1 :
名無し三等兵:
韓国人に言わせれば韓国の城の方が防御性が高いそうです。
皆さんは同思いますか?
2 :
某研究者:04/08/15 18:22 ID:JrX3jn60
なぜ韓国と比べるんだ・・・
4 :
名無し三等兵:04/08/15 18:24 ID:F4a/KdvW
Age of Empiresでもやってて、トチ狂ったんだろ
5 :
名無し三等兵:04/08/15 18:25 ID:wPbExYNa
>>2 しかし、幸州山城などで、日本軍は惨敗してる。
6 :
某研究者:04/08/15 18:30 ID:JrX3jn60
まあ山城を無理に攻めたのは何故だったのかだろうし
山城を無理に攻めた例等
国内では無いのであれば
果たして事実なのかだが
1人でやってろ
このジサクジエン野郎が
8 :
名無し三等兵:04/08/15 18:44 ID:qPPO6xaz
>>1 >韓国人に言わせれば韓国の城の方が防御性が高いそうです
何も誇るべきことのない民族ですから同意して慰めてやってください。
こういう比較ははっきり言ってナンセンスだ、などと言ってはなりません。
イルカにのった少年を懐古するスレはここですか
10 :
名無し三等兵:04/08/15 18:48 ID:wPbExYNa
>>8 駄目ですよ。
そのようなことをすれば彼らは益々勘違いして逆上せ上がります。
幸州山城の例も事実として、本当のことも彼らに教えてあげなくては。
>>7 ジエンと言われてもねぇ・・・・・・・。
ほほう。じょうみちるスレか。
12 :
某研究者:04/08/15 19:41 ID:JrX3jn60
山城を無理に攻めた理由が不可解だろうし
補給が切れて撤退したか
明と事を構えたく無い小西行長等が
敵の抵抗を理由に故意に進撃を止めたと言う可能性も
有るだろうか
韓国に城があったとは・・・失礼ながら知りませんでした
14 :
名無し三等兵:04/08/15 19:53 ID:wPbExYNa
>>13 朝鮮の城は日本人には壁としか認知できないかもね。
ノイシュバンシュタイン城Vs姫路城
16 :
某研究者:04/08/15 19:56 ID:JrX3jn60
まあ退路を遮断された訳でも無いのに
10000人等が無理に死ぬ様な攻撃を
城に仕掛ける物なのかだが
17 :
名無し三等兵:04/08/15 19:56 ID:kH+cMhkf
ソウルの動く城
18 :
某研究者:04/08/15 19:58 ID:JrX3jn60
他の城は容易に落とされているのに
2500の兵で30000人の兵に
対抗出来る様な城等
有ったのかと言う事も有るだろうし
増して10000が死ぬ様な攻撃を
日本側が行ったのかだが
ま た ハン厨 か
21 :
名無し三等兵:04/08/15 20:14 ID:iWHpfa6f
現在朝鮮半島に残る倭城は豊臣期の築城遺構が残る貴重な例で注目されている。
23 :
名無し三等兵:04/08/15 20:22 ID:iWHpfa6f
>>22 んにゃ。本格的な城郭。
前線防御と兵站拠点として各所に築かれた、かなり規模の大きな城郭群。
野戦築城だな。
倭城は恒久的な築城だぞ?
半島南部を支配するための重要拠点だ
つまりこの倭城と韓国の城を較べている訳か。
実際どんな城なんだろうな。
ちとぐぐってみるか・・・
韓国の城は古典的な中国の城塞都市(地方)
四角くて四方に門があって鉄砲を使った戦争には向かない。
駄スレの季節。
>皆さんは同思いますか?
同思いません。
駄スレになるかどーかわからんが…
ガケーンから出てる「戦国の堅城」を読んでみれ
倭城について詳しく書かれてる
まずはそれからだ
ナンの事は無い、良スレ
>>5 惨敗?
城から朝鮮人が逃げ出したのにどうして惨敗なのでしょう?
幸州山城は、日本軍が食糧強奪のためにやった城攻めです。
いくつかの廓をおとし食糧を奪うと撤収しました。
だから城に十分に食糧が運び込まれた所を狙ったのです。
三成も負傷するという激戦であったのは確かですが、
どうしても日本軍が落とさねばならなかった城でもありませんでした。
陸上の戦いでそれまで一度も勝てた事のなかった朝鮮人たちは、
それが大勝利に見えたのでしょう。
支那事変での「百団大戦」のようなものです。
城って前はマリノスにいたけど今はどこにいるの?
