1 :
こう蔵:
日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦
片岡 覚太郎 (著), C.W. ニコル (編集)
ソナーも爆雷もなっかった。
2 :
名無し三等兵:04/06/03 18:18 ID:47SG896h
阻止
3げっとーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3げっとーーーーーーーーーーーーーーーーーー
5 :
素人区民:04/06/03 19:57 ID:???
今日は鯖の調子が悪いですね。
何でまた、立て逃げ放置スレがまだ生きてるんだろうか。
まあ、荒らしても文句が出ないスレだって思えばいいのね。
というわけで、荒らしちゃえ。
大正4年頃から、ドイツはイギリスの商船を攻撃目標とするようになりましたが
大正6年2月1日に無制限潜水艦戦を宣言して、
連合国側の輸送船団を片っ端から攻撃するようになるわけですね。
日本はイギリスの要求に応じて、2月7日には2個特務艦隊を編成しますが
4月には3個目の特務艦隊を編成して、年末まで乗り切る算段だったようです。
本スレで
>>1が話題にしたがった第2特務艦隊は地中海護衛なのはご存知のとおり。
一方で、第1特務艦隊はシンガポールを拠点にインド洋・蘭印を護衛
第3特務艦隊はアンザック護衛が主目的でした。
第1・第3特務艦隊と第2特務艦隊とでは、編制がまったく異なります。
第1特務艦隊の初期編制は
矢矧・須磨・対馬・新高・神風・初霜・如月・響
と巡洋艦主体の編制です。
同様に第3特務艦隊は
平戸・筑摩
と実際は1個巡洋艦戦隊で構成されています。
しかし本題の第2特務艦隊の編制は
明石・桂・楓・梅・楠・榊・柏・松・杉
という水雷戦隊編制です。
のちに明石に代わって出雲が旗艦となり、日進も増援されますが
実質上、現場で行動する戦力の増援は
樫・柳・檜・桃
と、やはり駆逐艦主体の編制です。
このような遠洋航海を伴う任務には、駆逐艦より巡洋艦が合います。
しかし、大正6年現在の巡洋艦19隻の配置を見てみると…
2個水戦を維持するために、旗艦が2隻必要です(日進・阿蘇)
日本そのものは平時なので、練習艦隊を解散する理由はありません(浅間・磐手)
吾妻と常磐は予備艦に落ちています。
どうしても、13隻で3個特務艦隊を組まねばなりません。
となると、駆逐艦が無理をして出なければならないわけです。
しかし、遠航向きの1等駆逐艦は
海風・山風・磯風・浜風・天津風・時津風
しかありません。実質上、機動力は2個駆逐隊に及びません。
これは否応なく、2等駆逐艦の出番となります。
それに、1等駆逐艦は日本防衛のために温存したいところです。
第1特務艦隊に、洋上では頼りになりそうもない3等駆逐艦の1個駆逐隊を入れたのは
1等駆逐艦を意地でも出したくない日本の台所事情があります。
3個特務艦隊を捻出するために、日本はかなり無理をしています。
大正5年12月のGF編制は、6個戦隊・4個水戦(4水戦は潜水艦戦隊)と大規模です。
第1戦隊は扶桑・薩摩・安芸、第3戦隊は榛名・金剛・霧島という豪華な顔ぶれです。
ところが6年12月の編制は
5個戦隊・3個水雷戦隊と1個ずつ減っています。
特に衰退が著しいのがGFの要:第1艦隊です。
第1戦隊 山城・扶桑
第2戦隊 河内・摂津
この4隻だけです。
戦艦を守るために控えているはずの1水戦など、影も形もありません。
まあ、かなりの船を予備艦に落として、3個特務艦隊の要因に振り分けたということです。
幸いにして、日本は大正4年に戦時急造艦として樺型10隻を建造しており
太平洋での戦況も確定したことで、新たに桃型の建造も順調に進んでいました。
樺型10隻のうち、桜・橘と駆逐隊を組む樺・桐は留守番ということにして
第10駆逐隊と第11駆逐隊を、ごっそり地中海に派遣することにします。
規模的にはちょうど1個水戦に当たるわけで
GF1水戦がまるごと行ってしまったと考えれば、悲惨な第1艦隊の状況も納得いきます。
しかし水雷屋の立場から言えば、第10・11駆逐隊の面々には可愛そうなことではあります。
最新の駆逐艦で構成される駆逐隊は、第2艦隊の2水戦でデビューします。
世代交代の時期になると、一つ格下の1水戦にシフトします。
第10・11駆逐隊は最も活きがいい時期を第2特務艦隊に捧げたので
最強のエリート水雷集団・2水戦を経験しないまま終わってしまいました。
大正6年2月7日に編制し、地中海に派遣されるわけですが
当時の日本が保有していた最新の潜水艦は、ヴィッカースC型でした。
ヴィッカースC型の最終ロットが日本で建造されていた頃、
本場イギリスではヴィッカースE型が主力でした。
つまり2世代遅いわけです。
しかし大正6年当時のイギリスの潜水艦は、ヴィッカースL型まで進化しています。
C型までしか知らない水兵が、L型に対応できるものではありません。
まして相手はイギリスの潜水艦より優れているドイツの潜水艦なのですから
翻弄されるのは無理もないことでした。
無論、日本も潜水艦技術の大きな壁は気づいているわけで、
防御兵器として爆雷が存在することは既に知っていました。
しかし、「擲爆水雷」の研究に入ったのは、まさに大正6年なわけで
第2特務艦隊にとっては、泥縄の研究でしかありませんでした。
イギリスの爆雷を改良して採用した「88式」の完成は昭和に入ってからになります。
結果的に着任したばかりの第2特務艦隊ができたことは
潜水艦を撃退するという2番目に大事な任務は不可能でした。
最も大事な任務である、輸送船を無事に港へ届けるという目的は、最初の出撃から果たせていません。
しかし、第2特務艦隊は取り乱すことはありませんでした。
沈み行く輸送船から脱出したクルーをできるだけ多く救出することはできました。
人命救助を優先事項にする場合、
爆雷を持っていないというのは、漂流者を殺傷しないという一点に限れば、逆に強みですね。
6年6月11日に、イギリスはトロール船トーキョーとマイニングスビーを貸すわけですが
それを第2特務艦隊では、東京・西京として編入します。
9月にミンストレル(栴檀)、10月にネメシス(橄欖)を編入しますが
こちらは同じ駆逐艦だけに、武装の統一化がなされれば運用しやすいものです。
いきなり未知の艦艇たる特設駆潜艇(みたいなもの)を借りて運用できるのか、と思えば
東京と西京を使いこなした第2特務艦隊のクルーもさすがです。
最初の水中聴音機・探信儀は昭和8年に採用されています。
となると、潜水艦を発見する手段は、見張り、これに尽きます。
潜望鏡を上げる一瞬を見逃さないこと、点々とにじみ出る油膜を見逃さないこと。
水平線上を線として目を凝らす水上艦相手の見張り法と大きく違い
海面全体を面としてくまなく探さねばならないわけで、緊張度、疲労度は段違いでしょう。
第2特務艦隊の殉職者は、病没が最も多いのですが
戦死者も少なからず出ています。
東京・西京をリースしたまさにその日、榊が艦首切断の大破をしています。
オーストリアのU27ですね、撃ったのは。
榊は艦長をはじめ59名の戦死者を出しています。
榊は第11駆逐隊司令が乗り込む船でもありました。
特に駆逐隊司令艦だからといって、特別な装備はいりませんが
榊が脱落したことによって、司令艦は杉に移され、二度と榊に戻りませんでした。
当時の駆逐隊司令、横地錠二は無事だったのですが
12月に第15駆逐隊を増派・旗艦を出雲に交代する際に
第11駆逐隊司令は青木菫平に交代させられています。
横地司令は生粋の船乗りで、以後も数々の軍艦艦長を務めており
この「更迭」は悔しいものだったと推測します。
横地司令の最終階級は少将で、同期の出世頭は末次信正・中村良三という
艦隊派の巣窟みたいなクラスです。
