君が死んでからもう1年。
君は今も僕を見守ってくれているのかな?
君は、僕の生まれて初めて出来た彼女だった。
すごく嬉しくて、幸せだったなあ。
突然、白血病だって医者に宣告されてから、君は病室で日に日に弱っていった。
「病院ってひまねえ」って笑う君を見て、僕はいつも泣いていたんだ。
君の為に、僕の小汚いノートパソコンをあげたら、君はすごく喜んでくれたよね。
ネットをするようになった君がいつも見ていたサイト、それが「2チャンネル」だった。
ある日君はいつものように、笑いながら言った。
「ほら、見て今日も阻止出来たよ。」
「あまりパソコンばっかいじってると身体に障るよ」
なんて僕が注意すると、
「ごめんねえ。 でもね、これ見てよ。
ほら、この自営業って固定さん、2げっとぉ!なんて言っちゃってさぁ、ふふ」
僕は黙っていた。君がすごく楽しそうで、僕は何も言えなかった。
「ほらみて、この自営業さん、変な絵文字使ってくやしぃ〜!だって。
かわいいねえ。 ふふ。」
僕はまだ黙っていた。笑う君を見て、どうしようもなく悲しくなった。
「憶えててくれるかなあ」 君がふと言った。
「…この自営業のひと、私がいなくなっても、あの時変な奴に2をとられたんだよなー
なんて、憶えててくれないかなあ……無理かな……憶えてて、ほしいなぁ……」
それから数ヶ月後、君は家族と僕に見守れながら息を引き取った。
君はもうこの世に居ない、なのに僕は今F5を連続でクリックしている。
君の事を、自営業のひとが忘れないように、いつまでも、いつまでも忘れないように。
天国にいる君と一緒に、今ここに刻み込む
自 営 業 阻 止
一等自営業阻止
4 :
名無し三等兵:04/08/13 13:22 ID:7rF+mhp5
祖父は何も言わないから祖母から聞いた話だけど中国戦線とニューギニアと
フィリピンで戦闘したらしい。
5 :
名無し三等兵:04/08/13 13:36 ID:nUI415Hl
うちの爺ちゃんは満鉄で石炭くべてたよ
6 :
川宮哲夫:04/08/13 13:51 ID:n444iFPH
香港旅行へ行ったとき
ホテルで一緒になったお婆さんに
終戦直後の満州で
囚人兵にダワイ!ダワイ!
と追い立てられた話を聞かせてもらいました。
満州帰りの女性の方が
男の兵隊より過酷な経験をしてると思うな。
7 :
名無し三等兵:04/08/13 14:06 ID:Dhzj6IF8
上海で中国人を3000人くらい殺したって自慢げに言ってた。
勲章も10個くらい持ってる
N速の報道が最速
中国兵の撃った弾が俺のじいさんが被ってた鉄兜を貫通したが、どうも角度が良かったらしい。
鉄兜のふちに沿って一回りした後に鉄兜の後ろを突き破って出て行ったとか。
実家には2つ穴が空いた鉄兜と軍刀がある。
10 :
前スレ955:04/08/13 19:01 ID:tbYb6yjL
在所に墓参りに行って来た。
結果的には、ペリリューではなく南方としか書かれていなかった。戦死日時は18年8月と有ったから
何か、手がかりが有るかもしれないけど、あまりに漠然としていてよく分からない。
祖母の実家の話は専用列車が仕立てられた話は聞いていたが、正確には遺体搬送のためだけに
線路が延長され仮設の駅が建てられ、村一番の名士(庄屋だったそうだ)の無言の帰還を総出で弔ったそうだ。
母方の次男の方は近衛騎兵(大尉)だったが、3男6男の方が徴兵で戦死されていたそうで、戦死の地はラバウル、もしくは
ガダルカナルらしく、現在ジストロフィーで闘病されているおじいさんは、不治の病に倒れるまで毎年ラバウルに
行っていたそうだ。
そう言われて、昔そのおじいさんが「ピンロウってのは噛んでると・・・」と言っていたことを思い出して「ピンルージュ」
の事だと思い当たった次第。
戦死された、次男の方は出征時に父親から「泉守」銘の日本刀を拝領し、それをサーベルに仕立て直して出生したそうで、
部下の方が、遺品として届けてくれたそうだ。
余談だけど、墓地に行くと色々軍に従事された方がいることに気づいて、目頭が熱くなった。「近衛歩兵少尉」「主計大尉」「海軍主計少尉」
明治から昭和と色々な人の足跡が有り、我々の今が有る理由をまざまざと実感した次第。
その中でも眼に焼き付いたのは「●●海軍中尉 4月8日沖縄東方海上にて戦没」と「●●● 6月5日北太平洋方面・・・(長文)」
の銘は見た瞬間に想像が付き、思わず手を合わせてしまった。
また、余談続きで失礼かと思うが、恩師の父親は戦艦大和に乗り組み沖縄特攻で戦死されたが、部署は後部指揮所だったそうで
写真で後部が猛煙に包まれた大和の姿(後部指揮所被弾後の撮影だったか?)が撮影されたその瞬間には、恐らく・・・。
どうか、皆様安らかに永久の横臥を・・・。
11 :
名無し三等兵:04/08/13 19:32 ID:dSrFsRFG
赤紙で招集された祖父と友人は、とある駐屯地にやって来た。
二人は練兵場に整列させられていたのが、その時友人は同時に招集された知人を発見した。
友人は列から離れて知人の所に行ってしまった。
祖父は『ここに整列してなきゃ駄目だろ』と声をかけたが友人は聞かなかった。
その後、召集兵達の真ん中に一本のロープが渡されてしまった。(ウルトラクイズの東京ドーム予選みたいに)
一本のロープで仕切られた召集兵達は別々の部隊に配属されてしまった。
そして祖父と友人は別々の部隊に・・・
友人の部隊は硫黄島への補充兵に動員されて全員が戦死したという・・・
「あの時無理矢理にでもこっち側に連れて来るんだった・・・」と祖父は悲しんでいた。
21:00〜21:58 NHK総合
NHKスペシャル 作家・古山高麗雄が問い続けた戦争
▽中国・雲南戦線の記録▽元兵士の証言
「一兵卒の戦争」
NHKスペシャル◇第2次世界大戦下、一兵卒として中国の最前線に送り込まれた作家、古山
高麗雄さんの記憶をたどる。今から60年前、中国・雲南省では日本軍と中国軍・米英軍と
の間で激烈な戦いが繰り広げられた。拉孟、騰越では日本軍が全滅。そんな中、古山さん
はもうひとつの激戦地、龍陵の戦線に送り込まれた。古山さんは戦後、降り注ぐ冷たい雨
に耐え、飛び交う銃弾をかいくぐった自らの戦争体験を死ぬまで書き続けた。生き残った
古山さんがこだわり続けたものは何だったのか。彼と同じ部隊に所属していた元兵士らの
証言を交え、戦争の真実を解き明かす。
>>高麗雄
なんか名前からして出身地が大体分かるしそうゆう人が
中心の番組は見る気がしない。
以前ここ軍板の同様の板に祖父の体験を書かせてもらってた者です。
祖父は歩兵六十一連隊で、インドネシア、マレー、タイに行って炊事係りをしてました。
元気な爺さんでしたが先月体調が悪化し、かかりつけの医院で診察後、救急車に乗って病院に行く事に。
この時、情けない姿で行きたくないと
パジャマ姿から麻のズボンに絹のシャツに着替え、腕には時計、ズボンに財布を入れて救急車を待ち、
病院に運ばれたのは深夜一時過ぎだったとか。
その後午前六時に心停止により亡くなりました。享年八十七歳でした。
数年前から体調が悪かったんですが、その頃から
『救急車なんて恥ずかしくて乗れるか!』
『点滴打ってまで生きていても意味がない!』
と、申しておりました。体調が悪いとはいえ、前日まで友人たちと遊び回っていたそうです。
数年前にこんな事を言われたのを思い出します。
『おじいちゃんは人生で死ぬのが怖いと思った事は一度もないんや。死ぬんら怖がってたら何にも出来へならよ』
『そやからお前もな、死ぬん怖がんなよ』
この言葉はハッタリでも何でも無かったですね。
戦争体験でなくてすんません。こんな祖父の戦争体験、もし聞いてくれる人いれば思い出しがてら再書き込みしてみます。
15 :
名無し三等兵:04/08/13 21:16 ID:Me4QPJI/
16 :
名無し三等兵:04/08/13 22:09 ID:lkR9PG2o
艦名 戦果(
赤城 戦艦1隻・重巡1隻
加賀 戦艦1隻
飛龍 重巡1隻・空母1隻大破
蒼龍 駆逐艦1隻・軽空母1隻
翔鶴 空母1隻・駆逐艦1隻
瑞鶴 空母1隻大破
空母6隻がかりでこのショボイ戦果は何ですか?
18 :
名無し三等兵:04/08/13 22:10 ID:TrtKQ0DW
原爆で溶けた
高麗雄ってチョンなの?
高麗雄。本名か?
高麗は日本の領土ではないか?
零式に乗ってたってよ。ションベン弾が一発当たれば敵機は木端よ、とか誇らしげに語ってたけど
実際に撃墜したのは11機。多いのか少ないのかわからんけどな。皮の飛行帽と長靴、訳の解らん
勲章が3つ。白黒の何処かの南方基地で零戦と写ってる写真が一枚残ってるだけで、今となっては何も
わからん。死んじまう前に話しきいときゃよかったなぁ.....
>>22 どっかで13機落としたらエースって聞いた事が。
24 :
名無し三等兵:04/08/13 23:10 ID:gBFNR6Hp
⇒15
勇姿とはまさにあなたの祖父のことですね。
25 :
名無し三等兵:04/08/13 23:19 ID:hpBidO3k
おじいさんの体験だけを語るスレですか?
おばあさんの体験は駄目ですか?
27 :
22:04/08/13 23:26 ID:???
もう少しでエースだったって事か。>24、勇姿じゃないと思うが,,,,,
28 :
名無し三等兵:04/08/13 23:31 ID:GxgQrb9E
>>22,23
エースとは5機以上撃墜したものの称号だよ。
国や時代によって少しずつ違うけど。
少ないと思うかも知れないが、一般的には五機撃墜でエースだよ。
空戦で生き残っていくだけでもすさまじい技量が必要だったと思う。
そんな中で敵を倒せるの者は極一部。
矛盾してるみたいだが、空戦はもろに勝ち組と負け組みが分かれたみたい。
30 :
22:04/08/13 23:37 ID:???
ついでに書くと撃墜されて生還しました。
俺の爺ちゃんは身長が180cmぐらいあって、それでいて飛行機乗りだった。
特攻の前日に例の陛下の玉音放送があり、運よく生きて帰ってこれた。
その後は93歳まで長生きして大往生した。
俺にとってのじいちゃんは、壊してしまった消防車のおもちゃをボンドで
直してくれたのを憶えている。
でも、その人が本当のおじいちゃんではないという事を最近知った。
正確に言うとその人は本当はじいちゃんのお兄さんで、本当のじいちゃんは
海軍の機関士で4月に沖縄で戦死(スマン昭和何年か忘れた…)したという。
そう思えば、確かにばあちゃんの部屋には黄色く変色した写真が飾ってあったが、
そこに写っている人は帝国海軍と書かれた帽子を被っていたと思う。
ちなみに、俺の父が生まれてまだ3ヶ月のことだったらしい。
無論、父は写真でしかじいちゃんの顔を知らないし、ばあちゃんは兄弟の助けが
あったとはいえ、女で一人育ててきた事になる。
きっとそんな目にあってしまった未亡人というのは当時はたくさんいたんだろうなぁ。
そして父も今年病気で亡くなってしまった。
亭主と息子に先立たれたばあちゃんは気丈にはしているものの、相当堪えていると思う。
俺が出来る事はとっとと結婚して子供を見せてあげるくらいなんだろうけど、俺毒男だしなぁ…
すまん、ばあちゃん。
うちの爺さんは金融恐慌で親父の銀行が潰れて、金が要らない陸軍士官学校に入学して
成績はかなり良かったらしく30前に少佐になって日本降伏後国民党軍の捕虜となって数ヶ月後
日本へ帰ってきたらしい。
一番悲しかったことは敵に包囲されたとき一番信頼していた部下に援軍を頼むため
伝令にいかせ、その兵は見事伝令を伝えた後緊張が解けたのか小便をするため塹壕を出た瞬間に狙撃され
戦死したことだってさ。塹壕ですりゃよかったのに・・・
>32
あらかさまな嘘話だな。敵に包囲されているのに伝令出す馬鹿な少佐がいるか。
そもそも包囲されているのにどうやって伝えるんだよ!お前の妄想ジジイが
出しそうな命令だな。
>>22の爺様のケツ拭きにもならねぇな
>>33 戦争未亡人が夫の弟と再婚、ならもう少しリアリティがあったんだけどね。
36 :
名無し三等兵:04/08/14 01:18 ID:SJnT0z+w
37 :
名無し三等兵:04/08/14 01:39 ID:iShqenTI
俺のじいちゃんの話を少し。
オヤジからの又聞きなんで詳しい所は不明。
海軍に入ってたらしいんだけど、あまりオヤジに詳しく話はしたがらなかったらしい。
海軍の訓練は非常に厳しくて、耐えきれなかったのか自殺された方もいるらしい。
何か大きな作戦の出撃前に腹痛で寝込み、出撃出来なかったらしい。
当時の海軍は女性に人気があったらしくて祖母が祖父と結婚した理由の一つもそれだったらしい。
こんな話でごめんよ。もっと詳しく聞ければよかったんだけど
爺ちゃん怖かったし、何となく長男を重んじるような空気をもってて
末っ子の俺はじいちゃんと心をかよわす事は難しかったような気がする。
でも小さいころ一緒にプラモデル買いに行った事は良く覚えてる。
じいちゃんも不器用だったんだろうな。
書いてて涙出て来た。今度線香あげとくね。
じーちゃんは朝鮮総督府の外交官だった。
同じ皇国臣民と言えど、やはり朝鮮人をバカにする日本人も多かったらしいが
じーちゃんには一切そんな部分はなく、朝鮮語も話せたため
(他の外交官は日本語オンリーだったとか)
朝鮮人からの人望が厚かったらしい。
引き揚げ時にも特に悲惨な目には遭わなかったとか。
そのせいか俺の母親や祖母も朝鮮人を高く評価していて
(朝鮮人の子供はめちゃめちゃ頭が良い、とか)
嫌韓の気がある俺とは話が合わない。
>>38 あ・・・俺の曽祖父も同じ、
総督府直属かどうかは知らないが、朝鮮の土地の管理をやらされてた、
リベラルな人だったらしくて朝鮮人を蔑視したりはしなかったとか
(
>>38の爺ちゃんの証言と同じで、やはり朝鮮人を見下す日本人は結構居たらしい)
ただしウチの婆ちゃんは原爆投下後、土地関係がグジャグジャになった広島での土地関係で
在日と丁々発止やった経験からか、特に親韓と言う訳ではない(寧ろ人間不信のきらいが強い)
>>38だけど、「外交官」ってのは言い方おかしかったね。「官吏」に訂正。
うちの祖母も朝鮮人に完全に心を許してるって訳ではなかったみたい
>>40 それは「頭がいいから油断できない」って意味かもしれんけどね。
42 :
名無し三等兵:04/08/14 02:21 ID:nmxWJA8J
今年帰省したときに初めて父方の祖父の話を聞いた。
なんとミッドウェーに参加したときは空母加賀に乗っていたらしい。
その後はあちこちを転々としたあと、最後はペリリュー島で戦死したと
言うことだ。
ペリリュー島で亡くなったと言う事は墓石にも書いてあったので
知っていたが、よもやあの加賀に乗っていたということを聞いて本当に
驚いた。
俺の父親が5歳の頃、九州に祖父が上陸するという話を聞いて祖母と
一緒に面会に行ったらしい。
祖父の乗った船が港に着くのを待ってたところ、見知らぬ兵隊さんに
神社に一緒に連れて行かれお参りをした後、キャラメルを買ってもらった
のを今でも覚えているらしい。
お前らも今のうちに祖父母や親に戦争体験について聞いておいた方が
いいぞ。今が最後の機会かも知れん。
>>42 やはりミッドウェーの口封じに激戦区に送られたのですかね・・・合掌
>>42 見知らぬ兵隊さんに神社に連れて行かれたのか。ヘンなイタズラされたんじゃないのか
45 :
42:04/08/14 03:11 ID:nmxWJA8J
オリンピックの開会式見てます。(^_^)
>>43 どうなんでしょうね。 父親もそう言ってまして。
>>44 「知らない兵隊って、なんか危ないやん」って父親に言ったら
「あほ、当時の兵隊さんにはそんな人はおらん」って
叱られました。
そんな父親は民主党小沢支持。鬱出し脳
>42
当時の兵隊さんはホモばかりですよ.....合掌
>>46 そんなこと書くとアカ日が従軍慰安「夫」連れてくるぞ(w
>42
ホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモホモ!
HA--------------------!!!!!!!!!ホモホモホモホモホモホモホモ!!
HA−−−−−−−−−−−!!!!!!以下略
>>25 おばあさんの戦争体験でもいいと思うよ。
過去にもいくつか出てるし。
こう考えると、あの日の出来事がどんどん遠い昔の事になってるんだな。
大東亜の事を知らない人間が出てくるのも当然の成り行きかもしれない
(先日のアレはもろにやらせくさいが)。
いつしか数百年、数千年前の出来事に・・・
この先、このスレは貴重なものになっていくと思われ。
54 :
名無し三等兵:04/08/14 16:48 ID:nmxWJA8J
漏れは、その当時生きていた人にその時代の空気を聞いて
みたいんだな。
マスゴミでは、軍の暴走が国民を巻き込んだって良く言うけど、
実際はどうだったのか。国民の多くも真珠湾攻撃に快哉をあげた
のではないか、とかね。
国民の支持がなければ、陸式もあそこまで
強気にはなれんだろうしね。
56 :
名無し三等兵:04/08/14 18:13 ID:vVhNSRob
59 :
名無し三等兵:04/08/14 18:55 ID:vVhNSRob
>>58 男前ですね。
鋭い目をしているような気がします。
61 :
名無し三等兵:04/08/14 19:03 ID:GDKkoWCU
>>56さん、
陸軍と海軍の軍用機が混ざっているのは、なんでだろ〜?
63 :
名無し三等兵:04/08/14 19:39 ID:GDKkoWCU
飛行帽も微妙に違うっぽいね
66 :
64:04/08/14 19:50 ID:???
67 :
名無し三等兵:04/08/14 20:34 ID:/UHNtczC
>>56 この方かどうかは判りませんけど、東郷元帥のお孫さんが海軍軍人だったのは事実。
「元帥の孫」として特別扱いされるのが嫌だったようで「爺は爺、俺は俺」が口癖だったそうです。
海軍兵学校では不良生徒として有名だったそうで、放校処分ギリギリで卒業したらしいです。
(流石に元帥の孫を放校する訳にはいかなかったらしい)
>>56 東郷元帥の孫って陸軍なの?これ陸軍の飛行服だけど。
疾風かとおもった
70 :
名無し三等兵:04/08/15 01:52 ID:2dl62UGE
マニアの目はオソロ氏や
71 :
名無し三等兵:04/08/15 16:32 ID:9o2Vh1/X
>>69 疾風キー84はラッチェ4枚羽ペラでこの写真は3枚。滑油冷却器覆いの形状とか違う。
翼の99式20ミリ機銃2号の突き出た銃身とか、その外側の翼下面の
13ミリ機銃の薬莢排出口もポイント
72 :
名無し三等兵:04/08/15 21:11 ID:YqMqf9bc
亡くなった爺さんは、陸軍の軍医で大陸(中国)に行ったそうだけど、
虎を捕まえて食べたとか話してたよ。
婆さんは、戦中、田んぼに落ちた焼夷弾を何かわからずにリアカーに乗せて
持ち帰って大騒ぎになったとか言ってた。
うちの親父は、疎開先から小学生なのに軍に特攻隊志願のハガキを出して
軍から大人になったらね・・・という丁寧な内容のお返事を頂いたそうです。
覚えている限りでは、そんなところかなぁー。
私の祖父は満鉄で機関士をやってたそうです。
>>61 陸軍と海軍の軍用機が混ざっているとなにか問題があるの?
ポーカー氏を追い出したキチガイマニアの類だろ。放置しとけ。
今年大学に進学して、向こうで独り暮らしすることになったから、
何か思い出になるような物を持っていこうと思って、色々探してたんだけど
俺爺ちゃんっ子だったから、爺ちゃんの写真持って行こうとアルバム見てたら、
若い、俺ぐらいの歳の爺ちゃんの写真があった。
戦闘機(たぶん隼)を後ろに5人位で笑っている写真で、裏に台湾って書いてあった。
つらい時代だったろうけど、仲間と笑い合っている爺ちゃんを見たら、涙が出てきたよ。
向こうってどこ
下宿先でしょ
81 :
名無し三等兵:04/08/16 14:02 ID:Q5e/SzhE
漏れの爺ちゃん婆ちゃんは4人とも亡くなっているので
もう詳しい話は聞けないが、餓鬼のころに聞いた話を少し…
親父のほうの本家は地元で有数の名士だったそうで、駅に行くときには
道路を使うよりもウチの土地を通ったほうが近い状態だったそうだ。
服を作る工場もいくつか持っていて、一族から天皇家に奉公人も出していたそうだ。
戦後になり軍服を作っていたので工場は全て取り上げられ、土地も農地改革で取り上げられてしまったそうだ。
親父は末っ子だったのだが兄弟の上の二人は坊ちゃん扱いでチヤホヤされていたと
話してくれたのを覚えている。
83 :
82:04/08/16 15:01 ID:???
お袋の実家は床屋をやっていたが、ある日空襲で焼夷弾が落ちてきて
自宅の屋根を突き破ってきたことがあったそうだ。
幸いにも不発弾だったのでけが人はいなかったが
非常に恐ろしい思いをしたと話してくれたことを覚えている。
(爆発してたら漏れはいなかったなと思うと怖い)
床屋が軍事目標だったとは思えないので無差別爆撃に対して非常に怒りを感じている。
「漏れの婆ちゃんに怖い思いさせやがっていつか覚えてろ」と言ってやりたいが
あいにく漏れは英語がさっぱりなので今のところそれは実現できていない。
84 :
名無し三等兵:04/08/16 15:22 ID:TBNKsEwh
>>81 比島とか、南西方面にフェリー飛行する途中とかでは?
家のばぁちゃんのじぃちゃんだか何だかが
第一次世界大戦の時の大佐で海軍のえらい人だったらしい
でもばぁちゃんは余りその話をしない
戦争を誇らしくは思っていないからだろう
今日、昼の番組で戦争のことをやっていて
それを見たばぁちゃんが言っていた
「辛かったねぇ・・・食べるものが無くて道に生えてる草まで食べたんだよ
スイトンを食べたなんていってるけどそんな贅沢なものは無かったねぇ
防空壕って言うのもちゃんとした穴じゃなくて・・・
家の周りは掘ると水がでてきてさ、体半分水に浸かって空襲に耐えたんだよ
焼夷弾が落ちてくると地響きがして怖かったのなんの・・・」
家のばぁちゃんも今年で90になった
今の楽しみは『みのもんたのやつ(午後は○○のことらしい)』
『クイズミリオネア』『ポチたま』だ
ミリオネアは500万になるとドキドキするから止めた方がいいよと言う(笑
昔、辛かった分だけ今は楽しんで欲しいと思う
長文スンマソ
>>85 ここは長文を書く場だよ・・・寧ろ短文レスの方が無価値w
防空壕・・・・言われてるほどしっかりとした物じゃなかったんだろうな
87 :
名無し三等兵:04/08/16 20:10 ID:Q5e/SzhE
>85
それはよかったデスね。っていうか一人でスレ潰しすぎ。文体でわかるんだよ!
おまえの爺、婆は何匹いるんだ?
>>87 ん?ここを訪れたの自体初めてですが?
昼の「どうなってるの?」を見た時にばぁちゃんから聞いた話を
書きたいと思って探したもので
戦時体験、天皇を誇りに思ってる方には最初の段落は失礼だったかも知れません
気を悪くしたのならここで謝罪します
ただ・・・
>文体でわかるんだよ!
には自信過剰としか言い様がないです
煽りと分かってはいますが祖母の名誉のためにもあえて反論いたします
以降
>>85としての書き込みは致しません
スレの皆様にはご迷惑をお掛けしました
別に迷惑じゃないが?っていうか85としての書き込みしないってどういう意味
なのかわかんねー
90 :
85:04/08/16 21:19 ID:???
>>89 この投稿(
>>85の書き込み)に対してのレスがついても反応しませんと言う事です
っていうか書き込んじゃってますね・・・
迷惑ではないと言って頂いて
>>89氏には感謝してます^^
91 :
89:04/08/16 21:34 ID:???
なるほど、俺があほなだけだった。スマン
>>85 私も別に気にならないね。
むしろ共感できるな。
祖父母の世代には静かに落ち着いて過ごしていただきたいものだ。
93 :
名無し三等兵:04/08/16 23:16 ID:Brrxw78w
他スレで質問してレスもいただいたんですが流れてしまったのでここで質問させてください。
うちのじいちゃんの兄のことです。
お墓には昭和20年3月、比島、ルソン、マリキナにて迫撃砲弾により全身・・・・とかかれていました。
じいちゃんも亡くなって、後はそのじいちゃんの兄のことを知ってる人はばあちゃんしかいくなりました。
写真が一枚あるだけです。俺の子供たちにこの命を懸けてくれた人のことを伝えようと思い、じいちゃんの兄の戦時中の軌跡を
調べ、書面にして写真とともに飾ろうと思いまして今、調べているところです。
情報は、
・昭和20年3月、比島、ルソン、マリキナにて戦死
・静岡連隊 部隊名は? ばあちゃんの話では三十六連隊だと言っているけどよく覚えていないらしい。
・通信兵なのは確か。 飛行機の通信兵だったのかなあともボケかけたばあちゃんが言っていた。
だれか、詳しい人情報をください。
で、弟のほうのじいちゃんはと言うと、訓練が嫌で胃潰瘍になり、皮膚麻酔だけで胃潰瘍の手術をされ
死ぬ思いをしたそうです。あまりの激痛に「殺せー!」と叫んだら「貴様それでも軍人か!」と怒鳴られたそうです。
その軍医を殴りたかったけど縛り付けられてるし気絶してしまったらしい。
で、使い物にならず故郷に返され、天寿を全うしました。
陸軍の軍人の軍歴は(現存すれば)本籍地の都道府県庁で保管してるはずだけど、
本人や直系卑属以外だと開示してくれないかもね。
>>93 静岡なら三十四連隊では・・・
可能性は低いが独立歩兵第十三連隊(泉五三一六部隊)かもしれない
96 :
名無し三等兵:04/08/17 00:58 ID:Nkn9Zhkp
>>95 ありがとうございます!
今は、教えていただける情報を少しずつかき集めて調べてという状況ですw
97 :
定野中尉:04/08/17 01:03 ID:OlmXeKsh
回天に乗る訓練をしてました
>戦時体験、
>天皇を誇りに思ってる方には最初の段落は失礼だったかも知れません
>気を悪くしたのならここで謝罪します
オイ藻前、首が左に傾いてるぞ!
いい整骨医紹介してやろうか?
俄右翼が巣くってるな。
さてここで疑問なのが、
99が言いたいことがワカランということなのだが…
↓でその驚くべき真実が明かされる!
101 :
ぬるぽ:04/08/17 11:21 ID:???
ぬるぽ
粍ぽ
うちのじいさまは航空機の整備をしていたらしく
本土にずっといたらしい。
機銃掃射をくらいかけたこともあったとか。
もうひとりは南方にいったらしく、両指のほとんどを吹っ飛ばされながらも
生きて帰ってこれた。
どちらも寡黙な人で戦中のことをあまり話さないが
たまに会いにいって酒を飲んでると話してくれたりする。
漏れの爺の兄貴がサイパンで戦死して、爺は中国でゲリラと戦ってたらしいのだが
いくら戦時中のこと聞いても「戦争は人間がするもんじゃない」
とか言って話してくれない。もしや中国で虐殺でもしてそれがトラウマになっているのでは・・・
>>104 虐殺っつうか、日本はゲリラ兵捕虜を捕虜として認識して無かったらしいしな・・・
無抵抗になったゲリラ兵をヌッ殺した事はあったかも
まぁ何処の国でも普通にやってる事だ罠
>>104 以前、後ろから野良犬に襲い掛かかられて大怪我をした。
それからは襲い掛からないような野良犬でも見つけたら
自己防衛のため殺した。
いくら野良犬だからといっても、殺していい気分はしない。
そんなところじゃないか?
死相が顔にでた人間は、必ず近く死んだって爺さんから聞いた。
具体的にはどんな感じの顔つきになるのでしょうか?
ガダルカナル島で餓死した兵士は
起き上がれなくて寝たきりになるとあと何日
仰向けで目を開けたまま喋らなくなるとあと何日とか
そういう感じの計算が不思議と当てはまったそうですが
きっとそんな感じで死相が出たと言う方々は急に頬がこけて見えたりとか
表情にそういった影が差してくるんでしょうね^^;
>>108 すいませんが、具体的に言うと身元が割れそうなので。
頬がこけるとかそういうことではなく、顔にある色の線が見えるそうです。
病死、餓死だけではなく、戦死された方にも出るというから
フシギですよね。
徴兵されて入る連隊と、志願で入る連隊はやはり違うのでしょうか。
祖父が奈良出身でして、陸軍に徴兵されたか志願したか分かりません。
私の産まれる前に祖父は他界して何も聞いていません・・・
分かっていることは、ただ奈良出身だけ。
奈良で編成された連隊は何連隊なのでしょうか。
知っている方、教えて頂けないでしょうか。
111 :
110:04/08/18 18:07 ID:???
連カキすいません。
徴兵で満州に行って捕虜になったとのこと。シベリアには抑留されなかったとか・・・
奈良は三十八連隊だっけ?
一応満州には行っているが、捕虜になったということは、終戦時満州にいた可能性が高い。
しかし三十八連隊は19年7月にグアム島で全滅してるから同連隊の線はうすいかも。
114 :
110:04/08/18 20:00 ID:???
なるほど。ありがとうございます。
三十八連隊をググッてみたら
>>113さんがおっしゃる通り、
グアムでほとんど全滅だったようですね。
やはりグアムで捕虜になったという可能性は低いですね・・・
三十八連隊は満州から中国大陸を何年も転戦したみたいで、
グアムに行くまで生き残ることはまずないですから、やはり同連隊ではないですね。
(中国軍に捕虜になったら殺されてるでしょうし)
手掛かりが少な過ぎですね・・・ご迷惑かけました。
他に手がかり無いの?
中国軍の捕虜になったら、即殺されるってモンでもないんじゃない?
蒋介石の方針から考えて・・・
117 :
110:04/08/18 20:20 ID:???
ここのスレは親切な人が多いこと・・・本当にありがとうございます。
今度祖母に会った時に聞いてきます。
祖父は戦争を嫌って、ほとんど話をしなかったようです。
だから聞いても何も聞き出せないかもしれませんが・・・
もう祖母も83で多少ぼけてきてますし。
もし手掛かりを得られたら、もう一度皆さんにお聞きします。
118 :
113:04/08/18 20:29 ID:???
三十八連隊にいた可能性としては、
満州、中国で捕虜になったが、原隊復帰。グアム移動以前に除隊して無事だった。
とかがあるかな。
違う部隊にいたとしても、最初は郷土の部隊に入ることも多かったようなので、
三十八連隊にいた可能性はある。
あの小野田さんも郷土の六十一連隊に入ってからすぐに東部三十三部隊(中野学校)へ転属。
組織の都合からいくと郷土部隊へ召集→技能にあわせて各地に転属。のほうがスムーズに行くと思う。
119 :
名無し三等兵:04/08/19 14:42 ID:44ZuYwPe
ルソン島の作戦に導入された全連隊名知ってる人いますか??
120 :
名無し三等兵:04/08/19 15:13 ID:Fo2PX4ib
B-29を見たときに、あまりに綺麗な飛行機なんで驚いた。
あれで日本の負けを確信したそうです。
しかし、それ以上に驚いたのが、戦前の日本では、許可が下りれば
軍用機に子供を乗せて飛ばせてくれたそうです。
親族にパイロットがいて、飛行機に乗せてやるよと言われて
喜んで出かけていったという話を聞きました。
121 :
名無し三等兵:04/08/19 18:24 ID:L7heDIAS
誰か詳しい人教えて下さい!祖父は飛龍という飛行機の搭乗員でしたが
戦争中の話はしてくれません。どんな任務についていたのでしょうか?
15歳でグライダーの離着陸訓練をしたそうですが、いったい何処の学校で
訓練したんでしょうか?敵艦船から対空砲火を受けたらしい、茨城の基地に
いたことがある。などかなりあいまいな情報しかありません
122 :
名無し三等兵:04/08/19 18:27 ID:UcNtlgGv
>121
飛龍だったら四式重爆だと思われ。
うちのじいちゃまAは浜松の軍需工場だかで働いてて、遅刻して憲兵さんに怒られそうに
なったらしい。でも詳しい話は聞いたことが無い。
じいちゃまBは高射砲だかの砲員だったけど、訓練中に事故で破片を浴びて病院送り
になったので戦地には行かなかったらしい。今は退役軍人会で頑張ってる。
>>121 恐らくだが、艦船の対空砲火を受けて帰ってきたという事は、
主に輸送船団の攻撃をしていたのではないかな?
