蒙古襲来を軍事的に語る

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1名無し三等兵
博多湾に押し寄せる蒙古・高麗連合軍の数千隻の船

博多湾に防塁を築いて猛烈な抵抗をする鎌倉武士団

日本軍・蒙古軍、双方の視点から元寇を軍事的に語れ
2名無し三等兵:04/05/09 22:40 ID:???
2ゲトオー
3ポピー ◆WL6dLJHQ3U :04/05/09 22:40 ID:h5s4/DR3
小倉優子
4名無し三等兵:04/05/09 22:42 ID:???
優子ちゃん ハァハァ 蒙古フェラでおねがい。
ゲンコオー
5村田 ◆manko/yek. :04/05/09 22:43 ID:???
良スレ
6名無し三等兵:04/05/09 22:46 ID:???
ブラピ主演のトロイとかいふ映画で何千隻もの軍船が敵地に押寄せるシーンがるのだが、元寇もあんな感じだったのだろうか。
7名無し三等兵:04/05/09 22:47 ID:nGMdOVAX
「蒙古襲来絵詞」では、矢を受けてあっさり退却する南宗兵と、獰猛に戦い続ける蒙古兵の対比描写が印象的だったなー。
8名無し三等兵:04/05/09 22:48 ID:???
いや、あれはあくまでファンタジー映画だし
9名無し三等兵:04/05/09 22:50 ID:???
>>6
これか。確かに凄いな。
http://www2.troy.jp/phase1/img/teaser_pic.jpg
10名無し三等兵:04/05/09 22:52 ID:???
おっと、すまん。↓これだった
http://www2.troy.jp/phase1/cmp/teaser_main.html#
11名無し三等兵:04/05/09 22:54 ID:x0uONsAy
早川暁氏によると、蒙古軍の海軍を担当していた、高麗だったか、朝鮮半島
の海軍が台風の時期を知らずに2回も攻めてくるとは、わざとだった
のではないか、と言っていた。つまり、蒙古軍を高麗は嫌っていたので、
あえて、負け戦になるように台風シーズンを選んだのではないかとの
事である。このころは、まだ朝鮮は日本と仲が良かったのだろうか?
12名無し三等兵:04/05/09 22:55 ID:???
陸兵も高麗兵が主力だったのに?
13赤色大元帥:04/05/09 22:55 ID:???
14赤色大元帥:04/05/09 22:57 ID:???
文永の役では台風などなかったという説もありますけどね。
15名無し三等兵:04/05/09 23:04 ID:???
高麗は、抵抗のためにわざと船の建造を手抜きしたという説もありますね。






自国民が乗るのに。
16名無し三等兵:04/05/09 23:10 ID:???
というより




船を造るのが下手だっただけでは?
17名無し三等兵:04/05/09 23:14 ID:???
>>15
半島に高度な造船技術がなかっただけだよ。
18名無し三等兵:04/05/09 23:17 ID:???
たまたまモンゴル軍の通り道でついでにパシリにされたという
歴史的事実以上の何かを求めてるんだよ
察してやれ
19名無し三等兵:04/05/09 23:19 ID:lL1Hu9Ea
対馬での虐殺行為は余りにもひどい。住民は皆殺しにされて、女は手に穴を開けられ全員拉致された。
しかもこの残虐行為を行ったのは蒙古兵だけでなく高麗兵も多数含まれていたらしい。
20名無し三等兵:04/05/09 23:19 ID:???
へーソースは?
21名無し三等兵:04/05/09 23:20 ID:???
そもそも元との戦いで青息吐息な状態で
ロクな船がつくれるはずない。
22名無し三等兵:04/05/09 23:20 ID:???
しかし手に穴を開けて縄を通したりしたら手が使いものにならなくなって
奴隷としての価値も下がるだろうに、何でそんなことしたのかね?
23名無し三等兵:04/05/09 23:21 ID:???
>>20
対馬での虐殺を知らないとはソートーな馬鹿だなw
24名無し三等兵:04/05/09 23:22 ID:???
うん馬鹿だからわかるように教えてくれたまえ。
25赤色大元帥:04/05/09 23:22 ID:???
モンゴルは敵対する勢力には容赦ないですからな・・・。
26名無し三等兵:04/05/09 23:22 ID:???
朝鮮人は昔から馬鹿な訳だ・・・
27名無し三等兵:04/05/09 23:23 ID:???
チョッパリがモンゴルを撃退できたのはウリが船の建造を手抜きしたからニダ!
チョッパリはウリに感謝しるニダ
28名無し三等兵:04/05/09 23:24 ID:???
モンゴル軍がバグダッドに侵攻したとき現地人の半分以上殺したっていう噂はホントなのだろうか?
29名無し三等兵:04/05/09 23:24 ID:???
>>24
自分で調べろ
馬鹿め
30名無し三等兵:04/05/09 23:25 ID:???
ねだあかあらあソースはああ??
31名無し三等兵:04/05/09 23:25 ID:???
その場で皆殺しにするならともかく、
不具にして連れ去るというのは不可解
32赤色大元帥:04/05/09 23:28 ID:???
>>30
有名な話ですよ、文章しか無いけど、ググればすぐに見つかります。
たとえば、こことか。

ttp://www1.cts.ne.jp/〜fleet7/Museum/Muse036.html
ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/
33名無し三等兵:04/05/09 23:29 ID:???
日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇に書いてある
ただし日蓮のことだから故意に誇張してる可能性はあるな
34名無し三等兵:04/05/09 23:30 ID:???
ソース厨瞬殺だなw
35名無し三等兵:04/05/09 23:34 ID:???
ねっねっもっと信憑性のあるソースないの?
36名無し三等兵:04/05/10 00:15 ID:QrH7Drqk
糧食獲得のために対馬人を塩漬けにしたと小学生の頃に授業で教わった
37名無し三等兵:04/05/10 00:29 ID:???
昔の中国の文献じゃよく有りますよね。
人間の塩漬け。
38名無し三等兵:04/05/10 00:43 ID:???
まあ俺が買った某社の株も塩漬けになっているわけだが。
39名無し三等兵:04/05/10 21:19 ID:H066PiBU
>>20
>>24
>>30
>>35

( ´,_ゝ`)
40名無し三等兵:04/05/11 02:15 ID:???
オマハビーチの米軍並にワラワラやってくる蒙古軍・・・
41名無し三等兵:04/05/11 19:20 ID:???
そもそも何で日本になんか攻めてきたんだ?
日本人にとっては住んでる国はかけがえのない物だが
大陸から見れば、(大陸の風習からはずれた)変わり者の住む国
でしかないだろ?
豊かな国だと考えられていたとは思えんし
もしかして単純に
「先代にはへいこらしてたくせに、代替わりしたら無視かい!ムカつく奴だぜ!」
ってだけの話しなん?
42名無し三等兵:04/05/11 19:22 ID:???
お前はもっと本を読むなりして勉強したほうがいい
フィーリングで語るには知識が貧弱すぎる
半年はROMれ
43名無し三等兵:04/05/11 19:39 ID:???
>22
馬を去勢して扱いやすくするように、野生の人を扱いやすい奴隷にするための
ノウハウがあったんじゃないかと
たとえば、左手ならほとんどの人が利き手じゃないから最悪使えなくなってもOKとか
中指と薬指の間なら少々失敗しても大丈夫とか…  いや、根拠は無いけど…
ただ、掌の穴に縄を通されて引っ張られれば素直に従うと思うよ。
俺なら絶対逆らわんね。 
44赤色大元帥:04/05/11 19:59 ID:???
とりあえず、江南軍が予定通りきてたらどうなったかを
戦略的に妄想してみるとか。
45名無し三等兵:04/05/11 20:02 ID:qbmPFgNu
むくりこくり恐ろしや
46名無し三等兵:04/05/11 20:07 ID:K4KxZOWl
ジャワは服従させたがベトナムでは負けたらしいな。>元
47名無し三等兵:04/05/11 20:08 ID:???
手に穴あけて数珠繋ぎって大陸じゃやってないよな
何故に対馬の住民だけが?
48名無し三等兵:04/05/11 20:12 ID:???
ジャワは恭順の意を示した後裏切って撃退してます失礼ですね!!
49赤色大元帥:04/05/11 20:13 ID:???
>>46
潮の満ち引きが激しい湾内に元の艦隊を誘い込んで撃破したん
でしたっけ?(別の話と勘違いしてるかも)。
50名無し三等兵:04/05/11 20:18 ID:???
湾ではなく河に阻害を置いて
兵站船も襲撃しました
51名無し三等兵:04/05/11 20:47 ID:???
>>47
対馬・隠岐の住民の抵抗はかなり激しかったようだよ。元軍側の資料(心義大中??昔見ただけだから忘れちゃった)にも記されている。
当然だけど戦闘員、非戦闘員に対する見せしめだろうね。
それに、騎乗を中心とする移動と船では条件が違うから、残虐性の発揮仕方も違うのでは?
52名無し三等兵:04/05/11 20:52 ID:???
大陸ではモンゴル軍による住民皆殺しなんてしょっちゅうなんですけど
53名無し三等兵:04/05/11 21:28 ID:5V8l8p9W
誇りある騎馬民族の蒙古軍は虐殺などしない。
蒙古軍の下で戦っている朝鮮人が虐殺、暴行の限りを尽くしただけ。
54名無し三等兵:04/05/11 21:37 ID:???
>>44
大勢に影響ないでしょ。東路・江南両軍で10万といえ、性格はかなり異なる。江南軍は植民?現代で言う実戦部隊
とは異なるような部隊。
強襲上陸部隊・第一陣・カテゴリーA軍団=東路軍としても、後詰の部隊として江南軍はどうだろう?

総括して言うと、元の戦略の甘さ不用意さが目立つ、仮にも2〜30万の動員兵力を持つ相手に対して
(源頼朝奥州攻め時点、人口増加等々から類推)あまりに兵力が少なすぎる。

主力15万を北九州(九州地方だけで守備側5〜6万)。第2軍10万を鹿児島。第3軍2〜3万を長門方面。第4軍1〜2万を対馬・壱岐の占領・中継基地化。
第5軍を小部隊の遊撃隊として日本海側各地に対する陽動襲撃略奪隊とする。
作戦としては第3軍が肝です。本・九州間を分断できれば8割がた成功というところ
(弘安の役でおんなじことをしようとしたけどね。失敗したけど)
55名無し三等兵:04/05/11 21:37 ID:???
可哀想なのが湧いてきたな
56名無し三等兵:04/05/11 21:46 ID:???
>>53

                      ____    、ミ川川川彡
                    /:::::::::::::::::::::::::""'''-ミ       彡
                   //, -‐―、:::::::::::::::::::::三  ギ  そ  三
            ___    巛/    \::::::::::::::::三.  ャ  れ  三
        _-=三三三ミミ、.//!       l、:::::::::::::三  グ  は  三
     ==三= ̄      《|ll|ニヽ l∠三,,`\\::三  で       三
        /              |||"''》 ''"└┴‐` `ヽ三   言  ひ  三
         !             | /          三   っ  ょ  三
       |‐-、:::、∠三"`    | ヽ=     U   三.  て   っ  三
       |"''》 ''"└┴`       | ゝ―-        三  る  と  三
       | /           ヽ ""        ,. 三   の   し  三
        | ヽ=   、    U    lヽ、___,,,...-‐''"  三   か  て  三
.        | ゝ―-'′          |  |::::::::::::_,,,...-‐'"三  !?    三
          ヽ ""        ,.    | | ̄ ̄ ̄      彡      ミ
        ヽ、___,,,...-‐''"  ,,..-'''~             彡川川川ミ
          厂|  厂‐'''~      〇
        | ̄\| /
57名無し三等兵:04/05/11 21:48 ID:???
日本遠征は元にとってはあくまで限定戦争
関東や欧州まで攻略する必要は無い
大宰府周辺さえ抑えられれば元の戦争目的は達せらるのだが
58名無し三等兵:04/05/11 21:54 ID:???
>>57
元の戦争目的とは?
59名無し三等兵:04/05/11 21:55 ID:???
test
60名無し三等兵:04/05/11 22:18 ID:???
あ、間違えた
欧州じゃなくて奥州ね
61名無し三等兵:04/05/11 22:26 ID:???
>>57
「抑えられれば」ってたとえ抑えたとしても反乱祭りが起こるのに、それに引き合うほどの利益は何なの?
62名無し三等兵:04/05/11 22:28 ID:???
自転車操業なんだから、とにかく領土増やさなければどうしようもねえんじゃないの
63名無し三等兵:04/05/11 22:32 ID:???
>>62
それは鎌倉幕府に言ってるのか?
64名無し三等兵:04/05/11 22:37 ID:???
>>61
蝦夷地まで征服したとしても反乱祭りなのにそれに引き合うほどの利益は何なの?
65名無し三等兵:04/05/11 23:27 ID:???
鎌倉幕府は地主間の調停役なんだけどね。
66名無し三等兵:04/05/11 23:57 ID:8y4NMdpu
あれは神風なんかじゃないよ。
 
 
おまいらファイナルカウントダウンっていう映画ぐらい知ってるだろ?
実はあの映画の元ネタがこれなのさ。
台風で全滅したんじゃないのさ。 
 
 
来てたんだよあの時。
 
 
赤城が・・・。 
67名無し三等兵:04/05/12 00:04 ID:3YR/gCwl
>>66
捕えられた蒙古兵が
赤木の艦内で38式歩兵銃を
なんの疑問も抱く事無く撃ちまくる
のかw
68名無し三等兵:04/05/12 00:21 ID:???
二回目の元寇では日本側は実に四週間に渡り
元側の上陸を食い止めていたと言うのは史実なんでしょうか?

もしそうなら台風のシーズンに四週間足止めできた時点で神風などの偶然ではなく
実力での勝利だと思うのですが・・・。
69名無し三等兵:04/05/12 00:46 ID:???
歴史群像に書いてあったけど、もし仮に台風が来なかったとしても日本軍が勝ってたらしい。
70名無し三等兵:04/05/12 00:48 ID:???
>>68
文永・弘安の役に神風は関係ないです。
通説と異なり、元寇は元側に勝ち目の無い戦いであったと結論が出されております。
(陸自が研究して資料として出版してます。)
71名無し三等兵:04/05/12 01:39 ID:dsmEhqBl
あれは挑発行為じゃないの?
あれで博多はともかく関東に攻め入る気があったかどうか。
72名無し三等兵:04/05/12 05:22 ID:???
>>70
すみませんが、その陸自が研究した資料の詳細を教えて頂けませんでしょうか?
よろしくお願いします。
73名無し三等兵:04/05/12 08:22 ID:???
>>72
「本土防衛戦史 元寇」
74名無し三等兵:04/05/12 10:28 ID:???
>>71
関東までいけるわけない。
海路で行けば瀬戸内海行軍中に海賊がわらわら出てきて戦力不足
陸路で行けば中国山地行軍中に山賊がわらわらでてきて戦力不足

どっちにしてもゲリラ戦にやられる。
75名無し三等兵:04/05/12 10:52 ID:???

壁|    ∧_∧
  | ∧ (-@∀@) 皆さ〜ん♪元冦から守ってくれたのは
  |∀゚) (φ 朝 )  朝鮮半島の人たちなんですよ〜♪
  と_ノ │ │ │
  |   (_)_)

  ∧ ∧∧_∧
  (   ゚)i!   ´) 〜♪
  /  うi!    )
〜(  / |○  |
  UU (_(___)

   ∧ ∧∧_∧  '_
((  (   ゚)    > 、
  /   つ、  U ト、 ll|
〜(  / (_ Vこヽ´>
  UU  (○__)ノ

.   ∧ ∧ ∧_∧  /
   (ill゚∀゚)<`Д´# ∩ ―‐
  /   ,う U    "ノ  \
〜(  / 〜|__,!__/|_
  UU   (_こ_(@∀@- >
76名無し三等兵:04/05/12 12:26 ID:???
元寇後捕虜の扱い
南宋人・・・釈放
高麗人・・・皆殺し
哀れだな。
77名無し三等兵:04/05/12 12:41 ID:???
>>76

哀れも何もあーた。

南宋の場合。
モンゴルによる征服後、旧南宋軍兵士が余って仕方が無い。
降伏するさい命は助けると言ったからモンゴル側としては殺すわけ
にもいかんし、かと言ってほっとくといつ隙を見て反乱を起こすか
分かったもんじゃない。
じゃあこいつらを次の国を征服するために動員しちゃおう。
勝てば儲けもんだし、負けたって口減らしになるから損はしない。
結果、あちこちの戦線に旧南宋軍を動員。
日本征伐にしたって、兵士達は別に戦争したくないのに強制的に動員
されたわけで、同情の余地はあるから命だけは助けてやろう。

高麗の場合。
「ちょいとちょいと、モンゴルの旦那、日本征伐しましょうよ。
わても出来る限りお手伝いさせていただきま。
儲かりまっせ、えっへっへ。」
挙句に民間人相手の残虐行為頻発、同情の余地無し、逝ってよし!
78名無し三等兵:04/05/12 16:21 ID:???
>>76
そこで赤マフラーの登場ですよ
79名無し三等兵:04/05/12 16:27 ID:???
そういえば売国国営放送の大河ドラマで
対馬住民虐殺を元の外交官が「戦を最小限にする為のやむを得ない犠牲だ」
などと言っていたな。
それとか「日本を目覚めさせる為」とか
これは何処の国製作のドラマかと思ったよ。
80名無し三等兵:04/05/12 17:32 ID:???
>>79
あれはひどいドラマだったw 団塊あたりの世代が歴史ドラマ作ると大抵余計な
個人的主観がはいるんだよな。もっと単純に楽しませろよと。
81名無し三等兵:04/05/12 17:50 ID:???
元寇ってスペクタクル(古い表現ッス)映画の題材に向いていると思うんだよね。
戦国期とちがって鎧兜も煌びやかだし、水平線まで埋め尽くす大船団、蒙古兵の異国情緒、
ラストの天変地異。
いい娯楽大作になるんだけどね。
82名無し三等兵:04/05/12 17:52 ID:???
>>80
なんてこと言うんだ
あのドラマは世間知らずの平和主義者に統治された専守防衛国家が
いかに危険かを知らせてくれたドラマだぞ。
83名無し三等兵:04/05/12 19:14 ID:???
>>39
( ´,_ゝ`)
84名無し三等兵:04/05/12 20:01 ID:???
>>61
 メリットもなにも、元々は南宋残存勢力の主要貿易相手だった日本にその貿易をや
めさせて抵抗力を削ぐのが第一義であった筈。
 つまり、文永の役での日本侵攻は手段であって目的ではない。
 元の要求に日本が従わなかったので、

小生意気な日本にガツンと一発
 ↓
鎌倉幕府(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
 ↓
速攻で元に詫び入れ、元に従う
 ↓
元、威信を保てて (゚д゚)ウマー

という目的でおこされた。恒久的な支配を狙ってるワケでは無い。
ともかく、幕府が元に従えばそれで良かった。

が、それに失敗してしまい威信を大きく傷つけられた元は弘安の役を興さざるを得なく
なったと……。
85名無し三等兵:04/05/12 20:16 ID:???
>42
さあ今だ、今こそ君の豊富な知識を披露する時だ、
何故元が攻めて来たのかが解かれば、当時の日本はどうすれば
良かったかを考えることができる。
みんなが君を待っているよ。 期待に答えてくれたまえ(w

いや、本当に教えて欲しい。おねがいします。
86名無し三等兵:04/05/12 20:25 ID:???
>>84
それでは2次3次4次等々の遠征計画が説明できないのでは?
再度調べる事をお薦めする。
87名無し三等兵:04/05/12 20:28 ID:???
出来てるじゃん。
日本全土征服なんて電波ゆんゆんよりよっぽど説得力がある。
88名無し三等兵:04/05/12 20:48 ID:???
大宰府さえ抑えてしまえば大陸との連絡を遮断でき、
なおかつ瀬戸内海を通じて畿内を直撃できる
時代は遡るが、朝鮮式山城や神篭石式山城の分布図を見れば、
瀬戸内海が主要侵攻ルートであったことは一目瞭然
しかも西日本における鎌倉幕府の影響力の低下は
封建制の破綻と在地武士の離反を招く危険性があった
89名無し三等兵:04/05/12 21:23 ID:???
>>86
 説明できますが。
 
 理由はともあれ、ガツンと一発小突くつもりが(理由はともかく)失敗に終った以上、
その圧倒的な武力が支配力の根元たる元帝国にとってそれは致命傷になりかねない。
 故に、第二次以降からは手段であった筈の日本侵攻が目的にすり変ってしまっただ
けのこと。

 大帝国元としては、小国日本に舐められたままでは国家が成り行かないのだから。
90ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 21:32 ID:???
面白そうだと思ってきてみたら。。。これじゃあレスする気も失せるわな。。。

>84
>恒久的な支配を狙ってるワケでは無い。
2回目は、農具や種籾を持ち込んでいる点、モンゴル帝国の統治方式から考えて
そのような後の世に言う間接アプローチ戦略的な方策はやや考えがたいという点から、
最低でも九州の恒久的占領>属国化は視野に入れていたと考えられる。
9153:04/05/12 21:43 ID:nzN3b5wG

>高麗の場合。
>「ちょいとちょいと、モンゴルの旦那、日本征伐しましょうよ。
>わても出来る限りお手伝いさせていただきま。
>儲かりまっせ、えっへっへ。」
>挙句に民間人相手の残虐行為頻発、同情の余地無し、逝ってよし
完全同意。モンゴルは異民族出身者でも能力しだいでかつやくできた。
戦争での虐殺行為は南宋人と朝鮮人兵士によるものだと教科書でおしえるべきだ。
92名無し三等兵:04/05/12 21:57 ID:???
>>90
 別にレスなんてしてもらう必要もないけど。
 相応しい場所でレスしてれば良いでしょうに。

 ところで>>84>>89で一回めと二回めでは目的が違う事を指摘してますが、それは無
視ですか?
 目的が日本そのものに変化している二度めの侵攻では、恒久的支配が視野に入って
いても全然不思議ではありませんが?
 全然反論になってませんよ。

 勿論、一度めから既に日本支配を目論んでいたというならば反論として成り立ちます
けど。
93名無し三等兵:04/05/12 21:58 ID:KdJQvQB3
来週の『その時歴史が動いた』は面白そうだ
94ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 22:01 ID:???
あと、文永の役で何故元軍が船に戻ったかというのを説明するのに、威力偵察だから
本格的侵攻は考えていなかったとか言っている説があるが、全く同意出来ないね。

元(というかモンゴル帝国)の戦い方として、軍事的、政治的、経済的に意味のある目標
を攻略することによって前哨戦及び威力偵察としてじ後の行動に結びつける(政治的に
は見せしめ効果による恫喝、軍事的には敵の編成・装備・士気練度等を把握する)のが
常態であり、その観点から当初の目標は太宰府と考えるのが至当だと思う。
95名無し三等兵:04/05/12 22:02 ID:???
>>83
必死でつね。ぷぷぷぷ
96名無し三等兵:04/05/12 22:06 ID:???
>あと、文永の役で何故元軍が船に戻ったかというのを説明するのに、威力偵察だから
>本格的侵攻は考えていなかったとか言っている説があるが、全く同意出来ないね。
それでは何故元軍が船に戻ったのですか。哲さんの考えでは。
97ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 22:07 ID:???
>92
書き込んでいる最中に>89が書き込まれたんだよ。無視したとかそういう事じゃない。

後、元の最初の使いが持ってきた国書では明らかに朝貢せよと言う意図が示されて
いたがそれは無視か?

第一、侵攻の意図に関して「どれか一つだけが本当で後はウソ」って考えは危険だし
愚かだぞ。

南宋との分断を否定する訳ではないが、それが目的で日本の本格的侵攻は考えてい
ないと言うのは近視眼的、というか独善的。
98名無し三等兵:04/05/12 22:08 ID:???
>>95
(・∀・)
99ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 22:10 ID:???
>96
そりゃ当然「海岸堡を設定し得なかった」からさ。現代風に言うと、日本側の
「水際阻止」が成功したって事だ。

現代と当時は違うにしても、当時の元の戦法や海岸堡における警戒の観点
から言っても周囲を制する高地=緊要地形を確保する必要があっただろうな。
100名無し三等兵:04/05/12 22:12 ID:???
>>98
可哀想な奴だ
101名無し三等兵:04/05/12 22:15 ID:???
>>100
(・∀・)
102名無し三等兵:04/05/12 22:19 ID:???
>>101
悔しそうだねwww
103名無し三等兵:04/05/12 22:25 ID:???
>>100
(・∀・)
104:04/05/12 22:36 ID:???
口の臭い低脳が一言
105名無し三等兵:04/05/12 22:42 ID:???
盛り上ってまいりました
106名無し三等兵:04/05/12 22:55 ID:???
>>104
(・∀・)
10786:04/05/12 22:59 ID:???
>> 理由はともあれ、ガツンと一発小突くつもりが(理由はともかく)失敗に終った以上、
その圧倒的な武力が支配力の根元たる元帝国にとってそれは致命傷になりかねない。
 故に、第二次以降からは手段であった筈の日本侵攻が目的にすり変ってしまっただ
けのこと。


蒙古が日本以外の国に同様の事をしているのですか?高麗を属国にするだけでも、硬軟の戦略を駆使し元寇時に属国にしているのですよ。ただの一度の攻撃で占領なんてしてません。
ただの一度の失敗で支配体制が崩壊するなんて、どうゆう事実からいっているのですか?フビライは最初から日本の占領・属国化を考え、
フビライの日本宛の親書に
「四海を以って家となす。」とあります。
元の元の属国化(周辺国の例より)を要求してますよ。
108名無し三等兵:04/05/12 23:02 ID:???
>>99
可哀想な奴だ


109名無し三等兵:04/05/12 23:04 ID:???
>「四海を以って家となす。」

この言葉は別に属国要求でも降伏勧告ではないのだが
11086:04/05/12 23:07 ID:???
>>109
では、どう解釈するのですか?
111ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 23:08 ID:???
>109
皇帝にとっての「使いをよこせ」は朝貢せよと言う要求と同義。
ましてや中国化していた元においては明白にその意味があると
考えるべき。

近代以前の東アジアの歴史においては常識だと思うんだが。
112名無し三等兵:04/05/12 23:11 ID:???
じゃあ元以前に中華の各王朝に朝貢してた日本は中国の属国だったの?
11386:04/05/12 23:12 ID:???
>>109
周辺国の現状から、属国要求になります
これを認めることは、日本は元を「世界の家の家長」としその下(属国に)につきます。という意味になる。
114ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 23:15 ID:???
>112
君、小野妹子の事跡を知らないんだね。。。
11586:04/05/12 23:17 ID:???
元朝の諸侯に高麗は列せられましたが(フビライの女婿)その扱いはどうだったでしょう。
116名無し三等兵:04/05/12 23:20 ID:???
で、日本は隋の属国だったの?
117名無し三等兵:04/05/12 23:23 ID:???
>>116
はっきり言って


お前よかコヴァの方がナンボか歴史しってるわい!



あ〜あ、言っちゃった。。。
118名無し三等兵:04/05/12 23:23 ID:ET95yGAA
>>112
中華思想においては、天下の所有者は中華皇帝
皇帝が首都と、周辺を治め
皇帝の臣下である王や代官が各国、州を治める
さらにその周囲を土豪である土司が治める。
属国である朝鮮やベトナムなどは、皇帝の徳を慕って
朝貢を行い王に封ぜられる。

さらに周囲の東夷である日本は、基本的に野蛮なので
皇帝の徳に服さないが、皇帝の徳が大きい場合朝貢を行うこともある。
119名無し三等兵:04/05/12 23:26 ID:???
>>117
で、属国だったのかそうじゃなかったのか答えてみろよ、コヴァ
120名無し三等兵:04/05/12 23:27 ID:ET95yGAA
>>116
隋や唐の立場からすれば、日本は属国もしくは離反した蛮族なのだが
日本は独自の「天皇」や「暦」を立てた
天文を司るのは、中華では皇帝ただ一人
「天皇」は道教では北斗七星や天帝を意味する。

日本の立場では対等な独立国
中華思想では対等な独立国は無いので
日本=「皇帝の領土だが野蛮な蛮族は皇帝の徳に服していない」
つーことになる
121名無し三等兵:04/05/12 23:29 ID:???
まあ大中華からすると天皇=土帝なんだが。
122名無し三等兵:04/05/12 23:33 ID:???
中華思想の後継者を自認する元が過去の王朝のように日本と国交を求めたとしても、
それがそのまま属国要求になるとは思えないんだが。
123名無し三等兵:04/05/12 23:36 ID:???
華夷秩序は外交の形式と言う感じで、属国と同じじゃないんじゃない。
しかし元の使者を斬首したりしたのは、日本の意志というより、南宋から来た人たちの
入れ知恵だったんだろうな。本来そこまで嫌う理由ないし。
124ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 23:36 ID:???
>122
?????全く意味不明。
>中華思想の後継者を自認する
自認すればこそ、逆に対等な関係などあり得ない。属国になるか、蛮族として
放置プレイか、討伐の対象になるかのどれかしかあり得ない。
125名無し三等兵:04/05/12 23:37 ID:???
>元朝の諸侯に高麗は列せられましたが(フビライの女婿)その扱いはどうだったでしょう。

地続きで武力抵抗した高麗とは事情が違うのでは。
126名無し三等兵:04/05/12 23:37 ID:???
>>121
帝の字も許さないだろ

>「帝」象形。三本のたれた線をまん中でひとまとめに締めたさまを描いたもので、
>締テイ(しめまとめる)にその原義を残している。
>宇宙の万物をまとめて総括する最高神のこと。
>もと「上帝」という字を一字で書いたもの。殷イン代の末
>地上の支配者の権力が強くなり、上帝への信仰が衰えると、帝乙イツ・帝辛のように
>皇帝の名となった。
>周代に帝と名のった者はないが、始皇帝以後は、皇帝はすべて帝と称するようになった。
127名無し三等兵:04/05/12 23:37 ID:???
>>122
朝貢関係は蛮族が皇帝の徳を慕ってくるもの、皇帝が蛮族にこいというのか?
128名無し三等兵:04/05/12 23:38 ID:???
当初は南宋を締め上げるために日本と国交を求めたんじゃないのかな?
日本が元に朝貢すれば南宋と日本の国交は切れることになる。
129ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 23:40 ID:???
>126
高麗は

 強 制 的 に 朝 貢 さ せ ら れ ま し た

が何か?
130126:04/05/12 23:43 ID:???
>>129
そこの穴は違うわよ
131ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/12 23:50 ID:???
>130
じゃあ開発してやるよ!














自分のを_| ̄|○


陳謝します。
13286:04/05/12 23:53 ID:???
>>125
高麗王朝へ対する懐柔策は、高麗内部を撹乱し反蒙勢力の分断・同士討ちをさせる為
事実高麗王朝は反蒙勢力の粛清、掃討を行い(元朝への憶えを良くする為)親蒙姿勢を示し
諸侯にもなったが、現実の扱いは苛烈に搾取されるだけだった。臣従した者に対してこの扱い。
133名無し三等兵:04/05/12 23:54 ID:???
日本の海賊どもの嫌らしさが好き
134126:04/05/13 00:04 ID:???
朝貢だが、苛烈な搾取という一面とリターンが大きい贈り物との側面がある
日本の朝貢は、歴史上ほとんど服属しない東夷が、皇帝の徳を慕って
わざわざ来たってことで、献上品がたいしたことなくてもリターンは大きい。
国内に対しても、皇帝の権威が広く海外に届いている政治的アピールや
権威の増強が見込まれるプラスサムゲーム。

しかし朝鮮半島の場合、国境が隣接していることや
代々の服属国だということから、その朝貢は苛烈だったことの場合が多い。
135名無し三等兵:04/05/13 00:21 ID:TsBCDLsS
文永の役
生意気な日本に一発かます、太宰府落とせればめっけもん位で侵攻。
急襲して勝ち続けたが、物資も乏しくなったし、日本側が兵力集めて反攻
してくるのも怖いし、適当な所で撤退。帰りに嵐でズタボロ。

弘安の役
本格的侵攻のつもり。勝てばリストラ候補の南宋兵を植民、負けても邪魔な
南宋兵が死んでくれるメリット有り。
東路、江南軍との合流日程がガタガタ。上陸地点では予想外の日本の大軍
がお出迎え、手も足もでず海上で長期漂流。当然台風来襲。

ぐらいのイメージなんだが。どんなもんだろ。
136名無し三等兵:04/05/13 00:34 ID:???
>>126
原則としては、朝貢に対してはその数倍の贈り物を返すという習慣があったわけで、
朝貢してた頃の日本はウマーな思いを味わってる。名より実を取るってことだな。
137名無し三等兵:04/05/13 00:35 ID:AJXy4CMa
考えてみれば、日本に軍事階級・軍事政権が成立した後に、
中国の襲来を迎えたのは幸運だったな。

平安朝の時代に襲来されたら終わりだった。
138名無し三等兵:04/05/13 00:40 ID:???
瓜実貴族共なら、そもそも使者の首切ったりしないでもちっと賢く立ち回ったろうさね。
139名無し三等兵:04/05/13 00:45 ID:???
>>138
正規軍消滅させ、検非違使を令外の官にして
徹底的に軍事を嫌った平安貴族だぞ?
兵部卿すら兵の字が不吉ってことで、なり手が少なかった連中だ
どうにもならないよ。プライドだけは高いし

つーか使者の首切ったのは、モンゴルの情報戦術を理解していたからこそ
使者が日本の軍事状況・地理などを克明に記憶してたのは当然でしょ
ありゃ、ポイントオブノーリターンに日本を追い込み、一本化させる手段でもあったんだよ。
140名無し三等兵:04/05/13 00:51 ID:???
>>137
中国側から見たら臣従、平安朝側から見たら友好という、都合の良い解釈で
のほほんと美味しい思いをしたんじゃない?怒らせなければ海を渡って攻めて
来るようなことも考えにくい(あまりにもメリットが少ない)。
141名無し三等兵:04/05/13 02:32 ID:???
>139
刀伊の入寇って知らないのかね?
いちおー太宰府の軍事機能はきちんと機能はしてたのよ。
142名無し三等兵:04/05/13 03:24 ID:???
>>141
しかし平安朝絶頂期に元寇があったならロクでも無い事になったってのは同意するな。
143名無し三等兵:04/05/13 04:33 ID:???
いや、だからあの貴族共なら、そもそも元寇事態おきないって。
あの、売られた喧嘩は10割り増しで買う事しか頭にない武士共だから武力侵攻という
事態まで発展したんであって。

元寇は相手がいきなり何の脈絡もなく攻め込んで来た武力侵攻ではないんだから、
良くも悪くも保身は得意な貴族どもが政治的に解決しちまっただろうさ。
144名無し三等兵:04/05/13 05:01 ID:???
>>143
そりゃ楽観的に過ぎないか?

元が日本に完全な属国になる事を要求して来たらさすがに承伏できんだろうし、そう
なったら結局の所は元寇じゃないの?
145名無し三等兵:04/05/13 07:03 ID:???
はて? 第一回めの交渉で、そこまで苛烈な要求してきてましたっけか?
無条件で元帝国の属国になれって。

前でも出ていたが、元寇のそもそもの原因は日本の南宋政策に原因がある。
なにも元はある日突然、野望に燃えて日本の領有化を狙ったワケではない。
要は日本の南宋政策さえ辞めさせれば良いわけで。
元々が遊牧民族で編成された大陸国家で、元寇以外に大規模な渡洋侵攻をした
事がない元にとってはそれさえ無ければ日本なんて全く眼中に無かったであろう。

元から見れば、従属の証しである朝貢と南宋政策の転換さえ要求すればそれで
事足りる。なにも無理矢理武力支配する必要はない。
地続きならともかく、相手は海の向こうだ。

そもそも、当時の元帝国に積極的な日本侵攻を計画するだけの余裕があったとは
思えないのだが……。
146名無し三等兵:04/05/13 07:57 ID:???
>>102
(・∀・)
147名無し三等兵:04/05/13 08:57 ID:???
>>145
そこで赤マフラーの登場ですよ
14886:04/05/13 10:11 ID:???
>>前でも出ていたが、元寇のそもそもの原因は日本の南宋政策に原因がある。
なにも元はある日突然、野望に燃えて日本の領有化を狙ったワケではない。
要は日本の南宋政策さえ辞めさせれば良いわけで。

元の対南宋政策の支政策としての対日本という一面は事実です。ですが、日本が南宋貿易を止めたとしても、
元の日本侵略は起きましたよ。

>>元々が遊牧民族で編成された大陸国家で、元寇以外に大規模な渡洋侵攻をした
事がない元にとってはそれさえ無ければ日本なんて全く眼中に無かったであろう。

遊牧民だから、全ユーラシアの征服を始めたのですよ。
農耕民なら海を越えて征服するなど考えませんが、遊牧民は異なります。
農耕民とは異なり遥か彼方でも富があることを知ればそれを求めるものです。
モンゴルの大征服の原動力は飽くなき富の追及です。
これは大航海時代のスペイン等欧州にもいえます。
日本が黄金の国として知られていた事実(アラブ商人)から、モンゴルの征服欲が喚起されるのは
不思議な事ではありません。
当然の事ですが、征服するにも順番があります。事実、元は南宋征服後ベトナムを渡洋侵攻(失敗)
しています。ただ、海に対する知識と経験、理解の深さという部分が遊牧民には無い。
元寇というのは自身の征服欲の大きさに現実の自分がついていけなかったと言う事なのです。
149名無し三等兵:04/05/13 10:20 ID:???
なんか「ルーズベルトが人種差別主義者だから戦争避けられない」と同じ臭いがするな…

遊牧民だから、農耕民だから、という論理はあまり説得力無いよ。
なんせ「遊牧民」と言われてるはずの元上層部は中国入りするや急速に中国化していっちゃったんだから。
150名無し三等兵:04/05/13 10:26 ID:???
>>149
それは外れ
モンゴル貴族は、中国人化しなかった
明が成立しても、元の皇族はモンゴル高原に逃走している
歴史上は後元と呼ばれるが、同化していたらモンゴル高原に逃走することすら
できない。

遊牧民が中国人化したのは、五胡一六国や南北朝の時代
たとえば唐の皇帝は遊牧民の先祖を持つ。
15186:04/05/13 10:41 ID:???
>>遊牧民だから、農耕民だから、という論理はあまり説得力無いよ。

モンゴルのユーラシア征服の原動力はよーするに「金」といっているだけです。
遊牧民等々は一面を説明するのに用いているだけです。だから、ヨーロッパ人の事も
持ち出しているのですが。

>>なんせ「遊牧民」と言われてるはずの元上層部は中国入りするや急速に中国化していっちゃったんだから。

侵入異民族の漢民族化・中華化ということは何度となく中国の歴史で起きている事ですが、
元寇の話なので、元に限るとフビライ以前とフビライ以後に分かれます。
以前は「略奪と搾取と殺戮」をおこなっていましたが、大量の流民が発生しただけでした。
これをフビライが改めというか、漢民族流の統治方法をとったということですね。
152名無し三等兵:04/05/13 10:49 ID:???
日本遠征は得点稼ごうとした某国が
「ウリの隣に元様の威光を感じない不届きな国があるニダ!
 名前と兵隊を少し貸してくれたらウリが元様に代わって征伐してやるニダ!」
って上奏分があって始まったものでしょ。確か。
最初は、外交でひれ伏すと思っていたら中華思想のカケラもなく上手くいかないんで
やれやれいいよ少し兵隊持っていって。そんかわり名前貸すからには絶対負けるなよ。
やらせてみたら大敗。(文永の役)
外聞ワリー!征服民族に舐められる!よーっし大軍送ってやるー!
そしてトドメの一撃でアイヤー!アイゴー!の絶叫(弘安の役)
153名無し三等兵:04/05/13 11:16 ID:???
>>152
巣に返れ。
154名無し三等兵:04/05/13 16:23 ID:lYyCy/a0
>>152
もっと世界史的にみろ。ハン板に帰れ。
155名無し三等兵:04/05/13 16:34 ID:???
>>152
最近ハン厨が多いなあ・・・。
156名無し三等兵:04/05/13 16:36 ID:???
すべては半島の法則。
これで片付けられる。
157名無し三等兵:04/05/13 16:41 ID:???
仕舞いに言い出すぞあいつ等は
この世はニダーによって創造されたと
158名無し三等兵:04/05/13 17:04 ID:???
>>156
>>157
それはひょっとしてギャグで言ってるのか?(AA略
159名無し三等兵:04/05/13 17:19 ID:???
ハン厨はともかくとして、議論が歴史学的になってるのもどうかと。
せっかくスレタイが「軍事的に」となってるわけだし、元やフビライの傾向・思惑の当否については世界史板に任せて
ここでは結果として派兵された元軍のデータをもとに議論をすべきではないかと思われ。

軍人が政略に口をはさむと碌な事にならな(已下略
160名無し三等兵:04/05/13 17:45 ID:???
蒼き狼

「狼になれ、俺も狼になる」
161名無し三等兵:04/05/13 17:59 ID:???
>>159
いつから軍ヲタがぐんじn(已下略
162名無し三等兵:04/05/13 18:05 ID:???
>>159
軍事よければ全てよしな人を釣るのは楽しいですか
163名無し三等兵:04/05/13 18:31 ID:???
つーか歴史学ってほどの内容でもないし。
164名無し三等兵:04/05/13 19:05 ID:???
>これは大航海時代のスペイン等欧州にもいえます。
そのころには欧州はとっくに農耕社会になっていました。
165名無し三等兵:04/05/13 19:18 ID:???
>>146
(・∀・)

166True/False ◆ItgMVQehA6 :04/05/13 19:19 ID:???
>164
同感。
ただ、しばしば牧畜農耕社会=狩猟民族の社会と混同している人が見うけられますね。
167名無し三等兵:04/05/13 19:23 ID:???
>ここでは結果として派兵された元軍のデータをもとに議論をすべきではないかと思われ。
元軍は日本侵攻軍を長期間維持する補給体制を準備してなかった。
初めから一戦闘したら帰る予定だった。
168名無し三等兵:04/05/13 19:27 ID:???
スペインは、新大陸の膨大な銀を使って
インフラの整備を行わず、国内が荒れ果ててしまったことが
没落の原因なんだよなあ。

あと、低地地方の維持に戦力をかけすぎたのも問題
恒常的に3万以上突っ込めば、戦費で赤字だらけになる。
169名無し三等兵:04/05/13 19:40 ID:???
>>168
なんか武田家の末路に似ているな

金山が経営の主力→金山枯渇で収入がた落ち
遠江出兵の繰り返しで国力疲弊
170名無し三等兵:04/05/13 20:29 ID:???
文永の役は本格衝突前に帰ってるし、弘安の役は元は大軍だったけど、日本
側も同レベルの大軍に石塁用意して順当に追い払ったて感じで、あまり軍事
での妄想ネタがないな。
志賀島の上陸部隊は撃退、長門上陸の分遣隊は殲滅と日本側が強いというか
元側の見通しが甘すぎって感じだな。
171名無し三等兵:04/05/13 20:44 ID:???
>>146
悔しそうでつね。ぷぷぷぷ
172名無し三等兵:04/05/13 21:33 ID:???
>>171
(・∀・)
173名無し三等兵:04/05/13 21:38 ID:???
>>172
(・∀・)

17486:04/05/13 21:45 ID:???
>>164・166
ただ、しばしば牧畜農耕社会=狩猟民族の社会と混同している人が見うけられますね。

このような表現がでる事を意外に感じます。
お前馬鹿なんだな。
175ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 21:53 ID:???
>167
「一戦闘」とはどの程度?