ボーダーラインは超えたみたいなので、今日は撤退します。
このスレが無事なら、また上陸するかも(w
32 :
名無し三等兵:04/06/11 01:23 ID:rSOAo349
乙でした〜。
決定的にまずい部分をお詫びして訂正します。
>>28 >第2特務艦隊の殉職者は、病没が最も多いのですが
大ボケでした。
マルタ島の英海軍墓地に建っている墓碑では66名が慰霊されており
榊の59名が最も多いわけで、事実と正反対の記述を訂正します。
>>30 > 第11駆逐隊司令は青木菫平に交代させられています。
メモの段階で写し間違えたようです。
青木董平が正確でした。こちらも訂正します。
すげー
鷂 ◆Kr61cmWkkQ様、乙です。
興味深く読ませていただきました。もし続編を書かれるのでしたらとても楽しみです。
がんばってくださいませ。
>>36 ハ・・・ハイ、ガンガリマス(;´д`)
第2特務艦隊の出動回数348回
護衛した船舶、延べ788隻
対潜戦闘36回
10回につき1回は会敵する壮絶な戦闘だったといえます。
敵勢力は、オーストリアのプーラとコトル、トルコのコンスタンチノープルに分散し
48隻前後の潜水艦を保有しているものと想定されていました。
地中海東部は離島が多く、潜水艦作戦には好都合な地形でした。
一方、敵側の港に直接攻撃をすることは困難であり、潜水艦部隊を根絶することは無理でした。
日本は6年12月の連合艦隊編制変更に合わせて、3個特務艦隊の編制を変更しました。
もっとも安全なアンザック派遣部隊をシドニーから撤収させ、第3特務艦隊を欠隊にしました。
一方で、第1・第2特務艦隊の増強を図ります。
第1特務艦隊では、八雲・春日・淀を増派し、新高を撤退させています。
また第3特務艦隊の筑摩を合流させ、平戸を撤退させました。
駆逐隊は第6駆逐隊(春風・初雪・時雨・初春)に全面交代しました。
第2特務艦隊の交代は、任務上無理でした。
旗艦明石を出雲に交代した他は、第15駆逐隊(樫・柳・檜・桃)を増強しています。
桜型を戦時急造用に簡略化した樺型と違い、
桃型は磯風型と共通した部分が多く、まったく別の系統に属する駆逐艦です。
2等駆逐艦として初めてタービン機関を採用し、
桜型・樺型以上の凌波性を得るために、高い艦首楼・フレアとタートルバックを採用しています。
しかし、桃型が増派された冬、地中海は猛烈な季節風の季節に入っています。
複雑な地中海の地形とあいまって、地中海は高波に覆われました。
敵潜の潜望鏡は波間に隠れ、白い波頭が潜望鏡の波を消し去ります。
対潜見張りはいっそう困難になっていました。
さらには、波に翻弄され、最新のはずの桃型には、船体のゆがみが頻発しました。
日本艦艇は、海軍休日期の友鶴事件・第4艦隊事件・朝潮タービン欠損事故で膿を出し切りますが
この第1次大戦期にも、大きな教訓を与える事故が起きています。
桃型の場合は、艦首楼がゆがんで主砲が旋回しにくくなるなどの諸問題で済みました。
しかし内地に残してきた浜風が、高波をかぶって艦橋圧壊事故を起こしています。
桃型4隻がごっそり地中海に持ち去られたため、内地防衛に楢型6隻を急造しますが
桃型と同じ図面を用いたにもかかわらず、楢型の船体強度は大きく高められています。
船は新しいにこしたことはありませんが、人はそうはいきません。
クルーはほとんど入れ替わることはありませんでした。
地中海に慣れた即戦力がそのまま温存されたのは、任務遂行上は大きなメリットです。
しかしクルーにとっては、地獄の任務から逃れられない苦しみがありました。
兵・下士官が帰れないわけで、士官はどうかというと
佐藤皐蔵長官、松下芳蔵第10駆逐隊長ら幕僚のほとんどが残留ました。
>>30で述べたように、横地第11駆逐隊長は内地に帰されますが、
後任の青木駆逐隊長は、第2特務艦隊付の幕僚の一員だったので
現場を熟知しており、兵・下士官にも受け入れられやすかったのではないかと思います。
ちなみに、7年度に駆逐隊番号が総入れ替えになっています。
横須賀鎮守府所管駆逐隊は、第1〜第10
呉鎮守府所管駆逐隊は、第11〜第20
佐世保鎮守府所管駆逐隊は、第21〜第30
舞鶴鎮守府所管駆逐隊は、第31〜第40
という具合です。
第2特務艦隊の3個駆逐隊も、第10→第22、第11→第23、第15→第24に番号変更しています。
駆逐隊番号からもわかるように、第2特務艦隊の駆逐隊は
すべて佐世保鎮守府所管の駆逐艦です。
つまり、乗っている兵・下士官・特務士官は、九州・四国出身者で占められています。
ついでに言うと、
旗艦の明石は呉所管、次の旗艦出雲も佐世保所管、増派された日進は舞鶴所管です。
50目前ですが、ネタが切れたので今日はここまでにします。
駄文失礼。
乙でした・・・敵勢力については潜水艦がメインのようでしたが、
当時のその他の脅威として水上艦や航空機の進出はあったんですかね?
>>50 自分は日本海軍が専門なので、この質問にはかなりあっぷあっぷで答えるのですが
航空機の脅威は可能性としては存在しても、確率的にはかなり低いのではないでしょうか。
あちこちのサイトをざっと眺めてみましたが、
ドイツ軍航空隊の爆撃目標は都市部に集中しているようです。
また数でも、イギリスとフランスの方がドイツを凌駕しており、制空権は連合軍が掌握しているようです。
地中海に回す余力はなさそうに思えます。
すいません、トーン低くて。
固定目標に爆弾を命中させることも、当時の航空機の能力では困難でした。
正確な命中を期すため、急降下爆撃の研究も行われていたようですが、
機体強度が決定的に足りないため、実現に至っていません。
固定目標でもその状態だったので、艦艇という移動目標相手はお手上げでした。
ちょっと横道にそれますが、第2次大戦のヨーロッパの対艦航空攻撃は
ドイツはスツーカを筆頭に急降下爆撃一本槍。
イギリスはソードフィッシュの雷撃一本槍。
に特化しているのが特徴的ですね。
99艦爆/97艦攻、ドーントレス/アベンジャーのコンボに慣れていると、奇異に感じます。
一方、水上艦艇の方ですが
ドイツは開戦前に地中海艦隊を回航済みでした。
艦隊と名乗るものの、実際は巡洋戦艦ゲーベンと巡洋艦ブレスラウのみですが…。
さて、このドイツ地中海艦隊が地中海で通商破壊をすることは…ありませんでした。
理由は有名ですよね。
敵国最大の勢力を保有するオーストリア海軍…はお馴染みのFAQからのコピペで。
【第一次世界大戦勃発前夜のオーストリア・ハンガリー海軍】
第1戦闘艦隊〔マクシミリアン・ニェェゴバン提督〕
ド級戦艦(艦隊旗艦)フィリブス・ウニーティス〔アントン・ハウス提督(艦隊総司令官)〕、テゲトフ、プリンツ・オイゲン(第1戦艦隊)
準ド級戦艦エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント、ラデツキー、ズリーニ(第2戦艦隊)
第2戦闘艦隊〔フランツ・ローフラー提督〕
前ド級戦艦エルツヘルツォーク・カール、エルツヘルツオーク・フリードリヒ、エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス(第3戦艦隊)
ハプスブルク、アルパード、バーベンベルク(第4戦艦隊)
巡洋艦隊〔ポール・フィードラー提督〕
装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ、カイザー・カール6世、マリア・テレジア、軽巡洋艦ツェンタ、アスペルン、シゲトヴァール
第1水雷艦隊
軽巡洋艦サイダ、駆逐艦12隻、水雷艇10隻
第2水雷艦隊
軽巡洋艦アドミラル・スパウン、駆逐艦6隻、水雷艇18隻
沿岸守備艦隊
海防戦艦モナーク、ウイーン、ブダペスト(第5戦艦隊)
