1 :
名無し三等兵 :
05/01/01 14:55:11 ID:7wY+l151 生死のはざまで銃を手にする兵士たち。 その精神を支えるのは、愛国心か、故郷に住まう愛しき人の笑顔か? 戦地に赴いた父を、夫を、兄を思う家族の願いとは? 愛と友情、そして軍人としての誇りを胸に戦った兵士たちの、 涙無くしては語れない、いい話を教えてください。
2
2!!
4 :
名無し三等兵 :05/01/01 14:57:00 ID:IiPLTn6R
2?
5 :
名無し三等兵 :05/01/01 15:04:16 ID:5EtciK4/
ボケ不成立…
2
>軍人としての誇りを胸に戦った兵士たち 赤紙で徴兵された人は軍人としての誇りなんか持ってなかったと思いますよ。
8 :
1 :05/01/01 15:49:51 ID:7wY+l151
9 :
名無し三等兵 :05/01/01 18:25:00 ID:VSP+ybdJ
「31師団の佐藤の野郎は、食うものが無い、撃つ弾が無い、これでは戦争ができないと 言うような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは食わず、飲まず 弾が無くても戦うもんだ。それが皇軍だ。それを泣き事言ってくるとは何事だ。 弾が無くなったら、手で殴れ、手が無くなったら足で蹴れ、足が無くなったら歯で噛み付いていけ。」 BY牟田口廉也 こんな奴が、司令官だった。 どうだ泣きたくなっただろう?
ブラザーフッドなける話だよ。
呉の旧海士学校の建物に至る桜並木には時々、港の方から大勢の兵士が行軍する足音が聞こえるそうだ。 足音を聞くたびに自衛隊の隊員達は英霊がついに日本に帰国したと噂し合うとよ これは文芸春秋の文庫「現代の民話」に記載された話ですけどね
小官が候補生だった当時、江田島に下宿を取っていなかったので、 よく日曜日の夜は一人で赤レンガの裏の居住区に寝ていた。 すると回りが急に明るくなり、大勢の人が入って来る気配がして 目を開けると真っ暗闇ということが、二、三度あった。 江田島の英霊方は今でも我々を見守ってくれているのだ。 そう思わない?
14 :
名無し三等兵 :05/01/05 03:31:16 ID:FEFNN1Qr
>>13 いきなり涙ぐみました。
他にも逸話があればお願いします。
酔っ払っているせいかも試練が・・・
15 :
名無し三等兵 :05/01/05 03:44:39 ID:W0pqOg9c
前もあったが 先帝逝去の際に現れた防大の手袋万歳に通じる所があるな
16 :
名無し三等兵 :05/01/06 03:01:35 ID:YKthjj3q
17 :
名無し三等兵 :05/01/06 04:07:06 ID:xYGVGnaE
多分オカ板かJ隊板にあったんだが 昭和天皇が崩御された日、講堂から万歳三唱が響いた。 学生が驚き講堂を覗くと無数の白手袋だけが万歳三唱をしていたとか言う話
18 :
名無し三等兵 :05/01/06 04:16:49 ID:YKthjj3q
どっかの基地に飾られてるマストの上で今でも手旗信号を送り続ける幽霊っていなかったっけ。
20 :
名無し三等兵 :05/01/06 04:23:01 ID:v/CN1X1O
なんで防大に旧軍の幽霊がでるんだ? 防衛大はなにかの跡地だったっけ??
横田めぐみさんの遺骨が偽者だったことが明らかになった直後、北朝鮮の爺が戦時中に軍属として南方に赴き戦死した父親の遺骨を取りに来日したことをニュースが特集まで組んでやっていたな。 内容的には、本来は涙を流すはずなのに正直言って呆れ返った。 わざわざ母親の墓前で父の遺骨を持ち帰ることを爺が報告した後で、遺骨が納められているお寺に行って取りに来たのだけどよ。 読経のシーンの直後に爺が怒鳴り飛ばすシーンがあった。 遺骨には骨が入ってないと怒っていたのだよ。 爺の父親の遺骨が無いことが後でわかったと報道していたが、そんなことは最初から分かりきったことだろうに あの時代は輸送もままならず。戦死者の遺体を収容できなかったことは珍しくなかった。 それでもせめてこれだけはと遺骨代わりに現地の石ころやら位牌やらを骨壷に収めているのが、日本の誠意まで踏みにじられたってのが正直な感想だったよ。 馬鹿を見たのは迎え入れたお寺の方だよね どう見ても、偽遺骨問題で高まった日本世論を沈静化するための工作のダシに使われたのだから。 それをノウノウと報道するメディアもメディア。 ついでに言えば、爺の支援団体は朝鮮総連の下部組織だというオマケまでついていた。 本来は泣ける話が呆れる話となってしまったよ
>>20 自衛隊の基地や施設は、旧軍の基地や跡地をそのまま使っている場合が多い。
防衛大も旧陸士学校あたりの跡地でないの?
>>21 逆に陛下が英霊のもとに遷座されたの故の万歳と理解したが…
君、朝鮮人?
21ではないが俺も初め、「え?陛下の崩御で万歳なんて非国民じゃん、何故感動的?」 と思ったよ。 まあでも「(天皇陛下)万歳」の定義は今はなんか曲がってる気がするが 読んで字の如く「(天皇陛下よ)永遠なれ」ってことだからまあ別に目出度い時 ばかりに使う訳でもないと思い感動した。
>>25 英霊となられた方々も慶事ではないので、
控えめに自身の根幹たる場所で陛下をお迎えしたのかも・・・
いかん、涙が止まらん・・・
27 :
名無し三等兵 :05/01/06 06:15:24 ID:YKthjj3q
エエ話や・・・・・(AA略 上げとくか。
泣ける話って霊の話しかないの?
29 :
名無し三等兵 :05/01/06 06:26:21 ID:xYGVGnaE
戦争や戦場だからどうしてもそっち系の話になるだろう
ゲリラが部落を襲撃し父親に自分の娘と妻のどっちがレイプされるか決めさせる。 拒否すると皆殺し、泣けるだろう?
いや全然。
ああまたかって
>>30 に対して思うだけ。
よき父であり夫でありたい自分としては 自分のケツを差し出します
ウホッ!
スレの主旨とは違った意味で泣けてきた 禿鬱
36 :
名無し三等兵 :05/01/09 06:42:39 ID:zWnkVEsa
次の説話キボン。
37 :
名無し三等兵 :05/01/09 07:28:39 ID:cSCXTsYT
>>23 陸士は違うとおもわれ・・
跡地でもなんでもなく、なにもない場所にたてたような気が・・
38 :
携帯からだが長文ネタ :05/01/09 09:50:00 ID:4qSY4suy
発沖縄方面根拠地司令太田実 宛海軍次官井上成美 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信力なく第三二軍司令部又通信の余力なしと認めらるに付 本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず、之に代わって緊急御通知申上ぐ。 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧るに暇なかりき。 然れども本職の知れる範囲において、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老婦女子のみが 相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅に身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難 尚砲爆撃下●●●(3字不明)風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。兩も若き婦人は率先軍に身を捧げ 看護婦炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。 所詮、敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとして、親子生別れ、娘を軍門に捨てる親あり。 看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し、身寄無き重傷者助けて●●(2字不明)真面目にして一時の感情に馳せられるもとは思はれず。 更に軍において作戦の大転換あるや、自給自足夜の中に遥に遠隔地方の住民地区を指定せられ、 輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。 之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて 御奉公の●●(2字不明)を胸に抱きつつ遂に●●●(受信不能)ことなくして 本戦闘の末期と沖縄島実情形●●●(受信不能)一木一草焦土と化せん。 糧食六月一杯を支ふるのみなりと請ふ。 沖縄県民かく(字が出ず)戦いへり。 県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを
40 :
名無し三等兵 :05/01/10 02:12:52 ID:fW9Uf6r2
上げます。
「大空のサムライ」の中の逸話だが・・・ いつか自分の乗機で宙返りするんだって言い張る一式陸攻の操縦士がいて でも激戦のラエだしワンショットライターの悲しさ、ある日その人の機は 撃墜されるんだけど、火だるまになって降下する間に機首をあげて見事 宙返りをする。そのあとしばらくして爆発・・・。 その操縦士の芸人魂、もとい搭乗員魂に強く心を揺さぶられたものだよ。
42 :
名無し三等兵 :05/01/10 03:02:33 ID:274l1czQ
海上での戦没者慰霊祭の様子 皆さん、現地へ向かう途上ではわりとなごやかなんです が、いよいよその海域に到着して慰霊祭に臨むと様子が一 変します。故人の名を泣き叫ぶ方。故人からの最後の手紙 をそっと開き、涙される方。ファィンダーが涙で曇って見 えなかったことが幾度あったことでしょう。 レイテ海戦に参加した戦艦「扶桑」乗員のある遺族は、 海面をじっと見つめ、「兄貴、来たぞ!」と叫んだ瞬間、 ぽろぽろ涙が海上にこぼれ落ちました。「兄貴、一緒に帰 ろうな」と、レイテ島の石を拾い、それを兄と思って持っ て帰るというんですね。 慰霊祭の後、甲板の縁に駈け寄って「親父」と叫んで海 に飛び込んだ男性もいました。お父さんの顔も知らずに育 った遺児の方でした。真下にお父さんが眠っている。「こ れで俺も親父と一緒になれた」と。 そういう思いが喉まで出かかって戦後を生きて来た人が たくさんいる。そして報道などで私のことを知って「ア ッ」と思うわけです。故人終焉の地に行って慰霊したいと いう長年の悲願を叶えたいと、ワラをもつかむ思いで私に 連絡して来られるのです。[2]
43 :
名無し三等兵 :05/01/10 03:12:15 ID:LhQebNgP
↑誰の話?
44 :
名無し三等兵 :05/01/10 03:15:18 ID:274l1czQ
そうえいば十年ほど前にガダルカダルで遺骨収集を行ったテレビ局が、名前入りのカバンを見つけてさ そこに書かれた名前から持ち主を割り出して遺族に届けたところ。 持ち主の妹とかが泣いていたな
46 :
名無し三等兵 :05/01/10 04:03:02 ID:LhQebNgP
ゝゝ44、トンクス ゝゝ45、同じような感じでベトナム戦争の 遺骨を家族に届けるのをCBSでやってた
マレー沖海戦で沈没したPウェールズの上に花を投げた日本海軍、潜水艦の魚雷によって沈んだ金剛に花を投げたロイヤル・ネイビー
オレの爺ちゃん、水兵だったんだけど。 甲板掃除中、士官共がデッキゴルフに興じていて、パックが爺ちゃんの足の小指を直撃! 「ありゃぁ不意打ちだったからナァ。バッタより痛かった」 だそうです。
>>47 POWは知ってたが混合は初耳だ。英製だからか?
散々戦時中の事を自慢してた爺さんが 実は厚木飛行場の偵察機の無線手で 一回も戦争に行かずに内地で終戦を迎えて居た事。 しかも、軍需物資の横流しを発見されて不名誉除隊に成っていた事実('A`) 俺的には泣けた。
うちの祖母が小学生の頃、空襲中にもかかわらず川で水遊びをしていた時に突然米軍機が襲来 機銃掃射してきた。皆、藪の中に逃げ込んだが祖母は土手に立ち、何を思ったか竹竿に布を縛って旗にして振り回した。 すると、米軍機は何故か去っていった。なぜ、そうしたのか?と聞くと 「得体の知れないものに恐怖しない人間はいないでしょ?」 俺はめちゃくちゃ感動した。・・・俺だけかもしれないけど。
ばあちゃんは俺の母親を腹の中に入れたまま、大阪大空襲を生き延びたんだそうだ ばあちゃんが焼かれてたら、俺も母もいなかったんだなぁ… なにげに言ってたんだけど、やっぱり感謝だな〜長生きしてくれよばあちゃん
54 :
名無し三等兵 :05/01/12 17:07:07 ID:9LAtXrne
石原閣下が少年時代 下校途中にグラマンの掃射をうけた。 友人と走るがそこは空き地で隠れる場所がない「もはやこれまでか」と覚悟を決めた瞬間 掃射が止んだ 恐る恐る顔を上げるとグラマンを友軍機が追撃していた その時の見た 翼の日の丸の美しさ、頼もしさは今でも忘れないと言う。
>>54 都知事の体験談か。
ウガンダの大虐殺で虐殺対象になっていたツチ族の女性が近所に住むフツ族の
夫婦に「この子だけは助けやってください!」と子供を預けたそうだ。
で結局はその子はフツ族の夫婦に殺されたそうだ。
泣ける話だろ?
56 :
名無し三等兵 :05/01/12 17:53:33 ID:9LAtXrne
おめぇさんの感性に目頭が熱くなるよ
そんなに褒めるなよ、照れるじゃないか。
59 :
名無し三等兵 :05/01/15 06:07:40 ID:GIaWd/m9
期待上げ
60 :
名無し三等兵 :05/01/15 09:58:00 ID:cHZyfH2W
開戦直前、南方作戦支援の為に仏印沖を航行していた第8駆逐隊の「大潮」が戦艦「榛名」から給油をうけた 艦間に連絡用のロープが貼られ、文書と重そうな箱が大潮に届いた。 中に水谷水雷長宛の「出陣祝い」とした日本酒が入っていた 榛名に乗艦していた、かつての部下からの贈りものだった、水谷は感激し、手旗信号で返礼した。 しかし作戦行動中のこの行動に艦隊司令(阿部俊雄大佐)はカンカン、水谷は青くなった。 しょげた水谷を作業後に吉川艦長がそっと呼んで、こう言った 「かつての部下から酒を届けられたというのはいいことだ。 上下の気持ちが通じてる証拠だよ、これが戦力の根源なんだ その気持ちを大事にしっかり祝いたまえ」
先日、大伯父の葬儀に参列しました。 静かに流れる読経を聞きながら、大伯父がただ一度だけ戦争中の話をしてくれた ことを思い出していました。 医師だった大伯父は軍医として従軍し、フィリピンで米軍の反攻にあいました。 配属されていた野戦病院が米軍に包囲されそうになり、司令部からの命令で 山を越えて反対側の海岸に脱出することになったそうです。 定められた期日までに目的地に到着しなければならない強行軍です。 自力で歩けない重傷患者は残し、歩ける患者と看護兵だけをつれて山越えを始めた のですが、行けども行けども山また山の山岳地帯で、補給もなく、持参した食料は すぐに底をつきました。水一つ汲むにもはるか眼下の谷底まで降りて谷川の水を汲み、 また登らねばならないという困難な道で、すぐに患者から落伍者が出はじめ、遂には 看護兵までが体力のない者から落伍し始めました。 患者は行軍の途中で倒れる者が多く、看護兵の場合は小休止が終わって出発する ときに立てなくなるものが多かったそうです。
62 :
61 :05/01/15 10:51:48 ID:???
(つづき) はじめのうちは看護兵や仲間の患者たちが助け起こして一緒に歩いたそうですが、 なにしろ何日も食べていないのですから、皆体力がありません。そのうち、助けようと した者も体力を使い果たして動けなくなることが続くようになり、遂に、倒れた者に手を 貸すことを禁じる命令が出されたそうです。 大伯父も飢餓と疲労でフラフラになり、自分もいつまでもつかわからないと思ったそうですが、 それでも将校待遇の軍医ですから、お付きの従兵に荷物を持ってもらうことができ、何とか 落伍せずに付いていく事ができました。それで大伯父は、「もう軍医と言っても名ばかりで、 患者を助けることもできないけれど、この従兵だけは何とかして国に帰してやりたい」と 思ったそうです。 ある日、小休止が終わって出発の号令がかかり、大伯父がやっとの思いで立ち上がった ところ、いつもは先に立ち上がっている従兵が座ったままでいます。どうしたと声をかけても、 従兵はうつむいたまま返事をしません。疲労困憊して、行軍を続ける気力を失ったのです。 それに気付いた大伯父は、従兵に近寄ると、ふらつく足を振り上げて従兵の顔を蹴りました。 重い軍靴で顔を蹴られて倒れた従兵がキッとした顔で見上げると、大伯父は、 「貴様、親でもなければ兄でもない者に顔を蹴られて悔しくないか!悔しかったら立ってみろ!」 と精一杯の大声を張り上げて罵りました。 従兵が立ち上がったので、大伯父は本当にうれしかったそうです。 その後、大伯父も従兵の方も苦しい行軍を乗り切って無事に目的地に到着しましたが、 すでにそこにも米軍が来ていたため、結局、野戦病院の生き残り全員が捕虜になり、終戦後 に日本に復員しました。 大伯父とその従兵だった方とは、その方が亡くなるまでずっと親交があったそうです。 おじさん。従兵さんと、また会えてよかったね。
いつだったか、TVで海外のドキュメンタリーをやってた。 テーマはチェチェン紛争。ロシア軍側の映像だけじゃなく、チェチェン側 の映像も沢山出てたんだけどさ。 あるシーンで、チェチェン人が道端に固まって何やら話し込んでた。で、 彼等が言うには、近隣の村にすむ女性が行方不明になってるんだけど、 どうもロシア軍に射殺されて埋められてしまったらしい。その場には、女 性の弟だという、12,3歳位の少年も居た。 大体ここら辺に埋められたんじゃないか、って所を掘り進んでいったら、 そのうち土の中から人間の手や足がニョキニョキ出てきた。 しばらくして顔を確認した男の子が「お姉ちゃんだ」と言って泣き出した。 丁度その時、道をロシア軍の装甲車だか何かが通過して、チェチェン人 に「お前等が殺したんだ、このロクでなし!」とかボロクソ言われていた。 これも、戦時中の話って事で。
64 :
名無し三等兵 :05/01/15 14:31:42 ID:cHZyfH2W
まだ、航空機の技術が未発達の時代 空母「赤城」で着艦訓練を行っていた。 訓練中、1機が着艦のタイミングを誤り飛行甲板を滑って逝く その時、一人の士官が飛び出し、機体に飛び付いた。 この行動に周りの人間も機体に走り寄り、機体はなんとか止まった。 副長の山口多聞は驚いた、最初に飛び出しのは艦長の山本五十六だったからだ。
ある村で少女が言った。 「大変、みんな寝たままなの。」 確かに周囲の民家を調べてみると、村人全員まだ昼間だというのに寝ていた。 老若男女村人全員が寝ているのだ。不思議に思った私は少女に尋ねた。 「何でお嬢ちゃんは起きているの?」 少女は答えた 「だって私の髪は長いもの」 私はしばらく考えた、なるほど、そういうことだったのか。
私の知り合いの爺さんは許婚を残して特攻隊に行って生きて返らない予定だったが 出撃十日前、それこそ遺書も用意していた時に終戦を迎え、生き残ったそうだ。 故郷に戻った時は許婚と密かに抱き合って喜んだとさ なかなか泣けるだろ? その爺さんと元許婚の婆さんの顔を思い浮かべれば失礼ながらロマンが消えうせるが
>61 感動した! >66 最後一行ワロタ!
テレビで放送された実話だが、取り壊しが決まった小学校校舎の中にある古いピアノ そのピアノは終戦間際に特攻隊員が、「明日、出撃するから死ぬ前にピアノを弾きたい」と言って遠くからわざわざ来て弾いた逸話があるそうだ。 当時、小学校の教師をしていた女性が、そんな話があるピアノだから残して欲しいと署名運動までしたとさ。 結局、その話は新聞にまで取り上げられピアノは残すことになったのだが、新聞に取り上げられたことで予想も出来ないことが起こった。 出撃予定だった特攻隊員が、「それは私です」と名乗り出てきたのだよ。 明日、出撃の予定だったが、乗るはずのゼロ戦が足りなくなったもので出撃は中止 そのまま終戦を迎えたもので、生き残ったのだって、彼は数十年ぶりにそのピアノを弾いて昔を懐かしんだそうだ
以前、海軍の主計兵だった人が書いた本に載ってた話。 戦争も末期の頃、件の主計兵さんは某飛行基地に勤務し、お婆さんと 年頃の孫娘が住む、近くの民家に下宿していた。 ある日の夜の事。下宿に若い飛行兵が訪ねてきた。丁度その時、お婆 さんも孫娘も不在だったので主計兵が対応に出たんだけど、飛行兵は 落ち着かない様子で家の奥を覗いている。 その飛行兵、最初はモジモジしてたんだけど、意を決したのか「○○さ ん(下宿の孫娘)はご在宅ですか?」と聞いてきた。 孫娘は不在だと伝えると凄く落ち込んだ様子で、やっぱり暫くモジモジし た後、突然「実は、今度行くことになりました」と言ってきた。 何処かへ転属にでもなるのかなぁ、程度に考えた主計兵は、「しっかり やれよ」と励ましてやったそうなんだけど、後日知ったところによれば、 その飛行兵は特攻隊員で、日頃密かに想いを寄せていた孫娘に対し、 最後の最後に自分の気持ちを伝えに来たらしい事が分かった。 結局、彼はその想いを秘めたまま、空に散華した。
70 :
名無し三等兵 :05/01/15 18:35:47 ID:cHZyfH2W
蛍の話を思い出したよ
71 :
名無し三等兵 :05/01/15 19:05:31 ID:VTLBu3Tl
73 :
名無し三等兵 :05/01/15 20:08:26 ID:hk16RM4q
私の祖父はもう亡くなりましたが、横須賀で高射砲を撃ってました。敵機に 何度も攻撃されて多くの戦友を失ったそうです、また高射砲に弾薬を詰めるの は背骨が折れる位大変だったそうです。なかには足に砲弾落として骨折してし まう人もいたとか。そんななか祖父は終戦近くという事もあり食料が不足して 腹が減って減って食料を銀蠅してしまったそうです、捕まって上官の前に連れて 行かれた時、しこたま殴られると覚悟したそうですが上官は祖父の顔をじっと 見た後涙ぐみ「○○、そんなに腹へってるのか。」と言って自分に配給された 菓子をくれたそうです。祖父はあんな甘い菓子はもう食えないだろうと生前語って ました。
74 :
名無し三等兵 :05/01/15 20:22:56 ID:/IWLZH5X
シベリアで強制労働につかされていた人の話。収容所に老人が警備兵に小突かれながら ふかしたジャガイモをバケツ一杯に差し入れてくれたそうだ。 その老人は日露戦争の時の捕虜で、「あの時日本人に親切にしてもらったから、礼が したくて」と言ったそうだ。
75 :
名無し三等兵 :05/01/15 20:36:44 ID:Np+Rv9Y1
ドイツネタまーだー?
77 :
名無し三等兵 :05/01/15 20:41:09 ID:fy5TJBD8
78 :
名無し三等兵 :05/01/15 21:41:50 ID:arizCw1K
65のオチがわからん 誰かおしえて
>75 泣ける話とはちょっと違うが、第一次大戦中にドイツ軍とイギリス軍 が「クリスマス休戦」して、お互いの塹壕を訪問し合ったばかりか、 誰かが「サッカーしようぜ!」と言って本当にやってしまった話ならあ るよ。 その時の写真には、ドイツ・イギリス両軍の将校が笑って写ってるも のもある。 サッカーボールが鉄条網に突き刺さってしまい、試合の決着は付か なかったそうだけど。 ただ、この出来事を聞いた司令官がカンカンになって怒り、次の年の クリスマスからは、逆に砲撃頻度を上げたらしい。
80 :
名無し三等兵 :05/01/16 01:43:28 ID:uIw/siHD
旅順陥落後 両国軍首脳の会見に各国の記者が群がった。 カメラマンが写真を撮ろうと駆け寄ると乃木はそれを制した。 「今、写真を撮ればステッセル将軍は敗軍の将として 報道され名誉に関わる会見後で和解した友人としてなら撮ってもいい」 更に降伏したステッセルに帯刀を許した ステッセルは後にこう語る 「乃木将軍は鬼のような人間だと思っていたが これほどの人間に敗れたなら恥ではない」
81 :
名無し三等兵 :05/01/16 01:48:56 ID:qSIRy8c+
じいちゃんビルマ帰り 所属してた中隊全滅で戦友ことごとく全員戦死 たった一人で帰国
82 :
名無し三等兵 :05/01/16 01:49:50 ID:/pA73yne
>>79 昔っから独英は仲良い(?)って程じゃないけど
なんか独特の雰囲気があるな
アフリカ戦線でも似たようなエピソードがあったし
好敵手っていう意識がお互いにあるのかもね。
>>77 .78
私の髪は長い=私以外は髪が短い=私以外はショート
私以外はショートショートしょーとしょうとしょうとしょうとう…
私以外は消灯=みんなは寝ちゃったけど私はまだ起きてる。
「大変、みんな寝たままなの。」 じゃなくて、「大変、みんな寝ちゃったままなの。」 のほうがオチに繋がりやすいと思うんだけどなぁ
86 :
79 :05/01/16 03:48:57 ID:???
>83 確か、イギリス王家って遡るとドイツ人も居るみたいだしね。 WW1中、ヨーロッパ戦線では偵察機同士がすれ違うと、敬礼を交わしたって ね。大量殺戮兵器が出てきても、まだ人間的な部分があったんだね。 そういや、日露戦争で旅順要塞を攻撃した時も、日露両軍では定期的に休戦 して味方の遺体回収するついでに、食料やタバコの物々交換もしてたらしい。 更に進んだ奴になると、お互いに酒を酌み交わして「旅順要塞を絶対落として 見せますぞ」「いやいや、ここは絶対落ちません」ってな会話もしてた。 これだけだと何なので。 俺の爺さんはインパール作戦に従軍した。結果は知られる通り。戦闘の他、飢 餓や病気で何人も戦友が死んでいった。俺の爺さんも、例に漏れず何度も死 にそうな目に遭った。 ある日の事。爺さんはとうとう、動けなくなってしまった。気力で体を動かそうとす るんだけど、鉛のように重い体は言うことを聞かない。 「俺もいよいよ最期か…」そう思ってると、何やら声を掛けてくる人が居る。が、声 の主を見てビックリした。 爺さんに声を掛けたのは、日頃から目を掛けて貰っていた上官だったんだけど、 彼はとうの昔に戦死してる筈。なのに、目の前で笑ってる。 「おい、どうした○○!だらしないぞ!」「もう少しだ、頑張れ!」 こんな事を爺さんに言ったそうだ。 ともかく爺さんは歩き続け、降伏して捕虜になりながらも何とか生きて帰った。 最初、自分は幻覚を見たんだと思ってたんだけど、実は他の戦友達も上官を 見てて、やっぱり辛い時に現れて叱咤激励したらしい。 「せめて部下達だけでも日本に」。きっとそう思って現れたんじゃないかと思う。 俺はこの話を聞いて以来、幽霊の存在を信じるようになった。
87 :
61 :05/01/16 09:05:52 ID:???
>>79 >>83 に補足。
現在の英王室は、1714年にドイツのハノーバー公国から迎えたジョージ1世を初代とする
ドイツ系の王朝です。かのビクトリア女王の御世までは「ハノーバー家」と名乗り、女王が
ドイツのゴータ家から婿君アルバート公を迎えてからは「サックス・コーブルグ・ゴータ家」
と名乗りましたが、第一次世界大戦が勃発したときに居城の名をとって「ウィンザー家」と
改名しました。敵国の貴族の名ではマズイですものね。
88 :
名無し三等兵 :05/01/16 10:37:21 ID:RWH63RAO
>>87 世界史やってた人なら常識ですよね。ちなみにビクトリア女王の甥はドイツ皇帝ウィルヘルム2世ですしね。
89 :
61 :05/01/16 11:03:50 ID:???
>>88 そうでしたね。第一次世界大戦ごろの各国の王家は、婚姻により互いに縁戚関係があり、
あたかも親族同士の権力争いのように見える面もありますね。もちろん錯覚ですが。
90 :
1/2 :05/01/16 17:57:08 ID:???
>75俺が以前聞いた話で良ければ。 この話をしてくれた人は、日本語の達者なドイツ人留学生。 戦争末期、ドイツも日本同様に連日爆撃されていた。 そんな中、ある防空部隊に若いパイロットが配属されてきた。若くて美男子、そ の上パイロットである彼は、大層モテてたらしい。が、本人はそれを鼻に掛ける 事は一切せず、1人の女性だけを愛していた。 その女性と彼は普段から手紙を交換したり、会ったりしてたらしい。周囲もそれ に気付いてて冷やかしたりしてたものの、若いカップルを暖かく見守っていた。 彼は普段からこう言ってた。「敵は絶対侵入させない。僕の名誉に掛けて、彼女 と彼女が住む街を守ってみせる」。 しかし、彼の意思とは裏腹に激しくなる爆撃。そしてとうとうある日、敵の大編隊 がやって来た。即座に反撃する防空隊。でも、敵の数が多過ぎた。護衛戦闘機 にガッチリ守られた爆撃機は悠々と飛んでいく。
91 :
2/2 :05/01/16 17:58:06 ID:???
ところが、そんな中を勇敢に突っ込んでいくドイツ機がいた。執拗に食い下がる 護衛戦闘機をものともせず、一機の爆撃機に狙いを定めるとありったけの機銃 弾を撃ち込んだ。エンジンから火を噴き、グラリと巨体を傾ける爆撃機。 誰もが「やった!」と思った次の瞬間、ドイツ機自身も護衛戦闘機の集中攻撃を 受けて撃墜されてしまった。パイロットは脱出できなかった。 そして結局、防空隊の奮戦及ばず街は爆撃を受けてしまい、多くの家屋や工場 が破壊された。 この、撃墜されたドイツ機に乗っていたのは、前出の若いパイロットだった。 けれど、彼女の方は何とか爆撃をかいくぐって生き延びていた。女性は戦後も長 らく生きてたそうだけど、最後の最後まで結婚しなかったらしい。 この話をしてくれた留学生は最後に、「大叔母は結婚しなかったけど、誰にも負け ない位、幸せな人だったと思うよ。だって、少なくとも1人の男性に命がけで守って 貰えたんだし」と言ってた。
92 :
ケン :05/01/16 18:28:11 ID:q5/quhWh
亡くなった父の親友の話ですが。。 いわゆる学徒出陣で召集がかかり、終戦まじかは鹿屋基地に配属で特攻隊に居たそうです。 予科錬からの苦楽を共にした仲間たちが、毎日のように沖縄への出撃で散っていく中、不幸にも結核になり、終戦前は1ヶ月ほど鹿屋の海軍病院に入院していました。 次々に届く、仲間たちの出撃の知らせ。。 たまりかねて担当の軍医にピストルの銃口を突きつけたそうです。 「僕の部隊復帰を認めてください!」 軍医は冷静に、「いいか、一週間だけ我慢しろ。。。俺の言った意味が分かるときが必ず来る。。」 それから数日後に、無条件降伏の玉音放送が昼に流れたそうです。
「本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。 それは人間の徳性を良い方向に導かないし、高めもしない。 かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。 また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。 もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じないほうがいい。 もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中から ちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、 君は昔からあいも変わらず繰り返されている酷い大嘘の犠牲者になっているのである」 ――『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文春文庫)
泣ける話ではないが、 WW2の北アフリカ戦線にはある種のルールがあり、 地雷原をゆっくりと注意して抜けている歩兵は絶対に撃たない事や、 死体回収などにはお互いに積極的に協力する、 捕虜の扱いは丁寧にする等で、 誰かが決めたわけではないのに全員がこれらを必ず守っていたそうです。
>>92 なぜ、その軍医は数日後に戦争が終わることを知っていたのでしょうか?
>95 単に「完治まで1週間だけ待て」と言い聞かせただけだったのではないかと。
>>95 記憶モードだが、株屋が株の動きから察知したとかという話を聞いたことがある。
(それしか覚えていないが・・・)
上層部から漏れてくる噂などあったのかも知れないな
一部の部隊では、8月13日頃には、ポツダム宣言受諾の情報は流れていたとか。
99 :
名無し三等兵 :05/01/16 22:57:16 ID:zeG++FbO
軍医は指揮官からの命令でなく軍医官の別の命令、指令系統で動くので その辺、医薬関係の通達にからんで情報が早いのかもしらん。 フィリッピンやペリリューなどでは、戦争末期に全滅寸前のとこで軍医が部隊の 将兵を説得して、集団投降させていた例も多い。
100 :
名無し三等兵 :05/01/16 23:34:53 ID:ZFiufnJc
自分の知り合いのおじさん(鬼籍)は群馬の相馬が原で通信兵をしていました。 終戦直前の八月、暗号を受信したが、どうも佐官クラスの人宛のやつだったらしく、解読していいのか悪いのか困っていたそうです。 すると上官が「解け。」 おじさんは言われた通り解読しました。その内容は、「広島に新型爆弾が投下され、広島は壊滅・・・」 おじさんはその時「ああ、日本はもう負けた」と思ったそうです。 つまんない話でスマソ。
101 :
名無し三等兵 :05/01/17 04:55:35 ID:urybtoJw
ゝゝ97 莫大な情報を以下に解析するかなんだよね 湾岸戦争の時にCNNのペンタゴン番記者はペンタゴン周辺のピザ屋に デリバリー注文が多い事で開戦時期を正確に予測したらしく、それであの映像(バクダット上空の戦闘)が撮れたみたいね。
102 :
↑ :05/01/17 09:07:56 ID:???
掘参謀みたいな香具師だな。
>101 それを察知されない為に、大型のカフェテリアを導入したペンタゴン 信じられないがほんとうだ ・・・マクドナルドの陰謀か?(笑
カフェテリアの資材搬入でバレるような希ガス。
105 :
名無し三等兵 :05/01/17 23:37:50 ID:urybtoJw
サブウェイが入ってたような気がする
106 :
名無し三等兵 :05/01/17 23:44:17 ID:Dm/tVQH/
スターバックスも入っているのか?
107 :
名無し三等兵 :05/01/18 00:14:21 ID:NOuoVHpW
昭和19年8月4日、父島から横須賀へ向け輸送船5隻の船団 (4804船団)は護衛の駆逐艦松及び海防艦3、駆潜艇1隻と共 に横須賀を目指して出港した。 出港直後の午前10時過ぎに早くも米機動部隊の空襲を受けた。 数次にわたる空襲で午後4時頃までに昌元丸、延寿丸、竜江丸 、第7雲海丸が撃沈。日が暮れて艦載機の攻撃は去った。しかし さらに米13巡洋艦隊の巡洋艦・駆逐艦計7隻が追撃。激しい砲雷 撃を受けて、船団は壊滅状態に。海防艦12号はいつしか艦隊から はぐれ、残ったのは護衛艦隊旗艦の松と海防艦4号と利根川丸の み。足の遅い利根川丸を逃がすため、海防艦4号へ”輸送艦を守り 横須賀へ帰投せよ”と発光信号を送り、90度回頭し単艦で米巡洋艦 隊に突入していった。 遠くに激しく明滅する砲火が見えた。それが駆逐艦松の最後だった。
108 :
名無し三等兵 :05/01/18 00:19:06 ID:f+cwUkCu
東京に空襲に来た米軍の爆撃機が日本軍機によって迎撃されて、その時なんとかパラシュートで脱出した 米兵は日本軍機が近づいてきたので殺されると思ったが日本人パイロットはその米兵に敬礼をして 飛び去ったそうだ。 数十年後、二人は再会したんだって。前にテレビでやってた。
109 :
108 :05/01/18 00:21:32 ID:f+cwUkCu
戦後の「栗田艦隊の反転」に対する批評は、栗田中将の誤判断、勝負度胸の欠如などを 責めるものが大勢を占めている。 しかし栗田中将自身は一切の弁明を好まなかった。 昭和41年、栗田は小澤中将を死の数日前に見舞っている。小澤は目に涙をうかべて やせ細った手をさしのべ、無言のまま栗田の手を握って離さなかったという。ともに戦っ た二人の男の胸中に去来したものは何であったろうか。 昭和52年、栗田は古武士のごとく生涯を閉じた。
負け組みの将同士、お互い通じるものがあったのだろう。
敗軍の将、兵を語らず。
114 :
名無し三等兵 :05/01/19 04:52:38 ID:uvvMFxGp
一応、防衛庁の戦史編纂には協力したらしい
1941年12月28日午後0時30分 ジェーニャが死んだ 1942年1月25日午後3時 おばあちゃんが死んだ 1942年3月17日午前5時 リョーカが死んだ 1942年4月13日午前2時 バーシャおじさんが死んだ 1942年5月10日午後4時 リョーシャおじさん 1942年5月13日午前7時30分 ― ママ サビチェフ一家は死んだ みんな死んだ 残ったのはターニャひとり ドイツ軍包囲下のレニングラードで11歳の少女、ターニャが残した日記。 彼女自身もまもなく赤痢で死亡した。 900日にも及ぶ包囲で、レニングラードは240万の市民のうち 100万〜150万にも死者を出したと言われている。
くそ!ターニャタンだけでも助けたかった
117 :
名無し三等兵 :05/01/19 09:43:01 ID:hd7XdsAV
>>107 松について、米軍の資料のこってないのかなあ。
よき牧羊犬は羊が眠ったあとで眠りにつく。HMSユリシーズみたいな話だね。
121 :
115 :05/01/19 12:47:11 ID:???
>>119 レニングラードは当時、ドイツ軍及びフィンランド軍の重包囲下にあったから。
ラドガ湖経由で物資の補給と住民の疎開が細々と行われてはいたが、
ドイツ空軍、砲兵による妨害と船舶の不足によって遅々としてはかどらなかった。
さらに、1941年初冬になるとラドガ湖が凍り始め、流氷が漂う船舶にとって
極めて危険な状態になり、船舶補給も途絶しがちになり、さらに封鎖線外側で
もっともラドガ湖に近い駅があるチフヴィンがドイツ軍の手に落ちたことにより
レニングラードに対する補給は完全に途絶し、また同時に民間人たちの
脱出路も完全に閉ざされた。
この、900日に及ぶ包囲の中でももっとも辛い時期だった1941年から
1942年の冬にかけて、レニングラード市民は餓え、寒さ、疫病、砲撃、
爆撃などで一日平均1万人の死者を出していた。
122 :
115 :05/01/19 12:59:18 ID:???
続き 年が明けて1942年の真冬になってラドガ湖が完全に凍り付き、 またソ連軍の冬季反攻の成功により、1941年12月9日に チフヴィンが奪還されるとそこを経由したトラック輸送が開始され、 事態は幾分か好転した。 家族を全て失ったターニャも1942年春には市街から脱出し、 施設に収容されたが、レニングラードで体験した極度の餓えと寒さにより 体力を極端に落とし、また、家族を亡くし生きる気力を失っていたのか、 最早、病気に対する抵抗力を持たず、程なくして世を去った。 その後、1943年1月18日にはイスクラ作戦の成功によって包囲は 一部突破されたが、その後も包囲は続き、最終的にレニングラード が解放されたのは1944年1月27日にことだった。
以前に読んだライフ誌の第二次大戦記録集で、現物のターニャの日記が写真収録されてたが、 スケッチブックにたどたどしくクレヨンで殴り書きされた文章と、そこに添えられた対訳で読み取れる家族の死の記録。 そこから想起される情景が、あまりにも淡々と無惨で寒々しく、読めもしない異国の文章なのに正視に耐えなかった。。。
レニングラード包囲では人肉市場のエピソードも有名だな。革靴でつられた夫婦があやうく屠殺されそうになったとか。怖くて泣きそうだが。
武田鉄矢の象のドラマは釣りとわかっているんだが・・・ 泣いた(象カワイイ杉)
非常に重要なことが抜けているが、ターニャたんは可愛いのか?
127 :
名無し三等兵 :05/01/19 21:17:31 ID:Y0HqOKID
今から64年前、時代は第二次世界大戦前のことです。
神戸の川崎重工で戦闘機のエンジニアをしていたひとりの男性は
陸軍の看護婦をしていた女性と恋に落ちて神戸で結婚。
当時は戦争に向かって進んでいく世の中、日本国中が貧しく当然の
ことながら若い夫婦にもお金がなく、結婚指輪のひとつも買って
あげられませんでした。そこでその男性は「飛行機の鉄くずで指輪が
できないか」と、仕事が終わってから工場の片隅でひっそりとお嫁さん
のためにこのハートの指輪を作ったのです。
ttp://green.felinet.com/kobe-c/prod.asp?SCD=204-817 本当にあったのかな?
幼い頃に父が戦死して、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。 J('ー`)し ( )\('∀`) || (_ _)ヾ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 学もなく、技術もなかった母は、個人商店の手伝いみたいな 仕事で生計を立てていた。
>>128 が一番泣きそうだ…
畜生!!目から汗がとまんネェや…
南方戦線での話。 その島にはソープがあって、日本から来たソープ嬢が結構居た。兵士達にも 好評で、筆おろししてもらった若い兵士なんかも居た。 戦争開始時はノンビリしたもんだったんだけど、末期になると米軍が上陸して きて、軍の後退と共に民間人や嬢達も一緒に後退してった。 で、いよいよ苦しくなってきて、軍のお偉いさんが嬢達に、「君等は民間人だし、 米軍も酷い扱いはしないだろうから投降しなさい」と言った。 そしたら、嬢達は「私の身体は兵隊さん達に捧げているんです。私達だけ投降 なんて、絶対できません」と突っぱねる。その後も彼女達は、米軍の「アイスク リームをあげるから出ておいで」の呼びかけを無視して部隊と一緒に行動し、あ る者は砲銃弾に倒れ、ある者は病死した。 日本軍降伏時、彼女達も一緒に米軍へと投降したが、その態度は堂々としたも ので、米軍兵士も感嘆した。 また、別の場所で働いていた嬢は、日頃の客だった部隊が玉砕してしまったが、 「私の身体は、○○部隊の兵士達以外には許していないの。あの人達が玉砕し た以上、これ以上仕事は続けられないわ」と言って、それ以降はスッパリと足を 洗い、残りの人生を全うした。 「職業に貴賎は無い」という言葉は彼女達にこそ、当てはまる言葉だと思う。
131 :
130 :05/01/20 12:56:31 ID:???
もう1つ。これは有名な話だと思うけど。 「佐久間艇」こと、第六号潜水艇。 明治43年4月15日。佐久間勉海軍大尉指揮の第六号潜水艇が山口県新湊沖 で潜水実験中に突然海水が艇内に浸入。その後、同艇は海底に着底して動か なくなった。 17日後になって、浅瀬に回航。吉川中佐立会いで、艇内の検分を行った。 当時、潜水艇は開発されたばかりで性能も信頼の置けるものではなく、他国で も似たような事件は起きていたが、その場合、例外なく乗組員はハッチ周辺に 殺到していて、中には乱闘の形跡すらあるものもあった。 当然、佐久間艇内もそうなっているだろうと予想されたのだけど、いざハッチ を開けてみると、艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソ リン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は空気圧搾管の前に…と、乗組員14名 は全員、所定の位置でこと切れていた。 これを見た吉川中佐は、「よろしい!」と一言叫んだ後、男泣きに泣いた。 実は、佐久間艇が着底した地点は水深も浅く、脱出しようと思えば魚雷発射管 より脱出可能だった。だが、国民の血税でまかなわれた潜水艇を放棄するには 忍びなく、乗組員は最後まで復旧作業を続けていた。 佐久間大尉の遺書には、天皇より賜った潜水艇を失った上に乗員を死なせてし う事を詫びる他、乗組員は最後まで職務を全うした事、この事件で帝国海軍に おける潜水艦の発展が妨げられる事が無いようにして欲しい事、乗組員の遺族 が生活に困窮しないようにして欲しい旨が記されていた。 当時、軍では遺族への補償規定は無かったが、佐久間艇の乗組員への補償はす ぐに裁可された。 この事件は日本国内だけではなく各国メディアにも取り上げられ、驚愕と感動 を呼び起こし、惜しみない賛美の言葉が送られた。
132 :
130 :05/01/20 12:57:16 ID:???
