1 :
名無し三等兵:
なかったから立てた
自営業阻止
>>4さま
あ、戊辰戦争スレ、落ちてたのね。
5 :
名無し三等兵:04/11/29 23:06:01 ID:sntjuFq4
開陽がーッ!開陽が沈むーッ!
良スレになりそうなのに
>>2のおかげでネタスレ決定だな
>>2GJ!
青森だか函館だかの漁港に引き揚げられた当時の軍艦の
錨があったな
なんて船だっけ?
確か榎本武明の乗艦だったような希ガス
10 :
名無し三等兵:04/11/30 02:33:06 ID:zMCoW8az
ブリューネ最強
榎本「君のような人殺し野郎に私の気持ちが解ってたまるか!」
土方「この西洋被れが〜!!」
北米での南北戦争が終わった直後で、
余った武器が横浜に大集合でしたっけ?
なにげに薩長も幕府軍も当時の世界最先端の武器で武装してる。
長岡藩みたいにアームストロングとかもってる小藩もいるし。
中古品を大量購入したんよ。
14 :
名無し三等兵:04/11/30 03:53:57 ID:zMCoW8az
ガトリングガンもお忘れなく
宮古湾海戦はかなり萌え
黒田「お前らABORDAGEってしっとんのかっ!?」
16 :
名無し三等兵:04/11/30 04:33:19 ID:s0IbAFyG
幕府海軍のヘタクソ船乗りぶりが笑える
ご立派な船を持ちながら大砲は当たらぬは、
沿岸をチョロチョロ移動するだけなのに難破してんじゃ
西洋人のいい笑いモンだったろな
下手糞って・・・
黒船来てからまだ十五年なのに無茶言うなよ・・・
18 :
名無し三等兵:04/11/30 05:49:33 ID:GFU0zkAo
東洋海域最大最強とは言え木製フリゲイト一隻、外輪スループ一隻、小形スループ少々しかない一枚看板の艦隊で独立国をぶちあげるハッタリに萌え。
で、旗艦あぼーんであっさり手のひらを返されるへたれっぷりに萎え。
どうでも良いが、みんな「五稜郭」見てんのね(w
19 :
名無し三等兵:04/11/30 07:35:44 ID:zMCoW8az
「あなたの錦絵買いましたよ」
このシーンは何回も見た
20 :
名無し三等兵:04/11/30 07:52:47 ID:6AdrQeO3
逆刃刀
人斬り抜刀斎
幕府海軍の船頭達はまともな航海術を身に付けておったんだろうか。
もしや千石船レベルから進歩してないのでは。
24 :
名無し三等兵:04/11/30 14:23:44 ID:OYMA75S5
かまじろう「何が勝海舟だ。ありゃあ負海舟だ!」
25 :
名無し三等兵:04/11/30 18:39:02 ID:lyEU4Pqw
船将からして何の専門教育も受けていない素人だったしな。
シロートが道具だけは立派な物を持ったら何をやらかすか、珍しい実例。
幕末の兵隊は、なべて秀吉家康の軍隊より弱かったかもしんない。
二百年余の太平の世を経て戦の仕方を忘れちゃったんすよ
>>27 官軍幕軍ともに各部隊の士気の差が激しすぎるような。
一部の奴等(薩長、会津、新撰組等)はやたらと士気値が高いが、
その他大勢は一戦しただけで士気崩壊寸前みたいな。
日本全国津々浦々、軍人はやたらと沢山おったくせして
戦争に参加する気も能力も無い連中が大半を占めた。
という面白い時代。それが幕末。
廃藩置県があっさり断行されちゃったのも当然。
31 :
名無し三等兵:04/11/30 20:37:30 ID:TcOLPDa6
海軍に限って言えば、その当時の海戦なんてどこの国がやっても同じようなもん。
>>16 あの当時の海軍戦術では、大砲はあたらないものとして、
どんどんぶっ放しつつ艦首のラムを敵艦にぶち当てて沈めるというのが主流。
北海の沿岸の航海の難しさを考えるとあながち笑うことも出来ないんじゃないかな。
江差じゃないけど、はるかな後年バルチック艦隊も津軽海峡を避けたくらいだし。
>>29 旧幕府側最強といわれるのは実は庄内藩なんだけどね。
財政がわりとまともだったことを受けて装備が充実していたから。
むしろ造船技術は家康のおかげで退化してるし
太平洋横断中に咸臨丸に振り切られてしまった米海軍って一体・・・・
35 :
31:04/11/30 20:52:50 ID:TcOLPDa6
自己レス。
後半の北海云々は開陽丸のくだりね。
>>32 長岡藩のなりふりかまわない軍備拡張もすごいぞ。
立見鑑三郎
>>22 千石船を馬鹿にするな。
神戸→江戸を2日半で走るというのは、当時としては大したもんだぞ。
というがな。。。和船の航海術ってのは、陸地の見える範囲で船を走らせ、
嵐が来たら陸岸に船を寄せ碇を入れ、収まるまで何日でも待つ。
てなもんよ。風上に向けて船を走らせるということが出来ない。
これと比べると、西洋人の船の構造も航海術も、まるっきり異次元の世界。
まあ千石船でも排水量100トンくらいだからな。
比べるのが無茶ってもんさ。
>>38 嘘を書くな、嘘を。
和船の風上への切り上がり性能は、むしろ同時代の洋式横帆船を上回っている。
まあ、スクーナーなどの縦帆を備えた洋式帆船には劣るが。
19世紀に入ってからは、「沖乗り」と呼ばれる、陸岸からかなり離れた航路が主流だったし。
>>31 「あの当時の海軍戦術」なら、大砲の当たる距離、それこそ数十mまで接近して
大砲を撃ち合い、最後は舷を接して切り込み制圧するもんよ。
幕府海軍と薩摩海軍の撃ち合いはヘタクソ同士が屁っ放り腰で打ち合ったから
当たらなかった、ってだけのことよ。
>>41 そういやそうですた。甲鉄とかの戦法だわ。ラム突撃。
ただ切り込み制圧も古い戦法でねえかな。
土方もやったけど。
当時はあくまで砲戦が主流だとおもうが。
戊辰戦争では榎本艦隊と新政府艦隊の砲戦の末、
撃沈まで出ている。
英海軍がスペイン無敵艦隊を破った時の英海軍の戦法は、東郷元帥と同じように、威力は少ないが長距離届き、しかも
命中率が高い砲を備え、素早い動きでアウトレンジから一方的に砲撃するっていうやつだったから、明治維新の頃にも
なれば砲戦が主流だったのは確か
>>43 装甲艦の登場で一時的に衝角が復活した時代もあるぞ、まさに幕末がそれ。
当時の大砲の威力では装甲艦の装甲を貫けなかったため
敵艦を撃沈しようと思ったら、必然的に衝角をぶつけるほか無い。
>>32 庄内藩の財政が豊かだったのはやはり酒田港の稼ぎのせいなんでしょうか?
「本間さまにはおよびもせぬが せめてなりたや殿様に」だっけ。
>>45 そ。北回り船が稼ぎ出す収益はかなりでかい。
それにもともと、庄内平野って日本でも有数の米所だし。
天明の大飢饉のときにも領内からは一人餓死者を
出さなかったってのが庄内の自慢の一つらしい。
47 :
名無し三等兵:04/12/01 02:52:18 ID:t9YxwXHe
近代戦と戦国時代が混在する戦争
結構萌え
>>47 自衛隊が戦国時代にタイムとラベルしたとかそういう奴ですか?