防護巡洋艦カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世、
水雷巡洋艦パンター
(つづく)
各軍港に配備
□トリエステ
水雷艇4隻
□ポーラ(現クロアチア領プーラ)
装甲艦マルス(旧テゲトフ)、駆逐艦3隻、水雷艇15隻、潜水艦6隻
□セベニコ(現クロアチア領シベニク)
水雷艇10隻
□カッタロ(現セルビア・モンテネグロ領コトル)
砲塔装甲艦クロンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ、水雷艇6隻その他
□フューメ(現クロアチア領リエカ)にて、
ド級戦艦セント・イシュトヴァーン、軽巡洋艦ヘルゴラント、ノヴァラ〔⇔ホルティ・ミクローシュ提督)が建造中
□中華民国・青島にて
防護巡洋艦カイゼリン・エリザベートが寄港中
□ポーラ(現クロアチア領プーラ)
装甲艦マルス(旧テゲトフ)、駆逐艦3隻、水雷艇15隻、
潜水艦U1,U2,U3,U4,U5〔艦長ゲオルグ・フォン・トラップ〕,U6 +U12(まもなく竣工)
From "The Naval Policy of Austria-Hungary 1867-1918"
以上コピペ終わり。
それにしては、オーストリア海軍の行動は緩慢でした。
オーストリア海軍のハウス提督は、主力艦を温存しつつ、小艦艇で奇襲する戦法を多用しています。
また、軍港プーラとコトルはアドリア海の奥地にあり、
アドリア海を抜けるオトラント海峡には、イタリアが構築したオトラント堰がありました。
これを突破すると、すぐそこにイタリア最大の軍港タラントがあります。
オトラント海峡を抜けると、イタリアが必ず潰しに来ると分かっているので
ハウス提督は主力を動かすことはなったでしょう。
地中海での無制限潜水艦戦を具現化するために、
オーストリア軍は最大の障壁となるオトラント堰の破壊を何度も試みています。
イタリアが宣戦布告したのち、大正4年2月から休戦する7年11月までの間に
25回にわたってオトラント堰への攻撃を仕掛けました。
大正6年5月、ホルティ提督指揮下のオーストリア艦隊は連合国軍を撃破しました。
これによってオトラント堰が破られたわけではないものの、
イタリアは夜間パトロールを取りやめたため、メンテナンスが行き届かなくなっていました。
そして秋の時化でオトラント堰は自然崩壊し、大正6年下半期から大正7年にかけて
潜水艦は自由にアドリア海を抜けて地中海に侵攻できるようになっていました。
ということで、オーストリア水上艦は、アドリア海を完全掌握しつつ、
地中海に進出する気はさらさらなく、ゲリラ攻撃すればよしと認識していたようです。
もう一つ、ドイツ側勢力の地中海沿岸国があります。
トルコですね。
トルコ海軍は軍艦2隻という惨憺たる海軍でした。これではロシア黒海艦隊も相手できません。
そこに現れたのがゲーベンです。
ゲーベン自身、オーストリア軍と合流すべしという海軍の命令を無視してトルコに入ったものです。
ゲーベンがヤウズ=スルタン=セリムと改名して黒海艦隊と戦い、
第2次大戦後まで共和国の象徴となったのは有名です。
確かにトルコは敵に回りましたが、相手はあくまでもロシアだったので
地中海に出てくることは考えられなかったと思われます。
回答になっているか自信はありませんが、今日はここまでにしておきます。
もっと敵国のことも勉強しておきますね。
乙でした〜。
要約すると、地中海で行動している限り、中小艦艇以外の出番は(帝国海軍では)無かった
というわけですね。
>>62 う〜む・・・
ゆうべ寝ながら考えたのですが、
可能性はゼロではなく低いという認識ではないかと考え直しました。
明石を退いて出雲に代え、さらに日進を加えるからには、何か理由があると思います。
また駆逐艦も、桜・橘・樺・桐を出せばいいものを
最新の桃・樫・檜・柳を出しているのも考えがあってのことではないかと。
地中海の荒波に耐えうる駆逐艦ということで出したのか
万が一にも水上艦戦となった場合、樺型の5割増の魚雷発射管が活かせるということなのか
微妙な問題ではあります。
無論、オーストリアの主敵はイタリアであり、アドリア海を掌握すればいいわけです。
一方、ドイツ産の石炭輸入が滞り、燃料不足が深刻だったという状況でした。
そういった事情から、オーストリア艦隊がアドリア海を出ることはあまりなかったのですが
日本がどれだけオーストリア海軍の状況を把握していたかによって、戦備は変わってくるでしょう。
楽しく読ませて頂いています。
>>40にて第3を解隊して第1、第2を増強した旨読ませていただきましたが、
第1の方が受け取っている戦力が大きいです。
あやふやな記憶で申し訳ありませんが、編成された当初も1の方に
大きなフネが行っていたと思います。
この第1は何ゆえこのような大きな戦力を有していたのでしょうか?
単に担当する地域が広かっただけでしょうか?
>>66 レスどうもです。
やはり担当海域の違いは反映されていますね。
第2特務艦隊の実質的な行動範囲がマルタ島以西−スエズ運河以東であるのに対し、
第1特務艦隊の行動範囲はシンガポールとケープタウンを中心としながらも
シンガポール−ケープタウン間のインド洋横断もありえたわけですから。
インド洋でのドイツの通商破壊は潜水艦ではなく仮装巡洋艦が主でしょう。
ベルリン会議でアフリカの領有権が分配された際、
ドイツが支配下に置けたのは、
南西アフリカ(現ナミビア)・東アフリカ(現タンザニア・ルワンダ・ブルンジ)です。
しかしナミビア北端のウォルヒズベイ、タンザニア沖のザンジバル島はイギリス領です。
この遠隔地に潜水艦を投入し、運用することは容易ではなさそうです。
となると、仮装巡洋艦を目標とし、対艦攻撃に優れた巡洋艦を投入するのが好都合でしょう。
さて、編制当初は第1特務艦隊は防護巡のみの編制でした。
しかし、浅間・常磐・阿蘇を除く装甲巡は、入れ替わり立ち代り参入しています。
装甲巡の参加状況の詳細ですが
出雲:6年3月28日−6月10日(そのまま第2特務艦隊へ)
日進:6年4月3日−8月16日 7年5月15日−11月16日(そのまま第2特務艦隊へ)
春日:6年4月3日−7年8月3日
八雲:6年10月20日−7年10月13日
吾妻:7年1月24日−6月6日
磐手:7年9月5日−8年8月9日(艦隊編制廃止)
となっています。
第2特務艦隊の編制変更が3回に留まったのに対し
第1特務艦隊の編制変更は38回にも達します。
矢矧の編制当初から8年2月2日までが最長で、次に対馬の編制当初−7年10月29日が続きます。
また余談になりますが、
この長期遠征がたたって、防護巡最速のアスリートである矢矧は
最もふさわしい任務であるはずの2水戦旗艦を経験できませんでした。
帰ってきた時は、天龍と龍田が水戦旗艦のツートップを言い渡されていたのです。
第1特務艦隊は規模のわりに危険性はかなり低く広大な区域を担当しています。
第2特務艦隊がブーツ=オン=ザ=グラウンドなら、第1特務艦隊はショウ=ザ=フラッグですか(w
イギリスとは友好的で連携をとって行動せねばならないということで、
初代長官に小栗孝三郎、2代長官に竹下勇と、日露戦争直前に英国勤務をした経験者を選んでいます。
ちなみにこの2人、海兵15期で、他にも財部彪・岡田啓介が同期と、海外通の4大将がそろっています。
もちろん第2特務艦隊長官佐藤皐蔵、第3特務艦隊長官山路一善も同じ時期に英国勤務をしています。
ちょっと気になるのが
小栗・竹下長官が海兵15期、
山路長官が海兵17期(同期に某漫画でおなじみの秋山真之)なのに対して
佐藤長官が海兵18期(トップは安保清種と加藤寛治)と若いことですかね…。
次回はちょっと人事の面に注目して書いてみましょうか。
75 :
66:04/06/19 09:07 ID:???
