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FW190Ta152H-1:
Aerospace Publishing limited 1979-1989 Pilot Press Limited 1979-1989
IGDA, Novara ,Italia 1979-1989 Piblished by Edito Service S.A. 1989
Director of Publishing : Philip Soar Arranged through Motovun Co. Limited
同朋舎出版:「週間エアクラフト 第33号」1989年5月30日 P.20(916)〜P.25(921)
「世界の航空戦略 三菱G4M ”ベティー”」 の記述によると、
「三菱G4M1式爆撃機(連合国軍はこれを”ベティー”と呼んだ)はあまりにも軽防備
であったために、連合国軍の戦闘機操縦者たちには”1回で火のつくありがたいライター”の
あだ名で知られたが、小さな航空機のくせに、航続距離は並み外れて長かった。”ベティー”
は大戦中、大日本帝国海軍の最も重要な爆撃機として、広大な太平洋の戦場のいたるところに
出撃した。
第2次世界大戦で、英国国民にとって”失意のどん底”を味わわされた瞬間は恐らく、1941年
12月10日、英国海軍の最大の戦艦2隻が日本軍による空からの攻撃によって沈められた時であっ
たろう。それも設計はすべて西洋の物真似であり、しかも竹と麦わらでつくられた紙のような
航空機に沈められたからである。
そんなことが出来る爆撃機があったか?あるとすれば、旧式の横須賀B4Y複葉雷撃機だけの
はずだったが・・・・・・・。あの大きな戦艦と巡洋艦を海底に送ったのが、三菱G3M1とG4M長
距離爆撃機であったことが分かったのはかなり後になってからのことだった。特に後者のG4M
は連合国軍には全く知られていなかったのである。というのも中国から送ってよこした報告書を
誰も読んでいなかった為で、これは三菱A6M戦闘機(ゼロ戦)に関する報告書についても同じであ
るが、ショックの大きさではこのA6M零戦の方が上であった。
太平洋の戦いでは、この日本のG4M双発爆撃機は、連合軍にとってはちょっとした”とげ”
程度のものだった。事実、G4Mは戦争の推移にはほとんど影響を及ぼすことはなく、逆にやられ
るばかりだったのである。それでも、尽きることの無い勇気と決意の塊となって押し寄せる2,000
機を超える航空機となると、その戦闘力は決して侮ることはできなかった。時には”ベティー”は
かなりの損害を連合国軍に与えたのである。」