戦国の長嶋巨人軍(名著)
とか。
3_くらい違うんじゃないか?たぶん
戊辰戦争時の新政府軍の格好で独特だよねえ。官軍だから仕方ないんだろうけど
あの半端に様式化+舎熊(黒・赤・白)って何か異様。
51 :
名無し三等兵:04/12/01 06:37:01 ID:t9YxwXHe
新潟の地震で小千谷の会見場は倒壊したんだな
幕府も大阪でちんぴら・やくざで11連隊なんか作らずに
装備そのまま会津と桑名と新撰組に渡しときゃよかったんだよ。
しかし幕府海軍の優秀さに比べて、
直参陸軍のだらしないこと。
>41
まあ「海軍に戦術無し」とされてた時代ですからな。砲撃の応酬と
接舷切り込みによる艦と艦の組討ちの総体が「海戦」だったわけで
して。
>44
東or甲鉄orストーンウォールはその為だけに特化した装甲艦ですな。
そう考えると、その時代に開陽の威力ってのはすさまじいな。
排水量2600t クルップ砲・アームストロング砲計35門搭載(甲鉄の装甲もぶち抜くことは可能)
対する甲鉄が1300t、アームストロング砲数門だもんな。
ところで漏れは土方が明治にも生き残っていたらという妄想に最近取り付かれているのだが・
日露戦争で第2軍あたりを指揮していただろうか。
それより酒井玄蕃に陸軍に残って欲しかった訳だが。
割と知名度は低いが、鬼玄蕃といや奥羽越列藩同盟切っての名将だぞ。
あと林忠崇が指揮する海兵隊とか。
59 :
名無し三等兵:04/12/02 06:22:42 ID:uUfRwA8D
大鳥圭介を忘れないでね。
>>57-58 立見が日清戦争でけっこうな功績を挙げているからな。
あがってる名前にプラス河井あたりが生き残っていて、
新政府陸軍に採用されていたら・・・とか妄想せんでもない。
>>59 大鳥は年が行き過ぎてるだろ。
戊辰後は軍務に就かず、
日清戦争時には、対清の外交をやってたはず。
あんまりそういう妄想をしていると、
後世世界になりまつよ
史実では日清日露戦争で薩長の政治家や軍人が多く活躍したが、もし戊辰戦争で東軍が勝っていたら、日清日露戦争では政治家や軍人の名前が入れ替わるだけで似たような推移をたどったのだろうね。
64 :
名無し三等兵:04/12/02 08:33:11 ID:XZBdCBsM
戦国時代さながらの幕府軍を近代兵器で武装した新政府軍が駆逐したってのは明治政府が脚色した話。
実際は幕府も近代的な軍式にしようとしていた。
>>57 各隊の組長クラスまでならば、その可能性もあるかもしれませんが、
新選組トップの近藤、土方は長州人の憎悪をかってましたから……。
新政府にそのまま受け入れられて軍の指揮官クラスの地位に就くのは、
かなり難しいかもしれませんね。
>>58 むしろ小栗上野介に生き残って欲しかった。
谷干城くらいの活躍は充分にできたであろうに。
新撰組イラネ。万が一、幕府が戊辰戦争に勝っても抹殺されるだろうし。
>>66 上総介、上野介、常陸介などのうち、
「上野介」は、赤穂浪士の例の事件以来、
すっかり悪役のイメージがしみついてしまって、
誰もあえて名乗りたがらなかったんだそうですね。
それをあえて堂々とうけてみせたのが小栗上野介。
このことひとつとっても、常人とはちょっとばかり、
肝の座り方が違いますね。実に惜しい死に方でした。
>>68 横須賀造船所を作って見せたり、
かなり切れる人材のようですね。
もし彼の建策どおりに徹底抗戦していたら、
薩長側は敗北していたでしょう。
ただ、政治的センスは無いと言わざるを得ませんね。
伊地知幸介・小畑敏四郎に近い人物像が浮かび上がってきました。
>>69 政治的・軍事的センスは一流のものであったとは思いますが、
その才能をすべて徳川家のためのみに使ったところが、
後世の人間から見れば惜しくもあり、また、
同時代人から見れば恐ろしくもあったでしょうね。
小栗の政治構想が通れば、幕府は多少の延命がなされたかもしれませんが、
代わりに諸大名は擦り潰されるようになくなり、
ひょっとしたら香港やマカオのような土地を、
日本は抱え込むはめになったかもしれません。
もっとも、司馬遼先生が持ち上げる勝でさえ、
「日本に造船が根付くのは100年も200年も先。
艦船は外国から買うべきで、造船所建設など無駄である」
……と、当時小栗を批判したそうですから、
本当に先を予測するのは難しいです。
思うのですが、万が一、新政府側にゆるされても、
結局小栗は長生きは出来なさそうに思います。
本人は新政府に仕えるつもりはさらさら無いでしょうし、
新政府側としては、あれだけの人物が野放しになっていたら、
これはもう、危険極まりないでしょうから。
本人にその気はなくとも、旧幕勢力に象徴としてまつり上げられかねません。
早死にするには実に惜しい人物・人材だとは思いますが、
遅かれ早かれ、何らかの形で始末はされてしまったような、
そんな気がします……。(´・ω・`)
「瀬兵衛どの、ようなされた。……これで蔵付きの家が残せる」。
>>69>>71 小栗は
「親の病が治らぬと分かっていても、薬を与えないのは孝子の行いでない。
国滅び身倒るるまで、公事に尽くすこととこそ真の武士である。」
って言ってるくらいで、幕府がもうダメだってことはよく分かっていたんだと思う。
しかし、それでも、直参旗本として幕府を見捨てることはできなかったんだろう。
なんか、泣ける。
73 :
名無し三等兵:04/12/02 12:55:56 ID:pxD802z0
先進的だったが、最期まで武士だったね
金の交換率の日米交渉で最後まで一歩も退かなかったらしいね
74 :
名無し三等兵:04/12/02 15:54:02 ID:ELElwVrh
先に幕府側が錦の御旗を使うか、薩長と幕府双方が錦の御旗を使わなかったら、幕府側が確実に勝っていたな。
>>71-73 小栗上野介や会津白虎隊、あるいは新撰組隊士の死という
幕府に殉じた人々の存在によって
何となく救われた感じがしなくもない、という感じがします。
東照大権現もお喜びでありましょう。
日本史板に移動しる
え?なんでよ?!
じゃ軍板らしく、傭兵として欧米軍人が参加する可能性とかありましたかね?
ブリュネあたりは一応本国政府の意をうけて来てるんだが、
フリーランス・食い詰めで来日する連中とか。
ラストサムライ幕末版だが。
79 :
名無し三等兵:04/12/03 05:30:05 ID:6K+zCaAl
ブリュネは軍事顧問でいいんだよね?
80 :
名無し三等兵:04/12/03 08:30:31 ID:939pGtGC
>>78 ヨーロッパからかなり遠いから、政府軍でもない傭兵が気軽に来れないと思うな。
新政府軍側はもともと攘夷を唱えていた連中だし。
81 :
名無し三等兵:04/12/03 08:43:30 ID:twwfEzYX
思うんだけど、大日本帝国の陸軍、海軍の確執って犬猿の仲だった長州、薩摩の
関係まで溯るんじゃないかな。
>81
タマゴが先か鶏が先かだと思うが。ほっといてもどこの国でも陸海軍は
仲が悪いモノ。あすこまで悪いのは希少な例外だろうけどね。
>>83 薩の海軍、長の陸軍っていうのはあったらしいが、
どっちかっていうと長州藩に海軍のことが分かる奴がいなかっただけかと。
旧幕(松平含む)・土肥・そして薩摩って感じ>明治海軍
>>84 陸にいた薩摩人達は西南戦争でアボンされましたので・・・
そーいや、最初の陸軍大将は薩摩人だったな。
西郷ドンさえ鹿児島戻らなかったら・・。
88 :
名無し三等兵:04/12/03 19:20:28 ID:YjS2wauR
幕末物の本を読んでたら、よく「東洋一の幕府海軍」という表現を見かけるが、
維新から二十数年後の日清戦争の頃でも日本海軍は清の北洋艦隊に劣っていたのだから、
維新直前の幕府艦隊が「東洋一」ということはないと思うんだが・・・
それとも、洋務運動の進展で、急速に清の海軍力が日本を追い抜いたということなのか?