軍事的な表現で言うと、元軍の「具体的に達成すべき目標」はなんだったの?

「元は本気じゃなかった」説は、おしなべてその部分の説明が欠けている(もしくは
おざなりで軍事的妥当性が皆無)なんだよな。
176名無し三等兵:04/05/13 22:20 ID:???
「至元十一年冬十月,入其国敗之.而官軍不整.又矢盡.惟虜掠四境而帰.」
(元史日本伝より)

矢が尽きたという点がポイント。
明らかに長期戦を考慮していないっぽい。
177ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 22:24 ID:???
長期/短期は作戦目的の有り様を規定するものではないんだが。

短期決戦主義のプロイセンは本格的な戦闘を考えていなかったとでも?
178名無し三等兵:04/05/13 22:24 ID:???
>>173
(・∀・)
179名無し三等兵:04/05/13 22:27 ID:???
>>178
(・∀・)

180名無し三等兵:04/05/13 22:28 ID:Y2vo4bbJ
>>173
(・∀・)

181名無し三等兵:04/05/13 22:29 ID:???
>>180
(・∀・)

182名無し三等兵:04/05/13 22:30 ID:???
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
183名無し三等兵:04/05/13 22:30 ID:Y2vo4bbJ
>>181
(・∀・)

184名無し三等兵:04/05/13 22:31 ID:???
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
185名無し三等兵:04/05/13 22:34 ID:Y2vo4bbJ
>>184
(・∀・)
>>184
(・∀・)
>>184
(・∀・)
>>184
(・∀・)

186名無し三等兵:04/05/13 22:35 ID:???
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
ID:Y2vo4bbJ(・∀・)
187名無し三等兵:04/05/13 22:36 ID:???
>>185
(・∀・)
>>185
(・∀・)
>>185
(・∀・)
>>185
(・∀・)


188名無し三等兵:04/05/13 22:36 ID:???
>>176
どうゆう種類の戦でどんだけ矢種をよういすんかのう?
無駄玉撃てば足りなくなるはいうまでもない。
189名無し三等兵:04/05/13 22:39 ID:???
>>177
しかしミリよ、実際わずか2日の上陸戦闘で矢が足りなくなるような有様では
元軍が博多占領を真面目に考えてたようには思えんのだが。

それとも、それ以前の対馬や壱岐での激しい抵抗を評価するべきなのか?
190名無し三等兵:04/05/13 22:51 ID:???
>>189
それより、優勢だった元が船に引き上げた事の方が重要では?
191ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 22:54 ID:???
>189
兵站に関する資料がほぼ皆無なので明確なことは言えないのが実情だが、
一つには船舶によって兵站をまかなう必要があった故のものとも考え得る。

つまり「持たなかった」ではなく「持てなかった」という可能性。

また、例え本格的侵攻を企図していなかったとしても、モンゴルのやりよう
からすれば敵軍主力の殲滅程度はしてみせるはずだし、またそうしないと
見せしめの意味がない。

見せしめをするにも相応の規模でなければならないって事だよ。じゃなければ
対馬・壱岐だけで作戦目的は達成したとも言えるんだから。
そうじゃなかったのは、矢張り軍事的に価値ある目標を指向していたと
見るべき。
192名無し三等兵:04/05/13 22:55 ID:???
元側としては、大軍を動員したことによる示威行為を
期待してたんじゃないかね。
193名無し三等兵:04/05/13 22:56 ID:???
>>175
 おーい。レス読んでる?
「元は本気じゃなかった」説を唱えている人は、「達成目標」をちゃんと説明しているぞ
(正解かどうかはさておき)。どの辺がおざなりなんだ?
日本の南宋政策を取りやめさせ、政治的に元に屈伏させること。
もちろん、その為には幕府に圧力を掛ける必要があるから、太宰府あたりまでの占拠
は考えていただろうし、日本が屈伏すれば対日政策拠点として恒久支配する気もあっ
ただろう。だが、日本全土に侵攻なんて考えてないと思うが。

軍事的妥当性も充分にあるが。最低限の軍事力で目的を達成できれば、それで良い筈。
そもそも当時の元帝国に日本を本格的に侵攻する余力があったのか? 

だいたい、兵站は? 屯田するにしてもすぐにどうこうなるモンじゃないし、略奪は完全
じゃない。本土まで侵攻した場合、とても兵站が持つとは思えないのだが。
194名無し三等兵:04/05/13 23:01 ID:???
一応腐っても元は一応は中国王朝なわけで、
東方の野蛮人にやられた挙句の果てに台風がきて沈みましたとは書けんだろう。
あと、沈んだ元船からは、穀物の種などが発見されていたはずだが…
つまり明確に植民活動を念頭に入れた出兵だった。
195ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 23:01 ID:???
>193
「具体的に達成すべき目標」という言葉が分からなかったのはよく分かったよ。

南宋云々は「軍事的成果を基に追求すべき政治的目標」であって、漏れが
言ってるのはもっと純軍事的な目標のことだ。

例えば敵野戦軍主力の殲滅。例えば敵方面軍管区内の重要な軍事拠点攻略。


そういうのを説明しているのにはとんとお目にかかれない。
196名無し三等兵:04/05/13 23:04 ID:???
>>195
さすがエーリト自衛官(ってのは脇においといて
いいたい事は判るんだが、そもそも元はどれくらい、情報を持っていたのかね?
何か知ってる?
元の軍事目標とか、軍事目標を設定するにたる情報とか。

ほら、モンゴル帝国って、斥候を町へ送り込んだりした伝説があるじゃない。
197ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 23:04 ID:???
つまり、もっとわかりやすく言うと「政治的に屈服させるためには、軍事的に
どの程度の成果を得る必要があるか」って事だよ。

それを考えないから、軍事的には何らかの成果を収めたと言い難い元の
撤退も「最初の予定通り」とか言い出すんだな。
198名無し三等兵:04/05/13 23:06 ID:???
>>197
それで、大宰府説(だっけ?
199赤色大元帥:04/05/13 23:08 ID:???
>>196
使者としてやってきた趙良弼が、滞在中に日本の事を
けっこう細かく調べて報告していたという話もありますな。
200ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 23:10 ID:???
元使の藩阜なんかは、太宰府に5ヶ月ほど滞在、筑紫地区の地理等を
観察していたし、第一太宰府にそんだけ滞在すれば、そこが周辺地区
における重要な軍事拠点だって分かるだろう。つーか高麗からその程度
の知識は得ていてしかるべき。

偵察してたって言うソースは八幡愚童記
201名無し三等兵:04/05/13 23:10 ID:???
情報がなさ過ぎて議論になってない感じ。
202ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :04/05/13 23:13 ID:???
 結局、元の軍隊が何をしたかったのかがワカランのが先ずの問題か?
203名無し三等兵:04/05/13 23:13 ID:GlBR6Bzn
>>193
むちゃくちゃですね(「元は本気じゃなかった」説)元の文永の役が示威こういであるなら
大宰府占領なんて何処をひっくり返せば出ってくんの?
南宋戦で日本に伝わるように残虐行為(元の恐怖を宣伝する)をより過激に苛烈に行う方が
南宋もビビルし、日本もビビル。
軍事的に言えば>>193氏の言う事とは行き当たりばったりのアムリッツア会戦だぞ。
204196:04/05/13 23:15 ID:???
おお、さすがに軍板だねえ。大元帥とエーロイ自衛官。
元使の偵察はあった、と見て良さそうやね。おおよその地勢つうか、要地の把握はできていた、と。

まあ、天平の昔から、あの辺には山城とかあって、対朝鮮戦の要点だったことも確かやね。


ふと思ったんだが、元軍はあくまで軍隊を輸送して、陸上での決着を想定していたと思う?
それ以外の軍事力行使と言うと、海賊的な制海権力の掌握ってやつがあるんだが←これは、やってないか。

って、漏れ、無知だなあ。_| ̄|○
205ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/13 23:18 ID:???
>202
しかし、生じた結果はある程度は判明している。

それを基に逆算していくと、あの撤退が「予定通り」であるなら元の企図とは
池野めだかよりアレな姿になってしまうって事なんだな。
206名無し三等兵:04/05/13 23:24 ID:???
高麗軍司令官の都督使・金方慶は、このまま大宰府まで押し込もうと主張したようだが、
他の首脳陣は皆反対して撤退決定。

総司令官、征東都元帥・忻都
副司令官、征東都副元帥・洪茶丘および劉復享
高麗軍司令官、都督使・金方慶
    ↑
実はこの面々は、日本侵攻以前に朝鮮で三別抄相手に何度か激しい
島嶼戦を経験しており、それ故に対馬・壱岐・博多での強い抵抗を見て、
「こりゃ相当腰据えてかからんとダメポ」と判断して退く事にしたんじゃないかねぇ?
207名無し三等兵:04/05/13 23:27 ID:GlBR6Bzn
文永の役の後にきた使節は大宰府ではなく、いきなり長門に来たものもいる。
弘安の役では長門に上陸しているので、使節=偵察は間違いとはいえない。
208名無し三等兵:04/05/13 23:30 ID:???
つまり、文永の役における元の作戦方針とは、

 か な り 行 き 当 た り ば っ た り

だったのではないかと?
209名無し三等兵:04/05/13 23:32 ID:GlBR6Bzn
>>206
正しい見方ですね。実際こいつらは敗戦の責任を取らされてないし。
(神風とかの与太は無よ)
210名無し三等兵:04/05/13 23:33 ID:???
>>207
だから鎌倉幕府が元の使者をザクザク切り殺したのは、軍事情報戦の観点から見て
妥当なんだって言う人もいるけど、ホンマにええんかなー?
211名無し三等兵:04/05/13 23:37 ID:???
妥当かも知れんがもっといい手段はあるような無いような
212名無し三等兵:04/05/13 23:39 ID:GlBR6Bzn
>>210
使者を全部死者にしたわけではない。
213名無し三等兵:04/05/13 23:40 ID:???
モンゴルは使者を殺されると、殺した都市を屠るからね。
面子潰したのは確か。
214名無し三等兵:04/05/13 23:43 ID:???
まぁ鎌倉幕府も"こんどはこっちから大陸遠征だ!!"とか言ってたわけだが
215名無し三等兵:04/05/13 23:43 ID:???
毛利元就ならニセ情報掴ませて送り返すとか
もうちょっと気が利いた手をうったかもしれんが
北条のボソボソには、あれが精一杯の虚勢だったんだろ
216名無し三等兵:04/05/13 23:48 ID:GlBR6Bzn
何か幕府が使者を殺し捲くったみたいなこと言ってるけど、違うぞ。
1266年の第一回日本招論から1272年の第6次まで誰も殺してないぞ。
ただ、無視しただけ。
217名無し三等兵:04/05/13 23:49 ID:???
>>214
御家人どもの不満をそらすためのポーズだろ。

>>215
確かに、鎌倉幕府に元就クラスの謀略家がいたら面白かったかもな。
218名無し三等兵:04/05/13 23:58 ID:???
まったくどーでもいい話だけど、ふと思い出した。

確か佐藤大輔も「元寇」は脅しで本格的日本侵攻ではないって説の持ち主だったな。
飽く迄も南宋政策の一環で、日本は政治的支配圏にあれば良いという奴。
たしか「征途ノ国」だったか、そんな名前のコラムで元寇について語ってたいた。

もちろん、佐藤大輔の説が正しいとは限らないけど。
219某研究者:04/05/14 00:05 ID:jnpb3eh6
まあ朝貢に応じたとしても何れは高麗の様に滅ぼされると
考えたのであるなら
使者を殺し相手の攻撃態勢が整わぬ前に攻めさせて
此れに打撃を与えれば
講和も結べると考えた部分は無いのかだが
220名無し三等兵:04/05/14 00:06 ID:???
元とか高麗とかって日本についての情報どれぐらいもってたんだろう。
少なくとも弘安の役の前なら日本側の兵力動員や石塁ぐらいの情報を知っていれば
うまくいかないぐらい気づきそうなもんだが。少なくとも長門に7千の兵力で上陸なん
て無謀なことしなかったと思うんだが。
221名無し三等兵:04/05/14 00:08 ID:rBvXNml9
元とは?
気に入らない国
   ↓
   出兵
   ↓
結果オーライ
   ↓
イケイケどんどん世界征服!
222某研究者:04/05/14 00:12 ID:jnpb3eh6
まあ只余りに早く使者を殺せば
日本側の防備体制も整わない侭
敵の侵攻を許すだろうから
日本側の防備体制が整った後で
使者を殺したと言う事も
有る訳だろうか
223名無し三等兵:04/05/14 00:21 ID:???
某研に久しぶりにまともなスイッチ入ってるな
224某研究者:04/05/14 00:28 ID:jnpb3eh6
石塁の存在は知っていたが
兵の能力を侮っていたと言う事は無いのかだろうし
石塁も余り巨大な物では
無かっただろうか
225名無し三等兵:04/05/14 00:31 ID:???
HP管理者には悪いが、まあおまいらこれでも嫁
ttp://jpnkiryaku.hp.infoseek.co.jp/histo2.html
226名無し三等兵:04/05/14 00:43 ID:ENV2FLtq
(・∀・)ゴスロリチャーン
227名無し三等兵:04/05/14 01:24 ID:???
>>225
純粋培養の嫌韓厨って感じがユンユンします

     Ο
      0
   ∧_∧
   < ''`∀´''>
229名無し三等兵:04/05/14 01:45 ID:???
嫌韓厨=どうしても半島中心の視点でしか歴史をとらえることの出来ない韓国マニア。
      一日26時間ぐらい韓国のことを考えている。
230名無し三等兵:04/05/14 01:49 ID:???
愛されているじゃん、韓国(w
231名無し三等兵:04/05/14 02:39 ID:???
石塁の話題が出たので日本史住人から軍板の皆さんに質問。
筑紫の石塁、長篠の戦いの木柵、万里の長城にしても、避けりゃあいいじゃんと思われてならないんだが
上記はいずれもそれなりに役に立ってしまってるらしいんことについてどう思われますか。
ヒトラーはマジノ線に馬鹿正直に突っ込んで逝かなかったよね。
232某研究者:04/05/14 02:53 ID:jnpb3eh6
避けたとしても背後を突かれると考えたのかも知れぬし
食料の補給或いは現地調達している様な状況で
攻撃を受ければ厄介な事に
成ると考えたのかも知れないが
233名無し三等兵:04/05/14 02:56 ID:???
上陸最適地点に石塁があれば、突っ込むしかない。
馬が突入できる場所に木柵があれば、突っ込むしかない。
万里の長城については……役に立ったけ?

大軍を展開するには、それ相応の場所が必要。
どこでも良いというワケじゃない。ただそれだけのこと。
何の意味もなく防壁は作られているワケじゃない。
234名無し三等兵:04/05/14 03:05 ID:3AAHunsu
そういや、光栄のチンギスハーンのゲーム(何番目かは忘れた)の攻略本に
元軍の一部が上陸してどっかの都を占領。でも包囲されたんで人質の安全と引き換えに
日本に帰化させてもらったって書いてあったんだけど。

やっぱりネタだよね
235名無し三等兵:04/05/14 03:06 ID:???
>長篠の戦いの木柵
後方の補給線を絶って、決戦を強いたとかなんとかそういう話を
蟹様がしていた記憶が。
236名無し三等兵:04/05/14 03:36 ID:???
台風でやられた連中なら、どっかその辺に流れ着いたかもな。
んで、徒党を組んで村とか襲ったかもしれん。

しかし、帰化ねぇ……。
237名無し三等兵:04/05/14 05:05 ID:???
北のほうにも来てなかったっけ?
238名無し三等兵:04/05/14 11:38 ID:rBvXNml9
>>233
万里の長城は監視台としては役に立ってたんじゃない?
ただ、防壁としては?実際長城を挟んでの攻防戦って聞かないね。
あ、そうそう、清の時代に満州への漢民族の流入を長城が防いだんだよ。役に立ってるよ。
って何か変!
239名無し三等兵:04/05/14 12:44 ID:???
>>183
(・∀・)
>>186
(・∀・)
>>187
(・∀・)
240名無し三等兵:04/05/14 13:16 ID:???
四国の人はなんつーか日本人かテメエって感じの南洋系の顔つきが非常に多いのですが、元と関係ないな
241名無し三等兵:04/05/14 13:55 ID:???
>>240
南九州にも多いな。元とは関係ないな
242名無し三等兵:04/05/14 17:52 ID:???
>>240
(大)元ってどこのことかわかってる?
243赤色大元帥:04/05/14 19:40 ID:???
>>240
たとえば長宗我部は始皇帝の子孫とも言われているんですよ、だから(ry
244名無し三等兵:04/05/14 20:32 ID:???
>>180
(・∀・)
>>183
(・∀・)
>>185
(・∀・)
>>239
(・∀・)
245名無し三等兵:04/05/14 21:37 ID:???
>>220

『朝鮮史』(朝鮮総督府編纂)に『元高麗紀事』耽羅至元9年11月15日条が引用されている。
「(元の)中書省、帝ニ奏シテ曰ク、
先ニ耽羅・日本ノ事ヲ議ス。
臣等、枢密院官ト倶ニ詢問スルニ、
南国ヨリ日本ヲ経由シテ来レル耽羅人三名アリ、図本ヲ描キ、到リ称ス、
『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』
トイフ。」

耽羅人三名だけでなく、趙良弼たちからの情報も加味したのでしょう。
246名無し三等兵:04/05/14 22:38 ID:???
>>245
2〜3万人の兵力で太宰府奪えるよ、ってこと?
まあ奇襲すれば陥とすだけなら出来るかもしれんが、やはり甘すぎる
判断を持ってたのかな。
247名無し三等兵:04/05/14 22:43 ID:ENV2FLtq
日本には百万の兵力があったから、たった2〜3万などたいしたことない。
248名無し三等兵:04/05/14 22:49 ID:???
( ̄□ ̄;)
>>244
(・∀・)
249名無し三等兵:04/05/14 22:50 ID:???
>>247
まあ、動員できればね。
って、漏れ、どれだけ動員されたのか知らないし_| ̄|○
教えて、エーロイ自衛官
250名無し三等兵:04/05/14 22:58 ID:???
>>248
(・∀・)
251名無し三等兵:04/05/14 23:10 ID:???
なんの資料だったか失念したが、文永の役では

元・高麗軍:20000名
日本軍:10000〜15000名

程度の正面兵力だったと書いてたのを見たことがある。
これがある程度正しいならば、そもそも攻者三倍の法則を満たしてないワケで
これで本気で日本侵略できると思ってたのなら、相当に甘いっつーか舐めてい
たっつーか。

本気じゃない説の方がマシに思えてくる……。
252 :04/05/14 23:17 ID:lYNR+JcG
いわゆる元寇は前哨戦みたいなもんで、元は中国に100万程用意してたし、
日本も20万程度は動員できただろうから・・・ガクガクブルブル
253名無し三等兵:04/05/14 23:19 ID:???
>>251
兵数は概ねそんなもの、まあ一回目は小手調べ、どうせ高麗兵だから損害は無視できる。
実際、将官も責任を問われててないし、処罰なし。皇帝陛下は「じゃ、次」ってなもんよ。
254249:04/05/14 23:20 ID:???
>>251
アリガト

思いつきだが、日本の動員兵力って、武士の一族郎党でしょ。
その分、元軍の兵力見積もりも甘くなるんじゃないかな。元軍の偵察要員には、動員可能な郎党兵力を見積もれるかね?

そこで、ミリ氏の言う「戦術的成果をあげて、威信も満たす」説ですよ。
255名無し三等兵:04/05/14 23:23 ID:???
2万ってのは、用意できた船(水夫)の数による上限なのかな?
256名無し三等兵:04/05/14 23:27 ID:???
モンゴルの支配の仕方は敵対するものは容赦しないが、従うものには
温情もあるし、能力のあるものは異国人であっても厚遇する、といった
感じなので(もちろん支配者としての絶対的地位は揺るがせないが)、
鎌倉時代の武士ってのはけっこうドライな関係だったという話もあるので、
逆らわないものには土地を保証するって事になったら必死で戦っても恩賞
が入る訳でもないし、とっとと寝返る、とかいう事にはならないかしら?

とか電波を出してみる。
257名無し三等兵:04/05/14 23:37 ID:???
>>250
(・∀・)
258名無し三等兵:04/05/14 23:37 ID:???
対馬や壱岐で、兵に駆り出された男性島民が毒矢で呼吸困難で死んだ後、
女性や子供が手に穴を開けられて船から縄で吊るされたようですが、
これはそれらを相手にレイプした後ですか?
あるいは手にあいた傷口から出る血でサメが集まり生きた状態で胴体を
サメに食いちぎられるのを見て楽しむためですか?

それとも殺した後で手に穴を開けたのであって、その後は
モンゴル軍がバクダッドでやったように長期間保存に耐える
干し肉にしたのですか?

キリストの磔刑は本来は手首に釘を打ち込むべきもので、そうでなく
絵画のように掌に穴を開けても、掌は指の付け根の骨しかないので
吊るすと体重ですぐに切れて落ちてしまうそうですが。
モンゴル軍も対馬でそのようにしたのでしょうか?死体はサメに食われて
詳細は分からないままですか?
259名無し三等兵:04/05/14 23:38 ID:???
基地外さんが通る
260名無し三等兵:04/05/14 23:43 ID:???
>>259
♪グロい妄想、振り撒きながら
はいはいはいよ、基地概算が通る。
グロい妄想、振り撒きながら〜♪
261名無し三等兵:04/05/14 23:43 ID:???
>>257
(・∀・)
262名無し三等兵:04/05/14 23:45 ID:???
>>256
絶対に無いとは言えないな。鎌倉武士の倫理観と江戸期以降の日本人の倫理観は
大きく異なるし。

だが、鎌倉武士に蒙古風の軍制を強要したら反乱を起こすかも。
263名無し三等兵:04/05/14 23:51 ID:???
>>256
 というか、元が鎌倉武士の領有地を認めるとは思えない罠。

 まぁ、それに幕府も散々「元にやられたら土地全部奪われるぞ!」と散々吹いて
団結力を強めたらしいし。

 喩え幕府に対する忠誠心はゼロでも、土地に対する愛着は数百倍w
 ちょっとやそっとのことじゃぁ、元に寝返る事は考えられないなぁ。
264某研究者:04/05/14 23:54 ID:ENV2FLtq
矢張りモンゴルマンでは神国日本を征服するのは無理なのだろうか
265名無し三等兵:04/05/15 00:01 ID:???
>>263
まさしく「一所懸命」
266某研究者:04/05/15 00:23 ID:MgkzQP9Q
日本川も10万程度なら動員出来たかも知れぬが
元は30万は果たして動員可能だったのかだが
267某研究者:04/05/15 00:30 ID:MgkzQP9Q
恩賞問題解決の為に
日本側が朝鮮や中国に討って出ると言うのは
矢張り船の数の問題も有り
困難だった訳だろうか
268名無し三等兵:04/05/15 00:31 ID:???
動員は出来たかもしれんが、運ぶ手段あるんかいな?

一度に全員運ぶ必要はないだろうが、後続を期待するにはまず橋頭堡を築かないと
アカン。
防備が脆弱だった文永の役ですら橋頭堡を確保できずに船に引き上げている所を
見ると、少なくとも2万を遥かに越える兵力を持ってくるしかないがそれだけの軍勢を
一度に運ぶ船が確保できるのか?

これが石塁が築かれ防備体勢が整った後になると、一度に5万ぐらい持って来ないと
橋頭堡も作れないような気がする。
269名無し三等兵:04/05/15 00:35 ID:???
 あっと、>>268>>266へのレスっす。


>>267
 船の問題っつーか、白村江の惨敗より日本の海軍力は壊滅状態にあったと思う。
 少なくとも渡洋作戦を遂行するだけの戦力も能力も無いだろうし。

 秀吉の時代まで待つしか無い罠w 
270某研究者:04/05/15 00:37 ID:MgkzQP9Q
山岳地や攻城戦ではモンゴルの騎兵は生かせないだろうし
歩兵の能力は槍兵が居てさえ
弓の数等では大差無かったと言う事なのだろうか
(城内での乱戦では槍より長巻や刀の方が
 有効かも知れぬし
 モンゴル歩兵が主に槍を使用していたのであれば
 剣の技術は余り無かったかも知れないが)
271名無し三等兵:04/05/15 00:38 ID:???
しかし、一次動員は西国から、瀬戸内の輸送ネットワークを使えば(・∀・)イイ!んじゃないか?>動員
272名無し三等兵:04/05/15 00:40 ID:???
>>270
モンゴルの攻城技術って、あの時代でどうだったんでしょうね。
金を最終的に屈服させたのは、攻城技術の攻城と関わりあるんじゃないかな(とかゆんゆんしてみる。
273名無し三等兵:04/05/15 00:43 ID:???
>>263
どうだろ?フビライの時代は違うかもしれないけど、
中央アジアの都市なんかだと、行政官据え置きみたいな
事もあったようだし、まぁ"鎌倉武士の所領"とは事情が
ぜんぜん違うけど。
274名無し三等兵:04/05/15 00:45 ID:???
>>266
偽者め!本物の某研は誤字には無縁だぞ!!
275赤色大元帥:04/05/15 00:47 ID:???
ホラズムは最初40万の軍隊で真っ向勝負してなんとか
勝ったけど、次の戦いでは各都市で篭城したら次々と
落とされ&降伏されられたみたいですが・・・。
276名無し三等兵:04/05/15 00:48 ID:???
>>275
モンゴル帝国自体が、西方制圧のたびに、攻城戦能力を高めていった、という説を読んだ記憶も…ウロオボエ。
277名無し三等兵:04/05/15 00:49 ID:???
当時の日本武士の戦闘スタイルって、少数で突入→殺れるだけ殺って駆け抜けって
奴だったような。
歩兵突撃や、本格的な射撃線の概念は無かったと思う。

この為、常に少数で突撃してくる日本軍を、得意の集団先方で最初は嘲笑いながら
蹴散らしていたかもしれんが、逆に言えば少数の敵がのべつくまなく襲い掛かってく
るわけで、元軍も休む暇無くて困ったんじゃなかろうか。

一度に大軍同士でぶつかれば敵野戦軍を殲滅できるし、元もそれを目論んでいたと
思う。しかし、日本軍ときたら、兵力の集中投入を行わずあっちから少し、こっちから
少し……お陰で全然敵軍殲滅が果たせない。これでは元も相当消耗してしまうだろ。
しかも、原則として援軍は困難な元に対して、日本側はあちこちから援軍を掻き集める
事が出来るわけで。
278名無し三等兵:04/05/15 00:53 ID:???
>>277
佐藤御大も、そのような「遭遇線の連続」と評していたっけ?

戦闘レベルで言えば、襲撃、夜襲なんかも積極的に行われただろうけれど、もちろん証拠は無い(w
279某研究者:04/05/15 01:01 ID:MgkzQP9Q
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e12.htm
船の中で迄槍を用いている様な連中なら
乱戦でも槍を用いる可能性も有るのかも知れぬが
狭い場所で槍は何処迄有効かだが
日本の徒士が持つ長巻も結構長かっただろうし
騎馬武者の弓は兎も角剣の技能と言うのは
モンゴルの歩兵や騎兵の其れより高かったのかだが
280某研究者:04/05/15 01:05 ID:MgkzQP9Q
蒙古兵の槍と日本の徒士の長巻の長さは変わらない様だが
乱戦で剣での打ち合いに成った場合は
何れが強いのかだが
日本側は矢が切れた後は石を投げていたのだろうか
281某研究者:04/05/15 01:07 ID:MgkzQP9Q
モンゴル騎兵と日本の騎馬武者が
下馬して城内等で剣で打ち合った場合は
何れが強いのかだろうが
モンゴル騎兵等鎧を着ている者は少数だろうし
盾も全員は装備していない様にも見える訳だが
282某研究者:04/05/15 01:09 ID:MgkzQP9Q
モンゴルの槍の陣形もファランクスの様な密集隊形では無いだろうし
乱戦に持ち込まれる可能性も有る訳だろうし
乱戦に持ち込めば甲冑を装備している日本側の方が
有利だったと言う事は無いのかだが
283名無し三等兵:04/05/15 01:11 ID:???
>>282
矢玉の弾幕(?)が厳しくて、突入には失敗しているようでつ>日本騎兵
284某研究者:04/05/15 01:12 ID:MgkzQP9Q
長巻も長さはモンゴルの槍と殆ど大差無い様に見えるが
重い分打ち合いには不利である訳だろうか
285名無し三等兵:04/05/15 01:12 ID:???
>>278
 おおぅ、佐藤大輔氏もそのような事を。なるほど。遭遇戦の連続ね。
 横山派としては喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか?(笑)

 戦法としては目茶苦茶だけど、考えてみれば日本軍は時間が立てば立つ程有利
(周辺よりの増援、地元民の抗戦、敵軍兵站の弱体化等)になるワケで。
 もっとも、小部隊単位で突入なんかしたらその度に殲滅されて被害はトンデモない
レベルになるけど……まさに血で時間を買う状態。

 それでも、一気に主力軍を殲滅されるよりはマシか……純粋な戦闘力では向こうの
方が上なワケだし。
286某研究者:04/05/15 01:15 ID:MgkzQP9Q
まあ防塁にモンゴル兵が突入して此れを迎撃する場合は
乱戦にも成るだろうし
其の場合は甲冑を装備していた方が
矢張り有利かも知れないが
287名無し三等兵:04/05/15 01:15 ID:???
そこで

 ア フ ガ ン 航 空 相 撲

ですよ!

ttp://www.h5.dion.ne.jp/~mlg/airsumo/airsumo.htm
288名無し三等兵:04/05/15 01:16 ID:???
>>283
 弾幕もさる事ながら、騎兵の数そのものも少なかったんじゃなかろうか?
 いや、頭数はそれなりにいただろうけど、集中運用されなければ烏合の衆なワケで。

 各武士団が連携して突撃するようなドクトリンも無かっただろうから、各々の騎兵が
バラバラに突撃した揚げ句に戦果も無いまま撃退されたって所では?
289名無し三等兵:04/05/15 01:18 ID:???
>>285
戦闘参入、キリの良いところで撤退、戦果の報告。再び戦場近傍へ移動、機を見て襲撃(以下略
だった、と評していたようだが…例の新書が見つからない。スマソ。
誰ぞ補完ヨロ
290赤色大元帥:04/05/15 01:20 ID:???
当時の武士って、騎兵とその従者達(歩兵)って感じで、
騎兵だけの部隊があったという印象はありませんですな。
291名無し三等兵:04/05/15 01:21 ID:???
>>288
まあ、徒歩を引きつれた小集団の、さらに集合したモノだからねえ。
ゆえに襲撃の連続、と評する筋があるわけで。

ただ、弓だけでは阻止できても、撃破できない。
追撃すると、まだ元気な別武士団と遭遇戦を演じる羽目になるだろうし。

うむ、このへん突っつくと面白いかも。
292某研究者:04/05/15 01:23 ID:MgkzQP9Q
まあ敵の集団に迂闊に近寄らず
矢の射程を生かして敵をアウトレンジし続ければ
敵も一方的にやられていくかも知れぬが
モンゴル側の騎兵の追撃も有るだろうが
此れは馬を余り運べなかったかも知れぬなら少数なのだろうか
293名無し三等兵:04/05/15 01:25 ID:O2CIeot7
騎兵は降りて戦ってました
とかそういうのはないよね・・・。
294某研究者:04/05/15 01:28 ID:MgkzQP9Q
1万等の騎兵が散発的にでも矢を放って離脱する事を繰り返せば
敵もかなりの打撃を受けるだろうし
日本側の騎兵はモンゴルと異なり
全て弓を扱えると言う事だろうが
1万の騎兵が余り密集しては素早く敵の歩兵の矢の射程外に
離脱する事も困難だろうし
散発的だが長時間大量の騎兵を用いて
一撃離脱を繰り返せば敵にかなりの打撃を与えられた可能性も
有る訳だろうか
295名無し三等兵:04/05/15 01:28 ID:???
佐藤大輔氏のコラム「不征の国」より。

・武士団単位で逐次投入
・敵陣突入、首を取る
・本陣に戻り、戦果報告
・再び敵陣へ

はこれまで非難されることのみ多かった戦法だが、前進しようとする蒙古軍に、次から
次へと新手がぶつかる機動防御/遅滞防御の一変形と考えられないこともない。
〜中略〜
この点も数に限りのある蒙古軍に損耗を強いれば勝ちという鎮西軍の立場から考えれ
ばそう悪い戦闘方式ではない。



 なお佐藤氏は「元は本気じゃない説」の持ち主だが、本気説の人の反論を聞いてみた
い所。
296某研究者:04/05/15 01:29 ID:MgkzQP9Q
>騎兵は降りて戦ってました
>とかそういうのはないよね・・・。

蒙古襲来絵詞を見る限り日本の騎馬武者は騎乗して射撃しているし
下馬して矢を放つ場面は無いが
モンゴル側は騎馬して矢を放つ場面も見当たらないし
騎馬弓兵らしき物も見当たらない訳だが
まあ防塁では騎馬武者も下馬して矢を放っては居ただろうか
297名無し三等兵:04/05/15 01:30 ID:???
>>294
 仮に日本側の総兵力が10000だとしたら、騎兵は精々2000〜3000ぐらいだと思われ。
298某研究者:04/05/15 01:33 ID:MgkzQP9Q
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e04.htm
失礼モンゴル側にも騎馬弓兵は良く見ると居るが
槍を持つ騎兵も多い様だが
モンゴル側の騎兵の数はどうだったのだろうか
299某研究者:04/05/15 01:35 ID:MgkzQP9Q
2000の騎兵が弓の射程を生かして
モンゴル歩兵をアウトレンジし続ければ
かなりの損害も出るかとは思うし
其れを何日も続けられればモンゴル側の消耗は必至だろうか
300名無し三等兵:04/05/15 01:36 ID:???
弘安の役
☆蒙古軍の兵員数
東路軍総兵力     42,000人
東路軍交戦兵力    25,000人
江南軍総兵力     100,000人
江南軍交戦兵力    60,000人

☆日本軍の兵員数
長門地区交戦兵力  25,000人
博多湾交戦兵力    40,000人
京都地区交戦兵力  60,000人

元寇ー本土防衛戦史ー(陸自)

て、日本側もずいぶん兵隊かき集めてたんだね。 
301某研究者:04/05/15 01:38 ID:MgkzQP9Q
日本の騎兵も弓での戦いには慣れているだろうし
迂闊に相手の弓の射程に踏み込むのかだが
モンゴル側の弓の射程の方が日本側より長かったとの
記述も有るだろうし
其の逆も有る訳だろうが
実際はどうなのだろうか
302名無し三等兵:04/05/15 01:40 ID:???
>>299
 日本軍の弓は威力的にはかなり劣る物だったらしいので、戦果はあまり期待できない
ような。
 なんせ、威力どころか射程でも負けてたらしいんで、アウトレンジはするんじゃなくて
される側。

 そもそも矢にしてもそんなに備蓄量がないだろうし。
303某研究者:04/05/15 01:40 ID:MgkzQP9Q
☆蒙古軍の兵員数
東路軍総兵力     42,000人
東路軍交戦兵力    25,000人
江南軍総兵力     100,000人
江南軍交戦兵力    60,000人

威嚇だけでこんな兵力を動員するのかだろうし
日本側の戦力を蒙古が見誤っていたと言うのが
現実かも知れないが
304名無し三等兵:04/05/15 01:44 ID:???
305某研究者:04/05/15 01:44 ID:MgkzQP9Q
1回目は威嚇で有り得るとしても
其れで敵が譲歩せねば
2回目は国の威信の事も有る訳だろうし
威嚇で済むのかと言う事だろうが


>日本軍の弓は威力的にはかなり劣る物だったらしいので、戦果はあまり期待できない
>ような。

まあ矢張り防塁に篭っての乱戦か
敵の船に侵入しての乱戦以外は
有利では無かったと言う事なのだろうか
306名無し三等兵:04/05/15 01:51 ID:???
>>303,305
 すんません。>>300よく見てください。これは弘安の役のデーターです。
 本気じゃなかった説の人も、二回めに関しては威信回復の為の本気である事は認
めていますが?

