2 :
名無し三等兵:04/11/28 19:41:51 ID:t6qbMiWR
__ , ---- 、
/ `rイ ヽ、_.ィ
ト、___{ ト、{ <
>- }┼⌒ヽ \ \ ヽ
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トr─' 〈 -`  ̄}N ̄ レ┤
{ レ! __...._ _」 |) }
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\ハ メ「
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| ヽ、 _. '"/ |
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/ |_| | 〈 /| \
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//〉 / | | / / \\ 丶
よし、この私ジャミル・
>>2ートが2GETだ。 フリーデン、発進する!
月は出て
>>1るか?
>>3んな良く聞け。明日の夕日は拝めないかもな。
何も考えずには
>>4れ!
巷に雨の降る
>>5とく、我が心にも雨が降る。
ウィッツと
>>6アビィを出せ!
>>7んだと、新連邦軍が・・・
>>8めろ、ガロード!今のお前には無理だ。
ガロード、お前にひさ
>>9を授ける。
>>10べ!ガロード!
11-1000月はいつもそこにある。
http://www.gundam-x.net/
_,,,.--―''''"γ⌒ヽ
,,,,,,,--‐'''´ ∠ Vノ⌒ヽ`''‐-、
,.‐'´ /;;;:;: . . / 弋 ー-、 キ`ヽ、
,.-'´:::/:: /;;;:;: . .. / し `ヽ、ヘ
/::: /::: /1;;;:;: . . / ̄ ̄弋\ `i
/::: / / イ';;;:;: . . ,',.-'二`i、 \`''‐--'´L
r⌒t 一一−-、ゝ、|;;;:;: . . l !l1,.‐' l \`i、 `''--'"´_ |
弋'/ \ l;;;:;: . . l |l,l,,,,__|`i、 入 `''----'" r'
`'i-、r-一、 :|;;;:;: . . !i, -─、l Vヘ`''‐-.....r-'"ノ
l Y:::⌒ヽ ::|;;;:;: . . | ::・:::リ ノ ノ`''‐--/
|::: \::: `i;;;:;: . . l`''--'、 レl';;´;i /; .r'
.l::: :::::: ヽ,.. _|;;;:;: . . || ,, ヽ;i |;;: .|
l::: :::::: ::: ::::l;;;:;: . . | ! "' l;;: . | スレ人口−0%です
1::: :::::: ::: ::::;;;;:;: . . | ! ー-、 /;;: . |
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j::: :::::: ::n ::;;;;:;: . . ..|;::,`''ー-、,__ r´;:;:;:;:;: . |
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>>1 乙鰈。
>前スレ966
THX。
玉音放送が15日正午だから、その日のうちにやったような感じだな。
さすがに翌日1700まで引っ張っては居ないような気がする。
宇垣特攻のことについて今日祖父さんに電話を掛けたら
祖父さん曰く「16日だったと思うが・・・」って
そりゃあんた基地で夕方に酒盛りしながら特攻なんて出来ないけど
「良く日付までは思い出せない」って歴史の生証人として余りにも無責任じゃ・・・
>「16日だったと思うが・・・」
まあ日常が崩壊した直後なんだから細部がクッキリしてるわりに時系列がおかしくなるってのは
よくある話だしな。重ねてありがとう。
>そりゃあんた基地で夕方に酒盛りしながら特攻なんて出来ないけど
パイロットたちが飲んでたんなら15日当日は確かに無理だな。
>>5 なるほど。
>>7の話は以前本で読んでいて、確かに16日の方が自然な気がしていたのですが、
おじいさんの話もそれを裏付けてくれそうですね。
定説は15日ですから、おじいさんも「確か16日だったと思うけれど、
本には15日と書いてあるし」などと思っていたのではないでしょうか?
重ね重ね、貴重なお話、ありがとうございました。
9 :
名無し三等兵:04/12/01 00:38:43 ID:MXDTBsYh
前スレの話だけど、戦史を読み直したら
戦艦扶桑の生存者は0だった・・。
2000人近く乗ってたのに!!!
>>9 実際には生存者は居たと言う話も小耳に挟んだことがあるけど・・・
11 :
名無し三等兵:04/12/01 02:13:41 ID:awlbmeOB
扶桑はレイテで沈んだから、生存者はおらんのだよ。
13 :
名無し三等兵:04/12/01 02:31:37 ID:MXDTBsYh
戦艦「扶桑、山城」は悲惨すぎる・・。
大和と同等に評価されても良いのでは・・。
乗員の皆様に黙祷・・!
小泉さん、来年も参拝をお願いします。
14 :
名無し三等兵:04/12/01 02:34:01 ID:awlbmeOB
扶桑は夜中に沈んだので、比島のどこかに泳ぎ着くのも難しかったと思うが、10名も生存しておるのか。
15 :
名無し三等兵:04/12/01 02:51:02 ID:MXDTBsYh
とてもムゴイ事とは思うが、西村艦隊の生存者がいるなら
次世代に体験談を残して欲しい。
このままでは日本人が日本の歴史を語れなくなる。
うちのじいちゃんは降下猟兵
17 :
名無し三等兵:04/12/01 16:35:41 ID:6jyegca6
102 :大人になった名無しさん :04/07/12 20:36
子供の頃、物置兼車庫の奥に一台の古びた乗用車がおいてあった
ダットサン17型フェートン 祖父ちゃんが海軍少佐任官記念に購入したものだ
自動車なんか高嶺の花の時代 当時の少佐の俸給でも非常に高価な代物だった
祖父ちゃんはスマートな海軍を地で行くようなお洒落な人物だったと聞く
手元に一枚の写真がある
念願の自動車の前で、祖父ちゃんと祖母ちゃん 子供の頃の親父が写っている
濃紺の軍服をパリッと着込み、咥え煙草で微笑んでいるのが祖父ちゃんだ
その祖父ちゃんは昭和19年、フィリピンのスリガオ海峡で戦艦扶桑と共に戦死した
戦艦扶桑は火薬庫引火で大爆発を起こし、艦長以下生存者は全くいなかったそうだ
無論、遺骨などは無く 愛用のカメラや家伝の刀も海の藻屑
残されたのは代えの軍服と短剣 そして例の自動車ぐらいのものだった
戦後、残された自動車は親父の運転で奮闘する
近くの航空基地からドラム缶数本ごと運んできたガソリンを使い
闇市の買出し 親父の仕事 そして家族旅行
本当に家族の足となり長らく走り回った
18 :
名無し三等兵:04/12/01 16:36:44 ID:6jyegca6
103 :大人になった名無しさん :04/07/12 20:37
時は流れ、家族の足の役目は新しく購入したブルーバードに取って代わり
役目を終えたダットサンは、車庫で休眠に入った
俺が小さい頃は既に休眠状態だったが、たまに祖母ちゃんが車庫の外に引き出して手入れを行っていた
俺もよく手伝わされた
働き通しに働いた、傷だらけの車を入念にクロスで磨き上げ エンジンをかけ
そしてその後、祖父ちゃんの思い出を懐かしそうに俺に語るのが常だった
将来俺にこの車を譲るよ、とも言っていた
その時の祖母ちゃんの顔は本当に嬉しそうに見えた
しばらくして祖母ちゃんが亡くなり、車はある好事家へと売られていった
俺は泣き叫んで嫌がったが、結果的にはよかったのだろう
その後その人からも離れ、今はとある自動車博物館へと展示されている
綺麗に手入れされたその車を見に行くたびに、祖母ちゃんの、そして写真の祖父ちゃんの面影が浮かぶ
17型フェートンと言うとTOYOTA博物館か日産の倉庫か?
福山にもあったような・・・
>17型フェートン
コレか
www.mister-k.com/zcar/oldcar_festival/image01/04.jpg
www.neostreet.co.jp/event/031006/031006_02_02.jpg
下は日産に展示されてる車
www.vividgarage.com/cgi-bin/WebObjects/imagef404a01131.woa/wa/image?f998792ba0
確か50kmくらいでカーブ曲がると横転したり、河川敷クラスに荒れたとこ走ると跳ね回ったり
すると評判の車だな。良いところはブレーキだけと
漏れの高校の同級生の爺さんも戦艦陸奥に乗る時に奥さんが運転しやすい車と言うことで
ダットサンの16型を買ってあげたという。
程なく乗艦が沈んで内地勤務になった為、自分が運転する羽目になったと笑いながら話してくれた
戦後GHQに貸したら事故られてハンドルしか戻ってこなかったと笑ってらした
22 :
名無し三等兵:04/12/01 19:05:50 ID:uAhmN7NQ
祖父ではないが、母方の長兄(叔父)の部隊が沖縄に配属になったそうな。
で、陸軍の対空陣地で戦ったみたいなんだが沖縄戦終結直前にふらふら飛んでた
グラマンをよせば良いのに撃墜し、運の悪いことにそいつにお偉いさんの息子が
乗ってたとかで、翌日にはきれいさっぱり吹き飛ばされたらしい。
戦死公報は終戦直後に届き、葬式のときにひっそりと参列していた女性(どうも
叔父の許婚らしい)がとても綺麗だったと叔母が話しておった。
その叔母は叔母で、突如浮上したアメリカ潜水艦から砲撃を受けただの、
グラマンに機関銃で撃たれただの極めつけは、戦後進駐軍が怖くて、
防火用水だかの影に隠れていたら、突然小便をし始め、結婚するまで
ちんぽこの基準値になっていたらしい。
どこまで本当かは解りませんが、その町が潜水艦に砲撃されたのは事実のようです。
>>21 ぽこぽこ簡単に横転するのは、古い型の一人乗りダットサンじゃなかったっけ
試乗遠乗り大会でも横転車が出たらしい
>グラマンをよせば良いのに
200機そこらしか落とされてないのに?(´c_` )
>>24 その内の5機くらいを武藤金義が落としてる訳か。
26 :
名無し三等兵:04/12/03 20:37:51 ID:w/esDbHd
じーちゃんがタナカの38式買ってきた。
年金でンなモノ買うなヴォケ!
で、じいちゃんの感想は?
いい爺ちゃんだw
30 :
名無し三等兵:04/12/04 11:33:12 ID:w8rx3ErR
うちの爺ちゃんもう死んでいないんだけど終戦後、日本に帰って来る時ドサクサ紛れに持ち物全部盗まれて、山本五十六に書いてもらった紙だけ持って帰ってきたらしい。
なんて書いてあるか忘れたけど俺の中では家宝です。
31 :
名無し三等兵:04/12/04 11:46:27 ID:jDm+M0gh
死んだ爺はね、昭和十三年に軍属として南京にいた。あの事件以後に入城。たまに遠い目をして酷い事してたとポツリと言ってたのを思い出す。爺は中華料理に感激だったらしいが。
32 :
名無し三等兵:04/12/04 13:31:43 ID:omViPs5b
誰か過去のスレ貼ってくれませんか?読みたい!おながいします
33 :
名無し三等兵:04/12/05 20:38:12 ID:74RJZBOE
亡くなった祖父がサバン島で抑留されてたときに
書いていた日記を発見。
脱走計画とか立てたりと興味深い内容だった。
ちょっとづつ公開しようかな。
35 :
名無し三等兵:04/12/05 20:43:38 ID:EZ+jUOsO
>27
翁GJ!
37 :
サバン島:04/12/05 21:00:37 ID:???
サバン島へ 6月26日
スマトラ島からべラワン港で英軍からオランダ軍に
我々の身柄は移行された。
港から古い日本の貨物船で一行約300人余りは
船倉へゴタゴタに詰め込まれた。行先はスマトラの北端
サバン島である。
我々は「動く荷物」とという方が適切だった。
赤い顔のオランダ兵に叱咤され、こづかれて、豆ランプの
薄光のする船倉へ押し込められ、途中一回食料の配給があった。
煮た籾の中に白い米粒がのぞいているというほどの凄まじい御飯だった。
これをより分けるにしても方法がなく、それでも食べたい一心から、
長時間かかって此の御飯を始末した。
只、ここで感ずることは、我々に対する取り扱いを100点満点
とすれば英軍は60点程度、オランダ軍は30点という処であろう。
38 :
名無し三等兵:04/12/05 21:10:24 ID:EZ+jUOsO
うおおお。始まったっ!
39 :
サバン島:04/12/05 21:40:36 ID:74RJZBOE
洗礼 6月27日
蒸し暑い船中の輸送も一昼夜で終わり、昼過ぎにサバン島の港に着いた。
中略
椰子林やかつ葉樹の間を縫うて海を左に見ながら、暫くしてさんご礁の
白い肌の向き出た岩山に平行して、三重の鉄条網のはりめぐらされた
ブラックキャンプに到着した。
このキャンプの入り口には十余名の衛兵がいて、日本陸軍用の重機が
正面むいて据え付けられ、青い服を着た衛兵達の白い目が一斉に我々
をにらむ様にして迎えてくれた。
つづく
40 :
サバン島:04/12/05 21:52:36 ID:74RJZBOE
つづき
とその時一人の兵がつかつかと出てきて、先頭にいる小生の前に
立ちふさがり、襟元の階級章に指先をふれ、何か叫んでいるが、
一向に小生には言葉も通ぜぬし、何の意味かも知れなかった。多分
「この日本軍の階級章がほしい。」
位にことと思っていたら突然、本当に突然、彼の右拳がとんで、
小生の下顎にガンと命中した。下唇が腫れて裂け、黒い小豆程の
血の雫が滴り落ちた。余り不意の出来事に言葉もなく、、只反射的に
闘争心がムラムラと湧いて、彼の次の行動に身構え、小生も右足を
ひいて反撃を示す態度をとった。
と、すぐ後方にいたM通訳が飛んできて、小生の両腕を背後から
しっかりと押さえ、なにやら先方の兵に声高に怒鳴り終わると同時に
小生の耳の後ろから
「大尉どの我慢して、我慢して」
と押し殺した苦しそうな声を繰り返しながら、キャンプの門の中へ小生の
体をグングン押して入った。
41 :
サバン島:04/12/05 22:07:04 ID:74RJZBOE
つづき
門に入ってからも小生は全身震え、煮え返るような憤激を抑え
唇から滴り落ちる血を其の儘に、両ほほから伝わり落ちる
口惜涙を、拭いても拭いても、後から後から続いてどうすることも
できなかった。そしてM通訳を通し
「何故このような暴力を振るうのか」
と詰問した。彼らの応えは只
「日本軍への報復だ」
という。
我々は戦犯容疑者として素直に、罪あれば潔く連合軍の裁き
をうけよう、敢て個人の暴力的制裁を蒙る必要はどこにもない
はずだ。過去日本でも同様、我々軍人の独善的行為が、大局を
過って不信を彼らの間に広めた結果と思い合わせ、人種が異なる
とはいえ、人間同士のみにくい争いのくりかえしの姿が、只々砂を
噛む後味の悪さを思わせた。
そして我々は過去日本人の行った事がその人への個人的な報復
としてではなく、広い意味の日本人への報復として、その憎しみを
その個人に代わって我々が受けねばならない共同責任という
運命を負わされていることを知った。
どっかで読んだぞ。
44 :
サバン島:04/12/05 22:45:48 ID:???
このブラックキャンプの構造はトタン張りの急造バラックで平屋造りの
細長い棟添いに、やっと一人が通れるような通路が一本真中を貫き
、両方が出入り口となり、部屋は板敷きにして、その上に
アンペラを敷き畳二枚の広さに三人が割り当てられた。平屋であるのに
丸木を組んで二、三階を作り、各階は人が直立することなど出来ないほど
低く、頭上すれすれには階上の床板があるという具合であった。
これはかつて日本軍が連合軍の捕虜を収容した構造と寸分違わぬもの
とのことであった。
これも報復手段の現われで、卑屈とは言いながらも、彼ら連合軍の日本人に
対する心情をうかがい知ることが出来た。
うちの祖父さん比島沖海戦で西村艦隊下の最上に乗ってたけど、海戦中大破した最上から落とされ近海の島に泳ぎ着いて昭和22年頃復員してきたそうだ。今はもう鬼籍に入ってるけど・・・
西村艦隊下の最上、、、。
父方(陸軍下士官。多分軍曹)
どうやら終戦時には関東軍にいたらしい。その後シベリア送り・・・。
いつ頃帰国したかは不明。
葬式で戦友会の方々が『異国の丘』を歌っていたよ。
母方(海軍少尉)
何かしらの艇長をやっていたらしい。米機に襲撃されて大変だったとのこと。
個人の判断のような気もするが・・・
52 :
名無し三等兵:04/12/09 13:43:06 ID:KQp5KqvG
最上って比島沖で自沈だよな?
54 :
サバン島:04/12/10 00:18:18 ID:XVK1WZbs
首実検 7月4日
今日はキャンプ外の広場に集合せしめられ、オランダ人の首実検をうけた。
丁度ラジオ体操でもやるように各人は広場一杯に広がり、彼らの来るのを
待った。銀色のバスが二台もついて、男女合わせて四十人位のオランダ人
がゾロゾロ悠長な足取りで我々の顔を睨んで廻った。
オランダ人側に知った顔もないが、赤い顔の長身の男や、ふとったずんぐ
りした派手な服を着た中年の女、そして、茶色の目が列をなし或いは、
群れて我々の前をとおり、我々を恨みの篭った目で睨んでいく。
戦犯者の指名はこんなにして行うのか。一方的戦勝国のこの様な滑稽じみた
行為は、地球上に戦争の終わらない限り更に続くことであろう。
そして小生が容疑者の一人に指名され、列中から抽出された。英人なら
ともかく、オランダ側から抽出されるとはどうも腑に落ちないため
M通訳を通じて問い合わせたところ、小生の右耳がつぶれて変形している
由だった。つまり、小生を指名したオランダ人は、日本戦車兵の兵の
耳のつぶれているのを目安としたらしい。
小生の耳のつぶれているのは柔道の為で、当時の階級と勤務場所を述べ、
オランダ人の請う年月には小生は東京に在学中であることを強調したところ
、日の暮れる頃に誤りであることが判明、キャンプへもどされた。
55 :
名無し三等兵:04/12/10 01:37:53 ID:qg7Nn99e
爺さん、終戦時准尉で幹部候補生になるため日本にいたが、それまでは満州や華北にいた。ノモンハンでは伍長で停戦前に徒歩で到着、警備に付く。停戦後、残されたソ連の陣地がコンクリートや鉄で補強されてたのにびっくりする。日本は司令部陣地でも手堀りに木だったから。
56 :
名無し三等兵:04/12/10 10:52:03 ID:yBr6ek8K
>>45 >>52 >>53 最上って比島沖海戦で1艦橋直撃→2首脳陣壊滅→3指揮官のいないまま戦闘継続→4離脱中志摩艦隊の艦と衝突→5味方魚雷にてアボンだよな?
>>45の祖父さんは1か3か4辺りの話か?
>>56 3信号員かなんかが転舵→4a砲術長の指揮で退避中、那智が突っ込んできて衝突
→4bそれでも退避中空襲を受けてだめぽ→5
じゃなかったっけ。
>>56 >>57 整理する
0西村艦隊として米戦艦部隊と交戦
1敵弾が最上艦橋を捉える
2艦首脳部を抹殺
3指揮官がいないまま戦闘を継続するも、態勢を立て直す為に転舵
4萌えながらノロノロと進む最上の脇を那智が通ろうとして衝突、更に米軍の空襲
5味方駆逐艦の手により魚雷処分
以上
>>45の祖父さんが海に落ちたのは2〜3の間か4くらいか
>萌えながらノロノロと進む最上
そんな最上ヤダ(´・ω:;.:...
60 :
58:04/12/11 03:24:18 ID:???
艦にも幸運なのと不運なのがある。
だからと言って乗員の責任ではないと思うよ。
そらそうよ
三笠の火薬庫でロウソクで酒盛りした乗員にも責任はry
原因不明と言われている。
当時の技術力では精査は不可能だろ。
当時の技術力は北朝鮮レベルだったし。
>>58 お前のPCは もえる 変換一発目 萌える になっとるのかッ!
66 :
58:04/12/13 03:16:53 ID:???
1萌え
2燃え
3もえ
4モエ
朝日に萌える・・・と以前使ったままで自爆
67 :
名無し三等兵:04/12/13 19:38:45 ID:/DTBJeh5
イラク戦争体験を教えて。
>67
§ | ちょ、ちょっと待て! |
§ \_ ________/
,fニニヽ )ノ
/:::::ヽ ヾ、
|l' ̄ ̄ ̄'l| ヾ、
{-- (,,゚∀゚) } ___ヾ___
|:ニ:(ノ:二:二|) @___))___)
{______________} 《
∪∪ 》 ∧_∧
(`・ω・´ ) 教えて進ぜよう
ヽと ヽ
(⌒) )
(_)
うちの爺さんは父方は戦争行って無くて,母方は南方で耳が遠くなって帰ってきた.
父方の爺さんのいとこは,大和の艦長だったらしいが.えらい違いだ.
>>69 海兵行って職業軍人になったか、普通の職業に就いたかの違いだろ。
別に卑下するようなことではない。
>>70 ああ,スマン.このスレ的にってことなんで.
父方の爺さんは,戦争には行ってないが,北海道の炭坑掘りの技術者で実績ある人なんで,
尊敬してますよ.
現場技術者を軽視してたのも日本の敗因だよな・・。
おれの爺さんは台湾で日本語教師をやっていたが
海軍陸軍ともに人材の宝庫だったと言ってたよ。
以前、知り合った高校生から、自分の祖父の戦歴を調べてほしいと頼まれたことがある。
話と遺品を整理すると、その人は戦地から無事復員し、九十歳前後で無くなったらしい(孫との年齢差を考えると晩婚だったのかも)。
遺品の中には万里の長城で撮った写真やら、色々記章があって、最終的に曹長までなっていたようだ。
そして対米開戦後は中国を離れ、どうもニューギニア戦線に従軍していた模様。調査を進めるにつれ、中国での連隊名等も判明し概要がつかめたので、話はひと段落ついた。
唯一つ、資料にあった部隊名が秘匿名なので、ニューギニアでどの部隊だっのか。それだけがわからなかった。
『祖父が残した資料だとニューギニアでは0000部隊だったようです。でもそんなに危なかったようなことは話してなかったですよ。大したことしてないみたいですから気にしないで下さい。』
そう言っていた彼と会わなくなって数年が経ち、先日、たまたま東部ニューギニア戦線関係の文庫本を読んだ。
そしてそこに、0000部隊の戦歴が書かれているのを発見!その最後に書かれた文字を見て驚いた。
0000部隊 戦死率 97%
>>73 損耗率じゃなくて戦死率かというところがすごい
その戦死者の半分をかるく超える数が飢死/病死だっつうんだから更に泣けるorz
76 :
73:04/12/15 20:41:31 ID:???
感想ありがとうございます。
たしか昭和一桁代に授与された勲記?があったので結構な古参でしょうし、中国での写真ではごつい体躯の方でした。顔も体もその高校生とそっくりで、孫とこんなに似るものか。とも思いました。
ニューギニアで当人がどういう状態だったのかは最早わかりませんし、本人が言ったようにうまいこと立ち回ったのかもしれませんが、いずれにしてもこの3パーセントに含まれているから、彼がいるのか。
と思うと不思議な感覚になりました。
飢餓といえばガダルカナル→インパールという経緯を辿った部隊もあったようですね。
『インパールは艦砲射撃もなく食い物も探せばあった。傷病者の扱いはもう十分経験済みだった。ガ島に比べりゃ大したことなかった。』
という壮絶な感想を持っている体験者もいるようです。
母方の祖父が整備兵をやっていた。
「戦闘機にも爆撃機にもなる飛行機」「キの67は中で立てる」
や「始動車でエンジンをかけるのは命がけ」
という内容の話をしていた。最近はかなり老いてしまったが。
78 :
名無し三等兵:04/12/15 20:58:53 ID:r9wlA2Zj
79 :
名無し三等兵:04/12/17 15:39:07 ID:U1Y4PYeS
昭和16年、呉海兵団入団
航空母艦に戦闘機の整備員として乗船
ラバウル等を転戦、昭和19年陸上勤務の為、フィリピンに上陸
昭和20年6月、マニラにて戦死
うちの爺さんも戦争行ってたけど、詳しい経歴までは良く知らないなぁ。
今更本人に聞くのも気恥ずかしいし、90過ぎてボケ気味だし。
ただ、開戦直後は軍人として満州にいて、そのまま陸軍にいたらしいです。
また、戦後(戦中?)に貰った金杯なるものをとても大事にしていますが、
あれは何なんでしょ?
変な言い方すると参加賞みたいな物なんですかね?
それとも戦争とは全く別の所で貰ったんですかね。
81 :
名無し三等兵:04/12/17 18:07:12 ID:TmeXwSsp
聞くは一時の恥、聞かぬは一生どころか末代までの恥ですよ。
(聞けず終いで末代までの端を被った香具師が言うのですから間違いないw
いきなり聞くのが気恥ずかしいのでしたら
祖父殿の若かりし頃の日常話などをテレビのニュースなどを見ながら
「そういえば何年前の今日はどんな日だったの?」
程度から始めると宜しいですよ。
90歳を過ぎておられる方のそのまた祖父母の代の話なども
昔のことを思い出させるのも呆け防止&回復には宜しいですよ^^
(今のうちに爺さんから金杯とか貰っておくと~(┌┌┌ ´Д`)┘ ウモァー
>>80 >あれは何なんでしょ?
戦中の物だったら、『○○部隊**会戦戦捷記念』とかで
部隊単位で作って配ったり、県とか自治体で作って自治体首長からもらったりしたものじゃないでせうか?
戦後の物なら、『大東亜戦争従軍記章』替りに戦友会で作ったりしたものでせう。
あと、おじい様に「『支那事変従軍記章』とか『満州国国境事変従軍記章』とか持ってない?」とかお尋ねになられると、
堰を切ったようにお話が始まると思いますよw
シベリヤ抑留者だったうちのじいちゃんは、戦後平成になってから
宮沢喜一総理大臣から慰労の銀杯と賞状貰ったから、あるいはその類かもね
母方のじいちゃんが満州で機関銃手やってたらしい。もう鬼籍に入って
しまってるのでようわからんけど満期除隊で帰ってきてて再召集かかる前に
終戦 運の良い人だったみたい
父方のじいちゃんは職人・・・確かプレスの木型職人で召集されなかった
同じく父方のひいじいさんの弟だっけかな青島攻略の時、伝令にでてて
トーチカから撃たれて戦死されたらしい。
父方のばあちゃんは代用教員やってたころ隣の校区の学校がB−29に
爆撃された。ひどいことを・・・
85 :
80:04/12/17 20:58:06 ID:???
81,82氏
そうですね、本人100まで生きるって言ってますけど何が起きるか
わかりませんからね、折りをみて聞いてみたいと思います。
83氏
シベリアに抑留されたと言う話は聞いたことが無いので多分違うかと。
以上、携帯から失礼しました
86 :
名無し三等兵:04/12/21 21:51:37 ID:3cZj4/rr
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/bike/1100014714/ から誘導されてきました
先に断っておきます。かなりの長文&連投をお許し下さい
うちの爺さんからの話
とりあえず秋水に関することから先に
整備兵として各地を転々とした後、上官から高等科で更に勉強して来いと命令
高等科を卒業後、本当は配属部隊が決まっていたのだが
配属されて現地に行く前に航空技術省に呼び出しをされた(他にも一緒に数人呼び出されたらしい)
訳も分からず技術省へ行くと小さな部屋に案内された
で部屋の前で
「中は国家機密なので、ノートを取る事は一切禁止!
情報整理のためのメモ程度ならとっていいが、メモも講習が終ったら部屋を出る前に処分する事
つまり内容は全て今帰る前に暗記する事
ここにいる人間は高等科か大学の技術科を出ているのでそれくらいは当然である
(だから秋水の資料は全く残ってなく関わった開発者の記憶しか手がかりが無いらしい)」
と言われたらしい(爺さんの感想「んなアホな!無茶だろ・・・」)
部屋に入るとロケットエンジンが一台、点火されて物凄い勢いで火を噴いたと
爺さんその光景に感動して秋水にのめりこむ
この時ついでに「こんな戦況だから、専門外の機の整備も『やれ!』と言われた際すぐ出来るようにするように」
と桜花の説明、講習も受けたらしい
(国民には不利な戦況を誤魔化して伝えてたと言われてるが、爺さん達には戦況のヤヴァサは正確に伝えられてたらしい)
秋水の開発目的は、無敵の爆撃機B-29を落とす為
当時B-29は世界最高性能機でそりゃヤヴァかったらしい、本当に無敵だったらしい
無敵の理由はその飛行高度
はっきりいって爆撃機なんて向かえ撃つ方からすれば良いカモ
動きはのろいし、小回りは効かないし…って感じで死亡率も爆撃機乗りが群を抜いて高かったと
戦闘機に狙われたり下からバンバン撃たれると面白いように落ちていくらしい
爆撃機に乗るならまず死ぬと思った方がいいと
しかしB-29だけは別、なぜなら高射砲の射程距離は高度7000〜8000m迄
B-29はその皿に2000m上の高度1万mを悠々と飛んでいく
戦闘機も(無理すれば一時的には上がれるらしいが)その高度まで上がる事が難しく攻撃できない
知っての通り、高度が上がれば上がる程空気は薄くなって気温が下がる
1空気が薄いので燃料を燃やす為の必要量の酸素を得る為、空気の圧縮が必要
2プロペラ機は前方の空気をプロペラで後方に送り出して進むので、高い位置を飛ぶには更なるプロペラの馬力が必要
3気温が低くパイロットが耐え切れない(当時パイロットは電熱器入りのジャケットを纏ってなんとか凌いでたが限度を超して寒すぎる)
の主に三つの理由で10000mなんて高い高度を巡航するなんてできなかった
1は普通にクリアできた・・・しかし空気を圧縮すれば熱を持つ、それが↓で問題に
2に関しては、廃棄ガスを利用して更にタービンを回すシステム(今で言うターボやね)
で対応、ここまでは理論的には簡単でどこの国でも思いついてた(簡単に言えば廃棄ガスの出口に風車つけるだけだし)
しかし、圧縮した空気を更に燃やして出来た排気ガスは数千℃になり、その熱に長時間耐え切れる風車がつくれなかった
熱のせいで数十分〜数時間で風車のプロペラ、ベアリングが溶けてしまうらしい
特にベアリングは(摩擦&圧力も加わるし)すぐボロボロになってココで日本は暗礁に乗り上げてたんだとさ
アメリカはこの熱に耐え切れるベアリング(合金)を開発→B-29に当用
更に世界で始めて完全な気密室を完成しエアコンを入れることで飛行機の中の温度を快適に
(更に気密室のおかげで酸素マスクもつける必要なし)
コレで10000mを巡航することが可能になった
普通の爆撃機なんかは下から撃たれたり戦闘機に目を付けられたりしたら
おっかなくて飛んでいられないのに、B-29は攻撃の届かない遥か上空でコーヒーでも気楽に飲みながら爆撃できたらしい
でもロケットエンジンなら燃料の爆発をそのまま水力に変えるし、燃やす為の酸素も液体酸素を使うので
空気薄くても関係なし、余裕で超高度まで飛行できる
そしてもう一つの強みはスピード。普通の飛行機でも一時的に奈良B-29を射程に捉えることが出来るが
普通の戦闘機がB-29の高度まで上がるのにはゆうに15分以上はかかるそうな…
日本軍の致命的な弱点としてレーダーが弱かったものだから、
B-29の襲来をキャッチしてから今までの戦闘機で向かったのではとても間に合わなかった
しかし秋水なら(理論上)3分30秒で高度10000mまで上がる事が出来るので
相手の無線を解読して作戦を読まなくても、レーダーでB-29を確認してから出撃すれば間にあうという狙いだった
大量の燃料を消費するので秋水が攻撃できるチャンスは2回。
地上から一気に上がっていってまず第一撃を浴びせる、
グライダーのように滑空&降下してスピードと勢いをつけもう一度急上昇し第ニ撃
そして燃料使い切ったら滑空して帰ってくる、(離陸の際タイヤを切り落とすので胴下につけたソリで着陸)
一撃 ニ撃
☆ ☆
/ \_ノ \
/ \
離陸 着陸
秋水の図面は潜水艦で運ばれてきたのだが、実は一度目は失敗しているらしい
技術協定でドイツからUボートで届けられるはずの図面が無線を解読されてUボートごと撃沈
再度、今度は日本の潜水艦で日本から取りに行ったらしい
しかし手に入ったのは見にくい写真だったため、そこから仕組みを読み取るのに苦労したらしい
爺さんはエンジン担当だったと。
ロケットエンジンを扱う際噴射口に少しでも(唾が飛ぶなど)不純物が混じれば
「不純物が爆発して近くにいる人間の命の保障は無い」とか実際の整備中の事故例を見せられたりしてビビってたんだと
ただもし秋水が完成すれば全員に金糸勲章を約束されていた(←コレはマジで凄い事らしい)ので一同はりきっていたそうな
しかし、テスト飛行一回目は知っての通り失敗、二回目のテスト飛行の2日前に終戦ということで金糸勲章はもらえず
爺さん「後、せめて戦争が終るのが3日遅ければなぁ…」とか問題発言を出しまくってた
以下はあんまり秋水に関係ない爺さんの戦争話で個人的に面白かった(なんて言っちゃ罰当たりなんだろうが)所をセレクション
うちの爺さんの非国民振りがうかがえる
兵役の年齢が来て、まずは皆と同じで雑兵としてフィリピンの方へ行く
雑兵の仕事は給仕とか(専門的じゃない)簡単な機械類の整備とか…
最初は皆と同様パイロットに憧れてたので、パイロット願書を出したのだが
いたずら心で無線室を除いたところ…
「○号機!被弾酷し、飛行継続不可!特攻します!」とか…そんな無線ばかり入ってきて
「やべ…パイロットなんて絶対ならねー!」と願書を書き直し整備兵に希望を書き直した
整備学校をでて整備兵として内地で色々と働いてると各部隊から1〜2人づつ整備兵が呼び出された
で何だ?と思って行ったら上官に「高等科へ行って更に上の勉強をしてこいと」
悩んだ末、高等科で勉強をもう一度することにした爺さん、部隊を抜けてしばらく高等科へ行かず
親戚の家を転々としてさぼってたらしい(一緒に高等科へ行く事になった仲間も一緒に)。
で、流石にこれ以上はヤヴァイと高等科へ行く、
その際「○×日に部隊を出てこちらへ向かったはずだが何故こんなに遅かったんだ?」と聞かれ
一同口をそろえて「戦況が思わしくなく、連絡線が危険で出向できずにいました!」と…
まぁ怪しまれてはいたが、結局うまく騙せたのかお咎め無しで高等科へ入学
選考は小型戦闘機(特に紫電・改)にしたとの事
理由は爆撃機を選考に取ると、整備兵も一緒に爆撃機に乗せられてしまうから…だと
で卒業してしばらくまた働いた後、(戦艦を改造した)航空母艦・信濃に配属が決定した爺さん
「いよいよ船に乗せられちまうのか…」と死を覚悟した時
信濃が撃沈されるニュースが届く、そして爺さん大喜びしたと
そしてしばらくして航空技術省から命令が来て秋水の開発に取りかかったらしい
非バイク乗り勘違いスレ394殿。
貴重なお話、感謝です。
貴重な体験談ですね。興味深いです。
パイロットの犬塚大尉のあだ名は『ワンちゃん』だったとか、
隊内に神道系の宗教と絡んでるのがいて、巫女が踊ったり、ホーリーネームつけたりしてたとか、
そんなの聞いたことあるんですが、その辺りはご存知無かったですか?