更にもう1つ。 これも有名だけど、「伊号 33潜水艦」沈没事件。 昭和19年6月12日、伊予灘で急速潜航訓練中の伊33は機関室に浸水し、水深60m の海底に着底してしまった。 伊33の和田艦長は、最後の手段としてハッチを開けさせて乗員を脱出させたが、生 還できた2名のみで、艦長を含む100名以上の乗組員は艦と運命を共にした。 そして9年後の昭和28年夏。生き残った乗組員2名立会いのもと、伊33はようやく引 き揚げられた。ところが、前部魚雷発射管室は浸水していない事が分かり、ハッ チが開けられる事になった。 そこには、低温と無酸素状態のお陰で、生前と全く変わらない状態で横たわる乗組 員の遺体があった。争ったり取り乱した形跡は皆無で、遺体の顔は穏やかそのもの。 ただ眠っているだけにも見えた為か、立ち会った生き残りの1人は 「おい、総員起しだ。皆起きろよ、起きてくれよ」 と、泣きながら戦友の遺体を揺さぶった。 後に艦内から見つかった遺書には、 「訓練にて死するは誠に残念なり。しかし今はあらゆる努力をなしたれども刻々浸水 するのみ。最後までがんばる。」 「死に直面して何と落ち着いたものだ。冗談も飛ぶ。」 「もう総員起しは永久になくなったね。」 と書かれていた。
133 :
名無し三等兵 :05/01/20 13:19:58 ID:F+8WrUWi
呉海軍墓地でお会いしたおばあさんのお話。 軽巡洋艦神通の慰霊碑を一生懸命掃除しているおばあさんが居ました。 私が、「こんにちは、寒いですね。」と挨拶すると、ものすごいチャーミングな 笑顔で、「ああ、こんにちは、さむいねえ。」と答えてくれた。 時間があったので、一緒に掃除の手伝いをさせてもらった。 その時にそのおばあさんから聞いた話。 神通には、おばあさんの初恋の人が乗艦していた。 相手には、おばあさんの気持ちを伝えられないままだった。 あの時自分の気持ちを伝えられなかったのが、今も苦しい。 最後に「私はね、もうすぐお迎えが来ると思うけど、今からとても 楽しみなんよ。あの世に行って、あの人に会ったら、ホントは私あ んたの事が大好きじゃったんよ。と言うの楽しみ。でもね、あの人 は若いまんまで、私はこんな、しわくちゃのおばあさんじゃあ、笑 われるかむしれんねえ。」と笑いながら話してくれた。 不覚にもお話を聞きながら涙が落ちた。 そしたら、おばあさんが笑いながら、「ええ若い者が、めそめそしん さんな。昔の男は、親の死に目に会っても泣かんかったんよ。しっか りしんさい。」と言ってくれた。 自分の生き方を考えさせられる出来事だった。
134 :
名無し三等兵 :05/01/20 13:26:09 ID:F+8WrUWi
>>133 訂正
私はこんな、しわくちゃのおばあさんじゃあ、笑
われるかもしれんねえ。」
です。
兄が玉砕したと聞いた時の驚きと悲しみは、私の全身の血を停止させ、足腰の力が急に抜けてしまった 老いた父母になんと報告すべきか? その悲嘆を想像するだけで私は動転した あの頑健な兄が戦死するとは・・・・・ 神仏すら軽蔑したくなる内面の空虚な痛手 これは二百八十万の遺族だけが体験した無残非情な、終生忘れることの出来ない深い心の苦悩であった 父は兄に家業を継がせようと手塩にかけて愛育した 落胆は余りに大きく、急に物言わぬ人に変わった 母は人陰に隠れて泣く事が続いた その年の夏 「陸軍伍長井上総一 昭和19年12月31日、ぺリリュー島○○地点において戦死確認」の公報が届いた 巷間で噂される通りの一枚の紙片であった 遺骨も無く、誰が末期の水を取ってくれたのやら、遺言があったのか 形見の品は遺されていたのか 何でもよい、最期の模様が知りたいのが肉親である やはり戦死した場所を見て、遺骨を拾ってみなければ諦めきれないのだ 戦死の公報受領後、旬日にして芝の増上寺において遺骨の引渡しを受けた 白木の箱に納められた兄の変わり果てた姿を見た父は、嗚咽しながら 「ご苦労さん!お帰り・・・」と白木の箱を撫でた 生きて帰った息子の肩を撫でるように・・・・ 私は翌日、白木の箱をそっと開けてみた 中にはお粗末な位牌が入れてあるのみだった 「ぺリリュー島血風録」より
昭和二十年三月二十五日二一〇航空隊 神風特別攻撃隊第三御盾隊の言葉 ●出撃の命下る 今日は先ずこれまでなりと囲碁置き 夕食は貴様にやると友は征き 犬に藝教へおほせて友は征き 神様の大飯くひに唯あきれ 貸し借りは貸し借りなりと堅い奴 万歳が此の世の声の出しおさめ 別れ酒もう一杯と強い奴 俺の顔青い色かと友が聞き 必勝論、失敗論と手を握り 乗ってから別れの酒の酔いが出る 慌て者小便したいままで征き 乗ってからポケットの金思い出し 機上にて涙の顔で笑って居 父母戀し彼女戀しと雲に告げ あの野郎、行きやがったと目に涙 童貞のまゝで行ったか損な奴 帰らぬと知りつゝも待つ夕べかな ●出撃の命下る
WW1の中期、西部戦線のドイツ側の陣地から突然霧の様な煙が 立ち登った。東からの吹く風にのり、煙はあっというまに フランスの陣地に充満した。 史上始めての毒ガス作戦で、ガスを吸い込んだ兵士は肺を焼かれ、 呼吸困難となり絶命した。症状の軽い者でも、激しい咳や、 目や鼻、口に炎症がおき、激しく涙を流した。
>137 兵士が泣く話かよ!
139 :
名無し三等兵 :05/01/22 20:47:44 ID:9+Rtew6k
1941年6月22日。 独ソ国境に位置するブレスト・リトフレスク要塞はドイツ軍の奇襲攻撃を受けた。 ブレスト要塞は旧式の煉瓦造りで火力も強度も十分ではなく、しかも、先生奇襲を受け お世辞にも万全の防備を整えているとは言えなかったが、 水の補給すらままならない状況のなか将兵はよく善戦し 一ヶ月に渡って組織的な抵抗を続けた。一部のソ連兵は地下道などに潜んで なおも抵抗を続け、最後のソ連兵が、射殺されたのは九月になってからのことだった。 「俺は死ぬ、断じて降伏などしない、許せ祖国よ」 「戦友は皆死んだ。ドイツ兵は城門を突破した。手榴弾は、あと一発。だが決して降伏はしないぞ!」 「情勢は不利だが、我々は勇気を失わずに死ぬ。1941年7月。」 彼らはこう書き残して、死んでいった。
なんかいかにも就職活動中って感じの女子大生が真昼間の ファーストキッチンで胸とかバンバン揉ませてるわけ。同じ年くらいの 男子大学生ぽい奴に。しかもスーツの内側に手入れて直で揉んだり してるわけ。なんか女のほうも廻りを気にしながらも小声で 笑ったりしてるわけ。「ヤダァ♪」とか言いながら。 俺は思ったね。お前ら独身中年なめんな、と。お前らのすぐ隣に座ってる 俺はお前らの様子見ながら正直、勃起してんだよ。ていうか信じられないよ。 素人同士で金のやり取りもなく胸揉むなんてよ。俺はヘルスで平均40回ぐらい 揉むわけ。12,000円で40モミ。1モミ300円。俺はそいつら見ながら「あ、300円」 とか「また300円」とかカウントしてたわけ。で、そのカウントが6,000円ぐらいに 達した時、突然こみ上げてきたわけ、嗚咽が。押さえ切れないほどの憤怒が。 で、声に出して泣き出しちゃったわけ。真昼間のファーストキッチンで。独身中年が。 急に声をあげて泣き出した俺を珍獣でも見るように一瞥した挙句、クスクス笑いながら 店を出ていくそいつらの後ろ姿を見ながら俺は思ったわけ。これはもう階級闘争だ、と。 謂なき触穢の鉄鎖に蹂躙された日陰者の人権は闘争によってしか解放されないのだ、と。 そんなわけで俺は闘うわけ。ここに常駐するグズなお前らも闘え。取り戻せ。矜持を。
なんとなく革命とか闘争とかいうのに嫌悪感を感じていたのだが >140ってことならば心情的に階級闘争も首肯できそうだ
143 :
名無し三等兵 :05/01/22 22:33:14 ID:kAnmuJVS
恋愛至上主義という帝国主義がある世の中だからな
144 :
名無し三等兵 :05/01/22 22:53:47 ID:dwbZwErF
そんなんで泣くような犠牲者根性だから、中年独身なんでないの? 俺も似たようなのをコーヒー屋で見掛けて、口笛で冷やかしてやったら、ムスッとしてガン飛ばして来たんで笑顔を返したら、今度は急にシュンとしてやんの。そんなんで醒めるようじゃねえ。
「日の丸・君が代」の強制に反対する声明 私たち東京学芸大学史学会は、 東京学芸大学の教員・学生・院生・卒業生の有志で構成される団体です。 私たちは、歴史研究・歴史教育に携わる者の立場から、 現在、東京都内の公立学校で行われている「日の丸・君が代」の強制に反対します。 ↑これが日本国民の血税で運営されている国立大学の組織か思うもうと…(ToT)
146 :
名無し三等兵 :05/01/22 23:37:10 ID:2n8wV6ou
↑すまん、この学芸大の某助教授はヲレの同級生だと思う。 従軍慰安婦問題とか、バリバリに「広義の意味で強制はあった!補償せよ!」と叫んでいました。 orz
食べること、寝ること、セックスすること。 生き物の生理を理解しない(できない)輩が増えてきたのは やはり戦後のことだろうね。
>>148 軍オタはコピペ相手にマジレスする童貞が多いんだろ
150 :
名無し三等兵 :05/01/23 06:50:59 ID:OFXwEKua
あらまあ、風向きが悪くなるとコピペでネタ宣言ですか〜?もう少しイジらせてよ〜ハハハハハ
1月23日朝日新聞朝刊「声」 高校教員・奥山忍(長崎県・32歳) 私は日本が侵略と戦争の過ちを繰り返さない事が大切だと考え、 試行錯誤しつつ近現代に重点を置いて日本史を教えている。 4月からは在日コリアン3世のいるクラスで日本史を教えることになる。初めての経験だ。 日本名を名乗るその生徒は在日コリアンであることをどう受け止めればいいのか悩んできたという。 そこで生徒は昨年の夏休みに同世代の在日コリアン3世の仲間と韓国に行き 、日本の侵略のことも含め朝鮮史・文化を学んできた。 それから在日コリアンであることに誇りを持ち始めた。 しかし、今の日本は植民地支配や戦争による加害視点が薄れていると私を思う。 韓流ブームの韓国と、拉致問題でその対局にある北朝鮮のイメージはあまりに強い。 そして「経済制裁」という言葉が飛び出す日朝間の困難な政治状況が生まれている。 そんな時に、在日コリアン3世である生徒に何を教えられるのだろう? 日本による侵略の歴史を踏まえた上で、若者たちと共に、日本と朝鮮半島の多面的な交流の歴史も学び、 より豊かな日本と朝鮮半島の関係を築いていく取り組みを教育の中で行いたい。 大学で教職課程を選考してる漏れは情けなくて泣いた。
>151 べつにそんなに泣くことも無いんじゃない?
153 :
151 :05/01/23 19:43:23 ID:???
>>152 こんな教師がわかったように歴史を語るのが悲しくてな・・・
歴史を冒涜してるよ
漏れは韓国からの留学生相手に、 どこの国も侵略戦争やってる時代に、なんで日本だけやっちゃいけないの? やる権利がある! と言い放ったよ。 なんか人でなしとか罵ってきたけど無視した。 だいたいさぁ、お前らだって日本に攻め込んで来ただろ、それを忘れたのか?と言いたくなったな。
>>151 まあ、教師って本当に難しい職業だよね。
色々な立場や背景を持った生徒がいて、それでも皆それぞれに人として成長するよう
に指導していかなきゃならない...。
ときには、自分の信念さえも乗り越えなきゃならんときもあるのかもね。
156 :
名無し三等兵 :05/01/24 09:52:15 ID:tWDz7+CZ
真珠湾攻撃は攻撃前にだいたいアメリカ側に把握されてたみたいやね、 現実、そのとき停泊してた艦船は旧式の戦艦のみだし、アメリカ側も 真珠湾を攻撃されたで戦争に踏み切れる大義名分ができたと、しかし そんな戦略上でハワイで散ったアメリカ兵もかわいそうだが、先制攻撃 (だまし討ちだが・・)成功なりとトラトラトラと暗号打った時点でアメリカ に乗せられてた日本は・・所詮無謀な戦争やったんやね・・・
>>154 オマイ、酷い奴だな。
ちょっとは相手の気持ちも考えろよ。
侵略されっぱなしの朝鮮人にそんなこと言うなんて、
奴らは独力で戦争したことがないんですよ?
そのうちにするかもよ? やけになった首領様が
>>157 考えて見れば半島の戦争っていつも大国間の代理戦争だな
160 :
名無し三等兵 :05/01/24 12:27:19 ID:tItdRb/6
>>154 じゃあ、戦争に負けたんだから領土取られてもいいのかあん?
>>159 代理戦争というか、内紛に外国勢力を引き込んでるというか…
163 :
名無し三等兵 :05/01/24 14:51:18 ID:7T7PxRy0
朝鮮学校の女生徒とチマチョゴリでキーセンプレイをした俺様にはかなうまい。
脱線してるんで投下 何かの番組でやってた話だけど ドイツの軍用犬と一人の兵士の話は最高に泣けた うろ覚えで細かいことは思い出せないけど もともと老婦の元で買われていた一匹のシェパードが戦争のために借り出され、 その後、一人の兵士とのパートナーに組まされたわけだけど 根が臆病だったその犬はちっともその男になつかず、初っ端から噛み付いたりと 散々なコンビだったんだけど、一緒に訓練する内に互いを信頼し合い、良き親友として戦地に赴くことになる。 そして最後、敵の奇襲を仲間に伝え、主人の命を救うという仕事を成し遂げながら その時の銃撃戦で背中に弾丸を受け死んでしまう話。 イメージ映像だけど主人公の青年が相棒の犬を抱き締め、泣きながら戦う姿は本気で感動した。 終戦後、老婦の元を訪れた主人公が死んだ犬のことを報告すると老婦が 「愛する人を守り、お国の力となって死ねたあの子は幸せです。」 とか言っててマジで泣けた。
166 :
名無し三等兵 :05/01/24 20:26:22 ID:8SzR4aTG
>>161 現にこの国もあっちこっち取られてるがな
168 :
154 :05/01/24 23:14:05 ID:???
>>161 戦争に負けて、
・第二次大戦開戦前に比べて、大幅に領土が縮小された。満州とか。
・いまだにアメリカの実質的な占領が続いており、アメリカの傀儡国である。
・いちおう沖縄は返還されたけど、それはまた違う意味であり・・・。
日本の傀儡国である満州国が領土であるなら、今の日本はアメリカの領土です。
169 :
154 :05/01/24 23:16:29 ID:???
あとね、韓国は少し前まで独裁軍事政権だったし、今もその体質は変わってない。 そんな現在進行形で軍国主義の国の人に、旧日本についてとやかく言われる筋合いはない。
おいおいリアル高校生か>154
>>167 HUDもってきてくれたのか。軍隊がおまわりさん並に身近な存在ってのも
大したものだなあ、
>>169 韓国が軍国主義なんて失礼なこと言うなよ。
単なる後進国だ。
日本の飛鳥時代レベルなんだから。
174 :
名無し三等兵 :05/01/25 23:57:26 ID:jGfPNwNM
>165 頼む、動物話だけはマジでやめてクレヨンしんちゃん・・・。
そちらは7人、こちらは1人。気にするな! チュドーン
スタンレーの魔女か
>177 貴殿を心よりお慕い申し上げます♪
>>93 読んでて一番泣けけたのはカイオワが死んだシーンだった。
一人の人間が、友達が何の尊厳もなく、突然排泄物に飲み込まれて溺死する。
作者の精神に相当来ただろうことは文章から伺える。
それまでのカイオワの人物描写から、インディアン出身でキリスト教徒で、
アメリカであんまり恵まれた暮らしは出来なかったんだろう、それでアメリカの為に戦って排泄物の中で死ぬ。
そういうのを想像したら、とにかく泣けた。
一見
>>93 はニヒリズムの塊に見えるけど、作者はいい人だと思うよ。
ストーリーで死者をよみがえらせてるんだから
182 :
名無し三等兵 :05/01/27 16:32:07 ID:Fw40q7ui
>179 そう、ククロビンを殺したのはあなた。
182の発言からあの音頭を思い浮かべた者は一人や二人ではきかんだろう。
>>135 横田めぐみさんの遺骨が偽者であったことが確認された直後、北朝鮮から父親の遺骨を取りに日本に北朝鮮の団体が招いたことを特集したいた。
しかし骨壷の中に入っていたのは木の札だけだったのを見て激怒していたシーンが公開されたね。
あの当時は激戦区から戦死者を連れ帰る余裕もなく、遺骨が無いことも珍しくなかったのに、あんなのを見せるとは、とんだ茶番だと呆れかえったものだ
横田めぐみさんの遺骨が偽者だったことで、日本世論が激しくなっているので、その沈静化を狙ったのだろうけど、魂胆が見え透いていてしらけてしまったよ
>186 海軍に所属してた連中はほとんど紙の札だけだよ 俺んちもそうだった
>>188 漏れの祖母の弟が武蔵に乗っていたらしいのだが。
出征のとき、死期を悟ったのか髪の毛を遺髪として置いていったそうだ…
武蔵はどこに沈んでるかわからんからねぇ
191 :
名無し三等兵 :05/02/05 00:36:51 ID:pj8srT27
「Lydiyaは支給された冬季軍装の長靴の上端の毛皮を切り取って襟につけた。 彼女はそういうファッションが欲しかったかららしいが、おかげで、一晩拘禁されて それらをもとに戻すはめになった。それにしても、こんな時局に襟のしつらえを気にするより、 パイロットとしてもっと大事なことがあるだろうにとわたしは思った。その後、 彼女に注目していたが、結局、彼女は最高の技量をもつパイロットの一人になった」 「Lydiyaは花が好きで、夏の飛行場に朝早く出ると籠いっぱいの野の花を摘んでは 乗機の翼の上にばらまいていた。・・・ 彼女は、敵機を撃墜して帰還すると、 ものすごい低空でアクロバット飛行を披露し、降着してからわたしにたずねたものよ。 ”親父さんはオカンムリかしら?”」 「ラダーペダルに足がとどかないほど小柄で、女優のように愛らしい顔立ち」のエースパイロットは、 1943年の夏の日ついに還らなかった。 四半世紀を経て、誰かの手によって埋葬された遺体が、墜落した機体の翼の下で発見され、 ソビエト連邦が消滅する直前、ソ連英雄金星章が贈られたという。 Inna Pasportnikova へのインタヴューはこう結ばれている。 「わたしは、Lydiyaを必ず見つけ出すと誓ったの。これでやっと死ねる」
192 :
名無し三等兵 :05/02/06 23:50:48 ID:jsrLyg8S
ドイツの化学者、フリッツ・ハーバー 空中窒素固定法を確立、これをカール・ボッシュと供に工業化に成功。 有名なハーバー・ボッシュ法として火薬や肥料の製造で第一次世界大戦のドイツに多大な貢献をした。 ここまでならすごい化学者で終わりだがハーバーは違った。 工場の副産物として処分に苦慮していた塩素ガスを、兵器として利用することを軍に打診したのだ。 こうしてドイツは毒ガス開発を開始。 ハーバーも製造の中心人物として活躍し、前線での使用では自ら指揮を執ったりしたが、妻はこれに抗議して自殺してしまう。 そして、ついに敗戦。そのショックと戦犯として逮捕されるのではとの怯えで、ハーバーは精神的に病むが再び立ち上がる。 今度はベルサイユ条約で課せられた多額の賠償金から祖国を救うため、なんと海水から金を採って支払おうとしたのだ。 しかしこれは失敗、海水中の金の濃度はあまりにも少なすぎた。 その後もハーバーは祖国の為、復興に全力を注ぎノーベル化学賞を受賞したりする。 が、彼の最後は悲惨だった。突如として国外退去命令書が届き、異国スイスで失意のうちに死んでしまう。 そう、ハーバーはユダヤ人だったのだ…
>>192 化学馬鹿一代記だな
どっちかというと、信じられないが・・スレ向きかもしれん。
>>154 お前「原爆は正しかった」つう香具師と全くの同レベルだな
>154
イタタタタw
>>193 同意。まぁあのスレよりもしょうもない〜の方が最近はいいかも
>>194 無差別に一般人を殺す原爆と、
朝鮮半島の劣悪な生活水準を引き上げた植民地化を一緒にすな。
197 :
名無し三等兵 :05/02/07 11:03:45 ID:niMJ+P/W
国によって歴史観が違うのは普通 日本「ひどい事をしやがる」 アメ「落としたから戦争が終わった」 日本「劣悪な環境を変えてやった」 半島「日帝に支配されたニダ」 それを押し付けあわなければいい 漏れも沖縄県出身者だが先週のゴラァの沖縄の歴史観にかムカとしたし
うちのばあちゃんが空襲で行方不明になった妹を探して 黒焦げ死体の山を半狂乱になってかきわけていたという事実が 俺にとって泣ける
>>196 横レススマンが、
たとえ結果がよかろうが悪かろうが
お前植民地されてたら多分恨みに思ってると思うぞ。
>>194 氏
と同じような発言になるが
朝鮮半島の劣悪な生活水準を引き上げた植民地化を一緒にすな。
って考え方は
アメリカが戦後に
日本の劣悪な生活水準、偏った教育を直してあげたんだから
一緒にしないでもらいたいね。
てのと似てるよ。
どれも自分にとって都合のいい解釈しかしてない。
×お前植民地されてたら ○植民地化政策されてたら まぁ細かいことだけど、他スレでこんな感じの些細なミスでも 在日認定されてる人みたので一応訂正しときますわ
今週の美味しんぼによると日本の植民地支配は文化を破壊したので 不味いそうな。欧米の植民地支配は現地に文化を残したので日本より マシなそうな。 正直ツッコミする気力もない。
多枚舌外交や苛烈で場当たり的な植民地支配とかで火種をまきまくった イギリスやフランスやスペインのほうがマシか‥ 美味しんぼビジョン的には文化を残したとかいっても、この世界がクソ複雑で 面倒になったでかい原因は奴らにあるよ。アメリカですら被害者だ。
>>199 植民地じゃないYO!
併合だYO!
欧米列強の植民地支配と一緒にされちゃ困るNE!
併合してくれって言われたからしたんだZO!
207 :
名無し三等兵 :05/02/07 22:40:13 ID:niMJ+P/W
>>205 そういう次元の話ではない。
事実そうであれ、あっちで「日本に併合されてよかったニダ」と教えるか?
韓国の内政干渉にはしっかり対処すればいいし、向こうにも干渉しなければいい。
国家間の歴史観の押し付け合いをやめろと言ってんだよ。
>>207 無駄。どんなに言おうと在日とかホロン部とか工作員扱いされて
終わるよ。
アフォに何言っても無駄。
在日だらけだなw
>>207 併合された(してもらった)のは、むこうの責任。
責められるべきは、当時の朝鮮の指導者。
>国家間の歴史観の押し付け合いをやめろと言ってんだよ。
日本はしてないじゃん。馬鹿か?
>併合された(してもらった)のは、むこうの責任。 責められるべきは、当時の朝鮮の指導者。 いや、凄いね。うん。凄いよ君。 なんつーか、道端で殴られたら 殴った人よりも そういう状況が起こりえるのに注意を怠った ってことで殴られた人を糾弾すべきなんだ。
確かに、併合によって朝鮮への利益はあったよ。 でも考えてみれ。 アメリカに占領され統治され、結果として 日本は世界有数の経済大国となったわけだが。 アメリカ人が 日本を救ってやったんだ、感謝しろ。文句言われる筋合いはない っつう主張はあきらかにおかしいだろ。 おそらくコヴァにえらい影響されてるんだと思うけど あんたら主張過激すぎだよ
勝手に国家破産したあげく併合を希望したのと 必死に戦ったのを一緒にされてもなぁ…。 詭弁の見本みたいなカキコやね。
どっちもまとめてニュー速+か ハン板に言ってください。お願いします。 嫌韓厨はなんでウザがられるか自覚してください。 嫌嫌韓厨も相手にしないでスルーしてください。 本気でどっちもウザイです。
>>214 横レスだが、
詭弁とは違うと思われ。
お前さんは「韓国併合は向こうからお願いしてきたもの」
と思って
>>213 とかは「韓国併合は多少なり日本が強要した」
って思ってる。
相手との前提の違いを無視して自分の尺度で測って詭弁と考えるのはちょっとおかしい。
>おそらくコヴァにえらい影響されてるんだと思うけど あんたら主張過激すぎだよ そうだろな。 嫌韓厨の主張ってほとんどが戦争論をベースにしてると思う・・・
このスレの流れに泣けて来た…
「コヴァの」戦争論と明記してくれ。 あれと万一にもゴッタにされたら、クラウゼヴィッツが 草葉の陰で号泣するぞ。
>>219 クラウゼヴィッツ草葉の陰で号泣するぞ。
糞ワロタww
死んでも死にきれんなw
コヴァは厨学生が好きそうだよな
「世間ではこんなことがまかり通ってる・・・
しかし俺様は屈しない!嫌う香具師は嫌え!
だが、俺は正しい・・・・
世の中に屈してるヴァカどもめ・・・」
作者自身がガキみたいな頭してるから共感しやすいんだろね。
まぁ誰しもそういう風になっちゃう時期はあるって
嫌韓厨見て思うけど、
あいつ大人になってまだあれってやばいだろぅな。
10代20代までなら「元気があってよろしい」くらいで 澄ましてやってもいいんだが・・ 30過ぎてまだやってたら、「何やってんだかなあ」と 思われても仕方ない罠
ナチ政権下のドイツからユダヤ人科学者を救い出すべく尽力したのは 「ラザフォードの原子モデル」で有名な英国のアーネスト・ラザフォード。 多数のユダヤ人科学者のドイツ出国を支援した。 そのなかにフリッツ・ハーバーもいたのだが、毒ガス開発に協力した ことを嫌ったのか、英国滞在中もラザフォードは一度も会おうとしなかったらしい。
逃げてきた科学者の一人一人と握手したんだが、 ハーバーには手を差し出さなかった。 ソースはアジモフの本
224 :
207 :05/02/08 08:33:22 ID:tWkOkznP
私はちゃんと ゝ事実そうであれ ゝ韓国が内政干渉してきたらしっかり対処すればいい と断った上で意見を述べとるがな? それからなんでも在日にすればいいのか? 議論する(まあそっちが振ったんだが)前から在日認定したら話が進まないだろうが? 君らの教祖様だって「親米保守」と言いながら岡崎の爺さんとしっかり議論するじゃないか? それこそ君らの教祖様の言葉を借りたら「思考停止」ではないかいか?
ゝ事実そうであれ ゝ韓国が内政干渉してきたらしっかり対処すればいい 最近は引用符ってゝ使うのが流行りなの?
>>192 (⊃ω;)グスン
ドイツにそこまで尽くした人間を、ユダヤ人だからって・・・
これじゃ、ドイツ勝てない訳だ
>>199 だけどさ、日本の植民地になって喜んだ国もあったというじゃないか。
>>227 だからずっと言ってるじゃないか
「よかった」と言ったって国によって受け止め方が違うと
日本みたいに、東京を焼き払ったルメイに勲章を与える
ような寛容(馬鹿か?)みたいな精神はないのは
韓国や中国で日本に協力した人間が売国奴やら漢肝と
未だに言われてるを見ればわかるだろが?
歴史の解釈なんて国や地域によって神学論争みたいな
もんで答えなんかない。
>>228 ルメイは航空自衛隊の創設に尽くしてくれたから
勲章あげたんだろ。
戦時中の憎むべき敵将が戦後味方になって尽くしてくれ、
お礼に勲章をあげる。良い話じゃないか。
第一、ルメイが個人的悪意をもって無差別爆撃をしたわけじゃないだろ。 戦争だから敵に対して最も効果がある戦法を行っただけ。 戦争が終われば祖国の同盟国となった日本の手助けをする。 軍人として真っ当なことをやっているにも関わらず、 未だに鬼畜ルメイとか言ってる奴を見ると腹が立つ。
まぁあれだよな、死刑執行人を叩くようなもんだよな。 そういう奴には、 その死刑判決を出した最高裁判事を罷免しなかった奴を叩け と言えば、たいてい黙る。 ほとんどの人は渡された紙をそのまま投票箱に入れてるだろうからね。 それと 死刑の手続きの書類にハンコを押した法務大臣を選んだ与党に票を入れた奴を叩け と言うのもありかな。
>>230 映画13Daysに、ケネディの意思に反して軍事演習やったりした将軍がルメイだった
気がしたけど、あれって鬼畜ルメイと同一人物なの?
ケネディ政権下で空軍参謀総長やってたYO>232
民間人大量虐殺を指揮した人間を鬼畜と言わずして何が鬼畜か。
計画を提示したのは軍だが、承認したのは大統領だ。 かれら指揮官に罪は無い。義務を全うしただけにすぎない 裁判覚悟で任務放棄も可能だが、しばらくすれば代わりがくる。 と釣りにはじるすだぜ!
んでその大統領を選んだのがアメリカ国民と
237 :
名無し三等兵 :05/02/08 21:41:54 ID:4txhjlWT
嫌韓厨&嫌々韓厨のスレッドレイプ現場をさらしあげ
>>232 戸田なっち訳だと「レメイ」になっていたような気がしますけどね。
13DAYSは高級軍人の描き方が気に食わんとです。
なんですか、全員戦争を望む悪人みたいな描き方して。米民主党の宣伝映画とし
か思えんとです。
在日同士の叩き合いww 同族嫌悪ってやつですか?
>>238 そんなあなたに「マーシャル・ロウ」を
ブルース・ウィリス演じる将軍がいい感じです
…って、軍版住人なら見てるか
241 :
名無し三等兵 :05/02/08 22:51:57 ID:PZ1/mTMv
>>95-98 日本時間の八月十日の時点で、日本がポツダム宣言の条件付き受諾を連合国に通知したニュースが世界中をかけめぐった。
日本国内においても、軍、特に航空隊などでは、通信用の無線機でこっそり短波を聞いていた兵隊は多かった。
民間人でも、所有を禁じられていた短波放送受信可能なラジオを持っている人がいて、敗戦をいち早く知っていた。
まあ、欧米諸国がその植民地に対してやったように、 日本も朝鮮に対しては搾れるだけ搾っとけばよかったんかな。 人間として扱うか!民度の向上なぞ知らん!って感じで、 徹底して冷酷に、かつ残虐に扱って圧倒的な恐怖心を擦り込んどくと。 そうしたら今頃、半島も日本に文句などたれなかったろうと思ったりする。 現在のアフリカ諸国はかつての宗主国に「謝罪と賠償!」なんて 言わないもんね。 あ、でも、アジアの同じ黄色人種に併合されたのが彼らにとっては 気にいらんのかな? それに日本は敗戦したしなあ。
243 :
名無し三等兵 :05/02/09 00:24:30 ID:6G3704cC
何もない土地から何が絞りとれるんですか?
歴史を振り返ったときの無力感の裏返しだろ。 強大な中国、時代が下るとロシアと陸続きで、その圧力を 避けることができず、経済や政策はおろか国の独立すら 左右されかねない日々だったのだから。 そうしてみると、改めて日本海は偉大だ。
>>243 土地そのものと朝鮮人を奴隷化するということだろう
朝鮮人を特定の地域に集め、食料すら満足に与えずに強制労働させて、半島中に日本人を入植させろと
>>242 は言いたいのだろう
>>242 朝鮮人を絞っても、ウンコしかとれんぞ。
>>245 朝鮮人はろくすっぽ働かないので、ロシアに輸出しちゃえばいいじゃん。
朝鮮は土地がやせすぎててプランテーションみたいな農場は無理です。 また、そこで生産した農作物などを輸送する手段がありません。 で、まず最初に日本がやったのが、インフラの整備。 朝鮮人は日本人の税金でインフラを全部作ってもらいました。 挙句に感謝もせずに賠償とか言ってるので、まぁ、コジキですな。
コヴァが、既に何万回も使ったネタでオナニーする為に、良スレだった場所が汚され荒れていくのが泣ける。
まあ荒れる前から、ネタ切れの趣きはあたからな・・。
250 :
名無し三等兵 :05/02/10 01:30:42 ID:c9S1wZJ6
俺は、「所感」のフラッシュが、いまだに駄目。
>>251 いや〜泣いた泣いた 知らなかったよ ありがd
特攻って日本人のDNAに擦りこまれてるのかな。 アニメで特攻が描かれることが多いような希ガス。 涙を流しながら敬礼をして特攻する人を見送るシーンとか多いよね。
ザンボット3を見るといい
>>253 特攻的な行動なら他の国でもやるし、賞賛もされてるだろう。
作戦行動として正式採用するのはあんまり無いが・・・。
257 :
名無し三等兵 :05/02/10 21:02:36 ID:kcOmddfi
>>253 特攻は商業に向いてるんだよ。
必死の攻撃。
未来のために死ぬ。
みんなのために死ぬ。
引き裂かれた愛。
恋人に残された手紙。
どんなストーリーでも、「あの人は、実は特攻隊員」みたいな展開にすると、視聴者は喜ぶ。
水戸黄門がウケルのと同じじゃないかな。
特攻は主体思想に向いてるんだよ。 必死の中傷。 ジョンイルのために死ぬ。 イルソンのために死ぬ。 引き裂かれた国土。 国境に残された地雷。 どんなストーリーでも、「あの人は、実は在日」みたいな展開にすると、視聴者は叩く。 日本対共和国戦がウケルたと同じじゃないかな。
歩兵の対戦車戦闘って、危険度から言えば特攻並み?
>>258 が気持ち悪すぎる。
これで多分
>>257 をバカにしたつもりなんだろう。
嫌韓厨の、気に入らないレスをバカにするやり方ってのは
今だに意味不明だが、キモさだけはヒシヒシ伝わるから不思議だ。
261 :
名無し三等兵 :05/02/10 22:49:01 ID:Q3y/igRE
>>259 場合による。
対戦車ミサイルをしこたま装備していりゃ、
そんなに分の悪い勝負でもないし。
チハ相手だったら対戦車ライフルでも結構いける。
チハは、海外のサイトでは豆戦車に分類されてたくらいだしなぁ。
>>261 WWUならどうでしょうか?
でも、生き残る可能性がある分、かなりマシなんでしょうかねぇ。
>>263 第二次大戦でも、国と場所によってすごく違うわけで‥
考えるだけで泣けてきた。
>>253 戦争テーマなら特攻みたいな短絡商売にも辟易だが
特攻隊の生き残りを自称するじいさんの多さにも辟易
>>263 相手にもよるね、
例えばティーガーやパンター中心の相手に対戦車兵器が十分ではない状況で戦闘したらかなり苦戦するのは間違いないし、
逆にチハ相手ならバズーカが少しあれば十分戦える。
ちぃとましな対戦車兵器があって、重砲の砲撃とかで戦車と歩兵を分離できて、 さらに遮蔽物がそれなりにあれば割といい感じ。複郭陣地とかだったら凄くおk。
チハタンは優しいね。 相手を傷つけるよりも、自分が傷つくことを選ぶなんて…。
正直、特攻の生き残りなんぞより、餓島や硫黄島の生き残りの方をスゴイ。
チハタンは生きてるさ… みんなの心の中にね… ___ ヽ=☆=/ ∩(;ω;)∩チハたんばんじゃーい。
硫黄島に行ってみたいな。 うちの親父は民間人だけど仕事で何度も行ってる。 なにがあるのかは教えてくれないけど。 ちなみに硫黄島に自衛隊の輸送機で行くらしい。 でも、民間人を輸送することができないから、 あなたは荷物です。死んでも知りませんよ。 という約束をさせられるのだとか。
>>272 >死んでも知りませんよ。という約束をさせられるのだとか。
それは泣ける話だ。
噂の出張風俗嬢もそうなのかな?
>>272 もし事故が起きたときには、泣ける話になるね。
うちの会社では、潜水艦に同乗してる人も似たようなもの。
どこ行ったのかわからないし、連絡とれないし・・・。
>259 上官がT.ハンクスやM.ギブソンだったら負ける気はしない。
>278 負けはしないだろうが、おまいが生き残れるかどうかは微妙。
280 :
名無し三等兵 :05/02/15 16:13:49 ID:H3XCKem7
>>272 一筆書かされるらしいね。
ずいぶん昔だけど、仕事で某米軍基地の上の方と親しくさせてもらったときに
韓国とかグアムとかハワイなら私が行く時に一緒に輸送機で乗せてった
げますよ、ただし万が一の時は諦めてね、とおなじことを言われた
ことがある。(もちろん、社交辞令でなく大真面目に・・・)
9.11より以前はおおらかだったんでしょうね。
さすがに今は無理だろうけど。
281 :
名無し三等兵 :05/02/15 16:23:15 ID:lfWcLCE0
自衛官がドッグタッグを付ける時も同じ事でしょう?
>280 うちの親父が昔横田基地の司令官と友達でファントム乗せてもらった時に書いたって言ってたな。 戦闘機のコクピットはすげぇ狭くて2度と乗りたくないって言ってたけどw
>>282 そんなこと出来たのか。
糞映画パールハーバーみたいなシチュエーションだな
284 :
282 :05/02/15 17:55:22 ID:???
>283 昔だから出来たそうです。 その司令官はよく「ソ連と戦争になったらアメリカは先に核使うよ!」と豪語してたそうです。 アメリカンジョークだといいんだけどw
285 :
名無し三等兵 :05/02/15 21:06:44 ID:ibDpVHKY
親が軍で働いてたのだけど、民間人が軍用機に乗ってて 事故とかあると、補償問題が面倒なので 極力民間機を使うように言われてたみたい。 TDYで、やむをえずMATSのC‐130とか使うときは一筆って事らしい。
某市の国際交流団体で、サバイバルゲームのことが話題になり、 「一度、トイガンを見せてくれ」というので、 飲み会があった時に、マルイのAK47を持っていったことがある。 「これ、クニで撃ったことがあるぜ、空に向けてバリバリと」インド人。 「オ〜、エイケイ・フォーティセブン・ライフル!」アメリカ人。 「これ、トイガンだよね、撃たれるのヤダよ〜、アハハハ」イギリス人。 しかし、コンゴ人だけは「見たくもねえ!」と、吐き捨てるように言い、 理由を悟った漏れ、AK47をしまって、とりあえずビールをおごった。
287 :
名無し三等兵 :05/02/15 21:37:11 ID:W0UN/n0t
>>286 重い一言だな
その一言で情景が浮かんだよ
288 :
名無し三等兵 :05/02/15 23:08:15 ID:7Xmkox6D
>275 いまさらだけど・・・ どこかの硫黄島スレで読んだ話な。 硫黄島に赴任すると島流し同然のやもめ暮らしを 強いられる訳だけど、そこに鬱積するさまざまな事象を解消するために、本土から 定期的にソプ嬢がやってきて2〜3日仕事して帰るらしい。 嘘か本当かはもちろん知らない。
そんなにやりたいかお前ら?
ヤリたい!!
>>289 これは当然の措置だねぇ
我慢しろっていわれても無理だし。
>>289 島民皆兄弟か、やだななんか。つーかそんな状況なら手でやった方がいい。
だが安かったら?
295 :
名無し三等兵 :05/02/16 07:36:42 ID:Fi8Sj4mT
>>289 軍隊ではないが、孤島の灯台守を取材した番組で、部屋の中にダッチワイフが
備品として格納されていたのを見たことがある。
で、みんな穴兄弟になるわけですな。
ここはエーリトなスレですね
ピザが擂鉢山までくるぐらいだからデリヘルぐらい いけるんじゃないのか
ピザ屋最強!
何で良スレがこんなことになってしまうのか… 泣けるよ。
下っ端は、ドッグタグには血液型を書かない。
>>292 おいおい、セクースぐらい我慢できない香具師は精神病院に入れるべきだよ。
そりゃねいつ死ぬかわからない戦争状態ならわかるけどさ、
普段からいつ爆発するかわからないような香具師は、危なくて使えない。
>>295 南極二号なんてのもあったね。誰も使わなかったという話だけど。
303 :
302 :05/02/16 20:12:51 ID:???
今の人は南極二号はダッチワイフの別名だとかスラングだとしか思わないかな。 いちおう説明すると、南極二号というのは、 日本初の南極越冬隊のために、日本政府が用意したダッチワイフの制式名称。 くわしくはGoogle先生に聞いて欲しい。
オナニーだけでも生きていける事は俺によってすでに証明済みなわけだが。
現代の泣ける話をしてどうする
あんた上手いこと言うねぇ
307 :
名無し三等兵 :05/02/25 16:20:04 ID:ZuP5iMh0
もう皆ネタギレ? 誰かスレ内容に合った話を書いてくれ〜
>>298 30分以内で来るんですか?
30分を超えると料金タダですか?
なんかの本で読んだのだが・・・ エンガノ岬沖海戦に初月という秋月型駆逐艦が参戦していた。 戦闘終了後、初月は同型艦の若月と軽巡の五十鈴と共に沈んだ空母の千代田と瑞鶴 などの乗組員の救助を行っていた。 しかし、重巡洋艦を含む米艦隊が接近しつつあった。 初月は米艦隊をいち早く発見したため、僚艦に対して警告発砲した。 五十鈴は燃料が乏しく、洋上にはまだ沈没した艦の乗組員達がいたがやむをえず 若月と共に北へ離脱をはじめ、まもなく米艦隊からの砲撃が始まった。 すると、若月と同行するように北に向かっていた初月が突如回頭して、まるで五十鈴と 若月の離脱を助けるかのように、米艦隊に立ち向かっていった。 初月は16隻の米艦隊を単艦で2時間近く死闘をおこないついに撃沈された。 その後、この米艦隊の司令官が「私は、断腸の思いである」と初月の敢闘に敬意を表した。 最後に、のちに内火艇に乗って漂流しつつも生還した瑞鶴の乗組員は、戦闘が始まる直前 に初月から「あぶないから寄るな、しばらくしたら迎いに来るからな。」と指示されて 洋上に残された。 そして乗組員達は暗闇に応戦する初月の勇姿をただ見るしかなかった。 長文スマン
>>309 溺者を機銃掃射するような連中が
敢闘に敬意を表すはずがない。
バカジャネーノな気持ちだったに違いない。
>>310 個人差があるんでないの?
日本海軍だって降下した米パイロットを救助した例もあれば
甲板で斬首した例だってあるんだから(青葉に載っていた
近所のじじいが目撃)
墜落した米パイロットを 手厚く弔った島民もいるし、 頃して喰った島民もいる。
313 :
名無し三等兵 :05/02/26 15:32:49 ID:AOU4yMJp
(ネタが尽きてきているので、ちょっとスレ違いだが) 昨年、仕事でインドネシアに行ったときに、現地会社に駐在している 日本人に聞いた話。 98年にインドネシアで暴動が起きた時、事態を見守りつつ帰国するか どうかを決めかねていたそうだ。 (既に空港は出国しようとする外国人でパニック状態) その時、インドネシア空軍が「輸送機を準備したので、 必要なときはいつでも申し出てくれ」とのこと。 その会社の幹部に残留日本兵の孫がいて、軍が配慮してくれたらしい。 その日本兵は、インドネシアで英霊として祀られている・・・。
インドネシアの中の人はいい人でつね。
インドネシアっていったら、この前の反華僑暴動のとき、 日本人商店の前で、近所の若いのが「ここは違うぞ!」 とか言って守ってくれたらしいぞ。 日系資本のホテルも無傷だったらしい。
なんでインドネシアは日本人に優しいの? フィンランドみたいな事情があるの?
>>316 オランダが残虐統治した。
↓
そのオランダを日本が追い出してくれた。
↓
今村大将が善政を布いた。
↓
対オランダ独立戦争に多数の日本人が参加し戦死した。
↓
日本のおかげで独立できた。
↓
日本に感謝。
318 :
名無し三等兵 :05/02/28 17:22:48 ID:+2Fp6a//
>313みたいな話聞くと歴史教育って大事だよなと思う。
今でも感謝してくれる人に感謝だな。
がいしゅつだったらすまぬがどこかのスレでオランダが日本に捕虜虐待 か何かに関して天皇の謝罪と賠償を求めた時インドネシアの中の人たちが 「だったらウチらに300年間の植民地支配の謝罪と賠償よこせ」と ツッコんで黙らせてくれたそうだ。 インドネシアGJ
GJインドネシア!
リスペクトインドネシア〔°Д°〕
インドネシア ばんじゃーい
インドネシアを讃えるスレはここでつか
オランダ女王が来日した時宮中晩餐会のスピーチで 天皇の戦争責任に言及した無礼な事件があった。
>>38 遅レスだけど、これ読むたびに政府は沖縄が返還されたときに、
援助とかそういうのじゃなくて、県民の行為を称えるような
「特別の御高配」はあったのかな?と思ってしまう。
なんかそういうののニュースってあったりする?
327 :
313 :05/02/28 18:56:43 ID:???
スレ違いの話へのレスがあったので、調子に乗って燃料投下。 残留日本兵の孫っていうのは、実は日本人とインドネシア人のクォータ。 ”インドネシアの日系企業は、積極的に技術移転を進め、現地人も 有能な人は幹部に登用する。 しかし、華僑系企業は、幹部以上を華僑で独占し決して現地人に 責任ある仕事を任せない。” っているのが、インドネシア人の一般的な感覚らしい。 だから、暴動のときは華僑が標的となり、逆に日系は守られた。 日系企業の玄関には、現地の人が『オラン ジュパン(日本人)』と 書いて、誤爆しないようにしたとか。
まあ人を呪わば穴二つっているか舐めたことしてると 必ず非常時に的にされるからな。後ろ弾と同じ。 ロス暴動で韓国系商店が襲われたのも背景に 黒人、ヒスパニックに対する韓国人の日常的な 差別があったという話だし。
329 :
名無し三等兵 :05/02/28 19:21:09 ID:GSO6vnzW
まぁ木切り倒してそのまんまってのはよく聞くな
331 :
313 :05/02/28 19:41:26 ID:???
>>329 なるほど。データ的に見ればそうなのか・・・。
わずか1ヶ月ではあったが、現地で仕事をして、現地の人と話をした
そのときの感覚でモノを言ってます。スミマセン。
でも、明らかに華僑系に対しては反感を持っているようでした。
こちらが日本人だから、リップサービスであったのか?