レイテ戦にくらいは参加してるかも・・・・台湾沖航空戦の生存者なら神と崇めまつ
125 :
名無し三等兵:04/08/19 19:39 ID:I3VU1F3H
127 :
125:04/08/19 21:00 ID:I3VU1F3H
なんで?
>>124 輸送船攻撃だなんて、121の祖父さんは根性無しのへたれだなw
>>121 重爆撃機乗りなら、浜松で訓練を受けるはず。
陸軍初の雷撃部隊として、海軍とともに敵艦攻撃の任務に就いてたそうです。
茨城ということは、終戦時筑波にいた飛行第62戦隊かな?
どこかは、知りませんが、たしか戦車かなんかで敵の兵士を撃ち殺していた
らしい
何スレ目だか忘れたが、書込みした者です。
俺の爺さんは海軍に徴兵されて「隼鷹」乗り組んでました。と、書込みしたんですが、
その後、実家帰った時に爺さんとNHK見ながら海外旅行の話になった時に
爺 「俺はな、海外へ一杯行ったぞ。パスポート無しでな」
俺 「あれ、行ったことあったけ…?」
爺 「ああ、戦争中にな、空母に乗って色んな所行った。もっとも、みんな日本の領土だったから
国内旅行だけどな」
そう言って笑うと旨そうにタバコ吸ってた。
軍隊行ってあんまり酷い目に有った事が無いのか、生き残って帰ってきたからかは分からんですが、
爺さんから軍隊の酷い話を聞いた事が無いです。
ちなみに、今も元気に自宅の庭いじりをしてます。
ふと思い出したので、書込みしました。
137 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/08/20 12:14 ID:ejmkr9ND
138 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/08/20 12:20 ID:ejmkr9ND
おいらはガダルカナルの生き残りだよ。
139 :
名無し三等兵:04/08/20 12:48 ID:9LTXgYcm
>>138 死ねばよかったのにね。日本に帰ってきてもつらいことばかりだろ?
140 :
121:04/08/20 17:37 ID:nYeKjdNW
硫黄島の上空から撃墜された零戦を見たことがあるともいってました。
ほかには軍艦島を目標に爆撃訓練をしたと言っていました
私の祖父は南京にいった。
この話はまずい?
軍隊手帳も残っている。
クーニャンを何人ローリングしたのか教えてください。
>>141 南京虐殺とされる行為を見分したか否かは聞きたい・・・
まぁ肯定しても否定してもネタ扱いの、辛い領域ではあるが
後学の為に聞いておきたいですな
144 :
125:04/08/20 19:12 ID:QUYpSLoB
うちの爺さんはもう亡くなったが、戦争中は南方で軍属だったらしいよ。
爺さんは気さくな人で、出発する時にはリュック一杯の医薬品を持って行ったんだ。
それで現地の人が体を悪くするとそれを分けてあげてたんだね。
他の人達は現地の人には辛く当っていて凄く威張っていたらしいけど
敗戦の時には日頃仲良くしていた現地の人達から匿われて
他の日本人達が襲撃されて殺されたりしても何とか生き延びられたと言っていたよ。
特に憲兵達は仲間からも恨まれていて、敗戦のドサクサで相当やられたらしいよ。
うちの爺さんはそんな中、現地の人に見送られて無事に生還できたんだよ。
やはり口では大東亜共栄圏とか奇麗事を並べ立てても
いざとなると支配する側とされる側とでは酷い仕打ちも行われるから
それに乗せられていた人達は敗戦で立場が入れ替わると無残なことになる。
それでお爺さんはまわりが何と言おうと人には良くしておけと言うのが口癖だったよ。
お爺さんが生き延びてくれたおかげで俺も生きているんだからね。
俺もつくづくその言葉を忘れないでいつまでもいたいと思っているよ。
146 :
名無し三等兵:04/08/20 19:51 ID:YyvATrOV
予科練から三重の航空隊に配属。
伊勢湾に上陸する米兵を迎え撃つべく
ボートでの突撃の準備中に敗戦
>>143 それでは、たいした話は聞いてないのですが。
まさに、そのときに南京にいたようです。軍隊手帳からも確かです。
で、そんなことは無かったと力説しておりました。
大体、そんな弾がどこにあるのか?と。
お蔭で、ウチは一家そろって団塊の世代の父親も含めてアンチ朝日でした。
>大体、そんな弾がどこにあるのか?
コレに尽きるよなー、あのハナシの胡散臭さはw
なんだか胡散くらい話だな。
まるで宣伝広報活動しているみたい。
ま、どうでもいいけど。
そうそう自作自演臭ぷんぷん。
で、結論をアンチ朝日に持っていくのがいつものって感じかな。(w
149&150
【・∀・】ジサクジエン乙
赤卑の中の人も大変だなw( ━@Д@)
153 :
147:04/08/21 07:13 ID:???
すげー自演認定された。チョト嬉しい。
>>151 直接聞いたことは無いです。軍隊手帳もちょっとよく読んでみます。書いてアンのかな?
154 :
147:04/08/21 07:27 ID:???
連書きスイマセン。確認しました。
>>151 「昭和12年動員下令。歩兵第百十五連隊に応召」
とありました。
>>147 歩兵第百十五連隊といえば高崎の部隊ですね。
昭和十二年十月十八日軍旗拝受された部隊だから新設時応召された方なのかな。
お爺様の南京その他中国戦線での体験談もっと聞かせてください。
きっと色んなエピソードがあるのでしょうね。
156 :
名無し三等兵:04/08/21 09:13 ID:OVWksFHX
教えて君ですいません。
亡くなった祖父は、昭和19年ごろに横須賀の海軍陸戦隊に
召集され、南方へ出征したそうです。よほど辛い体験だったのか、
身内にも多くは語りませんでした。当時、横須賀にあった部隊や
出撃地はどこだったのでしょう。
そもそも、陸戦隊って招集兵がいたのでしょうか。
>>154 もっと聞かせて!
偉い人の脚色されたような話より
現場の話が聞きたい。。。。
158 :
名無し三等兵:04/08/21 11:39 ID:mPGz9IK+
漏れの祖父は海軍の将校で、ジェット戦闘機の燃料を開発するための
工場の設営を指揮していて、敗戦直後は先般として訴追されるのを恐れて逃げ回っていたと祖父の妹さん
(これってなんて言うのかな?)が言ってた。
でも祖父本人は最期までそのことは言わなかった。
どうにかして知りたいんだけど、何か方法あるかな?
159 :
名無し三等兵:04/08/21 13:48 ID:4q8PAk2V
工場の設営指揮は戦犯にならないよ!
160 :
名無し三等兵:04/08/21 14:55 ID:Nmz+pg2J
母方の祖父が本州で通信兵(航空関連か?)をやっていたらしいですが
詳しくさっぱり…ちなみに北海道でち
父方の祖父が北方領土で戦闘に参加してたとのこと、
母方の祖父は頭が良かったらしく戦後は国鉄などの
誘いを受けたそうですが実家の農業を継いでいましたが
痴呆でぼけてしまい老人ホームで10年寝たきり生活を
送った後3年前に他界しました、
父方の祖父は19年前に皮膚ガンで他界しました、戦後は大工を
していたそうで町では腕のいい大工として有名だったと聞きました。
飛行第62戦隊について誰か情報求む!
ウチのじーちゃんは、「愛国丸」に乗っていたらしいのだが
うちの家族は全員「商船」だと信じきっています。
本当の任務は俺以外知らない。
きっと食料や客を乗せていて、トラックで空襲に巻き込まれたと
思っているのだろう。
あなたの家族はアフォでよかったでつねw
164 :
名無し三等兵:04/08/21 19:29 ID:IJ74eYr5
おれのじいちゃん、少年飛行兵で本土決戦の為に背中に地雷つけて戦車の
下に飛び込む訓練をしていたって言ってた。知覧から四国のどっかに転属
される予定だったそうだ。そういや脱走兵捜すのに松明持って山狩りした
とも言っていた。脱走兵はどうなったか聞いてないけど
漏れの死んだ爺ちゃんは、立川基地で航空機開発してたと自慢げによく話
してた。ピカピカのジュラルミン地肌の飛竜があって、その機長は、中国
大陸の歴戦の呑龍パイロットで、「いくぞー」の合図で宙返りやったとか
言ってた。本当かどうだかは判んないけどさ。
一番嫌いな米軍機はP−51。よく追いかけられて、空中退避の時は遠く
北海道まで逃げたとか。親父が子供の頃、P−51のプラモデル作ったら
理不尽にも叩き潰されたとかwいま親父が若い頃に作った爺ちゃんの飛竜
と浜松基地から散って行った飛竜がひっそりと本棚に飾ってある。こいつ
らを見ると死んだ爺ちゃんを想いだすよ。
漏れには優しい爺ちゃんだったな。
166 :
154:04/08/21 19:47 ID:???
すいません、期待されているようですが、これ以上の話は聞いたことが無いんです。
叔父はまだ生きているので機会があったら聞いて見ます。
167 :
121:04/08/21 19:55 ID:4q8PAk2V
>>165 私の祖父は飛龍の操縦士でした!飛行第62戦隊についてなにか情報ありませんか?
宙返りが出来るほど飛龍の運動性能はよかったと聞いたことがありますが
本当でしょうか?
168 :
名無し三等兵:04/08/21 20:32 ID:HGDgc1w4
おじいちゃんは、サマール沖で米空母を追い回したことが痛快だったと語ってくれました。
>>158 ありえる話としては、工場設営のときに設営労働させられていた
アメリカ兵捕虜を虐待した、ということでしょうね。
アイツに殴られた!とかいじめられたとか米兵に名指しされたとか。
国内にも南方で捕虜にしたアメリカイギリスオランダ兵がいっぱいいて
強制労働させられてたから。そのときに捕虜の扱いが悪くて捕虜が
大勢死んだとか、そういう戦犯もあるよ。
その虐待のことだけど内地でもあったんだそうで
東京都下の某市で起こった話だけど
ある時アメリカ軍の戦闘機が墜落して乗組員が捕獲されたんだって
それで街の人達が小学校の校庭に集められて
校庭に引きずられてきて縛られている乗組員に向かって
みんなで殴ったり蹴ったり石を投げつけたりして殺したんだと。
それで戦後になるとその集いに参加した人は密かに米軍により連行され
多くの人はしばらくは帰ってこなかったそうだよ。
多分責任者は捕虜虐殺で処罰されたんだろうね。
そのことは街の汚点として誰も口にしなくなったので
今では知っている人は殆どいないんだろうな。
>>171 静岡県の東部の市での事ですが
同じような事があったそうです。
殺した後は蜘蛛の子を散らすように逃げたと聞きました
>>167 飛行第62戦隊は、昭和16年11月14日に北海道の帯広で編成。
蘭印、マレー、華中、ビルマ、フィリピンなどを転戦。
昭和20年の1月頃から4式重爆撃機「飛龍」の装備を開始。
同年2月、特攻隊に指定され、4月からの沖縄戦で特攻出撃。
空中勤務者と機体の多くを失い、6月に西筑波飛行場に移動。
戦力回復中に終戦を迎えています。
宙返りの話についてはよく判りませんが、戦闘機並みの運動性を持っていたと、
手元の本にはあります。
>>171 兵隊とはいえ軍民無差別爆撃に参加してたんだから恨みも買うよな。
つーか、米軍の戦闘機は機銃掃射をしじゅうやってたからな。
通学途中の子供まで撃ってたし。
住民から、かなり直接的な恨みを買っていたと思うぞ。
私の祖父は中国戦線に従軍していたそうで、南京戦にも参加したそうです。
まだ祖父が元気だった頃に一度だけ南京虐殺について聞いてみたことがあります。
誰が高校野球の結果を聞いているのかと小一時間(ry
俺の爺さんは中国にいっていたそうだ。
足に撃たれた跡(貫通)があって今でもはっきりと残ってる。
で、戦争が終わった後、残務処理か何かで残れといわれ帰国できたのは
終戦から一年後だったらしい。その間は現地でも威張って生活ができて、
食い物も良かったのでやせ細るどころか太って帰国したといったけど
本当かな。
181 :
165:04/08/23 01:14 ID:???
>>121 >>173 親父に聞いてみた。やっぱ親父も子供の頃にさんざん聞かされた話だと。
そうなると宙返りしたんじゃないかな。だけど余程の腕がないと無理だよね。
よっぽどその機長さんは凄腕だったんだろうな。
親父の話だと爺ちゃんは陸軍第五研究所所属の技術中尉だったとか。戦友会
によく行ってたらしい。
じいさんから聞いた話
じいさんは南京にはいってなかったけど、シナで戦った将校
シベリア抑留中に南京で戦った将校に聞いた話では・・・とてもおそろしすぎていえんな。
お、100人切り将校の登場か?
で、刀は何本必要だったんですか?
186 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/08/24 16:46 ID:LnmaWGwt
おいらはガダルカナルの生き残りだよ。
187 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/08/24 17:21 ID:LnmaWGwt
飛龍は宙返りできたよ。これは有名。
188 :
167:04/08/24 18:12 ID:???
>>173 返事遅くなってすみません、情報ありがとうございました!
>>187 祖父の持ってる飛行機の写真を見て、本当にこんな飛行機が宙返りできるとは
信じられなかったですが本当だったんですね・・・長年疑ってました・・
189 :
名無し三等兵:04/08/24 18:40 ID:PNZQOBKW
俺のじいさんは勲章20個くらいもって中国人をばんばん殺したんだぜ!
偉いだろ!
>147
うちのも、歩20で南京いってんだけど同じ事言うてたばぁ。
上海揚がってから弾どころか食い物も送ってよこさんし・・。
南京辿り着くまでに怪我人、死人続出・・・。
中隊の半分くらい消えたとか言うておったな。
>>188 雪だるまのレスは信じない方が幸せになれるぞ。
軍板では有名な荒らし野郎だ。
>>189 勲章20個もらうって・・・何勲章を貰ったか言ってみな(w
193 :
名無し三等兵:04/08/24 20:51 ID:CsWqxJrI
>>192 モチツケ
>>189は『もらった』じゃなくて『もって』だ。
20個くらいの勲章で殴り殺して廻ったんだろ。
194 :
189:04/08/24 21:00 ID:???
えーっと勲一等旭日大授章と騎士鉄十字勲章とレーニン勲章と紺綬褒章と金鶏勲章に
薩摩琉球勲章にレジオンドヌールとガーター勲章と金星勲章と景雲勲章にパープルハート勲章。
195 :
名無し三等兵:04/08/24 21:02 ID:qtLcFyDs
うぜぇ。氏ね。
∧_∧ _ _ .' , .. .∧_∧
( ´_ゝ`) _ .- ― .= ̄  ̄`:, .∴ ' (
>>194 )
/ '' ̄ __――=', ・,‘ r⌒> _/ /
/ /\ / ̄\-―  ̄ ̄  ̄"'" . ’ | y'⌒ ⌒i
_| ̄ ̄ \ / ヽ \_ | / ノ |
\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \__) , ー' /´ヾ_ノ
||\ \ / , ノ
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ / / /
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| / / ,'
|| || || / /| |
!、_/ / 〉
196 :
名無し三等兵:04/08/24 21:04 ID:DaCNWb0D
>>194 金鶏勲章ってナニ?
それに11個しか言ってないじゃん。
197 :
189:04/08/24 21:12 ID:???
あと金羊勲章に文化勲章にジャーマンクロスに黒薔薇勲章と白十字勲章にムッタークロイツに
勲一等瑞宝章と青天白日章とマルクスレーニン勲章と北極星勲章。
200 :
189:04/08/24 21:51 ID:???
一等です。
>>198 ほほう。金「鶏」勲章なんてものは、俺も聞いたことがないんだが、厨房の証明なのか?
義務教育は20年以上も前に終えてるんだが。
>>202 なるほど。世の中には勲章の正式名称も知らずに得意になってる馬鹿が多いことはよく判った。
唯一の救いは、正しい名称で検索した方が、Hit数が多かったことだな。
205 :
189:04/08/24 23:32 ID:???
中田商店で作ってるから最近のだよ。って言うか必死だねw
捻ったオチすら出せんのか。
・・もう、いいからカエレ。
うちの婆さんが言うにはB-29の搭乗員が撃墜されて
落下傘降下して降りてきてもリンチはしなかったみたいね。
それどころか御婦人方が「お可哀想に」と同情までしてたらしい。
まあ都内だけど爆弾落ちなかった所だしな。
Λ_Λ
<=( ´∀`) < 中田商店で作ってるから最近のだよ。って言うか必死だねw
( )
| | |
〈_フ__フ
>>119 ルソン島防衛作戦のこと?ならば歩兵だけで、
・尚武集団
第10師団・第19師団・第23師団・第103師団・第105師団
独混第58・61旅団
・振武集団
第8師団・第105師団81・82旅団
などがあるようですので、(支隊・重複等は除く。)あとは各師団
・旅団番号から麾下連隊を調べれば判ると思います。
210 :
名無し三等兵:04/08/25 01:31 ID:ZKKQz0X5
漏れらも中田商店に金 「 鶏 」 勲章
注文してこよ〜ぜw
今からこのスレは
【中田商店に金「鶏」勲章を注文するスレ】
になりました。
おいおい軍スレにいるんだから「きんし勲章」ぐらい知ってろ!
皇居前清掃して恩賜の煙草でも貰ってこいってんだ!
ただいま、おい!おまいら
まだ俺様を赤ペンと間違えてるヤシいるのか?
率直に教えれ
誤爆だ、気にするな
俺にかまうな!
いいな?
そうすればおまいらは
今までどおりだ
すみませんでした
214 :
名無し三等兵:04/08/25 02:41 ID:UBH51sHB
ちょっと質問なんですけど
真珠湾攻撃の時に蒼龍に乗組員として乗艦していた
祖父は志願兵だったのか?それとも召集されて海軍にいたのか?
開戦した時に海軍にいたって事は、自分で志願していったんだろうか。
長年の疑問なんで、誰か推測でもいいから教えてください。
ちなみに祖父は、私が生まれるかなり前に病死してしまって、
会った事はありません。
>>214 海軍で、しかも開戦前から勤務してたって事は、志願って事だと思うけど・・・
まぁ俺は詳しくないんで、もっとエロい人の登場を待て
216 :
名無し三等兵:04/08/25 03:32 ID:UBH51sHB
>>215 レスありがとう。
やっぱり志願兵と見るのが、自然ですね。
祖父が生きていれば、色々話を聞きたかったんだけど
それだけが心残りです。
志願で出て来るバカがいるかよヴォケ(w
>>215 徴兵の可能性もありますよ。
いずれにせよ、それだけの情報では何とも・・・
>>214 何をしていたかとか、階級とか、出身学校などは解らないの?
219 :
名無し三等兵:04/08/25 06:37 ID:i2LqOytT
飛龍は天皇陛下に向けての天覧飛行で宙返りを披露したそうだ。
お言葉は『あれでも重爆か?』だったそう。
221 :
工兵隊:04/08/25 10:17 ID:???
>>220 飛龍って天覧飛行出たっけか?と言うより天覧で曲芸するか??
漏れのじいさんの戦争経験を書くと日露になるから辞めておく。
ただし、大陸で死んだから土産話は聞けませんでした。
親父は日立で出動中に艦砲に遭って病院送りで終戦…
「艦砲はすげぇぞ」とよく言っとりましたな〜〜
222 :
214です:04/08/25 12:44 ID:UBH51sHB
>>218 階級の事なんですけど、写真や資料はたくさんあるのですが
倉庫の奥にあるので詳しい事はわかりません。
でも撮影日時は不明ですが、手元に一枚だけ写真があり
階級章を見ると
(矢印のラインが2本、その下に直線ラインが3本、その下に錨のマーク)
が付いています。これの階級は何なんでしょうか?
ネットで検索しても上手く見つからないです。
三等兵だよ。
四等兵だよ。
225 :
名無し三等兵:04/08/25 15:47 ID:Cf9AeLba
>>214 錨のマーク? だったらそれは昭和17年以降の写真だと思う。
矢印2本というのがよく判らないけど、直線3本に錨のマークは…。
ただの錨だったら水兵長、周りに飾り付き?の錨だったら上等兵曹、だと思う。
226 :
214です:04/08/25 16:28 ID:MuTv6DGB
>>225 レスありがとうございます。
錨のマークには、飾りが付いてるので、多分上等兵曹だと思います。
矢印のマークと言うのは Λ ←みたいな感じです。
Λが2本、直線3本の上に付いています。
これは所属部署を示しているのかな?
昔見た写真には館山海軍と書いてある帽子をかぶっていました。
山型(矢印)マークは、善行章と言って、3年在籍すると1本もらえます。
(別に良い事をしたから貰える、という意味の善行ではありません。)
つまり、昭和17年以降の時点で、6年以上9年未満在籍している、
順調に進級できた上等兵曹さん、ということが判りましたね。
あとは、帽子のペンネント(帯)の「館山海軍・・・」とあったという事
ですが、空母に乗艦されていたという事からも、館山海軍航空隊に
居られた可能性がありますよね。
とすると、志願の可能性がかなり濃くなってきましたね。
横レス失礼。
良いことをしてもらえる善行章は、特別善行章といって、山形の中央の部分に
桜のマークが入っています。
それがなければ、
>>227氏の言うように、勤続年数を示す記章です。
普通、徴兵でとられた人なら、下士官まで累進する前に退役しますから、
おそらくは志願兵かと。
海軍軍人の軍歴証明って今でも厚生労働省で出してもらえるのかな。
そもそも兵籍番号(でいいのかな)からして徴兵と志願で体系が違うから、
一発でわかるはずだが。
>>227 詳しい解説をありがとうございます。
祖父が海軍に志願し、お国のために戦っていたという事が
わかり、孫として非常に嬉しいです。
私も、祖父のような、立派な人間になれるように
努力していきたいと思います。
>>229 兵籍番号って、例え徴兵でも、引き続き現役での勤務を希望すれば、志願兵用の
番号に切り替わったはずだけど。
志願兵がそんなにえらいってか。
>>231 それだったら「志願兵」でよいではないか。
>>231 確かに。下士官である段階で、志願になってるわけで。
ってか、
>>214は、徴兵で入隊したか、志願で入隊したかを
知りたかったんじゃないの?
うちのじいさんは目が悪く、丙種合格。赤紙来ず。恥だった、らしい。
俺も世が世なら丙種だわ(w
>>234 どっちにしても軍歴見れば最初のほうに書いてありそうだが。
さあ、214はとっとと厚生労働省に聞くんだ。
きっと今年は8月15日休日出勤で気が立った担当者が迎えてくれる。
というか、入団時の年齢で見当つかないか?
徴兵だと一定の年齢のはずだし、志願だとたぶん若めな気がする。
238 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/08/26 20:00 ID:2g0YMAQJ
おいらは陸軍にいたよ。
>>236 >丙種合格
世が世なら集落の住人を30人ほど、斬り頃す/撃ち頃す、してる訳だな。
爺さんではないんだが、ウチの叔父は陸軍幼年学校入校したらそのまま終戦。
今から見るととても信じがたいが案外リベラルな教育方針だったそうで。
241 :
名無し三等兵:04/08/27 00:58 ID:QUc3uiEs
>>221 中国戦線で96陸攻を宙返りさした香具師がいたという。
>>209 ありがとうございます!
それで、各師団 ・旅団番号から麾下連隊が調べられるサイトってありますか?
ググって見たんですけどなかなか見つからなくて
私の祖父は上海で大もうけしていたところ徴兵されてニューギニアへ大天津ノノ地台湾までいって屠龍の整備員をやった後原爆落ちた後を歩き回っていました。
62戦隊の飛龍が対潜攻撃任務についた話を知りませんか?
247 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/08/28 18:09 ID:8uKiKKzL
>>240どこの幼年学校?うちの爺さんは東幼(東京)。同じように途中で終戦になったらしい。
248 :
名無し三等兵:04/08/29 00:12 ID:4IuZgIfA
私の祖父は、戦時中一兵士として、ほとんど雑用係のような立場であったそうです。
特に悲惨な出来事も無く無事に終戦を迎えました。
どうも私の親族で戦前生まれの世代はこんな感じの人ばかりのようです。
変わったものがあるとすれば、南方に出征し現地に到着したけれども、命令がろくに
なく、だらだらと過ごしていたら終戦を迎えたなんて話がありました。
249 :
名無し三等兵:04/08/29 02:08 ID:mPLgPSAe
↑ 聞取りにも能力が必要だ
檀那寺の亡くなった先代の住職が、「間諜」とゆー奴だったらしい。
俺のうちは檀家総代だったので仲がよく、よくお寺へ一緒について行って話を聞いた。
工作資金はI財閥の金を使い放題、ポツダム宣言受理の情報を知った時には上海にいて、
凄い勢いで土肥原機関の巣へ行き、海軍士官の制服証明書一式手に入れて、出航する
駆逐艦に便乗して帰国したそうな。
その他まさにとんでもない話をいくつも聞いたが、個人同定されると今でも遺族に
迷惑が及びまくるのでとても書けん。
しかも、入り婿の現住職によると、「戦時中の話は墓場まで持って行く」といいながら、
俺の知らない超ヤヴァ目の話を幾つもポロっとこぼしたりしてたらしい。
ネタ? って思うだろ? 実は証拠もある。(ああっ、しかし言えないんだょぅ!)
ちなみに、M資金は当然ながらネタだと言っていたw
251 :
240:04/08/29 20:22 ID:???
>247
てめえにレスするのは極めて不本意ではあるが、爺さんに免じてレス。
うちの叔父は仙台ですた。1944年。
中では教官達が真っ向から玉砕批判とかやってたそうです。
教育総監部や校長の方針だったとか。
>>250 >間諜
漏れが昔中国語を習った大学の講師も、“自称”元間諜で“自称”中野学校卒でしたっけw
やはり上海で活動してて、戦後には米軍に捕まって司法取引、
今度はアメリカの間諜として上海に舞い戻って活動してたそうです。
(あくまで“自称”ですからね)
でも元軍人だったのは本当らしくて、普段は温厚な口調なんですが、怒る時だけ
「貴様ぁ〜!!!!!!!」
と軍人口調になってますた。
貴様って海軍用語でないの?
陸軍でも使うのか?
「誰かー! 誰かー! 誰かっー!」
↑
あ〜あ、歩哨に3回誰何されちゃってるよ……なまんだぶなまんだぶ
も、もしかして脱走兵ですか?
そういえば漏れの部隊の257が居ないような・・・。
おれの親父の話であるが、親父は,中国沿岸部の海軍航空隊基地に居たとのこと。
基地に着いたとたんに96陸攻がP-51に追われて緊急着陸してきて、
搭乗員はすぐに降りて逃げたが、陸攻を押して退避させようとした
整備兵が機銃掃射をくらって5,6人死傷したとのこと。
親父が、厚いコンクリの壁の影に隠れていたら、海軍航空隊基地と、
隣の陸軍航空隊基地とで、来襲したP-51の12機全機撃墜したとか。
その後、2度目の空襲があって、P-51が6機で攻撃にきた。
基地をしつこく攻撃してくるので、丘の上に機銃を据え付けて撃ってやろうとして、
近くに居た整備士に声をかけて弾薬を持ってついてくるように言ったら、
この前のとき仲間がやられているせいか、怯えてついてこなかった。
仕方が無しに、車に7ミリ7の機銃と弾薬を乗せて丘まで行って、機銃と弾薬を下ろし、
担いで、丘を上っていくと、P-51が基地の周りを旋回しながら攻撃しているのが見えたが、
一機一機、煙を引いて飛んでいくのやら、いきなり制御を失って落ちていくのが見えた。
後から聞いた話だが、陸攻の機銃手で腕のいいのが居て、皆がその射手のところに集まって
命中するたび、歓声をあげながら見ていたそうな。
最後の一機は,隣の陸軍航空隊の基地をを避けるように、親父が上っている丘を掠めて逃げて
いったとのこと。
そのとき、ヨーロッパ人特有の赤く、長い顔の操縦士が間近にはっきり見えたといっていた。
そんな親父も、もう78才になった。
258 :
257:04/08/31 17:16 ID:???
スレ違いスマン。
>>258 別に違って無いんじゃねぇの?
「爺さん」ってフレーズより「戦争体験」の方が重要かと。
260 :
名無し三等兵:04/09/01 10:34 ID:tFxrnBrk
261 :
名無し三等兵:04/09/01 11:32 ID:UZ3/7GD+
うちの爺様は4年前に亡くなったけど、南方に行ってきたとしか教えてくれなかった。
後で色々調べたら松本五十連隊所属の整備兵だったってことは分かったけど、南方が何処なのか…
誰かもし知っていたら教えてください。
爺様の兄貴は陸軍士官学校出て大陸で色々やってたらしい。刃のあちこち欠けて研ぎなおした軍刀がまだ残ってるよ。
あ、先に断っておくけど南京がどうとかじゃないからね。実際そういうものが残ってるってだけで、どこで何やってたかはまったくわかんないから。
うちのじいちゃんは高射砲の部隊に所属していて、
インパール作戦に参加したそうです。
出征のとき、母親の写真を持っていったようなんですが
作戦中に失くしてしっまったそうで、
「身代わりになってくれたのかもなぁ。」
と言ってました。
あとP-38のことを、下駄履きとよんでいたそうです。
???何故にP38を下駄履き???水上機を下駄履きと呼ぶのは聞いたことがあるが。
でっかい増槽をつけていたからだろうか?
>>265 うちの叔父もP38を「下駄履き」と呼ぶ。
大陸・ビルマ時代は出会わず、本土防空戦で対峙したときの
P38は偵察機型が多かったらしい。
それがでかい増漕をぶらさげていたうえに、仕掛けても捨て
ないんだそうだ。
前スレにレスした輜重兵の孫ですが
9月1日、ついに祖父がなくなりました。
昭和は遠くになりにけりを自らが痛感する所です。
最近祖父が少しずつ往時を述懐してくれて
今週の日曜にゆっくりと話を聞かせてくれると言う約束をした時に・・・。
祖父の遺影の為アルバムを親族で探すものの
父も叔母も祖父の弟に当たる大叔父すらも
祖父の写真など見たこともないという始末
結局祖父の部屋を皆であさる様に探した結果出てきたのは
3人の戦友達と4人で椅子に座っている若かりし日の写真一枚だけ。
もし数日生きながらえていればその方々との話も聞けただろうと・・・。
祖父や父の経験を聞けず悔やまれていた方々の気持ちを痛感しました。
>>267 謹んでご冥福をお祈りします。残念でしたね…
うちの爺さんは昭和11年に召集された。
まだ誰でも彼でも徴兵する時代ではなく、
チビなので、甲種合格にはならないと思っていたら
なぜか見事合格!おっめでとーございまーーーーす!
入隊していきなり下士官から
「お前は間違えて軍隊に来たな。
こんなチビが来るようじゃ帝国陸軍も終わりだな」
と言われ、
「来たくて来たんじゃないわい!」
と思い、それ以来陸軍が大嫌いになった。
それでも、すばしっこくて要領が良く、ずっと最前線暮らしだったから
トントン拍子に軍曹に昇進(奇跡的超破格の待遇)
普通は1年で上等兵にしてもらっただけで、連隊長から
「お前は間もなく除隊だが、志願してくれや」
と言われると断れないくらいの恩義があるのに
「残ってくれんか」
「除隊するであります!」
とトンズラした。
言っちゃあ悪いが某ざわわの明石家アパムを思い出した
273 :
271:04/09/02 23:21 ID:???
昭和12年10月 三島野戦重砲兵第三聯隊へ応召 中支上海上陸後、輸送任務に就く
14年10月 召集解除
16年10月 原隊に応召 台湾・?湖島にて待機
16年12月〜日米開戦 比島リンガエン湾敵前上陸作戦参加 ジャワ攻略作戦参加 スラバヤへ駐屯
その後ミンダナオ島・ニューブリテン島ラバウルへ転進
18年04月 召集解除
19年07月 四国船舶工兵第九聯隊へ応召 同08月九州にて終戦
「軍魂」っていう1300ページくらいの分厚い本に載ってたオレの爺さんの戦歴
よく「一人も殺してない」って言ってたけど本当かなぁ 虫も殺さない様な人だったけど。
>>267 そんなもなんだよね・・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
276 :
262:04/09/03 10:51 ID:???
>263 サンクス。
んじゃぁどこかで体悪くして後方送りになったってのも本当だったのか…ツイテルナ俺。
そうでなきゃココでこんな書き込みも出来なかったわけで(ガクブル)
もっと色々聞いときゃ良かったな。 一式陸攻整備中に機銃掃射くらって機体が盾になって偶然生き延びたって話しか聞いてないや。
兵站自動車隊の大尉だって、それでキムチの食い過ぎで盲腸になって本国に送還だと。地味だね
278 :
名無し三等兵:04/09/03 20:58 ID:ShmgVcVr
昨日、3月に無くなった爺様の遺品整理してきた。
戦時中の事は一切教えてくれない人だった。
でも漏れにはやさしかったな。
祖母さんは要らないというので遺品の殆どを貰ってきた。
取りあえず何故か2つ有った勲六等瑞宝章と支那事変従軍章。
今、整理中なので確か軍歴あったはずなので後日書きます。
ちなみに陸軍航空士官学校少尉候補生第24期。
最終階級は中尉だった。
280 :
279:04/09/03 21:13 ID:???
