【双発雷撃3】九六陸攻・一式陸攻・銀河・四式重爆

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 「ところでこの爆撃機は多くの点で、ダグラスA‐20かノースアメリカンB‐25クラスの中程度の
大きさであったが、総重量はB‐25に比べてかなり小さく、それでいながら、4発の
”重”爆撃機を必要とするほどの遠距離作戦に使用されたことを忘れてはならない。
大日本帝国海軍が、この双発爆撃機を諦めて、中島飛行機に恐ろしく大きなG7Nの製
作を命じたのが、ようやく1943年になってからというのは先見の明が無かったと言っ
ていい。G7N製作の出だしが遅れた為に、日本軍の崩壊までに完成したのはわずかに
4機であった。
 G4Mの開発は、1937年9月、仕様書(この仕様書は、12試仕様書として知られて
いるが、それは天皇裕仁の即位12年目であったからである)の発行によって始まった
が、G4Mは大成功を収めたG3Mの後継機として長距離爆撃機を目指した。G3Mは、わ
ずか2ヶ月前に中国の作戦行動に出動し、3,700kmを超える戦闘航続距離で、海軍当
局を大喜びさせた爆撃機で、開戦当初から中国奥地の目標地に向かって2,400km離れ
た日本から大量の爆弾を投下して、その能力を実証していた。航空本部(海軍の空軍
総司令部)が、もっと優れたものが可能と考えたのは無理からぬことであるが、三菱
には、1,000馬力(746kw)のエンジン2基を使うよう支持したのである。それ以外の要
救数字としては、速度が398km/時、800kgの魚雷または爆弾搭載時の航続距離3,700
km、それに、全方向射撃の出来る防御機銃、乗員は7名から9名ということであった。」
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 「優美な”葉巻”      指定のエンジンの馬力では、これだけの性能の爆撃機
は出来ないことが、各務原の設計チームの指導者、本庄季朗(ほんじょう すえお)に
はすぐに判った。1,500馬力(1,119kw)級のエンジンが必要であったが、たまたま会社
のエンジン部門には”火星”という名称の、用件にぴったり合った2列エンジンの手持ち
があった。それ以外の機体部分の設計には、大きな問題は無かった。全般的レイアウト
(特に胴体前部)は、名古屋の本社工場で陸軍のキ(機)‐21爆撃機に酷似していた。
G4Mと名付けられた新爆撃機が、これまでの殆どの双発、1枚垂直尾翼の機体と違っ
ているところは、胴体の後端に銃座があることであった。その結果、後部胴体を普通
に先細にすることが出来ず、その特徴的外形からすぐに”葉巻”という愛称がつけら
れることになった。この点は、空気力学的には問題は無かったが、ただ設計者の本庄
としては、最大航続距離を得る為の望ましい長い全幅を実現出来ず、構造強度上の理
由で中程度の全幅で先細の度が強い主翼(全長25mに対して全幅20m)で我慢せざる
を得なかった。
 空力釣合い部付き手動補助翼を含めて、全体に全金属製応力外皮構造が使用された
(方向舵と昇降舵だけは布張り)。胴体は、大きな武器倉の端に沿った2本の極めて
強い縦梁で組みたてられ、おもしろいことに武器庫の各ドアは、爆弾か魚雷の積み込
みが終わると、出撃前に撤去され、形状を滑らかに保つ為に爆弾倉の後部に傾斜板が
ボルト止めされた。訓練とか偵察といった攻撃でない任務の時は、2種類のドアをガッチリ
取りつける事が出来た。1930年代末期の多くの航空機と同様に、単隙間フラップと主脚
の前方への引き込み、尾輪引き込み専用モーターやスクリュー・ジャッキなどの補助装置の操縦に
は、電力が用いられた。」
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 「操縦室は何となくアブロ・ランカスターを思い出させる構造で、全方向が透明なガラス
窓で、普通2名の操縦士が横に並んで席についた。航法士と爆撃手は(1名で両方を
兼ねる事が多い)ガラス張りの機首を占め、機首には先端の旋回銃座で照準する7.7mm
の92式(ルイス式)機銃がある。無線通信士は、透明な背部の突起部に取りつけられた
旋回式の第2の92式機銃を発射する事ができし、側方銃手2名は、左右の主翼の付け
根に、同じように取りつけられた92式機銃を操作する。尾部銃手は。60発ドラム(円
板形弾倉)がついた旋回式の99式20mm機関砲を照準する。このように防御武装はG3M
に比べてかなり良くなり、内部はゆったりして、乗員は楽に動き回ることができた。
変わっているのは、出入り口のドアで、後部胴体左側のほぼ日の丸と同じ位置にあっ
たことである。
 初飛行は1939年10月23日、操縦士は、島勝三であった。新しいG4Mはスタートは素
晴らしい出来映えで、目に付く変更は垂直安定板を少し高くした程度である。1940年
までに三菱の名古屋工場では、殆どの点で(耐久性の点は別として)当時としては最
高の双発爆撃機の製作体制が完了した。」