 ただ、一回めの文永の役から既に日本を本格的に侵略するつもりだったという説に
反対しているだけで。
307某研究者:04/05/15 01:54 ID:MgkzQP9Q
長巻と槍の殺傷力の差も有るだろうし
甲冑を着ている人間に対して槍が何処迄有効だったのかだろうし
無論防護されていない部位を狙うと言う方向も有るだろうが
雑兵には何処迄出来たのかだろうが
鎧も余り着ていないモンゴル兵に対して重い長巻を使えば
殺傷力はかなり有ったと見て良いのだろうか
まあモンゴル側の訓練された槍騎兵等には
騎馬武者も剣では手を焼いた可能性も有るだろうが
防塁や船上等での乱戦では槍は何処迄
使えたのかだが
308某研究者:04/05/15 01:58 ID:MgkzQP9Q
モンゴル軍の精鋭槍騎兵が下馬して
徒士や騎馬武者に槍で挑んで来たら勝てるのかだろうが
剣での乱戦なら騎馬武者には恐らく
甲冑を着ている分勝ち目は有ったかも知れないが
309某研究者:04/05/15 02:05 ID:MgkzQP9Q
同数のモンゴル騎兵と日本の騎兵が平地で戦ったら
弓の射程を生かされない限り
弓の装備率の多い日本側が勝つかも知れぬが

310某研究者:04/05/15 02:11 ID:MgkzQP9Q
ttp://www.numse.nagoya-u.ac.jp/F1/proftakeda/00/040507/mouko4.htm
まあ防塁と言うより夜襲で勝ったと言うのが現実の様だが
夜襲はモンゴルや南宋軍は慣れていなかったのかも知れぬが
或いは慣れていても士気が低かったから
戦意に影響したと言う事かも知れぬが
311某研究者:04/05/15 02:14 ID:MgkzQP9Q
モンゴルの剣は片手で扱う剣だろうし
甲冑には効果が薄かったかも知れぬし
防護されていない部位を狙うと言うのも
雑兵には難しい事だった訳だろうか
甲冑で防護されていないモンゴル兵に対して
両手で扱う日本刀や重い長巻が振るわれる訳なら
此れは威嚇効果もかなり有った訳だろうか
312某研究者:04/05/15 02:36 ID:MgkzQP9Q
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/
モンゴル側も盾は置くタイプの物しか
描かれていない様だが
置くタイプの盾を手持ちで使っている様な
描写も有る様に見えるが
313ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/05/15 03:23 ID:???
新羅が対馬に侵攻してきたとき、防衛の任に着いていた人は
100人を1組として20組の戦力で対抗。
そのときは盾を置き、集団で持って弩で射るという戦法をとったらしい。

んで、約200年後に、集団で戦う方法を忘れていたとは思えないのだが、
どうなんだろう。(その間に弩も消えてるし…)
オレが読んだ本には、律令国家の時代は、その中央の強さを生かして、鉄の部品
がいる弩を造り、配備し、指揮官(弩司:“どし”)の下に射手を置いて、
海岸線と蝦夷地への防衛にあたらせていたのが、律令国家解体により変化した、としていた。

ようするに、中央集権だったからこそ出来ていた、弩の製造・運用技術を、当時力をつけてきた
ばかりの地方有力勢力(武士団や寺社、海賊、山賊など)は受け継ぐことができなかった、と。
314名無し三等兵:04/05/15 03:26 ID:???
>>313
 いつの間にやら大軍で襲い掛かるのは卑怯。一対一で正々堂々。
 飛び道具は卑怯……という風潮にすり変ってしまったようですが。

 ま、要するに日本人同士でしか争わなくなったんで、戦いのセンスが無くなってしま
ったんでしょ。
315ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/05/15 03:53 ID:???
んで、記録を見てると13世紀の蒙古襲来以前にも、統制された部隊による集団戦を
やっていたとしか思えないものが多々ある。(軽装の下卒の者に、弓を持たせて
大勢で射かけさしたり)

大和朝廷が、反乱を起こしたエミシ達にたいして、鎮圧部隊送ってるけど、彼らも
指揮官の下に集団戦で戦ってたようだし。

当時はまだ人口が少ないから(南北朝を境に人口が増大していったとか)、中央集権的
な権力じゃないと、部隊として統制した集団戦を行えない。それに、鎌倉幕府は各地の武士団の
元締めのようなものであるから、強大な統制力をもつわけでもない。

その為に、集まった武士団を部隊として編成し、集団兵力として使うことが出来なかった
のではないのだろうか?と愚考してみる。

ちなみに、武士団VS武士団の場合も小規模な集団戦がメインで、たまに一騎討ちがあった
だけ(氏文読みからの一騎討ちは、誰も手出ししないで見守る)というのが、説として
主流になってきてるっぽいね。
316名無し三等兵:04/05/15 04:05 ID:???
鎌倉時代の武士+その郎党を単位とした戦力では、ピラミッド組織の「軍隊」を構成することは
できないからねぇ。集団戦闘には向かない。郎党はあくまで自分の主人のみに従い、他の武士の
命令は聞かない。武士同士は勢力の大小こそあれ、基本的には対等。戦争の勝敗よりも自分の
勲功の方が重視される……

義経はそういった構造を無視した作戦を断行し、確かに勝ちまくったが武士たちの支持を得られず
結局は滅んだ。
317ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/05/15 04:17 ID:???
>313殿
いや、飛び道具(弓矢)は卑怯じゃあないんですよ。むしろ、正攻法。
武士のことを弓取りと言いますし。戦国時代には槍ですけど、それ以前は
一人前の武者の扱う武器は、弓だったのですよ。
あと、一対一の正々堂々とした勝負、という気風も確かにあったようですが、
それをやったのは小規模の小競り合いか突発戦みたいなときで、本気でぶつかり合う
ときはやらなかったのでは、ていう説を言ってる研究者もいるようです。
(ヤクザの個人同士で、出会い頭に「オノレどこのもんじゃい!?」ってやったり、組VS組
というより、私闘に近い戦闘のときはタイマンだったりするけど、組での抗争になったら、
なんでもあり、みたいなもの)
318名無し三等兵:04/05/15 04:29 ID:???
鎌倉武士が一対一の戦いに拘ったのは、正々堂々ということじゃなくて「乱戦の中、
組織の力で敵を倒しても自分の手柄にすることができない → 恩賞をもらえない」と
いう部分が大きかったと思う。

弓矢を主武器にしてたというのは、使い勝手や威力の面で役に立ったということの
他に、矢に自分の名前を書いていたので手柄の証拠にしやすかったという理由も
無視出来ない。
319名無し三等兵:04/05/15 04:54 ID:???
日本の弓矢は射程100m程度
モンゴルの弓は射程200m

イングランド長弓は200m(命中精度関係なし)
為朝の放った矢は300m先の小船を沈めた!らしい

源為朝1000人vs元寇5万人
320名無し三等兵:04/05/15 05:06 ID:???
>>319
源為朝ほどの弓の使い手を1000人集められるということは、為朝が10万人に一人の才能だったと
考えて、平凡な武者なら1億人ぐらい集められるということになるやもしれん。
321某研究者:04/05/15 05:08 ID:MgkzQP9Q
単弓のインランドの長弓の射程が
日本の合成弓より良いのかだろうし
引き手の腕力の問題も
大きいかも知れないが
322 :04/05/15 06:38 ID:TQif0mHp
>>295
本気説というか、実際に軍船を大量に建造するようなメンドイ事までしてるし。

軍船は後で南宋やら東南アジア方面で使いまわす予定だったのかな。

323名無し三等兵:04/05/15 06:42 ID:???
蒙古軍がなぜ、2度の神風(台風)シーズンに襲来せざるを得なかったか
のか?1度目は判るが。
324名無し三等兵:04/05/15 07:17 ID:m5bSAHlC
>>261
(・∀・)


325某研究者:04/05/15 07:26 ID:MgkzQP9Q
雑兵は技術やスピードより
恐らく力が物を言うだろうし
余り訓練されて居ない槍兵が
長巻でやられると言う事も
現実には多かったかも知れないし
踏み込まれてモンゴル軍の刀よりパワーの有る
日本刀でやられると言う事も
有り得ただろうか
326某研究者:04/05/15 07:54 ID:MgkzQP9Q
弓の使えない雨天にモンゴル軍と日本軍が平地で戦えば
モンゴルの槍騎兵に日本の騎兵が撃破され
日本側の歩兵がモンゴルの槍騎兵に撃破され得る訳だろうが
防塁や船内で乱戦に持ち込めば
日本側が勝つだろうか
327名無し三等兵:04/05/15 08:05 ID:5IwWlzMM
そもそも、我が国の狭隘な土地で、彼らが得意とする騎馬による
襲撃方法が可能であったのか。

当時の地勢を勘案すると狭隘な日本の沿岸部では、
彼らの得意とする騎馬戦術は取りづらかたった。

結局、馬で有効に戦闘できる地域を選定して沿海をうろうろしている間に台風が来てしまった。
という説もある。
328某研究者:04/05/15 08:07 ID:MgkzQP9Q
日本側が高台から矢を放てれば
弓の射程が多少短く共
射程は延ばせる訳だろうが
防塁は高台には築かれている様には
見えなかったが
日本側の騎兵が高台に上って
矢を放つと言う方向も有っただろうか
329名無し三等兵:04/05/15 08:10 ID:5IwWlzMM
当時の足軽(歩兵)は百姓だからな、侵略部隊の精鋭には手も足もでないと
思うよ。
330某研究者:04/05/15 08:12 ID:MgkzQP9Q
まあ騎兵を阻止出来る地形に布陣しないと
弓の使えない雨天では勝てないだろうが
331名無し三等兵:04/05/15 08:50 ID:xBF5JCkw
>>324
(・∀・)

332某研究者:04/05/15 09:05 ID:MgkzQP9Q
防塁の矢の防御力が低ければ
日本側の弓の射程が短いか
モンゴル側が高台から弓を放って来れば
日本側の兵は一方的にやられるだろうか
(防塁はモンゴル側の騎兵突撃を止め
 歩兵が敵の上から攻撃出来る効果は有るだろうが
 矢の防御力は無いだろうが
 上に盾を並べればどうかだろうが)
333名無し三等兵:04/05/15 09:29 ID:???
>>323
風の問題じゃなじゃったっけ?
334名無し三等兵:04/05/15 10:46 ID:???
某研のレスは個人の装備にしか気がいっとらんな。いつもの事だが。
同じような内容のレスを延々と垂れ流してスレを潰すのはどうにかならんか。
無駄だというのはわかってはいるんだが('A`)
335名無し三等兵:04/05/15 10:52 ID:???
>>306
「本気派」の立場です。
文永の役での失敗で元軍の指揮官は誰も更迭されてないし、弘安の役でも同様のメンバーが指揮をとってます。
日本に対する威嚇・脅迫が第一回の目的だとすれば、元の威信を失墜させた責任は重大で問われなければ
おかしいのではないでしょうか?
「本気ではなかった」戦だからどうでも良かった、責任は問わないでは「文永の役の失敗の威信回復の為弘安の役は本気になった」
の説明になりません。文永の役のその後の影響という観点からしたら、
文永の役失敗
  ↓
指揮官問責処罰
  ↓
新指揮官による再征

という常識的な流れになるのでは?

336名無し三等兵:04/05/15 10:55 ID:???
>>329を無視しまくるみなさんは良識派!
337名無し三等兵:04/05/15 10:58 ID:???
>>335
元の朝廷では「矢が尽きたので帰った」ことになっていたのでは?
338名無し三等兵:04/05/15 11:03 ID:???
>>335
 文永の役での失敗は(実情はともかく)「台風でやられた。決して日本軍に負けた
ワケじゃない」と言い訳する余地があると思いますが。それに壱岐/対馬は陥落さ
せていますし。
 故に二度めのチャンスが与えられたのではないかと。

 後、文永の役のメンバーはベトナムに対する渡洋攻撃の経験者でもあります。
 つまり、他に水上侵攻部隊を指揮できる人間がいなかった可能性も否定できませ
ん。
 如何に元が苛烈な方針の持ち主とはいえ、相応の事情と必然性があれば失敗=
即更迭なんてどこぞの悪の秘密結社みたいな人事は行わないと思います(笑)
339名無し三等兵:04/05/15 11:20 ID:???
>>335
 指揮官更迭ってのは、逆に言えば元帝国自ら失敗を肯定する事になるワケです。
 つまり、威信の失墜は更に大きい。

 というか、その主張ですと「本気で失敗」したのに更迭されなかった理由の説明が
必要になると思うのですが。
 元帝国が本気で日本侵攻を企てて失敗したのであれば、その指揮官達は「本気
じゃなかった」場合よりも更にマズイ立場に追込まれており、そちらの理屈で言えば
それこそ即刻更迭下手すりゃ処刑という流れになっているのでは?

 むしろ、脅迫だったからこそ二回め以降がありえたのだと思うのですが。
340335:04/05/15 13:23 ID:???
>>339
文永の役自体が今後の日本攻略の前哨戦・小手調べ的な性質だったと考えてます。
文永の役は成功の可能性が低いという前提だったから、その失敗に対する問責する必要がないといえます。

脅迫説(文久の役)が疑問なのは、外交上の脅しではなく実際の軍事力を伴っている事です。実力を行使して
脅迫が相手に通じないとしたら、相手は益々こちらを侮るし、周囲も動揺の反応をします。
現代に言えば、イラク戦争にアメリカが勝ったからリビア・イランがアメリカに恭順姿勢を示すようになった。
といえる訳です。(無論状況は異なるわけだが)負ければどうなっていただろうか?ということです。

341名無し三等兵:04/05/15 13:30 ID:???
脅迫つーか、あわよくば博多一帯辺りは占領しようと思ってたのでは?
ただしそのまま日本全占領なんてことは考えてなかったと思われ
342名無し三等兵:04/05/15 13:32 ID:???
>>340
脅迫だろうが本気だろうが軍事作戦が失敗した時の周囲の反応は同じだろ
343名無し三等兵:04/05/15 13:59 ID:???
336 はなにも、有効な意見を述べてないね。
344名無し三等兵:04/05/15 14:02 ID:???

     ∧_∧  パァン!!
    ( ´∀`)__,,'; 
    (つノ ̄∩ ̄               ─−・
    ⊂ノ'' L_)

てつはう        莫迦共撃滅
345名無し三等兵:04/05/15 14:37 ID:???
>>296
>まあ防塁では騎馬武者も下馬して矢を放っては居ただろうか

防塁は馬で駆け上がれるように造られています。私の通った高校が元寇防塁跡のすぐ近くだったん
で復元されたものを見たことがあります。
騎馬弓兵が自陣の弱点を即座に補強すべく移動する様が想像できるものですよ。
346名無し三等兵:04/05/15 14:42 ID:???
>>345
おお、現地の方でつか。

脊髄反射的に気になったんすけど、

海、波打ち際____/ ̄\___内陸側、とこのように防塁が築かれている、と思うんですけど
波打ち際と、防塁の間って、白兵戦が可能なくらい、広いんですかね?印象として(地形自体や、波打ち際の位置は変っているでしょうけど。
347名無し三等兵:04/05/15 14:56 ID:???
>>346
申し訳ない。防塁跡は現在殆ど埋め立てられて当時の状況は良く分かりません。
ただし埋め立てが進んでない(開発途中)の海岸線にある防塁を観る限り白兵戦は
十分可能だと思います。しかしながら上陸軍側はまず陣形は組めませんね。春の
大潮の干潮時を狙えば話は変わりますが。


348346:04/05/15 15:57 ID:???
>>347
dクス。
なるほど、すると弓で阻止、防塁で白兵戦。相手が混乱したら騎兵が突入、って感じなのかな?
鎌倉武士の戦闘スタイルを変えないまま、システマチックな戦闘を可能にした印象を、脊髄で得ました(w
349名無し三等兵:04/05/15 16:26 ID:zBwXjgqF
軍事技術の優劣は、この時代は殆ど無いでしょう?
軍事技術の格差が勝敗に大きく左右しだしたのは
近代に入ってからだと思うし...
基本的に、地理的要素(敵地か本国か)と動員兵力で決まるんじゃないの?
350名無し三等兵見習い:04/05/15 16:35 ID:/8Jf3I+V
2度の蒙古軍の襲来だけど
蒙古軍にすればはじめての海上渡航戦になるんじゃないか?
その辺当時の参謀クラスはどのように考えていたのかな、
陸続きじゃない分なまじ上陸後に補給線絶たれるときついし
敵前上陸・部隊の展開とかかなり混乱した気がする。

ま、当時の日本の戦闘は名乗りあっての一騎打ちが主流らしかったから
それほど苦労しなかったのか・・・。
351名無し三等兵:04/05/15 16:37 ID:???
>>349
技術の違いというより、用兵思想とか文化の違いが大きいんじゃなかろうか。

ボクシングをやるつもりで行ったら、相手がいきなり蹴ってきて戸惑う、みたいな。
352名無し三等兵:04/05/15 16:40 ID:???
集団歩兵戦がメインの高麗軍と、歩騎協同戦術が基本の日本
あんまり噛み合うとも思えない。
353名無し三等兵:04/05/15 19:28 ID:???
元にとっての文永の役の評価ってのはどうだったのでしょう。

2万人ってもほとんどが高麗兵ならば、橋頭堡確保は出来なかったが、
いつ裏切るか判らない降兵が減ってとりあえず成功だったのではないでしょうか?
>指揮官が処分されなかった理由
354名無し三等兵:04/05/15 19:54 ID:???
ここまで、ピントがずれているとなんともいえんな。
もっと本読む!
355名無し三等兵:04/05/15 19:59 ID:???
通りがかりなんだけど、聞いていい?

元って馬まで持ってきたの?
手間かかるだろうに・・・。
356名無し三等兵:04/05/15 20:04 ID:???
>>331
(・∀・)
357名無し三等兵:04/05/15 20:22 ID:???
>>356
(・∀・)
358名無し三等兵:04/05/15 20:59 ID:???
わざわざ台風の時期に渡海した理由ですが
雑兵を農民から動員しなければいけないので
軍事行動を起こせる時期にも制限があるのではなかったでしたっけ?
359名無し三等兵:04/05/15 21:06 ID:m5bSAHlC
>軍事行動を起こせる時期にも制限があるのではなかったでしたっけ?
稲刈りの季節には帰るのかよ。
360名無し三等兵:04/05/15 21:11 ID:???
文永の役は11月なので台風シーズンは一応終わってるな。でも北九州地方ではこの時期は
荒れる日が多いらしい。
361某研究者:04/05/15 21:25 ID:bOZLZEf/
>>まあ防塁では騎馬武者も下馬して矢を放っては居ただろうか

>防塁は馬で駆け上がれるように造られています。私の通った高校が元寇防塁跡のすぐ近くだったん
>で復元されたものを見たことがあります。
>騎馬弓兵が自陣の弱点を即座に補強すべく移動する様が想像できるものですよ。

騎兵突撃は余り阻止出来ないかも知れぬが
歩兵が上がって来るのは阻止出来る訳だろうか

362某研究者:04/05/15 21:30 ID:bOZLZEf/
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e09.htm
この高さなら騎兵は防塁の背後に隠れて矢を放てるかも知れぬが
其の様な使われ方はしなかった訳なのだろうか
363某研究者:04/05/15 21:34 ID:bOZLZEf/
胴丸を着ている騎馬武者もこの時代に既に存在する様だが
彼等も騎乗して戦闘し下馬戦闘した訳では
無いと言う事なのだろうか
364某研究者:04/05/15 21:38 ID:bOZLZEf/
日本側も5万もの徒士に甲冑を行き渡らせるのは
可能だったのかだが
徒士に兜は無く胴丸は皮製であるなら
或いは可能だったかも知れないが
365某研究者:04/05/15 21:42 ID:bOZLZEf/
大鎧も皮製で有るとしても矢に対する防御力は
板金鎧と大差無いかも知れぬが
胴丸は大鎧よりは恐らく厚みは無いだろうし
矢に対する防御力はどうなのかだが
胴丸・大鎧も剣に対しては
板金鎧は兎も角
鎖帷子と同程度の防御力は有ったのだろうか
(大鎧は鎖よりは防御力は若干上かも知れないが)
366名無し三等兵:04/05/15 21:44 ID:m5bSAHlC
>>357
(・∀・)

367名無し三等兵:04/05/15 21:46 ID:???
元寇における鎌倉武士団の損害はどの程度だったのでしょ?

368某研究者:04/05/15 21:57 ID:bOZLZEf/
>しかしながら上陸軍側はまず陣形は組めませんね。

まあそうすると隊列を組まずに兵が逐次投入され
(矢張り隊列を組んでいる間に矢を打たれて損害が出得る訳だろうか)
各個撃破される例も多かった訳なのだろうか
或いは矢は船と防塁の間で打ち合っていたと言う事も
有るのかも知れぬし
船上で矢を討ち終えた後に突入していたと言う可能性も有るだろうが
船に対して火矢での損害等は
無かったのかだが
369名無し三等兵:04/05/15 21:59 ID:???
日本近海は、冬は北西季節風で波が常に高い
7月以降は台風が沖縄〜九州方面に来る

となると4〜6月しか船では来られない。
ここで台風が来るとアボーン
370名無し三等兵:04/05/15 22:06 ID:???
>>366
(・∀・)

371名無し三等兵:04/05/15 22:16 ID:???
元軍の技術力でもパンジャンドラムを作れたはずだよね。
372某研究者:04/05/15 22:24 ID:bOZLZEf/
まあ防塁の上の兵にモンゴル側の騎兵が
果たして突入しようと考えたのかだろうし
矢張り騎兵突撃を防ぐ効果は有ったかも知れないが
373某研究者:04/05/15 22:30 ID:bOZLZEf/
大鎧は下馬戦闘には向かないだろうし
船上や防塁上での乱戦には不利かも知れないが
其れ程大鎧と言うのは下馬しては動き難い物なのだろうか
374某研究者:04/05/15 22:32 ID:bOZLZEf/
まあ大鎧を着た騎馬武者が下馬しても
モンゴル側の精鋭槍騎兵には兎も角
雑兵に白兵戦で負けるのかだが
375某研究者:04/05/15 22:53 ID:bOZLZEf/
騎射戦等と言っても
矢だけ放って終わりと言う事も無いだろうし
接近して剣を打ち合うと言う事は
無かったのかだが
日本側は其の際に馬を狙う様な事は無かったかも知れないが
モンゴル側はどうだったのだろうか
376某研究者:04/05/15 22:58 ID:bOZLZEf/
日本側の徒士が戦国時代の様に石を投げていたと言う事は無いのかだろうし
モンゴル側が矢を打ち尽くして突入して来た時に
防塁上からの石でかなり打撃を受けていたと言う事は
無いのかだが
モンゴル側の投げ槍での反撃も有るだろうか

大鎧ではなく胴丸を着ている騎馬武者も存在するだろうし
此れは鎧の重さは苦に成らないだろうが
剣の技能は大鎧を着ている騎馬武者より落ちるかも知れぬし
モンゴルの精鋭騎兵に勝てたのかだが
377名無し三等兵:04/05/15 23:12 ID:???
っていうか、随筆馬鹿ウザ。
日記なら、手前のWebからプログでも借りてやれ。
378名無し三等兵:04/05/15 23:14 ID:???
>>377
何てこと言うんだお前は。猊下は軍板に発生する貴重な自然現象なんだよ。
そんなに嫌なら、専用ブラウザにして、猊下のお名前をNGにでもしとけ。
379名無し三等兵:04/05/15 23:15 ID:???
俺はすでにNG指定していているぞ
おかげで、番号飛びまくりだ
380名無し三等兵:04/05/15 23:15 ID:???
あとは、半年ROMって慣れるしかないな(w
381某研究者:04/05/15 23:16 ID:bOZLZEf/
モンゴルの騎馬弓兵も剣を扱えるかも知れぬが
槍騎兵よりは剣の技能は落ちる訳なのだろうか
(まあ日本側の騎馬武者に比べて
 扱う武器は違うだろうが強さはどうなのかだが)

382名無し三等兵:04/05/15 23:18 ID:???
そしてまた、何事も無かったかのように…
383名無し三等兵:04/05/15 23:18 ID:???
>>378
自然現象とは上手いこと言う。
384某研究者:04/05/15 23:27 ID:bOZLZEf/
日本側の徒士には兜は無いが
雑兵は槍や剣で頭等狙えないかも知れないが
矢が命中する可能性は有る訳だろうが
頭蓋で中々滑って貫けぬと言う事は有るだろうし
掠めた程度なら烏帽子も有るだろうし
余り傷付かないかも知れないだろうか
385某研究者:04/05/15 23:32 ID:bOZLZEf/
http://pc5.2ch.net/test/read.cgi/php/1082723881/
日記に関しては上を入れる予定だが
3.0は出たのだろうか
386名無し三等兵:04/05/15 23:34 ID:???
むーばるたいぷでつか。猊下ははいてくですね。
387某研究者:04/05/15 23:36 ID:bOZLZEf/
http://park2.wakwak.com/~boukenkyuusha/index.html
更新履歴なら古いCGIを自己のHPに設置しては有るのだが
1つのスクリプトで多数の日記を設置出来ないし
矢張りMTの方がカスタマイズも柔軟であるし良い様に思えるが
388名無し三等兵:04/05/15 23:42 ID:???
以前質問スレで某研究者様について質問した物です。
そのあと家に黒服黒目がねの人たちが家に来て小一時間問い詰められました。
そのあとも毎日家の周りを黒服黒眼鏡の人たちが無線機をもって監視しています。
某研究者さま許してください。もう某研究者様が何者か探ろうとしません。
389名無し三等兵:04/05/15 23:43 ID:???
一回触ろうとして挫折したなぁ。
複雑すぎて手に負えなくなるってのも
ブログとしては変なかんじだし。
390某研究者:04/05/15 23:46 ID:bOZLZEf/
http://www.sixapart.jp/000016.html
3.0の日本語版は5/19に出る様であるし
多分日本語を使用するならこちらを使った方が良いだろうか
391名無し三等兵:04/05/15 23:49 ID:???
猊下、サイトを教えていただいて、うれしいっす。
リンク切れしてたんで。

でも、少々スレ違い気味なんで、蒙古ネタに戻りません?
392某研究者:04/05/16 00:00 ID:I5iLjv1Z
>矢が命中する可能性は有る訳だろうが
>頭蓋で中々滑って貫けぬと言う事は有るだろうし

まあ只貫かれず共当たれば流血は必至だろうし
死なず共戦闘出来る状態で
有り得るのかだが
モンゴル側は盾の無い兵は
頭は兎も角体が全く矢に対して防護出来ないだろうし
そちらに当たって戦闘不能と成る確率の方が遥かに高い訳だろうか
393名無し三等兵:04/05/16 00:27 ID:???
騎兵を編成するほど馬を運べたのか。
394某研究者:04/05/16 00:41 ID:I5iLjv1Z
上まあ蒙古襲来絵詞には騎兵も書かれているし
馬も運ばれていただろうが
どの程度の数なのかだが
395名無し三等兵:04/05/16 00:51 ID:eJr9jd+W
でも日本の馬も小さく、馬を下りて武者達も馬を下りて戦った説。
396某研究者:04/05/16 00:55 ID:I5iLjv1Z
絵を見ると基本的に乗馬して戦っている物しか無いし
中世の騎士も行軍用の馬と戦闘用の馬は違う訳だろうし
戦場では馬を乗り換えていた可能性も有る訳だろうか
397名無し三等兵:04/05/16 01:21 ID:???
>>396

あなた自身が>>362で下馬して防塁の上で胡坐をかいてる武士の絵を貼っているではありませんか。
398某研究者:04/05/16 01:25 ID:I5iLjv1Z
>あなた自身が>>362で下馬して防塁の上で胡坐をかいてる武士の絵を貼っているではありませんか。

まあこの兵は兜も被っていないし
休息している状況に見えるが
防塁を馬で駆け上がれると言う描写も有るだろうし
防塁上でも乗馬して戦っていたのかも知れないが
防塁上の乱戦で敵が馬を狙って来るのであれば
下馬して戦った可能性も有るかも知れないが
399名無し三等兵:04/05/16 01:27 ID:???
>>394
ttp://www31.ocn.ne.jp/~tactic/13.html
こう言う規模ではこなかったと思うし、渡洋侵攻なので、これなかったろうね。
まあ、指揮官が乗れる程度の数ではなかったろうか。

400名無し三等兵:04/05/16 01:30 ID:???
防塁の幅や、防塁の広さに対しての兵数にもよるけど、防塁上で馬に乗って戦うメリットって
あるんだろうか?高さは稼げるだろうけど、弓を射るなら下馬してる方が断然やりやすいだろうし。
401某研究者:04/05/16 01:32 ID:I5iLjv1Z
まあ馬は来れず共騎兵が徒歩の兵として
戦った可能性も有るだろうが
馬に乗る少数の兵以外は皆雑兵である可能性も有るだろうし
まともな訓練を受けた兵の比率は
日本側より低かった可能性も有る訳だろうか
402某研究者:04/05/16 01:34 ID:I5iLjv1Z
防塁の背後から矢を放てば
敵の矢を避けられるかも知れぬだろうし
そう言う高さで作られている様にも
見える訳だが
敵が突撃して来たら上に上って
戦うと言う事だろうか
403某研究者:04/05/16 01:42 ID:I5iLjv1Z
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e09.htm
防塁の背後で馬に乗っている様に見える兵も居るが
扇子を持っているのはかなり位の高い者だろうし
中央の扇子を持っている騎馬武者の横の人間が持っている兜のみに
飾りが付いている様であるから
彼がこの中では一番位の高い人間だろうか
404某研究者:04/05/16 01:49 ID:I5iLjv1Z
防塁も矢を完全に防ぐのは無理だろうし
馬しか防げないかも知れないが
丸腰よりはましだろうか
405某研究者:04/05/16 02:09 ID:I5iLjv1Z
防塁の背後の歩兵は矢を放てたのかだろうし
防塁の上では矢は防げない訳だろうが
一部に盾等が置かれた可能性も有るのだろうか
406名無し三等兵:04/05/16 02:51 ID:???
元寇防塁って博多湾にしかないよね。
元が松浦なり唐津なりに橋頭堡を築くことは考えなかったのかだろうし、
矢張り太宰府要塞の防衛が何よりも求められた訳だろうか。
407某研究者:04/05/16 02:56 ID:I5iLjv1Z
まあしかし防塁が無ければ勝てなかったのかだが
夜襲が可能なら問題は無かったのだろうか
408某研究者:04/05/16 04:02 ID:I5iLjv1Z
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e04.htm
この絵等は集団で戦闘している様にも見えるが
集団の数は余り多くは無かったと言う事かも知れぬが
小集団の集合体だがローマのレギオンの様に全体を動かせる者は
居なかったのかも知れぬが
ローマのレギオンも上手く小集団を
指揮官は動かせていたのかだが
409名無し三等兵:04/05/16 07:34 ID:RhfP3J5o
それと、元寇の最初の時、日本兵が一対一で戦ったのは、
確か、その当時は、源平の対戦から50年の月日が経っていたのと、
九州の中小規模の御家人が、バラバラで(個人の目的のために)己の所領を掛けて
戦ったのが大きな理由じゃないの?
つまり、いつの時代も、大戦が長期間無いと、平和ボケするということ。

ちなみに、源平の合戦は、意外にも集団戦法だったみたいで...
後世に書かれた歴史書なんかは、基本的に物語的な英雄を創り上げるものだから、
一対一の物語を創り上げるみたい。
実際の研究では、源義経は戦下手で、坂東の領主たちに嫌われていたとか。
410名無し三等兵:04/05/16 08:36 ID:???
相撲一つ見ても判るとおり、お前ら黄色い猿は、誇り高きモンゴル人に勝てるわけがない。
411 :04/05/16 08:42 ID:6ubEu2Y2
>>350
補給は略奪で賄うつもりだったのでは?
412名無し三等兵:04/05/16 08:50 ID:???


                               ((´;;(:;::  ;;:∵;: ノ
           <──≪ 三             ((::;;  ;::;; ノノ
                                    __
               〜¶)                 ゝ __ノ
               Λ⌒Λ   |.\
              彡-@∀@ミ ||\\                      三 ≫──>
 <──≪ 三     (⌒⊃y  二二つ) )
               〉 __ 〈  ||//                  /| (0ノ         彡
        〜¶)    く く \ \ |./                   /.//ミ=ミヽ ,.,.-''""`'ヽ彡
≡≡     Λ⌒Λ   〈__フ 〈__フ    三 ≫──>     ミ∧ | | (゚Д゚ ;)´-→     )
≡    彡丶`∀´ミ                         /・  ''⊂= ヽ丑ヾ  :    ノ
   ━━(∩━━∩━━━>                   (ノ〉/~ヾ.   ヽ=ヽ丑ヾ ,..;ヽ\ \
≡    / __  〈                            :     Y -→ (**) ´   ヽ \ \
≡   / / / /   〜¶)                       ;    // / : (土)      ヽ_》 _》
   〈__フ 〈__フ   Λ⌒Λ  /\                     //::/    ;
             彡 `ハ´ / /\\                   ヽヽ_》   ;
            (⌒二二つ≫────>                    ‐ニ三ニ‐
            〈    〈 ヽヽ__//
             \ \ \ \./    <──≪ 三
              〈__フ_フ
413名無し三等兵:04/05/16 09:13 ID:???
>>411
 略奪ももちろん勘定してただろうけど、それで賄えると思うほど甘い見積もりはしてな
いんじゃないか?
 そうそう略奪するモンがあるとは限らない上に、焦土戦法取られたら略奪も侭ならん。
 屯田するにしても数日で物が得られるワケじゃない以上、万単位の軍団を維持する為
の兵站は絶対に無視できない。

 また兵糧だけはなんとか賄えたとしても、例えばてつはうなんかは絶対に日本では手
に入らないワケで。 
414名無し三等兵:04/05/16 09:20 ID:hFtdANq5
>>413
そうそう、万単位の兵士を動かす時は
略奪による現地調達は、非常に不安定で無謀な戦だわな。
兵站の確保は、絶対だな。
415名無し三等兵:04/05/16 09:24 ID:???
>>414
敵国の住人(自国もだか)も食料とみなしている国だからなあ。
416名無し三等兵:04/05/16 09:57 ID:???
412 のAAがこのスレで最も正鵠を得た内容であると認める。
417名無し三等兵:04/05/16 10:04 ID:eJr9jd+W
>>370
(・∀・)
418ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/16 11:51 ID:???
>416
ニダーやシナーはともかく、アサピーまでいるし(w
419名無し三等兵:04/05/16 12:21 ID:???
>>176

矢というものは、鉄砲玉と違い、ある程度再利用ができますよね。

ということは、再利用できなかった、
再利用するために必要な、矢の落ちている地域の確保に失敗した、
という面があるのでは?
420名無し三等兵:04/05/16 12:21 ID:???
>414
ですよね牟田口先生?w
421名無し三等兵:04/05/16 12:25 ID:???
ナポレオンは?
422元武田騎馬軍団シンパ:04/05/16 12:34 ID:eJr9jd+W
ほらみろほらみろ。日本の馬でも乗馬してでの戦闘は可能だ。
423名無し三等兵:04/05/16 12:40 ID:???
乗馬しての
銭湯はかのうですか?
424名無し三等兵:04/05/16 13:07 ID:???
>>419
 いや、一度使っちまった矢は、殆ど再利用不可能だけど。
 当たっても外れてもひん曲がるし、羽根もおかしくなるし。

 そりゃ、鉄砲玉に比べればまだしも「可能性はある」が、対して意味のある事じゃない。
425名無し三等兵:04/05/16 13:10 ID:???
>>424

現地修理は?
426名無し三等兵:04/05/16 13:16 ID:???
>425
そこから先は「ためにする反論」という奴だ。
もとの会話の流れから逸脱して、ほんの数%の矢の再利用を論じても意味ねーだろ…
427名無し三等兵:04/05/16 13:55 ID:???
いや、数パーセント、というあたりが、感覚的に理解できないので。
428名無し三等兵:04/05/16 14:05 ID:???
>>427
理解できんならできんでよろしい。再利用はしてなかったか、したとしても十分な数は確保できなかった
ということだけわかってりゃいい。
429名無し三等兵:04/05/16 14:22 ID:???
ソースなしに、見てきたかのようにいわれても、、、

仮にあなたが、弓道orアーチェリーの体験者だとしても、
蒙古の弓矢もそうだとは限らんし、
ちょっとした工作が身近だった時代・文化の、
ちょっとした道具の修理能力についてまで、
あなたが理解しているのか不明ですし。
430名無し三等兵:04/05/16 14:27 ID:???
蒙古の複合弓と日本の長弓では長さが違う。矢の長さも違うのでは?
431名無し三等兵:04/05/16 15:12 ID:???
>>429
再利用で十分な数が確保できてたんなら、「矢が尽きた」という理由で撤退は
しないわな。
432名無し三等兵:04/05/16 15:16 ID:???
>>431

そもそも、
>>419
の書き込みが、この話の出発点なのに、ループさせてどうするのです?
433名無し三等兵:04/05/16 15:18 ID:???
>>432
だから、「再利用してなかったorできなかった」という結論で、この話題はおしまいでいいんじゃないの?
434ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/16 15:24 ID:???
というか、矢を含む兵站物資の保有量を以て侵攻の度合いうんぬんする場合、
消費量の見積もりやどれだけ現地調達出来るか(厳密には元がどれだけの量を
現地調達出来ると見積もったか)を考察しないことには駄目だろう。

戦史でも、弾薬消費量が見積もりを遙かに超えたって事態が往々にしてある
訳だし。
435名無し三等兵:04/05/16 15:31 ID:???
少なくとも、矢の再利用を最初から計算に入れて持っていく矢の数を決めることはないと
思うよ。戦場で矢を拾い集めるためには、敵を完全に追い払う必要があるわけで。必ず
それが成功するという前提で作戦を立てるアホはいるまい。
436名無し三等兵:04/05/16 15:33 ID:???
とりあえず、再利用するには、早期に回収する必要があるわけで。
そこまで前進できなかったとか?どーでもいーけど
437ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/16 15:37 ID:???
拾って再利用するにしても、使える部品だけ取って再生産するにしても、それを
やるには今日的な言い方をすれば「海岸堡の設定が完了」して、敵部隊の脅威を
完全に排除した状態での兵站活動が可能になってからの話になるだろうな。
438名無し三等兵:04/05/16 15:38 ID:???
戦闘の後、休息もそこそこに矢を拾ったり修理したりしてる兵士萌え。
439「常識」ではそうでしょうが:04/05/16 15:39 ID:???
>>435
日本には、二十世紀になっても牟田口がいましたし、
二百年前には、ナポレオンがロシアに侵攻しています。
この手の話はいくらでも戦史にあります。

そもそも、20世紀以前は、一つのキャンペーンが終わるまで
部隊に弾薬補給が必要だったことも稀だったわけです。(クレヴェルト「補給線」)

当時の蒙古だか元だか、高麗だかの発想が
我々の常識の範疇に素直に収まりますでしょうか?
440名無し三等兵:04/05/16 15:40 ID:???
>439
非常識を前提に歴史解釈論争をする、というのは、
まさに「ためにする議論」の典型ですんでお引き取りください。
441ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/16 15:42 ID:???
>440
???当時の常識と今の常識は違う、って話だろうが。こんなんいくらでもあるぞ。
442ここはにちゃんねる:04/05/16 15:49 ID:???
>>440
蒙古の矢がなくなったという事は、文献上のこっている話なんでしょ?

ということは、攻めてきた部隊にとって、常識外の事が発生しているわけで、
その常識の範疇を推測することまで否定するのは、
あなたが相当固定的な歴史学についてのイデオロギーをもっている方か、
自分の考えと違う流れ・説が出てくる事を受け入れられない他者に厳格な人なのですか?
443名無し三等兵:04/05/16 15:51 ID:???
>>439
だからさあ、当時矢を再利用してたかどうかの史料を持たずに議論をしても無意味だし、
元寇の例では再利用したかどうか不明ながらも、結局矢は足りなくなったので再利用は
されなかったということでいいじゃんか。

問題なのは、矢が足りなくなったことが元が長期戦にするつもりかどうかの証拠になるか
どうかだが、>>434の言うとおり、元側の弾薬消費量の見積もりがわからない以上、証拠
にはできないって結論でいいんじゃないか?

それ以上矢の再利用の話をするのは、スレ違いの脱線だと思う。
444名無し三等兵:04/05/16 15:53 ID:???
「再利用太郎」の名前を与えられるぐらいの頑張りを見せてくれるかな?
445名無し三等兵:04/05/16 15:59 ID:???
>>443
>問題なのは、矢が足りなくなったことが元が長期戦にするつもりかどうかの証拠になるか
>どうかだが、>>434の言うとおり、元側の弾薬消費量の見積もりがわからない以上、証拠
>にはできないって結論でいいんじゃないか?

「矢が足りなくなったことが元が長期戦にするつもりかどうかの、
証拠にはできないって結論」で、私、納得致しました。
446名無し三等兵:04/05/16 17:00 ID:???
>>417
(・∀・)

447名無し三等兵:04/05/16 17:24 ID:???
>戦史でも、弾薬消費量が見積もりを遙かに超えたって事態が往々にしてある
>訳だし。
ありえなくはないけどね。でもモンゴルほど戦争を重ねた国だから考えにくいよね。
そりゃまったく無いとはいえないけど。
448名無し三等兵:04/05/16 17:31 ID:???
種籾とかまで持ってきてるのに、矢は最初からちょこっとだけしか持ってきてなかったとすると、
日本の武士は相当舐められてたことになるな。
449名無し三等兵:04/05/16 18:23 ID:???
矢がつきたというのは文永の役の話じゃない?種籾までもってきたのは弘安
の役だし。
450448:04/05/16 18:31 ID:???
>>449
ごっちゃにしてた。スマソ
451赤壁戦前の孔明:04/05/16 19:27 ID:???
私が3000本の矢を用意しましょう。

>>424 
>いや、一度使っちまった矢は、殆ど再利用不可能だけど。

な・・なんだってぇぇぇぇ!?
452名無し三等兵:04/05/16 19:50 ID:???
戦争用の矢ってのは壊れやすく作るものではないの?
ローマの投げ槍なんかも、敵に再利用されないように作ってあるし。
453名無し三等兵:04/05/16 21:30 ID:???
矢の問題が話題になっているが、
件の文書の言っていることは、
「矢が足りない」という文字どおりの
意味ではなく、「矢を含む兵站全体に
不安があるので退却した」という
ことでないの?