ここでトリビア インドネシア独立戦争に参戦した日本兵を描いた 映画「ムルデカ」に出ていたヒロインの女優はその後、 インドネシアで大ヒットした反日映画で従軍慰安婦役で出ていた。
全然戦時の話じゃないけど書きます。 某朝まで生テレビで戦争犯罪(だったと思う)の回で、撃墜王の坂井三郎氏が参加されていた。 専門用語を濫発し、現代の価値観であの頃の戦争を悪と決め付ける持論を声高々に喚くサヨども の発言を遮り坂井氏が一言。 「あのころはメシが喰えなかったからみんな兵隊になった。戦艦一隻造れば飢饉になった」 あまりにリアルな世相の表現に一同沈黙。 戦争責任って何だ?誰が誰に対する責任か?と議論が白熱、戦争を起した責任よりも戦争に負けた責任が誰にあるのか はっきりさせるべきという論調になってきて、高級将校の無能ぶりに話しが及んだ時に坂井氏が 「あの頃は肩からキラキラしたものをぶら下げてる将校は、ワシらと頭の出来が違うんだ、難しい作戦はあの人らに任せて、ワシらは頭が弱いから戦闘で頑張ればそれで良い と思っておった。だが戦争が終わって色んな話を聞けば、何だアイツらは!いい加減な作戦ばかりで兵を死なせて・・戦争責任はアイツらがとるべきだ!」 と発言。 それ聞いて俺ちょっと泣けた。
334 :
名無し三等兵 :05/02/28 20:11:47 ID:qBlhE+m2
中には今村将軍に善政を敷いてもらっていても、「日本人は謝罪と賠償汁!」 「日本兵は残虐非道極まりなくて云々」と言う、人達は腐るほどいる。 チモール島で、日本の落下傘部隊と占領軍の銃撃戦に巻き込まれて死んだ、住民の遺族は 日本に対してだけ、謝罪と賠償を求めたし。日本の歌を歌える老人が出てきて 日本の歌をいくつか歌った後で、「日本兵の圧政下で無理やり覚えさせられた、負の遺産」みたいな 事を言ってたしな。 「少年時代に、日本兵に遊んでもらって覚えた。」というのが真実と思うのだが…。
スゲー(°Д°)―ッ!!さすが今は亡き大空のサムライ!地上に降りてもサムライだ!!!!!しかし坂井氏は今頃あの世でボイントンあたりと談笑してそうだな。R.I.P
>>333 あの時は右左どちらも小さくなっていたな。やはりその時代を生き抜いて
きた人の言葉の重みというのは違うと思った・・・合掌
いやいや、部下集めて訳わからん参謀や司令官連中袋叩きにしとるんじゃないか。
>>333 誰の事言ってたのかな?やっぱMとかTとかだろうか?
すげー気になるが坂井氏ってのは本当にすごい人だな、人間として尊敬できる。
>333 その時代を生きて、戦ったヒトの言葉は重い。 自分の心に正直な偽りの無い言葉だからなおさら。
その回みたいなあ どっかに落ちてないかな
大東亜戦争従軍者100人集めた回があったけどこれか。
343 :
名無し三等兵 :05/02/28 23:28:54 ID:sAeMQviM
>>326 過去ログ
********************************************************
私が学生時代地理を習った先生は、政府のナントカ審議会だかそういう所に「有識者」として呼ばれて、他の役人、学者等のメンバーと、沖縄の公共事業に対する補助
金の10割支給(全部じゃなかったけど、学校の建物とか満額国庫負担だそうな)を存続させるか否かについて検討したんだって。
現地視察とかも行って、審議会の結論としては、「沖縄も豊かになりつつあり、補助金はつけるにせよ、満額はもう不要ではないか。」という方向に話が傾きつつあっ
た時に、それまでほとんど発言してなかった一座で最年長の学者が立ち上がって、この電文を紹介して曰く
「少なくとも、この電文を知っている我々の世代がこういう仕事に就いている間は、沖縄県民に”格別の高配”を続けるべきだ。」って言ったんだって。
役人はともかく「有識者」達はほとんど全員が戦前・戦中派だったので、この老学者の一言で全員が存続を支持して、10年間の満額給付延長が決まったんだって。
未だに基地はあるし、米兵犯罪は減らないし、確かに十分には報われてないだろうけど、この電文は数十年を経てなお、人を動かす力があったというお話でした。
坂井氏は昭和天皇にも戦争責任ある、と逝っていましたからね
345 :
名無し三等兵 :05/03/01 00:43:49 ID:X6DMQaTq
>>344 政治的、法律的に責任は無いとは思うけど、
坂井さんとかはそれを言うだけの権利は持っていると思う。
しかしサヨが坂井とか大岡昇平とか使おうと思えば使えるのに 利用できなかった理由が分かるな。
坂井氏や大岡氏はガチ杉るからな・・・
348 :
326 :05/03/01 12:34:20 ID:???
>>343 これってどっかのニュースになったの?
結局物的支援だから、こればっかじゃ言い方悪いけど、
乞食根性が染み付くだけで、県民の名誉は回復されない気がする。
昭和天皇がもし沖縄に行って、発言として許されるかどうかはさておき、
「よく戦ってくれた。」みたいなことを言ってれば、
今ほど酷い沖縄にはなって無いんじゃなかったかなと思う。
349 :
名無し三等兵 :05/03/01 12:59:39 ID:IhZgsxST
>>348 恐山のイタコにでも呼んでもらいなさい>昭和天皇
坂井氏って「原爆投下に感謝すべき、あれがなきゃ戦争は絶対に終わらなかった」みたいなこと言ってなかったっけ?
>>350 ソースは?
もし本当なら今までの尊敬は全て軽蔑に変わる
>>348 先帝は沖縄訪問直前に発病したからな
現帝は火焔瓶喰らうし・・・(佐々敦行はこの件で更迭された)
人を尊敬するのは難しいよ。 日本人て(俺も含めて)バカだから1か0かみたいな考え方をしてしまう。 少しでも非があると次の日から評価が180度変わる。 俺は政治的観点での原爆投下に対する評価だったと思いたい。 間違った思考だとしても、それが人間だし、広い心で認めようよ。 爆心地付近の池に集団で顔突っ込んだまま死んでる女学生の絵を見た俺でも 原爆に関する撃墜王の発言やアメ公の言い訳には一定の論理性を見出せるよ。 本土決戦は洒落にならん・・ソ連上陸+「3発目」の可能性すらあるんだから・・。 戦争犠牲者にはすまなかったとしか言いようが無い。。 その上で過去の事実と現実をどう評価してどういう目標を立てるかだよね。
>>353 馬鹿で結構。
だが、少しの非でも内容によっては評価が180度変わることは
日常社会でも当然ありうることだ。それだけの内容があるということだ。
原爆落とされて感謝しろなどという妄言は、
たとえ政治的観点だろうとも、日本人として
許すことは出来ん発言だ。
心の中で思ったとしても、口に出す時点で
人間として最低。
所詮低俗な戦争屋だったということか。
ま、発言が事実だったらという仮の話だが。
第一、論理的にも正しくない。
原爆がなくても降伏は時間の問題だった。
本土決戦まで持たなかった。
いや、陸軍はほんとのほんとに本土決戦やる気だったんだろ?
俺馬鹿だから長文は読めないんだよ。
>>356 負けると判っていても、面子を守るためにはやるしかないからやるつもりだっただけだよ…泣けるわ。
>348 っていうか、あんたの書き込みに対して>343を提示してもそりゃただの詭弁だからねぇ…… 審議会で有識者が何を思い何を口にしたかという事実とはまったく関係なく、 「イモ・はだし論」が保守の側から語られる現状では、沖縄の左傾化は止めようがない。 戦後の沖縄の政治史は、「憲法9条」と「日米安保」という矛盾する外交政策を押し通してきた日本の 論理的矛盾のしわ寄せが集中した状況以外の何者でもない。 何故講和条約締結の日が「屈辱の日」と呼ばれたか、 何故岸の安保改正論に沖縄のウヨサヨが共同して賛成したか、 そこらへんの事情を汲み取らないままに「国のためだ」と都合あわせの場にされてきた土地…… 愛郷心を持とうと思ったらサヨ化するしかない政治状況を作ってしまったのは、霞ヶ関のご都合主義なんですよ。 困ったことに昭和帝自身も「日本の独立のために沖縄を米国に委ねるのは賛成である」と発言しちゃってたりするが……
沖縄が左傾化したのは実は本土復帰以後の話である。
362 :
名無し三等兵 :05/03/02 09:19:12 ID:6q1b0A6C
長崎と広島にそれぞれ二種類の爆弾を落とした これが回答でしょ 少なくとも感謝すべきではないな
>>356 ソ連参戦の報でその気は失せた。
原爆も終戦判断に影響を与えたが、原爆投下が無くてもソ連の参戦のみで
終戦決意したと言われている。
陸軍が固執してた「本土決戦による国体護持」は ソ連の中立が絶対的前提だったからねー。 ぶっちゃけ1945年に入ってからはソ連さえ参戦すれば 日本は全ての望みを失い降服に追い込まれる形勢になっていた。 それが嫌だから必死で原爆落としたわけで……
ヤルタ会談あたりまでは関東軍は精鋭として 連合国に恐れられていたのがホントのとこじゃないの? ソ連に千島を取られてもおつりがあると ルーズベルトは考えていた のだろう 本土決戦では尚百万の犠牲が出ると読んでいたらすい
「ホントのとこじゃないの?」ハァ?
原爆を投下されたから焦ったソ連が参戦して、結局日本降伏。 だから「原爆投下したから戦争終わった」論理になるのかと思ってたよ
スレ違いの話をえんえんと続ける人たちの存在が 泣けるな。
水掛け論はもういいから、泣かせる話を聞かせてくれぃ
戦後のやみ市で屋台のぞうすい食べたら、ゴムが入ってて、 気持ち悪かったがそれでも空腹だったから食べた という話を今は亡きじーちゃんが笑いながら話してくれたことがあったっけ。 まだ幼かったオイラはゴムって輪ゴムのことだと思ってたけど、 今考えたらあれはムスコに着けるゴムのことだったんだろうな。 あと、ばーちゃんがアメさんの進駐軍が恐くて押し入れに隠れてたとか。 もっといろんな話を聞いとけばよかったなぁ・・・
203高地帰還兵の言葉 余は、まず母の衰えの甚だしいのを見て泣いた 余は、母に向かって言うべき言葉を知らず ただ一言 「ご心配をかけまして」と言うの他なかった 母上も、喜びの余りしばらく顔も上げたまわぬ ああ余の一生は、この「ご心配」の語に尽きている
強力な三式弾でいくら落としても、敵の爆撃機は次から次へとやってきた。 爆弾が降り注ぎ、艦腹に魚雷が命中した。 敵攻撃機が激突し、バラバラになった死体が飛んでくる。 機銃は焼けて真っ赤になってくるのを冷やしながら撃ちまくっている。 横を膝から下を切断された将兵が機銃弾を運んでいる。 異常な光景がふつうに感じられた。 捷一号作戦、小沢艦隊生還者の証言。 泣けなるものではないが3式弾で落としているとの表現が印象に残った。
374 :
316 :05/03/03 16:48:22 ID:???
>>317 ありがとう。
東チモールに自衛隊が行っているのも、何か関係がありますか?
東チモールはもともとポルトガル領だからあまり関係ないと思われる。
>>329 >>331 それは国籍しか見てないと思う。
華僑は中国籍というわけじゃない。
現地の国籍で、現地従業員としてカウントされてる。
>>375 戦時中しばらく占領してたが、東チモール。
…「あの」大日本帝国陸軍が、資源乏しすぎて現地自活_って判断した所が独立してやっていけるのか、個人的にははなはだ疑問ではある。
独立と自給自足は違います。
東テモールやイラクへの派兵は日本の侵略の第一歩 暴力で支配させられないから平和面してちかずいて支配しようというこんたん やはり日本はぼそうするべきではなかった。
ホロン部乙。
ホロン部というものにまとめて すべてをおそしめようとする日本人の民度は低い また軍事国家になるにちがいない
>>381 ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
>>381 >すべてをおそしめようとする日本人の民度は低い
おそしめよう!W
たまらずage
こんなみえみえの工作に泣ける。 どっち側かはあえて言わんが。
ホロン部乙
この荒れように泣ける。
388 :
名無し三等兵 :05/03/05 02:47:13 ID:EdoiOENl
現代の戦争でも、現場レベルえは休憩中は敵と無線で冗談を交わしたりとか、 「次は何時に戦闘開始すんべ?」とか「とりあえず死なない程度に手加減して馴れ合いしようぜ」 といった事実。
>>388 そんなマターリした戦場って、この前のコートジボワールのクーデター騒ぎ
ぐらいしか最近思い付かん。
俺が中学生の頃、日本史担当の教師が、「日本は戦争責任が〜」と授業で 述べた。その女性教師は、普段から授業でそんな事を言うってのは結構知 られていた。中にはそうじゃないヤツも居たんだろうけど、多くの生徒は彼女 に感化されていたと思う。 んで、うちのクラスでもそんな話をしてたんだけど、その時1人の男子生徒が 彼女の話を中断させた。彼は某国と日本のクォーターだった。普段からあん まり喋る方じゃなかったんだけど、その時は全然違ってた。 生徒「俺のじいちゃんは、日本の兵隊に優しくしてもらったって言ってました。 皆礼儀正しく、差別もしない人達だったって」 教師「でも、酷いことも…」 生徒「後から来た、アメリカの方が酷かったって言ってました」 教師「貴方のような考えの人もいるかも知れないけど、それはごく一部で…」 生徒「ごく一部じゃ駄目なんですか?」 教師「そういうことじゃなくて…」 教師「俺のじいちゃんの国は凄く小さいです。他の国に比べれば全然重要 じゃないかも知れないけど、日本人は、そんな国も大事にしてくれたって言っ てました。戦争の時、仲良くした日本兵はみんな笑って出掛けて行って、誰も 帰ってこなかったと言ってました。国旗も日本を真似ました。みんな、日本を 尊敬しています」 このとき初めて、パラオという国を知った。それと同時に、遠い南洋の島を守っ て果てた、多くの日本兵の存在に泣けた。
パラオってペリリュー島がある国だよね。 アメリカによる核持込を拒否した国。 あと第4代大統領がナカムラという日系人。 親日国なのか。
中村か… BLAM!
393 :
名無し三等兵 :05/03/05 14:26:59 ID:GfuLV0UF
パラオも日の丸がもとのデザインの国旗じゃなかったかな? それもオリジナルに配慮(遠慮?)したデザインとどっかで聞いた
ウリナラマンセーのどこぞの国みたいな捏造話w ウリジナル起源のソースは?
395 :
名無し三等兵 :05/03/05 15:29:39 ID:+6lL7Mp3
フィリッピンだか、沖縄でお互いに塹壕にひそんで退治していた日本軍歩兵と 米軍歩兵がかけあいをやっていた。 日本「米軍はみんなくそったれだ、ルーズベルトなんかその糞のさいたるもんだ」 米軍「たしかにそうだ。お前、いいこと言うなぁ。ルーズベルト夫人もろくでもないやつだぜ!w」
>>391 パラオの8割の人は、日本人っぽい名前を付けてるそうだよ。
でも、4代大統領は日系人らしいね。
パラオの国旗は、日の丸をリスペクトしたもので、
満月は太陽(日本のこと)に照らされないと輝かない、という意味があるそうです。
ついでに、パラオ語には日本語をもとにしたものが多くあるそうだけど、
大戦当時の日本語なので、「乳バンド」・・・orz
旧植民地国家には、宗主国民の代理となって現地住民を管理する、 宗主国民と現地人との混血たちがいた。 その、現地人貴族とも言うべき人たちにとっては、日本は今までの権益を 破壊した憎むべき存在。 東ティモール独立は、ポルトガル人とインドネシア人との混血、すなわち 元現地人貴族による独立騒動。 だから、独立後は公用語をポルトガル語にしたりと無茶苦茶なことをしている。 東ティモール政府要人達の写真を見る、エキゾチックな顔立ち、明らかに混血 な事からもそのことがうかがえる。 期待していた埋蔵量豊富な地下資源は、そのほとんどが独立支援の見返りと して西洋諸国に切り売りされた。 独立運動に参加した一般の元インドネシア人達は、呆然としている こんなはずじゃなかった……
そもそも東チモールってなんであんな国境線なんだ? ポルトガルとオランダの間にどんな話し合いがなされたんだ?
日本の国旗にあやかったのはバングラデッシュもだな。 マケドニアの現在の国旗が日章旗っぽいけどあれは全く起源が別だし。でも少しは参考にしたのかも?
>>398 ヨーロッパの国の植民地で、おいしい汁を吸ってた華僑が、
日本軍に締め出しを食らって、悪い噂を流しまくったらしい。
結局、朝鮮人と中国人は、恥知らずの民族だってことだ。
>>400 バングラは日の丸にあやかったわけではないと聞いたが
>>399 東チモールは元々は独立国家だったから
そのときの国境線じゃないかと思うんだが
>>390 確かに日本軍も蛮行した点はあるからこの教師の言うことも一理あるかも知れん。
俺はこういう糞教師大嫌いだがな。
てかまだ判断能力のない中学生を右でも左でも
偏った香具師が授業すること自体おかしい。
軍隊が全部ブタだ、平等に価値が無いと言うならまだ信じられる
そりゃね、たくさん人間がいれば、変なことする馬鹿は少なからずいる。 だからといって、それが全てかのように言うのは、よくないよね。 もし逆に、数少ない美談を、あたかもそれが一般的にあちこちで 見られたことかのように言っているのであれば、それもよくないね。 漏れが通ってた高校の社会の先生は、学生にはキチガイ右翼とか言われてたけど、 いま思うと、右翼でもなんでもなくて、非常にまっとうなことを言ってたよ。 まっとうなことを言ってるのが、キチガイに見えるというのは、 一般の小中学校の社会科の内容は、よっぽどキチガイじみてるんだよな・・・。
>>407 そう思ってるのなら、先生にそのむね手紙でも1通送ってあげれ
中国戦線に出征したじーちゃんに、南京事件のことを聞いたことがある。 「便衣兵が怖かったけど、普通の人は普通に商売とかして暮らしてたよ」と言ってた。 南京大虐殺があった!と言ってる人たちに抗議したら?と言ったら、 「まーしゃーないわな。ワシらは負けたんだから。負けた人間が後になって口を出すのは恥ずかしいことだ。 ワシらが負けなんだらこんな人らも出てこんかっただろうしなぁ」 苦笑いのような泣いてるような、なんとも言えない顔をしていたのを思い出す。
便意兵が国際法上まったく軍隊として認められないのは分かっているけど、 自国が侵略されたときにどんな手段を講じてでも防衛しようとするのは、 本質的には正しい気がする。 逆にそれら市民による(市民じゃないと言われるかもしれないけど)、 蜂起も想定してそれでも尚、侵略戦争を行えるかという議論が、 当時の軍部、政府に足りなかったことが日本にとって不幸だったなと 最近は感じる。
それは沖縄にも当てはまるな
>>409 随分と自分勝手なジジイだな。
負けたあんたらはそれでいいかもしれんが、
関係のない俺らにまで負債を押し付けられるんだよ。
自分らの世代の不始末は自分らの世代で後始末しろ。
子孫に迷惑かけんじゃねーよボケ
一兵士に罪は無いだろが
つくづくシナ人は凄いと思う。うまく悪者にされたよなorz 2000年以上の戦乱の経験と歴史は伊達じゃないよ。。 日本人は戦争のやり方が下手すぎるw 大日本帝国憲法に根本の欠陥があったと俺は思う。 話は変わって、昨日のNHKスペシャル「東京大空襲の被災地図」見たけど、、 犠牲者の導線をCG化したのは怖かったよ。小学校、橋、駅に殺到。 とくに小学校での話とCGは強烈だったな。トラウマになりそうだ。 次の日はどこもかしこも焼け野原。どこ逃げても死は免れなかったんだ。。 見た香具師いる?
鬱になるのが 明白だったから 見なかった
>>413 左翼教師やプロ市民の多い世代の連中にもそれを言え。
俺らや俺らの子供の世代は、もうそんな昔の事どうでもいいんですってな。
>>409 じゃあ今必死になって偽写真検証したり
中共プロパガンダに対抗しようとしてる人たちは
恥ずかしい人たちなわけか。そのジジイに言わせれば。
ほんとに負け犬奴隷というか力の信奉者なんだな。
つうか中帰連じゃないの?
>>419 >>409 の爺さんは戦争に負けた自分達が口を出すのはおかしいと言ってるのだろうに。
しっかり読め。
太平洋戦争(大東亜って言ってほしい?)を今の価値観で
断罪するのはおかしいと、常々保守系の人たちは言うけど、
「敗軍の将、兵を語らず」と教わった昔の人を
今の価値観で
>>413 や
>>419 みたいに責めるのはおかしい。
責めるのであれば、一億総無責任の体制を作ってしまった
戦前の天皇制、政治体制を責めたら?
最近でこそやっと旧日本軍はそれほど悪くなかった等の主張が出てきたけど ついこの間までは、そんなこと言おうものなら即右翼認定だったしね。
>>420 つうかそれが負債を子孫に押し付けてるってことだろうが。
当事者が何も言わないんじゃ、認めたも同然。
やってもいないことをやったんだと言われて、
反論もしないんなら世界中がやったのだと認定するだろう。
そしてやったことされたことのツケを払わされるのは、
あとは死ぬだけのジジイ共ではなくて俺ら。
結局子の世代が何も言わぬジジイ共の代わりに反論しなきゃいけない。
あーめんどくさ
「敗軍の将、兵を語らず」 を勘違いしてる馬鹿がいるな。 敗将が拙い戦をして負けた言い訳をしたらみっともないということと、 やってもいないことをやったことにされても反論もしないことと 全然違うだろ。 ことわざ辞典買って来い
426 :
421 :05/03/07 19:03:35 ID:???
>>424 字ずらにマジレスですか・・。ゆとり教育は怖いね。
>>425 ことわざの意味について、間違いであれば
ことわざ博士の425にはすまんかったと謝るしかない。
ただ価値観としてそう教わっている世代の人達は、
負けた戦に関して、たとえ正論であろうと
そのことを語るのが恥と考えるから、
話したがらないんじゃないといいたかったんだけど。
それと2chだからしょうがないけど、
個人を攻める前にまずその当時の政治体制を振り返って、
反省、改善しなよ。
いつまでもシナだのチョンだの中帰連だの言って、
差別、侮蔑をしているとまた次やったときにまた負けちゃうよ。
>>426 どうしても政治体制批判にもっていきたいようだねw
つうか負けた戦に関しては正論であろうと語るのが恥なんて価値観
どこにあんだよw
それはあなたの思い込みです。
戦後無数の従軍体験記・戦記が出版されてますが。
>個人を攻める前にまずその当時の政治体制を振り返って、
>反省、改善しなよ。
何で俺らが反省しなきゃいかんの?
また戦後世代に罪なすりつけですか?
>>427 別にお前は反省しなければいいだろ?
自分の身は自分で守るのはごく当たり前のこと。
自分の身を守りたいんだったら、自分で調べて理論武装すればいいだけのことだろ?
それを「迷惑が掛かる」とは馬鹿としか言い様が無い。
甘えるのもいい加減にしろ。
「やってもいないことをやった」という人間を恨むならともかく、
それを否定しなかっただけの人間を恨むのは、物の真理を見据えられない奴のやること。
>いつまでもシナだのチョンだの中帰連だの言って、 >差別、侮蔑をしているとまた次やったときにまた負けちゃうよ。 一つはっきりさせておこう。 奴らは現在進行形で反省も改善もしてない。
ヽ=☆=/ ( ;ω;)<もうやめて…
>>428 レスにちゃんと答えろよw
支離滅裂になってるよw
歴史を政治の道具としか考えてない連中が「泣ける話」スレを潰す。 右方向からだろうが左方向からだろうが、 歴史の現場に立ち会った個人の想いを後知恵で愚弄し踏みにじるという点で 同じレベルの糞だとしかいいようがない……
モマイラ、作り話で熱くなるなよw
取りあえずスレ違い連の方には猛省をおながいします。
436 :
421 :05/03/07 22:51:34 ID:???
もう俺は最後にします。
>>429 古典をあたると、
侵略戦争を成功させる方法の一つに、
「あらゆる手段を講じて、相手側民衆の激情を抑えよ」
とジョミニは書いている。
また石原莞爾は
「敵に十分な敬意をはらうべし」
と書いている。
>>431 428は俺じゃないから。
>何で俺らが反省しなきゃいかんの?
>また戦後世代に罪なすりつけですか?
擦りつけではなく、次に勝つための布石。
>>436 あんたまた懲りずに侵略戦争する気でいるの?
煽りあった時点でどっちが正しいとかはなくなり、 双方共に価値なしである
スレ違いの議論に涙が出てきますね。
春厨の季節ですね・・
442 :
名無し三等兵 :05/03/07 23:46:42 ID:oDMHLCdf
晒し上げ
>>409 のじーさんは、
戦争に負けてそれまでの価値観がまるっきり変わってしまった現代の人間に、
自分達がどんな思いでどんなことをしたかを話しても伝わらない・理解されないと
わかっているから何も語るまいと言ったんだろうと思う。
そういう価値観が戦後ガラリと変わってしまった世の中になったのも、
自分らが負けてしまったからという気持ちもあるんだろう。
↑ 蒸し返す馬鹿
次に戦争しないように努力すれば良いのではないのか? もし戦争になったらこう言う話を思い出して無用な殺傷や虐待は避けるよう努力すればいいのではないのか? 同じ事を繰り返したら先人たちの命を無駄にする事になりかねません スレ将兵はもうすこし落ち着いて任務にあたってください
戦争しないように努力するのではなく、 戦争で負けないように努力すべきだ。 奴隷解放戦争についてどう思うよ。 奴隷のまま使われているのと、 大勢の犠牲者を出してでも解放戦争を戦うのと、 どっちがいいと思う?
447 :
446 :05/03/08 18:18:53 ID:???
一概に戦争が悪いとは言えない、ってことなんだよ。 ガンジーは偉い人だとは思うけど、 そのやり方で大勢が死んでいること、 そして、あまり効果がなかったことを忘れてはいけない。
奴隷解放戦争って何? まさか南北戦争?
↑ああ、大東亜聖戦論ね。プ
植民地の奴隷的な支配から経済的な支配への転換 これは、同じ植民地支配でも、かなり違うぞ。 前者は人間が猿と同じ扱い、後者は人間として搾取。
>449 プ
そろそろ泣ける話を聞こうじゃないか
ドイツ、モーゼル川沿岸のある村に小さな記念碑が建っている。 碑面には、 『世界大戦に、四十八人の人がここを通って出征した。 しかし、三十七人はまだ帰ってこない。 その人々の帰りの目印しのために、この碑をたてる。』 と刻んである。 日本にもこういうのあるのかな。
そういう詩的な言い方はしないけど、 忠魂碑なら大概どこの集落にもあったもんだよ、戦前は。
軍人の銅像などは片っ端から撤去されたしね。
俺(19)の話だけどさ、俺の親は戦争経験者じゃないし、俺も平和ボケしてて戦争って聞くと、戦争映画のイメージが強い。 パールハーバーやプライベートライアンのような感じ、「衛生兵!」って叫んでいるシーンとか観てカッコイイと思った。 それで、俺のじいちゃんについてばあちゃんに聞いてみた よかれん?とかわけのわからない単語が出てきて、何かわからない… じいちゃんの兄は海軍だったと聞いて、兄の話を詳しく教えてもらった。 じいちゃんの兄は駆逐艦「あけぼの」に乗ってて、頭が凄い良くて…って色々話を聞いた。 あけぼのは、撃沈してまだ遺骨も回収されてないことも聞いた。
続き そして俺は、戦争について調べてみようと思った。 今までゲームや映画や漫画で出来た自分の中の「戦争」というものが何だったのか!?と衝撃を受けた。 俺みたいな平和ボケに侵食された人間は何人いるんだろうか?と考えてしまった。 徴兵で戦地に赴いた人達のことを考えただけで、涙腺が緩んできた…何の前置きもいらなかった。 慰霊碑を見てもただ、俺は泣くことしか出来なかった。何かを言う資格もないと思った…。 俺みたいなバカが今まで戦争を軽視していたことが、恥ずかしくなった。
続き 映像や文字では臭いも痛みもわからないし、未だに死体すら見たことがない俺にとって理解は出来ないと思う。 これからもこの歴史は後世の人間に伝えていく義務が、俺や俺より若いやつにあると思った。 俺が死ぬ前に戦争が起きるかはわからない。 だけど、もし起きたなら俺は出来る限り死者を減らし、早く戦争が終わるように働きたいと思う。 それが英霊達が教えてくれた遺訓だと思ったから。
戦争は悲惨だ嫌だと感情論で言い過ぎるあまり、 知識層まで戦争を学術的、政治的に語れなくなった日本が泣ける。
軍板に興味を持つ人間が よかれん?じゃねーよボケ 見え透いてるんだよ
>>460 もともと、日本の知識層ってアホばっかな感じ。
感情論ばっかでわめき立てる奴らが主流で、
冷静な判断する奴はたいてい異端視されてる。
馬鹿な文系がのさばりすぎなんだ。
とにかく、日本の公立の小中学校での、偏向教育だけは、なんとかせねば。 スイスの話をすれば、大抵の人が、左翼教師に騙されていたことに気がつくのだが。
スイスは永世中立国で、平和で理想的な国です、みたいなことを言う馬鹿教師がいるのよ。 実態は、孤立無援で戦う国民皆兵の軍事国家で、 対立する両陣営に兵器を売る死の商人で、 外国に傭兵として出稼ぎに行くような国だ、 なんて言うと、たいていの子供は、騙されていたことがわかるみたい。
集落に民家に偽装したトーチカがあったりとかな。
中立政策だって、パワーバランスがコロコロ変わるヨーロッパで 生き残るために必死で編み出した方法論だし。 頭でっかちな理想から生まれた物ではないし。
密かにナチに協力したりもしてたしね 生き残るためだけど
スイスの国民総動員の防衛体制知られるようになって、 コスタリカを非武装中立と持ち上げた馬鹿なサヨも居たな。 たとえ警察を名乗ろうが、あれの実質は米軍のバックアップ で育てられた軍隊な訳で・・
>>470 しかもアメリカの経済援助を受けており、実質は政治的に中立ではないしな
非武装中立なんてのは奴隷の論理だということが分からん馬鹿が日本にも
たくさんいるからな
非武装の国が侵攻を受けたら国連が黙ってないとかいう馬鹿もいるんだよね。 日本が常任理事国入りし、国連の主導権を握り、自衛隊を国連軍にするなら、それでもいいが。
学校でイジメを経験しても、何も学ばなかったのかね 脳内がお花畑な人々は。 必要なときに確実に自分を救ってくれるのは、 けっきょく自分の判断と力だけなのにね。
>467 主要な橋梁には爆薬設置用の孔が準備済み、 主要国道の国境付近は対戦車障害の設営を考慮済みだっけか。 まぁ生き残るためってのと、 周辺国にしても直接国境を交える国がそういう国だと色々便利ってのと、 わざわざそんな山の上を攻めて行くのが面倒とかの利害の結果だよな。 確かオーストリアも予備役動員数が結構な即応能力持ってた希ガス
>学校でイジメを経験しても、何も学ばなかったのかね いじめる側だったんで無問題
大叔母っていうのかな、うちの祖母の姉妹なんだけど、ずっと独身のおばあさんがいるのよ。 過去には何度もお見合いをしたんだけど、全部断ったということ。 なんでも戦争中海軍の将校と深い仲になったんだけど、その人が出征したまま帰ってこなくて、 きっとその人に操を立ててるのね、というのが母や叔母の話。 その姉である私の祖母も、親には内緒で横須賀まで私の祖父とは別の男性を見送りに行ったことがあるとか。 似たような話は日本中いっぱいあるんだろうね。 その大叔母はもうひとり戦争未亡人である妹と一緒に、年金と恩給と私から見て曽祖父の人の遺産で何十年も二人きりで暮らしてる。 なんかやっぱ浮世離れした人雰囲気のある人たちで、決して暗くて不幸そうだったりするわけじゃないんだけど、 でもこの人たちの六十年てどういうもんだったのかなあと思う。わかんないけど。
美談だけど社会不適格者だな。
>>477 私たちとは違う社会に住んでいますか?
単に死んだ(?)昔の男より良いのに出会わなかった結果だろ
ここは、泣ける話をするスレです 決して第二次世界大戦だけの話題ではありません!!
>>478 旦那を事故で亡くして再婚しない人はたくさんいるが、再婚する人もまたたくさんいる。
ただ、日本国民として産まれたからには、結婚して子供を産み、育てなければいけない。
過去の遺産を食いつぶしていては、日本には将来はない。
日本国憲法で国民の義務に、勤労と納税だけでなく、子育ても入れるべきだよな。
まぁ今だったら、戦地に行く前に精子を保存できるな。 当時に、その技術があれば・・・。
空爆して、みんな焼いてしまえばいいんだよ。巨大なキャンプファイアーだと思えばいい。 人型の炭化物なんて気にするな。 これがこれからの日本の戦い方だ。かつて日本がそうされたように。
>480 子を産むことだけが社会の貢献だと思ったら大間違い。 つーか、どの口がそんなクチを利くのかね。 一度君の親の顔を見てみたいな。
476に付け加えると、祖母姉妹の一番下に知的障害の妹がいて、その人の世話をしなきゃっていうのもあったらしい。 それに曽祖父が全寮制の療養所兼私塾みたいのやってて、そこの子供たちの世話なんかもしてたらしいから、 なんていうかこう、独身でも家庭的な満足みたいなのはそれなりにあったのかもしれない。 確かに生産的な感じではないけどね。昔のお嬢さんがお嬢さんのまま年取ったような感じで。 不幸な感じでは決してないけど、なんかこうね。自分の勝手な感想だけど、しょうがない悲しさみたいなのはあるかなあ。 「八月の鯨」って映画に出てくる老姉妹とよく似てる。
>>483 親に産んで育ててもらった口が言ってるんだよ。
自分がやってもらったことを、やってあげることは、ごく当たり前のことだと思うけどな
戦後だと、女性に較べて男性が少なくなっていた時代でしょ? その状態で全員結婚しろ、というのも無理な話かと。 まして操を立てちゃったんなら仕方がない。 現在の負け犬と一緒にはできないと思いますよ。
大体にして、昔は今と違って一人の男性(女性)の事を一生思い続けて死ぬという価値観が普通にあった時代でもある。 今も残ってるかどうかは知らないが、昨今の若い女性にはまず見られない考えかただよな。 現代の価値観で昔の時代の人の考えかたを計るなって話だよな。
ともに白髪の生えるまで。 比翼の鳥、連理の枝のごとく、 一度結ばれた相手とは一生添い遂げる… 戦死通知が来ても再婚せず待ち続け、実は生きていた旦那や恋人が 帰ってきたっていう話は過去スレにも多かったじゃないか。 別な相手と結婚するのが必ずしもよい結末を迎えるとも限らんよ。 むしろ、捕虜になりシベリア抑留されて必死な思いで帰ってきたら 妻や恋人が別な男と一緒になっていたら男の方には悲惨な話だ。
>485 他人の人生を侮辱してることに気がついてないの? キミ。
>>489 どうせ単なる評論家気取りが、雑誌の記事を受け売りしてるだけだろ。ほっとけ
>>397 日本はアメリカとの戦争には負けたが、
アジアの独立という目的は達成できたわけだ。
第二次大戦最大の負け組は、
アメリカのおかげで戦勝国になれただけ、
それでも多くの植民地を失ったにもかかわらず、
二度の大戦と一個のW杯
などと偉そうに唄っている某国。
コヴァまるだしの自分の醜さに気づいていないのか……
494 :
名無し三等兵 :05/03/14 06:52:39 ID:gmZnzRl0
>>490 せっかく生還したのに・・・。・゚・(ノД`)
>492 あー、軍事板ではそういうこというと笑われるから注意。
>>496 実利は得られんでも大義名分は果たしたわけだし、
笑うようなことでもないと思うんだけど。
>>497 笑うようなことでは確かにないが、アジア解放は日本にとって目的ではなく
手段だったと思われ。後スレ違いなので貴殿が話を続けたければ該当スレを
探して指定してそこに移動して続けるべきだと思う。
入院中でベットのうえから一言。 泣ける話より無駄話が多かった...φ(.. )
500 :
名無し三等兵 :05/03/14 21:02:50 ID:xRreyxrF
入院6日目。新しい人が来た。従軍された方で陸軍 の戦車部隊整備隊の方。 最初は習志野へ配属、その後北方へ。終戦三日後、 ソ連軍上陸。大半を叩くも負けてシベリア送り。 22年春に故郷へ帰る。 その間に戦車の故障はそんなに無かったって。 他に何を聞いておくべきだろ?
>>500 おぉ!占守島におられたのか?
是非それを聞いてくれ!!
503 :
名無し三等兵 :05/03/14 22:14:41 ID:wMkaxufH
日露戦争の時、旅順口閉塞作戦に於ける広瀬中佐の戦死は涙物であると思う。 広瀬中佐と杉野兵曹長は、第一回・報国丸に続いて第二回・福井丸の指揮官と指揮官付で、 明治37年3月27日午前4時に福井丸は港口に辿りつき、船に爆弾を仕掛けて退去するため短艇に乗り移ったが、 杉野兵曹長が戻らない事に気づいた広瀬中佐は三度船上に戻り探したが見つからず、 短艇に戻った広瀬中佐を敵砲弾が直撃し肉一片を残して壮烈な戦死を遂げた。 その他、日露戦争は泣ける話、滑稽な話を含め話題が多い。
「杉野ー!杉野は何処にあるかー!」 ・・・ 幼き頃、このネタを最初に見たのは、 「マカロニほうれん荘」であった。
>>504 オレは究極超人がどうたらこうたらのマンガで見たな
>504 杉野兵曹長のご子息も海軍入って長門の艦長。 終戦後に着任てのも泣ける。
>497 大義名分なんぞはただのお題目だろ。 そんなくだらないもののために数百万の国民を死なせるんだもんなあ。 泣けるぜ。
そのために国民は死んだわけではない。 嘆くには当たらない。
つーかスレ違いの話を蒸し返すな。
511 :
500 :05/03/15 05:41:11 ID:ODsFOM5W
携帯でカキコ読みにくいかも知らんが勘弁。 北方へ配属したときは、米1/3昆布1/3鮭1/3の飯だ ったそうだ。米などは約10年分貯蔵してあったが、 終戦で皆、心逝く迄ぱくついたそうだ。 ソ連上陸。物凄い濃霧で視界は50Mとかで戦闘。 戦車兵で自棄になったのが戦車の上で仁王立ちにな り「好きにせーい!」。打ち抜かれて戦死した戦友 がいたそうだ。 上陸軍の大半を薙ぎ倒したが敵の対戦車砲で我が方 の戦車がやられたそうだ。 旧陸軍は余り詳しく無いが戦車の名前はチハと3号戦 車だけ。危うくその方にチハタンとか言いそうにな ったーよ(´・ω・`)
三号戦車? もしや三式中戦車?
513 :
500 :05/03/15 05:56:56 ID:???
ごめん。そっちだね。 陸軍の戦史は詳しくないんでねぇ(´・ω・`) 新紀元社の陸軍兵器ガイドが手元にあればなぁ… その人、あの時代の自分を振り返ると、大変でも楽 しかったて。以外な感想だったよ。
>>513 いや、こっちこそ揚げ足取りみたいでスマソ。
その方はソ連から北海道を護った英雄の一人と言っても過言でないです。
>あの時代の自分を振り返ると、大変でも楽
しかった
まあなんだかんだ辛いことも多かっただろうけど青春時代だからなぁ。
それだけ強く逞しく生きてきたんだろうなぁ。
515 :
500 :05/03/15 07:29:33 ID:???
シベリアではひもじい生活だったそうな。 パンが葉書サイズ一個で一日終わり。寒いし大変だ ったそうだ。 何か焼却灰とセメントで軽い煉瓦みたいなのでアパ ートを作る時にスコップとかを壁の中に隠したそう だ。ソ連兵に仕事しろと言われても、道具が無いと 言い返し、サボったそうな。 後から見つかって、一列に並ばされ銃口を向けられ た時はチョッピリびびったそうな。 トーキョーダモイ。 長く抑留された奴は一所懸命で頑張る奴で、俺みた いないい加減なのは、早く帰れたそうです。
516 :
500 :05/03/15 08:09:40 ID:???
聞けた! 占守島配属されてたそうだ。島の内陸は原っぱの素 朴な処だそうな。 南方とか戦地と違って一年いたら一年の分の恩給だ そうな。 海峡には末期に頻繁に輸送船が海峡彼方を行き来し てるので、もしかして来るかも…とは思ったそうな。 来たときは、オラー!で戦かえたそうだよ。 その方、受け答えもしっかりしてて、爺ちゃんより も話がはずむ。
517 :
501 :05/03/15 08:36:22 ID:???
>>516 その方が所属されていたのは、戦車11連隊(池田末男大佐)でしょう。
8月15日ポツダム宣言受諾後ではあったが、既成事実を作りたい
ソ連は17日未明に占守島に上陸を開始。
占守島を守備していたのは、第91師団(堤師団長)。
携帯とのことなので、簡単に書きましたが、このネタでいろいろ会話してみてください。
518 :
500 :05/03/15 09:23:04 ID:???
聞けた! 第11連隊所属で池田大佐の指揮下で戦ってたそうな。 最初は南の広い方へ防御陣地を築いたが、北の突端 から上陸してきたので、戦車隊が急行したら各個撃 破されたそうです。 追い付いた歩兵や砲兵連隊でソ連を薙ぎ倒したそうです。 11連隊で戦死された英霊は今静岡で眠ってるそうです。 情報サンクス。その方は上のカキコをみて、目を細 めて懐かしんでましたよ。
519 :
501 :05/03/15 09:33:37 ID:???
おぉ!感動する! 今日は会社が休みなので引き続きネタをカキコするが、 今から昼まで出掛けるのでスマソ。
伝説の生き証人発見age
521 :
500 :05/03/15 11:12:56 ID:???
すまん 退院になっちゃったーよ(´・ω・`)
良かったじゃん。
このスレ御覧になられてるのか・・・ 上の方のくだらん口喧嘩が恥ずかしい。 御覧になられているのなら一言、 ただただ感謝しております。
ガチの英雄に会えてよかったじゃん
525 :
501 :05/03/15 13:59:52 ID:???
>>521 まずは退院おめでとう。
>>518 での話は、占守島での戦闘記録と同じような話だったので感動した。
戦車隊はソ連の対戦車ライフルにやられて、歩兵部隊が奮戦し
一方、九七艦攻4機、一式戦隼4機の陸海混成部隊が洋上の敵艦船に
反復攻撃を加えたりと何とか食い止めたらしい。
>500さん、良い話をありがとう。
占守って三式戦車配属されてたのか。11聯隊の篠田民雄という方の 証言では砲戦車すらなかったとされていたんだけど、中隊によって 違うか聯隊本部に置いてあったのかな?
527 :
500 :05/03/15 15:33:03 ID:???
帰宅しますた。 その方は痛みに並みがあるようで、今日はかなり辛げだったので、 それ以上聞けませんでしたm(..)m 車で20分位のところの方だったので、良くなったらもっと話聞 きたかったなぁ。 あと戦車は実際どうでした?と聞いたら、「普段みてたから何と も思わないが、アメリカの戦車を見たらやっぱり日本のはオモチ ャだったなぁ」と遠い目をしておりました。 やっぱ生で聞く話と活字で読むのでは違いますな。 後言っていたのは、北方に関する当時の資料を図書館などで探し ても無いねぇ。そーゆーの探してるんだがのぉ・・・と申してま した。 病室に持ち込んでた本は新紀元社の第二次大戦将軍ガイドと光人 社の福井静夫著作集・日本補助艦艇物語、他違うジャンルの本…。 ごめんよ。当時の陸戦関係の本ってほとんど持ってないんだ。 漏れもそっち方面のを探してみよう… じゃ!ノシ
>>527 501です。乙彼です。
確かに北方関係の資料(本)は殆ど見掛けませんね。
私が得た占守島のソースは、新人物往来社 別冊歴史読本「日本本土決戦」です。
わずか2ページの記述ですが、占守島の国端崎の写真は載ってます・・・。
一気に神スレか
占守島の戦いに関する本って何冊か出てたような気がする。 あと歴史群像では占守島の戦いそのものの記事、参加した 元将校のインタビューも以前載ってた。 確か池田連隊長の御子息が戦友会の会長をしていたように。
おいおい、第十一連隊ってあの士魂部隊? ひゃー。生の歴史だよ。すげー体験したねえ。
533 :
500 :05/03/16 08:17:08 ID:???
>>511 旧陸軍は余り詳しく無いが戦車の名前はチハと3号戦
車だけ。危うくその方にチハタンとか言いそうにな
ったーよ(´・ω・`)
上の記述は自分から言い出した事です。殆ど陸戦兵器は記憶されてないもの
で。ですからその方の部隊がつかってたとかという意味では無いです。
読み方ではその様な意味の差が出てしまうように見えますが、なにぶん携帯
でのカキコでしたので、言葉足らずですみません。
いろいろサイトを見てみました。くぅ、その方にプリントアウトしてみて欲
しいなぁ。漏れも凄いお方と話せたんだなぁと、いまさら実感(´・ω・`)
>>533 同室だったよしみで、サイトをo/pしてお届けしてみては?