>>88 そんなとこ。フネは最新鋭のいいものを買ったが中の人がね…
結局政変のおかげで金が底をついたのよね。
小ネタ。
幕府海軍は、当初、水兵として、水軍の末裔である、塩飽島の漁師を採用した。
船乗りなのだから、海と船には慣れているだろうという発想である。
しかし、日本の船は、ほとんどの操作を甲板上で行う関係から、日本の船乗りには
帆柱に登るという習慣がなかった。
一方、洋式帆船は、マスト上での作業は必須である。
そのため、帆を張ることすら満足にできず、洋式帆船艦隊が実力を発揮することは
少なかった。
その後、高いところの作業に慣れている、とび職出身者を採用したところ、
短期間の訓練で、かなりの成果を上げたという。
しかし、時すでに遅く、幕府はまもなく崩壊したのである。
しかし咸臨丸の太平洋航海は水軍の末裔の操船だったとおもうけど。
詳細プリーズ。
>>92 咸臨丸の太平洋横断の際、日本人乗組員は、艦長の勝も含めて、ほとんど船酔いでダウン。
実際の操船は、同乗していた米軍水兵がやってる。
94 :
名無し三等兵:04/12/03 21:33:40 ID:6K+zCaAl
感臨丸はブルック太尉以下のアメリカ船員が大部分の航海を支えた。
肝心の船長、勝海舟は船酔いに苦しみ、「船を下りる」と喚き散らし、クルーを困らしている。
95 :
名無し三等兵:04/12/04 01:22:09 ID:reENJQVH
よくある漫画日本の歴史とかでも
そのシーン必ず出てくるな(w
96 :
94:04/12/04 01:57:39 ID:fm+7TAE6
勝の名誉もあるので小ネタも一つ
桑港に上陸した時の事、公園を散歩していたクルーが親しくなった貴婦人に春本を渡した。
貴婦人は「侮辱された」と裁判所に訴え、責任者として勝が呼ばれた。
判事「これはなにか?」
勝「これはポルノグラフティーです」
判事「公園で貴婦人に渡したと聞いたが?」
勝「クルーを処分しましょう」
97 :
続き:04/12/04 02:03:59 ID:fm+7TAE6
判事「いや、御婦人もあの後、これに興味を持ったそうだから処分はしなくてもいいのだが、ところで私も欲しいのだがよろしいか?」
勝「では、後日プレゼント致します」
後日、貴婦人と判事は代表団を訪れた。
勝「これより春本の贈呈式を行います」
2人は真っ赤になって逃げ出した。
咸臨丸は実戦を経験してるの?
清水湊の次郎長親分を知らんのか?
大坂湾での海戦の時は、咸臨丸は参加してたっけ?
清水港の惨劇は、すでに「戦闘」とは言えないよな。
101 :
名無し三等兵:04/12/04 13:46:36 ID:Isytm4zs
極端な話、「虐殺」に近い
102 :
名無し三等兵:04/12/04 16:03:29 ID:Vr2NrN4V
>>91滝沢聖峰のガンズアンドブレイズって漫画で出てくる幡竜の乗り組員で元火消し
っていうキャラがいるけど、その辺の事情も汲んだ設定なんだろうね。
103 :
名無し三等兵:04/12/05 05:16:43 ID:+Q0r+HDu
咸臨丸は江戸品川沖からの「脱走」ご、嵐に遭難し難破漂着し、兵員一同は新政府軍に「屠殺」された。
例によって、遺体の埋葬などを禁じ、放置状態の遺体を埋葬したのは「清水の次郎長」だった。
兵員の扱いをみる度に怒りが込み上げてくるのは漏れだけだろうか。現在のジュネーブ条約でなくても当時ですら
武士の情けという物があったと思うのだけど。
で、自分たちが降伏しようが戦死しようが、自分たちの運命がそうなると分かっていて徹底抗戦しなかった榎本以下はヘタレってことでOK?
幕府(共和国)海軍の中で一番の船乗りは回天艦長の甲賀源悟だろうな。
彼が宮古湾で戦死して以来、幕府海軍は組織だった行動が取れなくなった。
実質的な幕府海軍の提督。彼が開陽の艦長だったら、江差沖で船を沈める事は無かっただろう。
陸軍は素人だった大鳥圭介よりも、土方歳三が統率していれば、という話もよくあるけど
土方は戦術戦では軍神だが、戦略的思考に欠けていたので、大勢には変化無いだろう。
実は、一番陸軍に合っていたのは榎本武揚だったというオチも。
もし小栗上野介が箱館戦争に加わっていたら・・・。
>>104 実は後ろから撃たれたという話もある土方が統率できるのかだが(苦笑
「話」だよな
幡竜丸と回天丸の活躍は凄いですね。
たった二隻で良くあそこまで戦えたもんだ。
特に幡竜丸は朝陽丸を撃沈してるんですよね。
すげぇ…。
幡竜に搭載されていた備砲はわずか2門ながら、先込め式のクルップ砲だったという説もある。
対する朝陽は、実物が五稜郭に展示されているが、元込め式のアームストロング砲。
発射速度ではクルップ砲は敵わないが、射程は同程度かそれ以上、威力は1.3倍という。
あと幡竜が松岡艦長の巧みな操艦で、命中弾をかわしつつ新政府艦に肉薄して砲撃を加えていたのに対し、
朝陽の操艦があまりにお粗末だったという話も。
最後は春日と甲鉄に追い込まれ、座礁してしまったが、奮戦といえる。
幕府艦でお粗末なのは千代田形。春日にも対抗できる数少ない高速砲艦だったのに、座礁させて新政府軍の手にみすみす渡してしまう。
千代田型、量産出来ていたらよかったんだけどな。
鳥羽伏見なんか関係なく鹿児島焼け野原。
千代田型って、装甲艦だったのか?
竜骨は木製で、外装に鉄板を貼り付けていた、と聞いた事があるが。
備砲も後装式の13センチクルップ砲という話も。
千代田形は木造スクーナー。
幡竜丸、朝陽丸はコルベット、千代田形艦長の森本弘策のミスで拿捕されてしまったのは痛い。
春日丸にも対抗できるとの事だが残念ながらスペック通りの能力を発揮できればそれは無理だ
と思われる、千代田形は130トンの小型船で速力は不明、春日丸は1000トンの外輪船でコル
ベットクラス、速力は16ノットで武装は施条した大口径砲(40斤砲5門100斤砲1門)一方千代
田形は砲3〜4門(詳細不明)で速力、武装の面でも分が悪い。
春日丸に対抗するには富士山丸クラス(1000トンのコルベット、砲12門、江戸開城後に官軍に引
き渡される)が必要と思われるがどうでしょう?
115 :
名無し三等兵:04/12/05 22:30:22 ID:/EY+k5S6
海自のフラッグシップにすんのか?
開陽といか富士山とか回天とか幕府のネーミングは好きだね(w
幕府海軍の軍艦の名前は、明治以降の海軍のそれとは違った
独特な名前が多いね。
なんでだろうか。
千代田形はどっかのサイトで11隻量産される予定だったと書いてあるのを
見た。
11隻もあったら結構、脅威かも。
>>117 明治海軍が、あえて幕府海軍風の名称を避けたってことじゃないの?
120 :
名無し三等兵:04/12/06 18:17:06 ID:g0om8U/f
(,,゚Д゚)<アボルタージ
春日なんてのもあるから、明治海軍が薩摩的な命名を引き継いだってことじゃないかな。
>>114 「フォールリヒター(夜明け前)」に触れていないのはなぜだろう?
ところでこのスレ的にお薦めの本とかは?
俺からは、中公の「幕府歩兵隊」を挙げておく。
というか、それ以外の本が無い気もするが。
小説だが、「幕府軍艦『回天』始末」
絶版仮想戦記だが、「慶喜、謀叛!」を挙げておく。
大山柏の戊辰戦役史って、戊辰戦争を扱った本にはたいてい参考資料としてあげられているが、
やはり必読?
検索してみたが、結構いいお値段なんだよな。
小説と言えば、佐々木譲の「武揚伝」もよいぞ。
戊辰役戦史、だ。
俺は図書館で借りたけど、本気で研究するなら持ってなくちゃまずいと思う。庄内藩燃え。
126 :
名無し三等兵:04/12/09 13:04:51 ID:+ombI1ob
>122,読みやすい小説なら「榎本艦隊、北へ」を挙げる
幕府海軍の軍服の色、青色説と灰色説を見たことがあるのだが、
どちらが正しいか結論は出ているのか?
