【双発雷撃3】九六陸攻・一式陸攻・銀河・四式重爆

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 「ところが、その時までに航空本部は、製作ラインを離れる最初の航空機は護衛戦闘
機に模様変えをする、との結論に達していた。当時、1世代前のG3Mは中国で特に米
国の志願者グループから頑強な抵抗を受けており、G4Mを改造して爆弾のかわりに
重火器を施し、G3M編隊と組んで出動させるようにするとの決定がされたのである。
こうして、生産機の最初の30機は、G6M1、すなわち1型(編隊外端護衛戦闘機)
となった。爆弾倉は密閉され、背面の機銃は撤去され、2連装銃の代わりに99式機関
砲が、どちら側でも発射できるように、1本の腕に取りつけられた。腹部に設けられ
たゴンドラには99式機関砲2門が、1門は前で、もう1門は後ろで発射できるように
取りつけられた。こうして4門の機関砲が、攻撃してくる敵戦闘機に狙いを付け、機
首の機銃もそのまま残された。10名の乗員と21弾倉の爆弾を抱えたG6M1はあまり
に動きが鈍く、巡航速度は爆弾投下後のG3Mよりも遅かった。生き残った機体は作戦
任務から外され、始めはG6M1−k訓練機に、最後にはG6M1・2L落下傘部隊
輸送機に改造された。
 G4M1、すなわち1式陸攻爆撃機11型の生産は、1940年後半になってようやく軌
道に乗った。13機の試作のあと、第1号機が海軍に納入されたのは1941年4月であった。
1941年6月までには鹿屋航空隊が中国でフルに活動できるようになり、6月の1ヶ月で12回
の戦闘任務を完遂した。8月には、他の航空隊も活動を開始し、1941年12月8日の真珠湾
攻撃時までには、日本帝国海軍のG4M1の前線保有数は120機となった。このうち97機
は、台湾の第21と第23航空艦隊と一緒に行動し、鹿屋航空隊の27機は英国艦隊攻撃の為
にサイゴンに移動移動した。開戦日のフィリピンの飛行場への攻撃に続いて次の日、G3M2と共に
英国軍艦プリンス・オブ・ウェールズ号とレパルス号を撃沈したのはこれらの航空機である。1942年
2月19日までには、日本軍は地理的に広大な領域に侵略し、G4M1は遠くオーストラリア
のダーウィンまで爆撃している。」
633FW190Ta152H-1:04/12/26 04:54:41 ID:8nmvJWBv
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 「1942年の3月初めからは、G4M1はラバウル、ポート・モレスビーその他のニューギニア
の標的に攻撃をかけた。分散していて、初めは意気消沈していた連合国軍の反抗は、
次第に強化されたが、連合国軍の戦闘機はA6M2に苦しめられた。しかし、G4Mに
近づく事さえできれば、この爆撃機は”たいまつ”のように火を吹いた。厳しい航続
距離の要求を満たす為に。G4Mは武装が貧弱で。自己密閉式の燃料タンクを使ってない
事は初めから判っていた。状況の悪化に応じて、急遽タンクを守る為に各種にゴム・スポ
ンジとゴム板を取りつけ、炭酸ガス消火装置を追加した12型爆撃機が製作された。胴体
側面の張出した銃座は平らな射撃窓に置き換えられ、機尾の銃は大きな縦の楔形の開口
部を使って、外からは見え難い位置に置き換えられた。更にエンジンを”火星”15に換装
し、40mm高射砲の有効射程高度以上での高度性能の向上が図られた。
 1942年夏、日本の工業生産は無傷であり、前線の要求に効率よく答える事ができた。
離陸時と緊急時には水・メタノールの噴射を利用する、定格上げした”火星”21エンジンで、4
枚プロペラを駆動することによって、構造面を再設計し、多くの改良点を取り入れたG4
M2が可能になった。改良点には、いわゆる層流翼と特別の胴体燃料タンクも含まれ、これ
らが他の変更とも相まって、総重量を9,500kgから12,500kgに引き上げられた。尾部は
大きくなり、全ての翼端と尾翼端は丸くされた。機首のガラス張りは更に広げられ、平らな
爆撃照準窓が追加された。機首の両側には手動照準の92式機銃2丁が取り付けられ、背部
の張出し銃座は簡単な電動旋回の背部銃座に取り替えられ、20mmの99式機関砲が取り付け
られた。砲手は胴体内の固定台座に立った姿勢で操作する。生産型G4M2には、1943年
7月には遂に爆弾倉ドアが取りつけられ、これによって僅かながら航続距離が伸びた。
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 「ところが、”火星”21エンジンが不足した為、G4M1の生産は続けられた。1943年
4月18日、日本帝国海軍の勇ましく偉大なる指導者山本五十六司令長官がブーゲンビル島の
カヒリに向かおうとして乗り組んでいたのも、これらのG4M1のうちの1機であった。
つい最近になって明らかになった事であるが、英国の暗号解読者は、戦前からの敵の内部
最高機密は全て読む事が出来ていたという。というのも日本は、同じ”エニグマ”暗号機
を採用していたので、機密の解読は太平洋まで広がっていたのである。行動を取った為に
内幕が明らかになり、信号が読まれていた事が、重大な運命の分かれ目になる事が時には
有るが、山本司令長官の飛行がまさにそのような場合であった。結局は、何とか探し出せ
という決定が下され、特別の予備タンクを付けたロッキードP‐38数機が途中で補足し、輝かしい
戦果を挙げた。山本五十六が乗っていたG4M1の残骸は、今も落ちたジャングルの中に横
たわっている。」
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 「新しい武装        1943年になってG4M2の生産は、三菱の第2岡山
工場でも行われた。岡山でも名古屋でも、92式機銃の替わりに20mmの側方機関砲2門
を持つモデル22Aと、4門の機関砲全てがベルト弾倉付きのモデル22Bの2種を製作した。同
じ年の末になって、”火星”25改良エンジン付きで、爆弾倉ドアが出っ張っているG4
M2aが生産ラインに乗った。この機種の武装は以前の武装の変型であったが、24C型
機に至って、機首の機銃が13mmの2型に変更され、また一方で、この年の末ギリギリ
になってG4Mの全ての生産機に。ASV(対艦船用)レーダーが取り付けられた。19
44年半ばまでにはG4M1は。前線部隊から撤収された。ただし大戦末期の特攻作戦
で消耗されたものが、少なくとも30機はあることが判っている。大戦最後の年には、
G4Mの全出動機の39%は撃墜されたが、1944年末ごろからの太平洋地域における連
合国軍の制空権はそれほど優位を占めていたのである。39%という撃墜率は、どんな
空戦兵器でも、全く信じられない数字である。
 1944年8月に海軍士官の提案で、特殊設計の対艦船人間ミサイルMXY7”桜花”を運べる
ように、G4Mを改造することになった。多数の(120機以上であることは間違い無い)
G4M2aが、爆弾倉のドアを撤去し、特攻用のロケット推進航空機が取り付けられるように
改造された。これらの航空機はG4M2e(24J型)と改名されたが、他の改変型のどれ
よりも動きは鈍く、それだけ攻撃され易いものであった。1945年3月21日、第721航空
隊の16機がゆるやかな編隊を組んで連合国の軍の艦隊を目指して飛び立ったが、ミサイル発
射の距離範囲の遥か手前で、全機が撃墜された。圧倒的な破壊力があったかもしれない
”桜花”も、運び手の航空機が攻撃され易かった為に失敗に終わった。」
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 「1942年にさかのぼって、三菱はG4Mの弱点を減らす為、繰り返し必死の努力
をした。その結果が1944年1月に初飛行のG4M3である。燃料タンクは、単桁翼内に
容量を減らして十分に保護して設置し、乗員用の武器が増やされた。尾部の銃座は
あるが、マーチンB‐26マローダーのものに似て完全向き出しで、射撃範囲が広がって
いる。もう一つの変更は、方向安定性を向上する為の水平安定板の上反りである。
しかし、この型は実際に活動するには至らなかった。
 G4Mの最後の悲しい任務は、1945年8月19日、古い型であるG4M1で、日本
の降伏特使団を伊江島に運ぶ事であった。連合国軍の条項に従って、この航空機は
全武装を撤去し、その他の残存日本軍の航空機と同じように、全体を真っ白に塗っ
た上に、緑十字のマークが描かれていた。」
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636の続き   P.24、P.25のカラーイラストの説明文より、
 「外面上はウェリントンに似ている。−写真の機体は”英国式の”カモフラージュの為
に余計に似ている。−が、G4M1 11型には防備は全くといってよい程欠けてい
た為に、初めの小さなエンジンでも十分な性能を発揮出来るだけ軽かった。主翼と水平
安定板の特徴的な翼端は、より強力になったG4M2では、単純な丸い翼端に変わっ
た。しかし武装は、背面の機関砲銃座は同じであるが、尾部銃座は変わった(丸形の
梁は、G4M1 11型では四角い射撃窓に取り替えられている)。この、特に初期
のG4M1は、1942年9月、高雄航空隊の第1中隊として、ラバウル戦線に従軍した。台
湾の高雄航空隊は、大損害を受けて、第753航空隊として再編成された。」