矢にこだわった議論はあまり意味が
ないかと。どちらかと言えば食料や
宿営地・船双方の警備などの問題を
総合的に判断したんじゃないかと。

あと、派遣軍の司令部としては、日本の
抵抗が当初想定よりはるかに強かった
とすれば、当初日本の戦力を見積もった
部門に責任を転嫁できるので撤退の
決意も比較的用意だったのでは。
454名無し三等兵:04/05/16 21:37 ID:???
>>453
「矢燼きる」は「物資が不足する」こと全体を意味する象徴的な表現と見ることも可能かもな。
455分からない筆頭:04/05/16 23:04 ID:???
>>454
問題は、そういう表現を、蒙古、or高麗or南宋がしているかだが、、、

分かるわけねえな、このスレの住人に。
456請知識:04/05/16 23:08 ID:???
>>452

可能性はある。
が、そうなら、古代ローマ人の常識が現代の文献でふれられ、
古代戦の常識になっているようになっていないとおかしいという気もする。

ところで、弓道やアーチェリーの矢って、ほぼ使い捨てなわけ?

そうでないなら、再利用は数パーセント、といった方は、
何らかの根拠をおもちのはず。
457名無し三等兵:04/05/16 23:13 ID:???
>>456
矢の修理を専門にやってる業者というのもあるようだね。

ttp://e-yumiya.com/
458名無し三等兵:04/05/16 23:17 ID:???
矢の再利用については、どの程度壊れるかと言うより、どの程度回収できるか
という問題の方が大きい気がするなあ。少なくとも勝たなきゃ拾い集める余裕は
ない。
459名無し三等兵:04/05/16 23:36 ID:???
>>456
基本的に柔らかい的、もしくは的の周囲の砂山に向かって打ち込まれる弓道などの矢と、
どこに当たるかわからない実戦での矢の破損率は単純に比べられないと思われ。命中せずに
地面に落ちた矢も、敵兵や馬に踏みにじられる確率が高そうだし。どの程度が無傷で残るかは
データが無いのでわからないけどな。
460名無し三等兵:04/05/16 23:41 ID:???
やじりに返しも付いてる事だろうし。
461名無し三等兵:04/05/16 23:45 ID:???
>>460
そういえば弓道の矢の矢尻には返しはついてないな。キャップみたいなのが先端に
かぶせられてるだけだ。
462名無し三等兵:04/05/17 00:27 ID:???
>>459
>基本的に柔らかい的、もしくは的の周囲の砂山に向かって打ち込まれる弓道などの矢

大して参考にならんだろうな、と思いつつ聞くのだが、
そういう好条件での破損率はどの程度?
463名無し三等兵:04/05/17 00:28 ID:???
古代ローマ軍は、使って曲がった投げやりを、
補修していたのであろうか?
464名無し三等兵:04/05/17 00:33 ID:???
なんかスレの方向性が元寇と関係なくなってきてる悪寒……

>>462
武道・武芸板の弓道スレで質問してみたら?
465名無し三等兵:04/05/17 00:48 ID:???
鉄製の鏃は確実に再利用できる・・・というより、しないと勿体ない。
しかし、一時休戦、撃ったのを回収してまた再開、なんてことはないだろうな。



一昔前のサバゲじゃないだからw
466名無し三等兵:04/05/17 01:27 ID:???
ローマ軍には槍を回収して溶かして再利用する技術者の部隊が軍隊について行ってました。
467某研究者:04/05/17 01:48 ID:aQq/41S/
日本側も弓を重視し騎馬武者が皆弓を扱える様な状況で
矢の補給が軽視されたのかだが
長巻や日本刀があれだけ数を揃えられるのなら
矢位揃えられないのかだろうが
モンゴル側は船上から矢を撃てない可能性も有るだろうし
モンゴル側は徒歩で盾も余り無く
防塁を盾にして日本側が射撃出来るのであれば
日本側の矢の有効打の方が
多かった可能性も有るだろうか
468某研究者:04/05/17 01:53 ID:aQq/41S/
日本刀の製造コストが矢10本程度と同等と言う事も無いだろうが
何本程度なのかだが
469某研究者:04/05/17 01:58 ID:aQq/41S/
敵から奪った矢を使えるかは重要かも知れぬが
双方共互いの矢は弓に合わなかったと言う事なのだろうか
(まあ鏃や羽根だけでも切り出して
 利用は出来ないのかだが)
470某研究者:04/05/17 01:59 ID:aQq/41S/
敵の捕虜から奪った矢や
未だ撃たれていない矢を補充する事は
可能かも知れぬし
拿捕した敵船から矢や物資を奪う事も
可能だろうか
471名無し三等兵:04/05/17 02:02 ID:???
ローマ軍団なら彼らにとって千年後の軍隊が仮に来ても
勝てると思う。
472名無し三等兵:04/05/17 02:10 ID:???
>>471
ローマ軍を過大評価しすぎじゃないかい?

同時代のパルティアにも勝てなかったわけで。
473名無し三等兵:04/05/17 02:56 ID:???
>>472
歩兵中心の部隊と、騎兵中心の部隊の戦い、
て奴ですか?

まだすれあったっけ、、、
474名無し三等兵:04/05/17 02:57 ID:???
>>466

蒙古の部隊も、鍛冶屋とか、大工とか、ついてくるのが普通だったっけ?
475名無し三等兵:04/05/17 02:58 ID:???
そういえば、
蒙古の騎馬兵のウマって、
蹄鉄つけてるの?
476名無し三等兵:04/05/17 09:55 ID:???
カエサルの頃に十字軍の艦隊がタイムスリップしてきたら
どっちが勝つだろ?
1000年後のハイテク兵器を駆使した十字軍が襲い掛かる(W
477名無し三等兵:04/05/17 17:09 ID:???
>>474
現在でもそうだが、軍隊ってのは必要なものは全部自前で持ってるのが普通。
それが軍組織内部に組み込まれてるかどうかの違いがあるだけだろう。
478名無し三等兵:04/05/17 19:38 ID:???
>>476
関係ないんじゃない?科学技術の差がそのまま、勝敗に関係する時代じゃない。
現代の米軍と現代のアフリカの一部族が1000年前にタイムスリップしたらどうだろうか?
479名無し三等兵:04/05/17 20:48 ID:???
>>472
1 策源から遠すぎた
2 大平原で戦う場合、ローマ軍団は騎兵が弱くパルティア騎兵に不利だった
3 本腰を入れて戦う場合があまり無かった

クラックスがパルティア遠征したときは、なんつーか準備不足だったし
480名無し三等兵:04/05/17 21:10 ID:???
大阪夏の陣の西軍側に皇軍大阪8連隊いたら。
481名無し三等兵:04/05/17 21:11 ID:???
>>480
即座に東軍に寝返る
482名無し三等兵:04/05/17 21:18 ID:???
>>480
 弾切れでアボーソ
483名無し三等兵:04/05/17 21:35 ID:???
484名無し三等兵:04/05/17 21:56 ID:Eupzcg/A
関ヶ原合戦の西軍側にドイツ第六軍がいたら。
485ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/17 21:58 ID:???
関ヶ原に陸自PKO部隊がうわおまらもいhcwjhbmぃfc
486名無し三等兵:04/05/17 22:10 ID:???
>>485
関ヶ原に陸自PKO部隊がいてもおかしくないでしょう
1600年と言いたかったかな、ははっ
487ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/05/17 22:13 ID:???
>486は過激
488名無し三等兵:04/05/17 23:16 ID:???
>>446
(・∀・)

489ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :04/05/18 05:27 ID:???
>>485
 それだったら、戦国時代に長島巨人軍が〜(w

 太平洋戦争で諸葛孔明が〜(w
490某研究者:04/05/18 06:05 ID:SuxGUJPm
まあ戦国以前の日本の甲冑も皮製なのであれば
皮を小さな単位で切り出すのではなく大きく切り出して
此れを組み合わせた方が生産性の面では
良かったのかも知れないが
戦国時代の一部の鎧の板物には
皮を大きく切り出した物を組み合わせた物も有っただろうか
491名無し三等兵:04/05/18 06:17 ID:???
戦訓:週間・月間の天気予報はこまめにチェックしよう
492某研究者:04/05/18 07:26 ID:SuxGUJPm
WW2でも食料は現地調達出来ただろうが
武器弾薬は(或いは燃料も場合に拠っては)そうは行かない訳だろうか
(まあ現代の戦争でも一部では食料の現地調達は
 行われている訳だろうか)
493名無し三等兵:04/05/19 21:16 ID:???
NHK「その時歴史が動いた」
494名無し三等兵:04/05/19 21:42 ID:K5WUGUX6
元寇は来週やりそうだな
495名無し三等兵:04/05/19 21:56 ID:lwyeXCUj
>>476
レギオンに十字軍の騎士がワラワラと突っ込んでいったら返り討ちにあいそうな気がするが(w
496名無し三等兵:04/05/19 22:00 ID:???
このスレ終わったんでしょ
497赤色大元帥:04/05/19 23:12 ID:???
>>494
゛番組の最後の方でサラっと触れただけで終わる悪寒
498名無し三等兵:04/05/20 12:47 ID:???
>>348

346さんとは別の地の人間ですが....。

防塁は、どうやら高さなんかの規格は有ったみたいですが、構造(つくり)については規格が
なかった様子で、地域地域で様々なんですよ。

高さはどこも2.5m前後みたいですが、構造は、海側だけに石を積んで陸側は粘度で補強
しただけのものとか、全部を石積みで(隙間を粘度で補強)作っているとか、表面は石積みで
あるけども中身は土であるとか。

で、土を使っている場所では防塁の上も当然土なんですが、総石積みの地域では防塁の上面
は石が突き出しているって感じ(当時はある程度土を埋めて均していたかも知れませんが、それ
でも相当石が突き出しているような凸凹具合)なんで、あの上で馬を走らせちゃったりしたら
馬がひづめを痛めちゃいそうです。

ですんで、「壁で通れなくしちゃえ!!」以上の高度な考え(統一された考え)ってのは無かった
のでは無いだろうか?と思えるんですね。
499名無し三等兵:04/05/20 13:09 ID:???
もう一つ防塁関係で。

早良区で発掘された遺構なんですが、良く知られている石積み防塁(以後石塁)の外側にもう
一重土塁が作られていた様子です。

土塁は石塁の海側1mくらいのところに、厚み1.5m/高さ1.3m程度。
粘度と砂を練り合わせたものを使っていますから、充分に乾燥させておれば簡単には
突き崩せないくらいの物です。

で......。
石塁が一部で切れていて、そこから騎乗士が出撃したという可能性は否定できないですが
現在までには門の遺構も発見されていませんし、同じく発見された遺構を見る限り石塁は基
本的に一重(重複する部分が無く出撃口が見当たらない)だったので、騎乗士が出撃する場
所(出口)ってのは極々限られていたんじゃないか?って想像します。

なんていうかな、大勢が出入りするなら当然そういう風に作らないと土塁・石塁自体を破損
しちゃいそうですし、あの高さを日本固有種の馬が楽々下りられたとも思えないし......。
(板を立てかけて降りたとしても........)

500某研究者:04/05/20 14:04 ID:roUKH0lz
まあそうすると騎兵は石塁の上に馬に乗って射撃したのでは無く
背後から射撃したと見て
良いのだろうか

501348:04/05/20 14:42 ID:???
>>498-499
サンクス。
なるほど、実地で見られるひとはいいなあ。
馬が土塁の上を走れなさそう、しかし出撃口がある、って報告は興味があるなあ。
門が無かったようですか。すると、出撃口の陸側に土嚢(?)を盛ってクランク状にしたかも(とは脊髄反射)。ほかにも鹿砦など構築しただろうし…
脳内が盛り上がってまいりました(w

騎兵は最終的な撃破に投入されたような気がします。
何となく、ロンメルの水際防御を思い出してしまった。

>>500
そうでしょうね。石塁の上に上がったら、ただのマトですよ。
502498:04/05/20 16:29 ID:???
>>501

あ〜、誤解を招くような書き方をしたかも知れません。(ごめんなさい。
石塁群なんですが、現在の遺構を見た限りでは「内陸部から海岸線への出撃口は
認められない」って事なんですよ。

ですから、蒙古襲来絵詞(?)だったかに、竹崎季長(?)が馬に乗って石塁の海岸側を
進むところが書かれてあったとも思うんですが、ああいうのが実際に行われたか?に
ついては疑問です。

もう一つ、現地に行くと解るんですが(先の方も書かれたように)石塁と汀の間は極々狭い
んですね。
これは「敢えて石塁を汀に寄せたのか?=蒙古の騎馬戦法をこの面からも防いだのか」
って思えるくらいで、当然ながら、武士側もその狭い地域に騎馬で突入するってのも考え
にくいかなぁ?っと。

503498:04/05/20 16:40 ID:???
もう一つ。

石塁の上で騎馬武者が矢を射たか?ですが、遺構から考えると348さんと同意見で
「ありえない」と思います。

遺構って、ものすごく幅が狭いんですし、一部の石塁は内陸側がなだらかになっている
部分もあるものの、大半は「海岸に立てた壁」って感じです。

ですから、幾ら小さい馬だとしても、上に上がられたらすれ違うこともできない、一方通行で
かつ馬の頭を海岸に向けることもできない(石塁上で馬を転回できない)、石塁上で馬が倒れたり
したなら、後ろの騎馬武者たちは降りることも出来ない......って感じで、わざわざ馬で上がる必然性
が無いと思います。
(また、馬で上がっちゃうと1m辺りの射手人数も減っちゃうだろうし)

むしろ、石塁の上に盾を連ねて陰から弓を射るとか、長巻とかで上がろうとする敵兵を撫で斬り
にするなんて方が有効だっただろうなと感じます。
504498:04/05/20 16:59 ID:???
>>501

もう一つ。
 >騎兵は最終的な撃破に投入されたような気がします。
って部分、これは有り得るかな?と思います。

今は面影も無いんですが、博多湾一体ってのは砂浜の海岸線が長く続いて、しかも何本もの
川が湾に流れ込むんですね。(この砂浜が長いって点が、博多に上陸した一つの要因かな?
とも思います)

で、資料を読むと「川自体には乱杭を打って敵を防いだ」とあるんですが、どうしても川岸なんて
のは石塁も充分に作れないでしょうから、ここら辺は敵が侵入しやすい地域であるとともに、出撃
しやすい地域だったのかな?とも思います。

ってことで、現地の人間としては「砂浜正面では石塁で敵を受け止めて、疲れが出てきたところに
横合いの川岸周辺から騎馬武者が突き出してきた」ってのは「さもありなん」って感じを持ちました。
505348:04/05/20 17:26 ID:???
>>498氏サンクス!うおー地元で歴史を体感するのってうらやましい!
小船で逆襲した記録もあるから、河口というのは実は重要な出撃拠点だった可能性もあるかも。
そうなると「杭打ち」での防御機能の構築は、あり得るわけで…
配置記録の絵図なんか残ってないのかな…
506名無し三等兵:04/05/20 18:18 ID:YR2IPoZi
>>495
軍事技術はローマ軍の方が上でしょ。
ナッソー伯もトラヤヌス帝時代のを参考にしたらしいし。
ドキュソ十字軍騎士よりも
507名無し三等兵:04/05/20 20:58 ID:???
防塁にしても万里の長城なんかもそうだけども、基本的にその場所で積極的に防ぐ
と言うより相手の行動を制限する方が主軸でしょ。
相手が壁の無い場所を探して迂回してくれれば駆けつけるまでの時間的猶予が得られる。
強行突破しようとして壁に取り付いたら邪魔してやればいいと。

上陸地点がみつけられずに停泊してる所を小船で乗り付けて夜襲なんて事もしてたみたい。
(別に作戦じゃなく、個人個人が勝手に・・・鎌倉武士は自分の手柄が第一だから)
508名無し三等兵:04/05/20 21:27 ID:???
ここで語られている石塁というのは、攻撃用というよりあくまでも防御の為ではと思います。
先ほどまでのお話から受ける印象での事ですが、
モンゴルの大軍展開を妨害し、個別の小集団を各個撃破という戦術ではと愚考します。
石塁が砂浜際まで迫り、モンゴルの布陣を妨害し、小集団(小船で上陸可能人員)ごと石塁突破に向かわせる
石塁突破のモンゴル兵は弓隊による狙撃、モンゴル得意の大集団の攻勢、長距離の弓隊を封じる。
石塁の開口部に敵兵を集め少数の兵でも抗戦を可能にする。(もぐら叩き)
全部想像ですが、石塁は攻撃用というより、敵の攻撃を限定する、そのまま障壁ではなかったのでしょうか?
509498:04/05/21 01:15 ID:???
>モンゴルの大軍展開を妨害し、個別の小集団を各個撃破という戦術ではと愚考します。

ホント、そんな感じがします。
当時の双方の装備について、名前は知っていても実際の強度とか機能は余り知らない
のでアレなんですが、石塁から汀までは武士団の弓矢の射程に充分入っているように
思えますので、それこそ、元軍は上陸した瞬間に乱射されて、しかも足元は砂地だし
地積が小さいところに押し込められて布陣もままならない、仮に馬を連れて来ていても
馬になんて乗れない(乗ったら直ぐに射落とされてしまう)って状況だったのかな?と
思います。

ですから、上陸直後の部隊掌握も恐ろしく困難で、組織的行動に苦労していたでしょうから
逆に極々小単位毎に意思決定することに慣れていた(?)鎌倉武士団の方が、初動段階
では有利だったのかもしれませんね〜〜。
510498:04/05/21 01:43 ID:???
>505

>配置記録の絵図なんか残ってないのかな…

直接資料とは言いづらいんですが、現存するもので見やすいのは、竹崎季長が作らせた
(と云われる)蒙古襲来絵詞あたりでしょうか。

あとは、近世の研究で「注解元寇防塁編年史料」(川添昭二著 福岡市教育委員会編)
なんて資料もあります。(直接資料が殆ど現存していないらしく、歯がゆい内容ですが)

で、ちょっと気になること。
蒙古襲来絵詞は第一級の史料には違いないんですが、近年の研究で
 ○後世に一部改竄が行われている可能性(江戸時代に元軍の一部等が追加された
   可能性など、当時の状況等を正確に伝えていない可能性)
 ○画工は、従来云われていた土佐派や竹崎と直接的に繋がりのある土地(九州or鎌倉)
   の画工でなく、繋がりの薄そうな京の宮廷絵師の可能性(誇張・伝聞などが混じり込
   んだ可能性)
 ○平治絵巻絵詞と共通する情景・描写の存在
   (これまた、実際の状況を伝えていない可能性)
なんてことも言われています。

ですから、このスレでも403とか408辺りでも蒙古襲来絵詞が引用(というか利用)されて
いるんですが、スレッドの趣旨(軍事的に語る)から見たら、二級以下の資料になるかも
しれませんね。
511某研究者:04/05/21 05:49 ID:bgvw5ME2
個人戦法しか発想が無いなら
この様な場所に石塁等作ると言う発想自体
出るのかだろうし
矢張り有る程度の集団戦は絵を見る限り
行われていたと考えるのが自然なのだろうか
512名無し三等兵:04/05/21 09:14 ID:Nwvr8bUY
集団で狩りとかやってたら、当然集団戦の概念とか思いつきそうだけど。
この頃の武士の子弟って軍事教練の一環として狩猟とかしてなかったのかな?
513名無し三等兵:04/05/21 12:56 ID:???
元々豪農だからね
514名無し三等兵:04/05/21 16:33 ID:???
ぐぐったら、こんなのが出てきた。
以下コピペ。改行は勝手に入れますタ。


神風は蒙古軍撤退中の出来事ですから、地上戦は鎮西軍(日本軍)の辛勝ですね。
作戦の疑問は、地図を眺めた方が彼我の意図がよく見えたりしますが、
それから得られる結果は鎮西軍が一方的に負けたのではないと言うことです。
文永の役には箱崎、博多-住吉、赤坂の三つの戦線がありますが、
結果的に各戦線とも戦力比通りの結果でしかなく、
鎮西軍の作戦が取り立てて不味いなとどいうことは見当たりません。
それどころかあの段階で出来うる最高の戦略で戦っています。
私が見るところでは、箱崎は壊走ではなく非常に高度な機動防御ですし。
赤坂の撤退は、敗退ではなく軍事的な意図をもった計画的な後退です。


確かに、博多-住吉戦線は他戦線以上に御家人の集合体ですから、
まとまった陣形というのは無かったようで、それが苦戦の元になっています。
「蒙古軍は集団戦法に長け、一騎駈けをする武者に対して鐘や太鼓で脅し、
 うろたえた所を草を刈るように倒していった」
従来言われているこの描写は確かにあった筈です。
ですが結果から言って、最大兵力を率いる大将小弐氏はよく奮戦したと見ていいでしょう。
そして同数の兵力が衝突する場合、決定的な状況を作り出すにはモラル(戦意)を維持するしかなく、
指揮官が前線に赴いて叱咤激励する必要があります。
矢傷を受けたのは当時の指揮官の宿命とも言えますので、
蒙古軍副指令・劉復亨の負傷は乱戦の証明にはなっても、
一方的な戦闘の証明にはならないと思います。

ことさら鎮西軍の苦戦が伝えられるのは、皇国史観を神がかり的に演出したい人達が、
実際に苦戦した出来事を拾い上げた結果のような気がします。
「絶対絶命の危機に嵐が到来し、朝敵を一掃してくれたのだ。神州日本は不滅である。
 だから、耐えに耐え、捨て身で奮戦すれば自ずと勝機は開ける」
事実そうだったのですが、結果を神の力と見るか、御家人の知略と見るか、私は後者です。
515名無し三等兵:04/05/21 17:29 ID:???
>>514
サイトの引用するときはURLもつけてくれい。
516名無し三等兵:04/05/21 17:33 ID:???
そういえば田舎の寺(日蓮宗)に日蓮上人の生涯を描いた連作絵画が
飾ってあったな。「元寇調伏」とかいうタイトルの絵は、日蓮上人が
祈って神風を呼んでる場面だった。信者は「全て日蓮上人のおかげ」
と思ってたのかな、やっぱ。
517名無し三等兵:04/05/21 20:05 ID:???
518515:04/05/21 21:30 ID:???
>>517
そりゃ当然ぐぐれば見つかるけどさ、引用するときに引用元を明示するのは
礼儀ってもんだぞ。
519名無し三等兵:04/05/21 21:51 ID:???
>>518
転載したのは俺で、516は別人。
勝手に妄想すな。
それでな、俺はぐぐった物に関してはURLは乗せないことにしている。
古から個人のサイトに馬鹿がなだれ込むなんて幾度となく繰り返されたからな、それを避けるためだ。
どうしても知りたければ、「ぐぐった」とヒントがあるのだから、同じ様にすればいい。
勝手に礼儀とか決まり事を作らないで欲しい物だな。
520515:04/05/21 21:54 ID:???
>>519
>516は別人。

516は俺だ(w
妄想ってなんだ?
521515:04/05/21 21:59 ID:???
礼儀と言うのは、引用元の文章を書いた人への礼儀って意味だよ。論文とかで
文献から引用だけして文献名と著者名を書かないなんてことはありえないだろ。

個人サイトになだれこむのを恐れるというのは、全文引用したらそれこそ検索で
簡単にみつかるわけで、全く防げないじゃないかとは思うけど、まあそういう考え方
もあるのかもなと一応納得しておく。
522名無し三等兵:04/05/21 22:16 ID:???
>>520
ごめん間違えた。

>>521
ああ、そういう意味か。勘違いしてスマン、つうか悪かったね。
荒氏の大半が子供だから、わざわざぐぐってまでして遊びには行かないからね。
それを避ける意味。
523ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :04/05/21 22:49 ID:???
「000は別人だ」「0000はオレだ」と混乱が起きるから、込み入った話をする時は、
名無しを止めれば良いのに……
524名無し三等兵:04/05/21 23:00 ID:9EL+E3wl
>>523
んなことわざわざコテで言うほどのことでもない。

ID出せば済むだけだろ、んなこと。
テンプレにもちゃんと書いてある。
525あげてしまってスマン:04/05/21 23:02 ID:???

とと・・・初心者スレと間違えたw
ここはひとつ誤爆っちゅーことで。
526名無し三等兵:04/05/21 23:13 ID:???
蒙古だけに、蒙古ねーよー なんちゃって。これが真説
527名無し三等兵:04/05/21 23:18 ID:???
日蓮様万歳。
528しゃれで返せず、スマヌ:04/05/22 00:30 ID:???
>>526

土俵の上には来てますが。
529日蓮 ◆fPm8KcKFQM :04/05/22 00:32 ID:???
>>527
呼んだ?
南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華教

南無妙法蓮華教

南無妙法蓮華教

ああ、無知蒙昧な鎌倉武士の士気を、
虐待されながらも霊験により支え、

神風を引き起こした日蓮聖人の御業のなんと尊い事よ。

信仰こそ、全てを折伏するのだ。
531石原完爾:04/05/22 00:36 ID:???
大同意。
532日蓮 ◆fPm8KcKFQM :04/05/22 00:39 ID:???
>>530
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
533名無し三等兵:04/05/22 00:51 ID:???
>>532

貴様、無間地獄に堕ちるぞ。
534日蓮 ◆fPm8KcKFQM :04/05/22 01:49 ID:???
>>533
すでに堕ちている

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
535ジャンプ ◆qnr4Mobius :04/05/22 02:42 ID:???
日蓮 ◆fPm8KcKFQM氏

あなたの教えを曲解する日顕だの池田だの浅井はどうよ?
536名無し三等兵:04/05/22 05:41 ID:???
>>514
神がかりだどうのこうのという理由づけなど論外で、
文永の役の多勢に無勢、にもかかわらずよく戦ったというのは概略、
軍事オタにはわかるわけで、いまさらどうってことはない。

問題は弘安の役。

十余万の蒙古勢、残るはただ三人。

というのは実際どうだったのか。
537某研究者:04/05/22 07:54 ID:884S4qL0
雑兵同士の戦いでは武器の重さが
物を言うのであれば
長巻やバイキングの斧の方が
剣や槍より強いのかも知れぬし
短槍よりハルバードの方が強いのかも知れないが
(雑兵は長巻や斧は兎も角
 ツヴァイハンダーや大太刀等の
 重い両手剣は使わなかった訳だろうか)
538某研究者:04/05/22 08:01 ID:884S4qL0
モンゴル軍の槍歩兵も何処迄訓練されていたのかだろうし
日本側の徒士の長巻の重さや両手持ちの日本刀の威力で
やられていたと言う事は無いのかだが
矢張り精鋭槍騎兵(或いは精鋭騎馬弓兵もか)相手には
武器の重さは無意味だったと言う事かも知れぬが
539某研究者:04/05/22 08:15 ID:884S4qL0
雑兵では軽い武器の殺傷力は余り生かせないかも知れないが
重い武器なら当たれば打撃には成るだろうが
雑兵の士気や回避力の低さの問題等も有るだろうし
軽い武器でもある程度打撃を与えられ
多少手傷を負った程度でも雑兵は敗走し得ると言う可能性も
有るだろうが
矢張り重い武器を持つ相手は雑兵は脅威と感じるかも知れぬし
軽い武器を持つ側の士気低下を招き
攻撃が上手く出来ないと言う事も有るかも知れないが
540名無し三等兵:04/05/22 11:33 ID:???
日蓮がらみの人間にゃ石原完爾・池田大作以下ろくなのがいねぇとか言ってみる。
541名無し三等兵:04/05/22 12:07 ID:???
>>536
人を罵倒するだけのお前の書き込みこそいらない。
542名無し三等兵:04/05/22 12:40 ID:???
>>540
他に熱心な日蓮信者と言えば加藤清正も。
543名無し三等兵:04/05/22 13:44 ID:???
元寇よりも、
佐藤大輔の
原稿、、、
544名無し三等兵:04/05/22 13:57 ID:???
日蓮信者と言えばモーヲタ
545名無し三等兵:04/05/22 14:03 ID:dHMptshl
【世界】☆.。・゚・チンギス・ハーン・゚・。.☆【最強】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1085026824/
546名無し三等兵:04/05/22 14:07 ID:???
【世界】☆.。・゚・チンギス・ハーン・゚・。.☆【最強】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1085026824/
45 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/21 20:58
>>41
モンゴルから日本への外交交渉文が元史・日本伝や経世大典序録、東大寺にも写しが残っているが
「上天眷命」を不遜とした日本側だが、これは「書を奉る」という意味で常套句として用いられていた。
むしろ日本より所領が大きいモンゴルが日本に対して「奉る」という謙る態度を見せてるわけ。
更に末尾を「不宣」で締めているが、これは「これを臣とせざるを申すなり」の意味。つまり、日本国を
臣とはしない対等な外交国として国交を開いてくれ、という丁重極まりない内容の通商外交文。

鎌倉幕府は大陸情勢を全く把握してなかったんだろうな。
これを幾度も無視され、当時南宋を制して水軍を持て余していたモンゴルは兵を向けたわけ。
この挙兵は吸収した水軍を飼い殺しにする意味合いが強かった。(実際、海上に停泊したまま沈む)
モンゴル兵は殆ど(全く?)乗船しておらず、更に台風によって難破した兵士が漂着したときに日本は
唐人(江南人)と分かる者以外は殺害した。まぁ、戦の状態ではそれが当然なことだ。

はやい話しが日本が悪いんだそうです。
547名無し三等兵:04/05/22 14:11 ID:???
>「上天眷命」を不遜とした日本側だが、これは「書を奉る」という意味で常套句として用いられていた。

そりゃ、中華思想だもの。
その中華思想が、問題なんだもの。
548名無し三等兵:04/05/22 14:36 ID:???

日蓮信者といえば北一輝と宮沢賢治

日蓮信者には妄想キチガイが多い……


549名無し三等兵:04/05/22 14:43 ID:???
日蓮信者と、
マルクス信者、、、
550名無し三等兵:04/05/22 14:47 ID:???
痛い信者は何事にも存在するさ。
だからと言って、信者全員が痛い訳ではない。
軍オタにも痛い信者は多いだろ。
551名無し三等兵:04/05/22 19:21 ID:???
もう こないでー
552名無し三等兵:04/05/23 11:30 ID:???
【世界】☆.。・゚・チンギス・ハーン・゚・。.☆【最強】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1085026824/

ミリ哲が討論に参加しているぞ。
元寇に関しては軍事板もモンゴルに関して認識を改めるべき点が
あると思うので(※ミリ哲氏の批判ではないよ)
両スレとも読んだほうが良いと思われ。
553名無し三等兵:04/05/24 04:03 ID:???
119 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/23 12:52
87 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/05/22 16:55
蒙古側の残虐行為についてですが、『八幡愚童訓』甲本の巻下に、弘安の役
での東路軍の行動について次のような事が記されています。
「・・・壱岐・対馬より上り、見る者をば打殺す。人民堪難て、妻子を引具し深山
へ逃入処に、赤子の泣声を聞付ても押寄ければ、片時の命も惜ければ にや、
褊愛する緑子を我と泣々害しつつ、
世の中に 最惜き物は 子也けり 其に増るは 我身也けり
と詠じける、人の愛ぞ思出らるる。」
文永の役の時には特に記されていません。また少なくともこれから6年後には
壱岐の政治機構は機能しているので、皆殺しにするほど苛烈なものであっのか
どうか。『八幡愚童訓』が書かれたのは14世紀の初めですが、中には八幡神
の威光を強調するために大袈裟に書かれたのではないかと思える節もある。
(日蓮の著作についてもこれは同じ。手に穴云々も彼の話じゃなかったかと。)
なお蒙古軍が弘安の役において農具などを持参していた事が書かれているの
も本書です。

プッ山野の一言で全面否定されてやんの。
軍事板ってたいしたことないのー
なぁーにが
32 名前:赤色大元帥 投稿日:04/05/09 23:28 ID:???
>>30
有名な話ですよ、文章しか無いけど、ググればすぐに見つかります。
たとえば、こことか。

だ。
バカジャネーノ?
554名無し三等兵:04/05/24 04:21 ID:???
どうにも、仲違いさせたい奴が紛れ込んでるみたいだな。
意図が丸分かりで双方スレ住人に歯牙にもかけられていないことすら読めない馬鹿が。
555名無し三等兵:04/05/30 08:00 ID:cHrKar1W
age
556名無し三等兵:04/05/30 16:00 ID:???
そうたい。
もしもあんとき、山傘仮面さんの来てくれんしゃれんやったら
竹ちゃんも締め込み丸出しで逃げなあかんかったやろ。
ほんなこつ。
557名無し三等兵:04/06/01 17:58 ID:YG5SrBNY
ドーソンの「蒙古史」読んだ人が、このスレにいない感じ。
そのために、モンゴル軍の通常の戦い方がわかってない。
また、モンゴル軍が、「奇襲」をしかけたのだというのもわかってない。
そして、騎馬武者が世界の水準から見てもとても強いというのがわかってない。
また商業が日本では遅れていたのがプラスに働いているとかも、わかってない。

と、けんか腰に意見をいってみる。どうだろうか。
558名無し三等兵:04/06/01 20:56 ID:SUpvcxzB
>>557

商業が日本では遅れていたのが+に働いている、というのは?
モンゴル軍は奇襲のつもりだったというのは、最初の侵攻のこと?
それは戦略的な企図で?それとも、戦場での奇襲?

教えて君ですまそ。
559山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/01 23:25 ID:???
世界史板より参りました。この板との掛け持ち組の方々には、いつもお世話
になっております。と、それはさておきこちら様と喧嘩をするつもりなどこ
れっぽっちも御座いませんので、>>554さんの仰られた通りに無視なさって頂
きたく存じます。
>>557
>騎馬武者が世界の水準から見てもとても強いというのがわかってない。
この時代の日本の「騎馬武者」というのはいかなるものであったとお考えな
のか、その点をまずお聞かせ願えないでしょうか。
560名無し三等兵:04/06/01 23:39 ID:???
>>557のような成りきれないヘタレ煽りなら、すぐに逃げ出すさ。
第一、読解力なさそうだし。
561名無し三等兵:04/06/01 23:51 ID:???
まあ、そこを無理やり引き受けてレスを有効活用するのも軍板の伝統だがね。
とりあえず、矢玉と接近戦に関する防御力はそれなりにあったらしい>騎馬武者
ただ、馬は装甲してなかったし、随伴の徒歩の防御力も限られていたようだ。
とりあえず、騎馬武者の単体の戦闘力を見積もれば、戦闘単位の戦闘力を類推できるってわけでもないらしい、とか呟いてみる。
562山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/02 00:12 ID:???
馬鎧自体は『令義解』に「馬甲」として出て来るものの、まともに出て来る
のは南北朝時代からでしたね。300キロの馬体に100キロ近い重量がか
かっていては馬が動くのも難しく、馬上で矢を射る時には馬を停めていたよ
うで、走らせながら(えらく遅そうですが)射るのは追撃時に限られたとか。
戦国時代の武士も、移動・追撃時は専ら下馬して戦ったようです。
馬自体の装備についていえば、蹄鉄・去勢は無し。ただ馬用の草鞋がありま
した。14世紀初めに描かれた『春日権現験記絵』に馬の前足にだけ履かせ
た様子が描かれていますから、この時代の九州にあってもおかしくないでし
ょう。また馬上での武器は弓と刀・短刀でしたが、『験記絵』には馬上で長
刀を振る様子も登場します。槍はそれ自体の出現が南北朝時代になってから
なので無理。矛を振るったという話も聞きません。
南北朝時代になると「悪党」のような下賎の者達の参加が増えて来るので、
ゲリラ戦も含めてかなりなんでもありな戦いが出来たと思われます。
この頃から歩兵の重要性が次第に増加して、戦国期には「日本の武士は馬か
ら下りて戦う」と書かれるようになり、華々しい時代は去って行く事になり
ますが・・・。
563557 小6の殺人事件のスレみて昨日はおわったらレスがついていた:04/06/02 05:51 ID:1T4eBl+d
レスが遅れてすまない。とはいったものの、ちょっと手を広げすぎていたか。
 どうもうまく説明できない。

ドーソンの「蒙古史」=「モンゴル帝国史」読んでくれ。
特に東欧での戦いや、彼らの脅迫の言葉のところとか。
いろいろ日本との外交や戦いでの行動が、理解しやすくなる。
というんじゃだめ・・・だろうな。

書くべき量が膨大だし、ちょっと確証がないとこもあるし。
うーん。
564名無し三等兵:04/06/02 06:27 ID:???
おお!山野野衾さんだ。
565名無し三等兵:04/06/02 08:35 ID:???
>>563
>>557
> ドーソンの「蒙古史」読んだ人が、このスレにいない感じ。
> そのために、モンゴル軍の通常の戦い方がわかってない。
> また、モンゴル軍が、「奇襲」をしかけたのだというのもわかってない。
> そして、騎馬武者が世界の水準から見てもとても強いというのがわかってない。

大きく三つ問題提起してるので、一つずつ論証していくしかないだろうな。
とりあえず、おまいが理解してるモンゴル軍の通常の戦い方をここに書け。
それによってスレの論点がずれてる部分が明確になるはずだ。
もしも確証がなくて>>557を書いたのであれば、
問題提起したこと自体が間違ってるということになるだけ。
566名無し三等兵:04/06/02 08:38 ID:d+DUNr7R
蒙古騎兵って、本来、弓をいかけながら、自在にかけめぐる
騎射兵の集団ってイメージがあるけど、実際はどうなんだろう。
装甲歩兵もいたようだけど…。


>>561

この際、単体でみるのはどうだろう。
ただ、当時の大鎧は弓に対する防御を念頭においているよね。
騎射もするとしたら、ある意味において蒙古騎兵と戦術は似ているような。
まぁ、日本侵攻の主兵は高麗の歩兵部隊だったみたいだけど…。


>>562

教えて君でごめんなさい。
戦国時代、追撃時に徒歩というのが、どうもイメージ的に結びつかないです…。
正面から敵とわたりあう際は、もちろん姿勢を低く、的を小さくという
意味から下馬戦闘は分るのですが、追撃時こそ、騎馬隊の威力が
もっとも活かされると思うのですが…。
567山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/02 13:38 ID:???
>>566
すみません、ただの書き間違いで・・・正しくは、「移動・追撃時以外は下馬していた」です。
応仁・文明の乱以降(明応の政変から「戦国時代」に突入)になると、南北朝時代から
戦場における重要性を増していた雑兵が長槍を持って集団戦を行うようになり、一人が
馬に乗って従者を引き連れて突撃という真似はやり難くなったようです。
当時は馬に乗ったものだけで成立した騎馬隊はありませんで、「武田騎馬軍団」という
のも事実存在したものでは無かったようです。『信長公記』で長篠の合戦の事を、
「関東衆、馬上の功者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。」
とあるのが気になりますが、ポニー程度の大きさ(約300kg)では重量を支えて移
動するのが精一杯で、過敏な動きは期待出来ないという気がします。
都合のよい考え方と思われるかもしれませいぜい局所的な活躍では無かったかと。
568名無し三等兵:04/06/02 14:00 ID:???
徒歩
源平期でも動員が行われて、警戒や工兵作業に徒歩が大量に動員された、という主張もあるらしい。
だからといって、戦闘そのものの実相について、リアルなイメージがある訳でもないらしい。

騎馬
現代(つかすでに退役した)三島氏によると、装備を駄載して身一つで移動するのは、非常に楽、という説もある。
貧弱とは言え、馬を伴う軍隊の移動力を、それほど過小評価しなくても…とか思わなくも無い。

そういえば、鎌倉当時の「無事これ名馬」の具体的なところは、蹄の強さだったという記述を読んだ事がある。

って、軍板らしからぬ曖昧な記述失礼。
569山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/02 14:59 ID:???
とりあえず「良馬の条件」についていえば、まず体格の良さが挙げられました。
これは上述の通り、鎧を身に纏った人間を支える事が大変であった為。
高楯黒という名の「奥州第一の駿馬」は体高が145cmあったそうです。
それでも今の感覚からすれば小さいのですが。
もっとも標準体高121cmに三寸ほど付け足したぐらいがちょうどよく、それ
以上あると扱い難いという意見も出ていました。

また『平家物語』の「生喰」や、『小栗判官』の「鬼鹿毛」のような人をかじる
ような気性の荒さも必要とされました。これらは「犬死」ももたらしかねないと
いう「高名の悪馬」(「悪」には強いという意味もあった)と呼ばれたもの。
厩で猿と飼っていたら猿に噛み付いて重傷を負わせたという話もあります。