日本の城ってやっぱ大阪城でしょ。
当時あれを落とせる軍隊なんてあるのかな?
35 :
名無し三等兵:04/08/28 00:13 ID:hTCDUjNx
ここにいる連中様は韓国の水原華城を知らないのだろうか?
あの城の規模と美しさに日本の城がかなうと思ってるのかな?
36 :
名無し三等兵:04/08/28 00:29 ID:hTCDUjNx
37 :
名無し三等兵:04/08/28 00:48 ID:Dcwj2qa0
朝鮮の城には日本の城にあるような壮麗な天守閣が無いからなぁ。
ていうか朝鮮の文化って基本的にカスだよね。首都でさえ泥と藁葺きで作った町だし。
>37 すると、朝鮮にあったとされる陶工技術は瓦には使われていなかったのか。
>>38 昔の朝鮮の瓦は大きさも形も一つ一つ違う。
日本の瓦は昔から綺麗で大きさ形も全て同じ。
倭城に使われた資材を他の建物から流用したかしないかの区別は残骸の瓦で見分けるらしい。
>>35 水原華城調べてみた
大陸式の邑城だーねー
美しさはともかく(個人個人の美的感覚)水原華城の周囲は
5.7Kmだから大きさで上回るのは結構あるね。
一例を出すと世界遺産で有名な播州姫路は12q。
>>37 天守閣の前に曲輪(例えば本丸、二の丸、三の丸…)の概念が存在しない罠
わかりやすく言うと平城京なんかの防御力うpバージョン
何故なら遊牧民の侵略から自国民の保護を第一目的として作られたってのがある。
で、「とりあえず大きくして大人数を収容させよう」ってのを暴走させたらああなった。
ヨーロッパの城から要塞へと変わる中間の頃と言えば楽に調べる事ができると思う。
対して日本の城は元々が同一民族でやる小競り合いが元となって山城が発達。
(中国の侵略が現実的だった頃は大陸式城郭を作ったりしてる。九州の水城や四国の屋島城等)
山の上を削って立てこもるための広場(これが曲輪)を作り、それを繋げる事で頑強な要塞とする。
多段防御陣地として曲輪の概念が発達した。
そして武器の発達(弓⇒鉄砲)や、技術(石垣、瓦、大工)が使用可能になった事や、組織化された職業軍の
大量動員等の要因が複雑に絡み合った結果が今目にする事のできる『お城』なわけだ。
それはさて置き…
渡海した日本武将は朝鮮の城を「使えねーよ( ゚,_・・゚)プゲラ」とあざ笑ったそーな
で、攻略した平壌城や尚州城は邑城の中に日本式の城を作ったとさ…
ンでもって朝鮮王朝側は文禄、慶長の役の後、城を倭城に改造しる!とか何とかやってたけど
結局は「使えねーよ( ゚,_・・゚)プゲラ」で終わったそーな…。
参考文献
ガケーン「戦国の堅城」
>>41 韓国は使えないと思ったのではなく、儒教的な考えにもとずき、倭城の使用を諦めたというのが正しい。
国民を守らず城のみを守る倭城の形式は儒教の考えに沿わないらしい。
まあ、そのくせ侍が攻めてきたら一目散に朝鮮王は逃亡したわけだかw
43 :
41:04/08/28 09:05 ID:???
>>42 (´・ω・`)ごめんよう…
軽やかに逝ってくる
45 :
名無し三等兵:04/08/28 11:16 ID:UlmyrXkJ
上げてみます
地形的には、朝鮮と日本は似ている気もするけど、全然別の城郭が発達する
というのは文化的要因が大きかったということなんだろうか。
降倭武将もいて鉄砲などを朝鮮側が取り入れたという話だが、築城までは
取り入れなかったのかなぁ。
戦に勝てるか勝てないかで国が滅ぶか滅ばないかが決まるときに
儒教ばかりを重視するとも思えないのだけど。
>>46 それが朝鮮だよ。
結局は全て中国頼み。
しかも、現在ではそういう考え方が出来るが、当時の朝鮮では儒教が絶対的なものだった。
国防はまた中国に頼めば良いという意識があったんだよ。
>46 中国ってもいろいろあるわけで。儒教の影響といっても儒教で
城の作り方を直接決めているんだろうか。人間関係だけを決めているだけ
だから、儒教が絶対的なら城はこう作るというもんでもないのでは。
それと、中国と朝鮮は地形が違うと思うのです。地形が違い、手に入る
建築材料が違えば建築も違ってくると思うんですが。城だってそうなのでは。
>>49 憶測だけで話さないほうが良いよ。
儒教では、王忠防民(だったかな?)理想とされている。
日本の城では防王だけになる。
名目上は民を守る形を取らなくてはいけなかたんだよ。
それと敵であり見下していた(これも儒教的思想)日本の城を使ったり真似たりするのは彼らの自尊心が許さなかったんだよ。
あと、構造と築城の歴史をみれば中国から伝わったのは明白。
>>46 近代以前の話だし、近代になっても同じ国の管轄が違う軍隊が戦争になっても
ろくに協力できなかった、なんてこともあるんだから別に不思議でもないでしょう。
>50
んー、民を守る必要があるからといって、直ちに中国式の城を導入するわけでも
ないと思いますがどうなんでしょう。儒教の経典って城の形をこうすべしとか、
砦はここに築けとか、戦の際の作法はこうだとか決めているんですか?