あと、もし、ご存命なら、先日、秋水の飛行中の写真(当時の盗み撮り)が、某誌に掲載されましたから、お見せすると喜ばれると思います。
96 :
名無し三等兵:04/12/23 00:44:16 ID:crlCUaZT
おじいさん生きてるといろんな話聞けていいですね。
うちの母方のおじいさん等は兵役終えて帰ってきて、又すぐ志願して
兵隊になりシナで負傷、大阪の野戦病院で死亡。
家には「賜・大東亜戦争開戦記念」と言う杯があります。
祖父は6年ほど前に死んだからそれまでに聞いた話を。
陸軍で最終階級は中尉、休憩中に爆撃を食らって右耳が聞こえなくなったそうです。
機関銃で戦闘機を数機撃墜で表彰してもらったとよく自慢してたのを覚えてます。
その表彰状も去年の改築でどこにいったのかはわかりませんが。
どこで戦ったかは聞いていませんが話の内容から恐らく太平洋側だと思います。
祖父も祖母も戦後産まれなんだけど、祖母は貧乏子沢山でまともに平仮名もかけず、父親は早死にしたらしい。
祖父にいたっては読み書きがまったくできず、どこで育ったのかすらはっきりしない。捨て子?
こんな家庭だから、曽祖父のことについては全く分かりません。
秋水か・・・
事故を起こすと飛行場ごとぶっ飛ばすから、
完成したとしてもますます防空能力が麻痺する気が・・・
101 :
名無し三等兵:04/12/23 14:08:13 ID:az9gMM5Z
オレの爺ちゃんの戦歴「かなりうろ覚え」
1940年召集、海兵団に入隊後海防艦に配属占領後のジャワへ。
海防艦勤務時に敵に襲われる事数回で、一度は夜間に敵潜水艦の魚雷攻撃に
より船首部分分断、就寝時間の為、船首部分の船室には水兵17人程が取り残され
たまま船首部分が沈没する〈水兵はフカに襲われたとの事〉。
その後応急修理を受けた後に帰港。
その他にもB24による爆撃を受けたことがあると言ってました。
爆撃が行われたのは昼間で、敵の爆弾を避ける為必死に回避行動をとる。
爺ちゃん「とにかくぐるんぐるん回るんだよ。爆弾さけるためにな。」
てきは爆弾四発?投下するも被弾せず、嫌がらせに銃撃を浴びせて帰って行った。
その後ジャワで終戦を迎える。「海軍は食料たくさんあったけど、陸軍さんは可哀想
だった」と語る。捕虜生活については一度も語らなかった。
102 :
名無し三等兵:04/12/23 14:24:20 ID:GXq+dAo1
じいさんでなく伯父でごめん。簡単に書くと、、、
陸軍士官学校卒業後、機関銃小隊小隊長を務め、主に満州にて軍務につく。
丁度ノモンハンの少し前、支那人の仕掛けた地雷を踏み負傷。
内地の陸軍病院に搬送され療養中に終戦。
もしそのまま戦っていれば、伯父の部隊はインパール作戦に突入し全滅していた。
伯父は現在自分の最も尊敬する人物なのであります。
うちのじいちゃんあまりにも好運なんだけど。1945年のとある日に赤紙が来て床屋に髪剃りに行って帰ってきたらラジオから玉音放送が流れててそのまま終戦を迎えたんだと
>>102 人間万事が塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし、だねぇ。
>>102 俺も尊敬するのが伯父。
太平洋戦争開戦前に志願して予科練へ。
ゼロ戦、紫電、紫電改と乗機を替え本土防空戦で奮闘。
戦傷数回、両手で2本の指、右の耳たぶを失うも墜落・事故
なしで終戦まで生き抜いた。
バリバリの戦士っぽいが、予科練志願の理由が
「七つボタンは男前が数枚上乗せ」=「女にもてる」(w
年齢的にはすでにじいさまだが、先に胃癌で入院するとき
病院を「あそこは自前の看護学校を持っていて、若いのが
多い」という理由で決めた。
ファンキーなじいさまです。
>107
予科練の七つボタンて17年の春からじゃなかったんじゃ。
病院の待合室でテレビを見てるとファル−ジャ攻防のニュ−スが。
アパッチが機銃を掃射する映像を見て隣に居た爺さんが
「アメリカ軍の飛行機の弾はこんなでっかいんだよ!!、P-38の弾なんか凄かった
よな」などと語りはじめ「やつら、こっちに迎撃戦闘機が無いのをいいことに悠々と
飛んできちゃ弾、撃ち込みやがる。仲間がよせばいいのに小銃持って撃つんだけど返り討ちに
あって何人もやられた」と言ってた。もっと突っ込んで聞けばよかった。
>>108 7.7mm弾しか見たことなかったんだろうな・・・
110 :
名無し三等兵:04/12/26 19:19:18 ID:ZcvnovP+
白兵戦の真っ最中に銃剣がポッキリしたそうな。^_^;)
戦時中事故死したという祖父の写真を探してたら、押入れから写真が出てきた。
まだ二十代そこそこだろうが、どこか遠くを見据えているような目つきであった。
その水兵帽に彩られた文字は
「軍艦陸奥」
・・・確かに事故死だが・・・
おれのひいじいさんろこうきょうでたちしょんしてたらやう゛ぁくなっちゃっったって
うちのじーちゃん年金でタナカの38式歩兵銃を買ってきたんだが力まかせにスライドさせて全損。
「昔の38式はこんなんじゃない!」って毎日怒ってる。
>>113 それは
>>27の続報か?
いくらダイキャスト製とはいえ、スライド引いて全損か。恐ろしい筋力だなー。
>>115 スライドっつーかボルトか。いやすまん。
いや遊底を操作する取っ手なら操桿か?くそー20年前に読んだGunがいま手元にあれば。
そのうち「銃剣格闘したら銃床が折れた」とか言いだしかねんな。
>>115 操作する棒みたいな部分だったら、槓桿で合ってます。
120 :
114:04/12/28 22:15:57 ID:???
>>118 おお!なんとほとんど記憶に無いにも関わらずコウカンと普通に読めた!この字だ間違いない!
すっきりした。深く感謝する。 −>
>>118 にしても人間の記憶って不思議、ってゆーか三つ子の魂なんとやら。
死んだ祖父は画家だった
10年前に倒れるまで絵を描き、その絵のいくつかは美術館に飾られている
1944年、祖父は、輸送船の乗組員として招集され、
戦争が終わった時にはソ連軍によってシベリアに抑留され、苛酷な強制労働の末、
多くの日本人と共にシベリアの土の中、という末路が確定しかけていたのですが
画家ということがわかり、将校の肖像画などを描かされることになり、
病弱な体の祖父でもなんとかいきのこるが出来たそうです
芸は身を助ける、という意味が痛いほどわかった
うちのジイ(農家の次男坊)の軍歴(最終階級は伍長)
昭和19年2月に兄(長男)が中央ビルマ・ミートキーナ飛行場攻防戦で爆撃をうけ戦死。
当時19歳のジイは、家族が「まだ若い男が家にいるのに出征しないのはどうか」という近所の悪口に耐えられず、
召集がかかってないのに陸軍に志願入隊(母親であるひいばあちゃんは泣いてとめたそうだが無視した)。
地元の歩兵第三三連隊で教練を受ける。その際、桑名でB-29の空襲を受け、目の前で戦友に焼夷弾が直撃するのを目撃(もちろん即死)。
2,3ヶ月、山奥で民間軍事教練の教官をやらされたあと、陸軍船舶工兵として伊勢湾内で哨戒艇(海防艦?)乗り組み。
昭和19年10月〜20年5月まで紀伊半島周辺で哨戒活動。一度だけP-38二機の襲撃をうけた。
哨戒艇の対空兵装は7.7mm単装機銃2挺のみ。しかも弾薬不足で3発ずつの連射しか艇長に許されていなかった。
1機が艦首方向から緩降下してくる間に、もう1機が艦尾方向から低空で機銃掃射してきた。
船体は穴だらけになり、乗員も32名中4名が戦死、10人ほどが負傷したが、港にたどり着けたらしい(ジイは機銃手のくせに無傷)。
その哨戒艇はもう使い物にならないので、本土決戦の水際阻止戦闘部隊に編入させられる。
背中に10kgの爆薬を背負い、海岸の1人用タコツボに潜む→敵戦車が上陸して、直上を通過したら立ち上がる→
上に突き出ている雷管が戦車の底部に当たりあぼーん・・・という訓練を終戦までさせられた。
終戦時、私的制裁しまくりの小隊軍曹に小隊員数人でお返し(半殺し)、さらに需品倉庫の警備兵を懐柔して食料を強奪、
リュックをパンパンにして復員。その際に知らない少尉の軍刀、拳銃もいただいたそうな。
軍刀は未だに残っていて見せてもらったが、拳銃は、復員の列車内で警察(憲兵?)の検査があったから窓から捨てた。
そんなジイは来年で80歳。まだ1人で車にも乗るし、俺の電動エアガンを貸したら、山の猿や鹿を撃っている。
まだまだ元気ではあるが最近老いが急に進んでる気がする。まだまだ話を聞かせて欲しいものだ。
長文スマソ
自分の爺さんでも戦時中の体験でもないんだが、
今日バイト先の郵便局で、最長老格の職員たちが
休憩中にTVの津波の映像を見ながら
「わやになっとるなー、原爆が落ちた頃のことを思い出すのー」と言っていた。
「ABCCに体を検査されて、帰りにノート貰って喜んどったが、
要はていの良いモルモットじゃ(苦笑」と。
はだしのゲンを思い出した。
>>123 じ、地味に激しいな。恐れ入る。まさに長老。
>>109 そういえば友人のお父さんであっておじいさんでないのは恐縮だが。
その人は終戦時に小学生だったらしいが、数年前に物置を掃除していたと
思ったら、息子(=わしの友人)に緑青吹いてるカラ薬莢を持ってきて見せてくれたそうな。
曰く、終戦が近いある日、代々木上原だか下北沢だか明大前だか、どっかそのへん
の駅の南側の広場で、停車中の電車を見ていたら、わーきゃーいう悲鳴が聞こえて
きたのでハッとしてそちらを見たら、低空で紺色の戦闘機がやってきていたので
慌てて伏せた、と。
そしたら体の回りにバラバラと何か重いものが落ちてきた音がした。爆音が遠ざかった
ので顔をあげたら薬莢が散らばっていたので、数個ひろって持って帰った。
それがコレ、だそうで。どうやら機銃掃射されたらしい。
その話をしてくれた本人は190cmくらいの奴で手もデカいが、「俺の中指より長かったぞ。
驚いた。」と言っていた。まあたぶん12.7mmの薬莢だったんでしょう。
ちなみにそのお父さんも185cmくらいある昔なら偉丈夫って感じの堂々とした人。
125 :
名無し三等兵:04/12/29 11:50:05 ID:SJLnSQ+a
おれのじいさんの兄貴が、満州から沖縄に向かう船に乗っていてアメリカの
潜水艦に雷撃されてあぼーんしたらしいが、なんて言う船に、乗っていたのか
わからん。
>>124 自分の場合も自分の爺さんの話ではないのだが、近所の爺さんはあの
「戦艦大和」の乗組員であった。のちに重巡(艦名不明)に転属になって
沖縄水上特攻に参加せずにすみ、戦争を生き残れたようだ。
自分が消防のころお話を聞く機会が一度だけあったのだが、なにせ消防の事
艦の大きさについてしか聞けなかった。
「大きかったんですか?」当たり前だヴォケ!!
もう数年前にお亡くなりになっているので悔やまれる。今なら聞きたい事が
山ほどあるのだが。
ちなみにその爺さんは戦後製材、建築会社を興して地元の名士となっている。
若いころから優秀な人物だったのだろう。
家のジィは危うく神風に志願しそうになった。しかも、自分から…
うちの家系はあまり戦争に行ってないなぁ。
伯父2人が出征して、1人は中支の輜重部隊(?)で終戦。
物資がいっぱいあったけど持って帰れなかったと残念そうに話していた。(w
もう1人は、満州から南方へ部隊が移動、ラバウル周辺の島の高射砲部隊にいたようだ。
ご存じのように、カエル跳びで戦場にならず無事帰還。
「初めの頃のラバウルのパイロットは腕が本当によかった。次々離陸するところは見事だった」と言っていた。
129 :
名無し三等兵:04/12/30 15:05:08 ID:LsF3s4ZP
>>126 当時、国内に残っていた重巡は利根、青葉か、祖父さん、生き残っただけでもすげぇな。
130 :
名無し三等兵:04/12/30 15:10:37 ID:8NdesC20
婆ちゃんの弟が予科練に志願したな。
胸囲が一cm不足だったそうだ。
131 :
前線帰り:04/12/30 15:19:22 ID:h+uozwLp
嫁の親父さんはインパール帰りでした。
早稲田を出てせっかく大企業に
就職内定していたのに就職する前に
学徒動員でひっぱられ
そのまま地獄のインパールへ。
命からがら帰ってきたが、
しっかりマラリアを患っていた。(目が少し黄色かった)
せっかく帰ってきたのに、内定が取り消しになっていた。
今なら訴えてやるところだが、当時はそんなことは
考えてもいなかったので、泣く泣くあきらめた。
その後は平凡に暮らしていたが、最後は脳溢血で倒れて
15年寝込んだ末、21世紀が明けたとたん死亡した。
ほんとうにかわいそうな人生だったと思う。
なので、戦争物TVは絶対見なかった。
>>131 こういっちゃなんだが、生きて帰れただけマシ。かわいそうの
大部分は15年寝込んだことであって戦争じゃない。
俺の爺さんは硫黄島で死亡。それに比べりゃ。もう一人の
爺さんは南方で死亡。恐らく餓死か病死。悲惨すぎる。
うちの家のじいちゃんの兄弟は凄まじい。8人兄弟のうち 一人は女 後のほとんどは
戦争にいったにもかかわらず全員帰ってきた。その内二人は特攻隊 飛行機と人間魚雷
人間魚雷で出撃させられそうになった奴は、巡洋艦青葉 空母隼鷹 戦艦伊勢にも乗っていた、
うちのじいちゃんは長男で30代で徴兵された為か、台湾のキールンで当時としてはまったり
やっていたようだ。主に地下壕作り、米軍の艦上機か良く攻めて来る程度だったらしい。
>133
鬼の青葉に蛇の伊勢・・・。
人間魚雷なんか天国なんじゃ?
135 :
133:04/12/30 21:20:31 ID:???
>>134 そんなにきついところだったとは けどなんとなく解かります。
そういえば、テレビで水木しげるが若者の自殺者が多いことへの感想を聞かれて、
「死にたい人はどんどん死なせてあげればいいんですよ。ぼくらの若い頃は戦争で
どんなに生きたくても死ぬしかなかったんだから。望みがかなう今の人は幸せですよ」
そういう軍隊に限って生還を条件としていない
望みが叶うというより、鬱で死ぬ奴がほとんどなんだから、
地獄の果てに死ぬことに変わりはない罠。
140 :
名無し三等兵:05/01/01 01:28:00 ID:BwuyYefJ
うちの母方の爺さんは陸軍の航空整備兵でラバウル・ニューギニア・ビルマ・タイ・カンボジアを転々としてたらしい。
アンコールワットで泊まったこともある。
マラリアになって本国送還なるも今でも元気です!
じいさんではないのだが最近65〜70ぐらいの人と付き合いがあって当時の生活を聞いたんだが
まずそろって言うのが終戦の日は正午からニュースがあると聴いて、そのときは「ようやく勝ったか〜」って思ったって言ってた。
(神国日本に敗北の二文字がないから戦争終わる=日本の勝利と思っていたらしい)
玉音放送の内容については聞いて理解できなかったらしい(人によっては勝ったと確信しつつ喜びながら聞いたって人も…)
爺さん第8550部隊という所で砲兵やってたそうで、韓国の済州島という所にいたとのこと。
大きい戦いも無く終戦。
現在韓国人の知人友人が多い謎な人。
もう鬼籍に入ってしまったが、父方の祖父の話。
士官学校を出て、浜松の基地から特攻隊として飛ぶはずだったが、
寝坊?して時間に間に合わず、上官からボコにされるも次の出撃前に
終戦で生き残る。
その後祖父はノイローゼになり、そのうえ士官学校卒ということで
なかなか職に就けず、知人の紹介でなんとか倉庫管理の仕事を得たらしい。
(ここまでは聞いた話)
ボケだした頃、「憲兵さんが来る」「俺は連れて行かれる」と言うようになり
髪を整え背広を着て杖をつき、足が悪いのに家の外で何時間も立っていることも
あった。理由を聞いたら「憲兵さんが俺を連れに来るから待ってる」と。
…祖父にとっては死ぬまでずっと罪悪感と後悔の日々だったのかもしれない。
士官学校卒は嫌われたの?
寝坊して出撃せずってのはありえない。皆一緒の部屋に寝てるし。
部隊自体が出撃せずに終わった、特攻に志願しなかった、出撃しても機体の不調で引き返した、敵を発見できず戻ったとかの可能性があるけど。
>>146 士官だから営外居住とか、
今生の名残に何処かにしけこnsedrftgyふじこlp;@:(ry
少尉やそこらじゃ現実問題なんにもなかったそうだよ。
まあその辺はぼかして言ったんだろうな、と言うか
ノイローゼになって憲兵に連れて行かれると確信しちゃう位の
「ぼかさざるを得ないような事」があったんだろう。
たぶんそうだろうな。
何もしていなくとも敗戦時の後ろめたい気持ちはまじめな人ほど強かったようだ。
祖父も軍の学校時代の上官が皇居の前で割腹自殺したっていってたな。
極端な話、日本人は一億総特攻の言葉通り、全員死ぬはずであって、それを前提に航空特攻なんかが行われたわけだから。
すこしでも呵責があればなおさらだな。
すごい厚かましいが第六師団について詳しい資料があったら教えてくれないか。
うちの爺さんはそこで砲兵をしてたというんだ。
南京を攻略した師団だよ。貴方は九州の人?
第六師団というと熊本か。
>>152 入手容易なのは、新人物往来社の「陸軍師団総覧」
>>122 3発づつじゃ、40mmのまぐれ当たりでもないと、撃墜は無理でしょうな…
>>153 はあ、当方熊本で生まれ今は埼玉に住んでいます、うちの爺さんはブーゲンビルで戦って
戦車をやっつけたと言ってたので、もしかしたら爺さんが載ってるんじゃないかと思ったんで。
漏れの爺さん名古屋に住んでたんだけど、これだけでどこの所属か誰か分かりますか?
シンガポールまで病院船?に乗って行ったらしい。ちなみに衛生兵。
>>159 それだけではちょっとわかりかねます。
お祖父さんの所属を知りたいのなら、自治体の恩給関係を扱っている部署に問い合わせてみては?
>>143 浜松から特攻ってのもあるんですかね。
ひい婆さんの弟が浜松から特攻するはずだったんですが、エンジン不調で大阪付近に不時着して浜松に戻る間に終戦だそうです。
特攻は九州の方の基地だけだと思ってたんでこの話は信用して無かったです。
163 :
名無し三等兵:05/01/09 07:59:57 ID:nYHfB0pF
>>162 昭和20年7〜8月ぐらいになると米艦隊が日本近海で沿岸都市を艦砲射撃したりしてるからそれ向けの特攻とかあったらしい。
室蘭・釜石・日立・浜松が艦砲射撃受けたはず。
釜石の時には北上の後藤野飛行場からたった2機の赤トンボで特攻したらしい
誤爆してしまった。貼りなおし。
そうなのか。。。。 −>赤とんぼ特攻
母親が釜石出身だったんで、話を聞かされたことがある。
昼間、沖合いにアメリカの軍艦がやってきて、日本語で「これから艦砲射撃
を行います。市民の皆さんは避難してください。」と放送したそうな。
それがけっこう距離があるのにはっきり聞こえるので、ものすごい大きい
音を出せる拡声器なんだなぁ、と思ったらしい。
それから小一時間くらい(だと思ったが)たってから射撃が始まったが、その時は
港からやや離れた(家からは遠い)防空壕の中にいたそうで。むろん
外の様子はぜんぜんわからない。
終わって家に帰る途中、港に近いあたりは更地(というかがれきの原)に
なっていて、脳みそとか腕とかがそのへんに転がっていたと言っていた。
そういう場合だったので、死体とかパーツを見ても別に怖くないし気持ち
悪くもなかったと。
165 :
名無し三等兵:05/01/09 10:24:27 ID:XiMgimwG
艦砲射撃の前に、市民に非難を呼びかける余裕があったんですねぇ。
貴重な証言ですね。
>>164 末期になると、空襲の前に、警告のビラをまいていたという話は聞いてたけど、
艦砲射撃の時にもやってたんですね。
私の祖父は5人兄弟だったんだけど、
長男:帝国大学生(工学部)だったためちょっと猶予。猶予期間が終わる直前に終戦。
次男:身体が弱くて徴兵されず。でも今も存命。
三男:理由はわからないけど徴兵されず。
四男以下:年齢制限ギリギリで徴兵されず。
で、全員戦争に行ってない。今思えば、当時は肩身狭かったんじゃないかな・・・。
祖母も家が農家だったため戦争中も白米食べてたそうで(しかも田舎で空爆なし)
私は「ホタルの墓」などを見るたびになんとなく後ろめたい気分になります。
祖父母が戦争を生き延びてくれなければ私は存在していないということは分かってますが。
坂井三郎もいっているが、前線に出るだけが戦争じゃないよ。
学生であれ、主婦であれ、自分の本分を尽くせた人は誇っていいと思う。徴兵逃れとかとはわけが違うよ。
169 :
名無し三等兵:05/01/10 04:16:53 ID:LhQebNgP
ひいじいちゃん(鬼籍)が北支(場所忘れ)いたそうだが、戦闘はまったくなく物売りの子供と遊んでたそうな
「マントンがうまかった」としきりに言ってた。
「貧しくて喰えんのに軍隊は飯が食えるからよかった」とも
終戦で帰国前日、物売りの子供が片言の日本語で「さ・よ・な・ら」と言ったそうな
>169
うちの爺様も似たような話。
3回目の召集で南京の近くの警備隊で負け。
終戦の大分前から蒋介石さんやら赤さんと話できとったんで
ほとんど停戦状態だったらしい。
戦友会で学校寄付したり訪問したり占領気分はほとんど無し。
鉄道隊の親戚の爺様に至っては負けてからのほうが良かったらすい。
機関車の運転の教官やらされたが捕虜じゃなくて先生待遇。
機関車も石炭もアメリカ製で強力、食い物も酒も好きなだけ・・・。
復員して国鉄に戻った後の方が惨めだった話ばかり・・。
171 :
名無し三等兵:05/01/10 14:58:58 ID:oEIYNtO4
うちのじいさんはメタルギアソリッド3状態だったらしい
>>169 それは「驚き20世紀」ってテレビ番組で見た。
藻前らもうオリジナルティを出しなさい。
んじゃウチの婆ちゃんの話・・・
マッカーサーが来る時に「松川さんがやって来る、松川さんがやって来る」
と近所の人等が騒いでるのが可笑しかったとか
正月の事。
帰省中に爺様たちと夕食を取りながら、TVを見ていた。
ちょうどスマトラ沖地震のニュースが流れた時に、
爺「オレが言ってた場所だな。いい場所だったのにな」
俺「いつスマトラ旅行にいってきたん?」
親父「バカ、旅行じゃないよ」
俺「?」
爺「スマトラのオランダ軍は、上陸したら直ぐに手を上げてくれたから、楽できた」
そういえば、うちの爺さん近衛師団所属でマレーとインドネシア攻略に参加してたのを
すっかり忘れておりました///。
その後、シンガポールで南方軍の司令部の警備をした話やタイを通過する時の話などを
爺さんは楽しげに話してましたが、生きてる内にもっと色々と聞いておかないと。
海大5型を『幻の巨大潜水艦』とか言われてもナー。
180 :
名無し三等兵:05/01/11 23:04:00 ID:dVYOAXGB
>>179 伊404(起工中に中止)に乗る予定が伏龍隊に転属、その挙句本土から台湾に移動するために乗るはずの徴用船がボカちんくらって終戦後警察予備隊に入って、機雷処理中に殉職したうちの祖父さんの立場は?
181 :
名無し三等兵:05/01/11 23:14:47 ID:JSt/rO8D
漏れの母親方の祖父は、海軍で、フィリピンで戦死、父親方の祖父も満州で戦死・・・だから漏れはじいちゃんに可愛がられた記憶無い。
182 :
名無し三等兵:05/01/12 00:03:16 ID:IN3qhpWn
漏れのじいさんは飛行第26戦隊で隼(タマに鍾馗)に乗っとったらしい。
嘘か真か、事故と故障で2機パァにしたそうな。
うちの爺さんは結核をやって丙種だったんだけど、
昭和十九年に徴兵されて朝鮮に行き、そこから満州に行って終戦。
班長にくっついていたら生き残ったといっていた。
戦後はシベリアに抑留されて二十二年に帰ってきた。
戦争が終わった時は一等兵だったな。
戦争体験ではないのでちょっとここではないかもしれないが。
正月にインド洋の津波のニュースを見てたら昔の話をしてくれた。
昭和35年、祖父は海上自衛隊の「いなづま」に乗っていて訓練中に「あけぼの」にどてっぱらをぶち破られた。
その当時の艦長と幹部連中が不和だったせいで、訓練中にもかかわらずサボって船室で寝てた幹部が何人もいたので四人も死んだ。
(そのとき祖父もサボっていたが左側に寝ていたのでセーフだといっていた。)
さらに何日かあと、そのぶち破られたところをガソリンできれいにしていたら見事に引火して爆発して衝突のときより多い死人がでた。
清掃の責任者が祖父ということになっていたらしく、責任を取らされて九州に飛ばされた上に昇進できなくなったから自衛隊を辞めたらしい。
この事件は同年の三陸津波のすぐ後にあったせいでスマトラ沖の津波のニュースはいろいろ思い出させるらしい。
スレ違いすまそ。
185 :
名無し三等兵:05/01/13 09:44:32 ID:DVh6UV+i
うちの父方の爺様(鬼籍)の話、まず赤紙がきて軍隊に入り水戸だか勝田で訓練(爆弾抱えて戦車に突撃する訓練ばかりさせられたとか)
いよいよ日立港?から戦地へ出発って時に、乗っていくばすだった船が撃沈、次の船を待ってたら戦争が終わってしまったらしい。
多分陸軍だとは思うのだが茨城だと何師団なのでしょうか、わかる人いたら教えてください。ちなみに爺様は茨城県民です。
第14師団、第2連隊でしょうかね
特攻隊として、突っ込む前に戦争が終わり、運良く今も生きています。
188 :
名無し三等兵:05/01/13 22:18:36 ID:UE56ObpN
>>185 判明致しました。通称号、護宇22557
「歩兵第434連隊」です。第151師団に所属しています。
編成地は水戸、終戦時の所在地は勝田です。
昭和20年5月2日に軍旗を拝受しています。
水戸→勝田と移動し、終戦時に茨城県内にあった部隊は、この「434連隊」以外に
「172連隊」がありますが、こちらは石下町に駐屯していました。
よって、「歩兵第434連隊」だと断定できます。しかし、どこの戦地に赴く予定だった
かは、寡聞にして知りません。
189 :
名無し三等兵:05/01/13 22:43:20 ID:DVh6UV+i
190 :
名無し三等兵:05/01/13 23:15:50 ID:ex9rsDj5
>>152 熊本県ブーゲンビル島生存者会編『第六師団の終焉』(一九九四年)
非売品だが、大きい図書館にならあるかも
これだったらじいさんも載っているのではないか
191 :
名無し三等兵:05/01/14 00:28:09 ID:F7CbWooR
兵士じゃないけど近所にB29(?)の墜落地点があって標識が立ってる。
192 :
名無し三等兵:05/01/14 14:09:32 ID:7Yz/E4uT
インパールから生還すますた
>>191 ほぉ、面白そう興味あるので詳細きぼんぬ。
194 :
名無し三等兵:05/01/14 22:36:56 ID:f3Tb6Xo1
うちのじいちゃんは満州、ソ連との国境近くに行っていたらしい。
終戦前に内地に戻ってきていたため、シベリアに送られずにすんだ。
通信兵をやっていて、銃(騎兵銃だったらしい)は3発しか撃たなかったとか。
195 :
sage:05/01/14 22:45:53 ID:2kyht1E1
うちの爺様はレイテに駆逐艦に乗って出陣したんだけど、
戦闘で乗艦が沈没。
武蔵に助けられたけど、それも沈没。
でも、結局助けられて無事に終戦を迎えたらしい。
>>195 順番、おかしくねえか?