128 :
名無し三等兵:04/12/11 16:53:44 ID:6JcE6Hpu
131 :
名無し三等兵:04/12/11 17:17:40 ID:6JcE6Hpu
>>129 >>130 いきなりレスが二つついてたので驚いたぞい・・・。
ま、藍の染料は手に入りやすかったしのぅ・・・。
>>130 そこ見ると、士官は紺だったが、水兵は灰色のようなんだが。
小ネタであります。
箱館(函館)で降伏した榎本武揚は、明治2年6月30日から、
赦免された5年正月6日まで、東京の軍務官の獄舎につながれた。
獄中で武揚は読書に熱中する。特に、盛んに応用化学の勉強をした。
やがて、家族の窮乏を救おうと、遠縁にあたる福沢諭吉に化学書を借り、
生業の役に立てば、と、さまざまな化学製品製造の工夫を自宅に書き送る。
しかし残念ながら、家族はこれら書簡を上手に利用できなかった。
かえって親戚の者がこの文書を読み、石鹸の製造・販売を思いつく。
……現在の「資生堂」の元祖である。
>>133 そのとき、最初に福沢が差し入れた化学書が、実に初歩的なものだったので、
榎本は「使えねーよこんなの、もっとまともなの寄こせ(意訳)」と言ったらしい。
後年、福沢が榎本を批判しているのは、このときのやりとりに端を発しているとも。
仮に蝦夷共和国が成立したとしても、結局はロシアの中に組み込まれちゃう
のかな…。
残念。
>>134 遺されている、家族宛ての書簡の中には、自分の学力を誇った、
「セーミ(化学)は未だ日本国中小生にならぶもの無之と乍高慢存居候」
などという自慢の手紙の他に、福沢のことを悪く言った、
「もそっと学問のある人物と思いしところ存外なりとて半ば嘆息」
……そんなあんまりな文章もあるそうですね(w。
明治3年の春に、姉に宛てた手紙には、
「箱館にて私写真盛に売れ外国人争て買求候由近来箱館より参候人申聞一笑仕候」
……などという一文もあるとか。
えーと。よく言うと生粋の明るい江戸っ子、悪く言うと、
勇み足ぎみの軽い人だったのかも(w。
>>127-
>>132 実は青でも灰色でも正解なんだけどね。
南北戦争の払い下げ品も多く出まわってたものだから、南北両軍の軍服を
着ている例も結構多い。
幕府海軍兵卒の帽子は南軍だから灰色じゃなかったか?
確か
>>130のサイトで以前、富士山丸甲板上での記念撮影写真がアップされ、
意見を求めていたはず。(俺はその時初めて幕府海軍の写真を見た)
その写真に確か鉄砲隊の兵士が写っていて南軍の帽子を被っていたらしい。
「幕府歩兵隊」おもしろいよね。
幕末の歩兵隊はサムライでもなく、帝国陸軍の兵士でもなかった、とか
戊辰戦争とは、日章旗と菊花旗が交戦した戦争だった、とか
萌え文多い。
>日章旗と菊花旗が交戦した戦争だった
あれ、幕府も日章旗だったのか。
薩摩の軍艦が鳥羽伏見以前から使ってたの知ってたが。
薩摩から召し上げて(?)日本=幕府政権の正式の国旗になってる>日章旗
>>140 日章旗はもともと薩摩の旗印だが、戊辰の頃は日章旗を使っていたのは幕府方のみ。
今じゃわざわざ法案作ってまで仰ごうとさせているからねぇ…。
“賊軍”の旗仰げと言われているみたいで妙な感じは否めないね。
気のせいだろうけどw
>>139 事実では、幕府歩兵隊は新政府に引き渡されて、函館遠征に参加し、その後の
日本陸軍に編入されているんだけどねえ
日章旗=幕軍
泣けます。ううう
>>142-143 そうだったのか感謝。
薩摩発だということで嫌で嫌でしょうがなかったが
これからは大切にするよ。
もし慶喜が大坂から逃亡せず、幕府陸海軍を集結させ反撃に出たらどうだ?
勅令は薩長の書いた偽物を断定してさ。
149 :
名無し三等兵:04/12/18 01:15:44 ID:vLgg/OS2
内乱に諸外国が介入してゴタゴタがでかくなる悪寒
小栗の提案が通るなら北海道は植民地になってるだろうし・・・
>>149 ビスマルクがどう動くかかなり楽しみ!?
でもいい時期に南北戦争やってくれたもんだな。
ストーンウォールジャクソン号と富士山が依然、幕府の手中にあるのなら
面白いことになりそうだな。
152 :
名無し三等兵:04/12/18 03:30:34 ID:vLgg/OS2
海軍力の幕府が上だしね、フランスの支援もあるからやる気があれば幕府は勝ったと思う。
しかし、日本が独立を保てたかは疑問
>>152 ま、それがわかってたからガチの勝負をやらなかったんだろ。
とりあえず、海外事情に通じていた人材は幕府側の方がはるかに多かったよ。
川路聖謨、小栗上野介、榎本武揚、永井尚志、水野忠徳、井上清直、勝海舟etc・・・。
スレタイから外れるが、川路聖謨は興味深い人物だ。九州の日田代官の属吏の伜に
生まれて御家人川路家の養子になり、あとは実力で成り上がった。
江戸開城の翌日に切腹の上短銃で自決。幕閣の中枢にあった一人として一つの
筋を通したと思う。
↓こんなの見つけた。プチャーチンと折衝するために長崎に行くときの話。
聖謨たちの長崎への出発を慰労し、斉昭公は大小の太刀、はなむけの和歌を贈ります。
わが国の千島のはては えそしらす さりとてよそにとらすべしやは
みちのくの ちしまのはては えそしらぬ かそへてかへれ わか君のため
聖謨の御返しの歌
限りなき君が恵みは えそしらぬ ちしまのはては よみ尽くすとも
誰れ余所にとらすべきやも我国の千しまと君がおしへあふきて
手塚治虫の『陽だまりの樹』が(・∀・)イイ!!
川路も出てたな。
>>151 ストーンウォールジャクソン号じゃないよ。ストーンウォール号ね。
どちらも存在する軍艦なので要注意
>>142-143 日章旗のデザインには、かなり多くの人が、魅力を感じているらしいね。
幕府に対して、デザインを売って欲しいと要望する国があったらしい。
>>157 バングラディシュが国旗を制定するときに、日の丸を参考にしたというのは本当なんだろうか?
甲鉄といわんか甲鉄と。
>>158 パラオなら参考にしたという話をきいたことがあるが、バングラデシュは知らないなぁ
>157
確かフランスでしたね。
でも時の日本の首脳部は1000年の歴史を持つ日章旗を手放してはいけないと
のどから手が出るほど欲しい外貨を捨てて国旗を守ったという美談が。
それに引き替え現代サヨンボときたらorz
162 :
名無し三等兵:04/12/18 15:28:26 ID:MZt8VCFZ
仏蘭西GJ!
163 :
名無し三等兵:04/12/18 17:01:33 ID:J2zKTNvJ
「るろうに〜」に出て来た「煉獄」はまんま旧海軍(新政府海軍)東艦(旧米南軍軍艦ストーンウォール)が元ネタだったりする。
現在では、艦名不詳だが同型艦は他に一隻存在し、プロイセン海軍所属で有ることが判っている。活躍したか不明ながら模型が博物館で展示されているらしい。
ちなみに艦載砲である300斤アームストロング砲は一発撃つのに30分を要し、低速かつ河川砲艦であるが故に安定性が悪く、
実際に開陽丸と戦った場合勝利は覚束なかったと言われている。
開陽も一応装甲艦だからなあ。
薄い銅版を張っただけだが。
なんだかな、日本の南北戦争という感じだな
>>幕府軍と新政府軍の戦い
>164
開陽のは装甲ではなく船食虫対策。
幕府の軍艦建造依頼(木製)に対してヒップス造船所が
「木製より鋼製の方が安価に強力な軍艦を作れる」
と言ったにも関わらず、(既に決定したから)木製を要求。時代は鋼製軍艦の時代に変わっており、それでは不憫と思ったのか鋼鈑を張ってくれたらしい。
まぁ、例え鋼製でも江刺沖での遭難喪失の運命は不可避だったでしょうが。
先日の台風で難破した海王丸を見て「開陽が沈む」のシーンを思い出したりして。。。
>>166 その鋼板によって復元力が低下し、江差沖の沈没に繋がった、という説もある。
でも海王丸は沈まなかった。造船技術の進歩の賜物でしょうな。
奥羽越列藩同盟に担がれた寛永寺の門院様
その後北白河宮となり、数奇な運命を辿ることとなる・・・。
>>168 北白川宮、ですね。
最後は近衛師団長として作戦中に病死、でしたっけ。
もし旧幕府側が勝っていたら、この方が天皇に即位されていた可能性もあるのか。
>>165 それで小説シナリオ一本思いついた。
「アメリカ南北戦争は北軍の勝利に終わった。だが、北軍に投降する
ことをよしとしない南軍残党が、最強の装甲艦ヴァージニア(←なぜか復活)
以下、南軍残存艦隊とともにフランス植民地諸政府の支援を受け、日本に
たどり着いた。フランスは彼らを軍事顧問団として幕府軍に加わらせ、
イギリス東洋艦隊の支援を受ける薩長軍と激突する!」
171 :
名無し三等兵:04/12/18 21:56:51 ID:oEczQbWT
>>169 初代台湾総督として叛乱討伐作戦中に
マラリアにより戦地にて病死されました・・・。
この人は小説にすれば面白そう。
有栖川宮より。
当時の幕府軍は装備は最高。
でも司令官クラスが駄目だね、大隊長クラスまでは教育でどうにかなったらしいが
数個連隊以上を運用する能力なし。
また幕府砲兵隊は全く出てこないね、砲数は旋条式の4斤山砲が相当あったはずなの
にね。
旧幕府軍は強かったの?