それと、日本の城って儒教の影響はあるんですかね。
>>52 君は物事(歴史)を点で考えるみたいだね。
色んな要因を線で結んで考えて見なさい。
>53 民を守るとして、民を収容する巨大な囲いを作る必要があるのかっていうのが
ちょっと不思議です。海軍を整備して港を支配しても、国境沿いに砦を網目状に
築いても、或いは日本のように山城を互いに援護するように作ってもその目的は
達せられると思うので。
>>54 まったく噛み合わない会話をしたいのか?
それとも話を本題からずらしたい訳でもあるのか?
それとも自分は知識があると見せかけて威嚇したいのか?
>55 そのどれでもないですよ。儒教などの学問と結び付いていれば
城郭を作る技術も世代間の伝播が楽にできるだろうけど、一方では
固定して形式化されたものにもなるのかもとおもって聞いてみた次第ですよ。
朝鮮では儒教は既に学問の域を出て、宗教または習慣と化していた。
日本の城に神道の影響が見られるように、
韓国の儒教的な思想に見合った城郭様式が中国式の物だった。
伝播も様式化も中国のものだっての。
まったく・・・
藻前ら、餅突け。
せっかくの良スレ、もっとマターリすれ。
>>56 中国人の世界観は「天は丸く、地は四角い」というものだったらしい。
だから城砦を基本的に四角く築いたのにはその影響があるかもね。
伊原弘あたりの著作を読むといいんじゃないでしょうか。
60 :
某研究者:04/08/28 21:08 ID:uBj0tIW4
まあ日本の城も内部に市民は収容していたと言うが
全員は入れなかった訳だろうし
兵糧の消耗も大きく成るだろうか
61 :
名無し三等兵:04/08/28 21:43 ID:3I13ELWA
秀吉時代の大坂城も、惣構えの中に当時の大坂の町を囲い込む形でしたね。
秀吉時代は京都も町全体が惣構で囲まれていた。
してみると桃山期というのは、領主が都市を武装化し始めた時代なのでしょうか?
安土桃山期に武士が城下に集住するようになって、彼等の生活を支える商人、職人も
集まって城下町が発達。城下町は武士や町人の生活の場であるとともに、領主にとっても
重要な経済基盤であるため城下町防御の必要性が生じ、惣構で囲い防御するようになった。
日本の場合、戦が近くなると領民はさっさと城下町から逃げ出すのでは
町が領主の持ち物というか財産というか税金を取ったり自分の軍隊が給養する
場所となったので守るようになったということでしょうか。
68 :
41:04/08/29 07:55 ID:???
>>44 フカーツしてみますた
朝鮮の城で戦闘
↓
敵は騎馬民族などの異民族がほとんど
↓
異民族の目的は略奪
↓
だから、財産と言える自国民を守らなければならない
↓
で…
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
|<丶`∀´>ウェーハッハッハ!! │ (`八´#(`八´#(`八´#(`八´#)
|<`∀´>人<`∀´>人<`∀´>| (`八´#)(`八´#)(`八´#)(`八´#)
|<`∀´>人<`∀´>人<`∀´>| (`八´#(`八´#(`八´#(`八´#)
\ _________/
…となったわけだ
ンでもって中継基地としての倭城…
<`∀´>(`八´)<`∀´>(`八´)<`∀´>(`八´)<`∀´><宗主国様に従ってチョパーリ殺すニダ、ホルホルホル....
