*はじめに
私は1937年8月に召集され、日中戦争に参戦した。河北省の戦闘、南京攻撃戦、徐州攻撃戦、漢口
攻撃戦、壌東攻撃戦と3年間戦い1939年11月に凱旋した。
その後1944年3月再度、「大東亜戦争」に召集され敗戦の日まで、中国侵略戦に参加した。
南京攻撃の最後の3日間、12月10日、11日、12日の戦闘は砲弾が地獄の踊りを踊り、銃声が死の歌
を歌う、生と死の激烈な戦場であった。12日の夜、私は夜襲突撃をして「四方城」を占領し、翌13
日に中山門へ入城した。この日が南京占領の日でした。
戦場で戦死すれば、私の身体と共に焼却されるものであるが、戦争は人生の異常な体験である故に
私は戦場で日記を書いた。日記には善も悪も戦場の真実を書いた。
我々は何の罪悪感もなく多くの農民を殺した。「暴支膺懲だ、山川草木みんな敵だ。やっつけてし
まえ」と殺した。まことに酷いことであった。
食糧補給はー切なかった。占領した場所で掠奪して食え、という戦法であった。食糧を捜している
うちに、隠れている女性を見つける。見つけたら必ず犯した。虐殺・強姦・放火・掠奪などの非人間
的行為を良心の呵責もなく平然と行為したのはなぜか? 家にいる時には、善良であった者が、このよ
うに野蛮に変身したのはなぜか?なにがそうさせたのか?その反省と究明が厳しく検討されなくてはな
らない。
膿んだ傷を外科手術をして膿をえぐり出すのは、再度化膿させないためである。過去の野蛮な行為
を反省し、その原因をえぐりだすためには、侵略による蛮行を明らかにして反省しなければならない。
過去の事実をなかったことにすべきではない。私は1987年12月13日、南京大虐殺50周年記念の日、
南京大虐殺遇難同胞紀念館で侵略の加害を謝罪した。その時に会った南京大学の高興祖教授から「東
さん、日本軍の蛮行は20世紀文明の恥だ」と言われ、その痛烈な批判に心から慙愧した。
我々日本軍の蛮行は、大いに反省されるべきである。「自虐」するのではない、「自省」するので
ある。中国人の身体は銃剣で刺して平気であるが、自分の身体は針でさわられても痛いという自分勝
手な態度であってはいけない。
我々日本人は原爆の被害は声高に叫ぶが、中国人民への加害には口をつぐんだままである。日本軍
の中国人民への加害は、原爆被害の何十倍の加害であったのだ。日本がアメリカより早く原爆を完成
させていたら、日本が先に使用したであろう。被害のみを叫んで加害に口を閉ざす身勝手は、平和へ
の出発点とはならない。
私は、戦争の体験者として、加害の実相を語り伝え、反省の糧とする事は、実戦者の義務であると
考える。
なんでここ南京虫が湧くんだよ・・・
我々を非人間的にした軍国主義教育とは如何なる教育であったのか。我々は侵略戦争を「聖戦」と
教えられた。「横暴なな中国人を懲らしめるのは正義だ」と教えられた。そして、中国人を軽蔑し、
民族差別をたたき込まれ、暴支膺懲だと教育された。「天皇への忠義は山嶽よりも重く、汝等臣民の
命は鴻毛よりも軽い、生きて虜囚の辱めを受けず。死んで護国の鬼となれ」と教えられた。
中国人にたいする差別心により、軽蔑が傲慢へと変わった。これが無差別虐殺の非行の原因である。
軍国主義は人間を資源とし濫費、濫用し、人命を軽視した。我々兵隊は消耗品として扱われた。自分
の命が軽いのなら、敵の命はさらに軽いと考える。「殺してしまえ!」と、良心の呵責もなく虐殺した。
当時の日本軍には人命尊重・人道主義はまったくなかった。戦いの目的は勝利であり、勝利のために
は人道も軽視、勝つことが正義だと考えた。我々は人間兵器であり、その正義のために死ぬことは天
皇に忠義であり名誉の戦死だと教えられた。人命尊重の思想はなく、あるのは死を決して天皇に忠義
を尽くせ、それだけであった。これは自我の放棄であり、奴隷根性であり、道徳的無自覚であり、不
正義・悪に反発する思考の欠如であった。
敗戦後50年の年、日本の国会決議で、「他国の領土を侵略する為でなく、欧米列強の支記から、ア
ジアを解放する為の自衛戦争であるから謝罪する必要はない。不戦決議反対する。」という議論があ
った。日本の代議士の低劣さは驚くばかりである。愚かしき国会に唖然とする。日本の仕掛けた戦争
が解放のための戦争であったのなら、先ず日本自身が「台湾」・「朝鮮」・「満州」・「樺太」を解
放すべきである。日本の植民地は解放せず搾取を続けながら、何故「解放戦争であった」と言えるか。
当時、「満蒙は日本の生命線」だと主張されていた。「満州・モンゴルは日本の領土ではない。他