無くなった→亡くなっただorz
>>274 三島の砲兵聨隊なら駐屯地跡に行ったよ。
煉瓦の門柱が残ってるキガス。
ジイ様でなくて、バア様の話で申し訳ないが。
バアさんは大正一桁の生まれだが、台湾で生まれた。父親(ひいジイさん)は、
当時の文部省から台湾に派遣されて、日本人学校の教員をしていたそうだ。
戦争中の話だが、内地で食料や生活雑貨などが不足していた頃、当時の植民地
であった台湾はどうだったか。台湾では米が2〜3回収穫できるし、砂糖やバ
ナナ・フルーツ類は、輸出できるほど取れる。しかし、それらを日本に運ぶ船
は米潜にやられるので、運べない。倉庫にしまうと、空襲を受けた場合に小さ
な爆弾1発で全部やられかねないし、砂糖や米は燃えると消火が大変!
で、各家庭に分散貯蔵とかでとても食べきれない量(特に、砂糖は物凄い量だ
ったとのこと)が配給された。内地が食うや食わずで困窮していた頃、台湾で
は飽食の世相になっていた。空襲も思ったほど酷くなかったらしいし、米軍の
上陸も無かった。台湾は、当時の日本領のなかでは一番良い所だった。
283 :
274:04/09/03 23:39 ID:???
>>278 どういう経緯でこの本にオレの爺さんさんが載っているのか?
元気だった頃は何年かおきに戦友会とかに出てたみたいだから、そこで作られた物なのか?
爺さんのいない今となってはよく解らないが、家にあるその本には静岡県(地元)と岐阜県
の元軍人約2000人の戦歴と戦後の様子が書かれている。 (他県版もあるかも?)
昭和の戦歴 「軍魂」 嗚呼我が戦中記 ワールドジャーナル政経調査会
284 :
名無し三等兵:04/09/03 23:48 ID:SQQD4GeJ
>>283 俺は静岡なんですけど、戦死したじいちゃんの戦歴を調べたいと思って・・・
285 :
274:04/09/03 23:56 ID:???
>>284 今ちょっと見てみたけど戦死された方の情報は載ってなかったです。
力になれなくてすんません。
>285そら紳士録みたいなもんやろうと・・
発行元の名前からして・・。
金ださないと乗せてもらえないよ。
287 :
285:04/09/04 01:20 ID:???
>>286 やっぱりそうですよね。
ただの陸軍兵長だった爺さんが本に載ってるなんて不思議に思ってたんですよ。
でも爺さんの部屋には「陸軍兵長に任命する・・・」とか書かれた古ぼけた任命書?
みたいのがあって大事そうに額に入れて飾ってあり、亡くなった今でもそのままにしてある。
兵長・・・よっぽど嬉しかったのかなぁ?
爺さんが連隊長の当番兵だった頃、中国戦線での話。
連隊一の嫌われ者だった××准尉が、戦闘中太股を後ろから撃たれた。
とにかく兵隊いじめが好きな准尉だったそうで、
普通、准尉ともなれば叩き上げなんだから、兵隊の気持ちなんて分かってるはずなのに、
××は苦労すればするほどダメになる人間の典型だったそうな。
兵隊の親玉である准尉が撃たれたともなれば、連隊長も見舞いに行く。
××は病室で連隊長を見るなり
「味方に撃たれたでありますううううううううううう」と泣きを入れた。
すると連隊長は鬼のような形相で
「バカなことを言うなあああああああああああああああああああ!」と
大喝した。
さすが軍隊暮らしが長いだけあって、一発で理解した××はうつむいてしまった。
敵に撃たれたら名誉の負傷だが、味方に撃たれたとあっては
帝国陸軍の恥さらしだから。
射入口と射出口から弾道は分かるので、すでに連隊長に真相は届いていた。
××は除隊となった。
威張り散らせる天国から、娑婆へと送り返された。
真っ直ぐに歩けなくなった体で。
命があるだけ儲けもんだろうか。
爺さんは、テレビの反戦ドラマで兵隊イビリのシーンを見る度に
「こんな上官じゃ味方に殺されちまうよ」
と笑ってた。
では、ちょっと長いけど、うちの爺様を紹介します。
爺様は南方戦線の陸軍飛行場大隊に所属していた。この飛行場は、陸軍のもの
だが、実際に一番使っているのは海軍の哨戒機であった。哨戒機は、隔日ここ
と方面司令部のある台湾を往復していたが、爺様は、大隊の副官を勤める中尉
であったため、連絡将校としてこれに便乗していた。便乗する時は、仲間から
手紙やら買い物(バナナやパインらしい、密輸ですな)頼まれていたようだ。
哨戒機は双発の爆撃機で、機種は知らんらしい。
ある日、いつものように台湾へ行く途中、急に機内が騒がしくなった。パイロ
ットに聴くと、彼方を指差して「あそこに潜水艦がいます。味方はこの海峡に
いないはずですので、あれは敵潜です。直ちに降下して攻撃しますので、何か
に捉まっててください」と言って急降下した。爺様は、砲兵の観測が専門だっ
たので、飛行機に便乗する時にも景色を見るためツァイスの双眼鏡を携帯して
いたそうだ。じつは、パイロットの指差した方向を見てても、何も見えなかっ
た(観測将校なので視力は良いはず)ので、慌てて双眼鏡で覗くと、針のよう
な小さい司令塔がちょっと見えただけ。これを海軍パイロットは裸眼で見たの
だから、さすがとしか言い様が無い。ちなみに、陸軍のパイロットに聞くと、
視力は海軍並みにあるそうだが、海上での見張りは難しいとのこと。
なお、潜水艦攻撃の顛末は、急降下して爆撃針路についたものの、攻撃位置に
来るまでに完全に潜ってしまった。とりあえず、250k弾を2発放り込み、
周回したら、大量の油が浮かび上がってきたそうだが、他の浮遊物は見られな
かったので、「撃破」と報告された。機長は、撃沈できなくとも、哨戒機がい
ることが敵にわかるので、当分の間はこのルートに敵潜は来ないでしょう。と
いって、哨戒の目的は達せられたと言ったそうな。
この中で出てきたツァイスの双眼鏡は、20年前まで家にあった。当時、厨房
のオレが壊してしまったため、いまは無いが、大変惜しいことをした。
290 :
B29:04/09/06 11:57 ID:IdA3W/ua
俺のばあちゃんは戦争中に撃墜されたB29から
パラシュート降下してきた米兵を、近所のおっさん達が
鎌やら何やらで何人かぶち殺して、残りは憲兵に渡したと
笑いながらいってたw
俺の爺さんは古参兵が初年兵虐めしてるのを見つけたら『男らしくない』として全員ビンタで終わらせたそうだ。
俺の爺さんは香港にいた
なんでもインド兵は怖がりだったみたい。
本来なら一人でやるはずの歩哨を2人でやってたらしい
それと終戦になった途端に中国人は日本軍が使ってた
トラックを乗り回しバカ騒ぎしてて、祖父さんたちは
かなりムカついたって。「お前らには負けてねーんだよ」って
感じ
>>295 中国軍が日本軍のトラックを?中国は米帝から有り余る物資を供給
されていて日本のいすゞのボロトラックに乗って何をしようとしたんだ?
そもそも中国戦線で終戦まで稼動した国産トラックが存在すること自体
驚きですね。あなたの祖父がどう思ってるかは勝手ですが、戦闘記録を
見てみれば45年には日本軍は決定的敗北してますよ、中国軍にw
失せろチャンコロ
打通さんの出番だね。
体験談という単語を理解できない御仁がいるようだ・・・。
体験談=捏造
サヨクがよく使う手段。
>>290 289だが、爺様の予備士官学校時代の同級生で、名古屋の空襲時にそれをやった
(乗員を公開で斬首したらしい)奴がいて、さすがに都会での出来事だったため
記録が残り、戦後GHQの知るところとなって指名手配され、戦犯の指定が解除
された昭和27年頃まで逃げ回った(友人の名前で過ごした)そうだ。
>303
軍司令官殿に責任取らせるたぁふてぇ香具師だな。
304 :
名無し三等兵:04/09/07 01:42 ID:Y9Lpwk4q
誘導されてきました。
マラリアで身動きできず、重傷者と共に置いていかれるのを覚悟したとき
南無阿弥陀仏、南無・・とお経が聞こえたので声にならない声を上げたら
別の部隊の上官で、おんぶして連れ出してくれた。
しかし目の前にいた重傷者の戦友は助けられなかった、無念だと。
そしてニューギニアから生きて帰ってこれた、あの坊さんのお陰だと
戦友会を通じ、坊さん兵を随分探し回ってもらったのですが、手がかりはありません。
既に西方でお会いされたかわかりませんが、爺に代わりお礼を。
305 :
名無し三等兵:04/09/07 01:59 ID:sL6ZIYKS
>>262 うろ覚えなのだが昔「松本連隊の最後」という本を読んだ。
五十連隊は戦争の途中から構成者の出身地が変わった。
だから下士官は長野県出身者だったが、
兵は他県の出身者(山梨など北関東?)が多かったという。
同じ松本の百五十連隊は長野の郷土部隊で、この連隊は
トラック島で終戦を迎えたという。
あと質問があります。
>262に「整備兵」という記述があるけど、航空隊ではなく
歩兵連隊にも整備の専門兵がいたんでしょうか。
よく分らんが、旧日本軍は悪平等とでも言うか、徴兵が民間で行った業務を
無視して、兵科を決めていた。例え、医者であっても召集前に短現志願をし
て無ければ、歩兵の二等兵として扱った。ひょっとして、その歩兵は地方で
エンジニアでもしてたのではないか?表向きは、前記のとおりだが、部隊に
配属されると、地方での経験は結構活かされたとも聞く。
ちなみに、中島のエンジン工場で「神様」と呼ばれた熟練工は、歩兵をして
いたが、なんかの時にそれが分って、現地で整備の方に回されたとか。
こういう話聞くと、そもそもタダでさえ工作機械が乏しいのに、
せめて工場の熟練工ひっぱっちゃうのだけは、制度的に何
とかならなかったのか・・と思うよねえ。
>>306 中島飛行機と聞くと孫の自殺を思い出してしまう・・・
軍人・軍属じゃないけど満鉄の技師で大陸に渡ってた。
終戦が近くなって本土に帰ろうとした時
懇意の中国人が送別会を開いてくれたが
何故か赤痢にかかり、死にかかったらしい。
その後ソ連軍に捕まり、どこかに移送されそうになったらしいが
捕まっていた日本人医師と知り合いになり
嘘の伝染病の診断書を書いてもらい釈放されたと言っていた。
やはりこの時期のことは語りたくないらしく
これ以上は詳しく聞けなかった。
勇ましい軍人さんの話ではないので恐縮だが、戦争体験ということで…
うちの母親は昭和20年国民学校入学だが、入学早々アルマイトの「おかず入れ」
を供出させられたそうな。さすがに弁当箱だと弁当を持っていけなくなるので
おかず入れだったのだそうで、おかずはご飯と一緒に弁当箱に入れて持っていった
らしい。
「まったく…小学生のおかず入れ取り上げて飛行機作らなきゃならないようじゃ
勝てるわけないよ」と、今でもしみじみ語っている。
311 :
名無し三等兵:04/09/08 01:55 ID:EuDamm3I
うちのばあちゃん最近80過ぎて中古のワープロ使い始め、「自分史」
とやらを書いて親戚に配ってた。さっき、テスト勉強の合間に読み始めた。
とりあえず昭和初期は飛ばしてノモンハンの頃から読んでるが、内容、結構凄いかも。
ばあちゃんの妹が東京の中島飛行機工場で学徒動員やってたらしい。
ちょっと今日は徹夜で読破して、また書き込みます
朝鮮人部隊
1945年四月から、200人の朝鮮人部隊が、学校の3号館の校舎に入った(中略)
部隊を統率する上官は日本人である。三号館は全く別世界と化した。
早朝から兵士たちは上半身裸で隊列を組んで八ヶ岳へ登る。木材の伐採、運搬、
植林などの仕事である。夕方には素肌に太い木材を一本ずつ担ぎ、黙々と下って来る。
兵士たちは皆おとなしかった。(中略)
そして8月14日(土)
朝から兵舎がざわざわしていた。また上官たちがいないので、兵士達がのんびりしているのだな。
と私たちは皆思っていた。しあkし、後になってわかったのだが、上官たちには『日本敗戦』
が前もって知らされたらしい。敗戦と知った上官、軍医達は、朝鮮人兵の報復を恐れて、
いち早く全員姿を消してしまったのだ。
翌8月15日(日)正午に天皇陛下の敗戦の詔勅があった。
翌16日学校へ行くと、兵士達はもう自由といわんばかりに、私達や村の人々に向かって、
そばに寄って来て、大声で寄生を上げたり、からかったり、軽蔑し、嫌らしい言葉を吐きすてた。
今までの弾圧と、圧迫、極度の緊張から解きほぐされ、堪えていた憤懣が一気にせきを切って
吹きだし逆転した。今は大勢の若者たちが、統率も規律もないままに放置され、一日じゅう
身の置き所無くぶらぶらしている。山から担ぎ下ろされた丸太だけが、ひっそりと山積みされていた。
しかし、この兵士達も、次の日には一人もいなくなっていた。
軍隊が使っていた校舎の中は、机や板切れやごみが散乱して荒れに荒れていた。
そして、山積みになっていた物資は、何時何処に運んだのか何一つ残ってはいなかった。
世の人々は誰もが『敗戦』によって、この日本はいったいどうなるのだろうか。
という不安が日々に募っていった。その反面これからは、空襲がない。人が死なない。これが
最高の喜びであった
(←この当時、祖母は代用教員をしてたようです。戦後は日教組所属の教員として、
約40年勤め上げました。2chでは嫌われる「プロ市民教師」に近い存在だったのかもしれませんが、
右よりの折れとしても、それを祖母を責める事は出来ません。戦争の記憶は、一生モノの傷を、
祖母の心にきざんでしまったようなので。)
家のじいちゃん、士官学校に通ってたけど卒業直後とか寸前くらいに終戦だった。
戦後は鉱山で管理の仕事をしていたらしい。
314 :
名無し三等兵:04/09/08 11:23 ID:NAp/Cjw9
>305
150連隊…そんな部隊もあったんですか。
子供の頃聞いて五十だけしっかり記憶してたんで五十連隊だと思ってたんですが、150だったのかもしれませんね。ありがとうございます。
整備兵と本人が言ってた記憶があるんで間違いないと思います。 南方で一式陸攻の整備をしてた話を何度か聞いたんで。
150連隊も調べて見ます。なにせ地元に戦友とかがほとんど居ないんで、記録が無いんですよ。
…じいちゃん、一体何処にいたんだ
>>311 自分の爺さんも書いてたんでなんだが・・・書いてあることを真に受けるなよ・・・だが祖父の前では疑ったりするな・・・。
317 :
311 ◆wo2RzMgnOA :04/09/08 19:30 ID:EuDamm3I
>>316 結構日付のこととか詳しく書いてあるんで、矛盾などあった場合に
指摘していただけると助かります。もうすぐ読破できます
テスト終わる週末ころまとめてカキコみたいと思っております
>>314 ええと、一式陸攻は海軍の機体ですから、陸軍の人が整備することは基本的にあり得ないのですが。
海軍の人なのでは?
ただ、所属となると……
海軍のナンバー航空隊は、規則改定前は第40航空隊までしかないし、
改訂後は3桁のナンバーがついてるし。
第五〇航空戦隊は内地にいたはずだし。
319 :
318:04/09/08 19:42 ID:???
と、資料ひっくり返してて思いついた。
>>314のおじいさんの所属は飛行第五〇戦隊なのでは?
ここは「一式戦」を装備していた飛行部隊ですし、ビルマやフィリピンで行動していたので、
こちらの可能性があるのではないかと愚考いたします。
いずれにせよ、歩兵連隊の人が飛行機の整備をすることは、絶対にないです。
320 :
名無し三等兵:04/09/08 23:14 ID:Sj32X3Pn
ひいじいちゃんが21歳の時日露戦争で旅順に行ったそうだ。
襷隊に志願し、岩の陰に隠れて応戦中に喉を討たれた。頚動脈まであと二_だった。
それ以来、「あの日が俺の二度目の誕生日だ。覚悟を決め、遺書を書き、
上官にも言われたが生き残った。だからあの日が二度目の誕生日だ」と言っていたそうだ。
家には小さな勲章がある。
>>307 その辺の道理が通るくらいなら戦争に突入してないと思う。
323 :
名無し三等兵:04/09/09 01:33 ID:r0RmtLVP
320さんへ、祖父も日露戦争に行き、叔父の家に勲章がある。開業医の2代目で、医者であつたので、陸軍軍医中尉であつた。
後の戦争に応召する事は無かったが、在郷軍人であり、軍服は新しい物を用意していたそうだ、父が海軍の予科練に入る時には、
軍服で見送りをしてくれたと言う。この祖父は、私の生れるまえに死んだので話を聞いた事は無い.なお父は只今77歳私は47歳だ。
>>323 日露戦争の頃だと、軍医は将校相当官だから中尉ではなく
二等軍医だったわけですね。
つまり、金モールの部分に銀線が混じった大礼服を持っておられる
のでしょうか。
いえ、個人的に好きなもので・・w
>318
ありがとうございます(感涙
本人が生きてる間に聞いとけばよかったよう・・・
もしわかったらまた報告します
>>326 当時の写真を見れば、軍服が陸軍のものか海軍のものかぐらいはわかるのでは?
それもないのですか?
>326
軍歴証明とか取れない?
本籍地の役場かなんかで・・。
俺のじいちゃん大統領。
いよっ 大統領!
>>328 軍歴証明は陸軍なら(当時の)本籍地の都道府県庁、海軍なら厚生労働省。
ただ都道府県によっては軍歴を保管していない(終戦時のドサクサで燃やしてしまったとか
火事で焼けたとか)ところが結構ある。
>>331 樺太や千島、朝鮮に本籍があったらどうなっています?
>>332 現在日本領土ではない地域については、厚生労働省が主管のはず。
もっとも、終戦のごたごたで、どこまで内地に回収できたかは不明ですが。
334 :
323:04/09/10 22:31:10 ID:???
325さんへ、父が中尉と言っておりました。祖父の死後、引越しがあり、服は残っていません。
虫食いで襤褸になつた大礼服の帽子は有りましたが、モールは取れておりました。
明治神宮や靖国では、資格が有ると言うことで、中に入ってお参りしていたと、父は申します。
324さんへ、開業医はこの祖父でオシマイです。父は教員、私は、会社員です。叔父が1名医者に
なりました。この人は大東亜戦争で応召、軍医になりましたが。研究医であつたので、前線の臨床医にはならず。
陸軍登戸研におりました、「患者怖い」と言っていた叔父も終戦時には、大尉でした。
戦後は、保健所や日赤で、検査の仕事をしております。
>>332-333 樺太、千島本籍の陸軍軍人の兵籍の保管は北海道知事が取り扱っている。
朝鮮・台湾は厚生労働省でいいはずだが、本当に持ってるのかな?
戦争体験者が身内に余り喋りたくない事は解かります。
しかし、出来る限り話を聞きたいのです・・・。
どーにか喋らせる殺し文句は、ありませんかね〜
>>334 軍医のような各部将校相当官が、兵科将校と同様の「尉・佐・将」
で呼ばれるようになったのは、昭和12年からですから、
その頃まで軍籍があったのなら、軍医中尉ということになります。
しかし、登戸研って、すごいですね。
ばあちゃんの人生記読破したが・・・ショックだ・・・
日教組にいたばあちゃんだが、文章読んでる限り・・アカの気があったようだ・・・
日教組は共産党とは仲悪かったはずだが、これは・・・
武装革命でもやってたのか?そりゃすごいなw
>>340 そおじゃないけど、文章が真っ赤ッ赤。資本家の横暴が・・とか
まあとりあえず、戦時中の生活描写を転載します
毎日夕方になると、重々しい爆音が大空を制圧するかのように、決まって、
敵機が襲来するようになり、灯火管制の暗い電灯の下での慌しい粗末な夕食が常となる。
電気は黒い布で覆われて室内は薄暗い。それでも、家族の顔がそろう楽しい一時である。
「今日は○○さんの頭の虱を七匹取った」
「○○さんの髪の毛を梳き櫛で解いてあげた」
「○○さんのノートの上を虱がはっていた」などなど・・・
「じゃあ、今日は、衣類を熱湯消毒するか」と父。何時しか、こんな会話が多くなる。
暗い戦況が囁かれ、国民の経済生活も麻痺状態になると、40の坂を越した父の招集も
間近ではないかと覚悟をしていた。しかし、父より先に、師範学校に在学中の妹が、学徒動員で、
東京の中島飛行機工場に動員された。B29が編隊を組んで悠々と大空を通り過ぎてゆく時は、
中島工場が無事でありますようにと、皆で祈る。B29は、日本軍から何の抵抗も受けずに、
悠々と爆撃をして帰っていくのである。初冬のある日妹手紙が届いた。あちこちが黒く塗りつぶされていたが、
「動因学徒の体力が低下して、病人が続出し、帰宅者が出たため、食事の内容がよくなった。
自分の鳥目も、爪割れも治り、体の調子も回復した」とあった。手神には、「検」という大きな判が押してあるのが
痛々しかった。そして、数日後の夜半、東の空が長いこと異様に赤々と染まっていた。
この手紙で安心したのも束の間、中島飛行機工場を中心に、三鷹一帯が爆撃されたのである。
工場では学生や工員が避難していた防空壕が爆弾に直撃されいくつか吹っ飛び、大きな穴だけが残った。
妹はかろうじて助かったが、隣の防空壕はあとかたもなくなり、仲良しの友達の一人は影も形もなくなって
しまっていたという。それから間もなく、妹達は動員解除となって学校に帰った。
↑の文章見て思ったんだが、中島飛行機って工場疎開とかしなかったのかな。
日付が書いて無いけど、この大空襲が何時の日のものか判る人、いらっしゃる?
342 :
名無し三等兵:04/09/11 13:50:31 ID:sLR7F5VE
ひいじいさんの末弟。
軍艦「平遠」の乗組員だった。
9月18日に旅順沖で沈没、戦死した。
一週間後には100回忌だ。墓参りに行くつもりだ。
独身で死んでいるから直系子孫がおらず、したがって本家筋の自分が供養しなければならない。
ばかでっかい慰霊塔が建っていて、戦歴が刻んであるが、風化していて半分しか読めない。
読みづらい中読んでみると、沈没したとき、4名しか助からなかったらしい。
味方の戦艦も周囲にたくさんいたはずだろうに、どうして4名しか助からなかったのだろうか?
2000トンしかないフネが触雷したとなると・・
やはり助ける間もなく轟沈したのではないかと。
345 :
名無し三等兵:04/09/11 17:46:00 ID:sLR7F5VE
>>344 ありがとうございます。
この「平遠」という戦艦の乗組員は全部で何人くらいだったか、
もしもご存じだったら教えていただけないでしょうか。
ネットで調べたけど水兵の人数はわかりませんでした。
1週間後に100回忌です。それまでにできるだけのことを知っておきたいと思います。
>345
中華製か・・。お可哀想に。
英国製とまではいかなくても独国や米国産なら轟沈なんてことは
なかっただろうに。南無阿弥陀仏。
当時の清国海軍のフネって、大半が洋モノだったと思うんだが・・・・。
350 :
名無し三等兵:04/09/11 19:50:37 ID:EfcljJz1
>>341 それがいわゆる「銃後」の実態ですね。
大工場は、工場自体ももちろん、材料の運搬とか関連下請けとのやりとりなどの関係で、
平時でも簡易に移転できるものではないです。
>>348 英国製だろうが独逸製だろうが亜米利加製だろうと二千トンの船が触雷すれば轟沈するにきまっとるだろうがボケ。
>>348 ? 当時の最新鋭の戦艦がいくつも轟沈してますよ。
354 :
名無し三等兵:04/09/11 20:12:45 ID:RgEAz58l
>>352 口を慎め! 大馬鹿者!
パンパンパーン
∩
(,,゚Д゚)彡☆
⊂彡☆))Д´)
☆
なんで348に口を慎まなきゃならんのだ?
>>355 基本的な読解力と文章力が不足しているので、これからしっかり日本語を勉強すること。
>>341 「資本家」と呼ばれるものの内実が、戦前と戦後で「別もの」といえるほど違うのです。
その違いが生じた決定的な原因は税制。
所得に対する税金、財産に対する税金、相続に対する税金の違いを調べれば、戦後のは
「一部の偏向した連中が唱えているだけの架空のもの」ということが分かります。
>>358 戦後のことについて書かれてた部分でした。。。
空港建設予定地での反対行動とか、結構今考えると香ばしいことやってたみたいです。
まあ、実際の時代の雰囲気を知らない俺が、全盛期のサヨたちの行動を「香ばしい」と表現するのは
失礼なことかもしれませんが。
>>341 中島飛行機武蔵製作所へのB29による空襲は、19年11/24〜20年4/12迄、11回に
渡って行われています。
手記の「初冬」との文面からすると初回の11/24または二回目の12/3であると
思われます。初回は死者73人(うち女子学生8人即死)、重軽傷者84人、
二回目は死者55人、重軽傷者58人を数えています。
工場の疎開は初回の空襲後早々に決定されており、20年2/17の艦載機による
空襲後、移転が開始されています。
疎開地は都下浅川(現高尾)、栃木県大谷などで、地下工場が作られ、極少数
ながらも終戦まで生産が続けられたそうです。
>>360 ありがとうございます。今度実家に帰ったら、祖父母に
詳しいことをもう一度聞いてみることとします。
>311
戦後の安保闘争やらの学生活動ならかなり一般的な活動じゃないか?
そうでなければ国会議事堂が囲まれることはない(w
日本赤軍までいくと行き過ぎだろうけど。
そういう世代に話を聞いてみれば戦争体験
よりかは喜んで話してくれるんじゃないかな。
363 :
名無し三等兵:04/09/14 04:10:52 ID:GW0E/v/Y
364 :
名無し三等兵:04/09/14 04:48:52 ID:GW0E/v/Y
小学校か中学校の平和教育の宿題で、おじいさんに戦争体験を聞いて来いってのが
あった。夏休みで親戚が集まってたときだったが、訊いてみた。
うちのじいさんは乗ってた船を沈められた話などをひととおりした。
で、一同「戦争はしてはいけないな」などとまとめに入ったが、
じいさんはそこで「“負けるような”戦争をしちゃいかん」とひとり言い直した。
一同はそこでウケて笑ったんだが、このことは強烈に印象に残っている。
こういうある意味リアルな視点を提供してくれたことで、
絶対平和主義の迷妄に陥らずにすんだ気がする。
別の迷妄にはまりこんでるけどな。
たとえ強制であったとしても、戦場で本当の命のやり取りの中生き残った
70〜80歳の今の爺さん達と、戦後生まれの自分の父親達の世代が
爺さんになった時語る言葉。たとえ同じ意味を語ったとしても
その言葉の重みは全然違うと思う。
自分はもうすぐ30歳になるが何かに「命」を懸けた事は一度もない。
だからこのスレ好き。
それは君がいけないんだ。
戦後だろうといつだろうと命を懸けることはできるはずだ。
俺だって出来てる。
君が出来ないことはない。
>>368 情けないかな俺は出来ていない・・・・
死に場所を探し続ける人生です・・・・
いわゆる「『どう生きるか』ではなく『どう死ぬか』を考えよ」という奴か。
そりゃぁ人を(しかも多数)殺した人間とは違うわなぁ
予備校の先生が歩兵だったとかで
「あ〜この先生、こんなんだけど昔は人殺しなんだなぁ」とか思ったよ。
軍靴の裏で殴られるのが一番痛いとか言ってた。
しかしこの先生、英語の先生だったんだけど、
なぜ、いつ敵性語を勉強する気になったのか聞けば良かったな
372 :
名無し三等兵:04/09/15 12:52:58 ID:IfI5E4kV
うちのばあちゃん、防空壕に間に合わなくて
銀色に光る戦闘機(たぶんP-51)に狙われたって言ってた。
足のぎりぎりのところかすめたんだって。
あと、そのパイロットと目が合ったって言ってた。
子供だろうってくらい若かったらしい。
戦後、進駐軍のトラックに満載された兵士たちに「ママサン」と呼ばれ、
手を振られたけど怖くてシカトしたのだそうだ。
こっちもみんな子供みたいに若かったって言ってた。
373 :
名無し三等兵:04/09/15 15:14:14 ID:fh6az9Q+
昔、小学校の教頭が戦時中米軍戦闘機がなんにもない田舎の線路を攻撃して行ったって、たぶん適当に破壊して戦果を出したかったんだろうって言ってた。
うちのおじいさんは憲兵隊で満州に行ってたから
中国人かなり殺してると思う。
日本に帰るとき結構金持ち帰ってたみたいだし。
そういや日本本土爆撃の時の公式記録って
ネットとかでも検索できるのかな?
うちの田舎は富山だったので結構死んでるんで調べたい
>>374 それは「体験」じゃないよ。
「思う」「みたい」な推測じゃなくて、ちゃんと調べてから書こうよ。
うちのおじいさんは憲兵隊で満州に行ってたから
中国人かなり殺していた。
日本に帰るとき結構金持ち帰ってた。
うちのじいさんは関東軍将校だった。そういうわけかしらんがチャンコロ
とも戦ったことがあるって言ってた。んでけっきょくソ連軍の捕虜になって
、でっかい貨物車にのせられたんだけど、シベリア方向に貨物車が走り出して
、普通の兵隊は「南に行けばアメリカ軍に殺されるから、ソ連が守ってくれるために
北へむかってんだろう」とかいってたらしいけど、大卒インテリのじいさんは
そんなこと信じずに、部下に言い聞かせ・・・・ずに、一人でトンズラしたそうだ。
猛スピードで走ってる貨物車から一人で飛び降りたらしい。
んで腕を骨折したけど、無事復員。
戦後は好きかってやって大金持ちになって海外旅行ざんまい。もうしんだけど。
楽しそうな人生だw
>>378 まあその、極限状態ですからそういう風に機転が利かないと生き残れんですよねぇ。
まあ普通そんなに詳しくおじいちゃんが部隊名まで話してくれるわけないよなw
ここはほとんど脳内補完すれだし
うちの祖父ちゃん部隊名教えてくれたぞ。
野戦高射砲第五十一大隊第二中隊第一班
だって。
>>365 「“負けるような”戦争をしちゃいかん」
それが多くの人の印象ですね。
>>366 意味が分からないの人がいるのも仕方ないことですな。
>>371 そういう風な発想をする者が一番タチが悪いんですよ。見事に染まるからね。
危ないから自分で自分を監視したほうがいいですよ。
>>374 憲兵は悪役が相場になってますが、実際には、色々いたそうです。
金品を持って無事に引き上げることが出来たのなら、恨みを買うような下手なことを
しなかった可能性大。
うちの祖父は戦争中海軍にいたがヒマだったので毎日ラムネを焼酎で割って飲んでいたそうだ。
推測に対してレスするのもアレだけど、
戦後は大陸から財産持ち出し禁止だよ。
引揚者は一文無しになって引き上げてきている。
それと、憲兵は兵隊だから終戦時の混乱期は比較的安全だったんじゃないかな?
軍人はソ連に投降したので比較的安全に抑留された。
その後が大変だが、ソ連に保護されている為、
現地人にその場で殺されることは無い。
ついでとして、警官は国民党が来て一箇所に集められて全員問答無用で殺された。
一般人は地元民に首実験させられて、地元民に悪さした人は殺されて、
悪さしなかった人は労役に使われた。
>>388 ソレは全引き揚げ者じゃないだろうが。
中国からでも現金は日本円で一万円まで荷物は両手に持てるだけって例もあるぞ。
>>388 憲兵は煙たがられただろうから、兵隊にまじってもあんまり良い目にあわなそうだけど・・・
特殊技能持ちはなかなか本土に帰してもらえなかったそうだ。
1スレか2スレあたりで書いたが、うちのばあさん開拓団で看護婦やってて
なかなか引揚船に乗せてもらえず、仲良くなった国民党の将校に頼み込んで
ようやっと最後の船に乗せてもらえた言うておった。
そういう訳で満州残留婦人の人の知り合いが多かったです。
生きてる間には逃げるときの話は聞けなかったししなかったけど相当な目に
あってたんでしょうな。
そのころ爺さんは本土で軍出入りの写真屋(w
悪運が強い香具師ってのは、本当に強いみたい。
中国・ビルマで戦った叔父の部隊に、僚機の未帰還率が高い
小隊長がいたそうだ。
オレに続けと翼を振って、優勢な敵編隊のど真ん中に目がけ
て突っ込んでいく。
のは勝手だが、後続は大変だ。
マジすか?なんて躊躇するまもなく撃たれまくってアボン。
くだんの小隊長は「九死に一生」みたいな顔はしているけど
無傷で帰還。
>>392 それ、悪運が強いんじゃなくて、周囲の迷惑を顧みないだけのDQNだと思う。
列機のことは一切考えないんだろうな。
397 :
名無し三等兵:04/09/17 18:52:05 ID:bQ3/O6lk
一番機はいきなり不意打ちできるからいいんだが2番機3番機は
相手も我に返ったところで討ち入りだからなぁ・・。
たぶんその隊長殿エースで有名だったりするんじゃないかの。
399 :
392:04/09/17 23:38:44 ID:oDR25t88
叔父がその小隊長を毛嫌いするワケがあって、本土へ移動してきて
からのこと。
数機でフェリー飛行中に、海軍の特攻機とすれ違ったのだと。
目的地について談話していると、話題が特攻隊のことに。
くだんの小隊長「死んでもしかたがないという作戦は何度もこなして
自分は生きている。しかし、必ず死ぬという作戦では自分の武運を
もってしても・・」みたいに語ったんだとさ。
自分が何人の僚機の命と引き換えに生き残ったのか、まるでわから
ずに武運のおかげだと信じている。
立派な小隊長殿だ。
>>396 漂流中の限界状況の中で、いったい何が狂気と正気を分けたのだろうか・・。
>>399 叔父さんの気持ちはよくわかるし、戦友も沢山失ってるから小隊長への思いも
理解できるけど、やっぱり小隊長は小隊長なりの武運だと思う。
坂井三郎さんのように列機を傷つけなかった隊長というのは稀だったんじゃないだろうか。
全てが計算ずくの空中戦なんてないだろうし、優勢な敵編隊を前にして引き下がることが
出来る状況じゃなかったのかもしれない。責任者と部下では命令を受ける立場も
違ってくるかもしれない。
人並み優れた技量はあったのだろう。
ただ、列機の生還率が他より低かったのは、その技量を
自分の生存にのみ振り向け、列機の危機はほとんど見て
見ぬ振りをしていたのではないか
・・・という疑念は拭えない。
404 :
名無し三等兵:04/09/19 15:26:55 ID:VfrDAhKt
じいちゃんに聞いた話
シナの北支にいたそうで、いつも何十キロも歩いていたそうです。
行軍中に脱落するとゲリラに目、鼻、耳などを削ぎ落とされて殺されるそうで
必死に付いて行ってたとの事、シナのゲリラを処刑するとき銃剣で刺すらしい
のですが一突きで仕留めないと、もう一人突かされるそうで処刑のある日は飯
が喉を通らなかったそうです。(ゲリラは処刑が原則だった)
古兵が威張っていて、タン壺のタンを飲まされた人や、制裁のしすぎで亡くな
った人も(名誉の戦死にしたとか)・・・・・・・
じいちゃん達初年兵は、古兵に食事を運ぶ際、味噌汁に頭のフケを掻きこんで
「一番旨い所を持ってきまた。」と言って食べさせていたせたそうです。(・∀・)ニヤニヤ
私は中国人は大嫌いですが、日本軍内部の話を聞くとガッカリします。過剰な
制裁を与えなくとも兵たちは立派に戦かったと思います。日本人ですから!