>>531 写真に捧げる
夏なお寒きカムチャツカ 占守の島の霧深く
敵上陸の報を受け 池田部隊の意気高し
奮戦既に三年余 大勢我に利あらずと
矛納めたる皇国に 牙剥き来たる無法者
座して虜囚となるよりは 我が同胞(はらから)を守らんと
祖国の弥栄を祈るとて 身を挺したる戦車隊
血潮流せし戦場は 緑の原と変われども
そのもののふの心根を 祖国よ忘るることなかれ
六十年を過ぎし今 冷たき風雨に晒されて
戦車は錆と朽ちるとも 士魂は朽ちず占守島
。・゚・(ノД`)・゚・。
占守島の話は、あまり知られていないだけに不憫だ。・゚・(ノД`)・゚・。
>>537 世の中が世の中ですからね・・・残念です
別に教科書に載せても良いと思うんだが… てか乗せて当然だろ。
教科書に載せても、授業自体が昭和まで達しないという事実。 ちなみに俺は、授業で昭和の歴史を教わったことが無い。
最近の教科書は、朝鮮人が英雄として載ってるらしいですよ? 泣けてくるね…
>>541 それはマジですか?
具体的事例をよろしく。
そりゃあなた安重根ですがな。
念のため聞きますが、それは日本の教科書ですか?
>>544 普通に俺の高校の教科書にも「朝鮮独立運動の英雄 安重根」
と載ってましたよ。(3〜6年前)
テロリストを英雄か。 あーあ・・。
え? 朝鮮独立派の中核だった伊藤博文を暗殺して、 朝鮮併合の背中を押したのが安重根だよね??
>>547 「それは日帝のプロパガンタによる間違った認識ニダ!」ってことらしい。
ぶっちゃけ、朝鮮人を載せたがったが、他に有名なのが居なかった様子。
伊藤博文も若い頃はテロリストみたいな事やってたがな
>朝鮮独立派の中核だった伊藤博文を暗殺して、 >朝鮮併合の背中を押したのが安重根 朝鮮人てどうしようもないバカだなw ハングルの編纂も朝鮮文化の衰退に危機感を抱いた 日本の朝鮮総督府が率先して行ったそうだね。。 人権擁護法案が最近は不安。日本はどうなるんだろう・・
そりゃ、あの人は孝明帝を拭逆し奉った大逆臣 伊藤博文に天誅を下した功臣ですよ。
せっかくスレ本来の流れに戻りつつあったのに。 「朝鮮」はNGワードだな。
同意ですね 人任せで非常に恐縮ですが、ここは500氏にまたお話を聞いてきてほしい。 又聞きでも英雄と同じ空気を共有したい!共有したい!
555 :
500 :05/03/18 09:33:00 ID:???
呼ばれた様なので、書き残し話をば・・・ 習志野に配属の時、その時いた部隊の半数がフィリピンへ送られてる時に 輸送船が撃沈されて、皆戦死したそうだ。内地にいたが、戦争の恐怖をそ の時実感したそうです。 北方配備で送られてる途中、北海道から千島列島に向かう途中、あちこち をぐるぐる回ったそうです。着く先で「おーあんたらは、ここじゃないぞ」 と又輸送船で別の所へ移動。何度かそんな事があって占守島についたそうだ。 その人曰く「軍隊ってなーいいかげんなところだよ、はっはっは。でも北国 巡りができたんだから、贅沢も言えないがなぁ」 また病院食を食べながら話を聞いてると、「若い頃にご当地の鮭だの食った から、○○県(伏せます・海無し県)にすむ様になってからは魚が不味くて のぉ。仕事で海辺の町に住んだこともあるが、あの頃食ったような美味い魚 はそれから、食った事ないのぉ」と申してました。 ガチ戦闘中話じゃ無くてスマソ。 別の病院に通院してて、自分で車運転できんので聞きいけないんでふ (´・ω・`) ゴメンネ
556 :
501 :05/03/18 13:52:33 ID:???
あの時の501です。 500さん、そんな話で結構なんです。 また、書き残し話があれば来てください。ノシ
おぉ・・・すごいスレだ。 どうしても「戦争」というと常に毎日戦闘して目をギラつかせて皆が生活していたような イメージがあるけど、実際に戦闘なんて従軍期間で数えるほどってのが大抵だよね。 そこにはツライことだけじゃなくて嬉しいことや楽しい事、笑いもあるわけで・・ 戦闘の話ばかり聞くよりも、軍隊生活の楽しかった事とか聞いたらそのじいさんも嬉しいんじゃなかろうかと思う。
558 :
500 :05/03/19 21:09:57 ID:???
そういえば、最近全然あってないけど、高校の時のダチの爺さん 戦艦武蔵が沈んだ時に二人乗りの飛行機に乗ってた・・・て言ってた なぁ。 シブヤン海海戦?99艦爆? ・・・まだ生きてるかなぁ||・ω・`) 明日TELしてみます。
>>557 おれもそう思う。
戦闘の話ばかりではなく、軍隊生活での笑い話なんかでも
良いのではと思う。スレタイとは微妙にズレても。
560 :
名無し三等兵 :05/03/20 01:14:25 ID:z1CspvWL
ドイツの話でもいいかな。私はドイツに友人(彼は日本人とドイツ人のハーフです。高校までは日本で同級生でした。母親がドイツ人で バイリンガルに育てようと努力したおかげでドイツがペラペラです。その友人から聞いた話ですが。) その友人の母方の祖父はもちろんドイツ人で戦中はヒトラーユーゲントだったそうで、戦争末期15になっていたおじいさんは、 せまりくるソビエト軍の前に動員されてベルリン攻防戦に参加させられることになったそうです。そして命令された場所へ、友人数人と歩いていったそうです。 するとそこには大量の兵隊さんがいろいろ忙しそうにしていたそうで、なんとかその部隊の指揮官がいる場所にたどりついたそうです。 で、そこは親衛隊の部隊ではなかったのですが、なぜかそこにSSの大佐さんがいたそうです。 部隊の指揮官の名前は聞いていたそうですが、そのSS大佐さんの名前はもちろんしらない。 大佐といえばすんごい偉い人なわけでもちろん緊張しながら敬礼したそうです。すると大佐さんは敬礼を返しながらこちらをちらりと見ていったそうです。 「補充兵か?」と言った質問をされたので、おじいさんと友人は説明したそうです。 するとこう大佐さんはいったそうです。 「子供がなにをしている!!!戦争は大人の仕事だ!!!子供は家に帰れ!!」 しかし、おじいさんは命令された以上、家に帰るわけにはいきません。ここにこいと命令をだした指揮官の名前などを言って、ここにおいてくれるように頼んだそうです。 するとその大佐さんはこういったそうです。 「戦争は大人の仕事だと言っただろう。君達は家に帰れ。そして家族がまだ家にいるならできるだけ家族と西へ向かえ。絶対に東の我々のところにはくるな。西だ西へひたすら向かうんだ。」 命令された以上帰れないとおじいさんはいったらしいのですが、すると大佐さんは寂しそうにいったそうです。 「この戦争はもう負けだ。君達もうすうす気がついているだろう。私たちは君達子供や、娘達を守るために時間を稼ぐだめにソビエト軍と戦う。君達が私の言うことを聞いて西へ逃げてくれれば私達には戦う意義が生まれる。 負けるとわかっている戦いだ。せめて君達を守るという意義をくれ。」 といったそうです。
561 :
名無し三等兵 :05/03/20 01:15:14 ID:z1CspvWL
それでおじいさんと友人たちは西へ逃げて逃げて助かったそうです。 戦後、その大佐さんを探したそうですがまったく消息不明で、名前すら聞かなかったことを後悔しているそうです。 友人からのまたぎきではありますがいい話なので投稿。 でも親衛隊じゃない部隊になんで親衛隊の大佐がいたのかは不明。 単純に混乱していただけなんだろうなぁ。
まったく、ドイツ人って奴はほんと堅気な奴らだな…。 戦争漫画の影響でそう思ってるだけかもしれないけど、こういうの見るとやっぱりドイツ人ってそうなんだって思う。
おぉすげぇいい話。。・゚・(ノД`)・゚・。
『橋』っていう映画を思い出したよ。・゚・(ノД`)・゚・。
正に軍隊の軍隊としての意義のために戦ったんだな…
566 :
名無し三等兵 :05/03/20 01:49:14 ID:z1CspvWL
ちなみにこの話の追加です。 その友達はドイツへ高校卒業後いってしまったのですが、メールなどのおかげでいまだに親交んが続いています。 というか、一年ほど前にドイツ旅行を計画して彼の家に一週間ほど泊めてもらいまして、そのおじいさんとも会うことができました。 友人の通訳で話をしたのですが、いまだに追い返されたおじいさんとその友達はその大佐を探しているそうです。 部隊名がわかっているのでドイツ政府に問い合わせたりもしたそうですが、もちろん、普通の国防軍の部隊で、SSの大佐なんているわけもなく、 いまだに全然わからないそうです。ただわかったことはその部隊はベルリン攻防戦の時にほとんど全滅。 生き残りも数名いたそうですが、東ドイツにいたそうで話を聞くことはできず、もう死んでしまったそうで、わからないそうです。 当時は毎日爆撃されておじいさん曰く、感覚がマヒしており、その大佐さんの言葉をありがたくは思ったものの、どれだけ重い意味を持っていたか、 戦後すぐにきがついて涙が止まらなかったそうです。 ちなみにおじいさん曰く、戦死したユーゲントももちろん多かったが、かなりの規模で、ユーゲントの子供達は現地の指揮官の独断で追い返されたらしく、 大佐さんを探す中で、同じように追い返された人々とそうとう出会ったといったいました。 そういう話を聞くとドイツ人は律儀だなぁと思います。
戦う意義か・・・重いな。
オットー・スコルツェニーだったりして
>>564 です。
ますます、泣けます。・゚・(ノД`)・゚・。
一方の日本軍は、 本土決戦に備えて戦力温存とかいう名目でB29の無差別爆撃にも 殆どなすがま。満州でも散々命令無視で暴走して たくせに、停戦命令だけは律儀に守り、民間人のことなどお構いなし で降伏。あげくにシベリアに送られて10万人も殺される。ヘタレ過ぎ。
ユーゲントの話、民間人を盾にした満州や沖縄と大違いだな。・゚・(ノД`)・゚・。
あぁやっぱり日本を引き合いに出す人が出たか。
せっかくスレ本来の流れに戻りつつあったのに。 「日本軍」はNGワードだな。
つーか、ワンパターンの嵐に反応すな。
スマソ。;y=ー( ゚д゚)・∵. ターン
日本軍は存在そのものがネタ。 普通にやっててもある意味涙を禁じえない存在なんだ。 とりあえずほっとけ。
577 :
560 :05/03/20 18:03:28 ID:z1CspvWL
他にもそのじいちゃんから聞いた、今度は感動というか、アメリカ人占領兵の結構いい話もあるんですけどかきましょうか?
スレ本来の姿に戻して!>560さん
>560殿 貴官の話の続きが如何したか、全スレ住人は知らんと欲す。 願わくばお話を続けられんことを。
581 :
560 :05/03/20 18:29:38 ID:z1CspvWL
了解、残念ながら米兵の乱暴狼藉ではありませんが。 まず、爺ちゃんはユーゲントだったわけで一応制服とかを着ていたわけで、西へ逃げたとき、米軍に臨時の捕虜収容所にいれられたそうです。 でも、爺ちゃんは体格も小さくなおかつ子供だったのですぐに開放されたらしいんですが、その臨時の収容所からだされる時には戦争は終わっていたそうです。 わずか2週間くらい入れられていただけだそうで、食べ物も結構たっぷりくれたそうですが・・・。その収容所から解放される時の米兵の一言。 「二度と君達が家から焼きだされることがないことを約束する。安心して家に帰れ」 (完璧なドイツ語だったそうです。おそらく捕虜収容所なのでドイツ語ができる兵士が割り当てられていたのでしょう。) と言ってくれたそうです。 他には占領されて数ヶ月たったドイツで爺ちゃんは家に帰ったのですが、米兵や英兵は結構町を練り歩いてたようで、おそらく米空軍の一団が近づいてきたそうです。 10人くらいいたそうで、初めは英語で話してきたそうでなに言ってるかわからなかったそうですが、そのうちの一人がたどたどしいながらドイツ語でこう聞いてきたそうです。 「ここらへんで食事か飲めるとかろはないか?」 みたいな質問だったそうです。んで、気が進まないながら一応教えると、 「ありがとう。君が我々の爆撃で死ななかったことを本当にありがたく思う。元気で」 といったそうです。 米軍は寛大で占領後にひどい目に合わされたことはなかったそうです。 爺ちゃんは従軍経験がその最後の時しかないので印象が兵士とは違うのでしょうが米軍は嫌いではなさそうです。
582 :
560 :05/03/20 18:32:00 ID:z1CspvWL
というか自分で爆撃しておいて白々しいとえばそうなんですが、米兵は結構明るいエピソードが多いなぁ。
100万人のドイツ兵捕虜が米軍収容所で死んだらしいが。
そりゃ虐殺もすれば子どもを助けたりもする。 罵声を浴びせたり優しい言葉をかけたりする。 人間なんてそんなもんだ。絶対悪も絶対善もない。
↑ バカジャネーノ
↑ 貴様も無駄なこと書いてないでネタの一つも投下しろ。
オラぁメリケンがきれえなんだ、良いメリケンは死んだメリケンだけだ
バカはスルースルー!
↑ スルー ↓
590 :
名無し三等兵 :05/03/20 19:11:03 ID:RhgYYQpI
566さん 命令されていったベルリンの場所は分からないですかね?場所が分かれば どこのドイツ軍部隊が守備していたかは分かるのではないでしょうか。ちなみに戦前のベルリンの資料なら 持っています。
591 :
560 :05/03/20 19:17:49 ID:z1CspvWL
残念ながらじいちゃんと直接メールしているわけではないのでわかりませんが。 ただ先ほども書いたように、爺ちゃんは完璧に部隊名は覚えていたらしく、ドイツ政府や、 ドイツの軍人が集まる会合にも出席したもののわかったのはその部隊がベルリン攻防戦の時に、 壊滅したらしいことだけだそうです。おそらくその大佐さんは戦死したのは確実だろうけど、 せめて墓があるなら墓へ、家族がいるなら礼をいいたいそうなのですが。 場所は私自身は聞いていません。 ちなみにその大佐さんはドイツ語は私自身は詳しくは知らないので、友人が教えてくれた ことですが、子供たちや娘を守ると言った部分の「娘」がドイツ語で言う複数形ではなかったらしく、 自分の娘のことを言っていたかも知れないということです。生きていてくれればいいですね・・・。
500氏といい560氏といい、急に良スレ化したなぁ
593 :
ゾル :05/03/20 19:31:48 ID:ToZGcg1H
実際には、沖縄戦開始前、陸軍は相当の船腹を譲って婦女子の疎開に当てた。 このお陰で九州・台湾に逃れて助かった県民も万単位でいた。但し、対馬丸のような悲劇もあって、予定より進まなかった。
594 :
名無し三等兵 :05/03/20 19:44:01 ID:vlZN5RV3
味「あ〜、弾がない。弾が」 敵「何、お前達の軍隊は弾切れか」 味「そうだ」 敵「そんなに困っているなら、弾をやろう」 ガキュン!ガキュン!
595 :
名無し三等兵 :05/03/20 19:46:21 ID:0s5f+fCx
>>593 とある疎開船に陸軍の高級将校が見送りにきた
「いいか、今は米軍の潜水艦は交替期だから大陸沿いから一気に九州に進め」
船長は高級将校の言葉通りのルートを進み、無事九州に辿り着いた
船長は戦後こう語る「長さんのおかげです」
596 :
560 :05/03/20 20:05:54 ID:z1CspvWL
ちなみに私は軍事マニアではありません。文章などにいたらないところも多々あるでしょうが、ご容赦を。 ちなみにドイツの爺ちゃんの話は後二つほどストックがあります。2つとも戦場での話ではないんですが、よろしいでしょうか? というかドイツのその爺ちゃんは戦場には実質いってはないんでそんな話ばかりなんですが。
>>596 全く持って無問題!と言うかぜひUPを…
東プロイセンから避難民、海軍軍人を乗せ、ドイツ本土へと出航したヴィルヘルム・グストロフ号。
しかし、ソ連潜水艦の魚雷攻撃よってあえなくバルト海に沈んだ。
>918人の海軍士官と海軍軍人、173人の乗組員、373人の海軍の女性援助者、162人の負傷者、4424人の難民、計6050人とある。
>1980年に英国人ジャーナリスト3名がこの惨事を検証し、犠牲者は7000人から8000人という結論にいたった。
>しかしその後、この事故の生き残りであるショーンが、さらに数字を書き換えた。
>彼が出した数字は記録映画会社が人の動きの分析した結果に基づいたものだった。
>私はショーンから次のような手紙を受け取った。
>「船が沈んだとき、1万582人の乗客が乗っていました。そのうち8956人が難民で、そのほとんどが女性と子供でした。
>魚雷が撃ち込まれた62分後に船は沈没、9343人が亡くなり、生き残ったのは1239人でした」
ttp://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0502/index2.shtml
>>560 さん
国防軍部隊にSS大佐がいたって話ですが、
ありえると思います。
ただ連絡のためにいたのかもしれませんし、会議のためにいたのかもしれません。
また東部戦線後期では兵力の不足からSS、一般部隊、戦車隊など兵種にかかわらず集まって臨時に部隊を結成する事もあったようです。
ですからその方面で戦闘していたSS部隊を調べた方が何か手がかりが見つかるかもしれません。
勝手なこと言って申し訳ないですし、役に立たない話と意見かもしれませんが、いいお話聞かせてもらってありがとうございます。
600 :
560 :05/03/20 20:53:14 ID:z1CspvWL
ではご期待に答えて、戦争中盤でまだあんまりドイツ国内には爆撃も少なく、爺ちゃんも平和にまだ戦争を身近には感じていなかった時。 時代的には1942年くらいだったそうです。ユーゲント関係の集まりかどうかは聞くのを忘れましたが、なにかの集まりで戦場から帰ってきた、 英雄の講演会?のようなものがちょいちょいあったそうです。戦意高揚のためか知れませんが少年達の前で勇敢な戦いのお話をしてくれるわけです。 まぁ、ソビエト軍の戦車を一人で数量撃破したとかいう中尉さんだったそうで勲章もみんなに見せてくれたそうです。ただ怪我をしていたそうでその傷も戦傷だったそうですが。 それで講演会も終わって質問タイムみたいな時間もあっていろいろ質問がとびかったそうです。爺ちゃんは以外と内気だったらしく質問はしなかったそうですが。 ただ、ある一人の少年が質問したそうです。 「怪我が治れば戦場に戻るのですか?」 ような質問だったそうですが。そこでその中尉さんはこう答えたそうです。 「もちろん戻る。戦場はとても厳しいものだ。けれど、戦場には戦友もいる。倒さなければいけない敵もいる」 そこで一度言葉を切ったそうで最後にこういったことが印象に残っているそうです。 「けれど一番、私が望むことは、全力を尽くして敵を倒し、死んだ戦友の仇を討ち、そしてなんといっても今日ここで私の武勲を賞賛してくれた君達が戦場に行く前に戦争を終わらすことにある。 私のその目的のために戦場に戻るのだ」と淡々と語ったそうです。 ちなみに若い中尉さんで、後に戦死が確認されたそうです。 >ですからその方面で戦闘していたSS部隊を調べた方が何か手がかりが見つかるかもしれません。 ありがとうございます。爺ちゃんに友人経由で日本人にもこの話を聞いて感動した人が大勢いたことを伝えておきます。 ちなみに爺ちゃんは近場のSS部隊も調べていたと思います。でも不明だそうで・・・。
601 :
ゾル :05/03/20 20:57:44 ID:ToZGcg1H
>>595 「長さん」?というと、この陸軍の高級将校は、長勇第32軍参謀長か。
うちの爺ちゃんは酒造会社の社長だったんだけど 出征する兵士の出発前夜に密かにお酒をあげていたんだそうだ
603 :
名無し三等兵 :05/03/20 21:03:00 ID:RhgYYQpI
560さん レスありがとう 戦前のベルリンやドイツに関してはいろいろと資料を持っていますので 少しでもお役に立てたらと思いました。ベルリン攻防戦では捕虜になったあるドイツ軍将校は 極東のシベリアの収容所からイランまで逃げて無事に故国ドイツに帰っています。 ドイツ語ですがSo Weit Die Fusse tragenという本です。そのことも聞かれてみてはどうでしょうか。 あとシベリアの捕虜収容所から赤十字を介して出されたドイツ軍捕虜のハガキも持っています。
604 :
560 :05/03/20 21:03:30 ID:z1CspvWL
おそらくここの人には釈迦に説法でしょうが、1942年と言えばモスクワ攻撃が失敗して、 戦争が長引くんじゃないかと感じ始めていた時なんでしょうね。この中尉さんはそれを感じ取っていたのではないでしょうか? そう考えるとこの中尉さんの「君達が戦場に出る前に戦争を終わらせる」という言葉は重いですね。
オマエのコレクション自慢されても困るンだよ。
606 :
名無し三等兵 :05/03/20 21:12:01 ID:RhgYYQpI
そのハガキにはシベリアでの過酷な生活の実態が書かれていました。運がよければ その大佐はシベリアでの過酷な捕虜生活を耐えてドイツに戻ってはいないでしょうかね。
だから死んだつってんだよ
608 :
595 :05/03/20 21:20:34 ID:0s5f+fCx
左の人にとって、日本兵の泣ける話は戦争美化なんだそうで。
戦わずして捕虜になった関東軍将兵。 イタリア兵にすら馬鹿にされ臆病者扱い。
611 :
名無し三等兵 :05/03/20 21:30:10 ID:RhgYYQpI
607さん すみません。言葉遣い改めたほうがいいですよ。
GSG9装備で今地震に立ち向かう予定 全裸で 俺の虐げてられてきた歴史は、1月からだった 1月、俺は、お年玉で銃を買おうとした そしてレジまで銃を持っていった 俺は、その日だけは、ニコニコ笑って過ごしたかった 越後屋店員が家に連絡をしてくれと言ったから 母のケイタイに連絡をしたが出ない というわけで銃を買えなかった 家に帰るとオヤジは、「勉強しろ」と言う この時から殺意が芽生えた そして母に何故でなかったのかと聞くと弟のマラソン大会に付き合ってた だとさ 俺を省みず 俺は、その夜声を上げて泣いた 自分を見てくれない家族に恨みを持って この日から俺の復讐は、始まった この前、俺は、叔父に3万、卒業祝いと入学祝、残りはお年玉でもらった するとオヤジは、3万全て強奪した、俺のお年玉も オヤジから3万母から1万奪い返す、必ず 母の1万は、俺の塾の運賃だ 絶対奪い返す、何があろうと
止めておけ。 貴官の大将殿は鋭いぞ、 既に夜襲を想定して、副官と共に布陣している。 あきらめろ。
一度玉砕しなきゃ悟れんものさ。
……、 副官と共に布陣し、兵力増強にハァハァと励んでおられる。
なぜすぐに荒れるのだろう・・・ いったいこのスレのどこに変な人を呼び寄せる魅力があるのだ
住人がスルーしないからだろ。 本当にスレを守りたいのかと小(ry
>>603 なんでハガキ持ってるの?
本来、それを持っているべき人に、返すべきなんじゃないか?
619 :
名無し三等兵 :2005/03/21(月) 09:39:55 ID:yacYnM2E
618 ある方から自分がこの分野(軍事)に興味をあると話したらこのハガキを送ってもらったという 次第です。
>>619 メール欄にsageと入れて欲しい。
それとレス番指定するならアンカー>>←これね、を付けて。
621 :
名無し三等兵 :2005/03/21(月) 13:49:05 ID:9NDSosoh
昭和17年4月ベンガル湾 海軍はビルマ攻略支援の為に連合国の通商破壊に当たっていた(小沢中将指揮) インド東海岸の北側を担当していたのは重巡「熊野」「鈴谷」駆逐艦「白雲」であった 輸送船団は組まれておらず、敵輸送船は標的艦のようなものだった 火災を起こした輸送船ではボートに船員が群がり、インド船員は白人船員を覆い隠してボートを降した これを見た鈴谷の艦員はボートに機銃を向け、機銃指揮官の指揮棒はボートを指している 機銃指揮官「撃ち方はじ」 「撃っちゃいかんぞ!」 艦長が艦橋から身を乗り出していた 艦長はボートが離れるを確認してから砲撃を再開させた。 艦長は木村昌福大佐であった。
インド人だから撃たなかった? 民間人だから撃たなかった? 戦闘能力なしとみなして撃たなかった?
624 :
名無し三等兵 :2005/03/21(月) 14:00:56 ID:9NDSosoh
>>623 2と3だろ、後は武士の情けみたいなもんだろ
>>623 連合艦隊戦訓48 によると
非戦闘員の扱いになるとして発砲しなかったらしい。ヒューマニズムだと。
インド人が白人を庇ったということ?
海軍は、船を相手に戦う物で 人を相手に戦う物ではないと 言う美学が有ったのではないかと。
628 :
名無し三等兵 :2005/03/21(月) 14:18:35 ID:9NDSosoh
まあ実際のところ良く訓練された敵要員は最優先破壊目標だったりする訳なの だけど。 米も漂流している敵兵員で捕虜にできない場合は銃撃しているし。
米人は空気読まないからな。 日本人は空気読めるから撃たないの。 米国人はショッカー以下の卑怯者。
帝国海具の場合、一度助けて希望を持たせておいてやはり銃殺してしまうという 手が込んだことをします。
>>631 ビハール号か?
以下他スレ(泣ける話@軍事板第4章)より引用
昭和19年、マレー半島ペナンに司令部を置く高須四郎中将麾下の南西方面艦隊
は、インド洋に於いて通商破壊戦を立案し、左近允尚正少将を司令官とする重巡
青葉以下の第16戦隊に出動を命じた。
3月9日、臨時に第16戦隊に派遣された重巡「利根」が、濠洲から肉、小麦などの
食料を満載してインドへ向かう英国商船ビハール号を発見、停船を命じたが、逃走
を企てたので砲撃して撃沈した。
その際、一旦救助した捕虜80名のうち65名を利根艦上で処刑したと言う容疑で、
左近允中将と、当時の利根艦長黛大佐が香港法廷で戦犯として裁かれ、左近允
中将は絞首刑、黛大佐は懲役7年に処せられた。
その左近允中将は昭和23年1月21日、「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」
と言うすさまじい辞世を残して刑場の露と消えた。
遺骨はもとより遺品も帰らなかったという。
20年後、香港をインドネシアに赴任する防衛駐在官が訪れた。
香港領事が観光案内をしようとするが、スタンレー刑務所の死刑囚監房と絞首台を
一目見たいという。
その人こそ、左近允中将の一人生き残った息子、尚敏二佐であった。
領事は意気に打たれて、様々な策を弄し、法務官と言うことにして、その刑務所と
内部の死刑囚監房、絞首台の見学を認めさせた。
彼は絞首台を見学した後、所長と喋っている間に、左近允二佐を絞首台に戻し、霊に
手を合わすように配慮までした。
左近允二佐は思いを遂げることが出来、感無量であったが、ゲートで所長に別れを
告げたとき、所長の一言に驚愕し、感動した。
「ミスター・サコンジョウ、お別れのお祈り、十分為さいましたか? ご満足頂けましたか?」
彼は騙されたふりをして、左近允二佐の鎮魂の手伝いをしてくれたのであった。
>>632 ちなみに香港領事とは佐々淳行氏
この模様は「香港領事動乱日誌」に詳しい
>>632 物資ごと沈めたのか・・・もったいない。
635 :
名無し三等兵 :2005/03/22(火) 10:44:23 ID:LDfGHdcD
昭和20年6月13日 東京帝大医学部薬学第二講座の落合英二教授は大学に残って、実験をしていた。 8時頃、研究室の窓が叩かれ「英ちゃん」と聞き覚えのある声がした 窓を開けたら、誰もいなかった。 後に妹の谷野せつは落合の話の中で 「科学者だから普段、霊とか幻とかという話を一番馬鹿にする兄貴が、大田が来たよ、と普通の話ようにしてました」 その日は義弟の大田実が自決した日だった・・・
落合一佐のとこ?
長男は日教組、次男は海自幹部のお方のことだ。
639 :
名無し三等兵 :2005/03/22(火) 18:07:37 ID:aDAYIW/o
沖縄はただの時間稼ぎでつよ。 つ沖縄
戦後まもない頃、海外に行った日本人が現地の人々から開口一番に言われた言葉 『あなたは日本人か?私はよく覚えているよ。 大日本帝国は凄い。 ドイツ降伏後三か月も全世界を相手に戦った! その勇気は称賛に値する』
だけど日本が開戦する2年以上前から戦ってたドイツ・・・・
首都が落ちるまで本土を焦土にして戦ってたドイツ・・・
643 :
(´Д`) :2005/03/22(火) 19:31:39 ID:???
核攻撃までされてやっと戦争やめた日本ばい・・・
644 :
名無し三等兵 :2005/03/22(火) 19:56:20 ID:LDfGHdcD
本土決戦してたら何人死んだかわからんから2ちゃんができなかった、 できてもアクセス数が今の半分になっている可能性がある。
646 :
名無し三等兵 :2005/03/22(火) 20:12:32 ID:LDfGHdcD
>>645 大ちゃんの世界となり、【北日本人は糞】とかスレが立つ悪寒・・・
第二航空戦隊のさいごはなけるだろ?
648 :
SDP :2005/03/24(木) 20:31:24 ID:???
戦争美化です。即刻閉鎖を求めます
>>647 聞かせてくれ。
PCの前で正座して待ってるよ。
>>649 ミッドウェイ海戦の飛龍、蒼龍が第二航空戦隊。第二航空戦隊の旗艦が飛龍。
赤城、加賀、蒼龍がやられて、仇を討つべく単独で攻撃を挑んだが、
その際に、飛龍の山口少将は攻撃機搭乗員に、こう訓示した。
「ひとつ、体当たりのつもりでやってくれ。俺も後からいく」
奮戦むなしく、ヨークタウンを道連れに飛龍は沈没。
小林艦爆隊長、友永艦攻隊長は戻らず、山口少将、加来艦長は艦と運命を共にした。
>>650 の追記
ミッドェイ海戦については、兵装転換など議論を呼んでしまうので、専用スレで。
3つ位あったね。ミッドウェイ関係のスレ。
652 :
649 :2005/03/25(金) 01:39:53 ID:???
>>650 サンクス。
>「ひとつ、体当たりのつもりでやってくれ。俺も後からいく」
・・・俺も後からいく (ノД`)・゚・。
言った本人はその言葉に殉じるわけだが、 まさかその数年後に同じ日本軍で 自分と同じ台詞を吐き、「後から」行かずに生き残った連中が ごろごろしてるっていうことをどう思うんだろう。
富永とか、富永とか富永とか
655 :
名無し三等兵 :2005/03/25(金) 09:45:50 ID:Yb6D1v7h
昭和20年終戦 各地で自決が相次いだ 高知県室戸岬である陸軍の青年達も今まさに自決しようとしていた。 すると連隊の少尉が駆け寄り鉄拳を青年に喰らわした 「馬鹿野郎、貴様らまで死ぬ道理はない いいか、死ぬ勇気があるならこの国を建て直せ、若者死ねば誰がこの国を建て直すんだ」 青年はハッと我に返り自決を思い止まった 20歳の野中広務であった(後にこの士官を野中は探すが再会は果たせなかった)
人間としては素晴らしいが、人を見る目は無かった訳か・・
素直に自決させとけば・・・。
おまいら野中が嫌いだからって… いや、オレも嫌いだけどさw 話「だけ」ならいい話だろ?
>>652 実は、この山口少将は、兵装転換をやめ、即座に攻撃隊の出撃を南雲中将に具申し続けたが、
受け入れられなかった。
これ以上はスレが荒れてもいけないので(ry
>>659 いい話ではあるが納得はできない
死ねばよかったのに
遺書: 「昭和20年5月22日この度、義烈空挺隊長を拝命、御楯の守りとして敵航空基地に突撃いたします。 絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります。 只只、感謝、感激の外ありません。 幼年学校以来、12年、諸上司の御訓戒も今日の為の様に思われます。 必成以ってご恩の万分の一に報ゆる覚悟であります。 拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎喜び勇んで征来ます。 20有6年親不孝を深くお詫びします。 道郎 御母上様 辞世: 天皇(すめらぎ)の 御楯となりて 死なむ身の 心は常に 楽しかりけり
>662 その命令だした香具師は 残して置いてもおいてもしょうがないから特攻させてみた。 てほざいた訳だが・・。
664 :
(´Д`) :2005/03/26(土) 00:47:58 ID:???
暴れた、暴れた、死ぬほど暴れた。
八月某日 この二十八戸の村から十七人出征している。そのうち二人だけが帰ってきた。 先日、湯の浜へ行ったときのことだが、汽車から降りて来て、今しも故郷へ入って行こうとしている復員の兵士が二人、 電車の昇降口で話していた。どちらも勇敢そうな、逞しい身体で、見ていても気持ちの良くなる青年である。 「あーあ、半年俺は、ぐっすり寝たいな。」と、一人が、電車の継ぎ目の欄干にもたれ、顔の真正面からカッと日を浴びて 云った。 「弾の下くぐることなら、あんなことは平気だが、眠いのはのう。」と、背の高い美男子の一人が云った。 そこへ、その兵士の故郷の知人らしい老人が乗って来た。顔が合うと、美男の兵の方が、 「敗残兵が帰ってきたア。」 と、いきなり云って笑った。 老人は、「わっはっはっ」と笑ってから、肩を一つぽんと叩いた。それでおしまいだった。 日本人らしい笑いだ。
電車が稲の花の中を走り出し、次の停留所まで来たとき、またその兵士の知り合いらしい、 美しい若い婦人が、小さな子供を連れて乗り込んできた。 「あら、お久しぶりですのう。」と、婦人は、にこにこと嬉しそうに兵士に云った。その笑顔の 何処かに、むかしの恋人にちかい俤すらあった。 「敗残兵が帰ってきたア。」 と、また兵士は同じことを繰り返して笑った。すると、今までにこにこしていた婦人は、急に 笑顔を消し、俯向いたまま、 「どうしようもありませんでのう。」 と、悲しそうに云ったきり、もう顔を上げようとしなかった。 兵士の方も、的を射すぎた不手際な苦しさで、目をぱちぱちさせて外っぽを向いたまま、 これも何も云わなかった。
というか、もう一回総力戦してくれ。そうしなきゃ若者も立ち上がらん。 もう一回アメリカとやって勝たんと気がすまない。
あれだけ負け戦やって何を馬鹿げたことを!w
日本刀で100人斬り殺せるほどの戦闘力をもち、銃剣と単発銃のみで40万人殺すなど原爆以上の 破壊力を持つ携行兵器を誇り、各植民地で無駄に現地人を殺してまわるほど武器弾薬が余っていて、 揚子江の川幅を2m以下にしたりするほどの高い土木技術を持ち、沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が 出せるほど命令系統がしっかりしていて、 日本兵の数を上回るほどの従軍慰安婦を一日に一人あたり何十人 も暴行するほど体力と食料があって、韓国で文化施設はもちろん 一般家庭にある辞書から料理本に至るまで 処分してまわるほど暇で、中国で家々に火を放ちまくり無駄に虐殺した民間人の死体を一カ所に集めて たっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり、韓国の優れた建築施設・街・鉄道を全て 接収することなく破壊し尽くした上新たに日本の駄目な建築物に建て替えるほど資源と資金が有り余っていて、 11歳が戦場で暴れ回るほど若い内から逞しく、終戦後になぜか強制連行を行いまくるほどの軍備と余裕が あり、圧倒的科学力を誇る朝鮮の反日勢力になぜか圧勝するほど運がよく、朝鮮人を殺しまくりながら人口を 2倍にするという魔術を持ち、敗戦国でありながらGHQを手玉にとって朝鮮戦争を起こすようコントロールするほど 政治力と外交能力に長けた日本が敗戦したことは歴史上最大の泣ける話。
671 :
特高万歳! :2005/03/26(土) 21:42:25 ID:???
その通り。 それが今の新幹線にある「AMBITIOUS JAPAN!」だろ
672 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 21:45:26 ID:0k3LyUhg
昭和19年5月 国民党軍は昆明からビルマへ南下し、ビルマルート確保に乗り出した その途上にはある拉孟、騰越の守備隊は20倍余りの国民党軍の攻撃をうけた。 拉孟守備隊は金光直次郎少佐以下1400名 国民党軍は1個師団及び2個師団と航空支援で激しい攻撃を繰り返した しかし、拉孟は陥ちなかった・・・ 3月に着任した、金光少佐は1km平方の陣地を複数の鉄条網と地下陣地で補強していたのだ 守備隊は10センチ榴弾砲10、山砲4の僅かな火力を有効に使い、敵に多大な損害を与えた 更に夜間は敵陣地に斬り込み、武器弾薬を奪い、戦闘を継続した 金光少佐は一兵卒からの叩き上げで守備隊員もとより慰安婦さえその人柄に全幅の信頼を寄せていた 負傷兵も手榴弾を投げ、慰安婦まで銃をとり抵抗した 9月10日 抗戦124日、金光少佐は朝鮮人慰安婦を警護兵をつけて退避させ、負傷兵と日本人慰安婦ばかりとなった守備隊は最後の無電を打電し、玉砕した 騰越守備隊も蔵重康美大佐以下1500名も5個師団から6個師団を相手に2ヶ月以上耐え抜き、玉砕した 日本は1個師団を救援に派遣したが焼け石に水だった。 日本軍21000名内死傷者7200名 国民党軍280000名内死傷者63000名 「我が軍の勇戦は誠に喜ばしいものだが、なお足らざる兵は少なくない すべからく敵の拉孟、騰越、竜陵守備隊らの倒れてもやまない勇戦敢闘を模範とすべきである」 蒋介石の訓辞(戦闘終結後)
朝鮮人慰安婦を逃がしたっていう点が人柄が忍ばれるな。
>>672 兵隊元帥か…
やはり有能な人だな。
いやまあ、国民軍の練度と士気も関係してるのかもしれないけどさ。
675 :
名無し三等兵 :2005/03/27(日) 12:05:02 ID:d9btT4kP
昭和20年終戦 小沢海軍総隊長官は徹底抗戦を叫ぶ、厚木航空隊の説得に寺岡謹平中将が当たることになった 小沢は寺岡の手を握るとこう言った 「きみ、死んじゃいけないよ。きのうから宇垣中将は沖縄にとびこんだ。 大西中将は腹をきった。みんな死んでいく、これでは誰が戦争のあと始末をするんだ。 きみ、死んじゃいけないよ。」
最後の沖縄県知事 島田 叡 305 名無し三等兵 sage 2005/03/27(日) 21:59:21 ID:??? 島田知事は、1月11日朝、内務省から沖縄県知事の内示を受けた。 なぜ、断らなかったのかと尋ねた夫人に対して、 「どうしても誰かが行かなければならないとすれば、いわれた俺が断る手はないのではないか。 これが若い者ならば、赤紙一枚で否応なしに行かねばならないではないか。 これを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、俺は卑怯者として外も歩けなくなる。」 306 名無し三等兵 sage 2005/03/27(日) 22:05:23 ID:??? いよいよ戦況も悪化し、島田知事はこれまで行動を共にしてきた、県庁幹部らに対し、 壕をを出て安全地帯への移動を命じたが、その指示に従うものは無かった。 それに対して島田知事は、 「諸君の任務は終わった。この上は一刻も早く安全地帯に移動せよ。」 「これが知事 島田の最後の命令である!」 そして県庁壕には、島田知事と荒井警察部長の二人だけが残った。 以後、この二人の姿を見たものは無く、入水自殺説などが囁かれているが、 定かではない。
>676 前任の泉守紀が「出張」って名目で本土に逃げて帰ってこなかったしな。 トンズラぶっこいた無責任知事の代わりに赴任とはいい迷惑だ罠。
679 :
名無し三等兵 :2005/03/28(月) 12:12:38 ID:ByqJh2yc
>>678 戦場で死に掛けている二人の幻だと勝手に予想してみる。
>>679 春だからだと思ってたΣ(゚Д゚)
自分情緒無いなぁ
二人は既に亡くなっていて御霊だけが故郷に帰ってきた、 というのは考えすぎだな。
>>641 まさか、日本の戦争は太平洋戦争だけだとは思って無いよな
そう思っている。 支那では馬賊相手の事変だったからな。
>683 まず援蒋ルート、フライングタイガースあたりでググれ。
将兵の士気や能力はともかくドイツの軍事顧問やドイツ製兵器を有した 中華民国軍は馬賊ではないぞ。上海事変などそれなりの損害を出している。 過度の軽視も大陸で亡くなった我が国の将兵に失礼ではないか?
眠いのはセクースしすぎで眠いのではないのか?
688 :
ゾル :皇紀2665/04/01(金) 22:51:25 ID:oavaSroh
終戦後のBC級戦犯裁判において。 第8方面軍司令官、今村均陸軍大将いわく、 「裁くなら、自分一人にして欲しい。部下の犯罪は、全て自分の命令を実行しただけだ」 しかし、全く逆に開戦時の3人の南方攻略軍司令官中、ただ一人、連合軍も死刑にできなかった。 戦後の大将には、色々とおかしな話を持ち込んで来る旧部下が多かった。別の元部下に「色々と閣下は、騙されておられますよ」と耳打ちされても、 「自分は、多くの将兵を騙して死地に連れて行ったのだ。今は黙って騙されてやらねば」 なお、戦後大将と付き合いのあった旧軍人に聞くと「今村閣下か。怒りん坊でな。いつもブリブリ怒っていた」と、必ずしも褒めない。 しかし、そういう聖人でもなんでもない普通の人間が、市井の一市民となっても責任から逃げようとしなかった。 そこに今村閣下の偉さがあるのだろう。
宇都宮は第十四師団として、ビルマ、ラバウルなど南方へ新しい師団を編成して送り出していた。 昭和18年末頃からはもう国内にはあらゆる物資は欠乏し、南方へ向かう船団として一番大事なゴム製救命具など 全く調達不可能になってしまった。 そこで切羽詰まって工夫したのが孟宗竹、直径三寸以上の物を六尺に切り、これを一人二本ずつ持たせることにした。 この調達と輸送が大変なものであった。何しろ一箇師団に三万本から四万本必要だし、軍事機密がばれては困るので、 南方では竹がないので、基地資材として送るのだなどと誤魔化してやった。 仕舞いには、二ヶ月毎に一箇師団編成するので、北関東一帯はもとより、福島方面まで竹藪が無くなってしまった、と言う 程であった。 宇都宮第十四師団主計将校の手記から。
泣けてきますな。とほほ…
最後の頃は、竹の茶碗に竹の箸等という事も・・・orz
そういえば末期の決戦師団は、銃剣すら定数に満たず、規則では外出時は銃剣をぶら下げることになっていたから、 仕方なく青竹を銃剣の長さに切って腰にぶら下げたって話を読んだ記憶が。
693 :
ゾル :2005/04/02(土) 22:31:18 ID:grMYTjEM
本土決戦師団でも様々で、兵器も人員も完全充足という師団もあった。 閑話休題 ビルマ戦の第54師団長だった宮崎繁三郎中将はインパールでも餓死者を出さない名将だったが、戦後は一雑貨店主として人生を終えた。 臨終の間際、駆けつけた元参謀に「敵中突破でバラバラになった部隊を、確実に掌握したか?」とうわ言で訊いた。 死の瞬間まで、真の指揮官だったのだ。
豊田ぁ? 何言ってるんだ?
なんで連合艦隊司令長官がそんな捏造する必要があるんだ? 牟田口とかならともかく。
豊田副武と豊田穣の区別もつかない香具師がいるのか・・・
プゲラ!!晒しアゲ!!!
豊田穣の343空の話は好きだったなぁ。
701 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 10:39:11 ID:Kg2IKUL0
>>696 (=695?)
これは超ド級に恥ずかしいなw
人前でなくネット発言で助かったなw
とりあえず君は、
『 軍ヲタ「若葉マーク」時代の恥ずかしい話を晒せ 』スレに急行を命ず!
最近の軍オタは豊田穣も知らんと思うとそっちのが泣けてくる。
>>702 どっかで、コヴァが暴れてたときに、豊田穣の本から引用してたしなめようとしたら、
そんなブサヨの書いた本は信用できないとか言われた。
高松宮日記の引用に対して「そいつブサヨだろプッ」つーのも 見たことある。昭和天皇でさえプロ市民扱いしそうな勢いだ。
周りが見えてない連中にとっては 上杉慎吉、北一輝、大川周明、笹川良一 も「ブサヨ」
北や大川がブサヨならブサヨじゃないやつって誰だ?