<`∀´>(`八´)<`∀´>(`八´)<`∀´>(`八´)<`∀´><行くニダ行くニダ ウリナラマンセーニダ
<`∀´>(`八´)<`∀´>(`八´)<`∀´>(`八´)<`∀´><ウェーハッハッハッハ
↓
↓
堀堀堀堀堀
┌───┐
┌─┴┐ │
│ │ │┌─┐
│ └──┴┤ | ←トーチカとしての天守閣
│ └┬┘
├───────┤
/ \
/ ↓手柄立てれるとワクワク \ ←山上の要塞(本丸等)と海岸線を繋ぐ登り石垣
/ (゚∀゚) \
│ (´∀`) ヽ(`Д´)ノ .│
│城中でマターリ↑ ↑突撃廚 .├〜〜〜〜
└─〜〜この辺りが軍港〜〜〜〜─┘
海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海
↑
上から 横から
↓ ┌──┐
│天守│
‖ │ │ 軍港+物資集積地+軍隊駐屯地の平地と
_ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ← 山上を繋ぐための斜めな石垣
./ \_/ \
<`∀´>__/ \ (゚∀゚)人(゚∀゚) 軍港 日本⇒
 ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\〜〜海〜〜
中国の城郭の様式が入ってきているということは、朝鮮に関もあったんでしょうか。
例えば、三国志には虎牢関とか函谷関などが出てきますけど。
朝鮮も山が多いから関所を作る場所には事欠かなかったはずだと思います。
>>66 日本でもむしろ戦争になれば周辺の農民が城下町に逃げ込んで共に篭城してる。
町人農民は略奪にあったり奴隷として連れ去られたり殺される事もある。
難を避けるに城内に逃げ込んで領主の保護にすがったようだ。
尤も、落城した場合は武士と共に皆殺しにされたりもしてるが・・・
中国でも一般民衆は対異民族戦に限らず戦争の度に乱暴狼藉の対象になる。
そこで彼等は城内に逃げ込む場合もあるが、戦域から逃げ出して難民化する場合も多かった。
大規模な難民化現象は日本では例がない。
>>71 慶尚道と忠清道との境界の鳥嶺や秋風嶺のように朝鮮にも関は有った。
文禄の役では朝鮮軍は鳥嶺の関門で日本軍を迎撃する当初のプランを変更して
鳥嶺越えた忠州郊外で迎撃したが小西行長率いる一番隊に敗れ壊滅。
やはり堅固な関門を堅く守ったほうが良かったかもしれない。
この敗戦により朝鮮官軍の防衛体制は瓦解したといってもいいだろう。
以後日本軍はソウルまで抵抗を受けず入城。
75 :
名無し三等兵:04/08/29 16:38 ID:dAMHtC0/
中国じゃ篭城戦になれば、平民は食料にされちゃうんでしょ?
そりゃ逃げ出して難民になるよな。
うーん、それと日本の城の外郭内に要る住人なら共に篭城したかもしれないけど、
その外の住人は逃げ出したと思う。
76 :
名無し三等兵:04/08/29 18:37 ID:kM7mOj3h
姫路城や熊本城は力攻めで落城させることは事実上不可能だそうです。
熊本城に至っては、薩軍の拙攻にも助けられたが近代兵器でも抜けなかった。
大坂城は落ちぬと見た家康が政治的手段で丸裸にしたから落とせたわけですし、
戊辰の会津若松城もアームストロング砲を使っても、結局兵糧攻めでの降伏でしたし。
日本の大規模城郭で、力攻めで落ちた城ってあるのでしょうか。
77 :
某研究者:04/08/29 18:52 ID:NNaGoMd1
日本の城の場合五稜郭の様に石垣が斜めに成っているから
砲撃にも強いと言う事は無いのかだろうし
故に明等の大砲にも耐えられたのだろうか
78 :
某研究者:04/08/29 18:53 ID:NNaGoMd1
まあ只日本の城も大砲の攻撃を意図して
石垣を傾斜させたのでは無いだろうし
此れは耐震性を増す為なのだろうか
79 :
金正日総書記:04/08/29 18:54 ID:ICS6nck1
,rn
r「l l h
| 、. !j
ゝ .f _ 韓国・朝鮮のほうがすごいニダ
| | ,r'⌒ ⌒ヽ、
」 L_ f ,,r' ̄ ̄ヾ. ヽ.