追撃時にせよ、仮に正面から突撃する際にせよ馬は従者が「口取」を務めていま
したが、「生喰」などは「とねりあまたつゐたれども、なをひきもためず、おど
らせて」宇治川で先陣を切らせたほど。
しかし、実際には馬ごと突入する際にも、(余程の場合を除いて)従者に傍でサ
ポート役を務めさせる事によって弓射も太刀打も可能になったようなので、これ
はあくまでも例外という事でしょう。

『前九年合戦絵巻』などには馬に乗った者だけで進んでいるように見える箇所も
ありますが、馬が疾走する際には蹄に通常の八倍の圧力がかかるそうなので、速
いように見えても従者を連れた者による、せいぜい並足での移動だったのでしょ
う。中世の軍の移動は、日本でも欧州でも一日30キロ程度であったようです。

中世の武士や騎士の乗る馬は下手に去勢をするよりも体格のよい馬を選んで従者
を伴った方がよく、去勢馬のみで密集して白兵戦をするのが増加したのは欧州で
も18世紀以降であるとか。

実はモンゴル兵ですらしばしば下馬した状態で戦闘を行っていたらしく、彼らが
携えていた「60本」の矢の内わけは、騎馬用の短弓と徒歩用の長弓の両方に用
いる為の30本ずつであったそうです。因みに当時の武士は30本が普通で、多
くても40本がせいぜい。
570山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/02 15:08 ID:???
最後に、絵画史料の表現について少々。『古今著聞集』の中に、鳥羽僧正と
絵が達者で知られた侍法師の「絵画論」が出て来るのですが、そこでは現実
には有り得ない絵師の表現というものが肯定されていました。
「拳が体を突き抜けるような絵があるのか」という鳥羽僧正による「難」に
対する、侍法師の回答「男女の交歓を描いた絵は、昔から現実のものよりも
大きめに性器を描いてある」という話は例に挙げるには少々妙な感じもしま
すが、並足を全力疾走に見せるような「見栄え」第一志向があったのかもし
れません。
世阿弥や近松門左衛門も著書で主張していた通り、現実をそのまま持って来
るのであれば芸術家の出番はありませんから。写実的ならいいというもので
は無かったのでしょう。
571557:04/06/02 19:20 ID:hISrim+6
まずモンゴルの通常の戦い と私がいっているものについて。

「モンゴル軍は、本隊の四方に、偵察隊を常において、奇襲を阻止している。」
  これはたしか東方見聞録だった。


リグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)
「十字軍士はヘンリー公から攻撃開始の勅命得、モンゴル軍の前衛が故意に交代
 したのを見て軽率にもこれを追撃した。
 この武装の不備な、半裸の歩兵が他の部隊からかなり遠ざかったのを見て
 モンゴルの騎兵は突如として方向転換してこれを取り巻き、いっせいに矢を放って
 攻めたので、その主将ボレスラフをはじめ、このドイツ兵はほとんどすべて戦死した。
 ミェズィスラフとスリスラフの両部隊は進んでこれを救援しようとしたが撃退されて潰走した。
 次いでヘンリー公とポッポは敗走兵を追撃してきた敵軍に向かって突撃したが、
 奮闘の効なく、ポーランド軍は完全な敗北をこうむった。
 ヘンリー公は戦場から遠ざかったが、その左右には四人の将校しかおらず、
 その傷ついた馬から落ちてすみやかに逃走することができなかった。
 彼は他の馬に載ろうとしたときに、敵の騎兵隊に囲まれた。剣をふりかざしてこれを
 防ごうとしたが、腋の下に槍の一さしを受けてもんどり打って落馬し、首を切られた。
 ポーランド軍の損失はきわめておびただしく、伝えるところによると、モンゴル軍は、
 戦場で倒れた敵軍の数を計算するために、死体ごとに一つの耳を切断したが、
 大きな袋九個にいっぱいになったという。」
   これはドーソンの 東洋文庫 「モンゴル帝国史2」のP166-168(P167は絵)

 
572名無し三等兵:04/06/02 19:32 ID:???
おまいがコピペしか能の無いクズであることだけはよーくわかった
573名無し三等兵:04/06/02 19:38 ID:???
>そして、騎馬武者が世界の水準から見てもとても強いというのがわかってない。

この根拠って何?
574557:04/06/02 19:39 ID:EHquu0Bt
>>551
× 載ろうとしたときに
○ 乗ろうとしたときに

元は、おそらくリグニツァの戦いのように元寇はなるとおもっていたと思う。
 もちろん海と船の分、うまくいかないのだが。
 
 先遣隊・偵察隊が、本隊まで敵歩兵をおびき出して疲れさせたところで、
 包囲し、
 
 敵司令官に、モンゴル側司令官が矢を射て目標と他の兵にわからせて、
 それをみたモンゴル兵が、いっせいにその目標に矢を同時に射る。
 敵司令官が死亡すると、敵歩兵は潰走。疲労して動けなくなった歩兵に止めを刺していく
 モンゴル騎兵。

  
575名無し三等兵:04/06/02 19:42 ID:???
元寇の元軍は歩兵方陣が主力でモンゴル騎兵はほとんどいなかったんですが・・・
576名無し三等兵:04/06/02 20:04 ID:???
>敵司令官に、モンゴル側司令官が矢を射て

モンゴル軍の指揮官は戦況を俯瞰できる観測点となる地点に位置するのが常で、
間違っても最前線で矢を射るような真似はしない
577名無し三等兵:04/06/02 20:06 ID:???
ワールシュタット戦自体が実際にあったかどうかすら疑問視されてるんだけどね
578557:04/06/02 20:08 ID:EHquu0Bt
ひらたくいうと、馬なしなら弱いんだモンゴル軍。
日本が戦ったのは、弱い状態のモンゴル軍+高麗軍や南宋軍

これはどうでしょうか。

モンゴル側の馬が少ないならば、機動力を封殺する狙いでの防塁はいらないのか。
矢を防いだのでいいのか。
579557:04/06/02 20:10 ID:EHquu0Bt
>>576
 草原には観測点はないような。出典をあげください。
580名無し三等兵:04/06/02 20:11 ID:???
何をもって弱いと言い切るんだ?
581名無し三等兵:04/06/02 20:12 ID:???
>草原には観測点はないような。出典をあげください。

写真やTVでモンゴルの草原を見たことがないのか?
妄想と憶測だけでヨタ吹くなよ・・・
582名無し三等兵:04/06/02 20:16 ID:???
>出典をあげください。

モンゴル、巻狩でぐぐれ
583557:04/06/02 20:17 ID:EHquu0Bt
>>579
 出典をあげてくださいだ。 緊張する。


>>577
 いくらなんでもそれは無理。

 欧州軍をモンゴル軍が殲滅可能なのは、わかると思う。
 実際ロシア・東欧までモンゴル帝国に入る。
584名無し三等兵:04/06/02 20:29 ID:???
父さん 強い電波が
585名無し三等兵:04/06/02 20:31 ID:???
>欧州軍をモンゴル軍が殲滅可能なのは、わかると思う。
>実際ロシア・東欧までモンゴル帝国に入る。

穴だらけというよりも一個の巨大な孔だな
お前、もしかして世界史板の人間か?
586名無し三等兵:04/06/02 20:33 ID:???
>これはどうでしょうか。

どういう答えを期待してるんだろう?
587名無し三等兵:04/06/02 20:35 ID:???
ワールシュタットの戦いはポーランドの命運を決するような大規模な決戦ではなく、
小規模な小競り合いだったという説もあるしな
588557:04/06/02 20:55 ID:EHquu0Bt
1つ質問。馬にのってなくても、モンゴル軍は強いと、考えているのだろうか。みなさんは。
589名無し三等兵:04/06/02 20:57 ID:???
お前の考えは?
590名無し三等兵:04/06/02 21:03 ID:???
何をもって強いと言い切るんだ?
いや、君の電波がとても強いのは認めるが。
591557:04/06/02 21:24 ID:???
私は、同じような兵器をもつ平家を倒し、朝廷も管理下においた鎌倉武士は、
べらぼうに強いという立場(政治的結束が強いという点も見逃せない)。
馬に乗らないモンゴル軍では、とても日本攻略は無理。


今日はこれまで。
592ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/06/02 21:56 ID:???
元軍が高所に観測点(兼戦闘指揮所?)を設けて音響通信による指揮をしていたのは、
日本側の資料にも残っておるよ。
593名無し三等兵:04/06/02 22:43 ID:???
>>557
ちゃんと名前欄に「少佐」と入れろって
594山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/02 22:49 ID:???
>>577
杉山先生の御説でしたか。ただあれは他からえらく叩かれていた覚えが・・・
ソース自体を示せなくて申し訳ないのですが。
>>592
>べらぼうに強いという立場(政治的結束が強いという点も見逃せない)。
他に比べて「べらぼうに強」かった理由、「政治的結束が強」かった理由とそ
う主張される根拠を示して頂けないでしょうか。
東国の方が組打ち戦に、西国の方が騎射に優れていたようですが、戦場の流れ
を変えるほどのものであったとは思えません。
そもそも「べらぼうに強い」のと「同じような兵器」を持っていることは矛盾
しているような。体力的に優れていたというのは観念的過ぎます。
そもそも東国の方が武士が強いとか武士の本場であるという発想自体、江戸時
代に始まって明治以降に固定化した概念です。
>>592
『八幡愚童訓』でしょうか。それとも『鎌倉遺文』の中に?
595名無し三等兵:04/06/02 22:57 ID:???
ていうか、なんで"同じような武器を持つ平家を倒した
鎌倉武士"が、"同じような武器を持つ部族も違うような
武器を持つ他民族も制したモンゴル人"より無条件に
強いんだ?

元寇でモンゴル人兵士がいたかどうかは全く別問題で。
596名無し三等兵:04/06/02 23:09 ID:???
同じような武器を持つ相手を倒して安定した政権を作り上げた勢力なら世界中に
星の数ほどいるわけだしな。
597名無し三等兵:04/06/02 23:21 ID:???
つうか、あの時期の日本武士の戦技戦術について図書館を検索した事があるんだけど、余りはっきりしないみたい。
どなたか知ってる?
そもそも騎乗したまま弓射したかどうかさえ、議論が終わってない雰囲気があったんだが…
598山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/03 00:15 ID:???
騎乗して矢を射ていたのは間違いないでしょう。ただ矢を射る際に馬を止めて
射たのか、それとも並足の状態で射ることもあったのかは議論されているとこ
ろです。いずれにせよ漫画に出ているものほど格好よくは無かった。
矢はどうも正面に向けていたようです。流鏑馬は応仁・文明の乱以降衰退し、
横向きに射るようになったのは江戸時代初期に「復元」されてから。
後は打物戦や組打ですね。前者は太刀で頭を殴りつけて落馬させるもので、後
者は直接組み合って刺殺を狙うもの。
馬上打物の登場は『平家物語』からですが、馬上では太刀も刀も抜き難い。
そこで伝足利尊氏画像(事実は高師直?)に見られるようにあらかじめ抜いて
おくか、通常とは別に馬手に挿しておく方法がとられたようです。
組打で有名なのが『平家物語』中の斎藤実盛や巴の描写でしょう。
巴は相手がかかって来るのを見て、敢えて矢で狙うことをせずに馬上でねじふ
せて馬から引き摺り下ろすと、自分の馬の鞍の前輪に押し付けて首を掻き切っ
ています。
こうした組打を行う武士たちは「相撲」をよく行ったことが『古今著聞集』や
『曾我物語』に記されていますが、これはもう格闘技というよりは格闘そのも
ので、畠山重忠などは宮中で名を馳せていた力士を再起不能に追い込んでいま
すから、実戦の中で生きて来た者の強さが分かろうというものです。
因みに延慶本『平家物語』や『源平盛衰記』には、老武者が「今の武士は相手
の馬を射て落馬させ、すぐに組打に持ち込むようになった」と感慨を述べる場
面があります。えげつない様相を呈するようになったと。

なお話が前後しますが、武芸に優れていることを「弓馬」の語で表現する事は
奈良時代から見られました。治承・寿永の内乱以前には矢を射掛けあうのが中
心で、「矢が尽きたから手がなくなった」という表現が平安前期から後期にか
けて見られます(それ以降も矢による死者の方が多かったようですが)。
599名無し三等兵:04/06/03 00:37 ID:???
>>598
おお!要点を押さえたレスサンクス!だいぶ記憶がよみがえってきた。
治承・寿永期。あの時代の研究家は鎌倉時代と言わないらしくて。

老武士についても読んだ記憶があります。筆者(藤木氏だったか?)は、武士の技能劣化と解釈して、つまりそれだけ非武士の動員が進んだ、と主張していたような気がします。
議論については、漏れのご記憶もあろうことかと思うのでご容赦を。文献資料の解釈から、(領地争いレベルの動員では)とりあえず前方へ射ていたのでは、と書いてあったと記憶します。
弓手馬手の関係から、敵を左側前方へ見て射た云々だったかと。

軍オタとしては、もうすこし戦術行動というか、戦技が判らない物か、と思った記憶があります。
馬の体力、徒歩随伴郎党の体力から言って、無駄に走りまわったはずも無く…などなど脳内した記憶があります(が、戦国期にはけっこう機動戦をしていますね。あれは街道沿いの戦略機動と、現地での戦術機動で、それぞれ使えるインフラなど勘案すべきか?)

治承・寿永期の戦技として、領地争いの文献資料が参照されていたようです。
個人的には、領地争いのような「敵の完全排除が困難」で、「社会的関係を完全に放棄できない」相手を敵とする社会的戦争と、
蒙古のような完全な外敵とをそれぞれのレベルが同一視したでしょうか?
わたしが参照できる資料が少ないので、個人的感想を識者諸氏に提示してみるのが精一杯なのですが…
600山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/03 01:19 ID:???
この時代より50年あまり前に成立したものですが、『今昔物語集』の巻二十
五に多くの合戦譚が記されています。
ただ、治承・寿永の内乱の頃には打物戦・組打が発展した結果、それまでより
も騎射の割合は減少したという見方が大勢を占めていますね。
寧ろ歩兵による弓の使用が増加して行ったようです。
>弓手馬手の関係から、敵を左側前方へ見て射た云々だったかと。
『今昔物語集』巻二十五の第三話でしょうか。
>筆者(藤木氏だったか?)は、
戦国期を中心にやってらっしゃる藤木久志先生ですか。
>個人的には、領地争いのような「敵の完全排除が困難」で、「社会的関係を完全に放棄できない」相手を敵とする社会的戦争と、
>蒙古のような完全な外敵とをそれぞれのレベルが同一視したでしょうか?
それはどうしても存在すると思います。ただ本来「正々堂々とした戦い」が必
要とされたのは私戦が中心で、『将門記』などの描写を見てみると敵根拠地の
根絶が狙われている、という意見もあります。(それ=認識の差異)
既に申し上げた通り、武士の間では「夜討」を始めとした勝つ為の手段がいざ
となればあまり取捨選択に囚われないところがあり、現に蒙古兵相手にも夜討
を行って被害を与えています。
それに自身の領域を護るという点からしても護る側が必死になるのは当然で、
精神的な面で多少差異があっても大勢には変化は無かったと思います。
「一所懸命」という言葉がありますが、当時は先祖伝来の「名字の地」を失っ
たものは、名字を名乗れなくなるばかりか「人」としての資格を失うとされて
いましたから、そりゃもう必死でしょう。戦場でわざわざ名乗りを挙げたのも
当然の事です。
もっとも南北朝時代になると、「悪党」出身者が増加してルール無視が横行す
るようになり、名乗りを挙げたものを「こんな奴らと命を引き換えにしてもつ
まらん」と一斉に矢を射掛けて殺害するような事も起るようになり、累代の武
士の認識もそれに合せて変化していかざるを得なくなります。
601566:04/06/03 04:23 ID:KkJzKaRh
>>567

どうもありがとうございます!
なるほど、そうでしたか。

騎兵隊による襲撃はやはり追撃時が主な用途だったのですね。
戦場で騎馬隊がすばやく機動、敵の側面などをつくという用法は、あまり
日本では行われていなかったのですかね。
しかし当時の馬のことを考えると、やはり厳しそうではありますが…。
602557:04/06/03 05:33 ID:EpNSwYjh
山野さんすごい。
おれいらないな。と言うわけで撤退。
603名無し三等兵:04/06/03 05:35 ID:???
ageんな失せろ
604名無し三等兵:04/06/03 07:33 ID:???
>>557は自説に固執せず、コピペで情報だけ貼ってから消えて欲しいw
605名無し三等兵:04/06/03 09:07 ID:???
>>601
>戦場で騎馬隊がすばやく機動、敵の側面などをつくという用法は、あまり
>日本では行われていなかったのですかね。

源義経と織田信長がごくまれに行った程度かな。
606名無し三等兵:04/06/03 10:04 ID:???
近代以前で渡海侵攻なんて成功した試しなんてあるのかな。

考えてみれば、あの時代で中国の江南の方から船舶で10万人の
人員を送り込んでくるというだけでも凄い話だよね。兵站とかも複雑
になりそうだし。元というか南宋って海運の強い国だったの?
607名無し三等兵:04/06/03 11:53 ID:???
>>606
南宋時代は中国の造船技術や航海術が急速に発達したみたいだね。
東南アジアや中東などと盛んに交易している。中国の歴代王朝の
中でも最も海運を重視した政権なんじゃないかな。

◎参考
ttp://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/uminosoouchiyou.htm
608名無し三等兵:04/06/03 12:36 ID:???
>606
地中海世界では珍しくないだろ。
元寇の場合も橋頭堡を確保されていたら、どうなったかわからん。
609名無し三等兵:04/06/03 12:57 ID:f0WSqWZi
モンゴル軍ってのは騎兵ばかりクローズアップされがちだけど、工兵の優秀さも忘れてはならないと思う。
攻城戦は得意にしてたらしいし、南宋との戦いでは狭隘な地形でも互角以上に戦っている所から見て歩兵も水準以上に強かったのだろう。
「モンゴル騎兵は馬を降りれば優秀な歩兵になる」という指摘もある(有坂純だったとおもう)。
610606:04/06/03 13:16 ID:???
>>607
ありがとうございます。南宋は大規模な海軍持ってたのか。
>>608
そうでした。地中海は渡海しての侵攻は珍しくなかったですね。
611名無し三等兵:04/06/03 14:29 ID:???
>>567
>>569
は自分の知識に酔っているだけ。
ポニー程度の馬だから使うのに不自由があったみたいなことを行ったかと思うと、
日本馬の体高が125cmとか言ったりしている。
馬を見た事があるんだろうか。
体重300キロとかを小さな馬と思っているらしいが、
300キロ台の競走馬(サラブレッド)なら少し前まで珍しくなかった。
体高120cmの馬は曲芸にも使われ、昔から乗馬には適していた。
今のサラブレッドが乗馬用としては異常に大きいだけ。
モンゴル馬も小さい。あれで世界征服した。
体高120cmの馬もまじかにみればでかいものだよ。
612山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/03 15:43 ID:???
>>605
故司馬遼太郎先生が「日本で「騎馬」を利用したのは、義経の逆落としと信長
の桶狭間の奇襲だけ」と書いてらっしゃいましたが、義経の場合「逆落とし」
を行ったヒヨドリ越えが現在のヒヨドリ越えと同じであった場合、平家の真後
ろを駆け下りたのではなく、背後のやや離れた崖を下りて迫った事になります。
その時には浜側から熊谷次郎らが迫って交戦しており、注目すべきは陽動して
二方向から攻めたことでは無かったかと。
『吾妻鏡』でも『平家物語』でもはっきりとは確認出来ませんが、やはり常識的に
考えて徒歩の兵も伴っていたと思いますよ。
桶狭間については今ではおけはざま山を攻め上ったということになっていますし、
元々騎馬を活用したと見る必要は無いのではないかと。
>>611
>体重300キロとかを小さな馬と思っているらしいが、
>300キロ台の競走馬(サラブレッド)なら少し前まで珍しくなかった。
存じませんで、失礼致しました。
ポニーの体高については、90〜140cm、モウコノウマ(野生種ですが)
が130〜150cmというので大差の無いものと思ってしまいましたが、
体重は前者が150kg程度で、後者の半分程度なんですね。
迂闊でした。ただ目線の高さといい、相当な重量を支えながらの動きといい、
イメージされているほど活発なものとはなり得なかったのではないかと。
613605:04/06/03 17:13 ID:???
>>612
義経のケースは最近の説は良く知りませんが、信長は速度に優れた部隊を
ひたすら先行させて歩兵や荷駄隊を後で追いつかせるという行動を何度か
やってたと思います。永禄十二年に京で蜂起した三好残党を撃退したとき
などに。
614山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/04 00:24 ID:???
>>613
ありがとうございます。『信長公記』巻第二に、馬上の十騎だけで先に京都
に入ったとありますね。この時は大雪で、荷物を運ぶように命じられた馬借
などの「下々夫以下の数人」が凍死したらしい。
ただ戦場では行わなかったかと。
615599:04/06/04 01:27 ID:???
重い〜

ので軽く。
えと、藤木久志氏というのはわたしの勘違い。読んだのは吉川弘文館「弓矢と刀剣」近藤好和氏。これに「吾妻鏡」の解釈で騎乗弓射があります。

それから、同社から出ている「神風の武士象」ゲト。ぼちぼち読んで行きます。
んじゃ、重いので軽くなったときにでも。
616山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/04 01:56 ID:???
ああ、近藤先生でしたか。その本でしたら、私も参考に致しております。
しかし本当に重い・・・。
617名無し三等兵:04/06/04 16:11 ID:???
藤木先生帝京辞めちゃったんだよなぁ
618名無し三等兵:04/06/05 12:56 ID:???
某研と山野氏の会話をみてみたいなぁ・・・
と召喚してみるテスト
619名無し三等兵:04/06/05 13:49 ID:???
>>618
一時の興味で山野氏を壊すなよ。
某研猊下は、自然現象だから、我等には止め様も無いし。
620名無し三等兵:04/06/05 20:48 ID:???
矢張り山野氏といえども猊下との対話は苦しいものがあるだろうか。
まあ会話は成立しないのであろうが。
621名無し三等兵:04/06/05 20:53 ID:???
>>620
しむらーなまえなまえー(棒読み
622山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/05 20:54 ID:???
実は世界史板で以前一度レスの応酬をしたことが・・・あまりに馬鹿馬鹿しい
内容であったせいか、内容は記憶にありませんが。
623名無し三等兵:04/06/05 21:26 ID:???

猊下のレスは慣れれば面白みを感じられるようになるだろうが。
624名無し三等兵:04/06/06 00:28 ID:???
>>623
×上
○上まあ
625623:04/06/06 00:35 ID:???
矢張り自分のようなものには猊下の文体模写は10年早いのだろうか。
626名無し三等兵:04/06/06 00:37 ID:???
>>625
矢張り軍板で猊下の中の人をやるには2等程度の免許が必要だろうか(苦笑
627名無し三等兵:04/06/06 00:46 ID:???
某研の言葉=川での砂金取り。
628ミリ屋哲 ◆4EZIX.r92I :04/06/06 01:21 ID:???
つうか、某研と「レスの応酬が成立した」思っているのはヤバい。

神風の事を「日本が神国故の必然」と思っているぐらいにヤバい。
629名無し三等兵:04/06/06 01:31 ID:???
上まあ猊下の書き込みというものは矢張り結果的に人口無能の類と同質ということだろうか。
慣れぬ人はコミュニケーションが成立すると思ってしまうものだろうが。
630名無し三等兵:04/06/06 02:02 ID:???
>>629
sageてはいけません。猊下は常にageてます。
631山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/06 02:03 ID:???
肝心の元寇絡みのレスがついていない(笑)。
じゃあ「神風」概念について・・・説いても仕方が無いか。ただ『八幡愚童訓』
といい、日蓮の書簡といい、元寇における蒙古の残虐行為や日本側の苦戦に
ついて記した史料が宗教絡みなのは押えておいた方がいいでしょうね。
前者は「佛神」の加護を強調するあまり、後者は蒙古の脅威を強調するあまり
筆がすべり過ぎた感があります。その癖、八幡に祈ったら矢が当ったとかいう
話はちゃんと記してあるんですから。
632599:04/06/06 02:08 ID:???
まあ、ここぞとばかりに利権の再調整が要請されたようですからね。

あたしゃ参考文献を読書中でして、またいずれ。
633山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/06 02:14 ID:???
日蓮は日蓮で、思惑通り「国難→『法華経』の採用」といかなかったものだから、落ち
込んだらしくて、「神風」からは元寇については言わなくなったようですね(笑)。
戦場以外の話はこの辺にしておきますが。ただ「元寇」といえば戦場以外を対象にした
研究がほとんどで、政治でも思想でもなく「ドンパチ」をやろうという先生はまずいら
っしゃいませんね。とりあえず参考文献を探しておきます・・。
634名無し三等兵:04/06/06 05:44 ID:???
知識の前に、人に伝える訓練が先だろうね。
635名無し三等兵:04/06/06 11:05 ID:???
某研の話?
636名無し三等兵:04/06/06 13:22 ID:???
某研はあれが良い。
短い文章が多いので、和歌を詠むがごとく味わいがある。
637599:04/06/06 15:22 ID:???
関幸彦「神風の武士象」斜め読みで読了。
近藤氏の「弓矢と刀剣」再読中。
平維茂と、藤原緒任との合戦(96p)は、双方合わせて総勢4000だったとしている。う〜ん、住民動員したんだろうけど…

文永の役での菊地勢は220騎だったかと。徒歩勢を入れれば1000くらいになるんだろうけど、この動員力ギャップはすごいなあ。
どちらかが実勢を外しているんだろうけど。
638某研究者:04/06/06 17:55 ID:JHect7cU
蒙古襲来絵詞で出ていたモンゴル軍の槍と
日本側の長巻の長さは大差無かっただろうし
雑兵でも槍の間合いの内側に踏み込む事は
可能だったかも知れないが
相手が精鋭槍騎兵であれば無理かも知れぬが
騎馬武者なら剣で精鋭槍騎兵の槍の間合いの内側に
踏み込めたのだろうか
(まあ槍を主兵装としている精鋭槍騎兵の槍の訓練度より
 騎馬武者の剣の錬度の方が
 騎馬武者が弓を主武器としている以上低いかも知れないが
 槍の間合いの内側に踏み込める勇気が有れば
 多少手傷を負っても鎧の薄い相手に
 剣で致命傷を与えられる可能性は
 有っただろうか)
639名無し三等兵:04/06/06 18:14 ID:???
某研キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!
640山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/06 18:38 ID:???
>>637
4000人はなんぼなんでも多過ぎます。説話ですし、あまり信を置かなくて
もよいでしょう。村岡五郎と箕田源ニの戦闘で双方5〜600人を動員したと
いう事になっている説話がありますが、多くてもそれぐらいでは無いかと。
>>638
長巻は当時まだ使われていませんが。
武士の装備の話が出たので、やや遡りますが『梁塵秘抄』から挙げておきます。
武者の好むもの 紺よ紅山吹濃き蘇芳 茜奇生木の摺
良き弓胡?馬鞍太刀腰刀 鎧冑に脇楯籠手具して
前半は衣服や甲冑の色、後半は武具となっています。腰刀は組打などで使える
短刀で、中世の男子の標準装備。脇楯は鎧の脇を塞ぐための防具。
641山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/06 18:40 ID:???
胡?→「やなぐひ」、です。
642某研究者:04/06/06 19:15 ID:JHect7cU
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/pole_nagamaki.htm
鎌倉時代にも使われたと書かれているし
蒙古襲来絵詞にも長巻は描かれているが
実際は使われていなかったのだろうか
643山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/06 19:22 ID:???
上に出ていた『弓矢と刀剣』65頁の記述と、鎌倉時代以前の記録に覚えが
無かった事から判断したのですが・・・近日中に調べておきます。
644名無し三等兵:04/06/06 23:25 ID:???
蒙古の戦力戦備が不十分だったから本格侵攻じゃなかったという意見があるが
連中実際の所どの程度日本側の防備を理解してたんだろね?
そのあたり一番詳しいと思われる朝鮮は侵攻勧めてる立場だから
ただでさえ過少な情報を伝えてると思われるし

あと占領した対馬を策源地にしようという発想はなかったんだろうか?

元側が九州ないし全土の占領を意図していた場合どの程度の兵力が必要なのか
補給体制や侵攻経路はどうすべきなのか、実際それが可能なのか?

645名無し三等兵:04/06/07 00:07 ID:???
>>644
> あと占領した対馬を策源地にしようという発想はなかったんだろうか?

対馬は平地が少なく山がちな地勢であるため大軍の駐屯には向かない。
どのみち対馬は朝鮮半島本土から肉眼で見える距離だから無理して
策源地を作ったからといって日本への侵攻ルートがさほと短くなるわけ
でもないし、メリットはない。食料だって対馬では調達不能だから半島
から輸送してこないといけないしね。
それなら朝鮮半島本土を策源地とした方がいい。
646名無し三等兵:04/06/07 00:28 ID:???
>>645
九州に橋頭堡すら確保出来ないような状況では
対馬壱岐を集積&集合地とするのは意義あるんでないかな?
ただでさえ海に不慣れな兵で洋上にいる時間は短い方がいいし
当時の船足を考えれば朝鮮海峡すら広大な海面なわけで
実際秀吉時代になってもあれだけの範囲で制海権争いしたんだし
647名無し三等兵:04/06/07 02:28 ID:???
>>646
> 実際秀吉時代になってもあれだけの範囲で制海権争いしたんだし

その秀吉の時代に、日本側が「対馬壱岐を集積&集合地と」したか?
日本の軍勢が策源地としたのは北九州だよ。
わざわざ「対馬壱岐」のような離島を「集積&集合地」にするメリットは
無かったってことだ。
648某研究者:04/06/07 15:20 ID:ZCfvXX0b
まあ甲冑を装備して長巻を持った日本の徒士に対して
モンゴル兵が槍を振るっても致命傷を与えられるのかだろうが
士気が低ければ槍で手傷を受ければ
逃走するだろうが
士気が高ければ槍の間合いの内側に踏み込んで
長巻を振るえば装甲の薄いモンゴル兵は
致命傷を受け得る訳だろうか
(モンゴル兵の槍の切れ味と言うのは有るのかだろうし
 槍の長さも短いので打撃力も有るのかだろうし
 中々致命傷と言うのは
 与えられない可能性も有る訳だろうか
 日本側も甲冑は着ているが徒士は兜は無いし
 頭を殴られてやられる危険も有るかも知れないが
 他の場所への突きや斬り・打撃では
 やられ難い訳なのだろうか)
649某研究者:04/06/07 16:25 ID:ZCfvXX0b
>騎兵隊による襲撃はやはり追撃時が主な用途だったのですね。
>戦場で騎馬隊がすばやく機動、敵の側面などをつくという用法は、あまり
>日本では行われていなかったのですかね。
>しかし当時の馬のことを考えると、やはり厳しそうではありますが…。

まあ只歩兵よりは高速だろうし
ある程度の奇襲は可能だったと見て
良いのかも知れないが

蒙古襲来絵詞にも日本の騎兵集団がモンゴル歩兵を追撃している様な
絵が有るが
落馬している騎兵は兎も角徒歩の従者の様な物は見えなかったから
此れは騎兵単独での追撃なのだろうか
650山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/07 21:21 ID:???
長巻についてですが、やはり『国史大事典』以下にあるように、中世後期に
野太刀(南北朝時代から流行)から発展したもののようです。
『蒙古襲来絵詞』に出ていたものは、日本絵巻大成の解説通り湾曲した刃の
形状からして長刀とした方がいいでしょう。
>蒙古襲来絵詞にも日本の騎兵集団がモンゴル歩兵を追撃している様な
>絵が有るが
追撃時は走らせながら矢を射たのではないか、とも言います。もっとも全力
疾走というよりはやや駆け足といった風に見えますね。
651599:04/06/07 22:12 ID:???
竹崎の絵図に引っ張られる形で、何となく日本武士が突撃したような印象があるけれど、それ以外の資料ではどうなんでしょう?
竹崎には先駆けする事情があったことは知られています。
一方、先に上げた故事を見ると、矢戦から始めるのが日本軍としても標準なような…
652山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/07 22:35 ID:???
少弐氏が守護を務めていた四カ国の内、肥後の陣は最後尾に位置していました。
本来ならそこでそのまま待ち受けて戦う予定であったのですが、本領を親類に奪
われていた竹崎季長は小弐景資に自身の窮状を訴え、先駆けを訴え出て許可され
て博多湾方面に向かいました。
もっとも許可以前の問題として、少弐氏は指導者ではあったものの、戦場におい
て強制力を持っていなかったのですが。季長は少弐氏の被官ではなく、それなり
に有力な家の出身でしたから、こうした行動も可能だった訳です。
その後季長一行五名は西に向かい、那珂川を渡ったところで激戦から引き上げて
来た菊池氏の百余騎と出会い、敵の死体の中から抜け出して来た事を耳にします。
しかし菊池氏の本領は北条氏と縁が深く、肥後御家人としての一番駆けの可能性
はまだ残されていました(つまり、戦端自体は既に開かれていた)。
そこで菊池勢と別れ、数千の敵勢に僅か五名で突撃を敢行。矢戦どころじゃなか
ったでしょう。白石勢百余騎の援軍が無ければ、そのまま殺されていてもおかし
くはありませんでしたよ。
653名無し三等兵:04/06/07 22:40 ID:???
蒙古とすれば博多湾以外の上陸は考えていなかったのだろうか?
たとえば熊本以南から上陸して北上、平野部で決戦を挑むとか
654559:04/06/07 22:47 ID:???
>>652
そこで、菊地勢他の戦技というか、行動について記述した文献はありませんかね?
源平なんかを見ても、展開したら楯を立てたりして、陣を張っているようです。(陣地をどこに構築するか、とか、どう集結するかとか、興味も尽きませんし)

これは妄想のレベルを出ていませんが、上陸した蒙古軍は、偵察隊を出しているはずですから、それらとの不意交戦こそが最初の交戦だったのでは、と。
655山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/07 22:55 ID:???
日本側の地理もよく分かってなかったんじゃないでしょうか。交易が盛んで
したから博多周辺といった細かい地域については通じていたでしょうが、ま
ともなかたちで確認出来る日本地図が出来たのは元寇の直後の事です。
元寇による「日本」意識の高まりが成立させたという研究者もいますが、い
ずれにせよ彼らには利用出来ません。
なお、その地図は北ではなく南や西を上にしていたのを、北向きの地図だと
勘違いした李氏朝鮮や明の人間があちら側の地図と合成したせいで、長い間
明などで作られた地図では日本列島が南向きに描かれていました。
つまり列島の南北すら分かっていなかったという事。交易商にせよ、あの時
代ですから外国人が移動出来るルートは限られていたでしょう。
肥前・肥後の田舎は未知の土地だったのではないかと。
656山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/07 23:16 ID:???
>>654
菊大路本『八幡愚童訓』は八幡大菩薩の霊験を誇示するために日本側にとっ
て不利な状況を多く記した可能性のあるものですが、おおよそ次のような状
況が記されています。
・日本側の大将、少弐入道の孫(十二、三歳)がまず矢合のために小鏑を放
ったところ、蒙古側は一度にどっと笑った。
・蒙古は銅鑼や太鼓を鳴らし、紙砲(?)鉄砲を鳴らしてときの声を挙げた
ので、日本側の馬は混乱して暴れだした。
・蒙古は毒矢を用い、それを数千数万と雨のように降らせて来た。また集団
で長柄の具を並べ、進退は一斉に行い、突入して来るものがあれば囲んで突
き殺した。
・蒙古は倒した人の腹を割いて胆を喰らい、また好物の牛馬で腹を満たした。
・たまらず日本側は退き太鼓を打って撤退。これというのも、相手が一騎打
ちの流儀などお構いなしに攻めかかって来たからであった。
この後「南無八幡大菩薩」と祈ったら矢が当って敵が倒れたとか、菊池が敵
の屍の中から起き上がって首を持って出て来たとかいう話が続きます。
まず浜でお互いに楯を挟みながら矢を射掛けあい、頃合を見て白兵戦に突入
したように見えますね。どうもご期待なさったような記録は望めません。
『吾妻鏡』の内容がこの時代まで続いていれば助かったのですが、無いもの
ねだりをしても仕方がありませんね。もう少し調べておきます。
657名無し三等兵:04/06/07 23:29 ID:???
すごく素朴な疑問で申し訳無いんだけども、どう見ても蒙古ってガイジンだったわけだろ?
そんな連中相手に尋常に名乗りあって一騎打ちって言葉通じる訳ないじゃんって思うんだけど
鎌倉武士ってそこまで馬鹿だったってこと?
658559:04/06/07 23:31 ID:???
>>656
ああ、やはりそうですね。
原資料自体が無いから、探しても出てこないわけですね。こりゃ、フィールドワーク?(無理無理無理!