幕府自体はどうしようもなかったみたいだけど。
176 :
名無し三等兵:04/12/19 02:35:24 ID:DXJ+k4qp
少なくとも当時の東洋ではトップクラスでは幕府軍は・・・
黒船以来、幕府は西洋技術や軍備増強にのりだすんだけど、
とくに徳川慶喜が将軍になってからは、フランス公使ロッシュのバックアップを受けて、
強力な陸海軍を創出ようとした。
陸軍。。。直参旗本が全く役に立たないため、江戸市中から雇い入れた町人が主体。
フランス軍事顧問団の訓練をうけ、フランス制服と最新鋭後装銃シャスポー銃を装備した歩兵隊は
軍備面だけをとって見ると薩長以上。
海軍。。。留学中の榎本武揚とともに到着した、オランダ製軍艦開陽は世界的水準に達する
最新鋭軍艦、これを旗艦とする幕府海軍は当時の日本国内最強。
また、フランスの後押しで、横須賀に造船所を建設、
幕府海軍の本拠とする計画だった。
というように、当時の幕府軍は、軍備面を見れば国内最強の軍隊。
ただ、これだけのものがありながら薩長軍に敗北したのは、やっぱり首脳部が。。
178 :
名無し三等兵:04/12/19 03:21:37 ID:DXJ+k4qp
一昔前の歴史の授業では
新政府軍「最新式」
幕府軍「旧式」
みたいな授業だったよね?
漏れは突っ込みをイレまくった
今の授業では戊辰戦争も名前覚えるだけで大してしない…。
>>177 ま、箱舘戦争時にはシャスポー銃は弾薬欠乏で使い物にならず、伝習歩兵隊は急遽購入した
エンフィールド銃やミニエー銃使っていたが。
フランス製の武器はイザと言う時には役に立たないというのは、昔からなんだよな。
幕府陸軍が全部隊に弾薬流通が比較的潤沢なエンフィールド銃やスペンサー銃装備していたらどうなっていたか・・
前装式ミニエー銃を装備していた、長岡藩や庄内藩があれだけ戦えたのだから・・
>>163 ストーンウォールは一時期プロイセン海軍所属だったが。
南軍がフランスに発注→フランスで建造→北軍の妨害で契約破棄→デンマークに売却
→デンマーク戦争でプロイセンが鹵獲→スウェーデンに売却→南軍が買い取り
→ハバナで終戦→北軍が接収→幕府に売却→横浜に回航→引渡し拒否される
→新政府が受領→宮古湾海戦
182 :
名無し三等兵:04/12/19 07:31:41 ID:EqmCaLSn
民主平和論と損得収支論って両立できると思うが。
184 :
名無し三等兵:04/12/19 10:13:02 ID:X0VlJkOw
幕府をぶっつぶさんとまっことこの日本国は破滅するぜよ
一番時代遅れだったのは尊皇攘夷を唱える志士たちだったというヲチ。
幕府が勝つ為のIF
@64年の240万ドル借款を横須賀造船所建設ではなく武器購入に当て、第2次長州征伐勝利
A67年の600万ドル借款を成立させる(薩摩の仏万博参加排除)、鳥羽伏見勝利
Bストンウォール(甲鉄艦)を取得し68年4月の榎本艦隊脱走を成就し、奥羽列藩同盟を支援
>186
追加、仏式ではなくて英式で陸海軍を編成。
船を座礁で失わないこと
これ重要
二重カキコすまん
192 :
名無し三等兵:04/12/19 17:45:41 ID:b0pRuQnD
慶応3年末の幕府陸軍
歩兵 8個連隊
伝習歩兵2個大隊
騎兵 6隊?
砲兵 6隊?
奥詰銃隊 ?
撤兵銃隊 ?
歩兵以外はあまり資料が無いので、情報あれば教えて。
普墺戦争がプロイセンとオーストリアの痛み分けで終わって、欧州の
パワーバランスがフランスの圧倒的優位になれば、ナポレオン3世は
もっと幕府を援助するかも。フランス東洋艦隊の派遣もあり得る。
普墺戦争がプロイセンとオーストリアの痛み分けで終わって、欧州の
パワーバランスがフランスの圧倒的優位になれば、ナポレオン3世は
もっと幕府を援助するかも。フランス東洋艦隊の派遣もあり得る。
シャスポー銃の評価は様々だが、有効に活用出来なかったのは、布製弾薬の国産が出来ず、輸入ルート
の乏しい脱走幕軍では補給が出来なかった事と元込めベースの歩兵教典が無かったから。
十三年式村田銃
単発後装式のボルトアクション式施条銃。明治十二(1880)年に完成した国産最初の制式小銃である。
西南戦争に際して、政府軍は種種雑多な銃器を使用し、弾薬補給に可成りの困難を伴った。そこで明治
政府は陸軍少佐村田経芳に命じて銃種統一と国産化を研究させた。村田少佐はシャスポー銃が能力優秀
である事に鑑み、何れも口径11oの単発ライフル銃であったフランスのグラー1874型の鎖栓に、オラ
ンダのボーモン1871型のV字形撃針バネを取り入れた。
普仏戦争でも、シャスポー銃は、撃針の折損事故の多い、プロイセンのドライゼ銃より、
撃ち合いのときには役に立ったという話もある。
まあ、フランスは結局負けてしまったわけだが。
>>180>>195 ある銃砲史の資料で、元伝習隊隊員の爺さんの談話が引用されていたと思ったが、
シャスポーは使わずじまいでミニエー・エンピール銃が主力だったのだとか。
つまり、シャスポーが使い物になったのは日本軍創設以降になってからなんだな。
>>180>>195 ある銃砲史の資料で、元伝習隊隊員の爺さんの談話が引用されていたと思ったが、
シャスポーは使わずじまいでミニエー・エンピール銃が主力だったのだとか。
つまり、シャスポーが使い物になったのは日本軍創設以降になってからなんだな。
伝習隊のシャスポー銃の話って、伝説だったのか?
どうすれば幕府軍は勝てた?
中級指揮官をもっと増やし、フランス軍事顧問団増派で錦旗無視ならOK?
慶喜公が隠居しない限り、無理だろ。
徳川慶喜は大正元年まで生きていた、と言う事を始めて知った時は
驚いた。
長生きしたんだねぇ。
戊辰戦争を戦った大名で、昭和の御代まで生き残っていた方もいらっしゃいますよ。
元請西藩主、林忠崇。
この人の生き方ってすごく面白い。
>>203 請西藩て・・・
確か、戊辰戦争関係で唯一取りつぶし食らった藩だったよね
請西って今は住宅地だけど
>>204 陣屋のあとはまだ残ってなかったっけ?