国の領土を日本の防衛の砦として自国のみを護る、という自国のみ優先させた考え方は世界には通用
しない。
日中戦争で資源を使い果たした日本は、「大東亜戦争」という南方侵略戦争へと突き進んだ。それ
は、日本の資源獲得の戦争であった。1941年11月10日、大東亜戦争開始にあたっての大本営会議の決
議は、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス各諸島は、占領後は日本帝国の領土とする」、
「フイリッピン、ビルマは独立国とする。但し、日本の指揮下に置き、満州とする」と決議している。
そして12月8日に開戦したのである。
日本が、アジアのどの国に対して「損害賠償請求」ができるのか?他国から請求はされても、どこに
も請求できないのは、侵略戦争であったからであり、解放戦争ではなかったからである。
中国が日本へ攻め込んできたのではない。日本が中国へ攻め込んでいったのである。侵略であったと
いうことが全ての原点である。それが反省すべきことであり、「自虐」ではなく「自省」すべきことな
のである。
最近日本で、血液製剤で多くの「HIV」感染者を出した。その企業のーつ「緑十字社」は、七三一部
隊の残党・軍医10名が設立した企業である。中国人の人命を軽視し「マルタ」として人体実験をした。
敗戦50年目日本で起こっている血液製剤による「HIV」感染の問題も、利益のためには患者がどうなろ
うとかまわない、「緑十字社」が儲けたらいいという、人為を軽視したことによりおこった。侵略戦争
に勝利するために中国人の人命を軽視したと同じく、利益のために患者の人命を軽視した。この事件は、
過去の軍国主義の非行を、現在において繰り返し反省する必要があることを物語っている。
戦中は、特高警察と憲兵が、国民の思想言論の自由を弾圧した。今日に至るも、目の覚めない、背広
を着ているが心に軍服を着ている連中・偽善者が、言論の自由を弾圧する。
戦争中、人間屠殺工業の忠実なる戦士であった私は、大いに我が青春に悔いがある。戦場に召集され、
命をかけて戦ったが、南京60カ年の現在、南京大虐殺を虚構だと主張する連中と「南京戦争裁判」を闘っ
ている。
私は、人生の終着駅に立って、東京高等裁判所で日本の「ネオナチ」と闘っている。
私・東史郎は、1987年に戦争中の虐殺・非人間的行為を証言し、日記を出版した。そして6年後の1993
年「日本軍の名誉を傷つけた。けしからん」と「名誉毀損」で告訴された。「東史郎の日記は虚構であ
る、その虚構を是正し、日本軍の名誉を回復し、学校教科書に掲載されている南京大虐殺の記述を訂正
しなければならない」、というのが告訴の本当の意図である。訴えた原告代理人の事務所には「南京大
虐殺の虚構を正す会」を設立し、南京大虐殺をなかったことにしようとする「まぼろし派」が必死で法
廷を利用しようとしている。
私は、南京50カ年の年に侵略戦争の日本軍の非人間的行為を証言したために、以後、右翼からの脅迫
と攻撃にさらされ、その延長として告訴された。だが、真実は明かにし、反省されるべきである。たと
え痛みを感じるとしても、事実を隠す卑法さであってはいけない。
偽善的愛国者である「まぼろし派」の心の中には、「君が代」を讃え、天皇のために死ねと歌う、死
の讃歌が今もいき続けている。その讃歌の中に人命軽視の思想があったのだ。
私は、敗戦を浙江省の寧波で迎えた。武装解除され、兵器弾薬を没収された時、それを受け取りに来
ていた中国の将校が私たちに言った。「私は、南京戦で日本軍の捕虜になった時、下関波止場で集団虐
殺にあった。次々に銃殺される戦友の死体の下敷となり、死んだふりをして、九死にー生を得た。夜ひ
そかに脱出し、今日まで憎い日本軍と戦ってきた。その無念を思うと、おまえたちを殺して、河へ投げ
込んでやりたい。しかし、「怨みに報いるに、徳をもてせよ」という命令がでた。だから命はたすけて
やる。」と、私は復讐されなかった。この中国軍の寛大さの故に、今の私の命がある。私は中国人の寛
容さに感涙した。中国人は「怨みに報いるに、徳をもてせよ」という。一方、日本では復讐は美徳であ
る。主君の仇討、親の仇討、日本人なら必ず復讐したであろう。
今、私の生があるのは、この時に復讐されなかったからである。これを思うと、日本は中国に戦争に
負けたのみならず、道徳的にも負けたのである。
日本はかつて、日清戦争で「勝利」し、「台湾」を奪い、莫大な賠償金を取った。ところが、この度、
中国は日本からー寸の土地も取らず、その上、一銭の賠償金をも要求せず、「日本人民から賠償金をと