軍オタ的に言うと、
蒙古軍が到着(この到着の順序や、状況についても、妄想を逞しくしないとならないか?
なんにしろ、現代の船団のように一斉に到着できるはずも無く、沖合いから浜にかけて集結が必要だったはず。
この間に、日本側の住民から通報があったはずだし、上陸に備えて先遣隊が上陸したはず。

現地の地頭やら守護やら武士やらの偵察行動があったはず。
早期の攻撃が行われたかどうかは不明(上陸先遣隊が少数ならば、強襲して撃破する戦術判断は働くと思う)
上陸先遣隊が、周囲を監視したり、あるいは防御に有利な土地(高地などか?)を占拠し、周囲の状況を把握すれば、
集結を終了した本隊が上陸を開始するはず。
この初期土地占拠には、水場の確保などの要件もあったはず…とかいうことを、指摘していったら、学問板の人には目新しいかな、と。
659名無し三等兵:04/06/07 23:37 ID:???
>>633
日本の合戦史とかにおいて、
軍事史的に書いたものがほとんど無いのはなんでだろー

人物とか社会情勢、政治の動きばかり
660599:04/06/07 23:47 ID:???
>>659
非常に難しいから。
たとえば騎馬の移動ひとつとっても、当時あった水場のネットワークやら何やらの知識が失われている。
遺構も残りづらいし。文献資料も精度が不明。
661名無し三等兵:04/06/07 23:50 ID:???
蒙古の船団が漂流して蝦夷地あたりにたどり着いていたらどうなっていただろう?
室町幕府成立後突如北の大地から攻め寄せる謎の騎馬軍団
662山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/07 23:53 ID:???
>>657
手柄をはっきりさせる必要がありました。また当時の「名字」というのは「名」、
すなわち所有する土地と結びついたものであり、血統と名字を述べるというのは
戦場に臨むものの正当性を主張する行為。
先祖伝来の土地を敵の馬蹄にかけられる事は武士の存在意義にも関るほどの不名
誉であり、『吾妻鏡』には所領を持たない武士は武士とは言えず「牛・馬」と同等
の存在だという観念が述べられています。
実際にはいちいち全員が名乗りを挙げていた訳でも無さそうですが。
>>658
まず対馬が、ついで壱岐が落とされましたが、その時に使いが大宰府まで派遣され
ており、日本側は博多湾の南部をぐるりと囲む形で待ち構えていたようです。
そして蒙古側は湾内に入って来て百道原の海岸で衝突・・・という漠然としたとらえ
かたで、確かに相手側の意図についてはほとんど言及されていなかったように思い
ます。
ただその前に謝らねばならない事が。蒙古は百道原に上陸する3〜4日前に平戸や
鷹島、唐津や三代にも上陸しています。小競り合いや水の補給があったのならこの
時点の事でしょう。その後海岸沿いに東へ移動して湾内に入って交戦を行ったらしい。
それでも結局博多に上陸しようとした理由としては、周囲の見晴らしが良かったとい
う点がまず考えられていますが、後は考えようですね。
高地といえば、日本側は海岸に近い麁原山に本陣を置いています。この辺りでは他に
目立った場所が無かったのかも。
663山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/08 00:08 ID:???
>>659
分かり難いから、というのも大きな原因ですが、史学の目的はその時代を知る
ことであって特定の事実を明らかにするものではないというのも有ります。
上に挙げられている近藤先生も、有職故実を知るために著書をものにされた訳
で、戦場や武器だけやってらっしゃる訳ではありません。
その時代の一面を見る鏡として担当してらっしゃる訳です。
つまり、戦場だけやるのではなく政治や文化の流れの中で見ないとそれ以上の
広がりを持たないとされている訳で・・・納得して頂けぬ事とは存じますが。
(私は好きで調べてますけどね)
664599:04/06/08 00:15 ID:???
戦略的な情報だけでなく、戦術的というか、リアルタイムで入ってくる情報を集めると、大船団の停泊をしやすい博多湾以外にありえない、と判断したのかもしれません>日本側。
一方、蒙古側には朝鮮半島の住民なり、船員なりを伴っているはずなので、はじめから博多湾の存在を知っていたはずですね。
湾の存在を知っていて、沿岸沿いに進んできた、と考えるのはそれほど的を外していないと思います(妄想 w)
船足は、船頭の腕によってかなり異なるので、そういう方針が取られたのでは、と思っていますが。
だとしたら、平戸、鷹島、唐津、三代あたりで烽火など炊いたかもしれませんが。
何にしろ、軍を一体として上陸させる=それまで船団を気象海象から守れる場所=博多湾を、三々五々とひたすら進んだのでしょうか?
だとしたら、沿岸からもそういう船の姿を望めていたはずです。
だとしたら、日本側も博多湾を目標と特定して、比較的すみやかに集合できたかもしれません。

って、ほとんどに根拠が無いんですよね。某研猊下と同じで…
妄想を垂れ流すので、評価して欲しい、という甘えかな…(済まないです)
相田二郎氏「蒙古襲来の研究」が古典的名著だとしているものがありますが、どうでしょう?
池内宏氏「元寇の新研究」などもあるらしいのですが…
665山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/08 00:44 ID:???
>相田二郎氏「蒙古襲来の研究」が古典的名著だとしているものがありますが、どうでしょう?
私もこれから読もうと思っていたところで、『元寇の新研究』は未見です。
しかしこの板面白いわ。
666名無し三等兵:04/06/08 00:49 ID:???
当事も着上陸戦を行おうと思えば、小船に兵士や武装を移してから海岸へ向かわなくてはならない
輸送に使った船舶から小船への移乗は、波のない安定した水面でなくてはできない
砂浜以外では揚陸に使った小船が破損する可能性が高いので難しい
(干潟だと上陸後行動不能になる可能性高い)
ってことで、博多湾以外にあったのかなぁ
長崎方面は遠いし、関門海峡越えるのは潮流が厳しくて地元の水先案内人居ないと不可能かと

元軍も三別抄の乱で上陸作戦の経験が無くて苦労てるから、無策ってことはないと思うんだが
九州というか日本の地積を考えると、上陸できてもその後の補給が厳しそうだな
日本が秀吉の朝鮮出兵で苦労したのと同じ状態になりそう
667599:04/06/08 00:57 ID:???
>>666
いえ、当時の船は喫水も浅いし、スクリューも無いですから、動力船ほど浅海の規制は無かったようですよ。
座礁しても、錨を打ち込んで、それを綱引きみたいに引っ張って抜け出したりしていた例が帆船にはあります(当時やっていたかは不明)。
水先案内人に関してですが、当時すでに朝鮮との交流があったはずなので、朝鮮を制圧した蒙古軍がこれを調達するのは可能でしょう。

朝鮮出兵の際は、李水軍の後方撹乱が効果を発揮しました(が、日本軍はソウルもピョンヤンもやすやすと攻略していますし)。
上陸が叶えば、略奪で補給を賄いつつ、五月雨式に補充をしてゆけば、地域を実行支配できた可能性があります。
都市や集落を陥落させれば、生活環境が改善されて将兵の消耗率も小さく出来るでしょうし。
668某研究者:04/06/08 01:39 ID:LomtK+Xu
モンゴル軍の槍と言うのは絵を見る限り短いが
全て投げる事が可能なタイプだったのだろうか
(投げて槍を失った後は剣で戦ったのかも知れぬが
 其れで日本側の長巻に勝てたのかだが
 全ての槍が投げられたのかだろうし
 騎兵の槍も投げて使うタイプしか
 無かったのだろうか)

盾には兎も角防塁に対しては槍等無力だろうが
騎兵が下馬したのでは無く防塁の背後に居たなら
此れに投げ槍が当たる危険は有っただろうが
モンゴル側が槍を投げる前に弓に倒れる事も
多かった訳なのだろうか

日本の兵も槍は投げないが
石は投げると言う事だろうか
669498:04/06/08 01:44 ID:ab9Tt0kd
>>650

以前も書いたんですが、蒙古襲来絵詞を出展として「槍が云々」「長巻が云々」という論法が
あるんですが、これは間違う可能性があるんじゃないかと思います。

例えば......。
蒙古襲来絵詞の絵七の竹崎季長は、平治物語絵詞の六波羅行幸巻に描かれている場面と全く
同じで、これらの絵が現実に見たものではなく、一定のパターンを適用した可能性があります。
(つまり、依頼者や絵師からみて無視されるような立場の人間は書かれていないかも。。)

また、佐藤鉄太郎氏は「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」の中で、「竹崎季長と対時している三人の蒙古兵」
「竹崎季長の周辺に描かれている矢、槍」「竹崎季長が生の松原の竹崎の傍らに控えている郎党」
については江戸時代の加筆の可能性を論じてもいます。

ここから考えた場合、蒙古襲来絵詞は総体として扱うのは可としても、細部を引用して論じることは
厳しすぎますね〜〜。
670某研究者:04/06/08 01:45 ID:LomtK+Xu
槍を失った後に剣で長巻の間合いに踏み込むのは
雑兵では無理かも知れぬし
一方的にやられた可能性も有るだろうし
精鋭槍騎兵も徒士は兎も角騎馬武者相手には
甲冑の装備率の差も有り剣では勝てるのかだろうが
船の中ではモンゴル兵も槍を普通に構えている様に見えたが
船に対しては槍は投げなかったのだろうか
(或いは短い槍も全て投げられていたとは
 限らないのかも知れないが)
671498:04/06/08 01:55 ID:???
>>666

北九州は昔から発達しちゃったんで、正確な海浜部の様相は解りませんが、祖父などから
聞いた限りでは、そう大規模な砂浜は無かった様子です。
(どちらかというと岩礁が多いですね。)

また、関門海峡から小倉までは、海直近まで山が迫っていますので、大規模な軍勢を展開
するのは厳しいでしょうし、大宰府が攻略目標だと侵攻途上の障害が多すぎる気がします。
(これは昔も今も)

大宰府を落とすなら博多湾経由一択って感じですかね。

672498:04/06/08 02:29 ID:???
>>498

長刀と長巻についての考察、面白いですね。=)

さて、長刀と長巻の刃の形状については、早い時期から同じようなものが存在したのではないか
と思います。 例えば、雄山閣出版「日本刀大事典」(福永酔剣著)をみますと、長刀の男型(静
型)と長巻はよく似ていますね。

また、長巻を太刀に拵えなおしたもの(長巻直しといいます)のうち、鎌倉中期の作品と鑑定
されるものも数点現存しているところから、鎌倉期以前から長巻状の武具が使用されていた
可能性もあります。
(後三年の役の頃には長刀が広く用いられていて、これは実質菖蒲造りの刀に長い柄を付けた
だけの長巻のようなものであった......という説もありますし、原型は太刀であった可能性も
高いでしょうか。)

ま、一口に言えば「長刀も長巻も鎌倉時代には明確に区分されていない?」のかも。
673某研究者:04/06/08 03:33 ID:LomtK+Xu
日本の徒士が兜を被らないのは
どう言う事なのかだが
防弾チョッキを着ている兵も
弾の当たる確率の低い頭は防弾されていないと同様に
白兵戦よりも射撃戦に特化したが
故なのだろうか
(まあ斬撃が掠めた程度なら烏帽子で止まるかも知れぬし
 半首等が装備される場合も有る訳だろうか)
674某研究者:04/06/08 03:48 ID:LomtK+Xu
まあ只徒士の肩の上の防具(杏葉)等は
明らかに白兵戦を想定しているだろうが
頭よりも肩の防御が
優先されているのは肩に当たる確率の方が
高いと言う事も有る訳なのだろうか
675名無し三等兵:04/06/08 09:25 ID:???
>>644

モンゴルの、他の国への動員兵力はどんなもんだったんでしょうね。
同時期の。
同じくらいなら、当時の日本の戦力を過小に評価というより、
これくらいの動員で十分と考えていたのかもしれないですし。

あとは、戦闘要員と支援要員の比率も問題でしょうし。
日本側は兵站線も短いし。
676名無し三等兵:04/06/08 09:48 ID:???
>>675
短いけれど、被侵略側の持っている軍事リソース自体が、「支配と治安のため」である事が多い。
だから、すぐに限界が来てしまって、消耗に耐えられなくなる…なんてことがよくある。
って、電波を飛ばしてみよう。
定性的にはともかく、定量的な証明が難しいから。
用例を挙げろ、といわれれば、タリバンは敗北を重ねていって、軍事的には失地を回復できなかった(からこそ、ゲリラ抵抗を選ぶ。イラク、ファルージャもそう)。
677山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/08 13:16 ID:???
>>669
有益な情報、ありがとうございます。比較的時代が近い絵画史料も参考にする
必要がありますね。
>>672
長巻といえば『富樫記』に、長い野太刀の刃に縄を巻きつけて使用した記述が
あり、そうしたものから発展して上杉家では「馬の足払い」といい、織田・羽
柴家で完成されたと言います(秀吉の発明とするものまである)が、
>また、長巻を太刀に拵えなおしたもの(長巻直しといいます)のうち、鎌倉中期の作品と鑑定
>されるものも数点現存しているところから、鎌倉期以前から長巻状の武具が使用されていた
鑑定でこうした結果が出ているので、混乱してしまいますね。
やはり長巻という(野太刀から来たものとしての)「名称」は当時まだ成立し
ていなかったという事でしょうか。細川澄元や富樫政親の頃なら名実共に揃っ
ていてもおかしくないのですが、これじゃ時代が下りすぎる。
長柄の武器としては、『平治物語絵巻』に片刃の手鉾が登場しますが、ここに
出て来ていいものかどうか分かりませんね。長刀の用途には僅かながら敵を刺
す事も含まれていたようなので、無くても大差ないか。
別に長巻でなくても、長刀で馬の足を払うという例が『平家物語』に出て来る
ので、こちらも無問題。ただ戦況を変化させるようなものかというと、期待出
来ませんね。
『八幡愚童訓』は、活躍した武器としては太刀と弓矢ぐらいしか出してくれて
いませんが、名も無い兵の行動は無視された可能性が高い。
678某研究者:04/06/08 14:50 ID:k+t0Agcg
モンゴル軍も中世の仏軍の様に歩兵迄乗馬して移動していたと言う事は
無いのかだが
流石に日本には其処迄の馬は持ち込めては
居ない訳なのだろうか
679某研究者:04/06/08 15:05 ID:k+t0Agcg
騎兵が優勢な側は敵歩兵が陣形を組む前に
此れに突入をすれば
簡単に撃破出来るかも知れぬし
敵騎兵が迎撃して来ても此れは撃破出来る
訳だろうか

まあ歩兵も隊列を組んでいないとは言え何も出来無いのかだろうし
射撃をして来る可能性は有る訳だろうが
射撃困難な雨天に槍騎兵を突入させれば
殆ど何も出来無い可能性も
有るだろうか
680名無し三等兵:04/06/08 15:13 ID:???
薙刀、長刀、長巻の区別はあいまいですね
平安期にも徒歩兵の主力兵器として薙刀(長刀)はあったので、元寇時のも当然使われていたかと
当事のは比較的反りが小さく、日本刀とあまり変わらない形態です(現存してるものも有る)
突く事もできそうな形です
681675:04/06/08 15:50 ID:???
>>676

ゴメンそういう大きな話でなく、単純な糧食、武器弾薬(この場合矢弾?)
の補給線のつもりで兵站と言いました。

ただ、もちろん兵站線の長さはともかく、相手が圧倒的に強大なら当然、
正面戦力どころか国ごとなくなる例なんて幾らでもあるわけですけど。



>>679

多少の雨天くらいなら着火も射撃も可能なようになってませんでしたっけ。
改良された火縄銃は。雨よけもついている銃があったような…。
すごい強風と土砂降りだったら、また違うでしょうけど。
またさすがに鉄砲、矢、鎗できちんとした隊列を組んでいる歩兵の集団に
騎兵を正面から強襲させるのも危険なような気が…。
ゴメンナサイ超出過ぎたことを申し上げております。
682某研究者:04/06/08 16:31 ID:k+t0Agcg
>またさすがに鉄砲、矢、鎗できちんとした隊列を組んでいる歩兵の集団に
>騎兵を正面から強襲させるのも危険なような気が…。
>ゴメンナサイ超出過ぎたことを申し上げております。

まあ確かに道を縦隊で進んでいる歩兵は
横に槍を構えれば隊列共成るだろうし
左右から挟まれても二列であれば
左右に対抗可能かも知れぬが
側面から攻撃されれば崩されないのだろうか
683名無し三等兵:04/06/08 17:20 ID:???
>>681
実際、矢玉の不足を報告して後退しているからねえ。
馬を戦闘機や戦車になぞらえるように、矢はミサイルになぞらえて良いくらい精密な消耗品だったのは確かだと思う。
日本の矢も(鎌倉期以降のもんだと)鷹の羽を使っていたりするものもあるし。

むしろ、糧食の方が「低規格でいい」ものだから。
すると、占領してしまえば…という前のレスに繋がって行くわけで。
684名無し三等兵:04/06/08 19:17 ID:???
優良スレ!

としか書けない自分がいる
685ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/08 20:54 ID:???
>673
鎧・兜は高価だから、たんに手が出なかっただけ、の可能性があるんじゃないかと思います。
大鎧は騎馬武者(“騎馬武者”の定義、戦いの実相についてはここでは捨て置く)の武装で、
腹巻きは徒歩の従兵の武装と一般的には見られているようだけど、腹巻き(胴丸、鎌倉期の
ものには、大鎧のような袖がある)も武士の装備で、従者はもっと粗末、もしかしたらまともな装甲
のついた鎧は着てなかった可能性のほうが高いようです。

絵画では従者も含めて、鎧を着ている人間が多いですが、上でも山野野衾殿が述べているように、
絵画としての見栄え、武功の証しとしての側面から、下級兵士(武家身分で無い、準戦闘員や、補助兵士)
が端折られてると見て良いかと思います。
686ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/08 20:56 ID:???
失礼、山野野衾殿ではなくて、
>669の498殿でしたね。
687山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/08 21:07 ID:???
兜は普段は重いので従者に持たせていたようですが、竹崎季長は小船に乗って
蒙古を急襲しようとしている武士の姿を見て同乗させてもらったものの、急な
事で兜が間に合わず、そのままの状態で戦ったそうです。
それとあの時代、値段だけではなく「過差(身分を弁えない装束や振る舞い)」
が非常に重視されましたから。無視出来たのは祭りの時ぐらいで、江戸時代に
幕府が祭りの開催に五月蝿かったのもそのせいです。
今でもそうですが、近世以前だと服装や髪型でおおよその社会的立場が分かる
ようになっています。髪を結っていなかったのは、僧侶やえた・非人などの例
外だけ。
688山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/08 21:09 ID:???
それと、「馬に乗るのは大鎧の重量を支えるため」といういまいち信用出来ない
説(近藤好和氏)もあるくらいで、徒歩の兵は身軽でないと務まらなかったので
しょう。兜を持ってもらう訳にも行きませんし。
後世の雑兵も「足軽」と呼ばれたぐらいですから。
689ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/08 21:35 ID:???
>688 山野野衾殿
>>「馬に乗るのは大鎧の重量を支えるため」といういまいち信用出来ない 説(近藤好和氏)

個人的には、これは合っていると思いますよ。オレ、鎌倉期の胴丸を完全武装で着こんだことがあるのですけど、
(詳細はここ参照ttp://hobby6.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1086266351/625

これですら積極的に走りまわって徒歩戦闘なんて無理、と思いましたもの(単純に、鍛えてないから
体力不足、という理由かも…笑)

あと、大鎧は着た事がないですが、着用した人はみな、「これで動き回って戦闘するのは無理だね」、と
いうようなことを仰います。やはり、弓矢に対する防御を念頭に置いた形状からも伺えるように、矢戦及び
騎射・騎馬戦闘の為の鎧なのでしょう。
690名無し三等兵:04/06/08 21:39 ID:???
源義経はジンギスカン
691某研究者:04/06/08 22:11 ID:k+t0Agcg
>鎧・兜は高価だから、たんに手が出なかっただけ、の可能性があるんじゃないかと思います。
>大鎧は騎馬武者(“騎馬武者”の定義、戦いの実相についてはここでは捨て置く)の武装で、
>腹巻きは徒歩の従兵の武装と一般的には見られているようだけど、腹巻き(胴丸、鎌倉期の
>ものには、大鎧のような袖がある)も武士の装備で、従者はもっと粗末、もしかしたらまともな装甲
>のついた鎧は着てなかった可能性のほうが高いようです。

まあそうであれば鎧を着るより盾を構えた方が安いかも知れないが
鎧も無く弓・長巻や刀も持たず武器は石だけ投げていたと言う様な連中も
居る訳なのだろうか
(まあ敵の武器を奪って戦う事も
 有った訳だろうか)

胴丸は10−20kg
大鎧は40kgだろうが
室町時代の大鎧は腿に装甲も追加されているし
中に腹当を着込む等して胴体が二重に成っている物も有ると聞いたから
更に重いのだろうか
692名無し三等兵:04/06/08 22:13 ID:???
胴丸の成立は、室町あたりじゃなかったっけか?
693名無し三等兵:04/06/08 23:04 ID:???
日本は二度の元寇を撃退した、これが史実。
自分が興味あるのはそうでなかった可能性はどうかという点。

1.元軍が九州に確固たる拠点を確保できていた可能性はあるのか?
2.九州以外への上陸の可能性は?その場合の得失諸点は?
3.当時の元が日本を征服し得た可能性はあるのか?

こうした諸点についてはどうだろう?
694山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/09 00:16 ID:???
>>689
それもあるでしょうが、やはり起源としては
「狩猟の際に騎射が必要とされた」という事と、「朝廷の行事で騎射が重視
されていた」という事の二つが挙げられるでしょう。私は折衷説を取ります。
近藤先生の御説では基本的に馬を停めて射るか、追撃時に追いながら射る(追
物射)しか無かったとされていますが、断定出来るものとは思えません。
まず騎射が発達する中で鎧の大型化が進んだのであり、馬に支えてもらうとい
うのはあくまでも結果論でしょう。移動射が完全に廃れたとは考え難い。
>>691
>鎧も無く弓・長巻や刀も持たず武器は石だけ投げていたと言う様な連中も
投石は下郎の技とされていたようですが、いくらなんでも徒手空拳というのは
無かったかと。ただ戦国期には棍棒の先を削ったもので戦っている者もいたよ
うです。
もっとも秀吉の「刀狩」というのは「農民から武器を取り上げる」目的があっ
たというよりは、それまで武士以外も行っていた「二本挿し」を武士だけのト
レードマークにする事にあったとも言われる通り、中世の男子なら最低でも腰
刀ぐらいは所持していた筈ですが。
江戸時代も農民が刀・槍・鉄砲を境界争いなどに持ち出す事は17世紀末まで
続いており、その後も脇差ぐらいは庶民でも所持していました(時々禁止あり)。
文化年間に長崎に来たロシア船長レザノフは一年近くも軟禁状態にありました
が、それでも農民が腰に脇差を挿しているのを普通に目にしています。
695599:04/06/09 00:20 ID:???
それどころか明治になっても、北関東の連中は民権運動の集会に武装して集結した記録さえある。
696某研究者:04/06/09 00:33 ID:hc6JX4jq
江戸時代でも脇差より長いが打刀より短い道中指しは
旅の途中であれば挿せるだろうが
(まあ女が道中指しを挿していたり
 此れで戦っている様な浮世絵も結構見た事が有るし
 女だから短刀しか持てないと言う事も無いだろうが
 武士の女でも太刀や打刀を持つ事は兎も角
 脇差しは挿せなかったのかも知れないが)

まあ石しか武器が無いと言うのは流石に無いだろうし
竹槍程度なら持っていたかも知れぬし
他の武具も敵から奪えば使えただろうが
甲冑は兎も角槍や刀・弓・鉄砲の支給位は
無かったのかだが
697ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/09 00:41 ID:???
>694
鎌倉〜南北朝にかけて、既存の権力に関わらない物達(いわゆる「悪党」)が世の中に出てきますが、
彼等の武装は投石と棒(「金砕棒」や「さい棒」など)がメインであったようですね。京の印字打ちが投石だと有名
ですが、そういった技能をもった連中は各地にいたでしょう(簡単なスリングを使っていたようです)。

『異形の王権』以降、この手の話をわかりやすく掘り下げた書物に出会ってないのですけど、ないのでしょうかね?
個人的に一番興味があるもので(南北朝〜戦国時代初期の「悪党」達の武装やらなんやら)。

あと、腰刀・守り刀の話ですと、仰るように、一般の農民・商人・職人なども(僧侶さえも)、一振りは常に所持していた
そうですね。持ってない人間は、代わりに小さい鎌や手斧を所持していたとか。武器というよりも、日常の道具や、守り刀
という言葉が指す様に、護身用・お守り(鉄器信仰に係わるようです)としての意味合いのほうが強いのでしょうけれども。


>695
秩父事件ですね。『群上一揆』のスタッフが作った、『草の乱』という秩父事件の
映画が、秋に公開されますよ。
698名無し三等兵:04/06/09 00:50 ID:???
>>696
あんた邪魔。
699山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/09 00:59 ID:???
>>693
幕府は朝廷に申請して寺社の警備をしていた兵まで動員して山陰方面の護り
を固めさせており、一時蒙古の上陸した長門は長門・周防・安芸・備後の兵
に護らせています。
しかしよく分からない土地に入っても、果たして京まで辿り付けるかどうか。
>>697
>簡単なスリングを使っていたようです
都市民の投石行為は京中が田楽で沸きかえっていた頃に『中右記』に記録さ
れていますが、『年中行事絵巻』に「スリング」のようなものが描かれていま
す。『平家物語』・『源平盛衰記』や『満済准后日記』にも記述がありますね。
「悪党」の戦闘については、『歴史評論』649号にいくらか出て来ます。
勿論これだけではなく、「後醍醐王権の特質」を論ずるために纏められている
のですが。また時代は遡りますが、永長の大田楽を取り扱った故戸田芳実先生
の「荘園体制確立期の宗教的民衆運動」(『歴史学研究』378号)というの
もあります。
700ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/09 01:22 ID:???
>699
書物を紹介してくださり、ありがとうございます。叢書のようですが、大型書店等で簡単に
手に入れられるものなんですか?
鎌倉時代後期〜戦国時代前期ぐらいまでの、下級武士・武家身分でない戦闘員、準戦闘員のことが気になっている
(武装や戦闘での役割など)のですが、手に入れやすい資料というのがなくて。

笹間良彦先生や、藤木久志先生、網野善彦先生の本等から、ぼんやりとイメージは出来ているのですが。
(歴史をイメージで捉えるのは、固定的な史観に陥りやすいので良くない事なんでしょうけど)


で、スレに沿った話に戻すと、元寇において戦った日本側の戦力の中に、そういった正規の武士でない連中ってのは
どのくらい居て、どういった装備でどういった事をしていたのか、が気になりますね。知人からの伝聞だと、これまた
資料が少なくて良く分からないらしいですけど。(残っている着倒状から推測することが出来るようですが、そういった
一次資料を、一般人が見て分かるように解説した本も少ないですし)
701山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/09 01:37 ID:???
>>700
>書物を紹介してくださり、ありがとうございます。叢書のようですが、大型書店等で簡単に
戸田先生の論文の方は、国会図書館や大学の図書館でもないと難しいでしょう。
ただ『歴史評論』649号は最近出たばかり。校倉書房ですが、まだなんとかな
ると思いますよ。駄目もとで御注文なさっては。
>笹間良彦先生や、藤木久志先生、網野善彦先生の本等から、
また濃い面々ですね。網野先生は特に史学関係者による好き嫌いの激しい方
ですが(特異な例を強調し過ぎるので)・・・他にはなかなかいらっしゃいま
せんね。平安〜鎌倉時代なら故石井進先生がいらっしゃいましたが。
>そういった正規の武士でない連中ってのは
これまたはっきりしませんが、元寇以後、荘園内にも動員をかけられるよう
になったという説もあれば、それを否定する説もあるという現状で。
702名無し三等兵:04/06/09 02:15 ID:???
>>700
藤木氏はその辺のところ、実によく収集しますよね。
大変だったろうな、と思いつつ、ぼくらは美味しいところを頂く、と(w
特に、戦国期、奴隷狩りをやっていた(異論はあるようですが)ことについて、やはり、とぼくは喜んだものです。
かかえ、などと呼ばれる下男というか、有力家に囲われた立場の人々がいるのは知られていましたから(とかスレ違いスマソ
703名無し三等兵:04/06/10 01:35 ID:???
モンゴル軍は、クルスク突出部に突撃するドイツ軍のようであったのであろうか。
それともオマハビーチに上陸する連合軍兵士か。

海岸近くまで張り出した長い防塁線。
味方の援護拠点である船を降りれば、遮るものは何一つ無い。

味方――モンゴルの弓は確かに射程は長いが、相手は防塁の影にいて、なかなか殲滅できない。
おそろしく矢を使っても、敵勢は全く衰えない。
そもそも死体が見えないから、敵にどれだけの被害が出ているかすら、こちらからは分からない。
モンゴル軍は舟艇を使い浅瀬までやってきて兵士を下ろす。
そのたびにばらばらと矢が降ってきては驟雨のように船の上をなぎ払う。
物陰に隠れ損ねた兵士が悲鳴を上げて倒れ、海に落ちる。
無事だった者は盾を掲げながら波打ち際めがけて必死で走る。日本軍の弓がだんだん正確になってくる。
腰まで浸かり、重量物を掲げた兵は良い的だ。
前に掲げた盾に当たる矢の数は尋常ではなくなる。
一歩も進めず、歩兵が海中に立ちすくむ光景が至るところで見られる。

後ろでは督戦の銅鑼がじゃんじゃんと鳴り続けている。
それに急かされるようにして、じわりじわりと盾の列が波打ち際めがけて進み始める。
日本軍に弩が無いのは幸いだった。あれがあるともっと重い盾が必要になる。
やっと足下に波の砕ける音を聞く地点までやってくる。退く波が革靴の左右の砂を抉る感覚。

海岸は…狭い! 防塁までの距離は異様に近い。この距離だと日本軍の矢は恐ろしい威力を持つ。
ひゅっ! 味方の兵士がのけぞって倒れる。不気味な風切り音は四方八方から飛んでくる。
盾を構えているはずなのにやられる。一体どこから射てるんだ! 肩の上を射られ、盾を取り落とした
瞬間胸に顔に矢羽根が付き立っている。

防塁を奪え!
モンゴル兵は蛮声を挙げて突撃する。させじと防塁の上から日本軍が駆け下りてくる。
見慣れない鎧を付けた兵士と、槍を持った軽装の兵士が、ひとかたまりになって突撃してくる。
こちらも集団で押し包む。槍を払いのけ軽装の兵士を一人か二人殺す間に、こちらは
必ず同数を刀で殺され、それ以上の数を横からの矢で殺される。
704名無し三等兵:04/06/10 01:36 ID:???
防塁の上になだれ上がる。
白刃を煌めかせての乱戦になる。敵も味方も悲鳴を上げて防塁の左右に転がり落ちていく。
おびただしい犠牲を払って防塁の内側に食い込んだかと思ったそのとき、
どどどどど……不気味なとどろきが聞こえ始める。
敵の騎兵集団が押し寄せてくるのが見える。
敵は防備が手薄になると見るや、騎兵を差し向けてきたのだ。
敵騎兵は少し離れた地点でぴたり馬を留めると、綺麗に馬体を御しながら、一斉に弓を構え弦を引き絞る。
ばらっばらっ ひゅんひゅん!
もう弦の音か矢羽根の音か分からない。反応の遅れた兵が打ち倒される。
先ほど防塁を獲った勢いが削がれてしまった。
こちらも弓で応戦する。敵騎兵に軽装歩兵が追いついてきた。
騎兵は下馬し、こちらを向いて何か叫ぶ。敵歩兵が幾集団かになって、押し出してくる。
防塁の裏手の林からも敵兵が雪崩れ降りてくる。

だめだ、押し戻される!
海岸は死体と負傷者で一杯だ! それだけで上陸した兵士は怖じてしまう。
防塁のこちらがわを防御線にしてそこを維持するのが手一杯だ。
舟艇を使うために一度に兵士を上げられないから、小刻みな兵力投入になってしまい、
それが犠牲を増やしていく。敵を圧倒的優勢で殲滅できず、敵の損害は新手ですぐ
埋められてしまう。
モンゴル軍は誰も彼も苛立っているがどうにもならない。
まさか小舟の数が足らないことが問題になるなんて!

土着の郷土軍が正面にいるようだ、と将軍が苦虫を噛み潰したような表情で言う。
過去にもよく見られることだった。皇帝への忠誠心より勝るのは郷土への愛だ。
正面攻撃は正しくない、奇襲上陸しかあり得ない。

かくして船団の移動が決まった。湿り気を帯びた風がうっとうしい。一体いつになれば上陸できるのか。
705名無し三等兵:04/06/10 11:03 ID:???
>703,704
GJ 続きが読みたいぞ
706名無し三等兵:04/06/10 14:45 ID:???
>>703-705
止めれ。議論の場に、描写の不正確な文を持ち込むな。創作板へ逝け。
707名無し三等兵:04/06/11 12:15 ID:???
>まさか小舟の数が足らないことが問題になるなんて!

補給の問題としては面白い??
708名無し三等兵:04/06/11 12:28 ID:???
>>707
だから、動力船ではない、と言う史的が前にレスされているんだがスルーか?
それにきちんとした考証で回答しれ。物語以前に、その辺を論議しているスレだろ、と諭してみる。
709名無し三等兵:04/06/11 13:31 ID:???
当事の中国船って30m級だよね
博多湾の海底で見つかったのは40m級と推定されるものもあったらしいし
このサイズの船が博多湾内でうまく機動できたのだろうか
現代の船とは違って、平底に近いから喫水は浅いだろうけど・・・
(現代の船で30mっていうと150t級漁船かな 喫水は3mちょい)

潮の満ち引きは1281年6月15日は2mくらいあるみたい
大型船で海岸近くまでいくと座礁して離礁不可能になりそうだが
(旧暦だから違ってくるのか?)

過去の潮の満ち引きはここで調べられます
第七管区海上保安本部海洋情報部 潮汐推算港図
ttp://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/3.htm
710名無し三等兵:04/06/11 14:21 ID:???
>>709
機動する必要は無いと思うけど…
だからこそ、逆に日本側が小船で襲撃していったわけだし。

つか、当時の船は全木造のうえ、機関を搭載していないんだが=満載でも喫水はより浅くなるのでは?
711名無し三等兵:04/06/11 14:38 ID:???
あのー……

渡洋能力のある船が座礁しない深さのある海に、
武装した兵士をどぼどぼ落とすんでしょうか。

感覚的にあり得ないのですが。
712名無し三等兵:04/06/11 17:15 ID:???
やっぱり、ジャンクにいっぱいの小船を積んできたんですかね?
713名無し三等兵:04/06/11 17:25 ID:???
泳げ、泳げ。
714名無し三等兵:04/06/11 17:52 ID:???
>>713
何を馬鹿なことを、アフォかと思ったが、


あー大陸の軍隊っておおらかだからなぁーー


とも思ってしまった。
昔の人は背が今より低くて、それを考えると水深1.5mでも厳しいだろうが、
根性出せば何とかなるかもしれん。
おぼれるやつが出ると芋づる式にその周囲もおぼれるので、
いきなり海泳はお勧め出来んのだが……。

上陸時は非常に軽装である必要があり、損耗が増したかも。
砂浜に上がるそばから、待ちかまえる武士や郎党どもに
なで切りにされてたりすると哀れである。
715名無し三等兵:04/06/11 18:41 ID:???
1281年6月15日を旧暦に換算してみると5月21日(ちょっと計算怪しいけど)
この日の博多東浜の干満
干潮 04時 潮位76cm
満潮 10時 潮位199cm
干潮 17時 潮位9cm
満潮 00時 潮位165cm
日の出05 14 日の入り 19 16

干満の差がどう効いてくるのか
日の出前の夜間に上陸用の小船に移乗はないでしょう
やはり、攻撃開始は10時過ぎになりそうな気も
満ち潮にのせて小船で上陸したとすると、潮が引いた場合に小船は砂浜に取り残されて夜まで撤退できないという難も
あと、馬は泳がせて騎者は小船移動だったのかな
弓矢は濡らすと弦が切れたりまっすぐ飛ばなかったり大変だから、泳いで上陸っていう大技はないとおもうけど
716名無し三等兵:04/06/11 18:44 ID:???
と、いうかジャンクって、航洋性と浅海での運用性を持っていて、干潮で取り残されても平気だったような…(禿しくウロオボエだが
717山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/11 20:26 ID:???
文永の役の後、120人乗りの大型船が志賀島に座礁して、武器を棄てて降伏
した全員が殺害されるという事件が起きていますね。
岩礁にぶち当たったのかもしれませんが。
上陸には各船に積まれていた「はしけ」を利用したようです。
718名無し三等兵:04/06/11 21:46 ID:???
>>716
いきなり母艦をLSTのように乗り上げさせるのか。

兵を叱咤して背水の陣を敷くという意味では正しいかもしれんが、
失敗すると怖い戦略じゃのー。
敵の大軍が押し寄せてきたら船ごとやられるからのー。
船には植民用の道具も積んで居るし、あまり戦火に巻き込みたくないのー。

>>717
となると、戦力揚陸には制限があったと考えるべきですかねェ。
ちまちまはしけで上げるしかなくて、海岸で膠着状態。
719山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/11 23:25 ID:???
>>718
文永の役が実質一日で終ってしまいましたからね。この度のものは偵察で、
鍋釜などを積んで来たのは弘安の役からだったようですが、二回目に襲わ
れた時に石積みが無かったと考えると恐ろしい。
文永の役の「日本軍」が推定5千〜1万人、弘安の役で2万人程度であっ
たと言いますから。
なお、元は馬も自軍のものを上陸させていたようです。
720名無し三等兵:04/06/11 23:34 ID:???
蒙古襲来 白石一郎 NHK出版協会つうのが、造船にも踏み込んでるって話ですが、読みました?
721山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/11 23:54 ID:???
>>720
三浦安針などについて書いてらっしゃった小説家の方ですか?いいえ。
以前『日本歴史』あたりで造船と船員の数について記した小文があったのを見
つけたのですが、忘れてしまいました。文永の役の元軍が2万5千人とか推
定されていた筈。
722名無し三等兵:04/06/12 00:00 ID:???
>>721
いえ、このスレで揚陸の形態が話題になったようなので、適当にぐぐった結果、ヒットしたものですので。
ひょっとしたら、この方、前記倭寇と蒙古襲来について、NHKで人間高座かなにかやったかもしれません。
ちょっと、探してみます。
723715:04/06/12 11:42 ID:???
旧暦からの換算逆にやってました
旧暦6月15日は新暦で7月9日相当でした

1281年7月9日の博多東浜の潮位変化
満潮 02時 潮位181cm
干潮 08時 潮位71cm
満潮 14時 潮位181cm
干潮 20時 潮位71cm
日の出05 15 日の入り 19 32

午前中に上陸しているとだんだん潮が満ちてきて行動が制約されるのかな
724名無し三等兵:04/06/14 16:29 ID:sozzZhmo
蒙古襲来で、日本刀の工夫が凝らされたって話は聞くけど
軍法とかには影響があったのかな?
歩兵の集団戦法とか
725山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/14 19:07 ID:???
騎乗した侍と徒歩の兵の連携が見られるようになるのは『太平記』からです
が、元寇に対して生れた訳ではないでしょう。日本刀云々も聞きません。
正宗はこの時代の人物ですが、織豊政権の時代になるまでほとんど無視さ
れた存在でした。せいぜい「その他大勢の刀工の一人」扱い。
徒歩の兵が長槍を用いた集団戦を行うようになるのは、応仁・文明の乱の
頃からのようです。この頃には侍も馬から下りて戦うようになりました。
726名無し三等兵:04/06/14 22:04 ID:???
船の話。
文永の役で900隻動員されたが、300隻は大型船、300隻が小型の快速艇、300隻が氾水用の小型船という話がある。
ソースは日本の時代史9モンゴルの襲来、近藤成一 吉川弘文館
727801:04/06/15 18:05 ID:???
史実からの考察はできませんが、甲冑等の構造から。

蒙古襲来以後、甲冑に若干の変化が見られます。
鎌倉期までの大鎧は、胴がゆったりとして長く裾広がりというように、肩で鎧の重量を受け止める
構造となっています。
こうなると、肩の筋肉が圧迫されるとともに肩の稼動域が制限されますので、徒歩の状態では長柄
武器を振り回すことは困難で、刀も充分な力(相手を切る事は初手から無理として、打ち倒すほどの
打撃を与えるていどの力)を篭めて振る事は困難です。
ただし、弓を引き絞る運動に関しては、あまり大きな阻害とならない感じです。

南北朝期になりますと、大鎧の胴がすぼまり、かつ上帯で締め付けて腰に密着させることで、重量の
かなりの部分を腰で支える構造に変化しはじめます。

これによって、肩の稼動域等が広がり、長柄武器等の重量物を大きく振る事が容易になりましたし
寸法が鎌倉期より短くなった事とあわせて、徒歩で歩く場合も、よりスムーズに動けるような
構造となって来ました。
728名無し三等兵:04/06/15 18:21 ID:U9rzAZEI
次に太刀について。

鎌倉中期までは、身幅が広く重ねも厚く、刃肉もタップリ(蛤刃=はまぐりば....といいます)が多くみら
れましたが、鎌倉末期になると重ねが薄くなり、強度を補うために身幅が広くなってきます。
また、切っ先も長くなってきます。(短い切っ先は、破損した場合の補修が困難ですが、長くなると
補修が容易となります)

また、波紋にも変化が見られ、それまでのような派手な波紋が少なくなり、直丁子という若干質素
な形に変化しましたが、この形の方が刃こぼれがしにくいという特徴が有ります。

この傾向は南北朝期に入るともっと顕著になります。
例えば、南北朝期の作と証した厚手の太刀は、疑って鑑定するというほど。

俯瞰しますと、それまでの太刀より「より多く切りつけても機能が低下しない、かつ補修も容易」な
形になってきたということで、太刀打ちの機会が増えたのではないか?と想像されます。
729名無し三等兵:04/06/15 18:44 ID:U9rzAZEI
太刀の続き

南北朝期での注目は大太刀の出現でしょうか。

これは別名大段平(おおだんびら)ともいい、長さ二尺八寸前後が定寸で、中には五尺といったもの
まであり、重量軽減のためか、重ねを薄くしているのが特徴ですが、長がさ故に佩用して乗馬する
ことは困難(実質不可能)で、長さも考慮すると馬上で使うというより、両手で操作することが容易な
徒歩戦時の武器でないかと思われます。

また、比較的接近した状態で振り回すと、その重量故に軽装甲の相手や足などを「なで斬る」効果
は非常に高かった事は確実ですので、この時代から軽装甲の相手(雑兵等)が密集して接近して
くる(こちらが少数の場合、接近させないためには大太刀でのなで斬りが効果的)形態に変化した
のではないかと想像されます。

しかし、この大太刀も急速に廃れて行きます。
この原因は定かでは無いですが、大太刀に対しては、更に長柄の武器で対抗してきたため
でしょうか? (太刀はどうしても他の武器より、長くした場合の重量増加が激しいですから。)

もう一つ。
この時代に打刀(うちがたな)が出現します。
これは二尺二寸前後の刀で、今日時代劇でよく見る、刃を上にして佩用するタイプです。
730某研究者:04/06/19 01:47 ID:D9qlBD6I
大太刀は従者が携行していたと言うから
馬上でも使っていた可能性は無いのかだが
大太刀及び長巻・金砕棒が廃れたのは槍の出現に拠る物なのだろうか
(長刀は槍の登場後も
 馬上では用いられたのだろうか)

打刀も高位の兵は太刀と同時に携行している様だが
太刀しか持たぬ高位の兵も居たのだろうか
戦闘と成れば太刀ではなく打刀を先に抜いたのか
或いは太刀と打刀を抜いて二刀で戦ったと言う可能性も
有るのだろうか
731某研究者:04/06/19 01:55 ID:D9qlBD6I
大太刀が変化して長巻と成ったと言うから
大太刀が鎌倉時代に長巻と成った後で
槍や長刀に取って代わられたと言う事なのだろうか

732名無し三等兵:04/06/19 07:24 ID:???
>>703

ところで弓の射程は、モンゴル側のほうが長かったとする根拠は?
軽装の兵士というが、モンゴル側のほうが重武装だったのかい。
733名無し三等兵:04/06/19 07:42 ID:???
>>732
ここを>>1から読み返せ。
734801:04/06/19 08:45 ID:???
大太刀を馬上でも使っていた可能性について。

可能性ですから、「無い」とは断定できません。
なにせい、力の強弱もあるし、「大太刀」というレッテルが付いていても、長さはマチマチ
なんですから、実際には太刀と大差ない寸法もあるわけですからね。

ただ、4〜5尺という「最も長いタイプに分類される大太刀」については、馬上での使用
には適さないと断定できるでしょう。

先ずは振り回しやすさの問題。
この長さ・重さのものを充分な効果が上がるような速度で振った場合、非常に慣性も
付きますし振り始めに力も必要なので、どうしても両手操作必須となります。

しかし、大太刀を振り回す状況を考えてもらうと良いんですが、騎馬同士ならいざ知らず
1m以上の馬上から5尺の太刀を振るって徒歩の相手に届くという事は、もう極々至近に
接近されているということで、しかも、相手側にとっては、そんな至近まで一人で来る状況
は少ないと言うか、元々一人で接近する状況が多いなら、長刀などのほうが操作が容易
なわけ。

となると、群がる敵が居るときに、振るたびに確実に両手をフリーにしなくてはならない
大太刀は、その間馬の制御がおろそかになりますから、よほど訓練された馬に乗っている
か、馬術が卓越しているか、何かの「普通より相当優れている何か」が無いとダメですな。
(口取りを付けたら馬術の問題は解決されますが、こんどはそちら側に切りつける事が
できないという大きな欠点が出ます。)
735801:04/06/19 09:09 ID:???
大太刀・長巻・金砕棒が廃れたかどうか........。

先ず最初に踏まえるべきは「武具によって戦法が変化してきた」のか「戦法によって
武具が変化してきた」のかの差でしょう。

長巻などは「戦法によって武具が変化してきた」タイプと思いますが、例えば槍でも
穂先の長さ・厚み・形状はマチマチで、突く事に特化しつつあるもの(正三角穂)とか、切り
つける効果も充分に残したもの(平三角穂)とか、突くより切る方が得意そうなもの(菊池槍)
など様々なので、長巻がこれらの形に変化して、レッテルだけが「槍」に(乱暴に)くくられた
という事もありうるでしょうね。

大太刀が廃れたのは、戦列(?)をキチッと組んだ集団戦が確立されたことに起因すると
考えられます。(これも確証は無いですが)
一人で敵中に突っ込む状況ならいざ知らず、ある程度戦列が出来ていたら、また、乱戦
であっても周りに味方が存在する状況なら、大太刀を振り回す武者てのは「味方討ちしか
ねない迷惑な奴」ですから。
大太刀に長けた武者なら別ですが、数的には少ないだろうし、となると廃れるのも自明かと。

ちなみに、長巻や金砕棒は戦国期でも使われていますから、廃れたという表現は当てはま
らないかも。(もともと槍や太刀ほどの普遍的な武器でないし)

太刀と打刀の併用も先の発言と同じ。
そういう武者もいただろうし、重さを嫌う武者は片方だけ佩用しただろうし、中には二刀振り回す
武者もいたかもしれない。(ま、二刀振り回して馬の制御はどうするんじゃ?とは思いますが)
736801:04/06/19 09:30 ID:???
大太刀が変化して長巻になったのか否か........。

これは史実からも確証を得られないし、現存する刀剣類を見ても確証はないし、「槍が
変化して長巻が成立した」と言う人もあり。

槍自体の成立についていえば、、新井白石が著書「軍器考」という書物の中で「也利(やり)
というものは古(いにしえ)の”ほこ”の制により作り出されにしや、建武より先には此のものの事
見るところなければ、元弘建武の間より始れること一定なるべし」と書いている事もあり、その
他の古文書を見ても矛から変化したものであると思われますが、その初期の段階の作品は
穂先だけを見ると長巻と極似(瓜二つの方が適切か?)ているものが多いですな。
(というか、極似の方が多いかも)

また、初期槍には鍔をつけたものもあり、現存品から見れば、「太刀は太刀で変化し、長刀は
長刀で変化し、両者の境界線として長巻が生まれた」ってのが妥当なところであって、どちらが
父たるか母たるかは明確に断定できないかと。
737山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/19 09:41 ID:???
ただ構造上の理由から両者の間の関係を否定する説が戦前からあった(『奈良
朝時代刀剣の構造』)他、鉾が平安時代後期には既に儀杖化していた(『平治物
語絵巻』には片刃の手鉾状のものが出て来ますが)事からも鉾→槍ではないともい
います。
738名無し三等兵:04/06/19 13:49 ID:???
すごく基本的なこときくようだけど、同数のモンゴル兵と鎌倉武者だとどっちが戦闘力高い?
739801:04/06/19 15:07 ID:???
>>737

そうですね、ここらの「どっちが父親?」って話は、人間みたいにDNA鑑定できる
わけでも無し、非常にあやふやだと云うのが落としどころというか、現時点での実相じゃ
ないですかね?