ヾー‐' | ゞ‐=H:=‐fー)r、)
| じ、 ゙iー'・・ー' i.トソ
\ \. l、 r==i ,; |'
\ ノリ^ー->==__,..-‐ヘ___
\ ノ ハヽ |_/oヽ__/ /\
\ / / / |.
y' /o O ,l |
80 :
某研究者:04/08/29 19:01 ID:NNaGoMd1
>アームストロング砲を使っても、
五稜郭なら此れは耐えられる代物なのかだろうが
矢張り五稜郭の城壁よりは日本の城の城壁の防御力の方が
落ちるだろうか
日本の古い城は垂直を理想としていますた。
これは敵に取り付かれにくくするための構造でつ。
五稜郭はオランダの城郭をモデルにしてまつ。
傾斜が急なのは砲弾を滑らせる効果を狙った物でつ。
当時の防弾対策は石垣に鉄筋を埋め込んだりしたそうでつ。
>76
前にその時歴史は動いたで大阪城の防御力についてやってたが
秀吉が死後を見据えてせこせこ作っただけあって
真田丸以外にも、同時代の西洋の要塞に見られる銃眼のようなものがあり
堀の先がもう一段階深くなっていて中は胸まで来る泥水なので
よじ登れないし梯子はかけられない仕組みだったようだ。
あと秀吉以外、兵站をあまり重要視していなかったこの時代
城攻めで長期戦になると、中より先に攻める側の食料や物資が尽きて
疲弊したらしい。
83 :
82:04/08/29 19:35 ID:???
銃眼じゃない、トーチカだった
84 :
某研究者:04/08/29 20:21 ID:NNaGoMd1
>よじ登れないし梯子はかけられない仕組みだったようだ。
筏の上から梯子を掛けると言う戦法も有っただろうが
火を付けられたり重い物を落とされたりすれば
転覆の可能性も有ったと言う事だろうか
近代兵器装備の薩軍でも熊本城は陥ちなかったな
天主は原因不明の火災で焼失したが
86 :
名無し三等兵:04/08/29 20:42 ID:wZrBaWoQ
>>85 確か熊本城には天守閣から大砲が撃てる仕組みだったようだ
古い小田原城も何だかんだで結局秀吉に攻められるまで陥ちなかったし。
侵攻側の兵站は何時の時代も大問題なんだな・・・
つまり謙信でも落とせない小田原最強
↓
町を囲む総構マンセー
↓
朝鮮の城最強
89 :
某研究者:04/08/29 21:31 ID:NNaGoMd1
一箇所破られると町は占領されて仕舞うと言う
問題点は有るかも知れぬし
城壁一枚では防御効果はどうなのかだが
(町の周囲に完全に壕でも張り巡らせれば
別かも知れぬが
この様な物は少数なのだろうか)
>>74 >すると、小西行長は峠を迂回して忠州近郊に出たということなんだろうか。
そうじゃなくて 朝鮮軍が鳥嶺防衛を放棄して忠州西方の弾琴台付近へ兵力を集結させて
野戦での決着を選んだ訳で
小西軍は鳥嶺を無血で越えて弾琴台付近で朝鮮軍を撃滅し、ソウルへの進撃を続けた。
>>75 毛利元就の吉田城篭城戦でも、北条氏の小田原篭城戦でも周辺の農民は城内に逃げ込んでいる。
分厚い漆喰塗りの土壁だと、小弾丸や旧式のアームストロング砲弾くらいなら余裕で防げそうだ
攻城用重砲持ち出されたらオシマイだが
攻城戦になれば周辺の領民が動産を携えて城内に避難するのは洋の東西を問わず一般的な情景です
戦国末期〜織豊期にかけて建造された大規模城塞が強攻で落城しないと言われるのは、
主に経済的な理由から攻城技術よりも守城技術のほうが先に発達したからです
城塞は野戦陣地の延長線上にある存在で、所詮は戦力倍増装置でしかありません
よく難攻不落という表現が使われますが、力攻めで陥落しない城塞は事実上存在しません
市街を囲壁化するのはヨーロッパや中国では一般的です
これは一般に異民族の侵寇がその理由とされていますが、一方で同様に常に異民族の脅威に
晒されていた東南アジアや南アメリカでは都市の囲壁化はほとんど見られません
このため、都市の囲壁化と異民族の脅威にはあまり関連性がないとする主張もあります
いやあ、勉強になるなあ。
>>92 「力攻めで陥落しない」っていうのは比喩でしょ・・・
誰も力攻めで絶対に陥落しないなんて言ってる人はいないよ
主敵が何を目的としているかによって違うんじゃないの?