レイテの時、武蔵に収容されたのは、第7戦隊の巡洋艦の将兵だったはずだが。
197 :
195:05/01/14 23:00:33 ID:???
>>196 結構前に聞かされた話だから、俺が間違えたのだと思う。
スマソ
198 :
名無し三等兵:05/01/14 23:26:58 ID:pb2jS3pd
>漏れのじいさん、昭和17年に招集。姫路の連隊で集合写真があった。
飾られている?九五式軽戦車を中心に撮っていた。そのあと陸軍暁部隊に。
ガダルカナル行き予定されていたようだが船舶の被害が増大したこともあり
北方方面(千島列島)の輸送に従事したらしい。そのときある島にキスカ
島から撤退した将兵が一時的に?隔離された島があったと話していた。
ちなみに部隊本部があった小樽市には終戦直前には米潜水艦が日中浮上して
堂々と砲撃したらしい。
おじいちゃんではなくおばぁちゃんから聞いた話ですが・・・
その一
名古屋が爆撃を受けても戦争に負けるとはこれっぽっちも思わなかったが東南海地震で三菱の工場が倒壊したのを見て
この戦争に負けた事を実感したそうだ。
おばぁちゃん、それってちょっと違わないか?
その二
風の噂で広島に大きな爆弾が落とされたが光を浴びなければ大丈夫だからという噂が出て白い布で子供の服を作ったそうな。
なんか母親の愛情だよなぁ。。。(´;ω;`)
俺の父方の爺さんは北海道の農家の長男だったんだが、終戦時は千島列島の守備隊にいた。
階級は小隊長で少尉。アレヨアレヨという間にシベリア送りになったそうだ。
バイカル湖の近くにいたそうだが、人並みはずれてデカかった(190近い)んで、
ロスケにかわいがられてパンを2コもらってた、とか言ってた。
同じ小隊の中から一人の死者も出さずに戻ってきたのが自慢だったそうだ。
普段から-30℃くらい日常茶飯事な場所の出身だったから、寒さには強かったんだろう。
でも5年たって舞鶴に帰ってきたときは、ガリガリになってたそうだ。
一方母方の爺さんは開戦直前に結核を患い、終戦ぎりぎりまで徴兵されなかった。
「○○さんが兵隊に取られるようなら、この戦争は負けだ」といわれたそうだw
それまで農水省の技官で満州で農業技術を教えていたんだが、訓練中に終戦になった。
そのまま大連?あたりから船で帰ってきたんだが、祖母は釜山まで汽車で行ってから帰ってきた。
えらい苦労したそうだ。爺さんより1ヶ月帰ってくるの遅かったし。その後の夫婦の力関係は推して知るべし。
関係ないが、このとき爺さんが教えた生徒から、いまだに「○○先生」と書いた年賀状が届く。
爺さん死んで5年たつのに・・・・。20年位前には招かれて中国まで行ってきた。
そんなこともあって我が家は中国びいきだったんだけどね・・・・・
・・あんたの爺さんの人徳だよ。
今の日本人(特に男)はバカにされすぎなんだ罠・。
202 :
名無し三等兵:05/01/15 18:18:58 ID:IC0v1Mc5
203 :
sage:05/01/15 19:10:43 ID:v8X4fmx3
特攻隊に志願して、練習機で特攻するはずだったんだが
終戦になってしまった。おじいちゃん生きててよかった
204 :
名無し三等兵:05/01/16 00:53:47 ID:xAyk3d+F
漏れが二十歳の頃真珠湾軍港に観光目的で行った時の事、ツアーバスの中でガイド
「ハワイの人にあの攻撃を怨んでる人は居ませんので安心して下さい。」
そう言った直後、一人のお爺さんが立ち上がって
「私は真珠湾攻撃に攻撃隊として参加しておりましたが大丈夫でしょうか?」
と言った時の姿と絶句したガイドの姿が忘れられない。
失礼ながら素性を伺うと加賀の艦爆に機銃手として参加されていたそうで、その後、転勤でミッドウェーは経験しなかったものの戦友を次々と失う経験をしながら自分だけ生き残ってしまった。
と言っていた。
205 :
名無し三等兵:05/01/16 02:45:53 ID:??? BE:3278423-##
泣けますな・・・。
長男は兵隊にとられなかったて本当ですか?
太平洋戦争中も?
>206
本当じゃない?
うちの爺さん2人とも長男だったんで採られなかったそうで。
>>206 んな事は無いよ。
歴史板に詳しいスレがあったんだけど、落ちちゃったみたいだな。
>>206 もともと、長男、跡継ぎなどには徴兵が免除されていたのは本当。
ただ、戦争が激化してからは、そんな余裕もなくなった。
210 :
名無し三等兵:05/01/16 18:55:00 ID:Mo09cYG3
>>210 おじいさまはたくさんの勲章をお持ちですね!
画質が今ひとつで細部は判別しにくい部分もありますが、中央のは旭日単光章か双光章、
右端のは瑞宝双光章、左端は同じく単光章ですね。左から2番目と4番目のメダルは、
支那事変従軍記章のようですが、2つあるのは一度復員されてから再び応召されたという
ことなのでしょうか?
従軍記章を除く3つの勲章は、どれも文民の戦功以外の功績に与えられるものですので、
中央官庁の官僚でも、長年勤めた程度では1つしかもらえないはずです。
3つも持っておられるおじいさまは、国会議員か県知事でも長年勤められたのでしょうか?
それぞれ勲章や記章をいただいた由来を伺えば、おじいさまもきっと喜ばれると思いますよ。
212 :
名無し三等兵:05/01/16 20:45:45 ID:Mo09cYG3
>>211 レス有難うございます
二時間くらい当時の話を聞きました
満州のほうの飛行場で飛行機の整備をやっていたそうです
国会議員や県知事は勤めてなく、伝書鳩関係や農業で収入を得ていました
>>210 左から
勲七等又は勲八等瑞宝章、
支那事変従軍記章、
勲五等双光旭日章又は勲六等単光旭日章、
支那事変従軍記章、
勲八等白色桐葉章
勲五等又は勲六等瑞宝章
瑞宝章は下級官吏でも永年勤めればそれだけで2つ3つ位もらえる。
旭日章、桐葉章は何か勲功があったときもらえる。
従軍記章は出征すればもらえる。
勲等からいって、おじい様は最終的に高等官六〜八等くらい(尉官相当)かとおもわれる。
伯母の話しだけど…
昭和22、3年頃、伯母は暴漢に襲われた 伯母の持ち物&伯母の身体が目当てだったと思う
ところが伯母は今でも身長170cmの体格 おまけに戦時中で未公認記録ながら、当時の○○県記録となっている
女子短距離と幅跳びの記録を残した人物 そして気丈な性格 一方暴漢は5尺そこそこの体格で、逆にあっという間に
伯母に押さえ付けられた
伯母は暴漢に、「男達がしっかりしなきゃいけない時に、貴方は何してるの? 反省して頑張るなら逃がしてあげる」
と言ったそうだ 暴漢は土下座して、「お姉さんすいませんでいた これからは真面目に働きます」と泣いて謝った
時は流れて、伯母は今悠々自適の老後生活をし、そしてその時の暴漢は今では某業界の超大物になり、そして毎年
伯母に豪華なお歳暮(最高級松阪牛とか大間の大トロ)を送ってくる その度に伯母はお礼としてかつての暴漢宅を訪れ、
お互いの昔話談義をして、そしてお互いに涙しているそうだ・・・
伯母は、「あと何年、あの子とお話し出来るかねぇ・・・」と言っている
この前、うちの爺さんが親戚の集まりで
兵隊時代の写真を見せてたんだが、
漏れには若かりしころの爺さんの姿よりも
構えている11年式軽機の方が気になって仕方がなかった(w
>>216 尋ねればイイじゃん、元・軽機関銃手どのに。
「やっぱり “ ツッコミ ” は多かったの?」ってねw
たぶん、深夜まで終わらない話が始まっちゃうYOw
でも、それが聞きたかったりするんだろ、このスレのヤシらは。
もちろん、聞き取ったら、ここに書き込めよ>216
母方の祖父
昭和10年前後より長崎県の海軍工廠に軍属として勤務
武蔵やら駆逐艦作ったそうです。
仕事は焼いた鋲をハンマーでガンガン叩いて鉄板を繋いでたらしい。
昭和16年戦争勃発も徴兵されずにそのまま働いてた。
昭和19年損傷した巡洋艦修理のためシンガポールに派遣
道中は敵潜水艦が出没するとかで怖くて夜は甲板に毛布もってって寝てたそうですw。
無事に着いたが資材、器材とも不足のため修理不能だったとのこと。
遊ばして貰える状態でも無かったらしく、ビルマ方面からの列車の荷役をしてた。
負傷兵やら戦死者やら貨車に山積みで来てた(インパール作戦の負傷兵?)
息がまだあるのに軍医がもうだめだと判断したら死体と一緒に処理してたとか(鬱
昭和20年終戦とともに収容所に送られるも戦犯にされることもなかったみたい。
軍属ということもあってか、イギリス兵はけっこう優しかったとのこと。
昭和21年初頭、収容所帰国者第一陣として無事帰国
与太話も入ってるかもしれんが、本人及び祖母、叔父からの話
裏づけ取れそうな部分あるだろうか?
とっくに鬼籍なので確認のとりようがない。
死ぬ前、俺が海自に入って一番じいちゃんが喜んでたの覚えてる。
父方の祖父は満州から引き上げの最中に死亡
連れ合いの祖母も俺のオヤジも多くを語らず・・・・辛い目あったんだろな。
長レスすまそ。
私の祖父は海兵に入学する前、勤労奉仕で雷電のブレーキオイルを入れる仕事を
任されてたんだそうです。
最初の頃は現場監督みたいな人が入れ方を教えてくれるらしいんですが
なかなか難しかったみたいで、本人いわく
「適当に入れたかもしれん」
・・・と。
高校生くらいのとき雷電の着陸事故が多発してた事を知って
なんか申し訳ない気持ちで一杯でした。orz
>>219 >>息がまだあるのに軍医がもうだめだと判断したら死体と一緒に処理してたとか
小学生の頃、シベリア帰りの近所の爺さんに似たような話を聞いた事があります。
鬱になりますよね。
>>216 聞いたら書き込みよろしく。
俺の爺様は軽機手ではないが、聞いたことがあります。
私「爺さんの居た部隊の軽機は11年式?」
爺「うん」
私「小銃用の5発組のを突っ込んでいく奴?」
爺「おぉ、そうそう(笑)」
私「ジャム…弾が詰まって出なくなることが多かったらしいけど」
爺「そんなことはない(キッパリ)。
そうならんようには軽機手は暇さえあれば弾を磨いてたもんだ。
小銃手や、俺みたいな擲弾筒は小休止のときなんかボーっとしてられるが、
軽機手はそうもいかなくてな。弾磨きがあるから。それで重いだろ?
行軍のときは荷物が重くて、暇なときは弾磨きで、戦闘のときは前の方、
歩兵の中では一番大変だな。」
と、こんな感じでした。
223 :
名無し三等兵:05/01/21 14:38:04 ID:RPfgJVtJ
うちのじいさん、初め舞鶴工廠管轄の工場で艦艇の鋳造部品作る工員だったが
昭和18年に召集されて太刀洗飛行場で機体の整備員をしていた。
整備する機体がほとんど無くていつも装備担いでマラソンしてたり
艦載機の機銃掃射喰らって死にかけたり
若い特攻隊員が七つボタンに憧れて操縦士になったのに・・・
と泣いているのを見たり
山に穴を掘って兵舎にしていたとかB29に機関砲撃ったりしていたそうです。
他にも色々日常の話しがあるけど長くなるので省略します。
224 :
名無し三等兵:05/01/21 14:44:54 ID:??? BE:14750093-##
省略しなくていいよー。
時間があったらまたお願いします。
>223
海軍工廠の工員が陸軍に引っ張られて飛行機整備・・。
なんで負けたのかよく分かるお話でつね。
うちの大叔父も同じ舞鶴工廠から召集されてルソン島で戦死。
すいません、前スレだと思うのですが。
お爺さんが元日本軍で砲弾計算か何かしてる人で、でもその凄さがわからないというレスに
いかにそのお爺さんが素晴らしい人だったのかを
妄想だけで上手く語った物があったと思うのですが、誰か貼って頂けないでしょうか?
本気で書いてるんだったら日本語の使い方をもう少し考えた方がいいぞ
開拓民として満州へ渡った爺様は、昭和18年頃に関東軍へ。
んで、琿春という所に配属になったらしいが、部隊に中々馴染めず、
ある時上官から、馬受領へ会寧まで一人で言って来い。
と言われてブチ切れ寸前だったが、逆らう訳にも行かないので大人しく馬受領へ。
散々苦労してつれて帰ってくると、遅すぎる使えねー奴だな。
と言われ、ついに爺様ブチ切れその上官ボコボコに。
当然のごとく爺様はシゴキ+半ば監禁状態におかれ、
ああ、俺はもうダメだな等と悲観にくれているところ、
軍舎へ連れて行かれ、何をされるかガクガクブルブルで待っていたところ、
貴様はハルビンへ行けと言われ、転属決定。
んで、ハルビンへ向かい、自分の所属を確認したところ切り込み隊(昭和20年頃)・・・。
切り込み隊=戦闘が始まったら、真っ先に死亡決定、なので、もうヤケクソ気味になり、
やる気無く勤務していたところ、ソ連軍参戦の報が入り、
爺様他数名は意気消沈してたらしいが、他の者は異常なまでに士気があがったらしい。
その後、終戦の直前(直後?)牡丹江へ移動することになり、
数日間食うものも無く歩きつづけ(途中で畑等から生の作物を取って食った)牡丹江に到着。
牡丹江には、生きているような死体が転がっていて、今考えれば異常な光景だったらしいが、
その当時は何とも思わず、ただ食い物を探して歩いていたらしい。
んで、牡丹工で武装解除となり、それぞれ何箇所かに集められ、
訳もわからぬままコンテナのようなものに、押し込められて電車が出発し、
何日間も走りつづけておろされた所が、一面の銀世界。
( ゚д゚)← 一同こんな顔になっているところ、今度はトラックへ乗せられ、
雪の中を走ってついたところがホルモリン(ホロモリン?そんな感じの名称)だったらしく、
適当な人数に分けられて、小屋に入れられ、その日から労働開始・・・。。。
>>227 わかりました。
前スレの事なのですが、祖父が元日本軍の砲兵部隊に所属していて
そこで弾道計算をしていたんだと常々自慢されていたのだけど
それがどのぐらい凄い事なのかイマイチ分からなかったというレスに対して
そのお祖父さんが大活躍している様を空想だけで見事に書き上げたレスがあったと思うのですが
誰か前スレのログをお持ちの方、お手数ですが貼って頂けないでしょうか糞ったれが。
こうですか?
230 :
216:05/01/22 06:20:41 ID:???
>>222 今、離れて暮らしてるので
法事のときぐらいしか会う機会がないのですが
今度チャンスがあれば聞いてみます。
旧軍の編成はよく知らないのですが、
所属は竹橋の近衛歩兵で大陸から仏印、
マレー、シンガポールと転戦したと言ってました。
戦況が悪くなる前にスマトラで病気にかかって
内地に帰ったとのことで、それほど苦労はしなかったそうです。
戦前のサイゴンははきれいなところでコーヒーが旨かったとか、
マレーでは英軍の対戦車砲(速射砲と言ってました)に
部隊が足止めされてたところ、後ろから応援に来た戦車隊が
「さっさと片付けてやる」と言って追い越していき、頼もしいことだと思っていたら
その戦車隊は返り討ちにされてしまったとか話してました。
その戦車隊って五反田隊かな?
ジーン(戦車兵) やってやる! いくら(チハの装甲が)薄くたって!
任官してから下っぱの教官にお礼参りに行ったけど出てこなかったことぐらいしか聴いてねえし
>>229 笑っちゃいかんのだろうが、最後の一言で笑っちまった。
よって
960 名前:名無し三等兵 投稿日:04/11/26 06:20:53 ???
>>957 砲兵が偉いとは言わんが
まあ300人歩兵がいるとしてそのうちの30人しか砲兵になれないとしたらちょっとレアだろ?
更にそのうちの20人は砲を引っ張ったり、砲弾を運んだり、弾籠めしたり、砲の角度を調整する雑役だとする。
更に残り4人は伝令役かなんかで上に効率よく砲撃する為の指示を仰ぐ役だとする。
実際に砲を動かしていかに有効活用するか考えるのは残りの6人だ。
きっとお前の爺さんはその中でも一番早くて正確な弾道計算が出来る人だったんだよ。
お前の爺さんが指示を出す、するとそれを聞いた奴が砲の角度をジリジリ変えていく。
爺さんの計算で出した角度で打ち上げられた砲弾が飛んでいき、相手の立てこもる塹壕を吹っ飛ばす。
そこを突破口に歩兵部隊が膠着していた戦線を突き崩して行く。
それを見ていた上官に「でかしたぞ!○○っ!貴様は我が砲兵隊の誇りだ!」なんて肩を叩かれる。
そりゃあ爺さん、鼻が高かったろうよ…
只の妄想だけど、こう考えると何か凄そうだろ、お前の爺さん。
235 :
229:05/01/22 20:37:07 ID:???
>>234 これです!
ご親切にありがとうございます。助かりました。
236 :
名無し三等兵:05/01/22 21:51:57 ID:4iAFe88a
うちの爺さん舞鶴海兵団→シンガポール→トラック島って言っていたなぁ。
とまぁたいしたこと無いんですが、うちの会社に来る行政書士の爺さん
元士官で93歳でもお元気、背筋がピシッとしている。
>>236 トラック島は大空襲があったけど
その話とかは聞いてないですか?
238 :
223:05/01/23 14:24:53 ID:YjQ/fbwF
前の書き込みの後じいさんに聞いたら、かなり自分の勘違いと訂正があるので
詳細含めて以下のように・・・
昭和16年開戦直前、じいさんのいた工場が
舞鶴工廠管轄第000号指定工場に改名されて
(じいさんは18年には現地徴用で軍属みたいな感じとなる)
そこで軍艦の錨、バルプ、潜水艦の舷窓を作っていた。
44年初頭に工場に捕虜がやって来て一緒に作業をしたらしい
(じいさんの班にはイギリス人の伍長を始め10人位)
親切にしていたイギリス人に収容所に招待されて
コーヒーとかご馳走になったらしい
工場までの送迎はじいさん一人で
10人位の身長190cm位の兵士をカシの棒一本で連れて行くので
怖かったと言っていた。その後20年に太刀洗航空隊航空技術兵として入隊
飛行場は兵舎は破壊され滑走路も穴だらけで周りの林の駐機場には、
空から見えるようにベニヤ板で作った張りぼてを置いてあり
施設は全て山一つ掘って移転していたそうです
飛行機の整備はほとんどしたことがなく
大抵歩兵装備を担いでマラソンをして一人遅れると全体責任になって
皆に往復びんたが飛んできて凄い理不尽に感じたらしい
フロは池の近くのドラム缶で3日に一回入れたが
風呂場の近くには林もありそこは兵士がよく首吊り自殺をした場所で
その話しを聞いた人は怖がってフロに入らなかったそうです。
ご飯は高粱飯を赤飯と勘違いして食べたらまずくてのどに通らず
かぼちゃめしが美味かったとの事。
8月12、3日頃に山の上に37ミリ(多分ラ式)の機関砲を2基据えたが
その時に座金と言う部品を無くして全員地べたを
はいつくばって探して馬鹿らしかったらしい。
太刀洗は特攻隊の養成校で15・6才位の少年ばかりで
塹壕掘りばかりさせられていたらしい、隊員達は特攻隊の意味を
知らず宣伝に乗って航空兵の格好に憧れて入ってきたらしく
こんな事(塹壕掘り)する為に入った訳じゃないのにと泣いていたそうです。
一応続きがあるのですが長くなるので省略します。
>238
サンクス!
省略しなくていいから、続きキボン。
大阪のJR学研都市線星田駅の近くには戦闘機の空戦の関係のことが刻んである碑がある
日本軍の戦闘機の方が負けて、パラシュートで脱出しようとしたら、アメリカ軍の
戦闘機が主翼でパラシュートの綱を切ってしまったとの事、日本軍パイロットは
パラシュートがないのでまっさかさまに落ち、畑に頭から突っ込んだ状態で発見
されたらしい。
>>240 !!!
星田ですか。
近くではないか・・・
合掌。
>>241場所は残念ながらよくわからないんですよ
他にも戦闘機関係なら京阪交野線村野駅の近くの畑に戦闘機の空の補助タンクが落ちたことがあったそうです
ゴム製だったとか
所は残念ながらよくわからないんですよ
・・・・・朝日伝聞みたいな香具師やな。
244 :
名無し三等兵:05/01/24 06:03:14 ID:91dnzdoV
じいちゃんの話しでは無いけど
もう25年くらいまえ、バイト先の社長(女性)が、学生動員で
風船爆弾を作っていたそうな。
和紙と蒟蒻のりで巨大な風船をつくって、これでアメリカを攻撃するんだと
えらく皆気合を入れてがんばったといっていた.
個人的には気のいいおばちゃんでしたが。そのときの真剣さは強く印象に
残っている。
どっかの工場で軍用の無線機作りしてたらしい。捨てた部品とかを拾ってきて
ラジオを組み立てて、外国の放送を聞いてたらしい。職場でそのことがバレて
大変だったらしいが、みんなも同じようなことして聞いてたから黙認だったらしい。
246 :
名無し三等兵:05/01/24 14:59:09 ID:2q3S/RM6
うちの親父はB29を10機以上撃墜したらしい。
じいちゃんは中野学校出て偉い人だったみたい。
俺は25歳無職。生まれた時期が悪かったな
戦闘海域で自軍の空母沈没目前なら当然だろ。
むしろ、爺様の辛さを解ってやってくれ。
250 :
名無し三等兵:05/01/25 14:29:30 ID:vXvb7wnP
「学徒兵らくだ君」
面白いね。
うちの爺さんは上官を射殺した。おかげでその後は速やかに撤退できて
数十人が助かったらしい。
指揮?その馬鹿な上官よりもできの良い下士官が行ったよ
母方の祖父
工場で川西の飛行艇作ってたらしい。
父方の祖父
シベリア送りになったらしい。
253 :
名無し三等兵:05/01/25 18:43:19 ID:vVwC8ZQV
254 :
名無し三等兵:05/01/25 19:48:31 ID:VT4/J9ib
百式何とかって言う双発の偵察機の操縦士の知り合いがいるよ、高齢運転者の検査で50代並みだって言われたらしい。
そのまんま百式偵察機だと思われ
>>254 「新司偵の速度はどれくらい出ました?」と話し掛けると五時間くらい拘束されるヨカンw
戦艦だったか重巡だかで、航法関係の仕事してたらしい。なんか、家にコンパスとか
羅針儀とかが、丁寧にしまってあった。まぁ、死んじゃったから話は聞けないけどなぁ・・・。
ヤフオクに流せ
ドサクサに紛れて上官を殺害の上、
自分だけ戦線離脱だろ。最低だぜ。
敵を殺すのも上官を殺すのも、殺人には変わりない。
「敵」は自分(加えて家族や仲間、ひいては国民)にとって「有害」だから
国際法に基づく協議による解決がなされない時に武力を行使して排除する。
上官がクソなら俺は日本人でも殺す。自分マンセー
↑こういう人間、今多いよな。
266 :
名無し三等兵:05/01/28 17:02:30 ID:vbbo/C9s
俺のじいちゃんは、北支派遣軍第25自動車聯隊という部隊に入ってた。
どんな部隊なんだろう?
遺影のアルバム写真を見ていると昭和15年青島って書いてあった。
じいちゃんが二輪バイクに乗ってる写真や日章旗を振ってる写真とか沢山あったけど
不思議に思ったのが西洋の外国人が日本軍の前で踊りをしていた写真があったんだけど
これはアメリカ人なのかな?撮影場所は中国として、まだアメリカと戦争する前の写真なのかな?
東欧諸国の人なのかもしれない。
爺ちゃん、重機関銃手だったんだよなぁ。
だが俺が本格的なミリオタになる前に逝っちまった。
ああ、話を聞いておけばよかったなぁ。
268 :
名無し三等兵:05/01/28 17:35:11 ID:xiBjXOID
あ〜まんこくいまくりたいなぁ
ちんこもしゃぶりたいぜ
269 :
一式陸攻:05/01/28 21:39:39 ID:rNuVACOv
私の祖父は、工場で一式陸攻を組み立てていたそうです。
尾部銃座で遊んだりしていたとか。
工場長は、阪神の星野前監督の父だったそうです。
270 :
238:05/01/29 14:19:59 ID:gutOvfRV
では続きを
20年にもなるとすでに制空権が無いものだから昼夜問わず敵機が飛んで来たそうで、電探はあっても役立たず
探知した時にはもう来てたりする事がしょっちゅうあったので航空機の発動機音が聞こえたら即、林の中に飛び込んで隠れたそうです。
対空砲も初めの頃は応戦していたが末期になると弾が無くなり反撃しなく・・・出来なくなったそうです。
機関砲も連射せず一発ずつ撃っていて、夜に空を見ると単発で打ち上げる花火の様との事。
そして8月15日、その日じいさんが食料の調達から帰ってくると
皆集まってなにやら騒いでる様子。戦争に勝った、祝賀会だー。
と言っておりどうやら戦争が終わったらしい事だけはその時分かったが、時間が経つに連れて敗戦だと分かる。
じいさんはこれで帰れると喜び、基地も静かになっていった。
将校はトラックに物資を載せてさっさと逃げてしまい、じいさん達は米と給料の支給をもらい、のんびりしていたら
班長付の兵長に怒鳴られ往復びんたを喰らいじいさんはその夜兵長をスマキにして池に沈めようと、
秋田や青森から来た仲間の兵士と5、6人で待ち伏せていたが察知されて逃げられる。
その後班長がやって来てもう帰ってくださいと丁寧語で説得されて、
酒をもらって駅まで送ってもらったじいさんは駅の壁板を剥がして薪にして米を炊き
それを食べたあとは水のみで5日間くらいかけて故郷の新潟まで帰る。
途中列車が広島に止まった時、建物はほとんど無く、向こうの山まで数キロ先まで見渡せたそうです。
地面には草が生え始め放射能の影響も無かったとの事。
新潟に帰ったじいさんの所にある日一緒に働いた捕虜だったイギリス、アメリカ兵3人が帰国前に
挨拶に来てコーヒーや紅茶お菓子をくれたそうです。
じいさんの所の捕虜収容所は工場の倉庫を改造して作られており、クリスマスや正月にヘリコプターが
飛んできて本国から?の慰問品等を下ろしていったそうです。
じいさん曰く、天皇万歳などと言って死ぬ兵士はまずいないそう言う奴は生きて帰ってくる。
本当に死ぬ兵士は何も言わないそうです。
そんなじいさん今年81歳になりますがいまだにぴんぴんしています。
271 :
名無し三等兵:05/01/29 14:34:57 ID:tsaavIGh
272 :
名無し三等兵:05/01/29 14:51:56 ID:NVyHpuwd
うちの爺さんは満州で騎兵だったらしい
馬が好きだったので亡くなった時
爺さんの棺に馬の置物が納められた
形見分けで馬術第一種徽章という
バッチをもらった
273 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :05/01/29 16:44:52 ID:k+IK/baR
あれれ?海兵卒のポーカー派さんはどこに行っちゃったの? ぷげらっちょ〜!!
274 :
名無し三等兵:05/01/29 17:26:01 ID:S6cwjX15
お客のお爺で、中島飛行機にいて、橘花を作ってた人がいます。太田ではなく、尾島の農家で組み立てたそうでつ
276 :
タリバン警備隊:05/01/30 00:12:00 ID:FX2F7J9l
俺の爺さんの話でなく他所からのコピペだがこんな話を見つけました。
【スカルノ】インドネシア史【スハルト】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1087580642/ 261 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/01/13 18:52:21
昨日会ったおじいさんから聞きました。
「スマトラの津波でアチェというのが出てきますね。援助物資がアチェの飛行場
まで行くけれどそれから先には行けないと。戦争中私の部隊はアチェ飛行場を
占領管理していて終戦時にオランダ軍に追い出されました。すぐ独立運動が
起きてぐちゃぐちゃになりましたけど。テレビのニュースを見ると懐かしい
ような複雑な気持ちです」だそうだ。
278 :
名無し三等兵:05/01/30 02:14:03 ID:6iftILl/
漏れの爺さんは軍人ではなく軍属だったんだが、戦争末期に捕虜の援助物資を東南アジアに届けたあと戻る途中、台湾海峡で船を沈められたらしい。
詳しい話はわからないけど。
艦橋の上で砲戦の時に計算とかして伝える仕事、としか聞いたことがない。
これって、方位盤射撃の時とかに方位盤に信号を送る人でしょうか?