>>706 あくまでも、そこまで言いかねないという例えぢゃよ。
708 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 13:42:32 ID:yyjOv5Qw
泣けないかもしんないけど実際にあった話。 じいちゃんがなぜか俺にお前はおれの兄さんに似てるって言うんだな。 話を教えてもらうと昔おれのじいちゃんの兄弟に兄さんがいたんだと。 その兄さんには彼女がいたらしい。 だけどある日赤紙が届いて南方に行くことなったらしい。 だけど戦場に行けばどの道死ぬかもしれないので悩んだあげくその兄さんは彼女と一緒に神社で自殺したらしい。 もし戦争がなければ結婚していたかもしれないとじいちゃんは言う。 泣けるかどうかは皆さんが判断してください。
>>708 俺は後ろ向きで好きになれんな>その二人
自殺なんかして問題の解決になったとは思えない
戦場に行っても生きて帰ってきた人は大勢いるんだし
もし旦那さんの方が死んだとしても、彼女は前向きに新しく好きになる人を見つけたらいい
…冷たい人間かな?オレは…
711 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 14:11:50 ID:qXPsyW/w
悲劇だね。でも違和感もある。 「こんな事が起きる。だから戦争は(ry」みたいな。。。
712 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 14:30:04 ID:Kg2IKUL0
>>655 亀レスだが、こいつらが建て直した結果がこんな日本じゃ
命を捨てて国を守ろうとした俺のじいちゃんも犬死だよ・・・
713 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 16:02:06 ID:1jN2fYSQ
あー似たような話だけど、俺が23位まで自分の爺さんだと思ってた人が 爺さんの弟だった。(以降弟爺) 本当の爺さん(以降兄爺)は、終戦間際、飴の潜水艦にボカチンくらって海の底だそうだ。 兄爺は婆さんと結婚して、俺の親父が生まれる前に出征、そのまま帰らぬ人に。 そのせいで当時としては珍しい一人っ子。 戦後復員してきた弟爺が不憫に思ったのか、一緒に住んで生活を助けたそうだ。 結婚したのかは聞いてないからわかんないけど。 親父が弟爺には似てないなーと思った事あるんだが、本爺の写真見たら瓜二つだった・・・
ほー。 つーか俺も爺さんと瓜二つだ。 で、親父は双方に全然似てない。 まさか俺は爺さんとお袋の子・・・なんて事は無いよね?ね?
>>708 俺は泣けんな。
戦争に行くのが嫌で、女と死ぬなんて女々しい。
ふーん、実際に自分が同じ立場になったとき、 女々しいことにならなけりゃいいけどねえ。
>>712 日本はまだ存在してるんだから、これから俺たちが頑張って
良くしていきゃいいのさ。
とりあえず、アカ狩りから始めよう。
死者に鞭打つ人が多いでつね
そうでつね。 牟田口も辻んも(多分)死者だから鞭打たないでね
地位が高けりゃ責任も増すからなあ。 間違った作戦指導で数万、数十万を犠牲にしたのと、 心中して家族、友人に迷惑かけたのは違うだろ。
じゃあやっぱりA級戦犯は永久に鞭打ちの刑でつね 中国様ごめんなさい
>>721 中国に責任を問われるいわれはない。資格があるのは無茶な作戦に
投入されて散っていった将兵だ。
>>722 じゃあお前にも言われる筋合いは無いって訳だな。
>>723 俺は戦犯の責任なんかとうた覚えはないが?
とりあえず戦争に負けた責任はあるな。 あの戦争に勝っていれば、いや、もっと有利な終わらせ方をしていたら、 中国や韓国、そして国内の在日の穀潰し供に、好き勝手言わせることにはならなかったのに・・・
東条英機暗殺
通信員の数名は先ほどから全身の神経を集中して、鉛筆を持ち、 左手で記録紙を押さえての待機が続いている。 不意に、通信員の鉛筆がせわしく動き出す。 「○○中尉、只今より中城湾内にある重巡に突入す」 そして数秒間、「ピー」という連続発信音が続く。 それは最後の特攻ダイビング姿勢に入ったことを示すもので、 搭乗員が突入開始から目標に激突するまで電鍵を押し続ける音である。 機上から送り続ける、生存の終焉までの、基地員との絆なのだ。 やがて連続音はフッと消える。通信員はその時刻を紙に記入する。 また別の通信が入る。 「○○一飛曹、只今より突入」 ピー。 通信員がきょろきょろ左右を見回しはじめた。涙があふれている。 「交代してください。」と、通信科分隊士に哀願する…
>>727 。・゚・(ノД`)・゚・。
俺、通信員の立場だったら精神的に持たないよ・・・
ホント大戦経験者は強いよなぁ…
>>727 泣けるよりムカツク
特攻考え出した馬鹿と命じたキチガイに
発案者は、誰なのかねえ・・ 命じた「キチガイ」は、自分も隊員と一緒に死ぬ気で 引き受けたようだけど。
そもそも普通に爆撃するのと体当たりで、そんなに命中率が違うのかな? 直前で機体が墜落すれば、爆弾も一緒に落っこちちゃう訳だから 投弾した方が良いような希ガス。
芙蓉部隊なんかは「生還が前提だから対空見張りや策敵をしっかりやり、 爆弾を命中させることもできるのだ」とか言ってたみたいだけどな。
>>732 撃墜されるか云々を抜きにして投下するのと自分が爆弾抱えて突っ込むのでは命中率が違うと思うが。
普通に投弾したんじゃ命中率も低い、搭乗員の技量も低い、まして爆撃攻撃機じゃなくて戦闘機パイロットなら尚更。
特攻は科学的にどうこうというより精神的なものだからな。 命中率云々はどうでも良かったんだと思うよ。
>731 源○とか・・・・・死ぬ気も死ぬ危険も無いお気楽連中。
しかしながらそれを「作戦」として採用したのはちょっと・・・
>>736 一緒に死ぬ気満々だけど、降伏後に故郷に帰れるはずだった部下を道連れにした宇○とかもいるしな。
駄目だこりゃ
その点について詳しい「指揮官たちの特攻」城山三郎 があるがまだ未読・・・
大西中将は・・もの凄い死に様だったねえ。
>727 通信員の辛い話、というと、バトル・オブ・ブリテンの時空戦指揮所でオペレーターやってた おねえちゃんたちの話もある。味方に敵の位置を無線で知らせたり、あるいは敵の無線を 傍受したり、という任務についてる彼女らは時々、機体を撃たれたがコックピットを開けれず、 地面に激突するまで、あるいは生きながら炎に包まれ意識を失うまで、神様に懇願したり ヒトラー(あるいはチャーチル)に呪いの言葉を吐いたりしながら泣き叫ぶ、自分らとほとんど 年齢の違わないパイロットたちの断末魔を聞くことがあったという。
戦艦大和出港の日、見張員が双眼鏡から陸地に咲く桜を発見、「サクラ、サクラ!」と 叫んだ。すると乗組員たちが先を争って双眼鏡に取り付き、その姿を目に焼き付けていた。 読売新聞に載ってたが「戦艦大和ノ最期」の一節らしい
>>732 >>734 普通に投弾するのともろともに突っ込むのでは普通に投弾した方が威力が
大きいのではないか、という意見がありました(爆弾単体のほうが着弾時の
速度が大きい=装甲板を抜く事ができるから)
また技量の低い搭乗員ならなおのこと、軍艦の舷側に突っ込むのは急降下で
正確に投弾するのと同じくらい困難であったと思います。
まあ結局は
>>735 の書いた通りなんでしょうが。
744 :
名無し三等兵 :2005/04/05(火) 02:26:15 ID:svJJL3p1
沖縄では軍が集団自殺を島民に強要したとか言われているけど、まあ、事実も含まれているとは思うけど ただ、このような話ばかり伝わるのは戦後のアメリカによる世論操作による面も大きいからな。 実際のところ、当時の沖縄島民には日本兵が島民に優しく接したとか 命がけで守ろうとしてくれいたとかそんな話も伝わっているらしい。 泣ける話かどうかは知らないけど、沖縄で玉砕した日本兵もそれなりに規律は取れていたのだよね
>>743 着艦でもするんじゃなくて舷側なり甲板なりにぶち当たるのが
投弾して命中させるのと同じくらい困難とは思えないがなぁ。
当時沖縄人に対する本土人の差別が有った だから、沖縄人は本土に認めて貰うためにその行動を 過激化させていったと言う面もあった。 沖縄戦の本当の悲劇は、軍人が民間人を殺した事よりも 沖縄人が沖縄人を殺したという点。 おかげで、戦後60年たっても沖縄戦における民間人の死者 は明確になっていない。
>>744 規律が無きゃ、玉砕なんて出来ないでしょ。
748 :
名無し三等兵 :2005/04/05(火) 09:59:51 ID:qpBT5Asm
桜花の発案者の特務士官、太田某はどのへんまで本当の発案者なんでしょうか? 搭乗員ではあってもパイロットでなく、実際に桜花に搭乗したわけでなく、 終戦時、零戦で飛行して自決しようとして果たせず、その後変名して 隠れるように生きて癌で死ぬ間際に、特攻について悔いた遺言を残したそうですが。
BAKAの発案者は馬鹿
>>743 爆弾投下と特攻と、被弾被撃墜率がどっちが多いかで比べたほうがいいと思う。
爆弾投下するにしても、航空魚雷でも、敵艦に近づけば弾幕で落とされる。
もし両者が同じなら、どっちでも同じだ。
帰れないから死を覚悟して突っ込むしかない。
加えて搭乗員の技量も不足しているのなら、なおさら爆弾投下後に生きて帰れる保証が無い…
まあ推定が当たっていてもしょせん結果論であって
>>735 の理由が主だったんだろうけど。
対艦攻撃ってのは単機で攻撃しても絶対にあたらないように出来てる。 相手はよけるから。 だから熟練パイロットが編隊を組んでタイミングを合わせて投弾し 敵艦がどこに逃げても必ず一発くらいは当たるように攻撃するが それでもほとんどあたらない これくらい通常攻撃というのは難しい。 特攻攻撃の頃のパイロットはタイミングを合わせるどころか編隊すら組めない者が大部分で 彼らがいくら通常攻撃を繰り返しても「絶対に」爆弾は命中しない。 また熟練パイロットになる前にほとんど撃墜され、戦死しているような戦況だから かれらが出撃を重ねて経験を積むことで命中率を上げることも不可能。 残された道は、敵艦隊への攻撃はやっても無駄だし いたずらに戦死者を増やすだけなので完全にやめてしまうか あるいは単機での攻撃であっても命中する可能性が存在する特攻を行うかの二つに一つ。
>>746 で、今の沖縄人は自衛官とその家族を差別しまくってるわけか
DQN民族だな。朝鮮人と変わらないね
>753 ガキにすら失礼だぞ。
沖縄で自衛官の子供が病気になった その自衛官は病気の子供を医者に連れて行った 自衛官の子供は診たくないと診療を断られ、その子は死んでしまった どうだ、泣けるだろ?
>>751 艦船って、飛んでくる爆弾を避けることができるくらい、機敏に動けるの?
>>752 だって彼らは共産党に洗脳されてるから。
>>757 沖縄で強いのは共産じゃなくて社民系の社会大衆党じゃなかった?
あと反基地運動でも代々木系より新左翼系が主導してると聞いたが。
>>757 動ける。
航空写真で物凄い数の至近弾の中で回避運動している艦の図はいくらでもある。
っていうか、そもそも動くものに爆弾を命中させること自体が難しい。
ましてやそれが自律的に爆弾を避けようと動くのではまったくお手上げ。
だから「誘導弾」の必要性が論じられるようになった。
あんな巨大な船が・・・・そうなのか。 誘導なしでも、しっかり計算すれば、もっと当ったりしない? 風もある、相手が動いてる、自分も動いている、となったら、そうそう当らないと思う。
>760 その「計算通り」のとこを飛んでると対空砲火に喰われるわけで(苦笑
つ射爆照準器 もっとも、近くから落っことせば、計算との誤差も少なくなる。 ただ投弾する前に落とされる可能性が飛躍的に高まるが。
>>759 それは爆弾落ちてくるのを見てから避けてるんじゃなくて、
回避行動やってるから命中する確率が下がるだけなんじゃあないだろうか。
航空機から、動いている目標に当てるのが難しいなら、
目標の方も、何処に爆弾が落ちてくるのか着弾点が予測しづらいはず(双方動いているので)。
魚雷なら見てから避けれるかもしれないけど。
>>758 せめてバックが共産党なら、中国の影響力を排除できたかもしれんのに…
もはや沖縄は中国の支配下か…無念だ…またしても彼らに地獄を味わわせてしまうのか…
沖縄は常に被害担当艦なんだよ。 土人がどうなろうと知ったこっちゃないがな
>>763 単純に飛んでいる機体と投弾運動中の機体の挙動は異なりますから
投弾運動中の機体から逃げるように操艦するわけです。
デタラメに回避行動してるわけではありません。
もちろん、当たらないために回避運動するわけですから、
「回避しているから当たりにくい」というのも正解なんですが
実際には「爆弾を落としに来た敵機」に対して回避運動を行います。
レイテ沖では爆弾を抱いていない護衛空母の艦載機が
繰り返し投弾行動をすることで
栗田艦隊を大混乱に陥れたりしていますね。
家にあった、ある戦友会の文集から あまり泣ける話じゃないけど。 一方、第16軍司令部(ジャカルタ市)からは終戦処理に伴なう命令、通達が次々 と下令され、我々マラン飛行場周辺に駐屯する部隊もスラバヤ海軍部隊と合流し、 東部ジャワ、ケデリー州の山中に移動、こゝで日本への帰還を待つこととなった。 軍に雇用された現地人労務者も部隊長から次のような別れの言葉を贈られ、それぞれ マラン基地をあとにしたのである。 “皆さん、今日まで日本軍に忠誠を誓いよく協力してくれました。戦争は終り われわれ日本軍はインドネシアから撤退します。これから平和が来るのです、 皆さんは今日かぎりそれぞれ郷里に帰り、家族の皆さんとともに平和に暮して下さい。 本当に有り難う” と16軍貨物廠から送られてきた被服や糧食が山と各人に支給され、一人一人 別れを惜しみマラン飛行場を去って行った。 せめてもの、軍ができる彼等への最後の贈り物であった。
さて、この時期この仏印の地も何んとなく騒々しくなって来ました。植民地仏領 印度支那を再び我が物にせんと上陸して来たフランス軍に対して、この仏印の 諸国の民族独立の戦争が始まりました。 プノンペン附近においても、ジープにフランス旗を立てたフランス兵の姿を 見る様になり、原住民との間でゴタゴタが起こり始まりました。この反抗運動に 手を焼いたフランス軍は、この鎮圧を日本軍に命じました。丁度、ジャワに おける終戦後の日本軍と似た立場にあった様です。 ベトミンのゲリラ活動は、山に隠れ町に潜んで仲々手強いものの様です。然し、 フランス軍の命令に従わないと、日本に帰る事が難しくなるとの状況判断 から当飛行場大隊の特別中隊にもゲリラ鎮圧の命令が来ました。 そこで、特別中隊の中で選抜された元特攻隊の人々(その数不明なるも百名位 でなかったか?)は、使い慣れない三八銃を持って、第二グランドに狩り出 されて行きました。私等はそれまで、小銃の実弾射撃等は10発位しか やっておりません、一難去って又一難とはこんな様な状況の事を言うのでしょう。
戦闘隊員は、胸に何んとも複雑な思いを持って出発して行きました。然し、 本気でやろうとは一人も考えておりません。フランス軍は後方で督戦、 こちらは銃を上に向けてポンポン、当る訳がありません。 又、ゲリラ側も日本軍の強さを知っておりますからまともに向って来ません。 フランス軍丈けがツンボ桟敷にいる状態です。 --今夜フランス軍を夜襲するから、日本軍は横に隠れていて下さい-- と言うゲリラ側からの連絡に、どっこい承知で、こちらが退避している間に フランス軍がやられたり、逆に、日本軍から --今夜あの部落をやるから、村から出ていなさい-- と連絡し、ドンパチをやっても、ゲリラ側の人的被害は皆無と言う事がしばしばです。 その内に、フランス軍にも日本軍のやる気の無い事が分り、むしろ 武器をゲリラ側に渡されては危険であるとの判断から、日本軍は間も無く 協力解除になり中隊もプノンペンに帰って来ました。然し、流れ弾に 当って若干の負傷者も出ました。他の部隊では戦死者もあった様に 聞いておりますが、大変気の毒な事でありました。
社大党が社民系って言ったら古参党員にオトーリされかねんぞ。 アレが社民党系に見えるって言ってる時点で、沖縄戦後史勉強したことないのが一目瞭然。
まだ生きている祖母は戦時中、車掌をしていた。 ある日のこと、軍隊を輸送中の車両を通った時に、 「車掌さん」と小さい声が聞こえ、「この手紙を」 と一人の兵隊さんがそっと差し出した。 祖母は何も言わず、全てを承知し、その手紙をポケット に入れると、次の停車駅で投函した。 誰への手紙だったのだろう。両親、妻、子ども、恋人へ 祖母にはそれは解らない。ただ検閲を経ない思いを愛する 人へ伝えたかったことだけは良く解っていた。 「あの兵隊さんはどうなりんさったのかねぇ…」 まだ寒さが残る日、この年になって始めて聞いた、 若い女車掌と若い兵隊の六十年前の話。 祖母と祖父。その他大勢の年老いた親戚たちにも、戦地で、銃後で、 沢山の話があるけれど、それはまた別の機会に。
772 :
767 :2005/04/09(土) 11:12:17 ID:???
結局、英印軍は日本軍をこのまま黙って帰国させるのは面白くないから、いじめて やらうと言う魂胆です。 時々、このウオーリー中尉の代りに、○○シンと言う印度人の中尉が出る時は、 大変親日的で「ビルマで戦った日本軍は驚く程強かった」とお世辞を言って呉れました。 彼等には、矢張り印度独立の考へが有って、日本軍を直接困らす事はしなかった様です。 (中略) 2月のある日、町を歩いているとベトナムの男が近寄って来て「アナタ コンヤ ワタシウチ クル シヨウガツ ゴチソウ タクサン」と呼びかけて来ました。 その晩、彼の家に行きますと六、七人の男女が待っていて、珍しいベトナム料理に 感激しましたが、帰る時、その中の一人の男が「アナタ ニホン カエラナイ ノコル アナタ キリコミ オシエル オカネ タクサン オンナ アゲル」 要するに、私が彼等に切り込み訓練をやって呉れれば、ゴホウビをやると言う事です。 御世話になって申し訳ないが、私は飛行機の方なので切り込みは出来ないと断りますと 「ワカツタ ニホンジン ダレデモ キリコミ デキルト オモツテタ」と笑って 呉れましたのでゲリラに引っぱり込まれず、やれやれと思いました。
773 :
767 :2005/04/09(土) 16:54:04 ID:???
この旅行中トライスター操縦席を見ることができたのは幸福であった。 この機長はドイツ人で、第二次大戦中独軍の戦斗機のパイロットとして、 ヨーロッパ戦線で活躍した人物、我々一行が旧日本軍の戦斗機乗りの 面々とわかり、期せずして意気投合したという次第である。ハイジャック を恐れることなく、3名ずつ交替で操縦席に案内し説明してくれた。 この機長の寛大さには心打たれるものがあった。操縦席には無数の 計器類が並んでいて、九七戦とは全く比較にならず、総てコンピューター によって飛んでいるので、操縦者はこの計器をにらんでいるだけでOK、 寸分たがわず目的地に到着するという次第である。 (中略) 我々が昔のインドネシアを懐かしむ様に、昔のインドネシア人の中には、 我々日本人の旅行客を懐かしむ人々が多々居る事を初めて知り、矢張り 行って来て良かったとつくづく思いました。 彼はバスに同乗して呉れまして、ガイド役を買って出て呉れました。 さらに、夜のパーティーでも通訳の労を取っていただきました。バリ島でも 耳にしましたが、こういう昔のインドネシアの人々の我々に対する話しの 中に「今こうしてインドネシアが独立出来て、立派にやって来られたのは、 矢張り日本人がこの地に来たお蔭です。色々ありましたが、若し日本人が ジャワに来なかったら独立はもっともっと遅れていた事でしょう。そして、 農業その他の技術を日本人は我々に多々教えて去って行ったが、之が今、 花を咲かせているのです」というのがあります。誠に、考えさせられる 一言ではないでしょうか。
また戦争美化ですか?
776 :
名無し三等兵 :2005/04/09(土) 20:40:18 ID:l2GlNrd8
>>774 戦争美化はある意味あたりまえ
何処の国・民族・党派・宗教・思想集団でも
ガンジーのような非暴力主義といった少数以外はやってる
>>774 すみません。
頭が悪いので、具体的にどの部分が「戦争美化」なのか教えてください。
むしろ反戦話でしょ。こんな悲しい出来事は繰り返してはならない、という。 まあ軍人はすべて極悪人とかいう教義をもった宗教団体の人ならそう思うんでしょうが。
反戦とか戦争美化とかどっちでもなく普通のいい話だと思うのだが。
反戦の話だね。 欧米の軍事力による支配に対して反抗し、自分たちの国として独立することが、良いことに決まってる。 日本軍がそれに協力したのは、いいことだと思うよ。 独立されちゃ困る国の人達が、そういうのを否定する価値観を植え付けようとしているのであって、 そういう洗脳に引っかかってはいけない。 日本の都合で彼らを利用しただけだという人がいるけど、 それは一方的に日本だけが徳をして、彼らが損をしたなら、そうだ。 でも実際には、双方の利害が一致していたわけで、問題ない。
>>773 って「降伏したけどこっそりベトナム独立に協力したぜ!」
とか「インドネシア人に感謝されたぜ、侵略じゃねーぜ」という
主張だと思うのだが。「反戦」を訴えているようには見えないけど。
まあ「戦争美化」でもないけどな。
「良き側面も見てほしい」っていうのが書き込んだ人の意図ではないかと。
書き手はただ事実を書き、 読み手がそれに意味を加える って奴ですね
戦争美化かどうかはともかく、現在、こういった手記を書ける方は、 当時15〜20才くらいの方たちなのだから、くさい言い方だけど、 青春時代を美化してしまうのはむしろ当然かと。
無蓋貨車の上の大砲は、やっぱり人の心を躍らせる。それを見ていると、 戦争は素晴らしいという、あの有害な感情がよみがえってしまう。 ----「カタロニア讃歌」ジョージ・オーウェル
かつての反戦運動を見ればわかるけど、 ニュートラルな立場から戦争はやめたほうがいい と言ってるのは希で、大抵は 戦争をやめたほうが得をする(またはそれに扇動や洗脳された)立場から戦争はやめたほうがいい と言ってるんだよね。 つまり、反戦ってのも、戦争の一手段なわけですよ。 そこんとこ、わからないで、安易に反戦運動に善意で参加したら、痛い目にあう。
反戦の中の人は、戦没将兵の慰霊碑を建てる事を、 戦争賛美だと非難していた奴もいたんだ。
なかには、軍隊や戦力を放棄して無抵抗になれば 侵略されることは無いと本気で信じているピュアな方、 別の言い方をすれば「頭がアレな人」も反戦論者には結構いる。
>>788 いるいる。
そういうヤツに限って、オノレがDQNや893に絡まれると、警察に解決を頼るんだよね。
ところが、これが国家間の争いごとになると、まるで他人事。
DQNレベルの国家は、世界のどこにも存在しないとでもいうのだろうか?
>>789 想像力が足らないだけさね。そういった輩は
実際に侵略されてからじゃないと理解できないのよ。
791 :
名無し三等兵 :2005/04/10(日) 22:09:17 ID:2vt8LH22
>>790 漏れが学生だった頃の自治会指導部が、まさにそんな手合いでしたよ。
彼らは、学祭に呼んだパンクバンドが、ステージで火を噴いたり、椅子に放火したり
しているのに、何一つ注意できずにオロオロしていた。
パンク連中は、酒まで飲んでるもんだから、全く話し合いになりはしない。
そのとき、たまたま漏れの後輩にパンク連中が絡んできたもんで、腹に据えかねた
後輩が、奴らを全員叩きのめしちゃった(ちなみに漏れも後輩も武道系の体育会に
所属していました)。
その後漏れたちは、ありがたくも、「○○警備隊」なる名称を頂戴し、学内の治安維持
に駆り出されることになりました。
もうこうなると、体の良い、「傭兵部隊」ですわ。
その分予算は潤沢に頂戴できたんで、部は潤ったんですけどね。
それにしても、自治会の連中ときたら、ちょっとでもごたごたがあると、自治会室から
出てこないんだもん。
良くもこれで、「学生自治」なんて言えたもんだと思っていましたよ。
>>790 彼らは単に善人ぶってるだけですよ。
自分たちは汚れがない純粋な善人だと信じているのです。
そして、それを周囲の者に証明するために、様々な行動を取るのです。
さらに、自分たちは絶対的な善だから、他人から責められる事はないと信じています。
よって、実際に反対意見を突きつけられると、相手を悪人呼ばわりするのです。
彼らに穢れない善性にのみ価値を見いだし、その他の者は悪魔の様に考える
差別主義者なのです。
連中の精神構造ってね・・・ 死刑執行の書類にハンコを押す法務相や、 死刑執行のための実務をする人に対して、 「お前らは人殺しだ! 地獄に落ちろ!」 と言うような人と一緒なんだよ。 死刑すると決めたのは、突き詰めれば、国民なのにさ。 似たような人は、色んな組織にもいる。 自分は命令だけして、手を汚すのは部下。 それでいて、手を汚した部下を糾弾しちゃう。 それが連中の正体さ。
なんかネタないから話が激しく脱線しとるな。
まあ冷戦中なら非武装中立ってのも一つの手だった訳だが。
>>795 非武装中立なんて実際にやった国あった?
>>795 非武装中立だったら速攻で占領されるに決まってんだろ、ボケ
何しろ「抵抗はしません、他国に助けも求めません」って話だろ
社会党なみのアホだな
>>796 実質的にないだろ、コスタリカとか言うなよ
武装中立ですら国是にした国は少数だからなあ。
(おそらく)最後の永世中立国トルクメニスタン萌え 公明党が政権とったら日本もこうなるかも
スイスはEUに加盟すんだよね NATOには加盟するつもりはないのか
801 :
767 :2005/04/12(火) 12:49:22 ID:???
レスくれた皆さんへ この文集は戦友会の会員のみに配られた物で、寄稿した人達はそれ以外の人の 目に触れることは考えていなかったと思う。(せいぜいその家族が読むくらい) 書き手はインドネシアに駐留していたかつての仲間が読むことを想定して 書いていると思うので、書き手には「戦争美化」とか「反戦」とかの思想的なもの はなかったんじゃないかと。戦友会に頼まれて個人の体験談を書いただけだと思う。 ここに書き込んだのは押入れに眠らせとくのがもったいないと思ったのと、 ここのスレの住人には暇つぶしに丁度いいかなと思ったもので。 ほんの一部を抜粋しただけで、取り立てて感動できるような話じゃないので スレちがいなのは承知してる。
いや、十分興味深くておもしろいですよ。
>>801 大丈夫。反戦とか戦争美化とか色分けして喜んでるのは極少数ですよ。
ROMってましたが素直にいい話として読ませてもらいました。
またネタがあればお願いします。
>>800 スイスはとっとと同盟組んで、軍縮したほうがいいよな。
俺が冗談で、
現状の自衛隊だけでは万が一の時に日本を守りきれないので防衛力の大幅な強化が必要だ
って言ったら、
なに馬鹿いってんだ、スイスを見習え、軍事力に頼らずに中立になればいい
って言われたことあるぞ。
805 :
767 :2005/04/12(火) 18:59:33 ID:???
バチカン市国は武装中立だが、どの国も絶対に攻められない。
イスラームの武装ゲリラでもか?
>807 ヴァチカン市国内で毒ガステロが起こって13課が出動するんですね!!!111!!1!1 冗談はさておき、次の法王の姿勢次第ではイスラームテロの標的になることも有りうるだろ ヨハネ・パウロ2世猊下はイスラーム・ユダヤと融和的だったが次はどうなるだろうねぇ
809 :
767 :2005/04/14(木) 15:59:30 ID:???
ジャワ島マランへの移動の為、最終部隊として植田中尉以下三百数十名と始動 機、燃料タンク車、スペリー、無線車、トラック、四輪駆動車、側車等の車輛 15、6台で連浦を出発したのは未だ肌寒き四月頃であった。 興南の駅より鉄道にて夜出発した。釜山より日昌丸にて下関へ、朝鮮海峡は相 当荒れていた。下関の旅館へ分宿、三、四日目であったか門司船舶司令部より 音羽山丸へ乗船の指示があった。 植田隊長はハシケ第一便にて連絡の為本船に行かれた。荷物の積込み、兵員の 輸送が行われていた。間もなく岸壁に戻られた隊長は私を呼ばれた。「オイ、 あの船に皆んなは乗れんよ」 本船はタンカーで人員輸送の設備がなく、三百数十名の給食が不可能との事で あった。「オイ、自動車と今此処にいる者を連れてお前残れ、あとから来い」 私は目玉が飛び出る程驚いた。全く予想外の状況変化であった。 百三十数名と自動車十数輛を如何に早く且つ安全に目的地マランへ到着させる かと云う大責任が任官間もないチンピラ少尉である小官の双肩にのしかゝって 来た。 我々は再び下関へ引返して旅館に分宿、次の便を待った。 (つづく)
810 :
767 :2005/04/14(木) 16:07:52 ID:???
マニラ丸は九千屯余の老朽貨物船であった。 車輛は船倉の下の方に積み込まれた。乗船した兵員は数千名に及んだことだ ろう。 何しろ総員は輸送指揮官以外我々には知る由もなかったが、船倉の坪当り十 三名とか十四名とか云う話であった。当時坪当り何名乗せたと云うことが、 船舶司令部の腕前だという噂を聞いたことがある。 十四、五名分の装備を一坪に置けば山積みとなる。人が立つ所があろう筈が ない。正に満員電車さながらであった。 輸送指揮官は歩兵聯隊長の陸軍中佐、輸送副官は聯隊副官の大尉であった。 この副官が物分りの大変悪い人でシンガポール下船迄、我々の様な便乗者連 中は悩まされ通しであった。 この様な輸送指揮官、副官の下、兵員を鈴生りにしたマニラ丸は前途の苦難 も知らぬげに静かに岸壁を離れて行った。 船団速度は十三ノット半、相当速い船団である。然し我がマニラ丸は十三ノ ット半について行くのが大変だった。煙突からは黒煙もうもう、夜は火の粉 を吹き上げて老体に鞭打って息切れ寸前の状態である。他の船はヂーゼルエ ンヂンの優秀船であり、マニラ丸はお荷物の外何者でもなかった。昼の黒煙、 夜の火柱は敵潜に船団の所在を知らせるのに充分であった (つづく)
811 :
767 :2005/04/14(木) 17:21:04 ID:???
門司港出港数日後の夜半、潜水艦に対する警戒態勢が下令された。続いて退船 準備である。全員救命具をつけーと云われても、我々にはそんなもの一つもな かった。唯、救命用のいかだを若干持っていたように思う。丁度私は船倉の中 に居た。 前以って用意していた縄梯子で中に居た全員を甲板に送り出した。うしろから 肩をたゝかれた。振り返ると隣に陣取っていた少尉である。彼は初年兵を多数 南方へ連れて行く途中であった。彼は自分の部隊にも縄梯子を使わせて呉れと 云う。私は遠慮なく使えと云い置いて部下が残っていないかどうか確かめた。 その時一人が背中を見せて座っている、後藤准尉であった。「オイ、早く上れ」 「先に行ってて下さい、あとですぐ行きます」私の上づった声に比べて何とも 落着いた声であった。私は実戦の弾をくゞった者の落ち着きを見た。当夜有馬 山丸に魚雷命中、沈没はまぬがれたが、へさきの一部が吹飛ばされた。 さすが当時の最優秀船だけに傾くこともなく航行を続けていた。然しあの様子 では相当数の戦死者を出したことであろうと思われた。 (つづく)
812 :
767 :2005/04/14(木) 18:20:54 ID:???
六月の高雄は大変暑い。マニラ丸はこぼれる程の兵員を乗せたまゝ高雄の岸壁 に接岸した。 次に考えたことは酒保品の確保である。 門司出発の際我が部隊の酒保品は全部音羽山丸に積み込んでいたので手許には 何一つ残ってはいなかった。 船中他の部隊は若干の酒保品の分配があったが我々にはなかった。 果物屋とお菓子屋を捜した。果物屋でバナナを買った。一人一本当り約百四十 本位、次いで菓子屋で金平糖を石油カン一杯買い求めた。両手に広げると相当 な目方である。軍刀が邪魔になった。頭上の太陽は遠慮ない。大変暑い、やっと 港の近くまで来た。もう少し行けば船が見えると云う所で憲兵軍曹に呼び止められた。 「モシモシ少尉殿、どちらまで行かれますか」「そこのマニラ丸まで帰る」憲兵 軍曹殿は先刻承知であった様だ。「荷物は何ですか」「これは見ての通りバナナ である、カンの中は金平糖だ、兵隊の酒保品として買って来た」「よく判りました。 然しキンチョウは困ります」この時始めてバナナのことを台湾ではキンチョウと 云うことを知った。 バナナは防疫上船への持込みは禁止されているのでこの先へもって行かれるのは 困ると云う。この暑さの中を苦労してこゝまで持って来て甚だ残念である、皆の顔 が見える様だ。石油カン丈を持って帰船した。内地で甘い物に遠のいていたので 皆で僅かではあったが味わった。 (つづく)
813 :
767 :2005/04/14(木) 18:52:01 ID:???
814 :
名無し三等兵 :2005/04/15(金) 12:33:33 ID:nEHd3prU
帝国陸軍に准尉ってあったっけ?
あるよ。
817 :
767 :2005/04/15(金) 17:41:26 ID:???
新しく船団を組んで出港することになった。一旦港外に出たマニラ丸は再びゆ っくりと港内へ引き返し始めた。船団の指揮官からか、護衛艦の方からか判ら ないが兎に角マニラ丸は速度が遅く、十三ノットを出す為に煙突から火の粉を 吹き上げては敵船の目を逃れるのに誠に不適である。従ってあとの低速七ノット 程度の船団に加わって貰い度いと云うことであったらしい。 又、岸壁に逆戻りである。 高雄港外に集結した船団は大小合せて二十三隻であった。二列縦隊の船団は堂々 たるものであった。護衛の為、改装空母雲鷹及駆潜艇数隻が付き添って呉れた。 見たところ堂々たる船団は一路南進。時折り空母より発進した飛行機が我々の 上空を舞う。船足はゆっくりしたもので七ノット半。 船上の衛生状態は増々悪い。もう殆んど全員が下痢患者である。私も一日四回 五回は便所通いである。その又便所が大変なものであった。舷側に二枚の板が 30pくらいあけて突き出されている。その回りを申し訳程度に囲ってある。 下は海、用足しの姿が外からよく見える。風通しはまことによい、そこでの下痢 である。どこにどうなって消えるのやら、伝染病でも発生したら全員一コロである。 然し幸いにも伝染病はなかった、が下痢は止まらない。こんな便所の前に又行列が出来る。 憐れなる状況であった。然し食べ物は出来る丈食べた。食べなければ脱水症状に なり衰弱がひどくなるからである。
818 :
767 :2005/04/15(金) 18:03:13 ID:???
敵潜水艦が近くまできているとの情報が流れる。飛行機が警戒しているが何と もならないらしい。警報がない限り何もすることはない。山砲を引き出して 敵潜威嚇士気鼓舞を兼ね射撃をしようと云うことになった。2,000mで撃った 弾はすぐ目の前にチャポンと落ちた。海の広さがよく判った、海上の2,000mは 非常に近い。威嚇射撃どころではなかった。 下痢は止る気配が全くない。次第に体が衰弱して行く。こんな状態で海中に投げ 出されたら忽ち溺死することであろう。 船団はリンガエン沖にさしかゝった。 真昼間、目の前で大音響と共に水柱が高く上がった。四千屯位の中型タンカーの 中央部より若干後方に魚雷命中、警備の駆潜艇が走り回る。魚雷を受けたタンカー は命中箇所より後部が折れ曲り、最後部は水面すれすれであったが沈没はしなかった。 直に僚船が曳航してマニラに入港した。 マニラでは沖に停泊、上陸は出来なかったが現地人が小船で本船の回りに果物を 売りに来た。綱で果物を吊り上げるのであるが金の受け渡しが仲々むづかしい ようである。 数日後、船団はマニラを出港したが行先は不明、船の数も大分少なくなったよう である。護衛の空母も駆潜艇も見えなくなった。
819 :
767 :2005/04/15(金) 18:37:18 ID:???
或る日、甲板での喫煙の禁止が云い渡された。船はボルネオのミリーに到着し ていた。ミリーは石油の産地で水面の油に引火の恐れありとのことで甲板上の 喫煙禁止と相成ったようである。マニラ、ミリー間は平穏無事であった。ミリー での用件は不明のまゝ直にシンガポールに向け出港。明日の夕方か明後日早朝 にはシンガポールに入港と云う夜半、突然対潜警戒が発令された。僚船が一隻 攻撃を受けたらしい、間もなく各個シンガポールに急行すべしと云う命令を受信 して、我がマニラ丸も速度を上げながらシンガポールへと急いだ。 早朝シンガポールが見え出した。もう大丈夫。次第に船は港に近づいて行く、 町や木の緑が判然として来た。その時出港して行く二隻のドイツ潜水艦があった。 艦体は淡いブルー、司令塔の横に鮮やかにドイツ国旗が画かれていた。 甲板上で数人の乗組員が帽子を振り手を上げていた、我々もこれに応えて手を 上げた。何だか無条件に胸が熱くなったのを忘れない。シンガポールのドッグ で日本の手で手入れされたドイツ潜水艦は再び母国へ帰って行くのであろうが 帰り着けるであろうかと思わずにはいられなかった。 岸壁接岸は夕方であった。附近の景色を見る余裕など全くなかった。全員疲労 甚だしく満足にあるけるのは数える程であった。 マニラ丸船上での下痢患者多数の為、マニラ丸に乗っていたもの全員伝染病の 疑いで隔離されて了った。 (つづく)
820 :
名無し三等兵 :2005/04/15(金) 21:16:21 ID:LRIXhUJO
長いな
おいおい、他の板ならいざ知らず軍板でこの程度の文章を長いとか言うなよな。 >767 入力ごくろうさまです。 興味深く読ませていただいてます。
>>820 長いからいいんじゃないか。
767さん乙であります。
823 :
767 :2005/04/16(土) 16:21:11 ID:???
規制解除
824 :
767 :2005/04/16(土) 17:03:28 ID:???
船上生活に比べれば此度は天国である。然しどうしたことか下痢が仲々止まら ない。全員下痢が止まらないと伝染病の疑いが晴れない。 私は先づ最初に第三航空軍司令部に報告と次の命令を受ける為出掛けねばなら ない。大倉上等兵の運転する側車で出掛けた。 司令部で参謀部に行き第36教飛石橋少尉以下百三十数名到着した旨を告げた。 若い参謀部員は一寸姿を消したがすぐ現れて、佐藤先任参謀が会うと云って居 られるので一寸こい。一寸こいにはあまりよいことはない。佐藤先任参謀は広 い参謀部の一番奥で大きな机の前に太った体をデンと据えていた。 少佐の参謀が直立不動で立っていた。佐藤参謀は赤鉛筆で少佐参謀が持って来 た何かの原案を直している最中であった。書類は真赤になっていた。少佐参謀 への指示の声は大変大声であった。私はこれは困ったことになったと思ったが 帰るわけにもゆかなかった。 私は直立不動である。私は出来る丈大声で「第36教育飛行隊石橋少尉以下百三 十○名○月○日到着しました。人員、器材共異状ありません」聞き終るや否や 「来かたが遅い」と倍位の大声が返って来た。私はびっくりしたが部員の連中 には驚いた様子が全々ない。聞きなれた声であったのかもしれない。 それから奉天航空廠にて飛行機受領に始まりシンガポール到着までの詳細を報告した。
825 :
767 :2005/04/16(土) 17:16:18 ID:???
報告が終るまで私は非常に永い時間の様に感じられた。報告が終って佐藤参謀は 「判った。大変御苦労であった。お前の部隊の飛行機は途中事故もなく全機無事 マランに到着している。安心して呉れ、もうこゝまで来れば安心だ。あとの航海 は潜水艦の心配はない、兵隊をよく休養させて、判ったな」 その声の何と身に滲みたことだろう。最初の大声からとても想像出来なかった。 この佐藤大佐は終戦後マレーで部下の責任を負い自決された。佐藤大佐の自決 の真相は先年文芸春秋の紙上に「五人の自決者」と云う題で詳細に報道された。 軍人として人間として尊敬に値する人物であったと其の印象は強烈であった。 仲々隔離状態は解除されない、全員相変らず下痢は止らないが元気である。 何度目であったか三航軍司令部を訪れた時、所要の為中尾中尉がカラン飛行場 に来て居ることが判った。連浦以来数ヶ月振りに会うことが出来た。中尾中尉 にも相談したと思うがこのまゝでは何時まで南兵営に止め置かれるか判らない。 どうかして脱出しなければならない。そこで私は脱出を強行することにした。 三航軍参謀部にジャワ行きの配船を強く希望した。参謀部員は貴隊は目下伝染病 の為隔離中であり、第七方面軍々医部の考えもあり乗船は見合わせたらどうかと云う。 我々は目下至極元気である、方面軍々医部の方は何とでもするから是非配船して 欲しい旨強く申し入れた。其の時は承知して呉れたか否か判らなかったが直ぐ 乗船命令が来た。 明日は乗船日である。私は部隊に直に出発出来るよう指示して寝てしまった。 (やっと書き込めた)
826 :
767 :2005/04/16(土) 17:36:26 ID:???
明くれば乗船日である。早朝私は第七方面軍の軍医部を訪れて三航軍の命令に 依り本日シンガポール出港ジャワへ向う旨報告した。 軍医部では驚いた。私は軍医部長に呼ばれた。 軍医部長に同じ様に報告した。軍医部長は大変に腹を立てていた。「君の部隊 は目下隔離中である。出発を許可することは出来ない。だめだ」軍医部長は 強硬であった。然し私は引き下がらなかった。「軍医殿、私は第三航空軍の 隷下の部隊です、三航軍の命令に従わなければなりません。第七方面軍軍医部 の命令に従うわけには参りません」 軍医部長は怒り心頭に達した様である。私は一生懸命であった。終いに「勝手 にしろ、あとは知らぬ」と云い置いて席を立った。 私は“しめた”である。急いで南兵営に帰り、善は急げ間髪を入れず自動車を 連ねて埠頭へ向った。営門でぐずぐず云っていたが無視してしまった。埠頭に は五千屯程の貨物船が待っていた。 そうだ、シンガポールに於けることで一つ書き落した。 それは例の酒保品のことである。上陸後私は早速貨物廠に酒保品の受領に トラックで出掛けた。貨物廠で相当量の酒保品を要求した。 係員は「行先はどちらですか」「ジャワだ」「あゝそうですか、もう少し 御辛抱下さい。ジャワに行けば何でもあります、此処はビルマ方面へ行かれる 方が優先です」私はただ聞いていた。本当かなあ。
827 :
767 :2005/04/16(土) 17:52:14 ID:???
私の後から来たのはアンダマン諸島に行く部隊であった。係員はアンダマンと 聞くや要求される品物以外にもこれがある、これもある、必要ならばいくらで もと思い切り支給しているのを見た。私は要求を引き込めた。 日用品の最小限を受領して帰隊した。兵隊さん達には誠に申し訳ないと思いながら。 ジャワの天国ビルマの地獄とは既に耳慣れた言葉であった。ビルマ方面の方は 航空、地上を問わず御苦労でありました。 それからシンガポールで私達は始めてバナナの味噌汁、パパイヤの漬物を食べました。 青いバナナをどうして食べるのか判らなかったが味噌汁のバナナは甘くうまかった。 一寸横道にそれたが開放感一杯の我々を乗せた船は単独で静かに出港して行った。 此度は誠にのんびりした航海であった。船上は運動場の如き広さであった。船上は 涼しかった。食べ物も上等であった。何も言うことはない。おまけに敵の潜水艦の 脅威は全くない。不思議なことに下痢は一度に止まってしまった。下痢患者は 一人も居なくなった。何一つ薬を飲んだわけでもないのに。 (つづく)
828 :
767 :2005/04/17(日) 14:06:45 ID:???
乗船人員は我々だけであった。船上は広々としている。然し此の船は弾薬を積 んでいた。弾薬の外は我々の自動車だけある。一寸気持が悪い。然し一同開放 感を胸一杯吸い込んだ。 楽しき航海であった。 警備兵として乗船していた海軍上等兵曹以下数名が居た。或る日その内の一人 が輸送指揮官、艦隊が見えます、ブリッヂに来て下さいと呼びに来た。此の船 では私が輸送指揮官であった、此処では輸送指揮官もへったくれもなかった。 私はブリッヂに登って行った。 水平線の彼方に数隻の軍艦の姿が見えた。船に備え付けの眼鏡で眺めた、どえ らい戦艦が見える。海軍上等兵曹は武蔵か大和か判らないが何れかであると云う。 一万屯級巡洋艦らしきものが二、三隻見える、駆逐艦が艦隊の周囲を回っている、 空母もいる、帝国海軍健在なりの感を深くした。然しこれが帝国海軍の最後の 偉容であったかもしれない。 こんな気楽な航海の後ジャワ島タンジョンブリォークの港に着いた。沖に蓬来丸 が上甲板を海上に出して沈没していた。ジャワ攻撃の際今村大将が乗っていた船 である。
829 :
767 :2005/04/17(日) 14:19:28 ID:???