って苦しめるより、永久の友好を築こう」と言ってくれたのである。この寛大な中国人に感謝する。そ
して過去の過ちを反省、謝罪して、親密な友好関係を築かなくてはならない。
日本の文字と文化の源泉である漢字は中国から伝わり、教えられたものである。中国は日本文化の原
点である。私は、師である中国に対して、暴虐を加えた事の反省をしたために、「英霊」を冒涜する奴、
日本軍の名誉を傷つける奴、と攻撃され、裁判にかけられて4か年が経った。
1996年4月に出された第一審判決で、江見裁判長は「橋本光治の中国人虐殺の記述については、証拠
不十分」、「東史郎には情報を提供した責任がある」と判決した。
民主主義とは情報の公開が原則ではないかと思う。江見裁判長は、戦時中の秘密主義復活を狙ってい
るのか。歴史の事実も恥も知らぬ政治家に迎合する江見裁判長自身を裁判で問わなくてはならない。法
廷内の軍国主義復活を阻止しなくてはならない。
1995年2月、日本軍が放棄した毒ガス200万発が発見された。75ミリ弾、90ミリ弾、105ミリ弾の化
学砲弾、毒ガス弾により、中国人民の死傷者が出ている。日本軍の侵略戦争の被害は南京戦から60年
たった今でもおこっているのである。日本国内で、このような毒ガスが発見されたら、日本人は喧々ご
うごうと騒ぎ立てるだろう。
過去を反省せず、現在の加害一も見て見ぬふりをし、いまだに軍国主義に毒されている職業軍人集団
偕行社同人と、まぼろし派が、「東史郎は、天皇の軍隊の名誉を傷つけた」と叫んで告訴した。中国を
侵略し、非人間的な行為を行ない、いまなお反省すらしていない者たちに、いかなる名誉があるという
のか?
この裁判の黒幕のー人、森英夫(16師団20連隊元中隊長)は「戦争は武力を使う政治の延長である。手
をこまねいていては、自分の生存にかかわる。武力を使わざるをえない」(京都新聞人権宣言集会にて)
と、私に抗議した。国際問題解決を外交交渉によってでなく、武力解決で行うことを主張する軍国主義
者である。また、「東史郎は、究極的にに戦争否定と、皇国史観の打破を目指している。そのために、
日本軍の真姿を抹殺せんとしている」と抗議した。日本軍の「真姿」とはなにであったか?「王道楽土建
設」、「東洋平和」と宣伝して軍を進め、東亜の盟主を狙い、アジア支配を目指した。それが日本軍の真
の姿であった。
また、「抗日住民だったら上司の命令が無くても、敵として戦う(殺す)のは当然だ」(「中日新聞」
1993年5月23日付)と公言している。武器をもたない住民は、武器をもつ日本兵士と戦いはしない。無抵抗
の中国人が殺されたのである。
このような思想をいまなお持った裁判の黒幕・森英夫元中隊長が、戦争中部下であった橋本光治をそその
かし、原告に仕立て上げ、私を被告に裁判にかけた。
私は、軍国主義者の不正不当なる告訴に断固として闘う。
歴史を曲げ、恥を知らぬ、国際感覚欠如の政治家たちの無知蒙昧発言、「民族解放戦争であった。」「南
京大虐殺は中国のでっち上げ」が続いている。放言する無反省な政治家たちに、裁判所や裁判官が迎合し、
不正不当な判決を下すなら、私は世界の世論に訴え、世界の審判を求める。
「過ちは則ち改めるにはばかることなかれ」、と孔子は教えた。
過ちを改めるために過去をを反省すべし。そのために私は裁判闘争を闘う。
老兵は消えず。老春に燃えて、正義のために闘う。
昨年(1996年)4月26日、東京地裁(江見裁判長)は、東史郎さんらに対して、名誉毀損の賠償として
50万円の支払いを命ずる判決を行いました。この裁判とは、南京大虐殺の事実を伝える東史郎さんの
従軍日記にもとづく東さんの著書「わが南京プラトーン」、この日記から多量の引用からなる下里正
樹著「隠された連隊史」、この日記を含む木坂順一郎編集の「南京事件京都師団関係資料集」(共に
青木書店)に猫かれたひとつの残虐行為の実行者である元兵士が原告となり、これらの行為を否定し、
記述は名誉毀損にあたるとして賠償を請求したものです。
東史郎さんは、1912年生(現在85歳)。元陸軍京都16師団福知山歩兵20連隊兵士。1937年、25歳の
時に召集で、20連隊第3中隊として南京攻略戦に従軍しました。戦病のため1939年に原隊とは別に内
地送還。帰国した後、前線で書き矯めた日記や陣中記録をもとに従軍日記を清書しました。1987年、
市民運動のもとめで体験を証言、日記を公開しました。南京戦から50年目の、1987年に「わが南京プ
ラトーン」として刊行されました。