遅くなりました
独東洋艦隊も全滅しているのに何故かなぁ、と思っていたら
仮想巡を叩くためだったのですね。しかも、外交要素もあるので装甲巡と。
ありがとうございました。
図書館が上半期図書整理休館に入って、資料入手もままならぬ日々です。
今日は大正6年1月の人事をざっと眺めてみようと思います。
つまり、第1・第2特務艦隊編制直前の人事です。
まずはご意見番的な軍事参議官と将官会議議員
軍事参議官
伊集院五郎大将(5) 出羽重遠大将(5) 藤井較一大将(7)
将官会議議員
東伏見宮依仁中将 伏見宮博恭中将 伊地知季珍中将(7) 有馬良橘中将(12) 山屋他人中将(12) 栃内曽次郎中将(13)
関野謙吉中将(13) 鈴木貫太郎少将(14) 森義臣少将(14) 小栗孝三郎少将(15) 財部彪少将(15) 井出謙治少将(16)
伊地知中将・財部少将・井出少将はこれ以外は無職です。
のちにロンドン会議全権として手腕を振るう財部少将ですが、
当時はまだシーメンス事件で排除した薩摩閥への風当たりは強く、禊は終わっていません。
財部少将が佐鎮長官となり、斉藤実大将が復職するまで、もうちょっとかかります。
次は海軍省
海軍大臣/加藤友三郎大将(7) 海軍次官/鈴木貫太郎少将(14)
教育本部長/有馬良橘中将(12) 第1部長/千坂智次郎少将(14) 第2部長/佐藤皐蔵少将(18)
技術本部長/栃内曽次郎中将(13) 第2部長/森越太郎少将(15)
水路部長/布目満造少将(15)
人事局長/岡田啓介少将(15) 軍務局長/小栗孝三郎少将(15) 艦政局長/中野直枝少将(15)
加藤大将・鈴木少将コンビというのが、いかにもというところです。
ここから小栗少将・佐藤少将が抜擢されるわけですが
それを決定したのが、人事局長におさまる岡田少将ということです。
次は軍令部
軍令部長/島村速雄大将(7) 軍令部次長/山屋他人中将(12)
軍令部出仕/伏見宮博恭中将
第1班長/安保清種少将(18) 第2班長/吉田清風少将(18) 第3班長/森山慶三郎少将(17)
島村大将・山屋中将コンビに何故かホッとさせられますが…。
伏見宮中将がここで出てきます。出仕ということで、実際は名誉職ですね。
次は外戦部隊
第1艦隊長官/吉松茂太郎大将(7) 参謀長/堀内三郎少将(17)
第2戦隊長官/竹下勇少将(15) 第1水雷戦隊長官/田所広海少将(17)
第2艦隊長官/八代六郎中将(8) 参謀長/下村延太郎少将(18)
第4戦隊長官/山路一善少将(17) 第2水雷戦隊長官/秋山真之少将(17)
第3艦隊長官/村上格一中将(11) 参謀長/平賀徳太郎少将(18)
第3水雷戦隊長官/荒川仲吾少将(15) 第4水雷戦隊長官/松岡修蔵少将(14)
練習艦隊長官/岩村俊武少将(14)
臨時南洋群島防備隊司令官/吉田増次郎少将(17)
GF常時編制は昭和8年からなので、長官3人は同格です。
とりあえず、加藤海相・島村部長・吉松長官と、海兵7期3大将が3長官を独占しています。
ここから竹下少将・山路少将が抜擢されます。
ここでも山路少将と秋山少将の揃い踏み…秋山少将の早世が惜しまれます。
> GF常時編制は昭和8年からなので、長官3人は同格です。
> とりあえず、加藤海相・島村部長・吉松長官と、海兵7期3大将が3長官を独占しています。
書き込んで気づく変な日本語…
海軍大臣・軍令部長・第1艦隊長官は「海軍3長官」と言いたかったのです…ゴメソ
乙です〜。
「海軍三長官」というより「三顕職」の方が誤解が無くて良いのかも。
次は内戦部隊
横須賀鎮守府長官/東伏見宮依仁中将 参謀長/永田泰次郎少将
工廠長/田中盛秀中将(13) 造兵部長/平岡貞一少将(16)
呉鎮守府長官/加藤定吉中将(10) 参謀長/山中柴吉少将(15)
工廠長/伊藤乙次郎中将(13) 機関長/大橋省少将(18) 砲熕部長/浅野正恭少将(15)
佐世保鎮守府長官/山下源太郎中将(10) 参謀長/斎藤半六少将(17)
工廠長/山口九十郎少将(13) 造兵部長/岡野富士松少将(15)
舞鶴鎮守府長官/名和又八郎中将(10) 工廠長/木村剛少将(15)
大湊要港部長官/土屋光金中将(12)
旅順要港部長官/黒井悌次郎中将(13)
鎮海要港部長官/東郷吉太郎中将(13)
馬公要港部長官/松村龍雄中将(14)
東伏見宮中将は鈴木少将と同い年なので、宮様長官らしく早めの出世なのですが…
伏見宮よりは遅いような…。
>>82 同意。訂正さんくすこ
最後に学校長
海軍兵学校長/野間口兼雄中将(13) 海軍大学校長/佐藤鉄太郎中将(14)
水雷学校長/川原袈裟太郎少将(17) 砲術学校長/加藤寛治少将(18)
鬼の猛訓練で美保関事故・常磐機雷誤爆事故を招く加藤少将がここに出てきます。
嫌われ者の瞬間湯沸かし器とはいえ、砲術の第一人者であることは疑いないですね。
と、これではなぜ佐藤少将が抜擢されたのかは分かりづらいですね。
次回は、40人ほどの少将から第2特務艦隊長官に選ばれた
佐藤皐蔵の人となりをちょっと探ってみます。おやすみなさい。
>>76-84 改めて見てみると物凄い顔ぶれですね… 金剛か何かで本格参戦して戦訓を得なかったのが真底惜しまれます。
>>86 ええ。
後世の我々からすれば、
金剛型4隻が参加するジュットラント海戦とか、陸軍ヨーロッパ派兵とか妄想が止まりませんが
当時の日本国にはそれなりの事情があったのでしょうね…。
佐藤皐蔵について調べたくても、
ウェブ上には第2特務艦隊長官時代のことしか書かれていないみたいです。
佐藤皐蔵は明治4年5月15日生まれ、本籍は岩手県です。
兵学校18期。先に
>>74書いたように、加藤寛治・安保清種両大将の同期です。
佐藤長官のハンモックナンバーは6番。
安保大将の11番より遥かに上です。
佐藤長官より好成績で将官に上がれたのは、1番の加藤大将、2番の平賀徳太郎少将だけです。
海兵卒業と同時に、少尉候補生として軍艦乗組を命じられます。
24年7月の比叡を皮切りに、25年葛城、26年高千穂、同年末橋立と、
老朽艦の比叡、27年夏に竣工する橋立を除けば、
過半数の期間を常備艦隊編入艦で実地を経験していることになります。
27年3月1日、晴れて少尉に任ぜられ、天城分隊士として将校の第一歩を踏み出しました。
同時に少尉・分隊士となったのは、ハンモックナンバー11番の安保少尉までです。
加藤少尉は浪速、平賀少尉は武蔵、安保少尉は高雄、秋沢徳馬少尉は厳島ということで
二線級の天城に乗った佐藤少尉は少将見劣りがします。
明治27年4月20日、
佐藤少尉はもちろん、加藤少尉・安保少尉・秋沢少尉・平賀少尉ら分隊士は砲術練習所学生となります。
先に入所していた下村延太郎・松村純一・吉田清風ら同期と合流して研修を積みます。
砲術練習所は26年12月に開かれたばかりで、佐藤少尉はほぼ1期生になります。
2ヶ月あまりの研修の後、クラスメートとともに各地の分隊士に配置されます。
佐藤少尉は平賀少尉とともに呉海兵団に配属されました。
一度別れたクラスメートのうち、日清戦争を生き延びた面々は
28年12月から翌年3月まで、再び砲術練習所でともに訓練を積むことになります。
27年8月14日
佐藤少尉は西京丸航海士兼分隊長に任ぜられます。
この船がどう日清戦争を戦うかは、よく知られていますし、
某漫画で黄海海戦を描き始めているので省略します。
戦後、28年11月から1ヶ月弱、横須賀水雷隊攻撃部附となります。
佐藤少尉にとって、初めて触れる水雷部隊任務です。
しかし佐藤少尉は砲術練習所に再び戻され、鉄砲屋として歩み出します。
日露戦争に向け、大増強された水雷艇部隊を開戦まで指揮したのは
クラスメートの吉岡範策・吉田清風・原口房太郎・増田高頼・三村錦三郎・吉田孟子らでした。
29年4月から海上勤務に戻り、愛宕航海士・海門分隊長心得を経て