280 :
名無し三等兵:05/01/30 07:22:31 ID:5s8gwP1H
>>270 終戦時にお礼参りで殺されたヤツって
けっこういるんじゃない?そういう話が聞きたい
ムカつくやつが哀れな最後を迎えるのは気分がいい
まぁ60年も経ってるし殺人罪も無効だろw
282 :
名無し三等兵:05/01/30 08:37:23 ID:DkgsWOYz
スレ違いになるのかもしれないんですが
祖父の所属していた部隊を知る方法というのはあるでしょうか
私の祖父は昭和17年か18年あたりに徴兵されて満州の部隊へと
配属されたようなのですが・・・
出征は実家のある大阪からで戦後はよく護国神社の方へ行っていたようで
戦友会にもかかさず出席していました
四年前に祖父は他界してしまい当時のことを示すものもほとんど残って
おらずどうしたら所属部隊がわかるものかと思って・・・
どなたか何かよい方法がありましたら教えていただけませんか
>>282 自治体の、恩給を扱っているセクションに問い合わせてください。
284 :
& ◆/p9zsLJK2M :05/01/30 09:42:00 ID:DkgsWOYz
>>283 どうもありがとうございます
早速問い合わせてみたいと思います
285 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :05/01/30 11:01:49 ID:aCWOzDYl
うちのじいさんは朝鮮の部隊にいて終戦直後(?)にソ連に抑留されたって言ってた。
昔そのときの絵を見せてもらった記憶がある・・・
他人だけど、ひめゆり学徒隊だった人の話を聞いたなぁ。
288 :
名無し三等兵:05/01/30 19:21:28 ID:cUjTwCoy
>>279 多分そうだと思う。
確か、射撃指揮所で計算して出た数値を砲の砲に送ってやって、砲の方位盤の
赤い指針を動かしたりするはず。
この前祖父が家に来たんだが
「戦車隊に入れられなくて良かった。」
「何故イタリアなんかと組んでしまったんだ。」
とか軍板でよくある話をしてくれて
ヴェトナム〜現代にしか分からない俺には興味深かった。
>>290 祖父は当時学生だったようで
騎兵隊(習志野)に配属されたそうな。
訓練中に手を抜いて蛸壺掘った為に
真上を通る味方の戦車にビビったりしたんだと。
駐屯地にはドイツから運ばれてきた虎戦車や対空自走砲もあったらしい。
その後満州にも行ったそうだが
米軍機に襲われた事はあったが戦闘には参加していないと言ってた。
ソ連襲来前に日本に帰ってきたのはいいが九州の港から
実家まで歩いて帰ったんだと。
朝鮮でも色々あったらしく、二度とあんなところに行きたくないそうだ。
また、派遣前にあった横浜での思いでも語ってもらったが
駅かどこかで歳も変わらない二人の予科練習生に敬礼をしなかったとかで
殴られたらしい。
たかが階級が少し違うだけで殴られたのが悔しかったそうだが
あいつらはどうなったんだろうな・・・、と寂しそうに言ってた。
戦後は自衛官もやってたそうだが、それはそのうち聞くつもり。
後、俺は旧軍の知識は殆ど無いので聞き間違えてるところもあるかもしれないが
大目に見てやってくれ。
>>291 間違える
↓
ここで突っ込まれる。
↓
おじい様に聞きなおす。
↓
再度書き込み。
大変かと思いますが、よろしくおねがいします。
>>291 少なくともドイツから虎戦車が来てたとしたらかなりの大発見!
295 :
名無し三等兵:05/01/31 22:55:37 ID:XaR6IRej
漏れの爺さんは軍医をしていたらしいんだが、昭和20年の春に台湾海峡で乗っていた病院船を沈められたらしい。
なんでも東南アジアに米軍の捕虜の援助物質を運んだ帰りだったらしいんだが・・・
どなたか船名わかる人いませんかねえ?
しかし病院船沈めるとは・・・
>>291三式中戦車を誤認していた気配がたっぷりだな。
>>296 中国戦線で捕獲した1号戦車かも知れないぞ。
俺のじいさんは、シンガポールにいたって。
それで、終戦の年にアメリカの爆撃機がやってきて、停泊していた巡洋艦?が
砲撃してそれを撃墜したらしい。
300 :
名無し三等兵:05/01/31 23:21:59 ID:XaR6IRej
>>298 なるほど。阿波丸っていうんですね。
沈められたということは帰りに武器か何か物資も運んでたんですかね?
>>300 それはわからないが、
日本軍が病院船で武器弾薬を運ぶずるをやった後、
警告なしに病院船が沈められたような例はあった気がする。
濡れの爺さんは徴兵で取られて陸軍に終戦まで再召集も併せると十年近く勤務したそうだ。
でも、爺さんの実家は当時は陸軍に戦車や飛行機を献納してた位の金持ちだったらしい(今でも飛行機献納の写真は残ってる)。
爺さんの親父(濡れの曾お爺さん)は政治家だか弁護士で満州国皇帝の溥儀が家に来たことがあったってばあちゃんが教えてくれた。
爺さん自身も帝大出て銀行で今で言う出世街道を進んでたらしい。そんな恵まれた環境だから、
親のコネでいくらでも徴兵逃れをする事が出来たのに、爺さんはそれを拒否して赤紙を受け取って甲種に合格したそうだ。
ばあちゃんの話だと、爺ちゃんは物凄く公平な人で誰に対しても平等な態度をとったらしい。
だから、大学や会社の仲間や友人が出征して行く姿を見ていたら自分だけそんな特権の上に胡坐を囲うなんて思えなかったらしい。
出征後の勤務地は軍人手帳によると最初は上海とか天津で警備隊だったらしい。でも、日中戦争勃発と同時に最前線部隊に配置換えになったそうな。
激戦の中でも怪我ひとつ負わずにそ、最初の徴兵は満期まで無事に勤め上げて無事に除隊したそうだ。
でも、結局戦局悪化に伴い太平洋戦争開戦前に再召集されたそうだ。それでも、その頃はまだ余裕があって内地勤務になったそうだ。
その内地勤務の間に分隊長や小隊長に帝国大学卒業ってことで下士官だか幹部候補生の試験を受けるように進められたらしい。
中隊から合格者を出す事は特別に名誉な事だったから、最後は中隊長にまで説得されたらしい。でも、結局爺さんは拒否したそうだ。
婆ちゃんいわく「一人の兵士として命令にしたがって、この命をお国にささげる事には何のためらいもございませんが、
自分は他の兵士に「死ぬと」命令する事は出来ません。」て言ったそうだ。考えてみたら、中隊長に向ってこんな事いったんだからかなりのつ度胸のあった人だったんだろうな。
昭和17年に大陸に関東軍の部隊の後詰として進出しかし、沖縄陥落と相前後して日本に移動。その後は九十九里浜で蛸壺掘ってたそうだ。
でも、ばあちゃん達はそんな事知らなかったから、終戦後に満州にソ連軍が侵攻したって聞いたときにあきらめたそうだ。
でも爺ちゃんは9月中には復員してきたそうだ。
「千歳」で整備士やってたけど、艦の中で病気で死んだとしか聞いてない
うちの爺さんは山本五十六長官の鞄持ちをやっていたことがあるそうな
うちの爺さんは山本五十六の一式陸攻を撃ry・・
>>306 山本五十六の撃墜者って、諸説あったと思うが……
現在はランファイア単独撃墜説って否定されてるんだっけ?
>301
病院船は病院船でも2種類あつてな・・。
?@国際赤十字&アメリカ様公認の船→攻撃したらあかん建前。
?A未公認の船→道義的には攻撃したらあかんけど沈めても別にかまわない。
ただし、間違いはどこにでもあることだから攻撃しちゃつたものは仕方がない→アメリカの軍法会議&日本外務省の公式見解。
漏れの家では、爺さんの弟が出征していった。
戦死したとのことだったが、遺骨はなかった。
爺さんによると、
「あいつは南の島にゆく途中で輸送船ごと沈んだ。だから骨はない」
という説明だった。家族を含め、親戚一同そう信じていた。
漏れも小さい頃からそう聞かされていた。
だが、2000年夏、役所から通知がきた。
「(爺さんの弟は)シベリア抑留中の死亡が確認されました」
中途半端に生きているかもしれないという希望を持たせないための爺さんの嘘だったのか。
聞きたくても、肝心の爺さんはとっくの昔に他界して真実は藪の中。
戦後50年以上たっても、この手の通知ってきちんとくるんですね。
死亡年月日(昭和21年1月8日?だったような)と最終階級(兵長)まで書いてありました。
こういうのって、今でも頻繁にでているものなんでしょうか?
310 :
コッタ:05/02/01 22:39:57 ID:nzCN+CHP
うちの示威三は将校としてニューギニア。そして生還。弟は第参事神雷攻撃隊桜花搭乗員→出撃まえに終戦。
7人兄弟だった祖父は、長兄だった祖父だけが生き残った。
残り7人は陸海軍それぞれに徴兵され、「ミンダナオ島付近で戦死」
「中国広州戦線で行方不明」等で、誰一人骨すら帰ってこなかった。
祖父は呉の海軍工廠で大和の建造に関わっていたそうだ。
その経験が買われ、軍属から徴用されて下士官で大和に乗艦。
機関科員として昭和20年2月まで乗艦。
昭和20年3月からは、古巣の海軍工廠の監督官として赴任。
何を遣っていたかと言うと、損傷艦艇の修理物資を調達するための
顔役としての役割を期待されたそうな。
原爆投下を目撃し、「顔が熱かった…」と回想していた。
最終階級はボツダム少尉。
終戦後は、高知に移住。平成元年に死去するまで40年以上も
市会議員を務めていた。調べたら、該当者が判るかも知れない。
祖父は、戦時中の話はたくさんしてくれたが、大和の話しだけは
一言も喋らず墓に持っていった。きっと、生き残った事を
恥じていたのだろう。合掌・・・
>>310 じいさんラッキーボーイだな、二度と帰れぬニューギニアから生還とは。
できれば、詳しく。
うちの爺さんは
1942年に出征して鳥取の連隊の速射砲部隊に配属された
43年に上海経由?でニューブリテン島のツルブと言う地域に
駐屯していたが、その後にアメリカ軍が上陸、激戦の末に
連隊旗を焼いて最後の切り込みを準備していたが、まさかの
ラバウルまでの撤退命令が出て、その後直線距離で600キロ
補給なしで徒歩で敗走、体は骨と皮になってラバウルに到着
1945年8月15日まで孤立無援の
ラバウルで塹壕堀や速射砲部隊なのに偵察行動、農園作りを
しとった。
田舎の憲兵隊にいた。けど、まともに仕事してるところを見たことがない、とばあちゃんは
言っていた。空き地に同僚と、畑を作って毎日野菜の栽培と草むしりに勤しみ、ちょっと
暇があれば巡回したりしてたそうだ。確かに、「憲兵」と、書いた腕章はめてる肖像写真
がある、立派なへの字の髭が生えている。当の本人に憲兵時代の話を聞いたが、
「憲兵と言うより、町の自警団みたいなもんだったなぁw」と言っていた。本当に自警団
だったんじゃねぇのかよ!
>>314 つうかその田舎の近くに駐屯地はあったのかい?
なんか仕事の内容見てたら、暇な警察官としか
思えないのだが
前職の取引先の社長に元陸軍中尉さんがいました。
この人は、所謂ポツダム中尉で主計課の人だった。
学徒動員で陸軍に入り、最初は東京で任務に就いたのだけど、任地が空襲を受けたため、
上官から“何処でも好きなところへ行って宜しい”と言われ、愛知県を希望したところ、大府
の飛行場勤務になったそうです。
この方から聞いた話がいくつかありますので、終戦直後の話を3つばかり書かせていただき
ます。
上官(大佐とだけ言っていた)が下士官を伴って“物資を出せ”と言ってきたが、命令書がな
いと出せないと突っぱねたそうです。
本人曰く、“そりゃあ怖かったよ。あっちは職業軍人、こっちは学生上がりで主計課だもの”
しかし、帰郷する兵のためにこっそりコメを分けてあげたところ、荷物になるという理由で、
その兵は、近くの駅頭で全てのコメを売りさばいてしまったそうです。
それが切っ掛けで、尋問(憲兵?)を受けて困ったとボヤいていました。
317 :
316:05/02/02 16:38:53 ID:???
“もう飛行機に乗れるなんてことは無いだろうから”という理由で、3人の人間(階級等不明)が
新型の飛行機(機種不明)に乗って離陸したが、すぐさま墜落して3人とも亡くなったそうです。
元中尉は、“折角生き延びたのに・・・”と言っておられました。
“もしかして覚悟の自決というやつでは?”と、私が尋ねると、
“そんなことはない。物見遊山気分たっぷりで乗り込んでいったから”とのこと。
玉音放送を聞いて数日経ったころ、B29が飛行場上空に飛来して物資を投下していった。
それを見て、敗戦を実感したそうです。
何故なら、大府の飛行場は、一般にも完全に秘密にされていたところだから、そんなところ
まで米軍が把握しているようでは、とても勝てる筈がないではないか、と思ったから。
因みに、投下物資を開けてみたところ、タバコやチョコレートなどがぎっしり詰まっていたとか。
それを兵たちに分配したところ大層喜ばれたそうです。
後日進駐してきたMPから“我々の物資を何処へやった”と、これまた厳しい尋問を受けて
困ったとボヤいておられました。
他に、もうお亡くなりになったけど、知人に3人の元憲兵がいました。
しかし、この方たちは絶対に戦時中の話はしませんでしたね。
俺の小父さん
御祖父さんではないが、宮古島の守備隊だったそうだ!
ある日3人で食料調達に出かけたらグラマンの機銃掃射
され1人が撃たれたそうだ!小父は何とか逃れられて
身を隠した場所に、蟹がいてその時蟹になりたいと思ったらしい
「戦争しなくて済む」からだそうだ。兎に角
物量や装備とかが余りにも違いすぎるので
勝てるわけないと思ったそうだ!
要約すると「国力が違いすぎて蟹になりたい」
俺のじいさんは、終戦の前日に海防艦に乗ってて、潜水艦に撃沈されたそうだが。
どんな船だが分かりますか?
なくなったジーさんは関東軍将校→満鉄。
戦後は小さな日用品店の商店主だった。
戦友との付き合いも一切なかったようだ。
大陸ではお大尽暮らしだったらしい(祖母談)が
祖父は戦争中の話を絶対にしなかった。
誰かが水を向けても黙っていた。
何をしていたのか、非常に気にかかる。
同じ元軍人でも祖父のような人もいれば
戦争反対を訴えて回る人、
軍服で靖国参拝したり、残虐行為を得意げに語る人もいる。
その違いは何なのか。
>>320 8月14日に沈んだのなら、第13号海防艦か、第47号海防艦のどちらかではないかと。
>>321 >残虐行為を得意げに語る人
ガセ、もしくは只の創作武勇伝
>同じ元軍人でも祖父のような人もいれば
戦争反対を訴えて回る人
本当に辛かったと感じた人か大陸で洗脳された人
>軍服で靖国参拝したり
軍服はどうか知らないが戦友が靖国に眠っているのだと思えば行くと思う
南方に配置されて飢えと病気に苦しめば、武勇伝どころではないな。
戦争に行くときは結構イケイケだったらしいうちの爺さんは、南方から帰ってきたら
凄まじいまでの軍隊嫌いになっていた。自衛隊がテレビに写ると、リモコンを
投げつけてた。なんでまたそこまで嫌うのか聞いてみたら、軍隊の上官が
ろくでもない奴ばかりだったとのこと。
まず、自分が一番いい食糧を確保して、部下には与えない。安全なところから
攻撃を指示。常に威張りくさっている。
などなどどうしようもない人間が多かったらしい。
捕虜収容所でそういう奴らは、殺されたらしい。勿論事故にかこつけて。
熱病で苦しむ上官を放置して、死んだらみんなで小便やうんこをかけたりも
したらしい。いくらなんでもひどいねといったら、せめて生きてる間にはやらなかっ
たんだからむしろ慈悲深いと返された。
>>325 いつの時代もそういう上官みたいやつはいるんだよな
悪い奴が悪いんじゃない、悪い奴をのさばらせている奴が悪い
軍隊に限らず、会社でも学校でも嫌な奴は必ずいるからね。ただ、戦時の
軍隊は命が掛かっているから、真剣味が違うわな。
うちの祖父は満州で機関銃?かなんかをやってたそうだ
>325
戦地帰りで軍隊を全否定する人の典型的パターンか>アホな上官
331 :
325:05/02/04 03:58:35 ID:???
>>330 そう、爺さんはそのパターンだ。話を聞けば無理もないと思った。その影響で
俺も日本軍は嫌いだった。敵よりも味方を熱心に殺すような軍隊には絶対入りたくないと思う。
まあ、資源不足だからせめて人間だけでも無駄遣いしたかったのかもなと、多少の理解は
するが、それはまあ他人事だからであって、実際死にかけた人にとってはそりゃ理解は
できないだろう。
父方の祖父
陸軍航空隊で重/軽爆搭乗員だった模様。
数年前亡くなってしまったのですが、一度も話してくれることはありませんでした。
母方の祖父
陸軍の中支にいたらしい。
長江周辺〜上海で色々行動していた模様。
戦闘について聞いたことはありませんが、軍隊については様々な人々との交流等「楽しかった」そうです。
みんなで狸を捕った、遡上中のボラを監視中に発見して調理の兵に伝えた、
日本軍による徴発逃れの為現地住民が餅やら家具やらを池の中に沈めたなど。
中国人の兵と行動を共にしていたそうなのですが現地の軍属ですかね?
終戦時上海周辺にいたそうで、
現地の人々との軋轢などはなく、一緒に公衆浴場使ったり、
戦災で破壊された家屋の修復を手伝って、引き換えに燃料調達をしたりしていたそうです。
祖父曰く「飯は沢山あったが燃料(薪)不足が深刻だった」そうです。
肉の食べすぎで歯茎から血が出たとか、野蒜が大人気だったとか。
上官などの悪口は聞いた事はありませんね・・・祖父も兵でしたが。
後に大陸を再訪したり、漢詩を今でも続けるなど現地に対する印象は良かったようです。
>上官などの悪口は聞いた事はありませんね
軍人さんも人それぞれだから。
どんな組織にもどうしようもない香具師はいて、325の爺さんはハズレにあたっちゃったって事。
6年前に会社の上司の葬儀に参列した際
上司の義理の兄に当たる方にお会いまして、その方が
「俺、クワイ河マーチの所に居たんだよ」と言っておられました
何かの映画で聞いたことはあるな〜と思っていましたが
小生不覚にも当時そこが何処か判らなかったのですが
お会いした当時その方(当時88歳だったかな?)が
「若い人に所属や場所を言っても判る人いないからこう言ってるんだ」
と仰られていたのを思い出しました。
私の祖父が味噌汁の具もバナナだったと言っていた話を聞かせると
その方が従軍された方面にもバナナは豊富に有ったらしく
「そうなんだよ、バナナばかりなんだよ!」と仰られたw
終戦の日から数日後(だったかな?)
私の上司が飛行服を着てその方の家を訪れたと聞いて
「アイツはやる気のある奴だったからな〜」←何を?
上司が戦後間もない頃自分で鉄材を削ってドスを作り
街を練り歩いていたと仰っていた話が与太話ではないように思えてきますた
>>335 そうですか?漏れには理解できましたけど、つげ忠男の世界ですね。
南京入城記念と書かれた中国で印刷された三省堂の国語辞典が遺品。
実際南京の人に話を聞いてみたい。
責める気もないし、否定するつもりもない。
俺はどんな結果がでても先祖のやったことを非難するつもりは無い。
もし、ここ見てる軍関係者がいたら勇気を持って2ちゃんねるではなく
公の場で語って欲しい。できるだけたくさん。
負い目のある旧軍の方が偶にいらっしゃるけど、つらいだろうがなるべく
記録に残して欲しい。
平和な時代に生まれた人間の戯言だけどさ。後世の為には目を背けては
いけないこともあると思う。全員には強制しない。賛同してくれる人
カキコ希望。
>>338 ・・・なんか虐殺があった前提の話に聞こえるんですが
ソースは無い、何故ならば報道されないからだ、ですか?
・・・むしろ自分が毒されすぎなのか・・・?orz
>>339 んー、俺にはそうは思えないが
南京事件は捏造が多すぎて、実際には何が起こったのか皆目見当がつかん品
『南京事件』
戦争だし、しかも市街戦だし、民間人にも少なからず死傷者が出た。
以上。
漏れ的には、壱岐や対馬の住民の手に穴を開け連れ去った中国軍(当時は元といったらしいが)が
謝罪も賠償もしていないのだから、何も言う資格はないと思っている。
もう日本人は同じ間違いは犯さないために、
良くても悪くも、経験者の戦記や回想談を残しておくべき。
国や国民の歴史を封印する事は問題が大きい。
>>341 で良いと思うんだが、343は”大”虐殺があって
それを日本が隠している・・・と言いたいのだろうか?
むしろでっちあげ歴史で2度と面倒を起こされるな・・・なのか
つ・・・つられ・・・た?
345 :
343:05/02/06 02:56:42 ID:???
>>344 大虐殺論問題だけど、現実の数十倍に話が肥大したのが
真実ではないかと・・。中国で戦った実戦部隊でも色々な意見があるし・。
いずれにせよ、当時の軍関係者は後世のために語り残しておいてほしい。
そうじゃないと、将来の日本人は反論も反省も出来なくなる。
>>345 つかわざわざ調べんでも向こうが論理破綻をしてるからなぁ
だいたい虐殺なんて、当時の市街戦ではそれこそ「普通」に行われたことだし、
それを日本人だけ反省しろと言われても説得力が・・・
>>346 確かに、日本だけが反省する必要はないが、過去に過ちを犯したのならば反省するべき。
その上で、中国に対しても、いうべきことは言う(チベット問題や、最近のサッカーでのあれとか)、
ということで構わないのでは?
ゴー宣読んでから近現代史についての興味が増した。
・国民党軍が撤退しながら都市を破壊略奪していき
追跡する日本軍が巧みな宣伝によってその罪を被った
・非正規軍による戦闘が行われたため
市街戦での掃討は当たり前のように行わざるを得なかった
さすがシナは戦争の歴史が長いなと思った。上手いよw
>>347 日本と言う国は、ごめんなさい・・・の価値が異常に低い国であるということを忘れるな
イギリスやフランスがかつての植民地支配を心の底から反省してると思うか?
つかね、「反省」ほど軍事と似つかわしくない単語も珍しい、
過去から得るべきは「教訓」であって、「反省」じゃない
つうか既に講和条約締結やら国交正常化やらで
双方が過去のことは水に流そう、と調印している
んではないのか?
なら、それで終わりじゃん。
>>350 中国は戦争賠償はしなかったが
日本は莫大な金額の経済援助を行った。
他国に「過去に悪事を働きました」なんて言ったら、大変な
賠償金を請求される。本当に悪事を働いたなら反省すべきだが・・。
国と国の関係というのは、謝罪=金銭的賠償なんだよ。
353 :
名無し三等兵:05/02/09 23:43:49 ID:frl/S1dy
昔通ってた学校の、購買のおじいさん。
千島列島北端の、占守島守備隊に所属。一個小隊を指揮して終戦後侵攻してきたソ連軍と交戦したと言っていた。
生き残った小隊員と、「○○小隊会」と墨書された旗を背に撮影した記念写真を見せてもらった。
安彦良和総合板で、こちらの板を勧めらましたので、繰り返しですが書いてます。
「武装解除の準備で、大砲を分解していた。カムチャッカから一方的に撃たれた」
と仰っていたのを思い出しました。
>353
あまり語られることのない、
されど単独の戦闘としてはほかのいかなる戦いよりも直接的に
「日本を守った」戦いです、占守島防衛戦。
そのお爺さんたちがもし「士魂」なき人だったなら、
日本は東西冷戦のフロントラインになってしまい
戦後の経済発展そのものが無かった可能性が高いのですから……。
10年前近く前、警備員のバイトしてた時に1回だけ組んだ爺さんなんだが
(見た目はおっさん)
現場は相乗りだったんで、帰りの車の中でラジオ聞きながら
ボーッとしてたら、ちょうどオレンジ共済事件のニュースやってた。
すると爺さん運転しながら一言
「海兵はいくさのことしか教えんからなぁ」
ハッ、とした私。
「あ、あの失礼ですが、従軍して・・・」
「しとったよ。銀河いう飛行機に乗っとった」
感動して思わず
「あの、、、エンジントラブルが多いと聞きましたが」
「どうだったかねぇ。わしは無線やってたからエンジンとかはようわからん。
無線というだけでよう可愛がってもらえたなぁ」
その辺で会社に着いたのでこれ以上聞けなかったが
それ以後その爺さんと組むこともなく
しばらくすると体調を崩したとかで退職してしまった。
ああ、もっといろいろ聞いておきたかった・・・・・。
>>321アメリカ人だってイギリス人だってVJデーにはベテランはみんな軍服だぞ。
ところで、ポーカー派はどこ行っちゃったの?ぷげらうひょ〜。
体験談ではないが、田舎に住んでるおれのばあちゃん(80?)が
「このへんの人たちも一杯戦死したとよ。みんないい人ばっかやったのにね。」
と言って涙流してたのがすごく記憶に残ってる。
婆ちゃんの体験。
集落の近くでグラマンが撃墜され、山に突っ込んだ。
村総出で見に行くと機体は燃えずに残っていた。
すると村の男らがコクピットからパイロットの死体を引きずりだし、
木に逆さにくくりつけて石をぶつけたり木で叩いたりし始めた。
戦死者の親族らしく、もう物凄い恨み方だった。
そんな中、その米兵の服から革の手帳が落ちた。
そのことに誰も気付かないので、婆ちゃんが拾って中を見ると、中にはその米兵と
ブロンドの女の人が笑顔で並んで写っているツーショット写真が挟んであった。
「ああ、彼も人間なんだ」と思うと凄く悲しくなったが、怒り狂って死体に暴行を加え続けてる男らを
諫めることなどできるはずもなく、やりきれなくなってすぐその場を離れたそうだ。
>>360 >「ああ、彼も人間なんだ」
そんな彼でも、畑のあぜ道を逃げ惑う人に面白半分で機銃掃射くらわしたりするんですよ。
部下の兵隊をしごき殺すよりはマシに思える
>>361 まぁ自業自得と思ってるなら、話の最中に目に涙をためたりせんさ。
あと...
学校から帰ってる途中に後ろから米軍の戦闘機が飛んできて、
咄嗟に横道の畑に伏せたら、何故かそのまま通り過ぎていった。
顔を上げると明野基地から飛び立った戦闘機が追撃していった。
....という日もあったらしい。
爺さんは神奈川の田舎で診療所をやってたが、
グラマンの機銃掃射は日常茶飯事だったらしいよ・。
爺さんは非戦闘員どころか女子供も無差別だったと怒ってたよ。
>>364 西部戦線で飛んでいたチャック・イェーガーの自伝では、
・ドイツ本国内では、動くものは何でも攻撃すること
・弾薬は全て費消しつくして帰投すること
という命令が出たため、畑のあぜ道を歩く老人やら軍用には見えない
列車を撃ったりしておったと書いてあった。日本国内もたぶんそういう
基準だったのではないかと思っているが証拠が無い。どなたかご存知か?
あと、南方の島で日本軍や原住民に対し似たようなことをしている事
についてチャールズ・リンドバーグ(軍人として視察して回っていた)が
何か書いていたような気がするが詳しいことは忘れた。
父は海軍航空隊で陸攻乗り最後は神雷特攻で練成中に終戦と言う人だ。
父曰く「機銃掃射は真っ直ぐにしか飛んでこない、見切って横に逃げる。」
「飛行機より人の方が小回りがきく」。視力の良い運動機能の高い航空隊員
だけの技であろうか。
動く物は子供でも欝。弾倉は空にしてからカエル。
負けるのは悲惨だが、こんな勝ち方はしたくない。
坂井氏の著書を見る限り、日本のパイロットとは精神構造が違う。
帝国海軍機動部隊だってアメリカ西海岸を空襲でもしてたら
何やったかわからんけどな。
>>368 ハワイでの民間人の犠牲者数知ってて言ってる?
余裕のない日本Pが民間人を攻撃目標にするとは考えられない。
上空から地上を見ると以外に人の区別は付かない。中国で日本の海軍機が、
大きな建物に入る軍隊の行進と思われる列に掃射をかけた、よく見た所
それは、お寺に入る善男善女。上から見ても悲惨な事になつてしまい。
「後で落ち込んだ」。掃射したPの話。昭和16年の航空朝日の記事です。
まぁ、
>弾薬は全て費消しつくして帰投すること
とゆうのは誘爆事故を防ぐ観点からは非常に合理的なんですがね...
>>367 資源が無いのでそんな勝ち方はできません
374 :
名無し三等兵:05/02/11 11:22:25 ID:bNqdWeLy
うちの爺さん 勲一等きんし勲章もらってる 字がわからん
金鵄勲章?
祖父は、俺が生まれてすぐに死んでしまったので、記憶はない。
数年前、80を過ぎた祖母が、祖父の形見と言って色褪せた紙束をくれた。
祖父は、もともと九州で巡査をしていて、当時の朝鮮に赴任していたところ
日中戦争の折に召集されたそうだ。軍人としては優秀だったようで、一番下から
はいって、最後は軍曹にまで昇進してた。騎兵第十二連隊では善行証書なんてもの
をもらっているし、「支那事変に於ける功に依り」勲7等青色桐葉章を授与されて
いる。典型的な叩き上げの帝国軍人だった、という印象を持っているのだけど、
大したもんだったのかどうか、良く分からない。
金鵄勲章の功一級って、将官しかもらえないんじゃなかったっけ?
うちの祖父も,支那事変で功七級をもらっている.
やはり支那人を殺しまくったんだろうか…
>>379 当時としては、それが国家に対する最大の貢献だったわけだし。
今の感覚で「人殺し」とか言うのはどうかと思う。
昨年亡くなった母方の祖父が戦中、大本営で通信兵やってたらしい。
「東条英機の執務室に忍び込んで遊んでた」とか「天皇陛下から重箱入りの銀シャリを頂いた」
など、実話なのかネタなのかわからん話をよくしていた。
また、戦後、実家に帰る途中、長崎に一月ほど滞在していたそうで(45年8〜9月に掛けて)
晩年、偏頭痛と内臓疾患に悩まされたのは放射線の影響じゃないかと家族で話してた。
(祖父を始め、母とその兄弟全員、俺、姉、全て偏頭痛持ち。これって検査受けたほうがいいのかな?)
>>381 気になるなら受けた方が良かろう。
ちなみに漏れの母親も被爆手帳もってるが特に病気ナシ。
>>381 おじいさまの被曝の状態、被爆線量がどの程度かは推測不可能ですが
おっしゃるような症状が遺伝的に発生することは、ないと考えてよいかと
思いますよ。
戦争に行った人は大体、大正生まれ(終戦時20〜35歳)の人が多いと
思うので、今年は昭和80年だから、現在の年齢だと80〜95歳位が中心。
今が当事者から話を聞く最後のチャンスだね。あと10年もすれば、戦争の
実体験を話せる人がいなくなってしまう。
うちの祖父さん(故人)は明治30年代生まれで戦争に行ってないから、戦争体験
を聞いたことがない。反戦の為の話ではなくて、武勇伝みたいな感じで戦争の話を
聞ける催しみたいな物がないかな?と最近思う。
2ちゃんで有志を集めて、話を出来る人を探してどこかの公民館なり体育館なりを借りきり、お金を出しあうかスポンサーなりを見つけて、DVD永久保存版をつくる。
マスコミが動けば尚更良いが
祖父が731に属してた。
387 :
名無し三等兵:05/02/13 02:54:49 ID:xBMnlzRB
実家の近くには忠魂碑が残っている。本を読むと忠魂碑はGHQにより取り壊されたとあるけど、皆さんの所はどうですか?その忠魂碑も南方の海で戦死した海軍中佐の家族が、これはうちの墓だ!と抗議した結果、場所を変え、規模を縮小して残ったそうですが…
俺のじいさんは病気か何かで軍事工場行きになったらしい。
朝鮮人についてどう思うか聞いてみたが、うまく答えてくれんな。
389 :
379:05/02/13 09:43:43 ID:???
>>380 別に祖父を非難するつもりはない.
それに坂井三郎『大空のサムライ』をみると,
坂井氏が敵兵を殺したことに罪悪感を感じるシーンが
いくつか出てくる.自分が撃ち殺した中国兵を埋葬したり.
(フィクションだと勘ぐることもできようが)
当時の軍人の感覚でも,そんなものだったのでは?
390 :
名無し三等兵:05/02/13 10:21:43 ID:myow7qcb
>>387 おいらが住んでいるのは大阪府枚方市 大爆発を起こした禁野の火薬庫が
あったところであるが忠魂碑はちゃんと立ったままだよ。禁野の火薬庫があった
場所のすぐ隣にある。
その他にも陸軍大演習のとき使われた枚方市駅の近くにある
オガミ神社境内の中には十五cm砲らしきものの砲身と、28cm砲の弾丸
らしきものを並べて作られた忠魂碑がまだ残っている。
うちのジジイは100人斬り。南京攻略で大活躍。
>>387 破壊されたのを元のごとく復元(役場の昔の兵事課の資料などから)して建てたり、
隠しといたのをほとぼりが冷めた頃建て直したり、
色々です。
>>384 やっぱり、60年というのはちと長すぎる。
せめて40年。
>>390 駅近く、山の頂上にある神社ですか?
