【双発雷撃3】九六陸攻・一式陸攻・銀河・四式重爆

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文林堂:世界の傑作機 No.91「九六式陸上攻撃機」 2002年1月
「九六陸攻 マレー沖我らが最良の日」文:小林 昇 P.34〜P.38の記述より、
 「映画の中の記憶        昭和17(1942)年12月8日、開戦1周年を記念
して東宝映画『ハワイ・マレー沖海戦』が封切られた。この映画のマレー沖海戦の部分
は、17年の10月にマレー方面の進攻作戦が一段落し、内地に帰還していた美幌空の機材
と搭乗員をエキストラに使用して木更津基地で撮影された。実際にマレー沖海戦でレパルスに
25番(250kg)爆弾を投下した美幌空・岩崎嘉秋(いわさき よしあき)二飛曹も撮
影に参加、映画に出演した原 節子と一緒に撮ってもらった記念の写真が今も岩崎氏
の手元に大切に残されている。撮影の日は上天気、出撃シーンを撮影するとのことで、轟
音をたてての離発着を何回かやったという。
 映画には「ぼんさん」の愛称で呼ばれる谷本少尉という偵察機の操縦員が出て来るが、
これは実戦でイギリスの東洋艦隊を発見した帆足正音(ほあし まさね)予備少尉がモデルだ。
予備学生時代同じ釜の飯を食った田村倉由(たむら くらよし)氏によれば、少尉は「小
柄で温和な白面の好青年」であったというから、俳優の柳谷寛が扮するがいかつい、豪放
そうな谷本少尉ではちょっとイメージが違う。その少尉機が放った敵発見電によって幕が落
とされた歴史的大海戦の一日を、九六陸攻を中心に追ってみることにしよう。」
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452の続き
 「昭和16年12月10日午前6時25分(以下時間は日本時間、0625と表記。現地時間
は0455)、元山航空隊の索敵機、九六陸攻9機はまだ明けやらぬ南シナ海に向け、サイ
ゴンの基地を離陸していった。指揮官は牧野滋次大尉。大尉自ら9本ある索敵線のう
ち、最も会敵の可能性が高いとされる4番線を飛び、次席士官となる帆足少尉が3番線
を担うことになっていた。帆足機はG‐334号。機長である少尉は主操縦員として、
操縦桿を握っていた。
 実はサイゴン、ツドウムに展開する各航空部隊は前日の9日、伊号第65潜水艦が英東洋
艦隊を発見。その報を受けて日没前からイギリス東洋を求めて南シナ海を飛び回り、深夜
にかけて帰投したばかりだった。元山空第1中隊第1小隊2番機の大竹 典夫(おおた
け つねお)一飛曹は、9日1900ごろ、サイゴン基地を飛び立ったが、カモー岬沖で雨と
なり、ほとんど見えない海面を這うように4時間余り飛んで、基地に戻ったのは日にち
が変わろうとする0時少し前の事。
 鹿屋空第3中隊長の壱岐 春記(いき はるき)大尉も一式陸攻で前夜出撃して帰投
した。大尉は1815ツドウム基地から第3中隊9機を率いて出撃したが、雨雲に行く手を
阻まれ早々と25番爆弾2発を海上に投棄、戻ってきたのだった。それから夜を通して
魚雷装着作業が始まった。
 美幌空の岩崎二飛曹はその日、昼間クァンタン飛行場爆撃を行っていた為、夜間の出
撃は無かった。10日は索敵攻撃ということで、25番2発を胴体下に懸架する作業を終え
ていたが、明け方近く伊58潜が東洋艦隊に接触したとの電報が入ると、索敵取りやめ、
雷装が命じられた。「海軍の飛行機乗りとしては雷撃をやれれば本望」と思っていた
二飛曹は欣喜雀躍した。しかし一転、再び爆装が命じられ、二飛曹はがっかり。「ここで
焦らなくても」と自分を慰めるしかなかった。」
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453の続き
 「英東洋艦隊現る       マレー沖海戦に参加した陸攻部隊は鹿屋、元山、美幌
の3航空隊、計84機であるが、このうち九六陸攻は甲空襲部隊元山空、乙空襲部隊の美
幌空の合わせて58機。残る丁空襲部隊の鹿屋空26機が一式陸攻で、その鹿屋空とて9月
に九六陸攻から一式陸攻に機種改変したばかり、一式での実戦は初めてであった。
 これら航空部隊は第1航空部隊と称され、昭和16年1月に新編されたばかりの第11航
空艦隊に属し、第22航空戦隊司令官の松永貞一少将が指揮していた。第1航空部隊は近
藤信竹中将の指揮する南方部隊の配下にあり、更にその下位に位置する小澤治三朗中将
指揮の馬來(マレー)部隊の指導を仰いでいた。
 イギリス海軍が最新鋭のプリンス・オブ・ウェールズと、若干旧式であるが高速戦艦のレパルスを
シンガポールに向けて回航しているということを、セイロン島のコロンボ港に入港した同艦隊を、
イギリス側は日本を牽制するためにプロパガンダとして鳴り物入りで報じた。当初、陸軍の
マレー半島攻略の為に元山、美幌の両航空隊だけで充分間に合うと考えていた大本営、連合
艦隊は、急遽フィリピン攻略部隊とされていた鹿屋空一式陸攻部隊6個中隊のうち。半分の
3隊をマレー支援に回すことにしたのである。その時、壱岐大尉は、台湾の台中基地からサイ
ゴンに進出するよう命じられ、「イギリス艦隊とやるのだ」と嬉しいと思う反面、その3月
に行われた連合艦隊相手の戦技訓練で下された、雷撃部隊の被撃墜率は60〜70%、という
判定が頭を過ぎり、「生きて帰れない。来るべきものが来た」と覚悟したという。」