【双発雷撃3】九六陸攻・一式陸攻・銀河・四式重爆

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 「すなわち、胴体は薄板の応力外皮構造(モノコック構造)で、主翼は2本桁箱型張力
場構造とし、箱型桁の内に工員が入れるように工夫をこらした。後縁部分は重量軽
減と工作の簡易化を図るため、燃料タンクは、セミインテグラル式とし前縁部と後縁部分に取
り付けた。
 武装は、当初の計画ではなかったが、試作中、機種上面と後部胴体の上面に7.7mm
旋回銃を1挺ずつ搭載するよう変更され、乗員も当初の3名から5名に増えた。
 海軍を驚嘆させた性能      昭和9年4月18日、1号機が完成したが、初
飛行前の機体検査重心位置後退や操縦系統の剛性不足も発見され、これらの対策を実
施した結果、自重は4,500kgを超えてしまった(計画は3,820kg)。
 初飛行は9年5月7日に各務原で行われたが、八試特偵は中央翼と胴体を分離するこ
とができず、中央翼の幅が722mmあり、陸上輸送は不可能であったため、船に積み、
木曽川をさかのぼって各務原に運び込まれたという。
 12日までの社内テストが行われた後、14日から海軍のテストパイロットによる官試乗が始ま
った。そして16日には領収飛行が行われ、6月14日、正式テストのため横須賀へ空輸され
た。
 海軍のテストの際には改修により自重は4,795kg、全備重量は7,003kgに達していたが、
最高速度は143.4kt(264km/h)、巡航速度は20kt(203km/h)で、最高速度は当時の
主力戦闘機九〇式艦戦より約15.7kt(27.6km/h)劣ったが、巡航速度は逆に20kt
(37km/h)も勝っていた。もちろん飛行艇など他の中、大型機でこれに匹敵する高速
機はなかった。
 しかも、航続力は正規状態で2,380nm(4,380km)、過荷重状態で3,270nm(6,001km)
に達しており、24時間の滞空も可能であった。これも当時の双発実用機では他に類を
見ない驚異的な値であった。
 操縦性は抜群で、安定性も極めて良好、その軽快さは戦闘機並みであり、双発機と
は思えない自由自在な飛行ぶりはテストパイロットたちの絶賛を浴びた。自動操縦装置の便
利さもパイロットたちを喜ばせたが、」
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 「重量過大のため、九一式500馬力発動機2基では馬力不足で、上昇時間は3,000m
まで16分54秒、実用上昇限度は4,600mどまりとなり、七試大攻よりも劣っていた。
 しかし、総合的に見て中型双発機としては極めて傑出した機体であり、本機の成功
により海軍は本格的な陸上攻撃機の完成に自信を得たという。そして、本機は、もと
もと本格的な陸攻開発の研究機的の強い機体であり、その目的を果たしたので、1機
で打ち明り、発達実用型である九試中攻の開発に全力を注ぐことになった。
 その後、12年2月、発動機を空冷星型14気筒の露天(最大出力920hp)に換装して
テストが行われたが、このテストでは最大速度158kt(292km/h)を記録したほか、馬力不足
に起因する上昇性能の悪さも改善されていることが確認され、本機の優秀さを改めて
立証したという。
 略符号は当初はG1M1であったが、大戦末期にG3M1と変更されている。
 なお、本機は日華事変初期には連絡機として活躍していたが、事故のため五島沖に
不時着沈没して失われてしまった。」