることになる。
その財源は殆どが戦時公債。この年の公債発行額は15億円に増加。
ちなみに昭和12年度一般会計は【27億円】。
一般・臨時両会計を合わせた財政支出は一躍前年の2倍になった。
軍需物資の輸入は増え、秋には兵器弾薬も不足して、イタリアから小銃を輸入したほど。

輸入超過による国際収支の赤字は増える一方となり、政府はこの難局を乗り切るため政府による
経済直接統制が必至と考え始める。これにより
・「臨時資金調整法」(長期資金の統制)
・「輸出入品等臨時措置法」(物資の統制)
・「軍需工業動員法の適用に関する法律」(軍需工場を軍の管理下におく)
の「統制三法」が成立。
225:皇紀2665/04/01(金) 15:10:02 ID:???
8月、日銀は正貨準備の「金」の評価替えを実施。
純金750ミリグラムにつき1円だった評価を290ミリグラムにつき1円に変更。
こうして日銀は日銀金準備金を約2.6倍に膨らませる。こうして増えた資金のうちの3割を新設の
「金資金特別会計」に移す。
以後、貿易決済での金現送はこの会計より秘密りに行われる。
つまり、政府・日銀は正貨準備金の額を、制度かえて増やした上に、日本の対外決済状況を秘密化
してしまった。

10月、政府は経済統制を円滑に進めるための組織として「企画院」を設置する。
ここは国体改革を進める「革新官僚」達の拠点となる。
(このころから前の「新官僚」は「革新官僚」と呼ばれるようになっている。)

注)これは太平洋戦争が始まる4年前、満州事変が日中戦争へと発展したまだ入り口段階でこんな感じ

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昭和12〜13年 1937〜38年 南京事件と日中戦争の展開

その後も中国戦線は拡大の一途をたどる。
参謀本部の計算では、全軍の半分の15師団を投入すれば6ヶ月でけりがつくはずだった。
しかし中国軍の抵抗は激しく、一撃を加えれば白旗を掲げるどころか激しく反撃した。
開戦後4ヶ月間で失った日本軍の兵員は戦死傷合わせて4万人以上。
これはほぼ3個師団に相当する数字である。つまり日本軍は開戦4ヶ月でその5分の1を失った事になる。
226:皇紀2665/04/01(金) 15:10:51 ID:???
17.国家総動員法
(昭和13年 1938年)

前年に成立した「統制三法」のお陰で、必要物資が殆ど軍需品に取られることになり、民需では
全国的に物不足が深刻化してインフレが進む。
政府は公定価格を設定し沈静化を狙うが闇経済が発達するだけ。
そして支那事変の長期化により増大する戦費。昭和12年末の通常国会では、臨時軍事費として
48億5000万円が提出される。(同じく提出された一般会計は35億1400万円。)
この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった。

さらに日本軍は兵器弾薬不足にも悩まされていた。近代戦においては莫大な数の弾薬を消費する。
盧溝橋事件後6ヶ月で弾薬庫はほとんどからに近い状態になっていた。
しかも日本にはこの莫大な消費に見合う生産能力がない。

これらの問題を解決するため、昭和13年4月1日、企画院が提出した「国家総動員法」が成立。
5月5日に施行される。その詳しい内容は、
・労働、物資、資金、企業、施設の動員統制
・労働争議の禁止
・新聞その他出版物の掲載、配布の統制
・国民の職業能力の申告
・技能者の養成
・国民の物資の保有統制
等々。まさに国民生活全てを統制し戦争に備えようとする法律。
「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と、それに接近していた革新官僚達による
経済統制が実現段階にはいる。
227:皇紀2665/04/01(金) 15:11:24 ID:???
この法律は、我妻栄氏によると、
「要するに、総力戦の始まったときに、議会の協賛なしに国内の総力を動員できるように、
 政府に対して広範な権限を与えておこうとする法律」
だそうです。近代国家は司法・行政・立法の三権分立が基本である。それがこの法律では、戦時に
限ってではあるが行政、つまり政府に臨時的に統制のための法律制定の権利が移る。
これは政府が立法府、つまり国会から白紙委任状を受けたのと同じことである。
国会は以後、完全にその機能の停止状態となり、軍部・政府の単なる言いなりになる機関となる。

ちなみに、戦費は臨時軍事費特別会計により、戦争が終了した時点での一会計年度決算だったため、
この時点で支那事変の戦費がどの程度掛かっていたのか不明の状態です。
外から分からぬ内容のため軍部は好き勝手に予算を使えたようです。

一般・臨軍両会計の歳入構成は、租税と公債の割合が11年度の時点では5対3だったものが、
12年度以降は公債の方が多くなり、16年度には3対6にも達している。早い話、戦費の調達は
ほとんど公債の発行に頼る形になっている。
この時点あたり、政府には公債発行を一定限度に押さえ込む考えは、全く無くなっています。

この年8月、関東軍内部で支那事変不拡大を叫んで東条英機と対立していた石原莞爾は、病気療養を
理由に勝手に帰国。12月には舞鶴要塞司令官に落ち着いている。

注)まだまだ太平洋戦争勃発3年前
228:皇紀2665/04/01(金) 15:13:04 ID:???
昭和14〜15年 1939〜40年

<中略>

また米内内閣成立直後の2月2日、議会において、民政党の斉藤隆夫代議士が政府の日中戦争処理方針を
巡って2時間の大演説。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。
日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚
な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。
しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。

このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、
昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。
公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。
それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。
さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な
問題になってくる。

この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。
昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に
物価を固定すると言うもの。
同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与も
ストップあるいは統制下に置かれる。
はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して
国民生活がますます困難になる。
229:皇紀2665/04/01(金) 15:14:11 ID:???
この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人
の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。
このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業
では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。
さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。

ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。
昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖
・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。
これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。
「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。

この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。
昭和15年5月13日第1回報国債券発売。8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。

注)【この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める】
この年(太平洋戦争開戦1年前)、日本のGNPは前年度マイナスに転じる。
経済学者曰く「日中戦争はこの時点で(経済的に)日本の負けであった」

>>220氏曰く

大陸での戦闘には軍艦も大砲も航空機も要らない。チープな戦費で充分賄える。
無尽蔵な国富を費やさざるを得なかったのは対米戦のみ。
実際、上でも触れたが一号作戦は大戦末期の昭和19年の発動。
支那軍などを相手にするのなら、あの末期でも余裕の動員がかけられる。
何故なら、近代戦の必要が無いため、戦費が掛らないから。
あのまま、支那だけ相手にするなら100年でも戦えたぜwww

だそうです。