P.22下の写真の説明文より、
 「人間ミサイルMXY7”桜花”運搬用の取り付け具を装備したこのG4M2eは、東南アジア
で連合国軍航空技術情報部隊に捕獲されたのち、英国軍の円形標識を塗り加えられて
シンガポールに飛び、そこで写真撮影されたものである。上を飛んでいるのはA6Mゼロ戦
である。G4Mが残らずスクラップにされたとは、何たる悲劇であろうか!」

P.23上のカラーイラストの説明文より、
「後期生産機の代表であるこのG4M3は、終戦時厚木を基地とした横須賀航空隊に
配属された。G4M2eに導入された、張出した爆弾倉のドアが見られる。上反り角
付き水平安定板と、B−26に似て、短くなった尾部銃座はG4M3特有のものである。」

P.21下の写真の説明文より、
 「恐らく1941年の初めに、第1回の作戦任務に中国の沿岸を越えて出動中の写真で
あろう。これらの第1航空隊のG4M1‐11型はカモフラージュ塗装か、無塗装である。
有名な”空飛ぶ葉巻”のあだ名の由来は一目瞭然である。”ワン・ショット・ライター(1度で
火のつくライター)”という奇妙なあだ名もついている。」
 
P.20の写真の説明文より
「対艦船人間ミサイル”桜花”を抱えたG4M2eモデル24Jを背景に出撃前の一時をくつろ
ぐ乗員たち。爆弾倉のドアは取り払われ、人間ミサイル搬送用の吊り下げ架が取り付けら
れているが、この組み合わせは速度が遅く、敵機の好目標になった。」