我々の船は岸壁に着いた、外に入港した船はなく直に器材の揚陸、人員の上陸。 簡単な手続きを終え兵站の指示によりジャカルタ市内ガンビルの兵站宿舎に 自動車を連ねて出発した。タンジョンブリォークとジャカルタの間、道路沿いに 線路がある。全く平和そのものの田舎の風景である。鉄道の線路の上で野生の 猿が遊んでいるのが見えた。日本ではお目にかゝれぬ平和なのんびりした風景である。 ガルビンの宿舎についた。町には物資があふれていると云う感じであった。果物 は名前を知らぬものばかり山の様に売ってある。安い。お菓子、何でもある。 之また安い。 シンガポールの貨物廠で聞いたことはウソではなかった。これで皆安心したら しい。ガツガツしなくなった。 私には未だ仕事が残っていた。マラン迄の列車の手配である。バンドンの飛行団 への報告である。私は一日早くジャカルタを列車にて出発、バンドンに立寄り 其の後ジョクジャカルタで後から来る本隊と合流する様計画した。 ジョクジャカルタで後発と待ち合せて合流した。ジョクジャカルタの駅で売っ ていたユデ卵があまり大きいのでよく聞いてみるとアヒルの卵であった、少し 色が青かった。始めて見るアヒルのユデ卵だった、みんなで食べた。
830 :
767 :2005/04/17(日) 14:47:43 ID:???
列車は予定通りマランの駅にすべり込んだ、プラットフォームに迎えの連中の 顔が見えた。 部隊に到着。営庭に整列。部隊長八代大尉に到着の報告をした。 あゝこれでこゝまでの私の任務が完了した。私はほっとした。戦友の大歓迎を うけ本当に安心した夜を迎えた。 私は心身共に疲労の極に達していることを自覚していた。立っているのも苦し かった。 部隊長に「当分使いものにならぬなー。バトーにでも行って静養してこい」と 山の上の方に追い上げられた。 数日で心身共に健康を回復、部隊に復帰した。 誠に苦難のマニラ丸でありました。 (おわり)
>814 釣りかもしれんが、 "だって私の髪は長いもの"で探してみたら、 原文は英語で、最後の二行は * I asked the girl,"Why are you getting up?"(何故髪をアップにしてるの) * The girl said,"Because my hair is long."(だって私の髪は長いもの) ではないかというのがあった。 また、2chでも専用スレが立っている(た?)模様。
俺は放射能被爆のネタだと思った…。
833 :
767 :2005/04/21(木) 16:49:42 ID:???
昭和20年6月某日、我々を乗せた汽車は静かにマラン駅プラットフォームを離 れて行きました。それはまるで、故郷を離れて何処か遠い地へ行く様な感慨を 持たせる出発でありました。 汽車の窓から見えるマランの街の姿・・・・・家々の赤い屋根、ヤシの並木、 教会の銀塔・・・・・等が後へ後へと流れ去って行きました。毎日見ていたス メル山、ブタクの山々が少しづつ遠ざかって行って仕舞いました。 「流れ流れて、南はジャワよ!」と歌った位しか、当時のジャワへの知識がな かった私は、この街の清潔な事、そして街行く人々の表情の明るい事に驚きま した。街の中央に在る広場、大王ヤシの並木道、整然と立ち並ぶ民家、物珍し さはあってもこんなにも美しい街は外には余りないのではないかと感じました。 赴任した飛行隊は、当初第36教育飛行隊でありましたが、後に第26練成飛行隊 に改編された若々しい部隊でした。 部隊長も飛行隊長も我々を短期間に仕上げる為に日夜懸命の努力をされており ました、広い飛行場にある飛行機は、はるばる朝鮮の連浦より幾多の困難を排 除して空中空輸されたものです。又、整備隊の御苦労も大変なものでありまし た。一個の部品もこの地では仲々手に入らない状況です、この様な環境の中で、 我々も期待に副う可く飛行訓練に精を出しておりました。 然し我々も若かった! 風に揺らぐヤシの樹間に輝く南十字星を見ては、青春 の血も騒ぎ、黒髪豊かなジャワ娘の姿態に接しては、ほのぼのとしたロマンス を想起する年令でありました。 が、現実に立ち戻れば、我々は今、このマランを出発して、チレボンにある第 34教育飛行隊に向う汽車の中に在ったのです。
834 :
767 :2005/04/21(木) 17:13:34 ID:???
チレボンに到着したのは、翌日の朝だと記憶しております。チレボン興亜なる 煙草の産地で有名なこの町は、マランよりはるかに小さい田舎町でありました。 駅からトラックで着いた部隊営舎もマランに比べると大変見劣りがしております、 それに誠に暑い所でした。飛行場もジャングルを切り開いて作った様なものです。 飛行機の離着陸の時はもうもうたる土煙が立ち昇ります。給与の方も悪いし外 出先も大した所はなかった様でした。 只だ一つ丈け良かった事は、煙草とチョコレートの配給が非常に沢山ありました。 ここの部隊にはバンドンの第17教育飛行隊から来た特繰二期の同期生が十数名 おりました。彼等にしても涼しいバンドンからこゝに来てバンドンを懐かしが っている気持ちは我々と同じものであります。我々もマランを懐かしみ、出来 れば再びマランに帰りたいと思っておりました。 或る日曜日にチレボンの町に外出してみました。煙草工場の大きな煙突の見え る広場のベンチで一休みしておりましたら、七、八才の女の子が近寄って来ま した。この娘はこの町の町長の娘であると言っておりましたが、習いたての日 本語で上手に「真白き富士」の歌を私に歌って呉れました。この時この女の子 の目は大変澄んでいて、この国の将来を物語っている様に見えました。 七月になりますと我々はバンドンに集結を命ぜられ、いきなり第106教育飛行 団々長の原田中将より直接「北方圏転用空中勤務者」を命ずると言い渡されま した。その命令下達の部屋には白布を掛けたテーブルがあり、その上には既に 別杯の用意がなされております。どう見ても何か出陣式の様な感じがし背中に 冷たいものがさーと走り顔に熱い血が上りました。
835 :
767 :2005/04/21(木) 17:27:19 ID:???
果せるかな! 同中将の音頭で乾杯した後に「日本内地特攻隊として、充分お国 の為めにやってもらいたい・・・・・・・・・諸官の武運を祈る」との激励の詞があ りました。 この七月の時期では沖縄特攻作戦も同島の失陥で終り、遂には日本列島に接近 しつつある米機動部隊に対し、飛行機、舟艇による人爆攻撃が計画されて居り ました。 我々を含めてジャワ各地からの「北方圏転用空中勤務者」の結成式がバンドン で行われましたが、ジャワ島以外でもマレー、シンガポールでも同じ事が実施 されました。 今、その時の記憶が生き生きとよみがえってきます・・・・・ああ!これで異国 の地に骨を埋める事がなく、緑り深き母国の海に自分の青春を投ずる事が出来 るのだ・・・・・と喜びの心が生じました。 いずれにしても、この戦さでは生き残れないのは先刻承知でありましたし、戦局 が不利になったこの時期、我々の如き特操出身のやることは只だ一つ、爆弾を 持った飛行機をなんとか操り、敵艦に体当り出来れば之に優る成功はありません。 又、この様な覚悟を持って操縦を志願したはずです。 戦後の調べでは、飛び立って行った特操の数は三百人近くありました。 そして、これ等の戦士の霊は京都の護国神社や東京の世田谷観音寺に現在祭ら れてあります。
836 :
767 :2005/04/21(木) 17:53:46 ID:???
昭和18年、柏の第4航空教育隊に飛行兵として現役入隊した私は、郡山の第12 航空教育隊、更には高田の第13航空教育隊で対空無線を学んでおりました。 学徒兵の第1陣として同窓の学友達も各部隊に散っておりました。そして幹候 合格の発表のあった日に、中隊長より特操志願者は申し出ろとの催いがあり、 私はためらわず真先きに手を上げた記憶があります。その後、適性検査等にな んとか合格し、宇都宮陸軍飛行学校で基本操縦を習い、どういう訳かジャワの マランまで来てしまったのです。それが又直ぐ、日本に帰らねばなりません。 軍隊と言う所は全く当方の都合等は考えて呉れない所です。とに角も、この時 は日本に帰れると言う喜びと日本に帰れば最後だと言う心の葛藤に悩まされた のも事実でありました。 七月の下旬、バンドン集結中のマランよりの転属者達は、夫々九七重、百重、 双発高練等に分乗してシンガポールへ向ってバンドン飛行場を離陸しました。 機上から見える輸送編隊の隊形は誠に見事なものでした。数えて見ると総数26 機です。機内では各自、前記原田中将より贈られた「必勝」の文字の書かれた ハチマキを携行しておりました。 同日昼、シンガポールのカラン飛行場に無事着陸した我々は第三航空軍司令部 差し回しの便で宿舎の南明閣に入りました。 この南明閣の食堂で、こんな事があったのを記憶しております。 食卓でビルマ帰りの大尉殿と同席しました。その大尉殿は我々の方の献立を見 ながら「貴公達のは随分と豪華だな」と言われますので、先方のを見ると当方 より可成り落ちています。「宜しかったら、どうぞ、どうぞ」と差し出すと、 彼は非常に喜んで「航空隊の給与は良かですなー」と語っていたものです。 (つづく)
837 :
767 :2005/04/22(金) 17:06:47 ID:???
ジャワ軍票はシンガポールでも通用した様でした。日本への土産として革カバ ンを一つ買いました。之が後日復員船に乗る時に問題になったのでした。 当時のシンガポールはジャワと比較して何となく落ち着かない様子でありました。 住民の眼も大変反日的であり、物価も高く、消費物資もジャワより少ない様で ありました。 突然、町中で平服の日本人に呼び止められた事があります。彼の説明によると、 彼は特操の三期との事です。折角日本より来たのですが訓練すべき飛行機が無 い為、情報機関の仕事をやっているとの事でした。長髪平服で支那人街に接触 しているそうです。中には支那人の娘と偽装結婚しているものもいるそうです。 さて、シンガポールから仏印へ飛び立ちました。今度は編隊ではなく単機航法 です。タイ湾上空には時々英軍スピットファイアーが出るので編隊はヤバイと の事です。 カラン飛行場で百式重爆撃機に十二、三人づつ乗り込みますと機長が「皆さん、 索敵の方をお願いします」との事、「まかせとけ」とは言いましたが敵戦闘機 に発見されれば一コロです。いさゝか心配な飛行になりそうです。 丁度タイ湾の真中高度三千位に達したころ、後方索敵の同僚から「敵らしきも の1機」と伝送がなされました。一同ぎょ!として示された方向を見ますと、 高度五、六千、乗機の進度より右120度、直距離約五、六千の上空を小型機が 1機見られました。が、相手はこちらを知るや知らずや南下して行ってしまい ました。この小型機が日本軍のものなのか、敵機であったのかは知り様があり ません。
838 :
767 :2005/04/22(金) 17:22:32 ID:???
海上五、六百まで降りてきた百重からやっと仏印の海岸線が見え始めました。 やれやれと一同の顔にも血が上って着ました。然し、重爆と言う代物は着陸に は厄介なものの様です。旋回すると何となく眼が回りそうになります。矢張り、 飛行機は一人乗りが一番性に合っているなと感じました。 着陸した所はカンボチアの首都プノンペン飛行場でありました。 こゝは可成り大きな航空基地です。戦闘第50戦隊等が展開しておりました。暑さ はジャワどころではありません。日中34、5度の大変な所です。プノンペンの街 から一里位の所でした。この基地には特攻宿舎と言うものがあり、又、特攻食 と言うものがありました。 既に我々より先きに日本へ帰った連中がここを通過しますので、ここの飛行場 大隊(第81飛大)は北方圏転用者の専属部隊の感がありました。時任少佐がこ の飛大の部隊長でした。 ここで毎日内地からの迎えの飛行機を待っておりました。次々にMC20や九七重 に乗り単機で出発するのを見送りました。バンドンから来た同期の一部も出発 しましたが、彼等は仏印より支那大陸を飛び飛びにして上海に着き東支那海を 渡って九州に飛ぶコースです。 彼等の中のある一機は夜間東支那海上空通過中、運悪く敵機動部隊上空に出て 仕舞いました。その為め、敵艦より猛烈な対空射撃を受け、必死に逃げ切った そうです。日本に帰る事自体が容易な事ではありません。
839 :
767 :2005/04/22(金) 17:48:05 ID:???
終戦の月の八月になりました。 我々の乗る迎えの飛行機は未だに到着しませんが、その後も南方各地からの集 結は続いておりました。その中には日本で別れて以来の懐かしい同期の者もお りました。 然しこの時期には、既に日本の中枢部でポツダム宣言受諾の準備が進められて おりましたので、我々の方へまでは手が廻らなかったと思われます。 八月十五日の暑い朝が来ました。 飛大本部より本日正午、第1種軍装にて通信室前に集合の命令が発せられました。 天皇陛下の玉音放送が日本から来るとのことです。この何日か前にソ連軍が満 州を攻撃中とのニュースも入っておりました。 暑い中、集った我々にはラヂオの雑音が大き過ぎてその内容は全く分りません。 解散した我々の間では、多分ソ連参戦の為め内外の日本将兵に対する激励の放 送であろうと想像しておりました。 ところが、八月十八日になりますと、ある通信社からの情報として日本は無条 件降伏をした事が知らされました。 そんな馬鹿な!今、我々は内地特攻隊としてこの地まで来ているのだ、その我 々を放っておいて日本内地が敗れたとは到底信じ切れません。 然し事実だったのです。
840 :
767 :2005/04/22(金) 18:12:27 ID:???
さて、そうなると我々は一体之からどうすれば良いのか?まさか、出て来た ジャワに再び帰る訳にも行きません。とに角も今は、第三航空軍か南方総軍の 指揮下にあるらしい、そしてこの飛大では客分である。色々と議論が百出しま した。結局、この飛行場大隊に吸収される事になり、飛大では特別攻撃隊だか ら特別の字を残して特別中隊及び特別小隊を編成する事になりました。 この中隊及び小隊は総て飛行機操縦者からなっております、即ち幹候、特操、 少年飛行兵、予備士官等でした。 戦争がいきなり終ったので、一週間位は各自ボーとなり、なにもやらずにぶら ぶらばかりしておりましたが、之まで貯蔵してあったウイスキーやら甘味品を 大配給して大宴会をやった事もあります。そして飲むほどに酔うほどに色々 計画予定も出ました。例えば、日本内地は敗れたかもしれない、然しここ南方軍 は健在である、南方軍隷下の飛行機500機、又、数十万の兵力を集めて飽くま でも戦争を続行すべきだ! あるいは、日本国家百年の計の為め、全員山に入りゲリラとなり国家再興の捨 て石となろうではないか。又、ある者は否、戦い終ったのだから我々は早く日本 に帰り、我々を待っている同胞と共に国の復興に努力する事が天皇の御意思で ある等々・・・・・・・の意見が出ました。 実際には個々に又は数人単位で山に入った者がいた事も確かです。 之等の離隊者を連れ戻すべく、我々の何人かも山に捜しにいきました。 そして、連れ戻した者もありましたが、中には遂に帰らずにあの地に残った人 のいる事をこの眼で見ております。 (つづく)
>>767 ママーリ楽しませてもらってます。ガンガレー。
842 :
767 :2005/04/23(土) 14:39:01 ID:???
アリガd。こんな長文続けて大丈夫か? という一抹の不安を抱きつつやっております。 マターリしてもらえると幸いです。
843 :
767 :2005/04/23(土) 14:44:20 ID:???
ともあれ、百八十度変針した我々でしたが、一応附近の警備やら治安維持の任務 に従事しておりました。 某日のこと、英印軍の命令により日本軍飛行機を受領に行くから使用可能な状態 にしておく可しとの通信が入りました。その受領の日の事は今でも忘れ得ません。 朝、数機の輸送機がプノンペン飛行場に着陸しました。 日本軍用機の一式戦、九七重、百重等は既に翼の日の丸が塗りつぶされ英軍の マークが画かれております。輸送機から降りた英軍パイロットが日本軍パイロ ットに機の諸元等を教えられておりましたが、そのうちに1機の一式戦に英軍 操縦者が乗り込みました。日本軍の整備兵が車輪止めを外しますと機は直ちに 地上滑走に入りました。 我々がかたずを飲んで見守る中を出発線より走り出した隼は滑走路の半ばで見 事空中に飛び上がりました。 不思議にもこの時、我々日本軍の飛行機が敵手に渡されたと言う惜しさは感じ られませんでした。むしろ、失敗しないで飛んで呉れ、之は日本軍の一式戦な のだから大事にしてやって呉れと言う気持ちで見ておりました。 次々と隼は何処かに行って仕舞いました。一方、重爆や輸送機の方がどうなっ たかは記憶に残っておりません。多分、シンガポールへでも行ったのではない でしょうか。
844 :
767 :2005/04/23(土) 15:32:23 ID:???
20年の11月になって仕舞いました。 その頃になると、日本への復員の話しも除々に現れ始めました。そして或る日、 第81飛行場大隊はサンジャックに向って前進せよと言う命令がやって来ました。 大隊は引越し準備で大騒ぎしましたが、之で日本に帰れる希望が出て、先ず先 発隊を出して途中の露営地の偵察をなし、次いで、設営隊が出され露営地の設 営がなされました。この後、本体はこのプノンペンの地を徒歩或いはトラック、 船で去って行き、こゝに日本軍のサイゴン又はサンジャックに向かっての大移 動作戦が開始されました。 メコン河を渡る時などはトラックをイカダに乗せたりもしましたが道路面は大 体良好で快適な自動車行進が続きました。又、ある部落では支那軍の小部隊と 出会いました。彼等の装備は大変悪く兵員も疲れている様でした。この部隊は 何処からやって来たのか分かりませんが、戦争も既に終わりましたので日本軍 も支那軍もありません。我々はトラックの上からお互いにニヤーと笑って別れ て来た記憶もあります。 サイゴン附近までたどり着きますと本日は日本軍の降伏式を行い、武装解除を すると言う英印軍の命令が出されておりました。我々通過部隊もその命令に従 う事になりその降伏式場に行きました。 グルカ兵が自動小銃を持って我々を背後から警戒しております。式場中央のテ ーブルにはユニオンジャックの旗が置かれております。日本軍は先任順に英印 軍中佐の前に進み軍刀をテーブルの上に置き敬礼をして降伏の印を示しました。 誠にこの時は、敗戦の実感を身を以って味合いました。
845 :
767 :2005/04/23(土) 16:00:16 ID:???
然し、英印軍中佐は次の様なことも言っておりました。「貴官等の日本刀の中 に名刀があれば、その刀の作者名と由来等を添付して頂きたい。英本国に持ち 帰って大事に保管するであらう」・・・・・数振りの名刀も有った様でした。 さて、丸腰になった我々は途中の中継地でやっと本体と合流する事が出来まし たがこの中継地は先発した設営隊の努力で宿舎が出来ておりました。こゝが又 大変な所で30センチ位のムカデ等が出現する南方の秘処と行った所、サソリ、 蛇、ムカデ、トカゲとの同居が続きました。 我々の属する飛行場大隊の外にも各種部隊が沢山集結しておりましたが、一応 こゝに駐屯軍司令部を開設し復員までの間、我々はこの駐屯軍として移駐して 来たのであり、決して捕虜の扱いは受けておりませんでした。戦後の話しでシ ンガポールにおいては収容所に入れられ、不当な扱いを受けた等があったそう ですが、我々は使役程度の作業は命ぜられる事はあっても、毎日の作業は全く ありませんでした。 今でも記憶しております。最初にして最後の駐屯軍司令官は長久少将と言う可 也りご年配の閣下でありました。やや小太りな非常に温厚な方でした。 さて、司令官は決まったが、後の部員は之から決めると言う事で、先ずサイゴ ンの南方総軍から来られた白川少佐を高級参謀にして各部隊から夫々の部員を 集めた様でした。
846 :
767 :2005/04/23(土) 16:31:49 ID:???
ところで、時節柄司令官の副官にはプロよりもノンプロの方が之からは良かろ うと言う事で、我が特別小隊のT中尉(幹候)が選ばれました。T中尉は元教 員をしていた事とて博学の誉れ高く、後の日本軍の行動に大変良い影響を与え た様に思われます。 或る日、このT中尉が飛大にやって来て、今度英印軍との接渉の為め、司令部 内に渉外班を作る事になった。既にその班長には上智大学出身の大尉さんが承 諾されたが、通訳(軍属)を指揮する少尉2名を募集に来た。特操の中からこ の際皆の為めにやって呉れる者は居ないだろうかとの話し。 私はこの時、特別中隊で毎日ブラブラして居る事に飽き飽きしておりましたので、 通訳は出来ないが通訳を連れて相手の言う事を聞くこと位なら何とか出来るだ ろう、一つその渉外班とやらに努めてみようと一番先に名乗りを上げました。 もう一人は計らずも同校のI少尉でありました。 「貴様、英印軍の司令部等に行ったら、いじめられるに違いないぞ。止めにし た方が良いんじゃないか」と同期の者達が言っておりましたが「何に、今まで 軍隊に入っていても、お手伝い位しかしなかったから、之からは少し苦労もし てみるんだ」と翌日、私物をまとめてさっさと渉外班に行って仕舞いました。 海岸に近い所にある司令部に行ってみますと、道の向かい側にユニオンジャ ック旗を立てた英印軍司令部があります。前記の長久少将に申告を済ませますと 「ご苦労だが毎日の定時命令受領をやってもらいたい」とのことです。
847 :
767 :2005/04/23(土) 17:14:58 ID:???
21年の正月を迎え各部隊も落ち着きを見せ、漁労班、農耕班、製塩班を作り自 活の道を始めました。主食の米はまあなんとかなりましたが副食は自活で取る より外に方法がありません。ある隊では試食班等を作りました。班員は皆健康 な者からなり、彼等の任務は樹からぶら下がっている特大豆とか名も知らぬ雑 草を刈り炊いたり煮たりして、先ず一番目に試食することです。そして彼等が 中毒にならなければその雑草類は副食として合格です、然し誠に生命がけの仕 事でした。 一方、漁労班の方でも海蛇の如き大魚を捕獲したり、農耕班では大根を立派に 作り、その中に豆腐屋、酒屋等も出現しました。 4月になりますといよいよ日本からの復員船が港に入って来ました。もうこの 時点では渉外班も解散になって原隊に帰っておりました。 4月末ごろ、乗船地の海岸に集合、ここで仏軍の持ち物検査を受けました。彼等 は我々を並べておいて不規則にカバン等を取り上げて仕舞います。私の立って いるところで丁度止ったフランス兵がいきなりカバンを取ろうとしましたので 「ノウノウ アイム リーゾン オフィサー(私は連絡将校である)」とどな りますと、その剣幕に驚いたのでしょう、黙って行って仕舞いました。 昭和21年5月1日、我々マラン第26錬飛からの転属者等四千名を乗せたリバティ 船は静かにサンジャックを離れて行きました。遠去かって行く仏印の山々丈け が我々を見送って呉れました。我々の眼はこの南の大空と大海原をじっと見つ めておりました。 走馬灯の様にあの戦中の色々な想い出が現れては消えて行き、船は一路懐かし の日本に向って進んで行きました。 (おわり)
+ +
∧_∧ +
(0゚・∀・)
>>767 乙
(0゚∪ ∪ + テカテカ
と__)__) +
849 :
767 :2005/04/28(木) 16:36:14 ID:???
抑留生活の前夜 池 部 政 行 終戦後の十月、マラン残留隊はジャワ、ケデリー州の山の中腹で自活生活をし てゐた。ある日の薄暮、私達牧畜班の七名はその日も九十数頭の牛の放牧を終 えて、昼間炊事へ提供した一頭の犠牲牛により夕べの御馳走にありつかんとし た時であった。一人が附近の林の中で遅く迄現地人が働いてゐるようだという。 みれば草むら中にあちこち人影が見える、今日は特別何かあるのかな位に思っ てゐたがそれから三分五分と経つ頃、その人数が急に増えてきた。しかも山麓 の道を遥かに見ればトラックが人員を満載して何台も何台も続いて登ってくる。 終戦後の今更、と思ったが、これはと感じ急いで伝令一人を出したが、その時 敵もこちらの動きに気がついたのか堂々と多数が姿を現し、急にわが牛舎、休 憩所等を包囲した。 敵は手に手に銃、日本刀、槍、鎌等を持っている。こちらは六名しかも素手で ある。如何ともし難し、数百米耕地を隔てた兵舎の方を見ればまだ何事もない。
850 :
767 :2005/04/28(木) 16:58:52 ID:???
「竝んで下さい」との日本刀を持った敵の指揮者の言に従った。言葉は丁寧だ が、することは厳しい。先づ身体検査して所持品(特に貴重品)をとりあげ一 列横隊の前と後ろから一人一人に銃口を向けた。私は一番右に竝んだので右か らと三方から銃口をつきつけられた。みな安全装置をハヅし引鉄に指がかゝっ ている。 もうあと数分の生命かと覚悟した、おさらばである。終戦後日本はどうなって ゐるか解らぬまゝだが、やはり父母の顔が目に浮んだ、さよならと思った。 それで少し心が落付き前方を見れば、わが兵舎から戦友達が木銃らしきものを 持って散兵を展開しつつある。(あとで聞いたら池辺達がやられるとて、わが 隊は先を争って駆けつけてくれたとのこと)敵もこちらで大きく日本流に散兵 を敷いている。そのときどこかでわっと一声あれば私達六名は今日生きていな かったろう。 しかし敵も慎重である。私のそばの指揮官は、盛んにテダパサンテダパサン (撃つな撃つな)と散兵に怒鳴っている。なるべく血を流したくないらしい、 こうして私達は最前線に位置してゐて彼等の人質になっていたのだ。 その頃である側方の道路の方を見れば薄暗い木の間に友軍の方へ向う白旗らし きものが見えた。両軍の散兵は殆んど動かない、それからどれ位時間が経った のか、兵舎へ帰るように云われた。本隊に復帰してみると部隊長の言葉として 「今戦えば一応負けないが、今一人でも犬死するときではないから命を私に預 けてくれ」との訓示があったそうである。彼等の目的はこちらが保存していた 数年分の被服、食糧、兵器等を独立運動にほしいとのことらしかった。
851 :
767 :2005/04/28(木) 17:19:07 ID:???
それから、彼等の誘導により全員下山することになった。私達はそれからが飲 まず食わずの収容所生活が始まった、その内容は実に惨憺たるもので、自分の 腰の汗臭いバンドでも牛皮として煎じて飲んでみる程であった、栄養失調で生 身の極限と戦ったのだ、その細部は多くの戦友達の体験談におゆづりして、唯 一つだけ深く印象に残っていることは、その希望のない殺伐たるどん底のある 日、収容所の木蔭に一人の将校の方(お名前は忘れました)と一座したことが あった。その方は「日本は必ず立直る」と話された。米軍が上陸しているであ ろうが内地の状況も不明のまゝだし、戦争に負けて、そんな世の中がくる筈が ないと私達はその言葉を信じることは出来なかった。しかしその反面、その将 校の一言が心の隅にいつも希望となりて心のさゝえとなって軽挙を慎むことが 出来た。今日になってその方の達観に改めて敬意を表する。 以上が抑留生活の始まりとその一部であります。 (おわり)
853 :
名無し三等兵 :2005/04/29(金) 11:48:37 ID:t47mrPzz
戦時中でも戦場でもないが… 1966年ソ連は新型宇宙船ソユーズ一号の打ち上げを 間近に控えていた。しかし、この突貫作業でつくられた宇宙船には 確認されているものだけで203箇所もの欠陥があった。 以下はソユーズに乗り込むことになった、コマロフ宇宙飛行士と 親交のあったKGB職員の証言。 「…飛行の1ヶ月前、コマロフは私と私の妻を食事に招待した。彼はその席上、 「今度の飛行では私は生還できないと思う。しかしここで私が降りれば、 代役のガガーリンが飛行しなければならない。彼は、守らねばならない」と語った。 数日後(そのKGB要員は)一通の封筒を受け取った。それは、飛行を差し止めるよう、 ガガーリンが飛行士達に募った署名で、ブレジネフ書記長宛だった。結局飛行は行われ、 コマロフは死んだ訳だが、ガガーリンは大いに悲しみ、書記長に直に抗議に行くと言い残して立ち去った…」
854 :
767 :2005/04/29(金) 15:51:07 ID:???
殉難烈士之碑
石 橋 慎 三
(中略)
戦犯容疑者の容疑内容は全く問題になる様なものでなく戦斗後の報復以外の何
ものでもないものであった。チヤンギーゼールに収容された容疑者の多数の若
い日本の兵隊達が不充分極りない一方的型式だけの裁判の結果、絞首刑となり
チアンギー刑務所の刑場の露と消えていった。身に覚えのない理由で若き身で
こゝに南国の果てに散って行った人達は実にあわれでならない、戦い終って祖
国帰還を身近に感じ始めた時、父母、妻子を残してと云うことを思う時その感
を一層深くするものである。これ等の人々は正に難に殉じた烈士である。こゝ
にその実態を示す資料があるのでその一部を原文のまゝ人名は本名のまゝ記載
してみたいと思う。これは当時シンガポールに居られ現在沼津在住の渡辺実元
少尉が持って居られるものである。刑務所内に収容されてゐる人達に、辯護士、
教誨師其の他が限られた面会の際に本人が紙屑に書き留め、丸めて棄てるそれ
を拾って看守の目をかすめて持ち帰ったものである。渡辺氏はその紙屑のしわ
を伸し、キャンプの灯の下で書き直し帰国時はリックの負ひ紐の中に縫い込ん
で持ち帰られた。従って今あるものは本人の直筆ではないが内容に変わりはない。
↓全文です(死刑になった人達の手記、遺言等があります)
ttp://tobeten.dyndns.org/~master/up/img/638.zip
855 :
名無し三等兵 :2005/05/02(月) 11:06:13 ID:??? BE:133088055-#
レR酉日本の日勤教育みたいなもんですなぁ・・。
ネタが無さそうなので、コピペですが・・・。 これは文藝春秋2000年11月号に掲載された阿川弘之氏の文を要約したものです。 2000年7月4日、20世紀最後のアメリカ独立記念日を祝う洋上式典に参加するため、 世界各国の帆船170隻、海軍の艦艇70隻がニューヨーク港に集結した。 翌日の5日に英国の豪華客船「QEU」が入港してきたのだが、折悪しくも2ノット半の 急流となっていたハドソン河の流れに押された巨大な客船は、あれよあれよと言う間もなく、 係留中の我が海上自衛隊の自衛艦「かしま」の船首部分に接触してしまったのである。 着岸した「QEU」からすぐさま、船長のメッセージを携えた機関長と一等航海士が謝罪に やってきた。相手の詫び言に対応した「かしま」艦長はこう答えた。 「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。それよりも女王陛下にキスされて光栄 に思っております」 これが何千人もの船乗りたちの間で大評判になり、ニューヨークだけでなく、ロンドンにも伝わ って「タイムズ」や「イブニング・スタンダード」も記事にし、日本のネイバル・オフィサーのユーモ アのセンスを評価する声が高かったそうである。 「かしま」艦長、上田勝恵一等海佐。
>>857 >女王陛下にキス
カッコ(・∀・)イイ!
米国がイラクに侵攻して数十日後だったか、米軍が設営した陣地に一台の普通乗用車が駆け込んで来た 米陸軍軍曹、ボレルが様子を確認すると 10代前半位の少女が戦闘に巻き込まれた結果ヒドイ負傷に苦しみ、父親がすぐにでも治療してほしいと懇願する しかし、陣地の司令部は施設の使用目的と少女の治療が異なるものである事を理由に父親と少女の通過を拒み、ボレル軍曹の懇願も受け入れられなかった 車は仕方なく去った 彼にも米国に同じ年頃の娘が二人居る為か?父親と少女の苦痛は軍曹の深く理解する所だった ボレル軍曹はその場に泣き崩れた。 この様子は写真に撮影され世界へと配信されたが、男が世界を前に泣いても堂々たる尊厳を発揮する場面は確かに存在する 父親と少女、及び男ボレル軍曹とその娘達に尊厳と幸福あるべし
860 :
名無し三等兵 :2005/05/11(水) 23:50:04 ID:t5Y6il8f
>>857 リアルのエリザベス二世にキスされても嬉しくないが。。。。
で、冷酷非情の鬼畜上官は処分されたのか?
冷酷非情というのはいい過ぎだ。 このような前例が発生した場合、後々にテロとは無関係な怪我でも治療に訪れ 米兵の治療という本来の目的を達成できなくなることを懸念した。 ・・・と、これが建て前で。あとからこっそり治療を受けさせてやればいいのに つーか、イラク復興と治安維持が作戦全体の主目的なのにこんな恨みを買うような事して 米兵の評判は最低なのに、ちょっとでもポイント稼ごうとはおもわなんだ・・・
別に対応は間違ってないよ。 軍隊は個人の正義感を満たすための物ではない。
それが自爆テロでないという保証がないからねえ。 それに、一度そういうことを認めてしまったらあとはなし崩し的に おなじことを繰り返さなくてはならなくなるし。 組織の対応としては間違ってないでしょう。 ・・・個人的にはこっそり治療してあげてほしかったけど。
867 :
767 :2005/05/12(木) 17:07:14 ID:???
連浦―マラン弥次喜多空輸記 中 尾 周 作 昭和19年2月末日編成を完了した我が36教練飛行隊は東部ジャワ・マラン飛行 場に前進するよう命ぜられました。編成地の北朝鮮の連浦から約8,000q当時 の私達の常識では大変な移動作戦で、非常な緊張感を覚えました。 航空部隊は空輸、整備隊その他の支援部隊は輸送船で移動するのです。私はそ の前年、昭和18年12月当時の明野陸軍飛行学校乙種学生の課程を卒業して部隊 に着任したばかりの新米少尉です。(飛行時間約200時間)勿論外地の航法の 経験などまるでありません。その私が編隊長として、当時の満州奉天鉄西飛行 場に出向いて、二式単座高等練習機七機を受領して、ジャワ島マランに空輸す るよう命令を受けました。同年3月中旬私は、加藤曹長、吉野軍曹、村上軍曹、 鴨山軍曹、青山軍曹、脇浜軍曹、和田伍長、田志兵長等を連れて奉天航空廠に 赴いて飛行機受領に当りました。 当時の奉天航空廠の傍に日本の中島飛行機の分家といわれた、満州飛行機--通 称:満飛(マンピ)と云われました--で、九七戦を改造した二式単高練を大車 輪で製作していたのです。 当時の陸軍航空当局は、戦局の要請に応えて操縦者、特に戦斗操縦者の養成に 力を入れて、教育飛行隊を大増設していたのです。そしてその部隊を燃料入手 の容易な南方諸地域に配置した訳です。
868 :
767 :2005/05/12(木) 17:25:01 ID:???
奉天の鉄西飛行場ではそれ等のパイロットの飛行機受領者で大混雑して居りま した。 満飛の生産ラインから出来て来る飛行機は前記の待ち構えたパイロットに渡さ れて、試験飛行をして、これでよしと云うことになると夫々の任地に空輸する のです。ところが出来て来る二式単高練には色々の問題点がありました。当時 の物資不足の状況で、特に特殊合金の極度の不足の為、エンヂンが極めて不安 定なのです。新製品の二式単高練を受領して試験飛行して驚いた事は、新製品 であるのに拘らず滑油消費量が非常に多い事です。フィルターには金屑が多量 に発見されます。もともとパイロット仲間に満飛製の飛行機は人気がありませ んでしたが、これ程とは思いませんでした。 噂では、気の短い編隊長が18機の二式単高練を受領して台湾に空輸したところ、 まともに目的地に到着したのは2機丈けだった、等と云われていました。 私はこの飛行機を安全確実にマラン飛行場まで空輸しなければなりません。特 に入念に試験飛行をして、完全な飛行機を受領するよう心掛けました。 航空廠は一定のノルマを果たねばなりませんから、内心あまり文句を云わずさ っさと持って行けという態度です。航空廠の少佐からお前の部隊は文句が多過 ぎると叱られた事もありましたが、マラン飛行場迄の8,000qの航程を考えま すと簡単に妥協は出来ません。 とに角、何とか良さそうな飛行機を受領して編成地の連浦飛行場に帰着したの は4月中旬だったと思います。 部隊長編隊は九々高練数機で、既にマランに向けて出発して居りました。
869 :
767 :2005/05/12(木) 17:52:46 ID:???
連浦で更に入念に整備をして4月20日頃出発、南朝鮮の大邱経由太刀洗に向い ました。そのメンバーは次の通りです。中尾少尉、加藤曹長、鴨山軍曹、村上 軍曹、青山軍曹、和田伍長、田志兵長。 春とは云え朝鮮の山々は雪を頂いて荒涼たるものです。大邱飛行場では燃料滑 油の補給後直ぐ太刀洗に向けて飛び立ちました。そこで食べたリンゴの歯にし みた冷たさが記憶にあります。玄界灘を飛び越えて北九州に入りますと全くの 春です。黄色い菜の花が目にしみます。先刻の荒涼とした情景に較べ全くソフ トな感じで、あゝやっぱり内地だなあと感じました。 太刀洗に着いて気になるのはやはり飛行機の滑油消費量です。二式単高練の整 備上のデータ等は忘れましたが、約4時間位飛行しますと滑油タンクは殆ど空 っぽになるのです。通常の航空機の航続時間は、燃料の消費量が基礎になるの ですがこの飛行機は滑油の消費量が基礎にならざるを得ません。点火栓は飛行 の度毎にベタベタになります。これから外地に出れば、途中丁寧な整備を望む 事は無理でしょう。私は太刀洗航空廠に滑油消費量の甚だしい数機のエンヂン 交換を申入れました。航空廠側も知って居りまして快く私の要求を容れてくれ ました。 太刀洗の飛行場はなかなか活況を呈して居りまして、私が明野飛行学校で共に 学んだ同期生が一式戦や三式戦を駆ってニューギニアやビルマの戦線に出発す るのに会いました。彼等の意気軒昂な気迫に較べて、満飛製の二式単高練の整 備に苦労している私は一寸情ない気持ちになりました。また、勤労女子挺身隊 のうら若い女性が飛行機の清掃をしてくれていたのも楽しい記憶となって居ります。
870 :
767 :2005/05/12(木) 18:13:30 ID:???
エンヂン交換の終った飛行機の試験飛行をしていた鴫山機が、故障で四国の海 上に不時着したのが4月28日でした。八方手を尽して捜索した結果、瀬戸内海 の三島沖合で機体故障のため海上に不時着して居りましたが、本人無事でやっ と安心しました。 翌4月29日、私は鴫山君収容のため三島海軍航空隊に飛びました。当時の言葉 で云えば天長の佳節です。陸軍の飛行機が来たので大変歓迎して呉れまして、 私は祝賀会の宴に招かれました。私は先日の収容作業の礼を申して鴫山君を連れ て帰ろうとしますと、こんな目出度い日に来た客人がそそくさと帰る事がある もんですかと、無理に引留められて一杯飲まされました。次の飛行を控えてい るので少し押えていましたが元来嫌いな酒ではないのでつい飲み過してから、 海軍さんの心配するのを振り切って離陸しました。なんと瀬戸内海の島々の景 色が美しかったこと、これは私の生涯ただ一度の飲酒酩酊飛行でした。誠に若 気の至りです。 (つづく)
>865-866 「組織の対応」として間違ってないということと、 見殺しにすることとはイコールではないよね。 現場責任者ってのはそーいうときのために居るんであって……
872 :
名無し三等兵 :2005/05/12(木) 19:09:25 ID:cAVBqQTs
でも「オヤジさんはココで待っとれ」といってそこの検問所付近に待たせて女の子だけ 野戦病院に連れて行くか父親の身体検査をやってから目隠しした上で親子共に 治療に連れて行くとかは出来なかったんだろうか? やはりこう言うのは現場では悠長すぎるのかな・・・この子が一命を取り留めたことは不幸中の幸いだなぁ。 軍曹殿も少しは安心できただろう・・・
子供に爆弾が仕掛けてあったら?
875 :
名無し三等兵 :2005/05/12(木) 23:55:38 ID:cAVBqQTs
>>873 実はその父親と少女がその後どうなったか?という記述はなされていませんでした 彼女と親が幸福である事を祈ります
>>874 両親は子供に教科書の変わりに爆弾を持たせ・・・
まるでベトナムですなぁ。
>874 アラブ世界に米国の侵攻が正義のためであることを印象づける、 絶好の宣伝材料じゃんw 一個小隊くらい吹っ飛んでくれても充分帳尻合うよww
878 :
767 :2005/05/13(金) 17:16:05 ID:???
太刀洗を離陸するとそのすぐ下、福岡県八女郡が私の生れ故郷です。17年1月 戦死した私の兄もここに眠って居ります。俺もそのうち会うよと云い乍ら彼の 生前好きな煙草を投下して知覧飛行場に向かいました。熊本上空附近に来ます と猛烈な不連続線に遭遇しました。操縦桿に掴まっていないと座席から放り出さ れそうになります。一つ一つが始めての経験ばかりです。命からがら知覧飛行 場に着陸しました。その時田志兵長は手前接地して機体破損、連浦を出てから 既に2機損耗しました。夫々2名は代機を受領して後刻追及しましたが、これで はマランに果して何機到着するやら、編隊長として誠に心細い限りです。 知覧で最後の内地の夜を過して翌日沖縄に向けて飛び立ちました。始めての洋 上航法ですが、地図を見ますと途中沢山の島がありますから大した事はないと 思っていましたが、丁度初夏の候で海上は一面の靄がかゝっていて殆ど雲中を 飛んでいるのと同じです。現在は、無線機その他の航法機材が完備しています ので大した事は無いのですが、当時の私には大変な苦労でした。ほのかに見え る洋上に輸送船が見えますと、あゝ此処でエンヂンでも故障して呉れたら救助 して貰えると思うとついその輸送船の上空を離れ難くなります。 私より操縦経歴の古い村上軍曹はやきもきし乍ら正しい進路を示します。右に 沖縄を外すと東支那海、左に外すと太平洋に海没するより外はないのです。や っと沖縄本島が見えて高度を下げると前方に飛行場が見えました。やれやれや っと着いたと思って着陸したところ、これは目下工事中の嘉手納飛行場で目的 の那覇飛行場はその直ぐ南にあるとのこと、あわてて飛び上ると直ぐその下が 目指す飛行場です。冷や汗ものの航法失敗談です。今後、村上軍曹を航法参謀 に任命して前途を克服する作戦を練りました。
879 :
767 :2005/05/13(金) 17:30:08 ID:???
当時の那覇はむし暑く梅雨の真最中、また夜な夜な遊び好きの我々は懐中乏し くなったので早く台湾に行かねばなりません。と申すのは、台湾以南は兵站旅 館で宿代は無料と聞いていたからです。天気予報もろくに見ず台湾の花蓮港飛 行場に向けて飛び立ちました。当時の天気図は現在新聞に出ている程度のもの で極めて雑なものです。石垣島の近くに来ると前方は一面台湾坊主の暗雲です。 これではとても台湾には辿りつけません。 丁度見えた石垣島の飛行場に着陸しました。ここは海軍の飛行場です。島の廻 りには悪天候で不時着した飛行機の残骸があちこちに見えます。ここで海軍の 指揮官に悪天候の為に不時着したので燃料の補給を頼みました処、誠に不本意 な返事です。 ここは海軍の飛行場で陸軍の飛行機燃料を補給する事は出来ぬ, 丁度近くに陸軍の爆撃機が不時着して、それから抜いた燃料があるからそれを 補給して行けとの事です。こちらは新米少尉、向うは海軍大尉喧嘩にならない ので仕方なくそれを補給して天候の回復を待って台湾に向けて出発した処、大 変な故障が待ち受けていました。 不時着した陸軍爆撃機から抜いた燃料を濾過しないで補給したので殆ど全機が 気化器に芥が詰って、エンジンはプスプス、やっと花蓮港に危機一髪で滑り込 みました。またこゝで燃料タンクと気化器の清掃に大変な手間を喰いました。 どうも今度の第二次大戦の敗因に陸海軍の共同作戦の不一致もあるように感じ ますがその一端を覗いたような気がしました。
880 :
767 :2005/05/13(金) 17:50:23 ID:???
それにしても各機の滑油消費量は次第に増えるばかりでした。当時日本一の高 山、新高山をあっぷあっぷし乍ら越えて屏東に到着しましたが、未だ全行程の 三分の一です。安全確実に目的地に到着するには更に何等かの対策が必要であ ると感じて居りました。即ち、当時としては常識外の滑油の増加タンクを機体 に設置する事です。 私は屏東航空廠に交渉に行きましたところ、担当者はこれは前代未聞の事です と吃驚しました。私は現在迄の航法データを示してその必要性を力説しました 処、快く諒承して九七戦の胴体タンクを増設してくれました。これで概ね80 0kmの航続距離を確保して一安心です。然し機体重量は益々増え離着陸操作は 慎重を要するようになりました。然し機体重量は益々増え離着陸操作は慎重を 要するようになりました。当時の搭載量を列記しますと次の通りです。機関銃 2丁、燃料増槽2個、滑油増槽1個、それに我々の身の回り品です。 日本を離れる迄にこれ丈け準備すればまあまあとして後はマラン迄最も効率の 良い経路を選んで早く戦列に加わろうと勇躍屏東を飛び立ちました。航法にも 或る程度自身がつき我が編隊のチームワークも概ね完成しました。 少々の悪天候も気にせず、屏東離陸後は直ちに雲層突破、雲上で編隊を組んで 一路バシー海峡を越えて初めての外地フィリッピンに向いました。着陸した処 はラオアグ、始めてニッパ椰子のピストに休んでマンゴの御馳走になりました。 (つづく)
そういえば、海軍と陸軍で燃料のオクタン価やら添加物の中身が違うて互換性全く無して話がありましたな。
いやもう、ただ単に飛んでるだけなのにこれじゃ負けるってのがひしひしと沁みてきますな。続き待ってます。
>>881 有名な話ですが、一部を除いて弾丸の規格も違いました。
海軍機が陸軍(逆の場合も)の基地に着陸しても燃料と潤滑油ぐらいしか
補給できなかったとか。
潤滑油の消費量で飛行可能時間が制限されてしまう 機体ってのもおそろしいな・・。
885 :
767 :2005/05/14(土) 15:43:07 ID:???