じいちゃんの話の締めくくりいつもこうでした。・・・・・・
「敵を憎いと思ったことはない、古兵は本当に憎かった。」
>>404 長い戦争を経て士気が崩壊し始めた軍隊って、そんなもんらしいからなあ。
ウチの祖父は予備士官だったが、迂闊な制裁は出来ない、
そんなことをしたら後から弾が飛んでくると言っていたのが、印象的だったよ。
ウチの爺さんはシベリア送りにされたことがかなり恨みには思っていたが、
戦争の話しは何もしてくれなかったなあ。
つうか、爺さんの家は実家から遠くて、何年に一度ぐらいしか言ったことが無かったからだが。
40近くなって送られたので、肉体的にかなりつらかったんだろうが、
生きて帰れたんだから良しといよう。
96まで生きたことだし。
ウチのじーさんはヒマだったから毎日ラムネを焼酎で割って飲んでたそうだ。
って前も書いたような。
オレがその小隊長の下についたとしたら
「小隊長殿!自分が露払いいたします!!」とか言い訳して
隊長より前に出ちゃうね。
でも、そんなやつなら、そうなった場合は「転進!」しちゃうかも??
死んで当たり前の状況下であったればこそ、理不尽な死には納得いかない
思いは強くなるんじゃないのかな。
>405
で、自分が古兵殿なったときはどうだった?て聞けば・・。
たぶん苛めた楽しい思いで話が聞けるかもね。
412 :
404:04/09/19 20:12:04 ID:???
>>405乙です。
405さんのお爺様のような上官が身近にいたら度を過ぎた制裁も無かった
かもしれないですね。
じいちゃんの居た部隊(第37師団)は、九州出身者ばかりの荒々しい部隊
で、シナの正規軍は冬部隊(俗名?)が来た!と言って逃げ出していたそう
です。しかし移動が多かったらしいので士気は低かったかもしれないですね。
413 :
404:04/09/19 20:46:44 ID:???
じいちゃんは、古兵になる前に除隊してました。
地雷の破片を受けて死にかけてたそうで衛生兵が「コイツは助からん」と言う
のが聞こえたと言っていた。
そのまま終戦になったのか?日本に帰されたのか?じいちゃんが故人になって
いるので解りませんが、
長く居たら嫌な古兵になってたかもしれないですね。
ほとんど戦争について語ってくれないじいちゃん。
戦争中は、重巡、軽巡に乗ってたそうだが、艦名までは教えてくれない。
親父にも話さないらしい。
俺が軍事にのめり込んで(といっても「軍オタ」とまでは行かず、「軍好き」くらい)
行くのがあんまり気に入らないみたい。
この前俺がこの軍板を見ていたときに、「何見てんだ?」と、
俺が色々説明。(見方等)
「ちょっと見せてくれ」と、
3,4時間PCの前に張り付いてたよ。
俺が「どうだった?」
じいちゃん「あれだな・・・実際に経験してない奴は色々言えるな・・・戦争の怖さってのは、確かに経験しないとわからんからな」と、
その時のじいちゃんの背中は何かさびしそうに見えた。
417 :
405:04/09/20 00:56:25 ID:???
>>412 うちの祖父は原隊が広島第五師団だったけれど、
将校教育を受けて衛生少尉に任官してからは、色んな部隊を転々としたらしい。
軍隊内のしごき、いびりは、似たような話を聞かされたよ。
柱にしがみついて蝉の真似をさせられるミンミンゼミとか、
女郎の真似をさせられたりとか、二つの机に手を着いて空中で自転車を漕ぐ真似とか。
士官候補生として下士官の階級を与えられてた頃、自分もやらされたとか。
それだけに、自分が嫌だったことは他人にしたくはなかったし、
何よりそんな古兵や将校は長生きできないよ、と言っていたわ。
大陸戦線にずっといた祖父だが、補給もご多分に漏れず酷かったらしく、
最終的には支那服と支那靴を身につけ、敵の武器弾薬で戦っていたとか。
後方からは何も来なかったと笑ってたなあ。
>>414 本当の戦場を知ってる人が2ちゃん何かみたら
そう言うでしょうね
おじいちゃんを大切に
>>415 うんこうんこ
>じいちゃん「あれだな・・・実際に経験してない奴は色々言えるな・・・戦争の怖さってのは、確かに経験しないとわからんからな」と、
うむー、これが深いなー。
兵隊さんだって、そこらへんにいる一般人と変わらないものね。
>>412 「冬」は37師団の通称号ですね。
うちのじいさんが居た8師団は、「杉」でした。
>>417 ちなみに5師団は、「鯉」ですね。
戦争経験も何も、粉醤油作ってたら何も無かったのでつが>じいちゃん
まあ日本軍みたいなくそ軍隊に入れられたら、誰でも
戦争なんかまっぴらと思うだろうな。そういう意味では
日本軍は戦後日本のために大いに役立ってくれたな。
>>422 貴様チョンか支那か?
貴様の言う、そんな軍隊の幾多の戦死者が
いたから貴様がこの世にいるんだよ( ゚д゚)、ペッ
>>423 意味が解らん。
戦死者がいたから俺が存在する?
俺の爺さんが運良く生き残ったから俺は存在するんだ。
スレ違いかもしれないのですが・・・昔の友人の曽祖父が第二次大戦時の海軍
中将で帝国大学銀時計組だったという話を聞きました。資料見ても全然わか
らないのですが、ご存知の方いらっしゃいますか?兵庫の人らしいのですが
・・・
>>425 それだけの情報では何とも。
帝大銀時計組ってことは、兵科将校ではないということくらいしか。
技術士官系とか、軍医系の人かなあ。
>>426さん ありがとうございます。帝大っていうのは自分の勘違いかもし
れません。士官学校の銀時計ってのもありますよね? 舞鶴に帰ってきた
ときにものすごい数の軍隊が迎えてたって話もしてたんですがそれだけだ
と全然参考にならないですしね。あっでも兵庫の日岡神社の息子だったと
かいってました。といっても名字が日岡なわけじゃないらしいので。神社
に聞くのも気が引けて。いずれにしてもありがとうございました(^o^)
ちょっと気に触ったからってチョンとか支那とか持ち出さずに論破すればいいだろ。
レイシストは回線切って首吊れ。
BGMはリンゴの歌でつ。
うちの爺さんは復員後、東北の闇米を東京に売りに行ってた。
○○県の闇市で、地元ヤクザと朝鮮人闇屋がタイマンを始めた。
ヤクザが金槌で朝鮮人を殴り、朝鮮人は哀号と言う暇もなくあぼーんされた。
警察のトラックが来て荷台にヤクザを乗せたら、ヤクザもんは仁王立ちになり
「どうだ!○○の男を見たか!」
と周囲に大見得を切った。
ギャラリーは大拍手、警察官でさえニヤニヤして見てたそうだ。
そもそも、ヤクザは見得を切りながら凶器の金槌を高々と差し上げてた。
つまり殺人犯に捕縄も打たなければ、凶器も持たせたままだったのだ。
そんな時代だったらしいね。
あんたの爺さんが生き残ったのはあんたの爺さん自身の運だけおかげじゃない。
他の人が代わりに犠牲になったからって事さ。
たくさんの戦死者が日本を(多少語弊があれども)守るために血を流したから、
今の日本があり、俺たちが居るんだよ。
って言いたいんじゃねーのと外野が言ってみる
432 :
422:04/09/20 16:30:54 ID:???
文字通りの意味です。ろくに補給もしないし、人命をやたら軽視
するような軍隊に放り込まれたら、そこで九死に一生を得た人は
その軍隊を反面教師にするだろうなってこと。
自衛隊なんか素晴らしいじゃあないですか。仮にイラクで死んだら
戦死功労金が億近くもらえちゃいます。こりゃ大変な進歩ですよ。
米軍は150万円くらいらしいし。
かつて、命を軽視しまくった日本軍がいまではこれほど人命を
大事にするようになったなんて。仮に太平洋戦争で死んだ方々が
これを知ったら日本はいい国になったなあって喜んでくれるよ。
>>422>>423さんも、もっともな考えじゃないですか。
祖父達の残してくれた物を大切に真剣に考えてる証拠ですよ。
マターリいきましょう。
ここでWW2の意義なんか議論し始めたらグチャグチャになりますからね。
マターリマターリ
モノの解釈は人の数だけあるのであり、
それを押しつけあったら大変なことになるからなあ。
422よ、第二次大戦後におまいの爺さんが祖国を捨て決死の覚悟で
日本に密入国した苦労は認めてやるが、ここでは純粋にスレ違いだw
幸国の
日本に生きる
若人よ
平和を求むか
戦を求むか
平和の為に軍備が必要なんだよ!!!!
誰が何を思っていてもいいと思う。だけど最低限の敬意だけははらってほしい。
ついでに意見のおしつけは止めてほしい。
439 :
乾電池 ◆xEC4JuWmek :04/09/21 20:17:48 ID:kbqUVKDx
>だけど最低限の敬意だけははらってほしい。
名言だね
440 :
名無し三等兵:04/09/21 21:22:49 ID:Xnhpddgg
じい参ではないが病室で一緒になった人の話。
シベリアに抑留されたそうな。冬は小便したのがそのままツララに
なるというのはちょっと誇張だ,でも直ぐ凍るという。
便所は穴を掘り現地松の木を渡し大をする。冬は凍てつき重なって
ケツに触りそうになるのでツルハシで削る,その際口や顔に氷便がは
ね付くという。
本当に飢餓状態になると,毒キノコを食べても中毒しなかったとい
う。これは南方へ出兵した近所の人が米軍が捨てた膨らんだ缶詰を食
べても腹を壊さなかったという話に似ていた。
>>440 終戦前に火事場泥棒の様に攻めこんできたソ連軍
戦うにも小銃すら数人に1丁だったと聞きます。
邦人を守れぬまま終戦そしてシベリア抑留・・・
兵隊さん達は無念だったでしょうね。
ダモイ(帰国)だけを生きがいに獄寒での重労働
そう方も元気になられたのでしょうか?
長生きしていただきたいですね。
黙して語らずの爺さんだったが「昔は日本は美しい国だったよ」とぼそっと言ったことがあった。
アカ教師に洗脳されてた俺は、時代遅れの軍国主義者がと鼻で笑って聞き流した。
でも今になって爺さんの言ったことが理解できる。
俺には理解できない。ろくに自分の意見も言えないような時代が
今よりも美しいとは思えない。
風光明媚だったという意味での美しさならばある程度は共感できるが。
未来は過去よりも常に素晴らしいと思っている。勿論時代によって
多少悪くなったりする誤差のようなものはあるだろうが。
100年後の世界も日本もどんだけ素晴らしく美しいかと考えると、
そこまで生きられないのが悲しいくらいだよ。
>>443 ということは君は未来「わしが若いころは今よりも美しくない時代だった」
と言うの?
美しさを見出して伝えたいと思わないのはなんか悲しいね
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
アカ教師に洗脳されてた俺は
別段過去を美化するつもりはないが
>未来は過去よりも常に素晴らしいと思っている。勿論時代によって
>多少悪くなったりする誤差のようなものはあるだろうが。
正直、ここまで未来に希望を持てる人間は、寧ろ羨ましい。
日露戦争から太平洋戦争に至る過程も、誤差なのかね。
過去の方が素晴らしいよね。
俺たちみたいな屑が生きる今と未来は絶望的。
>> 俺たち
藻前の仲間に入れないでもらおうか。
449 :
乾電池 ◆xEC4JuWmek :04/09/22 17:23:15 ID:UAmWdrI6
451 :
名無し三等兵:04/09/22 18:21:11 ID:F5hzn5Qu
南京豆って何よ?
爺さんは山に芝刈りに
母方の祖父は特攻隊でしたが出撃せずに終戦。
父方の祖母は満州で陸軍歩兵で戦ってたそうです。
あまり詳しい事は聞いてないので知りませんが・・・。
>>454 あんたのばあちゃん、陸軍歩兵だったのか!
ううむ、真の漢女よのう・・
456 :
名無し三等兵:04/09/23 06:12:09 ID:pjdZqdqh
偉大な先達たちに感謝上げ
457 :
名無し三等兵:04/09/23 13:42:20 ID:4GlJlqtH
内の祖父は中国に行っていた軽機関銃手だったらしく、他の兵隊より
敵の弾がよく飛んで来たらしい一度は耳のすぐ横をキューンと横切る音が
聞こえ、びっくしたそうだ。
敵が200人ぐらいで奇襲して来たら祖父達は15人ぐらいで迎え撃ち
いつも追い返してたそうだ。
中国の兵隊と言うと、いつも逃げ回っていて臆病なイメージがあるが、
個々の人間は勇敢らしく便衣兵を処刑する際あと数分で自分が殺される
という時でも「タバコをくれ」などと言ってケロリとしていたらしい。
祖父はどうにか無事に招集期間を過ぎ日本に帰ったが、間もなくして
2度目の召集令状が届き鹿児島に配備された。
この時は、銃は配られず手榴弾2つだけで肉弾攻撃?の練習ばかりしていた
そうで、さすがに祖父もこの戦争は負けると悟ったそうです。
南方での話が少ない様ですが、やはり生き残った方が少ないからでしょうか?
父方の祖父は昔貧乏だったので陸軍士官学校に行っていた。
昔話を一通り聞いた限り、一番怖かった体験は
『泳げないのに船に乗せられたこと』(攻撃を受けて沈没すると
船の沈みに巻き込まれるので100Mくらい泳いで離れろといわれた)らしい。
おかげで私の兄弟もイトコ兄弟も全員子供のころはスイミングスクールに
通わされていた。
南方よりもインパール作戦の思い出が聞きたいな。
レイテ戦の思い出も。
アッツ島の玉砕の思い出も。
462 :
名無し三等兵:04/09/23 16:53:09 ID:Flb22Pro
親戚にマリアナ沖で翔鶴、
レイテで瑞鶴にのって生きてる人がいます。
階級は知らんけど
>>463 そりゃあ酷ですよ。
他の船よりデカイから、他の船より狙われるのはしかたない。
それよりも462の親戚がご存命だったら是非お話を聞いてもらいたかったりする。
>463
親戚の人というより、近くに雪風がおったからでしょう・・そりゃ。
>>465 瑞鶴が沈んだときに雪風は近くにいなかったのではないかと思うが。
>466
まぁ栗田艦隊やけど原因は捷一号作戦だからねぇ・・。
>463
だーれも おみゃーの話なんぞしておらんがね。
船の話なんてどうでも良いズラ
もっと兵隊さんの話が聞きたいズラ
470 :
名無し三等兵:04/09/23 21:09:02 ID:Ayhf460B
漏れの爺ちゃんはゼロファイターゴッドの従兄弟の嫁の弟だ。
どうだ凄いだろ。面識はまったくないんだけどねw。
つーことでゼロファイターゴッドの本買ってあげてね。
471 :
名無し三等兵:04/09/23 22:30:19 ID:bRTPFFs/
そういえばゼロファイターゴッド様も今年の4月に亡くなってしまいましたね。
ご冥福をお祈りいたします。
漏れのじっちゃんは来年か再来年徴兵されるだろうって時に
終戦しますた。
危険な場所に行って後々武勇伝や反面教師になったという話を
聞くのがいいのか
それともじっちゃんみたいに実際に戦場へ行かなくても
周囲の人から[おまいは幸運だったよ]と言われるのがいいのか…
自分でも何言いたいか分からんから軽く聞き流しておくれ。
漏れの爺ちゃん、中国戦線で輜重兵やっててわざと落伍してサボってたと言ってたが・・・。
可能なの?匪賊がいそうで無理な気がするんだけど・・・。
もしかして話したくないから嘘ついたのかなぁとか思ってしまう漏れ・・・orz
俺のおやじは昭和9年生まれで17,8歳ぐらいまで岐阜に住んでいた。終戦も間近のある日
長良川で泳いでいたら突然アメリカの戦闘機に機銃掃射されたらしい。かなり低空まで
降りてきたらしく、パイロットが笑っているのが見えたそうだ。
おやじに(アメリカの戦闘機ってどんなんだった?)と聞くと
カーチス!とか双胴の・・・とかムチャクチャ。戦争体験者でも余り詳しくないのだな・・・
と思った。P38が岐阜まで飛んできたことって有るかぁ・・・・?
>>パイロットが笑っているのが見えたそうだ
それはひょっとしてギャグで言ってるのか?
age
焼夷弾が屋根を破って落ちてきたそうだ。濡れ布団で火を消したと。それだけ。
>>476 パイロットはお前の顔を見て笑った。ギャグでは無い
>>475 運転免許持ってる人間全てが車の名前がわかるか?ということだろう。
481 :
名無し三等兵:04/09/24 21:01:12 ID:8flL9/9d
うちのじいちゃん、もう死んじゃっていないんだけど、満鉄に勤めていた。
生前、どんな仕事をしていたのか聞いたら、「うわさ話を集めたり、盗み撮り
したり、盗み聞きが仕事だった。」と言っていました。満鉄って鉄道会社ですよね?
なのに、何で探偵みたいなことするのか不思議です。ってか、嘘だろ!じいさん!!w
482 :
名無し三等兵:04/09/24 21:04:50 ID:9hRFJB4a
満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、鉄道付属地という名の植民地を統治し、
さらに植民地を拡大するための機関。
483 :
名無し三等兵:04/09/24 21:15:01 ID:n/CqSwSW
終戦ちょい前になると、直属の上官が物資を横流ししてた。
うちのじいちゃんは、残り物のめちゃくちゃ重い通信機をぱっくて売ってたそうな
484 :
名無し三等兵:04/09/24 21:20:14 ID:nkeGJbYf
じいさんの話だと、二等兵が上官に靴の裏側で殴られてたってさ。。。
>>480 >
>>475 > 運転免許持ってる人間全てが車の名前がわかるか?ということだろう。
戦争体験者でも余り詳しくないのだな・・・ と思った.。 と書いてある。
全てとは言ってない
>>481 満鉄が、独自の情報機関を持っていたのは本当。
満鉄調査部で検索すると、いろいろと面白い話が見つかる。
まあ、あなたのおじいさんが調査部にいたかどうかは調べようのない話ですが、
満鉄の平社員だったとしても当時としては超エリート。
中日を過ぎたとはいえ、まだお彼岸ですので、お墓参りに行ってあげてください。
戦争体験者といったって、昭和9年生まれでは精々11歳だし、正確に答えろと言うほうが無理だ。
カーチスとP38とは形がずいぶん違うんじゃないか?
それだけでも知りたかったんじゃない。
>>476 翼が地上の人間に当たって胴体切断、という話もあるぐらいだから大げさではない。
ビートたけしのオヤジは真珠湾攻撃に参加して撃墜されてから
飛行機の脚につかまって帰ったそうだ。
酒好きのうえにペンキの溶剤浴びるほど匂い嗅いでたら、
ソレくらいのことは、言うようになるのかもしれませんな。
492 :
乾電池 ◆xEC4JuWmek :04/09/24 23:46:49 ID:oGD61Frg
493 :
481:04/09/25 00:02:30 ID:???
>>486 調査部にいたかは私も知りませんが、おばあちゃんがまだ存命なので明日聞いてみたい
と思います。ただ去年、家を新築するときに物品整理をしていたとき、祖父の大きな
トランクケース?かバックや、本や写真が出てきました。トランクケース?を開けると、
埃まみれになった、スクラップブックに新聞の切り抜きが沢山張ってありました。さらに、
ノートには、支那がどうのこうのとか色々と書いてありました。(インク染みで確認できなかった
部分もあり)その他、本が数冊ありました。万年筆があったので、それは戦利品として私が
頂きました。明日、おばあちゃんに色々聞いてみたいと思います。
22 名前:乾電池 ◆xEC4JuWmek 投稿日:2004/09/24(金) 23:50 ID:oGD61Frg
>>20光学迷彩万歳!!!
23 名前:乾電池 ◆xEC4JuWmek 投稿日:2004/09/24(金) 23:50 ID:oGD61Frg
>>22さすが夏厨!美味しい釣り針だ。
いただきます
25 名前:乾電池 ◆xEC4JuWmek 投稿日:2004/09/24(金) 23:51 ID:oGD61Frg
>>21の間違い。
お前らこんなんで突っ込むのはガキのすることだから
やめとけよ。突っ込んでは自覚の歯お前らだぞ
↑お前焦りすぎ
>>492 ギャグの解からない基地外は流石と言うしかないね。
俺のじいちゃん桃鉄爆破した!
俺の伯母は20年3月の東京大空襲で被災、命からがら実家のある新潟に疎開
したがB29のパイロットの顔が良く見えたと言っている。
数十メートルの低空で侵入し、なおかつ顔が見える程の大火災だったことが
良く分かる証言だと思う。
顔が見えた、なんて証言はまず眉に唾をたっぷりつけてかかるべきかと。
あのう、そういう大火災時は上昇気流の発生でゴミや燃えかすが
巻き上げられるし思いっきり乱気流状態。
低空飛行なんざ危なくてやってられない・・。
まずはB29の絵書かして見。
で、どこらへんにパイロットがいたのか聞いてみよう。
数十メートルは爆撃機の侵入高度としていくらなんでもありえないって
護衛戦闘機としても夜間に顔が見える程の高度というと、かなり低いな。
>>497 東京大空襲凄かったみたいね、NHKの深夜枠で焼け出された人の話があったよ。
逃げる途中で転んだ人が火の気も無いのに突然燃え上がっていたとか。
(空気が熱せられている中に一時的とどまった為に発火していたらしい)
話をしていた人はコンクリートの建物の中で窓を閉めて熱気が入らない様
にして耐えてたんだって。
503 :
名無し三等兵:04/09/25 04:34:13 ID:HaDsTwwI
俺のじいさん輜重兵
504 :
名無し三等兵:04/09/25 06:38:06 ID:y1iKMUZF
親父とは親子ほど年の離れているおじさんから昔、聞いた話。
内地の高射砲部隊にいたらしいが、爆撃機の迎撃に夢中になって
背後が疎かになり、護衛戦闘機の機銃掃射を浴びせられたらしい。
直前に気づいて難を逃れたが、パイロットの顔が見えるほどの
超低空で、そっちのほうが怖かったって言ってた。
(神風アタックと思ったらしい)
母方の祖父。
馬の世話ばかりやってたらしい。
なんでも、跡継ぎだったので最前線には送ってもらえなかったらしい。
そんな話って結構あるのかな?
本人は戦う気満々で、それが不満だったって。
松本零二も機銃掃射されたとき、パイロットの顔が見えたと言ってる。
テレビやゲームが無い時代だから、
視力2.0や3.0の人も普通にいたんだろうな。
松本は目が悪い・
誰か実験してみないかなっ。
YS11だとパイロットの顔なんか見れないんだどね。
伊丹空港のアプローチ直下で見ていたらわかるんだけど・・。
爆撃機だと下から見える位置に機銃手とかいない?
操縦者の顔が見えたって言う話はちょくちょく聞くな。
>>508 旅客機は足元の近いところがそもそも見えないし、着陸直前は
機首あげだからなおさらではある。
地上掃射中の戦闘機の場合、パイロット側からすると、照準器
の向こうに標的が見えるだろうから、標的からも照準器の向こうに
パイロットの顔が見えるわな。まあ理屈の上では。
米軍のガンカメラ映像で、トラックとか列車とかを掃射する
映像では、かなり近づいてから機首を引き起こしてたりする
わけだが、印象でいうとまあ50mくらいか。
となると、50m先の人間の顔が見えるかどうか、というのと、
照準器の向こう側にある顔がどの程度見えるか、という
点が検証できればよさげ。まあ前者については検証する
までもなく見えると思うが。
あとはまあ、掃射後に機軸を標的から逸らした後で
パイロットが標的を確認しようとした場合には、間に
照準器が入らないのでお互い顔が丸見えになるんでは
なかろうか。この場合やたら距離近いし。
まあ掃射されてる時に標的側が回避行動を取らずに
飛行機の方ばっか見てる状態でないとダメだけど。
以上3連続カキコスマソ。
入間基地にブルーインパルスが来てデモ飛行したとき、漏れは友人宅の広い裏庭で見ていたけど(14−5年前)、すぐ脇の竹林からF1(だったか?)がにょきっと出てきたとき、確かにパイロットのシルエットが見えた。
その後をもの凄い爆音が追ってきてえらくびびったことがあった。
米軍F15のデモ飛行の時もパイロットのシルエットは見えたから、戦闘機の機銃掃射の時にパイロットの顔が見えたというのはあながち嘘ではないと思う。
516 :
名無し三等兵:04/09/25 11:27:59 ID:da2tCE5P
まぁ、祖父・祖母の証言は「操縦席に人の姿が見えた。」程度なのでは?
それが判りやすく&誇張が入って「操縦士の顔が見えた。」となったのでは。
時速数百キロで移動する飛行機のガラス越しの狭いコクピットの中に居る飛行帽とゴーグル、マフラーをつけた人間の表情を読み取れるか?
518 :
ついでに:04/09/25 11:34:33 ID:da2tCE5P
祖父ではなく、叔父の話だが、
P−51、数機の空襲を受けた時、まず彼らは上空に来ると空っぽになっていた増槽を
落としてくるそうだ。それに当たっても死んでしまうから、カナリ危なかったとの事。
その次に機銃掃射となるわけだが、飛び去る時に風防を全開にして笑って(笑い転げて)
いる顔が見えたのだそうだ。まぁ、どこまで本当かは判らない。
ちなみに、単縦陣で突っ込んでくる先頭機を撃墜すれば後は烏合の衆で、哀れなほどの
うろたえ振りだったとか。
520 :
名無し三等兵:04/09/25 12:34:01 ID:BV/gUWQ2
義眼を隠して旭川に徴兵検査に向かい、医者に隠して合格しようとしたが見つかり不合格、
それで、地元の防衛隊(?)みたいな組織の一員になった。
徴兵検査の不合格は末代までの恥と思っていたらしく、
その一緒に受けた仲間はどうなったかは、ただ潜水艦で全滅しただけとしか語らなかった。
でも、国のために防衛隊として働いた空襲の時の様子は語ったね・・・。
空襲で一番多かった死は防空壕での一酸化中毒死だそうだ。
あと、家から300メートルぐらいに落ちた爆弾で家の畳が浮いたという話を聞いたよな。
意識してれば見えるでしょ、顔くらい。
人間の視力って、あながち捨てたもんではない。
義眼ですよ。
523 :
名無し三等兵:04/09/25 12:41:48 ID:BV/gUWQ2
孫にも義眼を隠していたからね・・・・
その時は目が悪くて落ちたと言っていた。
知ったのは死んでしばらくしてから、祖母に教えてもらった。
そのぐらい、試験に落ちたこの義眼にコンプレックスをもっていたらしいよ。
パンフロBやると機銃掃射される気分が味わえるぞ
見えないと言ってる人はたんに目が悪いんじゃないかと
俺の母方のじいさんは体が弱くて戦場には行かなかったけど、じいさんの兄は
トラック諸島で戦死した。父方のじいさんは大本営地下壕で働いていたらしい。
というわけで俺のじいさんはどっちも戦場にはいってないんだ。
鉄砲の弾でも飛んでゆくのがみえるぞ。
528 :
名無し三等兵:04/09/25 15:05:17 ID:BQLgTk6K
T12生
S19 赤紙 → 初年兵教育 → 兵科は歩兵 → 憲兵試験合格
中野で教育を受ける(ここが?)
S20 伍長勤務兵長 → 旭川分遣隊 → 樺太分遣隊 → 終戦(軍曹)
仲間4人と筏で樺太脱出 ポツダム少尉で戦犯 戦後公職追放
おやじが教えてくれた爺さんの話だが確かではないらしい。
樺太には終戦までの二ヶ月しかいなかったらしいが、
船が無く、筏で逃げたのは本当らしい。
529 :
名無し三等兵:04/09/25 15:09:02 ID:SLHnGRo0
俺のじいちゃん、九州で飛燕に乗ってたって言ってたけどホントかな。
530 :
名無し三等兵:04/09/25 15:12:42 ID:5/LqhaX4
俺のじいちゃん、北海道で樋熊に乗ってたっていってたけどホントかな。
>>530 > 俺のじいちゃん、北海道で樋熊に乗ってたっていってたけどホントかな。
ツマラン
俺のじいちゃん、シナで女に乗ってたって言ってたけどホントかな。
予想どうりの展開でしょ(・∀・)ニヤニヤ
父方のじいちゃんだが、少将だか中将まで出世したらしい。
詳しいことしらんけど・・・
サーベルもって写真に写ってるっつーのは陸軍でいいのかな?
>>532 > 俺のじいちゃん、シナで女に乗ってたって言ってたけどホントかな。
>
>
> 予想どうりの展開でしょ(・∀・)ニヤニヤ
>
で・・・?
父方の祖父→ニューギニア戦線において昭和十八年より終戦まで生き残る。
母方の祖父→台湾沖航空戦を生き残る。
父方の祖母→学徒勤労動員で工場に居たため原爆より逃れる。
母方の祖母→田舎でマターリ。
父方の祖父の妹→原爆により灰と化す。
最近思うんだが俺のじいさんは広島で五師団だったんだが
中支>マレー>シンガポール(負傷)>ニューギニア(南部アラフラ海側)
まぁただの兵隊だったらしいんだがニューギニアから転身するときに例の橘丸に乗ってて捕虜になったらしい。
捕虜になるのはまあいいんだが良くもまぁ生きてたなこの軍歴。
自転車に乗ってマレーを下って逝ったらしいが、その銀輪のスポークは最後にニューギニアでは釣り針にジョブチェンジしたらしい。
んで調べてないんだけどじいさんの弟の嫁の父親が日露戦争の時の二番艦の艦長だったそうだ、ホントかよ…って言うか誰だよ
でも五師団って悲惨だよな死にそうになって帰ってきたら実家は原爆で焼け野原だもんなぁ…
>>528 >中野で教育を受ける(ここが?)
中野の戦後は警察学校になったところに陸軍憲兵学校ってのがあった。
(スパイ養成組織とは別機関)
>>533殿
差支えなければ将官にまで成られた方であれば一文字伏字にしてでも
祖父君の御名前を書き込んで下されば直ぐ分かるのですが・・・。
ネタなんだから晒せるわけないだろw
B-29がバンバン爆弾落してるのに焼け野原で頑固に落語をやってるじじい
笑ってる客は1人・・・後にフランキー堺
544 :
534:04/09/26 22:22:15 ID:???
もしかしたら、上級軍曹じゃなくて、上等軍曹かもしれません。
一等兵曹。
>>544 海軍なので、軍曹はいません。兵曹です。昭和12年なら一等兵曹〜三等兵曹。
昭和17年以降なら上等兵曹〜二等兵曹。
547 :
543:04/09/26 22:25:44 ID:???
>>544 名前が534になってる。スマソ。orz
549 :
543:04/09/26 22:29:18 ID:???
>>546 軍曹は居ないんですか!?なるほど。
うちの爺さんは戦艦長門以外は、旧式の戦艦春日と、空母鳳翔に
乗っていたそうです。
550 :
名無し三等兵:04/09/26 22:42:44 ID:2mldgKHS
うちの爺さんは3年前に亡くなりましたが、昭和19年〜終戦まで横須賀
で高射砲部隊にいました。その当時弾込めが背骨が折れるほど大変だった
とか食料が無くて甘いものが欲しくて菓子を銀蝿したら、上官にばれて怒
られると思ったら上官は涙ぐんで自分の配給のお菓子をくれた話。B-29を
撃墜した話、敵戦闘機に攻撃された話等々をしてくれました。ところでうち
の祖父が所属していた部隊、装備していた高射砲は何だったのか、背骨が折れる
ほどの砲弾って何キロあったんでしょうか?上官がくれたお菓子は何だったで
しょう?ご存知の方はお知らせください。
食料が無くて甘いものが欲しくて菓子を銀蝿したら、上官にばれて怒
られると思ったら上官は涙ぐんで自分の配給のお菓子をくれた話。
ヤヴァイ泣いた。ええ話や・・・
552 :
543:04/09/26 22:47:30 ID:???