略奪メインなら、街を守らなければ意味がない。
軍事力撃滅や占領なら、要塞が重要になる。
>>94 そうですか
上のほうで事実上不可能というレスを見かけたんですけどね
城市すなわち市街の囲壁の第一の目的が、街の防衛であることは言うまでもありません
中国では戦国期から秦漢期にかけて囲壁化が急速に普及しました
中国人は日本の都市には城壁がないのにそれでどうして街を守ることができたのか
疑問に思うそうです
中国における城塞都市の長い歴史から見て、都市に囲壁があるのは当然だという考えが存在し、
それを前提としていることは間違いありません
逆に、日本人にはそのような発想自体がなく、町を囲む城壁がないから不安だと考える人はまずいないでしょう
日本の城郭って城壁は中国欧州と比べ貧弱だろうが、
際立って多層ブロック式だから何層も城壁や門を突破しなければならない。
層に厚みがあるから攻めるのに相当な時間と犠牲が要るだろうね。
中国の都城なんかだと、壁自体の耐久力は相当なものだが、
1箇所破れば市内に突入できるからね(それが大変だけど)。1〜2層突破すれば内城に迫れる構造だから。
堅固なものだと宋代の桂州静江府城みたいに7〜8層抜かないと攻略できない城もあるが、これは例外。
外壁1層だけで内城もない都城も多い。
日本の城と中国の城はどっちが堅固っていうより、目的による設計思想の違いとしか言いようが無い。
99 :
名無し三等兵:04/08/30 00:01 ID:9hd+a5h1
>>88はとっても馬鹿だと思います。
彼が言うには日本と朝鮮の城の外郭同じだそうです。
朝鮮は「外郭」しか存在しませんが。
100get!
101 :
94:04/08/30 00:15 ID:???
私は
>>76のことを言ったんです。
「力攻めで落ちない城はない」ってあったなら、
そりゃあ誰が見ても物理的に陥落しない城はあり得ないっていうのは明白でしょう。
そうではなく事実上、ってあるじゃないですか。
それは多分「当時の攻城手段などから考えてetc」、
という要素を、文に限定的な条件を付加していると読解できますよ。
>>76氏が本当にそう思っているかはわかりませんけど。
ただし、世界史的に俯瞰すると都市を防衛するためには必ず囲壁しなければならない訳ではなく、
むしろ囲壁化するほうが一般的ではありません
異民族の脅威が囲壁を生んだとする説は、異民族が混在する他の地域で必ずしも囲壁が
築かれなかったことを考慮すれば、少なくとも第一の理由であったとは考えにくいでしょう
一方で、囲壁の発生要因を異民族よりも農業生産の不安定性に求める説も存在します
囲壁が普及した地域は、華北、西アジア、インド亜大陸西北部、中米地峡地域、地中海沿岸、
ヨーロッパ及びアフリカの一部等ですが、これらの地域は陸田地帯でもありました
陸田農業は、水田稲作に比べて生産性に劣り、より広い農地を必要としました
中世ヨーロッパの収穫量は撒種量の2〜3倍程度だったと言われています
<丶`A´> …いつの間にか 日本の城vs中国の城 になってるニダ
その上、陸田地帯は旱魃等に襲われる危険性も高く、その頻度や範囲、被害は
日本のそれとは比べ物になりませんでした
後漢書によれば、約200年で38回の旱魃が記録されています
中国の伝統的な農家は、土壁で囲まれ小さな窓が一つだけしか設けられていない
ものですが、これは飢饉の際の盗賊の襲来に備えて守りやすくするためです
この場合の盗賊とは、職業的な盗賊ではなく隣村の飢民のことです
ヨーロッパで各部屋に鍵をかける習慣があるのも同様の環境から来るものです
これは、家中の雨戸を開放したまま農作業に出かけるかつての日本の農村とは
家の構造自体が異なっており、習慣自体が違っていることを示唆しています
それはすなわち水田稲作農業と陸田農業の相違によるところが大きいと言えます
囲壁はこのような陸田地帯での農業が中心になっていた地域と時期に発生したのです
囲壁が都市の防衛に寄与したことは言うまでもありませんが、一方で囲壁は
都市の発展を物理的に阻害する要因ともなります
パリは市壁の拡張工事を大規模なものだけで3度も行わなければなりませんでした
中国は第2次世界大戦後、北京の都市計画のために城壁を撤去しなければなりませんでした
ヨーロッパや中国を例外として、多くの地域で囲壁が建設されなかった理由の一つには
こうした都市計画への障害があったかもしれません
>>101 すいませんが何が言いたいのかさっぱりわかりません
>>106 ああ、彼(
>>101)は前から難しい言い回しをしてますが、その実何も中身のある話をしてませんので、
まともに議論は出来ませんよ。話を噛み合わせる気はないようですから。
108 :
94:04/08/30 00:50 ID:???