証言をした後、賛意と共に100件近い非難、攻撃、嫌がらせが続きました。また、戦友会からも「除
名」されています。日記を公開し体験を証言する動機を東史郎さんは次のように語られています。
「私たちは自虐的に日本軍の不正、悪事、虐殺を暴露するために記者会見に望んだの
では断じてない。悪はだれが起こしたのか。責められるべきものはだれなのか。悪の原
動力を探求し、反省し、再び過ちなからんことを願ってこそ、日中友好の基ではないか…
と思い、記者会見をした」(朝日新聞 1987.8.4)
原告の元兵士は、東京地裁で東さんと半世紀ぶりに顔を合わせた時にも、ただなつかしそうだっ
ただけであり、自分の裁判であるにもかかわらず、法廷の中でも影が薄い存在です。ある意味では、
残虐行為に参加した多くの日本兵の典型であるにすぎないかもしれません。
彼は、南京大虐殺の「まぼろし化」を画策する旧将校グループや板倉らの歴史改ざん「評論家」
連中にかつがれて、この裁判に登場させられたかのようです。評論家・坂倉由明はこの訴訟のねらい
を次のように書いています。
「この訴訟は、一見橋本氏個人の名誉回復を目的としているようだが、それだけで
はない。これをひとつの突破口として、歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復
し、さらに、いわゆる「南京大虐殺」の虚構を明らかにできれば、日本国民全体の利
益とも合致する」( 「月曜評論」1993.5 17号)
公判の法廷には旧陸軍将校団体「偕行社」の関係者らが多数傍聴しています。また、原告代理人の
高池勝彦弁護士事務所が「南京事件の虚構をただす会」の事務所となっています。
彼らの手ロは、いつものとおり、膨大な南京大虐殺事件のごくー部の事実を曖昧化させることによ
って、事実の全部をまぼろしと化そうとする手法です。この裁判でも「郵便袋に中国人を入れて、ガ
ソリンをかけて、手榴弾をつけ、沼に落として殺した」部分に焦点が当てられました。
東京地裁判決では、彼らのこの手口にまんまとのせられて、判決で、「南京事件の歴史学上の論争
に判断を加えることを期待されている訳でも、これをよくするものでもなく」としながら、当該の事
件を「事実とは認められない」と判断してしまったのです。
彼らは、これまでも陣中日記を何ヵ所も改ざんして発表したり、今回の裁判でも、ねつ造の疑いの
濃いー兵士の「日記」なるものを書証として提出しています。裁判所が、「木を見て森を見ない」つ
まり、南京大虐殺事件の総体の中でこの郵便袋事件を見ていくということをせず、現在の「日常的常
識」で判断をくだし、東さんが日記を公開する経緯や動機を無視し、さらに彼らのこれまでの手口を
きちんと検討せず、非常に乱暴な判断をしたと言わざるをえません。
発行にあたり、東さんは、自分が証言して以降、さまざまな攻撃・嫌がらせにあった経験から、著
書の中では、この事件の実行者(原告)を仮名にするという、元「戦友」に対するこまやかな配慮をさ
れています。
「まぼろし派」を背景にする原告側は、東さんの著書に含まれる日本軍の捕虜集団虐殺などの否定し
ようのない事実を、「東日記は信用できない」と言いふらすことで闇に葬ろうとしています。
最近、今なお南京大虐殺を否定する言説があいかわらず繰り返されています。また、南京大虐殺の
絵画展開催に対して、右翼団体は、いやがらせや妨害など目立った行動をとり、昨年8月の枚方市主
催の南京大虐殺の絵画展が中止になるという事態が起こっています。このように、「まぼろし派」や
右翼団体の危機感とも言えるー大攻勢を許さないためにも、この東史郎さんの南京大虐殺裁判を支え
たいと思います。
私たちは、第二審にのぞむにあたり、関西で弁護団を結成し、ささやかながら支援体制を作ってき
ました。
控訴審の公判は、1996年9月26日に東京高裁で始まりました。下記のとおり、裁判闘争を続けて参
りました。
1996年12月 5日 第二回公判
1997年 2月 6日 第三回公判
4月22日 第四回公判
6月24日 第五回公判
7月24日 第六回公判
10月 2日 第七回公判
丹後半島の先端に在住の東さんは、公判ごとに東京まで2日をかけて出向いています。
この裁判の意味を理解していただき、闘争に勝利し、まぼろし派の陰謀を粉砕するためにみなさ
まのご協力をお願いいたします。裁判は、経済的な負担が大きいものです。どうか、裁判のサポー
ターになってくださいますようお願いいたします。
東史郎さんの南京裁判を支える会