次はクラーク飛行場、着陸前右手にコレヒドール要塞を見、私の兄がこの上空 で緒戦において散華した情景を想って居りました。 次はパラワン島のポートプリンセス飛行場へ、一飛び毎に風物が異って想いは 益々マランに募ります。パラワンの飛行場は全くの前線基地です。飛行場の周 囲はビッシリ椰子林で囲まれ滑走路の距離も短く離着陸がさぞかし困難であろ うこと感じました。燃料補給、点火栓清掃、その後直ちに離陸して空中集合し ますと一機が馬力が出ないらしくなかなか追い着きません。何か故障があるも のと判断してまた着陸して点検しました処、某君は点火清掃後その一つを装着 するのを忘れて離陸したとのこと、あの狭い飛行場でよく離陸出来たものです。 次はラプアン、此処は北ボルネオの重要基地です。各機種がひしめき合ってい ました。当時私が航空士官学校時代面識のあった、重爆隊の石橋戦隊長に会い ました。挨拶しますとお前はどの飛行機で来たかと問われましたので私の乗っ ている二式単高練を指しますと、お前ようこんな飛行機で飛んで来たな、誘導 機も無しにこんな航法するなんて昔は考えられなかったよ。呉々も慎重に飛ん で目的を達せよと申された事が印象に残っています。 次はクチンへ、南方特有の好天に恵まれて呑気に飛んでいましたが、前方の雲 行きが怪しくなって来ました。猛烈なスコールです。上空の積乱雲は越せそう にもなく海上もとても突破出来そうもありません。引返す決心をして旋回して 居ますと下に思いかけず飛行場が見えましたのでそこに着陸してスコールの通 過を待つ決心をしました。場周旋回して着陸降下に移った時左右の椰子の木に 大きな白い鳥が見えます。成る程ボルネオのオウムは大きんだなと感心しつゝ 着陸すると、椰子からするする降りて来たのは現地人の子供達でした。
886 :
767 :2005/05/14(土) 15:57:19 ID:???
なかなか天候が回復しないので当地で一泊しましたが、その晩は大歓迎です。 めったに来た事のない飛行場に臨時に我が編隊が着陸したのですから、現地の 志気が上ったのでしょう。司政官は当時の土肥原中将の同期生で早く軍人をや めて南方進出の先兵となって居られる方でしたが、こゝに日本人の開拓者魂を 垣間見たような気がしました。その晩皆と相談して、最も早くマランに到着す るには一路南下してポンチャナック経由バンカ島を経て、バンドンに行く事に 決定しました。 翌朝、皆さんの歓待を謝しつゝビンツルを離陸一路ボルネオの樹海を越えてボ ンチャナックへ、編隊を解散して着陸降下中地上を見ますとどうも滑走路上に 沢山の人々が作業して居ます。当時未だ工事中だったのです、直ちに着陸止め の翼を振りつゝビンツルに帰りましたが帰途一機足りません。どうやら誰かが 着陸したらしい。大きな事故にならねば良いがと念じつゝ、ビンツル着陸後各 所に連絡した処、某君が着陸して車輪パンクの程度で一安心。それにしても修 復器材も無いだろうし当地で整備力のあるのはクチン飛行場と判断して前進し て対策を立てるつもりの処、彼は無事修理して我々と合流しました。 当時はその位、各飛行場の情況が判らない状態でした。 クチンの一夜は、パイナップルのうまかった事、ダイヤ族の首狩り情景を示す 博物館、華僑がこんな遠い処にも根を張っている事等が記憶にあります。 次はシンガポールへ、4,000m以上の積乱雲を越えての航法は誠に爽快です、 刻々近づく昭南島、マニラ以来二度目の近代都市です。カラン飛行場に着陸す ると各機始めて戦地らしく分散配置の掩体壕に地上滑走です。飛行機の後方か らは捕虜の英人が上半身裸でボロのパンツをはいてゾロゾロ続いて来ます。滑 走援助です。こちらの下手な地上滑走を棚に上げて右押せ左押せと叱り乍ら掩 体壕に入れて飛行機を降りますと、捕虜の英人共はペコペコし乍ら手伝います。 戦争は負けるものじゃないなと得意になって居りましたが、2年後は反対に私 達がその境遇に陥るとは想像もしませんでした。
887 :
767 :2005/05/14(土) 16:17:02 ID:???
シンガポールでやゝ近代的空気を吸って戦勝気分を味わい乍ら、次の目的地は パレンパンです。空の神兵ともてはやされた空挺隊の降下した飛行場です。ム シ河の流れには石油が混じっているのが上空から見えます。石油の一滴は血の 一滴と云われた事等を思い乍らのんびり着陸したところ、編隊長機は着陸でひ っかけられて車輪パンク!何とも恥しい次第でした。村上君がパンドンに飛ん で車輪を空輸して呉れ、やっと救われました。 パンドンは上空から見ればカラフルな街です。異国情緒たっぷりでした。 いよいよ最後のコース、あこがれのマランです。途中の山々、積乱雲、段々畑、 マランはどんな処だろうと思ううちにマラン盆地に入りました。 さて飛行場は何処だろうと地図を出して標定しますと、アルジュノ山の南方に なって居ます。一生懸命探しましたが飛行場はありません。イライラしながら 旋回していると右手にやっと滑走路が見えました。当時の地図はその位不確実 なものでした。やれやれやっと辿り着いたのが、確か昭和19年5月下旬だった でしょうか、其処でまた、マラン会員の皆さんと青春のドラマが始まったわけ です。(以上) 付 言 昨年2月私達20数名は30年ぶりにマラン飛行場を訪れました。現在はインドネ シア空軍の重要基地になって居ります。思いがけぬ暖かいマラン空軍基地司令 官の招宴には、戦時中マラン飛行場で働いていたインドネシアの老人が、数名 招かれて居りました。本当に心憎い接待です。 我々旅行団員を兄として遇して呉れました。当時の兵舎も飛行場も、またマラ ンの町も殆んどその儘でした。前にも述べましたように試行錯誤を重ねながら 辿り着いた8,000qの距離は、現在は航空機の発達に依って一飛び、8時間位 になりました。今後益々、我々マラン会員は日本とインドネシアの架け橋とな って、お互いの親善を高め合おうではありませんか。 (おわり)
888 :
767 :2005/05/14(土) 17:18:09 ID:???
889 :
767 :2005/05/19(木) 17:23:16 ID:???
特別攻撃隊(七生昭久隊)始末記 松 尾 周 作 皆さん御承知の通り、我が二十六練成飛行隊は、マラン基地に於て任務を続け て居りましたが、昭和二十年に入りますと、各地の戦線は日に日に劣勢の情況 を増して行きました。即ち聯合軍の主攻撃経路であったニューギニアーフィリ ッピンー沖縄は遂次敵の手中の陥り、七生昭久隊が編成されました七月は、本 土上陸を目指して各地に猛空襲を加えて居りました。ビルマ方面ではラングー ンも陥落して居りまして、我々は敵中に取り残された状況でした。 航空要員教育も、特別操縦見習仕官二期、少年飛行兵十五期の教育が終って、 その人達を送り出して、次の教育要員は到着しません、部隊の航空機には逐次 爆装が施されて居り、何れ我が部隊は特攻隊に改編されるものと覚悟して専ら 超低空爆撃訓練に励んで居りました。私たちの部隊は何の方面に転用されるか が、一つの関心事でありました。 村上君の記録によりますと、昭和二十年七月二十六日に攻撃隊編成が下令され、 北部スマトラ島メダン市近郊クワラ飛行場に転進が命令されて居ります。私は 部隊長編隊に続いて第二梯団として七月二十九日、約一年三ヶ月駐屯して居り ました懐かしのマランを出発しました。清水(現小谷野氏)曹長、小池曹長、 和田軍曹、寺地軍曹、多田伍長、以下五名と行を共にしました。
890 :
767 :2005/05/19(木) 17:41:30 ID:???
経路は、マランーバンドンーパンカルピナンーシンガポールークアラルンプー ルと転進した様に記憶して居ります。当時の思い出の一つとして、確かクアラ ルンプール飛行場に到着しました時、飛行場大隊長の某少佐が、礼装して出迎 えて下さり、先方から先に敬礼されたのには、一寸とまどいました。先方は既 に我々の任務を理解され、我々を英霊として遇されたのでしょうか、恐縮しつ つも何か複雑な気分がしました。 クワラ飛行場に到着しますと、当地は整備補給の為の基地で更に北方のロクセ マウエ飛行場に前進するよう命ぜられました。 ロクエマウエ飛行場は全くの前線飛行場で何の設備もない草原でした。ニッパ 椰子で造られた兵舎は屋根から月の光が指し込んで来ます。あゝこれで我々は 年貢の収め時に到着したのだな、と考えると感無量なるものがありました。 後年私が調べました戦史によりますと、此の附近から、第三航空軍隷下で七生 昭道飛行隊が、七月二十六日マレー半島の北西部プーケット島沖合いに侵入し て来た、英海軍機動部隊に三機突入して居ります。 七生昭久飛行隊の任務は、現在のスリランカ、当時のセイロン島北部の軍港 ツリンコマリーからシンガポールに来襲する、英海軍機動部隊を体当り阻止す る事でありました。
891 :
767 :2005/05/19(木) 18:02:30 ID:???
ロクセマウエ飛行場に待機中、何らかの作戦指導があるものと期待して居りま したが、特別その気配もありません、その都度上級司令部から、期日、目標、 機数が指示されて突入するのでせうか? 私は八代部隊長と、出撃順序等について相談しました思い出があります。また 私達は未だ、二式単高練で二百五十瓩爆弾を吊って離陸した事もありません。 私は部隊長に願い出まして一回テスト飛行をして見ました。その状況は次の通 りでした。 先づ爆装して離陸距離を出来る丈け取る為に、地上滑走に移りましたが、爆弾 の重さで、円滑な地上滑走が出来ません。それに胴体が何だか破れそうな異音 がするのです、これではいかんと、先づ爆弾を出発地点に運んで貰って装着と 同時に離陸する事にしました。飛行機は、通常の離陸距離の倍近く滑走して喘 ぐ様に浮場しました。適当な高度に達した時に高ピッチにプロペラを切り替え たところ、却って高度が取れず沈み始めました。あわててまた低ピッチにして 前方の小高い丘を、やっと越えてマラッカ海上に出ました。上昇速度も通常の 半分位だったと記憶して居ります やっと二千五百米位の高度を取った後、水平飛行に移って操縦性能を試しまし た。一寸急な操作をすると高度沈下が甚だしいのです。急降下に移りますと猛 烈な加速振りで空中分解しそうです、そのまゝ着陸はとても無理です、私は爆 弾を海上に投棄する決心をしました。投棄ボタンを操作しましたがうまく作動 しないので、あわてて非常索を使って投棄しました。飛行機はやっといつもの 軽快な操縦性を取りもどして着陸しました。
892 :
767 :2005/05/19(木) 18:19:12 ID:???
試験飛行の結果、私の感じました所見は次の通りでした。 出撃に当っては決して千米以上の高度を取ってはいけない。敵艦載戦斗機の餌 食になるばかりです、超低空で敵の電探を避けて突入する丈けです、恐らく当 時の状況では我が軍の戦斗機の直接掩護は期待出来ないでせう。 私は許されるなら、攻撃隊を二手に分けて、一隊は爆弾を装着しないで或る程 度の高度を取って、敵艦に向い敵戦斗機及び艦の火網を吸収させ、その隙に超 低空で他の一隊が突入すれば或いは戦果を期待出来るのではないか、作戦指導 の参謀が来たら是非進言し度いと思って居りました 何時出撃する事やら、こんな状況を礫付特攻と云うんだなと自分に云い聞かせ て居た時です。八月十四日、急遽クワラ飛行場に出頭する様命ぜられました、 クワラに着いて見ると、八月十五日に天皇陛下の放送があるとの事です。 翌十五日部隊長とメダンの地区司令部に出頭しました。当時陛下の直接放送等 は前代未聞の事です、恐らく更に戦意を昂揚して難局を打開せよとの御趣旨だ ろうと察して居りました、御放送は雑音が激しくよく聞き取れませんでしたが、 何となく異様な雰囲気でありました、即ち御承知の様に無条件降伏の発表だっ た訳です。 (つづく)
>>767 乙です。いつも楽しく読ませてもらっています。
いや、楽しんじゃダメだろ(w
895 :
767 :2005/05/20(金) 12:41:52 ID:???
この文集に寄稿している人達のほとんどは青春の想い出みたいな感じで書いて るし、当時としては天国のようなジャワを懐かしんでいる人がほとんど。同窓 会で酒を飲み交わしながら想い出話をしてるような感じ。 収容所生活等はかなり辛かったみたいだけど、それすらその後の人生に とってはいい経験だったといってる人もいる(どんなに辛いことがあっても収 容所生活に比べれば楽なもんみたいな)。 まっ、すべては生き残ったから言えることなんだろうけど。 どうゆうふうに読むかはその人次第、肩肘張らずにマターリと楽しんでください。 それが体験談を書いた人の想いじゃないかな、と当事者じゃない俺がかってに 言ってみるw >893-894みたいなレスでも、あると有難い。 たまーに人いないんじゃないかと思うときがあるw
「のび太くん、君の戦いはもう終わったんだ。ボクと一緒に未来に還ろう」 「・・・何も終わっちゃいない、何も!! 陸軍では三八式も撃った。震電にも乗った。牟田口中将にお小遣いももらった。 未来に戻ったって、ボクの取り柄なんてあやとりぐらいしかありゃしない!」 「・・・」 「北満にも、友達がいた・・小池さんていうんだ、 二人で日本に帰ろう、腹いっぱいラーメン食べて、 タイヤが擦り切れるまで、自転車で走ろうって・・」 「・・・」 「満人の子供が、靴磨きの箱をかかえて、『兵隊さん、靴磨かせてくれよ』って、 ボクはいいって言ったんだけど、小池さんが・・・ 靴箱の底に・・・シカケがしてあって・・爆発したんだ。 ボクの手のひらには、小池さんの血がベットリとはりついて・・・ 小池さん、最期まで・・日本に帰りたい、帰りたいって・・でも、小池さんの・・・ ・・足がないんだよ、足が見つからないんだよォ・・・ウ、ウゥ」
「のび太くん、だからといって祖国を憎んじゃだめだ!」
898 :
767 :2005/05/20(金) 17:03:21 ID:???
私は直ちにロクセマウエに帰って現態勢を維持し乍ら次の指示を待ちました。
次々と聞く情報は陛下の御放送を裏打ちするものばかりでした。ロクセマウエ
を引払ってクワラに全員集結しましたが、部隊長以下空中勤務者の大部分と、
石橋中尉以下一部の整備員と少数の本部要員丈けです。植田整備隊長以下の支
援本隊はジャワ本島を離れて部隊に追及の途中だった訳で、御承知の様に我が
部隊は、マラン残留隊と植田隊とメダン部隊と南北に三分されて終戦を迎え夫
々の経路を辿って復員しました。
死を目前にしたロクセマウエ飛行場待機中と終戦と云う運命の激変の当時を振
り返ると誠に感無量なものがあります。次第に私は生き残ったのだなと云う実
感が湧いて来ました。人間の生きる事への執着の強さをまざまざと感じました、
即ちロクセマウエ待機中の約二週間は、夫々一機一艦必殺の意気に燃えて居ま
して、死の断崖に立たされて居た緊張感、それに続く敗戦に依る虚脱感を経た
後の生の実感は、鉛の重苦しい帽子を被って居たのが急に脱がされた感じ、或
は私が二百五十瓩爆弾を装着して飛び上った後、これを投棄した後に得たあの
軽快な操縦性、これが私の偽わらない実感でした。
併しこれから戦勝者の管理下に入った私達敗戦者の辿った思い出はまた尽きません。
(おわり)
>888のつづき
ttp://aploda.com/dl.php?mode=pass&file_id=1596
899 :
767 :2005/05/20(金) 17:18:41 ID:???
思い出の日記より 阿 内 敏 政 「シンガポール」 私がはじめてシンガポールに着いたのは昭和十九年八月二十一日、それは内地 でも暑い盛りの午後であった。戦艦「榛名」のエンジンが静かになった。私は 上陸の用意をすませて甲板に出た。むし暑い艦内から一歩甲板へ上がると赤道 直下とは思われぬ程すゞしい風がふいている。 ジョホール水道だ、丁度内地の瀬戸内海のようだ、せまい水道の両側には手が とゞくくらいに椰子の木が茂り、緑一面に芝生をしいた陸地、椰子林に点在す る赤れんがの建物、それは南国でなくては見られぬ美しさだ。私はしばらくの 間涼しい風にふかれながら陸地をそして遠くはるかな異国の地をながめた。 いよいよ到着。 セレータ軍港だ、東洋一をほこる浮ドックを左に艦は静かに岸壁へ向う。周囲 には木の葉の様なジャンクが浮ぶ、そのジャンクには黒い本当に黒い現地人達 が珍らしそうに私達をながめている。珍しいのは私達の方だ。どちらが背中か 前か遠くでは見分けがつかなぬ程だ、そして歯だけを白くして何か云っている が私には全然わからない。・・・多分「今日は・・・か・・・馬鹿野郎」ぐら い云っているのだろう。
900 :
767 :2005/05/20(金) 17:31:26 ID:???
上陸! 艦がとまるとさすがに南国だ。急に体中から汗が出る。こゝはすでに 異国の地だ、見るもの聞くものすべてがはじめてだ。中国人、インド人、マレイ 人、インドネシア人、皆一様に示し合せたように私達をながめてニヤニヤと白 い歯をのぞかせている。 屋根に腰かけている者、頭にかごを乗せている者、タバコをすっている子供、 何やら早口に話し合っている者等、すべての視線が私に集っているように感じ、 思わず寒気がする。 上陸完了後、私達は軍港駅へ行った。駅前で休憩後、十七教(バンドン)、 三十五教(スラカルタ)、四十四教(クアラルンプール)と各隊毎に別れ夕刻 車中の人となる。はじめて乗るシンガポールの汽車、それは本当におそまつな ものであった。石炭ではなく“マキ”をたいて走る、そのため火の粉がとんで 蛍の群れのようだ。数十分してシンガポール駅についた。さすがに立派な近代 的な造りである。 間もなく迎えの車で私達は宿舎へ向った。車で約一時間、町はづれの小高い丘 の上にある「兵站」それが私達の宿舎であった。小砂利の道をのぼり熱帯植物 の花が咲く庭を通り宿舎に入った。私は先づ入浴へ行った。内地を出てから約 一週間の汗とつかれを流しに、入浴後私は庭へ出て涼んだ。
901 :
767 :2005/05/20(金) 17:40:24 ID:???
「バンドン」 八月二十四日 私達を乗せた九七重はシンガポールのカラン飛行場を離陸し、機首を一路南へ 、高度三〇〇〇米赤道直下とは云え寒さが身にしみる。離陸後約一時間半右下 に陸地を見る、南部スマトラだ。一面の樹海その中を流れる川がまるで壁のひ びの様に見える。附近に散在する島々、羅針盤が回る、一路バンドンへ。 離陸後約三時間目的のジャワ島が見えてくる。眼下に広がるジャワ海、刻々と 近づきそして濃さを増すジャワ島、時たま海上に見える漁船、雲にかくれそし て現れる・・・降下・・・美しい緑の島が手に取るように見えてくる・・・やがて 陸地へ、高度二〇〇〇、一〇〇〇、前方にバンドンの町を望む、やがて飛行場だ、 緑一面の中に切り抜いた様にはっきりと滑走路が浮ぶ。 着陸! 高度が下がるにつれ、次第に暑さを感じる五〇〇、三〇〇、機内は蒸 し風呂の様だ。 全機無事着陸・・・機内より飛出し思わずほっとする。さすがに暑い常夏の国 だ。午後宿舎に入る、静かなところだ、こゝもシンガポールと同じく「兵站」 宿舎だ、小さい部屋だが感じが良い。夕食後、夜の街へ出た。街には昼間の暑 さを忘れたように涼しい風が椰子の並木をそしてパパイヤの木蔭をふいて行く。 (つづく)
902 :
767 :2005/05/22(日) 17:31:47 ID:???
「スラカルタ」 八月二十六日私達は中部ジャワのスラカルタへ向って夜行列車でバンドンを出 発した。はじめて乗るジャワの汽車。こゝもシンガポールと同じ“マキ”をた いて走っている。列車が停止するたびに蚊に攻められるので私はホームに降り て歩きまわった。夜汽車の旅はどこの国でも郷愁の思いのするもの、長く尾を ひく汽笛、遠くにかすむ窓の灯、故郷の思い出が次々に浮ぶ。 それから一昼夜私達は列車で過した。昼間はどこへ行っても変わった景色に気 をとられ時間のたつのを忘れる。広々とした田畑、その中で働く農民、水牛の 群を追う少年、町が近いのか、物売りに行くらしいインドネシア人が鉄道の沿 線を列車を眺めながら歩いて行く、三角の笠をかぶった農民が水牛のしりに腰 掛け煙草をふかしている。・・・・・のどかな国だ・・・・・。 八月二十七日 到着 永いようで短かった十数年の故郷をはなれ遠い異国の地へ! こゝが私達のこ れからの住居になるのだ。赤瓦の兵舎、グランド、周囲の椰子林、営内を流れ る小川すべて内地とは違う。兵舎内には私達を待っていたかのように真新しい 飛行帽、飛行服、長靴等が並んでいる。 数日後、後発の同期生を迎え訓練がはじまった。九九高練(直協)による離着 陸からだ。やがて二式高練の訓練もはじまり一人でジャワの空を飛ぶ様になっ てつかの間、私達は西部ジャワのパリギー飛行場へ移動することになった。 九月二十七日、私達は再び汽車の旅についた、一ヶ月前にはじめて通った道を 再び西へ、九月二十七日夜私達は片田舎の小さな町についた、駅名は「セラン」 だった。
903 :
767 :2005/05/22(日) 17:42:55 ID:???
十月一日 パリギー飛行場 到着後再び訓練が開始された。ゴム林内の生活は起床は暗いうちだ、まだ外は 暗い。ゴムの梢に星がまたゝく、名の知れぬ虫の声、しっとりとぬれた草の葉、 朝食がすむ頃ゴム林が明るくなる、迎えの車で飛行場へ、やがて一日の訓練が 始まる。インド洋を眺めつゝ。訓練の合間のキャッチボール、さそりとり、カ メレオンとり等ゴム林内の生活も二ヶ月。ドリアンの味、マンゴーパインそし てマンゴスチン等果物の味を覚え、インドネシア語を習い覚えたパリギーとも 別れることになった。私達数名は三十六教(マラン)へ転属することになった。 十二月四日、私達はゴム林内に残る隊長、教官、同期生等と別れ午前九時自動 車でジャカルタに向って出発した。営門には見送りの教官、助教、同期生が並 んでいた。元気でな! たゞそれだけが見送りの言葉であった。 ゴム林の兵舎を出て約三時間、私達はジャカルタに到着した。そこから再び汽 車で東部ジャワのマランへ向った。 「マラン」 十二月六日の午後私達はマラン駅に着いた、静かな感じの町だ、丁度スコール の上がった後だった。駅前にはすでに迎えの車が待っている、やがて隊へ、ゴ ム林内とは違ってすばらしい兵舎だ、飛行場も立派だ、周囲に三つの山を控え 景色もいい。
904 :
767 :2005/05/22(日) 17:56:36 ID:???
十二月○日 マランへ来てはじめて外出が許可された。はじめて出るマランの町へ。町の中 央で車から降りた私達は一斉に“くもの子”を散らすようにどこかへ! 私も 同期生数名(多田、谷、金子、等)とレストランへ先ず飲んで食って、そして パッサル(市場)へ、パッサルに入って驚いたことは果物の多い事だ、何種類 あるのか大小色様々の果物の香りがプンプンとする。一日にどれだけ売れるの か全部が果物屋の様である。 パッサルの裏へ出るとあやしげな子供が出てくる、そして私達の後を野良犬の 様についてくる。何の目的なのか?最初は不思議に思ったがそれもやがてわか った。私達の持っている手拭やタオルを買いたがっているのだった。布がない のかおかげで金に不自由なく遊べた。 ○月○日、マランへ来て何回目かの外出の時であった、隊で訓練中の同期生 (加覧)が町はずれの田んぼへ墜落して死んだ。その機体の堕ちるのを何人か の戦友が目撃した。一瞬の出来事であった。 「パシリアン」 私は本隊(マラン)を後に数名の者と一緒にインド洋岸にあるパシリアン飛行 場へ訓練に向った。私達数名は二式高練の空輸のためマランを離陸した。スメ ル山を越えパシリアンへ・・・・・さすがにジャングルを開いて作った飛行場 だ周囲一面はジャングルだ。到着後間もなく私達は空中射撃の訓練がはじまっ た。訓練はきびしく毎日くたくたであった。射撃々々。しかし楽しみもあった。 夕食後の「いのしし射」大きいのが良くとれ食事は毎日いのししの肉ばかり、 また休みにはジャングルへ行った。草原をとおり小鳥(ベニスズメ)の巣をの ぞきながら、やぶをぬけ沼地をわたり野鶏を追い、蛇に驚かされ・・・・。 四月二十日 急降下爆撃訓練開始。
905 :
767 :2005/05/22(日) 18:20:30 ID:???
「バトウ」 五月十日 マランから約一時間余の高原にある、避暑地バトウへ向って私達を乗せた車 (いすゞトラック)は出発した。マランの町をとおり森をぬけ丘をこえ一路バ トウへ。時間がたつにつれ涼しくなる。大分のぼった眼前の山すそに白い洋館 建が並ぶ。バトウの町だ・・・・やがて私達は「空中勤務者療養所」と書かれ た入口に到着した。 真白な建物、種々の高山植物、芝生、私達は各各部屋がきまった。シャツを着 換え外をながめた、広々としたマランの平野がかすんで見える。どこで鳴らす のか鉄琴の音が聞える。ジョンゴスが来て食事の時間を知らせてくれた。鉄琴 の音が止んで食堂が開かれた、食事は純日本料理、久し振りに内地の味、夕食 後ジョンゴスに町と療養所の様子を聞いた。温泉は山の方へ約一粁、クラブは 一番下の建物等と色々教えてくれた。 私は部屋へもどった、間接照明のひかりがやわらかい、たばこの煙が壁を這う ように流れて行く。翌日私は金子と温泉へ行った、高原の路をドツカル(馬車) に乗って。常夏の国でも高原は涼しい、寒いくらいだ。白い花とピンクの花が 一面に咲いている坂のところでドツカルから降りた、温泉はこの下の谷間にある、 急な階段を手すりにつかまって降りた、降りながらピンクの花がつゝじである ことに気がついた。こんな所にも日本と同じつゝじがあるとは?「つゝじの湯」 と書いた柱が立っている、そこから硫黄くさい谷間にそって少し行くと温泉だ、 誰もいない、静かだ。 聞えるのは谷間を流れる水の音だけ、時たまとおるドツカルの鈴の音。午後町 に出た、静かな町だ。牛車がゆっくりと坂道を登ってくる、その後から古い型 の自動車が湯気を立てゝ走ってくる。夜は霧がかゝる、おぼろにかすんだ月。 ふもとの町の灯が霧にかすんで流れるようだ。 (つづく)
>>905 ナカナカ素敵ですね。
いや、戦場に近いから、やっぱりどこか殺伐とはしてたんでしょうけど。
>906 やはり殺伐としたもの(戦争)をヒシヒシと感じながら生活しているならば 平時の日常をより多く感じたくなるのではないだろうか もちろん戦闘など毎日あるわけではないから思い出に残るものだともおもうが。 それにしても、昔の人の日本語は情緒溢れると言うか非常に品があって美しいなと思った
909 :
1/2 :2005/05/25(水) 12:01:10 ID:???
零戦エースパイロットとして有名な、坂井三郎氏の戦記に載ってた話。 坂井氏が南方戦線で、一式陸攻隊の護衛任務に就いてた頃。一式陸攻隊の 若いパイロットで、こんな事を言う人が居た。 「一式陸攻で宙返りをしたい」 これを聞いた他のパイロット達は全員、「お前、そんな事無理に決まってるから 止めておけよ」と言う。一式陸攻の構造上、そんな事をするのは無理だった。 だが、彼はそれでも「いつか宙返りをしてやるんだ」と言っていた。 ある日の事。坂井氏を含む零戦隊に護衛された一式陸攻隊は、爆撃任務を遂 行していた。例の『宙返り』パイロットも、一式隊の最後尾『別名:カモ番機』と呼 ばれる位置に付いて飛んでいた。 何故、カモ番機と呼ばれるのか…編隊最後尾というのは、一番撃墜されやすい のでそう呼ばれていた。 やがて、彼等は敵戦闘機隊の激しい迎撃に遭う。真っ先に狙われたのは、や はり『カモ番機』だった。必死の防戦も虚しく機は火を噴き、あっという間に火達 磨となった。もはや助かる見込みは無い…と、思われたその時。
910 :
2/2 :2005/05/25(水) 12:02:33 ID:???
全体を炎に包まれ、後は落ちるだけと思われた一式陸攻が、突然機首を上げ たのだ。機は力強くどんどん上昇してゆく。一体何をするつもりなのか。機体は 更に上昇を続けて垂直に近い角度になり、尚も上昇して背面飛行に移り… 「宙返りだ!」 もはや炎の塊となった一式陸攻は、最後の力を振り絞って見事な宙返りをした のだ。機体構造からして無理だと言われていたのに、機体は撃たれてボロボロ なのに、最後の最後で宙返りを成し遂げた。 奇跡を起した一式陸攻は宙返りを終えると同時に、若いパイロットを乗せたまま 爆発して四散した。 「見事だ、見事だぞ!」 思わず操縦桿から手を放して拍手する坂井氏の目からは、涙が止め処無く流 れた。
911 :
909 :2005/05/25(水) 19:51:35 ID:???
もう1つ。これは近所のお年寄りから聞いた話。ただ、聞いたのは小学校に入る前な ので、所々間違ってるかも。 彼は戦時中、大規模な作戦(多分、インパール作戦だと思う)に従軍した。 結果は知っての通り。 ある日の夜、彼はジャングルで本隊からはぐれてしまう。熱病と飢えで身体は弱り、 足を踏み出す事すら億劫になる。そして、とうとう動けなくなってしまった。 「もう一歩も動けない。俺はここで死んでしまうのか…」 そう思っていると、誰かが自分の方へ歩いて来る。暗闇だというのに、真っ直ぐ近付 いてくるのだ。 もしかして敵だろうか…万事休す。かくなる上は刺し違えてやる。そう思っていると、 突然日本語で話しかけられた…味方だ! そして、月明かりで相手をよくよく見れば、自分よりずっと上の階級である事に気付 いた。力を振り絞って立とうとする彼に、その上官は無理して立たなくて良い、その ままで居ろ、と言う。
912 :
909 :2005/05/25(水) 19:52:38 ID:???
暗いジャングルの中。その上官は、彼に色々な質問をしてきた。郷里の事、親兄弟 の事、…そして「お前は必ず郷里に帰れる。だから心配するな」と言う。また、彼に 水筒の水を飲ませて元気付けた。 やがて、彼は眠ってしまった。 次の日。なんと彼は、はぐれていた部隊が通りかかり、無事合流できた。これは幸 運以外の何物でもなかった、と言う。 当然、昨日から自分を勇気付けてくれた上官へも一緒に行こう、と声を掛けようと したのだが、そこには誰も居なかった。その代わり、ボロボロの軍服から白い骨が 突き出した白骨が一体…自分が寄りかかっていた木の、丁度反対側にあった。 『そういえば、昨日の会話で「お前は必ず帰れる」と言っていた。「一緒に帰ろう」と は言っていなかった…』 「もし、あの時上官に勇気付けられていなければ、自分は死んでいたかも知れない」 彼は、私に繰り返し言っていた。
913 :
909 :2005/05/25(水) 19:53:18 ID:???
それから数十年が経ち、彼には孫も出来た。けれど、私の目から見て晩年の彼は 幸福だったとは思えない。小学生前のガキだった自分にも、それは理解できた。 当時、中学生位だった自分の孫には「クソジジイ」呼ばわりされ、息子の嫁にはイビ られ。そのイビり方を見るに見かねて、近所の人間が何度も止めに入った。息子は 見て見ぬ振りをしていたようだ。 私が小学校に入った頃、彼に奇行が目立つようになってきた。寒い中、外に直立不 動で立ち、「〜であります」や「自分は〜」と、延々喋っている。また、突然万歳三唱 したり、意味不明の動作をしている。元自衛官である私の親父は、「あれは、銃の 装填訓練をしているのでは」と言っていた。 こんな時彼を止められるのは、やはり近所に住む軍隊経験者のお年寄りだった。 そのお年寄りに戦闘報告のような事をすると、途端に彼は静かになった。私も、何 度かその姿を見かけた事がある。 その時の彼は息子の嫁や孫にイビられている時とはうって変わり、背筋を伸ばして 口調・目つき鋭く、正しく大日本帝国陸軍兵士そのものだった。 それから数年後、彼は鬼籍に入ってしまった。家族は厄介払いできた、と公言して 憚らなかった。その話を聞いた周囲の大人達は怒っていたし、私も頭にきた。 今思うに、彼にとって軍隊に居た時が一番幸せだったんじゃないだろうか。軍隊生 活は厳しかったと言う人が多いけれど、そう思えて仕方ない。
親をイビるような手合いは、老後衰えると、たいがい自分もそうなる
>>909-910 …(T_T)
余談ながら、ひょっとしてこの話が、小松左京の『復活の日』(だと思うんだが…)の
いつか自分が操縦する『潜水艦』で宙返りしたい、と思っているキャラのモトネタなんだろうか?
916 :
767 :2005/05/26(木) 17:48:39 ID:???
「チレボン」 六月十五日、私は十数名の同期生等とジャワ海の近くの北部ジャワのチレボン (三十六教)へ転属することになった。楽しかったマラン、パシリアン、バトウ の生活もやがて終りだ。 六月十七日、煙草の町チレボンへついた、私は煙草はだめ、一日二、三本“ふ かす”ぐらい、それでも支給される、私は煙草の処分に困った。町は遠い、周 囲にカンポンのある様子もない、毎日々々煙草の山を眺めて暮した。酒と煙草 それ以外なんの楽しみも印象に残るものもないチレボンの生活、それも一ヶ月 とは続かなかった。 七月十日、私達は北方圏転用空中勤務者として、すなわち「特攻隊」要員とし てバンドンの師団司令部へ出頭することになった。 「特攻隊要員」 私達は早朝まだ星が輝いている頃車でチレボンを出発した、車が山道を通る頃 東の空が明るくなってきた。約五時間してバンドンの町へついた。私達が始め てジャワに着いたのもバンドンであった。 私達は師団長の前に整列して訓示を聞いた、師団長は訓示の最後に「諸君のよ うに若い者を殺すのは師団長として誠に申訳ない。諸君の父母に対しても申訳 ないが、国のためだ頑張ってくれ・・・・・」師団長はこう云って頭を下げた。 そして私達のために乾杯をしてくれた。・・・・・年老いた師団長・・・・・私はこの最後 の言葉によってはじめて“死”という事を考えた、今まで考えた事もなかった “死”、一体どう云う事なのか?・・・・・他の戦友は何を考えているのだろうか? “国のために死ぬ”今までそう考えていたし又教育もされてきた。が、しかし、 いざその時になると考えも変る、いや変った。出発前一週間、私達は毎日町へ 出た。金は全部つかいつくした。
917 :
767 :2005/05/26(木) 18:00:13 ID:???
七月二十四日 楽しかった事、苦しかった事、思い出の多い常夏の国ジャワともお別れだ、滑 走路の端に並ぶ戦友・・・・・やがてその人影も見えなくなる。 「シンガポール」 U ジャワに別れを告げた私達は、空路再び赤道を越えシンガポールへ着陸した。 特攻要員の私達はこゝでも外出は自由だった。私は翌日から毎日町へ出て遊ん だ。宿舎の前からトロリーに乗って町の中央へ、そして、支那人街へ、インデ ィアンの街へとふらつきまわった。 七月二十七日、広場の端に人が集っている、近づいてのぞくと蛇使いの子供?だ、 芝生にすわって前にかごを置き笛を吹いている。周囲がいっぱいになるとそろ そろふたを開ける、中からニューと首を出すコブラ、あまり良い感じではない。 白い綿の様な雲が南の空から飛んでくる、戦場はどこなのか? 七月二十九日、いよいよ最後の集結地カンボチアのプノンペンへ向って出発だ、 離陸後四時間、マレー半島を縦断した九七重はコタパル上空より進路を右へタイ ランド湾を一またぎ、アジア大陸の一角、仏印(カンボチア)の上空へ。 「プノンペン」 高度三〇〇〇米から降りた私は暑いのに参った、赤土の飛行場が焼付くように 暑い、滑走路に立つかげろう、こゝもまだまだ南の国だ。飛行場の周囲には椰 子林がつゞくがジャワとは感じが違う、どことなく大陸的だ。飛行場には迎え の車もない、間もなく来たがそれはガタガタのトラックだった。飛行場から約 十分、蛇のように曲った道を行くとすぐ宿舎だ、ジャワと違って飛行場の周囲 にたくさんの民家がある、宿舎もその部落の中にある、まるで町のアパートの ようだ、実際は竹と椰子の葉で造った馬小屋のような所だ。 数日後、私達特攻要員は全員集結を終った。
918 :
767 :2005/05/26(木) 18:18:52 ID:???
八月五日 集結完了後間もなく出発が開始された。毎日々々出発者の名前が呼ばれるが、 残される者には行先を教えない。又聞くこともなかった。こうした毎日だが私 達は相変わらずのんきだった。出発の日がくるまではと町へ出て遊んだ。静か な町だ、東にメコン河、丘に建てられたプノンペン塔、色の白い安南娘、広東姑娘。 八月十日 私達は領事館のはからいによって王宮の見学を許された、王宮の通用門から入 り建物の入口で靴をぬぎ、ピカピカの大理石の廊下を渡り宝物殿へ案内された。 各種の宝物を見学する中に「山田長政」とししゅうのある日本刀があったのに は驚いた。 見学後町へ出た、町の中央に円型の大きな市場がある、その市場を中心に商店 街が広がる、どこも同じだがこゝも華僑が多い、商店の七〇%は華僑だろう。 そば屋、饅頭屋、あひるを何羽もぶら下げた肉屋、象牙細工屋、革製品屋どの 店も油じみたどぎつい造りだ、波止場にはサイゴンからの船だろう、大きな荷 物を持ったベトナム人、カンボチア人、華僑等が降りてくる。どこに行くのか 忙しそうにすぎて行く。 八月十三日 私はすべての準備が終った。夜は早く床に入ったが時々爆音のするような気が して目が覚める。周囲は真のやみ、カサカサと椰子の葉のゆれる音、野犬の遠 吠え、屋根裏で鳴くトッケの不気味な声、一回二回・・・・十、十一、十二回、 地獄の底からの叫びのような感じだ。やがて不気味な声もやみ、静けさが周囲 一面をつゝむ。
919 :
767 :2005/05/26(木) 18:31:42 ID:???
八月十四日 私達は出発者を見送りに飛行場に行った。皆元気だ「元気で行くぜ、頑張れよ」 口々にこう云いながら機上の人となる「すぐ行くぞ、頑張れよ」私達も手を振 った。やがてエンジンがうなる出発だ!一機、二機、三機、全機離陸・・・・すでに 彼らは地上の人ではない。いつの間にか東の空に姿を消してしまう。 私は静かになった飛行場を後に宿舎へ、たゞ出発を楽しみに。しかし、その楽 しみは一瞬にして打消された。私達の宿舎の先任松尾少尉(特操一期)が蒼白 な顔をして宿舎に入ってきた。「皆集ってくれ」松尾少尉はこう云って中央に 立った。 私は直ちに出発か?と思ったがそうではなかった。松尾少尉は皆が集ると静か に口を開いた、「日本は降伏した」・・・・・私は「降伏」と云う事がその瞬間 なんであるかわからなかった、「?」「?」・・・・誰一人として声を出す者はなかった。 「只今領事館から本部へ連絡があった、明日正午、天皇の放送があるその放送 を聞くのだ」・・・・しばらくの間沈黙が続いた。一人として動く者はない、中で すゝり泣く声が聞える(十四期茶木)私は信用しなかった「降伏」それは戦争 に負けた事だ、私はたゞ狐につまゝれた様な気持だった。 出発は中止された、私達は皆なにかの間違いだと云って夜も平常の様に床に入 った。しかし頭がさえて眠れない「日本は降伏した」松尾少尉の昼間の言葉が 耳について眠れない。 (つづく)
>919 やはり衝撃的だったんだろうな、うすうす敗戦の気配は感じていたのだろうけれど。 俺にとって衝撃的だったのは、朝おきたら名神高速が横倒しになってた阪神大震災のニュースだな 「ここが、本当に日本なのか?」と思ったことかな
>909 それって開戦初頭の比島攻撃で落とされたら捕虜になってでも 生きて帰れと特攻馬鹿の大西に命令され・・。 無事味方に救出されたら死ぬまで鴨番機ねと基地外参謀に強要され・・。 しぶとく生き残ってきたら敵飛行場に落ちろと命令された て話だろう。
923 :
767 :2005/05/27(金) 17:41:23 ID:???
八月十五日 朝から一機の飛行機も飛ばない、連絡兵が走り回る、私は身中が冷える様に感 じた。正午全員本部前に集った、天皇の放送がはじまったが、ザーザーという 雑音に消されはっきり聞えないが真実の様だ!負けたのだ、降伏したのだ、誰 かが声を出して泣きはじめた。私はたゞつっ立っていた。 夕食後これからどうするか皆で相談がはじまった。意見は色々とあった、最後 まで戦うと云うもの、山中へ逃げなんとか日本へ帰ると云うもの、飛行機でジャワ へ戻ると云うものなど・・・・。昨日までは“敵”に向って進んでいた私達の気持 も今はたゞ敵に捕まりたくないと云う一つの気持に変っていた。私は山へ逃げ る組に加わった。 翌日も又翌日も私達のグループは相談し計画がたてられた。@時期、八月末、 月が無くなってから闇夜に脱出する。A装備は出来るだけ軽くし、地図、磁石、 拳銃は必ずもって行く。B何ヶ月又何年かゝるかわからないので途中落伍した 者は置いて行く。私達は正に“決死的逃走”を計画した。翌日から毎晩椰子の 木を中心に一同車座になって大宴会だ、航空用のブドウ酒、ウイスキー、無駄 と思われるものはすべて喰ってしまう事にした。一日一日小さくなる月を眺め ながら。椰子の葉が月にかゝった墨絵の様だ。 八月二十二日 決死的逃走の日もいよいよ数日に迫った。準備完了。 午後になって日本軍は「復員せよ」と云う情報が入った。「復員」私はその言 葉は生まれてはじめての言葉であった。何の意味かわからなかった、「内地か ら船がくる、それまで待機せよ」・・・・迎えにくる?不思議で不思議でたまらなかった。
924 :
767 :2005/05/27(金) 17:54:39 ID:???
私は今迄、戦争に負けたら捕虜になって働かされ殺される、そう教えられてき た。再び私達のグループは集った。帰国する?それとも最後まで逃げるか?し かし数名の者は逃走を断念した、体力に自信がない、どうせ負けたのだ、運を 天にまかせることにした。 結局、皆逃走は不可能と認め中止してしまった。 「カンボチアからベトナムへ」 八月十五日の終戦を迎え、抑留生活がはじまった、毎日連合軍からの命令がく る、英仏両国軍の到着までに飛行機及び道路を整備せよ。これが最初の労働で あった。 英仏両軍の到着それは四日後である。起床は三時だ、南国とは云え夜風が冷た い。私達は手に手に鍬、スコップ、つるはし等を持って飛行場へ、最初は飛行 機の掩体取除き作業だ、ランプが点火され作業開始である。私は眠い目を開い て鍬をふるった。一振り二振り、身体は次第に汗ばんでくる、上着を脱ぐと冷 たい風がはだをぬぐって気持が良い、一時間、二時間、たゞ自動的に動くだけ、 休憩になるとスイッチを切られた機械の様に動きが止る、そのまゝ腰を下す、 とたんに眠くなる。 作業開始!再び機械は動き出す。夜明けが近づくにつれ眠気が増す、まぶたが くっつく、いくら開こうとしてもだめ、やがて周囲が明るくなってくる。間も なく朝食だ、ひとまず引揚げる。朝食がすむと急に眠くなる、何をする気もな い、たゞ横になって寝てしまう。作業準備!と云う声に再び苦力(クーリー)に。
925 :
767 :2005/05/27(金) 18:11:49 ID:???