30年12月1日中尉昇進、27日には大尉昇進となり、正式に海門分隊長となります。
この異例の昇進は、海兵18期全員が経験しています。
ちなみに1つ上の17期(秋山真之・山路一善の期)は29年度中に少尉から二階級特進、
1つ下の19期(百武三郎・谷口尚真の期)は、30年12月1日中尉→31年5月30日大尉
と、第1期拡張計画(富士・八島購入)〜第2期拡張計画(敷島〜三笠購入)の進展により
不足する士官を増強する時期にちょうど差しかかっています。
佐藤大尉は明治31年4月から33年7月までを、鎮遠砲術長として過ごしています。
富士・八島に次ぐ巨艦の要であったと言えます。
33年8月、今度は初瀬の回航委員・分隊長に選ばれ、訪英します。
これが佐藤大尉とイギリスの最初の接点となります。
初瀬の建造は半年以上遅れ、艦政本部は残工事を日本で実施する覚悟でした。
艦政本部とアームストロング社との板挟みに遭いながらも、
回航委員たちは34年4月、初瀬を無事に横須賀に届けました。
この初瀬、日露戦争で機雷を踏み、日本初の喪失戦艦となるわけですが
幸いにも佐藤大尉は吾妻に配置転換されており、難を逃れました。
初瀬を届けた後、佐藤大尉は1年あまり初めての陸上勤務となる軍務局で働き
35年6月から36年4月まで常備艦隊参謀に抜擢されました。
角田秀松長官に短期間使えた後、日高壮之丞長官と多くの日数をともにしました。
佐藤大尉にとって、日高長官は砲術練習所の恩師にあたります。
既にクラスメートの吉岡と平賀が先に経験していた職ですが、
「日高教官」の部下として働けたのは佐藤大尉だけです。
36年4月から翌年2月まで、2度目の渡英を経験し、その間に少佐に昇進しました。
加藤・吉岡が富士、平賀が八島、安保が出雲、大橋が三笠、吉田清が磐手、吉田孟が白雲の回航委員として渡英しましたが
2度目の、しかも本格的駐在を18期で初めに任ぜられたのが佐藤大尉〜少佐だったのです。
ハンモックナンバーに従えば、加藤が真っ先に行くべきでしょう。
加藤は40年代に2回にわたって駐英しましたが、
伊吹艦長として第1次大戦で英国支那艦隊と協同作戦に臨んだ際、
巡洋艦マイノータ艦長との指揮関係に難癖をつけ、軍令部の面目を丸潰しにした経験があります…。
佐藤少佐は吾妻分隊長として日露戦争を迎えました。8月14日の蔚山沖海戦も吾妻艦上で経験します。
10月29日付けで常磐砲術長に回ります。日本海海戦の激闘を指揮しました。
黄海海戦の壮絶な撃ち合いを制し、「運命の一弾」を呼び込んだ加藤と
「故郷親父帰ろう」「押すとぴしゃ」の語呂合わせで有名な安保という、
気質は正反対ながら味のある両三笠砲術長が有名なので、鉄砲屋としては目立ちませんが、
佐藤砲術長も頑張ったのです…「特徴がない」のが特徴の常磐に乗り合わせただけです。
佐藤少佐の鉄砲屋人生は、日露戦争後に本格化します。
日本海海戦から20日余り。香取回航委員として3度目の訪英を言い渡されます。
そしてそのまま、鉄砲屋の憧れである戦艦砲術長の座に就きます。
39年9月に中佐に昇進し、久々の陸上勤務である呉鎮守府参謀長となります。
3ヵ月の任務を終え、砲術練習所教官に任じられます。
11年ぶりの練習所に、立場を変えて踏み出しました。
末期の42年6月には、陸軍重砲兵射撃校の教官も兼任しています。
もう、どこから見ても、佐藤中佐は筋金入りの鉄砲屋ですね。
42年10月から翌年11月まで、第1艦隊参謀を務めます。
今度の長官は、前半は伊集院五郎中将、後半は上村彦之丞中将と、佐藤中佐にはあまりなじみのない人です。
43年12月から1年間、安芸副長と呉工廠艤装員を兼任しました。
この頃、呉工廠では安芸の艤装、摂津の進水に追われていました。
佐藤中佐は刻々と完成に近づく安芸の艤装を見つめ続けていたことでしょう。
しかし、安芸の竣工から9ヶ月目、佐藤中佐に昇進辞令が届きます。
大佐が副長に就くわけにはいきません。佐藤「大佐」は自らが造り上げた安芸から去らねばなりませんでした。
明治44年12月・通報艦鈴谷→大正2年4月・巡洋艦利根→同5月・巡洋艦吾妻
佐藤大佐は艦長を歴任してきました。
出世頭の加藤は既に巡洋戦艦筑波艦長、2番手の平賀は巡洋艦浅間艦長となっています。
戦艦艦長の野望まで、もう少しで手が届くところに到達しました。
そんな佐藤大佐に、大正3年8月、辞令が届きます…2度目の呉工廠艤装員です。
佐藤大佐を呉工廠で待っていたのは…
世界最大、日本初の超弩級戦艦…扶桑です。
佐藤大佐は、初代扶桑艦長の座が約束されました。
加藤も平賀も安保も、超弩級戦艦艦長になっていません。加藤が超弩級巡洋戦艦比叡の艦長を務めただけです。
大正4年11月8日、戦艦扶桑が遂に竣工しました。もちろん艦長は佐藤大佐です。
しかし、在任わずか1ヶ月、佐藤大佐は教育本部第2部長の座が用意されました。
安芸と同様に、扶桑も、佐藤大佐は手放さざるを得ませんでした。
そして、5年12月に、加藤・安保・吉田清・平賀と同時に少将に昇進。
(大橋が4年に「機関」少将に上がってますが、これは別格)
しかし、平賀は待命の身となり、ナンバーツーの座から降ります。
佐藤少将が地中海に遠征している間、教育本部を取り仕切ったのは、待命が開けた平賀でした。
しかし佐藤の帰国を待つことなく、8年5月13日に逝去します。
かつて水雷に手を染めた吉田は、大正年間を航空の研究に費やしました。
航空技術研究委員を立ち上げ、山路一善や山本英輔らと航空草創期を築き、横須賀航空隊司令を勤めています。
吉田は11年に休職し、昭和25年に逝去しました。
18期の出世レースは、佐藤「中将」の引退によって、加藤の独走、安保の追走となります。
帰国した佐藤少将は、将官会議議員に任ぜられます。
8年9月には砲術学校長となり、在任中の9年12月に中将へ昇進します。
10年12月、クラスメートの吉岡にその座を譲り、大湊要港部司令官となります。
極東はロシア革命・シベリア出兵で騒然としています。
沿海州は舞鶴鎮守府の管轄海域ですが、千島・樺太を管轄する大湊も、楽な仕事ではありませんでした。
11年12月10日、遂に佐藤中将にも待命の時が来ました。
艦隊にのめり込んでいく加藤、国際舞台に乗り出す安保を横目に、佐藤中将の日々は平穏でした。
12年3月予備役、昭和8年5月後備役、13年5月退役…。
昭和23年3月23日、佐藤皐蔵氏逝去…76歳でした。
と、佐藤長官の生涯を書き終えたとこで綺麗に100げと。
嬉しいような悲しいような…。
一読して分かるように、佐藤長官の配置は、水戦にとっても佐藤長官にとっても不幸な組み合わせで
南雲さんと1航艦にも匹敵する不適材不適所なのですが、
人選の段階で、戦訓が継承される芽がなかったかのようにも見えてしまいます。
次回は、佐藤長官を取り巻く幕僚や艦長・駆逐隊長のその後を追ってみようと思います。
hosyu
再開しましょうかね…。
今回は、第2特務艦隊の幹部に着目してみます。
というのも、第1特務艦隊参謀に細萱戊子郎、第3特務艦隊参謀に豊田貞次郎・南雲忠一と
良くも悪くも太平洋戦争開戦前後に幹部を務めた幕僚が見られる中、
第2特務艦隊出身の幕僚が太平洋戦争に関与したようには見えないのです。
第2特務艦隊の戦訓が生かされなかったのは、幕僚の系統断絶もあるんではないかと思えます。
前述のとおり、佐藤長官は生粋の鉄砲屋なので、幕僚たちのその後を追ってみましょうか。
艦隊参謀(前半):岸井孝一中佐
永野修身元帥・左近次政三中将らと同じ28期のハンモックナンバー31番、最終階級は少将。
生粋の水雷屋で、水雷学校教官・水雷艇隊長・駆逐艦長・水雷戦隊参謀を歴任しています。
ところが第2特務艦隊任務を終えると、金剛艦長を除くと、「潜り屋」に徹します。
潜水学校長・第1潜水戦隊長官など、潜水艦部隊の指導者となるわけです。