陣屋そのものは藩主出征の時に焼き払ったそうだが。
>203
15代様とお話した人が平成の御代までご存命だったことのほうが
驚きましたぜい。
>>205 確か陣屋跡の碑か何かがあったとおもうが・・・
近所だから今度見に行ってみよっと
>>206 こうして考えると、明治維新って、我々のほんの数世代前の出来事なのだな。
208が20代と仮定すると多分曾爺さんの、そのまた爺さんか曾爺さん辺りの出来事。
>>199 それは諸説あり様々。
幕府が取得した数も2,000丁(贈与分)は確実だが、600万ドル借款をあてにした
先行分70万ドル分(シャスポー銃1万丁?)が到着しており、一部は代金を幕府が引き
取ったらしいが、そのうちシャスポー銃が何丁かは不明。
少なくとも2,000丁は慶応3年の前半に到着しており、伝習隊に全く装備されていな
いとは考えずらい。
>>200 前にも書いたが、「幕府歩兵隊」を読むと上級指揮官レベル(数個連隊統率)が深刻。
鳥羽伏見でも質量ともに優勢な幕府軍が錦の御旗登場以前の緒戦でも勝てなかった
のはそのせい。
こう云うスレがあったんですね。
記念カキコ
失礼!!
ageてしまいました…
鳥羽伏見戦における各隊の配置図を見ると、
薩長方の包囲陣に幕府方が行軍隊形のまま前進してるからな(苦笑
竹中重固を始めとした幕府方の高級将校が無能すぎるよ。
仏の軍事顧問団も大尉以下だから、中下級士官養成が主で、上級士官養成はしてない
だろうね。
また1000石取り以上の旗本は、プライドばかり強く教育なんか受けないだろうしな。
>>214 陸軍奉行竹中重固は第2次長州征伐でも指揮をとっており、それなりの経験
は有ったはずだが、幕軍の優勢を過信したのでは。
竹中半兵衛の子孫だそうだが、草葉の陰で先祖が泣いてるな>竹中重固
慶喜について言うなら、第二次長州征伐の時からすでにへタレ。
天皇の許可があるのだから、大討ち入りを何としても強行すべきだった。
部下を見捨てて自分だけ逃げ帰るなんてのは、武将でなくてもとんでもない奴。
所詮、水戸、公家の血筋。
将帥はそれなりの格式が無ければ、部下の旗本連中を従わせるのは難しい。
将帥には知識ではなく胆力の有る人材をあて、参謀に洋式兵法に通じたものを
付ければ良い。
222
>>210 銃はあっても教科書がなかったようだが?
使い方がわからない物を部隊配備するのでしょうか?
>>224 元込め用の歩兵操典は翻訳が間に合って無かったでしょうが、歩兵操典に基づいた調練
をしていたなんてのは幕府と雄藩の一部でしょ。
スペンサー銃の操典もないし、官軍側も中途で元込めスナイドル銃に切り替えている。
>>216 第二次長州征伐って、負け戦じゃん。
そのトップが更迭されなかったわけ?
無責任体質なのか人材が不足していたのか・・・。
日本にはよくあること。年功序列最強ですよ。
>>227 トップではないよ。
2個歩兵連隊を率いていただけで、征長軍の中では奮戦した方。
陸軍奉行職にふさわしい人材は出てこないね。
大鳥圭介 は参謀向き
小栗上野介は官僚タイプ
元々洋式兵術家は蘭学者から出ているのが多いから指揮官向きじゃないね。
>>232 先に言われた欝氏。
敢えて榎本、次点小栗といってみる。
つうか誰でもいいから(小栗でも)腰をすえて陸軍奉行をやらせればよかったんだよ。
やっぱり幕軍で一番の前線指揮官は土方歳三ってことになるのか・・・
酒井玄蕃や河合継之介は幕軍の士官でないからな・・
>>234 NHK大河ドラマ「新撰組!」見ました。
あんな奴が指揮官になるんですか?
>>235 1 ドラマを真に受けるな。
2 土方が野戦指揮官としての真価を発揮し始めたのは、近藤の処刑より後の話。
宇都宮城の電撃占領や松前城攻略戦、二股峠での縦深包囲防御は、土方の戦術指揮官としての存在感
を現している。
土方が前線で勝っても他の方面を蔵六さんに抜かれると思う。
大鳥圭介は、戦の指揮はあまりうまくなかったが、部下の将兵からは人気があったそうだ。
人徳なのかねえ。
土方始め脱走後の幕軍指揮官はせいぜい2千名レベルを指揮したに過ぎない。
上で問題になったのは、もっと上のレベルの問題。
幕末の軍人登用は知識偏重、結果学者肌が多い。
西郷や土方も洋式兵法を長年勉強した訳ではないが優秀な指揮官。
幕府歩兵隊にはマジでNKVDが必要だと思う。見廻組に督戦させろ。
>>240 土方がもし師団規模の兵力を指揮していたら・・というIF本があったな昔。
ブリュネの「ナポレオン3世が師団長に迎え入れるであろう、類まれな軍事センス」という言葉からの検証だったかな。
河合継之介に奥羽越同盟軍と伝習隊率いさせろ。東北諸藩がそれを
拒否するようであれば、勝ち目など始めからない。
>>242 鳥羽での歩兵隊は善戦したぞ。
問題は彼らを大隊単位で指揮する人間が、
古今を通じて陣形の基本である鶴翼の陣すらまともに組めない官僚だったこと。
ご先祖様の名折れじゃなぁ。ご先祖様だとどんな作戦を立てるのだろうか・・。ケケ中タン。
>>244 >>247 どうでもいいが、河合じゃねえ、河井だ。
何はともあれ、列藩同盟は寄り合い所帯なので、
誰に率いらせろという以前に、統一的な指揮系統を史実以上に整備しないと、
何やっても最終的勝利などおぼつかん。
>>238 そうだ、逆転ホームラン。村田蔵六に幕府軍を率いさせればいいんだよ。
大鳥圭介とは適塾の同門、
まかり間違えば蔵六が幕府軍をひきいた可能性もないわけじゃない。
孝明天皇を守るのが一番楽じゃね?
>>244 仙台ではそれと同じ話が出て反対されたからな
(河井じゃなく土方だったけど)
やっぱり最後は組織の問題に行くのか。
>>226 フランス自身がシャスポー銃の教練は1869年からしか出来なかったんだが…
スナイドルの教範は翻訳されてるが、スナイドルの教範ではボルトアクション
の操作方法は判らないと思うが?だいたい伝習隊が受けた教育って軽歩兵戦術だ
と聞いたけど?シャスポーは戦列歩兵の銃。
>>251 土方の場合、農民出身ってこともあったんではないかと思う。
>>251 例えば、河井も
「同盟全体の勝利のために長岡は放置してこっちに兵隊まわして」
なんて言われたら激怒するだろうな
>>253 地方における民政権と軍事権を分割してくれ!って話だな。
要するに版籍奉還・廃藩置県の奔りみたいなもんだな。
どの途、ある程度集権化された軍権が確立されていないと、
適宜適切な軍事行動は困難だと思う。
つまりは、諸藩連合の上に連合政府を置き、全体を見渡す統括者をおかないとな。
いちおう、同盟の総督府は置かれていたわけだけど、
史実よりも強力な統帥権が必要だったんじゃないかな。
しかし、実際にはそんな政治的な基盤はないわけだ。
官軍だって、薩長土肥以外は、寄り合い所帯だったわけだけど、
少なくとも比較的に組織が強固な薩長土肥の枢軸があったわけで。
名前が出ている河井にしたって、実現性はともかくとして、
当初は長岡藩の局外武装中立を狙っていたわけなんで、
同盟の寄り合い所帯性を象徴してるわけだろうしw
家茂死去、孝明帝死去、開陽沈没と幕府方には不運も多いね。
第2次長州征伐も家茂死去が無ければ総崩れにはならなかった、特に小倉口。
広島口、小倉口とも勝ち負けもしない膠着状態だったろうし、大阪在陣の幕府軍
も多かったので増援をだせば形勢も変わった。
開陽沈没は不運じゃなくて迂闊だっただけだと思うが
>>252 歩兵操典と銃の取扱説明書は別。
操典が確立されていなくても維新で使用された銃は多々。
敢えて江差沖に出撃する必要があったのかどうか?
陸兵に比べて活躍の舞台が少なかった水上部隊が手柄欲しさに出撃を主張したと
それに開陽丸が沈没した11月15日は新暦では12月28日で真冬だ
この季節の渡島半島や青森では暴風は別に珍しくもなんともない
雨はないけど雪が降るしね
吹雪のほうがキツイだろうけど
>>260 君は幕末の教範見たことあるか?銃の操作方法が載っているんだよ。
要は銃の取説と歩兵操典が一体化してるの
ついでに言うとシャープスやスペンサー、ウィンチェスターは軍用銃の歴史
より狩猟銃としての歴史の方が長いんだよ。つまり売りにきた人物が操作方
法を知っている。ところがシャスポーは売った人物が操作方法を知らないん
だよ。無論、弾薬の作り方も知らない。軍事顧問団は騎兵と砲兵の人ばかり
なんだし。
銃は多々というがどんな変わった銃があったかな?