子供の頃、一度行きました。
高射砲の砲身を記念碑にしていたような・・・
395 :
390:05/02/13 16:02:43 ID:YXVA2A9h
396 :
名無し三等兵:05/02/13 16:11:45 ID:US/A7VrS
387
漏れのすんでる村には忠魂碑あるよ。西南戦争で戦死したひとの名前もあったから取り壊しはなかったはず。小学校には二宮さんもいた。村内にあるもう一ヶ所の小学校のはGHQが埋めたとさ
397 :
名無し三等兵:05/02/13 16:41:35 ID:NJpjPDYa
ぼきのじいたんはびるまでつうしんへいをしてますた。えらいひとのそばにいたからごはんにはこまりませんでした。
とくべつきでのうのうとくににかえつてきてからは、ふせんのちかいをたててにほんきょうさんとうにはいり、しぬまでこきつかわれました。
ぼきは、じいたんのてつだけはふみたくありません。
398 :
xBMnlzRB:05/02/13 17:39:48 ID:xBMnlzRB
387です。みんなありがとう。その忠魂碑は兵庫県北部にあります。小高い山にある神社の一画に我が部落を見守る様な形でひっそりと立っています。
毎年、お盆に真新しい花やサイダーが供えられているのを見ると涙が出てくるし、日本を素晴らしい国にしますとでも誓いたくなる。
よければ、引き継ぎこんな話も聞かせてください。
うちのじいさんによると千人針にいっぱいしらみがついて大変だったらしい
つい先日、都内自由ヶ丘のトンカツ屋にて、
TV局主催らしき、陸軍航空兵の同窓会?を目撃せり。
漏れは昼時を少し外した、1時30分くらいに入店。
7人の爺・連れ合いと思しき婆一人、司会者風の30後半男、
速記者風の20後半女、カメラマンという総勢11人。
聞くとも無しに聞いた彼らの話は以下のとおり。
1.彼らは陸軍航空兵学校(?)海軍で言うと予科練のようなもの?の3期生の生き残りだそうだ。
まともな教練を受けられたのは1・2期生だけで、3・4期生は
戦況の悪化に伴い殆どまともな訓練を受けなかった。
2. 「軍隊」ではなく、「運隊」というのが実感で、整列した前後で
戦闘機・爆撃機、配属先などが決まる。
「運」の良いものだけが生き残った。
3. 生き残った(参加)した人の配属先は、内地、台湾、ジャワであった。
(フィリピンや、ビルマに送られていたら帰ってこれなかったろうな、多分)
402 :
401:05/02/13 21:45:56 ID:???
続き
4. 物覚えが良いものは司令部付きとなった。
5. 配属先には、最早、まともに飛べる飛行機はなかった。
台湾では、空襲で破壊された飛行機の、良さそうな部品を集めて飛行機を再生した。見かけはとても良かったそうだ。
しかし、(発言者は台湾配属で2発の戦闘機キ1??に乗っていたが)、
再生飛行機は、左右のエンジンの回転数が合わず、もの凄い振動で、
実際に飛行することは出来なかった(無かった?)そうだ。
そういった振動のことを「顎に来る」といっていたらしい。
6. 司会者は、彼らの事前調査を殆ど行っていなかったようで、
問題発言を連発。
2発の陸軍戦闘機キ1??を海軍機「月光」と断定。
陸軍機・海軍機を混同して、元陸軍航空兵を
少々苛つかせていたようだ。
7. 先の大戦の大義については、明確な発言無しで少々がっかり。
ジャワ配属の爺には、蘭印解放の意義を蕩々と発言してもらいたかったが、
当時二十歳前後のガキには無理なことであったか。
以上
403 :
名無し三等兵:05/02/13 22:29:23 ID:66w8rcqf
>>402 双発の陸軍戦闘機というのは襲撃機のキ102かなぁ?
>>403 少なくともちゃんと生産ラインに乗ったキ番号百番台はキ102しかありませんね。
『再製機』うんぬんですと二式複戦・屠龍かもしれませんが。
漏れも、5年くらい前に列車で旅をしてるとき、
妙にはしゃぎまくる良い歳した爺さんの集団がいたので注意してやろうと席を立ったが、
「それにしても、今年の少飛の同期会は場所遠いねぇ。」
という会話が聞こえてきたので黙って席に戻った記憶があるなw
>404
20年くらい前は多かったような・・・。
高庇10期とか空母準鷹とか火瘤とか旗や幟でぎょうぎょうしく・・・。
>>402 インドネシア人はいまだに日本のことは敗戦国としてみてるからなぁ。
留学生が何かあるごとに日本人の癖に!的発言で、あげくには
北朝鮮に攻められて3日で占領降伏だ!とか騒いでたなぁ。
出身地によっては全く違うのでインドネシア人には出身地を必ず
訊くようになったな…
408 :
401:05/02/14 09:28:52 ID:???
>>407 >>インドネシア人はいまだに日本のことは敗戦国としてみてるからなぁ。
何処のおかげで独立できたか教えてあげろ。
>>407 >>北朝鮮に攻められて3日で占領降伏だ
日本には海があることを教えてあげろ。
>>407 >北朝鮮に攻められて
飯もろくに食えなくて屁も出ねぇ奴らに戦争なんか出来ない。
412 :
名無し三等兵:05/02/14 19:04:03 ID:H4AASQlM
>>403-404 百式司偵の武装型じゃね?
ところで、この場合の『ひゃく』の表記は「百」と「一○○」のどっちが正式なの?
413 :
名無し衛生兵:05/02/14 19:06:09 ID:DQ+TKKJe
多分一〇〇だと思いますけど
そんなにこだわらなくてもいいんジャン?
414 :
名無し三等兵:05/02/14 19:08:57 ID:LTDTmF0Y
ん〜俺のバイト先には何人か東南アジア人がいたが、
インドネシア人とシンガポール人とは仲よかったし
歴史認識に関しても食い違いは別になかったなあ。
じいさん世代から独立に日本人が貢献したことを
聞かされてあこがれの国だったらしい。
仕事でインドネシアに一ヶ月ほど滞在したが、
出会うヒト皆、日本人とわかると、
「この橋は日本軍が作ってくれた」「この道路もそうだよ」に始まり、
「インドネシアの独立に先頭に立って日本軍が戦ってくれたと
じいさんから聞いた」と、色々聞かされた。
仕事で行ったので、気を遣っているのかとは思う。
日本軍でも悪さする奴もいただろうが・・・。
母方の父は終戦直後、ロシア兵に「日本へ帰す」とだまされロシアに捕虜にとられた
氷点下50度のところで伐採作業をやらされた。あまりにもきついので血と鼻くそを混ぜそれをロシア兵に見せて赤痢だと行って休ませてもらった。
食べ物も黒パンとキャベツを塩で煮込んだスープと量が少なく、栄養失調で死んでいく戦友も多かった。
418 :
名無し三等兵:05/02/14 20:24:22 ID:9LixBhd/
>>365 「孤高の鷲 リンドバーグ第2次大戦参戦記」(学研M文庫)ですな。
当時のパイロットは白人だったから対日戦の場合は多分に
人種的偏見があったと思われ。
(「イエローモンキー狩りだぜ!!」見たいなね)
大東亞政策の眼目は大東亞の建設であります。
大東亞建設に関しては当時日本政府は
次のような見解を持しておりました。
そもそも世界の各国が各々その所を得、
相寄り相扶けて万邦共楽の楽をともにする帯を結成するとともに
他の地域の諸国家との間に深き諸国が
互いに相扶け各自の国礎に培い
共存共栄の紐帯を結成するとともに
他の地域の諸国家との間に協和皆楽の関係を設立することが
世界平和の最も有効にしてかつ実際の方途である。
これが大東亞政策の根本をなす思想であります。
───────v─────────
<_☆_>
\(〇m〇)/
[天●誅]
後藤ケンイチ、内海&倉沢のWアイコ、田中宏、藤原彰
なんぞの反日売国学卑賊どものデマを信じるな!!
うそつけファシスト
↑日本語の再教育を銘ずる!(金)
いや思想は立派だけどインドネシアとか台湾とか一部を除いて
実行できなかったのが問題だったのでは?
423 :
365:05/02/14 23:05:26 ID:???
>>418 書名正解。
パイロットがどう思っていたかの記述は覚えてないが、少なくとも地上の
兵士はかなりものすごいことになっていたという記述が満載でしたな。
−>人種的偏見つーか、扱いの不当さ
まあパイロットの方も推して知るべし、ということか。
ただ、私が思い出したのは地上掃射の一件で、具体的には
下巻のP225〜226 <−今確認した。
掃射する側の葛藤が現れている。
基本的には彼も命令には従うだろうし、他では掃射して殺害して
おったのだろうとも思う。実際、P226以降には小屋を掃射する描写
がある。しかしながら、P226あたりに記載された気持ちが嘘というわけ
ではあるまいて。アルマイト。
424 :
401:05/02/14 23:18:57 ID:???
東亜の西洋人植民地を解放する、その大義に共感して
東南アジア各国独立のために殉じた旧日本兵がかなりの数であるのは
周知の事実。
実際、インドから東の旧植民地は独立を果たしている。
経済的にはアフリカ、南米などより、よほど発展している。
東亜植民地の解放という意味では、
大東亜戦争はその戦争目的を見事なまでに果たしている。
私の父は学徒出陣で中国出兵。曹長だったそうです。
まさにち君のお父さんが死んで、ちょいとしたパニック状態のKの国に
出張に行く時に、白兵戦になった際の銃の撃ち方、銃剣の使用方法を真顔でレクチャー
してくれましたな…
戦前の中国が好きで、もう一度中国に行きたいなぁ…
と言っておりましたが、「共産党がいるのでいったら還って来れん」と言って、
長年行かず、やっと行こうとした二ヶ月前に急死。
母が意地で写真を持って中国旅行に行きました。
今考えればもっと話を聞いていればと。
>>424 解放後に何をもくろんでたかを考えると複雑だがね。
>>424 御高説もっともなんだが…。
>南米などより、よほど発展している。
この一文でグダグダだな。
428 :
401:05/02/15 10:01:12 ID:???
なんで?
具体的に指摘してみ。
>南米などより、よほど発展している
シモン・ボリーバルと猿谷要が泣くぞw
ああ、自分は正しい何も間違ってないっていうキティか。
431 :
401:05/02/15 20:54:41 ID:???
結局反論できないのか。
小林先生の本でも読んで勉強してから
出直せよ。
コヴァは専用スレがあるって言うのも('A`)マンドクセ
小林先生ってだれ?
多喜二?
秀雄?
クルスク戦やハリコフ戦に詳しいあの人の事だろ
いやはや、今は債務に喘ぐとは言え日露戦争時には日本に軍用艦を
気持ちよく払い下げ、その当時のインフラの蓄えがある国やら、明日の
先進国と言われつつブレークスルーは無かったが、20世紀中頃までは
多数の日本人移民を受け入れ、更には今度こそ21世紀後半には日本の
経済規模をぶっこ抜くと予想されている国などまでまとめて”東南アジア
より遅れている”とは…。
高校の地理の教科書くらいは読んだ方がいいよ?
>>429 同意。
436 :
401:05/02/15 23:30:32 ID:???
>>431 漏れの名を騙るな。
が、正直、インドから東アジア>>>>>南米
と思っているが、なんか違っているのか?
南米より豊かであることが明確な東アジアの国は多分日本と韓国とシンガポールとブルネイだけだと思うな
後は似たり寄ったり。
>多数の日本人移民を受け入れ
移民を受け入れてくれるのってそんなに凄いのか?
ブラジルに移民した婆ちゃんの弟・・・悲惨だったそうだよ。(最後が
>今度こそ21世紀後半には日本の
>経済規模をぶっこ抜くと予想されている国
10年後には日本を追い越すって隣の国の人がいつも言ってるけど
21世紀後半って少なくとも後45年以上先の話だろ
隣の国の人よりぶっ飛んだこと仰るのねw
ってか皆餅付け( ゚д゚)ノ○ チンセイザイ ドゾー
ここはおじいさん達の戦争体験を・・・(ry
440 :
401:05/02/16 10:43:20 ID:???
441 :
名無し三等兵:05/02/17 03:52:16 ID:g7oLGxRY
漏れの母親方の祖父さんの弟の人が特攻隊だった。
なんでも16歳で志願したらしい。
「お前は若すぎる。」てな理由で断られたらしいんだけど、友達3人と血書を書いて直訴したんだって。
で、結局鹿屋で訓練中に終戦になったんだと。
漏れの母親が言うには、その人は帰ってきてかなり荒れてたみたい。
飛行帽とかを持って帰っていたらしくて、漏れの母親が見せてもらったと言ってた。
あと、親戚の一人に絞龍(?)だっけ。海軍の舟の特攻の香具師?
あれに乗って訓練してた人がいる。
敵艦に突っ込む訓練をしていたらしいんだけど、訓練中に終戦になったんだと。(どこで訓練していたのかは忘れた・・・)
漏れの祖父さんは中国戦線に行ってたみたい。
階級は伍長だったんだけど、漏れには戦争の話は一切しなかったな〜
漏れがガキの頃にエア・ガンで遊んでたら、祖父さんが「ライフルはこうやって構えるんだぞ。」と教えてくれたのが一度だけあった。
そんなもんしか無いでつ・・・スレ汚してスマソ
442 :
441:05/02/17 04:02:19 ID:g7oLGxRY
スマソ、「絞龍」じゃなかった・・・「震洋」だった・・・orz
逝ってきます
443 :
名無し三等兵:05/02/17 06:38:51 ID:/aiLkxjq
俺のおじいさんでなくて恐縮だが。
俺の先生、満洲移民なんだが、終戦間際に中学生で、応召してその後中国に抑留された。
シベリアでなくて良かったとも言ってたが、帰国したとき、身長180近いのに体重は
40キロ代前半だったそうだ。
それはともかく、敗戦直前はそんな初年兵みたいな人間が最小単位(小隊でいいのかな?)
の長になるほどの男手不足だったようだ。ほとんど白虎隊の世界だなと思いました。
開拓村を巡回してたのだが、銃はあっても弾が無い状態。それでも、いずこも男手=警備する
人間がいない状態だったので、大歓迎されたそうです(暗にモテモテだったと示唆してた)。何でも、
敗戦間際になると開拓村を周辺の中国人が夜な夜な遠巻きに囲み、銅鑼を鳴らし・松明を焚いて
て威嚇するようになってたんだそうです。
正確な時系列は聞いてないのでそれが昭和19年1月なのか20年8月なのかは知らない。
多分概出だと思うけど、抑留当初は中国人の間では圧倒的に国民党が人気だったそうだ。装備もよく
きちんと軍服を着て身なりもいい。重慶政府は満州の中国人に正統政府と見なされてたらしい。
共産軍は文字通り共匪的な印象が強かったそうだ。もっとも、共産党が入城するときには、一夜にして
全員が共産党シンパに早変わりしたそうだが。
母方の爺さんは
朝鮮で警備兵→兵役期間終了→内地で終戦
しかし爺さんの弟はフィリピンでマラリアになって死にかけ、
戦後4年くらいして帰ってきたらしい。
この弟さんはまだ存命だが、あまり当時の話をしたがらない。
戦闘で死ぬより病気で見捨てられる戦友の多かったことだけは話してくれた。
戦後60年という事もあり、是非話を聞きたいんだが土産でも持っていった方が良いかね。
445 :
名無し三等兵:05/02/17 14:47:06 ID:lV4HnAl7
>>444 酒でも持っていってあげるといいんじゃない?
母方の爺さんは通信兵?だったらしいけど2ヶ所撃たれてる。前に出過ぎ。
親父の親父は台湾人だけど医者として日本で頑張ってたらしい。
>>446 台湾の血を引いているのでつか。
日本と台湾の友好の掛け橋としてがんがって下さい。
真面目なリンドバーグらしい著書だな・・。
彼の子供は誘拐事件の犠牲になった記憶が・。
450 :
名無し三等兵:05/02/19 01:01:25 ID:vBGpFc6I
つーか、
>>418 で書かれてる文庫本と内容は同一じゃない?
451 :
名無し三等兵:05/02/19 01:09:53 ID:r9Ti5lJ9
母形の祖父は8年間ぐらい東南アジアで生活したらしい。ビルマ、フィリピンなどを点々として、イギリス人捕虜に橋を作らせとか言ってたな。結構捕虜とは仲良かったらしい
>>450 うむ。いま確認してみたが、「本書は1974年『リンドバーグ第二次大戦日記』の
タイトルで新潮社から出版された作品を文庫化したものです。」と書いてあるので、
同一と思われる。なんかfukkan.comのを見て、「あれ。この学研のって抄訳なのか?」
と思ったが、とりあえず、少なくとも新潮社版とは同一であろう。
453 :
探しています:05/02/19 02:26:35 ID:C5tzZQvH
すみません、他板から来て質問です。
以前オカ板の戦争関係スレで読んで、たしかこのスレでも同じ話を読んだ
記憶があるのですが、
・太平洋戦争で南方の部隊にいた人の体験談。
・生き残った隊のキャンプに夜な夜な戦死したはずの同胞が「よう!」と
陽気に現れる。
・隊の食料を勝手に食べる。だが誰もそれを制止できないので皆困り果てている。
・戦死したはずの人たちは少し妖怪化していて、手が怪物君のように伸びたりする。
・この辺で文中に「人間も死ぬ場所が違うとちょっと(ナントカカントカ)が違うんだね」と
いう説明が入る。
・ある晩、隊長が意を決して「全員、起立!貴様らはもう死んだのである!
だから成仏しなければいけない。これは命令である!」(というようなセリフ)
を言うと、戦死して妖怪化した兵隊達はみな一同に泣き崩れて土の塊と化す。
という内容です。
とても心に残るお話で、初めて読んだ時言い知れぬものを感じ、
どうしてももう一度読みたいのですがどなたかご存知ないでしょうか?
よろしくお願いします!
454 :
名無し三等兵:05/02/19 03:10:24 ID:hBk+Sf6m
小学校の時宿題で「戦争の体験談を聞いてきなさい」と言われ祖父に聞いてみた。
俺「おじいちゃん、戦時中の話を聞かせて」
祖父「・・・・・・・」
祖父は黙りこんで悲しい瞳で俺を見つめこう言った
祖父「辛すぎて語りきれない」・・・・と。
レイテで撃沈
とりあえず、浮かぶ物にしがみつく
しかし人数が多くなると、沈みだすので地獄絵図
456 :
名無し三等兵:05/02/19 09:16:39 ID:8F/rzNxJ
>>453 松谷みよ子の現代民話をジャンルごとに集めたシリーズの戦争編
にあったような気がする。(立風書房だったかな?)
>>453 軍事な怪談スレの66より。これかな?俺もこの話好き。
211 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/07/29(日) 04:54
ガキの時分に、鍼灸師のジジイから聞いた話。ちょっと変わった幽霊談です。
ニューギニアのあたりのある戦場でのこと。
大規模な戦闘をした部隊があって、その後、その部隊の前線基地に、
夜な夜な、死んだ兵隊たちが現われるようになったそうです。
彼らはいずれも、足がちゃんとあり、懐かしそうに
「よお!」とか言いながら、現われるのだそうです。
いずれも確かに戦死した連中ばかり。
神主の息子の兵士がまじないをやったり、お経をよめる兵士がお経を詠んだりしても、まったく効き目無し。
そのうち、ズカズカ上がり込んできて、貴重な飯をバクバク食う始末。
しかも、いきなり手がスルスルっと伸びて、木の実を取ったりして、明らかに化け物化している様子。
怖いやら迷惑やらで困っていたのですが、なんとも手の施しようが無い。
見るに見かねた中尉だか大尉だかの隊長さんが、幽霊たちが集まっているところへ、
ツカツカと歩いていって、いきなり大声で、
「全員、整列!」
と言うと、素直に整列したそう。そして、
「貴様らは、全員戦死した兵隊である。よってこの世にいてはならん。
全員あの世へ行って成仏するように。これは命令である!」
隊長が涙を流しながら言うと、幽霊たちは、しばらく呆然とした顔で佇んでいたが、
そのうち全員が泣き始め、やがてボロボロと土人形のように崩れていったそう。
あとにはその土だけが残り、彼らは二度と現われることはなかった。
兵隊たちはその土の大部分は現地に埋め、残りを少しづつ日本に持って帰って、供養したそうです。
「へんな幽霊だね」と僕が言うと、ジジイは、
「日本人の幽霊でも、死んだ場所が変わると、ちょいと変わるんじゃい」
と言っておりました。
ウチのじーちゃん今度は年金でマルシンのマキシ南部十四年式を買ってきたよ。
どうせまた力まかせにコッキングして壊すね。
実物を使用していた方に
現在発売されている南部十四年式のモデルガン等の
インプレを聞いてみたい。
実物は力任せでも、壊れなかったんだろうか?
>457
その隊長さんは、幽霊たちに「成仏せよ!」でなく
「貴様らは、鉄砲を持って敵へ全員突撃せよ!」と
命令しておけば、最強のゾンビ小隊になったのに。
>>461 実際には『死んだ兵隊』じゃないけれど、
硫黄島戦では、日本兵の死体置場(前日の斬込みで米軍の陣地内外で斃れた兵士)に深夜に忍び込んで紛れて隠れて、
黎明に死体の山の中からワラワラと立ち上がってゾンビ紛いの攻撃をした例があるらすぃ。
464 :
名無し三等兵:05/02/19 13:53:50 ID:FeF2Pfs+
ガダルカナルの一木支隊。戦闘の決着がつき、翌朝に米兵が日本兵の
死体を確認している時、死んだフリをしていた兵士が米兵に襲い掛かる事もあった。
なぜ、降伏しなかったのか…。
465 :
名無し三等兵:05/02/19 14:08:51 ID:TkWxZIbx
うちのじいちゃんは中国の満州とやらに行っていたんだが友達の屍を越える
のが辛かったと言っていった それを踏んででも行かなくてはならないって
だから少しでもいいからその死んでいった奴に感謝しろって言われたな
戦争を擁護するわけじゃないけど国のために戦ったんだからって 俺はそれ
聞いて泣きました
466 :
453:05/02/19 14:52:55 ID:C5tzZQvH
>457
これです!!
早速ワードに保存しときました。
なんとなくほのぼのした雰囲気の中でうすら恐い、でも涙が出る話ですよね。
どうもありがとうございます!
>476
えっ、っていうことは創作でしょうか?
でも、いい話だから別にいいや!w
今度本屋か図書館で該当の本を探してみます。
サンクスです。
>>466 作 り 話 に 決 ま っ と ろ う が 。
ホンモノの戦場は
>>454サソや
>>465サソの紹介の例の通り。
幽霊よりも恐ろしいものが見らる。
>465
それ、日露戦争の話だろう。
曾祖父さんが203高地の生き残りだったんだが・・。
戦死者の遺体集めて土嚢代わりにしたて話しとったぞ・・。
470 :
名無し三等兵:05/02/19 23:58:48 ID:8F/rzNxJ
>>466 いや、創作というより今でいう「都市伝説」とか「フォークロア」というほうが
ニュアンス近いかと。
一木支隊が全滅したころ、幽霊になって旭川の駐屯地に行進しながら戻ってきた
話などが載ってます。
『現代民話考・軍隊』(立風書房・1985)
俺のじいさんは昭和20年8月9日当時、大村の軍需工場で旋盤工をしていたそうな。
あの時間、市内の方向で空が光るのを見たという。
>>461 靖国や護国神社の英霊達がそうじゃん。
死してなお「これからもお国をお守りください」とか祈られてるんだから。
まぁ、氏神様やらご先祖様も似たようなものだが。
靖国の英霊には戦死した親族がいる、それだけで靖国が身近な場所に思えるのに。
祀られている英霊の方々の経歴を見ると、老若男女色々な方がおられる。
沢山の方々に見守られているようで心休まる。
一昨年亡くなった俺の祖母の弟さんは山城乗組みで、そして今スリガオ海峡に眠っている
祖母の死後、出征前の弟と撮ったと思われる写真が見つかり、一周忌時に見せてもらったが、
若き日の祖母のあまりの美貌ぶりに写真を見た誰もが驚いた あえて言えば仲間由紀恵かと
思う程の美貌だった 小柄で誰にでも優しい典型的なおばあちゃんの姿しか知らない俺を
含めた孫達はみんな驚いたし、そして60年という歳月の重みを感じた・・・
全ての英霊と、そして天国でその頃に戻って弟と談笑している俺のおばあちゃんに合掌・・・
中国人の友人が3人いる。日本が戦争に突入した理由や
特攻隊の話をしたら、彼等は完全に日本人の心情を完全に理解してくれた。
やっぱり同じアジア人だと思ったよ。
日本政府は靖国神社の意味を、しっかり中国人に説明すべき。
靖国の 宮にみ霊は鎮まるも 折々帰れ 母の夢路に
悲しい・・。
心が痛いってこれかょお・・。
>>474 昔の人の写真は意外に美しいことが多い。
うちのじいちゃんなんか、若い頃の写真めちゃくちゃ
かっこいい。強いて言えば三船敏郎みたいに渋い。
サングラスしてお洒落している姿とか今でも通用する。
戦時中も隊長に可愛がられ、侍従兵みたいなことをしてい
て苦労しなかったらしい。
>>401 親戚の人が大津の陸軍少年飛行兵学校の校長?
でした。
481 :
名無し三等兵:05/02/21 11:08:25 ID:2C1moXTa
>>479 最近、倉庫を整理してたら昔の写真が出てきたんだけど
確かに皆いい表情なんだよね。
軍服着ているご先祖様が、オイラより若いのに凄く大人びてるし
男前だし。(w
遠い未来の子孫がオイラの写真を見てどう思うか・・・。
>>479 写真は白黒の方がかっこよく見える。それに昔だから、写真機の性能が
あまりよくなく、ボケ気味だとさらによく見える。
今みたいにカラーでくっきりとられちゃうとごまかしようがない。
483 :
名無し三等兵:05/02/21 14:04:56 ID:2C1moXTa
>>482 エアブラシで修正する場合もあるからね・・・。
お見合い写真や、兵隊が郷里に送る写真なんかは、結構修正してたらしい
スポッティングの延長で筆で絵を描いてる場合もあるからなw
そうそう。
親父の実家に飾ってある曽祖父や兄弟(故人)の写真なんか、
「これは『絵』だろー」って、つっこみたくなるヤツがある。
487 :
名無し三等兵:05/02/21 14:55:21 ID:2xXX4Lmo
>>479 だよね。俺の爺ちゃんの弟の軍服姿の写真見たけどかなりイケメンだった。出征直前に家族みんなで撮ったやつらしい。残念ながらボルネオでマラリアにかかって死んでしまったが。
修正なんかしてないって。
一枚一枚全部修正出来るかよ。
普通の家族写真も一杯あるのに。
なんかひねくれた奴らですね。
ファビョるなよ。誰もおまえのばあさんが修正してたなんて書いてないだろ
ファビョるって何?
オタク用語得意気に使われても意味わかんねーし
ファビョる【ふぁびょる】[動](ハングル)
「ファビョン」の動詞形。 主に逆上した韓国・朝鮮人のさまを侮蔑の意をこめて指す。
いまでは韓国・朝鮮人に限られず、単に「キレる」の意味でも使われる。
おじいさんではないがコンゴ出身(国籍はフランス)の留学生に
バトルロワイヤルを見せたら戦闘シーンが始まったら殴られた。
自分は莫迦だと思った。
コンゴの人は大変なんだぞ!
留学できるような特権階級がか。
>>491 なるほど、嫌韓厨ね。ご苦労様。
つうか、自分が不細工でキモいからって
人様の爺さんに嫉妬すんなよ
なんだ、またいつもの構ってちゃんか
プッ
「ファビョる」くらい知ってるよ馬鹿
当たり構わず得意気に2ch用語ひけらかして
得意気な馬鹿をからかってみただけだ
極東板帰れよ。
>>497 >当たり構わず得意気に2ch用語ひけらかして
ここは2ちゃんねるなわけだが。
わかったから差別厨は極東板帰れよ
501 :
494:05/02/21 17:34:31 ID:???
>>494 虐殺で自分だけ生き残ってNGO関係者に助けられてフランスの
そこそこ金持ちの養子になり、現在日本に留学ということらしい。
まあコンゴ人の中では運が良かったんだろうな。
502 :
484:05/02/21 17:36:52 ID:???
因みに、現代の見合い写真を修正する場合は当然CGを使います。
>>498 当たり構わず極東板のノリで調子こいてる馬鹿
のことを言ってるんだよ。
その恥ずかしさを認識させるためにわざわざ
意味わかんねーふりまでしたのに、
得意気に用語解説までしてみせてんのなwww
勝利宣言乙
成人は30歳からと言われるのも致仕方ない
>>503 写真ネタから写真修正技術の薀蓄に話が飛んだだけで、
誰もあんたのじいさんの写真を修正してるなんて書いてないんだから、
そうムキになるなよ
>>506 写真がどうとか話題そらすの必死だなw
おまえの恥ずかしい勘違いぶりを嘲笑ってやってんのに
>>507 ひょっとして名無しさんが全員同じ人だと思ってる人ですか?
>>508 ならID出せよw
自作自演がばれるか?
スレタイも読めないのはどっちにしろ荒らしだ。
508も509も最悪板でもいって好きなだけ叩きあえ。
まあ最初にファビョるなとか煽った方が悪いがな。
荒しに反応するのも荒し
家の祖父は水木しげると同じ部隊だったらしいんだけど、俺が小さいころ
亡くなったので詳しいことが解らない。ぐぐったけど、ニューギニア方面に
いたということしか出てこない。詳しい部隊名とかどうすれば解るかな。
水木さんに聞いたほうが早いのか?
わ、なんかスレが急に伸びてるなと思ったら寂しい事にw
>>512 ガイシュツですけど、軍歴関係は各県の福祉課や厚生労働省の社会援護局業務課とかに問い合わせれば判りますよ。
(最寄の役場でも、昔の兵事課の資料が残ってる場合がありますのでそちらに聞くのも良いかも)
つうかそろそろ話作るのも飽きたな。
この中で何割が実話なのやら
515 :
名無し三等兵:05/02/21 19:49:19 ID:U2Ykvm9m
家は父方の叔父が4人、母方が1人大東亜戦に参戦してます。
父方は、主に島根21連隊で、1人は大阪で再招集。南方に向かう輸送船を
撃沈されました。戦友に頼まれ風呂の時間を代わってあげて入浴中でした。
代わった人は生き残った為、戦後、謝りに来てた。
二人は満州に。一人は21連隊長のほぼ専属の当番兵で、連隊長が満州に
栄転の際、彼の強い希望でそのまま満州へ。その際、命を助けた事で(詳細略
)、戦後に議員に成った連隊長から、毎年、米が三俵届いてた。
もう一人は、戦後は中共に捕まって、親戚中から「あいつはチャンコロに騙さ
れてアカくなった」って、言れてた。戦争の話は好きだった。
最後のは、相撲部屋に内定していたが、海軍へ。艦(艦名、艦種共に不明)に
に乗り組み、呉から出港。その際、バア様が見送りして、その日の内に帰郷。
1日掛けて帰ると、艦が沈められて戦死公報が届いてた。
母方は、19歳で志願。輜重兵を薦められると「馬に噛まれるからヤダ」と
航空整備で台湾へ。
みんなもう、鬼籍に入ってしまった。
ところで、海軍の叔父貴は何に乗り組んでいたんだろ?