554 :
名無し三等兵:04/09/26 22:58:31 ID:o3sPPYEJ
爺さんの弟は真珠湾奇襲時の特殊潜航艇乗組員
農協のじじいはミッドウェーの赤城生き残り、まだ頭に破片が入ってる
うちの爺は偏平足のため南方で後方支援
>>552 最初の集合写真は、海軍関係の本には時々載ってますが、こういう個人的なスナップ
写真は凄いですね。
今は亡き戦友云々のメモが……泣けた。
うそくせ〜
>>543 >>552 素晴らしい写真、ありがとうございます。
「青島上陸寸景」には外国の水兵が一緒に映ってますね。
アメリカ軍かな。
558 :
543:04/09/26 23:31:23 ID:???
559 :
533:04/09/26 23:31:35 ID:???
>>539 苗字は福田です。
出身は島根かな?
これくらいの情報しか知りません・・・スマソ
560 :
557:04/09/26 23:45:18 ID:???
>>558 ロシア軍水兵ですか!
すごい。
貴重な写真ですね。
561 :
名無し三等兵:04/09/26 23:57:26 ID:7YG2L/DS
543さん、貴重な御写真拝見させていただきました。
ありがとうございます(´▽`)ゝ”
露助とならんでる写真・・・日本人がチビデッパガニマタメガネじゃない・・・。
565 :
乾電池 ◆xEC4JuWmek :04/09/27 00:27:13 ID:/lQjySgO
ここにいる
566 :
乾電池 ◆xEC4JuWmek :04/09/27 00:27:50 ID:/lQjySgO
>>537 「中野学校」は、戦時中も戦後も、一般にはもちろん軍部でもほとんど全
く知られていなかったので、その後に話題になったときに、元憲兵が中野
の憲兵学校を意味するものと誤解して「中野学校出」と称することがあっ
たとか。
僕の祖父は小学校に一年しか行けず、その後は働いていました。
11で商売人の手下になり、満州へ渡って20で独立。
満州人(韓国人)の嫁さんもらって売れる物は何でも扱って金持ち
になった。今でいうブローカーか。兵隊には行ってません。いつの
時代でも赤紙は金紙に勝てないそうです。
戦況の悪化とソ連の満州進出を察知してすぐに財産を処分、6割程を
日本に持ち出して田舎で終戦を迎える。その後朝鮮人とつるんでパチンコ
屋で儲け、高度経済成長期にビルを建てるも欠陥工事で取り壊し。
現在は祖母と2人暮らし。現有財産は家屋とその土地。プラス現金7千万円。
そろそろ遺産相続で大戦が起きそうです。
571 :
名無し三等兵:04/09/27 03:20:58 ID:W+DHwzOZ
ウチのグランパじゃなくてグランパの弟の話ですが、
私服を着て上海あたりで共産主義者をピストルで撃ち殺すような仕事をしてたとか(;・∀・)
本人からは小六のころに聞いたハナシ(今は亡くなりますた)なので詳細は覚えてませんが
いったいどこに属してたのでしょうね?
>>569 当時の憲兵学校は防諜の科目なんかもあったそうで、それで勘違いが起こったんだっけか。
573 :
名無し三等兵:04/09/27 06:37:33 ID:uiXqB7dR
>>550 横須賀の高射砲陣地は、場所も装備も良く、B29も避けて通ったらしいですね。
>>569 > 「中野学校」は、戦時中も戦後も、一般にはもちろん軍部でもほとんど全
> く知られていなかったので、
祖父の弟が陸軍中野学校にひっぱられて、戰時中、大陸でスパイをしていたという
ファミリーサーガを自分が聞いたのは、25年前くらいのことです。
その頃は「中野学校」も、すでにメジャーな存在だった気がします。
神童wといわれた祖父が、兄弟一頭が良かったと認めたほど出来のいい弟だったので、
自分は、なんとなく、中野学校=優秀というイメージを持っていました。
祖父弟は、戦中は、家族に一切居場所を知らせず活動し、戦後も、家族には
ほとんどスパイ活動についての話をしなかったそうです。
でも、>571さんのような話がサーガの一部として受け継がれているw
>>552 鳳翔乗組員の写真、感動しますた
水兵帽の「翔鳳艦軍本日大」の文字がいいですね
ちなみに「上層」は、「上曹」(上等兵曹)のことだと思います
下士官で最上級の階級です
576 :
名無し三等兵:04/09/27 09:08:20 ID:W+DHwzOZ
>574 その祖父の弟の性が『清水』だったらワタシと股従兄弟の可能性アリですな(w
>>543 トラトラトラの長門と微妙に違いますね。 流石本物。
579 :
名無し三等兵:04/09/27 11:57:28 ID:3Ji2Nf4o
憲兵学校ではなく「陸軍憲兵練習所」が正式名称
580 :
名無し三等兵:04/09/27 17:21:56 ID:1h8AfQRV
そうなんですか。知りませんでした。武器の種類や人員・損害も知りたいです。
その種の資料が何も無いので、上官の命令で目標の1機めがけて一斉に
打つらしいんですがすぐに射程から外れるので短い時間内で急いで玉込め
するのは大変だったそうです。なかには弾を足に落として骨折した人もいた
とか、祖父は戦友会とかには出ていたらしいのですが部隊名とかは言いませんでした
友達とかが戦死したので生き残った自分が後ろめたかったのかもしれず、あるい
はあまり残酷な事は子供には言いたくなかったのかもしれませんね。
581 :
名無し三等兵:04/09/27 17:29:12 ID:1h8AfQRV
580です。573さん情報ありがとう。
私の祖父は日支事変に9年従軍したらしいんですが、そんなものだったんでしょうか?
>>571 良く知らないですが、中野学校なら、官憲さえも「部外者」で、目をつけられる
危険があるような行動はできなかったそうなので、そういった「荒事」なら憲兵
系統の「担当」じゃないですか。
もちろん、「見つけ次第始末する」などという粗雑なことはありえなくて、泳が
せておいて大物をたぐりだすとか、色々あったように聞きますが。
>>572 関係者に直接の知り合いがいないので、主に光人社文庫の受け売りですが、
そういうことらしいですね。
>>574 サーガって何だか知らないですが、中野学校が喧伝され始めたのは、小野田さん
の「救出」の件の頃だったはずだから、ちょうどその頃かな。
優秀には間違いないでしょう。
> >571さんのような話
派手にドンパチやったのではなくて、いくら調べても足がつかないように上手く
やった、ということじゃないかな。消したい者を相手方にスパイと疑わせて、相
手方に始末してもらうなど、遅くとも日本の戦国時代にはあって、毛利元就が使
ったとされる陰険な手を使うとか。
>>552 空襲に遭わなかったところに保管されていてラッキーですね。
>>555 説明が右書きではない左書きで、写真が三角コーナーで止めてあるなら、ノリが駄目に
なって昭和40年代くらいに貼り直したときに書いたことになるから、必ずしも「戦没」
とは限らないです。
>右書きではない左書き
これって根拠になるの?
>>587 ? 「学校でも新聞でも何でも横書きなら右からの時代に左書きにしていた人が
いた可能性がないか?」というような意味??? それは知らないです。
589 :
574:04/09/27 23:22:08 ID:???
>576 残念、又従兄弟ではありませんでした。「○島」です。
>585 サーガというのは神話・伝説です。アイスランドが発祥の言葉?
一族に受け継がれる逸話という軽い感じで使いました。
確かに、中野学校について聞いたのは、小野田さん救出後のことです。
今日、祖父に聞いたところ(祖父弟はすでに故人)、祖父弟は大陸ではなく
平壌で、「情宣」(情報宣伝活動?)をしていたそうです。
「偽ウォン札」を印刷して、貨幣流通量をコントロールしたりもしたそうです。
「偽札」といっても日本政府(日本陸軍?)がつくるので、
韓国政府が正式に発行するものより、「真札」らしい?とのこと。
韓国政府は日本の傀儡政権だと思っていたのですが、さらにその裏で
撹乱活動をする必要があったのでしょうか。よくわかりません。
日本政府じゃなくて北チョンじゃぁぇのか?
そいっぁ。
>589
当時の朝鮮半島って日本と併合されてたから、流通してた貨幣って円じゃないのか?
593 :
589:04/09/28 10:00:31 ID:???
前回母の実家に帰った時に、祖父とアルバムを見ました。
戦時中の写真を見ていて「足にグルグル巻いてないね」って
聞くと「ブーツみたいなの履いとるじゃろ」って言って
「帝都大戦」(とかいう映画)みたいな格好した写真を見せてくれました。
コスプレみたいでちょっと笑えました。
しかも顔が俺とそっくりだ、なんて二人で笑ったのですが、
「色んな所に行ったん?」との従兄弟の問いに
「ああ、日本は世界中とケンカしたんじゃ」って答えてました。
普段、寡黙な人だけに答えもシンプル杉。
うちの爺は当時広島で東洋工業に軍需の木箱を収めていた
39や99式小銃を入れたりしたのだろうか?
長男は満州で陸軍歩兵次男と婆さんは家業の紙箱作っていた
親父は10歳で木箱の釘うちの手伝いをしていた
原爆が落ちた時に爺と親父は東洋工業の近くの工場にいて助かったらしい
詳しい話は聞いたことが無いがとにかく運が良かった
ちょっとの時間のズレで俺はここに居ないことになるからね
爺の家は平和公園の中にあった。
婆と次男は死んだよ。
大陸→ニューギニア→レイテ→沖縄→樺太。
これが俺の祖父ちゃん。
597 :
名無し三等兵:04/10/01 21:34:46 ID:rq+wQ4VF
死んだ親父に聴いた 初めて前線にたった初年兵の話
「敵の弾がピューンと頭の1メートル上を飛んできたら
ズボンはビショビショ ウンコもぶりっともらしとるんだ。」
子供の頃のオレ 「げ かっこわりー」
かっこわるくはないさ それが普通さ
今 思うと親父ももらしたのかな きいておけばよかった。
>>596 ソーゼツだな。
ウチのじいさんは戦争中脱腸になって手術して緑色の寒天みたいなウンコが出て珍しいから写真撮られたって自慢してる。
漏れの爺さんはかつて日本酸素に勤めていたと婆ちゃんが言ってた。
本当かどうかは知らん。
なにせ親が8つだか9つの時に死んじゃったそうだから。
うちのじいちゃんは北海道辺りで軍医をしていたらしい。
俺が産まれる前に死んでるんで詳しいことは分からないんだがね。
ただ、ばあちゃんから「じいちゃんはあやうくアッツ島に送られるところだったが、
玉砕したんで行かずに済んで命拾いした」
とか聞いた事がある。
俺のじいちゃんじゃないのですが、パソコン講座で知り合った初老の人から聞いた話です
俺「へえ1940年に生まれたんですかじゃあB-29とか見たこと有りますか?」
その人「私は見なかったけど親戚の人が墜落した(B-29)破片拾ってきて下敷きに使ってたなぁ」
俺「し、下敷きですか・・」他にもこんな人いるんですかね?
祖母の兄は、満州の輜重連隊の陸軍上等兵でした。
うちの爺ちゃん、満州で衛生兵だったそうな。存命中戦争の話を聞くと
「わしは一人たりとも人殺しはしとらん」というのがお決まりの返事ですた。
終戦時は大島にいたそうだが。
所属等全く不明...。
孫の漏れには優しい爺ちゃんでした。もっと聞いておけば良かった...。
いかん泣けてきた...。ROMに戻ります。
605 :
名無し三等兵:04/10/01 23:46:21 ID:rq+wQ4VF
工兵少尉だった親父に言わせると 兵隊を徹底的にいじめたのは
憎しみを植え付けて 平気で人が殺せる兵士 {人間}を造るためだ
といってた。
606 :
名無し三等兵:04/10/01 23:57:00 ID:mls/ceHG
>>605 疑問点がある再確認してみな、あっ御免内地か。
野戦では、そんな馬鹿いないよ。
607 :
名無し三等兵:04/10/02 00:44:30 ID:St1nPNWA
うん 戦争が終わって 引き揚げ船に乗る時も
部下をひどい扱いにした上官は袋だたきにされて
船のそばの海に捨てられたらしい。それでも戦死ということで
処理されたって 目の前の船に乗れば日本に帰れたのに。
609 :
名無し三等兵:04/10/02 01:02:53 ID:UqZpyP4w
当たり前だよね、指揮官は最前線に先頭に立つ。
その時、前方の敵+後方の味方(流れ弾+誤射?)
其れが解らん、馬鹿は居ない。
>>605 司馬さんも、ちょっと違うけど、似たような具合に見てましたね。
>>606 そういうのもいたけど、後ろから弾が飛んできて消されるのが常だったとか。
611 :
名無し三等兵:04/10/02 01:20:54 ID:UqZpyP4w
>>596 すごい!歩兵25連隊ですか?
51連隊は、タイで終戦ですね。重砲兵?
仲川大尉の部下だったんですか?
612 :
名無し三等兵:04/10/02 01:35:56 ID:M4LYeJNz
俺の叔父さんの話。
霞ヶ浦空(谷田部空・筑波西空かも)と米艦載機の空中戦をしばしば見たそうだ。
グワーッと黒煙をなびかせながら落ちていくのは米軍機。
パァッツと火の玉になってしまうのは日本軍機だったそうだ。
皆で、やられ方で見分けたと言っていた。
613 :
612:04/10/02 01:40:05 ID:M4LYeJNz
ま、でも実際はそんな事で見分けることは無理だと思うんだよね。
パァッツと火の玉になるのは当たり所が悪かったか、近距離被弾だったか。
黒煙をなびかせるのは日本軍機だって同じだしな。
日本側も結構頑張ってたみたいよ。
614 :
名無し三等兵:04/10/02 01:43:47 ID:bkE/DMTK
612,613
燃料タンクの防弾の有無の違いだろうな。
>596 知り合いのお爺さんが南方戦線で闘ってシベリア抑留になったと
聞いた時は訳がわからなかったが、そんなに移動した部隊もあったんですね。
616 :
156:04/10/02 01:46:10 ID:0n24TlgQ
亀ですが、サーガ(Saga)は武勇伝・英雄伝。神話はミース(Myth)。
617 :
609:04/10/02 01:47:23 ID:UqZpyP4w
>>605 土方が、そんなこと言ってたんだ。
あまり、実戦に関係の無い方々が・・・
あれっ?年はいくつ?
>>613 いや、その見分けは、ほとんど全く間違いないそうです。
> 日本側も結構頑張ってたみたいよ。
その時点まで生き残ったということが、即ち物凄い腕だったということでしょう。
>>617 ナニ? 若造のクセをして生意気なことを抜かすとぶちのめすぞ!
620 :
609:04/10/02 01:58:35 ID:UqZpyP4w
622 :
609:04/10/02 02:17:48 ID:UqZpyP4w
普通の百姓で、温厚+怒ったことの見せない
伯父が、現役の時の話をしてくれた。南京で
補助憲兵をしていた時、便衣のシナ人という
事で、被疑者を刺殺した時の事で、「や〜一度
丸太に縛ったロープが切れて鉄砲を握られたとき
には、魂消た」「随分やったけど、其れだけは、
魂消た」「あんな頑丈なロープを、手で千切った
ぞ」
それも普通の田舎のじいちゃんだよ。
623 :
609:04/10/02 02:18:35 ID:UqZpyP4w
あまり聞けないなぁ
米軍が焼夷弾で周りを囲んでよぉ 逃げられんようにして爆撃して…
とか聞いたけど
>>602 十年程前のNHKでやった番組だけど、広島のとある村(名前忘れた)では、撃墜されたB29の残骸を、チリトリ等いろんなものに加工して今でも使ってたぞ。
撃墜されたB29の機長が尋ねていったら、村中で大歓迎。残骸で造ったチリトリを、得意げに手にしていた村人もいたよ(笑)。
その機長は撃墜されたB29の中で、一番階級が高かったから、尋問の為に場所を移されていたおかげで、あの災難を逃れたんだけど、他の搭乗員は、みんな巻き込まれて助からなかったそうだ。
しばらく生存していた搭乗員もいたみたい。重度の火傷を負って、助けを求めて、広島市内をうろついいたところを、生き残りの人たちのリンチにあったそうだ。
リンチに遭わなくても生存は無理だったと思うけどね。(広島の原爆を記録した絵の中に、このアメリカ人も描かれています。)
そのことでB29の機長は広島の人たちを非難してなかった。俺も非難するつもりはないから、そこんとこ間違えないようにね。あの状況じゃ理性を失っても当然だと思う。
機長は自分だけ生き残ってしまったことが、心の重荷になっていたみたいだった。だからこの村の歓迎を、えらく喜んで感激していたよ。
心の重荷が取れたような顔になっていたからね。村人がチリトリを得意げに見せているのには笑ったよ。
この人の戦後はこの時やっと終わったんだと思う。
>>623 自己紹介はどこか隅のほうの自己紹介板か何かでどうぞ。
627 :
609:04/10/02 02:53:25 ID:UqZpyP4w
628 :
596:04/10/02 03:14:48 ID:???
漏れの祖父さんに免じて争うのはやめてくれい。
>>628 こういうのは、動物と同じく、その場で懲らしめておかないと癖になるし、どうせ、そういった古式ゆかしい提案など受けつけないでしょう。
オレのじいちゃんは、当時体が悪かったためなのか徴兵されなかった。
一方でじいちゃんの弟は徴兵され、戦後シベリア送りに。
無事生還して帰ってきたけど、小指の一部を失っていた。
二人が亡くなってはや十数年。色々聞いておくべきだったな…
631 :
鹿:04/10/02 06:41:34 ID:FDrdNhqo
うちのひいじいさんは大正天皇の近衛兵だった。
式典用の制服を来て、馬に乗ってる立派な写真が
大正、昭和、今上天皇の写真と共に飾ってあった。
ひいじいさんの子供や親戚は皆陸軍に行き、南方、支那、沖縄で散っていった。
残ったのは女ばかり。
唯一残ったじいちゃんの家も女しか生まれなかった。
じいちゃんの家はじいちゃんの代で途切れようとしている。
この写真はじいちゃんの兄弟で桜花隊の写真です。
一応名前は白抜きにしました。
http://49uper.com:8080/html/img-s/13337.jpg
632 :
名無し三等兵:04/10/02 09:31:42 ID:1vI4H2t7
>>625 最近フジテレビの深夜に再放送されていて、俺も見た。
前半は見逃したけど、面白かったよ。
どういう目に遭ったのかを知らないせいかもしれないが、
米兵達の遺族は意外なほど冷静で、教養の豊かそうな人たちだった
のが興味深かったなー。
>>632 放送したのは民法で、NHK云々は私の記憶違いかもしれませんね。
20年ぐらい前に、目の病気で群馬大学病院に入院したとき、白内障で入院してた70過ぎのS田さんって人が、同室の同じぐらいの年齢の人(多分戦友だと思う。もしかしたらお見舞いに来た人かも。記憶が曖昧になってる)と話してたのを、一言だけ覚えている。
『巡洋艦だと思ったら、相手が戦艦だったとはね』
これって第三次ソロモン海戦のことじゃないのかな。レイテの可能性も捨てきれない。今思えばもっと聞いておけばよかったと思うよ。
>>631 泣きました。貴重なお写真ですね。
皆さん、若くして死ななくて良いのに・・・。
特攻か。
おじいさんには関係ないけど、「所感」てフラッシュを思い出しました。
翔鶴に乗船→真珠湾→各海戦→マリアナで沈没→大和に拾われる
普段喋らないしオレも興味ない時だったから概要しか聞いてないや
病気でボケ気味だけど早いうちに話聞きに行ってみようかな
実家には軍刀もあるらしいから見てみたいかも
>>638 許可申請関係をちょいと勉強しておいたらどうです?
爺さんの気持ち次第だが、とっといたくらいなんだから
大事にしていくのも悪くないと思うよ。
640 :
名無し三等兵:04/10/07 13:35:39 ID:YKsWhyBY
age
>>639 > 許可申請関係をちょいと勉強しておいたらどうです?
時々見かけるけど、何でそういう奇妙な持って回ったような言い方をするのかな?
念のためだが、軍刀は保管するだけでも許可が必要だから、確認して、まだなら、
許可を申請しないと違法になる、ということじゃないの?
98式を支那人捕虜で試し切りしてたみたいだね。俺の爺さん鬼畜。
>>641 そう言えば、この夏に郷里に帰った時に公民館で『太平洋戦争展』見たいなのやってたなぁ。
郷土出身の『震天制空隊』(!)の人の遺品の軍刀(九八式・木製鞘に皮巻)が展示してあったけど、
アレも許可取ってるかどうか微妙。
645 :
642:04/10/07 23:27:48 ID:???
>643
太公望だから針付けてないの。
太公望は、一本の真っ直ぐな針を付けて魚を釣っていた。
結構釣れたそうだ。再現実験例もある。
つまり、真っ直ぐな針を水面上からサカナの脳髄めがけて一撃で・・
違うよ!
/ヽ /ヽ
/ ヽ / ヽ
_______ / ヽ__/ ヽ
| _____ / :::::::::::::::\
| | // \ :::::::::::::::|
| |サカナの脳天 | ● ● ::::::::::::::| ・・・何?このスレ・・・
| | | :::::::::::::|
| |違うよ! | (__人__丿 .....:::::::::::::::::::/
| |_____ ヽ .....:::::::::::::::::::::::<
└____/ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::|
|\ | :::::::::::::::::::::::|
\ \ \___ ::::::::::::::::::::::::|
650 :
名無し三等兵:04/10/08 07:05:47 ID:fSy1awqR
社員の爺さんと話をする機会があって話を聞いていると海防艦に19年から終戦まで乗艦していたそうな。
で、台風の目に入り込んでしまって予定航路を外れてしまい敵機動部隊の居る海域に迷い込んでしまい(と思っていただけ)
機関の人間以外、見張りと称して「総員上甲板」状態になったとか
呉から舞鶴に移動することになったとき対馬海峡で潜望鏡を発見(多分、したと思い込んでいただけだろうが)して、やはり見張りと称して「総員上甲板」状態で夜明かししてそのまま入港したなど
やる気あんのか?
と言いたくなるような話を色々聞かせて頂きましたわ。
帝国海軍のなけなしの名誉を後世に伝える為にも抹殺したい話でした。(笑
>649
ごめん、ごめん! 解説するので、勘弁してください。
真っ直ぐな針で魚を釣るためには、釣り糸を針の真ん中に結ぶのが肝心なところです。
そして、例えばミミズを刺せば、針のあるところは見た目には真っ直ぐな状態となり、他のところはミミズはクネクネ曲がる状態となります。
これを例えば鯉などの魚が飲み込んで、魚信があれば竿を立ててあわせることとなるが、その際真っ直ぐな針の魚の口に近い端が食道のどこかに引っ掛かれば、てこの原理でもう一方の端も起き上がり食道を突き破って外側にくい込み確りと引っ掛かることとなる。
本来の釣り針の形をしたものに比べれば、すっぽ抜ける可能性は多いが、一旦針掛かりすればマズ外れない確りとした針掛かりとなる。
釣り上げたとき針を外すのが大変そうであるが・・・・・。
補足
再現実験は、NHKで放映されたが、上手く魚を釣り上げることが出来た結果となっていた。
653 :
名無し三等兵:04/10/08 10:05:59 ID:/lWTq2je
家の爺さん戦争行ってない。。
当時数少ない、トラック運転手(自車所有)の為、兵役免除だったそうな。
祖父は、通信兵として召集され、戦争末期にフィリピンへ出征したが、
輸送船が途中で沈められ戦死。おそらく、敵潜水艦のしわざ。
無念であったろう。
祖母は、その後、再婚したせいか、戦死した祖父のことは、あまり口にしなかった。
その祖母も亡くなってもう15年になる。
655 :
名無し三等兵:04/10/08 10:51:07 ID:BoJz2Lhj
うちのじいさん…レイテ島にて戦死。レイテ島の攻防戦ってやっぱすごかったんでしょうか?
だいぶ前じいさんに戦争の時の話を聞かせてもらったことがあるが
じいさんは重機関をうってたらしい
結構えらい地位にいたらしいが実際はどうなのか
訂正
○重機関銃
658 :
名無し三等兵:04/10/08 11:14:36 ID:BoJz2Lhj
もう一方のじいさんは、満州でソ連の捕虜になり、シベリアの炭鉱に連れてかれる。
(本当かどうかしらんが金塊を見つけたらしく帰国が早まったらすぃ)
ばーさんは、広島にいて原爆を経験。敵の戦闘機が来たと噂を聞き、一応防空壕に入ったらしく無事生還。出てみたら、本当に地獄絵図だったらすぃ。おっかねぇ
659 :
名無し三等兵:04/10/08 11:32:15 ID:LX5SGMrs
660 :
名無し三等兵:04/10/08 11:59:32 ID:+rALFVRu
私の叔父は戦車兵で、インパール作戦(だったか)に参加
戦後シベリアに送られたそうで、生きて帰国
帰国後は戦車兵をやっていたおかげでか大型車を運転して生計を立てたとか…
「戦争で私は、人は一人では生きてはいけないことを学んだ。」
と、この前話しておられました。
祖父の方は水兵をやっていたそうだが、あまり話は聞いてません
確か、シイラという魚が戦闘で死んで海面に浮かんでいる死体の
影に取りつくようにしている為、死神とあだ名がついているとか…
聞いたのはそれくらいですね。
実際は浮いている死体に集まってくる小魚目当てにいるそうですけどね
その祖父はもう亡くなって3年になります。
お二人ともあの戦争は悪かった、無駄だったとは言ってはいません
多分、それを言ってしまうと共に戦って死んだ戦友の死も悪く、無駄な
ものになってしまうからでしょう。
661 :
名無し三等兵:04/10/08 12:27:42 ID:M1HFLQ2Q
じいさんは陸士の教官をしていたらしい。
よわい90にしていまだに入試の季節になると家族にも俺にもちんぷんかんぷんの
東大の数学の入試問題を嬉々とした様子で解説してくれる。
この人には一生あたまが上がらないとしみじみ思う
>>659 はっきり聞いてないが、昭和19年後半じゃないかと。
埼玉県北部の連隊のはず。
じいさんは神風だったらしい、訓練のとき着陸ミスって、怪我して出撃しなかったらしいが。
知り合いのお爺さんは、神風特攻隊の航空教官。その後、シベリアに抑留。
指を数本、失う。
なんで、日本の南からシベリアまで行ったんだろう?
>>665 山本七平も書いてるが、バシー海峡を越えられないのだから、どうにもならぬ。
イザヤ・ベンダサンの中の人は日本軍の輸送船はアウシュビッツ
よりも効率のいい大量溺殺装置といってた
うまいこというなー
>668 でも、ドイツに置き換えれば、SSを乗っけている輸送船でしょ?
沈めてどうするの。
>666 いや、ホラじゃないんですよ。家族の証言付き。
部隊が移動したのか、ひとりだけ移動したのか、どちらだったんだろう。
もう話が聞けないので残念です。
671 :
名無し三等兵:04/10/09 03:04:06 ID:C6t7aSuo
>>669 日本軍にとっては兵隊の命なんか、ドイツにとってのアウシュビッツで
虐殺されるユダヤ人と同じようなものだったのだ。という皮肉
まずぅ〜しさにぃ〜まけたぁ〜♪
>>667-と668がジサクジエンしているように。
山本七平とイザヤ・ベンダサンもジサクジエン。
>>668 沈められるのがわかっていて、送り出したんだから、味方に殺されたようなもの。
>>670 陸軍の特攻隊だったら、シベリア抑留の可能性は結構あるんだけど、神風となるとなあ。
旅順か元山で逃げ遅れたんだろうか?
戦死者の半分は餓死病死で、1割程度が味方の誤射による死で、
かなりの輸送船が沈められたとすると
まともに戦って死んだ人間も幸福なのかもしれない
>>678 ベトナムでは米兵戦死者の50%が見方の誤射、誤爆じゃなかった?
スレ違いスマン
681 :
543:04/10/14 01:17:59 ID:???
682 :
ふちのべ12番:04/10/14 05:34:42 ID:NHkT2HSl
静岡にいる義理の父(90歳位)は軍属としてニューギニアで飛行場建設に従事したが、当時の兵の差別が凄まじく、例えば軍属の食料を取り上げてしまい。それで餓死者が続出。故郷
に復員できたのは、義理の父とあと1人だけだったそうだ。今でも軍を恨んでいる。
683 :
名無し三等兵:04/10/14 11:18:53 ID:HtYA3z69
815 :名無し三等兵 :04/10/09 08:42:12 ID:khhkHa5C
大鳳の艦長をしておられた菊池朝三大佐(後に少将・海兵45期)
は同級生の祖父だった。その前(昭和18年)は瑞鶴の艦長でも
あり、15〜16年前までご存命で、一度だけ沈没するときの話を
聞いたことがある(30年近く前)。
そのとき、すぐには沈まず、友軍の駆逐艦の魚雷で止めを刺す
のに時間がかかったとか。当初、菊池艦長は艦橋で艦とともに
運命を共にするつもりで一人残ったのだが、友軍が魚雷を何本
打ってもなかなか沈まず、結局助け出され、その後沈没したそ
うだ。その話を聞いたのは小学生だったが、生の戦争体験を聞
いたのは初めてで身震いした。
亡くなったとき朝日新聞に「海軍最後の提督死す」と掲載され
た。大正時代、一三式艦上攻撃機で横須賀〜北京間の飛行に成
功したパイロットとしても有名。
684 :
名無し三等兵:04/10/14 16:51:02 ID:ppns/uvf
母方の爺さんに戦争体験を聞いたら、満州へ出撃した事だけ教えてくれた。
詳しく聞きたいのに、それ以上は何も語りたがらなかった。
なぜ語ってくれないのでしょう…。同様のレスをたまに見かけるね。
うん、ウチの爺ちゃんもそうだよ。
婆ちゃんですら戦地で何やってたかあまり知らないらしい。
聞いてみても戦後に、帰る所の無くなった部下を
何人か連れて帰って来た、とか、後の話が多い。
爺ちゃん自身もあまり話さないんだよ、
士官学校時代の話とかは少しだけ話してくれるんだけどね。
回顧録でも書いてくれないか、とは思うんだけど。
誰か満州の事に詳しい人居ないかな?
686 :
名無し三等兵:04/10/14 17:29:57 ID:zcoptD7L
自分の祖父ではないが、うちの向かいに住んでた爺さんが↓の辰宮丸の艦長をしていた平野大佐。
野球ボールが敷地に飛び込んで、庭に入らせて取らせてもらったとき爺さんと目が合ったんでペコリと頭を下げたんだが、ゆっくりとした動作でビシッと敬礼。
当時はあんまり気にしてなかったが、今考えたら海軍大佐たるもの違うもんだね。
687 :
686:04/10/14 17:30:50 ID:zcoptD7L
688 :
名無し三等兵:04/10/14 21:03:39 ID:vCJj3mZm
>>686 平野大佐の事を始めて知りました。
戦争にかかわった全ての人達がそれぞれ
大切な任務を遂行していたんですね〜
有名な人ばかりじゃないんだよな〜
うちの母方の祖父(岩手在住)は、戦争のことあんまり話したがらないなぁ。
酔っ払ったときの話とか祖母や母親の話を総合すると、どこぞの戦線で
ソ連軍の捕虜>シベリア抑留のコンボだったらすぃが。
「朝起きるとよ、隣の奴が死んでるごどぁ、よくあった」
「休みたいからって、足に小便かけてわざと凍傷になる奴もいた。
馬鹿だと思ったなあ。足、切んねぇばなんねえのに」
「露スケはろくなモン食わせねえ」
「おらぁ、樺太生まれだすけぇ帰ってこれた」
とか、酔っ払うとよく話してた。
上等兵だった、とか初年兵の教官やってたとかも言ってたなぁ。
もっとも、日本に帰ってきて岩手に移っても苦労してたみたいで、親戚に
共産主義者呼ばわりもされたそうな。
もっとも、本人はかなり強烈な反共主義者で、今は北朝鮮と中国がえらく嫌いっぽいけどw
祖母の方は配給所で働いてたらしい。
戦争中はとにかく食べるのが大変だったとしか言わないなぁ。
あ、そうそう、戦後少ししてから友達と札幌まで映画を見に行って、
皆がぞろぞろと入っていくからここが映画館だ!
と思って入ったらストリップ小屋だった。
とか、笑い話もしてくれたっけ。
今度、実家に帰ったらさり気無く聞いてみよ。
ちなみにどちらも80歳過ぎですが、まだまだ元気です。
歯学部生だった爺ちゃんは本土決戦が迫り、
二十年に卒業後、八月下旬陸軍に行く予定だった。
それに備えた初夏の頃、
学校屋上で爆撃眺めてる最中、震えてた軍事教官に
「教官!鉄カブトは一つと言わず二つ被りたいねぇ〜(笑)」
と軽口叩いたらスリッパビンタ喰らいました。
あげく士官適任証もらえなくなりますた。
まぁ結局はひい爺さん
(シベリア出兵時に近衛兵に選出されたおかけで
地元部隊壊滅からのがれられた)
が頼んだおかげで貰えたらしい。
他にも面白エピソードや裏話もあるんだが長くなる…
その為のスレだ。書け。
692 :
690:04/10/16 21:59:48 ID:???