技術本部→艦政本部を主な任地とし、海大型・巡潜型など新機軸の潜水艦を多く手がけました。
昭和3年待命・予備役、17年退役、35年逝去。
艦隊参謀(後半):安東昌喬中佐
岸井と同期でハンモックナンバー4番、海大9期トップで、最終階級は中将
岸井が典型的水雷屋なのに対し、安東は正統派の鉄砲屋コースです。
ところが第2特務艦隊任務を終えると、霧島艦長を除くと、後半生は航空畑に鞍替えします。
霞ヶ浦航空隊長官時に副官を山本五十六が勤めており、互いに研鑽する間柄でした。
欧州出張を終え、昭和3年から6年までの中将時代を、航空本部長として過ごしています。
昭和6年待命・予備役、31年4月7日、75歳で逝去。
岸井が潜水艦、安東が航空機と、28期参謀コンビは太平洋戦争時の主力兵器を育成したわけですが、
なぜか対潜哨戒には目が向かなかったようです。
艦隊参謀:坂野常善少佐
豊田副武大将・豊田貞次郎大将らと同じ33期のハンモックナンバー22番、最終階級は中将
水兵としては砲術専攻ですが、軍艦艦長を経験せず中将に上り詰めた軍政官。
砲術学校教官を勤めた経験もありますが、ほとんどを軍令部で過ごしています。
軍令部第3班長を経て第1遣外艦隊長官→11戦隊長官。
9年に軍事普及部委員長となり、中将に昇進、同年待命、予備役 46年9月21日、86歳で逝去。
ワシントン条約〜ロンドン条約の境目に軍令部にいたため、任務はさぞ困難だったでしょう。
艦隊参謀:岩村清一大尉
おそらく幕僚の中では最も知名度の高い人でしょう。
井上成美・小沢治三郎・草鹿任一・大川内伝七・小松輝久ら太平洋戦争時の前線司令官と同じ37期の8番です。
尉官時代は鉄砲屋とも水雷屋とも言いがたい経歴ですが、大尉末期に水雷学校に入学してから、水雷屋に変わります。
大正10年まで駆逐艦長を歴任した後、少佐時代は海軍省、中佐時代は軍令部で軍政官として働きます。
矢矧・阿武隈・扶桑艦長の合間に海軍省副官も勤めています。
日華事変中は中国大使館付武官・上海在勤武官を歴任し、軍政官の人生が続きます。
太平洋戦争開戦時は艦政本部長。第2南遣艦隊長官として蘭印に進駐もしました。
19年待命・予備役、45年2月9日、80歳で逝去。
坂野・岩村両参謀とも、現場を離れて軍政官として能力を発揮したので、
第2特務艦隊の戦訓を直接生かす立場にはなかったように思えます。
副官:山本清大尉
古賀峯一元帥・住山徳太郎中将らと同じ34期のハンモックナンバー143番、最終階級は中佐
艦隊参謀:藤沢宅雄大尉
豊田副武大将・豊田貞次郎大将らと同じ33期のハンモックナンバー48番、最終階級は大佐
艦隊参謀:福永恭助大尉
南雲忠一・沢本頼雄・塚原二四三・高橋伊望ら36期のハンモックナンバー39番、最終階級は少佐
3人とも佐官で退役しており、経歴についての情報は得られませんでした。
言えるのは、経験を生かして後世に引き継ぐ職務を得ることはできなかったということです。
明石艦長:三宅大太郎大佐
山梨勝之進大将・鳥巣玉樹中将ら25期のハンモックナンバー14番、最終階級は大佐
帰国後、9年11月20日に44歳の若さで逝去しました。天命には逆らいようがありません。
出雲艦長(前半):小林研蔵大佐
百武三郎大将・谷口尚真大将ら19期のハンモックナンバー27番、最終階級は中将
幕僚の中でも飛びぬけて古株で、日露戦争前の5年間、水雷艇隊長を渡り歩いた水雷屋です。
日本海海戦にも村雨艦長として参戦しています。
帰国後は第3水戦長官、第1遣外艦隊長官を務めており、水雷屋一途の人と言えます。
しかし古株だけに、大正13年には待命・予備役、昭和14年退役、17年に70歳で没しました。
出雲艦長(後半):増田幸一大佐
大谷幸四郎中将・松村菊勇中将ら23期のハンモックナンバー16番、最終階級は少将
中尉〜大尉の頃を横須賀水雷団分隊長として過ごし、
日露戦争後は陽炎・叢雲・白雪・野分・白妙の艦長を歴任、駆逐隊長も1年半勤めました。
やはりこの人も根っからの水雷屋なのですが、
帰国後は横須賀海兵団長、山城艦長を務め、10年に少将昇進と同時に待命、翌年休職
大正14年12月19日に53歳で亡くなり、戦訓を生かす役職・教職に恵まれませんでした。
日進艦長:長沢直太郎大佐
野村吉三郎大将・小林躋造大将ら26期のハンモックナンバー35番、最終階級は中将
中尉〜大尉の時代を横須賀水雷団付属から水雷艇長・駆逐隊長として過ごしており、
軍艦艦長はこの日進と帰国後の伊勢だけで、
就任前は駆逐隊長と水雷学校教官、就任後は水戦長官と兵学校教頭・水雷学校長で埋まっており
この人の経歴も水雷屋の王道です。
大正15年に中将昇進・鎮海要港部長官を花道に昭和3年予備役、19年退役、42年12月26日、90歳で逝去。
日進の配属期間は短期間でしたが、「長沢校長」ほど戦訓を後世に伝えられる人はいないでしょう。
第11駆逐隊長(前半):横地錠二中佐
前にも書いたとおり、末次信正・中村良三ら27期のハンモックナンバーは17番、最終階級は少将
尉官時代から水雷艇長・水雷団長を務めたほか、富士水雷長を長期にわたって務めています。
大正7年に千早艦長として復帰後、見島・筑摩・香取・薩摩・比叡艦長を歴任。
しかし大正12年に少将昇進とともに軍令部出仕、3ヵ月後に待命、翌年に予備役。
日華事変中に軍事普及事務を嘱託され、呉や舞鶴で指導にあたり、水雷屋としては不本意な形で退役します。
35年1月5日、81歳で逝去。
第11駆逐隊長(後半):青木董平中佐
横地中佐と同期でハンモックナンバーは15番、最終階級は少将
横地中佐とほぼ同じスタートで水雷屋として研鑽していきますが、
現場に出ることが多かった横地中佐と逆に、司令部に就くことが多い経歴です。
横地中佐更迭の際も、艦隊付属の幕僚として現場におり、横滑りした感じの人事です。
帰国後は球磨艤装員として球磨の建造にかかわり、そのまま初代艦長となります。
しかし少将昇進と同時に待命、昭和2年6月3日、49歳の若さで急逝しました。
第10駆逐隊長(前半):松下芳蔵中佐
横地・青木と同期でハンモックナンバー96番、最終階級は大佐。
この期は出世頭の中村・末次こそ鉄砲屋ですが、将官経験者の半数近くが水雷屋です。
松下中佐は7年4月に帰国し、舞鶴鎮守府参謀に任ぜられますが、
戦役勤務中に発病し、同年11月17日、41歳で急逝しました。
第15駆逐隊長:河合退蔵中佐
河合中佐も横地・青木・松下の同期でハンモックナンバー36番、最終階級は少将。
出世コースはかなり青木と似ています。
水雷学校が分離する前の兵学校水雷教官、教育本部にも出仕しており、水雷教育の第一人者です。
青木が球磨艤装員→艦長となったように、河合も帰国後、多摩艤装員→艦長となっています。
ただ青木と大きく違ったのは、天命の長さでした。鞍馬・八雲・富士艦長を務め
大正12年昇進と同時に軍令部出仕・2水戦長官・艦政本部3部長を務めて昭和2年に待命。
15年3月4日に62歳で没するまで、横地と同じく軍事普及事務を委嘱され、北陸方面で精力的に活動しました。
第23駆逐隊長:水谷耕喜中佐
岸井参謀と同じ28期のハンモックナンバー70番、最終階級は大佐
第22駆逐隊長:中山友次郎中佐
高橋三吉大将・米内光政大将ら29期のハンモックナンバー82番、最終階級は大佐
27期の青木・松下両駆逐隊長の後を引き継いだ2人ですが、佐官どまりのため経歴がほとんど分かりません。
このように現場の水雷屋は、どうも天命に恵まれなかったり、時間切れといった感じがします。
27期には日露戦争を肌で体感した水雷屋が大勢いるにもかかわらず、水雷学校長経験者が1人もいません。
もちろん横地・青木・松下・河合駆逐隊長の出番はありませんでした。
どうも解せない現実です。
今回はここまで。
こりゃ凄い荒らしだ。
あっちゃ〜 sage忘れてますた…。
爆雷もソナーも無くどのように護衛をしてたんですか?