つか爺ちゃん両方とも日華事変で負傷してたんで、
親族は誰一人WWUに参加してないと言う我が家(´・ω・`)
>>512 ラバウルの南部ココボに駐留する分隊って事しかわからん。
文春2月号より。
>>516 (´・ω・`)すること無いぞ。立派な戦歴ではないか。
負傷ということは御国のために立派に義務を果たしたのだ。
>>516の両祖父に敬礼。
520 :
名無し三等兵:05/02/21 22:33:18 ID:uUbTTNv5
母方の祖父
地元では屈指の億万長者、親、親類、は議員や資産家。
百里原航空隊の基地敷地をポーンと軍に寄付。それ以外にもいろんな軍への支援。
軍からはいつもいつも物凄い量の感謝状(?)見たいなもの。
それで、戦争行かなかった…!この腰抜けが〜!行かずに済んだらしい。
裏でどんな手を回したのかは知らない。だって乗馬やったり明大行ったりしてたくせに
行かない理由は「目が悪かったから落とされて行かずにすんだ♪」だって。ウソをつけ!
大学に行ったり乗馬を楽しめる程に視力がある奴が、「目が悪いから」と落とされる訳ねーだろ。
しかも、祖父も母も揃って「麦飯はまずくてキライだったから、いつも白米食べてた。」だとさ。
その孫という事に嫌気がサシ、数年前に自衛隊を受験→合格 しかし、周りの妨害にあって入隊できず。
うちは非国民だと思う…。
>>513 もとの陸軍は(当時の)本籍地都道府県の援護主管課、もとの陸軍は
厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室ね。
お互い横の連絡は十分ではないので違う方に聞かれてもまったくわからん。
522 :
名無し三等兵:05/02/21 22:36:50 ID:uUbTTNv5
あぁ、戦後に落ちぶれて億万長者から庶民に成り下がったから、ザマミロだけど。
鉄道引いたり、基地敷地を提供したりしてると、軍からも徴兵免除してもらえるのかね。
高級外車やハーレーやインディアンを乗り回し、乗馬を楽しむ大卒が「目が悪い」で落とされる
なんて普通ありえねーだろ!?
523 :
名無し三等兵:05/02/21 22:52:41 ID:sXouuYOf
ウチの母親のじいさんが戦時中、飛行機の整備兵だったと言ってた。
当時はもちろん英語は禁止だったんだけど、飛行機を移動させる時とかに、
「バックオーライ・・バックオーライ・・ストップ!」とか、フツーに皆
英語使ってたらしい
>当時はもちろん英語は禁止
民間主導のアホな運動だからな。軍隊じゃあそんな事にはなっとらんかったらしい
おじいさん…ってか
俺の親父が戦争いってる>俺44だぞ?<<欝>>
昭和は遠くになりにけり…
527 :
名無し三等兵:05/02/21 22:59:34 ID:sXouuYOf
>>525 なるほどねぇ〜。あ、523です。あと、身長が小さかったから、
連帯責任で殴られる時も後のほうで(背の大きい順に殴られてたみたい)
、殴ってる教官も疲れてて殴られてもあんまり痛くなかったらしい
528 :
名無し三等兵:05/02/21 23:00:43 ID:sXouuYOf
間違えた!母親のじいさんじゃなくて親父だった
529 :
名無し三等兵:05/02/21 23:01:01 ID:Zp28XqeY
うちの爺ちゃんは戦場で赤い彗星と呼ばれていた!、つーかこのネタ既に誰かやった?。
連帯責任は美風だな。たるんだ仲間を放置するのはくずだし。
甲子園出場中止だってスポーツマンにあるまじきやつを、見
逃してるやつを排除するのはあたりまえだし。
補欠でもエースの非道をたたきなおす気概をもてよ、ここの
やつら!
しかし今や自己責任がトレンド
俺の爺さんは生まれつき目が悪くて徴兵どこじゃなかったそうだが、
東京に出稼ぎに来てて、とりあえずは平和だったそうだが1945年3月10日、(わかるよな?何があったか)
隣の家に焼夷弾が直撃してそのあたりが火事になったそうだが奇跡的に生き残って、実家まで1週間ぐらい歩いて帰ったらしい。
533 :
名無し三等兵:05/02/21 23:18:56 ID:sXouuYOf
ちなみに母親の親父の弟が、潜水艦の乗員で米の潜水艦に艦を沈められて死んだそうだ
やっぱ皆さん話作ってるんですか?
いや、それはそれで面白いんですが・・・
無粋なことは聞かずにスレを楽しむのが吉なのか
山砲だと「馬から卸せ」から発砲まで30秒って聞いた。祖父から。
通信兵をしていたらしい。無線機を目隠しして分解結合って話も聞いたよ。
>535
「作り話」というレスが作り話かも知れないけどな
>>534 ちなみに、資料によると潜水艦に沈めたれた日本潜水艦は15例あるそうだ。
>>535 でなきゃこんなに続くかよ
しかしまあ他人に聞いた話とか
体験記みたいなのを参考にしてるから
全くの嘘というわけでもない
俺は情報小出しにしてるけど。。。全部本当だよ
>520
我が家の話を聞いているようだ。
それどころかうちの祖父さんは、明大から工業大に行き直しているぞ。
520の祖父さんって、昭和8年以前に大学を出ていないか?
戦前の軍縮時代は大卒の兵役義務が27歳まで延長可能だった。
陸士卒が、27歳大卒を使うのは難しいので、
実際に徴兵される人は少なかったらしいよ。
当時は大学に行ける人は少なかったから、
この制度は差別だと問題にはなっていたらしい。
大学生が徴兵されるようになったのは昭和17年以降。
学徒出陣をイメージしてはいけない。
大学生の徴兵は文系が先に始まったんだったかな?
「戦前の軍縮時代」なら27歳大卒に限らず
普通の徴兵年齢でも徴兵されないのが珍しくないわけだが。
徴兵検査を受けて甲種合格でも全員入営するわけじゃないのよ。
544 :
名無し三等兵:05/02/22 17:17:01 ID:kzPD1xQ5
鬼籍に入った爺さんT12年生まれで学徒(現北大農)
見習仕官時代に羅病(病名不詳)
二ヶ月入院 上官の勧めで憲兵試験受け転科
同じような理由の学徒からの18名と憲兵練習所
北海道の分遣隊を転々 最後は札幌
B・C級戦犯 戦後公職追放 貧乏
婆さん曰く
なまじ頭が良かったから憲兵になって公職追放 結婚して肩身が狭かった
だけど最前線に行かないで無事帰って来れたのが救い だから今お前がいるんだ
漏れの義理の祖父、
扶桑の砲兵から呉第1特別陸戦隊に転勤して、
旅順で訓練中に非常呼集→駆逐艦で出動した先が上海だったそうな。
写真見せてもらったけど、クロスレイ装甲車らしき車両が写ってた。
何かグロい死体写真も残っててガクブルダターヨ。
その後いろいろあって、館山で”水陸両用戦車”の訓練をしたと
いっていたが・・・・いろいろぐぐって見ても未だに詳細がワカラン。
結局どこかで別の部隊が全滅して戦力にならないと
部隊は解散してしまったらしいのだが・・・・。
写真をみると、確かに軌装車両なんだが、近すぎて判断できんのよ。
おそらく昭和18−19年ごろだと思うのだが、
誰か知ってる人いる?
ちなみに最終階級は少尉。たたき上げだから
それなりにがんばったんだと思うが・・・。
>>545 >館山で”水陸両用戦車”の訓練をしたと
>いっていたが・・・・いろいろぐぐって見ても未だに詳細がワカラン
『特2式内火艇』で具具って見れば?
>547
4ノットやそこらの魚雷艇なんざ、棺桶みたいなもんだ。
部隊の末路は比島に進出中に雷撃くらって魚雷が誘爆。
船ごとアボ〜〜〜〜〜ン。生き残りはマニラ陸戦隊。
素人でスマソ
この板読んで漏れのジーサンの事思い出した。
実家に遊びいくとバーチャンは正気だがジーサンには
戦争で気が狂ったと言われ近づく事が出来なかった。
粗末な小部屋でぼーっとしている姿の記憶がある。
何時亡くなったのかも知らん・・・
今思えば、なんだっけ・・・戦争後遺症・・・SPD?だっけな?っと思う。
せめてもの供養の為、名前くらいで何処に出兵してたのか調べられますか?
露助の対戦車ライフルか
553 :
545:05/02/23 13:02:58 ID:???
>>546 >>547 ありがとうございまつ。
残念ながら多分ネ申車だと思います。
陸戦隊で砲兵(のちに教官)やってたそうなので
館山砲術学校にあった、という参照サイトのキャプションから
間違いなさそうです。今度会うときに写真もってって確認してみまつ。
上海の戦闘後(
>>545前半のカキコ・・・ご存知とは思いますが
第2次上海事変です)に、41式山砲らしきものと戦闘後に撮った
写真がありましたが、防楯には無数の弾痕、さらにえらく殺気立った顔つきで
鬼気迫るものがありますた・・・・。
異動が激しかった様なので、元気なうちにいろいろ
詳しく話を聞いて時系列を整理してみようと思ってまつ。
扶桑のほかに日向にも乗ってたみたいなんでつが
これは写真が残ってなかったので再確認が必要だなあ。
太平洋戦争じゃないんだけど・・
うちの曾爺さんは 日露戦争に行ってたとか
(80をとうに越した祖母からの伝聞なので 以下かなり怪しい。。。)
農家の長男坊だったので 近衛師団に入って
大陸に渡って大山巌閣下の宿営地でお世話係みたいな事をやってたらしい
(要は 跡取息子なので 最前線は免れたらすぃ ほんとに昔の日本にそんな温情システムがあったのか?)
写真に残る曾じい様は、身の丈も高く、屈強な感じの日本男児だけど、
めちゃくちゃ その時の軍隊内のシゴキ?が厳しかったらしくて
「二度と軍隊にだけは 行きたくない。」と語っていたそうな
それにしても もし本当に 大山巌に直で会ってたとしたら スゲーなぁ
坂の上の雲ファンな俺としては 是非とも その辺の話を直接聞きたかったなぁ〜
>>553 >残念ながら多分ネ申車だと思います
ま じ っ ス か ! ! !
詳しいお話が聞けたらぜひカキコしてくだちぃ。
>>553 >残念ながら多分ネ申車だと思います
それは凄いぞ!
写真うpきぼー。
>545
扶桑乗ってたのはいつ頃でしょうか?
ほんと信じやすい人たちだね
何回騙されれば懲りるのか
プロレス見たことないのか?
分かってて楽しむのが通。
本当だったらめっけもの。
亀レスでは有りますが、戦前の写真が綺麗な理由、1、カメラが高価であつた。
高いので写真館で写した、プロが写すので綺麗だ。2、フイルムが大きい。35ミリ
映画フイルムを使うカメラはとても高価、4x4cm6x6cm版ロールフイルムの
カメラが普及、引き伸ばしせず密着焼付けをした、自家現像は普通であった。
561 :
545:05/02/24 12:44:45 ID:???
えーと落胆させてホントにスマソ。
一応マジレスしとくと漢字ではなくて読みの方でつ>ネ申車=カミ車
扶桑に乗っていたのは昭和8年ー12年だそうで。
6月に陸戦隊に転属して船を下りたそうです。
話を聞くと、戦闘に参加したのはどうやら上海事変のみの
様で、あとはほとんど教官として(館山の件は別として)過ごしたようです。
つか日向の件だけ謎だな。
徳山だか岩国だかの航空隊で、陸戦訓練をしていたときに終戦を迎えたそうです。
航空隊と聞いて飛行機の話が聞ける!と小躍りしたのですが
”航空隊とは名ばかりで飛行機はなかったよ”と聞いてガクーリ。
田舎が遠いので写真の入手はチビシーが
スレが続いていたらそのうちうpしたいとおもいます・・・
果たしていつになるやら(つかカツ車でなくてスマソ)。
気長に待っててくだちい>555,556
>>561 >航空隊とは名ばかりで飛行機はなかったよ
安心してください、
「高射砲隊だったけど、毎日毎日台座構築ばかりで肝心の砲は実物見た事ない。」
「分隊に配属されて、『お前体格良いから機関銃手な!』と言われて何故か竹筒渡された。」
なんて人が沢山いらっしゃいます・・・(´・ω・`)ショボーン
茶碗が竹の輪切りだったとか・・・、勿論、底は竹の節!
レイテ沖の海戦では、お前たちは弾を撃ち過ぎだと叱られた駆逐艦も
あったとか・・・。
負け戦は、ツライネ!
うちのじいちゃんは、日中戦争に参戦後、仙台の部隊(第二師団か?)に行ったらしい。
ちなみに軍人時代に馬を扱ってたんで、未だに馬刺しを食えない。
565 :
557:05/02/25 01:39:09 ID:???
>545
>扶桑に乗っていたのは昭和8年ー12年だそうで。
するとチョコビン砲術長が戦技優秀艦ウマーな演習の時に鉄砲屋として扶桑に乗ってた、と。
いや、ちょうど海軍砲術史をチラチラと読んでたもので。
566 :
名無し三等兵:05/02/25 01:58:44 ID:k0W5KNGz
父方の祖父は天皇陛下?を守るための兵隊だったらしい。
成績優秀で試験に受かってそっちにまわされたと言っていた。
で、元いた部隊、つまり召集がかかった時所属していた部隊は硫黄島で玉砕して幼馴染はみんな死んだらしい。
弟は陸軍のテストパイロットで新鋭機のエンジントラブルで死亡。
あいつは飛行機が好きだったからなぁ、と人事のように話してた。
のこのこ生きて帰って近所ではしばらく肩身が狭かったよ、と言っていた。
>>566 近衛連隊かな
成績だけじゃなく家柄も調べられたらしいね
568 :
名無し三等兵:05/02/25 03:59:36 ID:SwcOEq/b
うちの曽祖父は日中戦争の初めの頃、中隊長だったらしい。
でも大隊長から無理な命令を受けたんだけど部下に反対されて、
上官と部下との板ばさみになった。
それで結局仕方ないから自分が先頭に立って指揮しとったんだけど、
戦死したんだって。
今も家の前にでっかい墓がある。
569 :
名無し三等兵:05/02/25 08:16:01 ID:sSvi+2FD
家の爺ちゃんはロシアの捕虜だった。朝起きると隣の人が目を開けたまま死んでいたから毎日閉じさせてたんだって。
毎日の労働の時も薄い雑炊らしきもの(水分ばかり)しか食べさせてもらえなくて力が出ないからフラフラ歩くと銃でお尻を突かれてたみたい。
571 :
名無し三等兵:05/02/25 18:52:49 ID:v2sE2Gwi
うちの死んだじいちゃんは、軍曹だったらしい。
馬の世話してたら蹴られたらしい。後、銃弾が貫通した跡があったなー・・。
富士山をバックにふんどし一丁で小隊で写ってた写真があった。
昔の日本人は今ほど食糧事情が良くなかったのに、皆、凄い体してた。
>>569 知り合いの知り合いのじいさんもシベリア帰り。
衛生兵だったけど栄養失調のため自分が病気にかかり
顔が腫れ上がりボロボロになり、
引き揚げてきたときは
別人のような容貌になってたため、
家族から「どなたですか」と聞かれた
伝説をもっている。
573 :
名無し三等兵:05/02/25 20:13:23 ID:Jx2k0OUF
うちの婆さんの弟もシベリア帰り(軍曹)
復員の翌朝、体中の皮が一皮全部剥てたって。
病に冒され、入院のベッドの中で
「俺はチャンコロやロスケを沢山殺した、
こんなに苦しいのはその罰が当たったんだ」って言ってた。
↑
戦争だから殺すのが当然じゃん
何一人で罪背負い込んだ気になってんだ
戦争に負けると罰まで受けるらしい
>>537 そりゃあ、気の毒に。
捕虜を洗脳した中国共産党には吐き気がしますね。
576 :
名無し三等兵:05/02/25 20:23:44 ID:z2sVBcEo
うちの婆さんの話だけど、戦時中は女学生で、
工場への勤労奉仕に借り出されていたらしい。
行った先は岐阜県各務原市の川崎重工で、
エンジン部品の検査工程を手伝っていたそうだ。
その工場の外には、エンジンの無い飛行機の機体が
ずいぶん多く並べられていたということだったけど、
これって、川崎+エンジンなし飛行機=飛燕 なのかな?
>>576 小学生でも考え付きそうな底の浅い創作ですね
おれのじいさんじゃないんだが。
下宿のオヤジがシベリアがえりだった。
地元の共産党のえらいさんだった。
で、ロシア語もわかる。
きっと洗脳されたんだろうな。
579 :
名無し三等兵:05/02/25 20:41:57 ID:Wp0ySrWS
まんがで読んだ。
零戦はやてだったかな。
共産党員の中には結構シベリア帰りがいるよね。
失礼な!モスクワ帰りと言い給え!
彼らはクートベで日本を革命するために頑張っておられたのだぞ!
583 :
名無し三等兵:05/02/25 21:02:57 ID:j1sWp0ay
先輩の下宿は普通の家に住み込むという古式ゆかしい形式だったが
大家さんは海軍少佐の未亡人だった。下宿人の一人はじいさんで
非合法時代の共産党の一員で特高に捕まったこともあると言っていた。
二人の語る戦前、戦中のエピソードはどこまでが事実かは分からない
(記憶違いもあるし)が面白かった。
なんかネタに思われること多いみたいだが、、
祖母は国民学校高等科を出て和歌山の某工場に見習い工として動員された。(話では15歳くらい?)
どこかに石川島の工場があって、そこに納品する飛行機?の部品を作っていたらしい。
空襲下での爆弾の判定方法として、爆弾が横方向に伸びた棒状に見えたときは安全、点に見えたときは向かってきているので危ない。
と教えられて実際そうやって逃げた模様。
とにかく敵機がこちらにまっすぐ向かってきている時は距離感がつかめず、みんな右往左往するばかりだったと。
じいさんの戦争体験ではないが。
ガキの頃、田舎のばーちゃんに連れられておもちゃ店にいき、
プラモデルを買ってもらえることになった。大和のプラモが欲しい!
と思ったが、手頃な値段で買えるものの中に、大和はなくあったのが
日向。こんなんやだなー、と渋ってたら、ばーちゃんに「これは伊勢と
いう名前の船とならんですっごい強い船だったんだよ!」と嗜められた。
日ごろ、ただひたすらやさしく、戦争の香りなぞ全くしないばーちゃん
だったので、そのばーちゃんから戦艦の固有名詞が出てきたことに
驚いたし、「強い船」という形容がでてきたことにも驚いた。身近に
戦争の影を初めて感じた小学1年のころ・・・・・・
伊勢級が強いかどうかは戦績からは微妙だが、
貴殿の祖母は間近で見たとか親族知人が乗ってた
とか何かしら思い入れあるんだろうな。
>>585 ニチモの30cmシリーズかな?
だったら大和もある筈だが。
というヨタ話は置いといてw、単に日向に見学で乗ったことあるんじゃね?
ウチのばあちゃん(鬼籍)も霧島に見学に行ったって言ってたよ。
>>587 大和は最高機密だったから当時を知る人には「伊勢」やら「日向」の方が有名なんだろうな。(長門の方が知られてるかもしれないけど)
関係ないが
鬼籍って
鬼になったみたいで嫌な言い方だね
護国の鬼という言い方もあるが
>>589 だって、実際、その通りだし。
「鬼籍」という場合の鬼は、死者という意味だよ。
47歳になる者だが、高校の先生方が皆さんのおじいさんぐらいの歳であつた。
陸士海兵、陸軍の甲幹乙幹、予科練海兵団、大尉から2等兵までいた。中年から
停年までの先生は大抵軍隊に行かれていた、乙幹の軍曹殿「日本史の先生」の
員数の合わせ方の話は大うけだつた。体育の先生に陸士出の先生がいて、手荒く
しごくので、「鬼」『陸式のバカ』「兵隊じゃあねぞ」と生徒は文句をたれていた。
みんな父叔父祖父が従軍しているので、今の子より軍には詳しかった。
大して面白い話ではないが、許しておくれ。
俺の叔父は戦時中、駆逐艦乗りだった。普通の一兵卒だったし、恵まれた体躯でもなかったが、
泳ぎだけは人一倍達者だったそうだ。停泊中のある時、「誰が一番泳ぎが上手いか?」という
話題になり、艦内の泳ぎ自慢達が集まって競技会を開いたそうだ。腕に覚えがあった叔父は、
もちろんこれに参加しようとしたが、周りは笑ってばかりで、まともに相手にされなかったそうだ。
何故なら、叔父は(俺もですが)海のない長野県の出身で、海軍入隊まで実際の海を見たこと
すらなく、海沿いで育った他の兵隊達には、とても敵わないと思われていたとの理由があった。
やがて競技会の当日となり、下馬評に関わらず叔父も参加した。そして具体的な競技内容は、
「潜水してどれだけの距離を泳げるか?」という事に決まり、参加者全員が一斉に駆逐艦の
船首部分から飛び込んだ。停泊中とはいえ、潮の流れもあり皆次々と、浮かび上がって来る。
しかし、その中に叔父の姿が無く、てっきり溺れたものとされ、甲板上は大騒ぎになったそうだ。
ところが、やがて艦尾からひょっこりと、叔父が浮かんで、大騒ぎしている様子を不思議そうに
覗きながら甲板に上がった。溺れたと思っていた一同は、びっくり仰天。その後の叔父の話だと
「海に飛び込んで船体の底越しに潜っていたら、スクリューと舵が見えたので浮かんだ、もっと
潜っていれば良かった」というもので一同、更にびっくりしたという事。この出来事がきっかけで、
叔父は「河童」というあだ名を付けられ、艦内で一目置かれる存在になったそうな。
>>594 駆逐艦と潜水艦乗りは
半端じゃなく根性があったとか・。
戦前の日本が論理的な実力主義なら、
歴史が全く違ってたはず。
日華事変回避できるなら、替わるかも知れんな
>595
その場合日本は昭和を迎える前に滅亡確定です。
明治以後の急速な官僚化は、
「規則通り動ける人員を迅速に集める」という明治期の要請に沿ったモノ。
あなたの言うような「論理的な実力主義」なんてもんは、
大多数の典型的官僚に支えられた一部の異才、という構図を見誤った暴論ですよ。
キングやハルゼーやスプルーアンスのような変人だけで組織が構成できるとお思いですか?
また、米海軍の変人が彼らだけだったとでもお思いですか?
スレ違いの議論を続けるのは、気が引けるが・・・。
597のレスにある「大多数の典型的官僚に支えられた一部の異才」の構図は、
明治後期より大正中期の日本に当てはまっているような気が・・・、そしてそれは
595のレスでいう「論理的な実力主義」にほぼ当てはまっているような気がする。
大正後期から昭和にかけて組織が硬直化し、「規則通り動ける人員による官僚組織」
と「暴走する一部の軍人等(松岡洋右を含めて)」で無茶苦茶となってしまった
ような気がするが・・・。
まぁアレだ、済んでしまった事よりこれからの事を考えるベw
その為には『先人の体験を聞き良い事は続け悪い事は改める』為にこのスレは貴重だベ。
600 :
名無し三等兵:05/02/27 04:01:37 ID:lM0Z73pR
婆さんの話で恐縮だが、舞鶴の海上自衛隊基地に行ってきたらしい。艦船にも乗ったようだ。ただ、イージス艦がインド洋に行っていて見れなかったことを残念がっていた。
話を聞いているとなんでも婆ちゃんは帝国海軍時代の舞鶴基地に行ったことがあるらしい。
帝国海軍の艦船はまさしく歌のとおりの黒がね色だったようだ。
あとは東郷元帥の展示があったらしく、元帥の話を俺に話を聞かせていたが、どこからか乃木大将の話がまざっていた。
婆ちゃん、ボケてきたかな?でも、海自と帝国海軍の船に乗ったことがある人って少ないよね?
俺の父方の祖父は戦時中満州にいて、戦場には出ていない。
戦後、シベリアに抑留され、その間ジャガイモばかり食わされていたということで、今でもジャガイモは食えない。
現地の古老が彼を屋上に連れて行ってこういった。
「あの立派で頑丈そうな建物は帝政時代に立てられ、あっちの今にも潰れそうなのは革命後のものだ。
だからあんたも、国に帰ったら共産主義なんか広めさせちゃいかんよ」
彼をもっとも悲しませたのは不味い食事でも日に日に倒れていく友人でもなく、ロシア人にへつらう情けない日本人の姿だった。
ヒトラーの亡霊がスターリンを批判する小説を書き独房にぶち込まれ、出てきたら
「このトロッキストが!」
と、トロッキーの名もろくに知らない日本人に囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けた。
ドイツ人は、
「次はイタリア抜きでやろう」
といいつつ、平気でヒトラーを讃える歌を歌っていた横で。
そして五年目に帰国。多くの日本人が代々木に入党しに行った。港で厚生省から千円(今で言うと10万円程度)もらったのに。
ロシアでは想像も出来なかったような美味いものをその金で存分に食えたのに。
やがて彼は教職につき、当然日教組と摩擦を作った。それが、彼の戦争の始まりだった。
602 :
601:05/02/27 04:46:50 ID:???
一方母方の祖父は、瑞鶴に乗ってラバウルに行き、氷川丸で帰った。
ラバウルではごく標準的なパイロットだったらしい。
スコアは単独で8機、共同で18機。エースであることは間違いない。
ついでにいうと、俺がその数字を知ったのは、アメリカのサイトでだ。
ある日の出撃で彼は被弾した。気がつくと右手が吹っ飛んでいた。それでも左手一本で不時着し、麻酔なしで
腕を切断する手術を受けた。そして帰国。入院した病院の看護士が、俺の祖母だ。
退院後山形で教官になる。もしかしたら特攻隊を訓練していたのかもしれないが、それを聞く勇気はない。
幸いなことかどうかは知らないが、一人前になる前に戦争が終わった。戦後も彼らとの付き合いは続き、
今ではその教え子の訃報が届くようになった。
敗戦。進駐軍に没収されないように軍刀を故郷の北海道の山に埋めた。
バイク、囲碁、将棋、麻雀に没頭する遅い青春を謳歌した。弟はなぜか海上自衛隊の航空部隊に入った。
イラクに行く自衛隊について話したことがある。
「死んだら幾ら位でるんだ」
「一億だってさ」
「それなら安心だ。昔は名誉の戦死といっても、一銭も出なかったから」
エースとしての過去を根掘り葉掘り聞いてくる人が多かった中、彼はそんな思いを持っていたのだろう。
もう死んでからずいぶん経つが、母方の祖父は赤城を見学したらしい。
(戦争は結核のためいっていない)
「甲板が木張りで前のほうででっかい段になっていてな…」
3段空母時代でしたか…
>602
海軍甲事件の時のお話は良く聞いて置いて下され。
>>602 山本五十六護衛機6機のうちの唯一生き残った一機の人?
超有名人じゃん。
607 :
名無し三等兵:05/02/27 10:44:39 ID:B7qERaPm
お爺さんは大陸で罪のない中国人民を殺し犯し略奪しました
お爺さんは反省しています
命令をくだした日本も反省すべき
>>607 団塊孫キター!
どうぞどうぞ、お茶とお漬物を、唐辛子は多めにしておきましたから。
高粱飯のお食事の準備も出来ております。
南方作戦に志願兵として祖父は従軍したらしいが
そのせいで、なま物を食えなくなったらしい
なま物を食べたら腹にあたると口癖のように言ってたそうだ
千葉県長生郡白子町の死んだ祖母の話
終戦の二日前昭和20年8月13日
現白子町、当時の白潟村の中里海岸沖(九十九里海岸)
に米潜水艦が浮上艦砲射撃を始めたと言う
とうとう上陸作戦が開始されると思い、着の身着のまま非難を開始
上空には米陸軍機が旋回し生きた心地がしなかったという
そんな中終戦の玉音放送を聞き、内心ほっとしたそうです。
実際、九十九里の防衛が出来ていないということも、
先帝が終戦を決意された一因とか。
これ阿南、銃剣すらないではないか
コロネット作戦では確か千葉の辺りに上陸する予定だったっけ?
死ぬならもう一日前に死ねよっ
と内心思わないでもなかったりな
ごめんなさい誤爆しますた
>>602 おお、あの方のお孫さんですか。「零戦燃ゆ」に出てくる彼の半生は
作品全体で最も心を打つ件でした。戦後も苦労されたようですね。
大事にしてあげてください。
騙りだろ
分かってるよ
うちの祖父さん、背が高かっただけで兵隊になれんかったとぼやいてた。
九十九里といい湘南海岸といい、首都近郊に上陸作戦に格好なところがあるのは問題だなぁ。(w
そこで京都に遷都ですよ!
