「大井さん、海軍はなんという馬鹿なことをするんですか。
ハワイ攻撃を大戦果だなどと、有頂天になって放送しているが、
もってのほかだ。それは仁王様が居眠りをしている足の指に、
ガンと五寸釘を打ち込んだだけのことだ。
奴さん、一次は痛い痛いと悲鳴もあげようが、
かえってそのイキリタチが恐ろしいですよ。
いまに、あの大きな国力を全幅動員してやってきますよ。
それなのに、日本海軍はあの平出放送とかいうやつで、
何といういい気なことをほざいているんです。
あれでは日本国民を油断させるだけです。
総動員の意気込みが上滑りするだけです…」
(後藤隆之助)
「ああこの一瞬、戦わんかな時至る。永久に忘れえぬこの名句、
その長さは僅か30字の短文であるが、まさに敵性国家群の心臓部に
ドカンと叩きつけた切り札である」
(開戦の発表を受けて某新聞が掲げた記事)
「われわれはこの日、この時をいかに待ったことか。
日本人としてあのラジオ放送を聴いて泣かぬものはなかったろう。
あの瞬間、わたくしは、これで日本は救はれたと直感した」
「いよいよ、本物の敵が出てきた。これで長い間の戦争の
敵の正体がはっきりした。」
「『大本営陸海軍部発表。帝國陸海軍は本八日未明西太平洋…』
締め切った雨戸の隙間から、真っ暗な私の部屋に、
光の差し込むように強く鮮やかに聞こえた。
それをじっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。
強い光線を受けて、体が透明になっていく感じ…」
(太宰治)
「私は急激な感動の中で、妙に静かで、ああこれでいい、これでだいじょうぶだ、
もうきまったのだ、と安堵の念の湧くのを覚えた」
(伊東整)
「工場で働いていると、日本でどれだけ飛行機が生産できるか、それが大体わかるんです。
だから、日本がアメリカと戦争しても最後はとても勝てるわけはニじゃないかと
誰もが思っていました。そんなことは口ではいえませんでしたが…
この日は工場の幹部たちが、”陸軍のほうから連絡もあり、これからもいっそう
努力しないとだめだ”という意味の挨拶をしましたよ。
幹部たちの表情は暗く、若い労働量の豊富な工員は戦争に行ってましたから
中年の工員のほうが多かったです。これからの生産量を手薄な労働力で補っていく事を思い、
そして暗然としました。それでも戦果を華々しく告げるラジオ放送を聴いて、
もしかしたら日本が勝つかもしれないと思うように勤めました。」
(中島飛行機の工場の元技術者)
「旧制高校、大学の学生らが惹かれていったのは、
<おごれる米英、大国アメリカ・イギリスにパンチを加えた痛快さ>
にある。中国との戦いに持っていた後ろめたさは、アメリカ・イギリスを
相手にすることで、瞬く間に消えていく。
<緊張感は開放感に、恐怖感は優越感に、喜びに、誇りに転化した>」
(色川大吉)
開戦… 日本side
大政翼賛会の中央協力会議は3時間送れて午後1時から開かれた。
全国から千人あまりの指導者がここに集まっていた。
東條や他の閣僚が得意げに入ってきた。すでに臨時ニュースで開戦を知っている出席者たちは、
彼らの姿を見るだけで歓声を上げた。いまや政治・軍事の指導者たちは、
救国の英雄となり、彼らにおためごかしの美辞麗句を並べるものも増えた。
この会議で情報局次長の奥村紀和男は、自らの感情におぼれ、東條を褒めちぎることのみに
終始した。しばしば机をドンと叩き、「敗戦主義者よ、帝国の強さがわかったか」と何度も怒鳴った。
それが彼の演技であることは誰もが知っていた。しかし誰もがその演技に酔った。
午後2時過ぎ、中央協力会議に出席していた1000人あまりの人々は4列縦隊になって、
宮城前へ進んだ。宮城前はすでに人波で埋まっていた。
アメリカside
ルーズベルト大統領は奇襲攻撃と共に議会を召集し、ここで参戦決議案を可決させた。
彼は議会で東條のような空虚な言葉を吐きはしなかった。彼は単純に、
「ハワイ、マレー、香港、グアム、フィリピンに日本軍が奇襲攻撃をした」
という事実だけを淡々と伝えた。政治指導者としてはこの方が遥かに効果的であった。
全会一致を避けるべく、1人の反対者のみを除き全員賛成で参戦決議は採択された。
午後7時首相官邸
政府と陸海軍の指導者たちが情報交換の後、テーブルを囲んでいた。
食卓の上には中華料理が出されていた。
「予想以上の大戦果だね、ルーズベルトもこれで失脚だな」と東條は言った。
東條を中心に、会食は進み、軍人出身の政治指導者たちは、傲慢さをそのまま表しながら談笑していた。
開戦の秘密がうまく守られたこと、天皇にあってしばしば奏上した事も東條は披露した。
天皇から「米英との宣戦の見通しはどうか」と聞かれた折に、
「あるいはものだけで劣ってはおりましても、ものと訓練との総合力では、
断然わが国が勝っております。」
と、答えたとも言った。
「あの日は、銀座も大変な騒ぎでしたよ。銀座通りにも、宮城前にも大勢の人が出てね
堤燈行列やら旗行列がつづいて、あたかも戦争に勝ったかのようでした。
私の店は、夜の11時ごろには閉めてしまうんですが、この夜は興奮したお客様が
夜遅くまでつめかけてきて、なかなか店が閉められませんでしたよ。
私の店には、文士さんが多かったんですが、この日は、堀口大学、西条八十、
佐伯孝夫、大佛次郎、広津和郎、江戸川乱歩、今日出海、伊東整、
それから野球の小西得朗といった人たちが来ていました。
私が覚えているのは、この人たちは一様に憂鬱な表情をしてお酒を飲んでいたことです。
そのほかのお客さんは、浮かれて飲んでいましたが。」
「アメリカ帰りの人たちは、なんともやりきれないという表情をしていました。
大騒ぎをする人と、憂鬱な表情で飲んでいる人と、まったく対照的な雰囲気でした」
(銀座のバー「あらし」)
戦中に流れた噂の一部…
「東條首相に頭をなでられた子は秀才になる」
「朝早く、東條首相の顔を見るとその日一日いいことがある」
「東條首相を拝むと弾丸に当たらない」
「北方から来襲した元寇を破ったのは北条時宗、
東方から脅威を与える米英を破るのは東條英機である」
戦後のとある授業風景…
「東條君のおじいさんは泥棒よりも悪いことをした人です」
小学校1年生の教室で女教師がヒステリックに叫ぶ。
「戦犯の孫の担任にはならん!!」
そう叫ぶ先生もいる。
当時、小学校1年生だった英勝氏は家に帰って両親に尋ねる。
「僕のおじいちゃんて、そんなに悪いことをした人なの?」
上級生がクラスに入ってきて袋叩きにする。それを先生は止めない。
教師は憎悪をこめて東條と言い、同級生は「東條絞首刑」とはやしながらそのまねをした。
授業時間にある教師は「東條君のおじいさんは今度絞首刑になったのよ」といって
その場面を再現しようとしたりする。
「東條は戦争中酒色に溺れていた」
「三菱から大金を受け取り大邸宅を建てた」
「東條の息子の嫁は芸者であった」
などといったデマも流れた。いかに戦後の日本人の精神が荒れていたかがわかる。
(回想録)