じゃお言葉に甘えて…つまらないかもだけど…。
空襲が激化した当時、海軍省にいた高松宮殿下は
いつも空襲数時間前に脱出し安全圏に行ったそうな。
で、まあ爺さんの同郷の先輩(軍令部員)が
内密に教えてくれて逃げる目安となり助かったと。
だから三月十日も数時間前に都内から脱出でけた。
次第に〇〇が消えると空襲が来るつーんで
周りの人の目安にもなったそうです。
まあ公に触れ回ると大混乱になるし逮捕されるから
言えなかったと……。
どっかで見たんだけど、ある場所で連合国軍と日本軍同士が小競り合いしてさ。
日本軍が突撃した時連合軍が88m砲を数発発射したらしいんだけど。
何発かはそのまま開いてる所に被弾して、1発が一人の兵士の頬を掠めたらしいんだ。
そしたらその兵士、首が180度回転して、そのまま千切れたそうだ。多分、砲弾の速度と摩擦による物だろう。
これ知った時、(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルだったな。
もう一つ、
これも戦争を扱ったHPで見た気がするんだが、
日本軍の潜水艦が、潜行中、浮上装置が壊れて、浮上できなくなった。
酸素があるにしても、物の1日そこらで尽きるから兵士は必死で直そうとしたそうだ。
でも、どうしても直らなかったらしく、仕方ないから、味方駆逐艦に発見してもらうしかなかった。
やがて酸素も少なくなり、兵士に辛さが掛かる頃になると、全ての酸素消費物(火等)を消したそうだ。
それでも駆逐艦は発見できず、ただ、日本海海中を漂うしかなかった。
更に厳しくなると今度は机や、箱、物資、果ては兵士が持ってた佐久間ドロップまで開けて、必死に酸素を求めたそうだ。
もう駄目かと思い始めた時、新米二等兵は真っ先に銃で自決し、余分な酸素消費を抑えたそうだ、全て大尉と操縦手の為に・・・。
でも、結局助からなかったそうだ、でも皆立派だったそうだ。
皆持ち場を離れず、誰一人ハッチによじ登ろうとした者は居なかったそうだ。最後まで、「戦闘用潜水艦」としての役目をしっかり果たしたらしい。
それに反し、連合軍の兵士は無様に死ぬ。皆我先にとハッチに詰め寄り、潜水艦としての機能を自ら捨てるらしい。
情報源がガセネタだったらスマソ・・・・orz
所で、うちの氏んだ爺さんの陸軍学校時代の友人が、対空砲を初めて使った時、音の大きさ、振動にビックリしてしばらく放心状態だったそうな・・・。
無理も無いけど。
695 :
391:04/10/17 12:26:47 ID:???
>694下
佐久間艇長の第6号潜水艇だな。軍オタなら一般常識だ。
スレ違いだから他所池。
うちの婆様の友人の手記に曰く
満蒙開拓団の非戦闘員の終戦後の収容は開拓団単位だった。
収容所の食料事情は劣悪極まりなく子供と交換で食料を入手したり
中国人と結婚する女性も多々存在したそうな。
その人も中国人と結婚して昭和50年代に帰国しておる。
後ロシア兵が収容所から少しでも金目のものや着もしない衣類や毛布
それにセクース可能な年代の女性を強奪してくのも日常茶飯事で
その開拓団の団長もロシア兵を制止しようとして射殺されたそうな。
中国人はまだ人扱いしてくれたし時折食料を分けてくれたりもしたので
よほどマシだったそうな。
>>それに反し、連合軍の兵士は無様に死ぬ。皆我先にとハッチに詰め寄り、潜水艦としての機能を自ら捨てるらしい。
なわけねえだろ(AA略
>>694 浮上不可能な潜水艦の話、他にもあるよ。
二度も海没事故を起こした『呪われたイ-33(巡潜乙)』とか。
二度目の海没事故・昭和19年6/13(原因は戦時急増の工作不良で漏水?)は松山沖の伊予灘(水深約60m)、
前回の事故を教訓に脱出筒を備えていたイ-33は艦長の命令で脱出筒を射出、二名が事故を知らせたが、
サイパン陥落を目前に押し迫った戦局に救出もならず、そのまま終戦まで放置。
(技術的にはサルベージ可能であった・昭和15年に同じく事故海没したイ-63を水深100m余から引き上げている)
・・・終戦後の昭和28年、ようやく引き上げされたイ-33、
乗員90余名の遺体はまるで冷凍保存でもされた様に往時の肌の色を保っていた。
生き残り二名のうち、この引上げ作業に参加した某氏は、
その姿に涙を流しながら「総員起こし!総員起こしであります!!」と全員の頬を叩いて回ったと言う。
電動機室から機関課員29名の遺書が発見された。
「浅学非才ノ身ニシテ万全ノ処置ヲ取リ得ズ数多ノ部下ヲ殺ス(中略)偽装関係不良個所多シ。偽装員ハ乗員へノ連絡密ナルヲ要ス。」(機関中尉)
「訓練ニテ死スルハ誠ニ残念ナリ(中略)最後ノ時マデ努力スル」(上機曹)
と言うような公務的内容も書かれていたが、多くは
「妻に告ぐ、今までのご苦労申し訳無い、これも御国の為だ。嘆く無かれ。○○(娘の名・引用者注)とお腹の子を育ててくれ。」(機曹長)
「御両親、十分なご奉公も出来ず先立つのが残念。兄上様と弟によろしく。気圧が高くなりこれ以上は・・・」(機兵曹)
との肉親への呼び掛けで結ばれていた。
合掌。
699 :
乾電池 ◆xEC4JuWmek :04/10/18 18:45:19 ID:xj1Q2C8/
↑いつ見ても鬱になる話だ
700 :
名無し三等兵:04/10/18 19:20:18 ID:h60Xog2V
回天の黒木大尉、樋口大尉も忘れないで・・・
それでは、私の祖父、お気楽、陸軍整備兵のお話
1.陸軍に航空計器を収める会社で技手として勤務
2.再招集の令状で、即、大陸に出兵、航空工廠南京支所に配属、航空計器の整備
3.勤務先の要請による召集解除令状は、南京まで追っかけてきたが
内地より食い物が良かったので、そのまま残る事にした。
4.工廠勤務中に巡回整備班の話しが有ったので、志願。
5.前線の基地を巡りながら、航空計器の整備を続ける。前線の基地にはエンジンと機体の
整備兵はいるが、無線機、計器などの整備は、工廠で行なうのが基本。
6.そのうち、漢口の陸軍航空基地に配属。相変わらずの整備作業。以下漢口での話し。
7.兵隊って言っても、整備兵だから気楽だった。
8.外出する時は、真空管や部品などをポケットに忍ばせて出かければ、門限に遅れて
衛兵や当番下士官に難詰されても、ポケットの部品を出して「入手に手間がかかった」と
言えば許して貰えた。
8.滑走路で、発動機起動車、通称「パチンコ」を走らせて遊んだ。
702 :
701:04/10/18 19:51:05 ID:???
続きです。
9.機体は、大体あだ名が付いていてそれで呼んだ、99軽爆は「きんぎょ」とか
あとは、1式戦とか、98重とかと呼んだ。
10.19年に成ると内地では、素晴らしい戦闘機が出来てるとか、宙返りが出来る
爆撃機が出来たとかの噂を聞いた。
11.当時の陸軍基地では、スクランブル体制があり、監視哨から敵機接近の知らせが
入ると、機側もしくは機上に待機したパイロットが即エンジンを掛け、格納庫から
滑走路に出ずそのまま離陸、低空で機銃の発射テストをして迎撃しに行った。
12.南京と漢口の間の連絡、輸送は、制空権が怪しかったので98重を使ってた。
一度その98重に20人も乗って離陸に失敗、墜落し、悲惨だった(どうも唯一
目撃した戦死者らしい)。
「なんでそんなに乗ったのか?」と聞いたら、戦局が不利に成った頃なので逃げる
為だったとの事。
その時に虫の息で病院に運んだ知り合い(もうダメだろうと思ったそうだ)に復員時に
朝鮮で逢って驚いた。
703 :
701:04/10/18 19:52:23 ID:???
さらに続きです。
13.前線基地でも技術講習があり、ノルデン照準機の話しを聞いた、その時、こんな凄い
照準機は我が国では、とても作れないと思った。
14.無線整備の兵隊が、余った部品で(ちょろまかした部品だとおもう)短波ラジオを作り
それが軍の制式のモノより感度が良く、夜隠れて、BBCを聞きき戦局の状況は
大体知ってた。
15.近所のクリークに米軍のP47が軟着陸したので、それを鹵獲しに行った。
特務機関員に連れられ、38式歩兵銃を担ぎ行った(どうも小銃を持ったのは
基礎訓練以外では始めてだったらしい)。
P47の無線機やIFFなどは、衝撃時に作動する自爆装置が仕掛けてあり
その不時着機はそれが動作しなかったので、無線や計器の担当者も狩り出された
との事だ、話しぶりだとピクニックの様に楽しかったらしい。
16.その時、何を勘違いしたのか、海軍の戦闘機(ゼロ戦だと思うと言ってた)が
飛んできて、クリークを滑走路と間違え着陸し、大破した。
17.服装は、何時もツナギ(煙管服と言ってた)寒い時は首にマフラー替わりに
タオルを巻いてた。
18.4式戦を始めて見た時には、計器類の合理的設計に驚いた「あれは良くできた飛行機だ」
との事。
まあ、ジジイの話しですから、前後の忘却などが有ると思いますし、前線の兵士なんて
外部の情報なんてホトンド持ってないわけですから、まとまりのある話しではありませんね。
>>703 いやいや、とても興味深いお話です、為になりますたw
アリガd。
705 :
名無し三等兵:04/10/18 20:52:18 ID:ftRwHCCu
日本の工具と米国の工具の違いなんか、聞いてませんか?
>>703さん
スパナやドライバー、の精度や硬さとか。
706 :
703:04/10/18 21:06:51 ID:???
イヤー、その辺の話しは聞いた事ないですね
今度逢ったら聞いてみますが、計器整備が専門だったから
自前のドライバーとかヤットコとか使ってたんじゃないですかね
>>701-703 貴重なお話、ありがとうございます。
98重とは何でしょうね。九七式重の次は百式重ですから。
99双軽の「きんぎょ」は納得です。
708 :
703:04/10/18 21:55:55 ID:???
98重では無く87重の間違いだと思います。
私の記憶違いでしょう。
709 :
703:04/10/18 22:17:05 ID:???
読み直して、幾つか思い出しました。
19.P47の排気管は太くて、エンジンから操縦席の後ろまで延びて過給器が
付いてた、「排気管は太くて」って時に両手で丸を作って「こんな太い」
っていう。
20.P47を鹵獲しに行った時は、中国人農家に小隊で泊めて貰った、ちゃんと専攻する特務が
話しをつけていて、食事も用意してくれた、たいしたモノは出なかったが久しぶりの外の
飯で嬉しかった、
20.今でもエンジンの馬力を上げるのは過給するのが一番だと言ってる。
ターボとは言わない。80歳過ぎてるが毎日車を運転してる。
21.漢口に居た時、内地から技術教官が来た、敵機来襲の時、その教官は机の下に隠れた。
机なんかじゃ機銃弾は簡単に貫通するのに。と後でみんなで笑った。
内地は爆撃で大変だと聞いていたが、たいした事ないのかなと思った。
来襲時には、敵機は機銃を撃って来るから、コンクリートの壁(格納庫の基礎とか
塀とか)に寄りかかる様にして姿勢を低くすると言ってた、米軍の来襲は、毎日
大体同じ時間に来た。
22.整備した機体は一式戦が多かった様だ、「隼」とか言わなかったし、キ番号でも
呼ばなかった。
22.私がミリオタになったのは、ジジイの影響だな、ガキの頃、戦闘機のプラモ
ばかり作ってた。
>>709 > ターボとは言わない。
「過給器」で正しいです。「ターボ」は、その1形式で、「排気でタービンを回した勢い
を利用するタイプ」。効率が良いので広く使われてますが、唯一のものではないです。
スーパチャージャー
>>711 当時はそっちを使っていたはず。機械ロスが多いので効果が弱いけど、タービンは
日本では材質も工作も潤滑も無理で実用化できてなかったはず。
じいさんの友達の自慢話は、
米軍からかっぱらった機関銃で米兵の隠れている洞穴にぶっ放した。
どこに当たるかわかんねから恐いんだよ、と言っていた。
話の最後には足の裏の傷と背中の傷を見せて終る。
714 :
名無し三等兵:04/10/19 02:31:26 ID:5jQHjyqU
曾祖父さんの回顧録見つけた。
スレタイと違うけど書いても良いんかな?
717 :
715:04/10/19 03:20:36 ID:wONOKRLA
では。原文のまま書き写します。
日付等間違っているかも知れませんが、本人が
92歳当時に書かれたモノですのでご容赦下さい。
明治三十七年
日露戦祖始まる。(朝鮮仁川港で露艦二隻撃沈)
明治三十八年、戦争終結
凱旋祝いの旗行列に参加、
大人は道の辻で、酒の酌み飲みをして祝ったと思ふ。
曾祖父は徴兵の際に丙種認定されてしまい、
出兵しなかったそうです。(理由は忘れました)
また、当時は農家の長男等は兵隊に取られ難かったとも
聞いた事があります。
719 :
715:04/10/19 03:31:08 ID:wONOKRLA
昭和十六年十二月八日、大東亜戦争始まる。
昭和十七年一月、○○(祖父)△△聯隊入隊
○○(祖父の妹)大阪の軍需工場へ。(学徒動員で)
昭和二十一年、○○(祖父)復員
と、まとめるとこんな所です、別ページに
「太平洋戦争について」と書いてあるのですが、
色々と思う所有ったらしく、結構長いです。
名前や地名を伏せての書き込みでよろしければ
また書き込ませて頂きます。
720 :
715:04/10/19 03:46:28 ID:wONOKRLA
すいません、「原文書き写す」って言った割に
>>719で勝手にまとめてますね。
721 :
名無し三等兵:04/10/19 03:51:00 ID:dgJQQBZH
(´,_ゝ`){ビルマで部隊が全滅して命からがら日本に戻ったけど終戦後GHQに連れていかれその後行方不明でつ
この間NHKで進化の番組を放映中、予科練帰り爺さんが怒り出し、
その他家族と大論争になりました。爺さんは頑固な進化論否定者です。
自分の想像ですが、戦前の教え方は
神がこの世界を創った→その子孫がやんごとなき家系の方達→
実は日本人の起源もそこから広まった。∴貴方達日本人は
神の子。猿が祖先だなんてとんでもない!
まあ爺さんも本当は分かってるけど引けない一線があるんだと思い、
自分も爺さん側に立っときました。
あなた方の爺さんは進化論を否定しますか?
>>722 DQNな爺さんですね。
そもそも猿から進化した事自体間違ってるのに。
>>722 DQNっていうか…宗教と進化論は昔から犬猿の仲なのだし。
近年になってローマ法王も進化論を多少は許容する発言をしたばかりでしょ?
それは戦前教育がどうのこうのよりも、宗教と科学の対立の話になるから別問題だと思う。
普通に考えても、戦前教育なんてものが入ってない「純粋日本神話」とも進化論は対立するでしょ。
モノリス=神みたいなもん
で進化論も宗教と共存できる。
>>722 神が微生物を創った→その子孫(中略)→貴方達日本人は神の子
という解釈では駄目なのかね
ソレダ!!
/ヽ /ヽ
/ ヽ / ヽ
_______ / ヽ__/ ヽ
| _____ / :::::::::::::::\
| | // \ :::::::::::::::|
| | 神 | ● ● ::::::::::::::| ・・・何?このスレ・・・
| | | :::::::::::::|
| | 微生物 | (__人__丿 .....:::::::::::::::::::/
| |_____ ヽ .....:::::::::::::::::::::::<
└____/ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::|
|\ | :::::::::::::::::::::::|
\ \ \___ ::::::::::::::::::::::::|
今なら言える!
ぬるぽ!!
↑飽きたよそれ。
>>729 まァ約束事だから
∧_∧
( ・∀・)
(( ( ヽ ノ )
ノ\(○´ ガッ!
(_ノ(_\ ∧
= ()二) < >_∧∩
V`Д´)/ ←
>>729 /
732 :
長文失礼します:04/10/24 01:12:35 ID:ThEdexbu
最近親と親戚のおばさんから聞き出しました。
うちは母方も父方も戦地に行ってそれぞれ貴重な
経験をしたようでしたがさらに驚いたのが祖母の
弟の不運な話でした。
写真も見たのですが彼はそれはえらい色男でし
た。たぶんすれ違う人が振り向くというレベルだ
と思います。それで当然というか美しい人と結婚
しました。それで戦争に行ったのですが終戦時シ
ベリアに抑留されてしまいました。残された家族
は終戦してから何年も帰って来ない彼を戦死した
ものだとばかり思いその奥さんもとうとうも諦め
て再婚してしまいました。
シベリアで彼は徹底的にアカの思想を叩きこまれ
ました。帰国した時には彼の心はまさに真っ赤に染
まっていました。奥さんが再婚した事を誰も言えず
うちの祖父が伝えたようです。結局出戻りしたか未
亡人になったかの彼の従姉妹にあたる女性と再婚し
たのですが前妻一家の家は目と鼻の先という位近い
場所だったらしいです。
その後彼は共産主義者としてかなり有名な地位で
活動していました。そして何十年かたった時神奈川
の某所で右翼関係らしき人物に殺されてしまいまし
た。彼の子供達3人もその影響で共産主義になって
しまったようです。
これが普通の人の話でもかなり驚いたと思います
が彼が本当に驚く程の美男だったので余計にかわい
そうに思いました。今の時代に生まれていたら絶対
タレントにスカウトされるとか華やかな運命を辿っ
ていたことと思います。産まれ変わりがあるなら次
こそは幸せな人生を送って欲しいです。
これが普通の人の話でもかなり驚いたと思います
が彼が本当に驚く程の美男だったので余計にかわい
そうに思いました。今の時代に生まれていたら絶対
タレントにスカウトされるとか華やかな運命を辿っ
ていたことと思います。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
この部分は必要なかったと思うが・・・まぁ〜ヨシとしよう。
>>732 とりあえずどの程度色男だったかうp汁。
735 :
ホタルイカ <二:彡 @光学迷彩 ◆Optic4oz5g :04/10/24 09:46:10 ID:LcjtiupR
在日米軍基地の実戦部隊は日本政府から言質(げんち)を
とった後に日本列島から撤収させるという意味のことを
リチャード・ルーガー米上院外交委員長(米国共和党)が言った。
| ̄ ̄| ♪
_|__|_♪
| ´`( / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ∀ )< テロとの戦いで在日米軍は必要ない。
♪ /∪ | つ | 六カ国協議で中国と関係が深まった。
( | .|| \________
) ) \|| ルーガー米上院外交委員長
♪ (___) \_ つ,, ♪
「だがアメリカ軍がすべて引き上げてしまったら日本はこう言うだろう。
『そんなことは考えていなかった。少々の変化を希望しただけだ。』
ハッハッハ、だがアメリカは(日本政府から兵力削減要請の言質を取ったあと)
この(在日米軍全面撤収の)方向へ向かうことになるだろう。」
リチャード・ルーガー米上院外交委員長(共和党)
彼は米国上院外交委員会で米国外交政策を
最終決定しているアメリカ政界の重鎮だ。ちなみに彼は
「我々(米国)は長い間、孤立主義を保ち国際関係に立ち入らなかった。」
と第二次世界大戦前まで引きこもりをつらぬき続けていた
米国伝統お家芸のモンロー主義復活再興をにおわせていた。
・冷戦が終わり、世界のアメリカ軍基地の再編成をしなければならなくなっている。
同盟国と相談の上、来年(2005年)、最終的な決定を行うことになるだろう。
・アメリカ軍はすべての有事の際に、アメリカ国内の基地から出動すべきだという考え方もある。
・沖縄の海兵隊をグアム島へ移す計画については日本と相談することが重要だ。
(日高義樹のワシントンリポート第109回2004年10月17日放送
ワシントン インターフェイス・スタジオ 2004年10月4日テレビ収録)
736 :
名無し三等兵:04/10/24 09:48:40 ID:ZIfjPjyX
737 :
732:04/10/24 11:20:51 ID:jhIbpsr+
ごめんなさい。
当方♀なのですが写真を見た時一目惚れのような
このかっこいい人はいったい誰なんだろーって方
が話を聞くより先だった為に余計な文章がまじって
しまいましたね。
戦争の悲しい話を書きたかっただけなので色男云
々は脳内削除しちゃって下さい。
いや、なかなか聞けない貴重なお話感謝しますぞ。
>>737
>>737 うpしてくれ!
そしたら俺の大叔父の写真うp。
比べれば色男が引き立つ筈・・・・
馬が迎えに来る身分って何なんだろう?
中隊長殿以上は乗馬本分。
742 :
名無し三等兵:04/10/24 20:39:51 ID:ECFH/JGW
祖母が戦時中に台湾にいて、台湾沖航空戦から沖縄上陸戦のころの
艦載機による空襲が台南でひんぱんにあったと話をしていた。
昭和20年初春には、各家に海軍特攻隊の若い操縦士を宿泊させてあげて
出撃前の数日間は家庭の雰囲気を味合わせてあげるような事があったらしい。
たいしたもてなしはできないけど、ある操縦士はレコード盤を持ってきて
蓄音機のある家を希望していたので、当時には珍しく家の居間に蓄音機がある
祖母の家に来たという。操縦士は出撃までの数日間、持参のレコード盤の
クラッシク音楽に暇が在ると耳を傾けていたそうな。
台湾基地の防空戦闘機などあらかた消耗したらしく、米機が好きなように
跳梁するようになった時期、空襲慣れして米機がうろつかないはずの時刻を
祖母がまだおさない叔父や私の母の手を引いて田圃の中の開けた一本道を
歩いていた。不意に爆音がして米戦闘機が低空で飛び過ぎてゆき、また引き返して来た。一本道の上で隠れるところもなく子供を手を掴み、呆然と戦闘機を見つめていたら、
道に沿って低空を飛び抜けて行くのが見え、風防を開けてこちらを見ている
操縦士の顔が見えたという。
いつもは家と言う家に機銃弾や爆弾をお見舞いする米戦闘機でも、この時は
子供連れの女を目にして、躊躇したのだろうか、と祖母は回想していた。
祖母が回想記を自費出版したので、その話を紹介しました。
うちの婆さんも台湾に住んでいたけど、
幼い子供を連れて歩いてるところを、機銃掃射された事が2回あったと言ってたにゃ。
いろいろだね。
744 :
名無し三等兵:04/10/24 21:57:28 ID:dDJduj4P
明日、叔父の60回目の命日です。レイテ沖海戦で戦艦山城とともに運命を共にしました。爺ちゃんの弟なので私も靖国に参拝します。英霊に祈りをささげます。
( ´;゚;ё;゚;)ゞ
747 :
名無し三等兵:04/10/25 00:38:50 ID:Fh+bQMDP
(^▽^)ゞ
>>744 うちの叔父も、瑞鶴乗り組み。
既に鬼籍のじいさまは寡黙な人だったが、30年くらい昔に
「俺が金持ちだったら、息子を職業軍人になぞ・・」
と、漏らしたことが記憶に残っている。
「兵卒(兵学校卒?)は耐艦せんからな」とも。
遠い南の海に向け、俺も敬礼する。
仮想戦記もシミュレーションゲームも、俺は読んだことも
やったこともない。
血の繋がった叔父が散華した、その事実は覆しようもない
ことで、いまさらifを語ってもなんになろうか・・
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::::::...゜ . .::::::::: /ヽ ノ ヽ__/ ....... . .::::::::::::........ ..::::
:.... .... .. . く / 三三三∠⌒>:.... .... .. .:.... .... ..
:.... .... ..:.... .... ..... .... .. .:.... .... .. ..... .... .. ..... ............. .. . ........ ......
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... ..:( )ゝ ( )ゝ( )ゝ( )ゝ無茶しやがって… ..........
.... i⌒ / i⌒ / i⌒ / i⌒ / .. ..... ................... .. . ...
.. 三 | 三 | 三 | 三 | ... ............. ........... . .....
... ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ............. ............. .. ........ ...
三三 三三 三三 三三
三三 三三 三三 三三
>>748 し、失礼しました。ではあらためて敬礼!!<(`д´)
「(`д´) 海軍式はこんな感じ。
もうだめぽ・・
ドラゴンズ・・
爺の弟君は、海軍の主計勤務だったそうな(恐らく下士)。
戦前戦中を通じ、日に日に生活が苦しくなっていく実家(どこだって苦しいわけだが)に、
員数外だかちょろまかしたんだかわからんが、マメに物資を送っていた。
終戦に際しては、毛布に缶詰、砂糖に米と、欠乏し放題のものを選び、しかも大量に実家に
送り込んだそうな。
おかげで我が爺も婆も、ついでに言えば母も叔父も叔母も、生活は相当楽になったそうな。
それに絡んでひとつアレな話として、弟君の持ってくる帝国海軍御用達の食い物に慣れた
叔母は、近所のオバはんから饅頭をもらったとき、ワザと落っことしたりしたそうな。
物資欠乏の折、そりゃウマくはなかったろうが、恥ずかしいやら情けないやら申し訳ないやら・・・とは婆の談。
>>755 貴方の爺の弟君を肯定もしないが否定も出来ないよ。
大叔父様が生存されているならば何でも聞いて置いておくれ。
勿論知らぬ人(若人)に教える為だよ
うちの母方の爺さんは8人兄弟の長男なんですが
長男、祖父。開戦前に中国に行く無事帰還中国大嫌い人間になる、
帰還直後両親が死亡
次男、徴兵を免れるも戦後伊勢湾台風で死亡
三男、皇居の警備をしていたが空襲で死亡
四男、中国に行き戦死、
五男、中国に行くも無事帰還、京都で商いをする
六男、フィリピンに行き戦死、
七男、中国に行き戦死
長女、唯一の女子だが出産直後両親が相次いで死亡、家計が苦しく
満足に栄養が取れなかったためか3歳で病気で死亡
うちの祖父さんの世代がちょうど直撃していたためか次々と徴兵に盗られてしまいました
(代々雇っていた職人さんの家は空襲で断絶)
伊勢湾台風で遺品のほとんどがなくなり
わずかに残っているのが六男からの手紙と三男の写真だけです
両親死亡後は長男として必死で弟達を養っていたらしいのですが
京都の爺さんとは仲が悪いです
今生きている自分にとっては死亡率の高さが信じられないです
戦争はしちゃいかんなあとつくづく思いました
758 :
名無し三等兵:04/10/26 23:56:10 ID:33gPQzti
石油を完全に遮断されたんじゃ、あの選択肢しかないだろ・・。
オレも戦争反対だが、日本は戦争を始めるしかなかったと思うよ。
そうじゃなきゃ、軍艦も飛行機も動かなくなった後に
米英から犯しまくられてたと思う。
759 :
名無し三等兵:04/10/27 00:03:11 ID:wQUArF2v
>>758 なんで石油を輸入出来なくなったのかは無視かい
760 :
名無し三等兵:04/10/27 00:08:04 ID:bvvHHBkC
戦死者何百万人も出した上に負けて敗戦国になってこき使われた挙句
地震の見舞金が500万なんて屈辱を受けるのとどっちがましかは微妙
どっちにしろスレ違いだし今の基準でどうこう言うのはいかんが
戦争はしちゃいかんというのは昔からのまっとうな発想だと思う
761 :
名無し三等兵:04/10/27 00:09:20 ID:2ysPA75S
有色人種が白人と同じ事をしたからだろ。
米国人ですら「日本人が白人なら戦争は起きなかった」と言ってる。
開放運動がアジア全域に広がるのを恐れたんだろうな。
戦争始まった・・・
764 :
名無し三等兵:04/10/27 00:15:21 ID:2ysPA75S
日本人は半島の人や東南アジア人と過去をしっかり話し合うべき。
いまさら戦争を始めるつもりなんかないよ。
sage進行で行くな。良いスレだから。
>753
「(^д^) そういわれると思った。
>>766 ひじを上げて敬礼すると、狭い船内ではあちこちぶつかるからですよね。
小津安二郎の映画で笠智衆がちゃんと
>>766の敬礼してたよ。
駆逐艦の元艦長の役。
>>764 話し合うって何を?
どうせ有りもしない被害を並べ立てられて、天文学的な額の賠償をしなくてはいけなくなるぞ
>768
秋刀魚の味でつな。相手は加藤大介さん。
あの場面ほんま、いいなと思う。
>>771 そうそう。「/(`・ω・´)こうじゃなくて「(`・ω・´)こう」ってわざわざ直してたもんね。
加東大介は笠さんの駆逐の元部下役。
「天気晴朗なれど、波高し!「(`・ω・´)」
辻閣下と一緒に人肉ハムを食した話が聴きたいです。
774 :
名無し三等兵:04/10/28 18:19:26 ID:dbdufo+T
元海軍の人から聞いた話。
「海軍式敬礼」は単に陸軍の15度敬礼を下向きに下げただけではないとの事だ。
まず、陸軍の肘を真横に張った15度敬礼をする。
↓
指先はそのままおでこの所に固定したまま、肘だけを真横から前方に移動させる。
↓
すると、海軍式敬礼になる。つまり肘を斜め前に出して、掌で右顔を少し覆う形になる。
ん、良スレ。
777 :
大日本国防婦人会:04/10/28 22:48:34 ID:BG+mqV/s
じいさんは徴兵年齢は過ぎていたため、地元(種子島)の警防団長を
していた。ばあさんは国防婦人会。
8月14日に命令が下った。
明後日(16日)アメリカが種子島を艦砲射撃する恐れあり。
午後十時に十六番(種子島で一番高い場所にある部落)
に集合せよ。(母は本土に学童疎開していた。)
結局日本が無条件降伏したため、中止となった。
祖父母があとで聞いた話によると、
日本軍が足手まといにならないよう
住民虐殺する予定だったらしい。
祖母は死ぬまでその話をしていた。
>>775 サンクス!!!よく分かりました。
腕と手が一直線にビシッとならないんですねー。
なんか、上の写真は「よぉ〜っ」って声かけてるみたいだw
騎兵科卒でも輜重兵になることはあるんですかね?
徴用で大阪に来ていた爺ちゃんは
当然ながら大阪大空襲を経験している。
夜が明けて、全て焼け野原になってしまったやろな、と見たときに
大坂城の天守閣が無償で残ったとき、本当にうれしかったらしい。
まだ日本は大丈夫やな、って。
「大阪城は、大阪の市民が一円一銭出し合って作ったんや。
B29なんぞに焼かれてたまるか!」
と誰かが演説してたのが、妙に印象に残っているという。
ただそれだけなんだけど。
>>781 南極探検で有名な白瀬矗中尉が、騎兵から輜重兵への転科を
しています。
>>784 ソース
∧,,∧
ミ゚*゚;ミ
⊂ミ ミ)
|| ミ ミ〜
|| ∪ ∪
786 :
大日本国防婦人会:04/10/30 14:16:43 ID:HcRW0vR9
>>784 遅れましてすみません。
この話初めて聞いたのは、
中学生の時です。
毎年夏休みは種子島の祖父母の
家に遊びに行っておりました。
終戦記念番組を見ていて
ふとじいさんに戦争に行ったのかと
質問をしたら、年とってたから
地元の警防団にいたと答えだった。
そしたらばあさんが突然怒りながら
777の話をしたのです。
その時はなぜ同じ国の軍隊がそんな
ことをするのだろうと不思議に思いました。
この話が事実なのかは、ばあさんが3年前に
93歳で死去したので今となっては確かめるすべもありません。
種子島に生き証人もほとんど残っていないと思います。
でも沖縄戦での日本軍の蛮行をみると
事実ではないかと私は思っています。
以上です。
787 :
名無し三等兵:04/10/30 14:39:52 ID:y+ga8Wi0
おとぎ話なのさ。
うちの祖母は、米兵が傍に来たら突き殺せと言われて
ばらした鋏を持たされてたそうだ。
祖母自身も、米兵がその辺をのこのこ歩いてるわけないだろ!
と思ったが、怒られそうだったから言わなかったそうだ。
>>786 日本兵がそんなことするわけがないだろ
沖縄戦の記録は何から何まで東京裁判で捏造されたものだし
むしろそういう行動は朝鮮とか中国の人間によくみられる
お前さんの所にいた連中に朝鮮人がいなかったという証拠は何もないんだろう?
だったら朝鮮人が命令したという可能性も捨てきれないわけだ。
>日本軍が足手まといにならないよう
>住民虐殺する予定だったらしい。
この辺があいまい。したがって
>>777殿の話は信頼できない。
しかし、日本軍がそのような蛮行をした筈がない、というのも同様に希望的観測に過ぎない。
俺が聴いた話と違う。
たしか足手まといにならないように人肉ハムにしたんじゃなかったか?
≫777氏もう一回確認してくれ。
793 :
名無し三等兵:04/10/30 18:01:14 ID:/c2oweXe
朝鮮人の中から徴兵された日本兵達が、好き勝手な蛮行を働いたのは常識。
生粋の日本人の日本兵と一緒にされては困る。
>>.777
在日は帰れ!
