軍版住人の李舜臣の評価は?

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226考察
海上補給に関する秀吉軍への影響に関する謬見が一人歩きしてしまうのは、
李舜臣の活躍を漠然としかとらえておらず、
具体的にどのような場所で、
いつ、
どのような動機で、
どのような状況で
戦果を上げたかを客観的に見ていないからだろう。
227場所:04/02/25 15:20 ID:npqc56Z2
(1)場所=李舜臣の水軍が活動したのは朝鮮海峡(日本〜釜山の補給路)を遮断する空間ではなく、
半島南岸の沿岸である。
文禄の役では一時的に半島東端まで活動範囲を広げたが、
慶長の役では、半島西半分までしか進出できなかった。
228時期:04/02/25 15:21 ID:npqc56Z2
(2)時期=文禄の役で秀吉軍が釜山に上陸してわずか一ヵ月後には
李舜臣の水軍は活動をはじめ、戦果を上げている。
その後も秀吉軍の陸上での進撃は続いていたのだから、
李舜臣の活躍と秀吉軍の停滞とは必ずしも符合しない。
229動機(作戦目的):04/02/25 15:22 ID:npqc56Z2
(3)=文禄の役初期は日本の船団が停泊する場所への奇襲攻撃。
後期は基地への積極攻撃。前者は成功するが、
後者はそれほどでもなかった。
兵站基地を制圧する事は出来なかった。
230状況:04/02/25 15:23 ID:npqc56Z2
(4)状況=ほとんどは多勢に無勢、
つまり李舜臣の側が船の数において
日本船団よりかなり優位に立っての攻撃だった。

少ない船で多くの日本の船を打ち負かした例として、
慶長の役における鳴梁海戦があげられるかもしれないが、
これも記録が大げさすぎて、
かえって疑問が生じ実態はどうだったか分からない。

日本側が沿岸築城し少数の船団で行動しなくなると
戦果はさほど上がらなくなっている。
231日本側の反応:04/02/25 15:24 ID:npqc56Z2
(5)日本側の反応=水軍敗北の記録の一方、
陸上での戦闘状況や海上行動を見ると必ずしも連動していない。
つまり、水軍敗北が全般の状況に決定的影響を与えたとは見受けられない。
232結論:04/02/25 15:25 ID:npqc56Z2
李舜臣が日本の海上での行動を大幅に制限させる事に成功したのは認められるものの、
それによって半島の秀吉軍と日本本土との
「補給路が切断された」
とは言いがたい。