例えば、素鑓なんかは矛と同じ構造でありながら矛より後に発生なんてところを
見たら「鉾→鑓」とも思えるし、菊池鑓を見たら「太刀→鑓?」とも思えるし。
第一、鉾と鑓の間に長刀というステップを入れて考えるか考えないかとか、文字資料
をどのように読み解くか.....などなどありますしね。
740801:04/06/19 15:24 ID:???
>>738

状況とか、相対する人数によっても結果は異なってくるでしょうし、一概には結論づけられ
ないとは思いますが、それを敢えて幾つかのケースで。

オリジナル(ってのも変だけども、テムジン時代のチンギス汗が率いていたような)のモンゴル兵
vs鎌倉武士が「同数&平原」で対峙したならこれはオリジナルモンゴル兵の圧勝のような気が
します。
そもそもの戦闘形態が違うんですが、オリジナルモンゴル兵の方が、不要な戦闘作法(名乗りや
一騎打ち)も無ければ、ある程度の集団戦にも長けているでしょうし。

オリジナルモンゴル兵vs鎌倉武士が船戦した場合は、これは圧倒的に鎌倉武士の勝利でしょう。
なにせい、船戦が存在しなかった軍隊と、内海中心とはいえ壇ノ浦も経験している武士の対決
ですしね。


で、つらつら〜〜っと考えていくと、元寇辺りでは「集団としてはモンゴル軍の方が応用が利く
範囲が広そう(優位に戦いを進められる状況が多そう)と思いますわ。

なんちゅ〜〜か、元寇で鎌倉武士団が勝てたのは、地勢とか季節とか情報とか、様々なもの
が日本に幸いしての結果かと。
(実際、日本が現在の北京周囲に存在したと想像したら、こらぁ殆どの人が「モンゴルに征服
 されていただろう」って感じるのではないかと。)
741名無し三等兵:04/06/19 15:38 ID:???
九州方面から中四国にかけてって決して平野部の広いところじゃないんだが蒙古騎兵にとってはどうなんだろうね?
742山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/19 16:19 ID:???
>>739
まあ本題とはかけ離れる事ですし、ここではあまり深入りしない方がよさそうです。
>>740
>不要な戦闘作法(名乗りや一騎打ち)も無ければ、ある程度の集団戦にも長けているでしょうし。
名乗り等も時と場合によりけりです。『平家物語』の中で巴は相手が一騎打ち(組打)を望んでいると察し
て弓に矢をつがえる事なく相手を待ち構えていますが(異本ごとに細部は異なる)、必須という訳ではない。
一騎打ちに応じず名乗り返さない事も認められていましたし、相手の身分が自分よりも下と見れば名乗り返
す必要はありませんでした。お互いに「よき敵」と見做さないと名乗りと一騎打ちは成立しません。
戦功を得るためだけなら首実験でも十分な訳で、竹崎季長も一番駆けの功を立てる時に従者に向って「弓箭
の道、先をもって賞とす。ただ懸けよ。」と行って突っ込んでいます。
日本側だと徒歩の兵が長刀で相手の馬の足を払うような事もしていたので、横槍を入れてもらうような事
は可能でしょう。また延慶本『平家物語』や『源平盛衰記』の中には、近頃の武士は相手の馬を射てすぐ組
打に持ち込むようになった(ルールを無視するようになった)という老武者の 歎きが紹介されています。
また私戦と異なり朝敵を討つような場合であればルール無視も許されたようですので、戦い方自体には不
安は無いでしょう。ただ全力を出しても押し包まれて蹴散らされると思いますが・・・。
というより、あの時代に北京周辺にあったらどんな国でも負けるのが当たり前です(w
しかし実際に戦ったのは北九州の沿岸部であった訳で、ここでは圧倒されたというほどであったとも思え
ませんね。
>>741
まともに機動力を生かせないんじゃありませんか。九州も占領出来なかったというのは都合が良すぎるか
もしれませんが。
743名無し三等兵:04/06/19 17:04 ID:???
モンゴルは確かに大軍だけれども日本全土を占領するには兵力不足でないかな?
明軍に至っては戦意もあやしいものだし

仮に上陸に成功してから膠着状況に至った場合増援を送る余力はあったのだろうか?
744某研究者:04/06/19 19:31 ID:Ud6MxI1X
モンゴル兵も槍で集団戦をするのでは無く
ローマ兵の様に投げ槍を投げてから剣で切り込むのなら
長巻を持った徒士に勝てるのかだが
ローマ兵の様に剣の技能が高い可能性も
有るのだろうか
(まあ雑兵はローマ兵の様に投げ槍と剣は使わず
 槍のみで戦ったと言う可能性は有るだろうか)
745山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/19 19:57 ID:???
モンゴル兵も槍は投げていたようですが。
746ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/19 21:41 ID:???
日本の武士も投げたみたいですね。
犬槍、と言われて、武士としては良くない行為だったらしいですが。

(まあ、ローマの投げ槍のように、元から投げることを想定した武器ではなく、
戦場でのメインウエポンである手槍を投げる、という事なので、意味合いが違いますが)
747某研究者:04/06/19 21:58 ID:Ud6MxI1X
矢張り剣の技能も無いのにメインウエポンで有る槍を投げるのは
愚かな事かも知れないが
矢に倒れた味方の槍を投げるのであれば
問題は無い訳だろうか
(時代劇の様に剣迄投げられていたかは
 何共言えないだろうか)
748名無し三等兵:04/06/19 22:07 ID:???
蒙古が防衛側の裏をかいて別方面に上陸していたらどうなったろう?
749名無し三等兵:04/06/19 22:41 ID:???
704の都築。

船上では、蒙古の武将がある決断をした。

「藩蛇武銅鑼無を使え!」
750山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/19 22:41 ID:???
>>746
近世の史料には「投げ鑓・投げほこ」などの名称が出て来ますが、実際に使
われらものだとしてもこの時代にはまだありませんね。
>>748
小競り合いを行った唐津や平戸で給水した可能性がありますが、本格的な上
陸は試みていませんね。やはり異国人にもある程度知られていた地域兼九州
の中心地であった大宰府攻略が一番順当であったのでは。
長門(周防・長門・安芸・備後の御家人が防衛。事態が動けば寺社の荘園の
面々も手を貸した可能性が高い。)にも上陸していますが大きな動きは見せ
ておりません。
もっとも都に知らせが届いた時には「九州が占領されて長門に敵が上陸し、明
日にでも攻めて来るそうだ」という話になっていて大騒ぎだったそうですが。
751801:04/06/19 22:48 ID:???
>>742

ですね。 本線とはなれて、しかも今日では(現時点と読み替えても良いですが)結論が
出ないであろう事を論じても仕方ないかと。

なるほど、細部を見たら色々あるわけですな。
ところで、非常に単純化しすぎなのかもしれませんが、率直な疑問としての「そしたら、武士
(武士団)とモンゴル兵(モンゴル軍団)はどちらが強いか?」ってのは、山野さんとしては
どうです?

私のレスの細部にこだわる方向ではなく、この疑問への直接の感想(というか、これも
本線の話)としては「あの時代に北京周辺にあったらどんな国でも負けるのが当たり前」
に収斂されるのかな?
752名無し三等兵:04/06/19 23:00 ID:???
格別に技術レベルで超絶優位に立っているわけでもないのにそこまで差がつくかなあ
全世界的に見てモンゴル騎兵は中世最強ってことか?
753801:04/06/19 23:09 ID:???
>>743

そうですね、どういう形の占領を目指していたのかで結論が変わりそうですが.......。

細かく書くと訳わかめなんで、ところどころ端折って。
律令制によって大宰府が置かれて以来、武家政権となっても曲りなりに行政の
中心となったわけですから、交通も情報も大宰府に集まるわけですし、九州の位置を
考えても、まずは橋頭堡を確保して、次にある程度の根拠地(反撃を受けにくい地域)
として北部九州を占拠するのは納得できるだろうし、そうなると大宰府は土地柄その他
としては最適かもしれません。

仮に、本土襲撃なら小倉辺りの方が適しているかもしれないけど、そうなると後背を
大宰府を中心として組織された兵に突かれるだろうし、海上交通も阻害されるだろうし....。

で、第一目標が大宰府と考えると、史実に残っている兵力で充分かな?とも思いますが
日本全土となると、追加が必要になりそうな気もします。
754801:04/06/19 23:33 ID:???
>>746 鎌倉武士が槍を投げたか否か。

オリジナルは不明なんですが、1333年〜1387年の軍忠状百八十点、延べ五百七十四人分
を調査したら、矢疵が86.4%,切疵9.2%,石疵/礫疵2.8%,鑓疵/突疵1.4%という結果だったそうです。

これは元寇時の物ではないのでアレなんですが、この時代でもメインは矢なのかな?とも
思えまして、組織的に槍を投げた事については、史実を基にした統計では出てきませんね〜。
(矢あわせの段階で崩れたら終わりというか、近接戦闘は意外と少ないのか?とも読み取
れますが。)

もう一つ違った面から。
ハスケさんも大鎧を着込まれた経験があるそうなので、これは実感できると思うのですが
その状態で当時の槍を持っていたとして、投げたくてもまともに投げられないんではない
でしょうか?

なにせい、例えばその時代の規格品的な鑓としての菊池鑓を見ても、バランス的に投げる
のには適していませんし、大鎧を纏った状態だと、徒歩では大鎧の重量が肩周辺の筋肉を
圧迫するため投げる力自体が出てこない(水平以上に上げる事が苦しい)、馬上で馬に鎧
の重量を負担させて肩周辺を開放したとしても、今度は下半身の踏ん張りが利かないので
、せいぜい10〜20mも投げられれば御の字ではないかな?と思います。

やはり、生き死にの場なんで、破れかぶれみたいに投げる状況もあったかもしれませんが
確立した(効果的な)戦法としては存在して居なかったかも。
755山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/20 00:10 ID:???
>>751
>ところで、非常に単純化しすぎなのかもしれませんが、率直な疑問としての「そしたら、武士
>(武士団)とモンゴル兵(モンゴル軍団)はどちらが強いか?」ってのは、山野さんとしては
この板でも以前歩兵と騎兵が平地で戦闘する場合にとるべき歩兵側の戦術について議論する
スレが立っていましたが、相手のホームグラウンドのようなところで戦えば縦横無尽に馬を乗り
こなしながら毒矢を放って来るモンゴル側の方が強いでしょう。
しかし騎馬民族相手にわざわざそんな所で戦う将は(まともな人間なら)いないでしょう。
結局のところ船戦と狭い場所での戦闘であれば機動力を活かせないモンゴル軍を相手にそこそこ
戦えた訳で、文永の役で1万人、弘安の役で2万人(増援あり)であそこまで戦えたのなら十分で
しょう。強さとは万能なものである必要は無いのではないかと。
ゲリラ戦の出来る状況、石を投げられる状況などでいくらでも条件は変化しますが、それをどこま
で有利に活用し、敵を不利にするかが味噌でしょう。
ただ弘安の役では志賀島に上陸したモンゴル軍と大友貞親の軍が海の中道で交戦していますが、こ
こではおそらく騎乗した兵を相手にしていたにも関らずよくやっています。
もっとも純粋なモンゴル人はほとんどいなかった事、そこそこ移動出来てもやはり狭い場所であっ
た事を考えれば割り引いて考える必要はありますが、弱くは無かったと思いますよ。
756名無し三等兵:04/06/20 08:14 ID:???
海の中道だと到底騎馬隊の機動運用は無理なのではないでしょうかね
砂州の形成過程を考えると当時今より劇的に広かったとは考えにくいですし
757ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/20 12:23 ID:???
>750 754
説明が足りなかったようです。
犬槍と言われた行為(槍投げ)は、眼前の敵に突き刺す様に
投げる、個人戦闘(戦場で1対1に近い状態になった場合)での行為です。

これが良く行なわれたのは、槍が白兵戦用のメインウエポンとして定着した戦国時代からでしょうから、
長刀や長巻き、野太刀(余談だけど、「大太刀」という呼称よりもオレはこっちが好き。最近はなぜか「斬馬刀」
とも呼ばれているけど)がメインだった鎌倉時代には、ほとんどなかったでしょう。

>754
>>この時代でもメインは矢なのかな?
平安時代でも戦国時代でも、戦場において相手を殺傷する主役は、どうやらずっと飛び道具(弩、弓、投石、
銃)であったようですね。

鎌倉〜戦国時代中期まで、掻盾(“かいだて”据え置き式の大型の盾だが、簡単に持ち運べるようになっている。
下卒の者が陣形に合わせても持ち運ぶ。車輪が付いてて、押して移動する形態の物もある)を陣形の前面に置き、
その後から矢で射るのが戦闘様式の主流だったようですから。銃の普及で戦国後期は様相が変わってきますが、
それでも弓は重要だったわけだし。

補足。この掻盾、遠矢(遠距離射撃の弓)に対する防御の時は、持ち上げて、攻撃する時は下げる、ということもやっていた
らしい。持ち盾装備の部隊が、上方に盾を掲げて防御し、攻撃時は盾を下げて弓隊が射かけるローマ時代あたりのと同じ。

誰でも、出来る事なら相手に必要以上に近づくこと無く(さらには攻撃を受けること無く)、
敵を制圧したいですから、当たり前と言えば当たり前ですけど。


758山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/20 13:47 ID:???
>野太刀(余談だけど、「大太刀」という呼称よりもオレはこっちが好き。最近はなぜか「斬馬刀」
>とも呼ばれているけど)がメインだった鎌倉時代には、ほとんどなかったでしょう。
平安時代の辞書『和名類聚抄』ではノダチといえば短刀の事になっていますね。
『七十一番職人尽絵』に描かれているような長大な野太刀が流行するようになるのは南北朝時代
からでは。>>729で解説されていますが。
弓矢の使用について言えば、『将門記』中の戦闘描写はほとんどが矢の射掛けあいです。『陸奥話
記』には白刃も出て来ますが、馬上からの打物戦は無く、出て来るのは『平家物語』から。
759801:04/06/20 16:33 ID:???
>>756

そうですね、あそこだと騎馬の(騎馬らしい)展開はホボ無理そうですね。
東側(志賀島側)から侵攻すると、部隊を整頓する等に必要な土地もありませんので
多数を上げてしまった場合は混乱しちゃって侵攻以前の問題になりそうですし、それを
避けるために少数の上陸に抑えたなら、待ち構えている武士団との間に、小さな正面での
殴り合い(射掛け合い?)が延々と続くだけでしょうし........。


それと同時に志賀島に馬を上陸させたのか?も疑問に思っています。
現地を見れば、ある程度開発された現在でも、木と斜面のために騎馬武者が展開できる
場所は殆ど無いですしね〜〜。
それでなくても船で馬を運搬したら、上陸後カナリの時間は船酔いの影響で動きが惨いで
すから、元寇全体としても元側の騎馬比率は少ないんではないかと想像しています。
(兵士の出身地も違いしますしね。)
760名無し三等兵:04/06/20 16:37 ID:???
江南軍は棄民だった説とかは?
761名無し三等兵:04/06/20 18:26 ID:???
発想を逆転しよう。
蒙古が勝つために必要な条件は?
神風が吹かなければ良かったのか?
762名無し三等兵:04/06/20 18:48 ID:???
補給が続くかどうかですな。

また、補給が続いたとしても、海の彼方に
数万、何十万もの組織された兵を送り続けられる
かどうか。
二次三次と兵を送り込み続け、どこかで膠着してしまうと、
ナポレオンのロシア遠征の二の舞になります。
763名無し三等兵:04/06/20 19:02 ID:???
あるいは餓島における皇軍のように
764名無し三等兵:04/06/21 19:42 ID:???
>>755
>弱くは無かったと思いますよ。

どうして「強かった」と言えないの?(w
765某研究者:04/06/21 20:06 ID:VeHQUJyJ
盾も全員に装備されたとは思えないし
騎馬武者を守る為に一部に配備されたと言う事かも知れぬが
(まあ敵の射撃が激しい場合は騎馬武者は下馬して盾の裏に
 隠れたと言う事かも知れないが)
リチャード獅子王がパビスの影から出た所をクロスボウで撃たれたと言う記述も
有るだろうし
日本でも同様に高位の者が下馬して盾の背後に隠れる事が
有ったのかも知れないが
(本陣の前に盾が置かれている絵が多いし
 此れは高位の物を守る為或いは
 本陣を守る部隊を守る為と言う事なのだろうか)
或いは高位の徒歩武者等が守られる事も有ったのかも知れないが
城内への突入の際は先頭の兵には
盾が装備されたと言う事なのだろうか
766名無し三等兵:04/06/21 20:16 ID:???
命が惜しいんだから、盾を使う習慣があれば盾を使うでしょうよ。
敵前上陸を無邪気にやるような軍隊はさぞや手際も悪く、
的を造ったことでしょうなぁ。
767某研究者:04/06/21 20:17 ID:VeHQUJyJ
防塁の位置を正確に把握していなかった状況で
最短距離での侵攻を目指したから
防塁に当たったと言う事かも知れぬが
防塁を迂回されたとしても日本側は
勝利していたのだろうか
防塁を迂回されたら城に篭り
城を迂回されたら町にでも篭る
心算だったのだろうか
768某研究者:04/06/21 20:20 ID:VeHQUJyJ
>敵前上陸を無邪気にやるような軍隊はさぞや手際も悪く、
>的を造ったことでしょうなぁ。

モンゴル軍の盾の装備率もどうなのかだろうし
高位の騎兵や徒歩の兵だけを守っていたと言う事は
無いのかだが
蒙古襲来絵詞を見るとモンゴル軍の盾の数は
随分多い様に見えるが
769名無し三等兵:04/06/21 20:32 ID:???
山野殿といい、その他名無しの諸賢といい・・・

最初に較べるたら優良スレ化していいですね
770山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/21 21:32 ID:???
>>764
いい戦いが出来た、という以上の評価をするだけの根拠がありませんので。
序盤の戦闘についてですが、日本軍の常套手段通りに考えれば楯の向こう
から矢を射掛けあうところから始まったでしょう。白兵戦はその後から。
「楯突戦」という奴で、ここでどこかが崩れればそこを突いて白兵戦に。
771某研究者:04/06/21 22:07 ID:VeHQUJyJ
高位の兵以外は盾で守られず
射撃戦ではまともに矢を受けたのかも知れぬが
騎馬武者は盾の後ろで矢から守られつつ
下馬して弓を放った可能性も有るだろうが
徒士武者は長巻のみで訓練の必要な弓を扱って居なかったのであれば
徒歩武者は後方に下がっていた可能性も有るだろうし
盾で守られた下馬した騎馬武者同士が
矢を打ち合っていたと言う事は無いのかだが
772某研究者:04/06/21 22:23 ID:VeHQUJyJ
銃が出て来た後は竹束に守られない鉄砲足軽が
銃を撃ち合っていたと言う事かも知れないが
騎馬武者は下馬して竹束に守られていた可能性も
有る訳だろうが
飛び道具を扱わない者は後方に下がっていた可能性も有るだろうが
弓を扱う兵も此れはかなり訓練が必要な兵だろうし
竹束に守られていた可能性は有る訳だろうか
773某研究者:04/06/21 22:36 ID:VeHQUJyJ
まあ英のロングボウ兵はクロスボウ兵に比べコストは掛かっていただろうし
クロスボウ兵より盾に守られると言う事は無かったのかだが
クレッシーでは高台を利用してクロスボウ兵をアウトレンジしたので
問題は無かったのかも知れないが
ポワティエやアジャンクールではどうだったのだろうか
774某研究者:04/06/21 22:44 ID:VeHQUJyJ
弓を持つ足軽や高位の銃を持つ徒歩武者だけでは無く
銃や弓を持つ騎馬武者は下馬して竹束の背後から
射撃していたかも知れぬが
775某研究者:04/06/21 22:48 ID:VeHQUJyJ
まあ只互いに火器や矢を打ち合った後の
騎兵突撃迄騎馬武者は温存されていた可能性も
有る訳だろうし
下馬して銃や矢を撃つ事はしなかった可能性も
有る訳だろうし
騎兵突撃の際のみに矢や銃は使用した可能性も
有る訳だろうか

776某研究者:04/06/21 22:54 ID:VeHQUJyJ
鎌倉時代の騎馬武者は乗馬突撃の前にも
下馬して矢を盾の背後から放っていた可能性は有るだろうが
乗馬突撃の際にも矢は放たれていたと言う事なのだろうか
777某研究者:04/06/21 23:05 ID:VeHQUJyJ
まあ騎馬武者も騎兵への乗馬突撃の際は
矢を数発放ってから剣を抜いていたと言うなら
矢は数発残っていれば良いと言う事かも知れぬし
騎兵や歩兵を遠目からアウトレンジし続ける様な事は
行わなかった可能性も有るのかも知れないが

南北朝時代には徒士も矢を放っていたかも知れぬが
彼等が全て盾で守られていたのかだろうし
騎馬武者が下馬して矢を放っていた場合は
此れのみが盾で守られたと言う可能性も有るだろうが
(まあ騎馬武者も矢を使う兵の比率は少なく成ったのなら
 乗馬突撃迄温存されていた可能性も有るだろうが)
778山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/21 23:16 ID:???
どんな兵でも、矢を射るぐらいは出来たようですよ。騎乗していた者はそのまま射たとも
いいますが、下馬して射ていたと考えても問題ないでしょう。
779599:04/06/21 23:20 ID:???
と、いうか乗馬して、敵の集団に対して、近接戦闘を目的に突撃する(なんかもう、アレですが、こうでも書かないとイメージが一致しないでしょう)
形の突撃をしたとは、あまり思ってないのですけど。
近接弓射を目的に、騎馬の機動力を生かして肉薄して射ることはあろうと思うんですが(とか書きつつ、具体的なソース無し_| ̄|○)
780某研究者:04/06/21 23:35 ID:VeHQUJyJ
まあ敵も歩兵に突入して来る騎兵を迎撃する為に
ザマやカンネーの様に騎兵を出して来るかも知れぬし
此れを突破せねば歩兵への突入も
無理である訳だろうが
781某研究者:04/06/21 23:42 ID:VeHQUJyJ
騎馬武者も乗馬突撃前の下馬した段階では
歩兵を援護する為に盾の後ろから
矢や弾を数発残して全て放っていたかも知れぬが
実際はどうだったのだろうか

近世の騎銃兵は騎兵の突撃前に下馬して銃を放っていたのかだが
近世には塹壕も盾も無いだろうし
矢張り此れは後方で温存されていた可能性も有るだろうが
騎兵は戦争の早い段階で敵の騎兵を攻撃する為に
騎兵に突入していた事も多い様だが
782某研究者:04/06/21 23:52 ID:VeHQUJyJ
城を攻める際は城壁上からの敵の射撃や
槍の攻撃等に対応する為に
下方から此れに対して射撃も行われただろうが
片方が盾や壁でカバーされているのに大して
城壁下で射撃を行う兵は盾でカバーされておらねば
此れは不利であるかも知れぬが
射撃を行う兵の数が有れば盾が無く共
敵の射撃や槍の攻撃を牽制出来
味方の兵が突入し易くは成るだろうか
783名無し三等兵:04/06/22 04:07 ID:???
弓の有効射程しだいですね

目視できても射程外って弓では普通ですし(現代戦では見える物は撃てるが)
で、弓の有効射程ですが現代の和弓で精密射撃っていうか初射撃で人体サイズに命中確実は30m程度
普通の弓道場の距離(28m)だと風に対する修正はある程度強い弓だといらないです
遠的60mだとかなり強い弓でも風に対して修正しないと当たらないので、初弾命中は難しいです
修正射すれば普通の強さの和弓でも100mで有効でしょうが、試す機会が無いです

射撃速度に限界がある以上、射撃密度上げるには弓兵の集中運用ですけど
当時の日本で、下っ端まで弓が供給されていたのかちょっと疑問
訓練自体は合理的な訓練なら一ヶ月もあれば戦力になりそうですが・・・
(和弓も見た目とか気にしなければ2週間程度で的に当てられるようになります)
784名無し三等兵:04/06/22 04:29 ID:???
弓の運用法ってのは分隊支援火器のように集団に向かって
こちらも一斉に放つものだと思ってた・・・
違ったのか。
785名無し三等兵:04/06/22 15:08 ID:Xzdc0Eq6
>784殿
弓の運用方法ですが、
上士格の者が、相対した相手に向って射る個人運用法と、足軽等の下卒の者が
集団で矢の弾幕を降らせる集団運用法の二つが存在します。

源平〜南北朝の頃に既に下卒の者を動員した矢戦が行なわれていますが、
この頃はまだまだ上士格の者が単独で扱う弓が多かったようです。

戦国時代になると、弓足軽の集団運用法が確立されますが、この時代でも
士分の弓、というのは残っていたようです。

(ちなみに、当時の射法は今の弓道のものと全く違う。割り膝という片膝をついた姿勢で、
ムーブ&ファイア、仲間がいる時は側面・後方を互いに援護しながら進むらしい。今の
分隊戦術と似たようなものだと思われる)
786名無し三等兵:04/06/22 15:23 ID:???
>>785 成る程、当時は集団運用された弓による地域制圧といった考えは薄かった訳ですか。
787ハスケ ◆BnyPF68LQs :04/06/22 15:55 ID:???
785はオレです。名前入れ忘れた…。

>783殿
元寇の頃の和弓は、まだ伏竹弓・重藤弓で、そう強力なものではなく、
最大射程200M弱程度。対するモンゴルの弓は、動物の筋を使った強化弓で、
半弓ながら200数十メートルの射程だったそうです。
数十から100Mぐらいの有効射程の差が、当時の矢戦でどのように働いたのか?

双方が掻盾や小型の盾を装備していたようですし、大鎧の弓矢に対する防御性(かなり高いらしい)
など、気になる事が多いのですが、オレには良く分かりません。(イメージも出来ない…)


ところで、上士格の者が使う重藤弓ですが、これは伏竹弓の構造体である竹と木が、解離しないように
巻いたのが起源だとか。結果、弓の強化と装飾の役割を持つようになりましたけど。

>786殿
無かったわけではないでしょうが、当時はまだ(日本全体の)人口が少なかったから、一つの武士団が動員出来る
人数が少ない(正規の武士も、下卒の者も)というのと、やはり武家が「弓矢の家」と言われたように、武士達の弓矢に
対する誇りの強さがそうさせたんじゃないでしょうか。
それでも、大量の兵士が動員された源平合戦では、下卒の者・軽輩の者を大量動員して、矢の雨を降らせていますが
(これを矢衾という)

※日本の矢尻の種類の多さは、世界に類を見ないほどだとか。武士は24本の矢を携帯したが、(通常、この携帯した
矢はあまり使わない。追撃やここぞ、という時に使用し、他は従者から受け取る矢で戦う)通常の矢のほかに、鏑矢や、
大将格を狙う時に使う特別製の矢など、数種類の矢を携帯していたらしい。
788山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/22 18:58 ID:???
>>783
>当時の日本で、下っ端まで弓が供給されていたのかちょっと疑問
『愚管抄』巻第五には、頼朝の派遣した軍は「夫(人夫)にまで弓を持たせた
ので、平家は敵わなかった」と書かれています(>787とかぶりますが)。
従者の事を「夫」とは言わないでしょうし、質はともかく矢は射たと思います
よ。楯突戦も船戦も満足に出来ませんし、中世の合戦では矢傷が5割以上、
場合によっては7割以上を占めていました。白刃にかかった場合、傷ではなく
「討死」になったのかもしれませんが、それにしても多い。
>>787
>武士は24本の矢を携帯したが
30〜40本という例もあります。
789599:04/06/22 19:26 ID:???
弓射でどれくらい士気が下がるのか、などはもう、想像の世界ですねえ。
歴史資料としては、士気を喪失したかどうか、記述でいいんですが、
軍オタとしては、決勝点でどんな挙動を示したのか、とか気になりますから…

日本には、弥生の昔から、鹿砦やらを作る技術があったことは知られていますし、
藤木氏の本に寄れば、それは比較的普及していたのでしょう。
だからと言って、軍事に転用可能な弓射技術を持った香具師がいたかどうか…
あるいは、村単位である程度まとまった郎党が軍役と言うか、参加した例もあったんじゃないかと…まあ妄想ですが。

何を書いているのやら…
要するに、最後の最後まで戦闘を諦めない香具師がどれくらいいたのかなど…
あうあう。もうダメポ。
とりあえず書いたので送信してしまいますが…
790山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/22 20:11 ID:???
>789
従者の理想は、主人のために「禦矢」の役目を果たすこと。もっとも『平家
物語』に登場する重盛の従者のように、いざとなれば逃げ出してしまう人間
もいましたが、その辺は程度問題でしょう。そもそも、
>要するに、最後の最後まで戦闘を諦めない香具師がどれくらいいたのかなど…
こういう曖昧な問題だと個人差があるとしか・・・。
ただ中世の人間となると、貴族から百姓までかなり荒っぽいですよ。「悪党」
なんてのも様々な階層から生じたものですが、弓や太刀に触れる機会はどの
階層にも与えられていました。
延暦寺あたりの学僧が書いたと想定されている『今昔物語集』には貴族よりも
この時代に勢力を拡大していた武士や庶民の活躍の場が多く記されています
が、そこに見える基本理念の一つが、「同じ死にを、後に人にも聞けかし」。
つまり「同じ死ぬなら人に知られるような死に方を」とか、「どうせ死ぬなら
切りかかって、前のめりに死んだ方がいい」とかいう発想です。
編者の理念とも言えますが、中世という自力救済の時代においてはごく普通
のものであったように考えられます。
刀伊の入寇の時には、攫われた近隣住民が戦っている武士団に「矢を射掛け
てくれ」と叫び、刀伊がそれにひるんでいる隙に敵をぶちのめして敵船から
多くが逃れています。今ならテロリスト相手を想像してみると分かり易いか?
少なくとも現代人のように修羅場慣れしていないから逃げたという事は無い筈。
旗色が悪くなれば逃げる人間が多いのは普通の事でしょう。中世の戦死者など
戦闘に参加した人間全員から見れば一握り。
なお鎌倉時代の軍制は惣領制が基本で、いざとなれば惣領が一族を率い、一族
の人々は重代の従者を率いて戦っていました。人夫はあくまでもおまけかと。
(もっとも当時の御家人の動員出来る軍事力は日本全体から見れば一角を占め
ていただけで、幕府は朝廷に寺社などの荘園からも兵を出してもらえるよう申
請しています。)
791山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/22 20:21 ID:???
最後の点についてですが。幕府がそれまで不干渉が原則であった「本所一円
地」(寺社などの荘園)にまで動員令を下せるようになるのは、実にこの元
寇の時からだといいます。
792名無し三等兵:04/06/22 23:32 ID:???
日本軍が士官クラスのみ弓を装備していたとすると
蒙古軍が集団射撃戦を挑んできた場合不利になるのでは?

実際の両軍の弓の装備率はどうなんだろう?
793名無し三等兵:04/06/26 12:17 ID:???
そろそろ保守あげ
794名無し三等兵:04/06/29 07:22 ID:???
ドンドコドーン!
795名無し三等兵:04/07/01 23:08 ID:???
いっきにレスがつかなくなったな
796名無し三等兵:04/07/03 18:07 ID:GQKwkuKW
【文永の役】
 〈蒙古軍の兵員数〉
   蒙古軍総兵力   40600人
    梢工 水手   15000人
   戦闘部隊兵力   25600人
    兵站       5000人
   交戦兵力     20000人
 〈日本軍の兵員数〉
   交戦兵力      5300騎
   交戦兵力     10000人

【弘安の役】
 〈蒙古軍の兵員数〉
   東路軍総兵力   42000人
       交戦兵力 25000人
   江南軍総兵力  100000人
      交戦兵力  60000人
 〈日本軍の兵員数〉
   長門地区交戦兵力 25000人
   博多湾交戦兵力  40000人
   京都地区交戦兵力 60000人

 「元寇ー本土防衛戦史ー」(陸上自衛隊第四師団司令部 1963年)
797名無し三等兵:04/07/03 18:13 ID:???
対馬にいた武士は皆殺しなんだろうな。南無
798名無し三等兵:04/07/03 18:18 ID:???
>>796
乙〜
いいなあ、陸自資料を閲覧できる人…

こんなん見つけてきました。
■ 既説 ■
□ 陸上自衛隊福岡修親会『元寇 ―本土防衛戦史―』
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8071/genko/kisetu/k_3a.html

他にもいろいろ研究しているようです。
799名無し三等兵:04/07/03 18:39 ID:???
>>797
一応、宗助国の命令で、本土に急を知らせるために脱出した者はいたみたいだけど
後は軒並み討ち死にだったようだね
800名無し三等兵:04/07/03 20:01 ID:???
>>798

かなり斜め読みしてるっぽいなぁ。。。編纂時期が分からなかったので、みたいな一文もあるし。

俺自身も人に借りて読んだんで記憶曖昧だが、編纂時期は前書きで明らかにしていたんだが。。。
801山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/04 01:56 ID:???
>>792
当時は百姓でも弓矢は使えましたが、12世紀末から彼らが動員される事態
もあったという説があります。装備率までは分かりませんが、高かったかと。
>>796
最近の研究では、文永の役の蒙古軍が25000人であったかと。
しかし日本軍の人数が偉く具体的ですが、根拠が知りたいですね。何分時代
が古いですし、「軍人」にやらせると一次史料も後世に書かれたものも一緒く
たにしてしまうと苦言を呈していた先生がいらっしゃいましたから。
798のリンク先の方が「典拠」を気にしてらっしゃるのも分かります。
『八幡愚童訓』だと文永の役の日本軍は108000人(!)となっていました
が、これは有りえません。しかし九州各地から御家人(惣領から外れた庶子も
参加)やそれ以外の兵力も参加していたのですから、幕府も把握しきれていな
かったんじゃありませんかね。
>>797
ただ数年後の弘安の役や、更にその六年後の存在は確認出来るので、島外で
無くても逃げ延びた者がいたのかもしれません。
802名無し三等兵:04/07/07 17:33 ID:UtK8qiEx
あげ
803名無し三等兵:04/07/07 20:14 ID:???
>>796
過去において見られる一般的な部隊編成だと全戦力の20%は補給部隊

鎮西軍
馬上武士以外にも郎党.下人等を加えると最低3倍との説あり
(住民も参加した可能性もあるらしい)


804山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/07 22:52 ID:???
>鎮西軍
>馬上武士以外にも郎党.下人等を加えると最低3倍との説あり
>(住民も参加した可能性もあるらしい)

御家人の惣領が率いていたのが100人〜300人ほど。この合戦から惣領
の指揮下を外れ、独自に大兵を率いて庶子も参戦する事が許されています。
他に荘園の人間も動員されました。住民の動員については、治承・寿永の内
乱期ごろから存在したという説がありますが、具体的な事は不明。
大体この時代の動員兵力は戦国期ほど大きなものでは無く、全盛期の平家一
門が京都に常駐させていたのが約1000騎と言われており(これに徒歩の
兵が数人ずつ加わる)、これで宮廷を中心に畿内に睨みをきかせていました。
それに対して挙兵した源頼政が50騎ほど。古今未曾有の大軍と言われた富
士川合戦時の平家軍も数千人ほどであったようです。
805名無し三等兵:04/07/08 00:02 ID:???
>過去において見られる一般的な部隊編成だと全戦力の20%は補給部隊

進攻側?
806名無し三等兵:04/07/09 19:15 ID:???
> 過去において見られる一般的な部隊編成だと全戦力の20%は補給部隊

そういや佐藤大輔が昔一字一句同じこと描いてたな。
ゲームデザイナーやってた学生時代にw
807名無し三等兵:04/07/13 07:19 ID:???
保守
808名無し三等兵:04/07/13 19:54 ID:JWl0w9pt
当時の元・高麗の輸送力じゃ日本の守備隊を圧倒できる兵士数を揃えるのは難しいんじゃ?
攻撃側に三倍の兵力が必要とされる攻撃占領作戦を実現するのは無理
それに日本軍は武士団単位で戦ってるから、大軍の集団戦をしてこない代わりにひとつひとつが潰されるまでしぶとく戦うだろうし
809名無し三等兵:04/07/13 20:39 ID:???
圧倒できなくても得意の機動戦で攪乱していればいいのでは
810名無し三等兵:04/07/13 20:46 ID:???
>>808

>攻撃側に三倍
それ、どんな時代のどんなときでも成立する「法則・定理」なの?