>>257 家茂や孝明天皇が存命して、第二次長州征伐が続行されれば薩摩軍が
背後を突いてくるかもよ>小倉口
それに幕府の戦費は底をついてたから、撤退の時期は大して変わらんだろう。
265 :
名無し三等兵:04/12/22 14:51:48 ID:2OC1Qnjg
>>169 初代台湾総督として叛乱討伐作戦中に
マラリアにより戦地にて病死されました・・・。
北白川宮の病死は表向きで、実はピストル自殺したとの説もある。ちなみに彼は
ドイツ留学中に貴族の令嬢と婚約したが、岩倉具視の説得により、婚約を破棄している。
>>263 あんたこそ見てきたような事言うな 藁
シャスポー銃は政府間取引、それ以外は雑多な商人が売り込んだだけで、その商人が
その銃で狩猟してた訳ないだろ。
歩兵操典が無ければ小銃が使えないなんてあり得んだろ、ゲリラや現地住民、鹵獲銃
も使用されてるだろ。
>>265 そしてその御子息夫妻は大正年間にパリで交通事故死して断絶・・・(涙
>267
その息子は演習中に飛行機が落ちてきて名誉の戦死。
>>257 孝明帝に関しては、当時から現在に至るまで、毒殺説が絶えなかったりするわけだが。
>>264 Ifの世界で言い合いしてもしょうがないが、勅命に逆らってまで薩摩が前面的に
参戦するかは疑問で、孝明帝死去も含め朝廷を牛耳れるようにならなければ、薩摩
が倒幕を前面に出す事はないでしょ。
少なくとも家茂死去で各藩が離陣したり、動かなくなるよりは幕府の立場は好転。
その後は仏からの600万ドル借款が肝。
しかし幕府がフランスの援助で存命したならば、
日本は殖民地化一直線だろうね。。。。
なんだか禍福はあざなえる縄の如し、か。
フランスから借款したぐらいで植民地にはならんだろ。
フランス自身が70年には普仏戦争に負けるし。
273 :
↑:04/12/22 23:29:29 ID:2OC1Qnjg
確か、慶喜はフランスからの援助を断ったと思ったが。援助を受けたら軍事介入させる
口実を与えることを恐れたのでは?
慶喜が、政権を投げ出す形で日本という国家の経営陣の総入れ替えをやったと言える訳で。
600万ドル借款は正式に申し込んでいるが、仏万博への薩摩の参加により
徳川幕府の日本国代表としての立場に疑問がでて、仏側で没にした。
しかし、肝心のフランス本国はプロイセン軍に蹂躙されるよ。
フランスから借款を取れるだけ取って、普仏戦争で踏み倒す…と。
完全な後知恵だけどね。
>>275 踏み倒すと信用失うよ。
そうすっと条約改正も難しくなんない?
後知恵ならもう一発。
薩幕開戦の直接の原因は過激派による江戸でのテロだろ?
なら同じ手を使う。浪士隊からなる特殊部隊(←絶対に名乗らない。どこの
藩に所属するかなどの証拠も一切持たない)を結成して過激派志士の摘発、
薩摩屋敷へのテロを行う。庄内藩や幕兵たちは市内警備に徹させる。
>>275 さすがに当時の日本と新生ドイツ帝国ではフランス借款踏み潰せるほど大きくはないな
ビスマルクも普仏戦争後、徹底してフランス孤立化政策とって均衡とってたぐらいだし
>>277 それでで慶喜には何を期待しているの?
薩摩が暴発したところで政治的に巻き返してからじゃないと意味がないよ
まぁ、いろいろ検証してくと幕府側(特に慶喜)が負けて仕方ない感じだ。
伝習隊といい、幕府歩兵隊といい、あらが目立つ。
つーか、そうでなけりゃ薩長が勝つわけないんだがね。
「戦国時代装備の幕軍が、近代装備の薩長軍に一方的に押され負けました」
という今までの教科書的見解を直せればOKじゃね?
幕府財政健全化、幕府歩兵隊の訓練、上級指揮官の養成、フランス軍事
顧問団による教育、情勢の沈静化などにもう2年使えれば随分違ったかも。
開戦時期がちと早すぎた。
>>279 政治ゲームが好きなのは慶喜。
多数の藩が日和見状態の中で実力誇示が必要な時期にきていたんだよ、慶応3年
には。
主力正規軍が農民・町民主体の近代軍になったのは幕軍ぐらいだろ。
反面、直参の武士が使い物にならなかったということもあるが。
奇兵隊って主力正規軍?
>>286 長州藩の軍制の中に組み込まれてるんだから、正規軍みたいなもんだろ。
少なくとも、直参にろくなのがいないから、仕方なく百姓町人主隊の歩兵隊を作った幕府より、
苦役に慣れてる百姓の方が兵士向きだからと言う積極的な理由で、百姓町人を集めた長州の方が、
軍制改革の点では何歩も先を行っていたと思う。
>>287 まあ、高杉晋作のクーデター政権だからねえ、あの頃の長州は。
その辺の市役所職員が兵役に耐えれると思う?
そういうこと。
エピオピア公務員>>>>イタリア正規歩兵
>>290 をを!公務員軍団!エチオピアの奇跡!エチオピア土○軍読みたい!
19世紀ごろまでは常備軍の数は極端に少なく、有事には一般徴集兵を数ヶ月の
訓練で仕立て上げた。
また植民地軍も現地人を徴用し同様。
重要なのは士官教育と兵卒教育のマニュアル。
薩摩や長州はペリー来航以前から近代軍の育成を始めてなかったっけ?
幕府もやろうとはしたが、保守派に抵抗され骨抜きにされたとか。
>>293 薩摩はペリー以前から軍制の近代化を進めていたが、藩主島津斉彬の急死により頓挫。
次の藩主の父として、実権を握っていた島津久光が保守的だったため、
軍は再び前近代的なものに戻された。
薩英戦争の結果、やっぱこれじゃだめだと言うことになって、再び近代化路線へ。
長州の軍制改革も、いわゆる「正義派」が藩の実権を握ってからの話だから、
ペリー来航からずいぶん後。
幕府歩兵隊の敗因はやはり内部の問題だったか。
あと諸藩軍の連携のなさもあるな。
>>295 幕閣に人材が無かった。
唯一小栗ぐらいだが所詮、勘定奉行、また能吏タイプで政治向きじゃないしね。
さらに不運なのはその中で、裏切りもの勝がのし上ってしまった事。
津軽藩が孤立したとき、武器商人の大倉喜八郎が船に武器を山ほど
積んで幕府の哨戒を抜けて届けたとあるが・・・
この人、上野の山に彰義隊が立て篭もったときに拉致られたり
こういう武器商人がいたんだね〜
高島秋帆について語ってください
「高島平」という地名の元になった人。いじょ。
長崎の町年寄兼鉄砲方
韮山代官の江川太郎左衛門に砲術を教えたんだったか
江川太郎左衛門
・「気を付け」、「休め」、「前へならえ」などの軍隊用語を考えた人。
・パンを日本で初めて作った人。『パン祖』
・韮山笠を作った人。
高島秋帆=洋本は読めたが空気が読めなくてタイーホされた人
上野介保守でござる
吉村昭が朝日新聞で「彰義隊」というタイトルの小説を連載しているよ
そういや、母方の菩提寺に、官軍(って言い方は個人的には嫌いなんだが)の砲弾ってのが飾ってあったな。
今度、法事の時にじっくり見てみよう。
そういや“新政府軍”なんて言い方、最近聞かないね。
>>172 東京都墨田区の梅若公園。
晩年すんでたとか。
佐幕、新政府の叩き上げで実戦指揮官として優秀だったのは
土方、立見、板垣、山田、野津あたり?
河井はどうなんだろ?
311 :
名無し三等兵:04/12/31 02:08:09 ID:MAMiPMeE
>310
土方は長生きしてもっと経験を積んでいればいい上級指揮官になれたと思う。
野津か立見くらいにはなれたんじゃないだろうか。
基礎教育さえあれば、後はセンスと胆力なんだと思うんだわ、この頃の野戦指揮官は。
ちょっと時代は戻るけど、ナポレオンの元帥達はそんな奴らばかりだった。
土方はうまくするとネイやランヌ、ウディノ級の優秀な軍団指揮官になったろう。
案外ダヴーに近づけるかも知れない。性格似てそうだし(?)