日中は朝と違って暑いのに参る、滝の様に流れる汗が眼にしみてたまらない。
この暑い昼間の作業によって四日目の午後には道路も飛行場も完全に整備され、
英仏両軍が進駐を開始した、毎日々々飛行機が到着する。ロッキード、ダグラ
ス、ビーチクラフト等が軽快に離着陸する。
数日後、英仏両軍に進駐は完了した。プノンペンの町には連合軍各国の国旗が
揚げられ、今迄抑留されていた英、仏人が色とりどりの服装で歩いている。私達
は相変らず各種の作業が続く、フランス人の家の修理、壁の塗り替え、メコン
河波止場での米の揚陸、すべてはじめての事であった。
私は朝食後トラックに乗って米の揚陸作業のため波止場へ向った。船には六十K、
八十K、一〇〇Kの米俵が満載されている。私は六十Kの俵はなんとかかつぐ事
が出来たがそれ以上はだめ、六十Kでも骨が折れ身体がつぶれそうに感じた。
一歩二歩まるで亀のようにのろのろと(それ以上早く歩けなかった)船から渡
された一枚の板を通ってトラックまで、一歩進むたびにゆれる板、何度か河に
落ちそうになりながら何とか転落はまぬがれた。米俵と共にメコン河に転落、
皆に助けられた者も数名いた。こうした苦力の様な生活が数日続いた。
(つづく)
少飛十五期・太刀飛会 写真集
ttp://aploda.com/dl.php?mode=pass&file_id=2763
朝日に目を細め、穏やかな笑顔の二人。 「故郷に帰ったら、またのび太の奴、いじめてやろうぜ」 「そ、そうだね、もし帰れたら」 「ははは」 「おーい、剛田君、骨川君、時間だよ」 「あ、小池さん」 「はい!今行きます!」 ゆっくりと飛行場へ向かう二人と小池。 そこにのび太が走ってきた。 「ま、待ってよ!ジャイアン!スネ夫!ぼくも行くよ! 山本さんも、山口さんも、パイロットのみんなも、 良い人だったのに、折角友達になれたのに・・・ぼくより先にしんじゃった。 もう友達が死んでいくのを見るのはいっぱいだ! せめて・・・一緒に・・・良いでしょ?ねぇ、良いでしょ!?」 「のび太・・・」 ジャイアン、スネ夫に躊躇いの色が現れる。 「・・・駄目だ、のび太君」 小池がのび太の肩を掴んで諭す。 「小池さん・・・」 「君とドラえもん君には、まだやってもらわなきゃいけない事がある。 ここで君が死ぬわけにはいかないんだ。判るね、忘れたわけじゃないだろう?」 「・・・という事だよ。悪いなのび太。この飛行機は二人分しかないんだ。 悪いけどのび太は連れて行けないな」 「だ、だけど!」 「のび太のくせに!」 「ジャ・・・」 「のび太のくせに・・・いつまでも生意気言うと・・・」 日に向かう後姿のジャイアン、一筋の光が彼の頬を伝って風に乗った。 「・・・また、帰ってからぶっとばすからな・・・」 ゆっくりと歩き始めたジャイアン。 少し遅れてスネ夫が続く。 ジャイアンが歩きながら歌い始めた彼の歌がいつまでものび太の耳に残り、 そしてのび太にとってはそれが彼らの最後の姿になった。
ぼくはどうしておとなになるんだろう? ぼくはいつごろおとなになるんだろう?
スレ違いかも知れないけど
>>896 >>926 上の奴は何かのコピペ?
他の板でも張られてたんだけど
>>896 の元ネタがランボーだってことくらいしか分からん。
ドラえもんのび太の栗林兵団というスレがあったと思うけど そこからのコピペじゃないか?
931 :
名無し三等兵 :2005/05/29(日) 21:51:37 ID:il9WJieW
のび太と銀翼の勇者たちだな。名スレだった。
934 :
好青年風ロリオタ医学部生(M1) :2005/06/01(水) 21:05:42 ID:KO9/0i1b
話というか個人的にその場で泣いてしまったんでここに書かせてもらいます。 去年ロシアを旅行してオムスクにいったとき、地元民らしきヨボヨボの爺さんに話しかけられました。(日本語で) なんでも少年の頃満州で暮らしていたとかで日本人の友達もいっぱいいたらしいんだけども、 ある日ソ連の軍隊がいきなり攻めてきて、友人達(ロシア人含む)なんかがバタバタ殺されていくなかで 身ぐるみ剥がされてロシアに連行されて、解放された後最も近場であったオムスクに漂着、以後ずっとここ(オムスク)で暮らしてきたとのことでした。 満州にいた最後の日は本当に辺り一面地獄さながらの光景だったらしいっす。少々たどたどしい日本語で聞き取れない部分もあったけど味が有った。 最後の日に兵隊の人に水筒を貰った、途中でソビエトの兵隊に盗られたのが惜しかったが美味かった、日本軍は強かったぞ、と。 夕刻の陽光に照らされる中で追憶に浸るその爺さんの姿にすげぇ込み上げてくるものがあって、その場で涙が… 表現しづらいけど時代って荘厳だなぁとか思いましてね、日本に帰ってきてからもしばらくその余韻が抜けませんでした。 終わり。戦場の話でなくてすみませんでした。
千田孝正陸軍伍長の遺書より 孝正は此歳二十年[満十八歳]、 じつに幸福すぎる程幸福に育ちました。 神機到来、必沈を期す。 明日の出撃のため今晩は早く失礼いたします。 兄上たちによろしく。 見よ孝正の腕を。 我が法名には「純」を忘れない様に願ふ。 「あゝ悲しいかな」は必要なし。 何もぼくは哀しいわけは一つもない。 唯、よろこびで一杯なり。 それから俺には遺骨なんぞない。 大体、俺には墓地なんぞ勿体ない。 俺はむしろ墓地より拍手の方が好きだ。 [天●晴](>人<)
936 :
767 :2005/06/02(木) 17:20:58 ID:???
「武装解除」 数日後、連合軍からの命令がきた、武装解除だ。飛行場に整列した私達は一人 一人英軍司令官(ヒル中佐)の前へ出て、軍刀、ピストル、銃剣等を英、仏両 軍の係兵に手渡した。丸腰になった私は永い間持っていた武器が無くなるとな んとなく心細い気がした。 その後間もなく私と三松、山陰の三名は飛行場渉外部に勤務することになった。 私達三名の通訳(特操、西、池谷、西沢)に一人づつ別れて付く事になった。 ピストには通訳、それに私達三名、師団参謀将校が四名、英、仏両軍将校、パイ ロット等がいた。 私の最初の仕事は電話当番であった、それも日本の電話ではない。連合軍専用 の直通電話である、私は一日中電話機の前にすわっていた。電話が鳴る!相手 は英語かフランス語である、私はメモを読みながら返事をする、そして急いで 英仏の係を呼びに行く。こうした仕事も英仏軍の設備の完了と共に終った。 その後私はピストで記録係になった。毎日離着陸する飛行機の乗客の人員及び 総重量、離着陸時間の記録を行った。私達三名は椰子林の中の一軒家に他の十 名の者はそこから少し離れた一軒家であった。この三名の生活は朝は何時に起 きてもよい九時から五時迄ピストに勤務するだけ、まるで三人のキャンプ生活である。 「岩塩揚陸作業」 三人のキャンプ?生活も終り私はメコン河の波止場に岩塩の揚陸作業にかり出 された。それは夜間作業であった、夕方六時から朝の六時までの作業である。 私は午後迎えのトラックに乗って波止場へ向った。波止場はすでに大勢の作業 員が集っていた、私達の到着間もなく作業がはじめられた。アンペラの袋に入 った五〇Kの岩塩を船倉から運ぶのだった。日が沈むと急に涼しい風が吹きは じめる。時間がたつにつれ汗が出てくるが、メコンの川風が気持よい。
937 :
767 :2005/06/02(木) 17:38:51 ID:???
私は次から次へと担いだ、しかしどれだけ積んであるのか、山の様な塩は一向 に減らない。夜が更ける、背中がこすれ塩がしみはじめピリピリする、疲れと 眠気でたまらない。夜露にぬれて冷たい甲板が冷やりとして気持が良い、その まゝ眠ってしまう。・・・・タイ国へ行くのだろうか汽車の汽笛が遠くに聞える。 作業開始!再び作業に、一時、二時、三時、眠い眠い時々桟橋から落ちそうに なってははっとして目がさえる・・・・時々聞える水音それは岩塩袋と一緒に河に 落ちる者の音だ、私も何度か仲間に押さえられては墜落をまぬがれた。四時、 五時夜明け前ともなるとくたくた自分で自分のからだが自由にならない・・・・私 はトラックの上乗りに変った、トラックで波止場から倉庫へ、たった十五分か 二十分の間もトラックの上で眠った。 夜が明ける、朝の町は静かだ、朝の散歩なのかフランス人が一人二人河のふち を歩いている、時間がたつにつれ人の数も多くなる、仕事に行くのか、遊んで いるのか?何時の間にか私達の周囲には大勢の見物人が集っている、つい先頃 までと打って変わって私達のあわれな姿を!何と思ってみているのだろう。 十二月十四日 飛行場警備員十名を残し他の者全部に命令がきた。「明日午後乗船地サンジャ ックに向って出発せよ」プノンペンからサンジャックこの間は400粁余、私は 皆と共に出発の準備をした、装具はできるだけ軽く無駄なものは一切捨てた。 400粁これからどうして歩くのか?足に自信がない、しかし行かなければならない。 十二月十五日 午後四方に別れていた隊の者が集結した、総員40名。いよいよ出発だ、プノン ペンの飛行場ともお別れだ、私達は各々自分の装備を背負って出発した。今迄 毎日通った飛行場の端を通り池のほとりを歩いて一本道を南へ進んだ、先づプ ノンペンの仮小屋で一泊した。
938 :
767 :2005/06/02(木) 18:02:30 ID:???
十二月十六日 思いがけない自動車の出迎えに一同大喜び、町を出て約一時間カポックの林を 通り渡河点に到着した。自動車はこゝまでである。広場に造られた野営地、そこ にはすでに方々から各種の部隊が集っていた。私達の隊もこゝで一応解散した、 そして再び新しい行軍の隊が編成された。総員200名の部隊となった。私達は 最後尾の小隊そして又その最後尾の分隊となった。 そこはほとんどが同期生であった。私は再び一緒になった同期生とその日はそ こで一泊した。そこへ後発で来た十四期の茶木軍曹以下四名が到着した。彼等 はプノンペンから馬を引いて歩いて来たのだ、私達は早速食事を用意して迎えた、 そして私達の分隊で馬を使うことにした。 十二月十七日 「行軍開始」 起床!と同時に飛び起きる、三時だ、まだ周囲はまっくら、装備は全部馬車に 積んだ、前進!私達はねむい目をこすって歩き出した、私は大貫と並んで歩いた、 長い長いどこまでも続く道を、やがて夜が明け周囲が明るくなる、朝食は昨日 作っておいた冷たい食事だが腹がへっているのでうまい。日がのぼると暑くなる、 午前中歩き到着する野営地それはカンボチアの寺の床下である。池か沼がある と水浴だ。食事の水は民家へもらいに行く、翌朝三時再び出発する、明けても くれても歩く私達。 十二月二十六日 サイゴンへ向ってホクモンを出発した私達はくたくた、休憩!たった十分でも 冷たい道路にゴロリと寝てしまう。全く不思議なくらい良く眠ってしまう。出 発準備!という声がまるで一粁も二粁も先で呼ぶ様に聞こえる。丁度夜明前 「パパーン」「ビューン」と云う小銃の音、私達は道路の両側のくぼ地に身を かくした。越明党(べトコン)か英、仏警備隊か、とにかく私達の集団に対す る発砲である、幸いにして負傷者はない。私達は思わぬ休憩となった。 (つづく)
>>767 キタワァ*・゜゜・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゜・*:.。..。.:*・゜゜・* !!!!
がんがれ〜。
940 :
767 :2005/06/03(金) 17:21:27 ID:???
ありがと 発砲したのは仏軍であった、私達を安南(ベトナム)軍と思って撃ったらしい。 サイゴンの町へ入ったのは八時頃になったが町の中は独立運動が盛んで危険な ので休憩が出来ない、そのまゝ歩き続けて野営地へ。 昭和二十一年一月一日 五時起床、元日も休まない、途中山の端からのぼる朝日を拝し新年を祝った。 元日の行軍は距離は短いが日中のためつかれを感じた。 一月十日 正午フーミーに到着した、そこには旧日本軍の飛行場があった、私達はその兵 舎の一部に宿泊する事になった。 しかしこゝでしばらくの間待機せよと云う命令がきた。しばらくの間、何日何 ヶ月かわからない、翌日から農耕作業がはじまった、あと50粁余で目的のサン ジャックだと云うのに、こんな所で足止めとは。いもの苗を植え、なすの苗を植えた。 一月二十四日 最後の出発命令がきた。元気が出た、夜明け前の暗い道を野を越え山を越え・・・・・最後 の宿営地についた、明日は目的地のサンジャックだ、過去一ヶ月の汗とつかれ を忘れ400粁余の行軍が達せられる事を喜んだ、自分自身の身体に自身が持てた。 一月二十五日 最後の行軍だ、二十五粁たらずである、時間がたつにつれ近づく山、あの向こ うがサンジャックだ!!海があるのだ、空気に潮の香りがする。山の切れ目か ら水平線が見える、“海”だ、間もなく到着だ。身体は汗でびっしょり、峠を 越えると目の前は太平洋、広々とした果てしない海、宿舎にはすでに先発の者 がきていた。サイゴン、タイニン、一番遠くの私達プノンペン組が集って再び にぎやかになった。 宿舎は海岸の岩場にあった要塞陣地である。海に面した丘の中腹からのながめ が美しい、沖に赤さびた日本の輸送船が船首をさか立てたまゝの姿で沈んでいる。 夜の海は、遠くの岬に光る灯台の灯、波がよせるたびにキラキラ光る夜光虫、 遠くに光る十字星、私達は毎日毎日船を待った。
941 :
767 :2005/06/03(金) 17:44:15 ID:???
三月十一日 私達「鷹」部隊の者はロンデンにて待機せよ、と云う命令がきた、ロンデンそ れはサンジャックから北へ約三十粁のところだ。私達は再び歩いて出発した。 「ロンデン」 四月になって情報が入ってきた、復員船の数、乗船人員、出発時期等々。私達 は間近になった復員を首を長くして待った。 四月二十八日 待ちに待った命令がきた。午後六時に迎えの車がくることになった。私達は最 後の整理をした。おしいと思う物でも捨てなければならない。宿舎の前には山 の様に長靴、蚊帳、毛布、等が積まれた。倉庫に積まれた米俵、塩、缶詰等全 部がベトナム人への置土産となった。迎えの車は時間をおくれて日暮れになっ た。私達が全部乗車し終わった時はもうすっかり暗くなっていた。 いよいよ出発・・・・私達は車の上から楽しく又苦しかった二ヶ月のロンデンの原 に別れを告げた。もう一人の日本人もいない、たゞ残された品物を運ぶベトナ ム人が数人いるだけ。 自動車で約一時間半にして、乗船地の宿営地についた。翌朝から乗船準備がは じまった、各種の予防注射が行われた。午後中央の広場に整列させられ、英、 仏両軍に装備の検査を受けた。 四月三十日 乗船準備完了
942 :
767 :2005/06/03(金) 18:01:40 ID:???
五月一日 乗船
私達は十ヶ月の抑留生活の苦しみも忘れ「帰国」と云う希望に燃えて波止場へ
向った。波止場前の広場で、はるか沖の復員船「リバティ」を眺めながら連絡
船を待った。間もなく連絡船がきた。・・・・すでにベトナムの地から離れた。苦しい
時、楽しい時、想い出の多いカンボチア、ベトナムともお別れ。波止場を離れ
るポンポン船、次第に遠くなる緑の山々、中腹に並ぶ建物、一時は私達の家で
あった。白い砂浜・・・・海岸にそゝり立つ椰子、すべてお別れ。
五月十二日
出港後十二日目前方に陸を見た、九州だ、日本だ!私達は喜び合った、間もな
く瀬戸内海だ。緑の島々が手に取るように、近くを走る漁船、漁師、それはイ
ンドネシア人でもベトナム人でもない。日本人だ、日本の漁船だった。大竹港
に入港したのは夕方になった。明日は上陸である・・・・私は上陸準備を終え甲板
へ出た、おそらく全員であったろう。夜の町の灯が水に映って美しい。なつか
しかった日本、・・・・
敗戦国日本の様子は知らないが、目に映る緑の山々、チラホラと見える灯!
海辺を走る汽車の窓の灯。
夢にまでみた、日本。
五月十四日 品川駅着
(おわり)
ttp://aploda.com/dl.php?mode=pass&file_id=3702
ホラ、うちのじーさん海軍陸戦隊にいたんだけど戦争中なのに懸垂一回も出来ないくらい太ってて ある日こっそり炊事場からおにぎりをギンバイして慰問袋に隠してたら持ち物検査でばれて 連帯責任で小隊全員が鉄拳制裁されて夜中にセッケンを手拭にくるんだやつでボコボコにされたんだって。
>>943 知ってるソレ
鬼軍曹を射殺しちゃうんだろ喪前のジーチャン
三八式を口に突っ込んで引き金を引くの苦労しそうじゃない?
貴様!陛下の陸戦隊をどうするつもりだ!
どっかからコピペだけどどうかな? パラオでの話らしい 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。 「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。 やがて戦況は日本に不利となり、 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」 日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した… 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
土人なのにそんな理解力あんのかな?
>949 おまえは他所の国の人を馬鹿にしすぎだ ちなみにパラオでも日本が進出した際に道路病院その他とともに学校が建設されたので現地民の教育が行われてる筈 トラックやペリリュー等、南洋の島々では老人なら日本語も話せて日本の歌を歌える人が多い パラオといえば今日の読売新聞1面にパラオ沖で撃沈された輸送艦「石廊」の遺骨調査の話が載ってたな 生き残りの船員の方の話も乗っていたが、1人でも多く遺骨が見つかると良いな
ごめん^^;
パラオ(だっけかウロ覚え)では日本人へ敬意を表し、名前の中に日本語をいれたり 国旗を日の丸を模したものにしたりしたのだそうだ
>>952 パラオじゃないんだが、トルコではノギとかトーゴーを名前に入れるのが一時期流行ったそうだ。
だからパラオでも敬意や親しみから日本語を入れててもおかしくないな。
パラオとバングラデッシュの国旗は日の丸の色変えて微妙に円をずらしたような感じの奴な。
理由は敬意とか感謝の気持ちから来てたんじゃなかったかな??
>953 パラオは日の丸を手本にしたそうだが バングラディッシュは日の丸となんも関係ないらしいよ
>>950 50センチもの泥の堆積により、一柱も
見つからなかったとのこと・・・
合掌。
南洋神社だな<パラオ
959 :
767 :2005/06/09(木) 17:17:27 ID:???
応召・転属・終戦の思い出 吉 岡 浦 之 助 応召 私が臨時召集令状をもらったのは、朝鮮総督府下関出張所長の昭和十九年十三 日のことであった。その一週間前に私は上司である鉄道局長から京城列車区長に 転勤に内命をうけたが、その内命が発令される前に赤紙が届いたのは果して幸 いであったか、又は不幸であったかは、今でも判らない。 私は当時の朝鮮咸興府の南の連浦飛行場でその年の二月二十九日に編成を完了 した第三十六教育飛行隊の主計官であった。 私は職務上よく京城に出張して物品の購入をしていた。四月二十五日いつもの 如く京城に出張していると、突然電報がきて「すぐ帰隊せよ」とあった。二十 六日朝、咸興駅に着くと衛兵とトラックが駅前に待っていたのでそれで連浦の 第百部隊にゆき、金櫃を受取って本宮駅にいたり隊長に申告して、ホームに待 っていた列車にのり、そのまま南方に出征ということになった。 途中、竜山駅長室で私は妻と心ゆっくり別れと後事を託する手順になっていた が、竜山には当時鉄道本局があり友人の私に対する見送りが多くて、妻にゆっ くり会えず髪と爪などの遺品と後事を託する手紙を渡すのがやっとのことでした。 転属 第三十六教育飛行隊が第二十六練成飛行隊となったのは昭和二十年七月十五日 のことだった。 私は七月二十九日に肱岡主計と出納官吏の交替をした。そしてその翌三十日に 第二十六教練飛行隊は進駐地スマトラのメダンに向けてマラン第二飛行場をと び立った。我々は滑走路に並んで帽を振ってこれを見送った。
960 :
767 :2005/06/09(木) 17:37:17 ID:???
本体がメダンに立ったあとの残留部隊は八月二十五日に第百二十四飛行場大隊 に転属し、九月二十日にケデリー州の山の中に自活するため入った。 九月二十五日ジャカルタのジャワ派遣第十六軍司令部より来電あり。ジャカル タの第三船舶輸送司令部要員として主計一を要求して来た。 その地区には十五名の主計がいたが、主計中私が最年長者でしたからその選が 私に当り、ケデリー州の総務部長の車を借りてケデリー市経由スラバヤ駅に行 き、スラバヤ駅から列車によりジャカルタ駅に二十八日朝、到着した。 私は軍司令部に出頭したところ目的の第三船舶輸送司令部はすでに解体され出 張目的はなくなった。ジャワ島の交通機関もなくなったので、已むなく九月二 十九日第十六軍司令部の管理部附に転属することになった。 それから部長の命で英印軍、オランダ軍の進駐高級将校の接待係をさせられた。 以前、軍司令部の上長官以上が住居していた一区画があった。そこはジャカル タの住居地区の一部であったが、立派な住居が並びその一隅に上長官以上の炊 事を掌っていた建物があった。この一画に進駐軍の高級将校が住居し、私はそ の一隅の上長官炊事の建物にあって、彼等の要求によって生活必要物資を供給 していたのである。 私も乗用車一台の配属をうけ、自動車手の外主計仕官一名兵三名の陣営でしば らく無事の毎日をすごした。 そのうちにインドネシアの独立運動も日に増し顕著になって目にあまるものが 出て来て、遂にはこの近隣の邦人住居地域にもインドネシア人が出没して物品 をかすめる外、人命にも多く危険を感ずる程度になり、邦人のうちには私の宿舎 へ逃込むものが日に増し多くなってきた。事態は相当逼迫したものであると感じた。 早速司令部と打合せその指示により進駐軍の給与関係将校と交渉、英印軍の少 将の承認を得て私共の上長官炊事を閉鎖し私共は司令部に復帰した。その間英 印軍の中に西村というアメリカ軍の日系将校がいて大変世話になったことを覚 えている。英印軍の接待をした期間は二ヶ月位のように記憶している。
961 :
767 :2005/06/09(木) 17:56:20 ID:???
十一月十二日にボゴールの英印軍の兵舎で武装解除を受けた。そして十六日か らジャカルタの外港で作業に入り最初は重油のドラム罐の作業であったが、重油 の感触と臭いには困った。次の困った作業は綿花の荷卸しで、この作業には誰 も率先してゆかないので、私が第一にダンブルに入ったことを覚えている。 そのうちに作業隊の一部がスラバヤに行かなければならないことになり、私の ような新米の部員が第一にその選にあたり、十一月二十三日にスラバヤに着い た。スラバヤには十一月二十三日から翌年四月二十四日まで五ヶ月いた。 私はよく引率者として配給所に行くことが多かった。或る日印度兵がトラック のテンパーを巻くのに兵を使おうとしたが、兵は皆尻込みをするので遂に私の 所へ来てテンパーを巻けという。私は経験のないことだからどうかと思いまし たが、果たして素人の悲しさケッチンを喰らって左手首を骨折しました。 英印軍の野戦病院に入院、印度人の外科少尉に治療してもらった。手術台に上 り麻酔をかけられたが数えた数は2であとは不覚となった。気がついた時は左 手を肘から掌まで包帯ギブスをまかれて寝台に横になっていた。 傷は少しの痛みもなく外傷もなかった。それからそのまゝ丸一ヶ月英印軍の野 戦病院に入院しギブスをとったのが十二月三十日であった。その間面白いこと には、毎朝印度の兵が私の髭をそりにくること、毎日英兵が煙草、牛乳、チョ コレートをもって話をして行くこと、ところが彼等が日本に関する智識の低い ことには本当に驚かされた。印度兵は全く無学文盲と言ってよい程で、数も三 〇位、掛算などとんでもないところで時計の見方を分からないのがいる。 我々がスラバヤで五ヶ月中に使役に行ったところは、戦車隊、野戦病院、オラ ンダ兵営、配給所等色々なところに行ったが、昭和二十一年四月二十四日にスラ バヤを出帆してシンガポールの南のガラン島にジャワ部隊は集結することになった。
962 :
767 :2005/06/09(木) 18:15:46 ID:???
前記の戦車隊に行った時、或る日突然昼前に「日本兵集合」ということになっ た。こんな時間にどうして集合するのかと聞いてみると思いがけなく「日本へ 帰れる」ということである。兵隊達は大よろこび、戦車隊の印度兵も判るとみ えて「おめでとう」と言って、別れにコーヒーをご馳走してくれて我々は戦車 隊に別れを告げた。 終戦 八月十五日は私の上にも例外なくやって来た。それは戦地であるジャワ島マラ ン市の第二飛行場の将校室で迎えた。玉音放送は雑音にさえぎられ一語もきゝ とれなかったが、敗戦の事実は容赦なく我々の胸に突きささった。しかしこの ために気持が動転して徒らなる悲愴感に襲われることもなく、寧ろ「もう戦争 はない」というホッとした不思議なくらい落ちついた雰囲気が我々の周囲を包 んだことを今でもハッキリと覚えている。 ジャワ島は日本から六千キロ離れている。 敗戦と共に日本は一体どうなっているのか、又これから先どうなるのか。我々 はいつ日本に帰れるのか等々の心配ごとが少しも我々の心におこらなかったの は、玉音を聞いた瞬間一種の虚脱状態に陥ったためではなかったかと思う。 終戦の年になって飛行機受領のため日本に帰った若い操縦者は一人も帰って来 なかった。六月二十日にはマランのすぐ東にそびえた三六七六メートルのスメ ル山が突如噴火した。マラン第二飛行場からよく見えた山で、巷の噂では近く 何かが起こるだろうとしきりに言われた。八月十日頃から毎日のようにオランダ の飛行機がマラン市に飛んで来てオランダ人のキャンプに物資を落としていた。 その上私がケデリーの山奥に入るために必要なものをスラバヤ市に買いに行っ た時、街で支那人が私の自動車に同乗を申込んで来たのは全く驚かされた。今 迄はこんなことは予想もされない事であった。終戦近くになってこのようなこ とが色々おこったのは、日本に威信がなくなった証拠であろうか。 (おわり)
963 :
767 :2005/06/10(金) 17:30:49 ID:???
ケデリー糧秣調達奮闘記 松 岡 良 祐 昭和20年8月終戦の大詔喚発後マラン残留部隊は後藤中尉のもとに予想される オランダ軍を主力とする連合軍のジャワ島上陸ならびにこれら連合軍と残留日 本軍との衝突をさけるべく、ケデリー州の山奥深く潜入し、この地において自 活態勢を整えて、日本への送還船の配船ある迄全員が健康を維持し、祖国日本 で待つ親兄弟のもとへ無事に復員しなければならない。 この為に長期にわたる生活を考えて、兵舎の建設、家畜の飼育や野菜の栽培と 不馴れな作業に全員で当る事となり、鶏やアヒルも少量ながら卵をうみはじめ、 野菜も育ち始めたが、全員の副食としてはとるに足らぬ分量で、これでは栄養 面で不安があり急遽中谷中尉(特T)を指揮官に松岡及び自動車手2名の計4名 による糧秣調達班を編成し、日本軍票がかなりの程度通用する現在、この軍票 による副食果物の調達が下令され上記4名は山中を下山、ゲデリー市の大和ホテ ルに一泊し、翌日より食料調達の任務につく事となりました。 市内に着きますと各交叉点の要所には小銃を持つインドネシアの武装警官が交 通整理にあたり、重・軽機自動小銃、歩兵銃で武装したインドネシア独立義勇 軍やPKI(インドネシア共産党)さらに上記団体の呼びかけに応じた民兵多数 が竹槍や伝家の宝刀のウルスを腰に赤白のインドネシアの新国旗を手に、目を ギラギラさせ乍らムルテガ(独立と自由)を連呼し乍ら市内を悠々と闊歩し非 常に緊迫した状態でマランでは予想もしなかった異様な状況であり、日本人は 一人も見受けなかった。恐らく少数の邦人は家にとじこもり恐れおののきなが らの生活であったと思われた。
964 :
767 :2005/06/10(金) 17:50:51 ID:???
ケデリーと云えばインドネシア独立運動の尖鋭分子を多く輩出した過激派の本 拠地だった訳です。このような緊迫した状況下のケデリー市で我々丸腰の兵4 名で、果して命令を完遂し得るだろうかと大きな不安を感じたものです。明日 からの食料調達に彼等とのトラブルがなく無事に任務達成できる事を心から願 う事、切でありました。一旦彼等との衝突が起きれば丸腰の我々は彼等の良い 射撃訓練の標的となり、蜂の巣のように弾丸を射ちこまれて死ぬ事になる。今 更生命を惜しむ訳ではないが同じ死ぬのであれば我々も武装した状態で連合軍 と死力をつくして戦いたかった、それを想定して3年も4年も苦しい訓練にたえ てきたのだから。 今となってはそれも叶えられない、現在の私の任務は食料調達である事、志し と違った任務で不本意ではあるが命令とあればこれも致しかたない、全力をつ くすだけだ。然し山中の戦友は我々の調達する野菜や果物を唯一の楽しみに不 馴れな作業に励みながら毎日汗を流しているのである。そうだその為にはこの 極限の状態に近いケデリーで任務達成の為に生命ある限り軍隊最後の御奉公と 思い頑張るぞ、と誓いを新たにした次第です。 翌日、中谷中尉は糧秣調達の任務を幾分でも容易ならしめる為に市内の有力な 在留邦人及びインドネシアの特権階級との接触をはかるべく単独行動を取られ たので、私以下3名で市場へ買付に出向く事になり、市内に2ヶ所あるバッサ ル(市場)の大きいほうのバッサルの入口で武装したインドネシア10数名に取 り囲まれ、我々の自動車2台(半トン貨車)にインドネシア国旗を取り付ける ように要求された。これをつければケデリー州ではスダラ(兄弟)とみなし、 生命の保障はするとの事だった。 だが、終戦の日を境に我々日本兵の乗る自動車には日の丸の旗をあげる事は許 されなかった。私には日本軍人として自国の日の丸をあげられない状況のもと で、インドネシアの国旗を日本兵の車輌につける事は絶対に、生命にかえても できない。従って彼等の要求をのむことはできず、自分の生命は今日、現在限 りであってもそれは致しかたないと覚悟をきめて、断固拒否した。彼等はケデ リーに居る限りトアンの生命は保障できないと云って案外あっさりとその日は退去した。
965 :
767 :2005/06/10(金) 18:03:28 ID:???
彼等の独立運動の進展の状況はどのように進んでいるのであろうか、私も気に なるが情報は一切入らなかった。買付け初日早々より前途多難を思はせる状況 下に、その日の調達を終り車に食料を満載してデコボコ道を走破して山中の本 隊へ無事届けることができた。本隊では比較的のんびりしており、ケデリー市 内の状況は知る事もない模様であり、市内の憲兵隊は情報を山中の日本軍へ通 報しないのかと不思議に思った訳ですが、私は時間の余裕もないまゝ早速下山、 ケデリーの宿舎へ急いだ訳でした。 それから何日かは比較的順調に食料調達もできていたが、ある日スタンドに自 動車のガソリン補給に立寄ると日本兵である為に、品不足を理由に給油を拒否 されたが、さいわい不足気味のタバコで懐柔して給油する事に成功した。以後 は給油のたびに数ヶ所のスタンドを廻らされる破目になりながら、なんとか任 務を果たしておりましたがそのうちケデリー市内もインフレ現象となり、バッ サルで我々が軍票で買いまくるのを知ってか、現地人の我々を見る目が非常に きびしくなってきたのを意識するようになった。 このころから品うすな肉類とか特定の品は軍票では調達困難となりサロン、布 地、タバコ等繊維品を主とした物々交換を要求するようになり、中谷中尉はこ れらの調達に巾広い顔を利用して、これ等の物品を工面して我々3名の買付け を助けて、物資調達の指揮者らしくその実力を大いに発揮されたものである。 その点野菜は気候風土の関係もあり、比較的購入が容易であったがキュウリ、 ナス各百本と注文すると、時たま数えると90本前後しかない、市場の責任者に 苦情を申し込むと(キラキラバグス)との返事しかない。100まで数えること はないと云う彼等の云いぶんと、知能程度の差も大きい事を考えれば彼等との 衝突をさける意味に於いても当方が泣き寝入りとならざるを得ないと諦める。
966 :
767 :2005/06/10(金) 18:18:30 ID:???
このような日々を続け乍ら、宿泊費の節減に迫られ、戦時中に接収したオラン ダ人住居に転居し、バブジョンゴスに食事その他の面倒をみてもらっていたあ る日、朝目がさめて窓を開けると竹槍短刀を持ったインドネシア数十名に我々 の宿舎は完全に包囲されていました。 事態の急悪したのを知り別の要件で他所に出向されていた中谷氏との連絡を取 るべく電話をしたが交換手は取りついでくれない、止むなくケデリー憲兵隊へ と電話番号を云ったがこれも駄目、拙劣な私のマレー語はすぐ日本人だと判断 され、上部の指令による日本人同士の電話による連絡はすべて出来なくなった 事を覚悟せざるを得なかった。バブは買物に行く事も彼等は許してくれないと 云う、勿論日本兵である我々3名もこの宿舎から一歩も出る事はできない。愈々 極限の状態がきた事を知った。 指揮官不在で連絡もされぬ状況におかれた我々3名は、私は兎にかく自動車手2名 はなんとしても日本へ帰さなければならない。今日一日は模様を見て明日はこ の包囲網を突破してと思う矢先に夕刻より民兵は続々集結し、翌朝には300名と なった。食料も無くなった今は強行突破する以外に方法はない。我々の宿舎の 約2百メートル先に義勇軍の宿舎があり、彼等の追撃を覚悟し乍ら3名による強 行突破を行う事にし、自動車手に憲兵隊へ合流する迄いかなる障害があっても 停車してはならない、旨を申し渡した次第です。 宿舎を包囲したインドネシアの抵抗を排除し、追撃してきた義勇軍数名による 銃撃を受け乍ら憲兵隊前迄来ると、ここも多数のインドネシアにより完全に包 囲され、合流することは不可能だと判断しましたが思わぬチャンスに恵まれて 一応無事憲兵隊への合流に成功した訳です。残留部隊のうち何名かは補助憲と してここに居られ、我々3名の合流を記憶されているものと思います。 (おわり)
>>767 さんお疲れ様です。
すべて拝読させて頂いております。
終戦当時、共産党勢力地域は
どこも日本人には脅威だったようですね。
スマラン事件殉難者の冥福を祈ります。
968 :
767 :2005/06/11(土) 16:19:24 ID:???
中尾周作氏宛手紙 梅 田 実 元第二十六練成飛行隊 中尾周作隊長宛 拝復懐しい御便りに接し感激して居ります。隊長様には御元気で御活躍の御様 子何よりと御慶び申し上げます。 不肖私も昭久隊の一員として当スマトラ島メダンに不時着してから、早や三十 四年に成ります。其の間紆余曲折何回も死線を越え、インドネシア独立を獲得 し子供も沢山授かりどうやらインドネシアに定着しました。 当時は一旁ならぬ御心配をかけました。当時の気持は若気の至りとも申しまし ょうか、事故の多かった何時も心配を掛けた私ですが、昭久隊の一員である自 覚のもとに、最後の御奉公と思って取った行動で、勿論戦死を覚悟と云うより は目的としてメダンに残ったわけです。 今思えば自分勝手な考えで皆様の迷惑を考えない一人よがりの行動を取ったと、 戦隊長様をはじめ皆様に御詫び申し上げる次第です。ですけれど、今だに私は 初志に従い、日本のため、インドネシアの為の人生航路です。 現在私は、インドネシアで医者(診療所)を開設して居り、社会事業としてマ イアミ孤児院の孤児達九〇名の無料診断と、日本の天理教日野大教会から毎年 応援して頂く孤児の衣類の寄贈を既に約十年続けて居ります。
969 :
767 :2005/06/11(土) 16:41:43 ID:???
其の間五回も日本に帰らせて頂いて居ります。亦今年に入って財団法人日野イ ンドネシアを設立し、日本語の教育を始めました、近い将来には、柔道、唐手 等スポーツセンター、生花、お茶、等の文化センターに力を入れたいと思って います。隊長様の申される様に最後迄、昭久隊の名のもとに頑張り七生奉公を 誓います。 既に子供は二十七才、日本に留学中はカラーテレビの技術を習得、国家試験に 合格して帰棉、現在テレビ技師として活躍して居ります。 次の三男は天理教本部で教理の勉強を続けています。 今年の三月には長女が日本に留学します。 此の様に梅田家と申しましょうか、私自身が同化をしながら七生御奉公を誓っ て邁進して居ります、御安心下さい。 書きたい事は沢山ありますが、今日は此の辺で失礼します。戦隊長殿にはくれ ぐれも宜敷くお伝え下さい、戦友の皆々様にも宜敷く、来年は昭久隊の決戦場、 メダンにお越し下さい、充分御案内させて頂きます。 一九七九年二月二十二日 敬具 追伸 パレンバンから命がけで戦隊長殿の処まで共にかけつけた加藤君に宜敷くお伝え下さい。 (おわり)
970 :
767 :2005/06/11(土) 17:53:34 ID:???
>>967 終戦後のインドネシア残留の日本軍とインドネシア人との衝突のことは、
ほかにも何人かの人が書いています。
>>773 にある
>色々ありましたが、・・・・
という言葉はこのことを言っているのでしょう。
三バカ国とちがって正しい歴史認識だと思います。
>>968-969 MSN検索 「財団法人日野インドネシア」
"財団法人日野インドネシア" を含む結果は見つかりませんでした
_| ̄|○_| ̄|○_| ̄|○
26年という月日は斯くも残酷なのか。
>>970 うまいこと武器の横流しをしてインドネシア人との
衝突が少なかった部隊もあったようですが、
その辺のところを書いている方もいるのですか?
972 :
名無し三等兵 :2005/06/13(月) 04:12:51 ID:C0W7f9wD
三浦襄は明治21年生まれの仙台の人である。両親は熱心なクリスチャンで本人もクリスチャ ンであった。太平洋戦争前にスラウェシ島に渡り、そこからバリ島に転住し自転車の輸入販売 を営んでいた。しかし商売は店員に任せて本人は住民の世話にバリ島中を駆け回り人望を得ていた。 牧師の父の「南方に行ったら住民の利益のみを考えよ」という戒めの実施者であった。 バリ島民はヒンドゥー教の信仰の厚いことで知られる。宗教は異なっても敬虔な信仰から生 まれる誠実さは普遍のものとしてバリ住民に受け入れられたのであろう。 高まる戦雲の気配に日本人の引揚が始まり、三浦は最後の引揚船で日本へ帰国したままの 状態で太平洋戦争の開戦となった。 1942年2月18日、日本軍はバリ島のサヌールに上陸した。三浦は海軍の嘱託として 軍をデンパサールに誘導した。日本兵に恐れをなしたバリ人も「三浦さんがいる」ことに安心し た。日本の軍政期間は日本軍と島民の間に摩擦が生じることは避けられなかったが、多くは 習慣の相違、言葉の不自由さに起因するもので現地に詳しい三浦がこの両者の間に入り多く の島民が助けられた。 日本の古武士を思わせる風貌であり、バリ島民の愛称は「白髪のおじさん」であり、「バリの 父」であった。地元の人にはトアン・ブサール(Tuan besar)と最大の敬意で呼びかけられた。 日本軍の派遣隊長も三浦をたて、三浦の推挙するプジャが知事になった。人をえた人選によ って日本の軍政下のバリ島はインドネシアの他の地域では見られないほど平穏に推移した。 ちなみにプジャはインドネシア独立準備委員のバリ代表となり、太平洋戦争後はオラン ダの勧誘を拒否したため投獄された。
973 :
972 :2005/06/13(月) 04:14:52 ID:C0W7f9wD
つづき 三浦は日本の占領はインドネシア独立のための手段であると信じきっていた。それでもって 日本の厳しい軍政の受入を島民に説得してきた。 しかし日本の敗戦によって独立の約束が反古(ほご)になるや、徹頭徹尾謝罪の言葉でもっ てバリ中を回った。「日本人は戦いに負けると自決するとバリ人に教えた。ところがこの度は天 皇陛下の命令で自決することができない。それではバリ人に嘘をついたことになったので日本 人を代表して自分が自決する」と釈明した。 三浦の決意は誰にも止められなかった。バリでは火葬である。土葬のために必要なセメント を手配した。心配をして集まる住民を追い払い従容(しょうよう)として拳銃で己を打ち抜いた。 9月7日の夜であった。9月7日は日本が約束した独立が実現する日であった。 葬儀は日本式で行われた、参列するバリ人は王族以下1万人もいたという。日本人が一人 で行ったププタンであった。その後も彼の墓には花が絶えない。日本人が訪れて慰霊 祭を行うと今なおバリ人が集まる。
974 :
767 :2005/06/13(月) 13:05:12 ID:???
>>971 探してみたけど↓くらいしか見当たらないです。
>>749-850 >敵は手に手に銃、日本刀、槍、鎌等を持っている。
>彼等の目的はこちらが保存していた数年分の被服、食糧、兵器等を独立運動
にほしいとのことらしかった。
他にはこういうのがあります。
・・・或る日「インドネッシャー」現住民約二千人に包囲されたのである。日本軍
の小銃、「オランダ」銃、日本刀、指揮刀、鉈、鎌等の外種々の武器を手にした
「インドネッシャー」が取り巻いている衛兵所前に集合させられた。こゝで部隊
長と「インドネッシャー」側の「トップ」会談が行われた。
独立軍は日本軍の武器も結構持っていたようです。
日本軍の横流しか独立軍の略奪かはわかりませんが。
>792さん乙です。
民間人で日本人を代表して自決とはスゴイですね。はじめて知りました。
昭和初期まで武士の魂を持った人がいたんですね。
日本の歴史の授業でこういうの読んだら、今の日本は過去に自虐的にならずにすんだだろうな
976 :
名無し三等兵 :2005/06/14(火) 13:08:13 ID:6XxF5akO
数年前に亡くなった爺さんから聞いた話。 戦争も末期、陸軍飛行隊の整備兵だったじいさんは、 内地の飛行場にいたが、あるとき転属命令が出て 分隊(班?)ごとに整列させられて 二つに分けられたそうです。 同じ部隊に仲のいい同郷の先輩がいたんだけど、 その人は分けられた別の隊で、じいさんとは違う場所に 転属ということでした。 移動日の前夜その人が、もう会うことも無いだろうからと 大事にしていた私物やお菓子、羊羹 、缶詰などをどっさりくれたそうです。 後で聞くところによると、半分に分けられて別のところに行った 人は、沖縄戦で戦死されたとのことです。 爺さんは大陸の飛行場に転属して終戦まで生き残りました。 あのとき、人数さえそろってればいいというようなわけ方 だったので、ひょっとしたら自分が沖縄に行っていたかも しれないと言っていました。 そして、先輩の別れ際の寂しそうな顔のくせに陽気な振る舞いと 前夜もらった羊羹の味が忘れられないとも・・・
>974 >独立軍は日本軍の武器も結構持っていたようです。 >日本軍の横流しか独立軍の略奪かはわかりませんが。 終戦後に日本軍の武装解除が行なわれ、日本軍の手によって集めた小銃等武器を谷底に捨てたが その下には予め呼んでおいた独立軍の兵士達が武器を手に取った例もあったようです。 また一部兵や将校の中には、独立軍の練度の低さを見るに見かねて終戦後も残り訓練指導をしたり、一緒に戦った人もいたそうです。 (余談ですが、人民解放軍も武装解除し帰国の途につく日本陸軍航空隊に人民軍航空部隊の指導を頼んだ例もあります。)
「おにぎり」 ある元日本兵は、同じ部隊で戦い戦死した高砂族を慰霊するためこの碑に赴き、 そこで昼飯にと差し出されたおにぎりを見ていきなり涙を流し慟哭をはじめたそうです。 「俺はこの握り飯を彼の前で食うことはできない」 彼の部隊は東南アジアで作戦中、食料不足で飢えに苦しみました。 そこで足腰が強く、ジャングルに強い高砂族の兵士が遙か後方の基地まで食料を取りに行ったそうです。 しかし何日待っても帰ってこない。様子を見に行ったら、彼は部隊まであと少しというところで 両手一杯の米を抱えて餓死していた。 米を持ちながらの餓死。信じられるでしょうか。 餓死するほどの限界に達しながらも、多くの日本兵が心待ちにしている食料には一切手をつけなかったのです。 慟哭した元日本兵は、そんな彼の霊前で握り飯を食うことができなかったのです。
980 :
767 :2005/06/16(木) 18:18:22 ID:???
お母さん、さよなら。一足先に天国に参ります。天国に入れてもらえますかしら。お母さん、祈ってください。お母さんがこられるところへ行かなくては、たまらないですから。お母さん。さよなら。 海軍大尉 林 市造