>>106 平たく言うと、
>>76は「当時の攻城手段からして、力攻めで日本の大規模城郭を陥落させることは
ほぼ不可能であった」という意味合いなのだろうと。
絶対不可能という意味合いには読めませんよ。
109 :
94:04/08/30 00:52 ID:???
私は94が初カキコなんだが・・・
そんな難しい言い回しですかね?
日本の近世城郭が大砲を想定して設計されていることは間違いありません
分厚く堅固な土塁の上に構造物を建造する手法は、砲撃に対して極めて有効です
この点で戦国末期以降に建築された日本の城郭はヨーロッパのイタリア式築城と共通しています
ただし、火力発揮の点ではヨーロッパの要塞のほうが一日の長があると言わざるを得ません
日本の城郭の火力編成は、斜射側射についてはよく考えられていますが、設地射についての
配慮はほとんど見られません
こうした点では、徳川政権による要塞破棄の政策で要塞の技術的進歩が停滞したのは残念に思います
×設地射
○接地射
ですね
なんつーか、何が何でも噛み付かなきゃって必死なのが一人いるな。
端から見てるとくだらん揚足取りにしか見えないが、
本人は大真面目なんだろうな。
宗主国の中国の話ばかりなので、
朝鮮地方民が寂しがっています。
ニダーは寂しいと、死んでしまうのです。
無理矢理にでも、韓国、朝鮮地方の話をしてあげて下さい。
要塞砲とか攻城砲で思い出したんだけど、朝鮮征伐、あるいは朝鮮侵略では
日本は鳥銃は用いて居たそうだけど、攻城砲はあまり用いていなかったとか、
朝鮮側のほうが大砲では優位であったとか言われている気がする。どうしてだろう。
大阪冬の陣などでは大砲を用いているんだけど。
いちいち、大砲を据えつけて攻める時間が取れなかったのかな。
水軍は大砲を船に載せて対馬から釜山まで安全に行き来できなかったのかな。
それとも、弾薬の消費が大きすぎるとみて大砲の使用を諦めていたのだろうか。
115 :
94:04/08/30 01:20 ID:???
>>110 石・煉瓦の破片による損害や砲弾の衝撃吸収対策として土塁化が進んだわけだが、
欧州でそれと同時期に始まった城塞城壁の低層化・重厚化は日本では見られなかった。
進歩の途中で水を差されたのは確かに悔やまれる。
他には稜堡や半月堡の雛形の如き真田丸のようなものも萌芽していたが・・・
>115 江戸時代の諸藩の城は平山城とか平城で周囲を水に囲まれたものが
多い気がします。平城の場合は高層化して高い櫓を立てるのでなく、幾重にも
細長い郭と水堀を巡らして町もある程度惣構えの中に取り込んでいるものも
あると思います。
単に統治のためと懐具合から平城を城下町と一緒に作っただけかも
分かりませんが。
中国の城塞も、万里の長城は重厚化するとともに敵台・囲城のような
十字射を可能にする構造物は設けられていたが、
長城全体の構造としては1本調子な壁のまま故に凹凸に欠け死角が多く、
欧州のような発達は見なかった。
都市城郭においても南京聚宝門の甕城のような単独の突出構造物はあったが、
近世欧州城郭のような、稜堡同士の火線が死角を補い、
攻防連携し機能するというものには程遠かった。
>>116 城下町を総構えで囲むのは領民支配の為とも言われますが、
天正期あたりのケースでは都市の城塞化の目的もあるだろうし。
なにが理由で始まったのか、その辺りはどうなのかは私はわかりません。
平山城で城下町を囲む総構えだと和歌山城などがありすね。
和歌山城の総構えは未完成でしたよね。
彦根城は総構えだったと言えるんですかね?