京(新京)が首都で
怪事はホノルルかサンフランシスコというのは?・・・
>>621 徳川家康の頃は日比谷の入り江埋め立てるだけでよかったんだが・・・
625 :
名無し三等兵:05/03/02 00:42:34 ID:u+YhF75k
おじいさんなら元傭兵でアルプスに住んでるよ。
>>625 まあ、アーデルハイドがまた変なことを言っている
チネッタ!セバスチャン!誰かこの子を連れていって
627 :
名無し三等兵:05/03/02 10:32:58 ID:DLTZEVBj
俺の叔父が桜花隊だったそうで本家には軍服姿の写真が飾ってあったなぁ
628 :
名無し三等兵:05/03/04 01:10:44 ID:vAM+I8fF
爺ちゃんがなくなった後家の整理をしてたらきれいな和服姿の女性の写真が出てきた。やけに古い写真と思って裏を見てみると、昭和15年満州国牡丹江にて買った田中絹代のプロマイドと書いてあった。あの亭主関白でとて厳格だった爺ちゃんにこんな一面があったとは。
>>628 爺ちゃんが、なくなった”後家”の整理をしてたら・・
と読んでしまったヨ
630 :
。:05/03/04 02:23:48 ID:E+sgUY2B
俺の父方の爺ちゃんは終戦間際に徴兵されて、西宮(兵庫県)で爆撃機に高射砲を撃ってたらしい。
「爆撃機は物凄く高い所を飛んで来るから、こっちが幾ら撃っても弾なんてちっとも届かんかった」って、俺がまだ小学校低学年の頃によく言ってた。
上官には何かにつけ殴られてたので、皆で「醤油をがぶ飲みして熱出して倒れよう、そしたら殴られずに済むかも知れん」とか考えて、実際にやってみたんだけど、「気持ち悪くなっただけで熱なんて出んかった」とも言ってた。
そんな爺ちゃんも、昭和の終わり、俺が小5の運動会の日に、胃癌で亡くなりました。
>>608 >>609 荒らしねぇw
会社にむかし、中国で命令で首を切らされた方が居られたので知っていますが、
捕虜虐待とかやらされた方は、
我々には伺え知れない、本当に深い傷を負っていますよ。
ある時にはそれを自慢げに(素朴な武勇談、戦場談として)、
ただしやはり戦争体験者に語られるかと思えば、
またある時には話したくても誰にも話せないってのが事実でしたね。
同僚にはシベリア抑留体験者もおられましたが、
その方(中国戦線従事者)を語る際には複雑な感じでしたよ。
PTSDってヤツですね。
>>中国で命令で首を切らされた方
イコール
>>捕虜虐待とかやらされた方(特に捕虜虐待)
とは言えないと思う。
まだご存命であれば、その辺詳しく聞いて下さい。
便衣兵処分は「捕虜虐待」ではありませんから。
↑
三光の読み過ぎで中毒。
思いっきりテレビでインパール作戦と戦後の遺骨収集をやってたよ。
3月4日は遺骨収集団が初めてインパールに入った日だそうだ。当時は
インドの反政府ゲリラの活動が活発で、交渉の末にようやくインパール市内
のみの立ち入りを許されたそうな。現地に入ったら地元民が数十の遺骨を
市の郊外から収集しておいてくれていて、それを前に慰霊祭をとりおこなった、と。
で、従軍した人のインタビューのビデオも流していた(30秒くらいだが)。
ものすごい遠視メガネ(老眼だね)の爺さまが、「そこらじゅうに遺体が転がって
る道を、戦車と飛行機に追いまくられて逃げてきた。(死者を)一緒に連れて
帰るなんてできなかったです。」と、しゃべってる間はある程度笑みを浮かべたり
して普通のご様子なのだが、しゃべり終わった後の一瞬、遠い眼をして、放心
したかのような苦悩をこらえているかのような微妙な表情になってため息をついた。
ビデオはそこで終わった。
ああいう表情はさすがに実生活では見たことがないなー。なんつーか、
まあ日本語としては変だが、オレ的には愕然とした。というか魂を抜かれる
ような衝撃があったよ。あんまりすごいもの見ると、悲しいとか同情するとか
そういう感情ではなく、まず最初に強い衝撃を感じるものなのかもしれん。
ちなみに、現在までに遺骨の7割を収集できたそうな。6.5万人くらい死んでる
ようなので、それを7割ってのはほんとにGJ。
祖父ちゃんニューアイルランド島に行ってたらしい。
オヤジは今硫黄島に出張(空自の整備)
自分は来月陸自に入隊
お父さんにさそりはお土産にしないようにいっておきたまえ。
638 :
名無し三等兵:05/03/04 18:03:54 ID:PjGw4oIc
まずいの?俺の叔父さん、空自でぃょぅ島に行ってたとき、さそりを土産に持ってきたぞ。
父方の祖父が海軍の将校だった。でも、俺が3歳の頃に死んじゃった。
生きてたら色々話を聞きたかったな。
>>634 意味がよく分からない。
「便衣兵処分」は歴史的事実。
「捕虜虐待」はかなりグレーな話。
漏れは皇軍に「三光作戦」など無かったと思っているが
「便衣兵処分」は有ったと思っている。
便意兵はいっぱいいたと思う。
盧溝橋事件の引き金にもなったしな。
>>641 地元の古老:(何のためらいもなく)「オラ、戦争ン時は上等兵でな、人は殺したし、女子も強姦したし、家も焼いたりしたな。」
ミニコミ誌記者:「いわゆる“三光作戦”ですね?」
地元の古老:(何故だかちょっと照れながら)「い、いやいや、そういう事はせんだがな(赤面」
ミニコミ誌記者:「???(何かの勘違いか聞き違いだろうか?)」
別の古老(町会議員):「戦争中は満州で兵隊で、食うモンなくて、人肉も食うた。」
ミニコミ誌記者:「・・・う、美味いんですか?」
別の古老:(顔をしかめて)「あ〜、ありゃ止めた方がええ!」
ミニコミ誌記者:「・・・。(人道的な事じゃなく、単に不味いのね)」
うーん、○で意味無しだな。
死んだ兵隊の事はエーレーエーレーと崇めるが、
生き残った兵隊はボケてるだのサヨだのと貶すのが軍板クオリティー
>>645 そうでもないぞ。
一部のスレは645の言う事も当たってるが。
>>638 硫黄島には固有種か亜種の無脊椎動物が何種類かいるらしい。
そのうちある蠍は自衛隊員が捕獲してお土産にしたために絶滅
したという話がまことしやかに囁かれている。事実は知らん。
どっちにしろ生物相が独特な南海の孤島から動植物を持ち出し
たり持ち込んだりはせんほうがいいということ。
硫黄島、水鶏が1種、皇軍将士と共に玉砕しているからなあ。
650 :
602:05/03/06 19:22:19 ID:???
>>604 残念ながらその件についてはもういい話し飽きたらしい。
さっき豊田有恒氏の「いい加減にしろ」三部作を渡したところ、「北朝鮮よりも中国よりも韓国が一番駄目だ」
と延々30分ほど語ってくれた。…お祖父ちゃんがあんなに熱く語るのは初めてだった。
651 :
604:05/03/06 21:42:57 ID:???
>602
お元気なうちに何か書き残されるようお願いします。
インタビューや取材記事は多いのですが・・。
どうしても書き手の主観というかフィルターがかかりますし入ります。
652 :
名無し三等兵:05/03/06 22:07:23 ID:PbCHO7xL
NHKスペサル東京大空襲みたけど、
米帝は鬼畜だな
いつか痛い目を見させてやらんと
>>654 三千人死んだぐらいじゃ足らん。
パレスチナで死んでる分にも足りてない。
反戦は正解だが、NHKは偏向している。
だれも好んで戦争をする人間なんかいない。
「日本がなぜ戦争に突入したのか」という問題や
「米太平洋艦隊壊滅、マライ侵攻」なんて絶対にやらないだろ。
!
?
659 :
名無し三等兵:05/03/07 00:38:12 ID:GtiQ1z1E
漏れのニューギニア帰りの陸軍中慰だったジチャーン(86歳。超元気)のいとこ(88歳。超元気)はもっとすごかった。海軍整備上等兵曹だったんだが飛龍に真珠湾からのっててミッドウェーにも参加したらしい。ジチャーンの弟は桜花搭乗員だったし軍人一家だな。うちは
当時小学校高学年だった爺ちゃんは戦闘機に使うゴムを盗んできては
模型飛行機に使っていたそうな。
最初から入ってたやつはすぐに切れるけど、戦闘機に使うゴムはぜんぜん強度が違うそうです。
「どうせ飛ばないんだから盗んでも変わらない」
だとか。
ほかにも部品を内緒で拝借してる人は多かったそうです。
そういえば歴史のための戦争番組って0になったな。
うちの死んだじいさん海軍の通信兵で、飛行機の翼の中で腹ばいになって
無線送ってたらしいんだけど何の機かわかる人いますか?
情報はこれだけです
転送されました。
デデンデッデデンデン
デデンデッデデンデン
↑これターミネーターなのかなあ。。。
>>664 716 名前:名無し三等兵 投稿日:05/03/09 20:46:24 ID:???
>>708 銀河ではなかろうか?
>>668 バトルフィールド1942のテーマ曲だと思われ
>>163 北上の後藤野飛行場(跡地)なら家のすぐ近くにあるー!
うちのじいちゃんはまだその頃は学生だったが、家に後藤野飛行場の通信所が設営されて
毎日 戦況やらを盗み聞きしていたそうだ
機関銃の薬きょうを物珍しいので拾い集めていたら兵隊さんに怒鳴られたらしい。
>>164 釜石の艦砲射撃のときは結構前に情報をつかんでいたらしく『いよいよくるぞ!』
見たいな状況だったらしい。艦砲射撃の日には釜石の状況を無線で実況中継(?)されてたらしく
様子をうかがう事ができたらしい。
後藤野飛行場からの特攻は赤トンボではなく、99式双発とか言う飛行機で行われたらしく、
3機出撃して1機は『特攻行う』の無線を最後に行方不明。もう1機は敵艦発見できず、宮城の海岸に不時着失敗→死亡
さらにもう1機はエンジン不調で帰ってきたらしい。
赤トンボは終戦後放置され、後に爺ちゃんと結婚した婆ちゃん家の畑に放置されていたようだ。
岩手の山奥でも戦争の波はちゃんと届いていて驚いた。
空襲とかって関東とかの方ばかりと思ってたから。
ウチの婆ちゃんの話、東京の女学校に行っていたそうだが、
余りに状況がやばいと察した大叔父が、女学校の寮の前で座り込んで故郷に帰ってくるように言ったと言う、
そのお陰で婆ちゃんは東京大空襲に遭遇せずに済んだが、
大叔父は東京に残ったため火の海を逃げ惑う羽目になったそうな。
>大叔父は東京に残ったため火の海を逃げ惑う羽目
不謹慎だがワロタ
ルメイ氏ね
675 :
672:05/03/10 18:39:54 ID:???
思い出したので追記
当時は男が妹の為とは言え、女子寮の前で座り込むなんてのは
考えられない時代だったそうで、寮の人は大層驚いてたとか・・・
今でも女子寮の前に座り込むのはちょっと・・・・
だよな?そうだよな?時代はもうそんなマンガ展開OKなのか!?
677 :
名無し三等兵:05/03/12 02:52:15 ID:5qL/CMi4
うちのじいちゃん呉に配属されて終戦間際の
呉の空襲で乗っていた駆逐艦撃沈されて海に投げ出されたらしい
その時の傷が残っていて小さい頃傷見ながら当時の話をよく話してくれました
>>674 うぁー、読んでるだけで戦場がどんな物か分かる・・・、かなりスゲかも。
>>671 >機関銃の薬きょうを物珍しいので拾い集めていたら兵隊さんに怒鳴られたらしい。
おまえさんち 立派な「軍オタ」の血筋だなw
680 :
671:05/03/13 23:34:42 ID:???
『だって、イッペー落ちてたからよー』
と、爺さんは言っておられます。
終戦直後に、民間のトラックがロケット弾で爆撃されたときの不発のロケットも拾ってきてたみたい…
それは20年前に廃品回収に出しちゃったんだってさ
戦後、薬きょう拾ってた婆さんが米兵に面白半分に撃ち殺されたという
事件があったな。
ネタも尽きてきたんで・・・お爺さんじゃないけど勘弁
十年位前、俺の母校に英語教師な被爆者が居た、
半身には被爆当時の火傷と負傷の跡がハッキリと残っていた、
・・・彼にとって、アメリカとは何なのかと考えさせられた
うちのジーさんは兵器開発を担当してたそうだ。
お婆ちゃんの曾おばあさん…ってことは俺からするとヒイヒイばあちゃんの話
お婆ちゃん子供の頃「ヒイ婆ちゃん空襲だってよ防空壕いこうよ」
婆ちゃんのヒイ婆ちゃん「あたしはこの家と一緒なら氏ねます…」
祖父が日曜に亡くなりました。
ここで質問するのはスレ違いかも知れませんが少しご協力をお願いしたく書かせて頂きます。
晩酌しながらよく戦争の話をしてくれた時に階級章やらを見せてくれていたのを
思い出して遺品を探していると部隊の隊員名簿を発見しました。
そこには「北部第二八七七五部隊」とありましたが、ググってもどの様な部隊だったのか
判明しませんでした。
恐らく特設部隊かと思いますが調べるのに最適な文献等はないでしょうか?
じいちゃんの話では函館の船舶工兵だったらしいです。
以前は軍隊手帳も保管してあったと記憶しているのですが見つからなくて困っています。
二等兵の階級章、星に錨の船舶工兵き章、部隊章?(錨に北部軍の「北」と28775)、出征記念?の
ハンカチ(たぶんスフ製)だけが手元にあります。
まずは祖父様に黙祷。
本当なら、このスレでも連絡船スレでも
たくさんの貴重な話を聞かせてくれた方だったのに・・。
このスレだからこそ、おじいさま世代に語って欲しいよな。
ようやく祖父の葬儀も終わり、少し落ち着いたので書かせて頂きます。
先日永眠しました祖父(享年85歳)は農業学校で学び、
故郷の農村開拓に打ち込んでいた昭和17年に現役兵として善通寺第216部隊に入営。
幹部候補生として訓練に励んでいた時に旧満州・黒龍江省の虎林へ渡りました。
戦闘で二発の銃弾を足に受け、また大砲の轟音で両耳の聴力をほとんど失い
満州各地の陸軍病院を転々とし、内地送還となったそうです。
満州時代には、おそらく病気で子供を失い悲しむ支那人に、
遺体を包む白い布を提供するといった事もしたそうです。
詳しくは分からないのですがかなりの激戦も経験したようで、
100名余りの部隊(?)のうち、生存者は祖父を含めて8名だったそうです。
内地送還後は傷痍軍人の社会復帰の対策でしょうか、教職の免許を取り、
聴力もある程度回復したため戦時中から戦後にかけて中学の教師をしておりました。
その後、自らの体験を生かしてろう学校の教員となりました。
功七級金鵄勲章や甲種傷痍軍人記章を賜ったのですが、決して手柄については
語らず、障害を得た後も国を愛し、また静かに孫達にも国を愛する気持ちを伝えてくれました。
その勲章類は形見に頂いてきました。
戦争体験とは少し離れた事も書きましたが、某スレでみなさまに
大変お世話になりましたので、後日談も含めて長々と書かせて頂きました。
亡き今も私にとっては自慢の祖父です。
>>689 某スレの15です。
まずはおじいさまに合掌。
後日談含め、お話ありがとう。
692 :
名無し三等兵:05/03/16 20:59:14 ID:nhTjDv6C
>>685 ぶっちゃけ、「兵器を開発してた」以外何も話してくれんとです・・・。
>>692 もし、回天、震洋や桜花といった特攻兵器開発に携わっていらっしゃったら、
それは辛かった思い出でしかないと思います。
あまり無理に聞かないほうが良いかも・・・
>>691 もとの陸軍なら当時の本籍地都道府県、もとの海軍なら厚生労働省が所管になって
違うほうに聞かれても知らないってのも何度もガイシュツなわけだが。
家の爺さんは終戦時高校生だったそうだ
空襲で住みなれた町が焼け野原になっていくのを丘の上から眺め、絶対にアメ公には復讐してやると誓ったそうな
その爺さんは警察予備隊に志願して数年頑張った後退役、その後は漆塗り職人として頑張ってました
もう鬼籍に入って久しいけど、孫の俺は爺さんの意志を引き継いで自衛官志望中
>>695 復讐の気持ちもちゃんと受け継げよ。
鬼畜米兵の下請けで終わるつもりか?
>>696 彼は今よりも平和な世界を願ってると思われ。
今の飴の方法論に両手を上げるヤシは少ないだろ。
オレは彼を応援したい。
真の敵は朝鮮人にそそのかされて買収される層化孔明党や
拉致議連以外の自民党、完全に中国朝鮮よりの左翼民主党。
人権擁護法案に絶対反対!
じゃあ抗議して来い
700 :
名無し三等兵:05/03/18 12:16:23 ID:1BzFXX1g
じいちゃんは戦前、炭鉱の落盤事故で片足なくして徴兵されなかった。その後
時計修理工になって戦時中は割と羽振りがよかったが、戦後のインフレで
蓄えを使い果たしたらしい。
大叔父が2名出征し1名戦死。
位牌には陸軍伍長、比島 呂床島 リザールアンチポロ付近にて戦死とある。
叔父が上海のウースンクリークで戦死してるんだけど、職業軍人かな?
うちの爺ちゃんは戦後生まれだ
>>701 日比野士朗「呉淞クリーク/野戦病院」中公文庫
で、おじいさんを偲んで下さい。
友だちの母親は日系アメリカ人なのだが、彼の祖父は
大戦中、アメリカ陸軍にいたらしい。442連隊なのだ
ろうか?
当時中学生ぐらいだった爺ちゃんは工場で働いてたらしい
夜勤は空襲の関係もあってほとんど仕事せずに逃げてるだけでいい上に
昼間より給料がいいから喜んでやってたとか。
航空機の部品作りながら「こんな飛行機じゃ勝てんわな」
って思ってたらしい。
本当かどうかは知らんけど
「九州まで飛んだらもうオーバーホールしないと飛べないぐらいにガタガタになる」
って言ってますた
おれの父方のじいさんは
トラック島で軍属としてトラックの運転してた
(いやおやじギャグじゃなくてマジ)
当時ではめずらしく大型免許あったんで
けっこうイイ稼ぎになったらしい
最初は戦局もまたーりしてたけど
だんだんやばくなったんで帰国第一陣で
帰れたけどあとの人たちは帰れなかった人も
かなりいたらしい
運命ってあるのかな
>>708 >
>>707 > 賃金貰ってたってことは軍属、徴用?
おれの父方のじいさんは
トラック島で『軍属として』トラックの運転してた って書いてあるが?
スマソ。
>(いやおやじギャグじゃなくてマジ)
こっちに目が誘導されて、俺も同じこと聞きそうになったから。
トラック島はアメちゃん無視して行っちゃったから、
戦時中に帰れなかったとしても戦後に何ぼでも帰れそうだけど
・・・移動中にやられた人が多かったのかな?
>>686殿
漏れの祖母の祖母は東京大空襲のときに亡くなりましたが
江戸末期の生まれの依る年波で目が悪く
一人では歩行困難だったため祖母が連れて逃げようとしたのですが
家の柱にしがみつき
「あたしゃ目が見えないから逃げても仕方がない」と言ったそうです。
結局祖母は抱いていた娘と命辛々生き延びたものの
散り散りになった家族は勿論、曾々祖母さんも家と運命を共に・・・
田舎の親戚を頼って疎開する前日(って言うか当日?)の事だったそうです。
>>687殿
謹んで御悔やみ申し上げます(-∧-;)
崇神敬仏の祈念篤く今後も祖霊を奉られん事を願う。
祖父のアルバムを見ていて戦友の写真の一枚。
背景の煉瓦造り建物に「突撃隊本部」というなにやら立派な表札が。
組織としての突撃隊なんてあったのか!ていうか何やってたんでしょうか?
>>715 おそらく現地で勝手に付けた名称かと。
「突進隊」などと、その手の勇ましい名称を付けた部隊の例は多いですよ。
>>716 成程。サンクスです。
あと、左胸に普通に名札を張ってるのもあるんですが、旭日旗みたいなのをはってるのもあるんですが
なんの意味なんでしょうか? 北支なんで便衣兵との区別ですかね?
>>693 だからあまり話してくれないのか・・・、でも生きてるうちに聞きたい〜('A`;
終戦後は内視鏡の何かに携わったとか言ってたけど・・・。。。
>>705 工場勤務の中学生でも質がいい、悪いとかわかるのか・・・('A`)
>>705の爺さんや少年Hみたいなのが当時の戦争指導者だったら
日本は勝っていたと思われ。
オレは機械関係の仕事をしているが、新人の加工者と
経験者の差はメチャメチャに大きい。
一番大事なことを学校で教えてくれない。
新人は入社後すぐに経験者との実力差を思い知る。
素人が旋盤やフライスを扱う時点で負けてるよ・・。
>>719 もう見た目からして危なかったんじゃない?
一つ一つ形が違うとかw
うちのじーさまでないんだけど
近所のじーさまは陸軍でパイロットを目指していたけど肺やられて
配属一歩手前で挫折しちゃって
ただ知識とかはあるんで技術系のほうで務めて居たらしいんだが
末期には鉄道が寸断されて満足に出張にいけない
どうしようと上に相談したら旧式の一式戦を用意されて
これ乗ってけと言われたらしい
500キロも出ない一式戦だから米軍機に見つかったら命が無いので
必死こいて周囲を見回しながら飛んでて生きた心地しなかったそうだ
それが最初で最後の戦闘機搭乗経験だそうだ
>>719 中学の時の先生が、勤労動員の経験者で、当時の話をしてくれたが、
最初は検査なんか厳しかったらしいのだが、負けが込んできてからは、
とにかくノルマ達成が第一で、以前は社内検査ではねていたような不良品も、
そのまま納品していたらしい。
ヒドイ話しだね・・・
こんなところからも、敗戦色が色濃いことを庶民は察知するんだろうね。
末期の頃は、飛行機の機体にミリ単位の大きな隙間が
できてるような、明らかに組み立て不良な物が最終の
検査にまで廻ってくるようになってたと、聞いたな。
>715
そりゃ、自爆テロ要員だよ。
伏龍か第71突撃隊でぐぐってみ。
808 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:05/03/19(土) 02:30:03 ID:hnbRG0qG
昔、台湾のラジオ?かなにかで、日本語で戦前を懐かしむ台湾人(お年寄り)の対談
を聞いたことがあるよ。
イメージ・カルチャーだったと思うけど、今どこにあるんだろうか。
日本人よりも、日本人らしくて驚いた記憶が。
816 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:05/03/19(土) 02:39:44 ID:hnbRG0qG
>>808 やったー
見つけたー
ito_san3で検索したら出てきたー
http://054.info/ ファイル番号:4656
受信PASS:1200
>>728 ドイツじゃ工場によって翼の高さが1cmほど違ったりしたようだぞ
687です。
レスくれた皆さんありがとうございます。
無事に葬儀が終わりました。
あの後に遺品の整理をしていると、6.5mm小銃弾・在郷軍人会会員微章なんかも出てきますた。
私も自衛官の端くれとして諸先輩の名誉に恥じぬよう任務に邁進したいと思います。
ウチのじいちゃんが、ウインドトーカーズを今見て、
「陣地に篭って優位な日本軍が斬り込み、ありえねー!!」
と叫んでいますが、アンタ当時まだ国民学校生徒の小僧だろ!!!
ハゲワロタ
当時の小僧の軍事知識なめたらあかん
何故か連射できて弾が無くなったから切り込んだんですよ
知らなかった。三パチって連射できたんだ・・!
しかし、あの映画くらいだよ、
まともに重火器を持っていて戦車(九五式軽とは言え)の支援まである日本軍
が登場するのは orz
最後に出てきた重砲はなに?
日本の指揮所のデブの件について
以前からこのスレを見て、祖父の存命中に聞いておこうと思っていたのですが
事が事だけに気が引けていましたが、今さっき祖父に戦争の体験を少し聞いてみました。
聞いたことをここに記しておきます。
高齢であり、「話を聞いた」だけなので以下に出てくる数字に誇張が入っている点や
また、自分が当時の歴史・土地・軍事関係に詳しくない上、概略しか聞いていないので
話が前後したりと色々ご指摘等もございますでしょうが、何卒ご容赦のほどを。
祖父は第15師団15聯隊第2中隊の小隊長(人事係兼務の曹長)で156名を率いていたそうです。
(7371部隊とか何とか申しておりましたが、分からないのでここでは省略させて頂きます)
当時20代にしてヒゲを蓄え、鬼曹長として部下からは怖がられていたそうです。
出征経路は北京、南京、漢口、蘇州、上海、そこから海路にてシンガポール、マレー半島を北上、
タイ、ビルマインド(本人はヒマラヤに行ったと申しておりました)と進軍して行ったそうです。
そして、ヒマラヤの高地にて爆撃機に重油とドラム缶を落とされ、火をつけられ沢山の兵を失ったそうです。
標高4241mの地点だったそうで、話を聞いた時「死に良い(シニヨイ)高地で〜〜」と言っていました。
その山火事での被害かどうかは存じませんが、最終的に3個師団で行って
1個中隊360人辺りで生存者は7,8人だったそうです。
そこから後はずっと撤退だったそうです。
>>743です。途中で書き込みボタンを押してしまいました。申し訳御座いません。
撤退でのお話は祖父は、現地の人に親切にしていたそうで
撤退の途中でイラワジ川のほとりで渡河できずに立ち往生していた時
現地の方が舟を出してくれたそうで祖父はその舟に乗り
生き残りの部下はジャングルで木や竹でイカダを作って渡った。
(親切の仕方は言っていいのか分からないので省略しておきます)
本人はアメーバ赤痢にかかり、ひどい血便に悩まされ何度も死のうと思った。
撤退する時に、現地にいた日本人女性の看護婦さん30人ほどが一緒に連れて帰ってくれと
頼んだらしく、その方々は無事に日本に連れ帰れた。
戦後の話としては現在でも部下の方々や、
戦死された御遺族の方々(祖父が遺品を持ち帰って上げたらしいです)が
時々訪れたり、取れた作物を送ってくれている。
鬼と呼ばれていた祖父は、今ではその影もなくすごく温和な性格を見せている。
話をしていた時、当時を思い出してか、車椅子の上で
87歳鬼曹長は目にうっすらと涙を浮かべながら話していました。
※長文・駄文失礼。詳細は応接室に本があるようで、何かありましたらそれをまた書きます。
(多分、製本されていたモノだと記憶しているので既出orスレ違いなので控えます。)
爺さん、長生きしてください。
うちはババアしか生き残ってないので
軍隊話は聞けない。
空襲の話とかはたまにするが。
つうか、ババアの昔の写真に
明らかに爺ちゃんじゃない人の
軍服姿の写真が大事そうにしまわれている
のを見たことがある。陸軍士官のようだが
これは触れてはいけない思い出なのかもしれない。
彼女のおばあちゃんが大阪で空襲による被災者になったそうです。
外出先に居た為助かったそうです。家は焼失したそうです・・。
>>745 兄弟じゃないの?
うちの婆ちゃんも実家の戦死したお兄さんの写真大事に持ってるよ。
補修age
>>745 戦時中は、出征直前にドサクサで結婚する事が多かったんだけど、
戻らなかった人も多い訳orzで、なんとか戻って来た人と再婚する事も多くあったですよ。
漏れの親戚のおばちゃんがそうだ。
最初の人:騎兵将校、家に『騎兵第二十六連隊史』なんて本が飾ってあった。
再婚相手:菊水作戦の生き残り(磯風か浜風の乗員)。
武人の妻なら夫が戦死したら自決すべきだろ。
>>751 当時の日本では、「家」の維持は最優先事項。
>>752 他人と再婚しても「家」は維持できないだろ。
そのために戦没者の弟と再婚、なんてのはよくある例だけどね。
通常再婚すると妻は年金等の受給権を失うわけだが、
「戦没者等の妻に対する特別給付金」なんかの受給資格の定義では、
「戦没者等の死亡後に氏を改めない婚姻をした妻」とか無理矢理な書きぶりで
「家」を維持した妻の受給権を維持している。
>>753 死んだと思って弟と再婚したら、実は戦死亡通知が間違いで生きて帰ってきたって例もけっこうあるらしい。
じぃさんはお気楽だったらしい。
昭和19年まで富士鉄でエンジニアしてた。
大和の砲身を100万トンプレスで作ってる頃からいたから
関係してるかも。
終戦時は横須賀海軍基地勤め。戦地にはいかんかったが、
酒の飲みすぎで50そこそこでアボーン。艦砲射撃おもいっくそ
食らったバサマの方が修羅場経験。ワロスwww
>754
そういった場合、兄弟間で泥沼の愛憎劇を繰り広げることに
なるのでしょうか。
祖父の祖父
→歩兵第28連隊 203高地で戦死
祖父
→一木支隊(内・歩兵第28連隊)ガダルカナル戦死
という悲惨な一家もあるわけで。
>757
屯田兵の中の人でつか?
760 :
名無し三等兵:皇紀2665/04/01(金) 12:38:11 ID:3+DDltJb
ろ号潜水艦浮上age
761 :
少佐:皇紀2665/04/01(金) 13:00:48 ID:QqlqOiIG
間違い無くある人は連合軍の潜水艦と戦ったのだ!
南方ジャングルのグルカ兵、グラマンマスタング、シャーマン戦車、中国の共産ゲリラ、
B-29、連合軍のスパイ組織、機雷地雷、レーダー、ソナー、無線暗号、ブローニング、
T-34、カチューシャ、トンプソン、バラライカ、ブービートラップ、パイナップル手榴弾
と戦い抜いたのだ!
連合軍の戦艦空母めがけて体当たりしたのだ!
連合軍の空港に機銃を撃ちこみ、爆弾を投下したのだ!
泥沼ジャングル、灼熱の砂漠、草木も凍るツンドラ雪原、コレラ、赤痢、ペスト、マラリア、
寄生虫、トラ毒蛇毒虫、破傷風、台風で荒れる太平洋の大海原と激戦を繰広げたのだ!
まさしくそれは民族の激闘であり、大日本帝国は偉大であった。
これを偉大と言わずして何を偉大と言うのか!
762 :
少佐:皇紀2665/04/01(金) 13:05:13 ID:QqlqOiIG
我々日本民族は幕末から今日にいたる日本全国で行われた戦争殺戮、いや
今日まで世界地球の全体で行われた日本民族の激闘、そして日本民族の敵
の激闘を称え「靖国神社」を崇め奉る。
あらゆる戦争激闘をここに称えているのだ!
このような有名、無名の世界中の戦士を称えた偉大なる墓碑、記念碑、英霊の塔が
世界にあるだろうか?
>>754 似たような話で、戦争末期に地獄の南洋戦線に送られた爺様のおとーと、生きて帰ってこられねぇだろうと
爺弟に借金肩代わりして貰って、下僕のようにへつらえてた農民は手のひら返したように残された家族を
無視し続けた。(借金の利子の変わりに毎月、野菜や米や魚を届けるようにというありがたい契約にもかかわらず!
挙句の果てに着物やカメラ、蓄音機を米の代わりに要求する始末)
所が、生きて帰ってきた爺弟は同郷の戦友たちと引き上げ船で帰って来た。ふらりと帰って来て、自分が戦争に行って
いる間の諸行を聞いた爺弟は「ネジが三、四本外れたかのような形相」で飛び出し、片っ端から戦友たちと『利子』の取立て
を行った上に、借金の利息も3倍に撥ね上げて血印で書き換えさせたそうだ。
(戦争行く前は毒の無い、大人しい人だったそうだが、漏れが知っている限りではヤクザもんでも泣き入る眼をした
良い感じに壊れた爺さん。戦友だった爺さん方もそうだったが
765 :
名無し三等兵:皇紀2665/04/01(金) 15:48:26 ID:+hjvVov5
昭和17年5月召集 第19師団輜重兵部隊に配属
ソ満鮮国境で抗日パルチザン討伐作戦従軍
昭和20年2月比島転属なるも果たせず、台湾上陸
昭和20年8月台湾 高雄で終戦
昭和20年9月復員
「比島上陸の可否が生死の境目だった」と死ぬまで言っていた。
ちなみに、転属時に見送りに来た戦友は、ロシアの土になっている。
戦争の話をすると殴られます
>>763 そりゃ怒る罠。
自分が生き地獄を這いずり回っている間も家族は大安にと思って
生き延びて帰ってきたら面倒見てやった代わりに後を頼んだ香具師等に
家族が生き血を啜られてたとあっては。
>>766 「なんだ貴様、気合が入っとらん!目ェ覚ませ!!」バキッ、て感じですか?
769 :
名無し三等兵:皇紀2665/04/01(金) 23:31:51 ID:1qiDrKnl
今、CATVで硫黄島やってる。なんというかアメも必死
あの旗は2度目に揚げなおしたものだったのか。
>>769 有名な話だが。撮影者自身が明言してるし。
772 :
769:皇紀2665/04/01(金) 23:50:06 ID:???
>>771 おお、たしかにアメ兵は挙動不審で警官に職質されそうな雰囲気だったぞ。w
日本軍の狙撃兵の格好の的だったとか聞いたが。
774 :
チョナン・カン ◆.jMGTy6iYI :皇紀2665/04/02(土) 00:04:16 ID:UC7OGpYB
独島は韓国の物
いいスレですね。自分の祖父は高崎歩兵第二百十五聯隊に所属、インパール作戦を戦ったそうです。軽機の射手で満州時代の写真には十一年式を持ったかっこいい姿が写ってました。インパールでは敵にインド人の部隊がいたそうです。
>>775 何かお話があったら聞かせてくださいね。
777 :
775:2005/04/02(土) 06:47:17 ID:???
突っ込んでくるインド人をつらくて目をつぶって撃ったとか、斥候にでたとき本隊がやられて
三日間腰まで川に漬かって隠れてから脱出した、とか言ってました。川に隠れたときは敵兵が自分たちに気づかないで
すぐそばを通るので怖かったそうです。あとは斬り込みやらイラワジ河やら言ってました。
まだご存命であれば、もっといろいろ聞いて下さい。
779 :
名無し三等兵:2005/04/02(土) 12:51:08 ID:S7EvsgMz
海軍の特務機関で、貴金属の収集をやっていた。
場所は、上海付近だと思うが、陸軍の特キとトラブルが
絶えなかったみたいだ。祖父亡き後、天井裏から中国の
贋札(裁断されてないもの)が出てきた。
何故、貴金属じゃなく贋札なのか永遠にわからない?!