796 :
名無し三等兵:04/10/30 20:52:11 ID:n4QOmxCF
じいちゃんの所属部隊を調べていて、ついにやっと解った。
図書館とかいろいろ廻ったけど、結局、靖国神社ですぐに解った・・・。
最初からいっときゃよかった
797 :
796:04/10/30 20:59:04 ID:n4QOmxCF
飛行第26戦隊だったのらしいのですが、飛行第26戦隊の戦歴とか
載ってるHP知ってましたら教えてください
>>793 朝鮮人が徴兵されたってのもなかなか斬新な意見なわけだが。
朝鮮人も台湾人も徴兵されています。
中には、特攻隊員で戦死した人もいます。
知覧の特攻記念会館(?)に行ったら、
特攻隊員の中に朝鮮名の人がおったよ。
802 :
796:04/10/30 22:24:32 ID:oiIaV3M9
>>801 陸軍です。比島で戦死したらしいのですが。
>>797 靖国神社経由で、戦友会の連絡先を調べて、手紙とか出した方が確実かと。
ごく簡単ながら、手元の資料では、
昭和17年10月2日、満州で編成。
フィリピン、ニューギニア、蘭印、仏印などを転戦、台湾で終戦を迎えたとあります。
戦闘・襲撃(対地攻撃)を主な任務としていた飛行部隊です。
804 :
名無し三等兵:04/10/30 22:36:54 ID:OxOoqqYT
じいちゃん(故人)は歯医者だった。満州で盲腸になり、自分で腹を切って手術したそうだ。満州で戦局が悪化し、ソ連軍だの馬賊だのが迫ってきたときにモンゴル人にかくまわれ、ぎりぎり引き揚げ船に間に合ったと聞いたよ。
>>799-800 陸士・海兵出身者とか志願兵がいたのは知ってるけど、
兵役法は戸籍法施行地域外に適用されたんだっけ?
>806
特別志願兵 とくべつしがんへい【名詞】 《公式》
日本軍(陸軍をふくむ)では、徴兵の対象は「戸籍法の適用を受くる者」すなわち日本本土および樺太に本籍のある者で、朝鮮籍もしくは台湾籍の者は徴兵されることはなかった。
これは海軍志願兵についても同様で、募集資格は同じく「戸籍法の適用を受くる者」となっている。しかし戦争が激化して兵員の不足が深刻化すると、朝鮮台湾籍といえども人的資源として活用することを考慮せざるを得なくなった。
そこで朝鮮台湾籍の者を「特別志願兵」として募集することになり、昭和18年より実施された。
一般の志願兵が現役期間5年であるのに対し、特別志願兵の現役期間は3年とされ(徴兵と同じ)、朝鮮籍の者は鎮海警備府に兵籍を置き鎮海海兵団で新兵教育を受け、台湾籍の者は高雄警備府に兵籍を置き高雄海兵団で教育を受けた。
なお、特別志願兵には飛行兵の徴募はないので、朝鮮台湾籍の者が予科練に志願することはできなかった。
上記は、形を変えた徴兵であり、建前と本音を使い分ける日本人の悪い癖だ。
>>807 「形を変えた徴兵」があったんだったら、さらに加えて「強制連行」なんかされる
人的な余裕がよくあったな。
>808
「強制連行」も当然あったという認識だが、何か?
常識ある諸君は以下の記述をどう考えるか?
花岡裁判の和解
2000年11月29日、ゼネコン鹿島建設を被告とする中国人強制連行・花岡事件の裁判(原告11名)が東京高裁で和解しました。
骨子は(1)1990年7月に鹿島が中国人強制連行・強制労働の企業責任を認め謝罪した7・5共同発表を再確認する。
(2)鹿島は5億円を中国紅十字会(赤十字)に信託し花岡平和友好基金を設立する。
(3)同基金は慰霊/追悼、受難者・遺族の自立/育英等にあてる。
(4)同基金の受益は花岡事件の中国人当事者986名全員に及ぶ。
(5)基金の運営委員会には原告らが選任する委員/中国紅十字会の他、鹿島も加わることができる」というものです。
花岡事件とは
アジア太平洋戦争末期、閣議決定により4万人の中国人が日本国内の35企業・135ケ所の事業所に強制連行され、日本敗戦までの間に7千人もの人々が生命を奪われました。
中でも、秋田県花岡で鹿島組(現鹿島建設)により、奴隷以下の暴虐にさらされた中国人は次々と仲間を殺されました。
彼らは人間の尊厳をかけて1945年6月30日に蜂起します。蜂起にあたっては日本の民衆に迷惑をかけるなという規律が貫徹されます(花岡事件)。
花岡に連行された986名のうち、8月15日の敗戦以後引き上げまでの死者138名を含め418名が命を奪われました。
敗戦後、連合国による横浜BC級戦争犯罪裁判において使役企業である鹿島組は有罪とされました(後に減刑されます)。
ナイーブな奴がいるな。戦争なんだから虐殺とか色々有っても普通だろ。
それくらいで済んでよかったね。
共産中国やソ連相手だったらもう・・
>>811 そうそう。
米軍の原爆投下、無差別爆撃、捕虜の虐待は完全に正当だ。
何処の国でも虐殺虐待があったといいながら、どういうわけか日本軍の虐殺に話が及ぶと
集中攻撃が始まって、なかったと言う結論に持って行きたがるのも謎だ
>>813 戦争なんてそんなもんだろ・・・仮にも軍ヲタともあろうものが何を今更
アメリカの原爆投下以上のひどい虐殺があったら
教えてほしいもんだ
民間業者が御国を勝手に騙って陛下の赤子、
強制連行してタコ部屋送り。
で使い殺してトンネルに生き埋め。
>>817 で、その子孫が2ちゃんねるで煽る、と。
>>815 軍ヲタは意外にも自虐史観に染まってる人間が多いそうだ。
>>811 そうそう。
韓国軍のベトナムでの大虐殺は完全に正当。
ファビョーン!
>>820はウリとウリナラに謝罪汁!
ウリたちが犯ったのは大虐殺とレイープニダ━━━━<ヽ`∀´>━━━━ !!!!!
というか虐殺があろうとなかろうと軍ヲタには関係ないだろ。
戦争から虐殺だの強制連行だのといったイデオロギーを除いて、
純粋にそのとき何が起きていたのか知りたいのが軍ヲタというものだろうから。
823 :
名無し三等兵:04/11/03 02:52:00 ID:/WShu7+K
私の祖父母は満州からの引き揚げです。
終戦後、満州の日本人は中国人に暴力を受けたり、
中国政府に連行されるという噂が広まり(本当にあったかもね)、祖父母は
自分が日本人だということを隠すために持ち物をすべて焼き払い、
別行動で帰国したそうです。祖父は一人で帰りましたが、祖母は
一人で子供を3人連れて帰国し、にもかかわらず帰国後、腸チフスで
倒れたのは祖父だというのですから、やはりいざという時は女性が
強いものだと思い知らされます。
ちなみに祖父が働いていたのは、満鉄系の満州電業とかいう会社です。
終戦間際に召集されましたが、そのときに上官から、家にある物で武器になる
物を持ってこいと言われ、そんな事言われても家に何もないから、
怒鳴られるのを覚悟の上で懐中電灯を持っていったら、他の奴らはみな単なる
木の棒だとか石ころだとか持ってきただけだったので、逆に褒められたそうです。
しかし結局、戦場に行く前に終戦になりました。
もともと兵隊になるのが嫌で満州に行った様な祖父はこれらの話をするのを
とても嫌がりましたが、祖父の死後、祖母が話してくれました。
>>822 当方軍ヲタだけど虐殺やら強制連行についても知りたいぞ?
その存在の是非も含め、思想抜きで客観的に思考するのが俺が理想とする軍ヲタ像
願わくば感情に囚われず冷静な視線で論証を積み重ね、真実に迫りたいな
うちのじいちゃんは呉の海軍工廠で働いてたらしいです。
826 :
名無し三等兵 :04/11/03 03:56:50 ID:xqK89MjA
うちのお爺さんは植民地○○○○○○の市長だった。
戦争の時どうやって帰国したんだろうか?
じいさんの家に遊びに行ったら、見慣れた中田商店のカタログが・・・。
海軍水兵服買ってるし・・・、当時の奴はボロボロで
新品買ったそうな。
>>826 市長だったということはすくなくとも朝鮮ではないな。
朝鮮に市町村はないからな。
朝鮮は「植民地」じゃないだろうが、と(ry
祖父は、関東軍に入ったころは機銃手をやっていたそうです。
その後、戦局が悪化すると、武器や兵隊を南方へ持っていってしまって、
機銃手でなく、切り込み隊に編成されたと言っていました。
その切り込み隊は九州等の西の方の人が多く、
東北出身の祖父は、西の奴等は荒くて合わねがった。と言っていました。
また、ソ連参戦時には、相手が戦車やマンドリング?で迫って来るのに、
こっちは数人に一人しか銃が無く、戦いようがなかったらしいです。
ボダンコウ?までくる間に、人がゴロゴロ転がっていて、
まだ寝ているような死体もあったといっていました。
終戦になり、ソ連の列車が満州へ入ってこれなくて(線路の幅が違うとか)
しばらくしてから、コンテナに乗せられてシベリアへつれて行かれ、
昭和22年に舞鶴?へ帰ってきたそうです。
シベリアでは、朝起きたら隣の者が固まってたとか、
雪の中に倒れて起きて来ない者がいたそうですが、誰も目もくれなかったそうです・・・。
それで、自分の実家に帰ってみたら自分が戦死したことになっており、
お墓に自分の名前があったと言っていましたw
本当は、所属していた部隊とか、もっと詳しく聞きたかったのですが、
話しているうちに祖父が涙をこぼすのを見て躊躇してしまいました。。。
>>830 あなたの、おじいさまは、本当に辛い思いをされたようだネ・・。
お互いに辛いだろうが、おじい様の話を良く聞いておくべきだと思う。
必ずあなたの人生の役にたつはずだよ!
農家の末っ子に生まれ、終戦間際に満州に駆り出され、
シベリアに送られ5年だか地獄を見たうちの爺の弟君。
帰国後肉屋を開いて、神業的美味さのウインナーを作り、マメに届けてくれたおじさんは
多くを語らぬまま札幌の土に還り、おじさんの業物ウインナーは永遠に墓の下。
ドクターが言うには「シベリアが効いたんじゃないのか?」。
どこまで信用したもんかはわからんが、とりあえず露助は許さん。
>>630 >マンドリング
ソ連のサブマシンガンPPsh(ペーペーシャー)-41のことですね。
首に掛けている姿がマンドリンに似ているので、日本軍は
そう呼んでいました。(ドイツでは、バラライカと呼んだそうです。)
>ボダンコウ
牡丹江(ボタンコウ・中国の地名)です。同名の川もあります。
満州時代は、同名の省内にありましたが、現在は黒龍江省になります。
関東軍最後の激戦地、とのことです。
戦中・戦後を生き抜き、大変なご苦労をされた方々には本当に頭が下がります。
830です、先日聞いた話を詳しく聞きたくて、
祖父に無理を承知で頼んで見たところ渋々話してくれました。
ですが、何故かシベリアの事だけは余り語ってくれませんでした。
ソ連参戦時ですが、祖父の居た部隊は何が起こっているのか命令が伝わらず、
大混乱だったそうです。また、ソ連が攻めて来たと分かった時は、
やはり来たかと思った人が多かったと言っていました。
ソ連軍が満州全土を狙って進撃してくると分かったとき、これを阻止すべく向かったそうですが、
敵の戦車や機銃、砲が地を揺らす勢いなのに対し、味方は、砲、機銃、弾薬ともに少なく、
まともな反撃すらできず、タコツボに入って敵戦車に爆弾ごと体当たりしたり、
敵の戦車、機銃の中に銃剣や軍刀で突撃したりして何とか凌いだそうです。
祖父も戦車に爆弾で肉弾攻撃をかける為タコツボに入っていたそうですが、
味方の兵が敵の戦車に肉弾攻撃をかけても全然効いていなかったり、
何年も厳しい訓練を受けた古参兵が、一瞬で散っていくのをみて、虚しくなり、
敵が通り過ぎるまで身を潜めていたそうです。
また、祖父と同じように肉弾攻撃を命じられても戦車が通り過ぎた後、
タコツボから出てくる兵も少なからず居たといっていました。
その後、ソ連軍の攻撃が激しくなり、味方は倒れ、所属していた部隊もバラバラ(はぐれた?)になり、
牡丹江目指してひたすら歩いたそうですが、武器はおろか食べる物もなく、
皆限界の状態で、道や畑に倒れている兵が居ても、識別表(死んだときのために身分が分かる物?)
を確認する者も居なかったそうです。
最後に、もう少し武器さえあれば勝てはしなくても、あそこまで馬鹿げた戦い方をしなかったのにとも言っていました・・・。
836 :
名無し三等兵:04/11/05 03:56:40 ID:VMIDOzAd
>835の祖父
敬礼!
>>835 記憶を蘇らせて言葉にするのは苦痛だったのでしょうが、
よくぞ語ってくださいました。ありがとうございます。
家の爺はソ連の侵攻により、8人くらいがソ連兵2人によって連行されたらしい。
徒歩で山越えの途中で、イチがバチかでソ連兵をボコり逃げたって。
逃亡中とか中国に潜伏中の話しなんかは、すげえドラマってかおもしろいよ。
中国人にはお世話になった、というが露スケとかいってソ連兵は悪く言う、いろんな事
見たんだろうな。
こういう貴重な経験を持った年配者は
是非とも経験談を語り継いでもらいたいんだが・・。
843 :
名無し三等兵:04/11/07 03:09:35 ID:6jdsOmJK
じいさんは行かなかったが、その兄はガ島の一木支隊で、上陸後すぐ?に殺されたようです。
あそこら辺の写真に写っているのかもなあ…
体験談じゃないですが
>>843 一木支隊の第一梯団は、上陸直後の戦闘で、916人中、788人が戦死……
大伯父さんのご冥福をお祈りします。
845 :
名無し三等兵:04/11/07 15:27:37 ID:6kMwoRsR
一木支隊の第一梯団は精鋭部隊だったのにね、今尚生存している生還者は数えるほど
しかいないと聞いたよ。「敵を知らず、己を知らず」というガ島の本で生還者の語る
回想録を読んだけど、一木支隊の戦いぶりは凄かったみたいね。
猛烈な機銃掃射の中で、こちらの重機関銃隊が横一列に並んで、かなり敵銃座に
接近して応射したらしい。迫撃砲で次々に吹っ飛ばされて機銃掴んだまま上半身ごとちぎられたりして…。
やがて戦車が出てきて、戦闘に決着がつき、生き残りは後退したけれども、
翌朝は朝日の中で、戦車に轢き殺された兵士達は赤や黄色、青色の内臓を晒して横たわっていたと。
しかも、その中には死んだフリをしている者もいて、検死に近づいた米兵に襲い掛かる強者もいたとか。
そんな状況でも降伏をしなかったなんて、使命感のある兵士達だったのか。
勇壮無比・忠勇無双の精兵とみるか、軍国教育の奴隷とみるか、
それとも最期のクソ度胸とみるか、見方は人それぞれだろうけど、
いずれにせよ凄まじい最期であることには違いない。
ガ島戦、一木支隊と戦った米兵たちも、その後の戦闘で相当数が戦死しているらしい。
米兵の手記を読んだことがあるが、やるせない気持ちで一杯になった。
彼我を問わず、祖国のために命を捧げた兵士たちに合掌。
一木支隊は札幌・旭川のどっちの連隊から出征したの?
旭川の28連隊です。
>>839 ウチのじいちゃんも似たような感じです。
満州開拓団なので徴兵されてから二週間だったので、
終戦時に部隊長が「おまえら軍人じゃないから逃げろ」と逃がしてくれたそうです。
それで学校に集められて機関銃で撃たれたり、
中国人の親方にかくまってもらったり、
かつての部下に助けてもらったりしながら
なんとか本土に生きて帰ってきました。
そのじいちゃんも数年前に往生しました。
じいちゃんの遺言の一つは満州に骨の半分を埋めてくれという事でしたが、
これは実現しそうに無いです。
父方母方とも祖父は1900と1901年生まれ
大正軍縮期に徴兵期を迎える。
一年志願兵となり、予備役陸軍歩兵少尉として除隊
軍縮期の陸軍での兵役は気楽だったとのこと。
父方:旧帝工学部卒で旧財閥系子会社社長(戦前に就任)後公職追放には該当
せず
母方:逓信管理養成所(現電気通信大学)卒の中級技術官吏(戦前・戦中・戦後)
戦争体験
二人とも年齢が徴兵(正確には二人とも予備役将校だった)年齢には老いぼれ&
通信関連官吏ということで召集されず。
女婿の叔父二人のうち一人は理系在籍で徴兵猶予、商学部の叔父は学徒出陣
で丙種幹部候補生の軍曹として砲兵隊の観測要員で、私的制裁の体験はないね〜
というよりも技術会社のような軍隊だったなあとのこと
腸チフスに昭和20年罹病し陸軍病院(現国府台病院)の伝染病隔離病舎で終戦
を迎える
。
むしろ叔母二人の方が和洋九段在籍中に空襲にあい、軍人会館に逃げ込んだり
甲府までリュックを担いで甲州ワインを買い出しにいって売ったりしたとのこと
親族で戦死者は無し。23区内の家もそのあたりだけ焼け残った。
戦後になり戦前に技術指導できていたUSスチールの技術者のひとが少佐に
任官しており、ジープで訪ねてきたら周りのひとから○○さんのところは戦犯指名
がかかったということで騒ぎになったが、その米軍少佐は祖父の会社が戦中特許料を
払えない(交戦国)ので供託金を中立国大使館に預けていてその会計処理で
来たとのこと
劇的なことのない我が家の戦前・戦中の記録
>>851 劇的ってったって、大抵悲劇なんだから。
851の祖父母さんみたいにまあ平穏。ってのが一番だよ
若かりし日の爺さんは、農家の次男にして元マラソン野郎という甲種バリバリ召集兵として
陸軍(生まれる前から札幌在住だから、多分歩兵第25連隊)に入営。
満州で実戦に参加(ノモンハンかも)し、目のすぐ下を負傷しながらも何とか五体満足で満期除隊。
曰く「なまら怖かった。石ッコロでも隠れたくなる。上官も怖いが、敵の弾はもっと怖い。」
そんなに若くもなくなった爺さんは、国鉄苗穂工場でもって旋盤工に。
来る日も来る日もガリガリゴリゴリ車輪作りに精を出し、グラマンが来ようがお構いなし。
陸軍も帝国のエネルギー政策に欠かせない北海道の石炭、そいつを運ぶ大事な機関車の大事な
車輪を作る熟練工はさすがに引っ張れなかったらしく、爺さん車輪作りまくり。
曰く「汽車がなきゃ石炭も食いモンも、兵隊も鉄砲も弾も運べない。俺たちが国を支えてたんだ。」
もう若くもなくなった爺さんは、海軍に行った弟が終戦のドサクサに紛れてパチってきた物資と
自分の安月給を駆使し、戦後の混乱の中一男二女を育て、糞ロスケに拉致られた別の弟の妻子も
ちょろっと援助しつつ、平和にささやかに労働者人生を送り、気が付いたらもう定年。
曰く「いやァ、貧乏したよ。そりゃ人より楽だったけど、国が丸ごと貧乏なんだから。」
程よく老化した爺さんは、持ち前の怠け症を全力発揮して、日永一日ごーろごろ。
たまーに植木の面倒を見つつ、一日のほとんどとテレビの前のソファで過ごし、のんびりのんびり。
曰く「鉄イジってるより木イジってるほうが性にあってた。大工やってりゃ暇もしなくてすんだのに。」
激しくヨボヨボになった爺さんは、足腰弱って車椅子。医者の余命宣告ブッチギリ。
嫁と娘と娘婿と末孫に囲まれて、今日も元気に、たぶん明日もトラブルメーカー。
曰く「俺は今のうちに怠けとくんだ。靖国と先祖の墓と、お座敷二つで忙しくなるからな。」
無類の甘党で選挙はいつでも共産党、そのくせ皇室支持者の、典型的北海道の労働者な爺さん。
ところであんた靖国にゃいけんだろ。それとも今から戦死する気かと小一時間(ry
>>854 これからも「じい様」の大暴れを期待。
大変だろうけど、家族の皆さんも頑張ってね!!
>>854 共産党支持者なんかw
甘い物いっぱい食べて長生きしてちょ!
>>854 いいじいさんだなあ。
俺もそういう風に年を重ねたい。
俺の爺ちゃんってワケじゃないが
爺ちゃんが死んだ時、そのお兄さんや戦友会?のメンバーみたいなのが沢山来てくれた。
丁度酒が飲める年齢になってた俺を囲んで色々話をして下さったんだが
お兄さんの方は爺ちゃんと比べて背が小さく、飛行機乗りだったと酒に赤らんだ顔で教えてくれた。
その時は余り関心が無かったのだが、後年になって大空のサムライを読んで
お兄さんはずっと横浜方面に住んでいるのでひょっとして坂井氏に会っているのではと、ドキドキした。
強烈だったのは南方送りになってジャングルの中を駆けずり回った人の話で
「塹壕がなぁ…ちっとも役に立たなかった」と遠い目をして語っていたのが印象的だった。
その他にも沢山話を聞かせて貰えたのだが、みんなガンガン俺に酒をついでくれるので
後半はへべれけになっててほとんど覚えていない、貴重な体験だったのに… みんなスマン。
で、この話には続きがあって、後日になってその兄さんから俺に名指しで電話が来たんだが
何でも、仲間が一人死ぬたびに富士山に散骨しに行ってるそうなのだが
もし最後の一人が死んだらそいつの面倒を見て欲しいのとの事だった。当然承った。
今までもそうだったので富士の途中でも良いと言われたが、山頂で景気良く撒いてやる!と言ったら
「それは特等席だな、長生きしないとな」と笑っていた。
富士山でもどこでも行くからみんな百でも二百でも生きてくれー!と思ったよ。
うお、我が爺殿大人気だw
件の爺、今日も元気に我侭ぬかして、晩飯にプリン喰っちょりました。ガキかっての。
それと、北海道が社会・共産党の支持基盤だったってのは、革命思想とかそんなんじゃなくて、
ただ単に金の無い労働者階層が多いから。増税されたら食ってけねーYO!ってだけ。
>>858 「火口にぶち込んで、火山灰ともども成層圏を半永久的に漂わせてやる。
のんびりまったり下界でも眺めて、面白おかしく過ごしてみたらどうだい」とか言ってみたら喜ぶかな?
860 :
858:04/11/16 00:14:33 ID:???
>>859 アメリカさんじゃ月にロケットぶち込んでお墓参りは月に祈るっつうプロジェクトあるらしいけど
日本は風船爆弾時代から風任せだーね。いや良い意味でw
でも、みんな当分長生きして欲しいから
うちの爺ちゃん二人にプリン食ってる爺殿来たら三途の川向こうで追い返すように言っとくわw
俺の分まで爺孝行してくれヾ(゚ω゚)ノ゛
>>860 でもアメさんは風船爆弾マジびびったらしいですぜ。
原発を狙う秘密兵器だと思われたんだったっけ?
風船爆弾の頃に原発なんてあるもんか。
>>860 ラージャーwトンクス
864 :
小倉陸軍工廠:04/11/17 21:09:05 ID:KR0S7RaP
嫁さんの母上は小倉で学徒動員(当時女学校)され
風船爆弾を作っておったそうな。(のり作り)
アメ公は風船爆弾に脅威を覚え(もし日本が細菌を詰めたらと)
風船についていた土を調べて
発射地点を割り出したそうな。(きっと夜間に潜水艦で上陸したに違いない)
さすがアメ公はすごいと思った。
また、徹底した報道管制を行い
国民には終戦まで隠したそうだ。
(おかげで、小学校の先生、生徒が犠牲になった。)
それに引き換え、わが神国は
防諜対策がまったくだめだった。
だからあちこちにポスターが貼っていたのだ。
>>864 >風船についていた土を調べて発射地点を割り出したそうな。(きっと夜間に潜水艦で上陸したに違いない)
いぁ戦前、日本の地質調査をしていたアメリカ人学者もいた訳で、
従ってアメリカの研究室には日本の地質調査の結果が山と積まれてたのよ。
あの当時、日本の地質については日本よりもアメリカの方が資料が多かったりする。
さしものアメリカも潜水艦で日本に上陸しまくるなんて難しいてw
>のり作り
風船はアメリカ行きだから、ほんやくこんにゃくノリつかってたのかな?w
>>863 風船爆弾が起こした山火事で送電線が途絶え、原爆に使う
プルトニウム製造が三日遅れたそうだ。
>>861 ピクニック中の子供が爆殺されたからな。
>>868 それマジなの?
実害は無かったと聞いたんだけど
871 :
名無し三等兵:04/11/18 17:20:21 ID:cfw+wCMH
うちの爺さん。
海軍航空隊のパイロットでした。主戦場は南太平洋で、おそらくフィリピン辺り?の基地を中心に戦っていたそうです。
とある日の先頭で、銃弾を受け、右手の親指と人差し指を失いました。そのため、内地に帰り、長期入院することになったそうです。
以前、爺さんに聞きました。「おじいちゃん、ラッキーだったね。怪我のおかげで日本に帰れたし、そのために生き延びれたのかもしれないよ。」
そしたら、爺さん、「そんなことは全然なかったよ。むしろ早く戦場に帰りたくてどうしようもなかった。戦場に戦友残して一人で日本にいることのほうがよっぽどつらかったし、もし前線にいたら、
特攻隊にも志願してたよ。」
だって。
こういうのってさ、やっぱり当時の男たちの普通の感覚だったんじゃないの?
戦後、団塊の世代辺りが飾り付けしたり、脚色したりしてる記録とうちの爺さんの生の声は全然違う。。。
>>871 普通の感覚って言うけど北方で高射砲撃ってたうちの爺さんは、
結構今の人に近い感覚を持ってるぞ、
B29を落としたとき地元民がパイロットクルーをリンチしたって話したとき、
「何も殺すことなかったのにな〜…」
それに同期の人が英語の歌を歌っただけで上官にたこ殴りにされて自殺したって話でも、
「あれは○○(上官)が間違ってた!!」
とか言ってる、そして話の最後は必ず、
「自衛隊にだけは入るなよ」
でしめくくられる…
6年前に亡くなった祖父は
舞鶴の海軍機関学校を出た軍人でした
どこかの戦場で負傷・片目を失明して終戦前に退役
戦場でのエピソードはほとんど語ってくれませんでしたが
祖母から聞いた話で
乗っていた艦が北海道のどこかに入港して上陸した時
蟹を食べ過ぎて食当たりに、のたうち回る腹痛
↓
決められた時間に艦に戻れず。このままでは処罰される!
↓
親類の海軍のちょっと偉い人(この人はC級戦犯か何か)に手を回して
もらって「急性盲腸炎」の診断書を提出?して解決
元々この板の住人じゃないし、祖父の海軍時代のことは詳しくないんですが
孫から見てファンキーで頭のいいカッコイイ男でした…
>>871 「当時の男たち」とか「団塊の世代辺り」と何でもいっしょくたにしない方がいい。
自分の視野を狭めるだけだ。
「2ちゃんねらー」と一口に言ってもウヨサヨ真性基地までいろいろいるだろ。
どんな時代にもいろいろな人がいるもんだ。
875 :
長野:04/11/18 19:17:19 ID:3qPztoyE
うちの祖父さんも
>>835 の方とだいたい同じです。5年前に他界しましたが、まだ
聞きたいこともありました。生存されている方も年々少なくなっており、貴重な体験
を聞くことができる機会があれば、今後の日本社会の再構築に役立つことと思われま
す。
876 :
名無し三等兵:04/11/18 20:28:26 ID:HwwI9CTY
私の父方の祖父は衛生兵として北方に派兵された直後に
終戦になったそうです。
そのせいか戦争の話をしても怒りません。
俺の父方の爺さん、生まれつきモヤシ野郎だったらしく、徴兵検査でハネられた。
喘息もちの虚弱体質で医者の常連だったらしいので、丙、あるいは丁と思われ。
しかも支那事変直前のことで、大東亜戦争の頃には年齢的なものもあったか、
赤紙配達も見事にスルーされ、札幌市民のため空襲もほぼ関係なし。
当時の日記に、「お上からダメ人間認定。申し訳ないわ情けないわ、もうダメポ(意訳)」
どうやら相当不服であったらしく、ヤケになって徴兵にかかわる書類の一切を焼却した模様。
なので、マチの洋裁屋さんの戦争体験=貧乏体験しかなかったり。
オレの叔父貴、(母曰く)陸軍の軍医長でした。
どういうコースかは知りませんが、徴兵で入隊して、幹部に見込まれて上級の学校行って色々あって軍医になったらしい。
神戸に住んでて、近くの朝鮮人部落にコッソリ診療に行ってたとか。
人柄のおかげか腕前のおかげか、それとも隠蔽が上手かったのか、最後までばれなかったとか。
でも南方転出の途中で潜水艦に攻撃されてアボン。
戦前の若い頃の最高のエピソードは、特高に引っ張られた事。
何でも左がかった集会に参加したそうで、その直後に「オイコラ!」と連行。
取り調べの席ではノラリクラリと尋問をかわし、捜査官が「ゴルア!」となった時に「ココへ電話してくれ」とメモに書いたのが連隊司令部。
あとはもう上へ下への大騒ぎ。>本人はお茶飲んでノンビリしてたらしい。
憲兵隊が警察署に乗り込んで「ウチ(陸軍)の軍医ドノをアカ容疑でしょっ引くとはエエ度胸やないけ! おおう!」とまぁヤクザまがいの恫喝。
↑嘘かホントか、連隊じゃ「軍医ドノを奪還する!」と兵士達が騒いだとか。
叔父貴は憲兵隊差し回しのサイドカーで飄々と帰宅。
しかし叔父貴の本当の災難はここから始まった。
憲兵隊から叔父貴が特高に引っ張られた事を知らされた家族(祖母と母その他)はもう、生きた心地がしなかった。
そこへ「ただいま」と何喰わぬ顔で叔父が帰ってきたのだが、そこで祖母の感情が爆発。
「このアホンダラが!」
と叔父貴をさんざん殴ったらしい。
後日、母(妹)に「特高よりオカンの方が怖い」とこぼしていた。
母曰く「頭が良いのかアホなのか、ヨーワカラン人やった」
879 :
名無し三等兵:04/11/19 13:03:47 ID:tuGiklb6
ドイツのムンスター戦車博物館へ行った時、4号の前でかなりの爺さんが
孫と思われるボーイに各部を指しながら熱く語っていた。多分乗っていた
んだろう60年前。俺も聞きてーし4号の事色々質問したかった。
しかしドイツ語分からん。
3年前に他界した父方の祖父は、熊本第3連隊(第3師団?)で
中国に行っていたそうです。
祖父は毎晩のようにうなされていたんですが、市街戦で非戦闘員の
女の子を誤って射殺してしまい、それが今でも夢に出てくるんだと
父から聞かされ、それまで「おじいちゃんは中国で人殺したの?」
「カエル食べてたの?」なんて面白半分に聞いていた自分を
子供心に悔いた思い出があります。
戦争の話はしたがらない祖父でしたが、軍服姿で「宮桐」という馬に乗って
撮影した若き日の写真を引き延ばして、額に入れて飾っていました。
母方の祖父(母の姉の父なので血縁はない)は海軍で、戦死しています。
搭乗していた艦名が分からないので(祖母も話したがらないので)、
知りたいのですが、名前と出身地だけで調べられるでしょうか?
海軍は出身地関係ないからな・・・・
名前も、エライサンなら調べればどこかに載ってるかもわからんが・・・。
結局、遺族が役所へ問い合わせるのが一番かと。
>>879 爺:「バカめ!それはそう動かすのじゃない!!俺のケツをなめろ!!!」
クルツと孫、曾孫かもしれんな。
曾孫「バウアー大尉がそう言っていたんでしょ、お爺ちゃん。」
885 :
881:04/11/19 22:35:05 ID:SoOfGsBX
>>882 そうなんですか…。
とりあえず、うちのウヨ父が何か知っているかもしれないので
聞いてみようと思います。
ありがとうございました。
俺のじいさんは海軍所属だった。(艦の名前は教えてもらえなかった)
敵の魚雷だかなんだかがもろに船体に命中し、大混乱。
沈没するなら海に飛び込んだ方がマシと、そのまま藻屑となった大勢の味方達。
そんな中、じいさんは自分の船室でタバコをふかして、最期の時を待っていたらしい。
その後、船はなんとか沈没せずに済み、
残った人間(本当に数人しか残っていなかったとか)で
だましだまし操縦して帰還したそうな。
888 :
名無し三等兵:04/11/20 00:31:26 ID:jeYPDbhq
遠戚だがじいちゃんの兄は(じいちゃん7男その人4男)
陸士で梅津美治郎と同期・陸大で東條英機・今村均と同期だった。
土肥原賢治の前任で奉天特務機関長というきな臭い職域を経て
少将の時歩兵38混成旅団長で予備役編入。
時は満州事変直後の昭和8年。
何かしでかしたのかもしくは政争に負け更迭されたのか未だに謎。
親父はいつも「叔父は満州事変に反対して上奏して更迭されたんだ」
と言っているが、少将が上奏というのは現実味が薄い。
ま、おかげで戦犯指定もされずに終戦を迎えたわけだけど。
うちの曾爺さんが満州でホテル経営してた。
確かに、今思えば、満鉄?かなんかの模型が一杯あった。
今も省かなんかの公立図書館として残ってるらしい。
その後財産ばら撒きながら帰国、製麺所を作って、
そこそこの土地とそこそこの家残してくれました。
息子の爺さんは理系学生(農学部(w )で徴兵されず、京都の女学生(祖母)を引っ掛けてました。
もっと読みたいんですが、どこかにまとめサイトありますか?