イギリス軍は対潜装備を供与してくれなかったのでしょうか?
>>123 >>1氏がコメントしている「爆雷もなかった」とは、日本自前の爆雷と言い換えてよいかと。
1.爆雷はイギリス軍が回してくれました。
2.駆潜特務艇トーキョー(東京)・マイニングスビー(西京)を貸し出してもらいました。
3.浅深度潜航中の敵潜に掃海具を引っ掛け、爆破する方法を教わりました。
潜航中の潜水艦に対しては、潜望鏡を発見して爆雷投射
潜航前の潜水艦に対しては、砲撃しつつ接近、潜航されたら爆雷投射
浮上後の潜水艦に対しては、問答無用で砲戦
というのが一連の攻撃です。
潜望鏡を発見できない場合は、もう雷跡発見→回避→反撃しかないです。
現地との交流エピソードなんかありますか?
みんながみんな英仏語に堪能じゃなかったろうと思います。
コミュニケーションは大変だったろうなあ。
>>125 >>1氏は立て逃げしてしまったので真意は分かりませんが
「日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦」 に惹かれてスレ立てしたと思うのです。
↑
現物はまだ読んでいませんが、WEB上のレビューでは、
日記とも見聞録とも言える書だそうです。
海軍主計中尉殿の体験した様々なエピソードが書いてありそうな予感…。
欧州に行って出世した人いないの?
>>127 少将の座に就くだけでも大出世なんですが。
参謀・艦長・駆逐隊長以外にも、第2特務艦隊附属の少尉・中尉はゴロゴロいます。
かなりの人が中将・少将まで上がってますよ。
飛び抜けて有名な第2特務艦隊附属将校といえば
山口多聞と田中頼三でしょうね…やっぱり。
>>126 私、「日本海軍地中海遠征記」読みましたけど、非常に面白かったですよ。
ユーモラスな記述も多く、「信じられないが〜」スレでネタにさせていただきました。
ただ、登場人物はすべてイニシャルのみで実名がないので人間関係については
よく分かりませんでしたけど。
>>124 そういえば、「2特」の駆逐艦は現地でデプスチャージ(爆雷)のほかに
曳航水雷も装備していたと聞いていましたが、それが3.の
掃海具を利用した水雷だったんですね。
小澤治三郎は観戦武官でイギリスへ行ったんでしたっけ?
以前、WW1スレでちょっと疑問が出ていたのですが、
第二特務艦隊の方々は、食文化の違う欧州で
何を食べていたんでしょうか?
毎回食材を内地から運ぶのはちょっと大掛りな気がしますし、
だからといって現地で調達しても日本食とは遠いものしか
手に入らないでしょうし。
>>129 こっちの図書館には置いてないです…軍港都市にもかかわらず。
あまぞんだだだ! しか入手手段はないみたい…。
>>132 軍艦の食事スレ、途中でROMを挫折したので、熟読していればよかったと反省中。
「日本海軍食生活史話(1985・瀬間喬)」から、当時の糧食事情を拾ってみますね。
海軍従事者の給食規定は、明治31年3月29日通達44号の
「糧食経理規定」を骨子としています。
規定の附表第20表に、1日あたり1名に供する食料が記載されており、
第2特務艦隊に絡む大正6・7年に一部改定があります。
附表第20表は敗戦まで海軍従事者の食事を決定づける重要文書でもあります。
大正6年の数値を前に、7年の数値を後に列記します。
甲(航海中の艦船)
・乾麺麭 50匁→45匁(週5回以内は、白米45匁+割麦15匁に代替可)
・貯蔵獣肉 40匁→35匁(コンビーフ・ボイルドビーフ・ローストビーフ)
・貯蔵魚肉 40匁→35匁(鮭缶・鱒缶・鰯缶)
・白米 100匁→90匁
・割麦 35匁→30匁
・乾物野菜 20匁→22匁
乙(停泊中の艦船)
・生麺麭 65匁→60匁(週3回以内は、白米45匁+割麦15匁に代替可)
・骨付生獣肉 60匁→55匁(駆逐艦は無骨も可)
・骨付生魚肉 40匁→35匁
・白米 100匁→90匁
・割麦 35匁→30匁
・生野菜 120匁→130匁
要約すると、主食はパンと麦飯です。
パンは容易に入手できますね。
問題は麦飯です。
地中海・中近東には副食として米食の習慣がありますから、
米そのものは何とか入手できます。食べ慣れたジャポニカ種は無理でしょうけど…。
問題は、脚気対策にブレンドされた押し麦ですね。
押し麦は大麦であって、小麦とはまったく別物ですから、輸送の手間があったでしょう。
139 :
137:04/07/10 17:23 ID:???
>>137 ご紹介ありがとうございます。
一方、おかずの獣肉・魚肉・野菜は現地調達が充分可能です。
第1〜第3艦隊に配属された艦艇は、倉庫に冷蔵庫を増設し、10日分の生糧品を積めました。
それでも、肉類は生肉を使えたのは停泊中に限ります。
余談ですが
二大給糧艦・間宮と伊良湖の決定的な違いは、冷凍庫の有無にあります。
太平洋戦争直前に完成した伊良湖は冷凍庫を持ち、生肉はブロック解体して冷凍して届けましたが
間宮の時代は冷凍庫がなかったため、畜舎→屠殺場を備えて現地で解体していました。
それぞれの主計長は、軍務局長が定めた食料購入代価以内の額で
現地の供給者と直接契約を結んで購入する権限を持っていました。
また、6年2月の通達(まさに第1・第2特務艦隊編制の月)で
3ヶ月以上の航海をする場合には、1航海で消耗できる範囲で
貯蔵鳥獣魚肉・缶詰野菜を換給できるように、糧食経理規定に盛り込まれています。
こうして、規定内のメニューに必要な食材は、現地で調達できたのですが
調味料のうち、醤油・味噌などは日本から送られました。
味噌がフランス税関に届けられた際、
検品をした税関職員は、「輸送中に腐敗した物」と思い込み、廃棄処分してしまい
引き取りに来た主計さんたちは話を聞いて大いに落胆したそうです。
食い物に関わる(?)エピソードをもう一つ追加して、今日の分を終わりにします。
出港前のある駆逐艦が、イギリス駆逐艦の主計長から山羊を1頭もらったそうです。
乳を搾ってみても全然出てこないので、潰して大盤振る舞いしました。
帰港後、イギリス駆逐艦主計長弔に「ごちそうさま」と感謝の礼をしたところ、呆れ顔をされました。
(;゚д゚)<オナホールのつもりで引き渡したのに…。
おあとがよろしくないようで…。
>>132 「日本海軍地中海遠征記」読む限り、普通に日本食食べてたみたいです。
麺麭(パン)も食べていたようですが、普通のパンのことか乾麺麭のことなのか
どっちなんでしょうね。
艦の糧食は、事前に一か月分以上を搭載することが決められていましたが、
「榊」が被雷した際は糧食をほとんど失ってしまったためやむなく「松」より供給することになりました。
しかし米麦があっという間に不足したため一日2食を麺麭(乾麺麭?)で済ませたそうです。
面白いのが、秋〜冬の寒い時期には入港中にしばしば士官が集まってはすき焼きを
食べていたこと。牛肉はともかく、ネギが手に入ったんですねぇ…。
マルセイユでは新鮮な魚が手に入ったので、マグロの刺身に舌鼓を打つこともあったようです。
>>144 ますます「遠征記」を読みたくなりました。
ちょうど地理人類学板を眺めていたら、
「外人はネギや大根を食べるか?」というスレが立っておりまして
フランスやイタリアでネギを食べる・大根も海外で食べられていると結論が早々と出まして、
話題は「牛蒡で戦犯」に移っています(20レスちょいですが)。
今のところお国厨やレイシストが沸いてないスレなんで、もちっと見守ります。
147 :
132:04/07/11 11:50 ID:???
>鷂氏
>軍曹殿
ありがとうございます。
あるもので何とかなっていた(していた)んですね。
大麦はビールだったか、ウィスキーだったかで使っていたと思うので、
入手できると思うのですが。
イタリアやスペインは普通にご飯食べるでしょ?
>>148 炊き込み御飯と言い張れば何とかいけるかもw
図書館にあったよ〜!「日本海軍地中海遠征記
〜第1次世界大戦の隠れた戦史〜(紀脩一郎)」
(・3・)エェーメインタイトル以外違う本だYO!