中国は、伝統的に主な仮想敵がステップ系騎兵だったため、日本やヨーロッパの要塞に見られるような
巧妙な火力編成は発達しませんでした
ステップ系騎兵はまともな攻城兵器を保有することはまれでしたから、取り敢えず囲壁してしまえば
防衛の目的を達成することができたからです
総構の最も重要な戦術的目的は防御地積の確保です
山城に比べて陣地強度で劣らざるを得ない平山城や平城では、縦深の確保が至上命題でした
一般に第一線防御陣地として機能しますが、上田城のように前進陣地的な性格が強いものもあります
上のほうでも書きましたが、基本的に要塞は強強度の陣地です
地形を加工することにより敵の機動発揮の制限と我の防護手段の提供という
二つの機能を達成することにあります
この代償に要塞は主動の維持が困難であるという先天的な弱点を抱えています
この弱点は要塞単体では克服することはまず不可能と言っても過言ではありません
この戦術的弱点が存在する以上、文字通りの難攻不落な城というものは存在しません
>>118 彦根は外堀を途中でやめたと聞いたけど。
>>120 それは皆承知の上だと思いますよ。
>>76は条件を限定した上での比喩でしょうから。
中世中国で城塞からの火砲が戦闘の帰趨を決した例では、
城郭の特筆すべき構造が戦局に利したというわけではないが、
1449年のエセン率いるオイラット兵13万による北京城攻撃がある。
籠城側が圧倒的な火力と城塞のメリットを活かして勝った例だろう。
明軍は北京城徳勝門の門外の家々に伏兵を配置、騎兵で挑発しオイラット軍を
徳勝門に誘導した。罠にかかったオイラットは城壁上と伏兵の神機営(砲兵)
に集中砲火を浴び、エセンの弟ウリャンハタイも砲撃で戦死し、撃退されている。
オイラットは西直門に攻撃目標を変更し門外に布陣した明軍を追い詰めたが、
結局城壁の砲撃と明の援軍の到着で撤退した。
翌日も苦戦はしたが、火器の活躍と増援により凌ぎ切った。
大量の兵力と火力を集中しない限り破る事のできない高く堅固な城壁と、
城外に一部が出撃して、城壁の火砲の射程に敵をおびき寄せる巧みな用兵、
城壁の大量の火砲が常に城外の部隊を援護し続けたのが勝因だろう。
オイラットは長城・紫荊関こそ突破したが、遊牧騎兵主体の軍容であり、
攻城戦に効果的な火砲を北京に大量投入していたのか気になる。
3ヶ月前の土木堡の戦いで明軍から火槍1万1千、火銃2万、ロケット矢44万、
火砲800を鹵獲していたのだが・・・
明軍は17世紀に入ると更に火器を重視し、
歩兵1隊25人につき、仏朗機2門、鳥銃2丁、三眼槍(三眼銃)6丁もの火器が配備された。
1営、歩兵3200人、騎兵1600騎、予備隊800騎からなる部隊には、
銃1984丁(含騎兵銃)、砲256門という装備であった。
これほど火器を重視しながら城郭自体の形状はは全体として正方形、
変則的な形をしていたとしても、それは防御的観点からのものでは無かった。
特筆すべきものに甕城(形状的には日本の城門における外枡形に近い)などはあるが、
やはり敵が火力主体の軍ではなかった為、発達が停滞したものと思われる。
私は朝鮮城郭に関することはあまり知らない。
熊本城の武者返しは朝鮮の築城法を取り入れたものだ、というのはどうなんだ?
朝鮮の都城をみると明らかに中国式だが、指呼の距離にに山城を控えていたりするな。
水原華城は・・・18世紀末の城だし、欧米の技術が入ってるしな・・・
欧米っぽいトーチカの上に東洋風の楼閣が乗っかってるのにはワラタ。
126 :
名無し三等兵:04/08/31 19:43 ID:TrxpxDUH
>>熊本城の武者返しは朝鮮の築城法を取り入れたものだ、というのはどうなんだ?
それはないと思うよ。
朝鮮の城壁は垂直のはず。
その証拠に、城壁から張り出した建物は無い。
日本の城のような石垣の曲線が張り出した建物を可能にしている・・・・・と聞いた。
確か朝鮮出兵でトラ狩りなんかしたんだよね。チョソンに訴えられるニダ
128 :
名無し三等兵:04/09/10 14:45:08 ID:3jRDuGYO
アゲ
小田原城とコンスタンチノープルはどちらが難攻でしょうか?
3重の城壁
その時代時代の中でということならコンスタンティノープルだろ。
1000年間で何度も攻められつつ、かなりの期間を守り通してるわけだし。
もっとも、城というか規模が違うもののような気もしなくも無いが・・・