WW1の敗戦によるオーストリア帝国の解体によって生まれたチェコスロヴァキアは
複雑な民族的な対立を抱えた多民族国家であり、全人口の23.3%を
ドイツ系チェコ国民が占めていた。
とりわけ、ドイツとの国境地帯に帯状に広がるズデーテン地方は
歴史的にも地理的にもドイツ文化圏に所属しており、この地域の人口の
98%を占めているドイツ系住民は当然、チェコからの分離と
ドイツへの復帰を望んでいた。
ドイツがズデーテン地方の返還を主張し始めると、イギリス、フランス政府を含む
ヨーロッパの列強国ですら、このドイツの主張には歴史的な根拠が十分にある
と認めていたのである。
ミュンヘン協定では、ズデーテン地方が分離した後のチェコスロヴァキアの
残った領土については、保全されることが定められていた。
ところが、この分離によってチェコ中央政府の権威は失墜し、ドイツ人以外の
国内少数民族の分離独立活動も活発となった。
こうしたチェコの国家的な解体状況に乗じて、ポーランドが軍事侵攻を企て
テッセン地方を併合し、ハンガリーもルテニア地方及びスロヴァキア併合を企てようとした。
スロヴァキアは独立を宣言し、ドイツ政府はスロヴァキア、ハンガリー、
ポーランドによる併合を恐れ、チェコ政府の合意の元で併合を行った。
こうしてチェコスロヴァキア共和国は解体して、チェコ部分には
ボヘミア・モラヴィア保護領が成立し、スロヴァキアはドイツの保護国となったのである。
チェコ併合をまとめると。
1 併合はチェコ政府の合意の元で合法的に行われた。
2 ドイツが併合しなくても、いずれにせよチェコはポーランドやハンガリーに
併合され消滅していた。
3 チェコはもともとオーストリア領であり、ドイツ・オーストリアからなる第三帝国が
併合を行ったのは、元の領土に復帰したのと同じ。
併合にチェコ政府が合意した以上、併合は全くの合法である。