おまえは貴金属が欲しかったんだなw
781 :
名無し三等兵:2005/04/02(土) 15:07:46 ID:Z28RWzD8
最初から読ませて頂いてましたが476の句でとうとう泪を抑えられなくなりました。
厳しい戦いを生き抜いて来た方ほど淡々と語るものなんですね…。
純粋に家族を、愛する人を守るべく散華した英霊達に黙祷を捧げたい。
国民政府の法幣の偽札ならば本物よりも出来が良かったそうで…。
経済を混乱させるつもりで紛れこませたというけれど、
重慶側も粗悪紙幣を乱発していて超インフレ、
おまけに日本軍が大量に軍票を使用したからな…。
783 :
765:2005/04/02(土) 19:14:40 ID:???
>>764 スマソ
>>767 おかげで漏れのファザーが生まれた頃には野菜成金改め『下僕』達の毎月の『返済』で
他の家がジャガイモ弁当の時に、卵焼きと白米握り飯という時勢を考えれば豪勢な弁当を
毎日持っていけたそうだ。返済が滞った家は箪笥でも自転車でも何でも容赦なく取り立てたそうだ。
ちなみに『下僕』達の家は今でもmyファザー宅に野菜や魚を届けてくれている。
サイパンで彗星の整備工やってました。撤退時に撃たれて(まあ掠った)
逃げてきました。今でも元気、酔うとその話に必ずなります
>782
>経済を混乱させるつもりで紛れこませたというけれど、
死ね死ね団も同じ作戦やってたね
同じ事を偉大な将軍様の国がリアルで実行中だけど効果あるんかいな。
>>786 ・・・アレは『経済混乱』が目的ではなく、
単に自分の王国の維持のための物資等の調達に使うだけですから...
死ね死ね団というと日本人総お馬鹿ちゃん計画と女子中学生の誘拐は実行済みやし、次は幼稚園バス襲うか遊園地で阿鼻叫喚・・・・・・。
しねしね団って実在していたのか。
790 :
名無し三等兵:2005/04/07(木) 21:46:29 ID:5Gatr1R/
竹島はムー大陸の一部ですあげ。
791 :
名無し三等兵:2005/04/08(金) 03:50:54 ID:HOYaK6K8
おばあちゃん
怪我をして防空壕で死を待っている時、敵のアメリカさんが介抱してくれた。傷を消毒してチョコレートを分けてくれた。アメリカさん、ありがとう。私とおばあちゃんを合わせてくれて。ヽ(´∇`)/アメリカさん、私にもチョコ。
死にそうな時にチョコなんか目の前に出されたら、俺なんか軽く手で叩くぞ。
793 :
名無し三等兵:2005/04/08(金) 09:07:49 ID:5jKQO5uO
IK島播磨重工に勤務していた祖父によると
欧米人捕虜を戦争初期はこきつかっていたが、
戦況が悪くなるにつれどんどん待遇が改善されていったそうだ。
上層部は戦後の保身を考えていたらしい。
祖父の話。
昭和13年に高射砲連隊として南京へ入城。
一番怖かったこと・・・・物売り、(押し売りに近い)床屋やら、饅頭売りやら、ま、その、夜の人とか。
少尉だったのでわざわざ階級章と軍靴を外そうと(隠そうと)した程らしい。
795 :
名無し三等兵:2005/04/08(金) 11:31:44 ID:0ogWjyLH
私の祖父は山形の陸軍航空基地の警備兵としてなんかスカウトされて激戦地に行かずにすんだ。と聞きました。
父方のじいちゃんは、終戦間際に海軍に徴兵されたものの、
すでに乗る艦がなく、海岸でずっと穴掘ってたそうだ。
(じいちゃんは言わなかったが、たぶん本土決戦用の塹壕だと思う)
流れ着いたワカメがをよく食ってウマかったらしい。
母方のじいちゃんもやはり海軍にとられて、こっちはもっと本格的な
ことやったらしい。瀬戸内海かなんかで、太陽の角度から現在地を割り出す
訓練をやったが、とんでもない数値が出て怒られたとか。
のちに特攻隊員となり、九月出撃予定だったのが8月15日に終戦。
戦後は2人とも共産党の支持者やってる。
不憫なり。
戦前戦中の反動で反日自虐派の手先に成り下がる 皇国臣民もいるからな…。
>>798 それはムリな相談だ。それじゃ、うちらは戦前戦中派の批判出来なくなっちゃうゼ
うちらに残されたのは、羊頭狗肉の憲法、チョンや中国になめられてる豚経済大国
平和の尊さだって、アメリカの属国だからある意味十分戦争に参加してるし。
まあうちらは色んなつけを払わなきゃならないわけで。
>>797 戦前からアカはいるし、勝っても負けてもそういう奴は出てくると予想
うちのおじいちゃんは終戦近くに徴兵されて広島で被爆。
おばあちゃんは四国で魚雷の部品を作らされてたらしい。
祖父の友人(故人)の体験。多少脚色されてるかもしれない。
特攻隊員だったその人は、出撃する前に敗戦を迎えた。故郷に帰るにあたり
何か土産でも買おうと思い、着たきり雀の飛行服姿で街を歩いていると
数人のちんぴらに因縁をつけられて袋叩きにされたそうだ。国賊め貴様ら
のせいで負けたんだ、などと罵られ、気絶するまで殴る蹴るの暴行をうけた
けど誰も助けてはくれなかった。目が覚めると所持金は全て盗られていて
情けないやら悔しいやらで涙がでたらしい。電車賃も無いのにどうやって
故郷へ帰ったのかは、教えてくれずじまいだった。 よくある話かも
知れませんが聴いていて悲しくなりました。長文すみません。
特攻崩れって言葉があったくらいで
ヤクザになったり(まあ殆ど箔つけの騙りだろうが)
社会に適応出来なかったみたいだね
>特攻の生き残り
>>803 ・・・わざわざ闇市で飛行服を買って着込んで『特攻崩れ』を演出なさる御仁も居たそうで...
806 :
名無し三等兵:2005/04/09(土) 08:15:39 ID:QOfZBFMS
802を読んでいて思い出した。親父の話だけど。
特攻出撃のため南方のジャワから日本へ。東京に着いた日に終戦。引率の上官
がこれからどうすればよいか市ヶ谷の本部へ命令を受けに行ったところ
「蜂の巣をつついたような状態で話にならん」とのこと。
「とりあえず、各自本籍地近くの飛行場へ行って、そこで指示を受けるように」
と言われ、もう一人の九州出身者と二人で汽車を乗り継ぎ佐賀へ。
飛行場へつづく道を二人で歩いていると後ろから小学校低学年位の坊主が石を
投げてきた。「なんばすっとや!」と怒鳴りつけたら、その坊主「兵隊さんの
せいで戦争に負けた。なんで生きて帰ってきた!」と、睨みつけるように言い
返してきたそうな。
すると、近くで野良仕事をしていた母親らしき人がすっ飛んできて、
「お疲れさまでした。ご無事で何よりでした」と言いながら頭をなんども下げ、
その坊主の頭を押さえつけていたそうな。
いくら子供でも「なんで生きて帰ってきた」はあんまりだろと言ったら、
「父親の戦死公報でも届いていたんだろう」と、とーい目で言っておりました。
親父、十七の夏の思い出
>「なんで生きて帰ってきた」はあんまりだろと言ったら
土浦に住んでいた婆さんの話。
「生きて帰ったら必ず寄ります。」
そう言っっていた予科練の兵隊さんたち、
一人も帰ってこなかったと申しておりました。
>国賊め貴様ら のせいで負けたんだ
>兵隊さんの せいで戦争に負けた。なんで生きて帰ってきた!
例えギネス級の活躍をしても戦局にはなんの影響も及ぼさなかっただろう。
それを言い出したら「シックスセンスを使っていれば」だの「タイムスリップしていれば」だのきりが無い。
物事の決定権は下っ端ではなく将校、行政のほうにある。
八つ当たりって奴だよ。
小学校低学年の子供にそれが理解できるか?
>>807 「なんばすっとや!」以後が標準語な件について。
>>765=783
>ちなみに『下僕』達の家は今でもmyファザー宅に野菜や魚を届けてくれている。
戦後60年経っても?その忘恩の徒達は、よっぽど懲りたんですね。
既に代も変っているだろうに、チョン並みのタカリ野郎の家系なんだなと思ったわけだが。
自慢げに言っているあたりにも、品性の卑しさが見て取れるよ。
814 :
内田:2005/04/11(月) 01:30:46 ID:GSxc07Tw
スレ違いを承知で書き込みます。
陸軍にいた私の祖父の戦時中の経歴を調べたいのですが、
初心者の私には調べようがありません。
どうか皆様の知識をお貸しください。
硫黄島で戦死した西 竹一中佐の愛弟子
日本の馬術大会で優勝(オリンピックの選考?)し
次のオリンピック(ヘルシンキ大会?)で
馬術(障害)の日本代表に決まっていた。
戦車に乗っていた(西中佐の影響?)
祖父の名 内田 二郎
階級不明
陸軍のどこの戦車隊にいたのか知りたいのです。
よろしくお願いします。
815 :
内田:2005/04/11(月) 01:59:50 ID:GSxc07Tw
書き忘れましたが中国に行っていたらしいです。
>>814 陸軍の場合、当時の本籍地の都道府県庁に軍歴が
保管されていることがある。
(本来すべて保管されているはずなのだが、戦後の混乱で
散逸したり、火災等で焼失した都道府県もいくつかある。
ただし、正規の軍歴の記録がなくても別の資料がある場合もある。)
817 :
名無し三等兵:2005/04/11(月) 02:01:52 ID:??? BE:53142236-#
818 :
内田:2005/04/11(月) 03:15:59 ID:GSxc07Tw
寝落ちしてました・・・すいません
>>816様
>>817様
軍歴証明書知りませんでした!!
しかも今でも手に入るとは!!
当時の本籍は東京都もしくは千葉県のどちらかです。
焼失していないことを祈りつつ教えて頂いた方法で
調べたいとます。
ご教授有難うございました。
アヘン又は麻薬、ヒロポンの密売人で軍属!!
扱いは佐官待遇
何故か軍属のくせに、軍刀を持っている写真がある?
中支より、輸送機に搭乗し日本に帰還し終戦!
詳細は、一切不明!
我が家の家訓は、薬に手を出すな!である。
820 :
名無し三等兵:2005/04/11(月) 16:40:26 ID:sotnwV3f
祖父の祖父が日露戦争に従軍していたのですが仙台の出身なのですが
旅順で砲兵部隊にいたそうですが 仙台といいますと第二師団で第三軍ではなかったと思うのですが
ご存知の方がいましたらご教授お願いします。
父方の祖父はしばらく戦争には行かずに造船所で働いていたらしいが、昭和19年になってから徴兵されて泣く泣く船に乗ったら
瀬戸内海で空襲にあって沈没。
必死で泳いで一命を取りとめるも、すぐに次の船が用意されてまた出撃!
が、またしても瀬戸内海で撃沈・・・。
ソうこうしている内に病気になり出征せずに終戦。
結局、本州以外の地に足を踏み入れることなく昨年89歳の大往生。
母方の祖父はしばらく徴兵を免除されるように様々な働きかけをしていたが、戦況悪化に伴い結局徴兵される。
しかし赴任先は東京都。
終戦間際まで内地でのほほんとしているも、最後の最後で満州へ。
ところがソ連が卑怯な行動に出る前に日本へ帰還。
気が付くと終戦・・・。
結局一度も戦わずに平和な生涯を送り、1974年に57歳で逝去。
その他、比較的近い親戚は誰一人として戦災で亡くならなかった悪運だけは強い一族。
でも去年実家が漏電が元で全焼。
さらに今年2月に兄がトラックに追突されて入院中・・・。
ちなみに〜
祖父が静岡出身、陸軍に入っててフィリピンで戦死されたのですが
どの部隊だったかわかりますか??
825 :
名無し三等兵:2005/04/12(火) 07:23:30 ID:3sD3tzLj
他界しましたが、叔父貴がキリバスで軍医をやっていました。
よく、右翼の方々が金持って挨拶に来られていました。
叔父貴が何モンだったのか、よくわかりませんが、御曹子と云われ
来る度可愛がられておりました。
伯父なのですが、私の伯父にいた部隊は、南方にて船を撃沈され
そこの乗務員が全員、戦死と公表され、実家のにも戦死報告?が
きたのですが、奇跡的に伯父だけ助かり、その地方の部隊の唯一の
生き残りでもあったそうです。
そんな伯父ですが、そのこともあり何かの戦記?(太平洋戦争の歴史書のような)
ものに写真掲載で記載されているそうです。
一回でいいから会って話して見たかったですよ
828 :
チョナン・カン ◆.jMGTy6iYI :2005/04/15(金) 23:51:34 ID:sIr298fc
独島は韓国の物だ!!
祖父は、葛城で復員しますた
830 :
名無し三等兵:2005/04/16(土) 00:32:07 ID:bAa4MdoU
他界したが、母方の祖父はパラオで軍医の手伝い的なことをしていたらしい。
直接聞いたのは、原住民がやさしい人ばかりで気があったのと、
椰子の実がすげーうまくて感動した話。
注射を打つのが得意で、ふるさとに帰ってからは村の疲れた人に、
注射をよく打ってあげていたと祖母が話すが、何の薬かいまだに不明。
>>829 おお、うちの爺さんと同じ船だな。
何気に「どんな船で帰ってきたの?」と聞いたら、
「葛城だ」と言われた時はびっくりしたよ。
>>830 察するに、疲労がポンと飛ぶ薬だろうな・・・(;´Д`)
833 :
名無し三等兵:2005/04/16(土) 00:47:02 ID:OD99oPi1
817様
私の祖父は台湾の華蓮にいたらしいのですが、そういう場合はどうしたらよいかご存じですか?
ちなみに生まれは鹿児島です。
>>831 私もびっくりしました。
どちらからの復員ですか?
うちの祖父はビルマ?だったそうです
835 :
名無し三等兵:2005/04/16(土) 00:58:20 ID:IoUBb829
祖父が輸送船の船長でした。デッキで昼寝してたら、隣の輸送船が爆撃されて、もぉ人か家畜か解らない、粉ごなの肉片が飛んできたと笑いながらはなしてました(>_<)
徴兵され広島で訓練中に病気になりすぐに帰された。
だれか金井守告(かないもりつぐ)中尉についてしらないか?疾風にのってたらしくて32機(34機だったか?)の撃墜を記録したとか。身内の可能性が高い
dクス。早速本屋へダッシュだな。
>834
うちの爺さんは、インドネシアからです。
乗ったのはシンガポールからだったかもしれませんが。
ずーっとインドネシアにいたので、内地にいるより楽だったと言うような爺ですけどね。
危うくガダルカナルに行き掛けたといつも言うのですが、ガ島に爺さんのいた師団派遣の話なんてなかったはずなんですが。
第二師団、第三十八師団の後にガ島にもう一個師団を派遣する予定があったなんて聞いた事ないんだけどなあ?
842 :
名無し三等兵:2005/04/16(土) 13:06:45 ID:x73A2G7k
age
軍ヲタの上っ面の知識にないくらいで「話なんてなかったはず」とか
「聞いたことない」なんて言い切れる馬鹿な孫を持った爺さんも不幸だよな。
そんな孫を後世に残すために出征したつもりじゃなかったろうに。
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
うちの祖父ではないのでスレ違いやもしれませんが、先日仕事先(福祉関係)
である老人とお話しする機会を得ました。その方は最初?南方戦線にいたらしい
のですが、怪我と病で満洲のに行かされ終戦を迎えたとのことでした。満洲で
燃料のない戦車を砲台にするのに地中に埋めた話しなどをしてくれました。
今の日本、韓国。中国の問題を見ていると、「戦争を知らない世代の感覚だな」
とポツリ・・・どんな状況であれ、二度と戦争はするべきではないそうです。
あの凄惨な戦場を経験していない人間の発言や行動だって言いました。
「私たちはたしかに戦争をした、でも情報すらままならない時代で、
何が正しいのかも不明の中、国家の為家族のためと思い戦った。そ
れはアメリカ人も中国人もみんな一緒だと。侵略とか自己防衛だと
かは、一部の政治家が作った問題で、みんな国家や家族の為に戦っ
たんだ」と今も昔も戦争の恐ろしさを知っているのは前線の兵が一
番知っていると言ってました。前線にもいかない政治家が勝手に戦
争をはじめ、勝手に戦争を終わらす。数多くの仲間が目の前で死ん
だそうです。戦争に勝とうが負けようが亡くなった人間は戻らない
。私は、名もしらぬ大勢の人間を殺めてしまったやもしれないと、
その方達には素直にお詫びをしたいと言っていました。戦争の意義
なんかどうでも良く、ただ純粋にその方達の遺族にお詫びをせねば
ならないと、彼らもただ国家の為、家族の為に戦っただけだと言っ
ていました。そしてこう言われました。つまらない政治家の意地や
理屈だけで、自分の子供達や、家族、友達が目の前で亡くなるのを
見たいですか?と。想像を絶する苦しみです。中国人も韓国人も日
本人も同じ人類です。子供や家族や友達を大切に思っているはずで
すと。今でもその方は、遺族に渡すことのできなかった遺品を大切
に持っていました。涙を流す老人を見て、非常に感傷的になりまし
た。
846 :
841:2005/04/16(土) 16:29:41 ID:???
>>843 では、「近衛師団」がガダルカナルに派遣される予定・計画があったというなら、教えてください。
最後の行は多少筆が滑ったのは認めますが、他の師団ならともかく、近衛師団にガ島への派遣計画があったというなら、
自分はまったく知らなかったので、是非教えてくださいよ。
>>846 ※御前会議後の喫煙コーナー(んなのがあったかどうか知らんけどもw)にて。
某将星:「ガ島、芳しくないなぁ。」
某参謀:「派遣の越次まで戦死する始末で・・・。」
某将星:「御上が『近衛を出せ!』と言い出さないかと心配でならんよ。」
くらいの会話なら有ったんじゃね?
まぁアレだ、ぐれた予科練や少飛が『特攻くずれ』を自称するのと同じ様に、
南方帰りが「俺ももしかしたらガ島で・・・。」くらいの大風呂敷もアリだろw
849 :
841:2005/04/16(土) 18:40:21 ID:???
>>847 誤爆じゃあないですよ。
爺さんが所属していたのは、インドネシアのスマトラにいた近衛師団(のちの近衛第二師団)で、
その部隊がガダルカナルへ派遣される予定だったと言う話を「聞いた事がない」と言った所、
>843の方がああいうレスを返された物ですから、じゃあそういう話があったのかと思いレスしたわけですから。
>>848 >南方帰りが「俺ももしかしたらガ島で・・・。」くらいの大風呂敷もアリだろw
ええ、恐らくはそういうことだと思ってます。
ああ、そういう経緯ね
納得した
>>845 「戦争を経験していない人間は中立的な見解ができない。戦争を経験していないからだ。
戦争を経験した人間は中立的な見解ができない。戦争を経験してしまったからだ。」
真実は神のみぞが知る。
853 :
名無し三等兵:2005/04/17(日) 00:15:47 ID:9JHuHChT
>>841 おぬしの言いたいことがわかるがスルーくらいしろ。
856 :
名無し三等兵:2005/04/17(日) 22:12:07 ID:kmEdaaxN
>>841 中学生の頃、古文の先生が元近衛第一師団の砲兵大尉で第二師団はガ島に行く
予定だったと昔、話していたので事実ではないでしょうか?
あくまで伝聞ですが。
>>856 ほぉ、それは為になるお話です。
所謂『公式の戦史』以外に、内々に色々な話があるものですね。
御爺ちゃんの話によると中国大陸では日本は毒ガス弾を使っていたらしい
中国兵は全員にはガスマスクが行き渡らなくて一部の中国兵はタオルで
口を塞いでゴホゴホしながら穴から出てきたのでそれを撃っていたらしい
民家に押し入ってズボンのチャックを上げながら出てきた同僚も見ている
もっとも使いに出した同僚の中には切り取られた自分のペニスを口の中に
突っ込まれた状態で発見された奴もいるそうだしどっちもどっちか・・・
>857
転属を申請して最前線に言った奴ならいると聞いた。靖国で・・・
860 :
841:2005/04/18(月) 00:26:08 ID:???
>>856 うちの爺さんが毎年戦友会を主催してまして、何人かの参加者からもそういう話を聞いた事はありますが、
あくまで噂話レベルの話であって、それを裏付ける記録は見た事がないんですよ。
個人的には、ガ島への近衛師団派遣計画があったと言い切れるほどの証拠があるなら、是非知りたいんですが。
爺さんたちの話の信憑性を確かめる為にも。
>>860 >ガ島への近衛師団派遣計画があったと言い切れるほどの証拠
OH!まだそんな事言ってるんDeathか!!
862 :
名無し三等兵:2005/04/18(月) 08:29:22 ID:??? BE:41332272-#
>>858 貴方の御爺さんは立派な人ですね。
・・・スルー出来なかった。
>>858 あー、『らしい』じゃなくて公然の秘密で(ry
でなかったら、アメリカは風船爆弾をあそこまで恐れてないと(ry藁
風船爆弾に乗って日本兵が女を襲いにくると恐れていたのか
>>827 あのー、伯父様は台湾出身だったりしますか?苗字の頭文字は?
>>858 致死性ではないけど、でも無茶苦茶ゲホゲホ苦しい涙と鼻とよだれだらだらの催涙ガスおえっと言う感じもするとか。 日中双方とも使っていたとか。
にたようなものは今でもライオットコントロールに使われているとかいないとか。
ズボンのチャックage
868 :
名無し三等兵:2005/04/19(火) 02:14:25 ID:RPjHpewA
じいちゃんの耳元でRPG!!って叫ぶと、寝てても驚いて辺りを警戒するよ。
きっと過酷な戦場を体験したんだろうなぁ(ToT)
飛び起きた次の瞬間、孫を組み伏せ一瞬で首を捻るお爺さんキボン
871 :
名無し三等兵:2005/04/19(火) 08:13:17 ID:r/A8eGlR
俺のじいちゃんは豆腐屋。若い頃は旭化成(?)マラソンやってたらしいが
満州で受けた傷がもとでびっこをひくようになった。これといって学がある
わけでもなかったが、いいじいちゃんだった。そのじいちゃんは酔うといつでも
こんな話をした。
「…大砲より何より、一番怖かったのは『チェッコの機関銃』じゃあや。
使っとる鉄がちがうけえのう。」
873 :
名無し三等兵:2005/04/21(木) 18:49:40 ID:OM7f0bvg
ZB26あげ。
>>858 ”ズボンのチャック”ですか。
陸軍の袴はボタン式だと思いましたが、チャックでしたか。そうですか。
>>858は捏造かw
チャックとボタンでばれるとは・・w
878 :
867:2005/04/21(木) 23:06:25 ID:???
やっと気付いてくれた・・・
日中を争わせようとする低レベルな煽りを感じるのは漏れだけ?
正直得をする者はいないだろ
得をしなくても半島の方はやると思うが?
俺の爺ちゃんは長身でスタイルがよく田舎のちょっと大きな家の出、
徴兵で近衛騎兵連隊に配属され宮城の警衛をしたり
天皇陛下の近くで一緒に馬に乗って写っている写真もある。
その後、任期満了後にそのまま残らないかと言われたが
田んぼが心配だからと断って田舎に戻った。
田んぼは当時は新婚の婆ちゃんひとりでやっていたが
乳飲み子抱えて男手がないので大変だったらしい。
爺ちゃんが帰ってきて喜んでいたら、半年後に召集令状。
今度は近衛じゃなく即南方送り。目的地は仏印。
馬と一緒に船倉で揺られて、付いたところは上海。
途中で行き先が変更になったらしい。
その後中国各地を転戦して、最後にはシベリア抑留。
他の人が次々に復員してくるのになかなか爺ちゃんは帰ってこず
牛を売ったり田んぼを貸したりして婆ちゃんは耐え、
やっとのことで爺ちゃんは帰ってきた。
こんなことなら、あのとき近衛連隊に残っていれば良かったのに
というのが周りの感想。
爺ちゃん感想はもう聞けないが・・・
近衛に入ると悪い遊びを覚えさせられるって本当?
885 :
827:2005/04/22(金) 20:36:33 ID:???
>>865 レス遅くなってすんません。
純日本人ですよ?
ちなみに苗字は飯島です。下の名前は教えてもらってないです・・・
>>885 そうですか。自分の祖父がかなり似たような経歴の持ち主でして、
ひょっとしたら……と思った次第であります。お騒がせ致しました。
因みに、自分の祖父は台湾出身ですが純正の日本人です。
887 :
名無し三等兵:2005/04/23(土) 11:47:30 ID:8S/kJwL9
>841
うちの叔父(かなり前に亡くなった)もボルネオ島の
片田舎に駐屯していたとのこと。
この叔父は従軍4年間で一度も英米蘭軍との戦闘を経験したことが
なかったそうです。
ただし、現地人の矢による襲撃が何度かあり、
夜間の歩哨で突然樹幹から矢で射られ、水中に没した
同僚を目の当たりに見たとのことでした。
また、病死や病傷で後送された兵もいて、終戦時に
は部隊は3分の2になっていたとのことでした。
888 :
名無し三等兵:2005/04/23(土) 11:48:17 ID:8S/kJwL9
(続き)
ところで、5年ほど前、マレーシアに旅行したときに貴重な
はなしを聞きました。
美里という街の宿泊先のご主人は少数民族出身の方だったのですが
、その方の父上は、英軍の依頼で日本軍兵士を夜間に矢で射撃し
ていたとのことでした。
叔父から聞いた話と酷似する状況ですが、はやり夜間の歩哨にたつ
兵士を樹幹や草むらから狙い、射たあとは、その場をすぐに離れた
そうです。
少数民族は日本軍を憎しみ等があったわけでなく、マレーシア・
インドネシア人がするような差別せず、むしろ医療行為
や教育をしてくれ、感謝してたそうです。
ただ、英軍からは日本軍を攻撃する報酬や戦後のことで
約束があり、しかたなかったとも言っていました。
ただし、付近の住民は夜間に森の中で”サムライ”が光
るので怖がっているとも言ってました。
サムライは日本刀の意味で使用されているようでした。
889 :
名無し三等兵:2005/04/23(土) 12:17:56 ID:k1qCHSX2
俺のじいさんは、頬に大きな傷があってさぁ、
その話を聞いたら、
中国大陸でゲリラ掃討作戦中に
匪賊だが馬賊の一人をある村で追い詰め
小隊で捜索中、
そのゲリラを発見。
お互いに拳銃で撃ち合い、取り押さえたらしいのだけど、
自分も銃弾を頬と肩に食らったらしい
890 :
名無し三等兵:2005/04/23(土) 14:21:48 ID:8S/kJwL9
もう30年くらい前に中学校の教師に聞いた話。
この先生、士官候補生で満州に転戦していたそうだ。
あるとき、付近に居住する中国人から虎が出て家畜
をとられてしまうので、何とかしてほしいとの要望が
出された。
部隊では何班に分けて捕獲作戦を決行し、先生がいた
班は作戦中ある夜に虎の咆哮を聞いた。
秋の深夜、月下の冷涼な空気、全くの静寂のなかで
聞こえた虎の咆哮は、歴戦の古兵も震え上がったら
しい。
どんなことにも動ぜず、馬賊たちとの戦闘で、数日間
包囲されて、あわや全滅寸前までいっても頑強に戦い
続けたほどの勇気ある兵士たちで、若造の士官候補生
だった先生を半人前扱いしているくらいの生意気な古兵
だったらしいが、その彼らが震撼する様子を見て、
先生も生きた心地がしなかったとのこと。
出撃前は加藤清正を気取っていたが、帰隊後は、もう
やめようということになったらしい。
891 :
研究助手:2005/04/23(土) 14:36:16 ID:???
先週のこと
講義が終わり、中隊長が研究室に戻ったので教室を見回りしたら携帯が落ちてた
事務室に届けようと携帯を持って教室を出たら着信があった
出ると、落とした娘の友達だったので研究室まで取りにきてと告げて切った
なけにげに待受画面を見て驚いた、女子大生の携帯待受に軍服姿(陸式)の男達のスナップ写真(大陸ぽい?)があった
研究室に来た持ち主に聞いてみた
俺「これどこの写真かな?」
持ち主「母方のお爺ちゃんの写真にあってかっこいいので写メで撮ったんです」
本人は詳細は知らないそうで「今度お爺ちゃんに話を聞いてきます」
と言って研究室を後にした、なぜかわからないが妙に感慨深くなった。
漏れの爺さん。
226で仕官候補から満州送りに
北支事変が始まり満州のどこかで負傷、右手から肩へチェッコの弾が貫通、右手下腕部を切除。
内地へ搬送、新宿区の病院(いま国立医療センターのあるところ)にあった軍人病院に入院
退院後、終戦を迎える。
893 :
名無し三等兵:2005/04/23(土) 18:39:49 ID:CqU93WrC
昨日の夜、「紅の豚」をじいさんと見ていたら、元帝国陸軍航空整備兵のじいさん。
「ほれ、あーやって、クランク回して弾み車回してエンジンかける
んだぞ、イナーッシャって言うんだ」
「あれでかけた事あるの?」
「一度だけ、手伝いで掛けさせられた」
ポルコの機体のエンジンの調子が悪いシーン
「ほれ、ポンプを押したろ、あれはプライミングって言って、始動時に、燃料を濃くする為のもんで
当時は注射って言ってた、エンジンの調子が悪い時も取り合えず、
押すんだ」
モグラじいさんの工房シーンで
「あー昔の旋盤はアーだったなー」
と、話しが盛り上がりました。
イタリヤのはなしなのに、くろいシャツきたひとのはなしがでてこないのはげんじつとうひです。
前にどこかで書いた気がするけど、
父がガキの頃、家族で特攻隊の出撃を見に行った。
送る村人たちはみんなでお祭り騒ぎで、みんな笑ってる。
でも搭乗員たちの顔はそれぞれ孤独にひきつっていて暗く、
泣きそうな顔だったそうだ。
父は今でも「かわいそうだったなあ、かわいそうだったなあ」と言う。
やはり人に言われて軍神になるものでは・・・
特攻隊の見送りて堂々と家族に連絡したり新聞かなんかで発表して出撃するのだろうか・・。
>>898 死出の旅に見送りが少ないのは寂しい(そんな問題じゃないとは思うが)ので、
基地の人がそれとなく近隣の住民を集めて勇ましく送り出した様です...
特攻じゃないけど、戦前からあった土地名を冠した海軍航空隊
が、大陸など前線へ移動するときなどは、地元総出で見送り
したらしい。
俺の祖父さんは北海道の美幌空を見送ったそうだ。
その後、マレー沖で英艦隊に一撃を喰らわせたと聞き、感動した
って。
今年の正月鬼籍に入ったお祖父さんの遺品に「大和○道部」(○と道は破損の為推定)と書かれた写真があった。
1944年末から1945年初頭に大和に配属されて、四月頭に大和から降ろされたらしい。
詳細を求む。
何が写ってる写真なの?
大和に乗り込んでいた士官候補生(百数十人だったと思う)
は4月7日の沖縄出撃前に
伊藤長官の命令で下艦されたらしいからその一人では?