1987年、海外留学に行ってた漏れ宛の、爺さんからの手紙が出てきた。
日付はくしくも本日11月20日だった。
爺さんがアメリカに行く漏れに日本人としての心構えを教えようと書いてくれた
手紙だったが、当時Nステの影響で社会党マンセーのお花畑の脳内だったため
ほとんど読まずにしまっておいた。
さっき本棚を整理していたら出てきたのでアップしてみた。
若干読みづらいだろうけど、暇な人は読んでみてほしい。
http://up.isp.2ch.net/up/2a444c81a96c.lzh
>>891 達筆だな・・・知識としては目新しいところは余り無いけど、
何か感動した
>891
うん、本当に繊細な字だなぁ。
>>891 要約すれば
「真珠湾攻撃はルーズベルトとハルの陰謀」って事か?
そうなんだよね。
今読むと目新しい事は無いんだけど・・・・
当時、もっとしっかりよんどけばよかった・・・・
んで、いろいろ聞いとけばよかった。
留学から帰ってきた時は、もう病床でまもなく他界したからなぁ・・・
私の祖父は、私が生まれる前に2人とも亡くなってるんで、会ったこともないんだけど。
母親方の祖父に関しては、母と祖母から聞いたことが。
アメリカにいたらしい。
戦争が始まって収容所に入れられそうになったが、
鉄道建設に携わっていたために、現地の人に匿われて、
入れられずに済んだ。そのあとなんとか日本に帰ってきたそうだ。
その話を聞いたときは、日系人収容所なんてものがあったことを
知らなかったんで、????だっったんだが。
898 :
879:04/11/21 14:21:12 ID:mTnArOJu
>>884 多分シュルツ曹長だ。
「中隊長が親父なら俺がお袋だ」といってたかもしれない。
孫はじゃあおばーちゃんは何?と質問。
899 :
名無し三等兵:04/11/21 14:39:23 ID:QGrsTQL6
母方祖父。日中戦争で参戦。
水を飲もうとして水筒をくわえたら、水筒に銃弾が当たって、
「一歩間違えたら死んでいた」という話を、20回位聞かされた。
お盆の間はずっと戦争映画を見ていて子供アニメを見せてもらえなかったのが恨み。
でも、女の子の私を「ぶんぶん荒鷲ぶんと飛ぶぞー」と言って、戦闘機遊びしてくれて好きだった。
大平洋戦争中は、憲兵やってて、従軍しなかったみたい。
父方のおじいさん。
大平洋戦争で、私のお父さんがお腹に宿ってすぐ南方の島でマラリアで死去。
遺影飾ってるけど、結構イケメンで、今の私より若くて、何とも言えない気分になる。
一度、会って、話してみたかったなあ。
母方の祖父は、小さなメッキ工場を経営しており、軍の仕事も請け負っていたので、
戦地に行かなくて済んだそうだ。
母方の祖母によると、手榴弾の内側をメッキしていたそうなんだが……
手榴弾ってわざわざメッキなんてしてたっけ?
祖父はとっくに死亡、祖母もボケてしまったので、それ以上の話が聞けないのだが。
901 :
名無し三等兵:04/11/21 15:33:27 ID:yG2NFaRn
>>900 ピクリン酸とかは鉄と反応して不安定な爆発物に変化するから、
ムクの鉄と直接触れないようにコーティングするためぢゃない?
うちの爺さん赤い星(錆びテて見づらいけど)のついた工具一式を持ってる、
北方で高射砲の整備やっててそのとき現地の人から買ったらしい、
904 :
名無し三等兵:04/11/21 21:56:18 ID:ccs94MgX
中国戦線で従軍した祖父の話
本文はキツい犬山訛りの為現代名古屋弁に意訳
上官が突撃とか言うと皆突っ込んでいくんだわぁ。
けどな、前から来る玉はあたりゃせんがや。デラ怖いのは後ろから飛んでくる玉なんだわ。
皆、鉄砲なんて撃ったことあれぇせんにぃ。だからな、音を聞くだけでもどえらげにゃあ怖かったもんでよぉ、みんな体から話して抱え上げて撃つんだわ。
でよぉ、そうやって撃った玉がよぉ当たるんだわぁ。
じいちゃんもな、いきなり後ろから撃たれてよぉ助かったわぁ。
お前はなぁ、突撃言われても絶対に先頭におったらいかんぞ。
後ろにいれば、敵にも味方にも撃たれんから、うしろにおらないかんに。
・・・祖父にそう言われて
「ソ連には特選隊とか政治将校ってのが居てね・・・」
と言ったら
可愛そうに、と泣いていた祖父の記憶が忘れられませぬ。
>904
ちゆごくにもあるぞな。督戦隊。
上海揚がって南京まで逝った爺様のいくさ話。
あちらさんの軍隊、中学生みたいなガキに
槍と手投げ弾1個渡して突撃させるんやけど、
味方は後ろから援護じゃなくて逃げないように
機関銃撃ちまってたそうな。
ほかにもドイツ軍が指揮しとったとか・・・
南京取り付いた時にゃ中隊の半分以上、
負傷や戦死で消えていたとか・・。
上海から南京まで弾はともかく食い物もなんも補給無し。
うちは父方の祖父は、俺が生まれる前に亡くなったけど。
母方はまだ存命だ、今度、行く機会あったら詳しく話聞こうかな。
ちなみにシベリア抑留経験者だそうです。首相から貰った盃で親父と一緒に酒飲んでました。
北海道から満州に行った直後に捕らえられたそうな。部隊分かります??
>>905 ドイツは三国防共結ぶまで中国がお得意様だったからね、武器や軍事顧問を出して、
経験を積んでいたみたい。
そんな連中と仲良くしようだなんて、陸軍の偉い人は何考えてたんだか。
中国への援助をやめさせる為。なんて考えが有ったとは思いがたい(´・∀・`)
なんにせよ、戦争を生き延びた皆の祖父母達に感謝
トラウトマン調停案
910 :
885:04/11/22 20:06:54 ID:???
>>887 遅レスですが、ありがとうございました。
ぜひ参考にさせていただきます。
911 :
前線帰り:04/11/22 20:08:02 ID:4If+GoQs
戦争でひどいめにあったじいさんは
戦争のことはあまり話さないし
戦争のTV・映画も見ないようだ。
(嫁のじいさんインパール帰りだった。)
逆にいい目にあった人は、武勇伝を後生
に残すのじゃないかな。
例えば、大勲位中曽根康弘など、内務省勤務から海軍短期兵現役に徴兵され
いきなり中尉様(陸軍の抗議で後輩達は半年間新兵扱いで
その半年間に徹底的に殴られた。)
海軍省に勤め国民より遙かに
安全な場所にいて、経理将校なので
うまいもの食べたい放題。
戦後は内務省→自治省に戻り失業も経験していない。
本当にうらやましい人生だなあ。
日本列島不沈空母とか
津軽海峡封鎖とか過激な発言をしたが
所詮
『蝶々とんぼも鳥のうち』の相当官が
何を言いやがると当時思ったものだ。
うちのじーちゃんは、東京大空襲を目の前でみたそうな。B-29がカコイイかったそうな。
私の祖父は子供の頃、空気銃の流れ弾が目の近くに当たったせいで視力が弱く、
徴兵検査で「乙合格」だったそうです。(ちなみに上等兵)
入隊後、名古屋が空襲された時、地下鉄に隠れていて、
その後地上に出てきて名古屋城が燃えているのを見たそうです。
部隊は九州に行ったらしいです。佐世保、長崎、別府…。
食料が不足しているのでバッタを焼いて食べるのですが、
じっくり焼けるのを待っていると仲間に食べられてしまうので
生焼けで食べていたそうです。
上官に韓国出身者がいて、その人を故郷を帰す為に部隊みんなで服だの靴だのを
集めて(何やらどこからか持ってくるのが得意な人がいたそうです)福岡の港から
送り出したそうです。
>>913 >入隊後、名古屋が空襲された時、地下鉄に隠れていて、
名古屋に地下鉄できたの昭和32年だからありえない。
>>914 子供の頃に聞いた話なので…。
祖父は「地下道」と言ったのかもしれません。
御指摘ありがとうございました。
916 :
名無し三等兵:04/11/22 23:19:03 ID:6xj5kLzg
亡くなった爺サマ、インパールの生き残りだたーよ。
北海道で召集されたんだそうだ…部隊がわかるかな?
>>916 インパールに参加した主要3師団は、15師団が京都、31師団が福岡・奈良・新潟、
33師団が栃木・群馬・茨城ですね。
軍直轄部隊でしょうか?
この前亡くなった、うちのじーさん横浜出身で、
北海道で守備(?)についた後、ラバウルに行ったらしいんですけど、
そんな部隊ありますか?
うちの爺さん、海軍、台湾にいたしか語ってくれなかった。気になる…
爺さんの足跡の手掛りになりそうなのは昭和天皇と同い年、前職は消防ぐらい。
誰か可能性のありそうなものだけでも…
海軍の軍人だったんなら軍歴照会してみればいいじゃない
921 :
名無し三等兵:04/11/23 16:39:43 ID:k8ds1kGJ
917さんThanxです。
爺サマ本人の弁によると『連隊で生き残ったのは5人だけ』『仏領インドシナにもいた』そうです。
922 :
名無し三等兵:04/11/23 17:18:24 ID:2NWGdf7P
戦争行ったけど病気で帰ってきたらしい
ダサすぎる…
もう片方は弾丸作ってたから徴兵免除だとよ
ダサすぎる…
子供の頃聞いたのですが、祖父は海軍軍人で上海事変に行ったそうです。
中国軍との交戦で負傷帰国しましたが
彼らは夜間でも無差別に発砲してくるので位置の特定が
容易だったと言ってました。
925 :
名無し三等兵:04/11/23 18:17:46 ID:J5CiGx71
うちの爺さまは関東軍の中の水戸の連隊で重機関銃の射手だったらしく
射撃優秀の賞状が家にあるんですけど詳細が分かる方います? 何師団なのかとか、戦歴とか、その賞状の凄さとか…
誰か教えてください
(´・ω・`)
>>925 まさか、南方で玉砕した連隊ですか・・・?
ペリリュー・・・
うちの爺様、
日中戦争に従軍したとき「ちんこ島」という名前の場所に上陸したらしい。
「支那人は思い切った名前ば付くるもんたい」とミョーに感心してた。
「大陸ば擲弾持って歩いてさらいた(歩き回った)」と語った爺様。
「歩いて、歩いて、行軍でみんなバタバタ倒れると(者)ば、
一番後ろで衛生兵の構えとって、拾うて来よらいたとさ。」
「良う、歩きながら寝よったもんたい。」などなど、
戦争の話を聞いても、歩いた話ばかり。
そんな爺様も除隊後、再招集を受けて鹿児島へ。
なんでもどっか玉砕した島の再上陸部隊の準備中(?)だったらしい。
そのまま鹿児島で敗戦を迎えたという。
近所に特攻の基地があって、
「良う特攻の若っかと(者)が、荒れて無茶苦茶しよった。」
らしい。
928 :
名無し三等兵:04/11/23 20:40:30 ID:cXIK/+9W
うちの母方のじい様は中国いっとりました、
敵の手榴弾は棒付きで良く飛ぶんだよと生前話してたな。
俺の爺様
ビルマ戦線にて英軍と戦ってたらしい。
爺様は陸軍少尉。
戦中の話は聞けずに他界しちゃったけど、終戦直後の話にワロタw
なんでも英軍に投降した後、小銃等の武器が没収されるんだけど
拳銃とか多少隠しもってたらしい。
なぜかというと、宿舎にビルマ人のゲリラが襲ってくるからw
投降したあとでゲリラと打ち合いを演じてたらしい・・・
930 :
名無し三等兵:04/11/23 21:46:13 ID:0VYsH4xb
うちのじい様は中尉でインパール作戦に参加しとりました。
通信中継の為の部隊にいたらしく、「前線がヤバい」という情報を察知して
いちはやくタイへ逃れておかげで、無事だったとか。
「双胴の爆撃機(たぶんP38)が急降下してくる音を思い出すと、
今でもキンタマキューになる」という話を30回以上聞かされますた。
じいさん2人とも広島で原爆受けて、その後20年もたたずに亡くなってるからなー。
親父は沖縄戦体験者だが(これまた故人)
戦争の話は早めに聞いといたほうがいい。
聞いときゃよかったと思ったときにはもう遅い。
933 :
名無し三等兵:04/11/23 22:23:24 ID:LRD7DNcf
水戸の連隊は、何もペリリューで玉砕した第二連隊だけではないよ。
茨城県水戸編成の連隊を書いておくぞ。
連隊名 終戦時の所在地
第 2連隊 パラオ諸島ペリリュー島
第102連隊 東部ニューギニア
第126連隊 レイテ島
第172連隊 茨城県石下町
第213連隊 モールメン南方
第237連隊 東部ニューギニア
第281連隊 満州・間島省
第329連隊 福岡県
第434連隊 茨城県勝田市(ひたちなか市)
第520連隊 栃木県矢坂
>>933 番号が大きくなると共に兵隊の平均年齢も上がる訳か・・・('Д`;)
>>934 それが負け戦の悲哀だよな……。
死んだ爺様、満州で従軍した兵卒だったけど負ける戦争は
嫌なものだが、あの時、戦争する以外仕方がなかったんだ
という話した時の顔は忘れられない。
936 :
名無し三等兵:04/11/24 04:58:18 ID:YEx1aTZZ
>>326 >>333 ありがとうございますm(__)m
一桁の連隊だったの記憶しているので二連隊だとおもいます
二連隊はどのような部隊だったのでしょうか? 二度従軍した為、生前の階級は兵曹だと聞きました
937 :
名無し三等兵:04/11/24 06:08:33 ID:CMOAudM+
うちの爺さんは、十和田湖か田沢湖だかで、敵を見つけるためのなんかを作る技術者だったらしい。うろ覚えですまん。
なんでも霧がでるから、実験にはよかったらしい。しかし酔っ払いながらいつも言うのは、敵がレーダーで見つけてるのにこんなんでは勝てるわけないって言う。
信濃の艦装も、技術者として関わったが東京湾でたあたり?で撃沈されたのをとても残念がっていた。
あんなとこに潜水艦が来てるんじゃ、どうしようもないと嘆いてた。
しかし信濃は、俺のイメージではめちゃめちゃダメな艦だが、爺さんは当時の最高の空母だったと力説。
>934
内地でまた〜り真空地帯か玉砕か餓死・病死・・・。
うちの田舎は漁村だからかもしれんが、殆どみんな海軍。
そして、内地に残ってた人が口を揃えて言うのは、
爆弾より、機銃が恐かった。機銃よりなにより、艦砲射撃は酷かった。全部跡形も無くなってしまう。と言ってた。
その田舎の防空ごうが、掘られてた?山を見ると、艦砲射撃の凄まじさが分かる。山の形が明らかに海側が欠けている。
戦争はよくないな
942 :
名無し三等兵:04/11/24 17:22:08 ID:YEx1aTZZ
>>941 補足ありがとうございます
軍曹かもしれません 賞状を見たのが大分 昔なので記憶がうろ覚えなんです 他に「曹」がつく階級はあるのでしょうか?
陸軍 海軍
准尉 兵曹長
曹長 上等兵曹
軍曹 一等兵曹
伍長 二等兵曹
准尉と兵曹長は准士官
祖父の弟が優秀な人だったらしく恩賜の時計を
もらったらしいのだがどの学校を卒業したらもらえるか
わかりますか?
945 :
前線帰り:04/11/24 20:58:00 ID:1CzEh+C3
海軍の兵隊用各種学校(予科練、工機学校など)はほとんど
もらえるんじゃないですか?
ちなみに兵学校は次のうちどっちか教えて下さい。
映画「連合艦隊」で中井貴一が桟橋で父親
蛇腹一角(わかる人はかなりロートル、財津一郎)
に渡していた。
映画「ああ海軍」ではチェリーマークを付けた主席
松本幸四郎が短剣を受け取っていた。
ちなみに恩賜の時計を持っていた者は
少々帰隊時間を切っても
「俺はこの時計に従って
行動した」と言えば
おとがめなしだったらしい。
以上4649。
>>944 帝国大学(東京、京都、九州、東北、北海道、台北、京城、大阪、名古屋)
学習院大学
学習院高等科
学習院中等科
高等商船学校
陸軍士官学校予科
陸軍士官学校本科
陸軍経理学校
陸軍幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、廣島、熊本)
以上のいづれかの学校を優秀な成績で卒業されたのだと思います。
>>936 ペリリューで玉砕した歩兵第二聯隊は、パラオ方面に抽出される前は関東軍の所属でしたから、
たぶんそれで間違いないでしょうね。
しかし最後の兵士が投降したのが昭和22年って、すごい話だよなあ。
俺の爺さんは南方に行ってた。
敵に太もも撃たれて、膿んだらしいけど川渡ったらそれで傷が
洗われて治ったそうです。
ゲリラに仲間がやられたから夜襲をかけて仕返ししたとか、
原住民から豚とかパクって食ったとか。
まだまだ元気で毎年三沢の航空ショーを見に行ってます。
949 :
926:04/11/24 23:04:04 ID:???
>>933 私は14師団のお膝元の出身なため、関東軍で水戸の連隊ということで2連隊だと思い込みました
他にも関東軍の水戸の連隊があるのでしょうか?
950 :
944:04/11/25 05:11:56 ID:???
>>945>>946ありがとうございます。
詳細は分かりませんが海軍軍人であったと聞いています。
内地に教官(何のかはわかりません)として残る道もあったらしいのですが
祖父の薦めもあり戦艦扶桑にて出撃し、フィリピン沖で戦死したとの事です。
祖父は今でもこのことを悔やんでいるそうです。
951 :
名無し三等兵:04/11/25 05:25:21 ID:yOzMZnV/
戦艦扶桑の死闘は有名だよ。
叔父様は人望があったんだろうな。
なんか、悔しくてならない。
うちの祖父は陸軍伍長で、はじめ南方で戦い、マラリアにやられて
帰還し、その後中国に行った・・・と言ってた(故人なので詳細不明)
そして1945年8月8日に長崎にいたとか(((゚Д゚;)))ガクガク
扶桑は、ほとんど生存者が居なかったらしいですからね。
合掌
今日、じいちゃんとロシア兵達が仲良く写ってる写真を見つけた。
ばあちゃんに聞いてみると、ロシアの兵隊とじいちゃんは非常に仲良く過ごしたらしい。
教育飛行隊?とかいう感じの部隊で飛行機の整備をしていたらしいです。
で、なんとなくじいちゃんの思い出話になったんだけど、戦時中に知り合った韓国人とも
戦後何十年にわたって、じいちゃんのこと兄者と慕って付き合いが続いたらしい。
韓国の人は、うちのじいちゃんが死んだときに、韓国の石の置物とか送ってきた。
中学生のとき、南京大虐殺を頭に叩き込まれてから、なんとなく戦争の話はタブーな気がしてた。
じいちゃんが生きてるときに、もっと戦争の話を聞いておけばよかったと悔やまれてならない。
955 :
933:04/11/25 18:41:27 ID:y7qe+xn0
>>949 とりあえず、手持ちの一覧表を見る限り、編成地が水戸の連隊はこれだけですね。
956 :
名無し三等兵:04/11/25 20:29:11 ID:MUhrxbyi
>>925 14師団は五指に入る精鋭師団だからその中で射撃優秀なのは凄いのではないの?日本トップクラス? 詳しい人いないかな?
母方の爺さんが毎回自慢げに大砲(?)の角度を計算する役をやってたって言うんですが
いまいちどのくらいすごいのかわからんのです
958 :
名無し三等兵:04/11/26 01:57:17 ID:4bBlHwpI
>>957 俺もそれは知りたいな〜
計算するものなのか、慣れで解かる物なのか。。。
弾道学ってやつですね。
俺もあまり詳しくないんで、専門的な事は方におまかせしますが、
例えば山越えで目標を狙うためにに目標物が見えてなくても、計算でどの地点に砲弾を着弾させるか割り出せます。
今ならコンピュータで計算しますが、当時は人間が計算しなくてはなりません。
砲兵科なら計算式を必須で習うはずですが、さらに実際の戦場で計算を任されたということは、
かなり素早く正確な計算ができたということでしょうね。すごいことだと思いますよ。
>>957 砲兵が偉いとは言わんが
まあ300人歩兵がいるとしてそのうちの30人しか砲兵になれないとしたらちょっとレアだろ?
更にそのうちの20人は砲を引っ張ったり、砲弾を運んだり、弾籠めしたり、砲の角度を調整する雑役だとする。
更に残り4人は伝令役かなんかで上に効率よく砲撃する為の指示を仰ぐ役だとする。
実際に砲を動かしていかに有効活用するか考えるのは残りの6人だ。
きっとお前の爺さんはその中でも一番早くて正確な弾道計算が出来る人だったんだよ。
お前の爺さんが指示を出す、するとそれを聞いた奴が砲の角度をジリジリ変えていく。
爺さんの計算で出した角度で打ち上げられた砲弾が飛んでいき、相手の立てこもる塹壕を吹っ飛ばす。
そこを突破口に歩兵部隊が膠着していた戦線を突き崩して行く。
それを見ていた上官に「でかしたぞ!○○っ!貴様は我が砲兵隊の誇りだ!」なんて肩を叩かれる。
そりゃあ爺さん、鼻が高かったろうよ…
只の妄想だけど、こう考えると何か凄そうだろ、お前の爺さん。
961 :
名無し三等兵:04/11/26 12:53:13 ID:lzcN/ZLI
弾道計算するのは、野砲の実用試験の時。その計算結果と実際の射撃試験の
結果から、仰角、発射薬量、弾の種類に対応して射距離や落角などの現場で
ただちに参照できる「射表」を作製する。実戦で使用する射撃緒元は「射表」
に基づき、簡単な内挿計算するだけでただちに算出される。
気温、湿度、空気密度、発射後の砲身温度、目標と砲の標高差など修正項目
は係数を掛けて、射表に基づく計算に修正をかける。
962 :
名無し三等兵:04/11/26 15:50:50 ID:4bBlHwpI
963 :
957:04/11/26 19:45:51 ID:???
レスサンクスです
>>959 >>961 隊の中では計算力が有るほうだったってことですか。
数学のテストはいつも100点だった (・∀・,,)ジイチャンスゲー くらいの凄さでしょうか
>>960 (*・∀・)=3
小さい頃は孫バカのどうしようもないジジさまだと思ってたけど
中2くらいになった頃、初めて戦争の話をしてくれた。
上着を脱ぎだし、わき腹を指差したので見てみると
深いしわだと思ってた所が、おもいっきりえぐれてる。
満州で敵に撃たれてもう駄目だって倒れこんだけど
実は水筒が盾になってて致命傷を逃れたと語ってた。
実際に水筒がどれだけ役割を果たしたかは分からないけど
やっぱり戦争をしてきた人間なんだなぁと実感。
孫バカというよりは俺が子供だったから真面目な話をしなかったんだろう。
だからこの時は自分が少しだけ大人として認められたような気がして
誇らしかった。
965 :
燃料電池 ◆umxaC7NtUQ :04/11/26 22:30:40 ID:jMlSdIGe
うちの祖父さんは整備兵で
生で宇垣さんの特攻出撃を見てたらしい。
隊長機にむりやり乗り込もうとして偵察員ともめてたとかなんとか
日本刀で100人斬り殺せるほどの戦闘力をもち、銃剣と単発銃のみで40万人殺すなど原爆以上の
破壊力を持つ携行兵器を誇り、各植民地で無駄に現地人を殺してまわるほど武器弾薬が余っていて、
揚子江の川幅を2m以下にしたりするほどの高い土木技術を持ち、沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が
出せるほど命令系統がしっかりしていて、 日本兵の数を上回るほどの従軍慰安婦を一日に一人あたり何十人
も暴行するほど体力と食料があって、韓国で文化施設はもちろん 一般家庭にある辞書から料理本に至るまで
処分してまわるほど暇で、中国で家々に火を放ちまくり無駄に虐殺した民間人の死体を一カ所に集めて
たっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり、韓国の優れた建築施設・街・鉄道を全て
接収することなく破壊し尽くした上新たに日本の駄目な建築物に建て替えるほど資源と資金が有り余っていて、
11歳が戦場で暴れ回るほど若い内から逞しく、終戦後になぜか強制連行を行いまくるほどの軍備と余裕が
あり、圧倒的科学力を誇る朝鮮の反日勢力になぜか圧勝するほど運がよく、朝鮮人を殺しまくりながら人口を
2倍にするという魔術を持ち、敗戦国でありながらGHQを手玉にとって朝鮮戦争を起こすようコントロールするほど
政治力と外交能力に長けた日本が敗戦したことは歴史上最大のミステリー。
>>966 それはすごい。
で、宇垣特攻って、15日なの? 16日なの?
969 :
名無し三等兵:04/11/27 09:55:30 ID:Gw+yF0AR
>隊長機にむりやり乗り込もうとして偵察員ともめてたとかなんとか
貴重な証言ではないかと。
徳間文庫の ドキュメント神風 下巻134ページから引用:
===
宇垣は中津留機の優秀な偵察員である遠藤秋章飛曹長に、「交代せよ」と言った。遠藤は交
代する代わりに、体を詰めて宇垣がすわれる場所をつくった。
===
とあるから、その辺で多少の押し問答があったんだろうな。
母方の爺さん中佐だったけど満州行って戦車にひかれて戦死
その弟は武蔵を作ってたそうだ。
父方の爺さんはその武蔵に乗っててシブヤン海でボカチンくらって水死?
まんま海ゆかば・・・や。いいとこなしやなうちの戦歴。
陸軍中佐だわ、戦艦武蔵乗組み員だわで、赫々たる経歴だと思うが
武蔵のようなのをボカチンとは言わんと思う
親愛なる母方の祖父が亡くなりました。
彼の記録を少しでも残そうと思い書き込みます。
陸軍所属、南方の島々を転々として(この辺の話は詳しく教えてくれなかった)
最後にマレーにいったそうな、退却戦になり仲間と一緒に少しづつ後退していたら
銃火一掃、倒れる仲間、そして右手小指・薬指付け根あたりに被弾。
小指ロスト、薬指も今にもとれそうになってぷらぷらしてた。
何とか無事営地に帰還できたものの役に立たなくなった薬指の痛みが激しくて
どうしようもなくなってついに鋸?で自ら切り落とした。
その後、何とか終戦まで生き延びて帰ってきた。
あまり戦地でのことは話したがらなかった。指がない理由を聞いときに話してくれた。
最終階級 陸軍伍長 おつかれさまでした。
父方の祖父は海軍の工廠で技師やってたそうだが
漏れが生まれてすぐになくなったので思い出が無い。寂しい限りです。
父方の祖父が生きてたころ聞いた南方でのエピソード
祖父「おい、美味そうなびっき(青森の方言で蛙)捕まえたから皆で食おう!」
同僚「いや、苦しい戦争だからって、びっき(秋田、岩手の方言で赤ん坊)食っちゃ、まずいだろ…」
祖父「なんでよ?結構美味いんだぜ?」
一同「ガクガクブルブル」
なんとなく思い出したのでカキコ。
ちなみに母方の祖父はソ連領に侵入してスパイのようなことをしてたらしいけど…
歴史を見る限りあまりお役に立てなかった様で…。
977 :
972:04/11/27 20:22:56 ID:???
>>973 ありがとう。
でもな中佐っていや結構な数の兵隊預かってたわけだよね?
それが本人が戦車に踏まれたってことは陣頭指揮とってたか
中央まで入り込まれたしか考えにくい。
ひょっとしたら部隊が全滅したかもしれん。
ってことは作戦ミスがあったとしても臨機応変に動かなかったわけだろ?
それでもし部隊全滅したとしたら無能を画に書いて額に入れて飾ったような人間じゃない。
武蔵のホチにしたところで武蔵が活躍したなんて聞いたことないし・・
現実は仮想戦記より虚しいもんだよ。
今度まじめに爺さん達の戦いぶりを調べてみるよ。
とりあえずお前の爺さんは
孫にこんな事言われるとは思ってなかっただろうな
かわいそうに。。。
工場つとめだったうちの父方の祖父よりマシかと…
>>972お前のその言い方は謙遜じゃなくて
ただの祖父への侮辱だ。
見てて激しくウザイ
>>980 少なくとも謙遜などする気など全くない。
祖父のせいで死んだ人間がいることが申し訳ないだけだ。
ただ救いは、どっかの中将のように「我は今満州上空にあり」とかいって
自分だけ逃げ出さなかった事だけだ。
それともこのスレは爺さんを無邪気に誇れとでも?
遺族から来たののしりの手紙を読んで何かうれしいとでも?
戦争は知らなくてもそれによって傷ついてる孫がいてもおかしくあるまい。
まあ想像力のかけらも無さそうだからわからんだろうな
>>981 満州のどこにおられたかにもよるが、当時の戦力差を考えればある意味当然の結果だとも思うけどな。
逆に降伏せずに玉砕するまで戦われたのなら、ソ連軍の侵攻を少しでも遅らせ
それによって救われた人間もずいぶんと存在してると思うのだが。
あと気になったのだが、武蔵のホチって沈没時のホチが父方の祖父なのか?
だとしたら、こちらも卑下するような方じゃ無いと思うんだがなあ。
983 :
名無し三等兵:04/11/28 00:04:58 ID:zHrsisGC
>>976 おいおい。戦線は「帰る」は一般的な食材だった。
(当時、高級食材だった鶏肉の代用品だったらしい)
すまん、戦線→戦前でし。
俺のじいちゃんは中国戦線で中国兵相手に突撃かました
らしいぞ。
突撃する時は、前に人がいる場合は斜め後ろを走るんだって。
銃弾が当たると背中や後頭部から真後ろに血が飛んできて、
目に入って見えなくなると戦場では致命的なんだってさ。
軍刀持って斬り込むのは、塹壕なんかの狭いところに突っ込んだ
場合圧倒的に有利なんだってさ。相手が小銃構える前に斬って終わり。
刀を避けようと振りかざした小銃もろとも敵兵を斬った将校を実際
にこの目で見たって言ってたぞ。
100人斬りは絶対無理だけど、近距離での白兵戦で10人ぐらい
斬った奴だったらようけおるんちゃう?だって。強え〜。
わし陸軍やったからこんな事あまり言われへんのやけど、
一番強かったんは海軍のシャンリク(上海陸戦隊)ちゃう?
だって。あいつら人間ちゃうで、武士や、武士。(武士も人間
だっちゅーの)しかも水兵のカッコしてるから目立つやろ?
あいつらがあのカッコで小銃に銃剣付けて歩いてみいや。
デモやってるチャンコロがようけおっても、クモの子散らす
ように逃げたもんやで。ほんま遠くから歩いてくるのを見つけた
だけでもな、逃げてもうて普通の平和な街になってもうたゆうがな。
ロスアンジェルスやニューヨーク当たりにシャンリクの1個中隊
も送り込んでみいな。たちどころに全米一犯罪が少ない街になる
思うで。だそうです。(これを聞いたのはもう20年近く前)
983はもう一度ちゃんと読むことをおすすめする。
>>981うわ。。。すごい香具師だなお前。いろんな意味で
例えどれだけ他人に貶されようと、信念を通した結果であったら尊敬すべきだと思うが・・・
東条英機の子孫達がそうであるように
>989
それが辻ーんだったとしても、そう言えるか?
992 :
966:04/11/28 09:53:52 ID:???
祖父さんの話の要約
・大事な指示があるとかで正午に駆り出され玉音放送を聞いた。
・正直雑音だらけで解らなかった。
・天皇陛下の話だから、大東亜戦争ガンガレーってな事だろうと仲間内で話し合った。
・飛行兵達が階級に関係なく夕方から酒盛り(泣く兵士や叫ぶ奴もいた)
・特攻再開。当初数機のハズが十機位に増え、祖父さん達の整備や燃料確認等の仕事が増える。
・訓示をした宇垣さんが隊長機に乗ろうとして
宇垣「貴様は降りろ」
偵察員「長官といえども譲れません」と口論
ー結局後部席に膝を折るように向かい合って(?祖父さんの記憶)入った。
・やや茜差す夏空の下ヒトナナマルマル頃帽フレもまばらな基地を特攻開始。
・通信士が19時〜20時半頃「長官から通信です」と報告。
・基地上級将校達が深夜騒いでた。
・後日特攻失敗の飛行兵達が戻ってきた。
・異様に「軍規違反だ」ーとかで中央の人達も後から来て、騒々しかった。
・・・8月16日なのか?????
>>982 ありがとう
もっともな意見だと思う。それが職業軍人ならそれでいいと僕も思う。
ただ、赤紙で引っ張られて巻き添えくらって死んだ人間の家族はそう思ってくれない。
祖母が終戦記念日と祖父の命日には必ず泣いていた。
好きだったのだなあ、と子供の頃には思っていたが
実はその日には恨みの手紙がくる日だったのを知ったのは祖母が死んで遺品の整理してたときだった。
ショックだった。映像でしか知らない戦争が時を超えてまざまざと字になって飛び込んできた。
「主人を返して」「子供を返せ」「人殺し」さまざまな言葉が並んでいた。
これを読んだら「僕の爺さんは国のために散った」とは単純に言えなくなった。
不条理が大手を振って歩くのが戦争だと、爺さんの手紙にあった。
そうなのだろうな。本当に。
騒がせて悪かったALL。もう来ないよ。
>>990。ディベートを学べ。そんなことしか言えないとみっともないぞ。
>>993 言いたいことは分かったよ
部下がいっぱい増えちゃって、そしていっぱい死んじゃって、いっぱい恨まれた訳だ。
そりゃあ御祖母さんも泣くわな。みんなの恨みがのしかかって来るんだから。
でも多分、御祖父さんもちょっとは悲しかったり悔しかったり、申し訳なかったり思ったと
思うから。敬えなんていわないから、せめて嫌わないでくださいな。
偉くなったら誰でも、大勢の部下の生き死にを左右する事になるんだから。
16日説もあるが?
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