立見は桑名の家老筋の子だろう、叩き上げではないわな。
土方には京都で人斬りなんぞやらせずに早くから幕府歩兵隊の
士官学校へ行かせるべきだった。
ここでのたたき上げとは士官学校とかの教育を受けていないと言うことでは?
>>314 身分制度の壁がある当時、百姓上がりの土方が名を挙げる道なんて、人斬りしかなかっただろ。
もし、土方が存命で、日露戦で戦闘指揮を取っていたらどうなるかね?
ここでいう戦闘指揮権は軍団クラスね。
旅順で乃木以下の采配しか出来ず更迭。
前線に出て戦死
>317
齢70近く・・・。
明治27.8年戦役は知らんが
この時期ならとっとと予備役編入
梅沢旅団に紛れ込んでそうだw
>>320 判らんぞ。榎本武揚が現役復帰してたりするからな、日露で。
武勲を上げられずに、己の衰えを悟りそうだ(それはそれで悲しい)
>>310 河井の場合は、軍事のたたき上げではなく、
内政家として遊学し、藩政改革に大貢献して、
下級の勘定方から、執政(筆頭家老)に成り上がってる。
執政ともなれば、当然に軍備そのほかにも目をやることになるし、
いざ戦争で指揮を取らせてみれば、目覚しい活躍もし、
軍事的なセンスも当時としては一流だったんだが・・・。
上級官僚として登用したほうが面白いかもな。
(まあ、絶対に外交官向きじゃあないが)。
大久保がみずから乗り込んだ台湾出兵処理での交渉のように、清国や朝鮮相手なら
河井のようなやつが向いてそうな気もする。
327 :
名無し三等兵:05/01/03 17:46:46 ID:t08P7/Nh
戊辰戦争開戦記念日
>>327 西南戦争で、薩摩軍本隊が鹿児島から出撃した日でもある(新暦2月15日)
ソースは日テレ時代劇
329 :
名無し三等兵:05/01/04 17:43:06 ID:Ui8jHkQ0
幕末の段階で軍事の叩き上げっていないでしょ。
殆どは洋学者あがり。
村田経芳はどうよ。
それに洋学者と言っても、剣道で身体と勝負眼を鍛え抜いていたりするから意外に侮れない。
アボルタージュage
>>
331
上がってないよw
きっとガットリングの返り討ちにあったのでは
幕府歩兵隊読み終わった。
要約「旗本氏ね」
言われなくても生きてる奴なんて居ないから
336 :
名無し三等兵:05/01/10 14:24:39 ID:oI8Q3E9X
旗本・御家人2万2千人のうち戦ったのは1割にも満たないだろうね。
大鳥圭介や土方にしても譜代の幕臣じゃないしね。
>>337 洋装の兵隊さんと、和装の士官、それにもちろん和装の野次馬たち……
取り合わせの妙ですね。
蝦夷共和国が存続していたら……フランスみたいな共和制の
国になるのかな?
>>339 その前に北海道自体が「北方領土」問題化していそう・・・
1870年代後半には両者は再び全面戦争になるだろうな。
明治政府も自由民権運動を放って置けないだろうし。
保守
幕末の人材であなたが選ぶ師団長は?
織田信長
土方歳三
立見尚文
ドルゴン摂政閣下
政戦両面で有能
師団長じゃもったいないか
酒井玄蕃
林忠崇(海兵)
山川大蔵と佐川勘兵衛は?
>佐川勘兵衛は?
上官と無意味に喧嘩しそうなのでパス
だれでも良いから山県の首級挙げてくれんかのう
Victoriaってゲームやってるとこの辺りの時代が面白そうに感じてくる
私は野口武彦著の「幕府歩兵隊」や中西立太著「日本の軍装」をみて幕府陸軍に興味を持っています。
今一番見たい資料は1937年12月に松竹で封切られた「幕府歩兵隊」という映画を見たいがこれは多分無理だろうなあ。。。
353 :
名無し三等兵:05/02/22 22:44:10 ID:WAb5h3yt
幕府軍最大のライバル板垣退助を取り上げたおすすめの本ありませんか?
もし、今幕府風の名前を護衛艦につけるとしたら?
開陽・富士山・幡竜・朝陽あたりかな?
全部「甲鉄」。
空母「回天」とか見たかったのは漏れだけだろうか。いやその「天」
入ってるし空母むきかなと。
艦載機そっちのけで空母が特攻するわけだ。
362 :
名無し三等兵:2005/03/21(月) 12:46:13 ID:DXNojptX
>>359 「郡上藩凌霜隊」ってのが、その地元民としては嬉しいな。
「郡上凌霜隊
指揮官・朝比奈茂吉。若干17歳の少年に率いられた美濃・郡上藩の
脱走藩士の部隊。佐幕派の中で最新装備で身を固めていた部隊。
江戸屋敷脱走後、関宿を抜けて小山方面に進出し、宇都宮藩を撃滅した。
その後、会津に入り白虎隊と行動を共にした。幕府側で数少ない無敵の軍隊」
・・・地元なのに知らなかったよ。指揮官が17歳という事以外。
そうか、そんなにすごかったのか。
今日、京都の黒谷行って来ました。金戒光明寺。
なんつーかなぁ。丘つーか山全体が「戊辰戦争の墓所」って感じだった。
東海道筋と、その先に連なる京都市街を見下ろしつつ眺めてた夕焼けは
凄く心に残ったです。
告白もできたし。
366 :
名無し三等兵:2005/04/03(日) 12:26:17 ID:5i0tmcpt
ふと思い立って戊辰戦争当時の戦死者を調べてみたんだが、
会津2200名
仙台800~1200名
とかいう幕軍側の総戦死者数に対して、官軍側の損害は少なすぎる気もするな。
指揮官クラスの死傷率高いのに、兵卒の戦死が少ない。
つーか、薩摩と長州の戦争基幹の公的な戦死者数がそれぞれ540名、427名なのに対して、
北越戦争の官軍側戦死者数だけで900名超えてるとする資料もあるんだが……
負けた側が掃討戦で多数の戦死者を出すのは普通だな。
戦時捕虜の概念無かったから、負傷者が止め刺されてしまうことに抗議している
外国人の記録もある。
官軍と言っても薩長だけじゃないよ。
>>367 それは普通なんだけど、薩長以外の戦死者は多くて50名前後(鳥取など)、
北越で戦闘加入した官軍諸藩の戦争期間中の損害見ても北越戦争での戦死者に足りないんだ。
脱走したか水増ししてるかだろ
この当時の戦死報告は、各藩の自己申告。
損害を減らして喧伝してることもありえるけどね。
371 :
名無し三等兵:2005/04/04(月) 13:49:31 ID:yyjOv5Qw
薩長討つべし
by新撰組
372 :
少佐:2005/04/04(月) 13:56:13 ID:9pyXSJsZ
この当時の戦いがほぼ白兵戦オンリーだったことは誰でも解るだろう。
ライフルも先っぽから棒で弾を込めるんだから。
徳川家の武士がいかに鉄砲、大砲はもちろん弓矢、馬術、水泳、行軍、刀槍、
格闘技などの武道を軽視していたかということが幕末戦争で解る。
まあ実際そんなものは何百年も必要無かったのだから当然だがね。
>この当時の戦いがほぼ白兵戦オンリーだったことは誰でも解るだろう。
長州の時山直八、米沢の色部長門守、函館政府の土方歳三はじめ、
戊辰戦争で戦死した主要な将領のほとんどが銃撃による死者である件に関して。
軍備後進国とされた米沢藩でさえ、
開戦時点で2200丁のスナイドル銃やスペンサー騎兵銃で完全武装していた件に関して。
>>372 少佐にマジレスも何だが、戊辰戦争は火力戦だ。
西郷の弟は何死?
西南戦争で戦死した西郷小兵衛か?
彼なら胸部銃創のはず>死因
>>305 遅レススマソ
吉村昭って軍板じゃあんまり興味持たれてないっぽいが人選が好きだなあ
軍人じゃないけど川路聖謨とか読んで好きになった。
>この当時の戦いがほぼ白兵戦オンリーだったことは誰でも解るだろう。
正直に言ってだな・・・・
転げまわるほどワロタ
策条を突っ込んだままの小銃で突き会う戦いが繰り広げられたんだな。
誰ひとり死なない良い戦争だな。まるで鉢巻きをしない騎馬戦みたいだ。
そんな戦いなら俺もやってみたいぞ厨房少佐。