火力が発達した時代の作戦級以下の部隊規模で通用するものと聞いたことが。
811名無し三等兵:04/07/13 21:48 ID:???
基本的に野戦なんだから三倍ということはないだろ
問題は日蒙のキルレシオがどれくらいかということなんだが
812名無し三等兵:04/07/13 22:49 ID:???
>>809
騎兵の輸送だと、馬(替え馬もいるだろうし)輸送で手間がかかるんで撹乱するほど大量に持ってくるのは無理じゃあ?
実際、軍の主力は高麗とかの歩兵だったわけだし
813名無し三等兵:04/07/13 23:04 ID:???
>>812
禿堂
元の輸送技術で大量のお馬さん&餌を運べるとは思えん
814名無し三等兵:04/07/14 02:09 ID:???
>>811
正確な総兵力さえ諸説あるわけだかし、元軍の被害も台風・海難と戦死を分けるのも難しいからなぁ
815名無し三等兵:04/07/14 22:33 ID:mb3c6uqk
武士みたいな半農半武の弓騎兵が主体だとすると、農民とかを徴兵したのが主体の元・高麗軍といい勝負したような気がするが
実際のところは元・高麗優位だが攻めきれるほどではなく、結局退却を決定してる
816山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/14 23:24 ID:???
>半農半武
と仰いますと?
817名無し三等兵:04/07/15 01:13 ID:???
刀狩りされる前の農民というやつでしょうかねぇ。
818名無し三等兵:04/07/15 13:54 ID:???
鎌倉時代の武士は、普段は武芸訓練と農業(農業監督)を半々でやってたんじゃないの?
兵農分離ができるのは江戸時代
819山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/16 00:27 ID:???
騎乗した侍と徒歩の郎党中心。人夫にも矢を射させたという記述もありますが、
一般的なものかどうかは分かりません。
「村の武力」として一般農民が動員されるような体制が当時整っていたかどうか
は不明です。「兵器に耐えうる輩」は当時動員をかける時の常套句で武士以外
にも用いられていた表現ですが、悪僧などが対象の事が多いですし・・・。
当時はまだ専門職としての「武士」だけで戦闘していたと考えるのが普通ではな
いかと。ただ12世紀末になると従来の百人単位の動員から数千人の参加へと
変化している事から、>>804のような正規のもの以外も動員されていたのではな
いかという説も出されています(正規限定なら京都で千騎だけ)。
ただいずれにせよ「刀狩以前」=兵農未分離の状態であったという訳では無いの
では。武士が武装農民から発展したという説は現代では否定されており、京都
において軍事貴族を中心に武芸という「芸能」を伝える中で生れていったらしい。
(国司の私的従者に在庁官人に地方豪族の私兵・・・にまで話が及ぶとスレ違い
なので止めておきます。)
また余談ですが、秀吉以後も17世紀までは百姓が刀槍鉄砲を持ち出して境界
争いをする事がありました。
秀吉自身の意図も、軍縮というよりは二本挿しを武士の特権とする事にあった
らしく、脇差を挿した農民の姿は江戸時代を通してありふれた存在でした。
820名無し三等兵:04/07/20 18:35 ID:???
保守
821名無し三等兵:04/07/22 20:07 ID:???
当時の武士の技量武芸って元騎兵に通じるレベルだったのかな?
小弐資能(だったかな?)が元側の副将を射たりしていたんだが
822名無し三等兵:04/07/23 00:37 ID:???
>821
別に、元軍は妖術を使うってんでもないんだからさぁ…

弓の射程内に居て、腕のいい射手が射れば狙撃できる。
そんだけの話では……?
823名無し三等兵:04/07/25 15:37 ID:???
ほす。
824名無し三等兵:04/07/26 01:29 ID:6jUFsPs3
当時の武士の弓矢の射程と、一分間の発射可能本数ってわかっているんだろうか?
元のそれもわかってたら具体的な一人あたりの戦力差も割り出しやすいだろうけど
825某研究者:04/07/26 01:43 ID:DDvKHT5g
イングランドのロングボウは毎分6発程度だろうが
地上は兎も角馬上でそう早く矢が
打てる物なのだろうか
826名無し三等兵:04/07/26 02:01 ID:???
>>787
べるりん ◆Belgar/rRI

ハスケさんへ、
メールを確認された事と思います。
直ぐに御返却おねがいします。とは申しませんが、返信するぐらいの事は出来ると思います。
人から借りたものを返却の要請を無視して何時まで居るのはどうかと思います。
ご返信頂けないのは心苦しい限りです。

名無し因果応報 ◆4dGOthLouM
とりあえずハスケ氏もメール見られないくらい忙しかったりするかもしれんから、落ち着けチャーン(・∀・)

ごっぐ ◆2aCs6PCFec
何だ?
預けてた本の話か?

べるりん ◆Belgar/rRI
>名無し因果応報 ◆4dGOthLouM
それはどうでしょうかね。
昨日今日にメールしたもんではないですから。
>ごっぐ ◆2aCs6PCFec
御名答w
827名無し三等兵:04/07/29 08:43 ID:???
ほしゅ
828名無し三等兵:04/07/29 17:10 ID:Ja89FJA8
おもしろかったので保守。
829名無し三等兵:04/07/29 21:44 ID:???
結局激闘の果てに蒙古軍撃退って結果は正統なものだったわけ?
神風が吹かなくても遅かれ早かれ同じ結果に終わっていたと?
830名無し三等兵:04/07/29 21:48 ID:uitM+u1N
>>829
神風が吹かなくても結果は同じ
日本側の防御兵力を圧倒して継続占領するほどの力は元・高麗にはなかった
831名無し三等兵:04/07/29 22:40 ID:???
そこで皇国の守護者風に(r
832名無し三等兵:04/07/29 23:27 ID:???
山地だらけの国土では蒙古お得意の騎兵は使えない、主力は弱兵の高麗兵、補給も危うい。
そして日本側は最高司令官北条時宗によって兵力集中と意思統一が成功している…と。
うん、神風吹かなくても勝てるな。
833名無し三等兵:04/07/30 04:03 ID:???
日本側が貴族政権のままだったら勝ちは無かった鴨

武士政権下ってのは幸運だったな、歴史的に見て。
834名無し三等兵:04/07/30 20:53 ID:???
仮に蒙古軍が勝つあるいは国土分断状態になるというifを想定するとすればどんな条件が必要だろう?
835名無し三等兵:04/07/30 22:03 ID:igMsgIh4
>>834
蒙古軍快進撃の理由は、戦争の強さもさることながら逆らえば虐殺・素直に降伏すれば宗教的な自由を認めるなど寛容という態度で、敵対勢力を内部分裂させたことが上げられる
例外として奮戦した後降伏した相手を高く評価するってこともあるが
御家人とかに領地安堵持ちかけて、日本をまず内部分裂させることが必要じゃないかな?
836名無し三等兵:04/07/30 22:08 ID:81zgjmVm
NHKの見解。
蒙古来襲は全部日本の責任。
837名無し三等兵:04/07/30 22:08 ID:???
基本的に封建軍制だから北九州に橋頭堡を構えてしまえば
西日本の在地武士の多くが鎌倉幕府の軍事大権から離脱することになる
つまり鎌倉幕府としては水際防御しか選択肢は無かったと言える
文永弘安は日本側にとっても非常に際どい戦いだった
838名無し三等兵:04/07/31 13:13 ID:???
するともし台風が来なくて蒙古軍が再上陸した場合は?
つか抵抗が激しいと思えばまあ船団組んで余所に上陸試みたりしないのかね?
839名無し三等兵:04/07/31 13:57 ID:dy/xItIz
>>838
兵站・船の航続距離の問題から、九州以東を上陸地点に選ぶのは難しかったんじゃ?
一部の元軍が長門に上陸したって話はあるみたいだが
840名無し三等兵:04/07/31 14:02 ID:???
>>838
後方連絡線が維持できない
841名無し三等兵:04/07/31 15:37 ID:???
やはり大陸国は海洋国には勝てないのか。
842名無し三等兵:04/07/31 20:15 ID:???
そーゆー問題ではない。
843名無し三等兵:04/07/31 21:09 ID:gzRaDNo2
時代が違うから単純比較は無理だろうけど、
ノルマンディー作戦と比較できるかな?
844名無し三等兵:04/07/31 21:16 ID:???
何を比較するの?
845名無し三等兵:04/07/31 23:43 ID:JNYiCKax
ノルマンディー=敵の裏をかいて上陸
元寇=守備兵力集中地点に上陸(文永)
846名無し三等兵:04/07/31 23:46 ID:???
それで?
847名無し三等兵:04/08/01 09:04 ID:???
蒙古来襲は全部南宋(中国 漢民族)の責任
848名無し三等兵:04/08/01 16:24 ID:???
いくらなんでもそれは言い過ぎ
849名無し三等兵 :04/08/01 16:27 ID:cXb9AiFA
>>848
そうとも言えないな。南宋から亡命してきた僧達が幕府にすいぶんとロビー活動したからね。
850名無し三等兵:04/08/01 19:52 ID:GaobFuPH
元の朝廷に日本攻撃を建議したのは高麗出身者で、積極姿勢をみせたのは元のお陰で国王の権力を取り戻せた高麗王だから
やっぱり責任は主体の元と高麗で南宋は二の次じゃ?
851名無し三等兵:04/08/01 19:54 ID:???
戦争に責任の所在を云々するのは不適切ではなかろうか
犯人探しじゃあるまいし
852 :04/08/01 21:05 ID:???
90%高麗の責任。韓国に元寇の謝罪と賠償を求めるべき。
853名無し三等兵:04/08/01 22:36 ID:P3BJOEsj
敵進攻予定地に防御施設を建設し
兵力を動員し集結させ
幕府トップの親族・側近を現場に送ることで統制をできるだけとる

ごく基本的なことを地道に実施したから撃退できたんじゃないの?
854名無し三等兵:04/08/01 22:50 ID:???
そうだよなぁ、軍事行動における劇的な事は稀な事だよな。
855名無し三等兵:04/08/02 23:24 ID:???
すると蒙古は何が不味かった?
856名無し三等兵:04/08/03 01:38 ID:KC4ErC6p
>>855
朝鮮兵を主力にしたこと
あの国の法則発動したらどんな国でも大敗する
857名無し三等兵:04/08/03 03:08 ID:???
>855
端的に言って兵力不足。
調略も無しで太宰府近辺への力押しをするのは無理だったってことでしょ。

文永で山陰や熊本あたりに迂回上陸されたらどうなっただろうかね?
858名無し三等兵:04/08/03 19:00 ID:???
調略ってあなた・・・

さてはコーエーのゲームをやり込みすぎましたね。
859名無し三等兵:04/08/03 19:50 ID:???
>>855
チャンコロとチョンに戦意がなかった。
860名無し三等兵:04/08/03 19:55 ID:3xluS20n
>>859
高麗の将兵は元将が撤退を提案するのに猛反対してましたよ
861名無し三等兵:04/08/03 23:44 ID:???
>>860
その事実に「一将功成りて万骨枯る」を連想するのは私だけだろうか
被占領民に士気の高さは期待できないが、
その一方で、被占領民だからこそ、不安定化した地位の保全に必死になる者、
同胞の骸を積み上げてまで手柄や出世を渇望する者もいるのである。
862名無し三等兵:04/08/04 00:04 ID:???
あんただけですw
高麗勢は軍事的に単純に攻勢続行を主張しただけで、
最終的に指揮権を有する最高指揮官が撤退を決定しただけでしょう。
古今東西、こういった隷下指揮官と最高指揮官の意見が相違する事例は珍しくないんですが。
どこをどう捻くり返せばそういったルサンチマン溢れる見解が出てくるんだかw
863名無し三等兵:04/08/04 00:06 ID:???
都会の博多に来て、自分たちのファッションセンスのなさをシナ人と朝鮮人が恥じた。
864名無し三等兵:04/08/04 00:19 ID:???
>>862
ルサンチマンと来たか。嫌韓は釣り餌としちゃ古いぞ。
865名無し三等兵:04/08/04 00:20 ID:???
まあ渡洋侵攻作戦には何かと困難が付きまとうからといったところでしょう。
866名無し三等兵:04/08/04 00:27 ID:???
>>864
別に嫌韓でもなんでもないですよw
ここは軍事板なんですから好悪の感情は排除すべきですよ。
渡洋侵攻という制約の多い状況で初動の戦術的失敗があってなお、
高麗勢が戦意を維持していたということは、彼らが自らの重歩兵戦術の
戦術的優位を確信していたことが大きい。
一方で軽騎兵戦術が身上の元将が撤退を選択したのも首肯できる
ところがありますな。
867名無し三等兵:04/08/04 01:02 ID:???
>>866
別に嫌ってるつもりはなかったんだがな。
ヒューマンファクターというやつを書いてみただけで。
だから思いこみで、

>ここは軍事板なんですから好悪の感情は排除すべきですよ。

みたいに相手が悪いことを決めてかかった言い方は止めろよ。並以上の頭があるつもりなら。
868名無し三等兵:04/08/04 06:41 ID:???
最初に嫌韓云々言い出したのは>864では?
釣りなの?
869名無し三等兵:04/08/04 18:24 ID:fqOzqxN5
>>866
弓主体の相手に重歩兵戦術で自信…
高麗はやっぱり馬鹿ということになっちゃうが
870名無し三等兵:04/08/04 19:05 ID:???
>>869
何か誤解しているようですが、この時代の戦闘で、
投射兵器のみで重歩兵の隊列を崩すことは
よほどの戦力差でもなければ通常困難です
また、当時の日本の軍隊は軽騎兵と軽歩兵の小規模な
コンバットチームの集合体で、弓主体とは言えません
871名無し三等兵:04/08/04 19:35 ID:ys69Lnzv
当時の日本の戦闘は、手柄目的の突出をのぞけば「楯突戦」でしょ?
それに元軍撤退の主張のひとつの理由は矢を射ち尽くす懸念
遠戦主体と読み取れるんだけど
872名無し三等兵:04/08/04 20:08 ID:???
矢の消耗は撤退理由の一つとしてよく言われていますが、
あくまでも推測の域を出ていません
何をもって主体とするかは議論が分かれるでしょうが、
少なくとも侵攻軍の編成は矢戦のみを想定したものでは
ありませんでした
蒙古襲来絵詞には長兵の姿も少なくなく、侵攻軍の主力である
高麗勢の戦術が重歩兵の戦列を基礎に展開する当時の中国の
影響を強く受けていたのはまず間違いないでしょう
873名無し三等兵:04/08/04 20:12 ID:???
また、当時の日本の戦闘の様相も、矢戦のみならず近接戦闘の描写が
少なくありません
874名無し三等兵:04/08/06 21:50 ID:???
ベトナム戦争のときも韓国は撤退に反対だった
875名無し三等兵:04/08/09 22:33 ID:???
蒙古お得意の騎馬兵が使えなかった。
876名無し三等兵:04/08/13 15:54 ID:???
で、つまりは勝ち目のない侵略戦争吹っ掛けた海老フライ大帝が馬鹿であったということでFA?
877名無し三等兵:04/08/13 17:27 ID:???
野戦築城されたところに敵前上陸して成功した例なんて逆に無いような

敗因は攻撃側の編成の問題は別として
 上陸地点が特定されて、陣地構築されてしまったこと
 日本側の動員前に橋頭堡を確保できなかったこと

攻撃側がとるべき方法としては
 上陸地点の欺瞞
 日本側が動員して編成終了する前に地積を確保

なんだけど、日本側は編成部隊規模が小さいから動員がやたらと早いんだよなぁ
878名無し三等兵:04/08/13 23:49 ID:???
事前の外交で、鎌倉や京都に使節を差し向けるだけでなく、
西国の地頭や守護を懐柔して上陸地を確保すべきだったのでは?
879名無し三等兵:04/08/14 00:18 ID:???
当時の封建制の日本に地歩のない状態での懐柔は難しいのでは
880名無し三等兵:04/08/14 21:30 ID:???
大陸なりの適当なとこなら土地だけは余ってそうだけどな
あっちの土地いくらって言われても当時の侍はピンと来ないだろうけど
881名無し三等兵:04/08/14 21:53 ID:???
西国全部ではなくて、日本海側の一部だけなら変わり者の地主が蒙古になびくかも知れん。

でも、あからさまに蒙古側に付くと周辺の幕府側の軍に先に攻め込まれるだろうから、
蒙古と密に連絡を取って慎重にやらなければならん。ちょっと難しいだろうね。
882名無し三等兵:04/08/14 23:44 ID:???
当初、日本へ使節を送った理由の一つは南宋との交易遮断だったはず。
逆に言えば、大陸貿易の利権に惹かれる勢力があったんでないかな?
883名無し三等兵:04/08/15 00:18 ID:???
誰も靡かないでしょう。
封建制は土地を媒介して主従関係を確立するシステムです。
はるか海の向こうの蒙古に土地所有を保証する権威を認めるような
御家人がいたとは考えにくいですね。
それに、当時の御家人の大半は小規模土地所有者です。
こうした細分化されて散在する御家人たちは、土地の所有権を巡って
相互に相手を監視し幕府に注進する機を伺っていました。
元寇の侵攻目標が大宰府であったのも、西国におけるこうした幕府の
封建制を阻害または破壊するためです。
884名無し三等兵:04/08/15 00:31 ID:???
>883
理解できなかったようだから、スキームを示そう。

元 −(交易権)→ 寺社仏閣etc −(本領安堵)→ 御家人

これでどうよ?
885名無し三等兵:04/08/15 01:07 ID:???
>>884
当時の日本で御家人の土地所有を保証する機能は鎌倉の幕府に集約されています。
寺社仏閣etcに同様の能力があったとは思えません。
また、元との独占交易だけで寺社仏閣が幕府の封建制を否定してその軍事大権に
挑戦できるだけの利益をもたらすとは考えにくいのではないでしょうか。
886名無し三等兵:04/08/15 12:36 ID:???
琉球や対馬、あるいは瀬戸内の海賊衆なんてのに対しての切り崩しはなかったんかね?
887名無し三等兵:04/08/15 20:26 ID:???
琉球には侵攻して逆に撃退されてます>元軍
888名無し三等兵:04/08/15 21:16 ID:???
それは知らんかった
琉球って軍事力弱い王朝って印象だったんだがそうでもないのね
889名無し三等兵:04/08/16 13:44 ID:???
>887
資料名きぼんぬ。もっと知りたい
890名無し三等兵:04/08/19 21:49 ID:???
元が攻め込んだのは、琉球ではなく、台湾だって説もあるけど。
891名無し三等兵:04/08/21 05:50 ID:???
元の水軍は弱かったということかいな・・・・
892名無し三等兵:04/08/23 14:12 ID:08tG5Piq
元てあほだよね。
宣戦布告なんてしないで、いきなり大艦隊送り込めば九州くらい
征服できたはず。
893名無し三等兵:04/08/23 17:42 ID:???
半島からの難民が結構日本に流れ込んでいたそうだから戦略的奇襲は出来んだろう。
それに半島から脱出した勢力の連合軍である三別抄が、一年くらい斉州島で戦闘を続けたらしいし。
894名無し三等兵:04/08/30 00:25 ID:???
保守
895名無し三等兵:04/08/30 20:57 ID:???
結論として元の日本侵攻は無謀であったということで?
896名無し三等兵:04/09/11 11:01:27 ID:eAXzuqme
        _,,,,........____
      /:::... ::::.....:::: :: .. ::::::: ..`ー-4  __ ,=ニi
     /_ ::: ..:: (●) ::; ...::_ ::  :: : :  ̄'' } 三
     '⇒ :: .  ::::: ... (ヽ三/ ;: : .. ::: ;;/ー'
     i                /,ゝ
      !              / ̄
      ヽ、          _,/
       ー ------― " ←この辺をトリプルクリックするとフグの目が光るぞ!!!
897名無し三等兵:04/09/11 12:08:30 ID:???
>>892
無理無理。一時的に占領できたとしても、絶対奪還されるさ。
だってモンゴル人なんて草原で駆け回るのが得意なだけの野蛮人じゃん。
898名無し三等兵:04/09/11 17:47:39 ID:cnfJnycA
>>897
>モンゴル人なんて草原で駆け回るのが得意なだけの野蛮人じゃん。

ま,そういう見方もできはしますが,
実際には,軍事と政治と遊牧以外のことは下等民族がやること,
と思ってたらしいですよ.
899名無し三等兵:04/09/11 17:57:25 ID:???
しかし何故そんなモンゴルに旧世界の過半が席巻されたのか?
何故比較的近い日本は征服を免れたのか?
900名無し三等兵:04/09/11 18:10:40 ID:ZEVpplIb
99000
901名無し三等兵:04/09/11 18:13:05 ID:cnfJnycA
>>899
>旧世界の過半が席巻されたのか?
軍事と政治が,彼らのすべてだったからでしょう.
また,宗教にはきわめて寛容で,優秀な技術は人間ごと直ちに取り込むという姿勢も,幸いしたと思います.

> 何故比較的近い日本は征服を免れたのか?
マジメであっても本気でなかったことと,全モンゴルが停滞期に入った時期にあたったからでしょうね.
902名無し三等兵:04/09/11 18:36:57 ID:???
>>858
実際、ホラズムは調略された。
903名無し三等兵:04/09/11 20:06:26 ID:???
人間に毒矢射掛けるわ、殺した住民食っちまうわ
904名無し三等兵:04/09/11 21:13:25 ID:zyLjpD/t
「その日の日直」ならぬ「その日の大将」程度しか決めない程度の軍事組織しかもたない日本軍を打ち破れなかった、という事情を知ったら元・高麗の将兵はどんな顔したのかな
905名無し三等兵:04/09/11 23:10:11 ID:???
元にとっては辺境の一紛争でも日本にとっては国難だった
906名無し三等兵:04/09/12 02:17:13 ID:???
急に質が落ちたな・・・。
907名無し三等兵:04/09/12 19:35:13 ID:???
>>906
お前がその見本だな
908名無し三等兵:04/09/14 14:46:18 ID:???
ジンギスカンって絶対王政とかそういう地域には勝てたけど、
封建社会の発達したところには負けてるね。

909名無し三等兵:04/09/14 17:09:10 ID:???
一斉対決なら勝てるが、地方軍にゲリラ戦やられると弱い???
910名無し三等兵:04/09/14 17:24:50 ID:???
>>908
用語を勉強しなおして来い
911名無し三等兵:04/09/27 09:31:29 ID:???
>>909
蒙古の主力は騎兵。
野戦・運動戦でしか力を発揮できない。
騎兵は夜戦やゲリラ戦が出来るような兵科ではない。
912名無し三等兵:04/09/27 21:50:42 ID:???
つまり日本じゃそもそも通用しない?
913名無し三等兵:04/09/27 22:48:48 ID:???
>>911
だから主力は高麗兵や南宋兵だと何度このスレで出てきたら(ry
914名無し三等兵:04/09/27 22:54:51 ID:???
失礼、元寇だけじゃなく元軍の包括的な話だったのね。
915名無し三等兵:04/09/28 09:57:17 ID:???
日本の武者軍団は地の利を掴んでいる上夜襲が得意だったから、相手方から見れば相当な脅威に見えたと思われる。
916名無し三等兵:04/09/28 22:35:39 ID:???
そういう歴史があったらば後の世の日本ももっとしぶとい草の根的抵抗する文化持ってたかな
917名無し三等兵:04/10/08 03:25:51 ID:axfbqtp9
蒙古・高麗軍を戦国日本軍が迎え撃ったら日本軍の圧倒的勝利だったろうね。
918名無し三等兵:04/10/08 04:13:42 ID:???
時代がちがうのに比較してどうしろというのか
919名無し三等兵:04/10/08 06:28:31 ID:???
漢のロマンだろが
920名無し三等兵:04/10/08 07:11:01 ID:???
浪漫は軍事板の本懐ではないな単なる仮想戦記
921名無し三等兵:04/10/08 17:45:38 ID:???
想定からして火葬だろ。
922名無し三等兵:04/10/08 21:12:16 ID:???
蒙古があの時期に日本遠征を行わなければ大陸の歴史はなにか変わったか?
923名無し三等兵:04/10/10 19:05:28 ID:???
蒙古・高麗連合軍→元軍
高麗→元軍高麗人部隊
924名無し三等兵:04/10/14 22:02:05 ID:58v1F36B
あげ
925名無し三等兵:04/10/17 17:28:12 ID:mEfofJbc
保守
926名無し三等兵:04/10/17 17:57:52 ID:???
>917
戦国時代には、火砲のほかに焙烙玉なんて手投げ弾や、地雷とかも
一応あるからなあ。
927名無し三等兵:04/10/17 18:11:42 ID:???
火縄銃の類はともかく地雷?なんてマトモに用いられたことないじゃん。
焙烙火矢等にしても元軍のてつはうに大した優位性がある訳じゃないし。
928名無し三等兵:04/10/19 01:27:41 ID:???
元と戦国で重なる時期ってあるかな?
火縄銃伝来前に明になってたような
929名無し三等兵:04/10/21 08:35:14 ID:???
>>901

海があったからでしょうがw
船がないと渡れんというのは、すごいんだよ、ボク。
補給だっていちいち船をしたてにゃならんし。

それに真面目ではあっても本気ではなかったというのは??
相当な大軍を用意してきていたと思うんだが。あの時代に数万の部隊というのは、
大変な部隊だよ。
日本が朝鮮に攻め込んだ時に、明が用意できた軍の規模をみても、それはわかる。
君は「三国志演義」とかにかかれている数字をウのみにするタイプ?
930名無し三等兵:04/10/21 21:13:55 ID:???
つまり本気できても日本には勝てなかったということ?
931名無し三等兵:04/10/21 23:18:28 ID:???
国力を総動員して侵攻すれば勝てないことはないだろうが、そこまでして侵攻する意味ないし。
932名無し三等兵:04/10/22 16:51:38 ID:???
>>930

あれだけの大軍をつぎこむ以上、完全に本気だったと思うんだが。
一度目は、日本の武力をなめきっていたから、あの数。ところが
予想以上に抵抗が激しく、敵の一地方の、中心部(この場合は太宰府ね)
すら攻略できなかった。
だから、二度目は充分なつもりであれだけの部隊を出してきたんじゃない?


>>931

国力を総動員というところまでいくと、もう生きるか死ぬかの問題ですわな。
日本はモンゴルを征服する意図はまるでないのだから、そこまでして
日本殲滅を狙う必要もないし。
日本を征服する意図は充分本気だった、ところが日本を征服するのには相当な
兵力と時間と犠牲が必要ということになったから、諦めた。くらいじゃないですか?
933名無し三等兵:04/10/22 22:59:29 ID:???
しかしですよ、あんな世界帝国が極東のちっぽけな島国にそこまで苦労するというのに違和感があるわけです。
当時の日本は戦国期と違って恒常的に戦争状態であったとかいうわけでもないのでしょう?
934名無し三等兵:04/10/22 23:08:16 ID:???
鎌倉時代は内乱の連発で実戦経験はそう廃れてはいませんでしたが。
あと領土が広いことが強さに直結するのなら、
ソ連軍は連戦連勝のはずだし、それどころか未だにモンゴル帝国はユーラシアを支配してるはずですが。
935名無し三等兵:04/10/25 16:19:18 ID:???
>>933

ちっぽけとはいっても、とにかく領土を広げまくろうというモンゴルにとっては、
征服しておきたい隣国の一つだったでしょうけど。
実際、ベトナムにも遠征して、けちょんけちょんにされてるでしょう。
どうにも、騎兵の行動にむく地形に富んだ国じゃないと、うまくいってない
ことが多いですね。

ちっぽけな島国といっても、海がありますからね。
大軍を船に乗せて運んでくるだけでまず一苦労。
上陸したものの、慣れない地形と気候、環境で一苦労。
(陽動があるなど、諜報のためか知識としての地図はあるらしい)
さらに意外にも騎馬が多いのと(騎射もできる)、弓矢の威力に一苦労。
さらに夜襲、切り込みに一苦労。

そりゃあ苦戦するでしょう。
日本側の部隊も、数はかなりいますし。ホームグラウンドですし。
現代戦と違って、当時の兵站線なんて維持がとてつもなく大変ですし。


936名無し三等兵:04/10/25 21:31:12 ID:???
元は鎌倉幕府の動員能力をどの程度と判断しておったんかのー
どうもそこいらの基本的見積もりから既に失敗しとるような希ガス
937名無し三等兵:04/10/25 22:29:31 ID:???
っていうか、樺太や琉球への侵攻もあまりうまくはいかなかったようだし……

樺太の骨嵬(クギ)族(アイヌ系?)は1260年代に一度服属したものの
1284年に反乱を起こし、最終的に骨嵬族の服属で決着するまで二十年以上かかったし
1296年の琉球への侵攻は撃退されてる
(この後琉球三山はそれぞれ朝貢先を元に変更することになるが…)。
938名無し三等兵:04/10/25 23:36:51 ID:???
日本占領で何かしら現実的な利点ってあったの?単なる意地とメンツの問題?
939名無し三等兵:04/10/26 01:17:53 ID:???
中華秩序の継承者を自認する元にとっては、
「意地とメンツ」はものすげぇ重要なことだと思うんだが。

使者ぬっ殺されたら皆殺しにして報復するのはモンゴルの掟だしw
940名無し三等兵:04/10/26 01:31:08 ID:???
>>938
対南宋包囲網を完成させるために服属を求めたら従わなかったので
仕方なく武力にうったえたんだろって御大がゆってた
941名無し三等兵:04/10/26 05:48:33 ID:???
蒙古側も、「今までこんなに我らに勇戦した敵がいただろうか」と
日本側の戦いぶりを褒めてたな
942名無し三等兵:04/10/26 19:14:17 ID:???
>>938

それをいうなら、ロシアまで征服におもむいたのは、何でだって話になるが。


>>941

それは初耳。まぁ、漏れの知識が圧倒的に不足してるだけかも。
どこに載ってたの?
943名無し三等兵:04/10/26 19:55:44 ID:???
蒙古が日本占領してた場合太平洋に乗り出してた可能性あるかな?
別に蒙古人でなくとも非占領地の日本人とかでもいいんだが
944名無し三等兵:04/10/26 20:14:11 ID:???
>>943
マレー、フィリピン経由でオセアニアへとか、アラスカ経由で北米、南米へとかならともかく
日本から太平洋ってどこへ行くんだ?
945名無し三等兵:04/10/26 20:42:45 ID:???
水平線の彼方へ!
946名無し三等兵:04/10/26 21:37:01 ID:???
シベリア行き片道切符と、日本から太平洋に漕ぎ出すのは変わらんような気が

日本側の動員計画の妨害を出来なかったのが元軍が勝てなかった原因か
舟艇機動もイマイチのような気がするし
947名無し三等兵:04/10/26 23:15:32 ID:???
だから東北あたりの反政府勢力焚きつけとけば
948名無し三等兵:04/10/27 07:37:24 ID:???
確かに馬鹿正直な力押しのみってのはいかにも不味かったな。
鎌倉幕府というのは一枚岩とは程遠い存在なんだから、何らかの調略を事前に仕掛けておくべきだった。
949名無し三等兵:04/10/27 22:58:12 ID:???
どの程度の下準備して攻めてきたんだろ?
ろくに地形も調べてないとかそんなことはないよな?
950名無し三等兵:04/10/28 18:39:15 ID:???
ところで次スレは?


>>946

動員計画は妨害のしようがないんじゃないですか。
単純に戦闘能力が日本側と比べて劣っていて、兵站線が長いのが原因かと。
陽動とかはしっかりかけているし、側衛も上陸するなど、上陸軍として
できることは充分にしていると思います。


>>948

どう調略をしかけろと。
文化も制度も何からなにまで、まるで違うんですが。
自軍の戦闘能力に自信があったから、充分な戦力を送れば大丈夫だと
判断がかたまっていたんじゃないですか。
また、寝返り工作をうったとしても、各地での元軍の苛烈さは充分
日本側も承知していたので、誰も寝返らないかと。そもそも使者の首を
切ったのも、降伏したら悲惨なことになるのを北条時宗が承知していたからです。
ムゴい、という言葉も、モンゴい、(蒙古い)から来たという話もあるくらいです。
951名無し三等兵:04/10/28 18:40:33 ID:???
>>949

そこまでバカじゃないでしょう。
でなければ、上陸に適する湾の存在もろくにしらないことになりますよ。
陽動もしかけているのだし、侵攻する目標もしっかり定めていたようなので、
地理地形に関しては十分な知識があったのでは?
952名無し三等兵:04/10/28 21:51:34 ID:???
それでも負けた… orz
それも徹底的に…… orz
953モンゴル国防板153 ◆LMDVdJkETM :04/11/10 07:26:46 ID:???
>>951
モンゴル人って、すげ〜馬○で○蛮だよ。
「ビー・ミティク」=僕知らないで殆ど全てOK !

でも、南宋兵とチョ○兵を磨り潰す必要が、あったかも。

954名無し三等兵:04/11/22 23:29:36 ID:???
図書館に頼んでた「蒙古襲来―その軍事史的研究―」が入ったんで今読んでるんだけど、このスレの住人的には、この本の評価ってどんなもんよ?
どうもざっと目を通した感じでは戦術っつうより元や高句麗の書物から当時の状況を考察するって感じみたいなんだが。
955名無し三等兵:04/11/28 01:08:58 ID:xUTIMe7y
?
956名無し三等兵:04/12/14 22:03:52 ID:H//C/lA5
 
957名無し三等兵:05/01/11 13:02:53 ID:???
アイゴーーーー
958名無し三等兵:05/01/30 19:02:57 ID:???
大陸から日本へ攻めてきたのはおそらく2回だけだと思うが、
日本から大陸へ戦争しかけたのは数知れずあるのはなぜ?
959名無し三等兵:05/01/30 21:32:43 ID:???
朝鮮民族が遺伝的に劣性だから
960名無し三等兵:05/01/30 22:30:07 ID:???
>>958

謝れ、拉致被害者とその家族にあやまれ。
961名無し三等兵:05/02/01 19:48:56 ID:???
>>958
Koreaから見れば、日本は片手間でどうにかなる相手じゃない。
日本に精鋭をつぎ込んで、北から中国か北方民族に攻められたら悲惨だぞ。
だから、中国と北方民族の積極的な同意がないと対日戦は無理だ。

日本は背後を気にする必要がないので、国内さえまとめられたら何時でも攻めることが出来る。
962名無し三等兵:05/02/03 00:07:12 ID:mgXS0yEI
良スレage
963名無し三等兵:05/02/03 00:50:49 ID:???
>>958
それで結局、大陸のすべての権利は消滅だよな。
やっぱ日本は外交、支配政策が昔から下手なんかもしれんな。
他民族国家とちがって。

防衛戦争に特化して戦ったほうが良いんじゃないか?
964名無し三等兵:05/02/03 01:31:13 ID:/8KQjuEG
>961
それは50年ほど前に実際にやってしくじってたなw
965名無し三等兵:05/02/03 02:21:20 ID:???
>>964
ああ、派手に失敗したな。
中国に負けたんじゃない、アメリカに負けたんだと言っているアホもいるが、
戦闘で勝っても、政治・外交で負けたら戦争では勝てんということだ。
そこら辺は中国・アメリカを鬼畜として劣った民族として考えていたため、
敵の心理・政策・戦略を大きく見誤ったのが敗因の一つにあげられる。

中国は領土を回復し、さらに現在でも侵略して非難をものともしないモンスターと化しているが、
日本は領土を削減された上、軍事力は大戦前とは比べモンにならんほど弱くなった。
966名無し三等兵:05/02/03 15:17:08 ID:???
>958
大陸に攻められた半島政権が日本に助けを求めたから
ってのが多い、ほとんど返り討ちにあって共同戦線を張った
半島軍ともども酷い目にあっているみたいだが・・・
勝った大陸が半島に新政権作って旧政権を悪党扱いするんで
同盟していた日本も自動的に悪の枢軸扱い
967名無し三等兵:05/02/03 23:10:26 ID:???
たしか古代にも百済あたりを助けようとして惨敗してたよな。
968964:05/02/04 21:39:46 ID:???
>965
俺が言ってるのは半島のほうだよw
969名無し三等兵:05/02/04 22:15:07 ID:???
>>968

百済・・・って朝鮮半島の国・・・だけど?
970名無し三等兵:05/02/05 07:52:33 ID:???
>>969
レス番よく見て。
971名無し三等兵:05/02/05 09:57:33 ID:???
>>964 の話は、朝鮮戦争前に韓国の陸軍が南にシフトしていた事を言ってるのだろう。
元々、装備や兵員数で劣勢で、シフトによりさらに弱体化していた38度線を、北朝鮮に
あっさり突破された。
972名無し三等兵:05/02/05 12:47:08 ID:???
実際に竹島占領し、
対馬は韓国のものだ、
と主張してたことかいな。
973名無し三等兵:05/02/20 21:05:35 ID:???
>971
それは一時期はやった都市伝説で、実際は普通に北にシフトしてたんじゃなかったっけ?
974名無し三等兵:05/03/02 01:31:07 ID:???
未だに朝鮮戦争前に韓国軍が南へ兵力を集中させていたとか言ってる嫌韓厨は白将軍の著書を百回読み返して勉強汁。
975名無し三等兵:05/03/12 20:49:21 ID:tFIw2F+d
モンゴル=マムルーク朝>>ポーランド>>>十字軍騎士>>>>>ホラズム>>>>>金>
>>>>>>南宋>>>>>日本
976名無し三等兵:2005/03/25(金) 00:18:06 ID:???
>>953

33 名前: モンゴル国防板153 ◆LMDVdJkETM 04/11/03 23:42:15 ID:???

糞が糞ながすんかい?

漫画板いきな。素人が軍板来るな。
977名無し三等兵:2005/03/25(金) 00:25:29 ID:???
白石一郎氏が逝去されたのが何といっても惜しい。
史料が散逸せずに、ちゃんと福岡市博物館で収蔵してくれればよいのだが。


・・・あそこも死蔵癖があるから、本当はもっといいとこに納めてほしいけどな〜
978少佐:2005/03/25(金) 00:33:31 ID:0TZV5Xkh
蒙古は毒矢を撃ち捲るんでまいったという話があるよな。
しかし小舟で深夜に蒙古の船に乗り込んで刀で叩きのめしたなんて話
があるが、ほとんどスーパーマンだわな。
979名無し三等兵:皇紀2665/04/02(土) 01:18:18 ID:qSHDFfFs
博多での大規模な戦闘の隙に
別働隊を出雲辺りに上陸させて
山陰道経由で京を目指すって手も無かったのかな。
980名無し三等兵:皇紀2665/04/02(土) 01:28:42 ID:???
>>979
いいから地図見てみろ。出雲がどんだけ遠いかわかるから。

現代の船舶を基準に語るなよ(w
981名無し三等兵:2005/04/02(土) 19:02:13 ID:???
ところで蒙古はなんで対馬放棄したん?
982名無し三等兵:2005/04/02(土) 20:18:59 ID:???
鬱蒼とした山ばっかりで家畜がまともに飼えないから

とかいい加減な説を
983名無し三等兵:2005/04/02(土) 20:40:17 ID:???
どっかの孤島で山羊が自然繁殖してたりしてなかった?
984名無し三等兵:2005/04/02(土) 20:43:19 ID:???
>>980
対馬から言えば北九州と山口はほぼ変わらず、出雲は倍くらいか?

話変わるが蒙古兵って雪はどうなんだろう?南宋は弱そうだが
985名無し三等兵:2005/04/02(土) 20:44:41 ID:Dvv0OIQN
天智が作らせた水城って半島からの
侵略を防ぐためのものだったらしいが、
このときは使われなかったのかな。
986名無し三等兵:2005/04/03(日) 10:04:06 ID:???
987名無し三等兵:2005/04/03(日) 22:39:11 ID:???
對馬
988名無し三等兵:2005/04/03(日) 22:48:58 ID:???
壱岐
989名無し三等兵:2005/04/04(月) 08:09:15 ID:???
 
990名無し三等兵:2005/04/04(月) 09:51:17 ID:???
>>983
八丈小島だな。
八丈島でも問題になってるそうだが。
そのうち食べるものが無くなって減るよ。

>>985
使われてるよ。
武士達は水城の遺構に拠って戦った。
大宰府を守れたのはこれのおかげ。
991名無し三等兵
要するに落ち目の元帝国では神国日本を侵すことなど元より無謀の極みであったということか