…まあ、戦闘の描写とか資料とかが多いんで、ぼちぼち読んでいきます。
>>147 そうでしたね…すんまそん。
>>145-146 なるほど、十分手に入ったんですねぇ。
牛肉は日本よりはるかに安く手に入れることが出来たのですから、
故郷を偲んでのすき焼きパーティはさぞ盛り上がったものと思います。
余談ですが、海軍のすき焼きは牛肉に直接砂糖をからめる今で言うところの関西風です。
(割下を使うのが関東風)
>>110 副官:山本清大尉はゴンベの息子。
あと戦隊で長官ってあるけど司令官じゃないの?
>>152 補足・訂正に感謝。
「司令官」ですね。
154 :
名無し三等兵:04/07/30 02:39 ID:KDShROGf
軍曹殿とは別人ですが、日本海軍地中海遠征記は何故売れなかったのか
理解に苦しむほどの名著です。著者は当時の海軍中主計(主計中尉)なので
食料の調達に随分筆が割かれているのも現在では貴重な資料といえます。
とりわけサイダー、「少し汗を出して仕事した後、グッと一杯咽潤して、今まで
の労苦を忘れ、新しい精力を喚び起こさしめるものは、沸々と泡の立つ『サイダ
ー』の力である。平々凡々、咽喉を過ぎて空しく胃袋の重量を増すに過ぎない
湯茶では到底その代用に相成らぬ」とまで書かれたサイダー、シトロンがわず
か一月で無くなった後、どうやってその後の生活をすごしたのか不思議に思う
ほどです。
以後の描写にはこの「ネクター」については一切触れておらず、亜暦山、馬耳塞
で無事調達なったのか、それとも「君の御為にただ国民の務めを果たすのみ」と
頭の内から消し去ったのか、実に気になるところでありますが。
>>154 そうですね、確かにその描写は印象に残っています。
文中でサイダーが尽きた日に、自分の日記に黒枠を書いてその中に「『サイダー』を葬る」
と記すあたりに筆者のユーモアを感じました。
ところで鷂 ◆Kr61cmWkkQさんはどうしたのかな…。
>>155 あい。ネタ切れで雪隠詰めでございます(つдT)
まだ本が手に入りませぬゆえ…。
157 :
名無し三等兵:04/08/02 18:43 ID:R+afD05G
紀脩一郎という人物が自費出版で第二特務艦隊のことを取り上げた本を書いていた
のを昔図書館で読んだ記憶があるのだが・・・
>>158 そうしたいのですが、図書館から持ち出し禁止の本なので、
会社帰りにちょっとずつしか読めないんですよ…。
「若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦」のようにリラックスできる内容でなく、
資料と証言を積み上げた重厚な作でした。
巻末資料は佐藤提督の大正天皇への上奏文全文が載っていたり、対潜戦闘の概要一覧があったり
まあ軍板住人には周知ですが参加艦艇の要目一覧があったりと、資料は充実してます。
高木惣一元提督の序文に続いて、土井晩翠か武島羽衣(忘 の第2特務艦隊への鎮魂詩と続く
自費出版にしてはよくできた本です。
内容の要約は…まだ勘弁してくださいな…。
160 :
名無し三等兵:04/08/03 20:02 ID:0OajZRmW
>>159 詩は土井晩翠ですよ。
シシリーの南、波また高く・・・
161 :
名無し三等兵:04/09/05 01:40 ID:dA50c8gM
なかなか興味深いですな
まだ生かされてたのか…(つд`)
紀氏の「地中海遠征記」ですが、ちっとも読み進んでません(T-T)
スレ違いにもなりますし、目次だけ挙げときますね。
・序辞
沢国江山入戦図 生民何計楽樵蘇 憑君莫話封候事 一将功成万骨枯 曹松
・グラビア
マルタ入泊中の2特、関東、戦利潜水艦/2特幕僚/士官集合写真/
榊/桃・楠/出雲・日進/マルタの碑
・序
高木惣吉元提督、森繁久弥氏、著者
・目次
・「無韻の哀歌」 土井晩翠
・本文
1.第1次世界大戦始まる 11.多難の年を迎へて
2.日本の参戦 12.激戦死闘相つぐ
3.征衣上途 13.大輸送船団の護衛
4.砲煙漲ぎる地中海 14.敵の漸減作戦に遭う
5.海行かば水潰く屍 15.戦没者慰霊祭を終って
6.「榊」遂に被雷大破す 16.休戦前後
7.昨日は東、明日は西 17.Uボート回航の偉業
8.入渠のあとさき 18.艦隊の英、仏、伊、白国親善訪問
9.明石、地中海を去る 19.懐しの母国へ凱旋
10.陣中小閑 20.この後に来るもの
付録(資料編)
1.佐藤司令官の天皇上奏文
2.第2特務艦隊一覧 3.沿革と編制 4.幕僚一覧 5.戦死者一覧 6.寄港地一覧
7.行動概要 8.各艦戦闘・航程
9.船団の被害 10.連合国商船の被害 11.月別統計 12.2特行動中の被害
13.裕仁皇太子訪欧時の随員一覧
付図
・マルタ島 ・寄港地 ・戦闘地点
165 :
名無し三等兵:04/09/22 19:30:38 ID:E+rKqmbo
日本海軍による船団護衛の評価は高かったらしい
hosyu
167 :
154:04/10/10 22:22:25 ID:???
保守代わりに。
私が買った本は謹呈本だったらしく、挨拶文が挿んでありました。
紹介しておきます。
ご挨拶
六月小社刊『日本海軍地中海遠征記−若き主計中尉の見た第一次世界大戦−』
をお届けいたします。
本書は、大正八年に海軍省から「非売品」として発効された『遠征記』のうちの後半部、
主計中尉片岡覚太郎氏が残した手記を蘇らせたものです。
阿川弘之さんが書かれた「序の序」およびC・W・ニコルさんの「解説」、巻末の【注記】にも
ありますように、現在世界で二冊しか確認されていない幻のテクストです。
本書の出版の意図は次の二点にまとめられます。
一 日英同盟を背景にこのような大規模の海軍の派兵が、第一次大戦のときにあったことを
大部分の日本人は知りません。この時期から少し経つと、シベリア出兵を期に、陸軍は大陸
に進出し、ドイツとの同盟、英米との戦闘につながる方向を主導していきました。山県有朋を
筆頭とする陸軍は、ドイツのUボートの哨戒に当たったこの大きな戦闘行為を抹消したので
はないかと思われるほどです。戦後の世界史・日本史の教科書にもこの歴史上の事実は
記載がありません。この埋もれた事実を知っていただきたいというのが第一点です。
二 次に、この青年士官の記述のみずみずしさです。明治維新から五十年を経て近世の
人文的教養に近代の西欧的教養を合致させた清新な知性が登場していたことがわかります。
国内における大正デモクラシーを背景に、日本人の精神がピークにあったのがわかる手記
です。
何卒宜しくお取り上げの程お願い申し上げます。
平成十三年六月
河出書房新社編集部 小池三子男 拝
168 :
名無し三等兵:04/10/14 08:44:02 ID:CFzi2Woj
良スレあげ
169 :
名無し三等兵:04/10/21 06:01:50 ID:9U+Tp1bJ
今の日本人でこの艦隊の事をどれくらい知っているだろうか?
真珠湾奇襲の第一航空艦隊すら知らない人が多いのに・・・
ほす
保守しとくか
保守代わりに久々に「日本海軍地中海遠征記」から。
3)欧州への回航の途中、セイロン島に寄港した際の話。
数人で町を観光した際、博物館に立ち寄った。案内してくれた番人の丁寧な態度に
気を良くした先任の少佐は、去り際に彼にポケットの中の銀貨をチップとして渡した。
ところが、いったん受け取った銀貨を振りかざして番人がこちらへやってくる。
てっきり額の不足と思ったが、精一杯奮発したつもりだった某少佐はすでに手持ちがなく
著者(片岡主計中尉)に「あとは願いますよ」と水を向けた。
かの番人君、中尉のところへ来て「これでは持っていても仕方がない」と哀訴する。
代わりに幾許かのルピー硬貨を握らせ、よくよく最初の銀貨を見たれば、
香港10セント
age
揚げ
176 :
名無し三等兵:05/01/20 10:04:44 ID:El5QJ3Zh
食事の時間です。
保守上げ
稀にみる良スレにつきage
保守