というか、ドイツばかりが責められるが、ポーランド側の
戦争責任はどうなったんだ?
話し合いを最初から拒否し続け、軍による恫喝をおこない続けたのは、ドイツではなくポーランド。
1939年3月にドイツの提案に対し、最初から軍の動員で答え、ポーランド軍部内では
ベルリン進撃をほのめかすような議論がなされたり、西プロイセンの百万のドイツ系住民を
弾圧(ポーランドはドイツ系住民が妨害活動と破壊活動を準備しているとして、数々の
暴力行為や弾圧をおこなっていて、1939年8月21日までに約7万のドイツ系住民が逃げてドイツ領内の
施設に収容された。
残りもベルリンに助けを求めていた)を行い、平和的な話し合いによる解決を求める
ドイツ側の神経を逆なでしていた。
これだけから言っても、ポーランドの重大な戦争責任は免れない。
そもそも、ポーランドは国際連盟管理下のダンツィヒ自由市に1920年1月9日に結ばれた条約に
「ポーランドはポーランドとの直接結合のためダンツィヒ港内に郵便、電信、電話局を
設置することができる」という特権をもっていた。
しかし、ヘベリウス広場にある郵便局は名ばかりで、防護用の強化壁、鋼板でかためまるで要塞だった。
職員もすべて軍事教練を受けた予備役兵からなっており、後に開戦時ドイツ軍がここの制圧に苦労している。
ダンツィヒ自由市におかれていたすべてのポーランド側事務機関も同様抵抗拠点の様相を呈していて、
なにかあればポーランド国軍の援兵が確保される仕組みになっていた。
周囲がドイツ人ばかりということもあろうが、近い将来、ダンツィヒを、リトアニアによるメーメル地方占領
のように強行占領するための、明らかな戦争準備を行っていたのである。